大阪府天満橋に籍を置く株式会社ビジュアルアーツのビルは年明けの僅かな休みに
閑散としている。だが業務活動を取り仕切る責任者である馬場社長は、正月休みも
取らず自らの仕事部屋で莫大な量の事務書類に目を通し、決裁を下していた。
抱える多数の製作チームからの進行報告に対して、時には厳しく檄を飛ばし、時には
冷静に現場の暴走を制止する。新鋭企業のトップとして、激しく転変する状況に的確な
判断を下す青年実業家の姿がそこにあった。
安手のプラスチックのドアがノックされる音がして、馬場は書類から目を離した。
「おぅ、入ってええで」
よく通る声で馬場が言うと、ドアがゆっくりと開き、涼元悠一が室内に入ってきた。
「涼元君、調子はどうや? 今回は納期を遅らさんで済みそうか?」
「皆さんはとても頑張っておられます。このペースを維持できれば、今月中にデモの配布
も行なえるでしょう」
「そうかそうか、そら結構や。麻枝君がおらんようなってどうなるか思ったけど、却って
ええ塩梅で進んどるようやな」
「定期報告ならわざわざここでやる必要がないでしょう。一体何の用ですか?」
乾いた無表情を崩さない涼元に、馬場は苦笑いを浮かべる。
「麻枝君や樋上君ならいざ知らず、君に駆引き仕掛けても無駄やな」
笑いはすぐに消え、そこに厳しい表情が現れた。
「麻枝君と久弥君が手を組んだらしい。何やっとるんかまではよぅ調べ切らんかったけど、
どうも同人でゲームを作ろうとしてるみたいや。涼元君はこの事、知っとったか?」
眉をひそめ、沈黙を保つ涼元の表情が語らずとも何より雄弁に、その質問に答えていた。
「流石に知っとるやろうな、君なら。で、そのことを樋上君達には言うたんか?」
「……言える訳がないでしょう」
苦々しげに涼元は答える。かってkeyを離れた久弥と今keyを離れている麻枝とが再び手を
組んだことを知れば、keyのメンバーは酷くショックを受けるだろう。『CLANNAD』の製作に
大きく支障をきたすだけではない。今まで築き上げてきた名声も地位も全て捨てて、麻枝と
久弥の組む側へ身を投じるかもしれない。
それではkeyは終わりだ。麻枝は涼元にkeyの将来を託したのだ。守るべきkeyを潰しては
何もならない。
涼元は残酷なまでの重荷を独りで背負うことを義務付けられていた。
「よぅ分かっとるやないか。樋上君がこの事知ったら、すぐに辞表叩きつけてきそうやしな。
そないな事になったら、keyもお終いや」
馬場は両手を広げ、おどけたポーズを取る。
「幸いな事に、麻枝君も久弥君も表立った行動は今の所は取っとらん。二人が手を組んだ
事を大々的に宣伝されたら、こちらも打つ手が無かったんやけどな。keyに遠慮しとるんかな、
あの二人は」
感謝と嘲笑の入り混じった口調で言う馬場を、涼元は毅然と睨みつけた。射るような涼元
の視線に何の反応も見せず、馬場は続ける。
「しかし、麻枝君にも久弥君も金に不自由はさせてへんつもりやったんやけどな」
馬場は極めてシビアな経済原理に基づいて行動する。彼を罵倒するに最も便利な言葉は
「金の亡者」だろうが、必ずしもこれは適切ではない。馬場の持つ合理性は利益の分配
の場においても容赦無く裁断の刃を振るい、私腹を肥やす余地を残さない。
得られた利益は功績の大なるものには大きく、小なるものには小さく分け与えられる。
『Kanon』、『AIR』で得られた利益は麻枝達にも公正に分配され、不公平感を抱かせる
ことは決してなかった。
「それに樋上君を押さえとる限り、二人とも妙な気は起こさんやろと思っとったんやけどな。
金も要らん、女もあかん。一体二人は何が欲しくてあんな割に合わんことをするんや?」
心底理解できない、といった様子で首を傾げる馬場に、涼元は冷ややかに応える。
「あなたには分かりませんよ」
凍りつくような冷たい言葉に、馬場は肩をすくめる。
「そやな、クリエイター様のお考えになることは俺にはさっぱりや」
涼元はその言葉を聞き終わる前に踵を返し、部屋から立ち去ろうとする。
「もういいでしょう。私も仕事が忙しいんです。世間話に興じている暇はないはずです、
お互いに」
背中を向けたまま、首だけ振り返り馬場に言う。
「あぁ、もう話は済んだ。すまんかったな、仕事の邪魔して。期待しとるで、君には」
言葉を拒絶するかのように涼元は無言でドアを開き、叩き付けるようにして部屋を出た。
「涼元君ではあかんやろな、なんぼ頑張っても」
独り残された社長室で、馬場は呟く。椅子から立ち上がり、窓に向かった。
「今まで随分稼がせてもろたけど、keyもええ加減潮時やな。問題はいつ切るか、か」
窓越しに下を見下ろすと、新年の仕事始めを済ませ帰路を急ぐ人々が蟻のように見えた。
足音を廊下に反響させ、涼元は開発室へと向かう。いつもなら耳に入ることもない自分
の足音が今日はやけに耳障りだった。
(人がいないからだ)
自分の中に渦を巻いている感情を否定するために涼元は論理的な理由を探す。だが、軽い
嘔吐感を伴うその感情の存在は次第に大きくなり、胸の内側から執拗にがなり立ててきた。
「くっ……!」
拳を握り締め、手近な壁に叩きつけようとする。
「涼元さんっ」
背中に掛けられた声が、涼元を押し留めた。体全体で振り返り、声の主に返事をする。
「あ、樋上さんも今日は出勤だったんですね。ご苦労様です」
明るい口調で頭を下げる涼元に、樋上いたるは心配そうに問う。
「涼元さん……社長に呼ばれていたみたいですけど、何かあったんですか?」
「いえ、何もありませんよ。進行状況を報告して、ちょっと世間話をして、それだけです」
「そうですか……それならいいんですけど」
涼元から目を反らし、不安げに俯くいたるに、涼元は優しく言う。
「大丈夫ですよ。『CLANNAD』は絶対に完成します。そうすれば麻枝さんも戻って来ますよ」
「でも、麻枝君の家に行っても誰も出ないし、どこでどうしているのかも全然……」
「私も麻枝さんが今どうしておられるかは分かりません。でも、あの人のことです。どこ
にいても、あの調子で周りの人を巻き込みながらお祭り騒ぎですよ。それは樋上さんが
一番良くご存知でしょう?」
「そう……ですね。麻枝君は『俺は例えマグロ漁船の中でも関西のスピリットを忘れない』
って豪語していましたから……」
微かに愁眉を開いた様子のいたるを元気付けるべく、涼元はさらに言葉を続ける。
「そうですよ。麻枝さんは今充電中なんです。私達は、いつ麻枝さんが戻って来てもいいように
ちゃんと場所を用意しておけばいいんです」
自分に言い聞かせるように、涼元はそう言った。
夜がふけ、いたる達正月出勤組も既に帰宅した開発室に残っているのは涼元独りだった。
しわぶき一つしない開発室に響くのは24時間電源の落ちることのないPCの無機質な機械音だけだ。
椅子に座った目線の高さにまで達する莫大な資料を傍らに、涼元はディスプレイに向かい、
キーボードを叩く。規則正しい打鍵のリズムが次第に崩れ、やがて停止すると涼元は椅子に
座ったまま大きく背伸びをし、天井を仰いだ。両目を閉じ、まぶたを指で押さえる。
眼球は凝り固まり、指で押さえると痛みさえ覚えた。
『CLANNAD』の製作は確かに順調に進行してはいたが、それでスタッフの負担が軽減されること
はない。企画の規模が大きくなれば、より多くの人材が必要となるのは必然である。
シナリオ担当として全体の統括を行なう立場の涼元に掛かる負担は想像を絶するものだった。
(覚悟していたことだ、これくらいは)
ぼんやりとした頭の中で、そう思う。要領良く金を稼ぎたいのであれば、初めからこんな仕事
には手を出さない。義務感に駆られて苦役を引き受けた訳でもない。
涼元が今『CLANNAD』の責任者として身を削る日々を送っている理由は金でもなく、義務でも
なく、自己実現でさえなかった。
ただ一緒に行きたかったのだ、あの二人と。
『Kanon』をプレイした時の衝撃を涼元は生涯忘れはしない。きらめく才能の星々が織り成す
夢の世界に涼元は魅了された。
そして麻枝准と久弥直樹。
背反しながら共有し、憎み合いながら惹かれ合う二つの才能が生み出す奇跡の競演。
そこに涼元は眩しくて目を開けてはいられない程の輝きを見つけたのだ。
だからkeyに身を投じ、二人を知ろうとした。そしてあの競演の一員になりたかった。
だが涼元がkeyの一員になった時、既に久弥の姿はそこにはなかった。涼元はその事実に
落胆を隠せなかったが、麻枝は難航する『AIR』の製作の助けとして涼元を強く求めた。
涼元もそれに応え、現役の小説家として培ってきた実力をいかんなく発揮した。
半身を失い、それでも宝石は輝きを失わなかったからだ。
麻枝は涼元を信頼し、涼元もそれに応えた。『CLANNAD』でも麻枝と涼元は緊密な関係を保ち、
お互いの力を駆使して優れた作品を創り上げていくはずだったのだ。
「なのに、どうして?」
言葉を抑え切れなくなり、天を仰いだまま呟いた。
「どうして、私を置いていくんですか?」
声は震え、語尾はかすれた。人気の無い開発室で、涼元は独り肩を震わせる。
「あなた達が帰ってくるまで、私はkeyを守ります。誰の手にも潰させはしません。
でも、もう……」
涼元は独立独歩の小説家として名を上げ、今keyを代表するシナリオライターとして確固たる
地位を築き上げた男である。その経歴からしたたかで、処世術に長けた知識人といった印象を
他人に与えるが、実際はそうではない。涼元は本来繊細な感受性と優しすぎる情緒の男であり、
したたかな交渉上手、といった外面はkeyでそうした能力を持つ人間が涼元以外に誰もいなかった
ためだった。ただ世渡りが上手なだけの文章巧者が麻枝の心に触れるはずがない。
涼元は傷付き易い内面を知識と論理の鎧で包んでいたのだ。誰の目にも触れず、誰の手も
届かないように。
そんな涼元にとって、今の状況は過酷に過ぎた。ゲーム製作者としての経験の乏しさも苦境
に拍車を掛けた。涼元はようやく自分が疲弊しつつあることに気づかされ始めていた。
「麻枝さん……久弥さん……早く、早く帰ってきて下さい」
夜の開発室で、涼元は独り震えた。
その乾いた涙は誰の目にも触れず、その声無き叫びは誰の耳にも届かない。