校門まで残り200メートル。
そこで立ち尽くす。
「はぁ」
ため息と共に空を仰ぐ。
その先に校門はあった。
誰が好んで、あんな場所に校門を据えたのか。
長い坂道が、悪夢のように延びていた。
「はぁ…」
別のため息。俺のよりかは小さく、短かかった。
隣を見てみる。
そこに同じように立ち尽くす女の子がいた。
同じ三年生。けど、見慣れない顔だった。
短い髪が、肩のすぐ上で風にそよいでいる。
「この学校は、好きですか」
「え…?」
いや、俺に訊いているのではなかった。
「この学校は、好きですか」
「え…?」
いや、俺に訊いているのではなかった。
「わたしはとってもとっても好きです。
でも、なにもかも…変わらずにはいられないです。
楽しいこととか、うれしいこととか、ぜんぶ。
…ぜんぶ、変わらずにはいられないです」
たどたどしく、ひとり言を続ける。
「それでも、この場所が好きでいられますか」
「わたしは…」
「見つければいいだけだろ」
「えっ…?」
驚いて、俺の顔を見る。
「次の楽しいこととか、うれしいことを見つければいいだけだろ。
あんたの楽しいことや、うれしいことはひとつだけなのか? 違うだろ」
そう。
何も知らなかった無垢な頃。
誰にでもある。
「ほら、いこうぜ」
俺たちは登り始める。
長い、長い坂道を。
そして。
俺たちは並んで校門をくぐった。
あれから一度も、言葉を交わすことはなかった。
考えてみれば当たり前だ。今日、初めて会ったばかりなのだから。
階段を上りきり、三階についたとき、女の子がやっと口を開いた。
「あ、あの…わたしの教室、こっちですから」
「え?あ、ああ…」
俺が覚えていないだけで、実は二人はクラスメイトだった――なんてこともなかった。
どうやら俺は、クラスメイトの顔もわからないほど薄情な奴ではないらしい。
俺は、心のどこかで期待していた自分に気付いて、驚いた。
結局そのまま、俺たちは別れた。
浮かない気分のまま、教室の引き戸を開ける。
それまで会話に忙しかったクラスメイトたちが、
俺の姿を認めるなり声のボリュームを落とす。
…相変わらず、嫌われてるな。
俺は黙って、机に鞄を下ろす。
「よう、朋也」
このクラスで俺に話しかけてくる奴は一人しかいない。
顔を向けると、そこにはやはり俺の悪友、春原陽平がいた。
「珍しいな、お前が定時に登校するとは」
「ほっとけ」
軽口を叩き合う。
「ところで…あの子は誰なんだ?」
にやにやと笑いながら、唐突に陽平が訊いてきた。
「…あの子?」
「とぼけんなよ、さっきお前と並んで登校してた女の子だよ。
あの子は誰なんだ?つーか、お前のなんなんだ?」
…見られてたのか。
「…別に。知らない奴だよ」
「隠さなくてもいいだろ。見ず知らずの二人が仲良く並んで歩くか?」
「たまたま足並みがそろったんだろ」
「ふん?」
まったく信じていない様子で、陽平が鼻を鳴らす。
「…ま、いいさ。お前にも言いたくないことがあるだろうしな」
「だから、そんなんじゃないって」
「はいはい。そういうことにしときましょ」
「だから…」
そこでチャイムが鳴ってしまったため、とうとう陽平の誤解をとくことはできなかった。
「…おい、朋也、朋也」
「…う」
誰かに肩をゆすられて、俺は夢の世界を辞した。
「もう昼休みだぜ」
「…そうか」
やはりと言うか、俺を起こしたのは陽平だった。
どうやら俺は午前中の授業の間ずっと寝ていたらしい。
「しかし、ホントよく寝てたな。やっぱ今日は遅刻しなかった分よけいに眠いのか?」
「…ああ、そうかもな」
寝起きの気だるさで、言い返すのも面倒だった。
「あ…購買」
肝心なことを思い出し、俺は立ち上がった。
弁当なんて結構なものは持ってきていない。この高校には食堂はない。
よって、昼飯は戦場…もとい購買で勝ち取らなくてはならない。
「…多分、もう無理だと思うぜ」
陽平が哀れむように俺を見る。
その言葉に俺は時計を見る。
…昼休みが始まってから、10分あまりが経過していた。
「…なんで、昼休みが始まってすぐ起こしてくれなかったんだよ」
「はあ?そんなことしてたら出遅れるだろ」
そう言う陽平の手には、人気商品のカツサンド×2がしっかりと握られていた。
「お前は俺よりもカツサンドの方が大切なのか」
「解りきったことをいちいち訊くな」
「理由は」
「カツサンドはおいしく食えるが、お前は煮ても焼いても食えん」
…なるほど。
「…はぁ」
陽平の言う通り、今から購買に行っても草の一本も生えていないだろう。
若者の食欲はすさまじいのだ。
「…なんなら、一つ売ってやろうか?」
さすがに気の毒になったのか、陽平がそんなことを言う。
だが、俺はすでに諦めていた。力無く手を振り、遠慮の意を示す。
一食抜いたくらいで死にはしない。別に構わない。
そう、どうでもいいのだ。
俺という人間は、一事が万事この調子だった。
どっちでもいい。どうだっていい。なるように、なるさ。
あらゆる物事に、そんな投げ遣りな姿勢で向かうようになったのは、いつからだったろうか。
今朝、見知らぬ女の子に告げた、自分の言葉を思い出す。
『見つければいいだけだろ』
…よく、あんな台詞が吐けたもんだ。
俺こそが何も見つけられないでいるというのに――
ぐきゅるるる。
とりとめのない思考は、俺自身の腹の音で断ち切られた。
やはり胃袋が空っぽのままではまずい。
かといって、今さら購買へ向かう気にもなれない。
しばらく悩んで、俺は冷水器のある中庭に向かった。
水で少しでも腹をふくらませようというアイデアだ。
…日本史の授業中に聞き流したはずの「水飲み百姓」という単語が頭をよぎった。
…あまり深く考えまい。
「ごくごくごくごく」
わざとらしく喉を鳴らして水を飲む。
…冷たい。
いや、『冷水器』なのだから、看板に偽りはないんだが。
このまま飲み続ければ、間違いなく腹を壊す。
「…うー」
逡巡していると、近くから唸り声が聞こえた。
野犬でもいるのか?
それともまさか、絶滅したはずのニホンオオカミ?
俺は大いに期待しながら、声の出どころを探した。
…そこに。
あの女の子が、ちょこんと座っていた。
…驚いた。
今朝、奇妙な出会いかたをした女の子。
その子がまた俺の前にいる。
しかも、ちょっと涙目で。
「うー…こんなに食べられないよぉ…」
女の子はうつむいたまま、何かつぶやいている。
下を向いているせいか、俺には気付いていないようだった。
…普通、これだけ近付いたら、気配とかでわかると思うんだが。
朝のことといい、どうもかなりカンの鈍い子らしかった。
俺は女の子の目線をたどってみる。
その膝の上に、大量のパンが積まれていた。
…10袋近くある。
「…意外によく食うんだな」
「ひゃっ!?」
身をすくませて、ぶんっ、と音がしそうな勢いで顔を上げる。
その余波を受けて、パンの山が地面に散乱する。
「あ、あ、あ…」
パニック状態におちいる女の子。
…もしかして、俺のせいか?
とりあえず、俺はいそいそとパンを拾った。
幸い、どれも開封されていなかったので、問題なく食えるだろう。
抱えたパンを元の場所――女の子の膝の上に戻す。
パン山脈が復活する頃、女の子もようやく平静を取り戻したようだった。
「あ、あの…」
「悪かった。おどかすつもりはなかったんだ」
「…あ。今朝の…」
「ああ、今朝の、だ」
「えっと…どうして?」
なんとも舌ったらずな会話だった。
「あんたこそ、どうしてこんな所にいるんだ?」
女の子が腰掛けているのは、日当たりのいいベンチなんかじゃなく、ただの段差。
冷水器のそばのこの場所は、建物の陰になって、光が射さない。
夏の暑いさかりには人も寄ってくるが、他の季節にはお世辞にもいい場所とは言えない。
少なくとも女の子が昼食をとるような場所ではない。
「えっと…」
女の子は言葉に詰まる。
…何、詮索してんだよ、俺は。
「いや、やっぱり言わなくていい。俺は消えるから、心おきなくパンを食ってくれ」
そう告げて、何か言いたげにしている女の子を残し、俺は踵を返した。
そのとき。
…ぐきゅるるる。
…げぷ。
まったく正反対の、しかし同じくらい間抜けな音が、同時に響いた。
それは俺の空腹の証と…女の子の、満腹の証…
「……」
「……」
恥ずかしいやら、気まずいやら。
えらく複雑な表情をしたまま、見つめ合う二人。
…次に口を開くのも、同時だった。
「もしかして、おなか空いてるんですか?」
「もしかして、もう腹いっぱいなのか?」
俺の手で左右に引っ張られ、パンの袋が破ける。
女の子がそれを見て、わぁ、と歓声をあげた。
「…どうかしたか?」
「すごいですね」
「何が?」
「わたし、その袋の開け方、できないんですよ」
「…マジか?」
こんなの、誰だってできるぞ。
そんなに非力なのか、それとも不器用なのか。
「いつも、中身が飛び出しちゃうんです」
どうやら後者のようだった。
「はあ…。あのな、こんなの誰でもできることだぞ」
「あ…でも、わたしのお母さんもできませんよ」
「…マジか?」
そんな調子で、ちゃんと家事をこなせるのだろうか。
「…しかし、食いきれないならこんなに沢山持ってくるなよ」
もぐもぐと口を動かしながら言う。
「お父さんが、育ちざかりなんだからしっかり食え、って…」
そ、育ちざかり?
…この子は18歳のはずだが。
俺は女の子を上から下まで見つめてみる。
「…な、なんですか?」
「…まあ確かに、成長の余地は十二分にあるな」
年齢の割に、少し…いや、かなり幼く見える。
顔だけ見れば、俺と同い年とは思えない。
俺の妹と言っても通用しそうだ。
「…うー」
どうやら気にしているらしく、女の子は眉をしかめる。
非難めいた視線で俺をにらむ。唸る。
敬語で固められた、落ち着いた口調からはかけ離れた、子供じみた感情表現。
…やっぱり、十二分にあるぞ。
俺は少し笑いそうになった。
「…しかし」
「はい?」
「なかなか美味いな、これ」
俺は別に、味にうるさい方ではない。むしろだいぶ悪食だと思う。
だから、食い物の味についてあれこれ言うことはあまりない。
しかし、この女の子から恵んでもらったパンは、どれもこれもいい味だった。
素直にそう思えた。
「そうですか!?」
急に目をキラキラと輝かせて、女の子が叫ぶ。
俺はその勢いにちょっと気圧されてしまう。
「あ、ああ。まあ俺はそんなにパンに詳しいわけじゃないけど、
このパンは美味いと思うぞ」
「そうですかっ!?そうですよねっ!!」
ますますテンションの上がる女の子。
…なんで、そんなに喜ぶんだ?
「ありがとうございますっ」
腰をまっすぐ折って、深々とおじぎをする。
「え、あ、いや」
むしろこの状況、お礼を言うべきなのは俺の方で。
と言うか、なんでこんなに感謝されてるんだ?
今度は俺がパニックにおちいる番だった。
にこにこ。
…はぐはぐ。
にこにこ。
……はぐはぐ。
にこにこ。
………はぐはぐ。
(く、食いづらい…)
あれから、ずっとこの調子だった。
俺が頼むと、女の子はすぐに頭を上げてくれた。それはいいのだが。
それからというもの、ずっと俺に満面の笑顔を向けてくるのだ。
パンはまだ半分くらい残っている。
美味いのは確かだし、量が多いのも多少無理をすればなんとかなる。
だが、完食するまでのあいだ、ずっと笑顔でこっちを見るのは…勘弁してほしい。
ふと目が合う。
(おいしいですか?)
…それだけで、女の子の言いたいことが解ってしまう。
たった一日でアイコンタクトが修得できるということを、俺は初めて知った。
さっきまで、この子はどこか怯えているような、気後れしているような…そんな印象があった。
でも、今は。屈託のない笑みを、俺に向けている。
俺が食っているパンは、この子にとって、そんなに大切なものなんだろうか?
…俺は、こんなに躊躇のない笑顔を見ているのは、苦手だ。
結局、大量のパンを食い尽くすのに昼休みいっぱいを費やした。
二桁近い数のパンを食うと、さすがに胸焼けがした。
それでもあのパンは美味かった。…と、思う。
「ありがとうございましたっ」
朝と同じ廊下での別れ際、女の子がまた丁重なおじぎをした。
その姿勢のまま、なかなか頭を上げようとしない。
「礼はいらない。俺も助かったしな。
…ほら、早く教室戻らないと、授業はじまるぞ」
「はいっ」
元気よく上体を起こして、くるっと身をひるがえす。
勢いに任せて、ぱたぱたと駆けてゆく。
「…あれ?」
…俺の見間違いだろうか?
彼女が、泣いているように見えたのは。
「見〜た〜ぜ〜」
教室に戻ると、陽平が悪人笑顔で待っていた。
…そういえば、中庭は教室の窓から丸見えなんだよな。
…陽平の誤解をとくのが、さらに困難になってしまった。
本日のノルマ終了を知らせる鐘が鳴る。
俺は腕を上げ、大きく伸びをする。
身体をほぐすためではなく、意識を目覚めさせるために。
…そう、俺はとうとう全ての授業を睡眠時間にあてたのだった。
「…ある意味すごいな、お前」
隣の席の陽平が呆れた顔をしていた。
授業が終わった以上、すぐに鞄をひっつかんで帰りたいところだが、
最上級生はそうもいかないらしい。
担任の教師がホームルームを始める。
そして、お得意の長広舌を振るいはじめる。
「…皆さんは、受験戦争という厳しい局面にあたり…」
頬杖をついたまま、右から左へ聞き流す。
毎日毎日同じことを言って飽きないのだろうか。
横を見れば、窓の外をぼけっと眺めている陽平がいた。
受験戦争、か。
俺にはたぶん関係ない。
成績は底の底だし、遅刻の常習犯である俺には推薦もありえない。
別に、就職したいわけでもないんだけどな。
…そう、俺お得意のあれだ。
どうだっていい。なるように、なるさ。
さんざん語って気が済んだのか、ようやく担任が話を締めくくる。
クラス委員の藤林が号令をかけ、冗長な儀式が終わる。
ルーティンワークにうんざりしているのは俺や陽平だけではないらしい。
担任の姿が見えなくなったとたん、あちこちからため息が聞こえた。
「朋也」
陽平が声をかけてくる。
「ああ、帰るか」
「おう」
いつものように、陽平と並んで教室を出る。
「今日もどっか寄るか?」
「あのゲーセンでいいんじゃないか」
「そうだな」
とても三年生の会話とは思えない。
俺と同じく、陽平も進学する気はないらしい。
陽平はもともとスポーツ推薦で入学してきたのだが、
喧嘩で停学処分を受け、そのままなしくずしに退部してしまったそうだ。
陽平があまり話したがらないので、詳しい事情は聞いていない。
とにかく、クラブに所属しなくなり、陽平の立場は宙ぶらりんになった。
そこからどこをどう間違ったのか、いつの間にか俺とつるむようになっていた。
スポーツ推薦の陽平は、有り体に言えば運動神経だけをかわれて合格したわけで、
勉強の方は、まあ…推して知るべしだった。
そんなわけで、俺たちは受験戦争から遠い場所にいる。
校門を抜けると、あの長い坂が視界を埋める。
朝は生徒の行く手をはばむ地獄坂だが、夕方はただの下り坂だった。
とは言え、けっこう急勾配なので、自然と足取りは慎重になる。
走って下校しようとするチャレンジャーも、たまにいないではないが…
知らず足を止めて、俺は坂の向こうを見る。
真西に向いた下り坂の先に、遮るもののない夕日がある。
一面の橙。
その中心に輝く、赤。
長い長いこの坂だからこそ、この夕映えを見ることができる。
――悪くない道だよな。
今だけは、そう思う。
「どうした?」
立ち止まったままの俺に、陽平が問う。
「…いや、なんでもない」
「ん?…ああ、なるほど」
陽平は坂の全体を見渡すと、ニヤリと笑った。
「…なんだよ」
「いやあ、岡崎クンもスミにおけないねえ」
完全にからかい口調になっている。
「…だから、何が」
陽平が顎で示す、その先に。
小さな背中が、揺れていた。
「…嘘だろ?」
…偶然にもほどがある。見間違いであって欲しかった。
だが、俺の視線の先、坂をゆっくりと下ってゆくのは、間違いなく…あの子だった。
(…今日はどうかしてる)
俺は思わず顔を覆いたくなった。
「ほれ、行かなくていいのか?」
人の気も知らず、陽平が肩を叩いてくる。
「行かない」
俺はきっぱりと否定した。
昼休みは一緒にいたが、あれは二人の利害が一致したからだ。
いわば、ビジネスだったのだ。
…そうに違いない。
だから今、何の用もないのに話しかける必要はない。
それに、あの子のところに行けば、陽平の誤解が決定的になる。
「…そうか」
「そうだ」
陽平は案外あっさり引き下がった。
…と、俺は思っていた。
「…朋也」
「今度はなんだ?」
数メートル進んだところで、背後から陽平の声がした。
「照れるな」
どんっ!!
「なっ!!?」
陽平がいきなり俺を突き飛ばしてきた。
元スポーツマンの腕力は、甘くない。
俺は大きくつんのめった。
倒れまいとして、足を前に出す。
それでも慣性は殺せない。
もう一度足を前に出す。…止まらない。さらに足を前に出す。…止まらない。
気が付くと、俺は走り出していた。
というか、下り坂で突き飛ばされたら誰だってこうなるだろう。
「だああああっ!!」
止まれない。走るのをやめたら、即座に転ぶ。
今の俺は、ちょうど一輪車に乗っているようなものだった。
それだけならまだいい。坂を過ぎれば止まれる。
だが、その前に。
だんだん迫るあの女の子を、どう回避すればいいのだろう?
このままだと、間違いなく衝突するぞ…
…陽平のバカヤロウ。
女の子は相変わらずのんびりと歩を進めている。
…気付けよ!!
背後から不審人物が全力疾走で迫ってきてるんだぞ!!
どこまでカンが鈍いんだ?
俺に気付いて、ちょっと身をかわしてくれるだけでいいのに!!
…仕方ない。
この子に怪我をさせるわけにはいかない。
そう言えばこの後ろ姿を見るのは今日三回目なんだよな、とか思いながら。
俺は覚悟を決めた。
ぐらっ…
ずざざざーっ!!
わざとバランスを崩し、高校球児よろしくヘッドスライディング。
「ぐ…」
…ふっ、甲子園は目の前だぜ。
などとふざけたことを考えて自分をごまかそうとしたが、無駄だった。
舗装道路とコンタクトした衝撃で、全身が鈍く痛む。
はたから見たら、まるっきりの馬鹿だろうな。
「あ、あのっ…」
さすがに気付いたのだろう。
もう聞き慣れた声が、俺に降りてきた。
「…よお」
うつぶせに転んだままで、ひらひらと手を振る。…かなり間抜けだ。
現状を打破すべく、瞬発力を生かして鮮やかに跳ね起き、ポーズの一つも決めてみるか?
…よけいに頭が悪く見えそうなので、とりあえず現状維持。
「…あ。今朝と、お昼休みの」
「ああ。今朝と昼休みの、だ」
修飾語が一つ増えていた。
本当に心配そうに、俺を見下ろしている女の子。
…そんなに不安な表情をされると、逆にこっちが申し訳ない気分になる。
俺はさりげなく視線を外す。
坂の上に目をやれば、さっきの位置から動いていない陽平の姿。
俺を突き飛ばしたくせに、少しも悪びれた風ではなく、むしろもの凄くいい笑顔。
真っ白な歯がキュピーンと輝いている気さえする。
ぐっ、と親指を立て、「礼にはおよばないぜ、しっかりやれよ!」と無言の激励。
…どうやら、俺とこの子のために、恋の橋渡しをした『つもり』らしい。
…覚えてやがれ。
「えーと…ケガとか、してないよな?」
「え?」
接触する前に自爆したのだから、この子が被害を受けているわけはないのだが、
いちおう確認のために訊いておく。
「あっ…。ケガ、してます」
「なにっ!?」
予想外の返事にあせる俺。
俺の貴い犠牲は無駄だったのか!?
しかし、女の子の次の行動は、さらに俺を戸惑わせるものだった。
すっ。
…え?
女の子が、俺の手を持ち上げたのだ。
「血…いっぱい出てます」
「…え?え?」
だが見たところ、俺の手を包むきゃしゃな手には傷一つない。
俺は顔に疑問符を貼り付けたまま、馬鹿みたいに女の子を見ているしかなく。
「あの…痛い、ですよね?」
その言葉でやっと、自分の勘違いに気付いた。
「…あのな、俺のことはいいんだ。
あんたはケガしてないか、って訊いたんだ」
自分が負傷してることぐらい解ってる。
今でも身体のあちこちが熱を持って痛んでいるのだから。
「わたしがケガ?…どうして、ですか?」
「……」
もしや。
この子は、俺の行動をさっぱり理解していないのだろうか?
俺が後ろから急速接近していたのはもちろん、
この子に怪我をさせまいとして、捨て身の行動に出たということさえも。
…と言うことは、俺のことを、素でコケた大馬鹿野郎だと認識しているのか?
…無性にムカついた。
くいくい、と指で促すと、女の子は素直に顔を近付けてくる。
…正直者は、損するぜ。
そう心中でひとりごちて、俺はその無防備な顔に――
ぺしっ!
「きゃっ!?」
デコピンを炸裂させた。
「いっ、痛…何するんですかぁ!」
「…うるさい」
不機嫌になった俺は聞く耳持たない。
別に見返りを期待していたわけじゃないし、もとはと言えば陽平が悪いのだが。
やはり、面白くはない。
「…うー」
大きな瞳に涙をためて、無言の抗議をする女の子。
昼も涙目になっていたし、涙腺がゆるいのかもしれない。
「…はぁ」
なんだか急にアホらしくなり、俺はさっさと立ち上がる。
大雑把に土を払い、再び坂を下り始める。
…つもりだったのだが。
ぐいっ。
「…どこ行くんですか」
女の子が、俺の制服の袖をつかんで足止めしてきた。
「…見ればわかるだろ。家に帰るんだ。
…だから、放してくれ」
「駄目です」
ぐいぐいっ。
「よせ、服が延びる」
「延びる生地じゃないから大丈夫です」
「じゃあ、裂ける。肩のとことか」
「縫製がしっかりしてるから大丈夫です」
「だったら…」
「とにかく、帰っちゃ駄目です」
…なんなんだよ。
さっきのデコピンをまだ根に持ってるのか?
「ちゃんと、手当てしないと…駄目です」
小さく、だけど確かに、女の子が呟いた。
「…手当て?」
言われてみれば、右手から血が流れている。
すりむいただけにしては傷が深いらしく、まだゆるやかに出血している。
だが、動脈まで達しているわけでもないだろう。
唾でも付けておけば、そのうち治る。
「…別に、要らない」
そっけなく、それだけを告げた。
いつものように、投げ遣りに。
「駄目ですっ!!」
意固地になった女の子が、大声を張り上げる。
日の落ちかけた穏やかな行路には、あまりにも不似合いなその音量。
さっきまでの一連のやりとりも手伝って、俺たちに他の生徒の注目が集まる。
「あっ…」
一声上げて冷静になったのか、注がれる視線に恥じ入る女の子。
会ったときから思っていたが、基本的には人見知りする性格なのだろう。
こういう状況はいかにも苦手そうだった。
思えば、この子が怯んでいるうちに、とっとと帰ってしまえば良かったのかも知れない。
…しかし、同じくこういう状況が苦手な俺は(顔にこそ出さなかったが)だいぶ舞い上がっていた。
そのせいか、逃げるという方向に頭を回すことはできなかった。
「…わかったよ」
「えっ?」
気がそれていたためか、理解できない様子の女の子。
恥ずかしさで固まっている間も、俺の袖を放さないのには閉口したが…
このときの俺は、とにかくこの場を去りたい一心だった。
「…手当て、頼む」
それはギブアップ宣言にも似て。
女の子のぽかんとした瞳に、しだいに光が宿る。
「…はいっ!!」
満面の笑顔。
こうして俺と彼女は、また長い坂を上り始めた。
「えっと…」
女の子はきょろきょろ辺りを見回す。
学校に戻ってきたまでは良かったが、そこから事態が進展していなかった。
「…保健室に行くんだろ?」
俺は念のため目的地を訊いてみる。
…まあ、この場合、まず保健室で間違いないだろうが。
職員室にケガ人を連れて行ってもしょうがないしな。
予想通り、女の子はこくんと頷いた。
「だったら、早く行こうぜ」
「は、はい」
と返事はしたものの、一向に歩き出そうとしない女の子。
なぜか困っているように見える。
「…もしかして、保健室がどこにあるか忘れたとか?」
「…っ」
女の子が顔色を失う。
どうやら図星らしかった。
…なんだかなあ。
確かに、この学校の保健室はかなり覚えにくい場所にある。
でも、だからって…忘れるか?普通。
結局、俺の先導で保健室にたどりついた。
保健室のドアには「外出中」と書かれたプレートがぶら下がっていた。
養護教諭は留守にしているらしい。
俺にとってはその方がありがたかった。
「あ…どうしよう」
女の子が戸惑った声で言う。
だが、俺はかまわずドアを開ける。
いつものように鍵はかかっていなかった。
「え、あの…」
「ほら、入れよ」
「は、はい」
この部屋のどこに何があるか、だいたいは把握している。
戸棚や机の引き出しから、処置に必要なものを取り出す。
俺の傍若無人な行動に、女の子は目を丸くするばかりだった。
「…あ、あの、いいんですか?」
「何が?」
「いえ、あの…そういうの、勝手に出してきたりして…」
「いいだろ。保健室でケガの治療をするんだ、何も間違ってないぞ」
「…そ、そうなんでしょうか?」
「そうなんだ」
…とは言ったものの、本当にいいのかどうかは俺も知らなかった。
しかし、女の子は俺の強引な説明に納得したようだった。
「えっと…じゃあ、始めますね」
「ああ」
俺は丸イスに座り、負傷した右手をずいっと差し出す。
女の子ももう一つの椅子に腰掛け、俺の手を取る。
そしてもの凄く真剣な顔で傷口を見つめる。
…出血はもう止まりかけているし、痛みもずいぶん治まったのだが、
女の子はとても不安そうにしていた。
…なんで俺の方が落ち着いてるんだろう。
「…い、いきます」
消毒液を染みこませた綿を、傷口にあてがおうとする。
だが、あと1センチというところで、女の子の手が止まった。
そこに触れていいのかどうか、本気で悩んでいるようだった。
その細い手は、小刻みに震えているようにさえ見える。
…だから、そんなに大層な傷じゃないんだけどな。
「…あ、あの…しみると思いますけど…痛いと思いますけど…」
いまだにためらっている様子の女の子。
このままだと、治療が終わるより先にかさぶたが形成されそうだった。
痛がりのこの子より、俺の血小板の方が仕事が早いだろう。
「…あっ」
俺は女の子から脱脂綿を奪い、自分で消毒を始めた。
…最初からこうすればよかった。左手は使えるんだし。
「…ごめんなさい。わたしが…ぐずだから」
肩を落として言った言葉は、俺には届かなかった。
「…治療は俺が自分でやるから、その間にノートつけといてくれないか?」
「ノート?」
保健室の利用者は、備え付けてあるノートに
氏名・クラス・保健室に来た理由などを書く決まりになっている。
いつもならいちいち書いたりしないのだが、
今回は備品を勝手に使ったということもあって、記帳せずに済ませるのは気が引けた。
「保健室のことに、詳しいんですね」
「…まあな」
使用記録を残すことくらいは常識だと思うが。
まあ多分、さっきの手際の良さを指して言ったのだろう。
「もしかして、保健委員なんですか?」
「違う。…不良だから、さ」
俺は、自分がそう呼ばれていることを、よく知っている。
…俺が保健室のことに詳しいのは、たまにここで授業をサボっていたから。
最近はもうやっていないが、一年くらい前はここに入り浸っていた。
養護教諭には顔を覚えられて、目をつけられていた。
だからこそ、その不在がありがたかったのだ。
「不良…?」
女の子の表情が強張った、ように見えた。
…あれ、知らなかったのか?
同級生なんだし、知ってるもんだと思ってたが。
…やっぱり、言わなきゃよかったか。
俺は静かに自嘲した。
「不良さん…なんですか?」
「ふ、不良さん?」
…なんか、その呼び方は違うと思うぞ。
「…じゃあ、河原で決闘とかして、引き分けて、
『いいパンチしてるぜ』『お前こそ』って言うんですか?」
「……」
いつの時代の話だよ、それは。
「で、お互いの健闘をたたえて、ユニフォームを交換するんですよねっ?」
「……」
女の子はあくまで真面目に言っているらしい。
…頭が痛くなってきた。
というか、もう不良の話ですらない。それはサッカー選手だ。
「…いや、今のは忘れてくれ」
「えっ?」
「やっぱり俺は不良じゃなかった」
「そうですか…」
…なんでちょっと残念そうなんだ?
「…はぁ」
なんだか、身構えてた俺の方が馬鹿みたいじゃないか。
ため息をついて、俺は丸イスを回転させ、女の子に背を向けた。
「あの…」
「何だ?」
背中を見せたとたんに声をかけられ、俺は首だけで振り返った。
「名前、教えてください」
「名前?…言ってなかったっけ?」
「教えてもらってないし、わたしも教えてません」
そういや、俺もこの子の名前知らないんだよな。
こんなによく会うと解ってたら、初めに会ったとき自己紹介でもしてたのに。
…いや、俺のことだから、解ってても自分からは名乗らなかっただろうな。
面倒だから。
「利用記録に、氏名とクラスも書かないといけないんです」
「あんたの名前でも書いといてくれ」
「そ、そんなの駄目ですよっ」
融通の利かない奴。
「だから、名前、教えてください」
「む。人に名前を訊くときは、まず自分から名乗るのが礼儀だぞ」
「あっ…そうですね」
…半分冗談のつもりで言ったのだが、女の子は真面目に受け取ったらしい。
俺にまっすぐ向き直り、姿勢を正す。
「わたしは、古河渚っていいます」
「じゃ、そう書いといてくれ」
「だ、だから駄目ですよっ」
目の前の女の子、古河渚はそう言って口をとがらせた。
「俺は、岡崎朋也だ」
「岡崎さんですね?」
古河が、ボールペンを走らせようとする。…が、その手が途中で止まる。
「えっと…漢字は?」
「岡崎は普通、下の名前は…月が二つに、カタカナのヤに似てる字だ」
「あっ、『岡崎朋也』さんですね、わかりました」
その後、俺のクラスも伝えた。
古河がさらさらと必要事項を書き込んでいく。
「…できました」
ぱたん、とノートを閉じながら俺に言う。
いちいち報告してくれなくてもいいんだが…
「手当てのほうは、終わりましたか?」
「…ああ、もう少しだ」
が、俺はそのもう少しに苦戦していた。
最後に包帯を巻くのだが、右手に巻くわけだから、片手、それも利き腕でない左手での作業になる。
四苦八苦している俺に気付き、包帯を渡すように促す古河。
いいかげん根気が尽きそうになっていた俺は、素直にそれに従う。
ちょうど、さっきとは逆の立場になった。
器用に包帯を巻いていく、細い手を眺める。
俺は初めて、古河の女の子らしいところを見た気がした。
「…?」
視線に気付き、俺を見返す古河。
俺は反射的に目をそらす。
…なんで、こんなときだけカンがいいんだよ。
たかが擦り傷の治療に、ずいぶん時間をかけてしまった。
――俺も古河も、つくづく要領が悪いな。
そう思って、少し笑った。
校舎を後にする。
赤い陽はもう完全に沈みかけ、空の上からは薄闇のカーテンが降りている。
それでも消えない春の匂いの中を、古河と歩く。
考えてみれば、今日の朝にも二人して校門を抜けたんだよな。
まさか、またこんな風に肩を並べて歩くことになるなんてな。
「送っていく」
保健室から出て、廊下をしばらく進んだとき。
自然に、そんな言葉が出た。
「えっ…?」
「もうすぐ日も暮れるし、女の子の一人歩きは物騒だろ?
俺のせいで遅くなっちまったんだし、な」
厳密に言うと、陽平のせいなんだが。
「……」
古河の返事は、ない。
無理強いする気はなかった。
今日会ったばっかりだし、断られても仕方な…
「…じゃあ、途中までお願いできますか?」
「…え?」
…そうして、俺と彼女は今に至る。
何を話すわけでもなく、黙ったままの二人。
でも、不思議と、朝のような気まずさはなかった。
「あ…。ここまででいいです」
大通りに出たとき、古河が足を止め、俺に告げた。
「ここからは、一本道ですから」
…この辺に住宅地なんてあったか?
疑問に思う俺をよそに、古河はこちらに向き直る。
「今日は、送ってくれて…」
その先に続くであろう言葉を、手の平を見せて遮る。
不自然に台詞を切られ、古河が首を傾げる。
「…前にも言ったけど、礼はいらない」
視線を落としたまま、古河の顔を見ずに、続ける。
「俺はあんたに手当てをしてもらった。その見返りとして、あんたをここまで送った。
これで、貸し借りはなしだ。…それでいいだろ?お互い様なんだ。
いちいち礼なんか言わなくたって…」
俺はなぜ、こんなにムキになっているのだろう?
礼を言わせたい奴には言わせてやればいいじゃないか。
そう思うのだが、昼間のようなまっすぐな感謝の言葉はもう、聞きたくなかった。
「…だから、黙ってサヨナラしよう」
俺は、ひどいことを言っているのかもしれない。
でも…眩しいんだ、古河の言葉は。
ひねくれて、ねじまがった俺には、古河の愚直さが…どうしようもなく眩しいんだ。
…どうして、そんなに素直に、自分の気持ちをさらけ出せるんだ?
古河のふとした一言に、何気ない仕草に、俺は苛立ち、自己嫌悪を抱いてしまう。
だから。
聞きたくないんだ。お前の、その言葉を。
「…感謝の気持ちって、相殺されるんですか?」
「え?」
予想外の反応に俺は顔を上げる。
古河の寂しそうな表情がそこにあった。
「…貸しとか借りとか、理屈だけで考えるんだったら、それでいいのかもしれません」
俺を射るように見つめながら、言葉をつなぐ。
季節のあたたかな風が、古河の髪を乱す。
「…でもわたしは、親切にしてもらったら、ありがとうって言いたいです。
親切にした人からは、ありがとうって言ってほしいです」
その声には今までの控え目な印象は感じられない。
かわりに、強い意志がこもっていた。
「…もちろん、わたしの勝手な気持ちですけど」
そう言って、口元だけで笑う。
しかしそれは、決して自嘲ではなく。
「…でもわたしは、ありがとうって言いたいです」
迷いのない口調で、もう一度繰り返す。
俺は…何も言えない。
「…だから」
そして古河は姿勢を正し、
「ありがとうございましたっ」
きっぱりと、おじぎをした。
長い礼が終わり、古河が頭を上げる。
立ち尽くす俺のことを、まっすぐ見つめる古河。
そのまま俺が何も言わないでいると、やがて寂しそうに微笑んだ。
「…それじゃ、さようなら」
言って俺に背を向ける。
広い道を、歩き出していく。
古河の小さな背中を見ながら、ふと思った。
…そういえば。
俺はあいつに、一度も「ありがとう」と言っていない。
…貸し借りは、なくさなくちゃ、な。
…そして。
…少しだけ、素直になれたら。
「…古河っ」
初めて、その名を呼ぶ。
首を巡らせて、古河がこちらを向いた。
「その…昼休みのパンと、あと、包帯巻いてくれて――」
ありがとう。
そう続けるつもりだったのに、どうしようもなく照れくさくて。
「…サンキュ、な」
そんな言葉で濁してしまう。
それでも古河は、とても嬉しそうに笑って、
「…どういたしましてっ」
と、言った。
古河と別れ、俺は俺の家路につく。
一人で歩く道は、広い。
…寂しい?
もう、慣れてるはずだ。
陽平とつるんでいても、俺が最後に帰る場所は、あの家しかないのだから。
今日は初めて会ったばかりの奴と一緒にいたから。
だから、薄暗い世界が、こんなに空虚に思えるんだ。
何も変わっちゃいない。
鍵を差し込み、シリンダー錠を開ける。
いつものように、明かりはついていない。
誰もいないと知っていても、律儀に「ただいま」を言っていた時期もあったのだが。
それもいつの間にか止めてしまった。
生活感のない、キッチン。
ろくに料理をしていないのだから、当然と言えば当然だ。
今日もまた、棚からインスタント食品を取り出す。
母親が生きていた頃には、この家にもあたたかな食卓があった。確かな団欒があった。
だが今となっては、仕事に忙殺されてろくに帰ってこない父と、ろくでなしの息子がいるだけだ。
俺はやかんの蓋を取り、蛇口をひねる。
ずきん、と右手が痛んだ。
…ああ、そういや、ケガしてたんだよな。
俺はしばらく、包帯の巻かれた右手を見ていた。
「…ありがと、な」
…遅ぇよ。俺。
ブラインドの隙間から、薄く射し込む光で目が覚めた。
壁の時計を見る。6時を少しまわった頃だった。
…ずいぶん早く起きちまったな。
俺は、目覚まし時計を使わない。
だから遅刻するんだ、と人は言う。
だが目覚ましをかけて寝ても、起きる前に止めてしまうから意味がないのだ。
どうせ遅刻するなら、さわやかに朝を迎えたい。
…というわけで、俺は目覚まし時計を使わなくなった。
…我ながら、ダメ人間だと思う。
しかし今日は、なぜか余裕を持って起床できた。
そういえば昨日もこうだったな。
もしかしたら、体質が改善されつつあるのかもしれない。
これからは遅刻せずに登校できる!
…と、いいな。
…もし昨日、遅刻していたら。
古河と知り合うこともなかったのだろうか。
「…早起きは、三文の得…か」
意味もなく呟いて、俺は支度を始める。
春の温暖な気候で、ベッドから出るのも辛くない。
近年まれに見る爽快な朝だった。
「…さて」
俺は立ち止まり、思案する。
目を閉じて、開いて、を繰り返してみる。
が、眼前の景色はいっこうに変わる気配がなかった。
「…はぁ」
俺は今日も、この坂の前で嘆息するのだった。
目覚めたときのさわやかな気分はどこへやら、思いっきりブルーになってしまう。
だが、ここで立ち往生していてもしょうがない。
今、千里の道の一歩を…
「岡崎さん」
背後から唐突に名前を呼ばれる。
俺はさっさと登頂を中断する。
この声は…
「古河か?」
「そうみたいです」
自信を持て。
振り返り、古河と向き合う。
走ってきたのだろうか、少し呼吸が乱れていた。
「おはようございます」
「ああ、おはようさん」
自然に挨拶が出る。
「…じゃ、行くか」
「はいっ」
俺たちは昨日の再生のように、並んで歩き始めた。
「…しかし、よく会うよな」
俺は小さく苦笑しながら言う。
そうですね、と古河も微笑む。
まあ、そのうちの半分は人為的なものなんだが。
「なんで、今まで会わなかったんだろうな」
朝に関して言えば、俺の遅刻癖が原因なのだろうけど。
…そんな風に冗談を続けるつもりだった。
でも。
俺の言葉を聞いた古河は、びくりと身をすくませた。
そして、さっきまでの笑顔を失ってしまう。
まるで古傷に触れられたように、つらそうな顔になる。
「…古河?」
俺は、この表情を見たことがある。
これは確か、昨日、保健室の場所がわからないと言ったときの――
「どうした?」
俺の問いかけに笑顔で、なんでもありません、と返す。
でもそれは、どう見ても無理をしている…作り笑いだった。
「…ごめんなさい。わたし、やっぱり先に行きます」
古河はそう言うと、止める間もなく駆け出した。
俺はその背中を追うこともできず、中途半端に手を伸ばしたまま固まっていた。
がらがらと戸を開け、教室に入る。
例のごとく一段階静かになるクラスメイトたち。
だがそんなことよりも、古河の態度が気がかりだった。
席に着き、あれこれと思い悩む。
…俺は、何かまずいことを言ってしまったんだろうか?
「…ぐはっ」
横から聞こえる奇声で我に返る。
怪音の発生源は、陽平だった。
わざとらしく頭を抱えている。
「しまった。傘を持ってくるべきだったか…」
「は?…なんでだ?」
窓の外の空は、気持ちいいほど晴れ渡っている。雲一つない、とまではいかないが…
天気予報では雨だったのだろうか?
「まさか、朋也が二日連続で遅刻しないとは…」
「……」
「はたして誰が予想しえたであろうか!?」
「…おい」
「くそっ、猫が顔を洗うよりも確実に雨だ!」
…しまいに、殴るぞ。
「ま、それはともかく、だ」
芝居がかった態度をあっさり止め、陽平が訊いてくる。
「昨日、あれから進展したか?」
「……」
陽平が言っているのは、古河とのことだろう。
…そうだった。こいつに突き飛ばされたせいで、俺はいらないケガをしたんだ。
「もったいぶらずに言えよ。手厚く看護してもらったんだろ?」
本格的に冷やかしモードに入ったらしく、半笑いの陽平。
…人の気も知らないで、よく言うぜ。
俺は黙って右手をかざす。
もちろん、そこには包帯が巻かれたままだ。
「な…」
予想していたよりもはるかに痛々しい有様だったらしく、陽平が口ごもる。
せいぜい絆創膏の二つ三つだと思っていたのだろう。
…俺自身、包帯まで巻いたのはオーバーだったと思うが、今はこれが役に立つ。
「…痛かったぞ」
「…す、すまん」
素直に謝る陽平。根は悪い奴ではないから、これは予測できた反応だった。
相手が弱気になった、この時がチャンスだ。
「…カツサンド、二つな」
「…解った」
こうして俺は、慰謝料の確保に成功したのだった。
朗読が教室の中に流れていた。
不良と呼ばれる俺でも、教師の良し悪しはわかる。
いい教師とは、耳障りでない、優しい声の持ち主のことだ。
国語系の担当であれば、なおいい。
母国語を読み上げるやわらかな声は、心地よい子守歌となるからだ。
そういう意味で、いま教壇の上に立っている人物は、教師の鑑と言えた。
チャイムが鳴り、短い眠りが断たれる。
昨日は気にせず爆睡していたのだが、今日はそれほど眠りが深くならず、断続的な睡眠が続いていた。
…あと一つ授業を終えれば、昼休みだな。
陽平から支払われる、因縁のカツサンド。
それに…
もしかしたらまた中庭にいる、古河。
…俺は、何を考えてるんだ?
他人の領域に不用意に踏み込むもんじゃない。
あんなにつらそうな表情を誘う、彼女の中の『何か』。
それに対して、俺が何をしてやれる?
…知るか。
ただ、このままにはしておきたくない。
それだけで十分だろ?
あと一時間。
寝て、待とう。
書けませんよ( ̄ー ̄)ニヤリッ