そこにはきっと、素晴らしい景観があるに違いなかった。
なぜって今はもうすっかり闇に閉ざされているけれど、昼間は皆が集まって
やいのやいの騒いでいたのを憶えているから。
その時はあんなに良い天気だったというのに、今は一面の雲で月明かりさえ
無い。加えて周囲が煌々としているから、かえってそこの暗さが際だって
いるような気がする。
後ろ手に扉を閉めて、彼女はゆっくりと歩き出す。
実のところ彼女は少々近視気味である。さすがに親友の藍原瑞穂ほどではないが、
手探りで椅子の位置を探り出すために、昼間の記憶さえ引っ張り出してくるほどには
近眼なのだ。
……そういえば、あの人がコンタクトを薦めていたっけ。
そんなことを考えながらようやく椅子を探り当てて、太田香奈子はゆっくりと
腰を下ろした。
屋上に吹く風はほとんど無く、奇妙なほどに静かな夜である。
本来なら立ち入り禁止のこの時間に、起き出してここにいるのは彼女だけ。
ひょっとしたらと思ってここへやってきたが、実のところは何でもない。
理由は眠れなかった、の一言。
これまでのこと、それからこれからのこと。色々考えていたら目が冴えてしまったのだ。
それに、あの人のことも考えていたし……。
それで少し上気して、香奈子は慌てて頬をぺちぺち時間差で叩いた。
本当は、そんなことを考えている場合ではないのだ。
そう。彼女には見据えなくてはならないことがあって、それはあの人もそうで。
けれど、それは彼女にはあまりにも大きすぎて。場違いじゃないかと思えるくらいで。
それでも知ってしまったからには逃げ出すことも出来ず、それはあの人もそうだからで。
などと。
彼女はぼんやりと、堂々巡りの思考を続けていた。
ふいに扉が低く唸ったので、彼女は驚いて思考を中断した。何故ってこんな時間に
ここへやってくる物好きが他にもいるとは思わなかったから。
「おや」
えらくのんびりとした声がした。優しげで、けれど張りのある声。
驚くと同時に、納得もする。他にそういう人が思い浮かばなかったから。いいや、
本当はもう一人いることはいるが、あえて考えなかったから。
ああいうちょっと細めでも夜目は利くものらしい。というかそんな失礼なことを
考えているのは、そうでもしないと沸き上がってしまいそうな動悸を押さえ込むためで。
ええと。
「太田さんか」
確認の声は少し安堵の響きがあった。ちょっとだけ嬉しい。
「はい」
「驚いたな。こんな時間に」
それはお互い様なわけで。
「隣、いいかな?」
「どうぞ」
少し横へずれると、椅子の感触がひんやりとしていた。さすがにこんな
夏場でも、夜は冷えるものらしい。特にここは海が近いから。
隣に座る気配。
「そんな格好のままじゃ、冷えるんじゃないかな?」
驚いたような声がする。
ああそうか。そういえば、湯上がりのまままっすぐここへ来てそのままだった。
ひょっとしたら湯冷めするかもしれないな、などと考えていたら、ふわっと上着が
掛けられた。よく見ると丹前だ。しかもまだ少し暖かい。
「ここは潮風があるからね」
「あ、ありがとうございます」
その優しさが帰って心苦しいのは、やはりあのことが引っかかっているからだろう。
自分に優しくしてくれるそれは、代償行為というものではないのかと。
遠く、水平線の彼方に煌々と輝くのは、確か漁り火といったか……。
「──君も、眠れなかったのかい?」
「…はい」
「そうだろうね」
話を振ってきたのは彼の方だった。
「僕もだよ。色々と考えたかったからね。で、考えてたら眠れなくなった」
「それで、涼みにこられたんですか?」
そうかしれない、という生真面目な返事をあっさり聞き流す。
何だかそうだけではないように思われた。そうだとは、思いたくなかった。
決戦前夜で頭がもやもやしているせいかもしれなかったが、それだけのせいに
したくもなかった。
「ひょっとしたら彼女がいるかもしれないと思って?」
だから、爆弾を投げつける。
「彼女?」
珍しく目が少し開いて怪訝な顔つきになって、それが苦笑で崩れた。
「ああ。瑠璃子のことか。妙な言い回しだから、わからなかったよ」
そう言って彼は、月島拓也は笑った。
「確かに瑠璃子は屋上が好きだったね。でも、そのことは考えなかったよ」
「どうしてですか?」
「そりゃあ、長瀬君がいるからさ」
夜目にも、そして近視気味の目にも彼の顔は笑っているように見えた。
でも、それは本当に笑っているのだろうか。
「君は、世界を壊したいと思ったことはあるかい?」
「は?」
「世界を壊したいと思ったことはないかい?」
「せかい、ですか」
「そう」
いきなりの話題の飛躍だ。
「この世界そのものを、あるいはこの世界に生きとし生けるすべてのものを。
壊し、潰し、消し去り、ついには何も存在しない無に変える、そんな妄想さ」
「妄想、ですか」
「そう。妄想」
彼はそこでひとつ頷いた。
「かつて僕はそのような世界を望んだ。そんな世界を夢想し、そのようにして
しまえる世界を望んだ」
「……」
「来栖川さん……。ああ、お姉さんの方だね。彼女も同じことを考えたことが
あるんじゃないかな。僕はそう思う。彼女が今回の騒動で鍵になっているのは
間違いない。それはどうしてかな?
…そう。誤って異世界の魔王を召還してしまったためだ。それは過失ということに
なっているけれども、本当のところはどうなんだろう。
ひょっとしたら、彼女も持っていたんじゃないだろうか。かつての僕と同じ感情を」
音がした。重々しい、腐食した金属が少しづつ摩滅してゆくような音だ。
香奈子は思わず震えた。なぜならば、実際に屋上のドアが開いたわけではないの
だから。それなのに、何故とびらの方を向いてしまったのだろう。
「それは、どのような感情ですか」
するりと出た問いに、彼は微笑んだ。優しい微笑みだった。
しかし続く言葉はとても優しいものとは言いがたいものだった。
「つまり、破壊願望だよ。この世界を叩き壊してしまいたい、という強い想いだね。
彼女はきっと望んでいたんだ。心の奥底深くでね。以前の僕のように」
にこにことした風情さえありながら、並べられる言葉は毒々しい。
「僕はそう思ってた。だってそうじゃないか。この世界は不条理に充ち満ちている。
不安定で、そのくせ傲慢で、僕なんかの力じゃどうしようもない。それなのに、
この世界は僕を──僕と瑠璃子を壊そうとして圧力を掛けてくる。襲いかかって
くる。ささやかな幸せさえつなぎ止めていられなくなるような、そんな理不尽さで
もってだ。そんな世界に蹂躙される必要があるかい? いや、それ以前にそんな世界が
必要あるかな?
だから僕はそんな世界はいらない。壊れてしまえばいいんだ。何もかも、叩き壊せば
いいんだ」
また、きしんだ音がした。それは、どこからなのだろう?
「でも」
彼女は顔を上げた。夜景が少しぼやけている。ぼやけだしている。
「どうして今頃そんなことを話されるんですか? 月島先輩は、それでも世界を望んだんじゃ
ないんですか!?」
「そうだよ」
「!?」
静かに、膝の上でほおづえを突いて、彼は続ける。
「でもね、今、世界は壊れかけている。少なくとも、僕たちはこの隆山でこの世ならざる
ものたちと出会い、戦っている。……そして、世界の崩壊は目の前に迫っている」
平静な口調だ。明日にでも異次元の大魔王が覚醒しようかというのに、その声は
どこまでも冷えていた。まるで、明日の朝食の献立でも話すかのようだ。
「一度は望んだ世界の終末が目の前にあるんだ。そしてそれは不可能な事じゃない」
きしみが、更に大きくなったような気がした。
いけない。このままじゃ、いけない。
「でも、あなたには月島さんが、瑠璃子さんが……いるじゃないですか」
小憎たらしくもまだ理性は平静を保っていられたようで、「いた」とは言わなかった。
その制動が今はかなり恨めしい。
「あなたの望む世界も、あなたの望む世界の破滅も、全てはあなたと瑠璃子さんのためじゃ
なかったんですか!?」
ばかだ。バカだ。なぜ、こんなことを言っているんだろう。なぜ、こんな意味の
無いことを並べているんだろう。そもそも意味とは何なんだろう。
「さっきも言ったかもしれないけど」
困ったように、彼は差し挟む。
「長瀬君がいたからね。そしてそれは今も変わらないよ。長瀬君がいる。瑠璃子は、
それで大丈夫さ」
「じゃあ、じゃあ……どうしてそんな」
胸が熱い。流れ回る血液は、どうやら身体の方が優先されているらしくて、脳には
ちっとも供給されていないようだ。思考が追いつかない。
「だから、それを望んだのは過去の僕だ。あるいは別の僕だったのかもしれない。
でも、僕は僕だ。月島拓也という、一介の小市民だよ。まあ、明日はちょっと荷の重い
大仕事が控えているけどね」
そう言って笑った。でもちょっと笑えなかった。この人は、前から冗談は上手くなかった。
「ひょっと、して……」
途切れ途切れの問いに、彼はもう一度笑った。
「死ぬことは考えてないよ。耕一さんは強い。それに、長瀬君や藤田君もいる。まあ、
僕は長瀬君と後ろで支援するのが関の山だろうけどね」
そこで肩を引っ張り寄せられた。心臓が跳ね上がりそうになった。なぜって、そんな
行動は予想だにしなかったから。
「これを受け取って欲しい」
ぽとりと、掌の中に何かが落ちた。小さくて、軽いものだ。何か丸い。
目に近づけて子細に眺める。輪っかのようだ。プラスチックで出来た、小さな輪っか。
表面は金属か何かだったらしいが、ところどころ剥げてプラスチックの地が出ている。
「――これは?」
「今日、公園で拾ったんだ」
ちょっとだけ、すまなさそうな声。
「どこかの子供の忘れ物だろうね。思わず失敬してきてしまったけど……」
そう言われればずいぶんと野ざらしにされていたように思える。別に、窃盗ということには
ならないのではないだろうか。
「でも、どうしてこれを?」
「持っていて欲しいからさ」
「私に……」
「これは絆だよ。この世界と、僕を繋ぎ止めておく環なんだ。そうでもしないと、僕は
帰って来れなくなるかもしれない。だから、その環を君に持っていてほしい」
「私で……いいんですか?」
彼は頷いた。
「昔、僕は世界を拒んだ。憎んだ。壊したいと願った。それはこの世界があまりにも苦痛に
満ちていたからだ」
「でも」
「僕は今この世界が好きだ。だから、この世界を守るためにガディムと戦う。それは」
鼻と鼻とが触れ合うような距離で。目を大きく見開いて。
「きみがいるからさ」
夜気が弾けた。間近にあるはずの彼の顔も一瞬で崩れた。どこかで、あっさりと扉の
閉じる音がした。でもそんなことはもうどうでも良かった。脊髄を駆け上がった感情が
頭蓋で弾けると、それは大量の涙になって溢れ出た。何も考えられなかった。
何もいらなかった。ただ、こうしてだけいたかった。人気のない屋上がありがたかった。
高級旅館、鶴来屋の屋上で。
そして、想い人の背中に手を回して、思いっきり泣いた。
「とまあ色々なことを考えたかったわけだけれども、考える手間が省けたよ」
照れ隠しなのか、彼はそう言った。
彼女はそれにただただ、頷くばかりだった。
一旦おしまい。
〜余録〜
後日、何もかもが終わってから、一部始終を覗き見ていたアストラルバスターズの面々に
さんざんからかわれることとなるけれども、それはまたそれで幸せな太田さんなのでした。
「あーあ、私も指輪くれるかっこいいひと、欲しいなあ……」
「瑞穂っ!!」
「きゃー」
おしまえ