その日のkey開発室は動揺で始まった。
「しのり〜君は『CLANNAD』の開発から離れて、別の部署に行ってもらう事になった。大変やろうと
思うけど、彼女の仕事はみきぽん君達グラフィック班で分担して引き継いでいってくれ」
馬場社長が自らの口で伝えた連絡事項にkeyのスタッフ達は動揺を隠せない。顔色を変えた樋上い
たるが馬場を問い詰めた。
「そんな事を突然言われても困ります! それに、しのり〜はどこに異動になるんですか?」
「外注の仕事に行ってもらう事になった。新規のブランドで、これからデビューしようっちゅう所や
から詳しい事はまだはっきりとは言えん」
「私達に何の相談も無しに、そんなの勝手すぎます! 将棋の駒を動かすみたいに私達の人事を決め
る権利は社長にだってないはずです! そもそも、しのり〜はその異動に納得したんですか?」
掴み掛からんばかりにして問い詰めてくるいたるを、馬場は苦笑しつつなだめる。
「そうカリカリせんといてくれや。別に退職を強制した訳でもないし、仕事が済めばkeyに戻るんや。
この程度の人事異動、雇用主の当然の権利の中や。しのり〜君も納得してくれたで。塗りだけで終わ
るには、彼女は勿体無い人材や」
「そんな……」
いたるは馬場に反論することができず、唇を噛む。
「『CLANNAD』が完成する頃には外注の仕事も一段落つくやろう。詳しい事情はそれから説明させて
もらうわ。新天地で頑張ってるしのり〜君に馬鹿にされんよう、君らも頑張りや」
それだけ言うと馬場は開発室から出て行った。
馬場が出て行った後もkeyのスタッフ達は呆然としたまま、とても日常の業務を再開できる状態
ではなかった。初めに気詰まりな沈黙を破ったのは折戸伸治だった。
「外注なら俺もよくやっているしな……しのり〜が外注に出されてもおかしくはない。外注を任せら
れるだけの実力は充分にあるしな、しのり〜にも」
呟く折戸に、いたるは反論する。
「でも折戸さん、こんな突然の人事、やっぱりおかしいです。最近の社長は何か私達に隠し事をして
いるような気がするんです。麻枝君の事だって何も言わないし……」
「社長には社長なりの考えがあるんだろう。組織の末端の俺達に知らせない事があっても、特におか
しくはない」
「でも……」
なおも食い下がろうとするいたるを、折戸は申し訳無さそうに手で制する。
「今から曲の収録に行かなきゃいけないんだ。すまないが話は後にしてくれ。行くぞ、戸越」
それだけ言うと、折戸は開発室のドアを開け外に出て行った。戸越まごめも慌てて折戸を追い、開
発室を飛び出す。ドアがばたんと閉められると開発室に再び沈黙が訪れた。
「麻枝君だけじゃなく、しのり〜ちゃんまで……何だかkeyがkeyじゃなくなっていくみたいでしゅ」
みらくる☆みきぽんが沈黙に耐えかねたように呟く。
「ちょっとみきぽん、変な事言わないで!」
いたるは思わずきつい調子で怒鳴り声をあげる。怒鳴りつけられたみきぽんは体を縮め、視線を床
に落とした。
「……ごめん、怒鳴って」
俯いたままのみきぽんに、いたるは申し訳無さそうに呟いた。
その日は一日落ち着かない雰囲気のまま、作業もかんばしくは進まなかった。隣の机から本といわ
ずCDといわず、あらゆる物が雪崩のように崩れ落ちてくることのないことが、煮詰まる作業からの現
実逃避がギターの音色とともに高らかに歌い上げられることのないことが、歯の抜けた櫛のような奇
妙な空虚を皆に与える。所々抜け落ちた机の並びも、違和感のある光景となってスタッフ達の目に映
った。
やがて終業時刻が訪れ、一日の仕事を終えたスタッフ達は一人、また一人とタイムカードを機械に
通して部屋を出て行った。
「それじゃわたしも帰りましゅね。皆さんお疲れさまでしゅ」
みきぽんもタイムカードを通し、帰り支度を整え開発室を出ようとする。いたるは椅子から立ち上
がり、みきぽんに声を掛けた。
「あ、ちょっと待っててよ。私もすぐ仕事上がるから。一緒に夜ご飯食べに行かない? いいお店見
つけたんだ」
「……今日はそんな気分じゃないでしゅ。また、別の日に行きたいでしゅ」
みきぽんは申し訳無さそうに俯く。
「そうなんだ……じゃぁ、またいつか行こうね」
「ごめんなさい、いたるちゃん……」
背中を向けドアを開けるみきぽんに、いたるはそれ以上言葉を掛けることができなかった。
冬の短い太陽が完全に沈み、寒さに張り詰めた街に夜の帳が下りていた。肌を刺すような冷たい空
気に体をすくめ、いたるは帰路を急いでいた。ロングコートを身に纏い、マフラーを首に巻いて早足
で歩く。吐いた息が白くたなびいて後ろに流れていった。
マンションの階段を昇り、赤いドアの前に立つ。ポケットを探り鍵を取り出すとドアの錠に差し込む。
半回転だけ鍵を回すとかちゃりと音がして、ドアが開いた。
「ふぅ……」
部屋の電気を点けると、コートだけを脱ぎ捨てて、ベッドに倒れこんだ。うつぶせに寝転がり、枕
に顔を埋める。ぐったりと身を投げ出し、目を閉じているとそのまま眠りの世界に引きずり込まれて
しまいそうで、慌てて顔を振って眠気を振り払った。こんな格好で眠ってしまっては明日酷い事にな
る。せめて風呂に入って、パジャマに着替えてから。そう思っても体は言う事を聞かず、ベッドにし
がみついたまま起き上がってくれない。いつになく自分が疲れ果てていることにいたるは気が付いた。
しのり〜の不在は、当然のことながらいたる達グラフィック班に最も大きな負担となってのしかか
ってきた。特にいたるは自分の原画がいかにしのり〜の塗りに助けられていたかを今日一日で思い知
らされた。自分が塗りまで担当した絵よりも、しのり〜の塗りで仕上げられた絵の方が遥かに完成度
が高い。分かり切っていたことだが、それでも少し悔しかった。
顔を埋めた枕の口をつけた部分が自分の息で暖かくなっている。いたるは枕から顔を上げ、仰向け
に寝返った。天井で明滅する蛍光灯を眺めていると、今までのことがスライドショーのように脳裡に
浮かび、消えていった。
いたるが初めて麻枝に出会った時、麻枝はまだ大学を卒業して一年も経たない新人で、いたるは二
束三文扱いの原画家だった。前の職場で社長と衝突し、会社を飛び出した鼻っ柱の高い男だというこ
とだけを知らされていたので、いたるは初め麻枝を敬遠していた。上司の吉沢が直々に抜擢するくら
いだから能力は確かなものなのだろうが、とても自分と波長の合う人間だとは思えなかった。
極力距離を取りながら麻枝と一緒に仕事をしていたいたるだったが、麻枝が初めて企画を担当した
『Moon.』の製作の時に考えを改めさせられることになった。麻枝は昼夜の別無く開発室に篭り、身
を削るようにして製作を進めていった。いくら体が丈夫だといえ、そんな過酷な生活がいつまでも
続けられるはずがないといたるは心配になった。
深夜の開発室で麻枝はその日もPCに向かい、シナリオを書いていた。ディスプレイの前で腕を組み、
唸り声を上げる。
「うーむ、むーん。シナリオって書いても書いてもキリがないなぁ」
椅子に座ったままくるくると回る。
「腹も減ったし、コンビニに牛カルビ弁当スペシャルでも買いに行くかぁ……」
立ち上がり、開発室のドアをがちゃりと開ける。一歩前に進んだ瞬間、何か硬い物が麻枝の顎に
クリーンヒットした。
「のごわっ。何だ何だ一体っ!」
小さな火花が頭でちかちか弾けるのを感じながら、麻枝は叫んでいた。顎を抑え目の前を見るとい
たるが額を押さえてうずくまっていた。
「うわっ、樋上さんじゃないですか。何でこんな所にいるんですか……って、それより大丈夫ですか
っ!」
「う、うん……私は大丈夫だけど……それより麻枝君こそ大丈夫?」
立ち上がり、心配そうに見詰める。
「は、はい。俺は大丈夫ですけど……本当にすいませんっ!」
頭を深々と下げ、慌てて外に出ようとする麻枝の腕をいたるは掴んだ。
「樋上さん?」
麻枝の不思議そうな声にいたるは我に返り、掴んでいた腕を慌てて離した。
「ご、ごめんなさい。突然変な事して」
「いえ、俺は全然構わないんですけど……樋上さんこそこんな時間に、何か忘れ物でもしたんですか
?」
麻枝は怪訝な様子で首を傾げる。いたるは一瞬俯いて口ごもったが、すぐに意を決したように顔を
上げた。
「お弁当買ってきたんだけど……食べない?」
いたるが給湯室で沸かしてきた二人分のお茶が白い湯気を立てて開発室に流れている。麻枝は椅子
に腰を下ろし、いたるの買ってきた牛カルビ弁当スペシャルを掻き込んでいた。
「そんなに急いで食べると喉に詰まるよ」
「大丈夫っす。『早食いの鉄人麻枝』と呼ばれてましたから、昔」
「それならいいけど……」
あっという間に弁当を食べ終わった麻枝は湯のみに注がれたお茶を飲み、一息ついた。机の上には
空になった弁当箱が転がっている。
「どうもごちそうさまでした」
麻枝の対面に運んできた椅子に腰を下ろし、湯のみを口につけているいたるに麻枝は深々と頭を下
げる。
「あ、いいよいいよ。そんな気にしなくて」
「でもすごいですよ。俺もさっきコンビニに牛カルビ弁当スペシャルを買いに行こうと思ってたんで
す。まさか樋上さんが買ってきてくれるなんて……」
「麻枝君がいつもそのお弁当食べているの、見てたから」
「そ、そうだったんですか。そりゃ光栄です」
麻枝は顔を赤らめ、ぽりぽりと鼻を掻いた。
「麻枝君って、いつもこんな時間まで残業してるの?」
「いつもはもう一仕事してから帰ります。今日はシナリオのバグが見つかったんで、徹夜かな」
「本当に? そんな生活で体調崩したりしないの?」
「体だけは丈夫ですから、俺。それに企画やってる人間が一番仕事するのは当然の事です」
照れくさそうに頭を掻く麻枝を見て、いたるは思わず顔をほころばせた。
「麻枝君とこうして話をするのって、初めてかもね」
「そ、そうっすか。そうかもしれないっすね」
「ねえ麻枝君、その敬語はやめようよ。何だか落ち着かないよ」
「す、すいませんっ。でも樋上さんは俺よりずっとキャリアも長いベテランですし……」
「その『樋上さん』ってのもやめて。『いたる』って呼び捨てにしていいよ」
(あれから五年……)
五年間という月日はいたるの世界を大きく変えた。押し流されるように容赦無く変容していく日々
は常に麻枝達と共にあった。Tacticsを離れ、keyを設立し、今では業界屈指の有力ブランドに成長し
た今でもそれは変わらない。同じ道を進み、同じ目標を目指す。過去は途切れず現在を紡ぎ、未来へ
繋がっていく。絆は強く、そして固く、永遠に壊れることがないと思っていた。
だが、それも今では空しい。別離は繰り返され、失われたものはもう二度と手の中には戻らない。
いたるは大切なものが失われていく様を、ブラウン管の向こうの景色のようにただ呆然と眺めること
しかできなかった。身を焼くような後悔もただの自己満足でしかない。そして今、自分は同じ過ちを
繰り返そうとしている。麻枝は去り、しのり〜は消え、keyがkeyである意味を失っていくのをただ手
をこまねいて傍観している。
(そんなのは嫌だ。もう、何もできないままの自分は嫌だ)
ベッドに横たわったまま、拳を握り締める。
(本当の事を知りたい。今、何が起こっているのかを。自分の目で確認したい)
睡魔が襲い掛かってきたのだろうか、急速に意識がまどろんでいく。強制的な睡眠の沼に足元から
引きずりこまれながらも、決意の言葉を頭の中で繰り返し続けた。