289 :
けもの道:
「馬場は何を君に命令したんだ。答えろ、しのり〜」
吉沢務の乾いた声が部屋の空気を震わせる。右手首を吉沢に掴まれたまま、しのり〜は毅然とした
表情を崩さず、沈黙を保った。吉沢は悲しそうに少しだけ顔を歪めると、掴んだ手に力をこめた。
「……っ!」
骨がきしみ、手首から先の感覚が無くなっていくのが分かる。まだ育ち切らないひまわりの細い茎
を手折るように無慈悲に手首を締め上げ続ける吉沢に、それでもしのり〜は沈黙を保った。
再び、頬を打たれた。さっきよりずっと大きな音が響き渡る。頬を打つ衝撃にしのり〜は目が眩ん
だ。崩れ落ちそうになる体を強引に引っ張りあげられる。滲んだ視界の先で、吉沢は変わらず無表情
だった。
「二度言わせるな。答えろ。さもなくば、俺は君の体を本当に傷つける事になる。傷つける方法なん
ていくらでもあるんだ」
「……私の体なんて、どうだっていいんです」
「君に肉体的苦痛は無意味かもしれないな。それでも、俺は君から真実を聞き出さなければならない。
麻枝のためにもな」
最後の言葉に、しのり〜は微かに反応した。
「麻枝は君を心から信頼している。ただの仕事仲間としてではなく、一人の人間として。麻枝の気持
ちを踏みにじり、裏切ろうとする君を、俺は許す事はできない」
しのり〜は俯いたまま唇を噛み、必死に何かを堪えている。体の震えが握り締めた右手首から吉沢
にも伝わってくる。自己嫌悪と怒りに吉沢は胸がむかついた。踏みにじろうとしているのは自分も同
じだ。伏した想いを心に秘め、叶わぬ願いに身を焦がした彼女を。
俯いたままの顎に人差し指を引っ掛け、顔を上げさせた。一直線上に視線が重なり合う。
「馬場の考えている事は俺にだって大体予想はつく。俺達が作った作品をビジュアルアーツの商品と
して市場に送り出したいんだろう。そのために送り込まれた埋伏の毒が、君だ。原画家として麻枝達
と一緒に作品を作りながら、馬場に進行状況を報告し、土壇場で俺達を裏切る。たった一人の原画家
に逃げられ、完成の目が無くなった企画を馬場が引き取る。そんな画を描いたんだろう、馬場は」
290 :
けもの道:02/01/30 00:51 ID:IbnE3DPx
不自由な体勢を強要され、しのり〜は吉沢から視線を反らすことも許されない。吉沢の詰問が進む
につれ、しのり〜の瞳に浮かぶ怯えと動揺は色濃さを増した。
「馬場が君に与える報酬は何だ。金か。原画家としての地位か」
しのり〜は何も答えない。
「そんな物が欲しかったのか。好きな人を裏切ってまで、手に入れる価値がある物か」
「……もう、止めてください」
耐えかねたように言葉を絞り出す。
「君が馬場に内通し、麻枝を売ろうとしている事は遅かれ早かれ、必ず露見する。時間が経てば経つ
ほど、真実を知った時の衝撃は大きいだろう。俺は君に騙されている麻枝も、麻枝を騙す君も見たく
はない。今すぐ麻枝達に真実を伝えるつもりだ。俺の知っている、全ての真実をな」
「……」
「麻枝も久弥も君を信用している。keyを離れざるを得なくなった君の身を本気で心配し、助けにな
ろうとしているんだ。そんなあいつらが本当の事を知ったら、どうなると思う?」
「……怒るでしょうね。私の顔なんかもう二度と見たくないって、そう思うでしょうね」
自虐的に呟くしのり〜に、吉沢は静かに反論する。
「怒りはしないさ」
「え……?」
訳が分からないと言った表情を浮かべ、吉沢の顔を見上げる。
赤く充血した瞳。赤く腫れた頬。蛍光灯の光に照らされたその表情は、余りにも痛々しい。
そんなしのり〜に、吉沢は言った。
「悲しむだけだ」
「……っ!」
その瞬間、しのり〜は激昂し、唯一自由な左手で吉沢の頬を力いっぱい叩いた。痛みはほとん
ど感じなかったが、吉沢は余りに突然のことに呆然とする。一瞬力が緩んだ隙に、しのり〜は掴
まれた右腕を強引に払い、吉沢の手を振り切った。
「だったら、だったらどうすればよかったんですかっ」
赤い痕がくっきりと環を刻んだ手首をかばいもせず、叫ぶ。
291 :
けもの道:02/01/30 00:51 ID:IbnE3DPx
「吉沢さんは馬場社長の事を知らないから、そんな事が言えるんですっ。あの人は自分の思い通りに
ならない人を絶対に許さないんです。どんな手段に訴えてでも、必ず叩き潰すんです。そうやって、
自分の会社を大きくしてきたんですから」
体を震わせ、血が滲むほどに拳を握り締め、叫ぶ。
「麻枝君だって例外じゃない。馬場社長に逆らえば、必ず潰されます。keyに戻る事も許さないし、
二度とゲームを作れないように完全に居場所を奪い取る。社長は私に本当にそう言ったんですよっ。
私が命令に従っている間は、社長は麻枝君達に手を出しません。社長は麻枝君の作るゲームには
魅力を感じているんですから。麻枝君を騙す事で、社長の手から麻枝君を守る事ができるんだった
ら、私はいくらでも彼に嘘を吐き続けます」
振り絞るような叫びを、吉沢はただ黙って受け止める。
「私だって麻枝君を騙したくなんかない。嫌われたくなんかない。私だって、私だって、麻枝君の
事が……」
「もういい、もうこれ以上何も言わなくていい」
吉沢はしのり〜の肩を掴み、自傷の叫びを押し止めた。しのり〜は肩を震わせ、乱れた息を漏らす。
俯いた顔から数滴涙が零れ、床に落ちた。
「すまなかった。辛い事を言わせて」
吉沢は心から謝罪する。
「いえ……悪いのは私です。吉沢さんは麻枝君達のためを思って行動しただけです。麻枝君達に嘘を
吐いていた私が責められるのは、当たり前です」
「……君も、麻枝のためにこの役目を引き受けたんだろう?」
「……もう、いいんです。私には無理だったんです。馬場社長は私にしかできない役目だって言った
けど、そんなのでたらめです。いたるの代わりになる事なんて、私には無理だったんです」
「いや、そうでもないさ」
「え?」
しのり〜はその言葉に驚いて、顔を上げた。
292 :
けもの道:02/01/30 00:52 ID:IbnE3DPx
吉沢は穏やかに微笑んで、言う。
「君は俺達に必要な人間だ。君がいなくなったら、また原画家がいなくなってしまう。君ほどの実力
を持つ原画家は、そうそう見つかるもんじゃない。君無しでは麻枝の作品は完成しないんだよ」
「でも、私は……」
「馬場に命令されてスパイ役を引き受けていても、君は君だ。今の麻枝には君が必要だし、君だって
本当は麻枝と一緒にいたいんだろう?」
丁度吉沢の肩の高さにあるしのり〜の頭に、ぽんと手を置く。滑らかな感触の髪をそっと撫でた。
「馬場の命令には従ってくれていて構わない。馬場が求めるのであれば、いくらでも情報を流してや
ってくれ。作品を作らせるだけ作らせておいて、土壇場で奪い取ろうと考えているのであれば、完成
間際までは馬場は手を出せないはずだからな。その間に俺は反撃の計画を練る」
「吉沢さん……」
「もう、君はこれ以上抱え込むな。君達はそんな薄汚い策略に惑わされずに、やりたいように作品
を作ってくれればいいんだ。好きなように生きてくれればいいんだ」
吉沢を見詰めるしのり〜に、笑顔で応える。
「言っただろう? 汚れ仕事は俺の役目だって」
はっきりと言い切った。
293 :
けもの道:02/01/30 00:53 ID:IbnE3DPx
「麻枝と久弥が居酒屋で待ってるぞ。俺達も早く行こう。祝い事は皆でやらないと楽しくないからな」
そう言って、しのり〜の肩を優しく叩く。しのり〜は突然調子の変わった吉沢の言葉に慌てた。
「い、いいんですか? 私なんかが行っても」
「何言ってるんだ。君の歓迎会でもあるんだ。君が行かなくてどうする」
「でも……」
「ほら、早くしないと君が来るまで酒を飲むのを我慢しているあいつらのフラストレーションが限界
に達するぞ」
しのり〜の手を取り、そのまま部屋の外に連れ出す。蛍光灯の電源を切り、部屋の鍵を閉めた。
しのり〜を連れ、吉沢は麻枝達の待つ居酒屋へと急いだ。人気の無い道を早足で歩く二人を、月明
かりが照らしている。しのり〜は相変わらず押し黙ったままだったが、さっきまでの苦しみを押し殺
した雰囲気からは大分解放されているように見えた。隣を歩くしのり〜の体に厳しさを増した冬の寒
風が少しでも当たらないように、風の吹く方向に自分の立つ場所を合わせながら、吉沢はある決意を
固めていた。
(馬場……俺達は確かにまっとうな道を歩いてはいない人間だ。お天道様の当たる場所では生きて
はいない。今更いい人ぶろうなんて思ってはいないはずだ、お互いにな)
一際冷たい風が吹き、吉沢の体に突き刺さった。風を全身で受け止めながら、吉沢は隣に立つしの
り〜の横顔を見遣る。さっき吉沢の手に打たれた頬はまだ赤く、白い肌とのコントラストが痛々しい。
(汚れ役をやる事で夢が叶うんだったら、いくらでも引き受けてやるさ。そのために皆に憎まれても
構わない。悪党と呼びたければいくらでも呼ぶがいい。お前だってそうだろう?)
(だがな、お前は踏み外してはいけない最後の一線を踏み外した。人の想いだけは踏みにじっては
いけないんだ。何があってもな)
(馬場、俺はお前を絶対に許さない。お前の野望のために麻枝達を犠牲にはさせない)
闇の中、月明かりだけが照らす道を吉沢は歩む。暗闇を引き受けるようにして。