湯口は中学時代から評判をとった速球投手で、コントロールに難があるものの、そのストレート
がまともに決まれば、高校生ではまず打てないとされていた。高校通算28勝4敗を記録し、完全
試合1回を含むノーヒットノーランを3度やっている。高校3年の昭和45年には春夏連続して甲子
園に出場しており、優勝こそ出来なかったが、7試合に登板し61奪三振、防御率1.35という抜群
の成績を残した。
実力的には問題ないが、湯口のおとなしい性格はプロ向きではない、という声も周囲にはあった。
事実、身内にはプロ入り(しかも巨人だ)を懸念する向きがあった。湯口自身、地元の中日ファンで
あり、出来れば中日が良いと考えていたらしい。しかし巨人という名は野球少年の心には魅惑的
に響く。あのONをバックに投げられるのである。
結局湯口は、両親の反対(というほどのものではなかったが)を押し切る形で巨人に入団した。
初年度のキャンプから湯口は張り切った。手を抜くということを知らず、合同練習でも懸命に先輩
についていった。ピッチングコーチの特例練習メニューもすべてこなした。時々連れて行かれる一軍
相手の打撃投手としても黙々と投げた。練習後のミーティングではかかさずノートをとった。
それだけでは足りず、就寝後の時間も惜しんで宿舎の廊下でウサギ跳びをやり、先輩に「ウルサイ!」
と怒鳴られたこともある。練習日誌もちゃんとつけた。技術的な素質プラス努力する素質も身につけて
いた。誰が見ても、将来のジャイアンツを背負って立つサウスポーだった。
ベロビーチから一軍が帰ってくると、川上監督は湯口をオープン戦メンバーに加えた。
が、湯口の方は練習過多が祟り、すっかり調子を落としてしまう。これでは仕方がないので、首脳陣
は湯口の登板を先延ばしにした。
そんな時、正捕手の森昌彦(現・横浜監督)がブルペンで湯口のタマを受けることがあった。森は
同郷の大先輩だ。湯口は、寒い中ムリをして全力投球をした。これが悪かった。途端に肘を故障した。
当然、開幕一軍は逃した
二軍でスタートした湯口は、最初に2試合で連続KOされるなど、パッとした成績はあげられなかった。
17試合に登板して5勝6敗、防御率3.65。投球回数78回2/3で87奪三振はさすがだが、同時に
出した76四死球はいただけなかった。一軍登板はなかった。
2年目のキャンプ。湯口のコントロールのなさに業を煮やした首脳陣はフォーム改造に取り組ませた。
湯口から豪快なワインドアップが消え、ノーワインドアップとなった。球道は多少定まるようになったが、
持ち味の剛速球と大きなカーブが消えた。2軍投手コーチの中村稔は湯口のフォーム改造に最後まで
反対した。彼自身、フォームをいじられて調子を崩したことがあったからだ。その後、直談判して元の
フォームに戻し、20勝投手の仲間入りを果たしたのである。しかし、2軍投手コーチの進言に一軍の
監督が耳を貸すことはなかった。
悩んだ湯口は父親に電話を入れている。父は「それがプロの壁だ」といって息子を励ましたが、覇気
のなさが気になった。湯口に異変が表われた。
中村二軍投手コーチは、キャンプの休日には若手を引き連れてよく遊びに出かけた。宮崎海岸で
遊んだ時、中村は湯口の様子がおかしいのに気づいた。波を怖がるのである。それどころか、テレビ
に映った海の波からも逃げるようなそぶりを見せた。二軍マネージャーの藤本健作も湯口の異変に
気づいていた。今まで冗談を言い合って笑い転げていた仲間とも話をしなくなっていた。
そんな湯口を、二軍監督の中尾硯志がつききりで指導していた。藤本は「たまには解放してやった
方がいい」と思っていた。
2年目も湯口は一軍で投げることはなかった。ファームの成績は2勝3敗、防御率6.98。
悪くなっているようだが、後半になってからは首脳陣も目をむく素晴らしいピッチングをした。秋の教育
リーグでも、ロッテ戦で完投するなど活躍した。首脳陣も期待した。その証拠に、1年目より成績自体
は落ちているにも関わらず、年俸は15%近く上がっている。契約の席でも、来季の一軍を約束した。
その年の晩秋。巨人の寮生たちは、毎年恒例の無礼講の飲み会を行なった。無論、2軍首脳陣も
公認である。ひさびさに明るさを取り戻した湯口も、同僚たちと浴びるほど酒を飲み、朝方まで大騒ぎ
した。
翌日、湯口は同僚と後楽園へ向かった。ファン感謝デーである。前の日に飲み過ぎて、湯口は完全
に二日酔い状態だったが、それはみんな同じだ。催しで紅白戦の予定はあるが、一軍主力が出場する
ことになっており、湯口たちは出番がないと言われていた。酒が抜けていなくても問題ないはずだった。
しかし、その紅白戦になると、川上監督は突如、湯口に登板を命じた。ファンへの顔見せという意味
もあったろう。何と言っても湯口は巨人のホープなのだ。
が、湯口は打たれた。2死をとっただけで打者一巡、2ホーマーを浴びるという散々な出来だった。
前日のことを考えれば仕方のないところだろう。しかし、ベンチへ戻ると待っていたのは中尾二軍監督
と川上監督の叱責と怒声だった。湯口は悄然として球場を後にした。
その夜、中村二軍投手コーチはファームのバッテリーを自宅に招いて慰労会を開いている。事前に、
選手たちから「湯口の様子がおかしい」と聞いていた中村は、彼を見て唖然とした。中村は励ましたが、
湯口はうつろな目をして頷いただけだった。
中村は、寮に予め連絡を入れた。選手たちは多少門限に遅れるかも知れないが大目に見てくれ、
という親心である。実際、その通りになったのだが、湯口はその夜、とうとう寮へ戻らなかった。
激怒したのは中尾二軍監督である。怒鳴りつけ、最後には鉄拳をふるった。
湯口の様子が本格的におかしくなったのはそれからのようだ。
その4日後、恒例の納会が熱海で行なわれた。一軍二軍合同で、全選手とスタッフ、フロントが集まる。
そんな中、湯口は宴会にとけ込めず、一言も喋らない。仲間が話しかけても無言だった。湯口がおかしい
ことにひとり気づき、ふたり気づいた。やがて大騒ぎになった。中尾二軍監督は、慌てて湯口の実家に
連絡した。
翌日、中尾二軍監督とともに読売の診療所を訪れ診察を受けた。鬱病という診断だった。すぐに都内の
専門病院に入院した。このことはトップシークレットであり、球団でもごく一部にしか知らされなかった。
対外的には「風邪をこじらせた」ということにした。
2度の入院を繰り返した結果、医師は、かなり病状が回復したとしてグラウンドに出ることを許可した。
翌年の2月15日、湯口はひさしぶりに多摩川に姿を現した。完全な状態ではなかったが、マスコミ向け
という意味もあった。マスコミは、消えた湯口に対して、女性問題や暴力団との交際など、勝手な憶測
記事を掲載していたのである。彼らは湯口に殺到したが、中尾監督やコーチがスクラムを組んで湯口を
ガードした。
体力の衰えは隠すべくもなかったが、湯口はそのまま都城の二軍キャンプに合流することとなった。
その初日のことである。
宿舎で湯口と同室の淡口が、藤本マネージャーのところへ駆け込んできた。湯口の様子が変だ、と
いう報告に藤本が部屋へ行くと、湯口は壁に向かって座って微動だにしなかった。藤本が声をかけて
も反応がない。同僚とテレビを見ていて、突然「怖いよ!」と叫んだり、真夜中、夢遊病者のごとく歩き
回ったりした。翌日、湯口の東京送還が決まったが、それを聞いた湯口は「野球をやらせてくれ!」と
絶叫したという。そのまま藤本に付き添われ、羽田へ到着したが、そのロビーで湯口は突然奇声をを
あげて大暴れした。空港警備隊が彼を取り押さえた。
そのまま病院に直行した湯口は緊急入院、面会謝絶となった。対外的には、風邪、肺炎、調整の
遅れ、などと言っていた。そんな3月22日、都内に住んでいる叔母と従姉妹の見舞いを受けた直後、
湯口は帰らぬ人となった。医師は「心臓麻痺」と言った。
実家で執り行われた葬儀に、巨人からは藤本を含め4名が列席した。当然、湯口家は好意的では
ありえない。「巨人に殺されたんだ!」という罵声を受けたのは、湯口を最後まで気遣った藤本マネー
ジャーであった。川上監督はもちろん、中尾二軍監督も列席していない。
釈然としないのは湯口の同僚たち、つまり二軍の選手たちも同じだ。一軍には当日の夕方には知ら
されたというのに、一緒に練習した二軍選手たちには翌日になってからようやく報告があったのである。
ニュース等で事前に知り、球団葬がムリなら寮葬をやれないか、と話し合っていた矢先だっただけに、
うつむき加減に事実を伝える中尾監督を冷ややかに見つめていた。そもそも、湯口が入院したときに
しても、詳しいことは何も知らされなかった。見舞いにも行けなかったのだ。
二軍の某若手選手が語った。「湯口だけじゃないんです。一昨年もノイローゼで退団した選手が
いました。このチームは、周囲に文句を言わせない実力があるか、運が良いか、強い性格のやつじゃ
なきゃやっていけないんです。フォームの狂いを1センチ単位で指摘されるんですから」