>>734から
「いつまで馬鹿なこと言ってるのよ」
肩の手を払いのけて、後ろを振り向こうとした。
しかし、肩を押さえる力は思ったより強い。
「ちょっと兄さん? いい加減に…」
「理奈。息抜きに何ヶ月か日本を離れないか?」
とつぜん何を言い出すのだろう。
「スタジオなんかどこにでも造れるさ」
そんな問題ではない。予定は来年以降までびっしり埋まっている。
そんな余裕、スケジュール帳を分解して顕微鏡で覗いたって見つかるわけがない。
「スケジュールはどうするのよ?」
「キャンセルすればいいんじゃないか」
「由綺はどうするの? あの娘はこれから大事な時期じゃない」
「曲は書く。それに、由綺ちゃんにはあの青年が居るだろ」
「答えになってない!」
いや、たぶん…、一番的確な答えだった。由綺には冬弥君が居る。
だから兄はこんなことを言っている。兄にこんなことを言わせているのは自分だ。
結局、この人には全部お見通しだった。
肩に置かれた兄の手を取って、両手でぎゅっと抱きしめる。
(なんだ、こんなに近くに居たんだ…)
兄は何も言わない。
不器用なこの人は、決して自分からそんなことはしない。だから抱きしめた。
「私も兄さんもがんばってる。それで、ここまで来たんだから。
だから…この場所が一番いいんだと思う」
…少しだけ。あと数分。あと数分だけこうしていよう。
流れてしまったメイクをやり直して、いつもみたいに完璧な笑顔になれる。
もう大丈夫だ。
だから、あと数分だけ。
(お兄ちゃん…)