その日も、麻枝准は吉沢務の住むマンションの一室に入り浸っていた。部屋の中央に置かれた
こたつに足を突っ込み、何やら思案顔で考え込んでいる。こたつのテーブルに肘をつき、顔の前
で両手を組んだまましばらくの間思い悩んでいた麻枝だったが、意を決したかのように顔を上げ、
対面に座る久弥直樹に話し掛けた。
「なぁ久弥、新機軸大長編鬼畜純愛ロマンティックRPG『さゆりん☆サーガ(仮題)』なんだが、
タイトルを改題しようかと思う」
「え? 佐祐理さんが主人公のRPGを作りたいんじゃなかったのか、麻枝は?」
企画書を傍らにノートパソコンに向かい、プロットの打ち出しを行ないながら久弥は返事をする。
「お前もシナリオを書くんだから、お前のキャラの名前も出さないと不公平だと思ってな」
「そんな気を遣わなくても、全然構わないんだけど……それで、どんなタイトルにするんだ?」
満更でもない様子で尋ねる久弥に、麻枝は自信たっぷりに答える。
「『さゆりん☆かおりんのふたりでできるもん♪〜黒いニーソックスは年上の魅惑〜』だ。俺達の
誇る二大お姉さんキャラでエロゲー界に新たなキャラ萌えムーブメントを生み出すんだ」
「……さて、プロットを早く書き上げないと」
久弥は何も聞かなかったかのようにノートパソコンに視線を戻し、キーボードを再び叩き始める。
「あーお前、俺の事馬鹿にしてるだろ。甘いぞ久弥、十二人の妹が群れをなしてやってくるような
ゲームが冗談抜きで売れるんだ。姉もいけるはずだ、絶対」
「そういう問題じゃないだろ。大体何でそんなふざけたタイトルばっかりなんだよ」
「ふざけたタイトルとは何だ。まるで俺がイロモノ企画屋みたいじゃないか」
「だってそうじゃないか。『職業は全員メイドにしよう』とか『キーボードのHボタンを連打すると
攻撃力が強くなる裏技を入れるべきだ』とか馬鹿な事ばっかり言って。keyでもそんな事ばっかり
言ってたんだろ、どうせ? だから皆にも呆れられるんだ。自覚が無いんだよ、keyのリーダーの自覚が……」
「さっさとkeyを飛び出したお前にそういう説教はされたくないぞっ。俺がイロモノ企画屋だったら、
お前は名も知らぬ遠き島より流れ寄るヤシの実ライターだっ」
「どういう意味だよ、それ」
「一つ所に落ち着かず、ふらふらしてばかりのヤシの実みたいなライターって意味だっ」
「何だとっ!」
「やるかっ!」
「うーっ!」
「げしゃーっ!」
「お前ら、いい加減に仕事しろぉっ!」
吉沢務の怒鳴り声が部屋中に響き渡った。麻枝と久弥は雷に打たれたように体をすくめ、静まり返る。
「ったく……原画もまだ見つかっていないってのに、お前らは本当に……」
自分の机に向かっていた吉沢は、腰掛けていた椅子をくるりと半回転させて麻枝達の方へ向き直る。
知り合いの連絡先をまとめた名簿を片手に、ため息をついた。
吉沢はあらゆるツテを頼って原画の描ける人間を探してはいたが、未だ麻枝達の要求を満たす
人間は見つからなかった。
麻枝達と行動を共にすることのできる人間はさらに稀だろう。二つのハードルを同時に飛越える
ことのできる人間がそう簡単に見つかるとは吉沢にも思えなかった。仮に見つかったとしても、この
リスクの大きい企画に参加してくれるかどうかは疑わしかった。
「いいか、スタッフ集めは俺が全部やるから、お前らはちゃんとシナリオを書け。いくらいい人材
を集めても、お前らがしっかりしなかったら何にもならないんだからな」
そう言って、椅子から立ち上がる。壁に立て掛けてあったコートを羽織り、原画に心当たりが
ありそうな知人に会いに行くために、玄関のドアを開けて部屋から出た。
外に出て階段を下りている途中でポケットの中の携帯電話が着信音を発した。ポケットから携帯
を取り出し、通話ボタンを押す。受話器を顔に近づけて返事をした。
「はい、吉沢です」
『もしもし……吉沢さんですか?』
どこかで聞いたことのある声だったが、とっさには思い出せなかった。ばらばらの断片が混在した
まま散らばっている記憶をふるいに掛け、受話器の向こう側の人の名を探す。意外な答えが吉沢の頭
の中に浮かび上がった。
「もしかして、しのり〜君か?」
受話器の向こう側で一瞬の沈黙が生じたが、すぐに言葉が返ってきた。
『……はい。今まで何の連絡もなしに突然こんな電話をして、本当にすみません』
「いや、それは構わないんだが、一体どうしたんだ? 俺に電話なんかして」
緊張が受話器の向こう側から伝わってくるような、そんな口調だった。
階段の中途で立ち止まったまま、吉沢は受話器に耳をそばだてる。
受話器の向こう側からは何の言葉も聞こえてこない。電話を取ってから、ほんの数十秒しか経って
いないはずだが、もう何時間も受話器を握り締めているような気がした。
『……私、今度keyを辞める事になったんです。それで、新しい就職先を探したんですけど、見つ
からなくって、吉沢さんに相談したいと思ったんです』
「何だって? それは本当か?」
『はい……』
受話器の向こう側から沈痛な様子が伝わってくるようだった。目立つことを極端に嫌い、華やか
な表舞台はいたる達に譲りながらも、しっかりと裏方として現場を支え続ける彼女の仕事振りを
思い出し、吉沢は心を痛めた。
「俺にできる事があるんだったら、何だってするぞ。もう無職の身だからどこまで役に立てるか
怪しいが、まだまだ知り合いは多いつもりだからな」
吉沢は努めて明るい口調で言葉を送る。長年勤めた会社を突如解雇される苦しみは吉沢も
知っている。そんな時は例え嘘であっても明るい言葉が欲しいことも知っていた。
『……すみません』
「気にする事なんてないぞ。しのり〜の実力ならどこにだって再就職できるし、やり直そうと思えば
いくらでもやり直せる」
吉沢は受話器を握り締め、なおも言葉を続ける。
「そうだ、俺達は今同人でゲームを作ろうと思っているんだ。良かったらしのり〜も一緒にやら
ないか? 丁度原画描ける奴がいないんだよ」
しのり〜なら麻枝達も喜んで受け入れるはずだ。しのり〜にしても知り合いのただ一人もいない
新天地より、かって知ったる仲間達との方が精神的にもずっと楽なはずだ。何よりしのり〜には
原画を任せることができる。それは今の吉沢が最も切望する人材だった。
『……』
沈黙する受話器の向こうから言葉が戻ってくるのを吉沢はじっと待った。
『ごめん……なさい』
ノイズに混じり、消え入りそうな声だった。
「謝らなくていい。困っている時に助け合うのは当然の事だろう? 今は違ってはいても、俺達は昔、
一緒に仕事をしてきた仲間だったんだから」
『本当に……ごめん……なさい……』
「……泣いてるのか?」
『そんな事……ありません』
「……そうか」
受話器から押し殺した嗚咽が聞こえてくる。解雇されたショックを考えれば泣きたくなるのも
無理はないと吉沢は思った。やがて嗚咽が止み、小さいがはっきりとした声が聞こえてきた。
『吉沢さん……どうか、よろしくお願いします』
「あぁ、俺に任せろ」
吉沢は力強く受話器に語り掛けた。
「はい……それではまた電話します。どうもありがとうございました」
そう言うと、しのり〜は解除ボタンを押して電話を切った。左手に携帯電話を握り、右手の甲で
濡れた瞳をこするしのり〜の耳に、手を叩く音が聞こえてきた。
「大したもんや。迫真の演技やったで。見てるこっちの胸まで痛くなってもうた」
机の上に座りながら、馬場はしのり〜に賞賛の拍手を送る。涙の跡を頬に残したまま、しのり〜
は顔をきっと上げ、馬場を睨みつけた。
「これで、満足ですか?」
机の上に携帯を叩きつけるように置く。
「あぁ、あれなら吉沢も君の事を信用するやろ。明日にでも吉沢に会いに行ってくれや」
「……馬場さん」
「ん? 何や?」
「私がkeyを裏切って吉沢さんについていくとは考えないんですか?」
馬場は両手を広げ、おどけたようなポーズをとった。
「その時は遠慮無く吉沢達を潰させてもらうわ。君と麻枝も一緒にな。俺を敵に回して無事で
済むと思うほど、君は物知らずな女やないやろ? それに君は麻枝にkeyに戻ってもらいたいん
やろ? keyは株式会社ビジュアルアーツの一開発ブランドや。keyをどうするかは社長の俺の
胸三寸次第やで。スタッフの人事も含めてな」
しのり〜は反論しなかった。自分が馬場に逆らえば確実に馬場は麻枝達を叩き潰すであろう
ことは分かっていたからだ。そして麻枝は二度とkeyには戻らない。
「週に一回、あなたの携帯に連絡を入れます。私がkeyを辞める事を皆にはあなたが伝えておいて
ください」
馬場に背を向け、早足でドアに向かう。真っ直ぐなしのり〜の背中に、馬場の声が掛けられた。
「しのり〜君、俺の事を酷い男や思うとるやろう。でもな、俺は鬼みたいな所ばかりでもない
んやで。君にチャンスを与えてやったんや。麻枝の目を君に向かせるには今は絶好の機会やで。
樋上君のおらん今こそな」
「なっ……」
慌てて振り返るしのり〜を見て、馬場はにやにやと笑う。
「何や? 気付かれてへんとでも思っとたんか? 気付いてへんのは麻枝くらいのもんや。
君が麻枝に対して仕事仲間以上の感情を抱いとる事はkeyの人間なら誰でも知っとる。樋上君
も含めてな」
「そんなんじゃないですっ! あたしは、そんな……」
「そんな否定せんでもええ。麻枝は男の俺から見てもええ男や。君は男見る目あるで」
「違いますっ! それに麻枝君には、いたるが……」
しのり〜は頬を紅潮させ、必死に反論する。馬場は薄笑いを貼り付けたまま、言った。
「確かにkeyにおる限りは麻枝の眼中に樋上君以外の女は入らんやろう。大人しい顔して大した
タマやわ、彼女も。操縦法を是非ともご教示してもらいたいわ」
しのり〜は血が滲みそうなほど強く拳を握り締め、馬場を睨みつける。非難と怒りが篭められた
刺すような視線を平然と受け止めながら、馬場は続けた。
「樋上君がおる限り、麻枝の目が君の方を向く事は絶対にあらへん。でも樋上君と別の場所にいる
今はどうや? 長年の本懐を遂げる絶好の機会やと思わんか? 俺が君を選んだ理由はそこにも
あったんやで。麻枝と樋上君が離れ離れになってる今の状況を心のどこかで喜んでいた君こそ、
この仕事に最も適任や。何もかもを手に入れる樋上君に密かに嫉妬していた、君こそな」
顔を真っ赤に染め、握り締めた拳をわななかせながら、しのり〜は馬場を睨んだ。
瞳に溢れた涙を零さないように懸命にまばたきを堪える。怒りと屈辱からでも人は涙を流せる
ことをしのり〜はその時初めて思い知った。
振り返り、今度こそ部屋を出るため足を進める。これ以上馬場の顔を見ることには耐えられ
なかったし、馬場に自分の顔を見られることにも耐えられなかった。
ドアのノブを握り、半回転させた瞬間、堤防が決壊するように涙が零れた。
涙は大きな水滴となって落下し、床に落ちて粉々に砕けた。
これからは週一ペースで書いていこうと思います。このペースはそろそろ限界……
>>204 俺個人としては大歓迎です。読んでくださっている人達がどのように話を捉えて
いるか、は是非とも知っておきたいです。