148 :
敬介:
薄暗い部屋の中、ひさしぶりに吸う煙草の煙を見つめていた。
部屋に漂う焼香の匂い。大きく吐き出した紫煙は、ゆっくりとその中を立ち昇り、やが
て、かき消されるかのように霧散する。
薄汚れた壁と、使い古された畳にすべての体重をあずけ、まだ中身の残っているコー
ヒーの缶に煙草の灰を落とした。薄い襖一枚を隔てた隣の部屋からは、延々と女性の
慟哭が聞こえてくる
あの日以来、晴子はずっと泣き続けていた。まともに食事を摂ることもなく、泣き疲れ
ては眠り、起きては泣いていた。ずっとそれの繰り返しだった。
ゆっくりと煙を吸いこみ、そして吐き出す。前回煙草を吸ったのはいつだったか? 何
年振りかに吸う煙草は、ただ舌を痺れさせるだけで、なんの味もしなかった。
今、晴子の目の前には観鈴がいた。火葬場で焼かれ、真っ白な骨になってしまった観
鈴。僕と郁子と、晴子の娘。小さな金属製の壷の中に納まり、大きな白黒写真をバック
にしながら静かにたたずんでいる。その目の前で、晴子は泣き続けていた。
娘の死。僕はそれを晴子からの電話で知った。嗚咽で混じりで、聞き取りにくい晴子の
声を聞きながら、僕は不思議と落ち着いている自分を自覚していた。頭の中では、通夜
の事や、葬儀の事など、今後自分のやるべき仕事について考えていた。
無論、涙は一滴も落ちてこなかった。悲しいという感情すら働かなかった。自分でも驚
いたくらいの精神状態の中で、僕はその理由について考えてみた。
それはとても簡単な答えだった。いくら実の娘だとはいえ、僕が観鈴と過ごした時間な
どほんの僅かなものだ。第一、僕には娘の死を悲しむ権利などはない。実の娘を、自分
の勝手な都合で晴子に押しつけ、一人で生きてきた僕にはそんな権利などないのだ。
僕自身、その事をよく自覚していたからこそ、悲しみという感情は、僕の中で自然と抹殺
されたのだろう。
葬儀も一通り終わり、親戚の人々も皆それぞれの家に帰った。自分のやるべき仕事
もようやく一段落ついたところで、僕はこうして煙草をふかしている。
149 :
敬介:01/10/22 00:28 ID:qrwsvsQE
葬儀は晴子のたっての希望により、彼女の家で行われる事となった。親戚の人々の
間からは少なからず反対の声があがったが、それは、観鈴の父親である僕が賛成する
事で抑える事ができた。贖罪……というわけではないが、これくらいは晴子の望みを適
えてやらなければならないと思った。
吐き出した煙をぼんやりと眺めながら、今日の事について考える。
葬儀はなんの問題もなく終わった。晴子は式の間もずっと泣き続けていて、僕はそん
な晴子の分も働かねばならなかった。少し疲れはしたけれど、式の進展にはまったく問
題はなかった。
僕が始めて観鈴の遺体を目にした時、それはすでに棺の中へと納められたあとだっ
た。つい数日前、この家の近くの海岸でおぶった観鈴の体。それは、あの時とまったく
変らない姿のままで、真っ白な棺の中で眠っていた。
それを見た時、僕は観鈴の体に触れづにはいられなかった。夏の陽射しを受け、穏
やかに微笑むような表情を浮かべた観鈴。それは僕に死という現実を忘れさせる程だ
った。しかし、そこにあったのはロウ人形のように固く、そして冷たくなってしまった体。
あの時、背中越しに感じた柔らかな感触は、もはや微塵も感じる事はできなくなっていた。
死者と生者の間にある絶対的な境界線。観鈴の体に触れ、僕は改めてそれを実感した。
たとえ、生前の姿をそのままに留めていても、その表情に微笑みのようなものを浮か
べていたとしても、それはすでに『あちら側』へ旅立ってしまった観鈴の残影のようなもの
に過ぎなかった。『こちら側』の僕には、その僅かな残影から、観鈴が生きていた頃の面
影をつたない記憶をたどって思い出す事しかできない。
僕にとっての観鈴の記憶。
それは、観鈴が本当に幼いころの記憶。まだ、ろくに言葉もしゃべれず、二本足で歩
く事もままならなかったころの記憶から、観鈴が学校に入るか入らないかというころまで
の記憶。それは、悲しみを知らない無垢な赤ん坊が、常に他人の顔色を伺いながら生
きていくような少女へと変るまでの記憶だった。
150 :
敬介:01/10/22 00:28 ID:qrwsvsQE
観鈴が赤ん坊のころ、その笑顔は僕と郁子にとって最大の宝物だった。その時の僕
らは幸せの絶頂だった。僕らの前には沢山の問題が山積みにされていたけれど、そん
なものはまったく問題にならなかった。この幸せと、それをもたらしてくれる観鈴の笑顔
を絶対に守ろうと、僕はそう心に誓った。
だけど、そんな幸せは長く続きはしなかった。
ある日を境にして、観鈴は笑顔よりも泣き顔を見せることが多くなった。最初、僕らは
赤ん坊特有のただの癇癪だと思っていた。観鈴の笑顔が見れないのは残念だけど、ま
たすぐに元の笑顔を取り戻してくれると楽観的に考えていた。しかし、観鈴の癇癪は日
を追うごとに酷くなり、一日の内で、泣いていない時間の方が短いのではないのかとす
ら思えるようになるまでさして時間はかからなかった。
昼も夜も関係なく泣き続ける観鈴。郁子はつねに観鈴の側らでその面倒をみていた。
僕が仕事から帰った時そこにあったのは、延々と続く観鈴の泣き声と、疲れきった郁子
の表情だった。しかし、どんなに疲れていても郁子はいっときも観鈴のそばから離れる
ことはなかった。郁子の疲れは癒されることなく、日を追うごとに蓄積された。その頃、
ちょうど僕の仕事は多忙を極め、観鈴の面倒をかわってやる事ができなかった。郁子
と観鈴の事は限りなく心配であったけど、僕達には日々を生きぬく為のお金が必要だっ
た。
やがて、それまでの無理が祟ったのか、郁子はこの世を去った。医者からは過労が
原因であると診断されたが、あとで聞いた話では理由はよくわからなかったらしい。どち
らにしろ、僕は最愛の女性(ひと)を失い、観鈴は最大の保護者を失った。幸い……と
いうか、不思議な事に郁子がいなくなった後、観鈴の癇癪はぱたりとおさまった。観鈴
の癇癪の原因がわかったのは随分あとになっての事だった。
その後、僕らはしばらくふたりで暮らした。人と親しくなると癇癪を起こす観鈴は、常に
人と距離をとり、他人の顔色を伺うような少女へと成長していた。誰から聞いたのか、
郁子の顛末も知っていたようで、そのことも観鈴の性格形成に大きな影響を与えていた。
151 :
敬介:01/10/22 00:29 ID:qrwsvsQE
そしてなにより、観鈴をこのような少女にしてしまったのは僕の責任でもあった。郁子が
いなくなり、僕は父親としての責任を果たさなければならなかった。だけど、僕はその責
任から逃れようとした。人に近づく術を失い、自分の母親の死に負い目を感じている観
鈴を優しく包みこまなければならないはずなのに、僕はそれから逃れようとした。あの時、
僕らに幸せをもたらす観鈴の笑顔を絶対に守ると誓った。だけど、僕はその誓いを果た
すことができなかった。守ろうとしたはずの笑顔はそこにはなく、あるのは常に誰かの顔
色を伺う怯えたような顔。僕はそんな観鈴の表情を直視する事ができなかった。あの日、
郁子がいなくなったあの日以来、観鈴は僕に対して癇癪を起すことはなかった。
結局、僕は観鈴の側にいる事の苦痛に耐える事ができなくなり、晴子の元へ無理矢
理押しつけた。都会で暮らすよりも、のんびりとした田舎で暮らす方が観鈴の為になる
と無理な理由をつけ、自分自身を納得させた。そして、それはつい先日まで信じていた
理由だった。
観鈴を晴子に預けた後も、僕は何度かこの町を訪れた。それはどこかで父親としての
責任感が働いた為だったのかもしれない。いや、自ら責任を放り出した事の後ろめたさ
があった為だろう。僕はこの町を訪れても、ただ観鈴を遠くから見守る事しかできなか
った。
しかし、観鈴を晴子に預けた事は、今となっては正解であったと思っている。観鈴を連
れ戻ろうとした時、観鈴は僕ではなく晴子を選んだ。今にも倒れてしまいそうな体で、僕
の必死で背中から逃れ、晴子の元へ帰ろうとした。きっと、観鈴は晴子の元で幸せに暮
らせたのだ。僕なんかと暮らすより、よっぽど幸せだったはずだ。そう信じたかった。
僕と郁子と観鈴の3人で暮らした日々の笑顔と、永遠の眠りの中での小さな微笑。夕
焼けの海岸で背中越しに感じた柔らかな感触。それが、今、僕の中にある観鈴の記憶
のすべてだった。
しかし、それらはやがて時の中に埋もれ、記憶の片隅の僅かな空間に押し込められ、
思い出す事さえままならないようになるのだろう。暗い天井と、白い煙の中に思い浮か
152 :
敬介:01/10/22 00:29 ID:qrwsvsQE
べる観鈴の笑顔は、すでに曖昧な形でしか再現されず、煙草の煙とともに浮かべては
すぐに立ち消えた。『こちら側』の僕と、『あちら側』の観鈴をつなぐ唯一の細い糸は、も
う、すぐにでも切れてしまいそうなほど弱々しいものだった。人の死は、柔らかで温かな
体を、固く冷たいロウ人形のようにしてしまうように、鮮明で確かな記憶も、曖昧で不確
か想い出へと変えてしまう。あの日の笑顔も、あの日の温もりも、すべてを曖昧な想い
出の中に封じ込め、『こちら側』と『あちら側』を結ぶ細い糸は、やがて記憶の片隅で断
ち切られてしまうのであろう。
痺れる舌を無視して吐き出した煙の中に、幼い日々の観鈴の笑顔を映し出した。僕と
郁子の手の中で無邪気に笑う観鈴の顔は、一つ前に吐き出した煙の中の観鈴よりも曖
昧で、それでもまだ、あの日の温もりは失われていなかった。今、吐き出した煙の中の
観鈴が、前の煙の中の観鈴よりも曖昧なように、次の煙の中の観鈴は、今の煙の中の
観鈴よりも曖昧なのだろう。こうやって、僕は少しづつ観鈴の温もりを忘れていくのだろ
うか? 使い古した洋服を押し入れの奥にしまいこむように、観鈴の記憶も想い出の片
隅にしまいこんでしまうのだろうか?
煙草の煙はゆっくり広がりながらと天井まで立ち昇り、やがてかき消させるように霧散
した。それとともに、その中にいた観鈴の輪郭は曖昧なものとなり、やがて煙とともに消
滅する。
僕はそれをぼんやりと見つめていた。そして、次の煙を吸い込もうとした時、なにかが
ポタリと畳の上に落ちた。
それは、畳に小さな丸いシミをつくり、やがて2こ、3こと増えていく。次々に増えていく
小さなシミが、やがて大きなひとつのシミへと変った時、僕はそれが自分自身の流す涙
である事に気づいた。
涙は、僕の意思とは無関係に次々と流れ落ちる。とめどなく流れ落ちる涙の雫。僕は
それを必死で止めようとた。顔がぐしゃぐしゃになるくらい顔の筋肉を使いながら、部屋
153 :
敬介:01/10/22 00:30 ID:qrwsvsQE
の隅で小さく、丸くうずくまる。声を出す事はできない。隣の部屋にいる晴子に、今の僕
の声を聞かれたくはなかった。
いくら必死になっても涙は止まらない。それでも僕はなんとか涙を止めようとした。晴
子から観鈴の死を聞かされた時も、観鈴の遺体をこの目にした時も、決してこぼれる事
のなかった涙。今になって流れる涙は、自分自身への言い訳であるかのように思えた。
実のの娘に対し、なにもしてやれなかった父親が、許しを乞うような哀れな涙。涙を流す
事で、自らの罪をも流し去ろうとしている。そんな涙。
だから、僕はますます顔面に力をいれて涙を止めようとした。今の僕は、一体どんな
顔をしているのだろうか? とてもじゃないが晴子に見られるわけにはいかないな。必
死で涙を止めようとする一方で、頭の片隅ではそんな事を考えていた。
どれくらい時間が経ったのか、ようやく涙がおさまった時、指にはさんだ煙草は根元の
部分まで灰になって畳の上に落ちていた。薄暗かった部屋は、完全に夜の暗闇の中に
包み込まれ、隣の部屋から延々と聞こえていた晴子の泣き声もいつの間にか止んでい
た。
泣き疲れて寝てしまったのだろうか? 晴子はここのところずっと、泣き疲れるとその
場でそのまま寝てしまう。そして、起きるとすぐに泣き出すのだった。いくら夏だとはいえ、
そのまま寝てしまうのでは風邪をひいてしまうかもしれない。
僕は畳に落ちた煙草の灰を手で払い、よいしょと気合を入れて立ちあがった。なんと
なく体が重たいように感じられたけど、それでも普通に動くくらいは問題なかった。
部屋の押入れから一枚、薄手の毛布を取り出し、それを晴子にかけてやる為、隣の
部屋へと通じる襖に手をのばす。そして、僕もそろそろ眠りにつかなければならないな
154 :
敬介:01/10/22 00:31 ID:qrwsvsQE
と思った。葬儀が終わったとはいえ、僕にはやるべき仕事が沢山残っていた。『こちら
側』に生きる僕には、明日の為の休息が必要なのだ。
襖を開けると、案の定、そこには真っ黒な喪服を着たままで寝息をたてる晴子の姿が
あった。その寝息は、さっきまで延々と泣き続けていたとは思えないほど静かなものだ
った。多分、よほど疲れていたのだろう。あれだけ泣き続ければ誰だって疲れる。
僕はそっと手にした毛布を晴子にかけてやった。頭の位置がちょっと低いところにあ
るのが気になったので、近くにあった座布団をまるめてまくら代わりにして晴子の頭を
その上に乗せた。そうして一通りの作業を終えたのち、僕は自分の寝床へと戻ろうとし
た。部屋をあとしようよしたその時、ちょうど僕と観鈴の目があった。四角い額縁の中に
おさまった白黒の観鈴は、ただ無邪気に微笑んでいるように思えた。
FIN