河島はるかの世界へようこそ#2

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468琉一
「ただいまー」
「おじゃまします」
 帰ってきた家の中は、誰もいなくて、しんとしていた。
「犬、どこ?」
 入るなりいきなり、はるかはそう言った。
「こっち。父さんの部屋を寝床に決めちゃってさ。
 もうそこから梃子でも動かなくなって、父さんがぼやいていたよ」
「ふぅん」 
 ドアを開けると、部屋の片隅からハドソンが睨む。
 子供を生んでから神経質になっていて、いつもこんな感じだ。 
 子犬たちはそのお腹の上で寝転がったり、じゃれあったり、こっちに気づいて顔を向けたりする。
 はるかは構わずに、すたすた近づいてゆく。
「あ、はるか……」
 ぺたん、と腰を下ろすと、じっと覗き込む。
 珍しく女の子座りで、両手をついたはるかが、警戒心露わなハドソンと、目を合わせる。
 じっと見つめ合う二人の間に、不思議な空気が流れる……。
 そ、とはるかが手を差し出すと、ハドソンがぺろりと舐めた。
「ん、いい子」
 はるかはハドソンの頭を撫でてやっている。
 普段は僕が近づいても唸るのに、どうしてこんなにあっさり……。
「抱いてもいいかな?」
 と聞くと、ハドソンはクゥンと小さく鳴いた。
「ん、ありがと」
 会話している……。
 不思議だとは分かっていたけど、改めてはるかの不思議さを見せられた感じだ。
469琉一:02/01/23 00:42 ID:i78QNFPp
 はるかは慎重に、傷つけないように、ゆっくりと手を伸ばした。
 黒と白に色分けされた一匹が、差し出された手に、興味深げに前足を乗せる。
 そっと、両手で包み込むように優しく、はるかが子犬をすくいあげた。
 ハドソンはその状況を目で追いつつも、はるかのするに任せている。
 はるかは両手よりちょっとはみ出す程度の子犬を、愛おしそうに胸に、頬に当てる。
「……かわいい」
 目を閉じて微笑むはるかは、どきっとするほど女性らしかった。
 はるかがめったに見せないこんな顔。
 それは、女性なら誰でも持っている、母親の本能のせいかもしれない。
 新しく生まれた命に対する慈しみ。
 ハドソンもそれを感じて、警戒を解いたのかもしれない。
「あはは、くすぐったい」
 子犬がはるかの頬を、小さな舌で舐めている。
「なんかこの子、彰に似てる」
「僕が生んだんじゃないってば……」
「彰、お手できる?」
 はるかはボクの名前を勝手に付けて、頭を撫でてやったり、小さな足と握手したりしている。
「すごいね。壊れちゃいそうなのに、ちゃんと元気」
「うん。でもまだ骨が弱いから、落とさないようにしてね」
「ん、気をつける……あはは。きもちいい?」
 背を撫でると、子犬が気持ちよさそうに目を細める。
 その背に、はるかが頬ずりをした。
「あったかいね。ちゃんと生きてるんだ。えらいね」
 はるかの言葉は、どこか変なのに、不思議と胸を打った。
 やっぱり不安なのか、ハドソンが小さく鳴く。
「ありがと。返すね」
 そっと、宝物を置くように、慎重に子犬を箱に戻す。
 するとたちまち、他の子犬たちもじゃれて群がってきた。
470琉一:02/01/23 00:43 ID:i78QNFPp
「あはは。痛い、痛い。噛んでるってば」
 噛まれたり、乗られたりしながらも、はるかは笑っている。
 まぁ、子犬だから、噛まれても、痛いというよりはくすぐったいぐらいだし。
「くすぐったい……どうしようか、彰?」
「えっと……はるかがよければ、そうしてたら?」
「ん……それじゃ、もうちょっと遊んでる。あ、くすぐったいってば。あはは……」
 箱の中からはるかの手を伝い、膝の上に乗ったり、腕にしがみついたりする子犬たち。
「だめだよ彰、服はおいしくないよ」
 はるかの袖を、懸命に引っ張っているのが僕らしい……。
「じゃあ僕、お茶入れてくるから……なにがいい?」
「ん……紅茶。できればミルクで」
「ミルク? 珍しいね」
「ん、この子達とお揃い」
 なるほど。
 僕が紅茶を入れている間も、ずっと、楽しそうなはるかの声が聞こえてくる。
 あんなに喜んでもらえるなら、連れてきてよかった。
 はるかはどちらかと言えば猫系かと思っていたけど、犬とも相性がいいみたいだ。
 ……なんでもいいのかも。
471琉一:02/01/23 00:44 ID:i78QNFPp
「どうぞ。熱いから、その子たちには近づけないようにしてね」
「ん……はい、お母さんのところに戻って」
 言われておとなしく戻る子犬たち……。
 はるか、サーカスとかに入った方がいいんじゃないかな?
 並んでミルクティーを啜る。
 子犬たちもお腹が空いたのか、ハドソンのお腹に仲良く吸い付く。
「……かわいいね」
「う、うん」
 なんでだか、今日のはるかには、なにげない一言にどきっとさせられる。
 そう、あの頃……。
 まだはるかの髪が長かった、あの時みたいに。
「ん……あったかい。紅茶入れるの上手いね、彰」
「いつも入れているからね」
「あはは……そうだった」
「たまにはミルクティーもいいね」
「ん……おいしい。みんなもおいしい?」
 子犬の代わりに、ハドソンが鳴いて答えた。
「あはは、ハドソン、自分で言ってる。ハドソンも飲む?」
「猫舌だからね、紅茶はちょっと……」
「ん、そうだね」
 ふぅっと息を吹いて冷ましながら、紅茶を啜るはるか。
 いつもなら、その横には冬弥がいて、その向こうには由綺がいる。
 ぼうっとしたようなその瞳に、二人の姿はどんな風に映っているのだろう?
 僕は多分、はるかの気持ちに気がついていた。
 同じように、想いを隠しているから、分かるのかもしれない。
 僕たちはあまりにも、自分の感情を隠すことに、上手くなりすぎた。
 見ていて痛ましいぐらい、伝わらない気持ち。
 ただ、揃って紅茶を啜ることしかできない自分が、どうしようもなく悲しいけれど。
472琉一:02/01/23 00:44 ID:i78QNFPp
 不意に、はるかが口を開いた。
「この子達、全部飼うの?」
「う、うぅん。1、2匹残して、誰かにあげようかなって思うんだけど……はるか、どう?」
「本当? なら、欲しい」
「うん。じゃあ、どの子がいい?」
 はるかはじっと、子犬たちを眺めていたけど、
「どの子でもいい。選べない。彰、選んで」
「えっと……そう言われると僕も困るけど。さっき、一番最初に抱いた子は?」
「あぁ、彰?」
 そう言うと、まさにその子犬が振り向いた。
「うん、キミ。私はるか、よろしく」
 指と足が触れ合い、ちょん、と握手した。
 子犬は再び、食事に戻る。
 ……普通、食事中は一心不乱なはずなんだけど。
「じゃあ、もうちょっとして、親離れしたら、はるかにあげるね」
「うん、ありがと。よろしく、彰」
 でも、名前はやっぱり彰なんだね……。
473琉一:02/01/23 00:45 ID:i78QNFPp
「ん、今日は楽しかった」
「送ろうか?」
「平気。まだ暗くないし、彰、バイトあるんだよね?」
「うん……」
「それじゃ、彰とハドソンにもよろしく」
 はるかはふわりと身を翻し、あっと言う間に夕暮れの中に駆けてゆく。
 いつもそうだ。
 つかみ所のないしぐさで、風のような素早さで、みんなの前をすり抜けて行ってしまう。
 今日見せた笑顔や優しさの中に、本当のはるかは潜んでいるのかもしれないのに。
 そんな表情はまるで見せず、ただ、側にいる。
 なにも考えていないような、ぼうっとした笑顔で。
 もっと強く、その優しさや、自分の気持ちを示してもいいのに……。
 ……僕が言えたことじゃないか。気持ちを伝える勇気も持てない僕が。
 それに、僕には、はるかの応援はできないし。
 由綺と冬弥を裏切るみたいだし、なにより、はるか自身がそれを望んでいない。
 ただ、僕はどうしようもなく不器用な幼なじみに、ちょっとした元気を与えるだけ。
 時折紅茶をおごったり、一緒にチョコをかじったり、今日みたいに、子犬と会わせたり。
 あの子達と会えたことを、はるかが喜んでくれて、本当によかった。
 子犬たちといることで、はるかの優しさが引き出せるのなら、
 僕は何万匹だって、はるかに子犬をあげてもいいのに。
 ……僕が生むわけじゃないけど。

 半月後、僕は『彰』を綺麗に飾ったバスケットに乗せて、はるかに手渡した。