吉沢務の住むワンルームマンションで、麻枝准と久弥直樹は密談を行なっていた。凡庸さが格好
の煙幕となり、そのマンションに調査の手が入るのはまだ先のことになりそうだった。
きちんと整頓された吉沢の部屋のこたつに足を突っ込み、麻枝はみかんの皮を剥く。
「新機軸大長編スペクタクルRPG『さゆりん☆サーガ(仮題)』を作るのはいいんだが、人手が全く
足りない。どんなゲームになるか、は俺の頭の中にもう大体出来上がっているし、シナリオはお前
がいるから大丈夫だ。音楽は俺と吉沢さんがやればいいだろう。折戸さんがいないのは苦しいが、
あの人には『CLANNAD』があるからな」
「プログラムは吉沢さんのコネを使えば集まるだろうし、いざとなれば吉沢さん本人にやってもらえ
ばいいんだけど……」
こたつに肩まで潜りながら、久弥も考え込む。
「問題はグラフィック。そういう事だろ? それよりお前ら、人の家に入り浸っているんだったら、
掃除くらい手伝え。お前らが来るようになってから、部屋のエントロピーが加速度的に増大している
ような気がするぞ」
台所から水洗いの音と一緒に、吉沢の言葉が返ってきた。麻枝と久弥は聞こえないふりをして、
話を続ける。
「そう、グラフィックが最大の問題だ。久弥、お前は絵が描けたか?」
「……美術の成績はずっと『3』だった」
「自慢じゃないが俺は音楽と体育以外の授業にマジメに出た記憶がない。吉沢さんも似たような
ものだ。つまり、ここの三人がいくら力を合わせてもハナクソのような絵しか描けないということ
なんだ」
こたつの中で足をもぞもぞ動かしながら、麻枝は嘆息した。
「いくらギャルゲーの枠に囚われずにゲームを作りたいからといって、グラフィックをおろそかに
しては何にもならないよ。ゲームなんだから見た目の要素が一番大事だ」
「分かってるよ、俺にだってそれくらい。だからこうして頭を絞っているんだ。今まではいたる
がいたからな……俺達」
「うん……彼女の原画無しで僕達はどこまで勝負できるのかな……」
「原画は探すしかないだろう。同人誌即売会にでも行けば、腕を持て余している原画屋が
いるはずだ」
洗い物を済ませた吉沢が手をタオルで拭きながら、台所から出てきた。
「ですが吉沢さん、いたるレベルの原画屋となると、同人どころかコンシューマー業界探しても
見つかるもんじゃないですよ。いたとしても会社のエースだ、手放すはずがない」
「麻枝、いたるを基準に置くからいけないんだよ。彼女のレベルを求めたら、誰も絵が描けないよ」
「あぁ……それは分かっているんだが、絵を見る目が肥えすぎているのかもな、俺達は」
(お前らの目は一体どうなっているんだ)
吉沢はツッコミを胸の内にしまっておいた。その言葉を口にすると二人が本気で怒り出しそう
な気がしたからだ。
「やっぱり同人をやっているアマチュアの人から探すしかないだろうね。いたるレベルは無理
だけど、同人でいい原画を描いている人は僕も何人か心当たりがある」
久弥の言葉に、吉沢も賛同する。
「久弥の言うとおりだ。もうすぐこの近くで即売会が開かれるらしい。手始めにそこに行って
みよう」
麻枝も頷いた。
その市民会館は駅からのアクセスがよく、一日借り切ってもそれほど多額の使用料を要求されない
こともあって、のみの市やインディーズ・バンドのライブが毎日のように開かれている。
市民達による文化振興の場として長年親しまれてきたその会館に、今日は一種独特の熱気が満ちていた。
受け付けに入場料を支払い、屋内に一歩足を踏み入れると、南半球の冬に迷い込んだような
錯覚さえ覚える。ラフな私服に身を包んだ一般客や、この日のために縫い上げたお手製の衣装で
着飾った売り子達は、皆それぞれにこのささやかな祭りを楽しんでいた。
真っ直ぐ歩くことさえ困難なほどに混雑した会場の入口で、全身黒ずくめの三人の男が
立ち尽くしていた。かっちりとした黒の上下を身に纏い、これまた黒のネクタイを締め、視線
の見えないサングラスを掛けている。即売会の乱雑な賑わいの中、彼らの周りの空間だけが
異観を呈していた。
「なぁ久弥……俺達って逆に目立ってないか」
「麻枝が『面が割れないように変装して行こう』って言ったんだろっ。目立つだけだから止めろって
、あれだけ反対したのに……」
今にも口論を始めそうな二人を吉沢は抑える。サングラスのフレームを指で押し上げながら、
二人に指示を送った。
「まぁ俺達の正体に気づく奴はここにはいないだろう。ここにいつまでも突っ立っていても目立つ
だけだ。いい人材がいるかどうか、早く探しに行くぞ」
吉沢の言葉が全く聞こえていないかのように、麻枝が叫んだ。
「うぉっ、コスプレだ! あんな綺麗なお姉さんが舞のコスプレをしているぞっ!」
「指を差すな、指をっ」
「あんな丈の短いスカートを履いていて、腹が冷えないんですかね、吉沢さん?」
「知るか、直接聞いてくればいいだろ」
うんざりした口調で吉沢は力無く言葉を返す。
「うぅむ、あれだと何も履いていないのと変わらんぞ……犯罪だ」
ぶつぶつと呟きながら、麻枝は歩き出す。さっき指差した女性に近づくと、何やら会話を交わし
始めた。
「何話しているんでしょうね、あいつ」
「さぁな、どうせセクハラ紛いのことだろ」
「あ、殴られた」
「何を言ったか聞こえなくても分かるな」
「あ、蹴られた」
「見事なハイキックだ。ギャラリーも大興奮だな」
「あ、踏まれた」
「あんなお姉さんになら俺も踏まれてみたいな」
「……吉沢さん」
「冗談だ」
麻枝の周りに早くも見物人が集まり始めている。麻枝を中心にした人の輪を遠巻きに見詰めながら、
久弥は首を傾げた。
「しかし……あんな風にはしゃぐタイプでしたっけ、麻枝って?」
「嬉しいんだろ、きっと」
「この手のイベントは初めてらしいから、物珍しいのは分かりますよ。でも、あんなに楽しそうな
のはちょっと……」
理解に苦しむ様子の久弥に、吉沢は何も答えなかった。
それから吉沢と久弥は同人誌が出展されているスペースを回り、目ぼしい作品がないか探して
回った。麻枝はどこに消えたか、二人の目の届く範囲には影も形も見せなかった。
「どうも収穫はなさそうだな」
出展スペースをあらかた回り尽くした吉沢が、残念そうに呟いた。
「やっぱり厳しいんですかね。同人からいい人を探すのは」
久弥も力無く応える。意気が沈むのを隠せない二人の元に、麻枝が人ごみをかき分け、駆け寄って
来た。
「おい久弥、見ろっ!」
乱れた息を整えもせず、麻枝は久弥に両手に抱えた本の一冊を広げ、目の前に見せる。
それは18禁同人誌のクライマックスの一ページだった。
「お前の大事なあゆあゆがこんな所にたい焼きを突っ込まれているぞっ! いいのかっ!
手塩に掛けて育て上げた娘のようなキャラクターがこんな目に遭わされているんだぞっ!
お前はそれでいいのかっ!」
「いいに決まってるだろっ! 同人誌の内容にいちいち文句を言ってどうするんだよっ!」
怒鳴り返す久弥に目もくれず、麻枝は同人誌を広げ、読みふける。
「うぅむ……たかだか素人の暇潰しと高を括っていたが、どうやら俺が間違っていたようだ。
ここは俺の知らなかった世界だ。行くぞ久弥、きっと俺達の想像もつかない凄い本がある
に違いない」
そう言うと麻枝は久弥の腕を掴んで、そのままずるずる引っ張り、人ごみの中へと消えていく。
後には吉沢独りが残された。
(まぁ……嬉しいんだろうな)
人ごみの中に独り取り残され、立ち尽くしながら吉沢はそう思った。昨年吉沢が麻枝と再会
した時、麻枝は意気消沈しており、かっての面影はどこにもなかった。立ち直る決意をさせる
までは吉沢にもできたが、それからも麻枝は捨て鉢な雰囲気を漂わせ続けていた。
麻枝が今の調子を取り戻したのは、久弥が麻枝の元に帰って来てからだった。
(あんな風に馬鹿をやれる相手がいないだろうからな、今のkeyには)
keyは業界最大手のブランドとして劇的な躍進を遂げた。設立時から常に中心にあり、舵取り
を努めてきた麻枝が背負っていた責任の重さは吉沢にも容易に想像がつく。
例えどんなに明るく振舞ってはいても、逃れられることのない重圧が麻枝に影を落として
いたことは明白だった。業界を代表するクリエイターとしてこれほどに名を馳せてしまっては、
対等の立場で麻枝に接することのできる人間もいないのだろう。
今、麻枝はkeyを離れ、頼みにすべき拠り所を失っている。だが、得た物もある。
『自由』だ。自由を得た麻枝は過去の軋轢からも、現在の束縛からも解き放たれ、才能の翼は
思いのままに空を舞うだろう。どこまで高みに達するのか、どこまで遠くに行けるのか。
それを吉沢は見届けたかった。
吉沢には野望があった。それは金銭や地位を求める類のものではなかったが、それだけにより
一層激しく吉沢の胸の炎を燃え上がらせた。
麻枝准と久弥直樹という二人の天才を使いこなし、18禁ゲーム業界の歴史に残る傑作を創り上げる
という野望である。
『ONE』のマスター・アップの日、野望の階段の第一歩を踏み出したことに吉沢は気付き、心躍らせ
た。だが、その階段は不幸にして第一歩で崩れ去り、吉沢は野心を捨てざるを得なかった。
その後残された者達でTacticsを盛り上げようと奮闘するも、功は認められず解雇の憂き目を見た。
その時にはもう、吉沢の野心も燃え尽き、燻りもしなかった。
夕凪のように穏やかな余生を送るつもりだった吉沢だが、行き場を無くした麻枝と再会し、
孤立を余儀なくされていた久弥を引き込むことに成功すると、消えたはずの野望の炎が再び燃え
盛り始めた。
(馬場では二人は使いこなせまい。所詮算盤勘定でしか物事を計れない男だ)
経営者として見れば吉沢は馬場の遥か足元にも及ばないだろう。時代を見抜く鋭い洞察力と
怜悧な判断力に優れた馬場は極めて優秀な経営者である。だが、その優秀さは常識内の優秀さ
でしかない。常識を外れ、社会の枠に適合不能な破綻を取り繕いもせず突っ走る麻枝と久弥を
操縦するには、常識では足りない。
吉沢は音楽の活動を除けば、プロデュースや製作管理といった調整作業に能力を発揮してきた
男である。人と人との間に不可避的に生じる軋轢やトラブルを巧みに収拾してきた経歴から
穏やかで人当たりのよい善人の印象を与えるが、決してそれだけの男ではない。ただのお人好し
が独立気質の強いクリエイター達を操縦していけるはずがない。吉沢は柔和の仮面の下に鋭利で
強靭な刃を潜めている。その刃を向けられた相手は戦慄のうちに喉を切り裂かれるだろう。
麻枝と久弥を使いこなし、吉沢は自分を捨てた世界に痛烈な反撃を仕掛けるつもりだった。
その情景を想像するだけで、体中の血液が心地好く沸騰するのを感じるのだった。
「おわーっ、観鈴ちんが晴子さんにこんな折檻をされているっ! エロいっ、エロすぎるーっ!」
だが、その想像も即売会の会場の隅から隅まで響き渡る麻枝の叫びによって中断された。
「うるさいっ! 何のために変装してきたと思っているんだよっ!」
久弥の怒鳴り声が麻枝と同じ大きさで場内の空気を震わせる。
(『変装してきた』って自分で言ってどうするんだ、久弥も……)
吉沢は頭を抱えた。自分なら暴走する麻枝達の手綱を握ることができると自負していたが、
もしかすると自分は今、とんでもない暴れ馬二匹を相手にしているのかもしれなかった。