>>728から
「お兄…ちゃん」
ぽつり、と、ずっと昔にやめてしまった呼び方を口に出してみる。
こう呼んでいた頃は、二人の接点なんて考える必要もなかった。
一緒に居るのが当たり前で、音楽のことを考えるときも一緒。
変わってしまうなんて思ってもみなかった。
「この歳でそれはさすがに照れくさいな。理奈ちゃん」
ありえないはずの返答。
この瞬間の表情をフォーカスされていたら、
マスコミの”優雅で上品な緒方理奈”のイメージは崩壊していたかも知れない。
「ちょっ、何してるのよ! …い、いつからいたの!?」
椅子からずり落ちかけて、どうにか踏みとどまる。
ドアから半身を乗り出して、そこに居たのはもちろんあの男だった。
一見、人当たりのよさそうな風貌と、白に近い特徴的な頭髪。
緒方理奈にこんな声を上げさせられるのは、業界でもプライベートでも一人しかいない。
のほほんとしているくせに隙がない。傍若無人な天才肌の悪い見本だ。
「たった今、愛する妹の様子を見に、だな」
何が”理奈ちゃん”だ。人の気も知らないで。
彼は妹の内心なんかまるで無頓着な風に部屋に入ってくると、
背後に回って、理奈の体を椅子ごとくるりと回転させてしまった。
まるで、ミラーごしに顔を見られるのを嫌がったようにも見える。
どうしたんだろう。
「兄…さん?」
なんだか、肩に置かれた兄の手が熱を帯びている気がする。
「あれれ、お兄ちゃんて言ってくれないの?」
…気のせいだったようだ。