Leaf&Key仮想戦記〜ひとりぼっちの戦場編〜

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187名無しさんだよもん
 けたたましく鳴り響く目覚し時計の電子音が、眠りの海底からしのり〜を引き揚げようとする。
頭まで布団の中に潜り込んだまま、手探りで目覚し時計を探す。記憶に馴染んだプラスチック製の
器械の感触に辿り着くと、そのまま上部の突起を手の平で叩く。あれほど騒がしく自己主張して
いた目覚し時計はぴたりと押し黙り、部屋は静寂を取り戻した。

 丸まった固まりにしか見えない布団がもぞもぞと蠢いている。二重に閉められたカーテン越し
に朝の光が射し込み、部屋に色の薄い影を落としていた。緩慢な動作で布団から顔を出し、
ともすれば再び閉じてしまいそうな瞼を手の甲でこすると、まどろみの沼地から思考が半歩だけ
抜け出した。

 低血圧の彼女に冬の寒さは一層こたえる。鉛を背負ったようにけだるい身体は、いつまでも
暖かい布団の中から出たがらないし、濃霧の森に迷い込んだような意識はただ『寒い』という
言葉で埋め尽くされる。

 二度寝の誘惑を辛くも振り切り、しのり〜は起き上がる。纏いつく眠気を振り払おうと重い
頭を振り、窓のカーテンを勢い良く開けると、熱を帯びた光が顔に触れた。
 大きく背伸びをすると、洗面所へと素足のまま歩く。冷たい水で顔を洗い、大雑把に肌の具合
を鏡で確認する。元々着飾る性質ではないし、およそ身だしなみなど意に介さない職場なのだが、
最低限のラインだけは守っていたかった。

 タオルで顔を拭き、洗面所から出る。タンスを開け、服を取り出して手早く着替える。
肌に張り付く布地の冷たさが自分の中のスイッチを切り換え、いつもの状態にまで心身を緊張
させてくれる。姿見の前でさっと髪を梳くと、普段と何ら変わる所のない自分がそこに現れた。
188名無しさんだよもん:02/01/13 09:53 ID:GonQvyr2
 朝食を済ませ、外へ出ると空は珍しく晴れ渡っていた。寒さは相変わらずだが、陽光のせいか
どことなく暖かさを帯びた空気の下、しのり〜は歩き慣れた道を歩く。
(やっぱり寒いのは嫌だな。早く暖かくなればいいのに)
 行進のように規則正しい歩幅とリズムで歩みを進めながら、しのり〜はそう思った。
(その頃には『CLANNAD』の発売日の目処も立っているだろうし、そうすれば……)
 楽観的に過ぎると警告する自分もいたが、それでも希望にすがらざるを得なかった。
 やがて視界の先に見慣れたビルが見えてくる。まだ出社時間にはかなり時間があったが、
昨日から泊り込みで仕事をしている人がいるかもしれない。
(朝の掃除のついでに、コーヒーでも淹れてあげようかな)
 だが、彼女の淹れる苦いコーヒーを飲む者はもういない。
189名無しさんだよもん:02/01/13 09:54 ID:GonQvyr2
 その日のkey開発室もいつもの光景を保ち、メンバーはそれぞれに己の作業を行なっていた。
言葉の交わされることの少ない室内に、キーボードの打鍵音とPCの稼動音だけが響く。
 新作『CLANNAD』の開発は順調に進み、近日中にも発売日を発表する予定だった。

 黙々と作業が進められていく開発室に、内線の呼び出し音が突如鳴り響いた。机が電話機に
一番近いしのり〜が受話器を取る。
「はい、key開発室ですけど」
『あ、しのり〜君か。丁度良かったわ』
 受話器の向こう側から馬場社長の声が聞こえてきた。
『ちょっと君にやってもらいたい仕事があるんや。今すぐ俺の部屋に来てくれ』
「は、はい。分かりました」
 しのり〜が返事を言い終わる前に電話は切られた。
「しのり〜、誰からの電話だったの?」
 隣の机で作業を行なっていた樋上いたるが聞く。
「社長から。あたしに用事があるんだって」
「珍しいね、しのり〜が呼び出されるのなんて」
「本当ね、一体何の用かしら」
 しのり〜も訝しげに首を傾げた。
190名無しさんだよもん:02/01/13 09:55 ID:GonQvyr2
「もう『CLANNAD』の作業に君は参加せんでええ。君の分担している部分はみきぽん君らに
引き継がせるから、keyにはもう来てもらわんで結構や」
 社長室に入ったしのり〜に開口一番、馬場はそう言った。しのり〜は馬場の言葉の意味する所
が理解できず、呆然と立ち尽くしている。
「まぁ、いきなりこないな事言われても困るんは分かるけどな。とにかく、君が今のkeyにいても
しゃぁない。君にはもっとええ仕事場があるから、そこで頑張ってくれ」
「それは……クビという事ですか」
 もっと衝撃を受けていいはずだと自分でも思った。冷静に応対している自分がいることに気が
付いて、そのことが驚きだった。
「いや、クビっちゅう訳やないんや。早合点せんと、これを見てくれ」
 そう言うと、馬場はしのり〜に茶色の封筒を手渡した。封筒の封は既に切られていて、中に
写真が何枚か入っていた。
 取り出した一枚の写真には、変わったデザインの制服に身を包んだ背の高い女性が黒服の男を
踏みつけている光景が写されていた。黒服の男はサングラスをして人相を隠してはいたが、しのり〜
にはその男が誰かすぐに分かった。
「麻枝君……一体何やってるの?」
 思わず呟いたしのり〜に、馬場は満足そうに頷く。
「流石やな。そう、麻枝君が女の人に踏まれとる。次の写真も見てみ?」
 二枚目の写真では、薄い本が平積みにされたカウンターの前で、麻枝と全く同じ服装の黒服の男
とが何やら言い争っているようだった。
「これ……久弥君?」
「お、大したもんやな。麻枝君だけやなくて久弥君も分かるんか」
 感心した様子で、馬場はしのり〜に言う。
「何なんですか……これ? 一体どうして麻枝君と久弥君が……」
「見ての通りや。麻枝君と久弥君が一緒に行動しとるんや。俺が集めた情報によれば、昔麻枝君
がkeyで企画して没になったRPGを同人で作ろうとしているらしい、二人で組んでな」
191名無しさんだよもん:02/01/13 09:56 ID:GonQvyr2
「二人が一緒に……」
 自分の顔がほころんでいることにも気付かず、しのり〜は呟いた。しのり〜とは対照的に馬場
は苛立たしげに吐き捨てる。
「keyにいた時とはえらい違いやろ? ほんまにこいつらの考えることはさっぱり分からん。
そもそも二人が自分から手を組もうとするとは思えん。誰かが二人を引き合わせる画を描いた
んや。吉沢務って名前、知っとるな?」
「吉沢さんですか?」
「そうや、君等がTacticsにいた頃の直接の上司や。こいつが後ろで糸引いとるんや。君等に
逃げられた挙句、自分もTacticsをクビになった男が、未練がましくこの業界にしがみつこう
としとる。麻枝君と久弥君にゲーム作らせて、自分も返り咲こうっちゅう魂胆やな」
 顔を見たこともない吉沢を口汚く罵る馬場を、しのり〜は冷ややかに見詰めている。
 馬場はその視線を意に介さず、言葉を続けた。
「麻枝君と久弥君が手を組んでゲーム作るんはええんやが、人手が足りへんみたいや。特に
原画屋がおらんらしい。同人誌即売会に顔出して掘り出し物を探しとるみたいやけど、無理
やろうな。あの二人の審美眼を満足させる絵描きなんざ、そうそうおるもんやない」
「じゃあ、麻枝君が久弥君と一緒にやっているその企画はどうなるんですか? 原画もいない
のに、どうやって……」
「同人やから金も足りてへんやろう。人手も足りん、金も無い。これではどうにもならんな。
いくら麻枝君がええ企画立てても、宝の持ち腐れや。多分すぐに企画は御破算。潰れた麻枝君達
は二度とこの業界に顔見せられへんやろうな」
「そんな……そんなのって酷すぎます。何とかならないんですか?」
 懇願するようなしのり〜を見て、馬場はにやりと笑う。全て、馬場の思惑通りの反応だった。
192名無しさんだよもん:02/01/13 09:56 ID:GonQvyr2
「keyを離れているとはいえ、麻枝君はまだ辞めた訳やない。今は休職扱いやからな。自分の
部下が立てた企画をきちんと形にしてやるんは、上司の努めや。麻枝君の企画は責任持って、
俺が引き取らせてもらう」
 馬場の言葉にしのり〜はぱっと喜色を浮かべる。
「それじゃあ麻枝君も、久弥君も、吉沢さんも、皆一緒にkeyで……」
「勘違いすんな」
 ぞっとするような冷たい声だった。喜色満面の様子から一転、表情を凍りつかせたしのり〜
に、馬場は低い声で言い放つ。
「俺が欲しいんは麻枝准という企画屋と、そいつの立てた企画だけや。久弥はとっくに用済み
や。吉沢なんか初めっから相手にする気も無い。時代遅れの粗大ゴミみたいな連中を何で俺が
引き取らなあかんのや?」
「そんな……」
「麻枝の企画が形になるように手助けはしてやるけどな、keyに戻ってええんは麻枝だけや。
他の連中は麻枝の踏み台になってもらう。今までそうしてきたようにな」
 口元にうっすらと笑みさえ浮かべる馬場に、しのり〜は我慢できなくなり反論する。
「そんな酷い話、本気で言っているんですか!? 麻枝君がその話を聞いたら、あなたの
援助なんか絶対に撥ね付けます。そんな援助に何の意味があるんですかっ!」
「そこで君の出番や」
「え?」
 馬場は謳うように続ける。
「俺が援助してやらんと麻枝達の企画は潰れる。かといって俺の考えが麻枝に知られれば、
麻枝は援助を拒絶して企画の潰れる方を選ぶやろう。それやったら今すぐ麻枝だけ呼び戻した
方がなんぼかマシや。麻枝と企画だけを俺が手に入れる唯一の方法が、君や」
193名無しさんだよもん:02/01/13 09:57 ID:GonQvyr2
「私に何ができるって言うんですっ!?  麻枝君達の企画の原画を私にやれ、とでも
言うんですかっ。麻枝君達と一緒に仕事をするふりをしながら、あなたに情報を流して、
最後には完成した企画と麻枝君だけをあなたが手に入れられるように、私にスパイ役を
やれとでも言うんですかっ!」
「えぇ勘しとるやないか。それくらい回転早くないと吉沢に嗅ぎ付けられるやろうからな。
やっぱり君が適任やな、俺の見込んだ通りや」
「私にそんな事ができる訳がないでしょう。冗談もいい加減にしてください」
 胃のむかつきを懸命に堪えながら、しのり〜は言う。予想通りの反応に馬場は内心ほくそ
笑んだ。
「君が嫌や言うんやったらしゃぁない。麻枝の企画は俺が潰す事になるな」
「え?」
 馬場は顔に冷たい笑みを浮かべ、しのり〜に言う。
「原画屋が見つからんかったら、遅かれ早かれ企画は潰れるやろう。同人にもえぇ人材が
おるかもしれんが、麻枝も久弥も樋上君の絵がしっかり頭に刷り込まれとる。彼女の絵柄
以外は受け付けへんやろう。麻枝はまだ俺の部下や。潰れる企画に無駄な時間を費やす
くらいなら、さっさと企画そのものを潰してやるんが、上司のせめてもの情けや」
 馬場の口調には一片の冗談も混じってはいなかった。馬場が本気であることを思い知り、
しのり〜は恐怖した。
 自分の思い通りにならなければ、この人は本当に麻枝君達を潰すつもりだ。
「そんな……そんな事したら、麻枝君は二度とkeyに帰ってこない……」
 しのり〜の震える声に、馬場は満足げな表情を浮かべる。肩を震わせ俯くしのり〜に近づく
と、その肩をぽんと叩き、猫撫で声で語り掛けた。
「君しかおらんのや。麻枝君を立てつつ、俺も満足させる結果を出せるんは。悪いようには
せぇへん。君の席はちゃんとkeyに残しといたる。この仕事が終わったら、今までよりずっと
えぇ待遇にしたるし、原画屋のポストも用意しとくわ」
 肩に置かれた馬場の手を振りほどくかのように、しのり〜は頭を振る。
「あたしには……あたしには無理です……原画なんてやりたくない。いたるの代わりなんて、
できるわけがない……」
194名無しさんだよもん:02/01/13 10:01 ID:GonQvyr2
「そないな事あらへん。君が適任やと俺が思ったんは、俺の考える三つの条件を満たすんが
君だけやったからや」
「三つの……条件?」
 しのり〜はただ、馬場の言葉を反復することしかできなかった。
「そうや、第一に麻枝達の求める原画が描ける事。これは樋上君とずっと一緒に仕事してきた
君なら簡単な事や。君はずっと裏方やったから誰も気付いてへんけど、俺には分かる。
君は樋上君より上や」
 もう、一言の言葉も耳に入れたくないかのように首を振るしのり〜に、馬場は言葉を続ける。
「そして第二に麻枝達の所に行っても、絶対にkeyを裏切らない事。樋上君を向こうにやるんは
論外や。そのまま樋上君達で新しくブランドを作ってまうやろ。みきぽん君は案外気の弱い所が
あるから、吉沢に逆に篭絡されてまうかもしれん。麻枝達と調子合わせつつ、俺の命令に従い
続けられるんは君しかおらん」
「もう……もういいです。これ以上何も言わないでください。どんな条件であれ、あたしには
あなたに従う以外の選択肢は無いんですから。そうでしょう?」
 力無く呟くしのり〜を、馬場は満足そうに眺める。スーツの胸ポケットから携帯電話を
取り出し、しのり〜に手渡した。
「そうと決まったら話は早い。今すぐ吉沢に電話してくれ。『keyをクビになったんで、再就職先
を吉沢さんに紹介してほしいんです』って言うたら、奴はすぐに喰いついて来るはずや」
 そう言って、馬場は切れ長の目を蛇のように細めた。