keyを揺るがせようとしている問題の真実に迫る決意を新たにした樋上いたると時を同じくして、
吉沢務も自らの計画の実現に向け、その橋頭堡を築き始めた。
ゲームの製作現場には手狭すぎるマンションの自室に代わり、知人に頼み込んで安値で貸し出して
もらった雑居ビルの一室を事務所に使うことにした。
「いくら家賃を安くしてもらったとは言え、ビルの一室を借り切って事務所代わりに使うなんて、と
ても同人とは思えませんね」
埃の積もった床をほうきで掃きながら、麻枝准は吉沢に言う。バブルの崩壊とともに利用する人も
なくなっていたその部屋は、床は埃で埋もれ、天井にはクモの巣が張っていた。吉沢達が初めにしな
ければならない仕事は、部屋の大掃除だった。
「やっぱりゲームを作るんだったら、それなりの環境は欲しいからな。いつまでも俺の部屋に入り浸
られては困る。こういう所で金をケチる奴は結局損をするんだよ」
窓を雑巾で拭きながら、吉沢は応える。
「でもこれから人手を集めて、機材を買って……出費がかさみますね」
麻枝がほうきで掃いた埃をちり取りで集めていた久弥直樹が心配そうに呟く。
「当分は貯金を切り崩していけばいいだろう。金の問題は俺が何とかするから、お前らは余計な心配
はするな」
努めて楽観的な口調で吉沢は言う。
吉沢が言い終わるか終わらないかのうちに、部屋の扉が突然開いた。扉の先には弁当屋の袋を持っ
たしのり〜が立っていた。
「もうお昼ですし、ちょっと休憩しませんか? お弁当を買ってきたんですけど……」
「俺は味噌ダレ豚カツ弁当大盛りしか食べないぞ、しのり〜」
ほうきを持ったまま言う麻枝に、しのり〜も言い返す。
「分かってるわよ、あんたが今凝ってるメニューなんて。これでしょう?」
袋から弁当箱を一つ取り出し、麻枝の目の前で見せる。
「おお、まさにこれだ。素晴らしい。素晴らしいパシリっぷりだ。是非ともしのり〜を俺専用永世
パシリ委員に任命したい。引き受けてくれるよな?」
「引き受けるとお思いかしら、麻枝君?」
にこやかに微笑みながら指をぽきぽきと鳴らすしのり〜に、麻枝は恐怖した。
吉沢が原画家候補としてしのり〜を連れて来た時、麻枝達は余りの驚きに呆然とした。keyを離れ
ることになった事情を伝えられはしたものの、麻枝は納得できなかった。keyに怒鳴り込みに行こう
とする麻枝をしのり〜本人が懸命に止めることで辛うじてその場は収まり、しのり〜は仮の原画家と
して、しばらくの間行動を共にすることになった。
吉沢は原画家としても充分に通用する、としのり〜の実力を高く評価し、久弥も面識の無い人間
よりも気心の知れているしのり〜の方がいいと主張し、麻枝はそれに押し切られる形になった。
紆余曲折はあったものの、原画家を得たことにより麻枝の『さゆりん☆サーガ』の企画はようやく
ようやく波止場より出航し、未知の大海へと乗り出し始めた。
その日は結局、事務室の大掃除で日が暮れた。
「明日から本格的に仕事を始めるか」
腰を拳でぽんぽんと叩きながら、吉沢が言う。きれいに埃が払われ、机の運び込まれた部屋は見た
目だけはもう立派な開発室だった。
「じゃあ今日はどこかに飲みに行きませんか? やっと企画が進み始めたお祝いもしたいし、吉沢
さんと飲むのも久し振りですし」
麻枝の誘いに、吉沢も賛同する。
「お、それはいい考えだな。久弥としのり〜もたまにはいいだろう?」
「はい、僕は大賛成です」
嬉しそうに頷く久弥とは対照的に、しのり〜は申し訳無さそうに言う。
「すいません、私はちょっと……まだ麻枝君の企画書も流し読みした程度ですし、明日から皆と
ちゃんと仕事ができるかどうか不安なんで、今日は詳しい資料を読ませてもらいたいんです」
「そうか……なら俺達も今日飲みに行くのは止めて、残業するか」
麻枝の言葉をしのり〜は慌てて否定する。
「あ、麻枝君達は飲みに行ってちょうだい。残業は私一人でできるから。無理して麻枝君まで居残る
事はないよ」
「いいのか、本当に? 企画書で分からない所があったら俺がいないと困るだろ?」
「ううん、いいよ。私は大丈夫。気持ちだけありがたく受け取っておくわ」
しのり〜がそこまで言うのなら大丈夫なのだろう。麻枝は言葉に従うことにした。
「じゃ、もう行きましょうか。しのり〜も残業が終わったらお店に来てよ」
久弥はもう帰り支度を整え、ドアを開けたまま外から吉沢達を呼んでいる。吉沢もそれに従い、
外に出た。冷たい風が部屋に流れ込み、机の上に置かれた企画書が吹き散らされそうになる。
「ほら、久弥君が呼んでいるわよ。早く行きなさい」
風に舞う企画書を手で押さえながら言うしのり〜を、麻枝は心配そうに見詰める。
「本当に大丈夫か?」
「だから大丈夫だって。そんなに心配してくれなくってもいいから」
どこまでもしのり〜の口調は明るく、心配事とは無縁に思える。だが、それが却って麻枝を不安
にさせた。
「なあ、しのり〜」
「え?」
深刻な様子の麻枝に、しのり〜は訝しげに首を傾げる。
「あの時はごめんな、本当に」
神父の前で懺悔をするような麻枝を前に、しのり〜はきょとんとしている。
「こんな事が言い訳にならないのは分かってるけど、あの時はどうかしていたんだ、俺。本当に、
ごめん」
麻枝は直角に体を折り曲げて、深く頭を下げる。目線を床に落としたままじっとその姿勢を維持
していた麻枝だったが、突然頭を叩かれて、顔を上げた。
「もう、何深刻ぶってるのよ。あれくらいの事で」
顔を上げた先で、しのり〜が本当におかしそうに笑っていた。口元を右手で隠し、くすくすと笑い
ながら、麻枝の肩を左手で叩く。
「あんなの、酒の上の出来心でしょ。実際に何かした訳でもないし、あの程度の事をいつまでも気
にするなんて、麻枝君って案外純情なのかな?」
「なっ……」
絶句する麻枝に、しのり〜はなおも言う。
「私はちっとも気にしてないから、あの夜の事は麻枝君も忘れていいよ。でも、もう一度やったら……」
麻枝の胸倉を掴む。声のトーンが変わった。
「殺すわよ」
麻枝はコメツキバッタのように、ただ頷いた。
さっきまで地平線にしがみついていた太陽も姿を隠し、僅かに残った夕焼けの赤色も、侵食するよ
うな夜の帳に押し潰されていった。電気の消えた部屋の窓から月の光が射しこみ、窓枠の形の影を床
に落としている。物音もなく、外から時折自動車のクラクションが聞こえるだけの部屋の中で、しの
り〜は携帯電話を握り締めていた。
「……はい、吉沢さんも、久弥君も私を信用しているみたいです。麻枝君は私が原画をやる事にまだ
納得しきってはいないみたいですけど……」
受話器の向こう側から機嫌の良さそうな声が聞こえてくる。
『まあ麻枝もすぐに納得するやろ。他に原画描ける奴はおらんのやし、君の本当の実力を知れば麻枝
も君の事を認めざるを得んはずや』
「それで、私はこれからどうすればいいんですか?」
『普通に仕事してくれたらええ。俺も麻枝の作品を完成させてやりたいっちゅう点では吉沢と同じや。
ただし、同人なんかで発表させはせんけどな。麻枝の作品はあくまでビジュアルアーツの所有物や』
「創るのは吉沢さん達にやらせて、利益だけを独占するつもりですか?」
『人聞きの悪い事言うなや。人手も資金も足りない企画に日の目を見せてやりたくて、俺は色々と骨
を折ってやってるんや。利益を頂くんは、言うたらスポンサー料みたいなもんやで』
「……私は、普通に仕事をしていればいいんですね? それであなたは満足なんですね?」
受話器から聞こえてくる声の調子は変わらない。
『ああ、その通りや。君は麻枝達と一緒に実力を存分に発揮してくれたらええ。君が頑張れば頑張る
だけ、麻枝の企画もええ出来になるんやからな。応援しとるで』
一方的に言うと、馬場は電話を切った。声の聞こえなくなった受話器を手に、しのり〜は立ちつくす。
「ふぅ……」
ため息は闇に溶け、そのまま消えていく。
通話ボタンを切った瞬間、ドアの開く音がした。しのり〜はびくりとし、ドアの方へと振り返る。
「ここのビルはバブル時代にありがちな手抜き工事でな。ドアも安物なんだよ。話し声が外からでも
聞こえるくらいにな」
振り返るしのり〜の視線の先には、吉沢が立っていた。壁のスイッチを押すと、部屋の蛍光灯が
一斉に点き、眩しい光が一面を満たした。吉沢は無言のまましのり〜に近づき、携帯電話を持つ右手
を捻りあげる。
「……っ!」
掴まれた細い手首がきしみ、手から携帯が落ちる。そのまま床に落ち、乾いた音を立てて転がった。
「君の実力に気が付かず、戦力外通告を出すような馬鹿がビジュアルアーツの社長になれるはずがな
い。俺も甘く見られたもんだな。目の前に美味しい餌を見せ付けてやれば、ホイホイと飛び付いて来
るとでも思っているのか?」
「何の事ですか? 私は何も……っ!」
言い終わる前に左の頬を張られた。衝撃に倒れそうになったが、右手首を掴まれたままでは倒れる
こともできない。
「安い演技はもう止めにしろ。俺は麻枝ほど甘くはないし、久弥ほど世間知らずでもない。あいつら
は騙せても、俺は騙せない。汚れ仕事は俺の役目だ」
左頬に焼けるような痛みを覚えながら、しのり〜は吉沢を睨みつける。
吉沢は感情の欠片も見出せない仮面のような表情を貼り付けていた。
「答えろ。馬場は何を君に命令したんだ。言わなければ、もっと辛い目に遭う事になる」
手首が強く握られた。