冬空は灰黒色の雨雲に覆われ、今にも泣き出しそうだった。朝になっても
姿を見せない太陽が陰鬱さを助長させる。乾燥しがちな大阪の冬らしくない
湿った風が久弥直樹の顔に吹き寄せた。
(ここに来るのは何カ月ぶりだろう?)
東天満の街並みを眺めつつ、そう感慨にふける。もう、この地を踏むこと
はないと思っていた。ここには思い出が多すぎる。
首を振り、目指す場所へ歩き始める。失われた過去は最早久弥の心に触れ
はしない。今自分がしなければならないことは未来を繋ぐことだ。
麻枝の、そしてkeyの。
木枯らしに身をすくめながら、早足でビジュアルアーツが籍を置くビル
へと向かう。温暖な大阪にしては冷たい空気がちくちくと顔に刺さった。
記憶に従い道を選び、角を曲がって行くとすぐに目的地に辿り着いた。
もう年末だが、keyのメンバーは皆今日も仕事に出社しているはずだ。
新作「CLANNAD」の開発が佳境に入っているのであれば、年末だからといって
休みが許されるはずもない。
自動ドアの前で久弥は思わず立ちすくんだ。無骨なコンクリートの
建造物が、昔そのドアを毎日くぐっていた時には感じなかった威圧感で
久弥に迫ってきた。
曇り一つ無く綺麗に磨き上げられたガラスのドアを目の前にしばらくの間
逡巡していた久弥だが、やがて意を決したように顔を上げ、自動ドアの
センサーが認識する領域に足を踏み入れようとした。
「おーい、ちょっと待てーっ」
背中に大きな声が掛けられる。人違いだろう、そう思った。今の久弥に
声を掛けようとする人間はここにはいない。
黙殺し、自動ドアを開こうと足を進める久弥の背に、再び声が掛けられる。
「だからちょっと待てーっ。短気を起こすな、久弥っ」
反射的に振り向いた。
「吉沢さん?」
白い息を吐きながら、吉沢務は久弥の元へ走り寄る。わずかに乱れた息を
整えて、久弥に言った。肩に茶色の鞄を掛け、よれよれのコートに身を包んだ
風貌は何とも冴えないものだったが、鋭い眼光はかって久弥の知る吉沢のまま
だった。
「短絡しやがって。麻枝から電話があったんだぞ。『止めてくれ』ってな」
「『止めてくれ』ですって?」
腹立たしげに吐き捨てる。
「あぁ、麻枝はkeyに戻る気は無いんだよ。今はまだ、な」
吉沢の口調は穏やかで、聞き分けの無い子供を諭す父親のようである。
そんな吉沢の言葉も、久弥の態度を和らげはしない。きつい口調で言い返した。
「いい加減なことを言わないでください。麻枝のことがどうしてあなたに分る
んだ」
「お前は分るというのか? 麻枝が何故keyを離れたのか、そして今何をやろう
としているのか」
再びドアへと向き直る。言葉を背中で拒絶し、前へ進もうとした。
吉沢はなおも続ける。
「keyに怒鳴り込むのはお前の勝手だ。樋上君の横っ面引っぱたいて、麻枝の
所へ無理やり引きずり出すのもお前の自由だ。だが、それは俺の話を聞いて
からではいけないか? 麻枝は俺に色々と話してくれた。お前の知らないこと
もな」
最後の言葉に久弥は屈服した。振り返り、吉沢の目を見据える。
吉沢は突き刺すような久弥の視線にいささかも動じることなく、言う。
「話をするにしても、ここはまずいな。昔お世話になった会社に近況報告
に来ました、で通用する相手でもない。警察呼ばれる前に、どこかへ逃げよう」
冗談めかして言うと、久弥の腕を掴んで歩き出した。久弥は唐突な吉沢の
行動に戸惑い、否も応も無く引きずられ、ビジュアルアーツのビルから
遠ざかって行った。
冷たい風の吹きつける河原に吉沢と久弥以外の人の姿はなく、雲に遮られた
陽光は水面を照らさない。暗く淀んだ川の流れに向かって、久弥は足元の石ころ
を蹴り飛ばした。空を舞った石ころは水面に触れると小さな水しぶきをあげて、
そのまま川底へ沈む。後にはコンパスで引いたような綺麗な同心円の波紋だけ
が残った。
「仕事が嫌になるとよくここで日向ぼっこをしたもんだが、この天気ではそれ
もできないな」
吉沢はコートのポケットに手を突っ込み、体を震わせている。
「それで、吉沢さんの伝えたい話って何ですか。昔話でもしたいんですか、
こんな所で」
久弥の言葉はどこまでも素っ気無い。
「それでもいいんだが、今はそれどころじゃなさそうだな。本題に入ろうか」
吉沢は顔色を改め、真剣な表情に変わる。
「お前は麻枝にkeyに戻ってもらいたいんだろうが、今はまだ無理だ。麻枝本人
がそれを望んではいない。麻枝は今、迷っている。自分が本当にこれからも
やっていけるのかどうか。keyにとって自分の存在が必要なのかどうか」
「馬鹿なことを言わないで下さい。麻枝がいないkeyなんて、keyじゃない」
遠くに見える鉄橋の上を電車が走る。振動音が響き、二人の耳にまで届いた。
「お前の抜けたkeyは、もうkeyじゃないんじゃないのか? そんな形だけの
物に、麻枝を縛り付けるつもりか?」
「僕と麻枝とは違う。僕がkeyに戻っても麻枝の代わりにはならない」
「麻枝は人に愛され信頼される。それはお前にはできないことだからか?」
普段の久弥なら、こんなことを最後まで言わせはしない。だが、目の前の
男はかっての上司であり、気性の勝る久弥が従う気になれた数少ない人間の
一人だった。
「……そうです。麻枝は皆の信頼に応える義務がある」
「それが麻枝を苦しめ、才能を縛り付ける足枷でもか?」
反論しようとした。だが吉沢の言葉は遠回しに久弥を批判しているように
思えた。久弥も解放されたかったからだ。期待と信頼に応えなければならない
という、義務の名を借りた足枷から。
「麻枝はkeyにまだ戻る気はない。もう二度と戻らないかもしれない。だが、
ゲーム作りを止めた訳ではない。まだ終わる気はないんだよ、あいつは」
吉沢は力強く言い切る。久弥は沈黙し、吉沢の言葉の続きを待った。
「勿論、他の会社に行くつもりはないらしい。そんなことをすれはkeyを
離れたことがすぐに暴露されてしまうからな。『CLANNAD』の発売前に
そんなことになれば、それこそkeyの破滅だ」
「それじゃぁ、もしかして……」
「お前の考えている通りだ。商業ベースを離れればkeyに迷惑を掛ける
こともなく、過去の仕事に縛られることもない。『売れなくても構わない。
一度だけでいい、作りたいままにゲームを作りたい』と言っていたよ」
麻枝は商業ベースの制限下でずっと活動を続けてきた。どうすればより
多くの売上を出せるか、今の受け手が求めるものは何か、を丁寧に分析し、
需要に応える。利益の追求を第一目的に置きながら、自分の作風は曲げない
姿勢を麻枝は常に貫いてきた。だが商業ベースである以上、麻枝も完全に
意思を通せるわけではない。ブランドイメージが強く定着したkeyでは
尚更である。
一切の束縛から解放された麻枝がどんな作品を作るのか、久弥にも全く
見当がつかなかった。
「麻枝はいつかはロールプレイングゲームを作りたいと考えていたらしい。
『AIR』の次こそ実現させようと上に働きかけたが、却下されたそうだ」
麻枝がRPGを愛することは久弥も知っていた。久弥がまだkeyにいた頃、
『Kanon』製作が佳境に入った開発室で、麻枝はこう語ったことがある。
「俺がガキの頃はまだ国産PCゲームが今みたいなエロゲーばかりじゃなかった。
雑誌の見開きに広告を載せるような大手の会社も、ほんの数人で作ったような
小さなチームも、皆自分達の作りたいゲームを自由に作っていたんだ。あの時代
には技術も金もなかったが、熱気があった。俺がゲーム業界に入ったのも、
その熱気を今度は自分が生み出したかったからなんだ。少ない小遣いをせっせと
貯めて、やっと手に入れたゲームを親父のパソコンで初めて起動させた時の
高揚を、眠い目をこすりながら徹夜した果てにエンディング画面に辿り着いた
時の感動を、今度は俺が送りたいんだ。それが、あの時俺にゲームの喜びを
教えてくれた人達への最高の恩返しだと思うんだ」
徹夜の連続でハイになっていたのだろう。その時開発室に残っていたのが
シナリオ担当の二人だけだったからかもしれない。普段なら絶対にしない
ような話を麻枝は熱っぽく語った。創作活動ができれば、それがゲーム製作
だろうが何だろうが意に介さない久弥は、麻枝のゲームに対する情熱に完全に
共感することはなかったが、それでも麻枝がゲーム製作に強い信念を抱いている
ことは理解できた。
吉沢は肩に掛けた茶色の鞄を開け、中から分厚い封筒を取り出す。
「keyでは無理だったが、麻枝はずっと企画を暖めていたんだ。これがその企画書だ」
そう言って、久弥に封筒を手渡す。封筒には細かく文字の書きこまれた
A4紙がぎっしりと詰まっていた。
『長編新機軸RPG:さゆりん☆サーガ(仮題)』
一枚目にはそう書かれていた。二枚目以降は細かな文字でびっしりと企画
の全貌が説明されていた。プレゼンテーションに使用するにしては内容が微に入り
細をうがちすぎている。システム・世界観は勿論、ストーリーのプロットや様々な
シーンの描写まで既に書きこまれていた。この企画書を読んでいるだけで、まるで
自分が今実際にゲームをプレイしているような錯覚さえ覚える、そんな企画書だった。
「ですが、これは……」
充実した企画書の内容に、確かに久弥も魅了された。だが、keyの作品として
これが求められるとは思えなかった。『Kanon』、『AIR』を経てシナリオを最大の
売りとする作風を定着させたkeyは、あくまでシナリオを表現するためにゲームを
製作する。プレイヤーはゲームをプレイするというより、むしろ絵と音のついた
小説を読む感覚でkeyの作品に接し、ストーリーを楽しんだ。
RPGには高度なゲームシステムと緻密なプレイアビリティが要求される。
それはプレイヤーを楽しませるために必要不可欠な要素だが、同時にプレイヤー
にシステムを理解し、作者の用意する課題を解決する能力をも要求する。
麻枝の『さゆりん☆サーガ』は斬新で奥の深いシステムを用意している。
完成すれば素晴らしいゲームになるかもしれない。だが、ストーリーをただ
読ませるにはプレイヤーに掛ける負担が大きすぎると久弥は思った。
「あぁ、keyでは無理だ。いや、今のエロゲー業界のどこに行ってもこんな
企画は通らないだろう。もう時代遅れなんだよ」
少しだけ寂しそうに吉沢は言う。吉沢は既に気づいていたのだ。麻枝の
情熱がそのままの形で世に受け入れられることはないことを。
「だが、俺は麻枝の『さゆりん☆サーガ』を見たい。麻枝に本当の意味で
自由にゲームを作らせてみたい。そのためにできることがあれば、俺は
何だってやってやるさ」
「吉沢さん……」
「俺と麻枝は同人ベースで製作に入るつもりだ。さっき言ったように麻枝は
他の会社に行くつもりはないからな。だが、人間が足りない。プログラムは
俺のコネでどうにかなるだろう。音楽は麻枝と俺がやればいい。だがシナリオ
と原画がいない。麻枝独りでシナリオを書き切るには、力が足りない」
吉沢の言葉に吸い込まれたように、久弥は沈黙を保っている。右手に握り締めた
A4紙の束が手の平の汗で湿り気を帯びた。
「今日一日だけでいい。その企画書を隅から隅まで読んでくれ。それから
決めてくれ。お前は麻枝にどうしてほしいのか、お前自身が何をしたいのかを」
その言葉を残して、吉沢は久弥の元を立ち去った。静寂に包まれた河川敷に
久弥は独り立ち尽くす。吹きっ放しの風が久弥の体に容赦無く叩きつけられたが、
まるで寒さを感じなかった。雑草の一本にいたるまで枯れ果てた河原に立つ久弥
の頭上の遥かな高みを、群れからはぐれた渡り鳥がただ一羽舞っている。
雲に覆われ一筋の陽光も射さない冬空の中、鳥は風に逆らいながら翼をはばたかせ、
北の大地を目指し飛び去った。
「で、久弥は思いなおしてくれたんですね?」
翌日、吉沢の家で麻枝准は心配そうに吉沢に質問していた。
「うーん、俺は寒いのが嫌だったんで、さっさと帰っちまったからな。
その後はどうなったかは知らない」
「んな、無責任な……」
「『さゆりん☆サーガ』の企画書は渡しておいたから、昨日一日はそれを
読むので潰れたと思うんだが」
「吉沢さんは久弥を引き入れるつもりなんでしょうけど、無理だと思いますよ。
今更俺の企画でシナリオ書こうなんて思っちゃいないはずだ。やっと軌道に
乗り始めた自分の仕事を捨ててまで俺と組むほど、あいつは馬鹿じゃない」
「馬鹿だよ、久弥は。それもお前並みにとんでもない」
吉沢には強い確信があった。久弥は麻枝の企画に心を惹かれ、自らもその
企画に参加することを切望するはずだと。
麻枝のkey復帰を望む友人としての思いも、安定した収入と将来を計算する
冷静な判断も、麻枝と共に作品を作り上げることへの欲望に蹴散らされるはずだ。
久弥もまた、創作の悪魔に魂を掴まれた男の一人だからだ。
そして、吉沢も。
「あいつは来るよ。俺達が何と言ってもな」
吉沢はテーブルの上に置かれた『さゆりん☆サーガ』の企画書を手に取る。
その瞬間、部屋の中にインターホンの呼び音が鳴り響いた。
「もう来たか。さすがに決断した時の動きは速いな」
ドアの向こうに立つ人間が誰なのかは判り切っている、と言わんばかりの
口調で吉沢は言う。
「麻枝、お前が出ろ。俺達三人の最後の挑戦は、お前の宣言で始められなければ
ならない」
麻枝はその言葉に従い立ち上がり、玄関口へ向かう。ドアのノブに手をかけ、
一瞬躊躇した。だが、すぐに意を決したようにあごを引き、ノブを回す。
それが始まりだった。
過去に消え去った男の最後の宴の。
未来を手放した男達の最後の夢の。
奇跡か、破滅か。
終着点は誰にもまだ見えてはいない。