春の訪れは、どんな気分でも嬉しいと思う。
辛く長い雪の街が装いを変え、新しい色に変わる。
冬の間は凍り付かないためだけに動いていた噴水も、今は春の喜びの声を上げている。
穏やかに降り注ぐ日差しが温かく、気持ちまで安らかになる。
あの子がよく訪れていた公園。お気に入りの場所。
ここに一緒に来たことはほとんど無かったけど、それだけに大切にしたい場所。
あの子と一緒に訪れることはもう出来ない。
この冬に起きた、あたしのたった一人の妹との悲しい別れ。
あの子の事を忘れないために、あたしはここにいる。
手にはあの子が使っていた絵の具とスケッチブック。
誕生日の日に持って帰ってきたもの。大切な人からのプレゼントだと言っていた。
『もう書きたい物は書いてきたから』
1枚だけ千切れたページを見て少しだけ悲しそうに、でも嬉しそうに笑っていた。
辛い想い出が頭を過ぎる。
それを振り払うように頭を振ると、あたしは手にした鉛筆を動かしはじめた。
公園には親子連れやカップルが春を楽しんでいる。
春と言ってもまだ水は冷たいだろうに、子供達が噴水に入り込んで歓声を上げている。
いや、少しばかり日差しがきつい分、気持ちいいのだろうか。
暖かい風が吹く中、芝生に寝ころんでいるカップル。
周りにはあたしと同じ日曜画家も何人か居た。
やっぱりいい天気ね……
どのくらい経ったのかは分からないが、太陽が上にあるところを見ると、そろそろ昼のようだった。
この公園には憩いの場として有名なので、その人たちを狙った屋台も多い。
ぐぅっと背伸びをすると、あたしは昼食を買おうと立ち上がった。
と、そこに見慣れた二人の姿があった。
「あ、香里。何してるの?」
声をかける前に名雪があたしを見つけたようだ。相沢君も一緒にいる。
「久しぶりだな」
「お久しぶり、二人とも。こんな所でどうしたの?」
二人の顔をまともに見たのは久しぶりだった。
栞が居なくなってから、特に相沢君の顔を見るのが辛かった。
それに顔を見られるのも嫌だった。
でも本当は言葉を掛けたかったのに、それなのに声を掛ける事が出来ない。
それは相沢君も同じだったのだろうか?
学校でただ一人、同じ苦しみを味わった者として話が出来るはずだった。
だけどそれはあの子が居ない苦しみが増すだけだと思った。
自然と相沢君とは顔を背けるようになっていたし、そんなあたし達を名雪は悲しそうに見ていた。
あたしが悪いのは分かっていたけど、どうしようもなかった。
最後に二人と会ったのは終業式だから、そんなに日は経っていない。
それなのに懐かしい感じがした。
「天気がいいし、二人でデート? 羨ましいわね」
「わ、何言うんだよ〜。ただの買い物だよ」
「俺はただの荷物持ちだ。服を買うんだとさ」
いとこ同士なのに端からみれば恋人同士に見える。
いや、仲の良い兄妹といった感じかもしれない。
「仲良くていいわねー。見せつけないでくれるかしら?」
「わ、だから、そんなんじゃないってばー」
「服を買うのならあたしを誘ってくれればいいのに」
「だから香里。祐一はね、いとこなんだよ。いとこが仲がいいのは当たり前だよ」
「あら。振られたわね、相沢君」
「……何言ってるんだか」
名雪の顔がくるくると表情を変える。
学校以外の場所で会っている所為だろうか。
普段感じていた重苦しい雰囲気はあたしの中にはなかった。
春の風が重い空気を運び去ってくれたのかもしれない。
「で、香里こそ一人で公園で何してるんだ?」
「別に。ただ絵を描いていただけよ」
「あれ? 香里、絵なんて描いてた?」
「たまには、ね。こんなにいい天気なんですもの」
足下のスケッチブックを名雪が拾う。
「こら、人の絵を見るんじゃないわよ」
「うわー。結構うまいんだね。見てよ祐一」
「へぇ。凄いな。香里の絵は初めてみたけど、かなりいい線いってるな」
「ありがと。でも、おだてても何も出ないわよ」
「……あ……このスケッチブック……」
あたしのスケッチブックをパラパラとめくる名雪。
その本来の持ち主に気付いたのか、相沢君が視線を逸らす。
「ん? どうしたの祐一」
「あ、なんでもないぞ」
慌てて取り繕う。
「そうかな?」
「なんでもないって」
「そう?……あ、これって学校だよね。うわぁ、猫さんの絵もあるよ……」
「だから勝手に見ないでよ……」
大の猫好きな名雪には、どんな出来の絵でも猫が居たら嬉しいのだろう。
そんなに面白いものでも、まして上手なわけでも無いのに食い入るように見ている。
「ところで二人とも。お昼はもう食べたの?」
「ううん、これからだよ。どうしようかって祐一と話をしてたところだったんだよ」
「あ、それだったらここで一緒に食べない? お花見やピクニックみたいでいいと思うんだけど」
「うわ、それいいね。私は賛成だよ。祐一は?」
「あ、ああ……別にかまわないぞ」
「だったら決まりだね。でもどこかで売ってるかな?」
「あそこに屋台のバンが出てるわ。ホットドックとかがあったと思うわ」
「だったら私買ってくるよ」
「あたしも行くわ。名雪一人じゃ心配だし」
「私、そこまでドジじゃないよ。二人ともなんでもいいよね?」
「ああ……」
じゃ、買ってくるね〜と言い残して名雪は走っていった。
「……ひょっとして、気を利かせてくれたのかしら?」
呟くあたしの顔を相沢君がじっと見ていた。
「どうしたの? 取りあえず座ったら?」
「ああ……」
相沢君が座ったのを確認してあたしもまた腰を下ろす。
「どうしたの? 名雪とうまくいってないの?」
わざとからかい口調で聞くと、相沢君がふっと顔をゆるめた。
「もう元気になったみたいだな」
「そうね。あの時は迷惑をかけたわね」
「それ、栞のスケッチブックだろ?」
「そうよ。相沢君があの子にくれたもの」
「そうか……」
相沢君がスケッチブックを懐かしそうに見た。
ゆっくりとページをめくる。
「最初の方のは栞だな。線が歪んでる」
「ひどい言いぐさね。病室では花とか花瓶とかしか描けないんだから」
「あ、花瓶か、これ」
「それ以外に何があるっていうのよ」
一枚一枚、ゆっくりとページをめくる。
絵の中にとどめられた、想いと時間。それを感じ取るかのように。
「ねぇ相沢君。あなたこそ元気になったみたいね」
「俺はいつでも元気だぞ」
「そうね。元気にしてないと名雪が悲しむものね」
「……別に名雪とはそんな関係じゃないぞ」
「あら、どんな関係なのかしら? あたしは同居人として名雪が悲しむ、と言ったつもりだけど」
「こいつは……」
相沢君が軽く睨む。と、お互いが思わず吹き出した。
あたしも相沢君も自然に笑えていた。
こんな風に笑える日が来るなんて、あの時には想像もできなかった。
「しかし、なにやってるんだ、あいつは」
名雪がバンの屋台の前で考え込んでいる。メニューに悩んでいるみたいだった。
「あの子らしいわ。どうせ苺のなにかがあったんじゃないの?」
「そうかもしれないな。俺が行くべきだったか」
「まあ、いいじゃない。時間に急かされているわけじゃないんでしょ」
腕を組んで悩んでいる名雪のその姿は幸せの象徴のように思えた。
「……こうして、絵を描いているとね」
相沢君と二人きりで話をするのは、栞のことを打ち明けた時以来だった。
穏やかな空気の中では辛いことも忘れることが出来る。
今なら素直に話が出来ると思った。
「うん?」
「あの子が見ていた風景が見えるんじゃないか、と思えるのよ」
「そうか……」
「あたしは馬鹿だったわ。あの子を否定しても何も変わらないのに」
「もし相沢君が居なかったら……あの子も、あたしも、救われなかったわ」
「あの子は相沢君のおかげで生きていたわ。それに今もあたしのなかでも生きている」
「そうだな。俺もそうだ」
「だからあらためて相沢君には感謝するわ。本当にありがとう」
「いや、俺は何もできなかった……」
「そんなこと無いわよ。……それで、相沢君は? もう大丈夫なの?」
「俺は……」
相沢君が顔を背けるように空を眺める。
でもその横顔は悲しんでいなかった。
「……俺はまだ吹っ切れてない……まだ栞が居ないことが信じられない」
「でも、栞は一生懸命だった。そんなあいつが強いと思ったし、そんなあいつが好きだった」
「落ち込んだりしていたらきっと栞は怒る。だから俺は悲しんだら駄目なんだと思う」
「……あの時、あいつは『一緒にいて後悔しないか』と聞いてきたんだ。俺は『後悔しない』と答えた」
「だから、今悲しんでいるわけにはいかないんだ。そうじゃないと俺は栞が想ってくれていた俺じゃない」
「俺は嘘つきにはなりたくない。だから、俺は大丈夫だ」
相沢君が笑っていた。
自分に言い聞かせるように。あたしに言い聞かせるように。
静かに笑っていた。
「だから俺は後悔なんてしていないし、あいつのことで悲しんでなんかやらない」
「……そうね。それがいいわ。それがあの子の願いだったから」
「そうか……」
あの子が最後に望んだこと。願ったこと。それはたくさんあった。
『お姉ちゃんには笑っていて欲しい』
『お姉ちゃんが悲しまないでいて欲しい』
『祐一さんが元気でいて欲しい』
『祐一さんが私のことを忘れないでいて欲しい』
『いつまでもみんなが私のことを覚えていて欲しい』
『いつまでもみんなが幸せでいて欲しい』
他愛のない、小さなたくさんの願い。
自分の事を願わずに、それ以外の事だけを口にした栞。
自分のことは全てを諦めて、それでもたくさんのことを祈った栞。
そんなあの子のためにこれから出来ること。忘れさえしなければ出来ることばかり。
相沢君が芝生の上に寝ころんだ。
あたしも真似をして寝ころんでみる。
ゆったりとした時間。
流れていく雲を眺めていると、今の時間が幸せなものに感じる。
「俺達がこうして笑ってたら、あいつも笑ってるさ」
「……そうだといいわね」
横を向くと、相沢君は目を閉じていた。
その奥には何が写っているのだろう?
「だから俺は笑ってるし、それに、出来れば香里にもそうなって欲しい。それがあいつの願いだっただろうから」
「……その通りよ……」
あたしも真似をして目をつぶる。
瞼に浮かぶのはあの子の顔。
それがいつまでも笑っているように。悲しみに彩られないように。
だからあたしは笑っていないといけない。
「あの子はたくさんのことを祈っていたわ。だから少しでもあの子の願いは叶えてあげたいのよ」
「例えば?」
「これ」
トン、とあたしは相沢君の体にスケッチブックを預けた。
受け取ろうと彷徨った手が、あたしの手と触れる。
そのままあたしは手を掴み、そっと握った。
今、あたしに浮かんでいるあの子の顔が伝わるように。
あの子の願いが相沢君に伝わるように。
握る手に想いをこめて。
伝わってくれるだろうか?
相沢君の手はあたしより大きくて、暖かかった。
「あたしが絵を描いているのもあの子の願いなのよ」
「そうなのか?」
『このスケッチブックにいろいろな想い出を書いて欲しい。そうすれば私も幸せになれる』
『祐一さんがくれたスケッチブックだから。でも時間がないから代わりにお姉ちゃんが描いて』
「……そうか……」
「あの子が願ったことは叶えてあげたいの。そうすれば、あの子が安らかにいられると思うから」
「……そう、だな」
あの子が望んだこと。
それは生きている間には全てを叶えてあげられなかった。
だけど。
きっとあの子は、今もあたしを見ている。
だから出来る事はやり遂げたい。
あたしはあの子の姉だから。いつまでもあの子の自慢の姉で居たいから。
だから。
「だから相沢君も描いてね」
「え?」
「あの子の願いなのよ。描いてくれるでしょ」
「いや、俺……絵は描けないぞ……」
「駄目。描いて貰うわよ」
優しくて、穏やかで。春の日差しを想わせる空気を持つ人。
あの子が好きだった相沢君は今もここにいる。
こうしているとあの子の気持ちが分かるような気がする。
穏やかに訪れる春。
あの子と共に辛い冬に一緒に居てくれた人。
あの子が待ち望んでいた春を一緒に過ごしたい人。
あの子の気持ちが分かるような気がした。
「しかし名雪遅いな。何やってるんだ……ってあれ? あいつ何処いった?」
あたしも体を起こして屋台を見る。名雪の姿がない。
「別の場所に買いに行ったのかしら?」
「私ならここにいるよ〜」
「うぁ!」
「な、名雪!?」
突然の声に振り向くと、名雪がにこにこと笑って座っていた。
そばにはたくさんの紙袋がある。
「い、いつからここにいたんだ?」
「さっきから居たよ。二人で楽しそうにお昼寝しておしゃべりして。すっごく、いい雰囲気だったね」
「な、何言ってるの、名雪」
「だって手を繋いでお昼寝してたよ」
名雪の視線があたし達の手に向けられる。
振り向いたときに外れた手は、今も相沢君の体温を覚えている。
相沢君みたいに、あたしの顔も赤くなってるのだろうか?
「名雪が遅いから、寝てしまっただけだ」
「そうそう」
「そんなに遅くなってないよ。それに騙されないんだから」
「そ、それに戻ってきてたんなら、声掛けろよ」
「掛けられる雰囲気じゃなかったよ。だって、すっごく、いい雰囲気だったもん」
名雪の視線が痛い。おたおたと慌てているあたし達と対照的だ。
「二人がラブラブだったなんて知らなかったよ〜」
「だから違うっていってるだろ」
「学校では喧嘩してるみたいだったのに、あれ嘘だったんだね」
「違うって」
「違うわよ。全部名雪の勘違いよ」
そんなあたし達をにこにこと笑っている。
その目は悪戯っぽく輝いている。
「そんな二人とも、大慌てしなくてもいいよ。私、分かってるから」
「多分、お前の考えは間違ってる」
「あたしもそう思うわ」
「そんな事ないよ〜。絶対あってる自信あるよ」
「……ったく……んなことより買ってきたんなら早く喰おうぜ。腹減った」
「あ、そうだね。ホットドッグとサンドウィッチ。飲み物はイチゴシェイクだけど良かったかな?」
芝生に置いてあった袋を手に取る。
「駄目って言っても、もう遅いだろ」
「そうかもしれないね。はい、香里の分。あ、ポテトと唐揚げもあるよ」
「ありがと」
順番に手にしていた物を配る。
「でもね、デザートにアイス食べようと思ったんだけど、イチゴのアイス売り切れてたんだよ……」
悲しそうに成果を報告する。
「だからバニラにしたけど、よかった? 確か祐一好きだったよね?」
「俺は全然かまわないぞ」
「そうね。あたしもバニラを食べたい気分だったわ」
「よかったよ〜」
ペタン、と座り込むと名雪はあたしの顔を見つめた。
「どうしたの、名雪?」
「でも良かったよ。香里」
「何が?」
「なんか香里が笑ってるのって、久しぶりだよね」
「そんなことないわよ」
「そうかな? 今までずっと何か我慢してたみたいだけど」
「そんな事ないって。気のせいじゃない?」
「だったらいいんだけど。でも香里は笑ってたほうがいいよ」
「……そうね。ありがと」
3人で食べる昼食。穏やかな中で過ごせる時間。
本当ならこの場に居るのは4人のはず。
でも、それはあたしの夢。
あの子とともに消えてしまった夢。
それでもあの子はここにいる。
あたしの中に。相沢君の中に。
「あ、そうだ。名雪も絵を描かない?」
「え?」
「相沢君が一緒にスケッチするんだって。名雪もつき合うでしょ?」
「おい、俺は描くとは言ってないぞ」
「うわ、祐一、絵を描くんだ。……うん、私も描きたいな」
「……だから言ってないって……」
「諦めなさいって。往生際が悪いわよ」
「でも私お邪魔虫さんだけど、いいの?」
「だからそれは違うって言ってるだろ」
「あれ〜? でも二人とも、顔が赤いよ〜」
「違うって言ってるでしょ。名雪の気のせいよ」
遅すぎたけど、それでも出来ることは全て叶えてあげたい。
たった一人の妹のために。
きっと今もあの子はあたし達を見ているはずだから。
あの子のために。あたしのために。この小さな穏やかな日々のために。
訪れた、この小さな奇跡を忘れないために。
だから、これからスケッチブックを埋めていこう。
あの子の想い出と共に。