弥生さん@篠塚

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291入場直前
「結末としては、”極端に差がつかない敗北”がベターだと考えています。
マネージャーとして、由綺さんの予定にあまり影響を出さずに済みますから」
 この言葉を、まったく予想していなかったわけじゃない。
 由綺という存在を絶対の軸として、この人の基準はいつだって明快そのものだから。
「そして、惜敗なら由綺がショックを受ける心配もない…と、そういうことですね」
 ”よくできました”とでも言いたげに、弥生さんは微かな笑みを浮かべた。
「由綺さんは、私を応援してくださると言っていました」
「だったら、それに応えようとは思わないんですか? 由綺は本気で…」
 思わず大きくなりかけた俺の声に、落ち着き払った言葉が水をかける。
「この大会で力を尽くすことに、私自身はそれほど意義を感じておりません。
ですが、由綺さんは真剣です。ご自分の試合だけでなく、私や理奈さんに関しても」
 それから、弥生さんの口からは思ってもみなかった台詞が飛び出した。
「試合の間だけ、私と藤井さんの役割を取り替えてみませんか?」

 それは23時間だけ有効な、新しい契約の提案――。

「それでは試合中、由綺さんのお世話はお任せします。
私と同じことを同じようにやれとは申しません。藤井さんのやり方で結構です」
 そして軽く会釈すると、弥生さんは振り向きもせずに入場口に向かって歩き出した。
 これから丸一日の間、彼女はこの不慣れな仕事に全力を傾けるんだろう。
 別れ際の弥生さんの言葉が、脳裏に残って消えない。

『由綺さんはいま、芸能界のステップを着実に昇っています』
『常人には耐え難いほどのプレッシャーを受けながら、それでも確実に…』
『そして、それを支えているのは藤井さん、あなたの存在です』
 不意打ちでこんな話をされて混乱気味の俺に、弥生さんは構わず言葉を継いだ。
 『仮定の話になりますが』と、彼女は言う。
『私が試合に全力を尽くすことで、由綺さんの心に”支え”に似たものを作れるとしたら』
『その可能性があるというだけで、私の動機としては充分だと思いませんか?』