静かな夜
by 或る名無し
最後に鈴の音が聞こえた気がして目が覚めた。
ベッドの上に起きあがったまま、動悸が治まるのをじっと待つ。もう何度
こんな目覚めを経験しただろう。
午前三時。窓から差し込まれる月明かりに、目覚まし時計の針が薄く浮か
び上がっている。
背筋を流れる冷たい汗に体を震わせ、ベッドから降り立った。無性に喉が
乾いた気がする。
水でも飲もう。
そう思うと俺は部屋を出て廊下を階段へと向かう――けれど、途中の部屋
の前で足が止まった。
『まことの部屋』
可愛らしい文字で書かれた真新しいプレートがドアにさがっている。俺と
真琴が作ったものだ。名雪の部屋とお揃いのプレートが欲しい、との先日の
騒ぎを思い出し、不意におかしくなる。
そうだ。真琴は帰ってきたんだ。あの生意気なころの真琴のままで。騒が
しい日々も再び日常の一部となった。もう二度と真琴がいなくなることはな
い。ないはずだ。
でも……。
さっき見た夢のせいだろうか。無性に真琴の顔が見たくなった。昼間、飽
きるほど眺めているというのに。
音がしないように慎重にドアノブを回し、少しだけ扉を開けた。軋むよう
な音に、思わず周囲を窺ってしまう。誰もいないことに安心しつつ、部屋の
中に滑り込んだ。
昔と同じようにマンガが散乱した部屋。コンビニの袋もあちこちに転がっ
ている。
そんな中に敷かれた布団の上に、一人の少女が体を丸めて眠っていた。月
明かりに照らされた横顔が白く浮かび上がり、一種幻想的な雰囲気が漂う。
真琴――。
声に出さずに名前を呟く。音にするのははなぜか躊躇われた。この雰囲気
が壊れるような――そんな気がしたからだ。
「あ……う……ん……」
呼びかけが聞こえた訳でもないだろうが、もぞもぞと体を動かす真琴。楽
しい夢でも見ているのだろうか、その顔に浮かぶ微笑みに、ようやく自分の
中の何かが落ち着いた気がした。
剥がれかけていた布団をかけ直し、そっと頭を撫でる。さらさらした感触
が心地いい。起きてるときは触らせてもくれないのだが。
「おやすみ、真琴」
そっと囁き、背を向ける。
「ゆー……いち……?」
慌てて振り返ると、寝ぼけ眼をした真琴が起きあがろうとしていた。
「ど……したの……?」
「い、いや、その……」
上半身を起こし、トロンとした目で俺を見上げる真琴。普段は全く見せる
ことないその表情に、妙に心が高鳴る。
「祐一も、ぴろと一緒に、ねたいの?」
「そ、そんなところかな」
まだ寝ぼけているのか、ぴろが今は家に居ないことに気が付いていない。
それとも夢の中でぴろと遊んでいたのだろうか。
「じゃあ……」
真琴は屈託のない笑みを浮かべ右手を差し伸ばすと、俺の袖をちょこっと
摘んだ。
「祐一も一緒に、ねよ?」
腕を退けばすぐに外れてしまうような頼りなさ。それが嫌で俺は、逆に真
琴の手を取った。……そうでなくてもこの状況に逆らえる男なんていないだ
ろうが。
「あはは、こっちこっち」
「ああ」
真琴が空けてくれた隙間に、もぞもぞと入り込む。両腕をどこに置いたら
いいのは迷ったあげく、体の正面で組んだ。
顔半分まで布団に埋めるようにすると、真琴らしい匂いがする。さわやか
な――草原を渡る風のような匂い。なんだか懐かしいような――
「えへへ、祐一〜」
「わわわっ!」
突然真琴が俺に抱きついてきた。そのまましっかりと俺にしがみつく。胸
の柔らかさが感じられるくらいしっかりと。
「祐一……暖かい……」
そう言いながら、俺の首筋に鼻先を埋める。
まるで恋人同士のように。
まるで……小動物がじゃれつくように。
――あの時もこうやって一緒の布団に寝たんだったな。その時もこうやっ
てじゃれついてきたっけ。
それは昔の記憶。まだ俺が子供でこいつは――狐だった時の。
けど今は。
俺は男でこいつは――真琴は、人間の女。そして俺の最愛の人。
だから――。
「……真琴……?」
スー、スー。
暖かい寝息が、寝間着の隙間から俺の素肌をくすぐる。
「……おーい」
軽く揺すってやっても、起きる気配はない。
結局寝ぼけていただけ、か。まったく、寝ぼけていてもこんなイタズラを
するとはな。
けれど……。
俺は改めて真琴の体を両腕で包み直した。
小さくて、柔らかくて、暖かい体。
寝間着越しにふれあった胸に、直接鼓動が伝わってくる。
それは……確かに生きている証。真琴が現実にここにいるという証。
「もう……二度と離さないからな」
小さく呟く。この温もりを失わないために。
そして真琴を抱きしめたまま、俺も穏やかな眠りへと落ちていくのであっ
た――。
――終わり――