消極的無神論者が最大多数を占めるすこの国でも、大きな変質を受けたとは言え、その日
が祝いの日である事に変わりはない。
冬もようやく深まり、張り詰めた空気が緊張感を増して皮膚を刺すようになった十二月
二十四日。祝祭の雰囲気とは程遠い荒れた空気が、マンションの一室を支配していた。
部屋の電気はことごとく消され、ケーキの生地を土台にしたろうそくが、か細くゆらめ
いている。こたつの上の灰皿は煙草の吸い殻で溢れ、カーペットにはアルコールの空き瓶
が散乱していた。
「クリスマスも一人。麻枝ちん無職引きこもりだから。が、がお」
「だからそのパターンは寒いから止めろっつーとんのじゃーっ!!」
叫んで、ちゃぶ台返しをする。ケーキが空を舞い、ぐしゃりと床に叩きつけられた。
ろうそくの灯りは消え、部屋を暗闇が支配する。
「アホにターボがかかってきているな、俺も……」
呆れ果てたように呟きながら立ち上がり、蛍光灯のスイッチを手探りで探す。壁の
スイッチを押し、瞬間的に部屋に広がる光に一瞬目が眩むと、乱雑を極める部屋の惨状が
光の下に明らかにされた。
反転したこたつを元に戻し、潰れたケーキを拾い上げ、その上に置く。歪に崩れた
ケーキが自分にはお似合いな気がして、奇妙におかしかった。胸ポケットから取り出した
煙草に火をつけ、口にくわえる。ニコチンの味が肺を満たし、血管が収縮されると少し
だけ気分が和らいだような気がした。
会社を休んでから、もう三日になる。退職願を出した訳ではないので、おそらく
は入社以来一度も使ってこなかった有給休暇扱いなのかもしれない。勿論、会社側が既に
麻枝を解雇処分していれば有給休暇も何もあったものではないのだが。
「いつまでも変わらずにはいられない、か……」
目の前でたなびく白煙を眺めながら、独り呟く。大学を卒業してすぐにこの世界に飛び
込み、休む事なく走り続けてきたような気がする。手当のつかない残業を気の遠くなる
ほど繰り返し、プライベートも全て犠牲にしてきた。好きでやっている仕事だったし、
今時そんな我がままが許される事自体がとんでもない幸運だ、と思う。だが仕事以外の
人間関係も殆んど無く、独り部屋で鬱屈する立場に陥ってしまえば、その幸福もただ
の妄想だったのか、と疑問を抱かざるを得ない。
(18禁がどうとか、全年齢がどうとか、そんな事はどうでもよかったんだ。ただ……)
ただ、誰も自分に相談して来なかった事が、それが辛かった。keyの作風を方向付ける
重大な決定が自分抜きで行なわれる。それに衝撃を受けた。ちゃんと麻枝にも相談して
くれれば、あそこまで頑なな態度に走らなくとも、自分を納得させる事ができたはずだった。
煙草の火が根元近くにまで及んでいる。灰皿に押し付け、もみ消すと二本目に火をつけた。
(逆に言えばその程度の存在でしかなかった、という事か。俺も……)
客観を気取った冷笑的な自虐に過ぎなかったが、真実のように思えた。
keyのために麻枝は作品を作るのであって、麻枝のエゴイズムの体現のためにkey
がある訳ではない。麻枝のベクトルがkeyのそれとは異なる方向を向き始めれば、keyに
とって麻枝は不要であるばかりか、その過去の実績による発言力の大きさが害にさえ
なる事は、麻枝にも想像が付いた。
直感から理論へ。センスからシステムへ。
個人の能力に全てを託すスタイルは、その個人の能力の枯渇とともに容易く崩壊する。
雷鳴のような直感の閃きに全てを賭ける麻枝のスタイルは、当然不安定でむら気に左右
される。それが他のメンバーにとって大きな負担となっている事を麻枝も理解してはいた
が、だからといってCDを入れ換えるように作風を切り換える事ができるほど器用ではなかった。
安定した創作能力を持つ涼元が参加した時点で、keyのメンバーが涼元のスタイルに
同調していく事は決まっていた事なのかもしれない。
ピンポーン。
インターホンの呼び音が、思考の海から麻枝を引き揚げた。億劫そうに玄関口を見る。
(……ったく、宗教勧誘か? この年の瀬に、わざわざご苦労なこった)
こたつを這い出てまで勧誘員の相手をするにはこの部屋は寒すぎる。麻枝は居留守を
決め込む事にした。
ピンポーン。
音は止まない。執拗にドアを開ける事を要求する。
どんっ!
音質が変わった。インターホンの無機質な信号音とはうって変わり、物理的な衝突音だ。
ドアの向こうから大きな声が届いてくる。
「麻枝くーん、いるのは分かってるんだから出てきなさーいっ」
どかっ!
音が大きくなった。ドアの向こうの声の主が何者かは知らないが、あまり気の長い方
ではないらしい。
「さっさと開けないと本当に踏み破るわよーっ」
「やめんかぁっ!」
慌てて玄関口へ飛び出し、ドアを開けると、そこにはしのり〜が立っていた。
「それにしても汚い部屋ね。管理人さんに見つかったら、即効叩き出されるわよ」
コートを脱ぎながら、しのり〜が呆れ果てる。
「やかましいっ。俺の部屋が綺麗だろうが汚かろうが、しのり〜には関係の無い話
だろ。それにこんな日に一体何の用だ? 金ならないぞ」
「誰が麻枝君からお金を借りようと思うのよ……」
手にきちんと畳んだコートを抱えたまま、しのり〜はため息交じりで言い返す。
「ま、まさか体か? 聖なる恋人達の夜、独り身の寂しさに耐えかねた悪女が毒牙を
研ぎ……いやぁぁぁっ! 誰か助けてーっ!」
「やかましいっ! 誰が悪女じゃ、誰がっ!」
ばきぃっ!
左フックが麻枝の顎を捕らえた。
「ぐわっ、グーはやめろ、グーは」
「本当に、もう……」
人一人やっと座れるくらいのスペースを開け、そこにしのり〜は腰を下ろした。正座
した膝元にはコートとマフラーが置かれている。
(本当に、一体何の用だ?)
状況が飲み込めない。彼女が麻枝の部屋を訪れる事など、ついぞなかったからだ。
「麻枝君、風邪でもひいたの? 皆心配してるんだよ。三日も無断で休んで」
本当に心配そうに、そう質問する。麻枝は脱ぎ捨てられた服の散乱するベッドに腰掛け、
煙草を口元でくゆらせた。
成る程、残留工作か。涼元さんでも、いたるでもなく、ほとんど中立の立場だった
しのり〜がその役に任じられるのは分かる気がする。
「風邪をひいてようが、ひいていまいが違いはないだろう。自宅謹慎の身だ。会社に
出られない事に変わりはない。もっとも、もう二度と出ないかもしれないがな」
捨て鉢気味の麻枝の言葉に、しのり〜は色をなす。
「馬鹿な事言わないでよ。社長のあんな冗談を間に受けるなんて、どうかしてるわ」
「ふん、どうだかな。案外本気かもしれないぜ。『AIR』では相当無茶をやらかしたからな、
俺も。これ以上こんな問題児にkeyを任せてはおれない、と思ってたんじゃないか」
「そんな訳ないじゃない。麻枝君なしでkeyがやっていける訳ないでしょ?」
「本当にそう思ってんのかよっ! お前は!」
怒鳴りつける声に、しのり〜は体をびくりと強張らせる。まだ煙を上げている煙草を
手で握りつぶすと、麻枝は立ち上がった。
「お前だけじゃない。いたるも、折戸さんも、皆そうだ。もう俺なんかいなくったって、
涼元さんがいるから大丈夫だ、と思っているんじゃないのか? 涼元さんに任せる方が
keyは良くなるって、そう思っているんじゃないのかよ?」
「麻枝君、あなた……」
「ろくに集団作業もできない出来そこないのシナリオライターなんかより、そりゃ
プロの物書き様の方がいいに決まってるだろうな。お前らは正しいよ。俺よりも
涼元さんを選んだ、お前らの判断はな!」
息を継がず、一気に捲し立てた。しのり〜は悲しそうな目で麻枝をしばらく見詰めて
いたが、やがて静かに言葉を発した。
「麻枝君が本気でそう思っているんだったら、あたしは麻枝君を軽蔑する。あたしが
一番見たくなかった姿を見せないで」
「……何だと」
「涼元さんに敵わないんだったら、敵うようになるまで諦めなければいいじゃない。
勝てないんだったら勝つまでやればいいじゃない。どうして逃げるの?」
「お前に何が分かる!」
「分からないわ。分かりたくもないわよ、負け犬の気持なんて」
「……もう一度言ってみろ」
しのり〜の肩を掴む。きつい視線を麻枝にぶつけたまま、しのり〜は言う。
「何度でも言うわ。今の麻枝君は負け犬よ。涼元さんから、皆から逃げ出した」
「うるせぇっ!」
そのまま肩を掴んだ手に力を込め、目の前の彼女を押し倒した。
三日間摂取し続けたアルコールが市街地に投下された焼夷弾のように、正常な思考能力
を跡形もなく焼き尽くしていたのかもしれない。いや、アルコールに責任を転嫁するのは
卑怯者のする事だ。
(今の俺が卑怯者じゃなくて、一体何なんだ?)
愚かさと卑しさを極める所業に及ぼうとしている自分を、距離をおいて眺めるとそんな
自嘲が湧いて出てきた。組み敷かれ、俺の体の下で自由を奪われている彼女は欠片の動揺
も表情に出さず、黙したままきつい視線をぶつける。
だが、押さえ込んだその肩から俺の腕にはっきりと伝わる震えが、それが虚勢である事
を伝えていた。予想外に華奢な体はとても毎日俺の頭を引っ叩いていた人間の体とは
思えず、手の平に感じる体温は暖かかった。その事に気が付くと、抑えがたい加虐衝動が
鎌首をもたげた。息が肌に触れそうな近さまで、彼女の顔に自分の顔を近づける。
声が聞こえ、俺は硬直した。
「……どうしたのよ? やりたいんだったらやりなさいよ。麻枝君がしたいんだったら、
すればいいでしょっ」
瞳に涙を浮かべ、それでも視線を反らさない。
「好きでもない女を押し倒して、キスして、抱いて。それで麻枝君の気が済むんだったら、
やりなさいよっ。それで麻枝君がkeyに戻ってくるんだったら、何だって構わないわよっ!」
涙は溢れ、頬を濡らしていた。俺は心の中心の核の部分から粉々に打ち砕かれたような
気がして、彼女から手を離し、ふらふらと立ち上がった。
彼女もゆっくりと体を起こし、指で涙を拭った。
しのり〜は立ち上がり、乱れた衣服を整えている。麻枝はそんな彼女を見ようともせず、
ただ俯いていた。コートとマフラーを左腕に抱え、しのり〜は麻枝のそばに近づく。
「麻枝君」
赤い瞳で麻枝を見据え、言う。はっとしたように麻枝も彼女を、見た。
ぱんっ。
乾いた音が室内に響き、すぐに消えた。
しのり〜の右の手の平と、麻枝の左頬が、同じ痛みを共有する。
「あなたを」
手の平にひりひりと痛みを感じながら、言葉を絞り出す。
「あなたを好きにならなければよかった」
振り返り、玄関口へ向かう。靴を履き、ドアを開ける。
雲ひとつない空を、温もりのない月が照らす。
冷たい風が吹き付け、頬の涙を凍らせた。