葉鍵板最萌トーナメント!!1回戦 Round47!!
散らかった部屋には似合わない、一人の少女。
今はベットに横たわっている。
時折漏れる、苦しげな声。
それは、熱にうなされているためだけだろうか?
土砂降りの雨の中、全身を凍えさせながら私が来るのを待っていた浩平。
仕事に出かける直前に掛かってきた電話。
あと少し遅かったら、浩平は一人で彼女を運んできたのだろうか?
「すみません、由起子さん」
意識のない彼女の体を支え、車にそっと乗せた時の浩平の言葉。
申し訳なさそうに謝る姿は、私が知っている浩平では無かった。
時折聞こえる声は言葉にならない。
胸を上下に揺らし、肩で息をしている。
手を握ると、それはまだ氷のように冷たい。
額の熱さと、手の冷たさ。その差はどこからくるのか。
手元の洗面器の水は、すっかり温くなっていた。
……こうして女の子を看病をするのは何年ぶりかしら……
それは浩平を引き取る前にあったきり。
私のたった一人の姪。今はもう居ないあの娘の事が思い出される。
あの娘はまだ幼かった。生きていれば、彼女と同じぐらいの歳になるはずだった。
姉さんと浩平とみさお。
4人で遊園地にも遊びに行った事がある。
それなのに浮かぶ姿は、病室で寝込んでいるあの娘の姿。
大人しそうな、目の前で静かに眠る彼女。
それは嫌でもあの娘の事を思い出させてくれる。
コンコン。
控えめなノックが、物思いにふける私を呼び戻した。
「……由起子さん、入ってもいいかな?」
「浩平? いいわよ」
音を立てないように静かに入ってくる浩平。
シャワーでも浴びたのだろう。
濡れた制服を脱いで、普段着に着替えていた。
その手には氷の入った洗面器が用意されている。
「……茜は、どう?」
「今は落ち着いてるみたいよ。時々うなされてるけど……」
「そう……」
浩平は枕元に洗面器を置くと、ベットの縁に腰を下ろした。
心配そうに茜さんの顔をみる。
「……こら、あんまり女の子の寝顔を見るもんじゃないわよ」
「あ、ごめん……」
そう言いつつも、彼女の顔から目をそらそうとはしない。
その表情には何も浮かんでいない。
「浩平。彼女の事が心配なのは判るけど、学校をサボるのは感心しないわ」
「……茜は、そんなんじゃないよ……、それに由起子さんだって、仕事が……」
「私なら、遅れるって電話入れたから大丈夫よ。もうしばらくは居るわ」
「……すみません……」
静かに答える浩平。
そこに秘められた感情は、虚ろだった。
「浩平。学校に行った方がいいわ。自分の彼女の事が気になるのは判るけど」
「……茜は、そんなんじゃないよ……」
繰り返し漏れる言葉。
照れる姿を想像していた私は、その時ようやく言葉の意味に気付いた。
……鈍感ね、私……
かすかに痛む胸を感じて。普段の悪戯好きの浩平の姿がそこには無くて。
私は目をそらすように、茜さんの顔を覗き込んだ。
手にしたタオルで首筋の汗を拭う。
茜さんの容態は落ち着いているように見える。
しばらく、部屋には茜さんの静かな寝息だけが聞こえていた。
「それじゃ浩平、ちょっと見ててくれる?」
そう言いつつ、立ち上がろうとした。
が、茜さんの手はしっかりと握りしめられている。
私は苦笑しつつ、そっとその指を剥がした。
腕を布団の中に戻す。
と、その時、私のしぐさを見つめる浩平に気がついた。
「どうしたの、浩平?」
「あ……なんでもない」
「何でもない、っていう顔じゃないわね」
「いや……由起子さんが誰かを看病してる姿を見たの、久しぶりだから……」
浩平の言葉は、茜さんを通して誰かを見つめているようだった。
それはきっと、この場に居ない少女を指している。
「……そうね。私が看病する時って浩平が熱出したときとかだからね」
浩平が言いたいは判っていた。それはさっきまで私も感じていた事だから。
しかし、みさおの事を浩平が口にするのは何年ぶりだろうか。
浩平がここに来てから避けていた話題の一つ。
姉さんとみさおの事は口にしない。
それがいつの間にか私たちの間に出来ていた、唯一の暗黙のルールだった。
「それじゃ、タオル替えてあげ……」
「ひぐっ!」
急に部屋に響く悲鳴。
「茜!」
腕を伸ばし、苦しそうに首を左右に振る。
何かを求めるように、大きく腕を振り回す。
「茜、茜!」
浩平がその手を掴み、落ち着かせようと体を押さえる。
「茜、大丈夫だから、茜!」
バタバタと暴れる腕をしっかりと押さえる。
茜さんは何かを口走っているようだが、言葉にはならない。
と、急に脱力して大人しくなった。
「……由起子さん、茜は大丈夫だよな?」
両手を握りしめ、こちらを向く。
その目に揺れる感情。
それは10年前のあの時に浩平が見せたもの。
みさおが、姉さんが浩平の前から居なくなったときに見せた顔。
そこにあるのは、まだ幼い少年の顔だった。
私は思わず、浩平の頭をかき抱いた。
胸の中で、浩平が体を強ばらせる。
「ゆ、由起子さん!?」
「落ち着きなさい、浩平。茜さんは……みさおとは違うわ」
びくん、と体を震わせる浩平。
私は構わず言葉を続けた。
「茜さんは熱にうなされてるだけよ。目を覚ませば、もう落ち着いているわ」
「あなたは、あの時と被らせて見ているだけよ」
「大丈夫だから……」
ゆっくりと頭を撫でる。
昔は、こんな風によく浩平を宥めたものだった。
あの頃の浩平は良く泣いていた。
みさおも、そして姉さんも居なくなって……
浩平の母親がわりを始めてからは、こうして宥めるのは日課になっていた。
あの頃から比べると体だけは大きくなったけど、その中にあるものは何も変わっていない。
「由起子さん、俺……」
「……判ってるわ。あなたがみさおの事を忘れてないのは、判ってる。でもね……」
「でも、ここに居るのはあの娘じゃないのよ。茜さんなの」
「茜さんに何があったのかは知らないわ。でも、目を覚ましたときにあなたがそんな事でどうするの?」
静かに言い聞かせる。
「……ごめん、由起子さん。俺、どうかしてたみたいだ」
浩平の体から力が抜けた。
そのまま私の胸に体を預ける。
その姿は、幼い浩平のままだった。
「浩平はまだまだ子供だったのね」
「由起子さん!」
「こうして胸の中に顔を埋めてると落ち着くんでしょう?」
「ちょ、ちょっと、急に何を言って……」
また、じたばたと暴れる。
まだ握りしめている茜さんの手が、つられてぶんぶんと揺れる。
「昔はよくこうしてあげたわね」
「ちょ、離して、由起子さん!」
「あら、そんなに暴れると茜さんが目を覚ますわよ」
「!?」
急に大人しくなる。
その姿がかわいらしく、私は両手の力を込める。
「……だから、こんな所茜に見られたら……」
「はいはい。離してあげるから、浩平も茜さんの手を離しなさい」
「!?」
今まで茜さんの手を握っていた事を忘れていたようだった。
真っ赤にした顔をあげると、慌てて手を離す。
「由起子さん、こんな時に冗談はやめてくださいよ」
すっかり元気になったようだった。
「あら、浩平の悪戯がうつったのかしら?」
「由起子さん!」
立ち上がると、ポンと浩平の頭に手を置いた。
「学校と茜さんの家には連絡しておくから。看病してあげてね」
「あ……はい」
「制服は乾燥機に入れておくから、乾いたら茜さんに渡してあげて」
「はい」
言い残し、ドアを開ける。
「それと……」
「何です?」
「私が居ない間、茜さんに悪戯したら駄目よ」
「由起子さん!」
慌てて向かってくる浩平の目の前で扉を閉める。
ドアの向こうでは、浩平が何かブツブツ言っているのが聞こえた。
……それにしても、もう10年になるのよね……
浩平が私の元に来てからの年月。
みさおが亡くなって、姉さんが失踪して……
それからの私の生活はすっかり変わってしまった。
浩平の母親がわりを務める毎日。
そしてあの二人の話題を避けて過ごした日々。
それは正しかったのだろうか?
あの頃は、それが正しい事だと思っていた。
しかし、浩平は未だに心に傷を残している。
私には、判らなかった。
……とりあえず、落ち着いたら一度浩平と話してみた方が良いのかもしれないわね……
浩平が自由になるには、それが必要なのかもしれない。
みさおの事。姉さんの事。
10年分の想いが残っているに違いない。
……それにしても、あの浩平が女の子を好きになるなんて……
浩平が見せた、さまざまな感情。
失恋でもしたのか。それにしては二人の関係は良く判らない。
ただその胸の奥にある感情は、たしかに恋をしている少年のものだった。
そしてそれは、私が知らない浩平の姿だった。
……まだまだ、私も母親失格ね……
取り留めのない事を考えながら、私は茜さんの制服を手に階段を下りた。
雨は、まだまだ止む気配がなかった。