カーテン越しに射し込む陽光の暖かさが顔をくすぐり、樋上いたるは目を覚ました。スイッチの切
られた目覚し時計の針は、丁度正午の位置を指している。一直線に上を向いた針が自分の怠惰さを詰
っているようで、いたるは少しだけ恥ずかしく思った。いくら休日だからといって、日が高くなるま
で惰眠を貪るような行為に胸を張ることはできない。追い立てられるように布団から出て、カーテン
を勢い良く開ける。陽光がさっと射し込み、部屋の床に立ち姿の影を描く。冬の太陽は既に中天に差
し掛り、柔らかな光を放っていた。
自堕落の効果は確実にあったのだろう。目覚めの時に常に彼女を苛む鉛のような体の重さと、鉄錆
のような頭の気だるさは今日はどこにも無く、背中に羽根が生えたのではないかと錯覚するほどだっ
た。軽やかにステップするように部屋を横断し、洗面所で顔を洗う。手早く歯を磨き、髪を梳いて体
裁を整える。洗面所を離れ、タンスの中から適当に服を見繕い、パジャマから着替えた。
再び窓際に近づき、窓を開けて、外の景色に目を遣る。相変わらず寒さは厳しく、むき出しの枝を
晒した木々は立っているのも辛そうに見えたが、空の真ん中から降り注ぐ陽光が僅かな温もりを与え
ていた。光の通い路を埃が舞い、ちらちらと消えては現れる。木の枝に止まっていた鳥が羽根を広げ、
蒼の天井目指して飛び立っていった。
休日とはいえ、家でごろごろとしているには勿体無いほどのいい天気だ。朝昼兼用の食事を済ませ
たら、散歩に出かけようと思った。少し遠出をして、大きな本屋にも行きたい。仕事の参考になりそ
うな写真集をいたるは探しており、近場の書店を巡っていたが見つからなかった。週刊誌から洋書ま
で取り扱う書店なら見つかるかもしれない。折角の休日だし、たまには街中に遊びに行くのもいいだ
ろう。
大きく背伸びをして、陽光を全身で受け止める。窓を閉め、食事の支度をするため台所に向かった。
街中の雑居ビルの一角。バブルの崩壊とともに人の姿も無くなり、命の灯火の消えたように寂れて
いた一室が、今日はまるで違う空間だった。ビルの一階から階段を上ってPCを部屋に運び込む力仕事
を終え、麻枝准は冬だというのに額に浮かんだ汗を拭う。こうした肉体労働を好む性質ではないが、
ようやく停滞から抜け出し、前に進み始めることのできた喜びが労働の不満を吹き飛ばした。
「お、もう運び終わったのか。お疲れさん」
ドアが開き、吉沢達が部屋に入ってきた。皆それぞれに書類や事務用品の入ったダンボール箱を両
手に抱えている。
「これでやっと開発が進められますね」
ダンボール箱を机の上に置きながら、久弥は言う。
「あぁ、ここからが正念場だな。麻枝もいつまでも馬鹿ばっかりやってるんじゃないぞ。お前がし
っかりしないと、久弥がいくら頑張っても意味無いんだからな」
「分かってますよ。任せてください」
吉沢の言葉に、麻枝は胸を張って応える。その表情には曇りは無く、自らの夢を無心に追い続ける
少年のようである。吉沢はそんな麻枝を眩しく思った。
(やはり物を創っていてこそ輝く男なんだな、こいつは)
そう思った。
「早速仕事始めましょうか。皆揃っている事だし、企画会議をやりましょうよ」
皆揃っていると言ってもそこには吉沢と麻枝を除けば、久弥としのり〜しかいない。だがそれでも
今の麻枝には充分すぎるほど心強い仲間だった。
「お、おい。ちょっと待て。いきなり会議と言われても困るぞ。機材は運び込んだだけで、まだ整理
も何もしていないんだ。機材をきちんと整理するのが先だろう」
吉沢は勇み足の過ぎる麻枝を苦笑混じりに抑える。壁に備え付けた時計を見ながら、言葉を続けた。
「それに、もう昼だ。今日は朝から力仕事でお前も疲れているだろう。昼飯を食ってから、仕事の話
はしないか?」
「吉沢さんがそう言うんだったら、それで構いませんけど……」
「あ、それなら私がお弁当を買ってきましょうか?」
二人に割り込むようにしのり〜が提案する。
「いや、しのり〜は荷物運びで疲れているだろ。それに昨日も弁当を買い出しに行ってきてくれたん
だ。しのり〜にばかりパシリをやらせるのは不公平だ」
「じゃあ、誰が行くの? 重い荷物を運んだのは麻枝君と久弥君よ。あなた達のどちらかが買い出し
に行くのなんて、それこそ不公平よ」
「ジャンケンで決めればいいんじゃないかな。それだと不公平にはならないと思うよ」
久弥も二人のやり取りに口を挟んだ。麻枝は久弥の言葉に頷く。
「それもそうだな。よし、ジャンケンで決めるか。吉沢さんもやりますよね?」
「あ、あぁ。別に構わないが……」
「じゃあ、やるぞ。皆準備はいいか」
麻枝は両手を背中の後ろに回し、手を見られないように隠す。吉沢達も麻枝につられて後ろ手を組んだ。
「せーの……じゃんけん……」
麻枝の掛け声に、一同息を凝らす。皆の間の空気に緊張が圧し掛かった。
「ほいっ!」
その瞬間、一斉に四人は手を開いた。
春の訪れを予感させる穏やかな陽光が空の中心から降り注ぐ。アスファルトの歩道に色の薄い影を
落としながら、いたるはゆっくりと歩みを進めていた。一歩足を進めるごとに身体が温まり、日を直
接に浴びている頬が赤く上気し始めているのが感じられる。久し振りの遠出はいたるに年甲斐も無い
冒険心を呼び起こしていた。ほんの数駅、電車に乗るだけで自分の知らなかった世界が目の前に広がる。
探していた本は結局どこにも見つからず、通販で購入せざるを得ないことが分かった。それでもこの
気持ちのいい空の下、見知らぬ土地を自分の足で踏みしめて歩くことが楽しかった。
どこを目指すでもなく歩き回るいたるの目の前に、長い坂道が現れた。坂道はだらだらとした勾配
で真っ直ぐに延び、どこまで続くのか、いたるの目で窺い知ることはできない。等間隔に立ち並ぶ電
信柱が視界の先までずっと連なり、奇妙な威圧感を与えている。
いたるは一瞬戸惑ったが、すぐに再び足を進め、長い坂道を登り始めた。
坂の中途に自動販売機が設置されているのがいたるの目に入った。いくら緩やかな勾配だとはいえ、
結構な距離を登ってきた。心臓の動悸も速くなり、喉も渇いている。ジュースを買って、少し休憩し
よう。そう思い、自動販売機に近づいたいたるだったが、先客がいることに気付いた。
「結局負けるのは俺なんだよなぁ……俺って本当、ジャンケン弱いよな。学級委員もジャンケンに
負けてやらされたし、給食の残りのプリン争奪戦に勝った記憶無いし」
男は自販機の前で己の非力を呪っている。足元には弁当を重箱式に積み重ねて包んだ弁当屋の
袋が置かれていた。昼食の買い出しにでも行かされたのだろう。愚痴の内容から察するにジャン
ケンで買い出しに行く人を決め、彼が負けたらしい。いたるは男の不運に思わず苦笑してしまった。
いたるは少し離れた場所に立ち、男が買い物を済ませるのを待った。男はいたるに気付く様子も
なく、自販機と睨めっこをしている。
「しのり〜はウーロン茶で、久弥はコーラか……何で飯食いながらコーラ飲めるかな、あいつ」
(え? 今何て言ったの?)
いたるは男の呟きに鋭く反応する。動揺するいたるとは裏腹に、男は淡々と硬貨を自販機に投入
し、ボタンを押す。ごとん、と音がして自販機の取り出し口に缶が落とされた。取り出した缶を
両手に抱え、また呟く。
「吉沢さんはマックスコーヒー……って大阪でそんなジュース売ってるわけないだろうがーっ!」
聞き慣れた独りボケ独りツッコミ。でも、どうして彼がこんな所に。
家に電話してもずっと留守番電話で、実家に問い合わせても、ご両親も何も知らされていなかっ
たのに。
疑念に揺れるいたるの瞳は、ただ男の背中だけを映し出している。
「仕方がない……ここはしるこジュース(あたたか〜い)で我慢してもらうか。甘さだけなら同レベル
だしな……」
再び硬貨を投入し、ボタンを押す。取り出し口からジュースを取り出そうと身を屈めた拍子に、両手
に抱えた二本の缶がこぼれ落ちた。地面に落ちた缶は坂道を加速しながら転がっていく。
「うおっ。待て待て待てーっ」
男は慌てて転がり落ちる缶を拾い上げようとする。素早い動作でコーラの缶は拾ったが、もう一本
の缶は逃げるように坂道を転がっていく。缶は坂道を加速し、呆然と光景を眺めるいたるの足元に
転がっていった。靴にぶつかり、停止した缶をいたるはほとんど機械的な動作で拾い上げる。
「あ、どうもありがとうございます」
男--麻枝准--は缶を拾い上げてくれた女性--樋上いたる--に礼を言い、ぺこりと頭を下げる。
再び頭を上げ、目の前の女性の顔を確認した途端、麻枝の表情は驚きに歪んだ。