葉鍵板最萌トーナメント!!1回戦 Round47!!
「……由起子さんってひとりぐらしなの?」
幼い頃の俺は無謀にも……いや、やんちゃにもそんなことを訊いていた。
もう昔のことだった。本当に、呆れるくらい昔の話だ。
「……浩平!?」
動揺のあまり姿勢を倒した由紀子さん。
テーブルに体がぶつかって、パリーンと硝子のコップが割れた。
数瞬の沈黙の後――
「……そう、そうよね。浩平の従姉弟になるのよね」
由紀子さんは硝子の屑を片付けながら、俺にそのことを話し出してくれた。
それは、もう過去の話。
私が唯一、愛した人との淡い記憶の欠片。
「……亭主関白な人だったわ。家のことは妻がやって当然だと思う人だった。
それでも、私は幸せだった。子供もいたしね……」
「……子供?」
「ええ、そう……麻衣っていうの」
私はここで一息付いて、
「若かったわね、あの頃は……」
ふと、苦笑した。
「とにかく無茶苦茶な人だったわ、准は……。え? うん、私の旧姓は『麻枝』よ。
人には胸を張って言えない、仕事かもね。稼ぎは良かったけど。でも休みなんて在りはしなかった。
私は、そのことにいつも憂いていたわ。准の体のことも心配だったし、何より麻衣のためにね」
冬の風。どうして浩平にこんなことを話してるのか不思議になる。
とりあえず誰かに愚痴っておきたかったのかも知れない。
「あの人は生粋のクリエイターだったわ。ゲームのシナリオライターと言えば少しは聞こえが良くなるかしら?
でも、そのせいで麻衣が学校で苛められて、一時期、准と話し合ったの。もう仕事はやめられないかって。
もちろん、お父さんの禁煙と同じ程度よ。長くは続かなかったわ。
あの時、どっぺる☆みきぽんさんさえいなかったらね……」
当時のことを思い出して、苦笑する。
私にとっては、本当に過去のことになっていたからだ。
「授業参観だってそうよ。麻衣のことをどれだけ想ってるのか……ええ、子供じみた考えかも知れないわ。
試したのよ、彼を。私は用事があるから行けないって。で、准はどうするのかしらって思ったわ」
その時のことは今も胸が苦しい。
准は仕事の納期を一週間早めて麻衣の授業参観に来てくれた。
「でも間に合わなかった。准が来たのは夕暮れ時……どうして私が知ってるのかって?
そのことは訊いては駄目よ。女はいくつもの秘密を持っているものなのよ。
うん、話を戻すとね……遅れてきたけど、准は精一杯やってくれた。私は嬉しかった。
この人とならやっていけると確信したわ」
しかし、あそこまでやったなら納期を一日、遅らせても良かったんじゃないかという想いもあったけど。
「いきなり『旅に出る』とか言い出すし。会社でピザを食べ過ぎたとは言って、夕食に手を付けないこともあった。
幼児向けのアニメのビデオが部屋に隠してあった時は、さすがに引いたけどね」
あの時の言い訳は、麻衣のプレゼント。『ハイパードールリカちゃん』。笑ってしまう。
嘘が下手なのよね、基本的に。
由起子さんは辛そうに語っていた。見れば目尻に涙が掛かっている。
俺は幼心に訊いてはいけないことがあるんだ、と初めて知った。
「結論から言ってしまうとね、別れたわ。
そうね、理由は一杯あるけど、麻衣が病気に掛かったのが尤も足る理由よ。
麻衣には言えないけどね、こんなこと」
「……病気?」
ちくちくと胸が痛かった。
『永遠はあるよ……』
『ここにあるよ……』
どこからか声が聞こえてきた。
頭がボーっとする。
でも由紀子さんの話を訊こうとする意思が今は勝っていた。
「病名を聞いた時は、我耳を疑ったわ。『エロゲーパパイヤ〜ン病』だなんて。
その名の通りよ、エロゲーを創る父を持つと拒否反応が出るんですって」
「……あるの、そんな病気?」
言いながら、俺は思う。
由紀子さんは隠そうとしていた夫の職業を言ってしまったことに気づいていないのかも知れない。
「学名よ。実際には高度のストレスによる心労らしいわ。信じられる?
麻衣は当時、小学生低学年なのよ!」
ヒステリックに由紀子さんが怒鳴った。
こんな由紀子さんを見るのは初めてだったから、俺は何も言えなくなっていた。
「それでも、彼は仕事を辞めなかった。
……分かっているわ。准にとっても仕事は生き甲斐だもの。
でも麻衣のため。麻衣のためなのよ。そんなの決まってるじゃない。
准は仕事を辞めるべきだったのよ」
……本当は知ってる。
麻衣も仕事をする准のことが好きだった。
だから彼は書き続けた。私には耐えられなかった。
たった、それだけのこと……。
「麻衣は、奇跡的に助かった。でも、お互いのためにはもうこれ以上、一緒に居られなかった。
もちろん、私は麻衣のことを引き取ろうとした。けどね、世の中は生きてるだけで、お金がかかるの。
麻衣に不憫な生活はさせられなかったわ。麻衣の治療に多額の費用も掛かったしね」
私は麻衣と別れ離れになった。大切な人とも別れた。
ひとりだ。私はひとりきりだった。
「……由紀子さん」
「いえ、ごめんなさい。湿っぽい話だったわよね」
浩平は心配そうに私を見ていた。
その視線の意味を今の私には知ることが出来なかった。
一言、こう言っていたら、
『勘違いしないでね、浩平を引き取ったのは麻衣の代わりでも、罪滅ぼしでもないから』
これからの状況は、一変していたのかも知れない。
でも、私も我武者羅だった。ひとりで生きるには強くなくてはいけなかったから。
いや言い訳だろう。そんなの。
結局のところ、私も仕事を愛してしまったのだ。
つまり私は心底、彼の妻だった。
こんな私では麻衣に合わせる顔も無い……。
「麻衣のこと? 心配要らないわ。今は親戚の川澄さんのところに預かって……」
そこで由紀子さんは言葉を止めた。
ゆっくりと続ける。
「いえ、養女にしてもらった。経済的には、何の心配も要らないのよ。
それに、麻衣の意識は、あの病気のせいで混濁しててね、きっと私のことは覚えていないわ」
「……忘れたの?」
忘却。これも俺の心をくすぐる単語だった。
「そうね……忘れられるのは、辛いし、悲しいことだわ。
でも……忘れることは、救いにもなるのよ」
「……救い?」
「そう。あんな辛い過去のことを、麻衣は覚えている必要は無いから」
「そんなものなの……?」
由紀子さんは何も言わないで複雑そうに笑って見せた。
俺は悟る。辛くないわけない。悲しくないわけがない。
一緒に生きたいに決まっている。
「……私の話は、これでお終い。どう? 詰まらない話だったでしょう?
でも、覚えていてね、浩平。麻衣のことを。機会があったら、麻衣と友達になってあげて」
「……うん」
「そう、良かったわ。今。麻衣は雪の街に居るの。きっとやりたい放題はしゃぎ回ってるはずよ。
あの子、珍しいものには、興味津々で近寄っていくから」
「麻衣ちゃんか……」
「そうね、浩平のひとつ年上になるから、お姉ちゃんになるわね」
――それと、今では川澄舞っていうの。
これは、それだけのお話。俺に従姉弟がいるかもしれないっていうこと。
それと、ちょっぴり悲しい由紀子さんの物語だった……。