だらだら坂の上でジュースの缶を落とし、危うくもう一本買う羽目に陥るところだった麻枝准は、
坂を転がり落ちる缶を拾い上げてくれた女性にお礼を言おうとして凍りついた。
その女性が麻枝のよく知る人間、樋上いたるだったからである。
「麻枝君……だよね?」
手の平に伝わってくるウーロン茶の熱さも忘れ、いたるは呆然と呟く。麻枝は何かを言いたそう
に口をぱくぱくと開いたが、すぐにいたるの手から缶をひったくると、足元の弁当屋の袋を手にとり、
いたるに背を向けて走り出した。
「麻枝君! 待ってっ!」
叫ぶが、背中は振り返らない。言葉無き背中は坂を駆け上がり、どんどん小さくなっていく。
いたるは坂道を蹴り、背中を追い掛けた。
緩やかな勾配だとはいえ、いきなりの全力疾走は足の筋肉に加重な負荷だった。早くも乳酸がたま
り始め、太股が悲鳴をあげる。
(何でこんな所にいたるがいるんだよっ! あいつの家はここから三駅は離れているだろうが!)
予期せぬ出来事に、麻枝は心中で疑惑の言葉を吐いた。休日だとはいえ、忙しい彼女が何の用も
なしにこんな所に来るとは考えにくい。
(まさか……俺を連れ戻しに来たのか?)
その想像に、麻枝は恐怖した。馬場に逆らい、『CLANNAD』の製作を放り出してkeyを飛び出した
自分をいたるが快く思っているはずがない。それはkeyの他のスタッフも同様だ。散々好き勝手やっ
たきた自分がどれほどkeyの皆に憎まれているか、麻枝は考えるのも恐ろしかった。
(捕まったらどうなる? 俺は?)
必死に足を動かしながら、麻枝の頭脳は猛スピードで回転を始める。
「麻枝君をやっと捕獲することに成功したよ」
そう言って、いたるは後高手小手に縛られた麻枝の腰を蹴り飛ばした。満足に身動きもままならない
麻枝は、無様にkey開発室の床に顔を打ち付ける。苦痛にうめく麻枝の頭を踏みつけながら、いたる
は麻枝を嘲笑う。
「本当に大変だったんだよ。麻枝君が飛び出した後始末をするのは」
靴のかかとがぐりぐりと麻枝の頭を踏みにじる。
「おまけに吉沢さんと久弥さんまで巻き込んで、keyに反抗しようとするなんて……一体どんな甘言
を弄して、二人を篭絡したんですか?」
涼元が心底幻滅したように麻枝を見下す。
「しのり〜まで無理やり引き込んで。ほんっと、最低だよね」
いたるはしのり〜に視線を向ける。しのり〜は申し訳無さそうに俯く。
「ごめんなさい……私は嫌だって言ったのに、麻枝君が『keyを辞めて俺の手伝いをしないと、酷い
目に遭わせるぞ』って……」
「ちょ、ちょっと待て。俺はそんなこと一言も言ってないぞっ!」
「酷いよ麻枝君……あの夜を忘れたの? あんなことをしておいて……」
「ひでぇ。俺を売って、自分だけ生き残るつもりだ、この女」
「現実は非情なのよ、麻枝君……」
「三次元の女に手を出すような根性はないと思っていたが、よりによって仕事仲間に手を出すとは
な。見損なったぞ、麻枝」
折戸は悲しげにため息をつく。なおも反論しようとする麻枝を、いたるは麻枝の頭を踏みつけた足
に体重を掛けることで抑えつけた。
「社長と喧嘩して仕事を放棄して、フリーで静かに活動している吉沢さん達を巻き込んでkeyに反抗
しようとした挙句、しのり〜に対して不埒を働く。完全に有罪だね。情状酌量の余地は、ないよ」
麻枝の頭から足を離し、そのままその足の甲を麻枝の顎に引っ掛けて強引に顔を上げさせる。
恐怖と不安に怯える麻枝に、にっこりと微笑んだ。
「どんな罰を与えようかな〜 社長にも麻枝君の扱いは一任されているんだよね〜」
「地下室に監禁して、米粒に毛筆でシナリオを書かせるというのはどうでしょうか。毎日千粒の米粒
にシナリオを書き続ければ、麻枝さんの邪心も取り除かれると思いますが」
涼元は懐中から硯と米袋を取り出す。
「いや、涼元さんは文章の世界に生きている人だから音の力というものを知らない。ここは俺達音楽
班に任せてくれ。この音洩れしないヘッドフォンを耳に接着して、俺と戸越の作曲したハードコアテクノ
を最大音量で三日三晩聴かせ続ければ、不埒なことを考える脳細胞も綺麗に消毒されるはずだ」
折戸がめくばせをすると、戸越がどこからともなくものものしい音楽機材と高性能なヘッドフォンを
持って現れた。
「涼元さんも折戸さんもなってないでしゅ。そんなことをしても麻枝君が壊れるだけで、わたし達に
何の得にもなりません。麻枝君はむくつけき十二人の男根兄弟の夜伽の相手をしてもらいましゅ。
それなら『CLANNAD』の次回作の参考資料にもなりましゅ」
みらくる☆みきぽんが指をぱちんと鳴らすと、ドアから十二人の筋肉質な男が一斉に押し入ってくる。
「麻枝君ではいい絵がとれないかもしれませんが、それも麻枝君の頑張り次第でしゅ。精々いい声で
泣いて、わたしにインスピレーションを与えるんでしゅよ」
懐から取り出したビデオカメラを手に、みきぽんは嬉しそうに言った。赤、青、緑……色とりどり
のビキニで申し訳程度に股間を隠した男達は獣の目で麻枝を舐めまわす。そのまま身動きの取れない
麻枝の肢体に殺到し、やがて……
「そんなん、嫌じゃーーーーっ!!」
殆んど泣くようにして、叫んだ。
「麻枝君、待ってってばっ!」
いたるがいくら叫んでも、麻枝は決して振り返ってはくれない。こちらを向くことのない背中は
猛スピードで遠ざかり、小さくなっていく。いたるも懸命に走り、背中を追いかけたが麻枝の逃げ足
はやけに速く、二人の距離は時間と共に開く一方だった。
「麻枝君……っ!」
胸が詰まり、視界が滲む。だが、ここで立ち止まっては何にもならない。今、遠ざかる彼の背中
を捕まえなければ、二度と彼の姿を見ることはできないだろう。いたるは唇を噛み、きっと目の前
の背中を見詰めた。
「麻枝君」
右足の踵を上げ、靴を脱ぐ。
「待ちな……」
両足を開き、下半身を安定させる。軸足に体重を掛け、脱いだ靴を右手で持ったまま、大きく右腕
を振りかぶった。
「さいっ!」
全身の力をこめ、手首のスナップを充分に効かせて、右腕を振り抜いた。
投擲された靴は空気を切り裂いて直進し……
すぱこーん!
「ぎゃぱっ!?」
麻枝の後頭部にクリーン・ヒットした。そのまま坂道に倒れ伏し、身動き一つしない麻枝の元に
いたるは片足でけんけんをしながら近寄る。靴を履き直すと、突っ伏したままの麻枝の首を引っ掴み、
自分の方へと顔を向かせた。
「頭蓋骨が変形するかと思ったぞっ! 頭がクルクルパーになったら、どう責任取ってくれるんだっ!」
「麻枝君が逃げるから悪いんでしょっ! 何でいきなり逃げようとするのよっ!」
いたるの怒鳴り声に思わず身体が竦む。麻枝は視線を反らし、口笛を吹くようにはぐらかそうとする。
「は、はて。麻枝とは一体誰のことかな。俺の名はJ.マエダ。大阪のナウなヤングのハートを夜な夜
なエキサイトさせる、パンクでロックなシンガーソングライターだ。俺に触れると火傷するぜ」
「あなたは麻枝君じゃないって言うのねっ! じゃあシルバー王女の十二の欠点を言ってみなさいっ!」
「ちらかしぐせ、おねぼう、うそつき、ほしがりぐせ、へんしょく、いじっぱり、げらげらわらいの
すぐおこり、けちんぼ、人のせいにする、うたがいぐせ、おしゃれ三時間」
「やっぱり麻枝君じゃないっ! パンクでロックなシンガーソングライターがそんなの即答できる
わけないでしょっ!」
「しまったっ! 誘導尋問かっ!」
「そんな馬鹿なことばっかり言って。人がどれだけ心配したと思っ……てっ……」
語尾を詰まらせるいたるに、麻枝は身を焼かれるような罪悪感を覚えた。だが罪悪感を振り切るよ
うに、麻枝は首を振った。ここで引いてしまったら、自分は全てを白状してしまうだろう。吉沢と
久弥に迷惑が掛かるし、自分はみきぽんの邪悪な欲望の餌食にされてしまう。麻枝は懸命に反論の
材料を探し、いたるに反撃を試みた。
「俺のことなんか関係ないだろ、今のお前には。俺はもうkeyにはいないんだから」
「何てこと言うのよっ! 麻枝君は今でもkeyの人間でしょっ。私がkeyのメンバーの心配をして、何
が悪いって言うのよっ!」
憤懣やる方ない様子で怒鳴り続けるいたるに、麻枝も中っ腹になった。keyのメンバーの心配を
しているなんてよく言えるものだ。
「ふん、しのり〜がkeyを辞めさせられた時には何もしなかったのにか?」
しのり〜がkeyを辞めさせられたと信じている麻枝にとっては、ほんの罵り言葉の一つにすぎない。
だが、いたるはその言葉に驚きを隠せなかった。
「何よ、それ? しのり〜がkeyを辞めさせられたって、どういうこと!?」
「しらばっくれたって無駄だ。酷い奴だな、お前も。あんないい奴をむざむざクビにさせるなんて」
「だからクビってどう言うことよっ! あの子は外注の仕事でkeyを離れているだけよっ」
「何だって? じゃあ吉沢さんは馬場社長と密かに繋がっていたとでもいうのか?」
「どうしてそこで吉沢さんの名前が出てくるのっ!」
「しまったっ、吉沢さんの名前までバレてしまったっ」
相手が悪かったようだ。いたるに対して麻枝が秘密を保ち続けられる可能性は、太陽が西から
昇る可能性くらい低い。
「一体あなたは何をやろうとしているの。答えて、麻枝君っ!」
掴み掛からんばかりの勢いで問い詰めるいたるから目を背け、麻枝は口を閉ざす。
いたるの腕が伸び、麻枝の胸倉を掴んだ。そのまま強引に引っ張り上げる。
鼻と鼻がくっつきそうなほどに顔を近づけると、いたるは思い切り怒鳴った。
「答えなさいっ!」
「遅いですね、麻枝」
今日運び込んだばかりの椅子に座ってくるくると回転しながら、久弥は言う。
「やはりマックスコーヒーはあいつには過酷だったか」
窓際に立ち、外の景色を眺めながら吉沢は淡々と呟く。
「やっぱり私、見てきます」
しのり〜が椅子から腰を上げようとした瞬間、部屋の外から声が聞こえてきた。
『だからしのり〜はkeyにいられなくなって、吉沢さんが彼女を助けたんだってば!』
安物のドアでは外の会話は部屋に筒抜けになる。
『あの子がkeyにいられなくなるわけないでしょっ! 何かの間違いよ、それってっ!』
麻枝とは違う声が聞こえてくると、部屋の中の三人は一斉にドアの方向を向いた。
『間違いって何だよっ。彼女がクビになったのが、何かの間違いだっていうのかよっ』
『だからそれを確かめるんでしょっ。早く案内しなさいっ!』
ぽかっ!
「ぐわっ。だから叩くなってば、もう……」
ドアが開き、頭を押さえた麻枝が部屋に入ってくる。息子の兵役の徴集を待つ家族のように緊張
しながら、ドアが開くのを見詰めていた吉沢達だったが、麻枝の後にもう一人の人間が立っている
のを確認すると、三人が三人ともその姿に驚愕した。
「いたる……どうしてあなたがここに……」
しのり〜は目の前の事態が把握できていないように呆然と呟く。いたるも予想の範囲を遥かに越え
た状況に、何も言葉を発することができなかった。吉沢は不愉快そうに眉をひそめ、久弥は何がなん
だか分かっていない様子だった。麻枝はため息をついて、しのり〜に問う。
「しのり〜、俺もいたるも分からないことだらけなんだ。教えてくれよ。君が何をしようとしているのか」
「馬鹿野郎!」
吉沢の怒鳴り声が部屋の空気を振動させた。麻枝は何故怒鳴られたのかまるで理解できない様子で、
立ち尽くす。
がたん、と音がした。音の先で、しのり〜は顔を蒼白にして、立ち尽くしていた。足元にはさっきまで
座っていた椅子が転がっている。
しのり〜は突如走り出し、ドアの側に立つ麻枝といたるの前で立ち止まった。苦しそうな表情で二人を
見たかと思うと、二人の間を割り込むようにして体を進め、部屋を飛び出した。
「お、おい。待てよ、しのり〜」
追いかけようとする麻枝の肩を吉沢が掴む。
「お前の出る幕じゃない。気持ちは分かるがな」
呆然としのり〜の走り去った跡を眺めているいたるに、吉沢は言う。
「樋上、君が行くんだ」
「え?」
「麻枝でもない、勿論俺でもない。君しかいないんだ。本当の意味で彼女を救ってやれるのは」
いたるは少しの間吉沢の顔を見詰めていたが、やがてはっきりと頷いた。
そのまま踵を返し、部屋を飛び出す。後には三人の男達が残された。
「一体何がどうなっているんですか? 俺にはさっぱり……」
「僕もです。教えてください、彼女達に何があったのか」
疑念を露にする麻枝と久弥に、吉沢は首を振る。
「後でちゃんと話す。今は待っていろ。お前らの力で切り開いていける場面じゃないんだよ、今はな」
「君達次第だ、全ては。頑張れよ、二人とも」
今はもうそこにはいない二人を励ますように、吉沢は呟いた。