温暖な大阪にも、冬はそれなりの厳しさでやって来る。
空は寒さに張り詰め、 力を無くした太陽は灰色の雲に押し潰され、薄くぼやけた陽光を
届けることしかできない。
暗く沈んだ空気を振り払うかのように、人は皆努めて精力的に働きまわる。
天満橋に籍を置く株式会社ビジュアルアーツのビルの一角、ソフトハウスkeyの開発室も
その例に漏れず、冬の乏しい熱量を補って余りある活気で日々の業務をこなしているように見えた。
PCの故障を防ぐために禁煙の徹底された開発室の空気は常に変わらぬ清潔さを保ち、かき乱す
騒音も全く無い。キーボードを叩く音だけが響き、無機質なリズムを刻む。滞りなく滑らかに
業務を進めているかに見える開発室の中、麻枝准は独り頭を抱え机に突っ伏していた。
「お約束のように仕事が進まん……どうして俺はいつもこうなんだ……」
心の鼓動にも似た規則正しさで部屋に響くキーボードの打鍵音が、焦燥と苛立ちを増幅させる。
湧き出てこない言葉、飛び立てないイマジネーション。萎えた翼を懸命に羽ばたかせても、想像力
は空を舞ってはくれなかった。
「気分転換だ、ここは」
今日何度目の気分転換だろうか、麻枝は席を立ち、大きく背伸びをした。開発室を見渡すと、皆
黙々と己の作業をこなしているように見える。普段はふざけた振る舞いが目立つが、いざという時
には実に頼りになる奴らだ。いつもふざけっ放しの自分を除いては。
自分の席を離れ、開発室を横断する。作業に行詰まった麻枝が気分転換と称して開発室をうろつく
のはいつもの事だ。突如ギターを弾きながら叫び出したりしない限り、麻枝に目を向ける者はいない。
近づいた開発室の片隅の机で、二人の男が議論を交わしていた。
「……ここで伊吹パートと藤林パートとを交差させて、分岐入れましょうか」
「分岐だけではなく、視点の変更もやってみませんか?」
「それだとイベントレベルでなく、文章レベルで合わせないと噛み合いませんね」
「魁さんはもう、プロットは完成しておられますよね? 私に見せて頂ければ文章合わせはやりますよ」
「あのー」
膝を突き合わせての論議に、割り込むように声をかける。議論中の二人、涼元悠一と魁はその声の主の
元へ振り返ると訝しげな視線を向けた。
「あ、どうされました、麻枝さん? 何か打ち合わせしなければならない事ができましたか?」
悪意は全く無いとは言え、ディスカッションには程遠い仕事振りの麻枝には酷な質問だった。
量も質も優れたシナリオを安定したペースで書き上げる能力を備えた涼元と魁がkeyに参加するように
なってから、同じシナリオ班の麻枝の仕事の遅さがとりわけ目立つようになってしまった。
麻枝とてその状況を克服しようとしなかった訳ではなく、今までの人生の読書量を一年で上回る勢いで
書物を読み漁り、朝は誰よりも早く仕事を始め、誰よりも遅くまで開発室に残り、懸命にシナリオを
書き上げようと努めた。
だが、文章の技術において職人の域に達している涼元と魁に伍する事は一朝一夕に達成できる目標
ではなかった。
「い、いや。特に話し合わなきゃならない事は無いんですけどね。ちょっと気分転換なんてどうかなー、
と思って……」
提案はあっさりと却下される。
「すいません。今は魁さんと打ち合わせをしているので、気分転換は一人でして頂けないでしょうか?」
そう言いながら、涼元は壁に立てかけてあったギターを手に取り、麻枝に手渡した。
「ギターを弾いていればいいアイデアも浮かんできますよ、きっと」
それだけを伝えると再び魁の元へ向き直り、議論の続きに没頭し始めた。
(……全く何だ、あの態度はっ! 俺が邪魔者みたいじゃないか。いくらシナリオが上手だからって、
あれじゃまるで……)
涼元に手渡されたギターのネックを握り締め、胸中で毒を吐きながら足音荒く廊下を歩く。
「AIR」のシナリオ執筆作業での涼元の働きはそれまでのkeyのシナリオライターの常識を覆すものだった。
完成度よりも勢いを。論理よりも情熱を。荒削りで、ともすれば青臭い少年の自分語り、と罵られかね
ないkeyのシナリオを精緻な知性の光で照らしたのは確かに涼元だった。麻枝自身の中でさえ茫漠として
つかみどころのないイメージを言葉で編み直し、堅固な物語世界を構築する。「AIR」の企画は確かに麻枝
の手によるものだ。だが「AIR」を育み、ユーザーの元へ送り出した本当の養父は涼元だった。
まだ入社して日が浅い、と言う事もあって麻枝の補佐に徹してはいる。だがその気になればいとも
容易く麻枝抜きで企画を立て、シナリオを書き上げ、見事な作品を作り上げるだろう。
その時自分の居場所は、果たしてkeyにあるのだろうか。
(……まぁ俺の仕事はシナリオだけじゃないしな。俺には音楽がある。エロゲー界のポール・マッカートニー
と呼ばれるこの麻枝准を甘く見るなよ)
勿論、誰もそんな風に麻枝を呼びはしない。独りで勝手に思っているだけだ。
開発室の隣には音楽作業に使う様々な機材の置かれた専用の部屋がある。keyの音楽班はここに篭り、
より美しい音楽をユーザーの耳に届けるために日々鍵盤に向い、シンセサイザーと格闘する。
防音材を使用したドアを開けると、予想通り折戸伸治が作業を行なっていた。
高性能ヘッドホンの伝える音の動きに耳を済ませながら、繊細な手付きで鍵盤に触れる。驚くべき
感度で立ち上がるパルス波高を壊れ物を扱うようにそっと変化させていく。
keyの魅力の半分を担う、と言われる音楽の世界。その創造主がここにいる。
麻枝は雑音を立てないように部屋に踏み入り、ドアをゆっくりと閉めた。
「誰だ?」
折戸の常人離れした聴覚は、ドアの閉まるかすかな音も聞き逃さなかった。ヘッドホンから耳を離し、
椅子を回転させ、音のした方角へ視線を向ける。
「何だ、麻枝か。どうした? 何か用でもあるのか?」
集中を妨げられた不快感を少しだけ表に見せながら、麻枝に問う。
「いやー、特に用事があるって訳でもないんですけど。折戸さんの調子はどうかな、と思って」
「ふん、他人の事を心配する前に自分の心配をしろ。どうせシナリオが進んでないんだろう? お前
がここに来る時はいつもそうだ」
「曲作っているといい話が浮かんでくるんですよ、俺は。折戸さんも知ってるでしょう?」
「まぁ涼元さんがいるから大丈夫だとは思うけど、あまり迷惑掛けるなよ」
また涼元さん、か。ちくりと胸に刺さった棘に気付かない振りをして、会話を続ける。
「それより、また曲考えたんですよ。今から聴いてくれませんか?」
そう言ってギターを構えて弾き語りを始めようとする麻枝を、折戸は遮った。
「悪いな、今は自分の曲作りで忙しいんだ。後にしてくれ」
さらに付け加える。
「それからな、その曲を『CLANNAD』に使うんだったら、麻枝がちゃんと編曲もしろよ。俺はもう
手は入れないからな」
予期せぬ発言に、麻枝は驚きを隠せなかった。慌てた口調で、折戸を問いただす。
「ど、どうしてですか? 折戸さんが編曲してくれないと外には出せませんよ」
「お前なぁ……」
ため息を交え、折戸は応えた。
「そりゃ『Kanon』の頃はお前もまだ機材の使い方も良く分かっていなかったし、時間も無かったから
手伝ったけどな。もう大丈夫だろ、独りでも」
「そんな無茶な……」
「無茶もヘチマもない。どうしてもできないんだったら、戸越に頼め。俺も忙しいんだよ。色々とな」
それだけ言うと、麻枝に背を向け再び作曲作業に没頭し始めた。
悄然とした面持ちで、廊下を歩く。最近折戸さんは特に自分に冷たい気がする。他人に疎まれる事
を怖れていてはこの仕事はやっていけない、と覚悟は決めてはいる。だが苦楽を共にした同僚に冷
淡な仕打ちを受けるのは、さすがに堪えた。とりわけ作曲者としての麻枝をここまで育ててくれた
師匠でもある折戸には。
それに折戸は最近keyの枠に留まらず、精力的に音楽活動をこなしている。もしかするとkeyを離れ、
独り立ちをしようと考えているのかもしれない。
折戸のいないkeyなど想像する事もできない。麻枝は自分の不安をくだらない杞憂だ、と一笑に
付してくれる人を求めた。
腕時計を見ると丁度三時だった。気分転換と称したサボタージュもそろそろ限界だろう。開発室
に戻りドアを半分開けると、室内から楽しそうな声が漏れてきた。
「ケーキ作ってみたんですけど、涼元さんも一つどうですか?」
「いたるちゃんの手作りケーキでしゅ。味の保証は出来ませんが、話のタネに食べてみるぞなもし」
「体の保証もできないわね」
「ちょっとしのり〜、人聞きの悪い事言わないでよ」
「あら、『自分一人で食べるのは怖いから、他の人も道連れに』って言ってたのはあなた本人よ」
「そんなこと言ってないでしょっ。一人で食べきれないから、皆にも食べてもらおう、とは言ったけど」
(あいつ、そんな器用な事出来たっけ?)
少しだけ開いた扉の隙間から、その光景を見詰める。
「ちょ、ちょっと。お二人とも落ち着いてください」
今にも口喧嘩を始めそうな二人を、涼元は慌てて制していた。
「勿論、私は頂きます。樋上さん、どうもありがとうございます」
「あ、食べてくれますか? 良かった……」
「しのり〜さん達も一緒に食べられますよね?」
「……涼元さんがそう仰るのなら、頂きますけど」
「挑戦なくして進歩はないもじゃ」
(食う食う、俺も食う!)
扉を開け、中に入ろうとした瞬間だった。
「あら、丁度人数分しかないわね」
ずざざーっ!
「何か音がしなかった?」
「いや、何も聞こえなかったけど」
廊下に突っ伏したまま、しばらく麻枝は立ち上がれなかった。やがてよろよろと体を起こし、再び
ドアの隙間から中の様子をのぞき見る。涼元の席を中心に、いたる達も椅子で輪を作り談笑していた。
「上手に出来ていると思いますよ、樋上さん。とてもおいしいです」
「そうですか? ありがとうございます、あまり自信無かったんですけど」
「確かに食べられない味ではないわね」
「しのり〜、あなたねぇ」
「冗談よ。あなたにしては上出来だと思うわ」
穏やかな空間が、緩やかな時の流れにたゆたう。そこにいるはずの人がいなくとも、成立する暖かな
世界。そんな世界の一員のつもりでいる事は、愚かな妄想だったのだろうか。
「涼元さんはもうkeyには慣れましたか?」
誰よりも長く一緒にいたはずの人が、楽しそうに口を開く。自分には決して見せた事のない表情で。
「えぇ。皆さんも良くしてくれますし、シナリオを書くのはやっぱり面白いですし」
「涼元さんみたいな方がいて下さると、私達も安心して仕事ができるんですよ」
彼女が涼元に向ける憧憬のまなざしが、理由も無く苛立たしい。飛び出したくなる衝動を懸命に堪え、
ドアのノブを汗の滲んだ手で握り締める。
「そうね、涼元さんみたいな人は今までうちにはいなかったしね」
「社会不適合者ばかりでしゅ」
「特にシナリオ班は揃いも揃って問題児だったから、大変だったわね」
「ちょ、ちょっとしのり〜。それは言い過ぎだよ」
(そうだ! いいぞ樋上いたる!)
部屋の外側から誰にも届かない喝采を送る。そんな麻枝の存在を知るよしも無いいたるが言葉を続ける。
「でも、シナリオを書く人が皆麻枝君みたいな人ばっかりだと思ってたのは、誤解だったね」
「……純度の高い才能に、奇行はつきものですから」
何とかフォローをしようとする涼元に、しのり〜は反駁する。
「涼元さんはまだ麻枝君の本性を知らないから、そんな事が言えるんですよ。毎日毎日ウンコフォルダを
貼り付けられる身になって下さい。二十代も半ばを過ぎて、ウンコですよ」
「おまけにそんな事ばかり繰り返して、仕事がちっとも進まないでしゅ」
「うん……それに気分でコロコロ発注も変えちゃうし。やっぱり困るよね」
既に欠席裁判の様相を呈し始めた午後のお茶会に、唯一の弁護人も責務を放棄したらしい。
「その辺は私が出来る限り手伝えば何とかなるんでしょうけど……」
「ダメですよ。涼元さんがそうやって甘やかしている間は、ずっと麻枝君はあの調子です。一度ガツン
と突き放しちゃった方がいいですよ、絶対」
「麻枝君、仕事ばかりで最近疲れてるみたいだし、涼元さんに全部任せてしばらく休んだ方がいいかも
しれないね」
「そうしてくれれば、あたし達の仕事は楽にはなるわね」
ドアを叩き付ける音が開発室に響き渡る。
「誰っ?」
しのり〜は素早く立ち上がり、ドアへと駆け寄る。ドアを開け、廊下に飛び出し周囲を見回すが、
そこに人の姿はなかった。
「何、これ?」
足元に紙切れが落ちてある。くしゃくしゃになってはいたが、ぴんとした折り目は、その紙が
持ち主の手を離れてからまだ間もない事を伝えていた。
拾い上げ、紙を開く。そこに書かれている文字に、しのり〜は微かに眉を曇らせた。
「どうしたの? しのり〜?」
「誰かいたんでしゅか?」
同僚が駆けつけてくる。
「うぅん、誰もいないわ。あたしの勘違いだったみたいね」
彼女らに無用の心配をかけまい、とその場で嘘をつく。誰にも見つからないように、手の中の紙切れ
をジーンズのポケットにしまいこんだ。
『うんこ』と一言だけ書かれた、その小さな紙切れを。
マジ面白い&仮想戦記復活おめ。
久々に名作の予感・・・
とりあえず続ききぼーん。
おお、復活してる。
今回のもなかなか面白いです。麻枝の悲哀がなんとも。
今度こそdat落ちさせないよう頑張ります。
鍋が湯気を立ててことことと踊っている。こたつに足を突っ込んだまま、目の前の鍋に
箸を差し入れる。気泡が生じては消えていく鍋の水面から豆腐を取り出し、器の中に移
した。
「自炊するのも久し振りだな……」
湯気を立てる豆腐にふぅふぅと息を吹きかけ、麻枝准は独りごちた。
カーペットの生地が見えないほどに散らかった床、洗濯していない服が無造作に脱衣所
に放り出され、パソコンの置かれた机の上は本もCDもギターも一緒くたになって無秩序な
様相を呈している。無精な独身男性のサンプルケースのような部屋だった。
管理人が見れば卒倒しそうな部屋の中、麻枝は鍋に向かう。
「鍋を食っても一人。麻枝ちん友達いないから、にはは」
「……って、二十を過ぎた大の男が『にはは』って何じゃーっ!」
叫びは暖房の効かない部屋に吸い込まれ、何も返ってはこない。
「アホか、俺は……」
行為の空しさを自覚した麻枝は、帰りにコンビニで買ってきた缶ビールの蓋を開け、
一気に飲み干した。麦芽の発酵した味が味覚を刺激し、炭酸が喉を焼く。アルコールを
摂取するのは久し振りだった。元々酒に強い方ではないし、酒を飲んだ翌日、仕事に
影響が出る事を怖れたからだ。
「何だってんだ、ったく」
誰に向かう訳でもない愚痴をこぼしながら、豆腐を口に放り込む。まだ熱い口の中の
内容物をビールで流し込んだ。熱した豆腐と炭酸交じりのアルコールとが、同時に胃を
刺激する。慣れない刺激に鳩尾を抱え込みたくなると、それがトリガーとなって今日の
出来事をフラッシュバックさせた。
「涼元さんも、折戸さんも、いたるも一体何だ。まるで人をkeyのお荷物みたいに」
確かに自分は奇を好む所があり、それに周囲の人間が巻き込まれ、迷惑している事
は否定しない。だが仕方が無いではないか。人見知りの激しい麻枝は、過剰な奇行で
相手を半ば呆れさせる事でしか人と親しくなれないのだから。
「仕事はちゃんとやってるじゃないか、俺だって……」
そう言いながらも不安になる。keyは今では18禁ゲーム業界でトップレベルのセールス
を記録する、最大手の製作チームである。keyをそこまで大きく成長させていく過程で、
麻枝の存在は非常に大きかったはずだ。誰にも真似できない、と自負のできる発想力は
空を舞うkeyの翼であり、日々研鑚を怠らず養ってきた構想力はkeyを支える大樹の幹
だ。それは砂上の楼閣のような傲慢な思い込みではなく、堅牢な土台の上に築き上げた
自信だったはずだ。
だが、それも今は脆くなり始めている。keyは規模を大きくしていく過程でその開発力
を飛躍的に向上させてきた。多士済済な人材、潤沢な開発予算、理想的な製作環境。
それらは例え中心スタッフの一人や二人を欠いてもなお優れた作品を作り得るだけの
底力を持っているのかもしれない。麻枝がおらずとも、何ら支障をきたさないほどに。
駄目だ、飲めもしない酒なんかに手を出すからだ。弱気になっている。
麻枝はこたつに足を突っ込んだまま、カーペットに仰向けに転がった。ほこりを被った
蛍光灯が飽きもせず営々と光を放ち続けている。壁に引っ掛けた円盤型の時計が規則
正しく音を立て、時間を秒単位で切り取っていた。
血中アルコール濃度が上がってきているのが分かる。天井がぐるぐると回り、思考
の輪郭が曖昧になっていく。
まぁ、いい。まだまだ俺がいなけりゃkeyはやっていけないさ。「CLANNAD」でも皆を
あっと言わせてやる。エロの書けないへっぽこライターとも言わせない。あれは企画に
合わせていたからだ。本気の俺を甘く見るなよ。鍵っ子のティッシュ消費量を二桁アップ
させてやるぜ。
頭の中に一枚、また一枚と薄い皮膜を貼り付けられていく錯覚の中、ぼんやりとした
楽観に身を任せる。急速に襲い掛かってくる睡魔に意識は刈り取られ、眠りの世界に
引きずり込まれていった。
目覚めは、最悪だった。こたつで眠ってしまったため、喉はからからに渇いている。
風邪の予兆のような気だるさと重苦しい頭痛に、目覚めてからしばらくは起き上がる事
もできなかった。
「げほっ……」
悪い空気を吐き出すように、乾いた咳をする。のろのろとした動作でこたつから
這い出し、洗面所に向かった。一晩でもう目立ち始める髭を剃り、ぼさぼさに乱れた
髪に櫛を通す。苦味のきつい歯磨き粉で歯を磨き、冷水で顔を洗うと、ようやく目が
冴えてきた。
顔を拭き、部屋に戻ると時計は出社時間に殆んど間の無い時刻を示していた。
手早い所作で身支度を整えると、床にひしめく障害物を飛越えて玄関口へ向かう。
「よし、今日も一日頑張るぞ」
自分を奮い立たせるために、敢えて激励の言葉をつぶやく。アルコールの抜けきって
いない体に違和感を覚えつつ、麻枝は外に飛び出した。
「どう言う事ですか、それはっ!」
激昂した麻枝の叫び声が、key開発室に響き渡った。聞く者をたじろがせる強い口調の
麻枝に対して、彼の雇用主である馬場社長はその立場の優位を再確認するかのように
鷹揚に応える。
「言うた通りや。keyの新作は初めから全年齢対象で発売や。18禁からは撤退してもええ。
もう書けもせんエロ書かんでもええんや。麻枝、お前は俺に感謝してもええんちゃうか?」
「誰が書けないと言った! そもそもそんな大事な事を俺達の意見も聞かずに一方的に
決める事が許されるとでも思っているのか、あんたは!」
麻枝の追及に、馬場社長は僅かの動揺も示さない。笑みさえ浮かべ、麻枝に言う。
「意見はちゃんと聞かせてもろたんやけどな。その上での結論や。これからお前らは
18禁でゲームを作らんでええ、ってのはな」
「馬鹿馬鹿しい、こいつらがそんな事に賛成する訳ないだろうが。でたらめも大概にしてくれ」
「ならお前が直接聞いてみたらええんちゃうか、『俺達は18禁から手を引くべきなのか』ってな」
開発室にはkeyのメンバーが全員、そして馬場社長が在室していた。麻枝は周囲を見回し、
仲間達に視線を向ける。彼らは皆一様に沈黙し、中には麻枝と目を合わせようとしない者
さえいた。苛立たしげに、麻枝は詰問する。
「お前ら、本当にそれでいいのか? 相手が社長だからって、遠慮する事なんか何もない
んだぞ。俺達は俺達の本当にやりたい事をやればいいんだ。言いたい事を言えばいいんだ」
麻枝の言葉に、誰も応えようとはしない。なおも何か言おうとする麻枝を、馬場社長は
制する。
「お前、まだ分かっとらんみたいやな。俺が強制したんやない。こいつらが自分でそう
したい、言うたんや。もう18禁ではやりたない、ってな」
「嘘をつくなっ! そんな事をこいつらが言う訳ない!」
「……麻枝さん」
涼元が閉ざしていた口を開く。訥々と、だが強い口調で麻枝に反論する。
「keyのファンの殆んどはもう、そんなものは求めてはいないんです。『18禁にしないと
売れない』んじゃないんです。『18禁では売れない』んです。今のkeyは」
涼元の言う事は真実だ。18禁のフォーマットでありながら、極限にまで18禁描写に
力を注がずkeyはここまでやってきた。麻枝もその状況は不自然だとは思っている。
だから、今こそ自分達は証明すべきなのではないのか。
keyは18禁ゲームの製作集団であり、その事は負い目ではなく、誇りである事を。
「まぁ、そういう事や。涼元君はその辺よぉ分かっとるさかい、一番に了承してくれたで。
折戸君らはどっちでも構へんしな」
「……音屋は18禁だろうが、そうでなかろうがやる事は変わらないんだよ、麻枝も分かる
だろ?」
すまなさそうに、折戸は麻枝に言う。
孤立無援の戦況で麻枝が最後に頼ったのは、やはり一番長く同じ時間を重ねてきたはず
の人間だった。
「でもグラフィックは別だ。全年齢にして一番割を食うのはグラフィックだ。そうだろ、
いたる?」
「……うん」
麻枝の視線を逃れるように俯き、下を向いたまま樋上いたるは応える。
「だったらっ」
「お前も本当に分からん奴やな、麻枝。樋上君が18禁描写ようやらんのは、お前が一番
分かっとるんちゃうんかったんか?」
鋭さをやや増した馬場社長の言葉が、麻枝から発言権を奪い取った。足元が根底から
崩れ去っていくような感覚に襲われながらも、麻枝は懸命に言葉を探す。
「いたる……お前、本当に」
「……ごめんね」
力が抜けた。自分が何も分かってはいなかった事実を突きつけられ、その場にへたり
込みたい衝動を抑えるのが精一杯だった。
「分かったか、麻枝。keyの面子で18禁に固執してるのは、お前一人や。お前が矛を収め
たら、皆丸ぅ収まるんや」
駄々っ子をなだめるような馬場社長の言葉が麻枝に掛けられる。
「あくまで反対すれば、どうなりますか……俺は」
「そやな。集団の和を乱した廉でしばらくは自宅謹慎やな。代わりは涼元君にやって貰う
わ。頭が冷えるまで麻枝は休んどれ」
「集団の和。民主主義の基本は多数決、か」
そう自嘲すると麻枝は自分の机に向かう。椅子に掛けてあったコートに袖を通し、
それまでの仲間達に乾いた口調で言葉を伝える。
「民主主義は柄じゃない。俺は降りる。あんたらの好きなようにやってくれ」
一同の輪に動揺が走る。麻枝は無言でその輪に近づき、涼元のそばに立つ。
「麻枝さん……」
「涼元さん、keyをよろしく頼みます」
そう言って、頭を深く下げる。それから一言も喋らずに、ドアのノブを回し部屋を出た。
廊下を早足で歩く。
もう二度とここを歩く事はないのかもしれない。何の感慨も湧いてはこなかった。
「麻枝君っ!」
背中に聞き慣れた声が掛けられる。振り返った。
「麻枝君……」
駆け寄ってきたいたるは、息を切らせて、しばらくは何も言えない。言葉を待った。
「麻枝君……短気を起こさないで。麻枝君までいなくなったら、もう……」
「いたる、涼元さんについて行け。あの人のする事に間違いはない。あの人ならkeyを
もっと高くへ運んでいける。俺がいなくてもな」
何か言おうとするいたるに背を向け、再び歩き出す。後ろで何か叫んでいる声が聞こえる。
聞こえないふりをして、ビルを出た。