資本論を読破した共産党員のスレ

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1革命的名無しさん
実際に読破した人っているの?
2革命的名無しさん:2008/05/08(木) 18:10:44
現代政治経済学における最重要課題は超過利潤による買収に関連する諸社会現象である!
この超過利潤による買収こそ現代日本人にとって避けて通る事の出来ない、日本人と
その社会を腐敗と混乱、犯罪の充満せしめている焦眉の最重要課題なのである!
馬鹿マスコミをはじめ全大学、研究機関はこれについて何等の報道も発表もなし得ず、
すべては反動独占権力の忠実なる支配体制維持のためのイヌの群れとして日々の糧を
食い繋いでいる!
鼠一匹逃げおおせる事の不可能なスパイ密告社会と超過利潤による買収とが現代日本経済的帝国主義の
生命を生き永らえせしめているのである!
戦前戦中における苛烈極まる天皇制軍国主義の弾圧のもとで闘った我が共産主義者の輝かしい
戦歴を今こそ顧みて、超過利潤による買収と闘う事こそ我々の歴史的任務なのである!
3革命的名無しさん:2008/05/09(金) 00:01:24
同志諸君!人民解放の為の経済学を我が日本の客観的諸情勢に創造的に応用発展させようでは
ありませんか!
そこにこそ生命力溢れるマルクス主義の本質が存在するのです!
旧態依然の訓古的解釈においてはマルクス主義はマルクス主義を否定するものでしかありません!
生き生きとした他と連環した事物の分析と総合、上向と下向の統一こそマルクス主義の哲学なのです!
決して干からびた死んだ他と切り離されたバラバラのものとして事物を観てはなりません!
弁証法的に事物の諸現象から運動法則を抽出しなければなりません!
4国際勝共連合と北の不思議な関係:2008/05/09(金) 00:34:23
韓国の代表的なカルト宗教であり、日本をはじめ世界各地に跳梁跋扈する世界基督教統一神霊協会(統一教会) の創始者である文鮮明。
かたや、共産主義国家ながら世襲という制度を臆面もなく導入した北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金日成。
反共カルト宗教と亜種の共産主義とはいえ、かれらに接点がなぜ生まれたのだろうか。
5革命的名無しさん:2008/05/09(金) 04:04:29
共産党においては、不破さんの解釈にそって読まなくては読破したことにはならないのです
6革命的名無しさん:2008/05/09(金) 07:49:01
灯台もと暗し
7何者:2008/05/09(金) 08:13:43
2の方へ
その書き口調自体「戦前の軍国主義」そのものですよ。
今までの社会主義国が全て間違いを起こしたのもそれが原因。
体制こそ社会主義だが指導者の意識改革は軍隊のものを踏襲している。
その事に全く気づかず軍政を敷く社会主義国家の行く末を私達は見て
いる。何故反省しないのかね。
8革命的名無しさん:2008/05/09(金) 08:49:16
7へ。7さんは国とライオンズクラブから多額の闇金を貰って生活しておられると見受けられる!
今や我々ワーキングプアは働いても働いても生活し得ない状況に陥れられている!
言わば、憲法に保障された生存権、基本的人権を畢竟脅かされているのである!生存権すら脅かしている敵、権力に対して7さんの
如く宥和的な論戦で以って挑む愚か者は存在しないのである!
唯、権力から闇金を貰い迎合する者のみが宥和的な論調を好むのである!
敵は我々ワーキングプアの生殺与奪を握っているのである!
この掲示板と言う戦場においとは彼の「座して死を待つよりも闘って死ぬ」が、我々の座右の銘なのである!
掲示板は我々ワーキングプアにとって戦場である事を指摘して置く!
貴族の如く遊びでは無く、一行一行が権力に対する生命を賭けた闘いなのである!
9革命的名無しさん:2008/05/09(金) 09:40:21
7は白丁の殺人遺体遺棄証拠隠滅住居不法侵入の日本共産党員である。
かような白丁党員は直ちに除名し司直に突き出すべきであるのを、不破内乱罪容疑
売国奴ファシスト指導部は事件勃発以来10年が経過した今日尚何等の処分をなし得ないでいる!
これが憲法蹂躙そして法律蹂躙の反民主的反革命的犯罪行為であることは天下周知の明白なる事実である!
10革命的名無しさん:2008/05/09(金) 12:20:07
おそらく誤読したんじゃねーの?
11革命的名無しさん:2008/05/09(金) 14:09:45
資本論読破するより、不破さんの言ってる事聞いた方が分かりやすいし説得力がある。
それと同時に、資本論よりも、空想から科学へを読んどくのが良い。ヲタなら共産党宣言も読むべき。
不破さんの資本論の読み方も、空想から科学へを参考にしてるものと思われる。

あれを読んで共産主義に傾倒しない人は、よほど嫌味な人間だと思うし
読んだ上で資本論叩いたら相当なワル、稀代のワルなんじゃなかろうか。
空想から科学へを読まない人に資本論叩かれても何とも思わんけど。
12何者:2008/05/09(金) 14:57:25
やはり妄想癖のある方なのか。
私はそんな優雅な身分ではないです。
アパレルショップ経営がうまくいかず閉店に追い込まれた不幸な人間なの
ですよ。
でも人に頼るのが嫌いでなんとかまた人生を立て直そうと必死になっています。
13革命的名無しさん:2008/05/09(金) 18:45:46
>>12
君はまだ幼い。黙っていなさい
14革命的名無しさん:2008/05/10(土) 08:57:57
>>11
不破カルトかよ。キモいな。
共産主義は宗教ではない。
15革命的名無しさん:2008/05/10(土) 09:08:34
不破は屑中の屑!

内乱罪容疑で即刻除名告訴を!
16何者:2008/05/10(土) 09:13:11
黙ってられないですが。
チャウシェスク元大統領を射殺したのも軍です。
彼が一番懇意にし育てた軍に彼は殺されたという皮肉な運命がそこに
ある。
それはなぜか。
社会主義とはいえ人の信頼を裏切る行為は死んで償うのが指導者の
運命だということ。
それは古代ローマ帝国の頃から変わってはいない。
あなたはそれができますか?
あなたの誇大妄想が人を幸せにできるとは到底思えないしそれが何故
社会主義の理想とは何なのかをもう一度書いてほしい。
少しでもあなたの立身出世に関わることが書いてあるならその時点
で信頼はゼロになります。
17何者:2008/05/10(土) 09:15:32
訂正、社会主義なのかをもう一度書いてほしい。
18革命的名無しさん:2008/05/10(土) 09:51:07
そんなイロハのイも理解不能な頭して何で共産版徘徊してるんだ?
19革命的名無しさん:2008/05/10(土) 10:02:11
実に怪しい奴だな!(笑)
20革命的名無しさん:2008/05/10(土) 10:09:58
チャウシェスクは金日成に諭されて、あのような独裁体制をしいて最後を迎えたのさ。

分かるかい?白丁よ?
21革命的名無しさん:2008/05/10(土) 10:12:08
チャウシェスクはミヤケンの親友。
無かったことになってますけどね。
22革命的名無しさん:2008/05/10(土) 10:56:56
>>16
人を幸せに出来るのは科学だけ。宗教も運動も麻酔に過ぎない。
人が幸せになる事も、社会が進歩する事も、ダーウィンの進化論と同じようなもんだ。
空想から科学へを読めばそういう事が分かる。

不破さんは自分の科学観に沿って発言しているだけなんだろう。
そりゃちょっとは運動家としての意気込みもあるだろう。
それを読み解けない盲目なる羊が多いんだね。

君はまだ幼い。やはり黙っていなさい
23革命的名無しさん:2008/05/10(土) 11:09:37
>>22
君も幼い。黙っていなさい

世の中には幸せな人も居ればそうでない人も居る。
時がたてば生活は楽になるし、いつかはそれを多くの人が享受できるようになる。
ダーウィンと社会科学を重ねるとすればそういうことだろう。
科学も宗教も運動も、その社会変革のうねりの一つだ。何もしない事も。

不破さんは紛れもない運動家だ。
だが、自分の科学観をもとにした将来の展望も持ってる
それは、2、300年後に共産主義革命が起きるという、
今運動してる人にとっては、何とも物悲しくもあり残無い話である。
本人はそれをロマンと言っているが。
24革命的名無しさん:2008/05/10(土) 11:44:20
不破は数人の日本人男女を自衛隊を使って虐殺した内乱罪容疑の人殺しだぞ。
人殺しを議長に居座らせている反革命日共党員ども!
25革命的名無しさん:2008/05/10(土) 11:47:23
>それは、2、300年後に共産主義革命が起きるという

手形のジャンプみたいなもんだな。
26革命的名無しさん:2008/05/10(土) 12:37:23
消えろ!邪魔だ!目障りだ!
自衛隊2CH工作員め!
27革命的名無しさん:2008/05/10(土) 13:17:53
執念深い狡猾な自衛隊は2CHにカキコすんな!

ボケィ!アホンダラ!

おまいら全員銃殺だ!
28革命的名無しさん:2008/05/10(土) 14:11:01
自衛隊及び家族、遺族からボケ等が国庫から略奪した全財産を奪い返す事は左翼の至上命題なのです。
29革命的名無しさん:2008/05/10(土) 14:13:03
貨幣制度は如何にすれば廃止し得るのですか?
30革命的名無しさん:2008/05/10(土) 16:33:17
そりゃ貨幣を交換票にすり替えるだけで即時に実現可能さ。
31革命的名無しさん:2008/05/10(土) 16:53:30
交換票が今度は貨幣の代わりをするだけですな
32革命的名無しさん:2008/05/10(土) 16:56:43
交換票なら組織から只でいくらでも手に入るのですか?
33革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:00:29
あまり多く発行し過ぎるとインフレになるので、その国家の信用力に見合った一定量でしか発行出来ないでしょう
34革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:01:20
あくせく強制労働に従事しなくてもいい訳か?
35革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:04:13
宇宙人が地球を支配するとしたら
まず紙幣の偽造ですなあ。あっさり支配できます、はい。

電子マネーになっても一緒ですよ。宇宙人のほうが賢いんです。
36革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:05:54
33へ。しかし貨幣=通貨とは質的に異なるものだからインフレの心配は無いでしょう。
何しろ計画経済の更に先を行くのですから。
37革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:10:39
注)その頃には地球人は宇宙人と和睦し偽造もしない協定が締結されるニダ。
38革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:16:51
>>36
@どっかの強国が交換票を発行

A他の国の交換票より優位的交換性を発揮

B@以外の国の交換票は相対的に価値が下落

C結果、@の交換票が基軸交換票となる

C弱交換票票の価値<モノの価値となりインフレ

こんな結果になるんじゃないか?多分・・・
39革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:17:22
それを共産主義革命と言うのだ
40革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:20:17
貨幣の代わりに交換票を発行するとか言った奴はアホだなw
41革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:21:13
国境はもう死滅している近未来を想定不能の学習不足多数発見!
42革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:24:27
ハッキリ言えることがある。
お前らより、23世紀の中国国家首席の方が頭柔らかいよ。
世の中が変わるってのはそういうこった。

石油?あんなもんネチャネチャした臭え液体だ。
ガス?あんなもんスカスカの臭え気体だ。
国境なんかどーでもええわ。
43革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:25:01
>>41
国境の死滅と国家の消滅→文明の廃墟が横たわる暗黒未来社会
44革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:26:15
中国はなんであんななのかを考えると、未来が非常に明るいことが分かる。
日本がすべきなのは、中国と争うことじゃなくて
新しいエネルギーの生産と消費の仕組みを開発することだ。
45革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:26:56
交換票云々はマルクス主義の先達が、その天才的な予見の中で述べていた事実だぜ。
一寸先も見通せない馬鹿にはアホに見えて当然だ!(笑)
46革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:28:23
今の中国の嫌味な部分ってのは
すべてエネルギーと資源の調達に絡んでるんだよ。
それに価値が無くなれば、中国共産党は一気に軟化するだろう。
究極大衆迎合政党となるだろう。
キューバとベトナムを見りゃ分かる。資源の無い共産主義国家はどこもゆるい。
47革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:32:21
新しいエネルギーの生産とは、既存の元素の原子核中の粒子や電子を新たに組み合わせた
不足している元素の創出と量産で可能です。
48革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:36:05
43はH.G.ウェルズに洗脳された石頭。見事に本気にしてら。(笑)
49革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:38:18
大体、ウェルズのあの著作だけは真っ赤な嘘だと言うのに。
50革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:44:02
>49
「世界最終戦争の夢」?赤な嘘はレーニンの方だろ。(笑)
51革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:48:32
ま、確かに月世界旅行だけは、その通り実現させた国があることはある。
52革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:53:15
「月世界旅行」の筋書き通りにアメリカが実行した、と言う夢の無い話しだったなあ。
53革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:56:33
時間機械の通りに実行する国が現れれば話は本当になるな。
54革命的名無しさん:2008/05/10(土) 17:58:21
>>52
アポロ計画は嘘だった←この説がホントだったら逆の意味で夢のある話ですね
http://blogs.dion.ne.jp/spiraldragon/archives/6540137.html
55革命的名無しさん:2008/05/10(土) 18:09:00
国家の死滅と貨幣の廃止は一体どちらが早いのか?
56何者:2008/05/11(日) 07:36:04
宇宙人っていうのも色々種類があるだろう。
グレイ型の宇宙人はどうも地球人のように食物を食べている分けでもない
ようだ。
おそらくサプリメントか栄養剤のようなものを体内に注入しているのだろう。
科学が発達しすぎると人間は運動能力が極端に衰える。
今の工場ではロボットが主な製造工程を補っているが人間はそれを見ているか
移動させるための手作業のみに限定される。
すると足腰は直立だけのみの姿勢になるから腰や膝にかなりの負担がかかる。
多少は脚を動かした方が運動として正しいのにそれができないような作業
になっている。
するとやはりそれらの負担を和らげるためにサプリメントを使用する。
段々地球人も宇宙人化していってると思うのですよ。
57革命的名無しさん:2008/05/11(日) 12:35:33
顔とか体形が変わっても
そういう進化はしないよ。

知識の蓄積という意味では宇宙人化してるけど。
58革命的名無しさん:2008/05/12(月) 10:16:45
開かれた系としての第一信号系と閉じられた系としての第二信号系。
人間の認識運動は無限です。
59革命的名無しさん:2008/06/20(金) 02:59:41
経済学のけの字も知らない俺が読み始めていいものだろうか
資本家嫌い、労働者万歳って気持ちはあります
60革命的名無しさん:2008/06/20(金) 04:40:34
21世紀の人間が19世紀の本、しかも量はやたら多く中身はやたら難しい本を読むなんて、得る所はあまりないんじゃないの?
それより、大学経済学部1年あたりに人気の、資本主義を前提とした経済学の入門書あたりから始めたほうがいいんじゃないの?
それで、「ん?でも現在の惨状は説明できてないな」と矛盾を感じたら、歴史をさかのぼりながらマルクスにたどりつけばいいんじゃないの?
61革命的名無しさん:2008/06/21(土) 17:25:40
>>59
その気持ちが一番大事。
働く人を嘲り、貧乏人を見下すおsageさんは、いくら共産党を支持してコピペに励んでも所詮労働者の敵です。
マルクスを読んでも賃上げに反対するようではね。
62革命的名無しさん:2008/06/21(土) 19:11:17
『資本論』読んでほしいね。共産党員ならば。それが出来なければ『共産党宣言』
だけでも。
63革命的名無しさん:2008/06/21(土) 19:29:23
>>59
がんがれ。アホほどゆっくり読むのもよかろう。
http://red.ap.teacup.com/shihonron/

64革命的名無しさん:2008/06/21(土) 19:31:37
>>60
それもまたよし。演繹法だね。でも、資本論がいきなり資本主義の
矛盾を明らかにしているわけではない。

商品の分析から始まる、あの一大叙事詩のような、入り組んだ、
陰影とドラマに富んだ、あの世界を味わっておくことは、理論に
限らず得るところが多いと思う。
65革命的名無しさん:2008/06/21(土) 19:33:26
Q.よくこの板で呼ばれるオミンスってどういう人?

A..この人は書き込むキーワードで特定されています。
「自公共連立」「していやがる」「ネオナチ」「ゴイム」「共産厨」「おsage」「字間空け」「スピリチュアル系」等の特異な用語を使用します。
その書き込みの多くは自己の本性の投影とみていいようです。

Q.なんでオミンスさんは嫌われるのですか?

A.質問に答えないで逃走する習慣があるからです。
 たとえば、共産党が肝炎薬害訴訟の原告団を中傷している、あるいは、
 共産党が石原は浅野よりはマシだと主張した、などと数々のデマを垂れ流しておきながらそのソースを問われると逃走しました。

Q.この人の書き込みの目的はなんですか?

A.当人以外理解不能ですが、共産党を攻撃することに使命感があるようです。
 ありがちなパターンとしては、朝鮮人や部落問題や同性愛などに対する差別的な書き込み、改憲右翼的な書き込み、
 あるいはユダヤ陰謀論的な書き込みがあると、なぜか共産党の書き込みということにする書き込みを行います。
 その多くは自作自演が疑われています。

61 名前:革命的名無しさん 投稿日:2008/06/21(土) 17:25:40
>>59
その気持ちが一番大事。
働く人を嘲り、貧乏人を見下すおsageさんは、いくら共産党を支持してコピペに励んでも所詮労働者の敵です。
マルクスを読んでも賃上げに反対するようではね。
66革命的名無しさん:2008/06/21(土) 20:18:08
>>62
なんかずいぶんと差があるな
『共産党宣言』なら高校生でも読めるだろ
67革命的名無しさん:2008/06/21(土) 23:17:41
>>66
最近は、『共産党宣言』すら読んだことが無い党員がいると聞いたことがありまして・・・
でも、確かに『共産党宣言』は読みやすいですよね。
68革命的名無しさん:2008/06/22(日) 04:25:02
サゲ輔は赤旗さえ読んだことがないらしい。
じゃなきゃ公明党の政策を主張したりしないと思います。
69革命的名無しさん:2008/06/22(日) 18:40:36
Q.よくこの板で呼ばれるオミンスってどういう人?

A..この人は書き込むキーワードで特定されています。
「自公共連立」「していやがる」「ネオナチ」「ゴイム」「共産厨」「おsage」「字間空け」「スピリチュアル系」等の特異な用語を使用します。
その書き込みの多くは自己の本性の投影とみていいようです。

Q.なんでオミンスさんは嫌われるのですか?

A.質問に答えないで逃走する習慣があるからです。
 たとえば、共産党が肝炎薬害訴訟の原告団を中傷している、あるいは、
 共産党が石原は浅野よりはマシだと主張した、などと数々のデマを垂れ流しておきながらそのソースを問われると逃走しました。

Q.この人の書き込みの目的はなんですか?

A.当人以外理解不能ですが、共産党を攻撃することに使命感があるようです。
 ありがちなパターンとしては、朝鮮人や部落問題や同性愛などに対する差別的な書き込み、改憲右翼的な書き込み、
 あるいはユダヤ陰謀論的な書き込みがあると、なぜか共産党の書き込みということにする書き込みを行います。
 その多くは自作自演が疑われています。

68 名前:革命的名無しさん 投稿日:2008/06/22(日) 04:25:02
サゲ輔は赤旗さえ読んだことがないらしい。
じゃなきゃ公明党の政策を主張したりしないと思います。
70革命的名無しさん:2008/06/22(日) 21:04:53
代々木に巣食う連中に限らず、
自分を強酸主義者と自覚してる連中でも
『資本論』を三巻全て読破し、且つ、理解しちょる連中なんぞ
終ぞ見たことがないがのう。
もうちょい言えばだな、頓馬なサヨクどもがヘーゲル論理学を基底にした
価値形態論を理解できるはずもないがな。
71中根慎一@アドバックス:2008/06/22(日) 22:47:20
GET MONEY の斉藤亜紀の正体は中根慎一
しかも、アドバックス 【4749】 の筆頭株主で取締役です。
彼にはかなり黒い影が背後に控えているそうです 。 公人なのに。

あのチャンスイットの代表取締役会長も兼任してるぞ。
72革命的名無しさん:2008/06/23(月) 07:05:01

        /:;:;:``丶、、:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;l
        |:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;``T;:;:ー――;:;:'';:";:´ ̄;:;|
       /三'ー- 、:;:;:;:;:;|:;:;:;:;:___;:;ョ――彳
       !三、 r=ぅ` ̄ ̄,二、    _Z三三ミ'、
       ,'ミ'^   ̄      ゙ー'   -ニ,三三三;}
       lミ,! '´ ̄`゙ヾr'_ 、_,-' " ゙゙ " '  'ヾ三三ム、
       {ミ! `、二ニ'` =キ ー‐--_;彡'  }三シT'i|
       ヾ!    ,ィ:   :.、` ̄´     ,}三/i Y/   ヒークシッ!
       l !   /(_  ,,..ノヽ      }三リ レ/
   。   { l,  /   `"U´  ヽ     }三、_ノ  
       o'、 '  fエェェェz、、 ',     彡z‐ミ、
     。   ヽ   ゙トミ二二≧) ;  i    シ} ヽ、
    。 。 o  ヽ0 `'ー'-'-'‐'′ノ ,'  / / /:.ヽ
  o       o ゝ.丶 ̄ ̄´ '" ノィ"  / /:.:.:.:.ヽー 、
     0   /イ`i 、 ___,. ィ゙´ヽ',/ /:.:.:.:.:.:.:.) ,}、
    _,. -―ァ' /:.:.l 丶   :.:.:.:hj.  / /:.:.:.:.:.:.:./ / 丶、
_,. - '´    { ヽ:.:.:ヽ ヽ、   } / /:.:.:.:.:._,.:-'゙ /     \
73天照天皇右翼馬鹿しね:2008/06/23(月) 07:46:20
天照天皇右翼馬鹿しね
74革命的名無しさん:2008/06/23(月) 13:07:55
>>70
するってーと、資本論を全部読破しなけりゃ、
マルクス主義者じゃねーって言いたいんかよ?
そいつぁ、ちょいと了見が狭いぜ。
75革命的名無しさん:2008/06/28(土) 16:39:01
>>74
『資本論』はマルクスの思想の到達点だから、
彼の思想を理解しようと欲するならば、全巻を読むことになる。
76革命的名無しさん:2008/06/28(土) 17:03:06
>>75
つーことは、マルクス主義者ってのは、正しくは
「マルクスの思想を理解しようと欲する」連中ではないから
マルクス主義者たる者は資本論の全巻を読破する要はねーと。
これでOK?
77革命的名無しさん:2008/06/28(土) 21:48:15
とりあえず今の経済学学んでる学生は「共産党宣言」と「賃労働と資本」読めば
それで良いんじゃないの?
団塊世代の左翼は資本論どころか、上の二つさえ読んでなかった奴、大勢いるだろうし
78革命的名無しさん:2008/06/29(日) 01:28:39
とりあえず汗水流して苛酷な搾取の実態を身を以って体験することだ!
実践と現実から離れた理論は無意味であり有害である!
79革命的名無しさん:2008/06/29(日) 01:34:19
修正主義者ファシストたる不破哲三がペテンイカサマ理論家としての典型である!
80革命的名無しさん:2008/06/29(日) 09:39:35
資本論を読破? 馬鹿じゃねーの、お疲れさん。
でも、あぁいう本の内容って、2〜3年たつと忘れちゃうんだよね、ふつう。
81革命的名無しさん:2008/06/29(日) 09:46:20
>>80
"2〜3年たつと忘れちゃう"のが馬鹿。
82革命的名無しさん:2008/06/29(日) 09:47:12
大著に挑みたいなら、まずは「資本論」より「源氏物語」でも読め。

もののあはれを解する左翼になれるぞ。

原文で読むには及ばん。

田辺聖子「新源氏物語」「霧ふかき宇治の恋」あたりがお薦めだw
83革命的名無しさん:2008/07/04(金) 21:30:27
ほな、『資本論』ぼちぼち行きまひょか。
講師ハンはOFW氏の過去カキコを、勝手に使わせてもらいます。
お先に、おおきにって言わせてもらいまひょかね。
ほな、行くえ。

180 名前:OFW :02/03/24 20:41
>>176(吉本隆明さん)
>秋葉原や歌舞伎町に集う人
がお気に入りの様で、スレのテーマに関連付けてみよう。
彼ら(経済学的には<消費者>と一括されるが)は何故集うのか?
その疑問は、マルクス『資本論』第1巻第1章第1節冒頭の叙述に直結する。

「資本家制生産様式が支配的に行われている社会の富は<巨大な商品の集積>として現われ、個々の商品は
 その富の要素という形式として現われている。したがって、われわれの探求は、商品の分析から始められる。」
(訳はネット上の某訳を少し修正したもの)

つまり、商品を求める貨幣の所有者(購買者)と、貨幣を求める商品の所有者(販売者)とが集う場所が秋葉原や
歌舞伎町であり、(他人が欲しがるモノへの欲望でなく)他人が所有しているモノおよびカネへの欲望同士が出会
う場所(つまり市場)ということが、その本質なわけです。
無論、それはまだ資本主義世界のほんのトバ口であり、価値の流通界や、とりわけ(>>174のような)その地下室
である生産界は見えていないが、既にマルクスはそこに商品の謎めいた姿が現れているのを見逃さない。
84革命的名無しさん:2008/07/04(金) 21:31:45
292 名前:OFW :02/05/17 05:25
「商品は、まず第一に、一つの外的対象であり、その諸属性によって人間の何らかの種類の欲求を満たす一つ
 の物である。」(『資本論』第1巻第1編第1章第1節)

すぐに気がつくことだが、上記において通常は商品の一種とされているサービス提供は除外されている。このこ
とは価値を考える上で重要な点であり、サービス労働の成果が譲渡可能なモノ(*1)ではない以上、本来サービ
ス提供は商品には成り得ないのである。
たとえば、床屋の労働はお客の頭(髪型)において対象的形態をもつが、無論、客の頭は商品ではない。また、
芸人が歌う唄はお客の精神に感動を呼び起こすが、未だに精神を譲渡した者はいない。実際、国民経済学(近代
経済学)の<財およびサービスの生産>という概念には、本来モノではない労働をモノとして扱う近代特有の物
象化の働きが反映されている。そして、社会の豊かさを市場価値で計る価値物神の下では、GDP(国内総生産、
すなわち一国内で生産された財およサービスの価値)という指標概念において、家事労働あるいは企業内経費
的労働を“アウトーシング”(商品化)するだけで価値額が増す、という奇妙な事態が現出することにもなる。
(*1)
「物は根拠と現存在という二つの規定が発展して一つのもののうちで定立されているものとして、統体でる。・・・
諸規定は物の諸性質であり、それらと物との関係は、持つという関係である。・・・Haben[持つ]という言葉は、多く
の言語において過去をあらわすに用いられているが、これは当然である。というのは、過去とは揚棄された有
であるからである。・・・物は、諸性質を持つかぎりにおいて現存在するものではあるが、しかし、あれこれの特
定の性質にむすびつけられているのではなく、したがって、それを失っても、その物でなくなるということはな
い。」(ヘーゲル『小論理学』第2部本質論Ac125節)
85革命的名無しさん:2008/07/04(金) 21:33:03
295 名前:OFW :02/05/18 07:39
(『資本論』第1巻第1編第1章第1節(承前)ー以下同様)
「鉄、紙などいっさいの有用物は、二重の観点から、質および量の観点から、考察されなければならない。このよ
 うな物はどれも、多くの属性からなる一つの全体であり、したがって、さまざまな面で有用でありえる。これらの
 さまざまな面と、したがって物のいろいろな使用の仕方とを発見することは、歴史的な行為である。有用物の量
 をはかる社会的尺度を見つけだすこともそうである。諸商品尺度の相違は、一部は、はかられる対象の性質の
 相違から生じ、一部は、慣習から生じる。」

有用性(モノの効用)はそれ自体相対的な概念であり、その質的な多様性と量的な大きさは主体およびモノの両
面において限界付けられている。
つまり、ある人にとって有用であるモノも、他の人にとっては無用であり得るし、また多すぎる有用物は余剰であ
り、不足する有用物は欠乏である。いわゆる<限界効用説>(価値とは限界効用である)は価値の直接性の立場
から出られない、非本質的なものである。

「ある物の有用性は、そのものを使用価値にする。」

使用価値はモノ的存在について言われるということ。日本語としては使用価値物とした方が分かりやすいかも知
れない。先にサービス提供は商品ではないと言ったが、モノでない以上、それは使用価値物でもない。
たとえば、床屋の労働は有用労働であるが、それ自体は価値物ではなく、消費的労働であるから価値をもつ生産
物を結果することもない。いわゆる労働力商品(賃労働力)とは、その主体である労働者をモノとして取り扱う場合
にのみ、何らかの意味をもつ概念である。それに対して「賃金は商品代金ではない。それは労働に対する報酬
(サラリー)である。」という通念は欺瞞である。何故なら、すべて市場において取引されるものは商品と呼ばれる
以上、労働市場(正しくは労働力市場)において売買される対象も当然商品と呼ぶべきだから。
86革命的名無しさん:2008/07/04(金) 21:35:28
299 名前:OFW :02/05/19 20:12
>>296(293さん)
>労働力商品の有用性・使用価値とは一体何に?
『資本論』の最初の章は「商品」という表題がついており、商品一般の話ですが、私の注釈あるいは敷衍的解説
(解釈)は先回りをしているために、どうしても舌足らずになる。途中を飛ばして先を読むと、

「すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的
 人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定
 された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産す
 る(16)。」(同上「第2節商品に表された労働の二重性」)

という叙述が出てきます。つまり、すべての生産労働は商品価値を形成する<抽象的人間労働>と、使用価値を
形成する<具体的有用労働>とに二重化されるということ。
また、<労働力商品>は「第1巻第4編第4章貨幣の資本への転化 第3節労働力の購買と販売」で登場します。
そこでは以下のように書かれている:

「一商品の消費から価値を引き出すためには、わが貨幣所有者は、流通部面の内部で、すなわち市場におい
 て、一商品・・それの使用価値そのものが価値の源泉であるという固有の性質を持っている一商品を、したがっ
 てそれの現実的消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造である一商品を、発見する幸運にめ
 ぐまれなければならないであろう。そして、貨幣所得者は、市場でこのような独特な商品を・・労働能力または労
 働力を、見いだすのである。」

つまり、労働力商品の使用価値とは「それが価値の源泉である」ということです。
87革命的名無しさん:2008/07/04(金) 21:36:41
300 名前:OFW :02/05/19 20:15
>>296(293さん)(つづき)
>床屋の労働と技術者の労働と工員の労働、それぞれの異同

上記引用の直後には、

「だれでも、自分の労働力と異なる商品を売ろうとすれば、もちろん、生産諸手段、たとえば原料、労働用具など
 を所有していなければならない。彼は革がなくては長靴をつくることはできない。彼にはそのほかに生活諸手段
 も必要である。」

という記述があります。先の床屋の例は、生産諸手段を所有している場合(自営業者、一括してプチ(小)ブルジョ
アという中間的階級に属する)として挙げたのであり、美容技術者や工員が生産手段を所有しておらず、美容院
経営者や工場主(資本家)にその労働力を売るしかなければ、賃労働者という階級に属することになる(サラリー
マンという意味不明な区分も同様。以前TVで破綻した某銀行の重役夫人が「主人もサラリーマンです」とか発言
していたが。)
88革命的名無しさん:2008/07/04(金) 21:37:46
301 名前:OFW :02/05/19 20:16
>>297
>スポーツ選手とかはどうなるんだろう?

近年日本のプロ野球でも労働組合(選手会)ができて、オーナーとの間で団体交渉をするようになったが、芸術・
芸能・スポーツ業界も企業化(資本主義化)され、自営(自由業)が少なくなってきた。球団に所属する(雇用契約)
か、フリーで競技会の賞金稼ぎをするか(業務請負契約?)によって、スポーツ選手の位置づけも異なるでしょう
ね。

>あと、名のある職人の労働と無名の労働者の労働は、時間や労力が一緒でも値段が違ったりするのはなぜ?

値段(労賃)とは労働力商品の価格(価値の貨幣表現)であり、価値の源泉である労働自体に価値はないのです
(これポイント)。
個別労賃は市場の競争原理にまかされているから、<労働力の質>(熟練、知識、スキル等)によって、わずか
ながらでも差異を生むでしょう。
一方、価値とは一定の社会での平均的な熟練度そして強度において、ある商品の(再)生産に必要な社会的平均
的な労働時間、を言います。結局、労働力商品の価値とは要は労働者の再生産、つまり平均的な生活に必要な
生活財の価値に還元されます。
89革命的名無しさん:2008/07/04(金) 21:39:04
310 名前:OFW :02/05/21 20:32
(第1節、承前)
「使用価値の考察に際しては、一ダースの時計、一エレのリンネル〔亜麻布〕、一トンの鉄などのようなその量的
 規定性がつねに前提されている。」

有用物の量を規定するための単位に関して言えば、可分的な素材製品については、より物理的な自然単位が使
われるが、最終製品については、当然ながら、使用可能な最低の大きさが単位となるだろう。
価値(Value)において量が本質的な契機であるのは何故か?という設問に対しては、<物の効用>自体が相対
的な存在であるという点を反省する必要がある。
ある物が有用であるか否かは、その質のみならずその現存量に依存し、必要以上に存在する有用物はその反
対つまり無用物に転化する(一般的に言えば、量が質に転化する)。
また、有用性自体に度(内包量)があり、生きる上で必要不可欠な物から、ぜいたく品にいたるまでの<必要性の
強度>をもっている。かくして、価値の限界効用説に続いて、有用物の必要量と現存量との比(いわゆる稀少性)
をもって価値と呼ぶ<価値の稀少性説>が出てくるのは見やすい道理である。しかし、それもまた(否定性に進
んではいるが)価値の直接性の立場をこえていない、非本質的なものである。

「直接性の真理はそれが媒介された直接性であることである」(ヘーゲル)。

すなわち現存在の根拠を問うことは、直接的・表面的な現象を去ってその本質に向かうことであり、哲学的反省が
必要とされる地点である。価値というテーマに即して言えば、「この有用物はどこから何故にこの世界の中に現れ
たのか?」あるいは「一体君はその有用物をどこから、どのようにして手に入れたのか?」という始源(歴史)へ
の問いが、価値の本質論の始まりとなる。

90革命的名無しさん:2008/07/04(金) 21:41:30
311 名前:OFW :02/05/21 20:34
「使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的内容をなしている。われわれが考察し
 ようとする社会形態においては、それは・・同時に交換価値の素材的担い手をなしている。」

ここで初めて使用価値と区別された交換価値が登場するが、

1.富の内容としての使用価値は社会的形態によらないが、交換価値は商品交換が一般的な社会においてのみ
  存在する富の形式であること
2.使用価値は交換価値の媒体(質料)であり、後者は前者の形相である(つまり両者は本質的な反照関係にあ
  る)ことが明確に述べられている。にも拘わらず、一般人のみならず殆どの経済学者や哲学者も両者を混同して
  おり、マルクスからそれらの区別を学んだはずの「マルクス主義」学者すらその区別を正しく理解できず、弁証法
  にあてはめた珍解釈を披瀝したりする始末である。

(たとえば、「使用価値ー交換価値ー価値(自体)の関係は正ー反ー合に対応する。」「いや、それらは有ー無ー成
の関係である。」等々言われ。)
交換価値とは<他者(非所有者)にとっての使用価値>という形式内容(規定性)をもち、使用価値の否定(他在)
を抽象的に含んでいるのは確かだとしても、本質関係(反照形式)として、より進んだ<物>(現存在する根拠)と
いうカテゴリ圏(そこでは<持つ>という、より発展した関係性が支配的である)において、初めて具体的なので
ある。
91革命的名無しさん:2008/07/05(土) 07:14:44
あの〜差し出がましいんですが、続きをお願いします。
92革命的名無しさん:2008/07/05(土) 08:16:12
>>91
暫時待たれよ。

93革命的名無しさん:2008/07/05(土) 09:49:31
OFWよ、貴様みたいな超過利潤バラ撒き買収工作に協力するような修正主義幹部などには
最後には恐怖の鉄槌がふり下されるだろう!
94革命的名無しさん:2008/07/05(土) 09:55:30
超過利潤による買収などまるで無いかのように、資本論の超マンネリ説明なんぞ行うOFWにも
良心のヒトカケラさえ残ってはいない!
95革命的名無しさん:2008/07/05(土) 11:50:46
>>94
資本論の講釈に良心なんぞヒトカケラも必要倍無いじゃん。
つか、良心なんて時代や場所や立場、つまり情況や位相が変われば
正反対にも変わる不実なヤツじゃん。
94サンはそんな不実な良心なるものに何を仮託しているのかな?
96革命的名無しさん:2008/07/05(土) 13:01:28
>>91
ほな今日もぼちぼち行こか。

312 名前:OFW :02/05/21 20:37
「ある特定の商品、たとえば一クォーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などと、要するにきわめてさ
 まざまな比率で他の諸商品と交換される。だから、小麦はただ一つの交換価値をもっているのではなく、いろい
 ろな交換価値をもっている。」

貨幣経済の下では、小麦が靴墨や絹と直接に交換されることは殆どないから、上記の言明は一つの仮設的ある
いは過渡的な世界に関わっている。
直接的現実(完成された貨幣経済)の被媒介性を論理的かつ歴史的に跡付けることは、価値の本質論として正し
い探求方法である。展開された価値形態(第3節C参照)は単純な価値形態(物々交換)と同様に、貨幣形態にお
いて止揚された契機として内包されており、その解明には弁証法的な思考が要求される所以である。
使用価値が相対的であるのと同様に、交換価値も相対的であり、交換の相手に応じて、その大きさ(値)を伸縮さ
せる。ちょうど、ある長さを計るのに、尺貫法を用いるかメートル法を用いるかで、その値が変わるように。

「しかし、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などは、たがいに置きかえうる、またはたがいに等しい大きさの、諸交換
 価値でなければならない。したがって、第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する、
 ということになる。」

相手(尺度)が変わろうと、そこに表された大きさは単位が異なるだけで、等しい大きさであり、<価値自体>は
一つであるということ。無論そのためには、実際にもたがいに置きかえる行為が(歴史的に)存在したことが前提
となる。ちょうど、メートル法が世界的に通用する過程において、まずメートル原器と呼ばれる1m長の妥当する
剛体を設けて、それを長尺やヤード尺で計測しなくてはならなかったように。

「尺度される対象の吟味は尺度の吟味でもある」(ヘーゲル)。
97革命的名無しさん:2008/07/05(土) 13:02:38
313 名前:OFW :02/05/22 01:55
「しかし、第二に、交換価値は、そもそもただ、それとは区別されるべきある内実の表現様式、「現象形態」でしか
 ありえない。」

上記の文はいわゆる<労働価値説>(価値の実体は労働である)の導入部分であるが、<現象>vs<本質>
あるいは<実体>の対立は論理的な性格をもち、ある現存在が現象と見なされるなら、そこにはそれとは区別さ
れる本質的な総体性が顕現しているのだということを指摘することは、現象主義流行りの学問の現状では、特に
重要だろう。
実際「交換価値とは何か?」と問われて、「それは商品交換における交換比率に過ぎない。」と言いながら、「ではGDPが表示している対象は何か?」という質問に、「一国で生産された財およびサービスの価値量である。」とし
て、その<名目>と<実質>の区別を「貨幣価値(同じことだが、一般的物価水準)の変動を反映するか否かの
便宜的なものに過ぎない。」と答える経済学者は、価値がその貨幣表現(価格)とは異なる実体的な存在であるこ
とを暗黙ながら認めているわけである。
実際、価値の尺度である貨幣自体の価値が変動する(いわゆるインフレーションおよびデフレーション)という不
可思議な現象は、アインシュタインの特殊相対性理論と同様、一般人には理解不能なものであるが、貨幣物神に
陥っている経済学者にも満足に説明できないのである。
98革命的名無しさん:2008/07/05(土) 13:04:22
314 名前:OFW :02/05/22 02:03
「たとえば、1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄 によって表されうる。この等式は何を意味するか? 同じ大
 きさのある共通物が、二つの異なった物の中に、すなわち一クォーターの小麦の中にもaツェントナーの鉄の中
 にも、存在するということである。」

「この共通なものは、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他の自然的属性ではありえない。」

「そこで、諸商品体の使用価値を度外視すれば、諸商品体にまだ残っているのは、ただ一つの属性、すなわち労
 働生産物という属性だけである。」

上記の数センテンスは、(ある論者により「マルクスの蒸留法」と批判されたものだが)労働と価値との関係を実体
と属性との関係として捉えたもの、ただし<商品体がもつ価値>なる物性的・自然的属性としてではなく、社会的
実体としての労働とその成果としての価値として捉えたものである。
商品交換において等置され、自己同一なものとして諸個人間の諸関係を結ぶもの、それは社会の紐帯としての
諸個人の協働的な生産であり、その結果としての価値は協働的社会の姿を経済的に反映するものである。
にも拘わらず、世の人および経済学者はむしろ結果としての価値を商品体に備わった自然的(物象的)属性とみ
なして、その本質的現存在として貨幣を置くから、貨幣こそが社会の自然的(永遠的)紐帯と考える。それは仮象
を本体ととり違えることである。もっとも、それは必然的な取り違えではあるが。
99革命的名無しさん:2008/07/05(土) 13:06:04
299 名前:OFW :02/05/19 20:12
>>296(293さん)
>労働力商品の有用性・使用価値とは一体何に?

『資本論』の最初の章は「商品」という表題がついており、商品一般の話ですが、私の注釈あるいは敷衍的解説
(解釈)は先回りをしているために、どうしても舌足らずになる。途中を飛ばして先を読むと、

「すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的
 人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定
 された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産す
 る(16)。」(同上「第2節商品に表された労働の二重性」)

という叙述が出てきます。つまり、すべての生産労働は商品価値を形成する<抽象的人間労働>と、使用価値を
形成する<具体的有用労働>とに二重化されるということ。また、<労働力商品>は「第1巻第4編第4章貨幣の
資本への転化 第3節労働力の購買と販売」で登場します。そこでは以下のように書かれている:

「一商品の消費から価値を引き出すためには、わが貨幣所有者は、流通部面の内部で、すなわち市場におい
 て、一商品・・それの使用価値そのものが価値の源泉であるという固有の性質を持っている一商品を、したがっ
 てそれの現実的消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造である一商品を、発見する幸運にめ
 ぐまれなければならないであろう。そして、貨幣所得者は、市場でこのような独特な商品を・・労働能力または労
 働力を、見いだすのである。」

つまり、労働力商品の使用価値とは「それが価値の源泉である」ということです。
100革命的名無しさん:2008/07/05(土) 13:08:37
300 名前:OFW :02/05/19 20:15
>>296(293さん)(つづき)
>床屋の労働と技術者の労働と工員の労働、それぞれの異同上記引用の直後には、

「だれでも、自分の労働力と異なる商品を売ろうとすれば、もちろん、生産諸手段、たとえば原料、労働用具など
 を所有していなければならない。彼は革がなくては長靴をつくることはできない。彼にはそのほかに生活諸手段
 も必要である。」

という記述があります。先の床屋の例は、生産諸手段を所有している場合(自営業者、一括してプチ(小)ブルジョ
アという中間的階級に属する)として挙げたのであり、美容技術者や工員が生産手段を所有しておらず、美容院
経営者や工場主(資本家)にその労働力を売るしかなければ、賃労働者という階級に属することになる(サラリー
マンという意味不明な区分も同様。以前TVで破綻した某銀行の重役夫人が「主人もサラリーマンです」とか発言
していたが。)
101革命的名無しさん:2008/07/05(土) 16:00:19
OFWよ、超過利潤から逃げて逃げて逃げ回れ!

臆病者 不破哲三よ!
102革命的名無しさん:2008/07/05(土) 16:10:49
OFWこと超臆病者 不破哲三に明日はない!破滅あるのみ!
103革命的名無しさん:2008/07/05(土) 16:32:34
OFWこと不破哲三如く、資本論を読破してマンネリ解説したところで超過利潤買収に
ダンマリし協力するような奴は資本論の敵だ!
104革命的名無しさん:2008/07/05(土) 18:00:57
322 名前:OFW :02/05/23 06:08
(第1節、承前)
「労働生産物の有用的性格と共に、労働生産物に表れている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、
 これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、
 すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。」

<抽象的人間労働>という概念は<人類>という概念と同様に抽象物であるが、諸個人が諸個人として互いに
関係を取り結び、一つの社会を形成している場合には、現実的な妥当性をもつ概念である。
たとえ、その関係が私的な商品交換(モノとモノとの関係)であり、その社会が非社会的な社会(市場)だとしても、
確かに皆が抽象的個人として人類の一員(抽象化された市民(市場の民))なのである。

「そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような
 同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない
 人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。」

ここでのポイントは「凝固体」という言葉である。自然的には労働力の支出は労働生産物の構造(物理学的には
エントロピー変化)として結果している。しかし、社会的な凝固とは、その自然的な支出が価値として現象している
点にある。このことは貨幣の登場と共に現実的なものとなる。
先の床屋の有用労働の例で言えば、それが商品として通用するのはひとえに客が貨幣の一定量を対価として
引き渡すからであり、もし貨幣がなければ、床屋の労働は価値として結晶するべき対象をもたず、したがって
商品になり得ないだろう。
105革命的名無しさん:2008/07/05(土) 18:02:32
323 名前:OFW :02/05/23 06:09
「これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力
 が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。
 それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値・
 ・商品価値である。」

上記は労働価値説の内容そのものであるが、ポイントは「社会的実体の
結晶」という表現にある。価値は決して自然的実体ではなく、人間が自
然の中から社会を形成し、自立するための営為である労働こそが社会的
実体であり、価値はその結晶としての対象化であるということ。

「したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象
 的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。」

殆どすべての人は「ある財が価値をもつ」という表現を「ある財には価
値が内在している」と同義と考えるだろうが、その途端に倒錯に陥るこ
とになる。何故なら、確かにその生産のために抽象的人間労働が支出さ
れたが故に「ある財は価値をもつ」わけだが、それは自然的な属性のよ
うに財に内在しているわけではないから。近代経済学が「価値はある主
観的なもの」と主張するのはその限り正しいが、それは決して単に主観
的なものでなく、ある客観的な存在(社会的な必要労働)の対象化であ
ることを見逃している。
106革命的名無しさん:2008/07/05(土) 18:12:41
欝陶しいわい!不破哲三めえ!貴様みたいな独占とライオンズクラブの犬なんぞ引っ込んどれええ!
なんちゅう厚かましい奴だ!?
107革命的名無しさん:2008/07/05(土) 18:25:38
OFWこと馬鹿 不破哲三よ!貴様の机上の資本論の馬鹿マンネリ解説はもう結構だから、
それを貰えずに一日100人もの人々が自殺に追い込まれているところの莫大なる超過利潤に関する分析体系化と
闘争の方が遥かに緊急の重大事なのだよ!

貴様みたいな上田庄一郎ごときのボンクラアホ息子には馬耳東風だがな!(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)
108革命的名無しさん:2008/07/05(土) 18:32:01
超過利潤に関して目を閉じる事は現代社会について、すべてどうでも良い嘘と戯言を吹聴し、
他人から冷笑を浴びせかけられる事を意味する!(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)
109革命的名無しさん:2008/07/05(土) 19:57:03
>>107
オメー、不和迭憎の『資本論』解釈とOFWのそれとの
歴然たる相違も読解出来ねんだな。

かなりストレスが溜まってそうだが、会社をリストラされたとか、
カミさんに浮気されたとか、あったんか?
110革命的名無しさん:2008/07/05(土) 20:36:31
324 名前:OFW :02/05/23 06:11
「では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、
 すなわち労働の、量によってである。」

上記の文は一種の“躓きの石”を含んでおり、「マルクス経済学」者の中にも誤解する者が多いようである。
量とは実在的な概念であり、存在するものについて使われるため、「価値の大きさをはかるためには、
それに含まれている労働の量によれば良い」と聞けば、その財の生産に実際に支出され確定した<過去の労働量>
(いわゆる投下労働量)のことを考えるのは自然ではある。もともと<実体>概念自体が過去性を帯びたもの(*2)
であり、「実体の真理は主体である」(ヘーゲル)という洞察を踏まえて、それが一定の限度内でのみ妥当性をもつ
概念であることを弁えなければ、「価値を形成する実体」という言葉を自然的実体のように捉えるのは止むを得ない
とも言えるが、そうなるとまたしても社会の物象化(価値の実体化)の罠にはまってしまう。
(*2)「実体とは偶有(直接的現実)の全体であり、自己を媒介する必然的な相関である。」(ヘーゲルちょとパラフレーズ)。
111革命的名無しさん:2008/07/05(土) 20:39:44
325 名前:OFW :02/05/23 06:13
「しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に
 現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力
 として通用する。これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような
 社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、
 労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。社会的に必要な労働時間とは、
 現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を
 生産するのに必要な労働時間である。」

直前の引用文の「諸価値の実体をなす労働」と異なり、「諸価値に現される社会の総労働力」「一商品の生産に・・・
社会的に必要な・・・労働時間」と述べられている。つまり、直前の引用では「それに含まれている労働の量」として
過去に支出された労働力を指しているように書かれ、上記では「何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間」
として未来の労働力の支出を指している。つまり<財の価値>をはかるとは、その財の<再生産>のために支出すべき
労働力をもって「実体をなす労働」をはかることだということがわかる。
実体は必然的なものであり、その自己同一性を因果関係において示すが、それはあくまで過去が現在を決定するという
相関である。それに対して、人間の生きた労働は現在の必要(必然)を未来の満足(自由)に転化させるための活動
であるから、価値のあるものを価値のないものに変える行為と言えるだろう。
112革命的名無しさん:2008/07/05(土) 20:44:29
326 名前:OFW :02/05/23 06:16
「たとえば、イギリスで蒸気織機が導入されてからは、一定の量の糸を織物に転化するためには、おそらく以前の半分の
 労働でたりたであろう。」

過去に多額の支出をして糸を購入し、在庫として抱えていた糸商人は大損となるが、それは、その(社会的な)価値が
下がったためである。価値物神に捕われ、糸の中には自らが支払った黄金と同等(以上)の価値が内在していると信じて
疑わない商人は、ヘーゲルの言う知恵の最下級学校、つまり<ケレスとバッカスのエレシウスの密儀>(『精神現象学』
A一感覚的確信、このものと思いこみ)に送り返されるべきだろう。

「労働の生産力は、いろいろな事情によって規定され、とりわけ、労働者の熟練の平均度、科学と
 その工学的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模とその作用能力によって、
 さらには自然諸関係によって、規定される。」

<生産力>という概念は唯物論的な歴史観のキー概念の一つであるが、上記の言明自体は誰でも経験的に理解できる
ものだろう。

「ダイヤモンドは地表にはめったにみられないので、その発見には平均的に多くの労働時間が費やされる。
 そのため、ダイヤモンドはわずかな体積で多くの労働を表すことになる。」

「ある物は、価値であることなしに、使用価値でありえる。人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない
 場合がそれである。たとえば、空気、処女地、自然の草原、原生林などがそうである。」

「自分の生産物によって自分自身の欲求を満たす人は、たしかに使用価値を作りだすが、商品を作りだしはしない。」

・・・ということで、取り合えず第1節が終わった。(長文失礼)
113革命的名無しさん:2008/07/06(日) 01:44:28
又、自衛隊か!不破哲三はOFWじゃねえか!馬鹿なカモフラージュなんぞすんなよ!
自衛隊っころ犬めえええ!
不破哲三を傘下に従え、豊島氏森川氏北脇を虐殺したその犯罪は米韓と内通した内乱罪だからな!
覚悟しておけ!馬鹿野郎!
114革命的名無しさん:2008/07/06(日) 02:10:29
苦労知らずの売国奴自衛隊なんぞ引っ込んどれ!アホカ!

リストラなんぞ何十回と無くやられたわい!リストラなんぞで堪えると思うのは貴様が余りに苦労しなさ過ぎるからだ!(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)
苦労知らずの犬っころ売国奴自衛隊のカキコ見てると無性に腹が立って来る!(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)
115革命的名無しさん:2008/07/06(日) 02:14:21
上田庄一郎とか言う爺さんはトンデモない大嘘つきの内乱罪容疑者を育て上げたものだぜ!(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)
116革命的名無しさん:2008/07/06(日) 08:44:41
109はOFWこと不破哲三を従えた、いつものアホンダラ内乱罪自衛隊のカモカキコ!
貴様等は全員銃殺だ!(笑)
117革命的名無しさん:2008/07/06(日) 10:14:29
自衛隊だの内乱だの銃殺だのと、軍隊オタのカキコと。
118革命的名無しさん:2008/07/06(日) 14:26:34
>>117
否、軍隊オタじゃないな。
多分、元自衛官で、官舎内で回わされたな。
その辛さ、恨み、が一連の頓馬な反自衛隊カキコになってクソ噴出したと。
119革命的名無しさん:2008/07/06(日) 14:37:21
割引現在価値やリスクプレミアムについて資本論は
どのように記述しているのですか?
120革命的名無しさん:2008/07/06(日) 15:07:21
自衛隊内では上官に反感を持つ者が、上官を射殺するのは当たり前。皆、自殺として
処理されている。(笑)(笑)(笑)
121革命的名無しさん:2008/07/06(日) 16:02:06
傑作だな!それは真実を突いてるぜ!

下克上!(笑)(笑)
122革命的名無しさん:2008/07/06(日) 16:10:04
日本の夜明けは自衛隊内部の下克上から!(爆笑)
123革命的名無しさん:2008/07/06(日) 19:51:46
下剋上すれば、アナタもキミも明日から「大幹部」(笑)
124革命的名無しさん:2008/07/09(水) 11:06:02
今朝、妹と父親の本棚を整理してたら、
昔、父親が読んでいたらしい『資本論』の中から
ピン札で聖徳太子の一万円が4枚見っけ!
妹に見つからないようにin my pocket.
やっぱ、『資本論』って役にたつぞーい!
125革命的名無しさん:2008/07/09(水) 19:12:05
なによ聖徳太子の万札って。
ニセ札じゃねーの?
126革命的名無しさん:2008/07/09(水) 19:52:57
一万円札を資本論にはさんでおくと、霊界マルクス様の玄妙な作用により、
一万円札のガラが聖徳太子に変化するのです。
127革命的名無しさん:2008/07/10(木) 00:30:08
近所に今度マルクス神社ができるらしいんですが、
氏子になるにはどうすればいいんでしょうか?
128革命的名無しさん:2008/07/10(木) 01:25:14
不破大明神のお告げと自公共裏連立の実態を唱えなされ
129革命的名無しさん:2008/07/10(木) 05:16:38
そんなことより妹のスペックを。
130革命的名無しさん:2008/07/10(木) 11:31:19
>>124
その聖徳太子の一万円札がまじでピン札なら、
一枚二万円前後で都内の金券ショップで買ってくれるぞ。

131革命的名無しさん:2008/07/10(木) 11:52:11
そんなことより妹がペニスを・・・
132革命的名無しさん:2008/07/11(金) 21:12:45
Q.よくこの板で呼ばれるオミンスってどういう人?

A..この人は書き込むキーワードで特定されています。
「自公共連立」「していやがる」「ネオナチ」「ゴイム」「共産厨」「おsage」「字間空け」「スピリチュアル系」等の特異な用語を使用します。
その書き込みの多くは自己の本性の投影とみていいようです。

Q.なんでオミンスさんは嫌われるのですか?

A.質問に答えないで逃走する習慣があるからです。
 たとえば、共産党が肝炎薬害訴訟の原告団を中傷している、あるいは、
 共産党が石原は浅野よりはマシだと主張した、などと数々のデマを垂れ流しておきながらそのソースを問われると逃走しました。

Q.この人の書き込みの目的はなんですか?

A.当人以外理解不能ですが、共産党を攻撃することに使命感があるようです。
 ありがちなパターンとしては、朝鮮人や部落問題や同性愛などに対する差別的な書き込み、改憲右翼的な書き込み、
 あるいはユダヤ陰謀論的な書き込みがあると、なぜか共産党の書き込みということにする書き込みを行います。
 その多くは自作自演が疑われています。


128 名前:革命的名無しさん 投稿日:2008/07/10(木) 01:25:14
不破大明神のお告げと自公共裏連立の実態を唱えなされ
133革命的名無しさん:2008/07/12(土) 18:06:04
おえー、みんな、解ってると推うけんど、
未だ『資本論』を読み終わってないヤツは
この夏休みに再度か再々度か識らんけど、TRYしてな。
なにも、三巻全部読破なんて言ってやしないよ。
先ずもって第一巻の完黙じゃなくって完読が目標な。
134革命的名無しさん:2008/07/12(土) 18:20:25
だれも四でおらんわ!
135革命的名無しさん:2008/07/12(土) 21:43:32
>>134
あのね、『資本論』って四巻は無いのよ。
三巻までなんよ。
そんだから、四卷でおわることはありえんな。
136革命的名無しさん:2008/07/12(土) 21:50:53
アホカ!第四部は剰余価値学説史じゃねえか。
137革命的名無しさん:2008/07/12(土) 23:30:10
修正主義者の編纂したやつやろ?
138革命的名無しさん:2008/07/13(日) 00:32:51
>>136
『資本論』は第3部までしかないじゃん。
そりゃ、巷間、剰余価値学説史を第4部として出版したいみたいな
意向があったって聞くけどさ、実際は第3部までですよ〜だ。
だから136は×、135は○。
139革命的名無しさん:2008/07/13(日) 06:59:03
>>138
オメーの勝ちだぜ。激藁
140革命的名無しさん:2008/07/13(日) 07:30:12
埼玉・松伏町で自民党支部が解散、全員離党
2008-07-12 at 20:39:48
埼玉県の松伏(まつぶし)町の自民党支部が、支部の総会で、支部解散と59人全員の離党を決めたというニュースが、「埼玉新聞」7月10日付に載っていました。

いわく、支部解散の理由は「後期高齢者問題や格差、物価高騰などを通して自民党政権に対する市民の不信感が強まっていること」、「今は党員として胸を張って歩けない」というのが面白い。


インターネットで流れてはいないようなので、全文を貼り付けておきます。
http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2008/07/12203948/
141革命的名無しさん:2008/07/13(日) 08:05:34
何を今更狡猾なことを!
沈没しかけている船から我先に助かりたいだけやんけ!
過去の悪政の責任を少しも取ろうとしないチョー狡猾な乞食ども!
142革命的名無しさん:2008/07/13(日) 08:41:24
美味い汁を吸い尽くした揚句、もはや吸えないと分かったら沈没しかけの船から我先に脱走し始める(笑)
悪政の先兵ども!
敵前逃亡で処刑とは、こやつ等の先輩のやったことだが、卑怯で臆病で無責任な脱走兵なんぞ
乞食の典型だぜ!(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)
143革命的名無しさん:2008/07/13(日) 08:44:17
ソ連共産党が崩壊していく過程と似ているね。
自公政権は崩壊寸前になるのではないだろうか?
144革命的名無しさん:2008/07/13(日) 08:46:04
>>140

後期高齢者問題の当事者が多いからでしょ。支持者に自由民主を配布しても
文句いわれるからいたたまれないということでしょう。
ハマコーの馬鹿げたCMで沖縄県民は反自民に向かったわけだから。
145革命的名無しさん:2008/07/13(日) 08:47:33
2chで建設的、紳士的議論が行われにくく、すぐに「サヨ」「ウヨ」と罵り合いが
起こるのは、自民党、または官邸筋が「2ch対策班」を作り、政府に批判的な
意見に対してはそれを口汚く罵り、「荒らし」をするための要員を金で 雇っているからです。
日々2chを使っている皆さんには、そう言えば、そんな気もするという方も多いのではないでしょうか。
様々なソースから、それを検証していこうと思います。論理的にいきましょう。

前スレ
セコウ】自民党2ch対策班24【税金で工作ですかw
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1211903200/

尚こんな痛いウヨがいたよ!的報告などは各自の判断でヲチスレへ
分散して下さい。スレ資源は大切に。
政治板でN速+その他を生暖かく見守るスレ 20
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1209213388/
146革命的名無しさん:2008/07/13(日) 08:59:33
日本の乞食どもが、まるで人ごとのように自らは綺麗な振りして(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)
自公を批判しているのを見ていると笑っちまうぜ!

一体、自公から天文学的な超過利潤をせびり取って、トコトン利用して置きながらな!(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)

闇金を過去40年にわたり極道と交換にせびり取って来た乞食どもに自公に対する連帯責任は
永遠に抹殺する事は到底、不可能である!
147革命的名無しさん:2008/07/13(日) 09:08:05
嘲笑してやるぜ!日本乞食ども!
自らの自公に対する連帯責任を免れる程、社会主義は簡単にはやって来はしないのだ!
そのような甘い変革がいともたやすくおこると本気で考えているのか?
148革命的名無しさん:2008/07/13(日) 09:12:12
共産党は真実一路です。赤旗を読みましょう。
党員になって日本を革命しませんか?
共産党は日本でいちばん素晴らしい政治集団です。
149革命的名無しさん:2008/07/13(日) 09:18:38
韓国ファシストすなわち自衛隊とユダヤの横暴に荷担しつくして来た共産党!
貴様等に一体何が出来るのか?(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)
いい加減で適当な言質抜かすんではない!
一人一人過去の自身の生き様に忠実にまず自己批判しろ!
150キーワード・プロファイラv2.0:2008/07/13(日) 09:22:02
>いたたまれない

これ、福岡のホモ田中専用ワードです。
(他に使用する人間は # 一 人 も # いません)
151革命的名無しさん :2008/07/13(日) 09:23:51
プロ奴隷がいたたまれないそうです
152革命的名無しさん:2008/07/13(日) 09:24:55
その人間としてのABCもさらさら出来ず真実から目を、自己の卑小と臆病さから背ける
輩は共産主義者ではなく嘘八百のファシストである!
153行動心理学:2008/07/13(日) 09:27:54
ね?
図星( >144 = >151 etc)でしょw?
154革命的名無しさん :2008/07/13(日) 09:29:49
>>152
B75さんの御親戚ですか?
そんな香ばしい臭いのする表現ですね(プッ
       ↓
>真実から目を、自己の卑小と臆病さから背ける輩

ところで、B75さん元気してますか?
書き込みなくて寂しいです。。

155革命的名無しさん:2008/07/13(日) 18:46:44
ソ連崩壊後のロシアで金融のデフォルトにより賃金が支払われないなど大きな混乱が続き経済規模はソ連邦の半分まで縮減した。
しかし給料の代わりに支給される物品を売り多くの人間(特に連邦関係の職員など)が急場をしのいだ。
つまり物々交換が社会を支えた時期が相当にあったのだが。

OFWのような認識ではとってもではないが想像さえできないだろう。
現実を直視できないということもであるがな。
156革命的名無しさん:2008/07/14(月) 14:18:20
名前欄に

>行動心理学
>キーワード・プロファイラv2.0

本文で

・字間空け
・「福岡のホモ」



これ、おsage以外にあり得ないんですけど。
うちはだいこを叩いても、トンデモ差別者的な行動や思想を改めない限り、いつまでも差別者ですよ。
うちはだいこは同性愛指向を持つからいけない訳ではないのだから。右翼には理解不能かも知れんが。
差別や社会的な不公正に対する怒りや問題意識が全くないから、非正規労働者や性的少数派に対する暴言を連番できるんだろうし。
男根主義云々の言い訳には愕然とした。根本的に差別根性があるから、左翼ぶるにも珍妙な理屈しか言えないんだな。
157革命的名無しさん:2008/07/14(月) 14:26:56
汚物だいこに肩入れしたところで、
小児性愛指向を持つ事を正当化する事は出来ない。

根本的に差別根性があるから、私怨に執着するにも珍妙な理屈しか言えないのだろう。
158革命的名無しさん:2008/07/14(月) 15:26:09
おまいOFWか?死ね、不破!ドアホウのアホンダラ!
159革命的名無しさん:2008/07/14(月) 17:46:51
157は明らかに馬鹿上田庄一郎の次男こと内乱罪該当反動ファシストの頭目たる不破哲三である!

これからも馬鹿変態カキコして晩節を汚し地獄に堕ちて行くが良い!(爆笑)
160革命的名無しさん:2008/07/14(月) 18:01:08
OFWこと不破哲三は変態ファシストであるが故、2CHにゴソゴソ、変態カキコして私怨を晴らす以外に
鬱屈された差別さるべきファッショ根性の発散しか持たないのだろう!(爆笑)
161革命的名無しさん:2008/07/14(月) 18:06:31
晩節を汚すは運命の必然!七赤金星!ザマミロ!
162革命的名無しさん:2008/07/14(月) 19:30:10
馬鹿右翼が書き込んでいますね。
163革命的名無しさん:2008/07/14(月) 19:34:22
うちはだいこに肩入れしている奴が
小児性愛指向を持っているということなのか?

出鱈目ばっかり書くと告訴されるかねないぞ。

164革命的名無しさん:2008/07/14(月) 19:35:38
だって、うちわだいこさんて素敵なんですもの
165革命的名無しさん:2008/07/14(月) 19:42:50
>>163
うちはだいこに肩入れする >>156 = 通名”オミンス”の、児童ポルノ愛好擁護の名演説↓
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1208659442/77
166革命的名無しさん:2008/07/14(月) 22:07:00
大体、不破が殺人鬼宮本の息のかかった変態電話魔右翼であることを理解認識し得ない
と言うのは真っ赤な大嘘であり、卑屈さと小心、臆病に由来する不安と圧迫感を除去せんが
為に無意識又は意識的に遂行されるところの大脳半球における高次神経系活動すなわち
条件反射の様々な形態の総和である!
167革命的名無しさん:2008/07/14(月) 22:20:53
そうだよ、不破は小心、卑屈、臆病、だよ!いいじゃん。ファシストとしてのすべての要件を
備えてるじゃん。
168革命的名無しさん:2008/07/14(月) 22:51:11
ファシストよ歓喜せよ!
ファシスト不破が褒めちぎられたぞよ!
ファシスト不破は料理人運転手付き豪華別荘を持ち、更にハワイに逃亡の予定!
ファシスト不破を逃亡前に除名し射殺の事!頼む!
169革命的名無しさん:2008/07/14(月) 23:23:12
反動韓国ライオンズクラブ配下の自衛隊警察の恫喝に屈し反動ファシストに無自覚にも
転落した不破哲三とその一味に対する除名措置がなされなければ、日本人民の歴史の
夜明けはやって来ない事は衆目の一致するところである!
170革命的名無しさん:2008/07/15(火) 08:27:07
王見 在 日 本 は 韓 国 ラ イ オ ン ズ ク ラ ブ が 占 令貢 中 ! !
171革命的名無しさん:2008/07/15(火) 08:37:41
おsage=不破、かよ。スゲーな。
おsage喜んじゃうよ?
まあ、いつも奇妙な狂噪状態にあると言えばその通りだが。
172:2008/07/15(火) 08:55:31
どうやら「スレ無視のマルチポスト常習」同士、「陰謀論者」同士、「悪質朝鮮排外主義者」同士、そして「いつも奇妙な狂噪状態にある者」同士、
脳波の周波数が共鳴するものがあるらしい。
173革命的名無しさん:2008/07/18(金) 16:06:46
然るべく『資本論』を理解しようと望むなら、やっぱヘーゲル論理学は必須だよね。
でありゃ、この夏休みで『小論理学』組み伏せて、その後に『資本論』へ突入、ってスキームだけどね。
174革命的名無しさん:2008/07/18(金) 17:13:56
昔は共産党に入る人ってそれなりに勉強もしていたし、ヒューマニズムがあったと思うんだよね。
最近、若い人が沢山入ったなんて共産党は悦にはいっているけれど、一概に言えないけれど今の
若い党員ってあんまり勉強もしていないし、(下手すりゃ『共産党宣言』すら読んだことがない)
ノリで入っている人が多いような気がする。だから覇気が感じられないの、今の若い党員って。
それにちょっと前まで維新政党新風を応援していたようなネット右翼が入党してごらん。ますます共産党は戦闘能力を失い、
民主党の事を笑えないくらいバラバラになるよ。昔の骨のあった共産党を知っているだけに残念だ・・・

175革命的名無しさん:2008/07/18(金) 17:17:22
日本共産党は死んだ。

しかし、国際共産主義運動は不滅である。

反動の犬どもが安らげるような場所は、この地上にはない。

親愛なる同志諸君、世界プロレタリアート解放のため、死力を尽くし、血の最期の一滴まで闘い抜こうではないか!

プロレタリア世界革命万歳!! 我々は勝利する!!

http://jp.youtube.com/watch?v=VZ47rPsLiqY
176革命的名無しさん:2008/07/18(金) 17:52:32
>>175
売国左翼が、なにを生意気な・・・

「血の最期の一滴まで」とは↓こういうこと。
http://jp.youtube.com/watch?v=0CPx4_P-x0M

貴様等ごとき輩の口にできる言葉ではないわ!
身の程知らずの愚か者めが(ワラワラ
177革命的名無しさん:2008/07/18(金) 18:07:13
>>176

腐れ右翼がほざいていられるのも今のうち

お前らに崇められたのでは特攻隊員もさぞや口惜しかろう

身の程知らずはお前だなw
178革命的名無しさん:2008/07/18(金) 18:16:26
>>177
ほっほっほ、ちょこざいなことを言うわ。
威勢の良さだけは褒めてつかわそう。
まあ良い。
汝の思うままにやってみよ。
捻り潰してくれよう。
ぶぁははははははははははは!!
179革命的名無しさん:2008/07/18(金) 18:18:29
さぁウチも共産党ビラ狩りやるぞ!
180革命的名無しさん:2008/07/18(金) 18:23:00
>>178
おう!
望むところだ。
首を洗って待っていなw
181日本共産党員:2008/07/18(金) 18:26:31
穏便に頼むよ
お願い
182革命的名無しさん:2008/07/18(金) 18:41:32
日本共産党は死んだ。

しかし、国際共産主義運動は不滅である。

反動の犬どもが安らげるような場所は、この地上にはない。

親愛なる同志諸君、世界プロレタリアート解放のため、死力を尽くし、血の最期の一滴まで闘い抜こうではないか!

プロレタリア世界革命万歳!! 我々は勝利する!!

http://jp.youtube.com/watch?v=VZ47rPsLiqY
183革命的名無しさん:2008/07/18(金) 18:49:59
日共反革命は2ちゃんでは安らいでいるようですが?
184革命的名無しさん:2008/07/18(金) 18:53:08
ニセ左翼暴力集団も2ちゃんでは安らいでいるようですが?
185革命的名無しさん:2008/07/18(金) 18:54:59
公安警察も2ちゃんでは安らいでいるようですが?
186革命的名無しさん:2008/07/18(金) 18:57:39
ネット右翼も2ちゃんでは安らいでいるようですが?
187革命的名無しさん:2008/07/18(金) 19:01:57
ひろゆき、喜べ。
2ちゃんねるは万人に等しく安らぎを与えているぞ。
本望だろ。
188革命的資本論愛読者3c:2008/07/19(土) 09:34:44
「資本制的生産様式が支配的に行われる諸社会の富は一つの『膨大な商品蒐集』として現象し個々の
商品はかかる富の原基形態として現象する。だから我々の研究は商品の分析をもって始まる」
(長谷部文雄訳 「資本論」 P113 青木書店版)

解説:あらゆる書物の善し悪るしは書物の冒頭の2行で決まる
189革命的名無しさん:2008/07/19(土) 18:58:46
OFWか?いい加減にしろ!貴様みたいな臆病変態は修正主義ファシストがお決まりだぜ!(爆笑)
経済的帝国主義の分析には程遠い死んだ干からびた玄学的「マルクス」解説は、もう
胸が悪くなるわい!
OFWよ、マンネリ「マルクス」解説して金儲けなんぞすんな(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)!
190革命的名無しさん:2008/07/20(日) 20:45:26
Q.よくこの板で呼ばれるオミンスってどういう人?

A..この人は書き込むキーワードで特定されています。
「自公共連立」「していやがる」「ネオナチ共産厨」「おsage」等の特異な用語を使用します。
その書き込みの多くは自己の本性の投影とみていいようです。

Q.なんでオミンスさんは嫌われるのですか?

A.質問に答えないで逃走する習慣があるからです。
 たとえば、共産党が肝炎薬害訴訟の原告団を中傷している、あるいは、
 共産党が賃上げに反対している、などと数々のデマを垂れ流しておきながらそのソースを問われると逃走しました。

Q.この人の書き込みの目的はなんですか?

A.当人以外理解不能ですが、共産党を攻撃することに使命感があるようです。
 ありがちなパターンとしては、朝鮮人や部落問題や同性愛などに対する差別的な書き込み、改憲右翼的な書き込み、
 あるいはユダヤ陰謀論的な書き込みがあると、なぜか共産党の書き込みということにする書き込みを行います。
 その多くは自作自演が疑われています。

156 名前:革命的名無しさん 投稿日:2008/07/14(月) 14:18:20
名前欄に
>行動心理学
>キーワード・プロファイラv2.0
本文で
・字間空け
・「福岡のホモ」
これ、おsage以外にあり得ないんですけど。
171 名前:革命的名無しさん 投稿日:2008/07/15(火) 08:37:41
おsage=不破、かよ。スゲーな。
おsage喜んじゃうよ?
まあ、いつも奇妙な狂噪状態にあると言えばその通りだが。
191革命的名無しさん:2008/07/22(火) 10:01:03
>>188
「いったい最初の一行で悩まない詩人がいるだろうか?」
って有名な文言を残した詩人もいたっけ。
192革命的名無しさん:2008/07/22(火) 14:34:23
>>191
おsageもそれくらい気を使った文章書いてくれたらいいのに。
193さげすけ:2008/07/22(火) 15:50:18
そう?
194革命的名無しさん:2008/07/22(火) 19:21:05
>>191
すんまっしぇーん、出来たらその詩人の名前おせーてつかーさい。
すッごお、気になりましたんぜ。
195革命的名無しさん:2008/07/22(火) 20:54:08
資本論、1巻から3巻まで2回読みました 
196阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :2008/07/22(火) 21:06:57
>>195
俺は3回、うち、1回は電子化作業で。
197革命的名無しさん:2008/07/22(火) 21:28:03
資本論の念仏やってるのか?読経の声が小さいぞ。
198革命的名無しさん:2008/07/22(火) 21:43:14
>>195
はいはい、解りました。
が、問題は如何に理解したか、ってことですね。
199革命的名無しさん:2008/07/24(木) 10:52:09
>>194
なーんだ、まだ誰も詩人の名前をおせーてやってないんかよ。
冷たい連中だな。
その詩人ってのはな、吉本の自慰サンよ。
自慰サンの本に因んで茶化せば、『自慰サンはこの夏を越せるのか?』
って状態とちゃうの、自慰サンって?
200革命的名無しさん:2008/07/24(木) 11:02:15
>>199
楽勝で越せるんじゃねーの。
吉本はついこの間糸井重里の主催で
連続3時間の講演会を貫徹したらしいぞ。
もっとも、その疲労が原因で"お迎え"が来た
なんてこともありうるがな。
201革命的名無しさん:2008/07/24(木) 11:11:40
と↑の内乱罪容疑の自衛隊2ch撹乱工作員が戯言を吐かして日銭を掠め取っています。
202革命的名無しさん:2008/07/24(木) 11:17:42
何を惚けたことを抜かしておるんじゃ。
この世で戯言を弄さずに生きておる人間なんぞ、一体何処に居るんじゃ?
日銭を余裕のある連中から掠め盗らすに、一体如何やって生きて行けるんじゃ?
201君はなーんも分かっておらん。
203革命的名無しさん:2008/07/24(木) 11:25:27
ボランティアでカキコしている者に対する許し難き、賎しみ唾棄すべき売国奴自衛隊ども!(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)(怒)
204革命的名無しさん:2008/07/24(木) 11:30:52
米韓と内通している売国奴にして内乱罪該当自衛隊の馬鹿低脳どもを真人間に立ち返らせるには
一体我々は何をなすべきであるのか?
205革命的名無しさん:2008/07/25(金) 09:27:07
>>204
"内乱罪"ってか?大いに結構だっせ。
内乱でも騒乱でも暴動でもなんでもいいんとちゃうの?
こんな閉塞した世の中、みんなで騒いだらええよ。
そのノリで"カクメイ前夜情況"をつくれたら最高とちゃいますの?

206革命的名無しさん:2008/07/25(金) 09:46:59
自衛隊は現実に韓国人グループと組んで日本人を尋常一様ならぬやり方で虐殺しているのだ!
暴走族の上司でもあり、日本国内を大混乱に陥れた!
すべては韓国ライオンズクラブの主導の下に顎でこき使われ、汚い天文学的な量の闇金バラ撒きに
より犯罪者どもが動いた為であった!

これらの内乱罪に対する罪の意識の些かも無い売国奴違憲自衛隊は直ちに解散しろ!ボケ!
207革命的名無しさん:2008/07/25(金) 16:03:57
反動ファシスト不破は党内に於いて不破の鶴の一声で何でも秘密りに実行出来る、と言う
実績の上に永年胡座をかいて来た為に党外の支持者に対しても同様に犯罪行為を行っても
すんなり事が運ぶとの錯乱を持っている!
全く不破にとって党内に於いては憲法も法律も無く正に無法地帯におとしめている!
不破の前には憲法や法律よりも不破自身の鶴の一声が最高法規なのである!
1998年3月末の自衛隊や朝鮮系帰化人党員どもが引き起こした虐殺事件は極右反動ファシスト不破の真のあからさまな姿であった!

不破はスターリン、金親子、チャウシェスクにも匹敵する極右反動共産ファシストなのである!

不破哲三一味が実権を握る共産党なぞは共産ファシズムの体現なのである!
208革命的名無しさん:2008/07/25(金) 17:31:12
ネット右翼が必死こいてるということは
革命が近い明らかな兆候だな。。。
209革命的名無しさん:2008/07/25(金) 19:27:45
Q.よくこの板で呼ばれるオミンスってどういう人?

A..この人は書き込むキーワードで特定されています。
「自公共連立」「していやがる」「ネオナチ共産厨」「おsage」等の特異な用語を使用します。
その書き込みの多くは自己の本性の投影とみていいようです。

Q.なんでオミンスさんは嫌われるのですか?

A.質問に答えないで逃走する習慣があるからです。
 たとえば、共産党が肝炎薬害訴訟の原告団を中傷している、あるいは、
 共産党が賃上げに反対している、などと数々のデマを垂れ流しておきながらそのソースを問われると逃走しました。

Q.この人の書き込みの目的はなんですか?

A.当人以外理解不能ですが、共産党を攻撃することに使命感があるようです。
 ありがちなパターンとしては、朝鮮人や部落問題や同性愛などに対する差別的な書き込み、改憲右翼的な書き込み、
 あるいはユダヤ陰謀論的な書き込みがあると、なぜか共産党の書き込みということにする書き込みを行います。
 その多くは自作自演が疑われています。

192 名前:革命的名無しさん 投稿日:2008/07/22(火) 14:34:23
>>191
おsageもそれくらい気を使った文章書いてくれたらいいのに。
210革命的名無しさん:2008/07/25(金) 19:41:56
痴漢して革命の情熱を煽ってくれや。
211革命的名無しさん:2008/07/25(金) 19:48:00
Q.オミンスさんの政治的主張をいくつか教えてください

A.代表的なものには、「児童ポルノ規制を推進する共産党は『少数者の人権』を抑圧する人権抑圧政党だ」というものがあります。
児童ポルノを自民、創価から守ろう!
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1208659442/77

 児童ポルノだけでなくマリファナも大好きの御様子です。
「大麻取締法」についてどう考えますか?
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1065504001/469
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1065504001/537

 こんな朝鮮差別AAを改変コピペして悦に入ってる最低のクズでもあります。
共産党の演説はなぜ人の心に訴えないのか?2
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1191838220/92

 他にも、
●共謀罪で民主党に対案路線を採らせたのは共産党のせいで選挙に負けたからで、やむを得ない措置。
●民主党に改憲を掲げさせているのは共産党の無作為の結果。
●単純小選挙区制を目指すと公言しているのは、実質改憲勢力の共産党【撲滅(引用のままの語彙)】のためには仕方ない。
●自民党案より最悪な教育基本法案をぶつけたのは、自民党案には反対ということ。 民主党案はどうせ通らないからどうでもいい。

 など、数々の迷演説で失笑を買い続けて来た名物荒しです。
 でも彼の心象世界には「恥ずかしい」という概念は存在しないので、相も変わらずアッケラカンのカーです。
212革命的名無しさん:2008/07/26(土) 06:49:52
>>205
"カクメイ前夜情況"なるものが如何な内実をもったものか不明だけど、
仰るとおり息がつまるような社会状況だもの、ましてこの連夜の暑さ、
すかッーっとした騒動かなんなが欲しいよね。
213革命的名無しさん:2008/07/26(土) 12:25:10
党の賃上げ方針 時給1000円。

今時このような薄給だからワーキングプアが沢山いて大問題になっているんだ!共産党が修正主義ファシストと
名指しされる事は真実であり当然である!

時給1000円から800円なんぞであるならば資本が実現しているが、それでも食べていけないから
大問題になっているんだ!
最低賃金を一万円にせよ!週30時間労働制を早急に実現せよ!
長期有給休暇60日を保障せよ!
医療費教育費を無料にせよ!
年金を月100万円支給せよ!
ベーシック・インカムを導入実現せよ!
214革命的名無しさん:2008/07/27(日) 18:25:25
>>213
あのなぁ、アフォよ。
時給1000円以下でもOKって賃労働者が居るんだから、仕方ないじゃん。
そいと、「修正主義ファシストと名指しされる」共産党なんぞに
今さら何を託すつもりよ?
日本共産党は賃労働者のことなんぞ結党以来一度として真剣に考えた
ことなんぞありゃしないんだぞ。
まぁ、アフォな負け犬にはいくら言っても理解できないだろうな。激藁)
215革命的名無しさん:2008/07/27(日) 21:03:45
資本論の冒頭部分の意味を簡潔におれにおしえてくれ・・
216革命的名無しさん:2008/07/27(日) 21:47:08
>>215
OK。
但し、その部分の文書を総て"簡潔に"カキコしたらね。
217革命的名無しさん:2008/08/02(土) 08:28:57
>>215
意味もなにも読めば解るはず。
牧野さんの訳がいいかもね。

「資本主義的な生産様式が支配している社会では、
 富は「商品の巨大な集積」(マルクス註カール・マルクス『経済学批判』ベルリン、1859)
 という形式を採っている。という事は、富の要素を成しているのは
 個々の商品だということである。従って、我々は商品の分析から始めることになる。」

「商品というものは、何よりもまず、〔人間の〕外にある対象物であり、
 その性質によって人間の何らかの欲求を満たすものである。
〔その際には〕この〔満たされる〕欲求がどんな性質の欲求かということは事態を少しも変えない。
 つまり、例えば胃から来る欲求〔食べ物への欲求〕か、想像力から来る欲求〔精神的刺激への欲求〕
 かということは、事態を少しも変えない。
 また、その物〔商品〕が人間の欲求充足にどのように係わるかということも、
 ここでは問題にならない。
 即ち、生活手段として、つまり〔直接的〕享受の対象として〔人間の欲求を〕直接満足させるのか、
 それとも回り道をして、つまり生産手段として〔生活手段の生産に役立つという形で、
 間接的に人間の欲求を〕満足させるのかということも、ここでは問題でないのである。」
218革命的名無しさん:2008/08/02(土) 11:41:15
又も不破の自作自演か!!!!!!!!!!!!
クドイ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
反革命内乱罪該当分子めええええええええええ!!!!!!!
219革命的名無しさん:2008/08/02(土) 12:35:19
>仲正氏も指摘するように、こうした「下部構造の矛盾が犯罪を生む」とか
>「労働が資本主義によって疎外されている」という類の安直なマルクス的
>図式は、今も広く根を張っている。最近は、共産党の志位委員長の国会
>質問がYouTubeで6万近いアクセスを集めるなど、共産党の支持率も上がって
>いるそうだ。しかし共産主義の「正義」や「平等」の名のもとに、1億人近い
>人々が殺された20世紀の教訓を忘れてはいけない。彼らがそれなりに
>まじめに、格差を是正しようという善意をもっていることは否定しない。
>しかし、まじめはバカの埋め合わせにはならない。まじめなバカほど、
>はた迷惑なものはないのだ。(ホルスト・ガイヤー)

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/3de3c4b8b36bf0245bacf46a81f7bc8a

経済学者の池田信夫が共産主愚者を馬鹿呼ばわりしてる。だれか、
反論しに行く奴はいないのか?
220革命的名無しさん:2008/08/02(土) 13:06:49
スターリンは皇帝側の二重スパイでありアメリカのスパイでもあった。
アメリカとしては恐怖政治と粛清により社会主義を破滅させる事を望んだ
のは言うまでも無い事である。
221革命的名無しさん:2008/08/02(土) 20:51:06
>>217
うッひゃー、その訳すっげーわかり易いな。
もうちょい続けてほすい。
222革命的名無しさん:2008/08/03(日) 07:56:27
>>221
駄目!
あとは牧野氏の訳本を買ってよんでね。
223革命的名無しさん:2008/08/03(日) 10:21:53
>>222
ケチ、けち、すんなよ。
減るわけでもねーのによ。
マルクスだって一人でも多くの人に読んで欲しいって
考えてるぜ。
224革命的名無しさん:2008/08/05(火) 10:34:29
>>223
あのね、ケチとかウンチとかの問題じゃないの。
著作権法を破って権力にご用になりたくないのよ。
そんだけ。
225革命的名無しさん:2008/08/05(火) 12:19:25
池田信夫って、あのわけのわからんFランク大学の先生やって渡り歩いている奴だろ?
あれはなにか、ああいう頭悪い大学いって、ああいう頭悪い話してまわってんのか?
226革命的名無しさん:2008/08/05(火) 13:43:01
>>225
Fランク=Firstclassランクってか、藁)
227革命的名無しさん:2008/08/05(火) 14:22:38
超訳のやつっていい?
228革命的名無しさん:2008/08/05(火) 19:36:37
>>227
ああ、どうでもいいぜ。
229革命的名無しさん:2008/08/06(水) 09:09:17
>>227
「いい?」って訊かれてもな。
値段なのか、装丁なのか、活字体なのか、手に持った感じなのか。
まさか、内容が「いい?」なんて頓馬な質問じゃねーよな?
230革命的名無しさん:2008/08/06(水) 11:27:58
矢野絢也元公明委員長 創価学会提訴についてスピーチ
http://jp.youtube.com/watch?v=sMDWmdF4xoo
矢野絢也氏「僕が創価学会を訴えた理由」 その@
http://jp.youtube.com/watch?v=5UQ55hpH1c4&feature=related
矢野絢也氏「僕が創価学会を訴えた理由」 そのA
http://jp.youtube.com/watch?v=5tGHYaM5QX0&feature=related
矢野絢也氏 「創価学会は反省すべき」B 手帳強奪の真相を語る
http://jp.youtube.com/watch?v=NhbLrO2h-G4&feature=related
矢野絢也氏 「創価学会は反省すべき」C 最終章 裁判では勝てる自信がある
http://jp.youtube.com/watch?v=cn6B582Vy7s&feature=related
知らない人はこれみてね

共産党よ、創価学会の犯罪、ストーカー、嫌がらせその他を撲滅してくれ。


231革命的名無しさん:2008/08/06(水) 12:15:01
ところで「須磨国際学園」って、いくら検索しても池田信夫のプロフィールとしてしか出てこないんだけど、これなに?
ドクター中松と「世界発明コンテスト」みたいな関係?
232革命的名無しさん:2008/08/06(水) 12:26:14
昔友達と自転車で走っていて、聞いたことも無い「大学」の前を通りかかった。
とにかく敷地(と言えるほどの広さですら無いが)に「〜大学」という看板が出ていたのだから、確かに大学には違いなかった。

「こういうとこでも学園祭とかやるのかなあ」
「ここにも『教授』が居るって事だよなあ」
とか、メチャクチャ言いながら通り過ぎた。

何しろ日本には短大合わせて千以上の「大学」があるそうだから、ま、そら色々あるだろう。
233革命的名無しさん:2008/08/06(水) 12:28:09
しかしなんか、池田信夫って検索すればするほど、なんかヘボいなあ。
こいつ、ただのIT社長になりそこなった奴じゃないの?
234革命的名無しさん:2008/08/15(金) 06:59:37
>>229
その、頓馬な質問が正解で〜す♪♪♪
235革命的名無しさん:2008/08/18(月) 20:32:03
日本人の大半は闇金を貰うのに賎しく卑劣下劣な犯罪に深く手を染めて来た二重人格である!
あれだけ韓国ライオンズクラブとツーカーの仲になり韓国人の言う事を素直に聞き、
韓国人の言う事を素直に実行しては駄目だ!韓国ライオンズクラブと日本人の思考、行動の
間に一欠けらの緩衝も無く、まるで陰でライオンズクラブの言う事を聞いて偉い正しい、
とひどく勘違いしている手合いの何と多い事か!
自分達が日本人であり、賎しく忌むべき韓国ライオンズクラブに良心を完全に破壊されて
いる事に何も気付いていないのである!この先、未来がどうなるかについて思惟を巡らす
事さえ殆ど無いのである!只、他人と同様に闇金を貰って如何に極道するかが日本人の
唯一の関心事なのである!
韓国人ライオンズクラブに良心を完膚なきまでに破壊された日本人の赤裸々な姿ではある!
236革命的名無しさん:2008/09/06(土) 14:05:22
えっと、OFWの『資本論』講座ってもう続かないんすか?
237革命的名無しさん:2008/09/07(日) 09:10:11
OFWこと不破哲三は怖がって出て来ませんが。何か?
238革命的名無しさん:2008/09/07(日) 18:41:50
OFW=不破哲三なんぞは、そのうちに絞め殺してくれるわい!覚えておれ!(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)
239革命的名無しさん:2008/09/07(日) 18:43:42
>>236
いいぜ、重複を承知でまたやるか。
240革命的名無しさん:2008/09/08(月) 17:48:30
OFWこと不破哲三は青酸カリ入り烏龍茶を騙くらかして飲ませて即死させて、宮沢美智子と自衛隊に
局部を切り取らせた後、奴らに不破の死体を喰わせ、残りは苛性曹達で溶解すれば良いのだ!(笑)(笑)
うそぶくついて革命運動に大損害を与えた天罰だ!(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)
241革命的名無しさん:2008/09/08(月) 18:09:46
>>239
是非お願いしますです、はい。
242革命的名無しさん:2008/09/08(月) 20:31:32
テスト
243革命的名無しさん:2008/09/08(月) 21:00:35
>>241
おえ、是非お願いって、単なるコピペなら
過去ログを見ればいいんとちゃうのか?
244革命的名無しさん:2008/09/11(木) 14:29:42
>>243
このところ、OFWさんがらみの過去ログが急激に消滅つか見られないんよ。
だもんで、頼んだって訳。
245革命的名無しさん:2008/09/11(木) 20:49:00
ゴミ屑は削除、当たり前。あんなものよく読み返せるな。脳味噌が腐るぜwwwww
246革命的名無しさん:2008/09/12(金) 10:34:59
>>239
だったら早くやれッちゅーの!
247革命的名無しさん:2008/09/12(金) 10:50:34
>>246
まぁ、そんなに焦りなさんなって。
このスレの83以降からがOFW氏とやらのコピペになってる。
一度みて来たらよろしいがな。
248革命的名無しさん:2008/09/12(金) 10:52:40
自作自演の糞レス止めれ!
249革命的名無しさん:2008/09/13(土) 07:38:58
自作自演でも一人芝居でもな〜んでもありっす、よ。
なんたって、ここはなんでもありの2chですから。

それよっか、閑古鳥が鳴くこの状態からの脱出のため
糞スレでも何でも書いてね。(マスかいてもいいんだよ)
250革命的名無しさん:2008/10/02(木) 13:03:30
>>249
ほな、OFWセンセのコピペでいきまひょか?
251革命的名無しさん:2008/10/02(木) 18:30:29
>>250
いいから、OFWでもFUCKでもいいから早くやれよ!!!
もう漏れそう。
252革命的名無しさん:2008/10/02(木) 21:13:38
>>250
あのさぁ、マジやるんなら、『資本論』じゃなくって他のをコピペしてよ。
『資本論』の講釈はこのスレで読めるじゃん。
253革命的名無しさん:2008/10/03(金) 09:31:19
>>252
ほんじゃぁナニが希望なん?
254革命的名無しさん:2008/10/07(火) 14:07:10
>>253
オレ的には論理学なんか希望だね。
255革命的名無しさん:2008/10/07(火) 21:50:33
>>254
オメー、この赤スレでなんで論理学なんだよ?
百歩ゆずって弁証法だろが、はぁーん。
256革命的名無しさん:2008/10/08(水) 09:41:34
>>253
「ナニが希望なん?」って、
OFWの旦那はそんなに各種のカキコをしてるのかな?
257革命的名無しさん:2008/10/08(水) 21:51:13
四の五のって、オメーラ本当にやる気あんのか?
先ずさぁ、なんでもいいから行こうや。
誰かさぁ、誰でもいから、OFWのカキココピペしろや。
ホント、ケツの重い連中相手はいい加減気が滅入るよな。
頼むぜ。
258革命的名無しさん:2008/10/09(木) 09:15:27
>>257
いいえ、ぼくは頼まれませんからね、と一応断っておこうかな。
259革命的名無しさん:2008/10/09(木) 10:39:16
おまえがやれっつうの。
260革命的名無しさん:2008/10/09(木) 16:36:42
あのウー、257=259って理解でOKっすか?
お二方とも乱暴な言い方で、似てるようなんで。
261革命的名無しさん:2008/10/09(木) 16:49:42
こんな感じでいいのかな?
関係なさ気な箇所は勝手に削除してまーす、と。

名前:OFW :2000/12/25(月) 00:00
>「俺頭悪いんだけど経済って」スレのレス20岩井克人は手放しの資本主義礼賛者ではないよ。
手放しの礼賛者などは他の経済学者の中にも少ないのでは?
ケインズさえ、資本主義は病んでいると考えていた。

>それに、マルクスをそんなに誤読しているだろうか。
決定的な点での誤読としては、ひどいものでしょうね。それも、マルクスに依拠していながら、
「マルクスは誤っていた。正しいのは私」と言う所は、かの宇野弘蔵並みでしょう。
「マルクス主義経済学ではなく、マルクス経済学すなわち宇野経済学こそが真理だ」!!!
マルクスは経済学(当時の国民経済学)批判をしたのであり、独自の経済学体系を立てたのではない。
資本主義の経済学は不可能だと言った訳です。

262革命的名無しさん:2008/10/09(木) 16:51:50
5 名前:OFW :2000/12/25(月) 22:05
>>3
>岩井は教条主義的なマルクス読解に興味ないんじゃないの。
私も興味がないが、少なくとも「無限の循環論法」「無から有が生じる」「ここに『神秘』がある」といった、
貨幣物神をそのまま披瀝する貨幣論では、『貨幣の謎を解く』と題した著書で「結局、貨幣は謎である」
との答えを披瀝している非―学問的な「マルクス経済学」者と同然でしょう。

>貨幣商品説と貨幣法制説はともに貨幣流通の実体的根拠を与えない。
実体的根拠とは何のことかな?「労働価値説」のこと?少なくともマルクスは単なる貨幣商品説および
貨幣法制説を主張しているのではなく、価値形態の歴史的な発展を跡付けているのです。
そして、物々交換から貨幣の発生を説く以上、「すべての商品は潜在的に貨幣である」と考えていたことは
当然であり、また、国家を前提せずに信用を説く以上、信用と法制度を区別していたことも自明でしょう。
どうも、「価値形態」という言葉が分かっていないようだなぁ…。
そして、現象形態は実体的本質を前提するとは、論理的に当たり前の事柄であり、本質なき現象など
という現象主義や、「記号が記号を表わす」などというポストモダニズム的な汎記号主義は観念論的な
ナンセンスです。
価値の源泉を人間の社会的な必要労働におくという、唯物論的に根拠ある議論こそが、経済学を
合理的な社会科学に高める唯一の道でしょう。

263革命的名無しさん:2008/10/10(金) 08:30:32
9 名前:OFW :2000/12/26(火) 23:59
>>6
>もしかして、いまだに本気で労働価値説とか信じてるの?

本気ですね。逆に本当にその内容を知っているの?と聞きたいな。
単に他人の話を信じているだけのような…。
大体、学問や思想は「信じる」などという信仰とは異なる。「根拠ある確信」とでも言った方が良い。

>>8(3さん)
>あんまり人の揚げ足取らないでほしいな〜。

ども失礼しました。どうしても論争調になってしまうのは、貨幣というテーマが重要だと思うためですので、ご容赦。
しかし、私が指摘したいのは、岩井氏の(ポストモダニズム的な)論法こそが揚げ足取りだ、ということで、
それが反射して私の方が揚げ足取りに見えるのは半分誤解です。

>で、OFW氏によると、そのへんはどう説明されるわけ?

順番に対置すると、

>ある人が1万円札を1万円の価値のある貨幣であるのを信じているのは、他の人が1万円札を1万円の価値が
あるものとして喜んで受け取ってくれるからであり

貨幣自体には<実体的>根拠はないのだから、人々がそれを「1万円札は1万円の<実体的>
価値がある貨幣」と信じていることが無限の循環論法を招き、それこそが貨幣を支えている<非実体的な>
根拠である、という論法でしょうが、これはおかしな論理だと思いません?
思い込みという「実体的でないもの」が現実の貨幣流通を「支えている」とは、哲学的に言えば、
「現実は幻想である」と言う主観的観念論の主張です。ポストモダニズム的と言うのはそういうことです。
ですから、まず「1万円の<実体的>価値」という概念を問うべきでしょう。
つまり、「価値とは何か」という価値論がまずあって、初めて貨幣論が展開できるということです。
264革命的名無しさん:2008/10/10(金) 08:33:02
10 名前:OFW :2000/12/27(水) 00:07
>>8(3さん)(つづき)

岩井氏の議論の中でも
  1.モノとしての価値
  2.他者にとっての(商品としての)価値
  3.貨幣としての価値
  4.信用としての価値
  5.記号としての価値
という言葉がでてくるが、すべてを貫く自己同一的な存在こそが「価値の実体的本質」と呼ばれるものであり、
上記の1〜5はその現象形態であるという見方が学問的な探求の開始点です。
つまり、価値の本質から、貨幣を含めた価値現象を「説明」することが、科学的な認識態度というものなの
です。(数学的モデルとて、価値を数量的な本質とする立場からの仮説です)

>貨幣法制説も…貨幣商品説もこの循環論法を満足に説明しない。

ですから、「無限の循環論法」は説明されるべきものであり、それを説明原理にしている『貨幣論』はおかしい、
と言っているのです。
これは決して揚げ足取りではなく、本質論という「はしごを外した」のは岩井氏の方なのです。

>これが貨幣流通に<実体的>根拠がないという意味だろね。

もし、貨幣流通に何の客観的根拠(根拠とは、それが単に主観的でなければ、すべて実体的なものを前提します)
もないとすれば、単に無根拠と言うべきであり、それを前提している経済学自体が崩壊するでしょう。
これも揚げ足取りではなく、そこにあるのは概念の混乱だと言っているのです。
貨幣流通には明確に根拠がある。それは、「私的生産者による社会的生産」という矛盾でしょう。
265革命的名無しさん:2008/10/10(金) 08:36:03
13 名前:OFW :2000/12/27(水) 22:24
>>11
>こりゃ、まじめに論議したらOFWさんの負けだな。

そう見えますか。でも、勝ち負けよりは「正しい理解」が重要です。

>OFWさんが言っているのは、貨幣(価値)のあるべき姿であって、実際の姿(の全て)じゃない。

どうも理解して貰ってないようで、説明が必要。
私が言っているのは、貨幣および価値などという存在は無くなるべきであり、いずれそうならざるを得ないということです。
それは価値とは何なのかを突き詰めて行けば出てくるでしょう。
そして、およそ事物の客観的認識のためには、実際の姿(現象)を超えて、その本質に遡及しなくてはならない、
ということです。20世紀の学問全体が現象論になってしまった。それは、「本質」「概念」という言葉の意味すら理解
できない程にまで進んでいる。

>>12(“3さん”さん)
>柄谷氏と岩井氏との違いにも言及欲しいです。NAMも経済板では誰も知らないので。

1980年代以降、いわゆるニューアカデミズムからポストモダニズムという思潮が日本で流行ったが、
私は商業主義ジャーナリズムが煽った「知的なファッション」に過ぎないと思っていたので、殆ど興味
なかったし、今でも積極的な意義など少しも感じていない。だから違いは分からないです。
しかし、両者(そして浅田彰氏等)が「否定かつ肯定」の両義的な態度で、
「マルクスは終わった」 「マルクスは偉大だったが、間違っていた」などと繰り返し言及することは、
マルクス(主義)について誤った理解を広めることになり、これは世の若者および労働者を誤まらせる結果になる。
このことは、やはり見過ごせないでしょうね。
(NAMの宣言などを読むと、資本や国家に対抗しようと倫理的になっても、小ブル知識人としての自己
の階級的立場は、絶対に手放せないようですなぁ…。しかしまたなんで「不買運動」なの?思弁的かつ
現実的実践?)
266革命的名無しさん:2008/10/10(金) 08:39:51
23 名前:OFW :2000/12/29(金) 22:50
>>15(トリックスターさん)、>>21

労働価値説とは給与(正確には賃金)が労働時間に比例していることではありません。

それは、価値の本質に関する次のような認識です。
「あるモノの経済的価値とは、そのモノの必要量を再生産するために、社会全体の労働量をどれだけ
それに振り向けたら良いかを表示している指標であり、社会的な必要労働こそが価値の本体をなす
ものである。」
上記の認識は、次の考察を前提にしています。

1.モノの有用性(価値の直接的・質的な側面)
あるモノが有用か無用かは人により異なるし、代替物の存在によっても異なる相対的な(主観的ではない)
性格をもつ。いわゆる「限界効用説」は有用−無用が相互転化する限度を価値としている。
2.モノの稀少性
それは価値の量的な側面であり、有用物の現存量と必要量との割合に応じて変化する。
いわゆる「需要と供給の均衡」という事態です。
しかし、上記1&2は価値が実在するという前提に立っているために、現象論でしかない。それらの現象の
底にある価値本体に関する本質論として、
3.モノの社会的生産
人間は生活に必要なモノを生産することで、必要物の稀少性を減じることができるが、そのためには労働力
を支出しなくてはならない。モノの価値とは稀少な労働力を、生産物のうちに対象的に見たものである。
結局、経済とは、人間にとって必要なモノ(財)をどれだけ生産、分配、消費するかに関する事柄であり、
限られた資源と限られた労働力を如何に社会的に配分するか、という事柄を巡る諸現象、諸本質のことです。
しかし、資本主義経済では、経済とは要するに「金儲け」のことでしかない。
何故そうなるのか。そこにお金(貨幣)の秘密(顛倒)があるが、結局、労働しない「私的生産者」つまり資本家と、
労働力を私物として売るしかない賃労働者との間の対立関係に原因があるということです。
267革命的名無しさん:2008/10/10(金) 08:43:30
24 名前:OFW :2000/12/29(金) 22:51
>>22
>ビルゲーじゃ時給が違うじゃろ

ビルゲイツの収入は給料(賃金)ではなく、資本家(経営者)利得ですから、労働者とは本質的に収入の
源泉が異なる。

また、彼の途轍もない収入の高さは、基本ソフト技術の独占状態による「特別利潤」に基づくものです。
それは特許や「営業上の秘密」によって保護されているから、消費者は自由主義経済に反して、不当に
高いものを買わされている訳でしょう。

「競争と言っても、あくまで独占を目指したものであり、競争と独占とは同じ事柄の両面に過ぎない」(レーニン)。
268革命的名無しさん:2008/10/10(金) 09:00:46
有り余った金=超過利潤による社会潰滅に関して沈黙を守る者は社会帝国主義者すなわちファシストで
ある事を肝に命じよ!馬鹿野郎!
269革命的名無しさん:2008/10/10(金) 09:12:55
反貧困といいながら特別会計に切り込まず、超過利潤に沈黙を決め込む者は奇弁を
弄するファシストでありユダヤ金融資本の犬である!
270革命的名無しさん:2008/10/10(金) 21:46:23
反貧困を本質的に運動として盛り上げるには、特別会計に於ける贅沢三昧なるファシスト向けの
予算バラ撒きと、これに伴う社会破壊、これらに対立するワーキングプアの赤裸々で
破滅的な状況を徹底的に告発することが急務なのである!

木を見て森を見ない、森を見て木を見ない、と言うような嘘八百を撒き散らす事を任務と
するようなファシスト特有の物の見方は徹底して排除さるべきである。
271:2008/10/10(金) 22:39:02
日本語でおk


272革命的名無しさん:2008/10/11(土) 10:36:24
27 名前:OFW :2000/12/30(土) 15:39
>>25(トリックスターさん)
>○経の究極奥義をそう簡単に理解できるともおもってませんが

いわゆる「マルクス経済学」には理解すべき奥義といったものはないでしょう。
それはマルクスの主張を換骨奪胎して、「マルクスは、共産主義イデオロギーに毒されたために、肝心の点で
科学的・学問的認識を踏み外した。これが正しい『マルクス的』経済学体系だ」と言う。
しかし、それは大げさな見かけとは異なり、内容のない訓詁学あるいは抽象的なドグマのように見える。
繰り返しですが、マルクスは経済学を批判したのです。

>経済的価値って言うのは価格のこと?

市場経済(商品経済)の下では、価値は価格(価値の貨幣表現)として現象するが、それはあくまで現象形態
であり、その下にある価値の本質はそれを超える存在です。
岩井氏をもじって言えば、「貨幣はモノとしての価値(使用価値)を超える価値(本質的・実体的価値)を示す」
のです。(岩井氏はそれを単なる量的な超過のように説いているが)
およそ科学者は現象を本質から説明しなくてはならず、現象を追うだけでは駄目です。価格の理論ではなく、
価値の理論が必要でしょう。

>それは需給の均衡で決まる

市場経済の下では、商品の”自然的”価値からの偏差として価格が変動する。それは特定の商品の需要
(支払い可能な欲望と呼ばれる社会的必要)とその現存量との不均衡を表示するバロメータでしょう。
つまり、価格は需給の均衡ではなく、不均衡(偏り)しか示さない。
比喩的に言えば、バネの均衡点からの偏り(力)は均衡点でのバネの内部エネルギーの絶対値を示さない
のと同様です。
実際、需給関係からは、貨幣価値自体が変動する現象(例:一般的な物価騰貴)は説明できないでしょう。
273革命的名無しさん:2008/10/11(土) 10:39:16
29 名前:OFW :2000/12/30(土) 15:42
>>25(トリックスターさん)(つづき)
>それを指標に労働力の支出が行われる。

何故生産物を商品という形態で市場に送り出すのか?
それは「売る」ためであり、売れて貨幣に変換しなければ、価値は実現しない。
それは、生産が個々の私的な生産者によって勝手に行われているためです。
社会全体が一工場のようになり、全体の需要を直接生産に反映させ、経済を計画的に運営すれば、
商品や貨幣は不要ということになるでしょう。(社会的需要の測定、生産物の分配方法、といった細
かい点は省きます。)
そして現在、「労働力の支出」を行っているのは、利潤を追求する資本家(経営者)であり、「労働せよ」と
命令されている労働者自身ではない。

>その投入された労働量がモノの価値である。

これはアダムスミスを始めとして、多くの経済学者が躓いた(今でも躓いている)点ですね。
「モノの(実体的)価値」とは、自然物が色素を含むように、モノに内在したあるものではない。
それは社会的な存在であり、あくまでそのモノの再生産に必要な労働量です。
つまり、実際に投下された過去の労働量ではなく、現在の社会的な必要量と現存量とから出てくる、
「投下すべき」労働量です。
社会的実体とは、具体的な諸個人間の諸関係の総体を言います。社会が個人にとって外在的であれば、
社会は実体として不可測な自然のように振舞う。(いわゆる「見えざる手」、「必然的運命」)
274革命的名無しさん:2008/10/11(土) 10:41:07
30 名前:OFW :2000/12/30(土) 20:54
>>28(ななしるふぃさん)
>交換価値は社会的なもんだから、価値の源泉を労働に求めるのはおかしいのでは。

労働は社会的なものではないの?
自給自足なら別でしょうが、近代以降は社会的分業が確立しており、そのような歴史的背景から、
社会学という「社会の発見」も誕生した訳です。
コントやウェーバーも労働の社会性がなければ、職業人として学者にはなれなかったでしょう。
また、繰り返しになるが、交換価値とは価値の現象形態であり、その本質(実体)とは異なるという認識が、
経済学を合理的な社会科学とする。
そして、交換価値(商品価値)は社会的なものとは正しいが、それは「裏返された」社会性(正確には物象化
された社会性)だという認識こそが、市場経済そして資本主義経済の本質に迫るための出発点でしょう。
私的所有がそれを支えている。
マルクスは商品、貨幣および資本の本質を「価値形態」の発展として、歴史上初めて明らかにしたのです。

>バブルはどーなるの?

バブル経済とはまさに「実体経済」から遊離した、幻想のマネーゲームであり、実質的な価値を何ら産み出
さない、貨幣物神とそれに基づく信用の自己増殖現象でしょう。苦労して働かなくても、誰もが一攫千金の
機会を得られるとは!
利子生み資本(金融資本)とは「ブルジョア社会の狂った花嫁」(マルクス)と呼ばれました。(今世紀になり、
国家が金融・財政を通して、経済に直接的に関与するようになり、経済はますます政治化されてきているが、
それはそれで、階級社会の現実を覆い隠す「国家幻想」に裏打ちされている。)
275革命的名無しさん:2008/10/11(土) 10:46:16
31 名前:OFW :2001/01/03(水) 18:35
>>12(”3さん”さん)(補足)
>NAMも経済板では誰も知らないので。
NAMの理論を支える一人らしい先生の「貨幣の本質と貨幣の未来」
には、貨幣は廃棄すべきではないと主張されている。

>貨幣が体現すべき「価値」とは,自分ではなく他の人々の評価と是認に依存する社会的なコトである。
1970年代後半の日本思想界で流行った、「物から事へ」の強調は、たとえば広松渉『事的世界観への前哨』
等を生んだが、実際には現象主義に終ってしまった。
本来、モノ性(物性)とは自然の本体的在り方を言うのであり、「自然的な必然性」についての理解がなければ、
貨幣の本質は理解できない。確かに「貨幣とは社会的な事柄」とは正しいが、それは単にお約束といったもので
はなく、「自然的人類の物質生産の必然性」から来ており、社会の生産関係が客観的・歴史的な根拠なのです。

>人々は貨幣の発行者の約束や権威や権力を信じているのでも,貨幣のモノの価値を信じているのでもなく,
 ただ,貨幣のコトとしての社会的価値の「同一性」を信じている。
「価値の同一性」こそが価値を「自己同一的な実体」と呼ぶ所以であり、それは社会的労働による再生産活動を
実体化したものです。

>もう一つの貨幣の未来は,貨幣の本質をすべての人々が自覚するところから始まる。
全くその通り。そして、貨幣に未来はないのです。

>地域通貨は…近代社会が実現した個人主義と自由主義を基本としながらも,新たな互恵的なコミュニティを
 再生し,信頼と自己責任にもとづいて,経済と言語におけるコミュニケーションを活性化することを目的としている。

ここでは、経済が政治と混同されている。そして表明されているのは、近代的個人主義・自由主義という、
市民(ブルジョア)イデオロギーに過ぎない。
実際、社会の唯物論的な認識はどこを探しても見当たらないにも拘らず、彼らは何故、繰り返しマルクス
に言及するのだろう?
276革命的名無しさん:2008/10/11(土) 10:49:12
33 名前:OFW :2001/01/04(木) 11:34
>>32
>貨幣には未来しかない。
それを貨幣物神と呼ぶのです。
「貨幣は何でも買える」が故に(マナのように)絶対的な魔力を持つと思い、そして拝金教徒は皆それに従う。
価値の実体力とは過去の対象化された労働が未来の労働を支配しようとする、まさに「過去の支配」でしょう。
それは時間の流れを逆転させ、流動性を固定化させ、自由を必然性に変えるものです。

「実体とは偶有性の総体として、事象を貫く自己同一的な本質力である。人はそれを必然的な運命と呼ぶが、
 それは外的な必然性であり、自由(偶然)な人を突然襲う。すべての現象は実体から出て実体に帰って行く。
 それは全き闇であり、『無』自体である。」(ヘーゲル)

自由主義経済とは、物象化された社会的実体力である、貨幣および資本がその絶対的な必然性(等価交換、
支払期限の厳守等々)をもって自己に帰るという矛盾を、個人の自由と呼ぶ。しかし、それは人間の自由ではなく、
貨幣および資本の顛倒した自由でしかない。「貨幣には過去しかない」、これが正しい。
277革命的名無しさん:2008/10/11(土) 10:51:17
35 名前:OFW :2001/01/05(金) 23:42
>>34
>哲学?

そうですね。実際、今の経済学は経済の本質を忘れた、非哲学的、非思想的な学問になっている。
哲学的反省なき貨幣物神・資本物神をそのまま受け入れているため、「おカネって何?」「価値って何?」
という小学生の素朴な質問にすら、満足に答えることができない。

もし、経済学を人間の物質的生存にとって必要な財の生産・分配に関する、希少な資源と希少な労働力の
最適な配分の研究、と定義するならば、そこには本来「価値」などという仮象的存在は現れることはなく、
現存する生産手段の下で、多様な財の社会的な必要量を再生産するのに必要な、社会的な労働量を
計算するという、計画的生産と生産物の分配の問題に帰着する。

しかし、生産手段の所有者と実際の生産者が分離・対立している社会では、すべては無秩序であり、市場という
無計画な偶然性が支配する「疎外された社会」を通してしか、社会の再生産と生産物の分配は達成され得ない。
何よりも「労働力以外に売るべきものを持たない階級」が出現して以来、資本というその影が世界を完全に
転倒してしまった。工場内の厳格な計画的生産と工場外の無計画な販売競争との対照は、社会の分裂を
そのまま表現しており、金勘定だけが唯一の「合理的」法則になっている。

その点で、現代の経済学はちょうど、中世の天動説が惑星の軌道を計算するために、複雑な周天円モデルを
作り再現しようと苦労したが、結局「コペルニクス的転回」(Copernican Revolution)に至らざるを得なくなった、
神学的天文学の歴史を思わせる。

若き研究者とすべての労働者にとって、そこには良く考えてみる「価値」(但し経済的価値ではなく、学問的
あるいは実践的な価値)があるのではないでしょうか。
278革命的名無しさん:2008/10/11(土) 22:08:42
38 名前:OFW :2001/01/07(日) 00:07
>>36
>50年ぐらい前のランゲとハイエクの論争を思い出すな
ランゲ市場社会主義における経済計算に関するレビュー
http://www.bekkoame.ne.jp/~hyoko/langeindex.html
実際、スターリン主義型の「社会主義」(実は国家資本主義)経済に価格メカニズムを最大限取り入れようと
することは、一つの矛盾を導入することになった。
問題は、「誰が生産を握っていたのか」であり、共産党官僚・独占資本家・軍部からなる「ノメンクラツーラ」か、
労働者階級か、が要点でしょう。

貨幣・資本(すなわち賃労働)そして国家の存在は、社会主義とは相容れないし、少なくとも「労働力の商品化」
は第一に廃棄すべきものです。

いずれにせよ、資本主義経済では、投資・金融・信用といった市場の事柄が経済の表舞台であり、その地下に
ある生産自体は「私的な事柄」とされている以上、経済学者の関心を余り引かない。実際、産業連関分析や
労働経済学などは、証券アナリストや主流経済学者にとっては魅力のないテーマでしょう。

労働者が資本家・経営者の単なる使用人に過ぎない体制下では、旧ソ連と同様、システム(体制)の維持(均衡)
のために、総資本の代表としての国家が、どうしても乗り出さざるを得ない。経済は既に政治化されている。
279革命的名無しさん:2008/10/11(土) 22:13:33
42 名前:OFW :2001/01/07(日) 20:19
>>39
>じき恐慌が来た暁には、誰もがマルクスに縋りつくことを夢見て

恐慌待望論?それはマルクスとは無縁でしょうね。
サラリーマンが自己の社会的地位を自覚するのは現実認識から出てくるのであり、
その必然性の認識とは恐慌の必然性といった外的なものではなく、
労働こそが経済社会の存立性の物質的根拠なのだ、という内的な必然性の自覚です。
その点では、「夢見る」とは逆に、幻想から現実への転回でしょう。

>>40
>マルクスは恐慌からの脱出方法を提案できないからダメ

とても不思議な意見ですが、要は恐慌からの資本主義的脱出なのか、社会主義的脱出なのか、という事でしょうね。
「マルクスの提案」とは、労働者階級の組織的団結による社会の転回(Revolution)であり、「主人を交替せよ」
というものでしょう。

また、「恐慌論」については、日本の(マルクス主義ではない)「マルクス経済学」においても、「恐慌は必然的な
ものではない」と主張されているようですが、たとえば『資本論』を換骨奪胎した宇野弘蔵氏は、自然科学的な
必然性と歴史的・弁証法的な必然性とを混同しているようです。

「必然的なものは実在的条件に媒介されてのみ現実化する。
 しかし、それは条件によらず現実化せざるを得ない。
 つまり、それは必然的だから必然的なのである」(ヘーゲル)。

必然性の概念とは「他であることの不可能性」であり、単なる可能性および蓋然性を超えるものです。
それは内的な本質存在の現象ということであり、「総体的なもの」の顕現です。
一方、外的な必然性は運命とも呼ばれる偶然的な必然性です。
よくある恐慌待望論(例:一般的危機論)などは没主体的な宿命論の裏返しに過ぎないでしょう。
280革命的名無しさん:2008/10/11(土) 22:16:02
43 名前:OFW :2001/01/07(日) 20:21
>>41
>精神現象学なしの論理学って言うところかね。天から降ってきたエチカかな。

『精神現象学』には有名な「主人と奴隷」の自己意識の相克の話が出ており、主人のうちにしか自己を持たない
奴隷は、大地に働きかける労働によって自立的自己を獲得すると書かれています。
近代的な自由・平等思想の起源と主体意識の誕生を勤勉な市民(自営農民?)の登場に見ているとも言えます。
(無論それは観念論に止まるが)

現代の社会においてはどうでしょう。誰が主人で、誰が奴隷なのか?
(広告宣伝部長)「消費者は王様です」
(営業部長)「しかし、売れない。何故だ?」
(経営コンサルタント)「過剰供給、いや過少消費です」
(経済学者)「賃金の『下方硬直性』がスタグフレーションを招いているのです」
(労務部長)「それは労働組合がうるさいためで…」
(社長)「ええい、『不良在庫』はリストラ処分だ」
(広告宣伝部長)「しかしそれでは、王様が乞食になってしまいます
…等々。
エチカ(倫理)というより商品と労働の弁証法でしょう。
いずれにせよ、経済学者には「真実を見る勇気」という倫理が欲しいものですね。
281革命的名無しさん:2008/10/11(土) 22:21:37
62 名前:OFW :2001/01/10(水) 23:44
>>60(”(名前)まだない”さん)
>その「労働量」はどうやって測るんだろう?
>ソフトウェアのプログラミングに頭をひねるのと肉体労働するのとの違い
逆に質問ですが、実際に労働量は違うか同じか、どちらだと思いますか?
頭脳労働の方が肉体労働より楽だから、少ない?
(現代では、肉体労働の「賃金」は相対的に安いですよね?)

>貨幣価値で測るしかないんじゃないの。
「何」を貨幣価値で測る、と言われるのかな?

>岩井さんが言ってるのは、労働量とかそういう風に単一の根拠を求めても埒があかなくて、…循環として理解する
 よい他ない、ということ
岩井氏の『貨幣論』(ちくま学芸文庫)から少し引用すると、
「…「俗流経済学者」の誤謬とは、かれらが価値の形態を分析しながらその実体がなんであるかを明らかに
 しえなかったこと、あるいは「価値のうちにただ社会的形態だけを、またはむしろ社会的形態の実体のない
 仮象だけを」…見たということにあると、マルクスはいっている」(P24)
「たしかに、古典派経済学は価値の「実体」を発見した」(p25)
「古典派経済学は、…商品の交換価値が資本主義社会に固有な価値の「形態」にすぎないという認識を
 もつことができなかったというわけである」(p26)

岩井氏は要するに、「価値の現象形態とは実体のない仮象に過ぎない」という主張は正しい、と言いたいのでしょうか。
もしそうなら、価値の科学などはあり得ない筈で、確かに貨幣物神(貨幣の神秘)は妥当なものとなる。
しかし、他方で次の文からも分かるが、価値の科学を主張している。

「…ワルラスの一般均衡理論…は、資本主義社会をおたがいに依存関係にある数おおくの市場のネットワーク
 としてとらえ、すべての市場の需要と供給を同時に均衡させる価値体系(一般均衡体系)の存在を数学的に
 証明したのである」(p32)

一般均衡理論で存在している体系とは「価値」体系ではなく、価値の現象形態である「価格」体系でしょう。
上記は、まさにマルクスが俗流経済学に投げつけた「価値形態と価値との混同」そのものではないでしょうか?
282革命的名無しさん:2008/10/11(土) 22:28:15
66 名前:OFW :2001/01/11(木) 22:31
>>63
>またヒックスの副題は主観的価値の理論だったのではないか?
近代経済学で客観的価値の理論があるのでしょうか?
主観的価値とは価値の表象であり、その実体(表象の対象)に関する客観的議論がない以上それは
「価値とその現れ(表象)との混同」でしょう。

>>64(”(名前)まだない”さん)
>労働を直接計量化することは不可能で、市場価値つまり価格で間接的に計るくらいしか思い当たりません。
労働とは対象的活動であり、およそ活動の量とは広くエネルギーと呼べるでしょう。
そして活動は時間的なものであり、「活動力」の一定時間の発現が現実的活動の量です。
無論それを直接計量することはできず、その働きを受けた対象の量で計るしかない。
たとえば、地震活動のエネルギーはそれが作用する震度計の振れを元に、
それがどの位の範囲の地域に作用を及ぼすかという規模(マグニチュード)として測定する訳です。
労働の計量は、労働対象に及ぼす労働の効果、すなわち生産物の量によって可能でしょう。
具体的な労働は、労働手段や労働組識に媒介された技術的なものであると同時に、
多くの個別労働が結合した社会的なものです。
そして、それは潜在的な「労働力」の一定時間の発現として見られ得る。
あなたが言っているのは、(労働自体ではなく)個別的「労働力」の交換価値である賃金の事ですね。

>労働「量」です。
同上。労働量とは実在的なものであり、価値とは非実在的なものですから、後者で前者を計ることは論理的に
不可能です。現代の多くの労働組合でも労働力と労働が混同されているようです。
繰り返しですが、「賃金」とは労働に対する対価ではなく、労働力の売価です。この混同は資本の秘密であり、
労働が価値の実体だという本質を覆い隠すものです。

>>65
>労働量=労働の質*労働時間
多分、具体的な有用労働と抽象的人間労働の区別を示したいのかな?
283革命的名無しさん:2008/10/11(土) 22:30:19
78 名前:OFW :2001/01/13(土) 15:13
>>69(63さん)
>計れないから客観的でない。だから価値とは言えない
そうは言っていません。価値の計量の問題と主観的価値の位置付けの問題とは別の議論です。

>ということでしたら、労働価値だって計れません。
労働価値とは何でしょう?私は「価値」と呼ばれるものは、「労働」の隠された別名であると言っているのです。
そして、与えられた生産計画のもとで、どれだけの労働を投入すべきかの計算は、現在のすべての産業で
行われているものでしょう。それを企業内だけでなく、社会全体に押し広げることが、社会主義的な生産と
呼ばれ、そこでは「価値」という用語は不要なものとなるでしょう。

>直接間接に用いられている労働量なんて、産業連関表から推察するしかないではありませんか?
推察というより、測定でしょう。
産業連関表とはケネーの経済表並みに重要な経済法則の表現でしょう。
貨幣に基づく市場原理を追求する経済学が実体経済(社会の再生産構造)を軽視するのは、
ブルジョアジーの視点で経済を考えるからでしょう。

>労働が投下されているからといって価値を持っているものではありません。たとえば作られても使われていない
 ダムを考えてみてください

ですから、価値の本質とは「社会的な必要労働」が対象的に表現されたもの、と言っているのです。
それは投下労働ではないし、単なる使用価値のことでもない。
社会とは一つの統一体であり、その再生産は抽象的な社会的労働の配分によって維持されている。
何をどれだけ生産すればよいかは、社会的な必要に応じて決まるでしょう。
使われないダムは社会的に不要なダムであり、「無価値なもの」と呼ばれるが、本来「モノが価値をもつ」
という表現自体が、仮象的(かりそめ、みかけ)なのです。
284革命的名無しさん:2008/10/11(土) 22:33:38
90 名前:OFW :2001/01/14(日) 07:16
>>79
>(だから投下された労働には価値が無い)
労働価値論とは、労働が価値を生み出す(正確には形成する)以上、労働自体は価値をもたない、
ということです。

>投下された労働量が意味を持つのではなく、
投下すべき労働が意味を持つのです。

>したがってコストを価格と考えるのは間違いだということになる
まったくその通りであり、実際に支払われたコスト(原材料費、設備減耗費および労賃)(製造原価)が価格を
形成するなどというのは誤まりです。
古くからある生産価格の議論は、平均利潤率を前提にした転倒した説明でしょう。

>>80
>OFWさんが、客観的価値を追求しなければ社会科学じゃないと、思っているなら
およそ科学は客観性の追求であり、世界は合理的な根拠(本質)があるということから出発する。
現象には客観的本質はない、と言うなら、結局勝手な思弁に陥るだけで、事実「貨幣論」はそうなっている。

>近経に人は、客観的価値なんて考え出したら宗教になると思ってるかもしれないけど
何故なのかな?私には客観的なものは存在しないという方が宗教じみて見えるが。
価値の主観主義は資本(家)の無制限かつ無秩序な自由を正当化する「ブルジョアジーの夢」でしかない。
確かに使用価値とは個人によって異なるが、それは相対的なだけで、
「必要(必然)」という人間の客観的な有り様を反映している点で、決して主観の恣意に依らない本質をもつ。

>まともな議論をしたいんなら15chでスレでもたててみたら?
以前15chを少し騒がせました。
285革命的名無しさん:2008/10/11(土) 23:20:36
現在の日本は国家独占資本主義。
つまり、かつての1929年世界恐慌以降に国家が経済活動に介入を深めたことによって、資本制を維持できた。
今回の世界的な恐慌を、どのようにして切り抜けるのだろうか? それとも無理か?


さっき、ニュースで米大統領が「世界的な対応で危機を切り抜ける」と声明を発表。
公的資金の投入、利下げなどの政策を実行する意味はあるのか?
日本でも国会で審議中の定額減税・政府融資などの経済対策は?
286革命的名無しさん:2008/10/12(日) 10:10:32
株式制度こそ諸悪の根源。株式制度を廃止し、計画経済の実現を!
287革命的名無しさん:2008/10/12(日) 20:51:45
91 名前:OFW :2001/01/14(日) 07:31
>>88
>で、「貨幣論」はどうなったのよ?
価値の客観的形態を追跡したマルクスが、貨幣形態においてその完成を見たが、
その論法を「踏襲」して価値形態Zなるものを案出した岩井氏は、
マルクスの価値形態論を借りてマルクスの労働価値論を否定したと言っています。

「すべての商品は貨幣である」ことが多様な通貨の併存や電子マネーにおいて実現されている、
と仄めかしているが、実際には信用と貨幣とを混同しているに過ぎない。
「無制限かつ無期限の信用」などあり得ず、
精々国家(幻想の共同体)に対する国民の信用が幅を利かせている位。
そして、それも国債がこれだけ肥大化しているため、国民は信用より不安が先立つといった現状でしょう。
岩井氏の言うように「経済に本質的に新しいものなどない」以上、
貨幣形態Zという循環論法とは労働が価値の実体であることを隠すための、
新種の貨幣形而上学にしか見えない。
確かに、貨幣とは一つの幻想に支えられている。
しかし、それはまったくの無根拠ということではなく、社会の階級対立に根をもつ、
必然的な存在(必要不可欠なもの)であり、
また貨幣を現れるがままに受け取る経済学の表象は概念なき現象論と言えます。
結局、逆立ちした経済学は社会自体の転回によってしか、合理的・客観的 なものになり得ない、かな。
288革命的名無しさん:2008/10/12(日) 20:54:48
96 名前:OFW :2001/01/15(月) 00:34
>>93
>「マルクスの価値論は労働価値説であって、投下労働に基づいたもの。使用価値というのは
近代経済学の交換により実現される価格と同じ。」というのを…ならった

それはマルクスの労働価値説の内容ではない、と言えます。
1.マルクスの価値概念は、使用価値、交換価値、価値本体(実体)という、相互に対立する
  3契機の統一として出されており、アダムスミスがまさに価値本体を労働として突き止めたことを、
  評価しているのですが、にも拘らず価格(交換価値の貨幣形態)と価値自体とを十分明確に
  区別できず動揺している、と評しています。
2.投下労働が価値の実体だというのは、表面的には分かりやすいが、それが誤りなのは、
  他の生産物の現存に応じて、(価格のみならず)価値が変化することを説明できないことからも明らかです。
  それは価値が自然的属性として生産物に含まれているかのように見る転倒(物象化と言います)を、
  労働価値説において踏襲する誤りでしょう。
  価値の実体とは、自然的実体ではなく、社会的実体を指すのです。それは結局社会の物質的再生産のために
  必要とされる労働に関する概念です。

>マルクス経済学では学派ごとに価値の捕らえ方が違うのでしょうか?

私は専門家ではないので、学派の詳細は良く知りません。
それに、前レス(>>5,>>27)でも少し触れていますが、
現代の「マルクス経済学」は全般にマルクス労働価値説の核心を誤解しており、
事実上放棄しているように思えます。
289革命的名無しさん:2008/10/12(日) 20:58:13
97 名前:OFW :2001/01/15(月) 21:22
>>94
>マルクスの価格と価値の乖離(労働価値説が成立しないこと)はマルクスの基本定理(という置塩の定理)
 で説明できること

とてもミスリーディングな表現で、内容を誤解しているかも知れませんが、
まず、「価格と価値の乖離」とは「労働価値説が成立しないこと」ではない。
それは、価値という本質が価格という現象において必然的に転倒せざるを得ず、
その根拠は抽象的人間労働という価値の実体が物象化され、物の属性であるかのように貨幣において
実現されるという、労働価値説の帰結だということです。
価値法則は市場において貫徹される。
但し、それは価格という屈折を通して、自らの実体を隠蔽しつつ顕わにする、ということです。
この辺は弁証法的な抽象力・総合力が必要であり、「定理」という形式論理では捉え切れないのでは?

>もし使用価値として、価格を意味しているとすれば、価値と価格が乖離するのは、利潤率がゼロでないからだ
 ということになるでしょうね

まず使用価値は価格(自然価格?)を意味しません。
使用価値は価値の質料(実在)であり価格は交換価値の貨幣表現です。
ただ、おっしゃりたいことは何となく分かります。要は「利潤はどこから発生するのか?」という根本問題でしょう。
古典派以前の俗流経済学では、「等価交換の原則(価値通りの交換)が成り立つ市場において、
商業利潤が発生する合理的な根拠は何か?」という点が難問だったようですね。

>>95
>貨幣についての説明もお願いしたいのですが・・

日本の「マルクス経済学」が何を言っているのかは、良く知りませんが、余り期待できないようですね。
マルクスが言っていることの表面的な概要は、岩井氏が述べている通りで、価値形態の最終段階として
貨幣が登場します。
その後、貨幣の具体的な機能として、価値尺度、価値基準、購買手段、支払い手段等が展開され、
また、その形態として、鋳造貨幣、信用(代理)貨幣、価値章標等が唯物論的に議論されている。
290革命的名無しさん:2008/10/12(日) 21:03:42
99 名前:OFW :2001/01/17(水) 21:46
>>98
>これは、労働が本来持つ価値は労働者に支払われる賃金バスケットのなかに含まれている価値よりも
 少ないということ(搾取の存在)のことですか?
違います。昔から社民主義者や労働組合が「搾取」という言葉を口にする場合、
常に「我々の『本来の』取り分を返せ」と言ってきたが、それはむしろブルジョア的私有原理を前提にした
議論であることを、知る必要があります。搾取は確かに存在するが、それは事柄の一面に過ぎない。
私は「物象化」すなわち「人と人との関係がモノとモノとの関係として現れるという顛倒」が価値という仮象を生み
出していると言っているのです。

>つまり価格とは賃金バスケットに含まれる労働量で価値というのは労働が生み出す生産物に含まれている
 労働量ということです。
賃金とは労働力商品の売価であり、そこに「労働量が含まれている」ことはない。
価値あるいは労働量が生産物に「含まれている」というのはみかけ(仮象)の表現です。ちょうど需要と供給を
混同するようなものです。供給(十分な現存量)がないから需要(不足分の必要量)がある訳です。

>それは産業全体の投入係数行列により決定するということではないですか?
与えられた最終生産物(消費財)の量(需要量)から始めて、すべての消費財、生産財の生産および再生産に
必要な社会的な労働量を算定するという、産業連関の考え方でしょうね。

>マルクス経済学の説明がかなりむずかしいですね。
自然科学のような意味で「資本主義社会の経済学」などは成立し得ないでしょう。
それは歴史的に発展し、深化する矛盾としてのみ解明され得る。

>マルクスの基本定理は搾取率がゼロなら、利潤率もゼロでこのとき直接間接に入っている労働量と生産価格
 は等しいというものでした。
利潤とは剰余価値の別名ですから、当然数学的にゼロはゼロでしょうが、重要な点は数式に表現された、
事柄の本質内容です。
数理的マルクス経済学者は、「マルクスの基本定理」などと言うが、「数学的」あるいは「形式論理的」な
「定理の導出」などは、マルクスの思考法とは無縁です。
291革命的名無しさん:2008/10/13(月) 08:23:21
100 名前:OFW :2001/01/18(木) 23:15
>>98(補足)
>それはある財を生産するのに、直接用いる労働量のほかに原材料のなかに含まれる労働量も必要

「原材料のなかに含まれる労働量」とは誤った言い方であり、労働量が生産物に含まれるという表現は、
過去の死んだ労働がモノとして実在するという錯誤を示しています。
それは通常の表現で「原材料の価値」と同義でしょうが、資本家は「労働(量)」という言葉を使わないから、
上記の表現はいわば「ブルジョア的労働者」(自営生産者)の立場を表わしている。
確かに原材料も労働生産物であることは事実ですが、それは労働量が原材料の中に「実在的に」含まれて
いるということではなく、対象としての原材料において、人が知識(観念)として持っているだけの事柄です。

価値の概念とは「その生産物を再生産する場合に、社会的に必要とされる労働量」であり、「既にその生産物
に投下された労働量」ではない。両者は生産に関する条件が全く同一なら等しいと言えるかも知れないが、
生産物が既に存在する以上、必要度合いは変化しており、歴史的条件は変わっていると言うしかない。

さらに、労働を知らず、その生産物のみを扱う商人や資本家が生産物において「価値」を本体的な存在と
みなし、それを形成する労働自体すら廃棄する。そうなると労働は価値として実体化され、価値にもとづく
商品、貨幣、資本といった仮象的で過去的な存在が「真なる存在」とされてしまう。
それは「直接用いる労働量」、すなわち活きた現在の労働と対立する。

過去の労働が現在の労働、さらに信用において、未来の労働をも支配する。それが「実体」(過去の必然)
という概念です。資本主義経済の全運動はその矛盾にもとづいています。

単に搾取が問題なのではなく、人間の非人間化(モノ化、疎外、奴隷化)が問題だということ、そしてその根
拠の唯物論的な解明とその止揚(実体の主体化)の条件の探求こそが、マルクスの経済学批判の根底に
あるのです。
292革命的名無しさん:2008/10/13(月) 08:27:16
103 名前:OFW :2001/01/20(土) 00:35
>>101
>流動資本に体化された労働を過去の労働だから労働じゃないというのはどうでしょうか?

まず「流動資本」と「固定資本」の区分は、「可変資本」と「不変資本」の区分にすべきでしょう。
(原材料は「不変資本」の一部)
また「過去の労働だから労働ではない」とは誤解です。
「資本とは過去の労働の対象化であり、現在の活きた労働(賃労働)と対立する」という事。
自然の一部である人間は自然に働きかけることによって、その物質的生存を維持する。
それを生産と呼びます。
そして、生産は生産手段(労働対象と労働手段)と生産力(労働力)との結合として分析できる。
この場合、労働手段自体が生産されたものであり、原材料も本源的自然を除いては、
労働により加工された結果として現存する。
資本家制的生産様式では、生産手段(原材料、機械設備等)の所有者(資本家)が労働力商品を
その担い手(賃労働者)から購入して、私的な商品生産を営む訳です。
過去の労働の成果である生産手段をモノとして私有した資本家が、それに資本価値(価値を生む価値)
が含まれていると見ることは、一つの逆立ちした表象です。
それは、不変資本を労働力と結合して生産した生産物には「付加価値が含まれている」という表象をもつことであり、
「資本は利潤を生む自己同一的な価値実体である」という物象的な表象が完成する。
まさにゾンビが活きた人間を支配するかのような世界がそこに現出する。
その転倒、その弁証法的な対立が見えないと、価値・貨幣・資本の概念把握は不可能でしょう。
経済学者のように平面的な価値理解では、価格と価値の質的区別すらつかず、あるいは労働価値(!)
から生産価格への「転形問題」などという偽問題も発生することになる。
それでは岩井氏と同様「貨幣物神は正しい!」と言うはめになる。

>リカードは流動資本しかない場合で、労働価値説を用いようとしたからうまくいかなかったんでしたっけ?
(不変の価値尺度の話ですがね。)

リカードは形式的には「投下労働量」を価値尺度とみたが、実質的には「賃金」(労働力の貨幣価値)を
価値尺度にしようとしたのでは?
293革命的名無しさん:2008/10/13(月) 08:29:48
104 名前:OFW :2001/01/20(土) 00:38
>>102
>マルクス経済学を社会学の基礎のようなものと考えておられませんか?

「マルクス経済学」とは何でしょう?
マルクスは決して資本主義経済に関して、合理的・科学的な理論体系を立てようとした訳ではなく、
むしろ資本主義自体が矛盾した、不合理な経済システムであることの必然性を弁証法的に論証
しようとしたのです。

およそ科学とは整合的な理論による現象の演繹的・客観的な説明でしょうが、資本主義社会の理論
は整合的になり得ない。
そこでは科学的理論は限界に達するのです。その限界点を明らかにすることが(優れた意味での)
「科学批判」(Criticism)であり、「客観的な世界は主体自身の客体化に媒介されている」という、
理論と実践の弁証法が社会状況を開示することになる。「自由とはまさに必然性の真理である」(ヘーゲル)
という言明は、観念論ではなく、唯物論によって具体的な内容をもつことができるでしょう。

また、何故「経済」なのかと言えば、「自然と人間との間の永遠の物質代謝過程」こそが社会の歴史的かつ
自然的な物質的基礎をなすもの、だからです。
無論、「経済学」が「社会学」の基礎をなす訳ではありません。
294革命的名無しさん:2008/10/13(月) 08:43:53
106 名前:OFW :2001/01/20(土) 07:29
>>105
>流動資本(原材料としての商品)と労働を用いて商品を作りますね。
固定資本(土地、設備機械等)を忘れないように。また、労働を用いるのではなく、労働力を用いるのです。
労働は現実の活動であり、労働力はその潜在的な在り方。それは労働者自身でしょう。

>その流動資本として使ったものを補填してもあまりあるだけの商品が生産されるから経済は存立可能な
 わけですね。
資本主義としての商品生産はそうです。そして、「あまりある」どころか「あり余る」ほどの商品が生産可能な
のが、工場制機械工業による大量生産。

>じゃあ流動資本と賃金分を超える部分はどこへ行くかというと、資本の価値額に応じて資本家に分配され
 るはずなのです。
その前に、「商品形態」は「貨幣形態」に転化され、価値を実現しなければなりません。平たく言えば、
市場においてすべて売れなければならない。
それが問題の点です。生産物が売れるか売れないか、それはまったく分からない。
価値形態の転化のために、商品およびその担い手である資本家は「命懸けの飛躍」(マルクス)を遂げる
必要があります。それは需要を知らない無秩序な生産のためであり、市場における「見えざる手」によって
事後的に生産の調整が行われる。それが資本主義的市場経済です。

>(すべての産業で利潤が等しくなるのは、資本は産業間を自由に移動かのうだからです。)
まったくその通り。資本が自由なので、労働者は不自由な拘束を受け、また利潤が等しくなるから、
剰余価値が不等になり、合理的な再生産が不調になるのが現実であり、それは現在でも「不況」として
現実化していない?

「価値通りの交換」(等価交換、一物一価の原則)という規範が、現実には「生産価格での交換」に
なっているのが「転形問題」であり、にも拘らず経済学者が「現実は価値通りの交換が支配する
合理的市場経済社会である」と言うことは、イデオロギー(現実に合わない観念)でしょう。
経済学批判とは道徳的批判ではなく、現実とは違う、というイデオロギー批判(空想的理論の検証)
なのです。
295革命的名無しさん:2008/10/13(月) 08:46:26
107 名前:OFW :2001/01/20(土) 07:32
>>105(つづき)
>こういう現実があるわけで、それがけしかんというのは規範的な考えであって、実証的な考えでは
 ないわけですね。

現実をみて、その矛盾した姿が見えないのは、「無概念的」認識と呼ばれる。
唯一の規範は「真理を探究せよ」という、すべての認識者に向けた規範であり、現実ではなく表象に
捕われることを戒めるものです。
また、実証は重要ですが、「何が実証されたのか」ということに関しては、反省的・本質的な理論(仮説)
が必要だということです。そうでないと、実証主義は「木を見て森を見ず」という現象論になる。

>価値とか価格というのは本来どうあるべきかというべきろんではなく、

どうあるべきか、ではなく、真理はどうなのか、です。「本来の価格」「自然価格」「正常な利潤」
「正しい経済政策」等々はすべて世の経済学者が使う規範的な言葉であり、現実を正しく反映していない
のでは?

>現実にどうなのかという現実認識であるわけでしょう?

まさにその通りです。マルクスは歴史上始めて「空想的観念ではなく、現実を見よ」と言ったわけです。

>どうもお話が理解できないですね。

では具体的に「貨幣が何故必要か」という点にしましょうか?
先ほどの話で、生産された商品には価値が「含まれている」としても、それは売れなくてはならない。
それは何故でしょう?
296革命的名無しさん:2008/10/13(月) 08:49:39
色々な欲望にまみれた、生身の人間社会は、机上の理屈では動かないだろ。
297革命的名無しさん:2008/10/13(月) 12:22:55
>>296
こいつはアフォか。
"生身の人間社会"の抽象化が"机上の理屈"じゃんかよ。
アトとサキを転倒してやんの。
298革命的名無しさん:2008/10/13(月) 17:54:57
>>297
こんな図式でOKですかいな?
"生身の人間社会"→"抽象化"→"机上の理屈(理論)"→"実践(理屈の確認)"
299革命的名無しさん:2008/10/13(月) 18:41:08
109 名前:OFW :2001/01/20(土) 21:16
>>108
>産業を通じて等しくなるのはなぜか?
まず現象面で言えば、資本家にとっては、彼が投下する貨幣がどれだけ太って戻ってくるか、
にのみ関心がある訳ですから、投下すべき産業が何であっても構わない、という事情は別に
不思議なことではないでしょう。
そして、すべての資本家がより高い利潤率を求めて競争する結果として、むしろすべての利潤率が
全産業を通して均等化され、「一般利潤率」という平衡点に達する、ということも自由競争の直観として
は分かるでしょう。その過程は、市場というものが持つ逆説(見えざる手)の一つであり、市場心理に
ついて、たとえば、哲学者J.P.サルトルが『弁証法的理性批判』において、「他者性の次元」の例として
分析したものでもあり、岩井氏も「他者の欲望」「未来への先送り」等の用語で分析していますが、
要するに、物象化した人間(他者なる自己)の弁証法として説かれるべきものです。
そして、その過程の結果として実現される事態は、まさに社会全体の総資本による総労働の歪んだ
再配分(誤った割り算)ですね。
その場合、価値法則は全体として貫徹していると言える。実際現在は、IT産業に向けて「全ての個別資本」
が誰よりも早くと、移動競争をしているような有り様であり、早く独占して「他者の自由」を排除しないと、
独占を排除した完全自由競争の負け組になる、と言われている。

>(労働も自由に動いても、資本は自由に動けるよ)
マルクスは近代プロレタリアの誕生について、彼らが二重の意味で自由である、と言っていますね。
第一に前近代的な隷従関係、古い役務からの自由、第二に生産手段から切り離され、
裸の労働力として所有からの自由。
それは「職業選択の自由」といったごまかしの観念とは違い、リアルに社会を見る視点、そして弁証法的な
視点(自由は必然である)を示している。
私が「労働者は不自由」と言ったのは、職業をいくら自由に選択しても賃労働者であることから自由には
なれない、といった意味です。失業の自由?
300革命的名無しさん:2008/10/13(月) 21:27:53
110 名前:OFW :2001/01/20(土) 21:18
>>108(つづき)
>ここのところは、労働価値説を用いて価値を求めても意味がないという転形問題のことの気がするけど。

「価値」という言葉をどう定義するか、に掛かっているでしょう。
  1.「価値とはモノがもつ効用である」?
  2.「価値とは現存する有用物がもつ稀少性である」?
  3.「価値とは貨幣で尺度される、経済学の基本量である」?
明らかに3は形式的な定義であり、実際には価値ではなく価格しか扱っていない。
「名目価格」「実質価格」という用語がそれを補っています。
尺度は存在するが、それによって尺度される実体は存在しない???

また、岩井氏も含め、経済学者は「労働価値説」という用語を「投下労働量で尺度された価値に基づく
交換が実際に成立しているという、科学的な法則」と考えているようですが、私は「価値という存在の実体は
社会的必要労働であるという、価値の本質認識」と考えます。それがマルクスの主張としての労働価値説で
しょう。
301革命的名無しさん:2008/10/13(月) 21:32:47
112 名前:OFW :2001/01/21(日) 09:36
>>111
>社会的必要労働というのを、投入係数を考えて一単位その生産物を社会全体として生産するのに必要な
 労働量と解釈するのが一般的ではないでしょうか?

概念としてはそうでしょう。ですから「社会が必要としている生産物」に関して、いかなる社会において?という
社会の本質に問題が移るでしょう。

>たしかに投入係数は変わるし失業もあるのでうれないものを作る労働というのは社会的には不必要と
 考えることができるのかもしれませんが、そのようには経済学では考えないのでは?

資本主義社会を前提にした経済学ではそうでしょうが、売買自体を廃止する社会主義経済では
そうではないでしょう。念のために言っておけば、旧ソ連を始め、自称「社会主義国家」とは社会経済体制
としては、国家資本主義と考えるのが正しい。

>むしろマルクスは古典派をひきずっているから完全雇用を考えていたのではないですか?

「古典派をひきずる」という意味が良く分からないが、マルクスは雇用(正確には賃労働)の廃止を考えて
いたのです。
彼は、資本主義経済の整合的な理論体系をうち立てようとした科学者、ではない。
『資本論』とはブルジョア経済学の批判の書であり、「マルクス経済学」なるものの教科書ではないのです。
歴史的社会の唯物論という視点が必要。

>失業予備軍は賃金率が労働の再生産に必要な水準に決まると言っているだけで。ちがいますか?
まず「労働の再生産」ではなく「労働力の再生産」です。労働を再生産するとは、「運動を運転する」並みの
論理的エラーです。労働の価格とか、賃金とは労働の報酬とか、同じ誤りです。
(どうして皆、本質的な区別が分からないのかな…)
また、「失業予備軍」という言葉は「産業予備軍」が正しい。資本主義経済下では賃金率を最低限に押さえる
ために、産業予備軍という失業者が必要、ということです。
302革命的名無しさん:2008/10/13(月) 21:35:11
119 名前:OFW :2001/01/22(月) 02:26
>>116
>しばらく僕はここのスレッドお休みにします。
それは残念。インターネットは続けるべきでしょう。

>資本主義はきっと滅びるという論理を展開して
資本主義が自動的に滅びるという論理は、誤解ですね。
資本家というものは、自らの階級的利害のためには、世界を消滅させてもよいくらいの考えをもち得ますから。
現に20世紀には2度の世界大戦と数多くの戦争があり、原爆・水爆(実験)まで使用された。
環境は修復不可能なまでに破壊されつつある。

>革命という新しい経済関係を作り出すときの軋轢をなるべく少なくしたい
革命は新しい経済関係のための転回(Revolution)であり、暴力的か非暴力的かは措くとして、
不可避なものでしょう。それは「必然性の王国」から「自由の王国」に向けた人類の主体的な事業です。
マルクスはそれを労働者階級の自己解放に向けた理性と情熱に託したということです。

>>117
>2ちゃんねるにはくだらない馬鹿書き込みが多すぎて
確かにくだらないものが多いのは確かですが、それは今まで余りにも「表現の自由」が押さえられていたため
でもあると思う。また、一見してつまらない一行レスにも、カキコする人の表現したい本心が見える場合もある。
インターネットにより、確実に世界は変わるでしょう。それは、人類という一つの歴史的かつ自然的な共同体が
現実のものになる過程の一つだと考えれば、多くの無名の人同志のコミュニケーションが如何に重要かというこ
とです。
303革命的名無しさん:2008/10/13(月) 21:37:15
130 名前:OFW :2001/01/28(日) 23:40
>>122
>それは貨幣が自分にしか根拠をもたない脆弱なものに過ぎないということを逆に暴き出してしまったとも言える。
それは少し誉め過ぎではないかな?
まず岩井氏は「貨幣が自分にしか根拠をもたない」とは言っていない。
彼は「貨幣は他者がそれを受け取るから、貨幣として流通する」と言っているので、要するに「人間同志の約束」
が貨幣の根拠だと言っているに過ぎない。つまり、「貨幣の真の(客観的な)根拠は何か」という点には結局答えて
いない訳です。それは彼が予め「労働価値説」を否定した上で、「さて、貨幣とは…」と語り出す以上、始めから
答えを遮断しているということです。

>岩井氏の貨幣論は貨幣からその存立根拠を理論的に奪うために 書かれたとも考えられる
私には労働価値説を葬ろうとするために書かれたと見えますね。
前にも書いたが、循環論法は貨幣にではなく、岩井氏および近代経済学の論法の方にあるのであり、貨幣という
現実的な仮象は厳然として存在するのです。

>こう見ると案外、岩井氏の貨幣論は貨幣否定論と近接しているように思う。
まあ、一般の貨幣論よりは踏み込んでいると言えるでしょうが、価値の実体に迫っていない以上、結局は無根拠な
議論でしょう。

>貨幣の本源的無根拠性を暴露することで、貨幣の否定可能性への道を開いたという具合に。
「貨幣の本源的無根拠性」という言葉で何を言おうとしているのでしょう?
一般に根拠とは現存在の存立性ということですから、貨幣が存立するための根拠はそれが「一般的等価物」である
ことですね。そして、その詳細は、マルクスの価値形態論が解明している。むろん、貨幣が貨幣自身の根拠である、
というのはナンセンスでしかないが。
304革命的名無しさん:2008/10/13(月) 21:39:14
131 名前:OFW :2001/01/28(日) 23:45
>>124(横レス失礼)
>貨幣の無根拠性と貨幣の否定可能性の間の距離はあまりに遠い
貨幣は無根拠なものではない。それは「現実的な仮象」であり、その根拠は生産者が互いに孤立しており、
社会的な生産物が商品として交換されなくてはならないからです。そのためには等価交換が必要でしょう?

>世界の実在を証明することが難しいということが、世界の消滅へ道を開くと思いますか?
世界の実在が証明できないのは、それが実在ではなく現象の総体だからです。また、世界自体は消滅しません。
それは主体の必然(必要)です。

>>125
>貨幣が崩壊しないのは実際的には「貨幣法制説」が「貨幣の無根拠性」を隠蔽するのに現に成功している
 からにすぎない。
それは信用と貨幣とを混同する議論です。代理貨幣と本源貨幣との区別が必要でしょう。
確かに信用とは資本主義世界に対する信頼であり、その崩壊は資本家にとっては「世界自体の崩壊」と感じられる
でしょうが、労働者にとっては、まさに「世界の夜明け」でしょう。

>コミュニストのマルクスの目論見(貨幣の否定)は恐ろしいが案外そこにあるともいえる
コミュニストの目論見?は資本家にとってのみ恐ろしいのであり、現在既に日々恐ろしい目に合っている労働者
にとってはそうではないでしょう。あなたは労働者それとも非労働者?

>だから、岩井氏は国家の力を軽視していると思う。
国家とは政治的な暴力装置であり、階級対立を隠蔽する幻想の共同体です。
それは、労働者が現実を把握すれば、自分が作り出した幻であるということに気が付くでしょう。
むろんその現実の廃棄は政治的な実践を必要とするが。
「主人が奴隷に対して主人であるのは、奴隷が主人に対して奴隷として振舞うからである。」(マルクス)
305革命的名無しさん:2008/10/14(火) 20:25:27
139 名前:OFW :2001/02/02(金) 21:36
>>136
>貨幣に否定しがたい根拠があったらしたら、それだけ逆に貨幣を廃止するのが困難だと思う。

「貨幣の根拠」とは、貨幣が無くてはならない理由ということですが、それは社会の分裂状態にある訳です。
その廃止は社会革命なしには成し得ないのであり、現状の生産関係をそのままにして貨幣だけ廃止できる
筈もないでしょう。

>>137
>貨幣法制説が貨幣に根拠をなんとか与えているのに成功している

何らかの学説が現実の貨幣を支える根拠ではなく、実際の経済がその根拠なのです。
無論、通貨は国家と一体ですが、世界貨幣としての金が相変わらずその底に隠れているでしょうね。
306革命的名無しさん:2008/10/14(火) 20:27:03
140 名前:OFW :2001/02/02(金) 21:55
>>132
>「可能なるコミュニズム」批判して下さい

最近の柄谷氏が何を主張しているのか詳しく知りませんが、労働者に依拠せずに、コミュニズムが可能だとは
考えられない。

>>133(124)
>「労働者」が何をさしているのかということです。

現在の資本主義体制の下では、何よりもまず賃労働者を指します。
そして、自ら生産手段を所有して同時に労働する自営業者も労働者です。
自ら働かずして、他者の労働(その成果)を収奪する者以外は、すべて労働者です。
とりわけ、「自らの労働力以外に売るべき何物をも持たない」賃労働者は資本の価値増殖の根拠ですから、
その疎外された実存を止揚することは本質的に社会の解放と結びついているのです。
307革命的名無しさん:2008/10/14(火) 20:29:06
142 名前:OFW :2001/02/03(土) 20:14
>>141
>本当ですか?
本当です。「本当」という言葉が真実を指すならば。

>それは高々形而上的言説の中に回収されているだけの気がしますけど?
現象と本質は異なりますから、現象面だけに捕われていれば、私の言説は形而上学的に思えるのでしょう。
しかし、本質を理解すれば、世の人がいわゆる「貨幣の形而上学」(貨幣物神)に陥っていることが見えてく
るでしょう。
実際、岩井氏は自ら貨幣論を書いている過程で、一つの神学を扱っているかのような錯覚に陥ったと言って
います。それは錯覚ではなく、貨幣自体を考えていけば、文字どおり形而上学にしかならないでしょう。
308革命的名無しさん:2008/10/14(火) 20:30:39
143 名前:OFW :2001/02/05(月) 23:49
>>135
>現実を把握すれば奴隷は何らかのアクションを起こすんでしょうか?
現実は動かし得ないと予想すれば、起こさないでしょう。
それは「予想の自己実現」と呼ばれるもので、自らが作る現実、という点に対する無理解でしょう。
そのためにむしろ、「カネこそが唯一の現実」という社会を現実化してしまうわけです。

>奴隷が奴隷の身分に甘んじているのは現実を理解していないからなんでしょうか?
直接的な現実については、最もよく理解しているでしょう。それは毎日経験する狭い現実です。
そこではカネがすべてを支配しているが、貨幣とは何か、などと考える余裕など無いから、
それが無くてもよい存在、むしろ無いほうが世の中はシンプルで合理的になることまで理解できない。
まして、「カネは絶対的だ」という教義が蔓延している以上は…。

>なぜ弱者は現実を知ることを恐れるのでしょうか?
それは「現実を知ってもどうにもならない」という諦めが先に立つからでしょう。
精々の所、「金持ち父さん」を夢見る位が関の山で、
自らが現実総体を変える力と方策を握っていることに気づかない、ということかな。
ウォルフレンも言うように「仕方がない」とは日本人の口癖ですが、
それは「仕方を知らない」ためであり、権力志向の知識人の責任でもある。
309革命的名無しさん:2008/10/14(火) 20:32:45
145 名前:OFW :2001/02/07(水) 22:27
>>144
>ソ連って結局なんだったんでしょう?

旧ソ連は社会経済体制としては、国家資本主義と言うべきでしょうね。
ノメンクラトゥーラと呼ばれた共産党官僚、軍部および大企業のボス達が生産手段を実質的に所有し、
社会の政治・経済を支配していた。
彼らは自らを共産主義者と呼び、その国家をソヴィエト社会主義連邦と称していたが、相変わらず賃労働、
貨幣、国家を廃棄することなく、上からの強制的な生産計画(ノルマ)をもって計画経済と呼び、
生産者の有機的・自発的な連帯と協働を阻止していた訳です。
最近では、「日本は社会主義だ」という半ば冗談とも思えない意見も出ているが、
歴史的に存在した旧ソ連の「あの体制」を社会主義と定義するなら、
独占・寡占状態の大資本が国家官僚と一体となって、
一国の経済を政治経済的にコントロールしている姿は確かに社会主義的でしょうね。
20世紀以降、国家が経済に介入せざるを得ない時代(帝国主義時代)には、
純粋な自由主義経済など存在すべくもないし、階級対立が続く限り、
国家(幻想の共同体)が必然的に登場することになる。
いずれにせよ、極度に政治化された経済の下では、
経済学者は中立的な科学者という自らの本分を守ることはできないのは確かでしょう。
階級対立が存在する社会においては、社会科学の中立性とは貨幣の中立性と同様、幻想に過ぎないのです。
310革命的名無しさん:2008/10/14(火) 20:34:46
150 名前:OFW :2001/02/14(水) 22:46
>>149
>貨幣物神が幻想だというような書き方をされてますが
貨幣物神とは「人間の社会的な本質力が貨幣において体現され、人間的な関係性、豊かさ、
主体的な自由等はすべて貨幣がもたらしてくれる。」という観念です。
それは一つの幻想ですが、この疎外された社会においては必然的な(不可避的な)幻想です。

>貨幣物神も本質であるといえます。
むろん転倒した形ではあるが、現実に無限の力をもつ本質です。それは非本質的な本質です。

>時代の要請によって個々人の考える本質になったりならなかったりでしょう。
確かに何が本質的で何が非本質的かは、観点や時代によって異なるわけですが、
決して個人的な主観には依らないものです。それは全体的な存在であり、
むしろ主観的な現象の底にある事物の客観的本質こそが、個々人の考えを規定していると言えるでしょう。

>僕は本質論より手続きのほうが重要だと考えます。
手続きとはどのようなことを言われているのでしょう?
誰もが豊かになるチャンスを増やすための、制度的な改良とかのこと?

>人が社会やそのしくみについて考えるのは、それを知ることによってこの惨めな自分が豊かに生きうるという可能性を
 そこに感じるからです。
そうですね。その可能性がないと思えば、現状に甘んじる方を選ぶ。

>結局多くの日本人はいまのままがいいんでしょう。
確かに、多くの日本人は物質的には恵まれており、かってない程、豊かな時代を過ごしているとも言える。
しかし、それはまったく根拠のない状態であり、偶然的で、見通しのきかない、徐々に崩壊しているという不安を
感じながらのことでしょうね。現実から目をそむけ、ますます刹那的になっていくのは、危機に対する弱者の防衛
本能だと思う。
311革命的名無しさん:2008/10/15(水) 19:47:38
ここからはワテが代わってコピペしまっせ。

1 名前: 美雪 投稿日: 2000/05/11(木) 17:10
哲学板には初めて来ました。
貨幣価値に換算する対象さえ特定できたらすべて貨幣価値に換算することできるし、換算することは非常に
有益です。
哲学人はこの主張を否定しますか?
その対象が無限だったらどうするんだ!
そもそも貨幣の基準は!という愚問は控えてください。
あなたがたはユースケ・サンタマリアは筋肉モリモリだと信じているんでしょうね。
まずユースケさんを疑うことをお勧めします。
312革命的名無しさん:2008/10/15(水) 19:49:30
79番はんがOFW氏だっせ。

79 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2000/09/09(土) 15:41
随分古いスレだが、おもしろいテーマで経済学板より哲学板での議論が有益だ。
私の主張@ 貨幣には価値が無い。(これ当たり前)
私の主張A まともな貨幣論は見たことがない。(浅学?)
私の主張B マルクスの価値形態論をちゃんと理解している人も見たことがない。
私の主張C ただお金が欲しいと思っているだけの人はこの手の議論には向かない
313革命的名無しさん:2008/10/18(土) 09:51:33
88 名前: 79 投稿日: 2000/09/15(金) 10:20
>16
「過去に起こった出来事」は知識として
@ 未来の予測のために例えば気象観測データとして商売できる。
   (三宅島の噴火を予測できないためにどれだけの経済的損害があるか?)
A 歴史学者の給料に反映される。
>20
「資本主義徹底推進運動」を是非展開して欲しい、どうした美雪!
>30
既に「知的所有権」が存在しており、例えばヒトゲノムのDNA配列の法則は桁はずれの貨幣価値を持っている。
>38
馬鹿な事を言わないように。
交換価値は交換によって初めて発生するのではなく、社会的労働によって形成され、交換によって実現するのです。
>39
当然マルクスの価値形態論、労働価値説です。
>66
その通り。経済学はまったく非科学的です。
>68
あんたは偉い。それから本当の議論が始まるのです。
>80
ジンメルの貨幣論は余りに鈍くさい(流し読みですが)。
あまりシャープな思考ができていないと感じた。
(自戒:古いレスにコメントをつけてどうするのか!!)
314革命的名無しさん:2008/10/18(土) 15:50:45
92 名前: 79 投稿日: 2000/09/15(金) 17:10
>>89
どもです。(まだ2chに馴れていないので)

>>90
私が答えるより美雪氏の方がセンス良く答えてくれると思うのですが、要はどんなものにも可能的に価値はあり、
それはまず相対的・主観的であるという事です。
(近代)経済学は価値を主観的なものとして研究対象から外していますので、批判は経済学に向けて欲しい。
私は客観的価値(主観的価値を通して現れる本質)についてマルクスを援用します。

>>91
>労働が交換価値の根底をなすことは事実ですが、・・・
これは驚きです。100万人に1人位の希少価値をもつ意見ですね。そのような事を(近代)経済学者に言えば、
「おまえアホやな。」と一笑に付されるでしょう。(私も15chで総攻撃に会いました)

>僕が悩むのは、ワインの新酒と古酒の価値の違いです。
この辺はきちんと説明しないと誤解を生むし、日本のいわゆるマルクス(主義)経済学者は皆全く誤解しています。
「価値とは何か」
@使用価値(有用性) A希少価値 B交換価値 C価値自体 D価値の実体
マルクスはすべてを統一的に説明しています。ワインの価値の違いはむしろAの稀少性の違いでしょう。

>時間も貨幣価値に転換できますか?
むしろ逆です。労働時間が貨幣価値に化けるのです。これを物象化と呼びます。
315革命的名無しさん:2008/10/18(土) 16:18:58
>ワインの新酒と古酒の価値の違い

ワインを熟成させるには多くの労働力を必要とします。
温度や湿度の厳密な管理、ボトルを定期的に反転させる手間、はてはワイン蔵
そのものの建築コストにいたるまで、古酒の価値はまさに、多くの労働の対価
そのものによって構成されていると言えます。
316革命的名無しさん:2008/10/18(土) 20:04:17
>>315
オンナの熟成にもこれまた数多のチン労働力を必要としますです、はい。
317革命的名無しさん:2008/10/18(土) 20:09:02
93 名前: 79 投稿日: 2000/09/16(土) 15:01
>時間も貨幣価値に転換できますか?(続き)
マルクスの価値形態論は商品の分析から始まります。
それは価値の本質論であり、現在に至るまで誰も敢えて触れようとしなかった
資本主義経済システムの根幹です。
実際毎日の経済およびその学問的研究はすべて貨幣を「前提」にしているが、
「そもそも貨幣とは何だろう?」という事には誰も真面目に触れようともしない。
「お金が欲しい、お金が欲しい」とは誰もが言い、そのために毎日命を懸けているが、
貨幣の形而上学存在(笑)は絶対不可侵の神と言う訳です。
さしずめ経済学者はマンモーに仕える神学者と言える。
労働者は自らが神を作り出しているのは実は自分なのだと気づく事が、
神に仕える奴隷としての自己を解放するために何より必要な事でしょう。
商品・貨幣・資本の言葉でなく、労働そして人間の言葉で経済を捉える事が
マルクスの経済学批判の趣旨です。

94 名前: 79 投稿日: 2000/09/16(土) 15:09
>>93
誤: 形而上学存在      正: 形而上学的存在
誤: 自らが神を作り出して  正: 神を作り出して
318革命的名無しさん:2008/10/18(土) 20:12:07
102 名前: 79 投稿日: 2000/09/17(日) 00:53
貨幣は確かに偉大な力を持っている。
現代社会においては生活に必要な物資は殆どすべて商品として存在しており、
昔の農村におけるような自給自足は不可能になっている。
「貨幣は便利なもの」と言った牧歌的な状況はとうの昔の話であり、
人間が生きるためにはまず貨幣を得ることから始めなくてはならない。
しかし誰でも「それは何か変だ。」と感じている筈です。
たとえば
「直接必要なものは衣食住の用をなす物資(財)であり、貨幣はその媒介手段(交換用具)に過ぎない。」
あるいは
「生産・分配・消費を調整し市場において物資の需給を均衡あるものにするためには貨幣に換算する必要がある。」
と言った表象が貨幣を単なる手段と見做すために持ち出されるかも知れない。
しかし、問題は「何が貨幣に換算されているのか?」という事です。
それは貨幣の力の源であるようなものであり、たとえば「購買力」と呼ばれたりする。
しかし商品には殆ど購買力はないとされている以上、
「商品の購買力を貨幣に換算している」とは実態に合わない。
それはどうしても「(経済的)価値」と呼ぶしかないような存在です。
しかし「貨幣自体に価値はない」とは誰もが言い、貨幣の力はやはりその購買力にあると言います。
前者は貨幣の使用価値、後者は貨幣の購買力(交換価値)の面を言っている訳です。
そして更に「お金持ち」(例:ロックフェラー?)とは貨幣を物質として所有することで
世の中で実質的な力を持つ人のことです。
では貨幣の力はどこから発生するのか?その質問に対して経済学は無力です。
「それは貨幣に元々備わっているのであり、それ以上の余計な詮索は無用だ。」と経済学者は言うでしょう。
より「洗練された」言い方は「それは貨幣の一機能(要するに主観的な約束事)である。」という訳の分からない
ものです。
彼らの数理計算において価値は価格という姿でしか現れないから、表面上価値は見事に消え去っている。
しかし貨幣が存在しなくてはならない。それは価値の物質的な存在です。
そのような根底を(ヘーゲル)論理学では「実体」と呼びます。つまり貨幣は価値の現存在(現れ)なのです。
319革命的名無しさん:2008/10/18(土) 20:18:06
114 名前: 79 投稿日: 2000/09/17(日) 08:23
>101

何にせよ買う事ができるのはモノとしての存在性格を持つ対象です。
事柄、関係、活動といった本来モノではない存在は対象化され更にモノとして扱われる事で売買の対象にできる。
実際、過去の出来事自体は観念的な存在であり、媒介された知識としてしか存在しないが、
それはモノとして(例:家系図、証言記録)売買の対象にされている。
物象化とは対象化の一種(疎外形態)で、人と人との関係がモノとモノとの関係として、
物質的な実在に体現されていると言う事です。
320革命的名無しさん:2008/10/18(土) 20:19:05
116 名前: 79 投稿日: 2000/09/17(日) 14:48
>115
>商品の持つ価値は普遍的とはいえず、

商品の個別的価値はまず使用価値として主観的・相対的・偶然的であり普遍的ではないというのは
私も同意見です。
普遍性とは特殊性および個別性に対立する集合的な概念です。
個別的価値は多くの交換を通して市場平均として普遍的・客観的になるのです。
(質および量的価値は実在に属し、交換価値および価値自体は本質に属します。)

>貨幣価値自体を論じることにあまり意義を感じません。

貨幣は今の世の中で最も普遍的な価値と見なされており、
その本質(貨幣の本性)を論じる事は理論的のみならず、実践的にも大変重要だと思いますが?

あと、1(美雪さん)の意見に対しての違和感こそが大事であり、
「このおかしさはどこから来るのか?」と考えることが哲学的に生産的だと言いたかったのです。
ナンセンスと割り切るのは簡単です。
321革命的名無しさん:2008/10/18(土) 20:22:55
120 名前: 79 投稿日: 2000/09/17(日) 17:35
(また、相手のいなくなった旧レスにコメントをつけてしまおう。)
>>20
「現在の高度資本主義経済社会にすべてのことがらは流通できる」
高度情報化社会はインターネットと共に!!、ですね。
でも資本主義が流通させるのは事柄ではなくモノとなった事柄、結局商品だけですが。(私のこのメッセージは
著作権フリーで無償コピーOKという共産主義的原則に従っていますので、より流通性が高い、いやむしろ
検閲対象かな?。)
>>32
「美しいこともドキュンなのも先生も生徒も,親も子供も,,反体制運動もカウンターカルチャーも市場によって
 制御されていることで自発的なものではありません。」
昔小林秀雄が「今の左翼思想も商品として流通しているだけだ。」という趣旨の批評をしていた。
>>35
「要するにあらゆる現象を数値化して、方程式を作って、将来のお金の動きを把握できます、お金をあずけて
 みてはどうですか、と。」
あらゆる現象を数値化するのは近代の原理であり、そこから方程式(一般法則)を立てるのも近代科学の
原理です。しかし、将来のお金の動きを把握する事は近代経済学が未だに成功していない。
躓きの石でしょう。それは何故か。
>>53(Hei!美雪)
「お金がなきゃどういう世の中になっちまうんだ。。。 」
お金のない社会を共産主義社会と呼びます。
>>52(What?美雪)
「『価値』っていうのは『円』にまでもっていく『労力』っていうこと。」
これだけが違和感のある考えです。何でそうなるの?
>>53(Nice to Say!美雪)
「いやあ お金って便利でいいなあ 」
いやあ お金って議論すればする程おもしろいなあ。
でも明日からまたお金のためにあくせく働かされるんだあ。早く寝なくっちゃ。
322革命的名無しさん:2008/10/18(土) 20:26:42
122 名前: 79 投稿日: 2000/09/17(日) 20:13
アリストテレス『ニコマコス倫理学』と言えば、
マルクス『資本論』の中で「交換の不可能性」を論じている部分が引用されていた。
確かモノの(使用価値という意味での)価値の大きさはそれを必要とする人によって
異なり不等なものであるにも拘らず、等価交換がなされるのは理にかなっておらず、
何かの間違いでしかない、と言う内容だった。
さすが大哲学者(アリストテレス&マルクス)の見る所は違うなと感じる。(現代の経済学者に聞かせたい話。)
実際、所有者にとっては価値がないから相手に手渡す訳で、
どうして等価交換が可能なのかを疑問にも思わない経済学者の非哲学性。
因みに原著は読みかけて止めた。(『自然学』『形而上学』はとても面白い)
また、数量概念についてはやはりヘーゲル論理学を参照したい。
「量とは自己に無関心になった(他者にとっての)質である。その規定(定め)は無限の自己超出である。」
商品の外在性と資本の無限増殖運動を連想させる。
323革命的名無しさん:2008/10/19(日) 10:34:06
123 名前: 79 投稿日: 2000/09/18(月) 23:55
(今はもう秋、美雪氏は来ない。で、続けて勝手に質問。)
「貨幣価値に換算する」ってどういう事?
貨幣は

@価値の尺度(物差し)
A価値の基準(標準的な価値)
B価値の計測器(交換によって値が定まる)

のどれ?どの場合でも「価値」は貨幣そのものではないよ。にも拘らず

 C価値を蓄蔵する媒体(貨幣資産)

と言われ、また

D価値の鏡(比喩的ですが鋭い!「鏡は自己を消すことで世界を映す」)

とも言われる。一体貨幣、価値とは何?便利どころか「摩訶不思議」だと思わない?(そうか、思わないんだね。)
324革命的名無しさん:2008/10/19(日) 10:35:06
124 名前: 通りすがりの人 投稿日: 2000/09/19(火) 02:19
>>123
3じゃないですか?
貨幣価値は交換によってのみ決定すると思いますが。
交換とは量子力学の「観測」みたいなものじゃないでしょうか。
325革命的名無しさん:2008/10/19(日) 10:50:16
125 名前: 79 投稿日: 2000/09/19(火) 20:44
>>124
確かに交換によって初めて価値が「決定」するのは確かでしょう。
しかし、物理学的な位置および運動量は観測器と対象の両者に共通した属性ですが、貨幣自体の価値は
ゼロと見なせる場合(例:紙幣、電子マネー)があるのは何故?
さらに、Cの貨幣資産の場合「価値を貯えている」のであって、もし観測器だとするならそれをいくら貯えても
価値を貯える事にはならないでしょう?
「貨幣、価値とは何?」という質問には上記@からD(さらにまだある機能)を統一的に説明できないと答えに
ならないのです。
さあ、どうぞ。
326革命的名無しさん:2008/10/19(日) 10:52:42
126 名前: 124 投稿日: 2000/09/19(火) 22:38
>>125
すいません。
(3)というのは、「貨幣価値」はどこにあるか?の答えでした。つまり交換価値ということですね。
交換価値ですから、媒体(紙、ビット列)自体の価値は貨幣価値に無関係ですよね。
で「貨幣」とは何か? と問われれば、答えは(3)(4)だと思います。
「交換」とは貨幣による価値の測定と同時に貨幣の消費でもありますからね。

貨幣の交換価値を貨幣量で積分したものが、蓄蔵された貨幣全体の価値の量と言うことになると思いますが、
その価値も「交換」があってはじめて決定されるものです。
つまり、貨幣の価値は、交換された「もの」の実体としての価値に等しいと言えると思います。
が、ここで、交換された「もの」の価値を決めるのは、他でもない、当事者自身であると言えます。

だから、(1)(2)は、それぞれの人間の心や身体の中にあるものだと思います。(5)はちょっとよく分かりません。
327革命的名無しさん:2008/10/19(日) 10:56:52
129 名前: 76 投稿日: 2000/09/20(水) 21:08
>127
うっかりしていた。失礼。丸付き1〜5は(1)〜(5)に変更します。

>126
つまり整理すると、
 ア.貨幣自体には(使用)価値はない。
 イ.貨幣の(交換)価値はそれと交換されるモノの(使用)価値(実体としての価値)に等しい。
 ウ.単位当たりの貨幣の交換価値を貨幣量で積分したものが、蓄蔵された貨幣全体の(交換価値)の量である。
 エ.モノの(使用)価値自体は主観的なものである。
となりますが、宜しいですか?多分経済学者も上記とそれ程違う答えを用意してはいないでしょう。
しかし、

「貨幣との交換によってモノの(使用)価値の大きさが決まるが、それは主観的なものである。」(a)

という言明は非常におかしな内容を含んでいます。
そのおかしさに気づくことから貨幣および商品、そして資本の謎に迫ることができるし、
マルクスは実際にそれを辿って結局『資本論』にまで達したのです。
論理的には、マルクスと世の経済学者とのどちらかがバカだという事になります。
どちらだと思いますか?言明(a)は正しいと思われますか?
328革命的名無しさん:2008/10/19(日) 10:59:54
133 名前: 79 投稿日: 2000/09/21(木) 21:43
>>130
>「お湯の温度は測定できるけれども、そのお湯が熱いかぬるいかはそれぞれの人の主観による。」
ある人がお湯を熱いと感じる。これは確かに主観的ですが、その「原因」としての「お湯の熱」は客観的なものであり、
それを客観的な尺度(温度計)によって測定する訳です。無論、原因−結果という概念も相対的なものであり、
「何が原因か」は状況によって異なりますが、主観的なものでない事は明らかです。
ところが、近代経済学を含め、いわゆるマッハ流の主観主義的・現象主義的な科学観ではすべてを主観的なもの
としてしまい、「客観的価値」などないと言います。それは例えば、「『熱い』という感覚には原因などない。
それは主観的な思い込みあるいは昔からの習慣に過ぎない。」と主張する様なものであり、それを聞いたら誰でも
驚くでしょう。ところが経済学者は価値についてそう主張するのです。

>>131
>価値の一元化というイデオロギーが、現在のいじめ問題なども生みだしているという側面・・・
少し飛躍し過ぎ。「経済的価値」にだけ的を絞って下さい。
>>132
>同じ大きさの主観的価値でも場所や時が異なれば価格(数値)が異なります。このズレを経済学はどのように
>解決しているのだろうか
経済学者ならすぐさま以下のように答えるでしょう。

「素人はこれだから困る。君の言っている変動するものとは商品価格の事であり、それは商品の需要量と供給量の
 不均衡によって 変動するのは当たりまえの話だ。そして価値は主観的なものだから『同じ価値』など存在しない。
 価値について云々するのは形而上学である。」と。

しかし、私はあなたの方が正しいと考えます。まさに貨幣が「同じ価値自体」と言う幻想を完成させているのです。
329革命的名無しさん:2008/10/19(日) 11:00:48
134 名前: 129 投稿日: 2000/09/21(木) 21:48
 誤:  名前:76  正:  名前:79
330革命的名無しさん:2008/10/19(日) 11:02:08
137 名前: 79 投稿日: 2000/09/21(木) 23:41
>>135(横レス失礼)
>また、交換価値と主観的価値の関係も人それぞれ違っているからこそ、交換が発生し

まさにここが問題点。物々交換で言うと例えば、

「私の持っている上着とあなたの持っている靴とを交換しよう。何故なら今の私にとっては靴より上着の方が
 必要物(効用が高く、価値が高い)であるのに対して、あなたにとっては事情はまさに逆だろうから。」

という事です。
これでは決して「等価交換」など起きる筈がないでしょう。この問題をまともに捉えたのはマルクスだけです。
この問題を解くには弁証法が必要なのです。不等なものの相等性は如何にして可能か。
貨幣が実に便利でありながら、その逆説が如何に解き難いものかと言う事です。
上の例をじっくり考えてみれば事態は計りしれない程重大事を含んでいるのだという事が分かってくるでしょう。
「貨幣って便利で良いな。」どころではない。
331革命的名無しさん:2008/10/19(日) 11:03:06
138 名前: 79 投稿日: 2000/09/21(木) 23:54
>>137
誤:靴より上着の方が必要物
正:上着より靴の方が必要物
(こういう単純ミスが議論を錯綜させる事がある、失礼。)
332革命的名無しさん:2008/10/19(日) 15:39:56
139 名前: 79 投稿日: 2000/09/22(金) 21:11
>>136
>それを「価値」たらしめる源泉は、やはり使用者が主観的に感じる効用にあるのではないでしょうか。

まず言葉(概念)を明確にする事です。
「主観的価値」とは
ア.対象物に備わっている属性(性質、機能、性能)である。
イ.各人が対象物に認める効用(用途)である。
のどちらでしょう?
例えば、食物は食用に適した性質を持つが故に効用がある訳ですが、
価値が主観的とは「食肉の蛋白質成分に価値があるのではない。」という事でしょうか?
食用にするのは元々それが食用に適したモノだからでしょう?
確かに同じ肉でも、病人や腹一杯の人には価値が無い。
しかし、それは主観的なのではなく、生理学的に食用にできないあるいは必要としないからであり、
客観的な根拠を持っています。
主観的ではなく相対的と言うべきでは?
そして、効用という点での価値とは使用価値であり、その否定としての稀少性という面を持っています。
さらに使用価値は交換価値ではないのです。

他者にとっての効用が交換を生む。しかしその量は効用からは絶対に出てこない。これが価値の秘密です。
マルクスはそれを弁証法の助けを借りて明らかにしました。
333革命的名無しさん:2008/10/19(日) 15:48:49
145 名前: 79 投稿日: 2000/09/24(日) 08:20
>>144
>例えば同じ深さだけ井戸を掘ったとしても、そこから水がでてくるのか石油がでてくるのかで労働の結果生じる
>価値は違ってくるように思います。

「価値」が重層的な存在であり単純な表象では捉え難いものである事を忘れないで下さい。
それはいくつもの面(相)を持ち、相互に矛盾すら起こす厄介な存在です。
もし日本なら「空気と水はタダ」(最近はミネラルウォーターばやりでそうでもないが)ですから、
生き物にとってどれだけ水が必需品(使用価値が高い)であっても、
交換価値(商品価値)は殆どゼロという事になります。逆に石油は貴重品でしょう。
つまり日本では水を掘る(「生産」と呼びましょう)事は「社会的に必要」とされていない。
しかし砂漠に囲まれたアラブの国では、事情はまさに逆でしょう。
そこでは水は高価です。水掘りに大きな労働力を充当する事が社会的な必要となります。
日本人にとってタダ同然の水もアラブ人には高価だと言う事情が商品経済を発生させ、
水商品自体が交換価値を持つあるいは持たないかの様に思われる事になる。
(交換価値とは非所有者にとっての使用価値です)
まして、本来は一商品に過ぎなかった貨幣が交換の基準になり、
何でも買うことが出来るという購買力を持つようになると、
自らを価値自体だとして労働というその真実を隠してしまう。
334革命的名無しさん:2008/10/19(日) 15:51:37
333の続きで〜ちゅ。

価値とは社会的・普遍的な労働の性格がモノとして転倒されて現れた姿です。
それは財の「再」生産に必要な社会的労働の程度が財というモノ自身が持っている
自然的・物理的性質であるかの様に立てられた必然的な錯覚(物神崇拝)の根拠です。
未来に必要とされる主体的活動が過去の活動の成果として
現存在している客体(対象物)に内在していると見られる事を「実体化」と呼び、
特に人間の社会的関係が商品・貨幣・資本関係として転倒した姿で現れている事を「物象化」と呼びます。
労働に価値はない。労働が価値を生み出す源泉(価値自体である)からです。
ところが経済学は「賃労働の価値」を云々します。
賃金は実際には「労働力の価値」つまり労働力の再生産(要するに労働者の生活を維持する事)に
要する労働の事であるのに、労働自体の価値だと言い張る(いやむしろ価値などについて何も言わない)
自らも商品・貨幣の言葉でしか語らない以上、資本主義社会全体の転倒した姿をそのまま受け入れているだけで、
本来の主人公である労働者は経済学からは奇麗に消去されてしまっているのです。(長文失礼)
335革命的名無しさん:2008/10/19(日) 15:56:41
146 名前: 79 投稿日: 2000/09/29(金) 23:15
(誰もレスをつけないのでしつこく美雪氏にレス)
>貨幣価値に換算する対象さえ特定できたらすべて貨幣価値に換算することできるし、換算することは非常に
>有益です。

誰にとって有益かと言えば、無論お金持ち(世界のすべてを貨幣に換算する事で利益を得る人)です。
労働者は自らの労働によって資本家のために商品(他者にとっての効用物)を作り出し、
貨幣価値を作り出すしかない。

149 名前: 79 投稿日: 2000/09/30(土) 10:04
>>147

「親に育ててもらった」負い目(負債)は養育費・教育費として換算される。
資本主義ではそれは労働力生産の投資として経済学的に計算され労賃の中に含まれている
(実際には労賃からの控除としてマイナスされ公共的税という見かけを取っている)。
介護保険では立派に計算式が出ている。
つまり資本主義では労働力は商品ですから、その生産(人口)計画と品質(労働という効用性)計画は
貨幣価値に従って<数値化>(試験点数化、要介護度)され、
世界標準(<貨幣>経済の国際競争力)に基づいて<測定評価>(選抜試験、介護認定)される。

「負い目」(負債感)自体が貨幣貸借のアナロジーでしょう。
本来人間を育てるのは社会全体の義務ですから、負い目という個人的な貸借の問題ではない。
子供は親の所有物でも、子供(個人あるいは世代)自身の所有物でもない。
そう思わせるのが「親への恩返し」という封建的「家」思想であり、
それに便乗した「世代間負担計算」という経済主義的な似非社会保障イデオロギーです。
「義務教育」とは社会の義務であり、子供の権利です。
社会主義的な共同性こそが貨幣を止揚して、
貨幣の真理としての「協働による社会と個人の解放」を現実のものとする。
336革命的名無しさん:2008/10/20(月) 23:31:35
151 名前: 79 投稿日: 2000/10/01(日) 10:58
>>150
>あらゆるものが貨幣価値に換算できたらそっちの方がどんなに楽かということです。
おっしゃりたい事は理解しているつもりです。
私はそれを踏まえ、
「現代の資本主義社会はすべて(殺人すら)を貨幣価値に換算する非情な制度なのだ。事柄の本質を逸らす
貨幣の物象化の力は心理的なものにまで及んでいる。」
と言う点を指摘したかったのです。
「何故、親の頭をあたかもボールのように金属バットでヒットする事が可能か?」、
そこには人と人との人格的関係が壊れた物象的な世界が広がっている事を哲学的に洞察して欲しい。
貨幣がその元凶にある。
元祖金属バット殺人を犯した○○少年の父親は一流企業のエリート・サラリーマンでした。
企業の中で利潤追求を何よりも大事な事と考え、
おカネ(金属)を集める事を命より大事に思えと教えられ自らも実行した事でしょう。
転倒された社会の本質力は○○少年の姿をとって、
「金属」バットと人の命とどちらが大事かと言う事を父親に教えたのではないでしょうか?
人間が社会的な存在であるというのは、かくまで深い真理なのです。

>負い目と負債感は違います。
アナロジー(類推)的な思考は文学的比喩としてしか捉えられていませんが、
個別的な事象からその本質に高まるための原初的な認識方法として、
もっと研究されてしかるべきと思っています。

337革命的名無しさん:2008/10/20(月) 23:33:57
153 名前: 79 投稿日: 2000/10/10(火) 21:09
(久しぶりにレス)
「価値は主観的なものだ。」
という事が現代を貫く「価値相対主義」の主張だが、
もしお金などに見向きもしなければそれも首尾一貫している。
しかし、(人間的価値すら計るという点で)価値の絶対的規準としての貨幣が厳然と存在しており、
価値が客観的に実在している以上、単に主観的と言ってお茶を濁しているのは、
現実とは合わない主張を振りまいているだけでしょう。確かに「猫に小判」という諺は、
お金を有り難がる人間よりは猫の方がはるかに物事を客観的に見ているという皮肉を教えているが。
価値は厳然とした客観的な実在です。哲学者はお金を卑しむが、
「価値とは何か」を理解できないために現実の貨幣の力の前になす術を持たない。
338革命的名無しさん:2008/10/20(月) 23:35:47
154 名前: 代理いぬ 投稿日: 2000/10/12(木) 08:34
>153
>価値の絶対的規準としての貨幣が厳然と存在しており、価値が客観的に実在している以上、単に主観的と言って
>お茶を濁しているのは、現実とは合わない主張を振りまいているだけでしょう。

そんなことはないでしょう。
貨幣価値の"レート"を決めているのは人間社会の方なのですから。
貨幣が、

>価値の絶対的規準として
存在することはないし、

>価値が客観的に実在している
こともないです。

「価値相対主義」とは言いますが、どのような価値も相対的でしかありえないので仕方のないことです。
しかし、あなたの言う通りに、相対主義に乗っかったままでは何事も前進しませんから、そこはよく考えてみるしかない
のでしょう。(?)
339革命的名無しさん:2008/10/20(月) 23:36:57
155 名前: 79 投稿日: 2000/10/13(金) 21:13
>154
>貨幣価値の"レート"を決めているのは人間社会の方なのですから

為替レートの話なら確かに貨幣の「相対的価値形態」に当たるでしょうが、それは貨幣が商品として存在するという
事です。
貨幣(価値基準)としての貨幣と商品としての貨幣は存在形態が異なります。また人間社会自体も客観的な実在
ですから、決して主観的・相対的ではない。

>どのような価値も相対的でしかありえないので仕方のないことです。

現象としてはそうですが、本質はそうではない。そして貨幣は「現存在する価値物」として相対的な価値を尺度する
万人共通の規準です。そしてその実体は人間の労働にある。(取りあえず経済的価値に限定します。)
価値には「得難いもの」(稀少性)という側面があることを考えてみれば決して相対的な性格だけで成立していない
事に気づくでしょう。
340革命的名無しさん:2008/10/20(月) 23:56:35
なんか色んな人たちがOFWさんのコピペに協力して頂いたようで、
感謝感激でちゅぅ。
で、新しいコピペね。

60 名前: OFW 投稿日: 01/11/25 19:39
>>54(766さん)
>「働くってなんですか!」
<働き>の概念を3つに区別することが必要でしょう。
1.物理学的あるいは”生物学的”仕事(Work(英))
エネルギーを消費して引き起こされる、物体の状態あるいは構造の変化。
また、たとえば蜘蛛の網張りや働きアリの餌集めは”生物学的”仕事と言えるが、
人間との違いは道具の広範な使用からくる目的意識性の有無。
2.人間の仕事一般(Work(英))
自然の一部としての人間が生存するために必要な、自然への関係行為。
直接的に物質(財)の生産を行なう生産労働と、それを媒介する非生産労働とに区分でき、
社会的な分業が発達してきた。
3.賃労働(Labour(英))
近代資本主義の確立と共に普遍化した、労働力商品の売買に基づく資本家(経営者含む)の下での労働。
それは(若き)マルクスによって「疎外された労働」と呼ばれた。

>>56(766さん)
>「働くって動機の問題ですか。」
まず、必要(外的必然)の問題ですね(世界はエデンの園ではないから)。
次に、人間が現実的に人間であるための根拠(内的必然)の問題でしょう。
実際、「現実的」(Actual(英)、Wirklich(独))とは<働き>あるいは<対象的活動>から来ている用語です。
それは社会的自己を実現する働きであり、
個別的主体が具体的対象の内に類的・普遍的内容を形成することです(具体的普遍)。
まさに「労働は我らを自由にする」(ナチ)とは正しい、但し、それが疎外されていない場合にのみ。

341革命的名無しさん:2008/10/21(火) 00:01:17
62 名前: OFW 投稿日: 01/11/26 22:55
>>61(766さん)
>脳の働き、手の働き

とは通常は機能(Function(英))という意味での働きを言うのでしょうが、自然が一定の機能をもつのは、
それがシステム(機能ー構造複合体)である場合、つまり有機体の場合でしょう。
それは<生きている自然>つまり能動的に働く自然です。

>元々の概念が発展して、労働対価としての働くに使われるようになった

趣意が判然としないが、物理学における<仕事>概念は、
むしろ労働現場での梃子やコロといった道具の使用に起源があるでしょう。
因みに、自然の能動性と、自然の一部である人間がもつ労働に基づく能動性について、
下記の引用をネットで見つけました。(勝手にコピペ)

「<神>はこのような<自己原因>として<能産的自然>であるが、神において存在するもの、
すなわち、神の諸属性の様態存在は、存在を含まず、神を存在原因としてのみ存在しうるものであり、
<所産的自然>である。」(スピノザ『エチカ』)

「人間はたんに自分自身が自然であるということからではなく、
労働と技術をつうじて能動的に自然の関係に入るのである。」(グラムシ『獄中ノート』?)
342革命的名無しさん:2008/10/22(水) 20:06:48
72 名前: OFW 投稿日: 01/11/27 22:51
>>63(wさん)
>芋を作ってそれを売るひつようのある人だけである。
そして、賃労働者は芋を作るための畑(生産手段)を持たないから、自分の労働力を売るしかない。
>いいとか、悪いとかではなく、そういうふうになっている。
確かに商品経済社会(市場経済社会)そして資本主義社会ではそうなっている。しかし、それは歴史上ごく最近の話。
>>69(悟人さん)
>金を稼ぐ為に働かなくてもいい世の中にしてほしいだが、そうなっても別な意味で働くんだろうな。
働くことが嫌いな人が多いのは、それが自分の意志に基づく自由な行為ではないからでしょう。
疎外された労働と本来の労働とは正反対のもの。
(この場合、「本来の」とは歴史性と同時に本質性を指しています。)
>>71
>一人がこなす実質の仕事量はものすごく増えている賃金はそのままで競争が起こり、
>仕事に費やされる時間は変わりません。
まず、生産物の量とその生産に要する労働時間について言えば、生産性が高まる
     ↓
同じ労働時間でより多くの生産物が生産される

同じ生産物量の生産に費やす労働時間が減少するというのはその通りであり、実際にもそうなっているでしょう。
しかし、生産性の向上が賃金そして平均労働時間とどう関係するのか?
競争は賃金の原因(根拠)ではなく、その規制条件に過ぎません。
賃金とは労働力商品の売価であるというのが賃金の根拠ですから、一旦買った以上はそれをどのように、
どれだけ使用するかは、買った者の自由でしょう。まさに労働者は家畜や物と同じ立場に入るわけです。
343革命的名無しさん:2008/10/22(水) 20:11:17
26 名前:OFW :2001/06/02(土) 00:22
どもです。マルクス関連のスレはこれで幾つめかな・・・。
>>3
ネットに乗ると引用も楽ですね。しかし、対談録という性格上議論が厳密でないせいか、
ざっと読んだだけでも随所に反論したくなる所がある。
「マルクスはたんに「批評的」なんです。」(柄谷)とは、
批評家としての自らの立場にマルクスを引き寄せてしまいたい、と言う動機がなんとなく感じられ。
(その後の活動は唐突だが)マルクスは「批評的(評論家的)」ではなく、徹底して<批判的>なのです。
>>5
>「ルイ・ボナパルトのブリュメール」
私も好きですね。『フランスにおける内乱』を含めて、現代でも間違いなくジャーナリスト大賞を取れるでしょう。
>>6
>マルクスは哲学者としては二流
それは残念だな。しかし、奥さんは美人だったそうな(関係無い?失礼)。
>>12
>資本論を一行づつ読むスレッド
ネット上にはドイツ語や英語訳はあるが、和訳は現在プロジェクト進行中
ttp://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/
DVProject/DVProjectJ.html
また、下記のサイトで『共産党宣言』その他が参照可能。
ttp://www5.big.or.jp/~jinmink/TAMO2/DT/index.html
その他、(新)左翼諸政党HPに労働者向けの解説がある。
>>16(RAGEさん)
>解説書ってないですか?
17氏も言うように、原著を読む方が良いでしょう。ただいきなり『資本論』から始めるのは、無謀でしょう。
初期の頃の著作から追って行きながら、マルクス独特の思考法に馴染むのが宜しかろうと。
344革命的名無しさん:2008/10/22(水) 20:12:30
28 名前:OFW :2001/06/02(土) 06:07
>>25
>ヘーゲルを知らずしてマルクスは理解できないって意見をどう思う?

別に知らなくても良いが、
商品・貨幣・資本の本質を理解するためには唯物論およびいわゆる弁証法的な思考は必要でしょうね。
実際、マルクスが明らかにしたにも拘らず、「お金って何?」に関して未だに無理解が続いているのは、
<価値><実体>等の概念把握ができていないため。
そもそも<概念的認識>に対する無理解は、専門分化した科学共通の限界であり、
社会科学では致命的ともなり得る。

>>27 (福田でぶ和也さん)
>マルクスの弁護士・柄谷

そうとは思えないな。
むしろマルクスを自分の趣味(理念といってもよい)に合わせて解釈あるいは誤読しているだけのようですが。
多分「本当は私も良く分からない」と言うべきなのでしょうが、
彼の言うマルクス像をそのまま受け入れてしまう怠惰な読者が多いため、
結果として「コミュニズムは所詮不可能だ」といった宣伝に手を貸すことになる。
「自由で自立した」知識人が繰り返しマルクスやコミュニズムに言及する理由は一体何なのかな。
労働者に対する倫理感?
345革命的名無しさん:2008/10/22(水) 20:14:24
33 名前:OFW :2001/06/02(土) 21:03
>>29(福田でぶ和也さん)
>その可能性とは何かを教えて頂きたいのですが・・・

一般に可能性とはどのような思想や事柄にもあり、
結局それを活かす主体に依存して現実的か否かが決まる性格のものですから、強いて答えるなら、
「労働者階級にとって、自己の解放のために無限の可能性がある」としか言いようがない。
(資本家にとっては無限の不可能性しか無いのと同様)
そもそも「マルクスに可能性はあるのか?」という設問自体が暗黙の前提を含んでいるから、
「あなたは何を<マルクス>と呼んでいるのか?」と聞き直す必要がありますね。
たとえば、また>>3のサイトから引用すると、
「コミュニズムというのは世界市民的社会だと思います。」(柄谷)と言われており、
<コミュニズム>に関する平均的な理解から外れているらしく、
そうなると「コミュニズムに可能性はあるのか?」と聞かれても即答できないでしょ?
そしてそれは、「共産主義とは達成すべき何らかの状態を言うのではない。
それは現実の中にあって、それを止揚しようとする不断の運動を言うのである。」(マルクス)とも、さらに異なるし。
(本当にマルクスを読んだのかなぁ・・・)
346革命的名無しさん:2008/10/22(水) 20:15:59
40 名前:OFW :2001/06/03(日) 07:25
>>34(福田でぶ和也さん)
>私の理解するマルクスは生産を神秘化したフェティシスト
それはあなたの誤解です。(やすいゆたか氏に近接しているな。)

>子供や老人や病人は誰かから生産物を収奪せずには生存できない
それは「収奪」とは呼ばないな。味噌もクソ(失礼)もごったですね。

>病や老いは人間にとって不可避だからです。
身体的病気や老人は生物学的な自然ですが、階級とは社会的な存在であり、なくす事ができる。
それが、「マルクスの可能性」ですね。
社会学板にもありましたが、小室直樹氏のいう<社会科学的思考>を身につけることが必要です。

>>36(福田でぶ和也さん)
>私はブルジョワ階級の人間
それは自分を誤解しているのでは?
ヒットラー、ニーチェ、三島由起夫を含めて、プチ(小)プルジョアと呼ぶべきでしょう。
本来のグラン(大)ブルジョアはまさに「資本の人格化に過ぎない」(マルクス)から、
黄金色を除き、およそ美などには関心が無い存在です。
確かにファシズムは中産階級の社会経済的な不安定さが社会心理的な不安に反映して起こった政治現象
と言えるが、美的現象ではないでしょう。
・・・まぁ、限りなくネタスレになりそうなので、この程度で。
347革命的名無しさん:2008/10/22(水) 20:18:21
58 名前:OFW :2001/06/04(月) 23:04
>>43
>その二項対立を、・・・マルクス的思考の形式上のダイナミズムとして

「賃労働と資本」の本質的対立=本質的同一関係という形式はまさに弁証法的な運動の中に置かれている
わけです。
<労働力商品>としての賃労働者の生産的労働が<(経済的)価値>の源(実体)であり、
それは社会的生産が私的に行われているという資本家制的生産様式の必然的な結果だ、
という点を捉えたのが<疎外された労働>から始まるマルクス的思考の到達点でしょう。
それは「人と人との関係がモノとモノとの関係として現象する」(マルクス)という、
いわゆる<物象化>(俗物主義や社会システム化でもある)として、
社会全般を覆っている転倒した事態の根元でもある。
貨幣の力は何よりも強い。
何故ならそれは人間の類的な本質力をモノとして外化(疎外)させた、
全能の神(但しあくまで世俗的な神)の地位を占めているから。
天上の神よりは地上の神の方が無限に多くの現実性をもつのは、けだし当然でしょう。
(このあたりは『聖家族』、『ユダヤ人問題によせて』に詳しい。)
家族の問題として考えても、「父性の復権」「父権の確立」などは全く見当違いの俗物的な精神論に過ぎない。
家族が協働的社会に開かれているか否かが重要な視点であり、小市民的な父性をいくら振りかざしても、
所詮無力なもの。
「お父さんは誰にリストラされちゃったの?」など言われて。
必要なのは、労働者大衆的な<地底からの唯物論>であり、
ヘーゲルの哄笑もプロレタリアのそれによって歴史的な真理を得ると言えるでしょう。
・・・質問の趣旨と違ったかな?
348革命的名無しさん:2008/10/22(水) 20:20:41
73 名前:OFW :2001/06/06(水) 02:15
>>61
(横レス失礼)
>ポトラッチの自発性が近代社会の自発性と異なるのか
マルクス主義的・経済人類学的視点から言えば、たとえばポランニーあるいはモーリス・ゴドリエを参照すれば、
一定の経済社会構成体の本質を解明する際には、その社会において「何が<生産関係>として機能して
いるのか」がまず問われるべきだ、ということです。
<ポトラッチ>(収奪−贈与)という経済的=政治的関係はそれが社会の再生産を規定する主要なもの
であるかどうか、によって生産関係と見られ得るかどうかが決まる。
明らかに、資本家制的生産様式の下では<交換>が支配的な関係様態であり、
<収奪>あるいは<贈与>は二次的なものでしょう。
すなわち、擬制の等価交換としての<搾取>という近代的な関係は
<収奪><贈与>というカテゴリーに還元できないということです。

>>62
>アメリカは日本から搾取し、日本はアメリカから搾取する。
不正確な表現ですね。「アメリカ」「日本」とは単一な主体ではなく階級に分裂した<国家>という幻想の
共同体であり、搾取の真の主体ではない。

>搾取できる市場
市場は常に等価交換に基づくのであり、労働力市場もまた同様です。そこに資本主義の秘密がある。
349革命的名無しさん:2008/10/22(水) 20:22:16
74 名前:OFW :2001/06/06(水) 02:19
>>64(福田でぶ和也さん)
>彼らはむしろ「国家」にすがるだけですね。
かって「国家社会主義」として登場したナチズムの経験は生かされずかな。

>柄谷も言うように、精神とは「外部性」であり、
そんなことを言っているとしたら?ですね。精神こそ内面の力です。

>元々家庭という閉鎖的共同体(母子一体関係)の外部に立つ者
母子家庭が家庭の原型?

>家族共同体を解体し、社会性へと解放する可能性をもっている。
歴史上、血縁に基づく伝統的共同体が解体され<国家>が成立したが、
それは一方で戦争と略奪、他方で商品交易によってでしょう。

>>69(G-W-G'さん)
(横レス失礼)
>一度交際という「社会的関係」を経ているや否や?
<援助交際>は貨幣と愛情との等価交換ですが、無論「援助」という言葉通り、
不等価な等価交換という<社会的関係の不可能性>を示している。
ギブアンドテイクとは卑小な商人的モラルであり、
交際(社交)の本分に反する非社会的な行為(取引)でしょう。
GがいかにしてG'になり得るか。
確かに「政治的動物」としての人間は交際好きであり、引きこもりは非社会的と言えるかも知れないが、
疎外された利己的・打算的社会に対する受動的な反発であり、
本来の精神的な社会(人倫)を求めているとも言える。
350革命的名無しさん:2008/10/22(水) 20:52:51
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%EF%BC%A8%E3%83%BB%EF%BC%B4%E3%80%80%E8%9F%B9%E5%B7%A5%E8%88%B9&lr=

蟹工船のH・Tだって、頑張ってんだぞ!決起すんぞ!
351革命的名無しさん:2008/10/23(木) 02:09:57
資本論なんて本屋に行っても置いてない。
絶版だってよ。
図書館か古本屋に行かなきゃ読めません!


352革命的名無しさん:2008/10/23(木) 14:01:26
>>351
誰の訳なんだろう、その絶版『資本論』って。
向坂版だったら面白いのにね。

『資本論』の新規読者なんかほとんどいないのに
神保町や早稲田じゃかなり高価だよね。
やっぱ、絶版のせいかな?
オレんちってさ、岡崎さんの『資本論』全巻が二揃いあるんだ。
つーのは、古いんはオヤジのやつな。もう一丁はオレが生まれた時
オヤジの友人連中から贈られたんで、将来高校生くらいになったら
読めってことな。
悪い冗談だろ。
その連中ってほとんど昔の暴力学生の生き残りでさぁ、ほとんどアカかぶれ。
オレんち来て飲むと昔のデモのことばっか。
もうアフォかと、いい年こいてさぁ。
学校教育の存在自体が勝ち組負け組-自己責任-ネオリベ的な一連のイデオロギーの生産と
正統化を行なって、万人にそれを植え付ける一大洗脳工場になってきたし、
格差社会の正統化に一役も二役も貢献するイデオロギー的機能を本質的に担ってきた。
学校教育文明が栄えていけばいくほど、このイデオロギーはじわじわと強化されていき、
ネオリベイデオロギーが世の中全体に蔓延ってくる社会的下地が徐々につくられていった。

かつては中学校卒業資格でも普通に正社員として就職できたのに、その基準が高卒になり
大卒になり、いまでは大卒でも就職できるかできないかの状況になってきた。
もはや歯止めがきかない。学校文明が繁栄すればするほど、人々はより高い学歴に到達せねば
生活が不可能になってくるし、そのために必要とされる家庭の教育費も増大する一方になる。
親たちは賃労働の奴隷として生きる時間をなおいっそう増やさねばならなくなる。
少子化はゲームの合理的な選択の結果だろう。

学校教育文明というものにそろそろ歯止めをかけたほうが良いのではないだろうか?
そのために学校教育の存在そのものをまず疑ってみることだろう。
354革命的名無しさん:2008/10/25(土) 08:03:34
>>352
許してやれよ、酒飲んで昔話するくらい。
連中って今や過去形でしか語れないじゃん。
定年とかリストラでさぁ、
もう勢いとか可能性のある未来なんか連中にゃ残されてねーもん。
残されてるんは、老いさらばえることだけさ。

355革命的名無しさん:2008/10/26(日) 10:25:37
83 名前:OFW :2001/06/07(木) 06:09
>>76(福田でぶ和也さん)
>「交換」は「命懸けの飛躍」を伴うとマルクスは言う
不正確な引用。
等価形態における交換=商品売買における価値実現の偶然性として「命懸けの飛躍」が言われるのであり、
交換一般ではない。
>その命懸けの飛躍を隠蔽するものとして、資本主義と共産主義がある
信用制度は資本主義の高度化ではあるが、資本主義一般ではない。
また、自己流の「共産主義」は共産主義の隠蔽でしかない。
>交換(コミュニケーション) を拒否
経済的カテゴリーと精神的・社会的カテゴリーとを同一視するのは誤まり。それは類推(アナロジー)という
原始的思考であり、類似性を同一性と混同することは<分裂病的思考>に繋がる。擬電波的と言われる
所以です。
>それは命懸けの飛躍という交換の本質の否定にすぎない。
信用は本質の否定ではなく、その矛盾の発展なのです。破局を先延ばしにしても本質力は自己を貫徹し、
運命的必然(精算日)として突如襲う。
>ところで、資本主義者にも共産主義者にもユダヤ人が多いよね。
まさに<ユダヤ人>の実体化であり、類概念と個体概念の無媒介的な同一視。
資本主義がユダヤ人的なのでなく、多くのユダヤ人商人が資本主義的なのです。確かにユダヤ教では偶像崇拝
を禁止するが、商業では現世の神である<貨幣>を崇拝する。
<ユダヤ人性>とは貨幣物神としての物神崇拝の完成を指しているのであり、フェティシズム的資本主義の精神
をです。
>>82(RAGEさん)
>「命がけの飛躍」って何だ?
商品生産の場面において価値が形成されても、商品が市場で売れて価値が実現されるかどうか
(商品が実を示せるかどうか)はまったく分からない。
価値の形成とその実現とが切り離され、市場の偶然性の中に置かれているという、資本主義的市場経済の
無法則的な法則性・非合理性を言います。
通常「付加価値」などと言いますが、利潤とは実現された価値からの控除(分け前)に過ぎない。
356革命的名無しさん:2008/10/26(日) 10:27:05
89 名前:OFW :2001/06/07(木) 22:03
>>86(福田でぶ和也さん)
>人は「単純な価値形態」の偶然性=命懸けの飛躍にもろに直面する

誤まり。
単純な価値形態(物物交換における価値)は飛躍を伴わないが故に単純と呼ばれる。それはあくまで価値の
可能性であって、現実的なものではない。
物物交換においては、使用価値と交換価値との矛盾が内的に統一されており、相対する生産物の量に応じて
任意に交換比率が設定されるが故に、偶然的な交換なのです。それに対して資本主義の下では、その偶然性
が必然的な偶然性として現実化されており、誰もが命懸けの飛躍を日々行わざるを得ない。隠蔽どころか、
常に破産や失業の不安を抱えており、それが赤裸々になっている姿が貨幣経済および信用経済の常態です。
ハイパーインフレが引き起こすもの、それは価値が幻想的な存在であることの現実化であり、価値の消滅でしょう。
価値法則は、実際に社会的な依存関係にあって協働関係を結んでいる人間が、その社会経済的な合力を私的
に占有しようとするために成立する擬自然的な法則です。
価値とは<社会的な必要労働>が物象化(過去化)した姿であり、社会の再生産にとって労働が必要である限り、
そしてそれが「他者の労働」である限り、必然的な存在でしょう。
また、「類的なもの」と「個別的なもの」の転倒が、<モノ>(所有)の観念論であり、過去の(死んだ)物質が現在の
(生きた)人間を支配する転倒した世界を現出する。
実際、かってのドイツでは、行き詰まったハイパーインフレから先祖帰りの非合理としてファシズムが登場した。無意味
なのは過去の資本であって現在の労働ではなく、モノに憑かれた人間であって現実的な(働く)個人ではない。
個人の解放のすべてはその類的な解放に懸かっている。それが共産主義と呼ばれる未来に向かう運動です。
「終りなき現在」の無意味な戯れとは資本の運動の受動的な反映(表象)に過ぎないでしょう。
357革命的名無しさん:2008/10/26(日) 10:30:11
107 名前:OFW :2001/06/10(日) 07:32
>>106(くりたんさん)
>(先天的な欠如)は確かに共産主義革命をもってしても、どうにもならない

自然的・先天的な<欠如>は必ずしも社会的な欠如ではなく、美的価値や社会差別に直結するものではない。
確かに自然は不平等とも言えるが、それが何らかの実効性を持つかどうかは社会の在り方に依存する。
個人の自然的な被規定性は「ただ存在するだけの差異」として、類の統一の中では止揚されるでしょう。
358革命的名無しさん:2008/10/26(日) 10:31:40
114 名前:OFW :2001/06/11(月) 20:04
>>109(福田でぶ和也さん)
>精神分裂病

「フロイトの業績」スレにも書いたが、分裂病がいかなるものかは中井久夫氏の本でも読んだ方が宜しかろう。
実際の事件を安易にネタにしないこと。
疎外(Alienation)は財産(Property)の譲渡でもあり、自己の固有性の喪失(他者化)としての狂気でもあるから、
社会的人間の本性に関わる事態でしょう。
フォイエルバッハの人間学的唯物論によって、宗教的観念が人間の類的本質の自己疎外として捉え返され、
観念論の逆立ちが明らかにされたことで、初めて人間が感性的・情熱的・身体的な現実存在であることが哲学的
に示された。マルクスはその不徹底さを批判したが、「フォイエルバッハにより、哲学は本質的に終りを告げた」と言わ
れたように、それはおよそ哲学一般の止揚(現実の実践への解消)の始まりを告げるものだった訳です。
(現象的には観念論は未だ花盛りで、この板でも唯物論への関心は殆ど見られないが、
観念論哲学はますます出口無しの様相を呈しつつあり。)マルクスの唯物論は徹底的に実践の哲学であり、
自然の一部である人間が自然との関係を自己との関係として捉える媒介として、社会的労働を正面に据える。
賃労働においては、労働の成果において対象的自然が主体化されることにより達成されるべき
類的・社会的な自己確信が阻止され、自己対象化活動は自己喪失として、
見知らぬ<モノ>(商品、貨幣)の内に消え去り(実体の闇への消滅)、
その結果、対象世界は疎遠な世界として現象するという訳です。
ちょうど「利子生み資本、この逆立ちした資本世界の狂った花嫁」と呼ばれたように、
貨幣の力は類的人間の疎外された本質力そのものであり、(カネがカネを生む)金融資本において、
私的所有(Property)という共同的世界の譲渡が完成する。イデオロギー的転倒や精神病理学的症状形成も、
それを基礎にした社会心理的な疎外の一つとして見るべきでしょう。
しかし、事柄の弁証法的な本性は資本主義の胎内から<否定の否定>として
自己の真理を顕現せずには措かない、とか言われ。
359革命的名無しさん:2008/10/26(日) 10:34:39
118 名前:OFW :2001/06/12(火) 23:40
>>115
>細かすぎて字が見ずらい
どもスマソ。1レスの中にまとめるのは、結構大変なのです。

>>116
>資本と労働者の綱引き大会の歴史??
ある点ではそうでしょう。そして、労働価値説の歴史的な検証でもある。
労働(抽象的人間労働)こそが価値の源泉ということから、
労働時間の短縮は資本家と労働者の双方にとって死活問題です。
労働日(日払い賃金の基準単位)が自然的・物理的な長さではなく、社会的に伸縮するものであること、
そしていわゆる搾取に関する主要テーマであったことが跡付けられている、と見るべきでしょう。
労働日については、現在でも「時短」として労使間交渉の主要なテーマであり、また「1日は何時間だ?」とは、
納期が迫った時に、上司が部下に向ってよく使う言葉です。当然1労働日は24時間まで伸ばせる(皮肉)。

>>117(福田でぶ和也さん)
>人間にとっての本源的ダブルバインドは、生と死ですね。
だいぶネタ切れの感じ・・・。ダブルバインドの本来の意味は「『生きろ』と励ます相手の顔が『氏ね』と告げている」
といったコミュニケーション上の背反(バイアス矛盾)の事態を指しており、生死の矛盾とは無関係。

>「意識のリレー」(埴谷雄高)
正しくは『精神のリレー』です。それは高橋和巳の追悼から始まった講演会シリーズの記録です。
あの雰囲気はもはや戻って来ないだろうが・・・。
講演者の一人でもあった吉本隆明氏はその後「昼寝のすすめ」だそうで。

>芥川
そう言えば、前日本共産党議長の芥川論である『敗北の文学』は当時の『改造』懸賞評論で1等をとり、
小林秀雄の『様々なる意匠』を破ったが、時代は変り、現代では『マルクスその可能性の中心』が文学賞を取る。
しかしながら、日本の知識人は哲学的あるいは政治的な事柄を文学的に捉え、
客観的な論理を表象あるいは倫理に流す点では相変わらず、かな。・・・ということで、私も閑話休題デシタ。
360革命的名無しさん:2008/10/26(日) 10:37:31
144 名前:OFW :2001/06/15(金) 22:02
>>123
>社会嫌悪に陥って出社拒否になりそう
それは余り感心できないな。抽象的な否定は第一の否定であり、非現実的なもの。
否定的環境下にせよ会社の中にも真の社会は存在するのです。

>社会嫌悪の人間のための受け皿を積極的に作ろうとしない
「労働者階級の解放は労働者自身の行為でなくてはならない」(マルクス)のであり、
未来を切り開こうとする人間のための(受け皿ではなく)指針ということならいくらも見出せるでしょう。

>実際の生活組織の提供
ではなく、労働者階級の組識が必要なのであり、それは「マルクス派」の人ではなく、
労働者自身が行うことでしょうね。
「未来社会の具体的なイメージが与えられないから、共産主義反対」とは昔から良く聞いた不満であり、
(進歩主義的知識人および労働者双方が互いに相手に期待している)他力本願的な心理が反映されている。
特に旧ソ連や東欧諸国の「社会主義体制」(実は国家資本主義体制)が崩壊した後では、
もはや社会主義のモデルが見当たらないとして、大量の「転向者」を生み出した。
しかし、要は事柄を客観的に捉えられるかどうか、に懸かっており、実際の資本主義体制の何が根本的な問題なのか、
を正しく理解することから、本来の社会は如何なるものであるべきか、そしてあり得るかが逆照射されるわけです。
たとえば、商品、貨幣および資本とは何か、を知ることは、その必然性を知ることであり、
「それは確かに一定の条件の下では無くてはならない(他様の不可能性)ものだ」という点を理解することです。
そうなれば、その<一定の条件>がなければ、それはまったく不要なものであり、
より合理的で人間的な仕組みが可能だ、ということが分かるでしょう。
(確かにそこまで具体的に問題を提起している「社会主義政党」は少ないかも知れない。
 現存の多くの政党は社会民主主義的か急進主義的ですから。)
361革命的名無しさん:2008/10/26(日) 14:19:11
ブルジョアジーの全生活を支配しているものは利潤追求の衝動なのであり、彼等が
この唯一の生活の力の源泉を彼等が搾取している労働者の面前で正直に告白し得ないのは、
それを隠すイチジクの葉を必要と感じる生き物すなわち人間だからである!

しかし搾取制度の墓堀人たる労働者階級は、自分達の死刑執行人から、最期のイチジクの
葉を奪い取り、ブルジョアジーの汚辱にまみれた全生活と血ぬられた歴史の真実を
白日のもとに晒す!
地上のあらゆる不幸と犯罪の源である搾取をブルジョアジーが厚顔無知にも幾世紀に
亘って全権力を行使してきた事実は今や地球上のあらゆる国の労働者の頭脳に明瞭に
暴露され認識されつつある!
人間が人間を搾取し、殺す、この究極の犯罪に合致するよう聳え立っている上部構造が
大音響をあげて崩れ墜ちるのは、もはや時間の問題でしかない!
362革命的名無しさん:2008/10/26(日) 18:23:43
150 名前:OFW@区別モード :2001/06/16(土) 08:13
>>145
>マルクス理論は絵に書いた餅

かどうかは、それを活かす主体によるとは、前にも書いた。
「かくめいとは人間のこころが変らなければ、成就しないものです」(太宰治)(正確な引用ではない)ということかな。

>無知な労働者

は学習により、哲学者すら超えることができる。
「哲学はプロレタリアを止揚せずに自己を止揚できず、プロレタリアは哲学を止揚せずには自己を止揚できない」(マルクス)
とも言われ。
現在、労働者学習会はあちこちで開催されており、労働者自身が自己の無知からの脱却を計っているのも事実。
自己を知らないと、賃金奴隷は所詮奴隷としてマインドコントロールを受けたまま、
<無知の涙>で一生を終ることになるでしょう。
「汝、自己の無知を知れ」とは、最初の哲学者ソクラテスの金言でもある。
363革命的名無しさん:2008/10/30(木) 18:21:08
152 名前:OFW :2001/06/16(土) 21:44
>>151
>そういう太宰治は何故自殺したのでしょう

そう来ると思てた。
無論一言で簡単に言えることではないが、余りにも倫理的かつ文学的だったから、かな。
しかし、その直言は当時の無頼漢的「革命家」に向けられていて鋭い。
また「共産主義者は倫理的でなくてはならない」とは、
林達夫『共産主義的人間』でも言われている主張で、
当時の政治イデオロギー化していたソ連等の「共産主義」(実は全体主義)に対する批判でもあった。
まぁ、どちらにしても、知識人はとかく個人的倫理に偏り、客観的現実を捨象する傾向があるから、
労働者にとっては気まぐれな人種でしかないな。
364革命的名無しさん:2008/10/30(木) 18:23:36
158 名前:OFW :2001/06/17(日) 22:36
>>153
>労働者の組織って労働組合のことかな?
必ずしもそうではない。
現状の労働組合とは、仰せの通り、現行法の枠内で許された経済的”闘争”を行うだけの団体になっており、
ますます体制補完的な役割を果たすだけの保守的な存在になっているが。

>国家警察によって粉砕されるのがおち。
それは労働者自身の自覚と団結力に依存することですね。
近くの例で言えば、旧ソ連や東欧「社会主義」諸国(実は国家資本主義諸国)の崩壊は、
労働者のゼネストあるいは蜂起から起こった革命と呼べる。
その場合、法とはむしろゼネストのことを指すでしょうね。
「窓の外を見なさい。あの大衆の行進の中にこそ、生きた憲法がある。」(ローザ・ルクセンブルグ)

>合法的に国政をにぎることを目指す議会主義的な闘争
現在の”先進国”共産党の多くは、実質的には社会民主主義の党でしょう。

>マルクスを捨てないと、人気が出ないという有様ですな
日本の某党なども、大衆迎合主義(ポピュリズム)花盛りで、まともな啓蒙・宣伝がないのは、その通りですね
(実際、公然とレーニンを捨て始めた。)
365革命的名無しさん:2008/10/30(木) 18:27:38
159 名前:OFW :2001/06/17(日) 22:39
>>154
>商品と貨幣の非対称性
ではなく、本質的な対立(矛盾)です。
商品は相対的価値形態にある(他者にとっての)有用物であり、
それは一般的等価物としての貨幣の存在によって初めて価値ある物として社会的に認められる訳です。

>資本が隠蔽する。
のではなく、資本とは労働力商品として購入した賃労働者の剰余労働によって剰余価値を紡ぎ出す、
自己増殖する価値自体であり、それは生きた人間の社会的労働を価値という物象的形態によって隠蔽するのです。
モノ、カネが人間社会を支配しているのは、誰でも分かるが、
その根拠は生産手段の私有による私的な生産という、社会の生産関係にあるということ。

>その恐慌への治療法は貨幣の過剰投与によるインフレ経済にしかない
最近の傾向は、マルクスをなんとか経済学の枠内に押え込み、
「マルクス理論はもう折り込み済だよ」と矮小化する戦略らしい。
多分、似非マルクス主義者が増えたためでしょうが、商品、貨幣そして資本の廃止こそが治療法です。
366革命的名無しさん:2008/10/30(木) 18:31:14
163 名前:OFW :2001/06/19(火) 00:24
>>161
>労働力の価値は、労働者の生活を維持するのに必要な価値量ですよね。
労働力の価値=(実際に支払われている)賃金ではなく、
一定の社会状態において労働者の再生産(つまり生活自体ですね)に必要な財の価値という点を踏まえていれば、
その通りです。

>現在は労働者が受け取る価値は、生活を維持するのに必要な価値量よりも遥かに多くなってますよね。
「労働者が受け取る価値」とは(実際に支払われている)賃金のことを指しているなら
「生活するのに必要な金額以上に十分に支払われているか?」という設問と同じですが、
果たしてそうなっているでしょうか?
(リーマン板を見ても、大企業と中小企業の格差は相当なものだが、
 ローンを抱えたリーマンには総じて余裕などないはず。)

>何で多くなったのか?
消費財の豊かさ(富)を価値と混同することが、すべての誤まりの根本です。
物の有用性(使用価値)とその交換価値、そして本来の価値とは相互に区別すべきであり、
それを明確にしたのは、マルクスが初めてなのです。
(近代)経済学でもかっては価値を「限界効用」「稀少性」などと呼び混乱し続けた挙げ句、
今では「ある主観的なもの」としか言わなくなった。
富の増大自体は、科学技術の進歩および機械性大工業の進展が主要な要因でしょう。
それは労働者の生活レベルを相対的に押し上げたが、
同時に資本の大規模な集中により独占資本化をもたらし、
政治的国家の積極的介入なしには貧富の差の拡大や個別資本間の食い合いを防止できなくなった。
367革命的名無しさん:2008/10/30(木) 18:36:03
164 名前:OFW :2001/06/19(火) 00:27
>>161(つづき)
>マルクスで答えられるのか?
上記のように前提が誤まりですから返答しようも無いが、本質的に何も変わっていない訳です。
「電子マネーとて『日の下に新しきものなし』と言うことです」(岩井克人、正確な引用ではない)。

>消費資本主義とか超資本主義とかいわれる
20世紀の資本主義は「フォーディズム」と呼んだ方が具体的なイメージが沸くな。
それは労働者を消費者として取り込むことで成功した。
「消費者は神様」「大衆の時代」という訳ですね。
しかし、事柄の本質である<資本>の本性に目を向ければ、「消費者主権」などという美辞麗句も、
資本の<価値増殖欲>が商品に対する消費者大衆の欲望を借りて自己を貫徹させている姿の
裏返しに過ぎないことが良く分かるでしょう。
「美しいボディーと最高速のエンジンを装備した最新のスポーツカー」とはまさに
「月世界までを商品で埋め尽くそうとする<ブルジョアジーの夢>」(ベンヤミン)そのままの
物神崇拝(フェティシズム)ですね。
商品とは何の仮装かは、マルクスが最も鋭く見抜いていた所です。
因みに『資本論』はシェークスピアを借りて商品語を人間語に翻訳した書、とも言えるな。

>消費者の行動
が重要なのは、それが消費を能動的要因にするからではなく、
資本にとってその商品の販路(はけ口)として自己の被誘導的要因にできるからです。
「誘発されるように誘惑せよ」(ヘーゲル)。それは欲望の化学的作用。
(貨幣の示す禁欲は倫理的なものではないから「不買運動」は無力でしょう)
368革命的名無しさん:2008/11/03(月) 20:09:27
174 名前:OFW :2001/06/20(水) 23:54 ID:gx5kh4kE
鯖移動作業のあおりでスレが沈められてしまった・・・。
>>170(Rageさん)
>「なぜ東洋では資本主義は起こらなかったか」
さすが世界史板は多彩で本格的な議論が展開されていて、とても面白い。
ざっと読んだだけの感想・・・歴史家は事実的な多様に向かう余り、事象の本質を見失いがちになり、
逆に哲学者は抽象化を急ぐあまり、実在の多様性を切り捨ててしまう、という事かな。
「ヒトの解剖はサルを解剖する上で鍵となる」(マルクス)という事が、
歴史的事象の本質論的な理解の導きの糸になるという事は確かでしょう。
上記の設問に答えるためには、何よりも「ある事柄を<資本主義>と呼ぶためには、
何が必要不可欠なのか」という、その本質に関する理解が先に無くてはならない。
そして、それは十分に展開されて普遍的な定在となった現在においてのみ可能な認識であり、
その後に、未だ不十分な形態であった過去からの形成を跡付けて、
決定的な要因と偶然的な要因とを腑分けすることができる。
件のスレでも種々の立場からの見解があるが、幾分欠けているのはその本質認識でしょう。
(それは哲学者の仕事かな。)
資本主義経済に絶対に欠かせないもの、それは<自由な労働力商品>の存在ですね。
何故そうなのか。
資本とは賃労働の別名だからです。
東洋には<自由>で同時に<商品>であるような奇怪な存在は成立すべくもなかったのではないかな。
その為には絶対的な個人主義とその裏付けとしての<(私的)所有>の絶対化(物象的世界観)が必要であり、
また法制度として自由な主体間の<契約>の原則化が無ければならない。
369革命的名無しさん:2008/11/03(月) 20:12:11
184 名前:OFW :2001/06/22(金) 00:16
>>176
>唯一神の前に人間をゴミのように物象化できたキリスト教
<物象化>はそういう事を指しているのではなく、またキリスト教の理解としても正しくない。
たとえば、人身売買はまさに人間を家畜と同様の<所有物>として扱うが、
決して自由な主体間の意志に基づく対等の契約による交換、という形態をとらない。
しかし労働者が労働力を売る場合は、まさに物象的な交換契約(売買契約)の形態をとるわけ。
(雇用契約とはどういう契約かを考えてみれば良く分かる。)

>単なる唯物論で何故個人が、所有の絶対化が生じたか説明できない
<物自体>という観念の登場により<ある>ではなく<持つ>という関係性が定立される、
とはヘーゲル『論理学』で論証されているが、所有の観念論はカントから始まったとも言える。
ヘーゲル左派のシュティルナーの『唯一者とその所有』は、近代的個人と私有の不可分性を示しており、
絶対的な主体性とは絶対的な客体性との所有関係を必要とする二元論的観念なわけ。

>ウェーバーや人類学やフーコーをつなぐ問題
とは如何なること(として考えているの)か、具体的に説明下されば、議論可能かと。
大分テーマが散乱しているようだが。

>>180
>資本とは、カネ自体がカネ(利益、利子)を生むような、自らを不断に増殖させていく一種の非人間的な主体
まさにその通りです。それを物象化というのです。
「資本家とは資本の人格化に過ぎない」(マルクス)のであり、
主語は人間ではなく、モノ・カネが主体として現れるのが、転倒した資本主義社会です。
370革命的名無しさん:2008/11/03(月) 20:15:00
188 名前:OFW :2001/06/22(金) 22:05
>>186
>市場なんか人類にとって普遍的じゃなかろうに。

当然そうでしょう。
私は近代以降「世界市場」の成立と共に、普遍的になったと言っているので、
このスレを良く読んで誤解のないように。
人類にとって普遍的だと主張するのは、むしろ(近代)経済学者であり、
アダム・スミスやジョン・ロックの説いた超歴史的なフィクションを受け継いでいる。
彼らは「商品や貨幣のない世界などあり得ない」と言い、
それが最も普遍的で永遠のものであるかのように大衆に喧伝している。
責めるべきはその無能の方でしょう。
371革命的名無しさん:2008/11/05(水) 18:39:07
193 名前:OFW :2001/06/23(土) 11:13
>>189
>商品と貨幣の支配は絶大でしょう。
確かにその通り。そしてそれは何故かを考えなくてはいけない。
>その支配に抑圧を覚えていない人も多い
それは資本家階級の人でしょうね。
多くの中産階級(自営業、自営農民、自由業)の人も資本の支配の下で不安定かつ展望の無い有り様。
また先進国特に大企業の労働者は労働貴族と呼ばれ、比較的高収入。
しかし世界の圧倒的多数の労働者は絶大な支配の抑圧に苦しんでいる。
>なにもないですね。
歴史上の社会主義そして共産主義の運動は資本主義の興隆と軌を一にしており、
現在も世界各地で続いています。
>資本を廃止しようとする有力な運動(組織)
確かに、現在社会主義は劣勢にあるが、
それは労働者に対する物質的な妥協(再分配)や精神的なマインド・コントロール
(欲望と利己主義の煽り)が強力なため。
しかし社会の現実を見失わず、自己の解放を目指す人達もまた少なからず存在する。
>>190
>なんで資本主義じゃダメなの?
資本の支配により、類的・協働的人間が疎外されていることが根本的な問題です。
それは社会自体の収奪でしょう。
現実の経済をとっても、19世紀以降、資本主義は矛盾した運動を拡大させ、
まともな資本主義などはとうになく、
国家が介入してようやく維持されている反動的な政治経済制度(生産関係)になっている。
>>191
><マルクスその不可能性の中心>
どこにその中心があるのかと考えることも重要であり、印象だけではダメね。
あなたが労働者なら、
労働者の解放に一生をかけた人の言うことに対して少なくとも感情的な反発をする理由はないはず。
社会の根本認識は重要であり、観念論の迷妄から覚めるというだけでも可能性は十分にある。
372革命的名無しさん:2008/11/05(水) 18:40:35
206 名前:OFW :2001/06/24(日) 09:52
>>205
>対人恐怖症
自体が社会の有り様の反映でしょうから

>他人と連帯できない
ことは社会の有り様を変えることに関わる。連帯とは「すべての人は一つである」ということの実現に向かう。

>労働者に向いていない
サラリーマンに向いている人などこの世にはいないでしょうね。
不自然な愛想笑いの営業マン、ノルマ・納期に追われて異常に攻撃的な中間管理職、疲れたゴルフ談義、
いつも不機嫌な中年OL、電車内の無表情な男女、エトセトラ、エトセトラ・・・
しかしマルクスの唯物論的なユーモアを学べば、アホな経営者や学者の卑小な姿が良く見えてきて、
精神的な優位を得られるでしょう。
373革命的名無しさん:2008/11/05(水) 18:43:28
216 名前:OFW :2001/06/24(日) 23:42
>>212
>マルクスを勉強しているサラリーマンっているんですか?
以前の戦闘的な労働組合では勉強会をやっていたでしょうが、
今では一部の組合や有志グループが半ば非公式にやっている程度でしょうか。
また上にも書きましたが、(新)左翼系の政党でも学習会を開いている。
(ネット検索すれば有名、無名政党主催のものがいくつかあります。)

>マルクス思想を保有していると、職場から危険人物扱いされそうですね。
まず間違いなくそうでしょう。「思想の自由」など誰も保証しないのが現実であり、
会社に対する不満分子に対しては実に敏感に反応するのが、資本家・経営者の「階級本能」(笑)です。
しかし、給料(賃金)、労働時間、労働環境に対する不満や失業の不安は
一部大企業の「エリート・ビジネスマン」を除き、殆どのサラリーマンが現実に抱えているものですから、
マルクス如何に拘らず、職場の全員が潜在的な危険分子である事は、
経営者の方がよく承知しているのです。

>>213
>見事に疲れきっている。
日本のサラリーマン(に限らないが)は確かに集団志向が強いが、仕事に対する真面目さもあり、
条件が満たされれば主体性も発揮する。
問題は、彼らが階級として組識されていないことであり、
個々の会社の使用人として囲い込まれている点です。
実際、現実は階級社会である、とは誰も言わず、小学校の教科書でも市民、国民と呼ばれている以上、
サラリーマンが自己を知らないのも無理はない。
天動説の中世並みの「嘘社会」(宮台真司)あるいは「偽りのリアリティ」(ウォルフレン)ですね。
374革命的名無しさん:2008/11/05(水) 19:02:45
216 名前:OFW :2001/06/24(日) 23:42
>>212
>マルクスを勉強しているサラリーマンっているんですか?
以前の戦闘的な労働組合では勉強会をやっていたでしょうが、
今では一部の組合や有志グループが半ば非公式にやっている程度でしょうか。
また上にも書きましたが、(新)左翼系の政党でも学習会を開いている。
(ネット検索すれば有名、無名政党主催のものがいくつかあります。)

>マルクス思想を保有していると、職場から危険人物扱いされそうですね。
まず間違いなくそうでしょう。「思想の自由」など誰も保証しないのが現実であり、
会社に対する不満分子に対しては実に敏感に反応するのが、資本家・経営者の「階級本能」(笑)です。
しかし、給料(賃金)、労働時間、労働環境に対する不満や失業の不安は
一部大企業の「エリート・ビジネスマン」を除き、殆どのサラリーマンが現実に抱えているものですから、
マルクス如何に拘らず、職場の全員が潜在的な危険分子である事は、
経営者の方がよく承知しているのです。

>>213
>見事に疲れきっている。
日本のサラリーマン(に限らないが)は確かに集団志向が強いが、仕事に対する真面目さもあり、
条件が満たされれば主体性も発揮する。
問題は、彼らが階級として組識されていないことであり、
個々の会社の使用人として囲い込まれている点です。
実際、現実は階級社会である、とは誰も言わず、小学校の教科書でも市民、国民と呼ばれている以上、
サラリーマンが自己を知らないのも無理はない。
天動説の中世並みの「嘘社会」(宮台真司)あるいは「偽りのリアリティ」(ウォルフレン)ですね。
375革命的名無しさん:2008/11/05(水) 19:05:53
228 名前:OFW@区別モード :2001/06/27(水) 23:15
>>219
>肝心のその他の生産様式がないんだよね。
生産様式についての理解は十分でしょうか?
ある時代における支配的な生産様式により、時代の唯物論的区分が可能になる。
今の時代は資本家制生産様式が支配的であり、それが他の生産様式に変わるとは、
本質的に新しい時代が来るということ。
>依然物神崇拝者として振る舞ってしまっている。
お金を使わざるを得ないということは、必ずしもをそれを「崇拝」していることにはならない。
「じゃお前の金よこせ」と来る方が崇拝者。
>>220
>バイトの面接で不採用になった
理由とは事象の根拠としての総体性を言い、
個々の場合について社会的諸関係の中で何が決定的な理由なのかは、無論一概には言えない。
唯物論の主張は、
”結局の所”社会の最終的な審級は物質的な土台である生産関係である、
というものです。
それは本質論の領域での主張であり、個々の実在のすべてに、現在の不況は影を落としている、ということ。
>>221
>この階級性はカースト制度のような絶対的なものではなく、流動性をもつ相対的なもの。
まさにそれが<身分>とは異なる<階級>の属性です。
但し相対的なのは「誰が支配階級に属すか」であり、「支配ー隷従関係」自体は絶対的。
>自分の不遇を階級社会のせいにする
昔から繰り返される「自分の無能やなまけを社会や回りのせいにするな」という議論ですね。
確かに個別ケースではそう言える場合もあるでしょう。しかし、
仮に「100万人の成員のうち金持ちになれるのは1人だけで後は皆不遇にならざるを得ない」社会だとしたら、
さすがに不遇の原因が当人にあるとは誰も言わないでしょう。無能はむしろ結果ですね。
>アメリカンドリーム
は夢のように稀な話ですね。努力とチャンス(幸運)の反弁証法、かな。
376革命的名無しさん:2008/11/05(水) 19:10:40
272 名前:OFW :2001/06/30(土) 17:45
>>232
>ちょっと意味がわからないのでもう少し易しく教えてください。
>>193にも書きましたが、私は<(人間)社会>とは一つの共同体と考えます。
それはすべての個人の<類的本質>の根拠となる実体的な存在と言えます。
何故なら、物質的生存のためにすべての個人は互いに依存関係に入らなくてはならず、
個人の自立もあくまで社会の中における自立であり、
社会とはすべての個人の存立の根拠をなす共同的存在だからです。
そして人間が類的存在であるとは、個人において全人類の成果が現れ、
個人は<具体的普遍>として自由にその成果を我が物にできる、という事です。

上記は社会の概念ですが、実際の社会はそうではない。
たとえば近代社会は絶対的主体として個人を立て、社会は外的なもの(無くもがなのもの)とされている。
それは私的・利己主義的個人の立場です。

唯物論的に言えば、それは共同的な社会が、
生産手段の私有に基づいて私的に収奪されているということです
(かっての伝統的共同体における共有地が<囲い込み>によって私有化され、壊されていったように)。

無論その現実を政治的に隠蔽するために、公共性(抽象的共同性)が立てられた訳で、
<国家>とは設立された幻想の共同体(必要悪?いやもはや不必要悪)です。
この辺りは近代主義者ハーバーマスの<生活世界の内植民地化>とも重なるが、
それは抽象的・倫理的にではなく、その物質的根拠としての、
社会の物質的・経済的な下部構造からくるのです。
377革命的名無しさん:2008/11/05(水) 19:14:03
273 名前:OFW :2001/06/30(土) 17:48
>>232(つづき)
>>190さんの問の答えになっていないように思われるのですが。

「資本主義は最善でなくても最悪ではない」という点について言えば、善悪は相対的であり、
個人の社会的立場(究極的には階級)によって正反対にもなる。
いずれにせよ、どんなに富が溢れていても、貨幣がなければ、原始時代より悪い餓死が待っている。
「すべての物は私有物であり、いくら余っていても、金が無ければ渡してはいけない」とはまさに商業倫理の要請でしょう。
確かに20世紀は、主に科学技術の進歩により大衆消費文化が花開いたが、俗物化そして物象化も進行し、
精神的人間という存在は消えつつある。
あるいはまた
「どんなに不況や倒産があってもあの(旧)ソ連のような全体主義的な社会主義よりはましだ」
と自分を慰める人がいるが、旧ソ連(そして現中国)は、イデオロギーはどうあれ、
国家資本主義の政治経済体制の国です。
それは、商品、貨幣、資本、そして国家を廃止しない階級社会です。
(最近、「レーニンは革命の2、3年後に『願わくば私の子供、いや孫の世代には社会主義が実現することを』
と語っていた」(広松渉『マルクスと歴史の現実』)というのを見つけました。
スターリン「我が国はついに一国社会主義を完成した」と如何に異なることか。)

>>233
>OFWははぐらかしがうまいから
多少敷衍する場合があるからそう見えるのかな。
相手の質問に直接答えるのではなく、その質問の(暗黙の)前提に対して、反省を促すので、
『これが答えだ』(宮台真司)式の論法は哲学には向かない。
378革命的名無しさん:2008/11/07(金) 22:10:30
283 名前:OFW :2001/07/01(日) 10:23
>>279(栗痰さん)
>精神的人間ってなんですか?
精神vs物質の対立から言えば一見逆のように見えるが、唯物論者はむしろ精神の高潔さを求める。
逆に俗物的な精神論者は物質(モノ)に執着して、
精神的な価値(知性、教養、倫理、友愛、芸術等)を軽んじる。
福田氏とは異なり「人はパンのみにては生きるにあらず」ということは、確かであり、労働者が、
自分達がモノのように扱われているが故に、むしろ精神的な価値を求めざるを得ないことは、
逆説的ながら、宗教や政治イデオロギーの流行からも分かる。
彼らおよび彼女らは、生活不安と多くの非現実的な虚偽の観念に晒されてきたため、
理性一般に不信を抱いていますが、唯物論的な啓蒙こそが哲学者、知識人の使命でしょう。
実際、かってブルジョアジーは「すべての個人は人間であり、不可侵の人権をもつ」と高らかに宣言したが、
現在本気でそんなことを考えている資本家・経営者などいないでしょう。
379革命的名無しさん:2008/11/07(金) 22:14:09
312 名前:OFW :2001/07/03(火) 05:41
>>288
OKです。
因みに、<疎外の止揚>とは疎外されていない本来の状態を再建することですが、
実在した過去の状態を復元することではなく、発展した形態においてあるべき姿を取り戻すこと。
(否定の否定)
>>289
>精神とは
自然に対比した場合の人間の在り方として、自覚的に未来を切り開き、
歴史のすべての成果を自らの内容にする活動、ですから、理性、情熱、意志すべてを含むものです。
それは単に主観的・個人的ではなく、客観的・類的なものです。
>>291
>ロシア・マルクス主義は伝統的社会における抑圧の肯定者としても機能
少なくともロシア・マルクス主義(スターリン主義?)下のソ連が一国社会主義として成功などせず、
国家資本主義となった点は押さえておくべきです。
革命直前までレーニンは「少なくともドイツあるいはイギリスで社会主義革命が勝利しなければ、
ロシアの未来は開けない」と考えていた。
>>293(NAMっ子さん)
>ヨーマン的所有の再生にコミュニズムのメルクマールを据えた
それは誤解。
確かに「生産手段の共同占有に基づく個体的(individual)所有の再建」という言葉に関して議論が続いたが、
明確に<共同占有>です。
>>296(232)(横レスかな)
>これは決定論と考えてよいのでしょうか?
決定論というのが、歴史の必然、つまり他には道はなかった、ということなら、生産力の増大により、
旧来の生産関係が壊され、新しい時代が始まる、という一般的な面については必然的でしょう。
しかし歴史は常に条件的であり、それがいつ、どこで始まるか、
は客観的な条件布置および主体の力量・判断によって決まる。つまり、それは未定です。
380革命的名無しさん:2008/11/07(金) 22:17:31
374 名前:OFW :2001/07/07(土) 23:26
>>313(NAMっ子さん)
>生産手段の共同占有
占有(Possession,Besitz)は現実的領有であり、
生産手段の共同占有とは生産手段(土地、工場、機械、原料等)の使用、管理、処分が
社会全体にわたる生産者組識によって直接的に行われるということです。
それは想定上(観念上、権利上)の占有である所有の基礎にある現実の関係行為です。
>ヨーマンとは生産者兼所有者です。
それは正しいがあくまで小土地私有に基づくもの。
それは個体的占有にして個体的所有であり、非社会的な立場といえる。
>生産手段の共同占有=生産手段の個体的所有の再建
イコールではなく、共同占有は根拠、基礎であり、
たとえば工場などが特定の主体による排他的な運営に任されるのではなく、
社会全体の運営という基礎の下に、個別的な運営・処分権限が与えられる、と理解すべきでしょう。
>後者の主語を生活手段にすり替えることは大きな誤解でしょう。
その点は賛成です。
>>314(NAMっ子さん)
>資本とはむしろ個体性の破壊者
そうですね。
それはモノを通して他者の活動を領有(独占)しようとする利己主義であり、
人間の主体性(個体性)の剥奪でしょう。
>>315(NAMっ子さん)
>自己同一性の解体を肯定する"現代思想"
個体(個人)の自己同一性とシステムの自己同一性(関係の実体性)との対立=本質的同一性は
相互媒介的なものであり、社会の解放とは、主体としての個人が具体的普遍(自由な特殊性)として、
類(すべての個人)に媒介されるための関係性を実現するもの、と定義できるでしょう。
381革命的名無しさん:2008/11/07(金) 22:17:48
OFWはまず自分の腐った脳汁をアウフヘーベンすべし
382革命的名無しさん:2008/11/07(金) 22:23:13
OFW君、きみは不破だという噂が立っているが、どうなのかね?こんなところで門前雀羅を張って自己満足しているかね。情けない。
383革命的名無しさん:2008/11/08(土) 06:07:14
まさか不破さんじゃないでしょwもっと若い人だと思うよ。
384革命的名無しさん:2008/11/08(土) 11:19:56
何を今更。アホカ。ファシストども。
385革命的名無しさん:2008/11/08(土) 11:37:31
ファシスト喚くんじゃぁないな。
386革命的名無しさん:2008/11/09(日) 10:15:43
>>382
オメーの間抜けさは相変わらずですね。
OFWのカキコを読めば代々木(不破)との差異は明確じゃん。
もっとも、オメーの知的能力、知的精度じゃ差異を読み取るどころか
差異が在るんだってことも読み取れないよね。
387革命的名無しさん:2008/11/09(日) 10:43:59
正太郎君はいつから不破マニアになったのかな?
388革命的名無しさん:2008/11/09(日) 10:52:47
正太郎君、普通の教養を身につけた人なら、〈知的精度〉とは言わないよ。〈知的程度〉だろ。君の知的程度はその程度の知的精度なのかな?(^^ゞ
389革命的名無しさん:2008/11/09(日) 10:55:10
就職氷河期の正太郎は知的氷河期も過ごしたらしい、プッ。
390革命的名無しさん:2008/11/09(日) 18:47:22
>>388
ああ、嫌だね。コトバは変化してんのにな。
もしかして、そんな変化に対応できない団塊自慰サンかな?
391革命的名無しさん:2008/11/09(日) 18:58:40
君の言い訳はもっともだと思うよ。ただし、日本語もろくに理解できない、知的氷河期の世代だけに通用する言い訳だろうがね。
392革命的名無しさん:2008/11/09(日) 19:03:42
ことばは変化する・・・ことばを変化させるような作品書いてみなよ。君だけ変わった使い方してもアタマ疑われるだけだよ。死ょう太郎君!
393革命的名無しさん:2008/11/09(日) 20:08:40
ほな、行くえ。

375 名前:OFW :2001/07/07(土) 23:28
>>316(nanasixさん)
>「個人」とは社会的関係に規定されるシニフィアン(意味されるもの)の器
資本主義社会の無関係な関係性は疎外された個人(他者性でしかない量的個人)を作り出すが、
それこそが個人を単なる記号にしてしまう。
>>319(NAMっ子さん)
>物質的生存だけなら、自然との依存関係で十分
社会的動物とは集団化の戦略をとって生き延びてきた種であり、
サルですら群れから離れては生存できないのではないかな。特に労働するサルにおいては・・・。
>>320
>運動しているものが止まる。
資本の運動は結局未来の無い永久運動(実体への永劫回帰)です。
>>335(nanasixさん)
>『本来の』という形容詞が意味するところ
多分出ると思てた。事物の本来性とは始源性、本源性、本質性であると同時に事物の真理性を含意するのは、
プラトンのイデア論においても見られる所です。
それは否定的な現実において、もはやない過去(失われたもの)として時間性において表現された場合の、
理念的存在を指します。
それは否定の否定として、歴史の弁証法とでも言えるものを示しているが、
あくまで現実の中におかれた主体がその否定性を反省し、
それを否定し返す契機として「本来あるべき調和」としての未来(未だ到来しないもの)を指す言葉と言えるでしょう。
>>356
Who are you?
394革命的名無しさん:2008/11/09(日) 20:11:54
379 名前:OFW :2001/07/09(月) 00:23
>>376(NAMっ子さん)
>「初めに類ありき」なわけですか。
類(Genus)とは元々生物分類学の概念で、生物の系統発生の連続性を言うものでしょう。
それは生物における種(Species)の特殊性に対する普遍性の契機を表わすものです。
人間以外の動物個体はいわば種の奴隷であり、種に埋没しているが、
人類が誕生して、種的な制約性を脱して有機体一般に高まったことを、人間の類的本質と呼び得るでしょう。
それは2足歩行、道具の使用、採集・狩猟から農耕生産といった、
行動(生活)様式における自由度の飛躍的な増大から達成された<歴史的文明>への発展です。
つまり、類的本質とは<自由な変容性>として定義できる。
そのためには諸個人間の社会的交流(物質的・精神的)という媒介が必要であり、
それによりすべての個人は具体的に普遍的であり、相互に区別されながら、
一つの共同存在であること(全一者)であることが活動態として実現されると言えます。
それはあくまで成果であり、初めに実在していた統一ではないのです。
>その類が疎外されて個(近代的個人)ができた。
<疎外>一般とは、主体的な本質性が非本質性として外化すること、です。
つまり、現実的個人の対象的活動の成果が他者(他の主体)の力の現れとして現象する(せざるを得ない)ことです。
たとえば、狩猟民族が、槍にはマナ(霊力)が宿ると考えるようなもの。
近代的個人における疎外とは、類的な社会力がモノとして客体的関係性に移行し尽くすこと(物象化)です。
>人と自然との純粋な贈与関係が失われ、
人間と自然との間の物質代謝を<贈与関係>と表象するのは神話的思考であり、
既に宗教的な疎外(アニミズム)です。現実の自然は人間にとって富の源泉であるが、
それは労働の成果として得られるもの。
>そこで初めて、農耕・牧畜=自然の支配(自然からの一方的略奪)が起こり、
支配とは政治的な概念であり、自然を支配することなど不可能事です。自然を「支配」するためには、
既に他の人間を支配していなくてはならない。
>その効率化としての人の集団化・組織化・軍隊化が起こり、
効率性(Performance)とは近代的観念であり、経済的本質の意識化が要る。
395革命的名無しさん:2008/11/09(日) 20:13:51
382 名前:OFW :2001/07/09(月) 05:22
>>380(NAMっ子さん)
>狩猟採集とはその自然の生産力の所産に与る行為であって、人の生産力はさほど必要ではない。
無論そうでしょう。
しかし、確か『資本論』で、「地上に落ちている果実を拾うだけでも、
労働力の支出を必要とする」といったことが書いてあったはず。価値と富は異なるということです。

>すべて人の生産力の賜とするのは
前レスでも、そのような主張はしていないのですが。
自然は富の一方の源泉であるが、あくまで、価値を形成するのは労働である、と言うことです。

>>381(NAMっ子さん)
>この態度はエンゲルスなどのマルクス主義者より余程ラディカルな態度
ルソーのラディカルさは認めますが、素朴な自然主義は行き過ぎでしょう。
396革命的名無しさん:2008/11/09(日) 20:15:26
「資本主義社会の無関係な関係性は疎外された個人(他者性でしかない量的個人)を作り出すが、・・・」
あんたの社会観念でいま俺たちの生きている社会を割り切られると困るんだが。
397革命的名無しさん:2008/11/09(日) 20:17:43
387 名前:OFW :2001/07/10(火) 23:01
>>378(Rageさん)
>けど量と質に関するヘーゲル的論理が分からないと苦労するなぁ。
『資本論』を本当に理解するためには、ヘーゲル論理学が必要(これ本当)。
しかし、少なくとも日本ではヘーゲル学者とマルクス(主義)経済学者とはまったく別個の作業をしているようで、
未だにまともな理解が無いよう。
398革命的名無しさん:2008/11/09(日) 20:18:47
388 名前:OFW :2001/07/10(火) 23:02
>>383,384(NAMっ子さん)
<価値論>を本気でやると認識論までも含む話になりますが、図式的には
    <経済的価値>    <ヘーゲル論理学>
      使用価値   −   実在(質、量、限度)
      交換価値   −   現象と本質(根拠)
      価値本体   −   現実性(実体)
と対応づけることができます。
使用価値(有用性→稀少性→価値標準)は価値の実在的な基礎であり、
価値の現象形態としての交換価値における形式規定(価値形態)に対する質料として、
自然的な限界をなしている。
現象する価値としての交換価値(商品)は、現存在する価値根拠としての価値自体(貨幣)において、
まさに自然的実体性(物自体)を獲得するが、
価値の運動(価値法則)はその実体が社会関係の総体であることを云々。
>価値とは他人にとっての使用価値(自分にとっての無使用価値)であって、
それは使用価値(有用性)が無関心な量として現れる、つまり財の余剰の場合です。
稀少性としての価値は有用性に対してその限度を設定する。
>価値概念は他人との使用価値の交換(商品交換の原型)を自明の前提にしている。
およそ概念は実在と本質の統一ですから、価値概念とは、
価値の本質を商品交換における自己同一性として把握し、それが実在的有用物において現象し、
価値法則として展開される必然性を捉えることです。
それは近代になってマルクスによって初めて成し遂げられた。
しかし、価値概念の対象(つまり有用物)は交換が行われる以前から実在したわけです。
>だが、狩猟採集民は自己消費のために主に財(富)の獲得をするのであって、
>交換に出すためにそうするのではありません。
まったくその通り。そこでは富(有用性)と価値が即自的に統一されている。
>他人にとっての使用価値(交換財)ではありません。
他人というのが共同体内部の他者を指す場合には、交換は無かった。交換は所有における他者を前提する。
399革命的名無しさん:2008/11/09(日) 20:19:10
おまえらバカだろう。スコラ遊びしてるんじゃないぜw。
400革命的名無しさん:2008/11/09(日) 20:24:35
一人二役、一日中練ってたんだな。バーカ!ありがたく読めっていう鼻持ちならない傲慢さがプンプンするぜW。始めから論理破綻したようなレス、誰がありがたがるかよ、糞ボケ!
401革命的名無しさん:2008/11/09(日) 20:28:15
389 名前:OFW :2001/07/10(火) 23:03
>>383,384(NAMっ子さん)(つづき)
>ゆえに、狩猟採集民の"労働"は価値生産的ではないでしょう。
価値は有用物の生産と共に"形成"されるのです。
それが現実的になるためには、一定の社会構成体が必要です。
しかし、即自性としての価値形成労働、ということは常に反省的、本質的認識の対象として真です。
>遠近法的倒錯の所産でしょう。
かって○経において、
「『資本論』冒頭に現れる単純商品は歴史的に実在したか?」という議論があったのと同様の誤解です。
それは本質論的な歴史認識(即自ー向自的発展概念)を経験的な歴史認識と混同する議論です。
>財の交換のないところに価値概念はありません。
価値概念の対象は価値本体であり、交換価値(現象)に止まらない。
>リカードの考えであって、マルクスの考えではありません。
アダム・スミスも漠然と考え、マルクスはその必然性を明らかにしたのです。
>マルクスの考えは交換が成立したとき初めて、あたかも交換された二つの財
>の間に共通の実体=抽象的労働が遡及的に見いだされるという考え
やはりそういう誤解が出ますね。それは<実体>概念に対する無理解です。
実体(Substance)とは通常、自然的実体として、物質のように対象の基体をなす存在として思念されますが、
本来現実における偶有性の総体として、現実の現実性を言います。
それは常に事象の生起の終りにおいて、その本体的な存在として事象の否定性において自己を現すもの、
という過去的な存在です。そして、いわゆる労働価値説(労働が価値の実体であるという説)における労働は
決して自然的実体としての労働(投下労働)ではなく、
社会的実体としての労働(社会の再生産のための必要労働)をいうのであり、
それが価値なる物象的形態において転倒的に自然的実体(物自体)として現れているということです。
それは決して主観的なものではなく、客観的です。
>それは交換行為の事後的に発見される「仮象」でしょう。
そうなると、価値とは<主観的なあるもの>となってしまう。
(誤解された)労働価値説を否定するのは構わないが、マルクスにそれを負わせるのはNGです。
402革命的名無しさん:2008/11/09(日) 20:31:11
396 名前:OFW :2001/07/12(木) 22:16
>>390
>これは苦しい
確かに価値論の中心的な部分をコンパクトにまとめるは苦しい。
異論があれば、説明可能なので、具体的にどうぞ。
>>392-394(NAMっ子さん)
>共産主義社会でも、財は依然として使用価値
上にも示唆したように、使用価値とは有用性と稀少性の統一であり、
有用物の存在量に応じて度合いが規定される量的な存在(Value)です。
あり余る程の財(例:空気や日本人にとっての水)には使用価値は無い。
>「交換がない」のだから、交換価値もないでしょう。
おっしゃる通り。
>共産主義社会は価値論的には「使用価値一元論」的世界
と言うよりは、価値の消滅ですね。
>通時的に見いだされる労働ではないでしょう。
それは誤解です。抽象的とは類的という普遍性の契機でもあるわけ。
>(交換)価値を形成する抽象的人間労働
交換が有無ではなく、人間労働の普遍性の問題です。
>客観的であるがゆえ、なおさら廃棄できないものになってしまう。
意味不明。止揚とは否定的外面を否定してその肯定的内実を保存する、ということであり、
廃棄すべきは労働の抽象性です。
>仮象
仮象(Shine)とは直接的・個別的実在に反照(反映)する本質の影を言います。
それが必然的なものであるとき、現象(Phenomenon)と呼ばれます。
商品交換が何故必要なのかが理解できなければ、その廃棄は難しい。
>いわば抽象的人間労働の具体的有用労働への"溶解"
感覚的な比喩(表象)ではなく、概念的把握が必要でしょう。
>商品交換経済を廃棄するのが、共産主義革命の目的
NAMの主張とはかなり異なるようですが、その方法は?
403革命的名無しさん:2008/11/09(日) 20:33:20
398 名前:OFW :2001/07/13(金) 23:44
>>397(NAMっ子さん)
>交換は共同体と共同体の「間」で行われるのだから。
第1に、それは歴史的な起源としての話であり、現代では社会のすべてに交換(売買)は行き渡っている。
第2に、それは可能性であり、現実性ではない。
複数の共同体があっても、その間に贈与関係、支配隷従関係等の、交換が生じない場合もある。
>共同体を「一つにする」か、或いは「全くなくす」ことです。
両者は天地ほども異なる。前者では何故いけないのか不明です。
>柄谷が共同体を攻撃する
理由は多分、昔ながらの村社会のように、個人の自由がなく、
「全体主義的」な存在というマイナスのイメージを持っているからではないのかな?
>共同体の内と外という区別を廃棄するところに「無限の自然」(スピノザ)としてのコミュニズムを見るわけです
それは誤読でしょうね。
「共同体」「内と外」「無限の自然」とカテゴリーレベルの異なる単語が並ぶのは、文学的な比喩であって、
概念的区別が必要ではないのかな。
>そして商品交換を破棄することがコミュニズムの実践だからです。
LETS(地域通貨)は商品交換ではない?
404革命的名無しさん:2008/11/09(日) 20:36:22
401 名前:OFW :2001/07/14(土) 17:46
>>399(NAMっ子さん)
>マルクス的コミュニズムではない
このスレのテーマである「マルクスの可能性」から外れているようですが、そちらの可能性はない、ということ?
>一つの企業による全生産・流通の支配
そこでは、企業は何を活動原理にするのでしょう?価値増殖?
>会社替えが不可能だから、失業は労働者にとって死を意味する
そこでは、何故失業が生じるのでしょう?唯一の企業が赤字になるとは?
>そこでは商品交換という財の分配方法がなくなり、一種の配給制
そこでは、どのようにして従業員への配分量を決めるのでしょう?戦時中のように配給切符を貰って、
その企業の農業部門に行って決められた米の量を受け取る?もし米の量に過不足が生じた場合、
どのように調整するの?
>そこでも唯一の資本家による全労働者の支配は依然として残る。
そこでは、支配とは具体的にどういう内容なのでしょう?
「俺の言うことを聞かないと、失業するぞ」と脅して、働かせること?
失業者に対しては、政府(当該企業のこと?)が生活扶助は行わない?
>だから、「一つ」という構成から「全くない」という構成への深化が必要
共同体がない場合の社会の運営方法は具体的にどうなるの?
生産協働組合の連合体だとしても、それも共同体でしょう。企業が存在せず、自由人?だけの集まりでは、
誰が産業を担うのかな?
>それをやろうとしているのがおそらくNAMでしょう。
何を根拠に、そう思われるのでしょう?
>それをコミュニズムへと書き替えていく。
ですから、どのようにして?というプロセス、方法を聞いているのですが。
405革命的名無しさん:2008/11/09(日) 20:38:29
409 名前:OFW :2001/07/15(日) 01:35
またネタスレに戻って行く・・・
>>402(NAMっ子さん)
>人間が社会を運営するには、人はあまりに感情や好みに左右されすぎる。生産を機械まかせにする世界
アドルノがSF小説『すばらしい新世界』(オルダス・ハックスリー)を批評して、
「ハックスリーは、生きた人間と石化した諸関係との葛藤をテーマにする長編小説の伝統全体と軌を一にして、
人間性と物象化を頑なに対立させている。」(『プリズメン_文化批判と社会』)と語ったそうですが、
確かに自然や社会の唯物論が足りないようですね。
>その自由の消費が人固有の"仕事"になる
生産なしに自由を消費するとは、とても退屈な世界なのかな?
>AIに制御された生産体制
そのプログラムは何を基準に生産計画や分配計画を立てるのでしょう?
「感情や好みに左右される人間には、一律同じ財を与えよ」という命令?
「感情や好みに左右される人間に応じて、生産を左右せよ」という命令?
結局、社会の運営を左右するのは誰なのだろう?。
>そこでは肉体労働者という概念はなくなるのです。
仕事と肉体労働の違いは何でしょう?肉体労働がお嫌いなようですが。
>>406(NAMっ子さん)
>"サイバーパンク的なコミュニズム"
貨幣のない世界でのバンクの機能とは何でしょう?
406革命的名無しさん:2008/11/09(日) 20:47:15
脳の一部分にわだかまっている妄想が亢進して、生体機能を蝕んでいる様子が手にとるようにわかる良レスですね。
407革命的名無しさん:2008/11/09(日) 20:57:49
一撃で糞レス吹っ飛んだな、拍手!
408革命的名無しさん:2008/11/09(日) 21:07:31
小便かけられたOFW君に合掌。
409革命的名無しさん:2008/11/09(日) 21:31:17
OFWが不破であるとの深い疑惑があるのですが?
410革命的名無しさん:2008/11/09(日) 21:36:51
ナニっ?それでは酩丁した不破をハガイジメにし、顔に小便ジャアジャア引っ掛けたのは極道というわけなのか?
411革命的名無しさん:2008/11/09(日) 21:43:29
キャバクラ嬢の脇に手を回し、「ぎゃはははは、君にはマルクスがわからんだろう、わからなくてもいいんだよ。わしのエッチがわかればいいんだよ。」なんちゃってるんじゃないの??
412革命的名無しさん:2008/11/10(月) 12:12:07
411 名前: OFW 投稿日: 2001/07/15(日) 17:03

>>402(NAMっ子さん)(補足)
>人間労働が対象化されていないので、(交換)価値=価格がないからです。
 人間労働の対象化が価値という物象的形態を取るのは、生産関係によるの
 であり、生産物が完全機械生産によるかどうかではない。
 (大体、機械自体の生産は人間由来であり、完全機械生産による生産物に
 も過去の人間労働は対象化されているわけ。)
>>410(NAMっ子さん)
>人間が生存に欠かせない栄養素とカロリー量をはじきだし
 1.たとえば、ほぼ同じ栄養素とカロリー量を持つパンと米があったとして
   どちらの生産を優先させるのか、その計算原理、算出方法は如何?
 2.社会全体の食料の需要量を与えてから個別の小麦、米の生産計画を算
   出するのか、(好みを含む)個別需要からの積上げ方式なのか?
 3.必需品、便宜品、贅沢品の区別(基準、優先順位)はどこに置くのか?
 4.たとえばロポットによる小麦生産、米生産でも最低限の土地・資源を必要
   とし、土地や資源が生産不可能な自然として<稀少価値>を持つ限り、
   経済原則(使用価値と稀少価値の比率)が存在し、その経済計算如何?
  等々、基本的な課題を明確にする必要があるでしょうね。生存に欠かせな
  い量しか生産しないのでは「飽食の時代」以下になる。
>パンクの誤り
 失礼。如何なるコミュニズム(共同体主義)でしょう?
>機械嫌悪
 ではなく、アドルノは社会の物象化と人間の物質性の無視を同時に批判して
 いるわけでしょう。
>会社人間は自由を恐怖している
 確かに会社は「転倒した社会」でしょうね。しかし「形式的な自由を恣意と
 言う。それは内容に対して外的であり、内容は他から与えられるしかない。
 それは自由の疎外形態である」(ヘーゲル、ちょとパラフレーズ)と言われ、
 「自由人の無根拠な恣意」をもまた恐怖しているのではないかな?
 個人の自由とは社会的な自律から切り離されれば、単なる恣意でしょう。
413革命的名無しさん:2008/11/10(月) 12:13:38
538 名前: OFW 投稿日: 01/10/14 04:15

>>529
>オマエはプロレタリアートのホントの苦しみを知っているのかと。
 苦しみの内容を具体的に語って貰えると助かります。
 また「俺はプロレタリアートの一員である」との自覚があるなら、それは
 むしろマルクスの功績でしょう。何故なら、<プロレタリアート>を最初に
 発見したのは彼であり、それまではプロレタリアート自身、自己が何者であ
 るかを知ることもなかったから。
414革命的名無しさん:2008/11/10(月) 12:14:29
559 名前: 考える名無しさん 投稿日: 01/12/01 23:37

マルクスについてのスレッドはここでいいんですよね?

『経済学・哲学草稿』(岩波文庫・p135)に、

>死は〔特定の〕個人にたいする類の冷酷な勝利のようにみえ、
>そして両者の統一に矛盾するようにみえる。
>しかし特定の個人はたんに一つの特定の類的存在であるにすぎず、
>そのようなものとして死をまぬがれないものなのである。

というわりと有名な文章がありますが、これは何度読んでも意味が分かりません。
これはどんなことを言っているのでしょうか?
415革命的名無しさん:2008/11/10(月) 12:14:59
565 名前: OFW 投稿日: 01/12/02 20:23

・・・何で自殺せなあかんのや(と関西弁など)。
>>559
 若きマルクスの、まだヘーゲルの影響を残した文章ですが、私なりに・・・
>死は〔特定の〕個人にたいする類の冷酷な勝利のようにみえ、
 実体の3契機である類ー種ー個において、普遍的な存在としての類的生命は
 個体に内在するが、個体の死に対して無関心なまま次の個体に引き継がれる。
>そして両者の統一に矛盾するようにみえる。
 本来個体は普遍的なものとして、個体の生命と類的生命は直接統一されて
 いるが、個体の抽象的な死はその統一に矛盾するようにみえる。
>しかし特定の個人はたんに一つの特定の類的存在であるにすぎず、
 しかし、個人(個体)とは一個の限定された存在(Individual,分かたれた
 もの)として、種の一員(サンプル)に過ぎないという矛盾である。
>そのようなものとして死をまぬがれないものなのである。
 そのような特殊性の限界(種の限界)内にある個体は死をまぬがれ得ない。
 すなわち、個体の必死性とは普遍が特殊なものとして種に固定化されている
 という、実体的生命がもつ矛盾の現れである。

 ここでは<実体>という概念がキーですが、生命とは最初の主体的実体です
 から、個体と類が直接に一体化されているために、かえって特殊な種の限界
 が生じる。<種は進化する>(ダーウィン)ことにより、類的な生命(フェ
 ニックスのごとき無限に変様する統一)の働きが顕わになり、ヒトが人間に
 なり、社会そして精神という媒介的・コミュニケーション的形態においてその
 統一がそれとして現実的になる。
 ヘーゲルはそれを<具体的普遍>という概念で表現しました。たとえば、ど
 のような人間個人も特殊な規定性(人種、性、職業等々)のうちにあっても
 全人類の一員として振舞い、その豊かな内容を教養あるいは能力として自己
 のものにできる存在者ですね。「私は一個の人類である」(個は一つの普遍
 である)とは、社会的主体において、個人の生理的死が何らその人間的死と
 見なされなくなる地点で、始めて真実となるでしょう。
416革命的名無しさん:2008/11/10(月) 12:15:31
567 名前: OFW 投稿日: 01/12/03 21:22

>>566
>たとえば、ジョン・レノン
 そうですね。ジョン・レノンは<Imagine>において一つに結ばれた人類を
 空想(Imagine)したわけですが、その精神はあの丸い眼鏡をかけ、ひょろ
 っとした身体の中に息づいていた。それはまさにジョン・レノン以外の誰で
 もない、唯一の個性としての精神ですが、その内容はすべての人に訴えかけ
 るものだった。死は無論悲しむべき事態ですが、他者の死において個人の生
 の<かけがえのなさ>を知ることは、分かち得ない一つの(類的)生命を分
 かち持つ存在者として、諸個人の実存の共同性を知ることです。
 (以前にも引用したが、)キルケゴールの言葉である
 「君が一歩進む時、人類もまた一歩進む」
 とは、人類は個人に内在するものだという事を表現している。
 そして、ジョン・レノンが芸術的に、キルケゴールが擬ー宗教的に表現した
 その理念的な内容を、マルクスは現実の社会の中に見出した。それが
 「現実を不断に止揚しようとする運動」としての共産主義です。
417革命的名無しさん:2008/11/10(月) 12:16:24
573 名前: OFW 投稿日: 01/12/05 05:32

>>569
>ジョンは人間だから死ぬ。
 ではなく、ジョンは一人の人間だから死ぬ、が正しい。人間一般(類)は死
 ぬことはない。
>ジョンの歌のほうが価値が上なのだ。
 価値の話はどこにもでてこないでしょう。確かにCD等で売れているから、
 歌には(金銭的)価値があるが、その作者は価値の源泉として無限です。
>『ジョン』≠『ジョンの歌』ということだから、両者の統一に矛盾
 両者の統一とは如何なるものでしょう?
>やっぱりジョン(特定の個人)はたんにジョンの歌(特定の類的存在)
 ではなく、特定の個人は限定(否定)された類的存在(実存、現存在)であ
 り、現存在(類の現れ)自身は変化・消滅をまぬがれないということ。
>>570(福田でぶ和也さん)
>「(人)類」という現実的存在
 類は働きでありそれ自体は存在しない、神(類的個体)が存在しないように。
>若きマルクスが所詮キリスト教神学の枠内での批判に終始していた
 フォイエルバッハの影響下にあったのは確かだが、既に「天上の批判」から
 「地上の批判」に移行していた時期で、『経哲草稿』において<疎外された
 労働>概念が初めて出てくる。(『ユダヤ人問題に寄せて』参照)
>個別資本−社会的総資本という対応概念に置き換えた
 哲学的・論理的範疇を経済的範疇に無媒介的に置き換えることは無意味。
 経済の本質は「労働力の節約(エコノミー)」にあるとはマルクス自身の謂。
>>572(五色園さん)
>だけどきちんとマルクスを葬々すべき。
 その根拠は?70年代後半のマルクス葬送派はマルクスと共に自分の知性も
 葬送してしまい、気功やら探偵小説やらに逝ってしまったが・・・。
418革命的名無しさん:2008/11/10(月) 12:16:57
577 名前: OFW 投稿日: 01/12/07 22:08

>>576
>気功ってのはだれなんですか?
 かって全共闘運動のイデオローグの一人であった津村喬氏です。
 (自ら葬送派と名乗っていたかどうかは記憶があいまいだが。)
 因みに、精神世界に向かう最近の傾向に関する下記評論の中に彼への言及を
 見つけました。(傾向全般への評価を勝手に引用)

 ttp://www.mapro.or.jp/~senshuup/maekawa.html
>自分以外の人間の多様な関係性が成り立ち、自己の意思を離れたところで
>客観的に存立しているものとしての「社会」のリアリティが見失われてし
>まっている。
 賛成!但し、疎外された社会は「偽りのリアリティ」(ウォルフレン)に
 溢れた「嘘社会」(宮台真司)であることも確かでしょう。
419革命的名無しさん:2008/11/10(月) 12:18:13
582 名前: OFW 投稿日: 01/12/08 09:44

>>579(五色園さん)
残念ながらあまりリアリティが感じられない。
マルクスの思想をどの程度理解しているのか疑問。
思想は常に現実に向かうのであり、客観的現実を捉えているかどうかが、
その力を決めるのです。
>>581(福田でぶ和也さん)
>倒錯
マルクスは「貨幣物神(貨幣自体に価値増殖力があるとして崇拝すること)
という倒錯がある。」(言明F)と言ったわけですが、それに対して
1.Fは捏造である。つまり貨幣物神など存在しない。
2.Fは倒錯である。つまり貨幣物神は正しく何ら倒錯ではない。
のいずれでしょう?
>ユダヤ人の"唯物論哲学"
ユダヤが実体で唯物論はその仮象であるとは、ファシズム的倒錯でしょう。
それは(ユダヤ的ならぬ)ブルジョア的貨幣物神の倒錯と並行している。
それとも、ユダヤ人=共産主義者という実体的同一視の倒錯???
420糞OFWへ:2008/11/10(月) 12:24:48
誰がプロレタリアを発見してやったかだって?余計なお世話背負い込んで生意気な面するんじゃないぜw。人間にプロレタリアという鎖をつないで身動きできないようにがんじがらめにした責任はどう取るんだい?
421れれれ:2008/11/10(月) 12:33:25
人は絶えず変貌するのっぴきならない状況に放り込まれている。
しかし、人の生きざまはいかなる状況においてもその限定された状況に規定される存在ではない。    これ、おかしくないかい?
422れれれ:2008/11/10(月) 12:43:18
のっぴきならない状況に放り込まれていることを省みず、予定調和した人間存在としてプロレタリアという概念を捏造し、俺たちに押しつけるのは本末転倒というものだろうよな。
423革命的名無しさん:2008/11/10(月) 12:43:50
さようなら
424革命的名無しさん:2008/11/10(月) 12:53:26
425れれれ:2008/11/10(月) 12:54:26
唯物弁証論?物質と対立する概念は?そういう対立概念でとらえること自体が誤謬のはじまりでしょ。精神?そんなものどこにあるの?あるのじゃなくて〈機能〉でしょ。精神は脳という器官から派生する機能。
426れれれ:2008/11/10(月) 13:01:21
精神という脳の機能を認めようとしない唯物弁証論。わかりますかね?君たちは脳の働きを単なるブラウン運動程度のものだと見下して、精神を唯物論の檻のなかに閉じ込めようとした。
427れれれ:2008/11/10(月) 13:09:22
人間とモノ。人間もモノだ。モノは人間が利用する道具だ。モノである人間は利用される道具でしかない。どうだね、この忌まわしい論法。モノであるプロレタリアは革命のために利用される道具でしかない!
428革命的名無しさん:2008/11/10(月) 13:12:51
OFWよ。一言弁解でもしてからさよならを言え。
429革命的名無しさん:2008/11/10(月) 13:15:06
あいも変わらず権力批判と超過利潤批判には恐れ戦くブザマな不破のていたらくである!
死ね!反動不破!

豊島、森川、北脇の生命を自衛隊と在日党員の宮沢美智子、菊澤一家とともに奪って置いて
よくも生きておれるなあ!
430革命的名無しさん:2008/11/10(月) 13:22:37
モノにされたプロレタリアが、人間性を回復しようとして、プロレタリアとしての鎖を断ち切ろうとするところに、なぜ反革命、裏切り者のレッテルを貼りつけて査問粛正が起こるんだろう?答えなさい!
431革命的名無しさん:2008/11/10(月) 13:23:53
429基地外は邪魔だ、失せろ!
432れれれ:2008/11/10(月) 13:30:32
人間とモノ。人間もモノだ。モノは人間が利用する道具だ。モノである人間は利用される道具でしかない。            この論理の運びから人間が支配する者と支配されるモノに分化するのがおわかりかな?
433革命的名無しさん:2008/11/10(月) 13:54:46
共産党はいつも〈かく語りき〉。ビラの下に〈共産党は見解を発表しました〉ってあるよね。そして反論には黙殺。だから共産党が政権握ったら秘密警察に連行されることは十分わかる。
434革命的名無しさん:2008/11/10(月) 18:57:54
586 名前:OFW :01/12/08 23:04
>>583(五色園さん)
<引きこもり>と『フォイエルバッハに関するテーゼ』の関係を問われた場合、
<社会>の本質にまで遡る必要があるでしょう。
「人間は社会諸関係の総体である」とはマルクスのフォイエルバッハ批判(それはルーゲを引き継ぐものだったが)の
要点の一つですが、個人は徹頭徹尾社会に浸透されていることを捉えたものと言えます。
引きこもりとて社会の中での引きこもりであり、決して社会から孤立した存在ではあり得ない。
ちょうど人が行き交う広場の真ん中にテントを張って、外が見えない一人だけの空間を作っても、
それは非現実的な世界でしかないように。
要は個人の内部にある社会的・類的な本質と現実の社会との間にある超えがたい矛盾が問われるべきなのです。
実際に分業・教育・扶助等の相互依存関係を結ばなくては生存できない諸個人が、
利己主義の下に敵対・競争を強制される社会(家族、友人、学校、職場、国家、世界)のあり方が
引きこもりの背景にあり、「人間として生き難い」という思いを生んでいる源ではないでしょうか。
かって「君の最も固有な問題を、世界の最も普遍的な問題に結びつけよ」と呼びかけ、自ら実践した人もいたが・・・。
>>585(福田でぶ和也さん)論点をずらされたが、「ユダヤ人が民族として存在する」か否かが問題
なのではなく、民族が政治経済的な事柄の本質(実体)かどうかです。
歴史の真の動力はその主人公の意識とは区別すべきだ、とは唯物論の基本であり、
アーレントやサルトルの観念論的な人間観では人間も歴史も理解できないでしょう。
社会の客観的本質を心理的あるいは精神的なものに還元するのは小ブルジョア思想に共通的だが、
特に日本では政治や経済を倫理的あるいは文学的に語る論客が後を断たないのは、芸術的精神の高さ故?
435革命的名無しさん:2008/11/10(月) 18:59:38
90 名前:OFW :01/12/09 08:56
>>586(五色園さん)
>このような思考方法では現実とリンクできない
今一つ趣意が不明。
『経済学・哲学草稿』を評価し、同時期に書かれた『フォイエルバッハに関するテーゼ』を
「社会的な成功を奨めている」(全然違うと思うが)として否定する根拠もはっきりしない。
ひきこもりという現実もあれば、たとえば同時多発テロ(笠井氏は言及しているのかな?)という現実もある。
それら両者にリンクし、世界全体を統一したものとして理解するためには、強い<客観性への意志>が必要でしょう。
それは原理主義とか一元論とかとは無縁の、重層的で多元的な現実総体に向かう思考を要求しており、
マルクスが死ぬまで一貫して"温存"していたものでしょう。実際、少なからず世の現実を経験してきた者として、
「ひきこもりの言い分」がどこまで現実を正しく捉えているのかは疑問であり、
それを理解するとはむしろ当人以上に当人が置かれた(主観的ならぬ)客観的現実を認識する必要があるでしょう。

591 名前:OFW :01/12/09 08:59
>>590
誤:586  正:588
436革命的名無しさん:2008/11/10(月) 19:02:17
614 名前:OFW :02/01/20 20:30
>>605
>八百屋の店主は、ブルジョアジーか、プロレタリアートか。
前にも書きましたが、正しい階級区分とは生産手段(土地、施設設備、道具機械、原材料等)の所有関係に
応じたものです。資本主義社会の基本的(本質的)な階級は
資本家階級(ブルジョアジー)と賃労働者階級(プロレタリアート)の2階級ですが、
両者以外にも中間的あるいは派生的な階級が存在しており、
その中でも社会的・イデオロギー的に重要なものはいわゆる中産階級(小市民、プチブルジョア階級)と呼ばれる、
生産手段を私有し、かつ自らの労働で生計を立てている部分です。
自営業、自営農民、自由業(大学教師、医師、文化人等)等に従事する人々がそれに該当し、
アダム・スミスやベンジャミン・フランクリンが生きていた資本主義初期の時代において模範とされた、
勤勉で合理的精神を持った自由で個人主義的な<市民>(ブルジョア)とは、中産階級をモデルにしている。
それは、大資本家(グランブルジョア)の進展の前に、
現在では中間的で動揺する階級部分として受動的なものに成り下がってしまっており、
通常は進歩的でも危機の時代に保守反動化しやすい層と言えます。
当然ながら、八百屋の店主が店員を雇えば立派な資本家であり、使用人は賃労働者です。
また、大会社の雇われ経営者・役員も資本家階級の一員であり、公務員(官僚)は、
国家および公共団体を実質的に握っているプルジョアジー(総資本)に雇われている公的な私的使用人と言える。
437革命的名無しさん:2008/11/10(月) 19:08:41
おまえの説法は                   ふ あ 〜 あ                           いつも眠くなるな。   目が覚めるような表現できないのか?
438革命的名無しさん:2008/11/10(月) 19:30:01
615 名前:OFW :02/01/20 20:31
>>606
資本とは市場経済の中で「カネ→商品→カネ’」の交換サイクルを通し利潤を生むカネのことですが、
問題は作った商品が売れるかどうかはまったく“運任せ”だという点です(マルクスが言う「命がけの飛躍」)。
好況時により多くの商品を生産してより多くの利潤を得るために買入れた労働力(労働者の雇用)も、
不況時には商品代金が入らないため賃金の支払いができず、廃棄(放出)せざるを得ない。
これは資本という過去のカネが未来の儲けに向かって博打を打たざるを得ないという、
資本主義経済自体が抱えている矛盾です。

>>608,609
マルクス自身はまとまった芸術論を残していないが、その後のマルクス主義系統の潮流としては社会主義リアリズム、
ルカーチ模写理論、ロシア・フォルマリズム、ベンヤミン文芸批評、ブレヒト演劇論等々、多彩ですから、
一概には言えないと思う。

>>610
>>マルクスは唯物論なんてものにそもそも固執してなかったんだよ。
初めて聞く意見で興味津々。しばし静観。
439革命的名無しさん:2008/11/10(月) 19:33:06
623 名前:OFW :02/01/26 17:27
>>618(ぴかぁ〜さん)
>それにしても、肝心なところが「命がけの飛躍」…か。
「命がけの飛躍」が肝心なところだ、と理解すべき。
それは不合理なことであり、商品経済に内在するその不合理性(<交換の不可能性>)が
資本主義では現実的な(必然的な)ものになっている(いわゆる<恐慌の必然性>)ということを、です。
たとえば近代経済学や「マルクス経済学」の代表である宇野経済学では上記の内在的矛盾に無頓着であり、
恐慌を単に偶然的な現象と捉えるが、マルクスの弁証法的な見方が現れている箇所の一つです。

>>619
>地方大学の非常勤講師並みの文章でし
「先生」と呼ばれるほどの○○でなし、かな。

>>622
>マルクスの芸術論って?
このスレのタイトルでもある柄谷氏の当該書の中で「マルクス最後の疑問」と銘打って引用されている、
古典ギリシャ神話と文明の関わりに関するモノローグや、『資本論』の中でのシェークスピア等の引用など、
芸術(人間精神の象徴化作用)についてマルクスがどのように捉えていたかは、
おぼろげながら推測され得る位でしょう。
「商品に付いた値札は古代ヒエログリフのような謎めいた文字として現前している」とかね。
440革命的名無しさん:2008/11/10(月) 19:36:02
635 名前:OFW :02/02/02 20:11
久しぶりにレスをば。
>>625
ネタもまた楽し、ちゃん。
>>626
>ルサンチマン
ニーチェ以来有名になった言葉ですが、どうもニーチェ自身の感情を普遍化したようなニュアンスをもち、
ショーペンハウワより後退の面も。
『ヒューモアとしての唯物論』(柄谷)にもあるが、唯物論者のパトスとは、大地の底から湧き上がってくるような、
大らかで生肯定的な笑いに満ちたもの、と考えた方が近いでしょう。
無論、一部の自称マルクス主義者には破壊主義的な傾向をもつ者がいるのは事実ですが、
大衆的ではなくプチブル的な心情と言えるものです。
>OFWさんの動力源は?
大げさに言えば<真理への意志>とでも言えるかな(エラそ!)。
<権力への意志>とは異なり、真・善(正義)・美は一体にして不可分の精神的価値をなす、
という古臭い狂信とでも。
>>633
(横レスながら)
>特定のジャーゴンでしか語らないあたり
「教条的」と「原則的」とは異なる語りですから、区別が必要です。
何らかの思想に対して、自分で納得できない間は疑わしいものとする(蓋然的判断)のは精神の正しい態度ですが、
すべてを疑わしいと考えて中途半端な所で判断停止をすることは、精神の脆弱性であり、
むしろドグマに対する信念(実然的、断定的判断)に陥りやすい。
「根拠に基づく確信」(確然的、論証的判断)と「信心」とを区別することは、
哲学的思考(真理に向かう知)にとって極めて重要です。
441革命的名無しさん:2008/11/10(月) 19:38:42
637 名前:OFW :02/02/07 02:48
>>636(実存主義者さん)
>革命は可能であるか?
ルカーチは「レーニンが捉え実践したものは<革命の現実性>であった」と言っています(ちょとパラフレーズ)。
<現実性>とは単なる<可能性>つまり<他であることの可能性>ではなく、
<必然性>(他であることの不可能性)と<条件>(実在的可能性)を結ぶ<自己の生成>です
(ヘーゲル『小論理学』参照)。
<恐慌の必然性>(マルクス)は<革命の不可避性>に直結するでしょうが、
それが客観的条件(世界情勢)と主体的条件(力量)に依存するものであることも、また確かなことです。
<組織されたプロレタリアート>が事柄を最終的に決定するのは確かだとしても、
それは諸個人の連合あるいは職業的革命家の前衛党といったものではなく、
生産諸主体間の有機的結合を指すのです。
442革命的名無しさん:2008/11/10(月) 19:41:47
659 名前:OFW :02/02/08 23:45
>>638(φさん)
>黒田寛一の「哲学」
戦後の主体性論争において、従来の公認マルクス主義の客観主義に対抗した主体性論者の多くは、
等しく京都学派の影響下にあった。
特にクロカンの場合、西田哲学の「無の場所的自覚」を“唯物論的”に改訂した梯哲学の「物質の自覚」を受けて、
マルクス主義の主観主義化を最も推し進めたと言えるでしょう。
いわゆる「プロレタリア的人間の自覚」の論理とは、
むしろ無媒介的な決断主義に結果する超論理的な倫理思想だと思う。
(昔読んでガッカリした記憶があるので多言はしません。)
>>639
>30年前の世界のようだ。
30年間で世界はどう変わったのかな?東欧諸国やソ連の崩壊により「イデオロギーの終焉」と言われたが、
実際には「思考の終焉」と思える程の惨状かと。
>>640
>啓蒙してくれる書物
たとえば『資本論』を理解しようとして解説書を読むよりは、たとえ難しくても原著に当たるべきでしょう。
でないと、一遍に2つの思想を相手にしなくてはならず、混乱・誤解は避けられなくなる。
>>649
>社会を一つの主体と見なすヘーゲル以来の社会認識
ヘーゲルの社会認識もマルクスのそれも、「社会は一つの主体である」とは見なしていない。
ヘーゲルは近代社会(社会としての社会)を<欲望の体系>と呼び、
(絶対的君主が主体である)政治的国家において一つの精神的統一を得ると考えていたし、
マルクスの立場は<現実的な諸個人>をもって始めるという社会の唯物論ですから。
いわゆる社会有機体説はコント以来のものでしょう。
443革命的名無しさん:2008/11/10(月) 19:45:17
ふあ〜ああ。
こんなレス続けたって敵にはもはや、痛くも痒くもないさ(笑)!資本論の中の一節を
死んだ干からびた方法でカキコしても不破は次の書籍に向けた金儲けを準備し、
死んだマルクス主義の再生産すなわちファシズムを吹聴助長するだけだ!
帝国主義者、ファシストの親分は腹を抱えて笑っているぜ(笑)!
444革命的名無しさん:2008/11/10(月) 19:49:03
ふああ〜あ、血湧き肉踊るような敵を切って切って切りまくるようなカキコ誰か頼む。
445革命的名無しさん:2008/11/10(月) 20:56:29
(;-_-+
446革命的名無しさん:2008/11/10(月) 23:58:09
無条件刺激ママ)を闇金とし、極道例えば暴走行為を条件反射とする。闇金を暴走迷惑行為の度に
渡せば、これら二者は無条件反射の特別に連鎖した系に転化する。
これらの反射系を形成せしめられて国家ママ)社会を破壊の淵にまで追い込んだのが
外ならぬ十年前から操られている内乱罪現場当事者たる暴走族である!
奴らは米韓及び奴らの指揮下にある日本独占すなわち売国奴の将棋の歩であった(笑)!
将棋の歩たるファシスト暴走族どもは良心ある国民に対し、その陰湿にして狂暴なる牙てもって
襲い掛かったのである!
あの十年前からの悍ましい売国奴及び米韓の用心棒たる自衛隊と警察から闇金と幼稚な
軍隊ごっことに釣られたファシスト暴走族どもは、憲法法律を蹂躙し我が国全土に
破壊と暴力、監視の全き嵐を招致し、無法地帯となしたのであった!
あの十年前からのファシストどもの蛮行が外ならぬ刑法に定められた内乱罪、換言すれば
米韓による間接侵略で無くて一体何であろうか?
我々、良心ある国民は韓国の日本国内に於ける司令部たるライオンズクラブを内乱罪により
告発し、日米軍事同盟を即時破棄することを要求し、ならびに独占大企業の国有化と内乱罪に
連座している自衛隊、警察、検察、裁判所、各界を告発する!!
447革命的名無しさん:2008/11/11(火) 01:04:38
ファシスト不破が忌み嫌う条件反射理論を少々応用してみました。
448革命的名無しさん:2008/11/11(火) 11:04:20
684 名前: OFW 投稿日: 02/02/12 22:07

>>665(ねこさん)
>いわゆる分析的命題についてどのように考えているのか?
 分析的/総合的方法とは認識の発展段階において必然的な一段階を占め
 るものですから、クワインなどの量的な相対化ではその意義を十分に把
 握できないでしょう。因みに、再びヘーゲルから引用すると
 「綜合的方法の運動は分析的方法の逆である。分析的方法は、個から出
  発して普遍に進むが、総合的方法においては、普遍(定義としての)
  が出発点をなし、われわれは普遍から特殊化(分類における)を通じ
  て個(定理)へ進んでいく。」(同上228節補遺)。
 両者(分析的と総合的)は概念の種別(普遍、特殊、個)の相互媒介を
 行う、弁証法的な認識運動の両契機として捉える必要があるということ。

>「経験的」「客観的条件」というものを、どのように定義すべきか?
 定義の問題なら、大げさに考えなくても、「誰もが確認でき、個人の意
 志、願望等の主観に依らずそれ自体として存在するもの」位で良い。
 しかし具体的な事象について「それが成立する客観的条件は何か?」と
 いう設問に関しては、無論事象に即して具体的な研究が必要になる。
 また経験の対象に応じた概念形式を、その対象的条件を超えて使用した
 場合、形式主義というドグマになりますね。
 (例:論理形式を数学的集合論に還元する形式主義論理学)。
449革命的名無しさん:2008/11/11(火) 11:04:54
685 名前: OFW 投稿日: 02/02/12 22:09

>>665(ねこさん)(つづき)
>客観的条件と切り離された【 主張 】が、当該理論の基幹となっている
 それは誤解です。史的唯物論とは、まさに客観的・歴史的条件に即して
 人間社会を捉える立場です。たとえば労働価値説が妥当するのは<価値
 としての価値>が対象的に存在する社会、つまり資本主義社会において
 だけであり、(商品交換が普遍的でなかった)それ以前の社会および
 (価値自体が止揚されるだろう)未来の社会においては妥当しないでし
 ょう。ブルジョア経済学が如何に商品交換を永遠不滅と考えようとも、
 その客観的条件は歴史的に変化するのです。また人間的実存の物質的条
 件としての<労働>は当然ながら人類学的なタイムスケールにおいて妥
 当するでしょう。

>「必然性の洞察」??として存在するのも納得がいかない
 労働価値説自体はアダム・スミスが漠然と見出し、リカードがより明確
 に定式化したもので、マルクスのオリジナルではない。マルクスが明ら
 かにしたことは、それが資本家制経済の<本質>に関わる概念であり、
 その矛盾した全運動を理解し概念把握するためのキー(秘密を解く鍵)
 であるという点です。「資本の必然的な運動を貫いている<赤い糸>
 (本質的実体)は何であるのか」という疑問に関して、マルクスが古典
 派が使う「労働の価値」という現象的概念の無対象性を通して「労働こ
 そが価値の源泉である」という本質認識にジャンプ(転回)した、その
 認識論上の事態を指して、アルチュセールは<本質論的切断>と呼んだ
 のです。
 経験的現象を説明するべき本質自体は説明され得ない。それは直観(洞
 察)されるもの。それが必然性の認識(蓋然的仮説の形成とその否定を
 通して得られる確信という運動)です。
450革命的名無しさん:2008/11/11(火) 11:05:28
686 名前: OFW 投稿日: 02/02/12 22:13

>>665(ねこさん)(つづきのつづき)
>「反証可能性の低い」概念であって科学性に乏しい
 繰り返しになりますが、「反証可能性が低いこと」が「科学性が低いこ
 と」の指標であるとはポパー一流の誤解でしょう。事柄の本質を捉えて
 いる理論のことを(その説明力と予見力と制御力により)科学性が高い
 と言うべきであり、ドグマ自体はいくらでも反証可能でしょう。
 たとえば、「現代日本は自由な市民からなる民主的な社会である」とい
 う命題は小学校でも教えている(形式主義的)ドグマですが、それに対
 して「私は少しも自由ではない」という反証が可能ですね。それは正し
 い反証ですが、<自由な市民>の存在問題が「<不自由な市民>は市民
 ではない」という「市民」の定義問題に変えられるとドグマになる。

>現実的な有効性が欠如していることが問題
 マルクス主義の「階級モデル」(笑)には現実的な有効性がないと言わ
 れる場合、よく出される例に「マルクスによると資本主義システムは自
 己保存せず、崩壊するはずだが、一向にその気配が見えない。よって、
 マルクスの理論は誤っている。」というのがありますね。その議論が奇
 妙である理由の一つに「科学的説明が合理的であるならば、決して本質
 的な不安定性を説明できない」という事情があります。本質とは本質的
 自己同一性であり現存在(例:等価交換)の根拠を指すものですから、
 階級社会などという自己非同一な社会(差別社会ではない!)は科学的
 にあり得ないわけです。つまり、科学的(経済学的)には資本ー賃労働
 という社会関係の物象化としての<価値>(両者の同一性)が真なるも
 のとして立てられるのが正しく、その非真理には根拠があるわけです。

>マルクス主義の、その理論上の問題点
 上記のように、本来科学的理論とは現実と整合的である、つまり現実を
 合理的に説明するためのものですから、不合理な現実を妥当的に説明す
 る科学的理論などあり得ない、という点に無自覚なことです。
451革命的名無しさん:2008/11/11(火) 11:06:07
698 名前: OFW 投稿日: 02/02/14 22:55

>>684
誤:同上228節補遺
 正:『小論理学』228節補遺
 (227節補遺も参照下さい。)
>>687
>個が具体的事物だとすれば個から普遍に進めば帰納に?
 正確に言えば、分析/綜合の区別は主観が客観に向かう<認識>におけ
 る方法上の種別であり、帰納/演繹の区別は主観内部での<推理>にお
 ける種別です。
 帰納(Induction)とは質の推理の成果である全称推理を媒介する
 反省の推理です。帰納自体も類推(Analogy)に媒介されており、
 普遍的本質<個物そのもの>の媒介的定立として、演繹(Deduction)
 (ヘーゲルは「必然性の推理」と呼ぶ)の前提となるものです。
 経験的な各個物の特性は実験的に調べられ、<すべての個物>への類推
 により、そこに含まれる普遍的な本質が定立される。帰納は主観に対し
 て、具体的経験の領域から反照的本質の領域へ向かうための架橋を提供
 するものと言え、一方演繹(定言推理、仮言推理、選言推理)は主観が
 総体的客観に向かうための架橋を提供するものと言えるでしょう。
>「経験 総合」「無経験 分析」が「演繹」「演繹的帰納」に?
 認識の理念とは<客観>として即自的な向自有を向自的に定立すること
 ですから、具体的な対象内容をカテゴリー形式の元に包摂する行為です。
 認識主観は客観を概念、判断および推論形式により(カント以降の主観
 的観念論における構成とは異なり)“再構成”する。それは分析→綜合
 という方法(定義し、分類し、対象の客観性を証明すること)により、
 直接的経験の対象が自己を媒介する客観的なものであることを明らかに
 することです。
452革命的名無しさん:2008/11/11(火) 11:06:45
710 名前: OFW 投稿日: 02/02/16 10:06

>>700-701(ねこさん)
>どのように「検証」すべきだとお考えでしょう?
 労働価値説の検証の一つとして、現在の恐慌状態を挙げることができる。
 テレビや新聞で「デフレギャップ」つまり供給過剰(需要過少)あるい
 は「資産デフレ」として“説明”(実際は単なる現象記述)されている
 この歴史的不景気の根本原因は、資本のあくなき価値増殖欲を支える労
 働力の乱費(生産労働の極大化とそのコストの極小化)から来るわけ。
 <恐慌>を資本主義経済の本質に基づく、その不可避的な帰結であると
 説いたのはマルクスが最初であり、現在の経済学(○経含む)でも、そ
 れを単なる均衡からの逸脱あるいは調整可能な一時的局面としてしか捉
 えていない。失業者が身をもって恐慌の現実性を実証しても、「本質的
 には恐慌などあり得ない」と反証され、単に「リストラ」(構造調整)
 などと呼ばれてしまう。まことに反証不可能な“科学的”理論ですね。

>どのように我々の前に明らかにされるのでしょうか?
 歴史の法則性の発見と唯物史観の形成史については、下記を参照。
 エンゲルス『空想から科学へ』
 ttp://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/kuso0.html
 
>ガストン・バシュラール?
 アルチュセールの<認識論的切断>は<問題論>(徴候論)と共に、
 バシュラールに負う所が大であることは、本人も述べている通りです。

>労働価値説が検証(でも反証でもOK)を免れる理由
 として「必然性の洞察」を挙げたのではなく、「徴候論的読み」とは、
 直接性(自明性)から蓋然性(問題性)を経由した必然性への転回(確
 証性)のプロセスであるということ、として挙げたのです。当然その確
 信が正しいかどうかは、そこからの帰結を現実と照合する検証作業を必
 要とするのであり、まさに『資本論』全体がその成果なのです。
453革命的名無しさん:2008/11/11(火) 11:07:20
711 名前: OFW 投稿日: 02/02/16 10:07

>>702-703(ねこさん)
>霊魂が存在しそれらが祟るという理論?
 確かに中世キリスト教神学は近代合理主義に匹敵する啓蒙性を示してい
 た(『啓蒙の弁証法』)が、<霊魂の祟り>は余りにも気まぐれで、測
 りがたい(予測しがたい)のも事実。それは解釈であり説明ではない。

>反証可能な言論のほうが、根拠として用いる際に確実性を有しており
 1.「ここに机がある」
 2.「宇宙人は実在する」
 3.「私は自由な市民である」
 4.「論理は実証(検証)可能である」
 5.「批判的合理主義は反証可能である」
 の中で、反証可能そして検証可能(両者は違う)な言論はどれでしょう?
 
>科学的の言葉の使い方
 科学とは元々「学問」と同義語であり、専門化が進んで後、特に自然現
 象を対象にして、その法則性の解明と第一原理からの法則の説明を目的
 とした理性の営為を指して言う。理論一般の表徴としては、論理性、体
 系性、客観性が挙げられるが、近代科学はその実践的な基盤としての技
 術的な操作性が顕著です。この点から、狭義の「科学的」とは「説明的、
 予測的、制御(操作)的」とほぼ同義です。一方、社会科学は人間社会
 において<自由な主体>という非法則的な行動を行う対象を前にして、
 科学的であるための基盤(対象の必然性)が自然科学のようには満たせ
 ず、規範科学たらざるを得ないと言われるが、社会は自然の一部であり、
 その物質的な基礎を明らかにすれば、規範の根拠も客観的に説明可能に
 なる(例:生産労働に基づくコミュニケーションの自然史的性格)。

>科学的理論が現実を隠蔽するイデオロギーに過ぎない
 「不合理な現実を合理的なものとして説明する科学的理論が」が正しい。
454祟りじゃ(;-_-+:2008/11/11(火) 11:54:41
ぼくの なまえは    ちん坊〜♪
あたしの なまえは
まん子〜♪
ふたり そろって 
SEXだ〜♪      きいみと ぼくとで   SEXだ〜♪ ばーか(^^
455革命的名無しさん:2008/11/11(火) 15:18:54
8 名前:OFW :02/02/18 20:31
荒らしはいやづら、ちゃて。

>>2(ねこさん)
><問題になっていること>
問題設定がちょと違うな。
「マルクス主義はイデオロギーでも科学でもないとは、如何なる謂いか?」が良いと思はれ。
いわゆる「科学的社会主義」とは、エンゲルスが好んで使った用語ですが、
それは「科学的な研究成果を踏まえている」社会主義という意味位に理解すべきで、
自らを一つの科学とは考えてはいない。
因みに、
理   論:何らかの対象に関する演繹的(説明的)な言説体系(cf.実践)
科学理論:客観性の公準に基づく、予測的・制御(操作)的な理論
世 界 観:世界(現象総体)の存在性格に関する認識論上の立場
イデオロギー:非現実的な幻想を現実と偽る世界観(cf.現実的思想)
と言う用法です。

>「反証可能性」は「科学」とは無関係(でよいでしょうか?
無関係ではないが、それは<客観的>という特性から分析的に導かれる派生的な特性だということです。
原理的に反証不可能なものとは「主観的なもの」と呼ぶべきでしょう。
(例:「世界は喜びに満ちている」とは詩的な表現であり、科学的な表現ではない。)
>1 マルクス理論全般の検証(?) → 『資本論』
それは言い過ぎ。
『資本論』とは直接にはブルジョア社会に関するマルクス仮説(ブルジョア社会の本質は社会関係が(経済的)価値という
物象化形態において現れている点にある)の体系的な検証でしょう。
456革命的名無しさん:2008/11/11(火) 15:21:44
9 名前:OFW :02/02/18 20:33
>>3(ねこさん)
>説明と解釈の違いや如何?。
<本質>から現象を導出するのが説明であり、記号的対象の<意味>を解明するのが解釈です。
現象vs本質は記号vs意味とは異なるわけ。

>科学とイデオロギーを弁別するための方法論
結局は<客観性>の有無に帰着するでしょう。では、客観に到るための方法は?となり、
直接的経験→その本質の解明(仮説定立)→仮説の客観的検証という科学的方法論が出てくる。
たとえば「神は存在する」と言う主張がイデオロギーである所以は、
「神は我が心の中に住みたもう」主観的な存在でしかないにも拘わらず、
他方でそれがどこかに実在するかのように言うからですね。
一方「共産主義はイデオロギーでない」とは、それが<理念的存在>であり、
自由主義者やかってのスターリン主義者のように、現実に存在しているとは主張していないからです。
理念性は主観性と客観性の統一であり、科学の対象ではないが、
現実を照らし実践を導くものです(ここは哲学者の出番でしょう)。

>量子力学は合理的な現実を不合理なものとして説明している科学理論
それは誤解です。不確定性原理のこと?
457革命的名無しさん:2008/11/11(火) 15:27:50
10 名前:OFW :02/02/18 20:34
>>4(ねこさん)
>1場所をここに限定してますから、検証も反証も可能。
<ここ>の限定不可能性(不定性)と「机」の定義不可能性(文脈依存性)もありますから、条件付でOKです。
反例としては、
「『これはパイプではない』」(フーコー)。
「状況によっては机は凶器になる」(レーニン)(パラフレーズ付き)。
>存在しないことを証明するのは一般に不可能なので、反証性に乏しい
「論理的(原理的)にあり得ない」という場合が存在するでしょう。
また、どのような事柄も具体的・特殊的に存在するので、
宇宙人が一般的に存在しない事は常に証明可能(論理的に自明)です。
>ある基準を満たすかどうかを内容とするなら、検証も反証も可能。
それは<妥当性(正当性)>と<真理性>の混同です(これ重要)。
「市民」の形式的基準はその実質的内容とは異なり、
形式的に妥当する市民的権利が実質的に(実際に)満たされていないことは一般的です。
>論理を検証不可能としたら、まさしく定義矛盾だと思いますが。
形式主義論理学では記号演算のみを論理的と呼び、
もはやその意味内容を問わない(『可能世界の意味』とか言って経験的な検証可能性を不問に付す)ようですが。
>プラグマテッィクな観点から採用される基準
同上。形式的な基準では日常世界すら解明できないでしょう。
プラグマティストは
「我々の基準からは、イスラム世界では反証不可能なドグマが支配しており、
“開かれた世界の敵”としてそれを『悪の枢軸』と呼ぶのは科学的に正しい。」
などと言うのかな?
>100cmを1mとして定義し、扱おうというようなもの
メートル法と尺貫法あるいはヤードポンド法等との間には、厳密な通訳可能性があるわけではなく、
歴史的・経験的な曖昧性・変容性を免れ得ないものですが、交易が始まると世界標準(ISO)が必要になる。
現在ではグローバルスタンダードとして、米国がすべての基準かな?
458革命的名無しさん:2008/11/11(火) 15:31:10
18 名前:OFW :02/02/23 07:11
>>15
>ofw氏の「科学」あるいは「本質」は一度解体すべきだ。
バシュラールあるいはアルチュセールの議論を踏まえた上での発言?

>>16
>素朴実在論丸だし
完全に的外れ。素朴実在論と唯物論(機械論的、弁証法的)の区別は?

>>17
>「労働者」はもはや買いたいものがなくてゲップ状態。
引用されたカキコを良く読んで欲しいな。資本が労働力を乱費することを指しているので、
労働者が商品を乱費(消費)する話ではない。
また「買いたいものがない」のではなく、本当に必要なもの(日本では住宅等の生活基盤および老後の安心、
教育等の精神的基盤)は供給されていないのであり、
しかも失業したら有り余る商品の山の前で餓死するはめにもなる現実の在り方を見ること。

>溜め込んでいるだけ。創造的な企業に投資する気はない。
資本家と労働者(資本と賃労働)との本質的な区別が理解できなければ、
<労働する資本家>なる矛盾した存在も可能になる。
「現実を見よ」と主は奴隷に語ることはなく、幻想を販売するのみ。
459革命的名無しさん:2008/11/11(火) 15:34:55
21 名前:OFW :02/02/26 21:57
>>20
>労働力や資源を乱費したのは市場社会ではなくて社会主義社会だ。
どこの「社会主義社会」を指しているのかな?

>計画的な生産なんて幻想
資本主義下でも個別企業の生産は計画的に行われており、たとえば工場内分業は厳格に調整されている。
それが全社会に広がることに何の原理的な問題もないでしょう。
要は社会的な需要(およびその変化)を捕捉し、それに生産を適応させる方法如何という技術的な問題であり、
基礎インフラに対する需要の固定性や最終生活財に関する受注生産の効率化等を踏まえれば、
市場(商品経済)の役割は極小化可能でしょう。

>ソ連=国家資本主義国というのは現「海つばめ」グループが60年代に言い出したこと
は良く知っていますよ。(もっとも、知ったのは比較的最近だが。)
かってトロツキー研究家の対馬忠行が第4インター派の公式見解である「ソ連=堕落した労働者国家」論に対抗して、
「晩年のトロツキーはソ連邦体制を国家資本主義と考えていた」と主張していたが、それも同時期のこと。
社労党(SWP)は両者共を批判しており、レーニンの社会主義的原則に近い立場を維持している稀有な党と言えます。
ところで、旧ソ連=国家資本主義論を評価しつつ、一方で「社会主義社会」を批判することは一つの矛盾。
現代日本の“親方日の丸”資本主義を自由化しても、労働者には「賃金奴隷か失業か」の選択しかない、
資本ー賃労働関係自体を変えない限りは。
460革命的名無しさん:2008/11/11(火) 15:38:53
77 名前:OFW :02/03/13 23:10
この所の多忙もようやく一息ついたので、亀レスながら、まとめレスをば。
>>22
>半角板
行ったことなし。偽者が多いようで・・・。
>>24
>私の固有性は否定できない。
「私は一個の他者である。」(アルチュール・ランボー)であり、近代人は疎外された個人として実存している。
つまり<私>の固有性は否定的なもの、非固有性として現象しているのです。

>それに根ざした欲望も否定できない。
疎外された欲望とは他者化され、商品(他人のモノ)が持つ欲望(貨幣欲)のこと。
>その欲望に根ざした商品へのまなざしも否定できない。
かくてランボーは詩を捨て商人になった、かな。

>>25
>生産管理を行い失敗した。
旧ソ連や東欧諸国では国家官僚(イコール党官僚)がすべてを統制していたので、
極端に恣意的・政治的な生産管理だったと言える。
現代の中国は「社会主義的市場経済」なる計画的無政府経済に発展した??

>>26(吉本隆明さん)
>資本主義は人間の他人のものを欲しがるという幼児性を最大限利用
<他人のもの>を欲しがることは既に欲望の根源性を脱して、その派生形態に発展している。
それは所有としての所有である私有を前提にしており、<モノ>が支配する近代特有のもの。
確かに貨幣欲に支配された人間は「精神的動物」(ヘーゲル)であり、
世の資本家・経営者は無教養・非精神的な幼児(俗物)と言えるが、
それが逆立ちした近代社会のご主人様というわけです。
461革命的名無しさん:2008/11/11(火) 15:43:20
78 名前:OFW :02/03/13 23:11
>>29
>社会主義は「見込み生産システム」を前提としても成り立つのか。
上にも書いたが、資本主義的私企業あるいは工場内でも厳格な計画生産が行われているが、
利潤原理により社会的場面での無政府状態が存在するために、社会的な分業は常に事後的にのみ調整されている。
現に個別企業内で実施されていることを社会全体に広げることに原理的な困難はなく、
生産単位間の連携とコミュニケーションがあれば済む。
課題は最終需要の事前的な把握とそれに応じた資源と労働力の柔軟な配分(労働の分割)を
どのように具体化するか、という点だけです。
変化する環境要因に対して機動的な対応を行い、より発展した社会形態に向かうために必要なものは、
他人の恣意を見込むことではなく、協働と連帯に基づく社会的生産の有機的なシステム化であり、
計画により生産の自由度はむしろ増すものです。
技術や創造性はその上に開花するでしょう。
いずれにせよ、現在のように生産が資本の価値増殖の目的の下に置かれ、
ビジネス(忙しさ)として急かされる(節約される)あり方は根本的に変革され、
より非経済的なものに変化するでしょう。
最終的に生産労働は芸術活動あるいは交歓活動のようなものになるのではないかな。
(無論そのためには高度な生産力が前提となり、それは「経済の消滅」とでも呼べる事態として現れるでしょう。)

>>34
>引きこもり者たちに語るべき言葉をマルクス主義は持っていない。
<引きこもり>が何故一般化したのか。
そこには社会的なディス・コミュニケーション状況(疎外状況)の深まりがあるが、
社会的コミュニケーション(類の伝達)とは「マルクスその可能性の中心」に位置するものであり、
その言葉は連帯の呼びかけです。
462革命的名無しさん:2008/11/11(火) 22:08:48
89 名前:OFW :02/03/16 21:49
偽者は無視して・・・
>>79(吉本隆明さん)
>幼児を俗物と等置するのは・・・。
等置ではなく、段階的な対比。
幼児:人間自体(欲望の自然性)
成人:人間としての人間(欲望の精神性・社会性)
俗物:幼児的な成人(モノ・カネに憑かれた欲望)
「食うとか、飲むとか、やるとかいうことはもちろんのこと、正真正銘の人間的な機能である。
 それにもかかわらず、これらを人間の活動の他のグループからきりはなして、
 かつたった一つの最終目的にまつりあげてしまうほど抽象化してしまったとしたら、
 それらといえども動物的になる。」(マルクス『経済学=哲学手稿』)

>荒れた「革命」
「わたし(たち)は、安保闘争に『革命』の幻影をえがいたが、それは丸山真男の嘲笑しているように、
 『革命が成就する』という幻想を描いたのではない。」(『情況とはなにか』)と語った吉本(オリジナル)は、
<大衆の原像>なる概念を提起して、自然的で利己的な大衆の姿を思想に「繰り込む」ことを説いたが、
それは即自性(自然性)としての大衆であり、自己を組織する自覚的な大衆の可能性を無視した、
<知識人>の独りよがりというものでしょう。
463革命的名無しさん:2008/11/11(火) 22:12:08
90 名前:OFW :02/03/16 21:50
>>81(27さん)
>OFWの議論の枠組
私の議論は、対象を概念的に把握する、というものであり、単に主観的な意見を開陳することではない。
そのため、質問自体より、質問の根拠を問題にして、
「質問の一面性を反省せよ」と示唆するものが多いのはその通り。
対象の本質に迫ろうとするなら、何にせよ「これが答えだ」(宮台真司)などと一言で言えるはずもないでしょう。

>他者性が感じられない。
以前「他者について」スレでも言ったが、他者にも段階がある。他者一般、固有の(特定の)他者、自己内の他者。
個性ある人とはむしろ<類>としての豊かな内容を身につけた人です。

>>82(吉本隆明さん)
>貨幣欲とは「精神的かつ非精神的」なのだ。
その通り。
精神はその自体としての自然の他者(否定)でありながら、自然に向かう対象的活動(自然の向自化)ですから、
物質的なものを自己の内に含んでいる(精神の唯物論)。
貨幣(疎外された労働)は人間の自然への関係行為(労働)が諸個人間の関係行為(精神的コミュニケーション)に
媒介されていることを、転倒的に実現している。
464革命的名無しさん:2008/11/12(水) 18:31:00
118 名前:OFW :02/03/18 23:34
>>91
相手の質問を自己の概念的枠組みに沿った物に組替えそうではなく、相手の質問の存立根拠を問い返し、
対象を共同のものに変えていく、ということ。
概念とは決して単なる固定した枠ではなく、運動・発展する思考の契機(モメント、瞬間)として、
それ自体対象と共に発展するものです。
>「共通理解可能性」
二つの主体(主観)が対立している場合、
そこには既に対立を可能にする同一の根拠が存在する(対立は一つのものですから)。
対立が本質的であれば、そこから対立の根拠が現れてくる。(例:価値形態論)
>ハーバーマスのインタビューを見るようなもどかしさ
確かに<未完の近代>を夢見るハーバーマスは、理想的な市民といったブルジョア的規範性にこだわって、
現実の矛盾を度外視している。
>>95(27さん)
>すべてを自分の中に包摂しようという考え
それは誤解。主体(主観)の複数性は真理の必要条件の一つです。
>>97(吉本隆明さん)
>矛盾によって既に破綻してんのよ
「矛盾は世界に満ち満ちている。矛盾が存在しないなどとは哄うべきである」(ヘーゲル)とは、
最も緊張ある(破綻なき)言葉の一つです。
>>106(27さん)
(横レスながら)
>ヘーゲルのように差異を一つの統一の運動に収斂されちゃたまらない
良く分かります。その点では、戦前・戦中の唯物論者戸坂潤の<真理の階級性>概念が参考になるでしょう。
現実を現実的に止揚せずに、それを観念的に止揚できず、哲学は現実に向かわざるを得ない。
>>116(スタン・ケントンさん)
>「資本論」の話
お望みならどうぞ。ただ、時間の許す限りということで・・・。
465革命的名無しさん:2008/11/12(水) 18:34:22
152 名前:OFW :02/03/21 20:42
議論がボケてきたようなので、遡って、少し論点の整理をしよう。
【1.資本主義と欲望の根源性】
>>26(吉本隆明さん)
>共産主義なんてドダイ無理だぜ。資本主義は人間の他人のものを欲しがるという幼児性を
>最大限利用してるんだからよ。
>他人のものを欲しがるという人の否定しがたい本性を変えない限り、資本主義は打倒不能なんだよ。
>>77で言ったように、モノに対する欲望は、他人のモノに対する欲望とは区別すべきでしょう。
前者は生物的な欲求(その限りで否定しがたい本性と言っても良い)ですが、
後者は社会的に変容された欲望です。つまり、他人のモノと自分のモノを区別することは、
一定の社会の中でのみ妥当する。だからこそ、ジョン・ロックは市民社会の正当化のために、
財の所有権について論じる必要があったのであり、
「所有の権原は労働にある」という結論を出したのです(そしてそれをこっそりと隠蔽したが)。
>>33(27さん)
>共産主義で人間の幼児的欲望をうまく吸収できるのか?ってことだよ。
>なぜ、人間はある物を欲しくなるのか考えろ。
モノに対する欲望自体は否定すべくもない自然であり、問題ではない。
それを充足できる財が十分に存在するかどうか、が資本主義あるいは共産主義に関する問題点でしょう。
つまり、事柄は政治経済学的な本質を持つのであり、
「脳構造」といった生理学や「禁欲は正しいか?」といった倫理学の問題ではないということです。
この辺の事情を「論点のずれ」と呼ぶなら、確かにその通り。
466革命的名無しさん:2008/11/12(水) 18:39:57
153 名前:OFW :02/03/21 20:43
【2.弁証法と形式論理】
>>114(吉本隆明さん)
>指示対象と言語の対応関係は常に侵犯される恐れがあるからこそ、形式論理が開発された
それは正しいが、侵犯はなくもがなといった単に否定的なものではなく、不可避(必然的)なのです。
形式論理は思考の一貫性を守ろうとして、対象との対応関係を度外視してしまうのであり、
そのため無内容な同語反復になってしまう。
弁証法は思考とその対象の関係を跡付けるもの。
>>131(ねこさん)
>すなわち、Aと¬Aの両立は可能、「矛盾律を否定し、矛盾を許容する」
>●矛盾言明からは任意の命題を真として導出できる
形式論理でいう「真」とは「事実との一致」と定義されるが、事実は変化するものですから、
そこからはすぐに「どのような言明も真ではあり得ない」という逆説が出てきますね?
>例えば、何でも良いですが、鳥類は恐竜の祖先である(A)と、鳥類は恐竜の祖先ではない(¬A)の、
>「双方が真である」とします
>この前提から、命題B:マルクス主義者はファシストである、が真であることを証明します
>また、記号で書いたように、A、Bは任意の命題でOKです
以前(旧)「論理学」スレで形式論理論者達(Logician's red、代理いぬ、微熱症患者、ぱんどらさん等)と
議論して良い所まで行ったが、スレがパンクして尻すぼみになってしまった。
その最後において確認できたのは、<真理表>に関して、仮定と断定との混同、記号と個別命題との矛盾、
といった問題があるということでした。
「命題Aが真であると“仮定”すれば、命題Aは真であることが“導出”される。」と聞いたときは、
何でそうなるの??とマジで驚いた。
つまり、形式論理の方こそ、「何とでも言い逃れができる」無謬性を誇っているドグマだということです。
(例:<可能的意味の世界>における「爬虫類かつ人間」の存在)
467革命的名無しさん:2008/11/12(水) 18:44:54
154 名前:OFW :02/03/21 20:44
【3.OFWの議論態度の問題点】
>>135(27さん)
>OFW的問題を共有した議論にならないように意図的にしているのだよ。
>OFW必殺の論点ずらしは、議論をOFW的問題圏へと位置づけるため
本スレでの問題圏とは<資本主義社会の本質認識>であり、
マルクスのアプローチの有効性とその可能性がテーマでしょう。
それは弁証法的唯物論(どうもスターリン主義と混同されがちのようだが)と呼ばれるものです。
そこに「論点ずらし」はない。

>>137(91さん)
>自分の言葉で語ろうとする姿勢が感じられないことだ。
事柄の本質に向かおうとする姿勢の下に、論証的・客観的に語ることは、必ずしも“他人の言葉”で語ることではない。
要はそれが咀嚼され自分のものになっているか否か、ということだけでしょう。

>>140(91さん)
>彼はふられた質問に引用で答える事が多いでしょう?誰と議論してるんだ私は?って気にならない?
限られた言説空間・時間の中で十分な論拠を展開するのはなかなか大変であり、先人の言葉を借りるのは、
経済的かつ啓蒙的な意図から。
質問された事柄は、それが本質を含む場合、質問者の主観的意図を超えた客観的な意義をもち、
その配置の中に置き直すことは、必ずしも固定した枠組みに当て嵌めることではなく、世界の総体性を目指すこと。
468革命的名無しさん:2008/11/12(水) 18:49:28
171 名前:OFW :02/03/22 03:28
荒らしはいやづら、ちゃて。
>>165(ねこさん)
><問題になっていること>
問題設定がちょと違うな。
「マルクス主義はイデオロギーでも科学でもないとは、如何なる謂いか?」が良いと思はれ。
いわゆる「科学的社会主義」とは、エンゲルスが好んで使った用語ですが、
それは「科学的な研究成果を踏まえている」社会主義という意味位に理解すべきで、
自らを一つの科学とは考えてはいない。
因みに、
理   論:何らかの対象に関する演繹的(説明的)な言説体系(cf.実践)
科学理論:客観性の公準に基づく、予測的・制御(操作)的な理論
世 界 観:世界(現象総体)の存在性格に関する認識論上の立場
イデオロギー:非現実的な幻想を現実と偽る世界観(cf.現実的思想)
と言う用法です。

>「反証可能性」は「科学」とは無関係(でよいでしょうか?
無関係ではないが、それは<客観的>という特性から分析的に導かれる派生的な特性だということです。
原理的に反証不可能なものとは「主観的なもの」と呼ぶべきでしょう。
(例:「世界は喜びに満ちている」とは詩的な表現であり、科学的な表現ではない。)

>1 マルクス理論全般の検証(?) → 『資本論』
それは言い過ぎ。
『資本論』とは直接にはブルジョア社会に関するマルクス仮説(ブルジョア社会の本質は社会関係が
(経済的)価値という物象化形態において現れている点にある)の体系的な検証でしょう。
469革命的名無しさん:2008/11/12(水) 18:52:30
174 名前:OFW :02/03/23 22:43
>>159(吉本隆明さん)
>資本を打倒するなど土台無理な話だといいたい。
十分な根拠が示されないので、単なる悪宣伝のような。
たとえば、今日のネットニュース記事をちょと眺めただけでも、
「中国で労働者のデモ相次ぐ、レイオフに抗議」
昨年末現在、国有企業のレイオフ労働者500万人以上が再就職できず、
都市部の失業人口も681万人に達した。WTO加盟で国有企業は国際競争にさらされる。
政府は都市部の今年の失業率を4・5%以内にとどめたい意向だが、それも困難な情勢だ。
労使紛争は今後、一層激化することが予想される。
ttp://www.yomiuri.co.jp/05/20020322id22.htm
「いすゞ労組が基準内賃金の7%カット受け入れ」
今年の春闘では定期昇給維持で労使が妥結した直後に電機大手各社などから賃上げの凍結や賃下げの提案が
相次いでいるが、組合が賃下げの受け入れを決めたのはいすゞが初めて。
ttp://www.yomiuri.co.jp/02/20020323i501.htm
「社会主義」中国と「労使協調主義」日本とでの賃労働者の態度の相違は、
確かに<資本の打倒可能性>に対する主体性の程度を反映している。
>>160(М.Б.さん)

>資本の根拠は法(今なら法律でもいいけど)にある
それは逆。
唯物論的には、社会の経済的土台(根拠)からその社会の法制度が説明され得るのであり、
当該社会における階級関係の合理化(正当化)としての法は、ある段階では妥当性のみで真理性を持たない。
470革命的名無しさん:2008/11/12(水) 18:58:01
,. -‐''' ー- 、ヽ‐---、::::::::\ ヽ、 i、
        / ´ ̄  ̄``ヾ lヽ、`'ー゙::::::::::::::;> Y′ お願い、おっきいちんちん、はやくいれてぇ・・・・・
 ト、   /
471革命的名無しさん:2008/11/12(水) 22:50:11
ちん♂ん勃なくなるような説法やめろやな
472革命的名無しさん:2008/11/13(木) 14:36:41
予定調和OFW、ペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッ
473革命的名無しさん:2008/11/13(木) 19:31:30
175 名前:OFW :02/03/23 22:44
>>161(ねこさん)
>トリップをつけること
ネットの匿名掲示板は新しいコミュニケーション手段であり、大げさに言えば、
<無名(名無し)の諸主体による類の伝達>の可能性を含んでいると思われ。
固定HNはその妥協的ラベルに過ぎず、言説の真実性のみが問われるべき。
(議論がよほど混乱するようなら検討します。)

>>165(ねこさん)
>弁証法という張子の虎を使ってたぶらかそうとする人達
とは多分弁証法を知らない人達でしょう。
(浅学ながら、日本の学者・思想家の中でまともに弁証法を理解していると思えた人を未だ知らず。)

>真なる命題を事実との一致に求めるのは、論理実証主義の話であって、形式論理学とは違うのでは?
真理論の詳細に入るのは省略しますが、「命題(言明)pが真なのは、
事態がpの場合その場合に限る」という真理(概念)の対応説的定義は、一般的なものでしょう。
確かに、形式論理学の<真理値の割当て>という、意味論抜きの真理無定義は整合説の極端化と言えるでしょうが。
また、論理実証主義は経験的事実と区別された<論理的事実>なるものを立てるが、その妥当性は怪しい。

>>173(吉本隆明さん)
>矛盾は可能な状態をひとつとして許容しないとヴィットゲンシュタインはいう
それでは、>>131の「矛盾言明からは任意の命題を真として導出できる」という形式論理学の主張と
矛盾するように見えるが、如何?(形式論理vsウィトの対決?)
474革命的名無しさん:2008/11/13(木) 19:32:22
180 名前:OFW :02/03/24 20:41
>>176(吉本隆明さん)
>秋葉原や歌舞伎町に集う人
がお気に入りの様で、スレのテーマに関連付けてみよう。
彼ら(経済学的には<消費者>と一括されるが)は何故集うのか?
その疑問は、マルクス『資本論』第1巻第1章第1節冒頭の叙述に直結する。

「資本家制生産様式が支配的に行われている社会の富は<巨大な商品の集積>として現われ、
個々の商品はその富の要素という形式として現われている。したがって、われわれの探求は、
商品の分析から始められる。」(訳はネット上の某訳を少し修正したもの)

つまり、商品を求める貨幣の所有者(購買者)と、貨幣を求める商品の所有者(販売者)とが集う場所が秋葉原や
歌舞伎町であり、(他人が欲しがるモノへの欲望でなく)他人が所有しているモノおよびカネへの欲望同士が出会う
場所(つまり市場)ということが、その本質なわけです。
無論、それはまだ資本主義世界のほんのトバ口であり、価値の流通界や、とりわけ(>>174のような)その地下室で
ある生産界は見えていないが、既にマルクスはそこに商品の謎めいた姿が現れているのを見逃さない。

>>179(三毛さん)
>ある哲学者の言及をあえてなさってませんよね。
誰のことでしょう?(議論は成り行きで、格別の意図なしデス。)
475革命的名無しさん:2008/11/13(木) 19:33:11
183 名前:OFW :02/03/25 04:56
>>180(吉本隆明さん)
>お前さんが説く荒れた「暴力革命」など、なんの意味もないのだよ、といいたいわけね。

それは言い過ぎ。『資本論』とは直接にはブルジョア社会に関するマルクス仮説(ブルジョア社会の本質は社会関係
が(経済的)価値という物象化形態において現れている点にある)の体系的な検証でしょう。
資本主義下でも個別企業の生産は計画的に行われており、たとえば工場子供の資本主義はよりナチュラルである
がゆえにより浸透力があるが大人の場合、ナチュラルなものを抑圧するという仕方で二重に自然化した理性の
道具性もある。

人は疎外された個人として実存している。つまり<私>の固有性は否定インフラに対する需要の固定性や
最終生活財に関する受注生産の効率化内分業は厳格に調整されている。それが全社会に広がることに何の原理
的な問題もないでしょう。要は社会的な需要(およびその変化)を捕捉し、それに生産を適応させる方法如何という
技術的な問題であり、基礎旧ソ連や東欧諸国では国家官僚(イコール党官僚)がすべてを統制していたので、
極端に恣意的・政治的な生産管理だったと言える。
現代の中国は「社会主義的市場経済」なる計画的無政府経済に発展した??等を踏まえれば、市場(商品経済)
の役割は極小化可能でしょう。
476革命的名無しさん:2008/11/13(木) 19:34:54
予定調和ペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッペッヘ
477革命的名無しさん:2008/11/13(木) 19:35:01
211 名前:OFW :02/03/31 21:29
送別会、歓迎会の季節とて、飲みすぎや「人身事故」にご用心。
>>188(27さん)
>人間はこう生きるべき、っていう原イメージがあるのだろう。

「何をなし、いかに生きるべきか?」といった倫理的・主体的な問いは、「人間とは何か?」という哲学的な
反省(本質認識)なしには答え得ないもの。
「人間は社会的動物である。」(アリストテレス)という洞察において直接的な統一をなしていた<個人>と
<社会>は、「個人は絶対的な主体である。」という近代個人主義の主張においてその疎外を完成させ、
両者は完全に外的な対立物にまで発展した。
26歳のマルクス曰く、
「なにはともあれ、「社会」をふたたび抽象物として個人に対立させ、そのままくぎづけにしてしまうことは
 避けなければならない。(中略)
 したがって、人間なるものは、たとえかれがどれほどまでに特殊的な個人であったにせよ―そしてまさしく
 かれの特殊性こそかれをして一個の個人たらしめ、かれをして現実的で個人的な共同体的本質存在
 たらしめているのだ―、同様に全体的性格のものである。」(『経済学=哲学手稿』青木文庫)
つまり、個人と社会との統一、という(原イメージならぬ)<理念>がその後の研究を導いていたということ。
(理念なき現代では理解困難?)

>>190(27さん)
>結構楽しそうにしているじゃないかw
消費の場面での<王様>精神と生産の場面での<賃金奴隷>精神との対照は、たとえばリーマン板を
一瞥するだけでも十分に分かるでしょう。
478革命的名無しさん:2008/11/13(木) 19:36:16
212 名前:OFW :02/03/31 21:30
>>196
>自身の「階級的な正義感」を克服したやつがほとんどいない
なかなか面白い表現ですね。中産階級固有の正義とは何か?
普遍的市民(ブルジョア)のそれか、階級対立の調停か?
ここには矛盾そのものが存在しており、辻元某ならずとも、その欺瞞性に巻き込まれずにはいかない。

>>203
>戦後の日本経済が社会主義だった
国家(独占)資本主義と社会主義は天地ほど異なるもの。

>>208(ら@さん)
>永久革命論の文献
トロツキーに関しては、下記サイトがベストでしょう。
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~Trotsky(『総括と展望』(日本語訳)『Permanent Revolution』(英語訳)
など豊富に電子化されている。)
479革命的名無しさん:2008/11/13(木) 19:37:03
223 名前:OFW :02/04/05 23:53
<本質>から現象を導出するのが説明であり、記号的対象の<意味>を解明するのが解釈です。
現象vs本質は記号vs意味とは異なるわけ。
テレビや新聞で「デフレギャップ」つまり供給過剰(需要過少)あるいは「資産デフレ」として“説明”
(実際は単なる現象記述)されているこの歴史的不景気の根本原因は、資本のあくなき価値増殖欲を支える
労働力の乱費(生産労働の極大化とそのコストの極小化)から来るわけ。

資本主義下でも個別企業の生産は計画的に行われており、たとえば工場内分業は厳格に調整されている。
それが全社会に広がることに何の原理的な問題もないでしょう。要は社会的な需要(およびその変化)を捕捉
形態に発展している。それは所有としての所有である私有を前提にしており、<モノ>が支配する近代特有
のもの。確かに貨幣欲に支配された主観的な存在でしかないにも拘わらず、他方でそれがどこかに実在する
かのように言うからですね。
一方「共産主義はイデオロギーでない」とは、それが<理念的存在>であり、自由主義者やかってのスターリ
ン主義者のように、現実に存在しているとは主張していないからです。
プラグマティストは「我々の基準からは、イスラム世界では反証不可能なドグマが支配しており、“開かれた世界
の敵”としてそれを『悪の枢軸』と呼ぶのは科学的に正しい。」などと言うのかな?

理念性は主観性と客観性の統一であり、科学の対象ではないが、現実を照らし実践を導くものです(ここは
哲学者の出番でしょう)。
480革命的名無しさん:2008/11/13(木) 19:38:30
280 名前:OFW :02/05/06 11:43
どもお久しぶり。仕事が忙しくて亀レスだが、偽者君も多いようで。

>>215(羊飼いさん)
>>国家(独占)資本主義と社会主義は天地ほど異なるもの。 とちらも1930年代に出現した。
前にも書いたが、旧ソ連、東欧等は社会主義を標榜していたが、実際の政治経済体制は最後まで
国家資本主義だったと見るべきでしょう。
<国家の廃絶>は共産主義(ここでは社会主義と同義)のABCです。

>>227
>もしかして・・・ですか?
人違いでしょう。先生と呼ばれるほどの・・・でなし。

>>259(Iridiumさん)
>マルクスって初めから革命しようと思ってたんだっけ?
革命の意味によるが、人間の解放(疎外状態からの回復)に関する弁証法的(革命的?)な思考は初めから
でしょう。政治的には、労働者階級の世界的な組織化による議会内での政権獲得→国家廃絶という路線
(かなり長期的)を考えていたのではないかな。
「共産主義者の当面の目的は、他のあらゆるプロレタリア政党の目的と同一である。すなわち、プロレタリアートの
階級への形成、ブルジョアジーの支配の転覆、プロレタリアートによる政治権力の獲得である。」
ttp://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/sengen1.html
481革命的名無しさん:2008/11/13(木) 20:41:25
OFW・たぶん高校の社会か国語のヘボ教師。文体は凝り性で、独特の優越意識が染み込んでいる。劣等感の裏返しだろう。実社会に投げ込まれた経験かないから、人の心理を見抜けない。論理破綻に気づかない。
482OFWへ:2008/11/13(木) 20:49:52
〈である〉。この断定というひとりよがりを全部除去して読み直してごらん。いかにあんたの推論が独善に陥っているかよくわかるだろうな。あんたは〈神〉かな?宗教論やっているんじゃないだろ?
483OFWへ:2008/11/13(木) 21:07:20
自分はおまえらよりずっと優秀だ、馬鹿は無視。そんな机上の意識ぷんぷん。ひっくり返せば、ひとつ論理の破綻を認めれば、土台から崩壊してしまうということを潜在的な恐怖感として意識している。危ういぞw
484革命的名無しさん:2008/11/13(木) 21:13:11
机上の鉛筆転がしから人間に号令をかけようとする。論理が破綻していれば人間のほうで論理に迎合してくればよい。強制の号令だ!これが共産主義の犯したもっとも大きな罪業ではなかったのか?
485革命的名無しさん:2008/11/13(木) 21:15:16
ふ ご う り
ゆ え に
わ れ
し ん ず
            おまえはこのことばを
知っているだろうな?
486革命的名無しさん:2008/11/13(木) 21:19:19
に ん げ ん
を知らないヘボマル経済かじりが、二人前の顔して説教するでないぞ、ヴォケめが。
487革命的名無しさん:2008/11/13(木) 21:38:05
何か答えてみよ、人でなし野郎!
488革命的名無しさん:2008/11/14(金) 00:15:28
本人も含めて、だれも理解できないケータイ論文。OFW君、田母神と変わらないぞ。
489革命的名無しさん:2008/11/14(金) 13:21:33
コピペ担当の人へ。

OFWさんってヘーゲリアンって仄聞してたけんど、
ヘーゲルはなんも出てこない。
マルクスのいいけんど、ヘーゲル関連もやってほしい。
490革命的名無しさん:2008/11/14(金) 13:31:45
やらんでいいよ。馬鹿バカしい。
491革命的名無しさん:2008/11/14(金) 15:50:05
958 :無党派さん:2008/11/14(金) 07:58:02 ID:N4RX328v
<土井前社民党首>WiLLに勝訴 神戸地裁支部判決
11月13日22時51分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081113-00000151-mai-soci
 月刊誌「WiLL」の記事で名誉を傷つけられたとして土井たか子・
前社民党党首が発行元のワック(東京都千代田区)や花田紀凱編集長らに
慰謝料1000万円と新聞への謝罪広告掲載を求めた訴訟で、神戸地裁尼崎支部
(竹中邦夫裁判長)は13日、同社や花田編集長らに慰謝料200万円を支払うよう
命じる判決を出した。判決によると、同誌は06年5月号の記事中「土井氏は
知る人ぞ知ることではあるが、本名『李高順』、半島出身とされる」「このことが
土井氏の拉致事件を見る目を曇らせたのか」などと記載した。判決は
記事について、「【明らかに虚偽で原告の名誉感情、人格的利益を侵害する」とした。
花田編集長は「判決を読んでから対応を検討したい」と話している。
一時期ネトウヨさんたちがあちこちにコピペ貼ったネタでつが… 「土井=朝鮮人は
明らかに虚偽 」だと判決がでたようで。土井は好きではないですが、こわいですわね
「麻生=朝鮮人・自民は朝鮮政党」「産経社主=朝鮮人・産経は朝鮮新聞」
「奥様=朝鮮人・奥様のご一家は朝鮮一族」「日本が負けたのも、経団連減税で
国家財政と国防が崩壊して土下座外交する羽目になっているのも 空幕長が米国に
ケンカ売ってF22買いにくくなったのも、郵便ポストが赤いのも、
すべては コミン☆テルンの陰謀」とか脳内電波ソースで嫌いな相手は朝鮮人と
レッテルを張ったり、電波陰謀論のデマを流す「信頼性の低いバカソース」がある事が
明らかになりましてよ(w
 
492革命的名無しさん:2008/11/14(金) 18:38:21
印象批評するしか能力のない野次馬が一匹喧しいなぁ。
そんでも注視してくれてるってことで、一応の感謝をば、激藁)

289 名前:OFW :02/05/12 21:02
>>282
>人類が原則として他人よりも自分自身を、とおい人びとよりももっとち
>かい人びとを好むということが、真理でなくなるとき
人間が類的普遍の立場にたつということでしょう。
諸個人が自らの排他的個人性あるいは特殊な関係性(その最大のものは階級と呼ばれる)を
共同的類の上位におく場合、相克(社会の戦争状態)は避けられない。
しかし、私有財産(財の排他的私有)およびその物質的根拠である資本主義的生産関係の下では
利己主義こそが適合的な倫理ですから、社会の変革抜きでいくら利他性を説いても、
ゴマカシにしかならないでしょう。
>>286
>「暴力革命」
を批判する多くの議論は(「テロ反対!」一辺倒の昨今と同様に)暴力の根拠や、
特に<国家と暴力>の必然的関係に関する反省が欠けている。
「社会のうえに立ち、社会にたいして外的なものとなってゆく、武装した人間の特殊な部隊(警察、常備軍)の必要が、
 どうして現われたのかという質問にたいして・・・和解しがたく敵対する階級へ社会が分裂したという、
 主要で基本的なことをぼかすことによって、俗物をみごとにねむらせる。」
ttp://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/kokkaku1.html
そしてまた、“平和な”日常の中にある微分的な暴力に無頓着であり、その根拠を反省することなしに、
形式だけの非暴力を唱えることは、知性をイデオロギーによって眠らせることでしかない。
暴力は社会の中に遍在しており、それは社会の敵対的な本質から不断に現実化したものである以上、
最終的に暴力を無くすためには「支配者を支配せよ」(否定性を否定せよ)という転回が必要となる。
哲学的に言えば、真に暴力を否定し、止揚するのは弁証法的理性の力だということ。
493革命的名無しさん:2008/11/14(金) 18:39:24
ほな、『資本論』いくえ。

292 名前:OFW :02/05/17 05:25
「商品は、まず第一に、一つの外的対象であり、その諸属性によって人間の何らかの種類の欲求を
満たす一つの物である。」(『資本論』第1巻第1編第1章第1節)

すぐに気がつくことだが、上記において通常は商品の一種とされているサービス提供は除外されている。
このことは価値を考える上で重要な点であり、サービス労働の成果が譲渡可能なモノ(*1)ではない以上、
本来サービス提供は商品には成り得ないのである。
たとえば、床屋の労働はお客の頭(髪型)において対象的形態をもつが、無論、客の頭は商品ではない。
また、芸人が歌う唄はお客の精神に感動を呼び起こすが、未だに精神を譲渡した者はいない。
実際、国民経済学(近代経済学)の<財およびサービスの生産>という概念には、本来モノではない労働を
モノとして扱う近代特有の物象化の働きが反映されている。
そして、社会の豊かさを市場価値で計る価値物神の下では、GDP(国内総生産、すなわち一国内で生産された
財およサービスの価値)という指標概念において、家事労働あるいは企業内経費的労働を“アウトーシング”
(商品化)するだけで価値額が増す、という奇妙な事態が現出することにもなる。
(*1)
「物は根拠と現存在という二つの規定が発展して一つのもののうちで定立されているものとして、
統体である。・・・諸規定は物の諸性質であり、それらと物との関係は、持つという関係である。
・・・Haben[持つ]という言葉は、多くの言語において過去をあらわすに用いられているが、
これは当然である。というのは、過去とは揚棄された有であるからである。
・・・物は、諸性質を持つかぎりにおいて現存在するものではあるが、しかし、あれこれの特定の性質に
むすびつけられているのではなく、したがって、それを失っても、その物でなくなるということはない。」
(ヘーゲル『小論理学』第2部本質論Ac125節)
494革命的名無しさん:2008/11/14(金) 18:40:07
295 名前:OFW :02/05/18 07:39
(『資本論』第1巻第1編第1章第1節(承前)ー以下同様)
「鉄、紙などいっさいの有用物は、二重の観点から、質および量の観点から、考察されなければならない。
このような物はどれも、多くの属性からなる一つの全体であり、したがって、さまざまな面で有用でありえる。
これらのさまざまな面と、したがって物のいろいろな使用の仕方とを発見することは、歴史的な行為である。
有用物の量をはかる社会的尺度を見つけだすこともそうである。諸商品尺度の相違は、一部は、
はかられる対象の性質の相違から生じ、一部は、慣習から生じる。」

有用性(モノの効用)はそれ自体相対的な概念であり、その質的な多様性と量的な大きさは主体およびモノの両面に
おいて限界付けられている。つまり、ある人にとって有用であるモノも、他の人にとっては無用であり得るし、また多すぎる
有用物は余剰であり、不足する有用物は欠乏である。
いわゆる<限界効用説>(価値とは限界効用である)は価値の直接性の立場から出られない、非本質的なものである。

「ある物の有用性は、そのものを使用価値にする。」
使用価値はモノ的存在について言われるということ。日本語としては使用価値物とした方が分かりやすいかも知れない。
先にサービス提供は商品ではないと言ったが、モノでない以上、それは使用価値物でもない。たとえば、床屋の労働は
有用労働であるが、それ自体は価値物ではなく、消費的労働であるから価値をもつ生産物を結果することもない。
いわゆる労働力商品(賃労働力)とは、その主体である労働者をモノとして取り扱う場合にのみ、何らかの意味をもつ概念
である。それに対して「賃金は商品代金ではない。それは労働に対する報酬(サラリー)である。」という通念は欺瞞である。
何故なら、すべて市場において取引されるものは商品と呼ばれる以上、労働市場(正しくは労働力市場)において売買
される対象も当然商品と呼ぶべきだから。
495革命的名無しさん:2008/11/14(金) 18:40:54
299 名前:OFW :02/05/19 20:12
>>296(293さん)
>労働力商品の有用性・使用価値とは一体何に?
『資本論』の最初の章は「商品」という表題がついており、商品一般の話ですが、私の注釈あるいは敷衍的解説(解釈)は
先回りをしているために、どうしても舌足らずになる。途中を飛ばして先を読むと、

「すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働
という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間
労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する(16)。」
(同上「第2節商品に表された労働の二重性」)

という叙述が出てきます。
つまり、すべての生産労働は商品価値を形成する<抽象的人間労働>と、使用価値を形成する<具体的有用労働>と
に二重化されるということ。
また、<労働力商品>は「第1巻第4編第4章貨幣の資本への転化 第3節労働力の購買と販売」で登場します。
そこでは以下のように書かれている:

「一商品の消費から価値を引き出すためには、わが貨幣所有者は、流通部面の内部で、すなわち市場において、
一商品・・それの使用価値そのものが価値の源泉であるという固有の性質を持っている一商品を、したがってそれの現実的
消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造である一商品を、発見する幸運にめぐまれなければならないで
あろう。そして、貨幣所得者は、市場でこのような独特な商品を・・労働能力または労働力を、見いだすのである。」

つまり、労働力商品の使用価値とは「それが価値の源泉である」ということです。
496革命的名無しさん:2008/11/14(金) 18:41:39
300 名前:OFW :02/05/19 20:15
>>296(293さん)(つづき)
>床屋の労働と技術者の労働と工員の労働、それぞれの異同

上記引用の直後には、

「だれでも、自分の労働力と異なる商品を売ろうとすれば、もちろん、生産諸手段、たとえば原料、労働用具などを所有して
いなければならない。彼は革がなくては長靴をつくることはできない。彼にはそのほかに生活諸手段も必要である。」

という記述があります。先の床屋の例は、生産諸手段を所有している場合(自営業者、一括してプチ(小)ブルジョアという
中間的階級に属する)として挙げたのであり、美容技術者や工員が生産手段を所有しておらず、美容院経営者や工場主
(資本家)にその労働力を売るしかなければ、賃労働者という階級に属することになる(サラリーマンという意味不明な区分も
同様。以前TVで破綻した某銀行の重役夫人が「主人もサラリーマンです」とか発言していたが。)
497革命的名無しさん:2008/11/14(金) 18:42:27
また
            念仏が                     始まったかいな                 なむあみだ〜
498革命的名無しさん:2008/11/14(金) 18:43:13
301 名前:OFW :02/05/19 20:16
>>297
>スポーツ選手とかはどうなるんだろう?

近年日本のプロ野球でも労働組合(選手会)ができて、オーナーとの間で団体交渉をするようになったが、
芸術・芸能・スポーツ業界も企業化(資本主義化)され、自営(自由業)が少なくなってきた。
球団に所属する(雇用契約)か、フリーで競技会の賞金稼ぎをするか(業務請負契約?)によって、
スポーツ選手の位置づけも異なるでしょうね。

>あと、名のある職人の労働と無名の労働者の労働は、時間や労力が一緒でも値段が違ったりするのはなぜ?

値段(労賃)とは労働力商品の価格(価値の貨幣表現)であり、価値の源泉である労働自体に価値はないのです
(これポイント)。
個別労賃は市場の競争原理にまかされているから、<労働力の質>(熟練、知識、スキル等)によって、
わずかながらでも差異を生むでしょう。
一方、価値とは一定の社会での平均的な熟練度そして強度において、
ある商品の(再)生産に必要な社会的平均的な労働時間、を言います。
結局、労働力商品の価値とは要は労働者の再生産、つまり平均的な生活に必要な生活財の価値に還元されます。
499革命的名無しさん:2008/11/14(金) 18:45:06
309 名前:OFW :02/05/21 20:30
>もちょっと日本語っぽい日本語に
確かに固いが、限られたスペースで厳密に言おうとすると、日常的な言い回し(用語や表現)だけでは、
やはり無理とて、しばしご容赦をば。
例:「現存在」(Existence)という用語は単なる存在という意味ではなく、何らかの基底的な存在から出現した、
という含意あり。

>暗黙のご了解
門外漢なので「マルクス(主義)経済学」業界内部にある「学会の常識」めいたものがあるのか良く知りませんが、
誤解も多いように見える。
(最大の誤解は、『資本論』は資本主義経済の諸現象を合理的に説明した経済学(科学)の体系である、
というものでしょう。)
>>308
>一区切りついたら教えてね。
そうですね。第1節を終えるまで(あと10レス位)。・・・ということで、ヒンシュク覚悟で、少しまとめカキコをしよう。
500革命的名無しさん:2008/11/14(金) 18:50:41
OFW >人類が原則として他人よりも自分自身を、とおい人びとよりももっとちかい人びとを好むということが、真理でなくなるとき・・・絵空ごとの人類を愛するのが君の趣味なのかな?
501革命的名無しさん:2008/11/14(金) 23:07:41
310 名前:OFW :02/05/21 20:32
(第1節、承前)
「使用価値の考察に際しては、一ダースの時計、一エレのリンネル〔亜麻布〕、
 一トンの鉄などのようなその量的規定性がつねに前提されている。」

有用物の量を規定するための単位に関して言えば、可分的な素材製品については、
より物理的な自然単位が使われるが、最終製品については、当然ながら、
使用可能な最低の大きさが単位となるだろう。
価値(Value)において量が本質的な契機であるのは何故か?という設問に対しては、
<物の効用>自体が相対的な存在であるという点を反省する必要がある。
ある物が有用であるか否かは、その質のみならずその現存量に依存し、
必要以上に存在する有用物はその反対つまり無用物に転化する(一般的に言えば、量が質に転化する)。
また、有用性自体に度(内包量)があり、生きる上で必要不可欠な物から、
ぜいたく品にいたるまでの<必要性の強度>をもっている。
かくして、価値の限界効用説に続いて、
有用物の必要量と現存量との比(いわゆる稀少性)をもって価値と呼ぶ<価値の稀少性説>が出てくるのは
見やすい道理である。
しかし、それもまた(否定性に進んではいるが)価値の直接性の立場をこえていない、非本質的なものである。
「直接性の真理はそれが媒介された直接性であることである」(ヘーゲル)。
すなわち現存在の根拠を問うことは、直接的・表面的な現象を去ってその本質に向かうことであり、
哲学的反省が必要とされる地点である。
価値というテーマに即して言えば、
「この有用物はどこから何故にこの世界の中に現れたのか?」
あるいは
「一体君はその有用物をどこから、どのようにして手に入れたのか?」
という始源(歴史)への問いが、価値の本質論の始まりとなる。
502革命的名無しさん:2008/11/14(金) 23:13:24
311 名前:OFW :02/05/21 20:34
「使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的内容をなしている。
 われわれが考察しようとする社会形態においては、
 それは・・同時に交換価値の素材的担い手をなしている。」

ここで初めて使用価値と区別された交換価値が登場するが、
1.富の内容としての使用価値は社会的形態によらないが、
  交換価値は商品交換が一般的な社会においてのみ存在する富の形式であること
2.使用価値は交換価値の媒体(質料)であり、後者は前者の形相である
 (つまり両者は本質的な反照関係にある)ことが明確に述べられている。
  にも拘わらず、一般人のみならず殆どの経済学者や哲学者も両者を混同しており、
  マルクスからそれらの区別を学んだはずの「マルクス主義」学者すらその区別を正しく理解できず、
  弁証法にあてはめた珍解釈を披瀝したりする始末である。
(たとえば、
「使用価値ー交換価値ー価値(自体)の関係は正ー反ー合に対応する。」
「いや、それらは有ー無ー成の関係である。」
等々言われ。)
交換価値とは<他者(非所有者)にとっての使用価値>という形式内容(規定性)をもち、
使用価値の否定(他在)を抽象的に含んでいるのは確かだとしても、本質関係(反照形式)として、
より進んだ<物>(現存在する根拠)というカテゴリ圏(そこでは<持つ>という、
より発展した関係性が支配的である)において、初めて具体的なのである。
503革命的名無しさん:2008/11/14(金) 23:19:01
312 名前:OFW :02/05/21 20:37
「ある特定の商品、たとえば一クォーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などと、
 要するにきわめてさまざまな比率で他の諸商品と交換される。
 だから、小麦はただ一つの交換価値をもっているのではなく、いろいろな交換価値をもっている。」

貨幣経済の下では、小麦が靴墨や絹と直接に交換されることは殆どないから、
上記の言明は一つの仮設的あるいは過渡的な世界に関わっている。
直接的現実(完成された貨幣経済)の被媒介性を論理的かつ歴史的に跡付けることは、
価値の本質論として正しい探求方法である。
展開された価値形態(第3節C参照)は単純な価値形態(物々交換)と同様に、
貨幣形態において止揚された契機として内包されており、
その解明には弁証法的な思考が要求される所以である。
使用価値が相対的であるのと同様に、交換価値も相対的であり、交換の相手に応じて、
その大きさ(値)を伸縮させる。ちょうど、ある長さを計るのに、尺貫法を用いるかメートル法を用いるかで、
その値が変わるように。

「しかし、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などは、たがいに置きかえうる、またはたがいに等しい大きさの、
 諸交換価値でなければならない。
 したがって、第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する、ということになる。」

相手(尺度)が変わろうと、そこに表された大きさは単位が異なるだけで、等しい大きさであり、
<価値自体>は一つであるということ。
無論そのためには、実際にもたがいに置きかえる行為が(歴史的に)存在したことが前提となる。
ちょうど、メートル法が世界的に通用する過程において、
まずメートル原器と呼ばれる1m長の妥当する剛体を設けて、
それを長尺やヤード尺で計測しなくてはならなかったように。
「尺度される対象の吟味は尺度の吟味でもある」(ヘーゲル)。
504革命的名無しさん:2008/11/15(土) 16:15:53
313 名前:OFW :02/05/22 01:55
「しかし、第二に、交換価値は、そもそもただ、それとは区別されるべきある内実の表現様式、
「現象形態」でしかありえない。」

上記の文はいわゆる<労働価値説>(価値の実体は労働である)の導入部分であるが、
<現象>vs<本質>あるいは<実体>の対立は論理的な性格をもち、
ある現存在が現象と見なされるなら、
そこにはそれとは区別される本質的な総体性が顕現しているのだということを指摘することは、
現象主義流行りの学問の現状では、特に重要だろう。実際「交換価値とは何か?」と問われて、
「それは商品交換における交換比率に過ぎない。」と言いながら、
「ではGDPが表示している対象は何か?」という質問に、
「一国で生産された財およびサービスの価値量である。」として、
その<名目>と<実質>の区別を
「貨幣価値(同じことだが、一般的物価水準)の変動を反映するか否かの便宜的なものに過ぎない。」
と答える経済学者は、価値がその貨幣表現(価格)とは異なる実体的な存在であることを
暗黙ながら認めているわけである。
実際、価値の尺度である貨幣自体の価値が変動する(いわゆるインフレーションおよびデフレーション)という
不可思議な現象は、アインシュタインの特殊相対性理論と同様、一般人には理解不能なものであるが、
貨幣物神に陥っている経済学者にも満足に説明できないのである。
505革命的名無しさん:2008/11/15(土) 16:20:31
314 名前:OFW :02/05/22 02:03
「たとえば、1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄 によって表されうる。この等式は何を意味するか?
 同じ大きさのある共通物が、二つの異なった物の中に、
 すなわち一クォーターの小麦の中にもaツェントナーの鉄の中にも、存在するということである。」
「この共通なものは、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他の自然的属性ではありえない。」
「そこで、諸商品体の使用価値を度外視すれば、諸商品体にまだ残っているのは、ただ一つの属性、
 すなわち労働生産物という属性だけである。」

上記の数センテンスは、(ある論者により「マルクスの蒸留法」と批判されたものだが)
労働と価値との関係を実体と属性との関係として捉えたもの、
ただし<商品体がもつ価値>なる物性的・自然的属性としてではなく、
社会的実体としての労働とその成果としての価値として捉えたものである。
商品交換において等置され、自己同一なものとして諸個人間の諸関係を結ぶもの、
それは社会の紐帯としての諸個人の協働的な生産であり、
その結果としての価値は協働的社会の姿を経済的に反映するものである。にも拘わらず、
世の人および経済学者はむしろ結果としての価値を商品体に備わった自然的(物象的)属性とみなして、
その本質的現存在として貨幣を置くから、貨幣こそが社会の自然的(永遠的)紐帯と考える。
それは仮象を本体ととり違えることである。もっとも、それは必然的な取り違えではあるが。
506革命的名無しさん:2008/11/15(土) 16:23:57
322 名前:OFW :02/05/23 06:08
(第1節、承前)
「労働生産物の有用的性格と共に、労働生産物に表れている労働の有用的性格も消えうせ、
 したがってまた、これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、
 たがいに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。」

<抽象的人間労働>という概念は<人類>という概念と同様に抽象物であるが、
諸個人が諸個人として互いに関係を取り結び、一つの社会を形成している場合には、
現実的な妥当性をもつ概念である。たとえ、その関係が私的な商品交換(モノとモノとの関係)であり、
その社会が非社会的な社会(市場)だとしても、
確かに皆が抽象的個人として人類の一員(抽象化された市民(市場の民))なのである。

「そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、
 幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、
 すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、
 単なる凝固体以外の何物でもない。」

ここでのポイントは「凝固体」という言葉である。
自然的には労働力の支出は労働生産物の構造(物理学的にはエントロピー変化)として結果している。
しかし、社会的な凝固とは、その自然的な支出が価値として現象している点にある。
このことは貨幣の登場と共に現実的なものとなる。先の床屋の有用労働の例で言えば、
それが商品として通用するのはひとえに客が貨幣の一定量を対価として引き渡すからであり、
もし貨幣がなければ、床屋の労働は価値として結晶するべき対象をもたず、したがって商品になり得ないだろう。
507革命的名無しさん:2008/11/15(土) 18:14:47
あのォー、ヘーゲルのコピペってまだですかね?
つか、待ってればOFWサンのヘーゲルをどなたかが
カキコしてくれますよね?
508革命的名無しさん:2008/11/15(土) 18:18:21
おまえは脳内オナニー患者の生徒か?
509革命的名無しさん:2008/11/15(土) 18:31:29
>>507
コピペなんぞ待たんでも、過去ログで見つけんかい。
人様を当てにしたらあかん。
自分でできることは自分でせんとな。
510革命的名無しさん:2008/11/15(土) 18:49:15
態度のでかさは中央委員会並みだの。おまえは何サマじゃ?
511革命的名無しさん:2008/11/15(土) 20:33:24
自己満足、自己陶酔、脳の萎縮した加齢臭が焼酎ひっかけながら貧乏揺すりしている光景か浮かんできますなぁ
512革命的名無しさん:2008/11/16(日) 00:49:21
ほら、君の土台、ぬかるみに薄っぺらい板浮かべているきみの土台(^^ゞ(ゞ(ゞ 、、、
513革命的名無しさん:2008/11/16(日) 13:51:20
あのさぁ、やっと『資本論』が始まったんだから、
一挙にコピペしてよ。
当てこすりしか出来ない頓馬なんかスルーで願いますです。
そいと、ヘーゲル待ちの坊やも当分は無視な。
514革命的名無しさん:2008/11/16(日) 13:55:25
気取っちゃってさぁ!何サマ気取り?
515革命的名無しさん:2008/11/16(日) 14:01:48
323 名前:OFW :02/05/23 06:09
「これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、
 人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、
 これらの物は、価値・商品価値である。」

上記は労働価値説の内容そのものであるが、ポイントは「社会的実体の結晶」という表現にある。
価値は決して自然的実体ではなく、人間が自然の中から社会を形成し、
自立するための営為である労働こそが社会的実体であり、価値はその結晶としての対象化であるということ。

「したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、
 そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。」

殆どすべての人は「ある財が価値をもつ」という表現を「ある財には価値が内在している」と同義と考えるだろうが、
その途端に倒錯に陥ることになる。
何故なら、確かにその生産のために抽象的人間労働が支出されたが故に「ある財は価値をもつ」わけだが、
それは自然的な属性のように財に内在しているわけではないから。
近代経済学が「価値はある主観的なもの」と主張するのはその限り正しいが、
それは決して単に主観的なものでなく、
ある客観的な存在(社会的な必要労働)の対象化であることを見逃している。
516革命的名無しさん:2008/11/16(日) 14:04:21
324 名前:OFW :02/05/23 06:11
「では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、
 すなわち労働の、量によってである。」

上記の文は一種の“躓きの石”を含んでおり、「マルクス経済学」者の中にも誤解する者が多いようである。
量とは実在的な概念であり、存在するものについて使われるため、
「価値の大きさをはかるためには、それに含まれている労働の量によれば良い」と聞けば、
その財の生産に実際に支出され確定した<過去の労働量>(いわゆる投下労働量)のことを考えるのは
自然ではある。
もともと<実体>概念自体が過去性を帯びたもの(*2)であり、
「実体の真理は主体である」(ヘーゲル)という洞察を踏まえて、
それが一定の限度内でのみ妥当性をもつ概念であることを弁えなければ、
「価値を形成する実体」という言葉を自然的実体のように捉えるのは止むを得ないとも言えるが、
そうなるとまたしても社会の物象化(価値の実体化)の罠にはまってしまう。

(*2)「実体とは偶有(直接的現実)の全体であり、自己を媒介する必然的な相関である。」
(ヘーゲルちょとパラフレーズ)。
517革命的名無しさん:2008/11/16(日) 14:08:56
325 名前:OFW :02/05/23 06:13
「しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。
 商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、
 ここでは同一の人間労働力として通用する。
 これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、
 そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、
 または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。
 社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、
 労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。」

直前の引用文の「諸価値の実体をなす労働」と異なり、
「諸価値に現される社会の総労働力」
「一商品の生産に・・・社会的に必要な・・・労働時間」
と述べられている。つまり、
直前の引用では「それに含まれている労働の量」として過去に支出された労働力を指しているように書かれ、
上記では
「何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間」
として未来の労働力の支出を指している。つまり<財の価値>をはかるとは、
その財の<再生産>のために支出すべき労働力をもって「実体をなす労働」をはかることだということがわかる。
実体は必然的なものであり、その自己同一性を因果関係において示すが、
それはあくまで過去が現在を決定するという相関である。それに対して、
人間の生きた労働は現在の必要(必然)を未来の満足(自由)に転化させるための活動であるから、
価値のあるものを価値のないものに変える行為と言えるだろう。
518革命的名無しさん:2008/11/16(日) 14:09:46
519革命的名無しさん:2008/11/16(日) 14:10:22
1980年代、共産党はネオマルクス主義者の学者党員を規律違反で弾圧した。田口富久冶名古屋大学名誉教授や加藤哲郎一橋大学教授などである。党の見解と異なる論文を公表したということで規律違反に問われた。
520革命的名無しさん:2008/11/16(日) 14:15:26
326 名前:OFW :02/05/23 06:16
「たとえば、イギリスで蒸気織機が導入されてからは、一定の量の糸を織物に転化するためには、
 おそらく以前の半分の労働でたりたであろう。」

過去に多額の支出をして糸を購入し、在庫として抱えていた糸商人は大損となるが、
それは、その(社会的な)価値が下がったためである。価値物神に捕われ、
糸の中には自らが支払った黄金と同等(以上)の価値が内在していると信じて疑わない商人は、
ヘーゲルの言う知恵の最下級学校、つまり<ケレスとバッカスのエレシウスの密儀>
(『精神現象学』A一感覚的確信、このものと思いこみ)に送り返されるべきだろう。

「労働の生産力は、いろいろな事情によって規定され、とりわけ、労働者の熟練の平均度、科学と
 その工学的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模とその作用能力によって、
 さらには自然諸関係によって、規定される。」

<生産力>という概念は唯物論的な歴史観のキー概念の一つであるが、
上記の言明自体は誰でも経験的に理解できるものだろう。

「ダイヤモンドは地表にはめったにみられないので、その発見には平均的に多くの労働時間が費やされる。
 そのため、ダイヤモンドはわずかな体積で多くの労働を表すことになる。」

「ある物は、価値であることなしに、使用価値でありえる。
 人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合がそれである。
 たとえば、空気、処女地、自然の草原、原生林などがそうである。」

「自分の生産物によって自分自身の欲求を満たす人は、たしかに使用価値を作りだすが、
 商品を作りだしはしない。」
・・・ということで、取り合えず第1節が終わった。(長文失礼)
521革命的名無しさん:2008/11/16(日) 14:18:12
327 名前:OFW :02/05/23 06:25
>>326
 誤: 糸を購入し  糸商人  糸の中には
 正: 織物を購入し 織物商人 織物の中には
522513:2008/11/16(日) 14:20:49
Thanks a lot.であります。
読んでますです。
523革命的名無しさん:2008/11/16(日) 14:54:25
自作自演
統合失調逝くない!
524革命的名無しさん:2008/11/16(日) 18:48:21
350 名前:OFW :02/05/25 05:30
>>346
>「社会的平均的な労働時間」というものをどうやって計測するの
現代日本の場合、厚生労働省の下記ページに計測結果が掲載されている。
ttp://www.mhlw.go.jp/toukei/data/index.html
(確かに<(サービス)残業時間>がブラックボックスになっている!)
>「社会的平均的な労働時間」が「労賃」を決定する。
それは誤り。(前レスを良く読んで欲しいな)
労賃=労働力商品の価格であり、価値と価格そして労働と労働力とは別のもの。
そして、価値の実体(正体)は労働である、ということです。

1.価値vs価格
貨幣の存在を自明の前提とする近代経済学(一般均衡論等)では、
<価値>という概念は消去されて<価格>しか登場しないために両者を区別できないが、
>>313で触れたように貨幣価値自体が変動することで、
名目上の価格と区別される実質的な価値が対象として浮かび上がってくる。
また(在庫評価や固定資産の減価償却といった)資産価値の評価の場面で、
市場価格とは異なる実在的な存在を指した「価値」という言葉は日常的におなじみのものですね。
経済学の祖と称されるアダム・スミスは、貨幣ではなく労働こそが時代を通して価値の正しい尺度である、
と言ったわけですが、『資本論』のテーマは
「価値とは、そして価値を生む価値である資本とは何か?」
ということです。

2.労働vs労働力
労働力とは労働という対象的活動を行う人間の能力(潜在的な力)であり、
労働はその発現として現実の活動を指します。
たとえば「安い労働力を買う」とは言うが、「安い労働を買う」とは言わない。
労働力を買った後にそれを使用すること(賃労働させること)が(産業)
資本家(あるいはその代理人たる経営者)の任務です。
525革命的名無しさん:2008/11/16(日) 18:51:38
362 名前:OFW :02/05/26 19:55
>>352(346さん)
>同じ時間でも、労賃がちがう。これはどういう訳なんでしょうか?
繰り返しますが、(時給を含め)労賃とは労働力商品の価格(要は生活費)であり、
労働力の使用によって生産される商品の価値(これは労働時間によって規定される)とは別のものです。
また、(労働力商品を含め)商品の価格は市場の競争により規定されるが、
資本の利潤原理のために常にその価値から外れるもの。

>あと、ある車が100万円だったとしますよね?
>ある服が一万円だっととしたら、車は服のちょうど100倍の労働時間を費やしたということでいいんですか?
違います。車産業は独占・寡占が進んでおり、価値通りの値段からは大分高いと言える。
20世紀文明(大衆消費社会)はフォードの“安い”大衆車から始まったが、
そこで働く労働者が自らの作ったフォード車を買うためには、過酷な労働に耐えざるを得なかった。
実際、下記の自動車生産に関する労働生産性(労働者一人あたりの生産台数)をみれば、
たとえばトヨタで年間67台(1996年度)であり、実際の販売価格がいかに“高い”ものであるかが分かるでしょう。
ttp://www.isc.meiji.ac.jp/~sanosemi/seminar/1995Tada/outsourcing2.html

>べつの要素が価格決定には作用しているのではないでしょうか?
市場における競争およびその結果としての独占という要素です。
利潤最大化あるいは市場占有率を巡って、資本間の弱肉強食の争いが日夜繰り広げられている。
その結果、個々の商品の価格は価値(その商品の社会的必要)から外れ、
自由競争市場であればいわゆる生産価格(費用価格)プラス平均利潤というゆがんだものになる、
ということがマルクスの主張です。
526革命的名無しさん:2008/11/16(日) 18:55:16
363 名前:OFW :02/05/26 19:56
>>353
>価格は売り手が勝手に決めてんだから。
そんなことはあり得ない。
完全独占価格といえども買い手が支払い可能な上限をもち、寡占状態下の激しい価格競争も現実の姿。
すぐ上に書いてあるように、価値と価格の区別ができないのは致命的エラー。

>ビル・ゲイツやヒッキーの労賃がそれだ。
彼あるいは彼女の収入は労賃ではなく、
それぞれ資本家利得(および経営者利得)あるいは自営業としての利潤であり、
階級的に異なるもの(>>301参照)。

>限界効用価値説
>>295>>310で少し触れたが、その非本質性は現象を本質と取り違え、使用価値を交換価値と混同し、
価格を価値と混同することに表れている。
貨幣を前提にした議論は貨幣自体が何故発生したのかを説明できないため、貨幣物神を免れない。
実際、質的にも多様で主体によっても異なる物の効用に関して<社会的効用の総量>を言うことは、
貨幣を前提にしなければ不可能(単位すら決められない)であり、
単なる欲求を支払い可能な欲求と混同することである。
大体、上の「価格は売り手が決める」というのと矛盾するが・・・。

>オークションでつく値段
市場価格は価値を説明し得ず、逆に価値から市場価格を説明するのが科学的な説明であり、
オークション(競り)は多くの買い手(貨幣)と多くの売り手(商品)の下での、
個別商品の市場価格を決めるための極めて弁証法的な過程だが、
その結果定まる価格と商品固有の価値との関係は(単なる慣習として)むしろ隠蔽されてしまう。
527革命的名無しさん:2008/11/16(日) 18:57:55
あんたが賃金決める独裁者かいな?
528革命的名無しさん:2008/11/16(日) 18:58:35
364 名前:OFW :02/05/26 19:58
>>354(346さん)
>いっぱい資金や労働力を費やしても、その商品に需要がなかったばあいは、
>やっぱり利益も労賃も0ですよね?
当然そうです。
マルクス言うところの「命がけの飛躍」に失敗したわけ。
商品に含まれる価値は貨幣形態をとらない限り(つまり売れない限り)、
社会的な価値としての自己の本質を実現できない、ということです。

>>355
>商品経済の形態に規定された、商品のいわゆる交換力を「価値」とするならば
>>311以降に書いてあるように、使用価値、交換価値、価値自体は相互に異なるもので、区別が必要です。
交換力とは交換価値としての商品に固有のものであり、もともと一商品であった貨幣に集約された、
というのがマルクスの価値形態論の主張です。
現在の商品には“貨幣との”交換力はあっても、“他の商品との”交換力は非常に弱い(偶然的)でしょう。
(確かに「すべての商品は貨幣である」(ケインズ)という主張は成り立ちますが。)

>こういう「価値」の三段構えはだめですか?
「限りの実体」というのはシェーリング的な用語ですね。
マルクスの解釈としてなのか、価値の解釈としての話なのか不明ですが、
たとえば「ニュートン力学の解釈」とは言わず「ニュートン力学の理解」と言うように、
『資本論』に書いてある内容をまず理解することをお勧めします。
529革命的名無しさん:2008/11/16(日) 19:03:38
474 名前:OFW :02/06/06 01:11
>>365(346さん)
レスが遅れましたが・・・(仕事が忙しいのでスマソ)。
>マルクスの資本論は経済学の書と言うより、哲学書だということでしょうか?
そうですね。『資本論』の副題は「経済学批判」となっており、
当時の国民経済学とそれが対象にしている資本主義経済の批判的解明です。
経済学という科学は、対象である資本主義経済を合理的なものとして説明する使命があるが、
対象自体が非合理的である場合は科学の限界だと。

>近経は『価格』を分析する学問だが、資本論は『価値』を分析した書であるということですね?
価格と価値との対比という面で言えばそうですが、要点は価格とは貨幣なしでは意味を持たない存在だが、
貨幣ー価格とは価値形態の一種だという点です。
この辺については、もう少し分かりやすく説明したほうが良いのでしょうね。
>「労働時間=商品価値」だが、「労働時間=商品価格」ではないということですね?
「実体」という言葉(概念)は本来難しい論理的な内容を含んでいますから、
本当は詳しい説明が必要なのですが、価値、貨幣、資本というものの正体が実は労働にあるのだ、
ということです。資本主義の秘密(その強さと弱さを含め)を解くためには、
価値を解明することが必須の課題だということです。
530革命的名無しさん:2008/11/16(日) 20:12:15
【海外】金融危機余波…欧州でマルクスの古典「資本論」がブーム [08/11/16]
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1226800745/
531革命的名無しさん:2008/11/17(月) 12:41:54
492 名前:OFW :02/06/07 06:28
>>484
>経済学は対象が非合理であるがゆえに、まだ科学に達していない
ここでの「批判」という言葉は倫理的ではなく、科学としての成立要件に対する限界設定という、
認識論的な意味合いが含まれています。経済学に限らず社会科学の研究対象は生きた主体ですから、
自然科学のような客観性を得ることは一定の条件内でしかできない。
「まだ科学に達していない」より「既に科学を超えている」と言う方が適切でしょう。

>ここを、もっとくわしくお願いします。
価値概念を持たない近代経済学が<価格の分析>を行な(っているように見)えるのは、
貨幣を<価値自体>として自明な前提にしているから。
小学校でも「需要と供給の均衡」という(ミクロ)経済学の“大”法則は習うでしょうが、
そこでの説明(いわゆる需要曲線と供給曲線の交点が価格と需給量を同時に決定する)とは奇妙なものです。
1.価格とは正確には<単価>(=商品単位当たりの○○)ですが、
(商品量×単価)つまり販売額が何を表わしているのか(○○とは何なのか)の説明がない。
それは単なる貨幣量(例:金xxg、紙幣xx円、電子マネーxx単位等)であり、
貨幣とは「何でも買える便利なもの」という位ですね。
それは何ら科学的な説明ではない。
2.需要といっても、貨幣を所持して市場に登場する必要があるが、それはどこから手に入れたのか?
「市場から」と言うなら、それは循環論法ですね。
また、異なる商品種に対する最大の効用量(満足度)とは何なのか?(欲求が貨幣に換算(変容)されている。)
3.供給といっても、利潤最大を目指すための販売であり、
利潤=売上−仕入(あるいは売上原価)である以上、
既に決まった仕入額(あるいは売上原価)から利潤が如何に発生するのか(結果論ではない)説明が必要ですが、
通常は「付加価値」といった偽の概念でごまかす位ですね。 等々。

>「価格」も労働時間に規定されるということですか?
当然そうです。市場価格はそこからの変動(偏差)しか表現しない。
532革命的名無しさん:2008/11/17(月) 12:46:06
494 名前:OFW :02/06/08 09:28
>>493
>労賃と利潤はどうちがうのですか?
スレのテーマであるマルクス自身の“しっかりとした”説明(1847年の労働者向けの講演会で述べた内容)が
『賃労働と資本』として公表されています。(下記サイトに電子化されているので、簡単に読める。)
ttp://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/chin0.html
少し引用すると、
「賃金とは、労働力の価格・・ふつう労働の価格とよばれている・・にたいする、
 人間の血肉以外にはやどるべき場所のないこの独特の商品の価格にたいする特別の名まえにすぎないのである。」
「資本は、新しい原料、新しい労働用具、新しい生活資料を生産するためにつかわれる、
 あらゆる種類の原料と労働用具と生活資料からなりたっている。
 資本のこれらの構成部分はみな、労働の創造物であり、労働の生産物であり、蓄積された労働である。
 新しい生産のための手段として役だつ蓄積された労働が、資本である。」
「直接の生きた労働を蓄積された、過去の、対象化された労働が支配することが、はじめて、
 蓄積された労働を資本とするのである。」

>階級差を規定する定義は?
一般的には<生産手段に対する所有関係>が階級を規定します。
<生産手段>とは、土地、海洋、原材料等の労働対象と、施設設備、道具、機械等の労働手段とに大別され、
衣食住のための<生活手段>と対比されます。
生産手段と労働力の結合が生産活動であり、その最終生産物が生活手段(資料)ですね。
資本家階級は、生産手段を私有し、他人の労働力を使用する。
労働者階級は、他人の生産手段に結合されて、自らの労働力を使用する。
自営業者(小ブルジョア階級の一部)は生産手段を私有し、かつ自ら労働する、という中間的な位置にある。
533革命的名無しさん:2008/11/17(月) 12:48:38
495 名前:OFW :02/06/08 09:30
>>493(つづき)
>ゲイツやヒッキーの労賃も、<平均>すれば、けっきょくは適正価格になるのですか?
経営者(トップマネジメント)とは資本家階級の一部(代理人)であり、
その収入は利潤の一部から充当されるものです(彼らは従業員ではなくその収入は労賃ではないから、
価格はなく、適正な値もない)。
他人に雇われないクリエータ(自由業)も自営業ですね(その収入は自己に支払う労賃プラス利潤と言える。)

>ヒッキー(クリエーター)の労働時間を、どうやって計測するか
社会的平均から大きく外れた人(あるいは事象)は、確かに世の注目を浴び、羨望の的にもなるが、
科学者は例外事象として統計から外すでしょうね。(幻想を売る場合は、また違うが。)

>それとも、クリエーターの作業は、労働とは言えないのですか?
もちろん労働ですが、上にも述べたように、生産労働ではなくサービス労働(消費的労働)です。
クリエータ(創造者、たとえば歌手)は芸術的・精神的な価値をもつ作品を産み出すが、
それは経済的な価値をもつもの(商品)としてはCDやCMコピーとして市場に出てくる。
それらはレコード会社や広告代理店という資本主義的企業の所有に属し、
歌声や笑い顔はCD生産の原材料として製造原価に算入すべき(工業簿記)か、
著作権料として販売管理費(経費)に算入すべき(商業簿記)か、経理課でも迷うかな(笑)。
534革命的名無しさん:2008/11/17(月) 18:27:01
えーと、近日中にヘーゲル関連のOFW氏コピペ開始で〜ちゅ。
そいと、やっぱ、ビールとセクースは生が最高っす。
535革命的名無しさん:2008/11/17(月) 19:42:02
バカかおまえは!
536革命的名無しさん:2008/11/18(火) 11:28:10
>>535
はい、バカでちゅ。
もっとも、バカさ加減では535には負けるけどね(激藁。
537革命的名無しさん:2008/11/18(火) 15:02:03
いや、あなたには及びませんよ
538革命的名無しさん:2008/11/18(火) 19:43:28
505 名前:OFW :02/06/09 08:09
>>496
>なるほど、クリエーターの労働はあくまでも例外事象であって、マルクス経済学が注目するのはCD製造とか、
>製本などの工業的作業過程の労働だということですね?
全く違うな。上で言ったのは、
1.資本主義経済の下での基本的な階級区分は、資本家階級/労働者階級/中産階級(小ブルジョア階級)に
大別され、クリエータ(正確に何を指すのか不明だが)が資本家に雇われなければ、
自営業として第3の階級に属する。しかし、その商品は企業化されざるを得ないため、
結局第1の階級に従属する「中間的で動揺した部分」(マルクス)だ、ということであり、
中産階級(の労働)は例外事象ではない(確かに、ウォルフレンが言うように、日本の中産階級は弱過ぎで、
“先進”諸国の中でも例外的かな(笑))。

2.例外事象とは、ゲイツやヒッキーという飛び抜けた個人の例を指しているのであり、
「社会的に必要な平均的労働時間」の計測にとっては例外的なものだということ。

3.ゲイツやヒッキーの「労働」は決して賃労働(労働力商品の販売)ではなく、
その収入は賃金ではないということ。労働(Work,仕事)一般と賃労働(Labor,労働力商品)とを混同するのは、
マルクスの時代からあった意図的なゴマカシでもある。

4.「マルクス経済学」の話はどこにもなく、資本主義企業での経理(近代会計学)の話。
また、>>474で書いたように、日本の「マルクス経済学」なるものはマルクスの思想を誤解していると。

>それだけのリスクをつねに背負っているのに、資本主義社会では資本家が労働者を搾取していると
>主張されるのはどういうことでしょうか?
「ハイリスク・ハイリターン」(マルクス謂う所の「命がけの飛躍」の現代的表現)と
搾取(剰余価値の形成とその帰属)とは直接関係がない。
搾取とは剰余価値(形成された価値の必要労働分以上の余剰)に関して、
それが等価交換原則から外れている(不払い労働)事情の俗称です。
539革命的名無しさん:2008/11/18(火) 19:46:23
506 名前:OFW :02/06/09 08:12
>>496(つづき)
>リスクを背負う以上、それ相応の分け前をもらうのは当然ではないでしょうか?
初期の「冒険資本主義」の時代から、リスクは常に一攫千金の夢と共にあるものだが、
賃労働者には夢は無い反面、失業、過労死、労働災害、精神破壊の高いリスクがあることを忘れずに。
また「分け前の正当性」という、昔の労働組合までが使った余り適切とは言えない議論が重要なのではなく、
>>494で引用したマルクス自身が説いているように、
「労働者が自らの生産した生産物(資本)によって支配される」という<物象化、疎外>が
本質的な問題なのだということ。
資本家とは資本というモノ、カネに憑かれた非ー人間(これは道徳的意味ではなく、論理的意味として)に
過ぎないので、確かに資本家自身が資本の限度のないリスクの犠牲者だとも言える。
(「あなた人間止めますか、それとも資本家止めますか」ちゃて。)

>共産主義社会が成立して、資本家も労働者も収入が同じになる
共産主義は階級(資本家と労働者の区別)自体の廃絶を目指す運動です。
「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という労働・分配原則は、
“分け前”といったブルジョア的な原則とはレベルが異なるもの。
540革命的名無しさん:2008/11/18(火) 19:50:59
529 名前:OFW :02/06/12 06:13
>>507
>自由な立場で商品選択させて、そこには強制はないから。
「自由とは何か?」とは古来から哲学上の大問題だが、
「形式的な自由を恣意と呼ぶ。その内容は他から与えられており、自己が産み出したものではないため、
 それは真の自由ではない。」(ヘーゲル、パラフレーズ付き)くらいは心得ておこう。
選択の自由とはまさに与えられた枠内で選ぶ恣意に過ぎない。
>旧共産圏
「旧国家資本主義圏」の誤り。前スレその他で繰り返し言っているが。
>>508
>ブルジョア的な自由
とは、利己的な個人の恣意そして貨幣価値の増殖の自由でしかない。
>理性の設計による権力の大きな惨劇
<理性の設計>などどこにあったのかな?
たとえば、いわゆる計画経済は実は恣意的な強制経済だったわけで、
“理性的”官僚のトップダウン方式は民主的な要素に欠けるために実は無計画なのは、日本でも同じ。
>>509
>「マルクスその可能性の中心」を読んだこと
だいぶ前に読んだので詳細まで憶えてないが、後に著者自身が語っている通り、
「どこにも<中心>が書かれていない。こりゃ看板に偽りありだ。」と当時感じた記憶がありますね。
特に「賃金が前払いだという点がポイントだ」とか・・・。
>>510
>20世紀にあれほど多くの人命を奪ったマルクス主義
相変わらずのステレオタイプな意見だが、
どれほどの人命が<マルクス主義>(何を指しているのか不明だが)によって奪われたと言うのかな?
「国家社会主義」ナチス政権下のホロコーストの話?「一国社会主義」スターリン政権下の収容所列島の話?
「毛沢東主義」ポルポト政権下のKilling Fieldの話?・・・人命を奪うのは常に国家権力(テロ)では?
541革命的名無しさん:2008/11/18(火) 19:56:27
530 名前:OFW :02/06/12 06:15
>>512(いっしょさん)
>肉体だけでなく、才能も持っているからかな?
労働一般は人類が誕生して以来、営々と行ってきた活動(知的・非知的を問わず)を指し、
賃労働とは近代資本主義の根拠としての特殊な労働形態を指します。
生産手段の所有・非所有(生産関係)がポイント。
>どっちが悲惨なんですか?
むろん中小企業(殆ど自営業)の社長は大資本との競争において悲惨だからこそ、
過酷な競争の根源自体を廃棄すべきだということ。
>賃労働者なんて、過労死するぐらいなら、さっさと仕事やめればいい
世のサラリーマンが聞いたら、「そだよな。だけど、どこも似たり寄ったりで出口なしの社会だし、
仕事は大切だから・・・」とか言いそう。
>大量の資金を借り入れた資本家なんかより、はるかに自由人です。
資本家=資金を持つ人では?『資本論』はまさに自由の逆説(弁証法)を説く。
「近代労働者は二重の意味で自由である。伝統的な共同体の束縛から自由であり、
 自己の裸の(注:別に肉体という意味ではない)労働力以外に何も持たない(所有からの自由)という意味で。」
>資本家であり賃労働者でもあるんです。
階級とは本質的な、つまり個々の実在とは異なる関係概念だということを理解すれば、
現象が直ちに本質ではない以上、<資本をもつ賃労働者>が個別に存在することに不思議はない。
要はそれが統計的に社会の基幹(本質)をなす部分かどうか(偶有的か実体的か)ということ。
>階級廃絶の具体的なビジョンがまったく見えないのですが?
何故階級廃絶が必要(必然、不可避)なのか?という根拠が分からなければ、
そこへのビジョンも見えてこないでしょう。<社会の解放>とは実践的な課題であり、
課題化する主体にとってしか存在しない対象です。
>○○がほしいから、これだけ給料をくれと請求するんですか?
給料(サラリーではなく賃金)という形態ではなく、直接的な物量としての取得という形態でしょう。
無論そのためには高い生産力が前提となる(既にデフレギャップ(供給過剰)の時代に入っているが)。
542革命的名無しさん:2008/11/18(火) 20:01:20
555 名前:OFW :02/06/15 12:39
>>522(ふにゃぽんさん)
>真の「プロ独」はどのように行われるべきか?
<プロレタリア独裁>とは具体的にどのような形態(状態)を指しているのかについては、
形式的には民主主義でも実質的には<ブルジョア独裁>の現状を分析すれば、
大よそのイメージが得られるでしょう。そこでは、政治と経済、社会が形式的に分離しており、
「民主主義は工場の前で立ち止まる。」といった状態です。
「何故社長を従業員の選挙で選ばないのか?」と問えば、
「私企業は資本家の所有物であり、政治機関ではない」という政経分離が説かれ、
<私企業内の政治>は独裁的なままですね。
たとえば「社長公選制を実現しよう!」とは(共産党ですら掲げない程の)ネタですが、
“暴力革命”よりはるかに民主主義的・平和的なスローガンであり、真のプロ独への一歩でしょう。

>それはどのように運営されるべきか?
マルクスは『ヘーゲル国法論批判』で、代議制民主主義と官僚制とは不可分の関係にあることを、
鮮やかに分析している。そしてパリコミューンの経験から、
国家(幻想の共同体)と官僚制(統治技術の体系)を廃棄するためには
<交替制による全住民の行政事務への参加>を通して、皆が複雑な支配技術など不必要であることを習得し、
国家統治(他者の支配)を社会的自治に回収する可能性を説いている。
それは(日本共産党を含む)社会民主主義政党内部の官僚制にも言えること。
レーニンも(現実には官僚制に敗れたが)以下のように述べている。
「そして、結合された労働者は、自分で技術者、監督、簿記係を雇いいれ、彼らすべての労働にたいし、
 一般にすべての「国家」官吏の労働に支払うのと同じように、労働者なみの賃金を支払って、
 この機構を運転することが十分にできる。」(レーニン『国家と革命』)
543革命的名無しさん:2008/11/18(火) 20:05:57
556 名前:OFW :02/06/15 12:40
>>522(ふにゃぽんさん)(つづき)
>生産や支配行為、特に熟練が必要とされると思われるものについては、
>(革命前に)どこでどのように習得されるべきか?
たとえばNHK番組『プロジェクトX』に登場する、
生産に関しての“熟練”労働者達はいわゆる政治には無関心でしょうが、
実際の労働現場では生産(モノ)の管理と人の管理(支配行為)は一体になっている
(つまり無意識に政治に参加している)。要はその“未熟練”な政治性を自覚すれば良いだけであり、
政党の役割は単なる票集めではなく、日常の政治的教育・啓蒙にある所以です。

>>526(電波狸さん)
同上です。
高度情報化社会はますます<支配の不可能性>を増大させ、
コミュニケーションと社会連帯を必然化させている。

>>545(吉本隆明さん)
>労働価値説は実は暗黙に「作れば必ず売れる」というセーの法則を前提にしている。
面白い新解釈ですね。その論拠(ソース)を示して欲しいな。
因みに、マルクスはセーを俗流経済学者として批判しているが、自分を誤解していた、ということかな?
544革命的名無しさん:2008/11/18(火) 20:39:32
つぎはぎだらけの、狆が着るチャンチャンコみたいに滑稽な思想展開ですね
545革命的名無しさん:2008/11/19(水) 11:12:20
565 名前:OFW :02/06/15 17:21
>>559(吉本隆明さん)
(横レスながら)更に新解釈ですね。
>セーの法則も・・価値実体なるものが既に実在しているかのように語る
とは、未だかって経済学者の誰も見出したことのない新説ですが、
どこで語っているのかな?因みにセーの法則の一般的な理解とは
「貨幣はたんに交換の媒介手段であるから、販売はその反面において
 購買である。
 したがって社会全体としては、生産物の総供給は恒常的に総需要に等しい。
 したがって部分的過剰生産はあっても一般的な過剰生産はあり得ない。
 供給はそれ自らの需要を生み出す。つまり、これがセーの法則である。」
ttp://www.yk.rim.or.jp/~mitsunob/CyberTerm/t160.htm
というものであり、ケインズ以前の近代経済学(一般均衡論)の大前提です。
それに対して「有効需要の不足」を指摘してそれを批判し、
<財・貨幣の流動性>という概念を導入して価値を
<流動的ー固体的なあるもの>として説くケインズの方がよほど
「価値実体が実在しているかのように」語っていると思われるが、如何?

>商品交換に合理的基礎などないというのがマルクスの主張である
それは真理の半分。>>9,>>474,>>492等で述べているが、
非合理な対象が現実的なものとして存在する場合、
それは単なる偶然ではない。
それを単に非合理なもの・主観的なものとするのでもなく、
また合理的なものとして科学的に基礎付けるのでもなく、
その必然性を明らかにすること。そのためには、
弁証法的理性(哲学)が必要だということです。
「誤謬は真理の必然的な契機である。それはそのようなものとしては、
もはや誤謬ではない。」(ヘーゲ
ル)
「畢竟、すべての学は歴史の学である。」(マルクス)
546革命的名無しさん:2008/11/19(水) 11:17:06
575 名前:OFW :02/06/15 23:56
>>567(吉本隆明さん)
>慧眼なマルクスは恐慌において信用が崩壊することを指摘しているし、
>価値実体なるものが文字通りの仮象であったことが、
>恐慌においてまさに証明される。
それは正しいが、<実体>vs<仮象>の論理的な区別が必要。
たとえば「幽霊の正体見たり、枯尾花」とは、今まで幽霊が実在していると思っていたが、
よく調べてみたら、その実体は枯尾花だった、ということであり、幽霊は実在しないが、
単なる無ではなく、枯尾花は客観的に実在する。
それが仮象(見え、現われ、主観性)の概念です。
「直接的な実在は仮象である」というのは(主観的)観念論の正しい主張ですが、
 それは単なる無ではなく、対象的本質の現われだという認識からすべての客観科学が始まる。
「現象とは仮象の全体であり、他者において自己を現す相関的な存在である。」
そして
「現実の現実性は実体性の相関(因果性)として、
 直接的な現実の消滅(例:恐慌)において、自己を媒介する必然的な運動として
 自己の絶対性を現す。」(ヘーゲル、パラフレーズ付き)。
それが実体の概念です。
つまり、<価値>とは仮象(見かけ、主観的存在)であり、矛盾した存在だが、
それはその本体(正体)である労働が物象化によって隠されたものだ、ということ。
過去の労働の成果(モノ)が生きた現在の労働を支配する、
それが価値(その発展形態である資本を含め)の内実です。
信用制度を含め、価値とは一つの社会的な活動(運動)、
但し転倒した形態での運動なのです。
信用には限度(期日)があり、無限の信用は無信用(信用できないこと)に転化する。
モノやカネに対する信用は人間に対する不信であり、
価値の真の主体(実体の真理は主体)は未だ登場していない。余談ながら、
「国家、この幻想の共同体」(マルクス)を「共同幻想」(吉本隆明(オリジナル))として
転倒することは、現実の世界をすべて幻想(仮象)に還元することに等しく、
唯物論が足りないな。
547革命的名無しさん:2008/11/19(水) 11:21:47
579 名前:OFW :02/06/16 17:14
>>561(ふにゃぽんさん)
>原理的なマルクス主義からみたら、
>すこし「修正主義」ということには>ならないでしょうか?
「原理的」マルクス主義とはロシア・ボルシェビズムの流儀あるいは
いわゆるスターリン主義を指しているのかなと思いますが、そうだとすると、
ロシア帝政下で非合法化されていたロシア社会民主労働党(後の共産党)多数派を
率いたレーニンの「原理」というより特徴は、別に暴力ではなく、
徹底した党規律による機動的・現実的な革命実践という点にあるでしょう。
レーニンは現実的な実践家でしたから、西欧のブルジョア議会の「おしゃべり」が
何の実質的な意義をもたないことを良く知っており、
特に1917年の各地での革命的な蜂起に際して「すべての権力をソヴィエトに結集せよ」
としていわゆる<二重権力状態>を通して、政権に就いた。
議会の中で決まることは、むしろ社会の中で既に起こっている実質的な権力闘争の
反映でしかない。
最終的には大衆自身が決するというのは常に真理でしょうが、
大衆が自らを組織していない場合、(あるいは少なくともその意思を
正しく代表する党が不在の場合、)社会の危機において民主主義は容易に
(合法的に)ファシズムあるいは国家排外主義に転化することは、歴史の教訓です。
結局、「議会制民主主義か暴力革命か」といった設問は意味のないものであり、
徹底した(名実共に備わった)民主主義とは社会主義としてしか実現しない以上、
<社会の民主化>という課題は常に権力問題(国家問題・階級問題)を
引き寄せてくる。
(かってバブル期の狂乱地価状況に際して、NHKで「土地は誰のものか?」
という公開討論番組があったが、経済問題に関する平和的議論すら政治的・階級的
になり得る時代ですね。)
548革命的名無しさん:2008/11/19(水) 11:23:18
吉本がそんなに大きな存在ですかな?
549パープリンスターリン:2008/11/19(水) 11:26:47
スターリン主義を攻撃するもうひとつのスターリン主義ですか?
550革命的名無しさん:2008/11/19(水) 11:32:53
予定調和の自惚れが、朝から焼酎のアルコール分の作用によって増幅されているのですか?
551無頼:2008/11/19(水) 12:38:56
赤い老審問官OFW   ちょっとカッコ良すぎるか?悪役にしてもそんな器量じゃないもんね?小雀前にして威張り散らすカラス程度。残飯荒らしの薄汚いカラス。群れるのが大好き。がぁ、がぁ、がぁ。
552革命的名無しさん:2008/11/19(水) 13:21:56
共産党は汚ねえっす!
553革命的名無しさん:2008/11/19(水) 13:25:15
な○ぶユニオン わたなべ のぶお
学生運動あがりの労働ゴロ
懲役あり
相談にきた女に相談にのるついでに上にのりあへあへ
活動家気取りで金儲け
554革命的名無しさん:2008/11/19(水) 14:43:42
スレタイと違って、このスレに資本論は無いね。
あるのは知識を撒き散らしてるだけの古いコピペと、
その古いコピペに感情的にギャアギャアと吠えてる負け狗だけだな。
555革命的名無しさん:2008/11/19(水) 18:03:36
おっと、厳しいお言葉を頂戴したな。
ちょいと考えてもみねーな。
ここは2chだぜ、2chに高望みしずぎじゃねーのか?
要は時間潰しだけよ。
特にここアカ板は定年やリストラされた団塊のたまり場よ。
スレ読みゃ一目瞭然だろが。
過去形でしか語れない団塊のオナニー場よ。
あんまり硬いことは言いっこなしだぜ。
556革命的名無しさん:2008/11/19(水) 18:24:21
チンカスも相当溜まっているようだな
557革命的名無しさん:2008/11/19(水) 18:34:07
時間潰しが、妙にストレスも溜まっているようだな。
558革命的名無しさん:2008/11/19(水) 18:49:10
>>556,>>557
リストラされてルサンチマンか。
もう焼きが回ったな、藁
559革命的名無しさん:2008/11/19(水) 18:52:23
ブレーカーが全部ふっ飛んで、耳から煙を吐いている模様・・・
560革命的名無しさん:2008/11/19(水) 19:03:22
今日もオナニーレスたまっているんだろ?さあ、しこしこやった、やった、OFW君のオナニー劇場の始まりぃーっ!
561革命的名無しさん:2008/11/19(水) 19:59:08
>>555
"過去形でしか語れない団塊のオナニー場よ。"とは痛いとこ衝かれたな。
まぁ、そんなのも含めて2ちゃんねるでしょう。
秋の夜長ですよ、楽しくオナニーしましょうよ。
562革命的名無しさん:2008/11/19(水) 20:12:30
加齢臭のオナニーなんか興味ないよ。ムチムチ、パツンパツンの女の子の悩ましいオナニーならいいけどね。
563革命的名無しさん:2008/11/19(水) 20:22:14
過去形の糞レクチャーばらまいて、未来ある若者に毒を仕込もうとするようなふざけたマネはしないこと。
564革命的名無しさん:2008/11/22(土) 05:40:00
>>563
OFWの駄法螺を"糞レクチャー"とは買いかぶったもんだな。
やはり感情的に反論することしか能力がないヴォケだな。
565革命的名無しさん:2008/11/22(土) 10:41:40
糞より最低のものはあるか?共産主義くらいなもんだろう、ヴォケ!
566革命的名無しさん:2008/11/22(土) 10:50:11
ほれ、OFW、オナニーして見せないのか、キモい爺オナニー?
567革命的名無しさん:2008/11/22(土) 11:45:30
ん、何?資本論のオナニー?
568革命的名無しさん:2008/11/22(土) 11:52:53

569革命的名無しさん:2008/11/22(土) 14:41:51
お待たせ!
"糞レクチャー"、いやさ"駄法螺"の再開で〜す。

570革命的名無しさん:2008/11/22(土) 15:00:24
爺同士のアナル性交画像は通報するぜwww
571革命的名無しさん:2008/11/22(土) 23:08:32
これから読もうと思ったんですけど。読み終わった頃には日本は外国人に占領されてるかも。

国籍法改正案まとめWIKI
http://www19.atwiki.jp/kokuseki/
572やるんならオシマイまでコピペせんかい!:2008/11/28(金) 18:57:17
611 名前: OFW 02/06/19 21:25
>>590
>これがソ共謹製なら、OFWさんのマルクス解釈は多少なりとも動揺すると思うのですが、
>いかがでしょうか?
岩波『哲学・思想事典』「弁証法的唯物論」の項によると、
「マルクス,エンゲルスは自らの唯物論をおりおり弁証法的と称したが,
この呼称はかれら自身のものではなく,プレハーノフが普及させ,
ほどなくレーニンも『人民の友とは何か』(1894)で採用したものである.」
とあります。
スターリン体制下で教条主義化(神学化)し、
固有名詞的に使われることが多い<弁証法的唯物論>
(内容は少しも弁証法的ではない)とは異なり、
マルクス、エンゲルス、レーニンはそれまでの機械論的
(事物は永遠の繰り返し運動をするという見方)であった唯物論に対して、
弁証法的(事物は歴史的な生成・発展をするという見方)な観点を強調したわけで、
私もそういう文脈で使用しています。
(ただし、エンゲルスは「最高の科学としての弁証法」と呼んでおり、少し違うとは思うが。)
「プレハーノフ」を含め、「唯物論」「弁証法」の説明は下記に詳しい。
(確かに戸坂潤は日本のプレハーノフとでも言えるかな・・・)
#http://isweb35.infoseek.co.jp/school/pfeil/BE/FRAMEBE_1.HTM
また、たとえば(別にマルクス主義者ではない)G.バシュラールも『否定の哲学』において、
科学的合理論の次に来る認識段階として、「弁証法的唯物論」という用語を使用しています。
573やるんならオシマイまでコピペせんかい!:2008/11/28(金) 19:32:03
616 名前: OFW 02/06/21 05:05
>>614(いっしょさん)
>マルクスは科学として弁証法という言葉を用いていなかったのですか?
そうですね。そういう用法は見かけないし、多分使うこともないはず。

>マルクスの弁証法は「哲学」だが、エンゲルスは「科学」ということですか?
無論「哲学」および「科学」の定義(共にそう明確ではない)によるわけですが、
両者が違うという点(哲学は諸科学の統一性の解明である、とか、
哲学は科学以前あるいは科学以後である、とか言われる所以)を踏まえれば、
弁証法を科学の一種として捉えることは、余計な誤解を与えると思います。
(実際、「我々の社会主義は弁証法に基づく科学的なものであるから、
他の社会主義より優位に立っている。」と主張する人は現在でも少なからずいるようで。)
弁証法について言えば、それは第一に一つの方法論であり(その限り認識方法)、
事物の<運動>に着目してその論理を追うものです。
それはしばしば逆説的な表現を使う(例:存在は存在しない)が、
(運動変化する)対象存在とその規定内容(概念内容)とが一致しないことを表現する場合には、
否定的な表現をとらざるを得ないでしょう。第二に弁証法とは特に唯物論的な立場において、
事物の客観的な運動を表現するものとされるが、それは科学的法則ではない。
法則の概念とは「諸存在(現存在)の本質的な規定内容が現象において具体的に展開されたもの」
ということですから、現象において何が本質的なのかという点を忘れると、
法則なのか例外なのかすらはっきりしなくなる。そして対象的本質自体が歴史的に変化するわけですから、
「永遠の法則などあり得ない」というのが、弁証法的な主張です。
(よく「マルクスの窮乏化法則なるものは現実に妥当しない。故にマルクスは間違っている」といった主張を
目にしますが、一定の条件付きそして統計的な範囲内でしか成立しないという性格をもつ
法則一般に対する誤解でしょう。)
結局、弁証法の解説書で(エンゲルス由来の)「質から量への転化その他3つの根本法則」などと
書かれているのは、「もうアホかと」・・・。
574やるんならオシマイまでコピペせんかい!:2008/11/28(金) 19:34:47
630 名前: OFW 02/06/22 20:34
>>618(いっしょさん)
>やはり過去から「保存」されているものがありつづける以上、なんらか
>の永遠というものが存在するのではないでしょうか?
保存することがただちに「永遠(的なもの)が存在する」ことに繋がらないのは、
何でも良いが、持続的・連続的な発展と衰退を遂げる事柄を
 考えれば理解できるでしょう。マルクスが自らの方法的立場を<ブルジ
 ョア社会の運動を人間の自然史として捉える>という場合、人類発生以
 来の変わらない自然的条件と、社会の発展によって変化する歴史的条件
 とを同時に見据えるということです。それに対して、科学者には(一回
 限りで繰り返さない)歴史的な側面は度外視して、永遠に繰り返すかの
 ような本質的な同一性を探究することがまず求められる。
 弁証法においては運動が永遠(正確には絶対的)であり、「保存するも
 の」とは運動の基体を指していますが、それは<生成変化><反照>
 <発展>という、より高次の運動様式の中に止揚され、反照の最高段階
 では<実体>(自らは動かず他を動かすもの)と呼ばれる。発展とは生
 成変化と反照の統一(変化の中において自己を保つ活動)であり、実体
 は最終的に<主体>(自己を知りつつ働くもの)に反転する。
>ニュートン物理学
 日常的なスケール(時空の単位)を超えるとニュートン力学の法則は成
 立しない、という事情は、ブルジョア社会を超えると価値法則は成立し
 ない、という事情と類比的であり、科学法則には適用限界があるという
 点で共通的です。それはより一般的な法則の特殊ケースとして保存され、
 量子力学的ミクロの世界でもエネルギー保存の法則はより根本的なもの
 として満たされます。また、ミクロの統合化(積分)により日常的単位
 が理論的に構成され<科学的説明>が可能になる。「質は量に転化する」
 が客観的な法則なら、本質から科学的に説明される必要があるわけです。
575革命的名無しさん:2008/12/03(水) 18:45:22
631 名前: OFW 02/06/22 20:35
>>622
>旧式の井戸
I.A.リチャーズ『新修辞学原論』(だったかな?)に出てくる挿入詩からの連想です。
(オリジナルでは確かOld Fashioned Bomber(旧式の爆撃機)だったと思う。)

>>624
>汲めども尽きない古い井戸=古典
(話は外れるが)確かにリチャーズはもっと読まれてしかるべき古典。
ラムジーの先生にしてニュークリティシズムの指導者の一人。
「古い知恵が廃れ、浅薄な思想ばかりが幅をきかせる世の中は問題である。」と言い、
当時のソシュール、ラッセル等の流行思想を痛烈に批判した。
576革命的名無しさん:2008/12/03(水) 18:46:13
632 名前: OFW 02/06/22 20:36
>>625(ふにゃぽんさん)
>エンゲルスが、「もうアホか・・・」ということですか?
エンゲルスの言葉を教条的に読む人達を指したのです。
『自然弁証法』は当時の自然科学的唯物論に対抗して
弁証法的思考の優位性を説いたものであり、いくつものひらめきが示されているが、
科学的方法論と弁証法との区別については明確ではない。
多分、未完の遺作を編集した旧ソ連の学者(ミーチンとか)が「もうアホかと」の元なのでしょう。
>>626(ふにゃぽんさん)
>それらの3大法則は、有機的かつ、相対的に絡み合って、対象の構造を
>立体的に把握させる方法論ではないのですか?
1質から量への転化(とその逆)
2対立物の相互浸透
3否定の否定
たとえば「限度は質と量の統一である」(ヘーゲル)という根本法則?から見れば、
「質は量に転化する」という法則?はまさに質概念の適用限度を示している下位法則?と
言えますが、根本法則が何故上記の3つに限定され、同格的なのかは疑問です。
因みにレーニンは『哲学ノート』において、<弁証法の諸要素>として、
「1)概念をそれ自身から規定すること【事物そのものがその諸関係とその発展において考察されねばならない】;
2)事物そのもののうちにある矛盾性,あらゆる現象のうちにある矛盾した諸力と諸傾向;
3)分析と綜合との結合.」
と延べ、さらに16の要素に具体化した後で、
「弁証法は簡単に対立物の統一の学説と規定することができる。
これによって弁証法の核心はつかまれるであろうが、しかしこれは説明と展開とを要する.」
と述べていますが、よほど生き生きとした理解ですね。
上記3つをニュートン力学の3法則や熱力学の3法則と同様の、固定した法則(Law)とすることは、
思考を法(Law)により拘束するに等しい。
(やはりスターリン主義の似非学者に問題ありという感じ・・・)
>>627(カルヴァンさん)
>プレハーノフがどう関係あるんですか?
「弁証法的唯物論」という用語を最初に使ったマルキストという位です。
577革命的名無しさん:2008/12/03(水) 19:15:48
636 名前: OFW 02/06/23 20:57
>>633(吉本隆明さん)
>生産物を人が作るより、機械が作ったほうが当然安価ですむし、
 必ずしもそうではない。
機械(固定資産)の減価償却費が労働者の人件費より非常に高く、
生産性が上がっても生産物一単位当たりの製造原価が高くなる場合は、
同じものを人間(労働者)が作ったほうが安価になる。
(例:安い労働力を求めて生産拠点を海外に移転する場合)
>場合によっては限りなくタダつまり価格ゼロに近い値段で作れる
 それには理由がある。
つまり、人が作る=労働力を支出することが価格(価値)の根拠であり(労働価値説)、
全自動の機械生産は新たに価値を形成することがないため。
しかし、そこから実際に「価格がゼロになる」ためには更に前提条件が必要であり、
もし当該生産物の生産が独占状態にあれば、
価格(独占価格)はむしろ消費者にとって支払い可能な限度にまで上昇するだろう。
>そうなるカギを握るのが労働価値説の全面否定であろう。
 労働価値説の否定ではなく、価値法則の止揚が正しい。人手が省ければ価値が下がるというのは、
まさに労働価値説そのもの。
>そしてそれは目下のところ、「資本の有機的構成の高度化」ということでまさに進行中なのだ。
 ある点で正しいが、価値と価格の乖離を保つためには、貨幣が必要であり、
事態は通貨廃止とは逆の方向に向かって進行中。
同時に<経済のサービス化><南北問題>(低い有機的構成産業の拡大、温存)も進行中。
>共産主義は資本構成の最高度化を前提にする。
 ある点で正しいが、有機的構成の高度化は資本集中(独占化)と並行しており、
それは20世紀初頭からの帝国主義時代の到来、つまり政治的国家の介入による経済の政治化をもたらし、
ケインズの失業経済学も生まれた。それらの政治的な面(階級闘争)を忘れないように。
>最高度の資本構成を所有する資本家が最高の革命家なのだ。
 「資本の文明化作用」(マルクス)のモジリ?(弁証法的な逆説)
578革命的名無しさん:2008/12/03(水) 19:18:23
637 名前: OFW 02/06/23 20:59
>>634(ふにゃぽんさん)
>「弁証法はどういう科学か」(三浦 つとむ 著)
(多分出ると思てた。)
以前読んで、啓蒙書としての制約があるにせよ、ガッカリしましたね。
確かに旧ソ連の公認教義(スターリン主義)を批判し、主体性を強調する点は良いが、
具体的な説明では卑近な例を挙げて「これが弁証法という法則の実例である」といった説明法は変わらない。
内容面でも、<相対主義>的な世界観と<最高の(絶対的な)科学>という教義(教条主義)との
奇妙な混合で、批判相手と同じ通俗性を共有している。
・・・と言うことで、お勧めできないな。

>さらに三浦 つとむ氏をどう思われますか?
国語学者としては優れており、『日本語はどういう言語か』は第一級の研究書(かつ啓蒙書)でしょう。
実際、独創的な指摘や生き生きとした事例が多く、教えられる点が多い。
それだけに、弁証法理解や科学観における通俗さとのギャップが大きいということは、
やはり抽象的・論理的思考が苦手なのかな、という印象を受けます。
579革命的名無しさん:2008/12/03(水) 19:22:14
642 名前: OFW 02/06/25 23:32
>>641(いっしょさん)
>諸行無常
>>630でも少し触れたが、図式的に言えば、弁証法的な<運動>として
1外在的な運動:生成変化(移行)
2内在的な運動:反照
3現実的な運動:発展
という3段階(様式)が区別され得るでしょう。
「諸行無常」の洞察とは1の運動様式(他への移行)の対象化と言え、
その空しさ(空無性の知)から自己に還帰(反省)することによって、2の反照の知に進む。
それが<歴史意識>の誕生ですね(かって歴史は現在を照らす<鑑>と言われたように)。
それは、ものごとが成り立ちを持つ、つまり過去の結果であるという認識であり、
決して永遠の空しい繰り返しではない、という認識です。そしてさらに、生きて働く主体がそこにあり、
その活動的生命において、運動は現実的(現在的)なものという様式を獲得する。
生命体は不断の運動としてのみ存在し得るのであり、静止は即、死をもたらすからです。
そしてその自覚(働くものの自覚)が歴史の主体として、歴史の運命を自由に転化させる。
<類的解放>という運動様式です。

>マルクスの「歴史は共産主義へ向かう」という予言
マルクスは(当然ながら)およそ予言的な言明はしなかった。
「共産主義とは、現実を止揚しようとする不断の運動である。」と言い、
常に現実の内にある現実的な運動のみを見ていたのです。

>運動の方向性(弁証法的な到達点)ははずれた
歴史(学)は予想でもなく、予測を使命とする客観科学でもない。
それは過去に学び、現在を知り、未来を切り開く人間に対して、世界と人間の本質を教え、
実践の指針を与えるもの。
(再び引用)
「弁証法とは歴史という風を受けて大海を進む帆のようなものです。」(ウォルター・ベンヤミン)
580革命的名無しさん:2008/12/03(水) 19:25:59
649 名前: OFW 02/06/28 22:44
>>644(いっしょさん)
>>彼らは歴史の車輪を逆にまわそうとするからである。
「万国のプロレタリア団結せよ!」で結ばれる『共産党宣言』は労働者に向けた実践への呼びかけであり、
また世界に向けた労働者の独立宣言(Manifesto)です。
そこでは<歴史の車輪(必然的発展)>という言葉は実践的な意義をもち、
「必然だから、見てれば良い」といった純科学的・機械的な必然性(外的必然性)ではなく、
自由への転化を指示する、内的な、止揚されつつある必然性という意味で使われている。
(「かくして、必然性の真理は自由である。」(ヘーゲル))
>>ブルジョアジーはなによりもまず自分自身の墓堀人をつくりだす。
これは極めて弁証法的な言明であり、事態の内的本質が“現に今”発現している、ということあり、
未来を予言したものではない。
>>ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利とは、ともに避けられない。
<避けることの不可能性>はその可能性と同一の根拠(何故避けられるまたは避けられないのか)をもち、
かつその否定ですから、本質認識(ブルジョアジーとプロレタリアートは同一の本質存在の表裏である)
から導き出されるものです。客観的科学では<根拠>は示されず、
せいぜい蓋然性あるいは外的で偶然的な必然性(因果性)しか導けないが、主体とは客観を必然化する、
必然性の内的根拠であると言えます。
>あるていどの予測が行えるからこそ、実践の指針となる
私が述べたのは「科学的予測」のことです。いわゆる「科学的社会主義」が誤解されると、
<危機的状況>すら見えなくなってしまう、と。
>>645
>こういった↑歴史観こそまさにベンヤミンが批判したものなのでは?
上の引用は<歴史と弁証(法)>の関係の話であり、歴史観自体としてではないが、
親マルクス的な歴史的唯物論者ベンヤミンが↑を批判するとも思えないが。
・・下記サイトに『歴史の概念について』の要約あり。
#http://www02.u-page.so-net.ne.jp/ka2/ny-euro/wens26jp/Brumaire-Benjamin.html 
581革命的名無しさん:2008/12/03(水) 19:29:44
655 名前: OFW 02/06/29 16:43
>>652(いっしょさん)
>共産主義世界をつくろうという自由を実践するかぎり、共産主義の到来は必然であると。
少し違うな。
共産主義世界をつくろうという意志は自由を目指す<必然的な意志>
(俗に「止むに止まれぬ」とか言うように)であり、運動としての共産主義の原動力だ、ということ。
共産主義とは到来すべき何らかの状態を指した言葉ではない(マルクス)。
それは、毎日の通勤や職場の現実の中において、その矛盾を個人が生きることにより主体の必然(必要)
(例:「俺たちはモノ(客体)ではない、人間を返せ!」という叫び)として立てられ、
諸個人のうちに常に働いている(作動している)理念として、またその現われとしての数々の事象の総体として、
現実的な(不断に働く)もの。それは既に到来している(始まっている)。
>実践を行うのは、人間の意志です。
近代個人主義は<個人の自由意志>を社会の原理としていますが、
人間は本質的に(既に)社会的な存在だから、「人間の意志」とは<共同意志>を指します。
それは個人の恣意に依らない必然的・客観的な内容をもち、
個人の行為が実践であるのは両者の意志が合致する場合のみです。
>外的必然性と内的必然性の区別
<原因>と<理由(根拠)>の区別(そのものではないが)として考えれば分かりやすいかな。
必然性の概念とは<他であることが不可能であること>と定義でき、
反対に偶然性とは<他でもあり得るのに理由無くそれであること>と定義できますね。
客観的世界のうちに生起する事物に対して、「何故それが生起したのか?」という設問には、
通常「これこれがその原因である」という答え方をするが、原因自体は前提された偶然的な事象であり、
さらにその原因は?という無限遡行が避けられない。
それに対して、理由(根拠)とは<事物の内的本性>に基づき、無限遡行を終わらせる。
たとえば、清純派女優(死語?)が「ストーリーに必然性があればヌードOKよ」と言う場合の用法が内的必然性です。
582革命的名無しさん:2008/12/06(土) 18:38:24
いったん始めたら、お仕舞いまで始めたヤツがやれ!つーの。

656 名前: OFW 02/06/29 16:45
>>653
>表現の一般理論(言語表現にも価値表現にも共通する)を意図してる
確かにそうでしょうね。
ただ、価値表現については、価値の一般理論も必要だということが十分に意識されていないため、
公式的な労働価値説あるいは搾取論で終わっているような。
>言語表現の二重性の議論は、価値形態論の肝心なポイントを突いてる
<現実と観念への、自我および世界の二重化>は重要な指摘であり、
言語表現においてそれが如何に現れているか、という点を分析した功績は大きいが、
価値形態論との関連は不分明ですが?
>ヘーゲルのアナロジーでマルクス読むと、見落とすことになると思う。
アナロジー(類比)というより、むしろマルクスは、特に『資本論』は、明らかにヘーゲル論理学を踏まえ、
それを活用していると思える部分が多く、レーニン『哲学ノート』にもその旨の指摘がある。
ヘーゲル弁証法(そしてレーニン)に批判的な三浦氏であり、
また価値形態論をまともに理解していると思えた者を未だ知らず状態ですから、
それを例にとって<二つの弁証法>(笑)を比較するのも良いかな、と。
>三浦つとむは権力論も優れてると思う。
不勉強にて不詳です。さわりだけでもご教授をば。
583革命的名無しさん:2008/12/06(土) 18:45:16
665 名前: OFW 02/06/30 21:37
>>658(吉本隆明さん)
>三浦つとむの言語論は価値形態論を可能性の中心において読んだ
というより、
彼の言語過程説は時枝理論プラス『資本論』の商品交換過程の記述からの着想として生まれたようだが・・・。
「言語表現の過程的構造におけるこの矛盾のあり方を、三浦ほど明瞭に指摘した学者はありませんでした。
 三浦がこの種の矛盾の存在について最初にヒントを得たのは、
 先に引用した「認識論はどういう科学か」にも記してあったように、
 マルクスの『資本論』に含まれる記述からでした(3)が、
 彼はこれを一般的にとらえて《調和する矛盾》
 あるいは《非敵対的矛盾》と呼んでいます。」
#http://www.interq.or.jp/pluto/yassy/sandaini.html

>広松渉の四肢構造論
についての評価は、下記スレ参照。
#../992/992060905.html
価値形態論の可能性というよりは、<物象化的錯視>という主観主義的認識論への後退でしょう。
<等価形態>を“正しく”「読む」こと。

>柄谷の『トラクリ』
「価値形態論におけるマルクスの重要な移動の一つは、使用価値あるいは流通過程の重視にある。
 或る物は他人にとって使用価値をもたなければ価値ではない。
 つまり、その生産に労働時間がいくらかかっていようと、それは売れなければ価値ではない。
 マルクスは交換価値と使用価値という旧来の区別を廃棄する。」
#http://www.criticalspace.org/book/transcritique_st.html
マルクスが使用価値と交換価値の区別を廃棄するはずもなく、
<移動>はマルクス唯物論からカント主観的・超越論的観念論への「誤読」としてしか存在しないでしょう。
・・・ということで、上記三者の中では、三浦つとむが相対的優位性をもつかな、ちゃて。
584革命的名無しさん:2008/12/06(土) 18:47:11
666 名前: OFW 02/06/30 21:54
>>664(ふにゃぽんさん)
>「レーニン批判の時代」(頚草書房 刊)
さんくす。

>レーニンがヘーゲルおよびマルクスを誤読した結果、弁証法の「敵対的対立」と「非敵対的対立」を混同し
「敵対的」「非敵対的」と用語は>>665の引用でも出てくるので、意味は何となく分かりますが、
レーニンを誤解しているような・・・。

>スターリン批判前後に書かれたというのも驚異です。
当初は『スターリン批判の時代』というタイトルだったのかな?

>滝村氏への評価
すみません。昔、書店で著書を眺めて(表現固過ぎなため)敬遠し続けて読んでませんので、評価不能です。
いずれ機会があれば・・・。
585革命的名無しさん:2008/12/06(土) 18:51:45
704 名前: OFW 02/07/06 16:40
>>681(いっしょさん)
>観念ですよね?
「観念は観念に過ぎない。しかしそれが現実をとらえるとき、それは物質的な力になる」(マルクス)。
つまり、観念について最も詳しいのは現実的(Wirklich(独)、働いている)唯物論者なのだと。
観念を何か非現実的な存在と捉えることは、
それが人間(思考主体)が現実に向かう際の対象的な働きであることを見逃すことになり、
幻想界へ逃亡することになるでしょう。

>マルクスを優秀な幻想論者というように再解釈
するのは自由(勝手)ですが、大きな誤解ですね。
吉本隆明(オリジナル)は<観念>を「幻想」と命名(再解釈)することにより、
観念にも幻想的な観念と現実的な観念とがある、という区別を廃棄し、
俗っぽい(優秀とは言えない)主観的観念論(幻想一元論)に堕した。

>ロシア・マルクス主義から救済しようとした
「ロシア・マルクス主義」という呼称はひどく曖昧であり、
まとまったものが客観的に存在するわけでもない(観念の実体化!)。
メンシェビキあるいはエスエル左派流の労農主義か、レーニン流の政治思想か、
スターリンおよびその取り巻き流の無思想か、トロツキー流の革命思想か、何から救済するというのか?
要するに、唯物論から?

>唯物論にOFWさんは固執しつづけるのでしょうか?
教科書的に言えば、
主観的観念論→客観的観念論→唯物論という認識論あるいは世界観上の発展は客観的なものだということです。
たとえば、下記は、単なる科学主義や機械的唯物論ではないが、
明らかに唯物論的な発想から(心の)<内的必然性>を説いた例です:
「心というものを、さまざまな力がきわめて微妙につり合った平衡の体系として、
 また、われわれが健康でいるかぎりたえず成長している体系として、想像してみなくてはならない。
 ・・・そこでわれわれは、詩経験の流れを、これら乱された関心の平衡回復の運動として
 想像してみなくてはならない。」(T.A.リチャーズ『科学と詩』)。
586革命的名無しさん:2008/12/08(月) 18:52:56
707 名前: OFW 02/07/07 19:57
>>660,705(コピペ)
>創意工夫やその為に資本をかき集める仕事への報酬なしセイの法則によりかかっていたが故に
>旧社会主義国は残酷な官僚社会になった。
1.何故<創意工夫><資本集積>に対する報酬がないと、官僚社会になるのか?
まず第一に、旧ソ連でも(主として国家官僚達が主導し、「社会主義的本源的蓄積」などと呼ばれた)
<資本集積>およびそれに対する報酬は存在した → 事実の誤認とすると、
“特別の”報酬がなかったという点が問題なのか?
しかし、高級官僚が高収入なのは現代日本も同様であり、
資本家を兼ねた旧ソ連社会でも報酬が大きかっただろう。

第二に、上記の言明は、「<働き>に応じた報酬(資本主義的・成果主義的分配原則)」ではなく、
「<労働時間>に応じた報酬(社会主義的分配原則)」だったが故に「官僚社会になった。」
と言っているようだが、問題は、「働きとは何か?」である。
創意工夫 → 効用の高い成果を生み出す → 高度な働き
資本=他者の労働力を支配できる力 をかき集める → 他者に
創意工夫をさせる → 高度な働き
であるとすれば、むしろ資本家のように<自分は働かず、他者(労働者)を働かせること>が高度な働きであり、
特別な報酬を受けるべきだということか?(政治的支配と仕事の混同)
587革命的名無しさん:2008/12/08(月) 18:53:55
709 名前: OFW 02/07/07 19:59
>>660,705(コピペ)(つづき)
2.何故<セイの法則>(>>565参照)によりかかると、官僚社会になるのか?
これは全く理解不能。事実でもない。
いわゆるノルマ(割当て)による画一的、非効率的な生産(命令経済)を指しているのか?
それは全体主義的官僚社会(国家資本主義)の結果であり、原因ではない。
その限りでは、親方日の丸の日本社会あるいは売上ノルマ型の企業
(そこには「売れないのは需要がないからではなく、お前たちの販売努力が足りないからだ!」という命令経済がある。)
も同じ法則によっている、とか。
社会的な需要と非社会的な資本の価値増殖欲からくる投資需要とを区別することが肝要
(例:現在のデフレギャップ日本)。
確かに、革命当時、国民の8割以上が農地解放を遂げたばかりの農民からなる旧ソ連において
政権についたボルシェビキ達は、社会的需要を捉えそこね、全体主義的な国家資本主義の道を歩んだが、
社会主義はすべての労働の無価値性(平等性)に基づく、徹底した民主主義の上にのみ成立するもの。
これは現実的な唯物論の立場。
588革命的名無しさん:2008/12/08(月) 19:00:41
相変わらずオナニーしているな、2ちゃんねるケータイ論文君。いいかげん自分で馬鹿馬鹿しくならんかね?
589革命的名無しさん:2008/12/08(月) 19:21:28
>>588
自分にそんな知識が無いからって僻むなよ。
オメーにも理解できる超簡単なのもコピペしてやっからよ、激藁。
590革命的名無しさん:2008/12/08(月) 20:02:22
誰も読みはしないよ。活字の堕羅列をさっと見るだけ。読む労力がもったいないしね。きちんとしたサイトのきちんとした論文は読むが、こんな糞板のお作文ではねぇ、二足三文じゃねぇ、、、脳が腐る。
591革命的名無しさん:2008/12/08(月) 20:39:54
ふぁっふぁっふぁ、またケチつけられてるな。自信があるなら、学会の雑誌で発表したら?そのときはURLつけてこのスレで紹介してもらおうじゃないか?相手にされないんだろ?
592革命的名無しさん:2008/12/10(水) 18:06:26
おい、早く続けろよ!
やるんなら手早くしろや、ダラダラするんなら最初からやんな!
593革命的名無しさん:2008/12/10(水) 21:38:21
726 名前: OFW 02/07/12 01:51
>>710(ふにゃぽんさん)
>個々の労働は、どのように評価され、また、個々の労働者はどのような報酬を得るべきか?
評価(価値の判断、計測)という場合、
経済的評価とそれ以外の評価(倫理的、学問的、芸術的その他)とは異なるでしょう。
経済的価値について言えば、労働自体に価値はないということです。
たとえば、医者の労働(医療行為)は人間の健康、生命にかかわる点で不可欠のものであり、
緊急性も高いものですが、経済的観点からは同じ労働力の支出として
他の労働(たとえばビル掃除)と区別されない(無差別的な)ものであり、
報酬(生活財の取り分)は(労働力の支出において)同じということです。
無論、これは自然的な不平等を廃棄しない点で不平等な原則(権利)ですが、
社会の(物質的、精神的)発展に伴って、
最終的にはその自然的不平等性も(ただ存在するだけで社会的実効性をもたないものとして)止揚され、
価値(差別性)自体が消滅することになるでしょう。
その点に関して、マルクスは『ゴータ綱領批判』において詳述しており、下記のレーニンによる解説を参照下さい。

594革命的名無しさん:2008/12/10(水) 21:42:15
727 名前: OFW 02/07/12 01:52
>>711(いっしょさん)
>これは唯物論と呼ぶべきものなんでしょうか?
物質的(機械的)運動における起動ー結果は因果関係と呼ばれ、過去が現在を決定する実体的相関ですが、
行為における起動は目的ー手段関係として未来が現在を決定する主体的相関ですね。
後者は化学的さらには有機的(生命的)システムにおける、
相互作用(相互媒介)する諸部分の総体(自己相関)という客観的な発展段階を前提にしており、
社会的動物のコミュニケーション過程(行動)は人間の言語行為において、
主体の観念的対象化という段階にまで発展した。
観念論は上記過程に対する哲学的(観想的)反省と言えます。
>現実とかかわりあう観念論者もいると思うのですが?
無論そうですが、現実に対して“現実的に”かかわるか、“空想的に” かかわるか、の違いはある。
>客観的観念論者では?
もし「霊魂(心)がそれ自体で実在する」ということを真面目に考えていればそうなるが、
<幻想(主観性)>が客観的実在ではなく、
あくまで心理的あるいは社会的な存在だということは踏まえていると思う。
>吉本の指摘は評価できると思います。
<客観的現実>が観念によって媒介されている、という点を指摘したことについては、確かにそうです。
しかし、観念はあくまで対象的客観に向かう(それを指示対象にしている)働きであり、その点を度外視して、
その仮象性のみを“自立化”させて語ることは思弁につながるでしょう。
>発展していかなくてはならないのでしょうか?
「ねばならない」ではなく、客観的な傾向としてそうなっていると。
>やはり観念論(幻想論)では?
日本語の「○○論」という言葉は
1.○○に関する思想、言説
2.○○が絶対的(根源的)であるという思想(主張)
という二つの用法(意味)をもつが、どちらの意味での話かな?
595革命的名無しさん:2008/12/10(水) 21:46:26
731 名前: OFW 02/07/13 12:53
>>730(いっしょさん)
>現実とはなんなんですか?
論理的に言えば、
「現実性とは本質と現存在との統一、あるいは内的なものと外的なものとの統一が、
直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものなのである。」
(ヘーゲル『小論理学』第2部本質論C現実性142節)
それに対して、
<空想的>とは非本質的な現存在を本質的なものとして立てる態度あるいはその対象を指して言います。
>マルクス主義の現実社会での矛盾
どういうことを指しているのかな?
現実と矛盾することは、すべての思想にとって、その内的根拠です。
>吉本は二元論者と呼ぶのが正確だと思うのですが。
哲学的認識論に関して一貫した主張はなく、初期とその後とで構えが変わっているから一概には言えないが、
たとえば『心的現象論序説』(無論これは詩ではなく文芸批評のための認識論の書)において、
「わたしはここで現象学とも悪しき唯物論ともちがった仕方で、<観念論か唯物論か>という二元的な
問題の立て方を超えてみたい。」
「樹木が風に揺いでいる。・・・もし、そのとき、わたしが目を閉じることによって視覚を遮断したとしても、
いぜんとして・・・現実的な現象は消失しない。それは自然の現象としてわたしの外に存在している。
・・・現象が・・・いわば構造的に消失したのである。」
とあり、現象vs現実、内的vs外的という対立を<構造>という存在論的な位置が曖昧な概念に還元しており、
やはり幻想一元論と呼ぶべき。
>吉本は詩人です。
かって唐牛健太郎(60年安保当時の全学連委員長)もまったく同じことを言っていましたね。
学問や政治を詩のように語る人、かな。
596革命的名無しさん:2008/12/11(木) 00:01:24
いったい、この経済恐慌になんとのんびりした机上の論理。将棋の駒遊びじゃないんだよ。明日の糧にも窮して路頭を迷う者たちへ届く〈声〉だと思っているのか?君は労働したことがないのか?
597革命的名無しさん:2008/12/11(木) 12:02:48
あのさぁ、ヘーゲル関連のコピペもやってよ。
楽しみにしてるよ。
598革命的名無しさん:2008/12/11(木) 14:21:16
一人二役、そこまでして自画自賛したいか?
599革命的名無しさん:2008/12/11(木) 17:50:42
このスレ立てた加齢臭、活動歴もないようだな。活動より脳内オナニーのほうが気持ちいいか?不破だって若いうちは活動家だったんだよ。
600革命的名無しさん:2008/12/11(木) 18:04:41
>>595現実と本質?鶏か先か、卵が先か?矛盾撞着に翻弄されているね。いまどき時代遅れのスコラ哲学・・・どうしてあんた自身の悪しき〈状況〉、つまりあんたの放り込まれている袋小路に気づかないのかね?
601革命的名無しさん:2008/12/11(木) 18:18:13
732 名前:OFW :02/07/13 12:55
>>730(いっしょさん)(つづき)
>詩や芸術のように、かんぜんに自立した観念というものがリアルに存在するのでは?
正確にいえば「存在するかのように経験される」でしょうね。そこで何よりも重要な点は、
虚構(想像的なもの)を現実(実在そのもの)と取り違えないことです。
「あらゆる詩は、表面には現れてこないけれども、条件を示す文句を言外に含んでいる。
つまり、もしいろいろなことがこれこれであったならば、そのときには・・・という具合に反応が発展する。」
(I.A.リチャーズ『文芸批評の原理』)

>「客観的な傾向」というものを、共通了解性の高い形で示すことができるでしょうか?
そのためには、経験科学の研究成果を十分に利用しなくてはならず、
たとえば20世紀以降の時代を<帝国主義>という概念にまとめるためには、
レーニンが『帝国主義論』で展開したように、地道で体系的な探求が必要となるでしょう。
「私は、その一言で世界が凍りつくような言葉が欲しい」(吉本隆明)といった主観的な傾向(衝動)
のようには行かない。
602革命的名無しさん:2008/12/11(木) 18:21:38
735 名前:OFW :02/07/14 02:08
>>733
>役にたたない無駄な夢物語ですね。
さて、その根拠は何かな?(哲学は根拠を問うことから始まる。)
夢(幻想)は唯物論から最も遠いものであり、上の例で言えば、医学、
特に解剖学は近代唯物論の源流の一つをなしている。
たとえば、フーコーは、神経病理学における医者の患者(事物)に関する二つの観察記述を証言として提出した後、
認識論上の構造変化を指摘している。

「この二つの文章の間の差は、ごく小さいものでありながら、全面的なものである。・・・というのは、
ベールの単語の一つ一つが、その質的な精緻さによって、
われわれのまなざしを恒常的な可視性の世界にみちびくからである。
これに反して、ボンムの文章は知覚の支えのない、心象(ファンタスム)のことばをかたる。」
(M.フーコー『臨床医学の誕生』序)

同様に、マルクスは、資本主義におけるファンタスムの言葉(夢物語)つまり商品語を転倒することにより、
<価値形態>を可視的なものにした。
両者は共に、幻想から現実に向かう唯物論の必然的な歩みです。
603革命的名無しさん:2008/12/11(木) 18:25:51
738 名前:OFW :02/07/14 20:44
>>736
>並べるのはいかがなものかと。
フーコーとマルクス(主義)の表面的な共通点および相違点をあげれば、
1.真理のイデオロギー性に対する理解
「真理は権力の外でも権力なしでも存在しない」(フーコー)
「もっとも古い階級である僧侶階級の末裔としての哲学者」(マルクス)
<権力><主体>概念については、フーコーは抽象的・無人格的な構造概念として捉えており、 そのため知識人の政治的役割に関して逆に
「知こそが力である」というベーコン流啓蒙主義に留まっているように見える。
一方、マルクス(主義)は実体的な生産関係(下部構造)に基づく<階級>概念の
下位概念として権力を捉え、階級支配の現実性および小ブル的知識人の政治性を捉える。

2.方法論としての歴史主義(知の考古学VS社会の自然史)
「同じ種類の契約で、もっと隠れた、もっと奇妙なものが、同じ頃に、施療院と臨床教育との間に、
 ひそかにとりかわされている。・・・貧乏のために施療院に助けを求めるほかなかった患者を、
 いかなる権利によって臨床的観察の対象に化しうるか、・・・今や彼は、あるまなざしのために要求される。
 そのまなざしにとって、彼は客体である。」(フーコー)
「資本主義を基礎とする産業の躍進によって、働く大衆の貧しさとみじめさは、
 この社会が存続するための必要条件の一つにまで引きあげられた。
 ・・・要するに、啓蒙思想家たちのすばらしい約束と比較して、「理性の勝利」によってうちたてられた
 社会的・政治的諸制度は人々を幻滅させる痛烈な諷刺画であることがわかった。」(エンゲルス)
上記からも、近代医療が物象化(患者Subjectの客体Object化)されてきた過程の背景には、医療行為における
<観察的まなざし>以上に、ブルジョアの<価値物神的まなざし>があることが分かる。
604革命的名無しさん:2008/12/11(木) 18:28:44
742 名前:OFW :02/07/16 06:39
>>737
>バブルもたらした官僚制の弊害
バブル経済は別に官僚制が原因ではない。誰がそう言っているのかな?

>資本主義や議会制民主主義で直せば良いし、・・・マルクス主義で
資本主義、民主主義、マルクス主義とは何のことか?

>>739
>なぜマルクス主義といえるのでしょう?
マルクス主義が何かは論者によってさまざまでしょうが、この階級社会において、
労働者階級に向けた思想であることはミニマムラインです。
大学教授や殆どの知識人は別の階級に属するため、とかく「階級対立など存在しない」と言いがちで、
親マルクス的でも要注意。

>>741
>抽象的人間労働、私的労働の意味がよくわからない
労働に二つの種類があるということではなく、分業社会の中でのすべての労働(仕事)がもつ二側面を言います。
社会から孤立した人が自給自足の生活を営む場合、彼(女)の労働(仕事)は当人だけの私的なものですが、
社会の中では何らかの<他人のために役立つ仕事>を行っている。
彼(女)の労働は社会的なものとなり、他のすべての労働と区別の無い<人間労働一般>という、
それ自体は抽象的・普遍的な側面をもつことになる。
個々の労働者は具体的に特定の仕事をすることで社会に貢献するが、
それは他の労働と同じ普遍的な労働でもあり、「我々は同じ労働者だ」と言われる所以です。
私的企業主(資本家、経営者)は
「いや、労働者は私にだけ役立つ汎用的な(何にでも使える)労働力の担い手に過ぎず、交替要員はいくらで
も調達できる」
と矛盾したことを平気で言うが・・・。
605革命的名無しさん:2008/12/11(木) 18:32:23
746 名前:OFW :02/07/17 05:40
>>743
横レス失礼。
>抽象的人間労働は、具体的有用労働を抽象化したもの。おもに労働時間によって計測されます。
>深い意味はありません。
昔から日本人は抽象的思考が苦手なようで、ピカソの「抽象」絵画が初めて紹介された時に
「こんな子供の落書きのような絵に何の意味があるのか?」
と酷評されたようですね。
確かに芸術的価値の評価は難しいものですが、
当然それはピカソが費やした制作(労働)時間では計測されない。
しかし、今は“経済的”価値の話。ピカソが生み出す芸術作品の経済的価値はその商品価値であり、
ピカソ本人よりは絵画商の方が詳しいでしょう。
彼(女)は言うでしょう、
「私は芸術は良く分からんが、それがいくらで売れるかは誰よりも良く知っている。」
と。
特に生活必需品以外の便宜品、奢侈品に対する<社会的需要>、
つまりそれに対して支払い可能な社会平均的な欲求量の大きさは、
社会の豊かさの指標の一つでしょう(例:バブル期日本)。
確かに「複製時代の芸術」(ベンヤミン)作品の芸術的価値は経済的価値に比例して低下した
とも言えなくもないが、後者はコピー作品の制作技術とその制作時間(労働時間)(製造原価)に反比例している。
>資本家の労働
(繰り返しだが)資本家=非労働者というのは、階級的な本質概念。
>不当におとしめる効果があります。資本論的詭弁の温床
資本の経済的価値を弁証法的に論じた『資本論』の学問的価値を詭弁的におとしめる解釈については如何?
606革命的名無しさん:2008/12/11(木) 18:33:08
747 名前:OFW :02/07/17 05:46
>>746
誤:反比例している  正:比例している
607革命的名無しさん:2008/12/11(木) 21:34:04
経済論から外れるとバカ丸出しだね
608革命的名無しさん:2008/12/12(金) 04:07:01
反帝国主義・反スターリン主義の元 万国の労働者団結せよ!
609革命的名無しさん:2008/12/12(金) 12:01:39
なんでチマチマとコピペしてるんかな。
この週末で全部やれよ!!!
610革命的名無しさん:2008/12/12(金) 14:01:06
路頭にまよう必要もない、年金暮らしの?銃後の老人のオナニーはもうたくさん。臭うぜ。
611革命的名無しさん:2008/12/12(金) 18:43:49
オナニー、自涜、自家発電、マスタベーション・・・
なんでもいいけど、一人エッチはやめれ!!!
同性でも異性でも、相手をつくれ!!!!
はめろ!!!
突っ込め!!!
ピストン運動だ!!!
発射!!!
快感!!!
虚脱!!!
あ〜あ、スッキリしたな。
612革命的名無しさん:2008/12/12(金) 18:46:01
807 名前:OFW :02/07/20 20:15
>>748
>抽象化と具体化をくり返すことが、「説明」すると言うこと
>>9でも簡単に触れているが、
科学的な説明とは本質的・原理的な存在から現象を理論的に導き出すことを言います。
本質(Essence)とは、あるものがそのものである根拠を言い、
それ自体は抽象的自己同一性として可能的なものに過ぎないが、
具体的な諸条件の中におかれたあるもの(現存在)がそれとして存立するための
<最終的審級>(決定的条件)をなすものです。

>具体性に還元する
抽象的なものから具体的なものに進むことは「還元」ではなく、<綜合>と呼ぶべきでしょう。

>資本集中の法則、利潤率低下の傾向の法則、貧困増大の法則などなど
法則とは、上記本質が世界のうちに現象する形式を言い、
具体的な成立条件を抜きにしてはその当否が語れないもの。各々の条件は何かな?
>資本家階級も労働しています。
むろんそうでしょう。
その限り、経済空論家の精神労働や経営者の監督労働も資本主義の維持に寄与しているが、
彼らの労働はシステム(モノ)の要請であり、法則の奴隷としての非本質的(非主体的)な労働です。

>こちらが階級的な本質概念です。
<階級>の定義は?
本質とは、上に述べたように、あるものの自己同一性であり、
すなわち本質的な対立(矛盾)の総体としての根拠を言います。
<賃労働と資本>は互いに相手の反対であり、かつ同一のものであるということが、階級の本質なのです。
613革命的名無しさん:2008/12/12(金) 18:48:44
812 名前:OFW :02/07/21 10:51
>>809
>「ホンシツ」は止めてくれよ。
19世紀末頃から、古典的資本主義経済の行詰りと歩調を合わせるかのように、
西欧哲学上の認識論および存在論の世界でもホンシツ論が消え去り、現象主義が主調となったが、
それは確かに実証諸科学の脱哲学化に対抗した哲学の敗北の結果とも言える。
(例:「カントに帰れ」から「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」「事物の本質を問うより、
その存在を問え」までの理性的批判精神の衰弱の過程)。
しかし「現象(現わるがまま)が本質(あるがまま)と一致するなら、およそ学問など不要であろう。」(マルクス)
という事情があるから、科学者そして哲学者も「ホンシツ」を止めるわけにはいかないでしょう。

>言説の「意味」が根こそぎ抜け落ちるから。
19世紀末頃に、ソシュールが一般言語学を講義して、
言説の「意味」をラング(記号体系)の共時的・恣意的差異性に還元して以来、
言語学の研究対象から言説の「意味」が根こそぎ抜け落ちてしまい、
言語の本質(言語行為としての象徴的(代理的)コミュニケーション性)が見失われてきた。
前に挙げたI.A.リチャーズや時枝誠記は、共にソシュールに対する批判者であり、
<言説の意味>とは何かを正しく捉えた、つまり言語本質論を展開した、数少ない学者あるいは思想家でしょう。
つまり、ホンシツが無ければ、およそ言説は意味のないもの(無根拠な恣意)になる、ということです。
614革命的名無しさん:2008/12/12(金) 18:52:01
892 名前:OFW :02/07/27 10:23
>>819
>(文献)史料の文言(言説)とその解釈こそが全て
>それを書いた人物の思想などを再構成することは不可能という考え方
>哲学的分類では解釈学的現象学の亜流と考えてよいのでしょうか。
歴史学の動向については余り詳しくないので、的確な回答はできないと思いますが、
私は、<歴史>は哲学にとって最後のテーマであり、すべての反省的思考が収斂して行く場所と考えています。
まず、現象学について言えば、現象主義よりむしろ本質主義の面が重要でしょう。
それは客観的・超越的本質は立てないが、現象のうちに形相的・志向的本質(<意味>)を立てる。
それは非歴史的な存在です。
次に、解釈(学)について言えば、ガダマーといった解釈学派の現象学者は、
現在の人間が行う歴史文献(テキスト)の解釈によって明らかになる<テキストの意味>は
つねに解釈者に相対的だという事情を理解していたようです(『真理と方法』)。
しかし、「新しい経験による先入見の修正」という解決策は、むしろ非方法的なものと言え、
既にあった現在と現存する過去との連続性の認識のためには、現在的自己の相対化(対象化)が必要でしょう。

>>820(819さん)
>戸坂潤『科学論』
>四つの研究方法(分析・解析・統計・実験)
ttp://isweb35.infoseek.co.jp/school/pfeil/B1/FRAMEB1_2.HTM
戸坂の分類は幾分類型化しすぎだと思うが、史料解析(歴史データの情報化、
つまり構造化ないし組織化)は歴史概念の形成のために必要な一操作、ということは言える。
分析・綜合はその後にくる判断のタイプであり、それらは推理に発展する、というのが弁証法的な認識論です。
過去世界総体とその通時的な変化(内発的発展・衰亡)の認識のためには、
社会の本質論を踏まえなくてはならない。
615革命的名無しさん:2008/12/12(金) 19:32:42
914 名前:OFW :02/08/02 03:12
>>906(ふにゃぽんさん)
>そのさいに、いわゆる「南北格差」はどうなるんでしょう?
南北格差とは“先進”工業国資本の“後進”諸国に対する植民地的な収奪の結果として理解すべきでしょう。
収奪のない社会間では互恵互譲が原則であり、豊かさは「北」から「南」へ還流する(格差解消)。
>「プロレタリア」とみなしていいのでしょうか?
賃労働者とは政治経済的な関係存在であり、
資本(増殖する貨幣価値)があれば必ずそこには賃労働(者)があります。
また自然条件や歴史を異にする諸社会が相互作用した結果として近代世界が形成されてきたが、
その普遍力はもともと<共に働く人類>のもの、その発現です。
同じ労働者の連帯こそが人類の普遍(歴史貫通的な自然)だということ。

>「同時革命」は遂行されるべきなのか?
世界革命と世界同時革命は異なり、特に後者は日本の新左翼(赤軍派等)が使用した用語ですが、
殆ど現実性のない冒険主義的戦略だった。共産主義の内容は国際的・普遍的なものですが、
その具体的な形態や発展の過程は国や民族によって一様ではなく、
一見反動的な運動の中にその萌芽がある場合もある(例:イスラム原理主義)。
現代の世界革命は単なる政治的総力戦よりは
むしろ社会的そして思想的(精神的)な主体形成の面が重要であり、
故石堂清倫氏がグラムシを受けて述べたような、<新しい「陣地戦」>といった粘り強い戦略が立てられるべきでしょう。
(ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~ikawag/isidoubunko.htm#bunko9
>>907(ふにゃぽんさん)
>「国家主導型」では、いけないのか
これからの時代は国家の役割など急速に無用なものとなり、
その社会的機能(共同的利益の遂行)は本来の社会の中に回収されて行くだろうことは殆ど疑い得ない
(例:国際的NGO)。
国家(階級対立の隠蔽)は少数者の支配にとってのみ必要であり、
多数派(世界的広がりにおける労働者階級)が社会権力を握った場合には、国家は存立の根拠を失う。
「プロレタリアは祖国をもたない」存在であり、世界に遍在している。
616革命的名無しさん:2008/12/12(金) 19:36:31
918 名前:OFW :02/08/03 12:58
盆踊り(とその後)で飲み過ぎた・・・気持ちワル・・・
>>915,916(ふにゃぽんさん)
>「国家」とは・・・有史以来、常に人類にとって普遍的な共同体
ではなく、階級対立は国家の根拠です。
最古の支配階級(祭祀、僧侶階級)は精神労働と肉体労働の分離(霊魂の独立)を説き、
幻想の共同体=国家を司る(例:大和朝廷と現代の皇室)。
>「町」だとか、「県」だとか、「家族」のような他の・・・「共同体」
盆踊りは町内<会>主催の<祭>でしたが、消防団が櫓やテントを設営、
地元の警察が交通整理(唯一の合理的機能)、婦人会が進行、子ども会が参加、の共同運営でした。
<伝統的共同体>(マルクス)は<会>として、祭りの中に微かに存続している。
「ストライキは祭りのように町中に広がり、生産活動は自主的に組織されていったが、
最終的に国家(連邦警察)の登場により粉砕された。」
(ジェレミー・ブレッヒャー『ストライキ!アメリカの大衆ラジカリズム』からのパラフレーズ)
>「生産力の発展」は、「資本主義」に任せなければならないのか
全然関係なし。生産力は資本主義によって発展したのではなく、
協働的な生産と連携した科学技術の発達や労働組織の有機化によって発展した。
>現代の段階あたり・・・で、「プロ独」を行うとマズイのか
全然問題なし。
階級廃絶は可能というより、現代では現実的(他は不可能であることが既に現れている)であり、
プロ独がその現実性です。
>「家族、結婚制度」「私有財産」等
かっては結婚制度は(人間が唯一の生産力であったため)それ自体生産関係(下部構造)でしたが、
その理想は(“かけがえのない”全ての相手といった)無差別的なものではないかな。
>自己の労働力によって、獲得したものを、備蓄しておくということ
自分のものと他人のものの区別(私有=排他的所有)はなくなり、
不慮の災害・事故に対する備えはすべて社会的なもの(共有)に置き換わる。
617革命的名無しさん:2008/12/12(金) 19:38:07
919 名前:OFW :02/08/03 12:59
>>917(あちょーさん)
>プロレタリア社会はリーダーシップ無き社会
プロレタリア=(賃金)奴隷は自己を解放することで自分のリーダ(自己決定者)になる。
現代の<プロレタリア社会>=資本主義社会のリーダーシップ(例:コーポレイト・ガバナンス)とは
他人の支配でしかないでしょう。

>ブルジョアとプロレタリアの定義
ブルジョア=生産手段(労働対象と労働手段)の私有に基づき、
労働力商品(価値の源泉)を買って商品を生産・販売することにより、価値の自己増殖(資本)を遂行する階級。
プロレタリア=自己の労働力以外に売るもの(商品)を持たない階級。
ブルジョアはプロレタリアの主人だが、それはモノがヒトの主人だということ。
それは近代固有の社会形態(非人間関係)です。
618革命的名無しさん:2008/12/12(金) 19:40:49
923 名前:OFW :02/08/04 13:08
>>920
>競争や自由という概念はどうなのさ
競争とは、稀少な生活資源(および生活条件)を巡って個体間で争うこと(例:バン食い競争)であり、
外的必然として自由の反対です。自由は解放(自由になること)の下位概念(その結果)であり、
豊饒な生産活動に基礎を置く場合に現実のものとなるでしょう。

>>921
>「国家」はどのような、形式、内実のものであれ、消滅するべきなのでしょうか?
歴史上の国家は階級分裂後の共同体とともにあり、その上部にそびえる社会構成物ですが、
それは<共同体成員の共通利害>を代表した。
近代になり、<政治的国家>と(非政治的)<市民社会>との分離が果たされたが、
国家(政府)の社会的機能としては
1.公共事業:治水灌漑、水道、ガス、電気等の社会インフラ整備
2.社会的な安全対策:災害対策、治安、防犯等
3.公的サービス:教育、医療、交通、通信

また政治的・イデオロギー的機能としては
1.軍事、外交
2.法政治:立法、行政、司法
3.いわゆる権力政治:宣伝、折衝、脅しと祀り、懐柔・・・

また経済的機能としては
1.租税:公的資源の徴収
2.財政:富の再分配
3.金融:貨幣(通貨)の発行、管理
と大別できるかな。

国家の本質に<権力>があり、それは集団成員の意志を統一するために必要な強制力ですが、
社会の中には種々の権力があり、国家権力も<国家の複数性>という事実の前には絶対性を失う。
さて、上記のうち<国家>でなければできない機能、はどれでしょう?
619革命的名無しさん:2008/12/12(金) 19:45:36
うんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりげっそりげっそりげっそりげっそりげっそりげっそりげっそりげっそりげっそりげっそり
620革命的名無しさん:2008/12/13(土) 03:17:35
このスレの人、予定調和思考しかできないようだね。いってみれば動体視力がないため、静止し、動かない対象しか見れない。〈三体問題〉は解けないからそんな現象は存在しないと逃げを決めつけるようなもの。
621革命的名無しさん:2008/12/13(土) 05:47:58
924 名前:OFW :02/08/04 13:10
>>922(あちょーさん)
>他人を支配しないのは社会のリーダーではないです。
他人の<指導>と他人の<支配>は違います。

>自己中だけの社会はリーダーシップ無き社会ではないでしょうか。
プロレタリアは自己中ですか?

>権力、暴力によって税を搾取するのはどちらに分類されるでしょうか。
もともと税とは公共的な仕事をするために必要な資源であり、
社会全体でまかなうべき予備費といったもの(備蓄、相互扶助、インフラ整備等)。
権力を使って搾取?するのは支配階級とその政治的代理人だけですね。
そもそも「搾取」「自分(他人?)のお金」とは何でしょう?

>自分のお金を金庫に保管するとプロレタリアで、株式投資するとブルジョアになるのでしょうか。
違います。
ブルジョアとは社会的な集合(統計)概念ですから、個々の投資家がそのままブルジョアではない。
主たる収入を継続的に株式配当あるいは役員報酬から得ていれば、ブルジョアの一員と呼べるが。
622革命的名無しさん:2008/12/13(土) 05:49:52
932 名前:OFW :02/08/06 06:46
>>930‐931(あちょーさん)
>どう違うのでしょう。
排他的な自己の下に相手を包摂する(相手の意志を自分のものにする)ことが支配ー隷従関係であり、
相手を自己と同類の独立した主体とみなして互いに高め合うことが指導ー被指導の(教育的)関係です。

>自己の労働力以外に商品を持たない階級だけ
しかいない社会とは階級区別が無い社会(無階級社会)であり、社会は独立した諸個人の協働体となる。
それは商品も通貨もいらない社会。

>自分のお金は自分が自由に使うことを認められているお金です。
他人のお金を自分が自由に使うことは認められていませんが、
<自分のお金>と<他人のお金>の区別の根拠はどこにあるのでしょう?

>投資家でも、継続的に収入を得られない場合はプロレタリアなのでしょうか。
階級区分としての賃労働者(近代プロレタリア)は通常、
企業主や自営業者に雇用される被雇用者(「サラリーマン」などと呼ばれています)。
バブル期以降、日本でも高給取りのサラリーマンが投資をするようになったが、
投資によって生活費の大半をまかなえる程になれば、
会社を辞める(つまりプロレタリアでなくなる)でしょうね。

>社会的、公共的事業を行うものを国家と呼んでいる
公共的(public)は私的(private)の反対ですが、社会的(social)とは両者の統一したあり方を言います。
現在、個々の公共事業は実際には私的な企業(あるいはその連合体(ゼネコン))が行っており、
国家(政府)はその決定、発注をする機関ですが、国家の主体は誰でしょう?
623革命的名無しさん:2008/12/13(土) 05:53:06
937 名前:OFW :02/08/12 01:07
>>936(ふにゃぽんさん)
>彼らを、義務としての労働に向かわせ、かつ、「怠け」に向かわせないモチベーションは何か
日本国憲法第27条「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」とあるように、
労働が全国民の法的な権利および義務とされたのは近代国家に特徴的です。
(資本家(使用者)は義務を果たさず、非自発的失業者は権利を奪われている事実に対して、
憲法は無頓着ですが。)
実際の労働現場では、近代以前からの「仕事は大切」というモラルが生きており、
働けるのに働かない者は嫌われるもの。
確かに「資本家やそのイデオローグ達は労働を神聖化する。」(マルクス)が、
誰も生産手段を奪われて、強制された労働などしたくないのはあたりまえでしょう。
つまり<労働の解放>とは自由・自発的な労働の実現を言うのであり、
「(法的)義務としての労働」が存在する場合、未だ労働は疎外されている。何故なら、労働とは概念上、
自然における人間の(肉体的・精神的)生命力の発現(自己の現実化活動)以外の何物でもないから。

>生産緒手段をさらに発展させるものがあるとすると、
>現在の資本主義における競争原理に代わるものがあるのでしょうか?
生産手段の発展とは、人間の自然に対するコントロールの増大であり、
豊かな自由に向かうための現実的条件です。
競争がそれを促進するという外見は実状とは異なるものであり、
排他的な利己心が豊かな社会を築く原因にはならない。
<神の見えざる手>とは、<理性の狡知>というシニシズムと同様、
協働的人間間のコミュニケーション不足です。

>宗教団体のコミューン
「宗教とは人間の類的本質の自己疎外であり、
 <神>とはそれがある疎遠な主体として立てられたものである。」(フォイエルバッハ)
地上のコンミューンは疎外の克服であり、
働く(つまり現実の)共同体として現在(即自的に)実践していることの実現に過ぎないでしょう。
624革命的名無しさん:2008/12/13(土) 06:00:32
948 名前:OFW :02/08/18 08:57
>>944(ふにゃぽんさん)
>その社会が本当に必要とする労働量=労働力と、各個々人が、自発的に行う労働総量が、
必ずしも一致するとは限らない
>>21でも少し触れましたが、各種生活財を必需品、便宜品および贅沢品に分類した場合、
必需品(その範囲も社会水準と共に可変的ですが)については、その社会的需要(種類・量)を
予測・算定・調整することは十分可能でしょう。

1.社会インフラ・基礎的福祉の種類と量・電気、水道、ガス、医療、教育、防災、交通、環境保全等
2.社会成員の基礎的な生活財・サービスの種類と量・いわゆる衣食住に関する物資・サービス
3.上記を生産するために必要な生産財の種類と量・原材料、生産施設、機械設備、道具等

上記の“シビル・ミニマム”が与えられれば、その生産に必要な労働力(質と量)を算出するのは
技術的な問題であり、資源と労働力双方の産業連関的な必要量は経験的および科学的に
算出可能でしょう。
それらは社会の存立にとって<必要な部分>であり、その運営(管理と運用)には
社会の全成員が機動的に(交代的に)参加すべきものです。
さて、財および労働の両面について<必要を超える部分>をいかに規定するのか。
むしろそれは無規定な<自由・自発の領域>であり、
その労働は諸個人の熟練および才能のボランタリー的な相互供与として、
非経済的(文化活動的)なものになるでしょう(価値法則の廃棄)。
625革命的名無しさん:2008/12/13(土) 06:04:34
953 名前:OFW :02/08/21 06:06
>>951(ふにゃぽんさん)
>「私有財産」という形での報酬
いわゆる消費財(衣食住等)と呼ばれる生活手段の一部は個人的あるいは家族的に使用する外なく、
協働的生産の成果を各人に再分配するという形式をとることになるでしょう。
ただし、世界的にみて既に「能力・働きに応じた」分配は「必要に応じた」分配に転化可能な程の
生産力レベル(各人にとって必要なものは十分に生産できる)に達していると考えられるから、
分配について余り悩むことはないでしょう。
ブルジョア政治経済学では<分配の公正>について議論が盛んなよう(ベンサム、ナッシュ、ロールズ、
ハーサニー、ノージック、セン等)ですが、
資本主義的私有財産制度の矛盾(結合された生産と私的な取得)を前提にして、
報酬(賃金および資本家利得)の正しい基準など得るべくもなく、
個人の社会的能力に対する無報酬が共産主義的な原則です。

>サボタージュして仕事にあたった場合の「ペナルティー」
概念上、働くこと=自己の活動能力を発揮すること、ですから、
サボタージュ=<自己をサボる>こと、ですね。それは現在のような、
疎外された労働(他者としての労働)状態下での<自己を奪回する>行為とは正反対のものであり、
疎外なき状態でサボりは如何にして可能かな?

>その仕事への「評価」
価値法則の廃棄と共に、一切の評価=(経済的)価値判断は不要となる。
後世の歴史家が「かって価値というものがあったが、
ある思想家が『価値の源泉である労働(仕事)自体は無ー価値である』と洞察して以来
誰も仕事の評価などしなくなった。」と書くかどうか・・・。

>そのシステムおよび、労働者への「監視」
モノ(生産・流通)の監視は重要ですが、“民主主義的生産システム”(笑)では、
他人の監視は不要でしょう。
すべては公共的(万人に開かれている)に運営され、自己(経営者としての労働者)が見ている。
626【緊急告知】:2008/12/13(土) 11:55:47
 あした10時40分から25分間、テレビで共産党の大宣伝!!
☆14日(日)サンデープロジェクト(テレビ朝日系=午前10時から)に『今なぜ共産党か』と題して10時40分ごろから約25分間、日本共産党の志位委員長が語ります。
627革命的名無しさん:2008/12/14(日) 11:30:20
スレタイには「・・・共産党員のスレ」ってあるけど、
ずーッと読ませてもらったけど、このOFW氏のコピペって
完全に新左翼の理論だよね。
日本共産党員からのカウンターつか反論なんかは無いの?
628革命的名無しさん:2008/12/14(日) 17:08:43
>>627
無いね。
代々木の連中は今や『資本論』は禁書扱いだからね。
629革命的名無しさん:2008/12/14(日) 17:17:34
少しは見直したよ!熱烈な共産党員じゃなくて、醒めた目で見ているんだね。
630張作霖爆殺とコミンテルン:2008/12/14(日) 21:19:28
【張作霖爆殺の真実】1/3 田母神論文「コミンテルンの謀略」【桜 H20/12/13】
ゲスト:瀧澤一郎(国際問題研究家・元防衛大学校教授)
http://jp.youtube.com/watch?v=HTh1yMkmuK8&feature=channel_page
http://jp.youtube.com/watch?v=XsbC3BK9auU&feature=channel_page
http://jp.youtube.com/watch?v=233fsKFGurI&feature=channel_page
(3分50秒辺りから本題)

防人の道 今日の自衛隊 『田母神論文が問うた「コミンテルンの謀略」 』1〜3
http://jp.youtube.com/watch?v=pdASo00PbpQ
http://jp.youtube.com/watch?v=g-I5p8_DmQk
http://jp.youtube.com/watch?v=CpdKkvXIBpk

大東亜維新史観 概説
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5193993
http://jp.youtube.com/watch?v=EC2rwzYh890

【マスコミ】コミンテルンと大東亜戦争【田母神閣下支持】
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/mass/1228229525/
631革命的名無しさん:2008/12/14(日) 22:48:15
632革命的名無しさん:2008/12/16(火) 00:38:20
OFWさんのコピペここでも貼られてるのか、懐かしいな。
哲学には詳しい人だったけどやっぱり>>624は間違ってるよね。
情報量が大きすぎて算出不可能なのが真実。
というより、そもそも各種生活財を必需品、便宜品および贅沢品
に分類できうると考えることがすでに転倒している。
633革命的名無しさん:2008/12/19(金) 11:30:06
おい、OFWのコピペマン、なんでそんなに不定期なんだよ?
もっとバシッって決めろ!
634革命的名無しさん:2008/12/19(金) 11:45:33
哲学板で数度にわたり論破されているOFWがここでは人気なのか?
635革命的名無しさん:2008/12/20(土) 16:05:17
>>634
そいつは初耳だんな。
OFWが論破されはったスレタイって何でおます?
636革命的名無しさん:2008/12/21(日) 11:46:30
「セーの法則」でググれば、一番最初に来るサイトにこんな文章が。
----
セーの法則とは、「供給はそれに等しい需要を作る」と定式化される
販路法則のことで、フランスの経済学者J-B.セーにちなんでこう呼ばれる。
J.M.ケインズは、セーの法則を信奉する経済学者たちをまとめて古典派と
呼んで、その倒錯性を批判した。
----
「命がけの飛躍」に至らない部分での、マルクス経済学の論理って、
これを前提にしていると思うのだが。
637革命的名無しさん:2009/01/22(木) 12:17:01
マル糞なんかいいからさぁ、早くヘーゲルでOFWのコピペしろや!
638革命的名無しさん:2009/01/22(木) 12:24:49
>「命がけの飛躍」に至らない部分での、マルクス経済学の論理って、
>これを前提にしていると思うのだが。
そりゃそうでしょ。
オリジナルは需要=供給の<=>部分に埋没あるいは隠蔽されてしまう
ものを顕在化させたことでしょ。
639革命的名無しさん:2009/01/23(金) 09:15:28
>>638
まさに。
640革命的名無しさん:2009/02/02(月) 16:11:18
OFWは機械的な唯物論者。あれで唯物論研究会の会員だったらしいが…。
ヒサンだなあ…
641いったん始めたら最後まで行けや!!!:2009/02/14(土) 19:24:33
964 名前:OFW :02/08/24 16:44
>>956(ふにゃぽんさん)
>「シビル・ミニマム」さえ嫌い、行わない人間がいるとどうなるのか

現在のような疎外された労働の状況では、ブルジョアおよび労働者双方が<それ>(ブルジョアにとっては労働自体、
労働者にとってはその疎外された形態)を嫌うことには理由があり、むしろ必然的な反応です。
しかし「労働が第一の生命欲求になる」(マルクス)という言葉に意味があるなら、疎外の克服とは労働による人間の
回復を言い、個人が<それ>(=階級消滅後の生命欲求充足行為としての労働)を嫌う理由は見出せない。
たとえば、空腹時に目の前にある食物に手を伸ばすことを嫌う拒食症患者のように、そこには別の理由
(例:死を望むという疎外された生命欲求)があることになり、その場合は教育的あるいは治療的な対応が必要ですね。
また、(倫理的)義務とは自己の本質に従う自覚的あり方を指し、「汝為すべきことを為せ」とは、必要(他律的欠如)
から自由(自律的充足)に向かう欲求に従え、ということです。 

>>957
個人的な事柄の質問は措くとして・・・発展を止めることになるのでは?
>>948でも触れましたが、必需品・便宜品・ぜいたく品の種類・範囲は社会の豊かさと共に可変的です
(少し前に、生活保護を受けている老婦からクーラーを取り上げた民生委員がいたが・・・)。
シビルミニマムとは測定されるべき社会水準であり、そのための財の生産が計算(計画)されるということです。

>ボランタリー的労働の動機付けをなにに置き換えるつもり?
「人間は社会的動物である」(アリストテレス)であり、類的自己の実現ということでしょう。社会連帯、
コミュニケーション、相互交歓等。

>ゲームばっかりしてたりして可能。
ゲーム(遊び)と労働の対立はなくなる(仕事本来の創造的活動という姿には遊びの要素が多分にある)から、
サボってまでゲームをやる必要もなくなるでしょう。
642いったん始めたら最後まで行けや!!!:2009/02/14(土) 19:26:40
981 名前:OFW :02/08/27 23:21
>>966(957さん)
>国家的(社会全体的)に行われ、強制力を持って実行され
概念上および歴史上の両面から言って、国家と社会(現実の共同体)は対立的な存在です
(例:<国際社会>は国家の上位(下位?)にある)。
強制力(権力)は疎外された社会の中(つまり外部)にもあるが、内部の権力とは自己決定のことですから、
強制(働かされる)のではなく、自ら働くことです。外部の力を自己のものにする過程が社会の発展です。

>どんな学習過程を経てきたか
特別なものはない。<真理>に向かえ、とか。

>>972,973(高ぞう→将軍さん)
>商品と価値の哲学・・・では・・・静的な見解があらわされている
労働価値説とは「価値の実体は労働である」ということです。
<実体>とは、偶有的諸関係を貫く全体として必然的なもの、であり、<必然性>とは、他在(他様)である
可能性の否定、ですから、価値実体論とは結局<不動の過去>が支配する資本主義世界の本質を明らか
にすることです。価値の必然性(価値法則)が支配する世界は静的であり、「生あるものは餓死するしかない」
(ヘーゲル)飢餓的な世界です。マルクスはそのことをそのままにあらわしただけです。

>個人レベルの現実を、無視すること
原子的個人の実存(現存在)は欲求ではなく、欠乏というのが相応しい。
そこには個人の根拠としての社会がないからこそ、むしろ価値(欲求の欠如態)が社会の代わりとして諸個人を
結合する。個人は他の個人に向き合うのではなく商品に向き合い、社会的欲求を物への欲求(所有)にまで
極小化させる。それが個人レベルの現実でしょう。

>個人レベルの交換の場では、現実的に流動的な面が多く、静的な価値論には合わなくなってくる
交換とは常に社会レベルの行為であり、直接的な価値形態(物々交換における偶然的な面)が貨幣形態に
まで発展するのは、<社会の現実性>が現れてくる過程です。無論それは物象化された疎外においてですが。
643いったん始めたら最後まで行けや!!!:2009/02/14(土) 19:28:13
次はヘーゲルでお茶をにごすかな。
ほな、良い週末を。
644革命的名無しさん:2009/02/14(土) 20:54:55
>>643
四の五のと前置きはいいいから、早くヘーゲルをやれ!つーの。
ずーっと前から頼んでんのにさぁ。
やっぱ団塊の死に損ない世代って、頼り甲斐がねーよな。
645革命的名無しさん:2009/02/14(土) 21:13:50
[155] 自分のPCに保存しあった小室本への私の書評文に、手を加えた。これを定番とする
投稿者:副島隆彦 投稿日:2001/11/24(Sat) 15:12:04
http://snsi-j.jp/boards/mail/4.html

たとえばカール・マルクスの思想の大柱のひとつに、”疎外”がある。この疎外は、エントフレムデュンクという
ドイツ語の訳語であるが、これは、「人間疎外」とも訳されて来た。日本では社会主義者たちだけでなく、
ほとんどの知識人が、この「疎外」を、「近代社会が個々の人間に対して冷淡に振るまい人間性を疎うとんじるに
至った悪い性質のことである」と理解し、そのように何十年も教え合って来た。そして、この「人間疎外から
いかに人間性を回復するか」という考え方をして来た。このように「疎外」を、きわめて感情主義(あるいは
人文じんぶん主義)的に理解して来た。
これが日本独特のマルクス主義である「主体性理論」である。梅本克巳から吉本隆明に至るまでほとんど全ての
左翼知識人が、このように理解した。この日本の新左翼系のマルクス主義の「主体性理論」と、北朝鮮の金日成の
「主体(チュチェ)思想」と、では、その根幹において、一体どれほどの差があったといえるか。実際上、
ほとんど変らないのである。日本の左翼思想などというものは、この程度に、低レベルなのである。
小室直樹は、この「疎外」こそは、まさしく「人間のつくる社会及び市場には法則がある」ということの別の
表現だ、とはっきり正確に理解していた日本では、稀有の、世界基準の学者である。「神の見えざる手」と
アダム・スムスが呼んだところの「市場」なるものが、「人間の個々の、恣意性や願望や意思などでは、
どうにもならない、自然界を貫く法則性のことだ」と、小室直樹は、はっきりと正しく理解していた。そして、
「疎外」とは、この「市場」なるものの、まさしくカール・マルクス的表現であったのだ。
646革命的名無しさん:2009/02/14(土) 21:14:17
そして、同時に、この考えは、西欧の全ての近代経済学者・政治学者・社会学者の採る根本的立場なのだ、
とする。この「疎外=市場=人間世界を刺し貫く法則性」のことと、同じことを、ジークムント・フロイトは
「フェティシズム(物神化)」と呼び、デュルケムは「社会的事実(フェ・ソシアール)」と呼んだのである。

この、人間の主観から独立した冷酷な経済法則の貫徹は、たとえ、王様でも、独裁者でも阻止することは
出来ないのである。それを、強力な権力を持つ支配的な人間たちの意思で、勝手に動かせると傲慢にも考えたのが、
日本の官僚たちだ、と小室直樹は、断定する。このようにして、この10年の間、経済政策(財政政策と
金融政策の両方)にことごとく失敗した日本型の統制経済が、今、死の宣言を受けつつある。
647革命的名無しさん:2009/02/14(土) 21:16:22
突き詰めると、リベラル派と保守派はお互いにねじれてしまう。政治的な表面課題で、右(保守)だ、
左(リベラル)だと言っていがみ合っていれば済むのは、表面でだけで生きていられる馬鹿たちだけ
でよい。自分が日本的保守だから、だから正しい、という証明などはありはしない。
それよりは、自分は朝日新聞でけでなく、長年のアメリカ・グローバリストの洗脳もかろうじて撃退
できた人間だから、だから優秀なのだ、という内容の証明にすべきだ。
日本の保守派言論人・学者どものあのグローバリストの手先ぶりを見てみるがよい。哀れを通り越す。
中川八洋筑波大学教授のような、CIAのインフォマート(情報提供者)をやり、かつ国際勝共連合
(ムーニーズ、原理協会)の賛同者が、この現象を表面的にとらえて、日本の右も左も「甲殻類」
などというのを、私が黙って見逃す筈がない。中川の近衛文麿研究や、ルーズベルト理解にも
そのうち鉄槌を下す。

自分が「共産主義という病気」に罹らなくて済んで、ああ、よかった、という時代的な特権を唯一の
自己正当化根拠にして、しがみついて、それを自己の政治正統性にしようという程度の頭では、この
先の嵐は、どうせ乗り越えられない。現に今、自分が何かの病気(洗脳)に陥っていないと、自信を
持っていえるか、そこが大事な点なのだ。
(中略)
知恵遅れや精神障害者、あるいは犯罪性向者の問題を扱うときに、突き詰めれば保守もリベラルも
ないのだ。環境問題にしてもそうだ。政治的な、右、左でこれらの問題が解決することはない。
理科系の学者たちが、政治イデオロギーで、サイエンスの実験をしないのと同じことだ。予めこの
立場が正しくて、などというものは、サイエンスにはない。だからソシアル・エンジニアリングも、
元をたどってゆくと保守派の道具なのかリベラル派のおはこなのか分からなくなる。動物実験を、
人間にもやってみたくて仕方がないから、やった、ということだ。それも、ある人間の個体にやる
のではなく、その国民(部族)全部に、その実験を施すのだ。だから怖いのだ思想洗脳は、病原菌と
同じくらい怖いものだ。自分自身が、感染していることが前提だ。

副島隆彦「属国日本論を超えて」P122〜123
648革命的名無しさん:2009/02/15(日) 10:59:59
どなたもヘーゲル関連コピペをされないようなので、
わたしがやりますね。
6番がOFW氏とのことです。

10 名前: 6 投稿日: 2000/08/25(金) 20:27
>9
違います。逆に全体主義は非弁証法的なもので、たとえばアドルノの「否定の弁証法」はまさにファシズムおよび
スターリン主義が荒れ狂った時代を身をもって生きた経験の上に書かれたものです。
弁証法が忌み嫌われるのは、端的に言えばそれが「革命的な」精神を育てるからであり、現状維持を望む知識人
および為政者等は何としても非弁証法的な思考を押し付けようとやっきになるでしょう。
649革命的名無しさん:2009/02/15(日) 11:01:16
12 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 00:41
>7
>「歴史の終わり」とは弁証法的意味で使われているのであって・・・
意味がよく分かりませんが、私の言いたい事は「歴史の終わり」という主張は非弁証法的だという事です。

>11
そうではなく、8さんの「何故弁証法が忌み嫌われるのか?」と言う質問に対して、9さんが「全体主義につながるから」
と政治的な理由を挙げられたので、政治的な点に絞って嫌われている理由を言ったのです。
勿論「難解だから嫌われている。」「形式論理に反するから嫌われている。」と言う答えも有り得ます。
当然、二分法で「あれかこれか」はヘーゲル弁証法とは無縁ですね。
650革命的名無しさん:2009/02/15(日) 11:02:21
18 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 02:59
(目が覚めてしまった)
15、16は全体化、同一性に対するアンチとして弁証法があるという点でそれ程異なった意見ではないと思う。

私がアドルノを持ち出したのも、ヘーゲルのジンテーゼ(総合)という契機は狭い意味では非弁証法的で、
彼自身も「思弁的」契機と呼んでいるという点を、全体主義=弁証法という「余りにも」な見解に対して
言いたかったからです。
651革命的名無しさん:2009/02/15(日) 11:04:47
21 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 15:15
と言う事で、ヘーゲルは弁証法を近世において復活させたが、その(遅れたドイツに媚びを売った)政治イデオロギー
によって自らを裏切った。
・・・これが歴史の終わりB
逆に言えば、(マルクスが言っているが、)政治的に遅れたドイツだったからこそ、却って哲学的には弁証法という
革新的な思考が生まれ得た。
・・・これが歴史の弁証法的な進行例@
さらに言えば、遅れた帝政ロシアにおいて社会主義革命が成功した理由は何か?
そして、成功したのもつかの間、結局スターリン主義という国家資本主義体制の下での
似非弁証法(例:不均等発展の法則)が公認のものとなった理由は何か?
要するに、現実の世界史の中ではどのような停滞、反動も結局許されず、
虚偽の体制はやがて没落の時を迎え、新しい主役に道を譲らざるを得ないと言う事、
これが弁証法的な意味での必然性の洞察でしょう。
つまり、歴史の真理と人類の解放に向かう媒介的・批判的・現実的な運動、
これが弁証法と呼ばれる実践的・主体的・類的な働きと言えるのではないでしょうか。
無論、「歴史の真理」などという抽象観念は具体的分析と主体的実践の契機を忘れると、
つまらない「最後の審判」論あるいは非弁証法的な観念論に堕してしまうが。
アドルノの場合、弁証法を余りにも観念的なものに止め、批判を全体主義イデオロギーにだけ限定し過ぎた。
唯物論的な根拠(人間の自然史)について無理解であり、プロレタリア的ではなく、
小ブル的な抽象論議に堕している。
そのため、その論述は論理的と言うより、個人の主体性を守れという倫理的な色彩が強い。
652革命的名無しさん:2009/02/15(日) 11:06:41
25 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 20:11
さてしかし、このスレのテーマであるヘーゲルの評価について言えば、
アドルノあるいはデリダが称揚する不協和あるいは差異性(差延性)といったそれ自体あまり役に立たない
直接的な表象をもって反発するだけでは、余りにも安易と言える。
それらは、現実の歴史を規定してきたものがヘーゲルのもたらしたパラダイムだと言わんばかりである。
20世紀の思想的閉塞状況あるいはファシズムの原因がヘーゲルの絶対的観念論
(あるいはそれに代表される何物か)にあると錯覚する程ばかげた事はない。
そんな考えは小ブル的な知性の脆弱さを示すだけであり、
彼らの属する中産階級固有の肯定かつ否定の両義性をごまかしているだけである。
「全体主義には反対、しかし共産主義にも反対。」
これが、決して団結しない不協和あるいは決して階級として統一されない差異性を後生大事にしたい
否定的かつ肯定的な弁証法(むしろ反弁証法)の正体である。
ヘーゲルならば、そのような退廃的・逃避的な小精神を大いに哄笑するであろう。
653革命的名無しさん:2009/02/15(日) 11:07:42
27 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 20:34
>26
どうもスミマセン。ちょっとヘーゲルぶりをしてみたかったので・・・。
私がヘーゲルを評価するのは、弁証法論理において反省(反照)規定をそれとして明確に取り出したという事ですね。
私の論理的思考はそれによって大いに鍛えられました。
特に現代の科学や哲学において相対主義や主観主義が蔓延しているのは、
本質論をしっかりやるという姿勢がなくなったためで、
本質論に関してはヘーゲルを参照せずには論理的な裏付けは得られないと思っています。
654革命的名無しさん:2009/02/15(日) 11:09:03
33 名前: 6 投稿日: 2000/08/29(火) 20:50
>32
>弁証法って結局どういうモノなの?
一言で言えば、「事物を生成発展の相で捉える見方」かな。
勿論これでは、具体的な内容はまったく分からないので、もっと説明が必要ですが。

>いろんな本にチャレンジしたけど、どうもよくわからん。
確かにロクな解説本はないようです。
ヘーゲル『小論理学』を読むしかない。
でも、これは古今東西の書物の中でも難解と言う点ではトップクラスの本です。(いやー苦労した。)
655革命的名無しさん:2009/02/15(日) 11:11:39
37 名前: 6 投稿日: 2000/08/30(水) 21:23
ヘーゲル論理学の難解さの一つの原因はその独特な用語のせいでもあるが、
通常の形式論理学とは違い、論理形式とその対象との間に内在的な関連を認めているからです。

通常の論理学で「xxは真である。」と言う場合、
xxの位置に来るのはなんらかの命題(判断を言い表したもの)であり、
既に主語−述語の関係が成り立っている(対象は主語として言語化(表象)されている)。
後は判断の形式だけを論じるだけで、
元々の主語が正しいか(実在にかなっているかどうか)などは全く議論されない。
しかし、ヘーゲル論理学では概念とその対象との関係を巡って、その真偽が云々される。
つまり、「xxは真である。」と言う場合、xxの位置に来るのは第一義的には「概念」なのです。

たとえば、「質の真理は量である。」などとは形式論理学では絶対に出てこない言い方であり、
「ヘーゲルは馬鹿か?」と言われても良い筈なのだが、
さすがにそこまで言う人が出てこないのも不思議な事です。
つまり、ヘーゲル論理学とは既に認識論(認識はどこまで実在を捉えられるかを問う、
カント的に言えば「超越論的」論理学)でもある訳です。
656革命的名無しさん:2009/02/15(日) 11:14:02
46 名前: 6 投稿日: 2000/08/31(木) 21:14
弁証法とは一方で世界がどう在るのかという存在論でもある。

弁証法的世界観というのは非常に古く、
よく例に出されるヘラクレイトスの「パンタレイ」(万物は流転する。)は
弁証法の精神(スピリット)を表現したようなものです。
つまり、そこでは一切の存在は生成・変化の内にあるという根本的な直観がすべての認識を貫いている。
それは釈迦(仏陀)が(人間を含め)森羅万象至るところに「燃える火」を直観した事にも通じる。
また、マルクスも言う、「人間の思考は常に生成の言葉を存在の言葉に翻訳する。」と。

弁証法の論理は動的、過程的、立体的なものであり、生成・変化を捉え、実在の内奥に迫ろうとする。
それは形式論理の静的、結果的、平面的な、実在に触れない抽象的思考を超えているのです。
否定、矛盾、媒介、止揚といった弁証法の特徴とされる論理形式も根本的にはそこから出てくるのです。

W.ベンヤミンの言葉、「弁証法とは歴史という風を受けて進む帆のようなものです。」
その事はヘーゲルが一番理解していたと言ってよいでしょう。
657阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :2009/02/15(日) 19:07:37
以下の馬鹿記者の代わりに、記事を書いてくれ、資本論を「理解した」
共産党員よ。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-02-13/2009021303_02_0.html
658革命的名無しさん:2009/02/16(月) 18:16:35
52 名前: 6 投稿日: 2000/09/01(金) 10:19
(今日は夏休みだ!)
弁証法論理を理解する上で、私が最も基本的だと思うことは、ヘーゲルも繰り返し言っていますが、
「具体的なものはそれ自身の規定性とその否定との統一である。」という事です。
これはどういう事かと言えば、実在する存在者がそれとして存在しているのは、
その規定性とその否定とを合わせ持つが故に具体的な存在者である、という事です。
それは39さんのように>AイコールAかつ非Aという矛盾律が弁証法の基本原理です。
と言うと少しミス・リーディング(誤解を招き易いもの)になるでしょう。
Aと言う記号は抽象的な規定性自体を指すから私が言う具体的存在者ではないし。
また、イコールという数式記号の喩えだと数的相等性を思い浮かべるから、
統一(より正確には不可分離性)という内容が消えてしまう。
さらに矛盾律というのは元々アリストテレス論理学(形式論理学)用語であり、
「あるものは同時に同一の観点からその否定であることはできない。」という格律を指すから、
上記で言われた事の正反対です。
前にも書いたように、弁証法では単に思考形式だけを議論の対象にせず、
思考対象がそれに合っているか(真の対象か否か)を吟味します。
「対象Aが規定性Aをもって存在(実在)しているのは真実か?」
という問いを発し、それに対して
「対象Aは変化し、Bに成る。故に、対象Aは既にその否定(第一の否定)を内在している。」
つまり、すべての存在者はその没落・消滅の根拠を自らの内に含んでいる、という認識に至る。
この過程的な思考の運動(真の対象への媒介運動)を弁証法と呼ぶのです。
659革命的名無しさん:2009/02/16(月) 18:19:53
55 名前: 6 投稿日: 2000/09/01(金) 20:40
解りにくいのは私の説明が悪いためでしょうから、更に突っ込みます。
「対象Aは変化し、Bに成る。」という事態について、
弁証法論者が「対象AはAであると同時に非Aである。」@と言う場合、形式論理学者はそれを非難して言うでしょう、
「ある対象xはある時点ではAであり、他の時点ではBである。」Aと言うのが正しいのだと。
確かに通常の思考(表象)ではそのほうが自然であり、弁証法論者は逆説を弄んでいるだけの様に見えます。
しかし少し考えて見ると、
Aは「変化の結果」を表現してはいるが、「変化自体」を表現していない事に気づきます。
確かに現在進行形の変化とは直覚されるべきものであり、判断あるいは推論されるものではない。
それは<変化>と言う概念として定着されるしかない。それを命題の形で表現する(分析する)と、
@のような一見矛盾した言い表し方にせざるを得ない。
今ここにあり、次の瞬間にはそこにない。
その変化自体を静止的な存在の用語で表現すると「矛盾」となります。
@は緊張に満ちた「変化そのもの」を分析して、矛盾した契機の統一として表現しているのです。
つまり、「矛盾」は存在するのです。
「直接的な存在は生成に媒介された結果として見られるべきである。」
−例:永遠と見える資本主義も歴史的生成の結果であり、その胎内に自らの滅亡の根拠を抱えている。
(やっぱまだ解りにくいかな。見方の転換が要求されているので。)
660革命的名無しさん:2009/02/16(月) 18:23:44
59 名前: 6 投稿日: 2000/09/02(土) 11:24
>57
(だんだん深みにはまって来た。)
前にも書いたように、ヘーゲル論理学に関してまともな解説書は(少なくとも)日本には無いのではないでしょうか。
古くは武市健人から近くは広松渉まで(さすがに遠慮して)完全な的はずれとまでは言わないまでも、
読んで理解できると言うより、更に訳の分からなくなる事になる。
更に言えば、件のスターリン主義的な自称「弁証法的唯物論者」(日本○産党も含め)の説く弁証法は、
エンゲルスの無理解にもよるが、バカバカしくて話にもならない。
どうせ分からないなら、原著を読んだ方が良いと思うのも自然でしょう。と言う訳で、
『小論理学』(松村一人訳、岩波文庫)を久しぶりに埋もれた本の山の中から探し出してきました。(埃だらけ!)
手元にあるのは下巻のみですが、その「第二部 本質論」全体が反省規定の展開です。目次を見ると、
A現存在の根拠としての本質
   a純粋な反省規定
   イ同一性  
ロ区別 ハ根拠
   b現存在
   c物
B現象
   ・・・
C現実性
   ・・・
となっています。これら全部が反省規定です。
(因みに「反省」というと道徳的なニュアンスが出るし、
ヘーゲルの概念=主体の絶対的観念論に添う形にもなってしまうので、私は余り好きではなく、
反照(或いは反射)(英語でReflection)と言う訳語の方が良いと思っています。)
この位で宜しいでしょうか?私は先生ではありませんので。
661革命的名無しさん:2009/02/16(月) 18:25:21
64 名前: 6 投稿日: 2000/09/02(土) 19:45
>61
エンゲルスの高潔さは好きですが、こと弁証法については余り感心しない。
特に『自然の弁証法』で弁証法を科学と同一視しているのは、
その後のソ連官製哲学から現在の日共にまで至る誤解の原因を作った。
不破委員長までが相変わらず、「我々は科学的社会主義に基づいているのだから云々」などと言うのを聞くと、
「ダメだ、こりゃ。」と思わざるを得ない。
もっとも、教条主義はエンゲルスのいではなく、非弁証法的スターリン主義のせいでしょうが。
662革命的名無しさん:2009/02/16(月) 18:26:51
69 名前: 6 投稿日: 2000/09/03(日) 10:44
現代においてヘーゲル弁証法の再評価が重要だと考えられるのは、繰り返しになりますが、
「本質論」の持つ認識論的な意義です。
特にマルクス『資本論』において商品・貨幣・資本の本質を理論的に説いた冒頭部分の理解は、
明らかにヘーゲル弁証法を必要とします。
戦後日本の「マルクス(主義)経済学」で繰り返された不毛な論争および最近のくだらない(ポストモダン的?)
「貨幣論」の流行は「本質とは何か」を見失った現代科学、哲学の主観主義の典型です。
レーニンも言いました、「ヘーゲルをもっと研究せよ。」と。
663革命的名無しさん:2009/02/16(月) 18:28:13
72 名前: 6 投稿日: 2000/09/03(日) 20:14
>71
レーニンを持ち出したのは失敗でした。
しかし「哲学のレーニン的段階」などとはスターリン主義的御用学者が言った言葉ですよ。
権威主義は弁証法とは無縁です。
自らの生み出した資本という幽霊に日夜苦しめられている労働者こそが最大の権威でしょう。
664革命的名無しさん:2009/02/16(月) 20:09:09
東京都版治安維持法制定へ!抗議するなら今日まで。
1 :非乱暴者:2009/02/16(月) 15:11:25 ID:z5YQMDcx

以下が、その報告書の見出し。

 東京都では、昨年6月に秋葉原、7月に八王子等で相次いで無差別殺傷事件が
発生したことなどから、9月に「東京都安全・安心まちづくり有識者会議」を
設置し、繁華街を昼夜を問わず人々が安心して集い、憩うことができる安全な
場所とするための方策について検討してまいりました。このたび、同会議から
報告書が提出されましたので公表いたします。
 また、同報告書を受けて、「繁華街等における安全・安心の確保に関する考え方」
をとりまとめました。この内容について、都民の皆様から御意見を募集いたします。
http://www.metro.tokyo.jp/INET/BOSHU/2009/02/22j29100.htm

しかし、報告書の内容は、無差別殺人とは一切関係なし。
そのかわり、景気悪化によって増加が予想される、政治や雇用に関する
デモなどの規制が目的で、そういう「路上活動」を禁止しようという話
になっています。

で、これに抗議する場合の、パブリックコメントの締め切りがなんと今日(16日)まで。
上記URLにあるメルアドへ!
665革命的名無しさん:2009/02/16(月) 21:37:12
79 名前: 6 投稿日: 2000/09/04(月) 23:06
>75
レーニンの『哲学ノート』はどこに行ったか見つからないので、正確に引用はできませんが、
ヘーゲルを非常に高く評価しているのは確かです。
確か「殆ど唯物論に近付いている。」とか、
「弁証法はおよそ17、18くらいの格律にまとめる
事ができる。」とかのメモを書いていたと記憶している。
昔、『哲学ノート』を読んで初めて弁証法が何となく理解できた、と言っていた人もいたな。
666革命的名無しさん:2009/02/16(月) 21:38:37
93 名前: 6 投稿日: 2000/09/07(木) 23:25
実在は移行し、本質は反照し、事柄は発展する。
これらが弁証法的な運動形態である。
と言う事で、特に「本質」という概念を捉える事はヘーゲル抜きには無理でしょう。
移行する実在は仮象であり、認識は仮象を去ってその根拠、始源(自体)に溯る。
自己同一的本質は対立の統一(非同一の同一性)であり、現存在の根拠として捉えられるが、
直接的に現存在する根拠すなわち「物」として向自化される。
それは現象、すなわち仮象(見かけ)の全体として外化する。・・・
こんな禅問答のような文章でも、
マルクスは商品および貨幣の本質を分析するために「大いに役に立った。」と書いている。
667革命的名無しさん:2009/02/16(月) 21:40:13
112 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 15:05
弁証法は科学だと言う人がいるが、通常の意味での科学ではない。
むしろ科学批判であり、形式論理の限界を明らかにする思考です。
それは変革の論理と言えるが、それも実在に迫る思考の否定力に基づくからです。

「すべての規定はその否定を内在し、それとの反照関係において成立している。
 例えば全体は部分であり、内容は形式であり、実体は関係であり、必然性は自由である。
 すべての固定した規定性の内にある真理に迫れ。」

とそれは要求する。
668革命的名無しさん:2009/02/16(月) 21:42:37
114 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 17:11
>113
なるほど。(また謝らなくてはいけないかな・・・。)しかし、

>日本人は普段、論理的思考で動いているとは思えないんですよ。
確かに自覚的に論理的に動いてはいませんが、先の「全体と部分」に関連して言えば、
例えば、

A:「君、会社は今窮状にある。会社全体のためにこの際君は止めてくれ。」
B:「いや、社員が集まって会社がある。社員がいなくては会社は存在しない。」
A:「それは違う。会社という全体あっての社員で、個々の社員は部分でしかない。
   ごたごたへ理屈を言わずに止めなさい。」

と言った現実的な問題はどうでしょう。論理的に筋を通す事が求められています。
この場合、どちらが正しいと思われますか?
これは全体主義と個人主義という「厄介な」問題です。形式論理ではカタがつかないでしょう。
669革命的名無しさん:2009/02/16(月) 21:44:40
116 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 18:54
>115
(更に弁証法は進む)と言う事で既に論点が移行してくる事が非形式論理的だと言う事です。
形式論理は問題を抽象的・一般的に論じますから、事柄の形式性にだけ捕われます。
ところが、弁証法論者は事柄を具体的に考え、「真の問題は何か。」と捉えようとします。
例題が理論的ではなく、
実践的な性格を持つ本性である事はまさに弁証法的な思考によってのみ解明されるのです。
因みに例題の場合、
事柄の本質は資本主義自体の階級対立にまで進む事があり得ます。
その場合、単なる論争は実践的な「判断」として、「首切り反対」という闘争的局面に移行します。
論理的な思考を通して実践的に現実に関わる事が弁証法なのです。
私の議論の対象も既に「全体と部分」という機械的対立からその真理である「力と発現」という力学的対立、
更に「形式と内容」という記号論的対立に移行している訳です。
670革命的名無しさん:2009/02/16(月) 21:45:41
東京都版治安維持法制定へ!抗議するなら今日まで。
1 :非乱暴者:2009/02/16(月) 15:11:25 ID:z5YQMDcx

以下が、その報告書の見出し。

 東京都では、昨年6月に秋葉原、7月に八王子等で相次いで無差別殺傷事件が
発生したことなどから、9月に「東京都安全・安心まちづくり有識者会議」を
設置し、繁華街を昼夜を問わず人々が安心して集い、憩うことができる安全な
場所とするための方策について検討してまいりました。このたび、同会議から
報告書が提出されましたので公表いたします。
 また、同報告書を受けて、「繁華街等における安全・安心の確保に関する考え方」
をとりまとめました。この内容について、都民の皆様から御意見を募集いたします。
http://www.metro.tokyo.jp/INET/BOSHU/2009/02/22j29100.htm

しかし、報告書の内容は、無差別殺人とは一切関係なし。
そのかわり、景気悪化によって増加が予想される、政治や雇用に関する
デモなどの規制が目的で、そういう「路上活動」を禁止しようという話
になっています。

で、これに抗議する場合の、パブリックコメントの締め切りがなんと今日(16日)まで。
上記URLにあるメルアドへ!
671革命的名無しさん:2009/02/16(月) 21:46:56
119 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 20:49
(対話は更に続く)
>117
私は116でまさにヘーゲルの森羅万象を弁証法論理で思考しようとことを否定したつもりですが。
それは「絶対的観念論」と呼ばれました。
何故なら、「現実的要素」をすべて思考可能としたからです。
彼が「現実的なものは理性的である」と言った時(これはこれで含蓄あある洞察を含んでいるが)、
轟々たる批判が巻き起こったそうです。
マルクス(「武器の(による)批判は批判の(という)武器にとって代わる事はできない。」)
およびキルケゴール(「ヘーゲルの弁証法は現実を止揚(観念化)してしまうが、現実自体は止揚されずに残る。」)
但し、マルクスはその中にある真に弁証法的な核は保存しました。
「現実は観念ではない。しかし、観念が現実を捉える時、それは物質的な力になる。」
弁証法の力とはその現実批判およびイデオロギー批判によって、「結局だめさ。」という諦め
(これも宗教的イデオロギーにつながる)から人間の実践的・主体的な力を取り戻すことにあるのです。
それは共同的な行為であり、ニーチェ流の超人のなせる業ではないでしょう。
そして「人間は自然の一部である」とは唯物論の基本であり、
そこには自然に対する畏敬と信頼が基本にあるのです。
672革命的名無しさん:2009/02/17(火) 10:09:08
OFWみたいなヘーゲル・オタつか、ヘーゲリアンつーの?
が周りににたら便利だったな。
673革命的名無しさん:2009/02/17(火) 14:10:25
>>672
OFW氏は知識は持ってるかもしれないが、
隣人としては最低なヤツってこともあるぜ。
やっぱ、辞書があれば、それがいいんじゃねーの?
674革命的名無しさん:2009/02/17(火) 16:13:48
相変わらず門前雀羅を張っている・・・(笑)
675革命的名無しさん:2009/02/17(火) 18:41:01
126 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 22:10
(では、・・・)
>117
>弁証法には限界がある、ということでいいんですか?
「限界」とは何でしょう?
「あるものがそれで無くなる所、地点」と一応言えますが、
すべてのものがそれであるのはその限界「内」にあるからであり、
同時に限界においてはそのものが消滅する以上、すべてのものは限界の「外」に在ることになります。
ではあるものの限界とは、そしてあるものはどこに存在するのでしょうか?
>「現実的要素」を取り込めなければ、思考の「方法論」としては有効でも、
>実際的問題の「解決法」にはならないでしょう?
「現実的」とは何でしょう?
「本質自体の現象」と一応言えますが、本質および現象とは思考の対象でしかありません。
あるいは「感性的現実こそが現実的だ。」と言えば、
たちまちデカルトの批判を受ける所まで戻ってしまいます。現実の現実性を捉えるのは、
例えば資本主義社会の現実性とその幻想性を捉えるという「実際的問題」にとって重要事ではないでしょうか?
676革命的名無しさん:2009/02/17(火) 18:42:08
135 名前: 6 投稿日: 2000/09/10(日) 10:18
(お早ようございます。下痢も治った(嘘)。)
>131、134
まあそう喧嘩せずに。
ソクラテスは弁証法を対話法として実践しましたが、彼の対話は産婆術とも言われ、
相手の主張に沿って問答をしながら、その無根拠性を自覚させてより高次の認識に導くというものです。
それは基本的に2者間のやりとりで、今回3すくみ状態になったので私が引いた訳です。

>132
人一倍記憶力のない私で、何十年も前に読んだうちのどれかは急に出てこない。
多分『ドイツ・イデオロギー』前後の若い時期のものです。ただ有名な言葉ですので回りの人に聞いてみて下さい。

>133
私は116および126で具体的に弁証法的論述を弁証法的に行いました(余り成功していないようですが)。
前提とする論理の枠組みに含まれる矛盾を通してより高い立場への飛躍を計るという方法は
特に限界的な状況において威力を発揮します。
固定した存在を生成・消滅の中に突き落とすことと言っても良い。
677革命的名無しさん:2009/02/17(火) 18:45:14
139 名前: 6 投稿日: 2000/09/10(日) 15:54
>135
引用された文章の出典が分からないので、
へたなことを言うとまた(ネット上の著作権も含め)謝らなくてはいけなくなるかも知れないけれど、
余り弁証法的な思考ではないと思います。

>>普遍主義を装った帝国主義に対抗するには、より高次の普遍主義を提示して見せるしかないのだ
私なら、
「現在の『グローバルスタンダードを!』という普遍主義の掛け声の正体はアメリカを中心とした政治経済的な
 帝国主義であり、事柄の本質は単なる技術的標準云々の位相にはない。帝国主義に対抗する真の
 普遍主義すなわち具体的な地域性・民族性・歴史性を考慮した多様な個性を持つ普遍主義とは
 プロレタリアの普遍性に根差した社会主義の上にしか花開かないであろう。」
とでも言いますね。
ヤードポンド法ではなくメートル法にすれば良いなどという矮小な(抽象的かつ個別的な)話ではない。
本質論が無い。
678革命的名無しさん:2009/02/17(火) 18:49:34
144 名前: 6 投稿日: 2000/09/10(日) 21:02
>141
『小論理学』では、「全体と部分」の相関についてそれが最初の規定された相関であり、
実在的諸部分から全体が構成されるにも拘らず、全体は部分の総括としてその否定であり、
両者の関係は真実でないものと言われています。
つまり、まず全体とは実在しない観念に過ぎないという事であり、実在するのは常に部分なのです。
それが何らかの全体を「代表する」とされる部分に実現されていると思い込まれる時、
すべての全体主義が生まれます。
「国家あっての国民」、「国会は全国民の代表から構成される」など全て虚偽、真実でないものです。
しかし、全体を抽象的に否定して、全体無しの部分に分解された場合は、逆に部分は部分で無くなり、
その実在すら無くなる。個人主義は社会の中でこそ成立できる。
全体主義と個人主義は共に抽象的であり、第3のものとしての両者の総合がそれらの真理でしょう。
それは如何なるものか。ヘーゲルはそれを「具体的普遍」という概念で表現しました。
しかし、プロシャ帝国と言う特定の実在にそれを夢見たために、失敗した。
したがって、社会が諸個人間の開かれた関係(相関)として共同的な精神が全ての個人において
その自由な個性の形態によって表現される時に、第3のものは初めて現実のものとして地上に現れて来るでしょう。
共産主義はそれを目指すものと考えますが、「前衛党物神」は同じ反弁証法的な全体主義に陥ってしまった。
やはり、個人の内に客観的精神を根づかせる啓蒙を同時に推し進めるしかないと思います。
ですから24さんの言われるように、
ヘーゲルの「人倫と国家の弁証法的止揚」という「未完の近代」の問題は未だ決着がついていないと言える。
ましてやポストモダニズムなどは、127さんの言われるように、
近代合理主義すら満足に根づいていない日本ではお話にもならないでしょう。
また、会社でのリストラに対する最も弁証法的な対抗策は「団結と闘争」しかないし、
「認識は闘争の中で最も良く鍛えられる。」のも本当でしょう。
(但し、偉そうに言っても今の私は所詮日和見ですが。)
(また長文になってしまった。スミマセン。そろそろ引き時でしょうか。)
679革命的名無しさん:2009/02/17(火) 19:04:50
>>674
門前成市とは言いませんが、
ウインドウ・ショッピング程度は願望してます。
680革命的名無しさん:2009/02/17(火) 21:50:40
150 名前: 6 投稿日: 2000/09/11(月) 22:59
>145
113さんもそうですが、「現実問題に弁証法をあてはめる」あるいは
「弁証法を利用して現実問題を解決する」という言い方自体がおかしい。
弁証法は便利な道具・手段ではなく、真実に向かうための方法であり、
誤謬を通して真理に至る運動が作る軌跡のようなものです。
確かに、リストラの例を「全体と部分」の矛盾という概念の客観的説明に使ったのは
質問の意図に沿うものではなかったようです。
むしろ、「主体と客体」あるいは「理論と実践」といった、より高次の弁証法の例とすべきだったでしょう。
(と言う事で、説明のやり直しをしよう。)
681革命的名無しさん:2009/02/17(火) 21:52:49
150の続き
毎日勤勉に働いていた人が、突然上司からクビを言い渡される。
「会社の窮状」と言う理由は本当か。
「窮状=困窮した状態」とは一見客観的な事柄のようだが実は相対的な概念です。
ヘーゲルは「状態とは質の外面性である」という内容の定義をしている。
状態性とは「あるものに固有と見える質は回りとの関係の中においてのみそれである」と言う真理を
直接的に表現しているのです。
関係性の中で異なる主体によっては困窮した状態=喜ばしい状態かも知れない(例:ライバル会社)。
「会社の窮状」=「社員の窮状」という等式が成り立つのは、会社=社員である場合だけでしょう。
論理的にはこれは会社と自己との「実体的同一視」と呼ばれます。
会社と一体化していた社員が会社の窮状を救うために自分の窮状をもってするとは何たる矛盾でしょう。
ですから、リストラを告げられた社員には実体(客体)の主体化こそが求められています。
これはエンゲルスも言うように、最高度の弁証法です。日常的・没主体的なあり方から、
非日常的(限界的・危機的(困窮的)・状況的)で主体的なあり方への転換(弁証法的転化)が必要となります。
(ハイデガーなら「状況の開示性」とでも言うだろう社会への本質洞察(運命の声)がこの瞬間に起きるかも知れない)
ただし、ここから実存主義的な主体性論者と別れるのは、
「状況の本質」を捉えるには対象の理論的・科学的な分析と本質の概念的把握が必要だと言う事です。
682革命的名無しさん:2009/02/17(火) 21:53:46
150の続き
「俺をクビにする会社と今の社会とは一体何なのだ。」と言う哲学的反省は、
「今の社会の本質が生産者と非生産者との階級対立に基づき」、
「資本とは過去の労働の物象化の事であり」(労働価値説)、
「階級対立という矛盾を闘争(矛と盾との最終戦)なくしては、否定(階級という否定的存在)の否定
(反撃あるいは否定の本質)としての真の肯定(階級そのものの消滅)は得られない。」
と言った、多くの媒介的知識による客観的・概念的認識を成立させる事で、真に「現実的な」展望を持てるし、
真理と正義なくして自らの窮状を真に救えない事を確信できる様になるでしょう。
(「矛盾は世界に満ち満ちている。矛盾を笑え。」)
683革命的名無しさん:2009/02/18(水) 17:41:47
日本の自販機から資本主義の本質を考える
http://wiredvision.jp/archives/200508/2005082602.html


684革命的名無しさん:2009/02/18(水) 21:29:33
169 名前: 6 投稿日: 2000/09/14(木) 22:45
>154
>昔からヘーゲルが人間の足跡を見てそこに神を見出してるような姿が拭えないでいます。

とても良い(Nice?Good?Phylosophical?)指摘で、対話を続ける契機として相応しいポイントだと思います。
ヘーゲルの全哲学体系は、前にも書きましたが、「絶対的観念論」と呼ばれています。
「絶対的」とは「他に比較できるものの無い」という事であり、
例えばカントの主張する「最高、最善、最強と言った相対性」を超越しているという事です。
ヘーゲルの初発の疑問は多分「何故に神はこの世界を創造したのか?」という事では無かったのかと
(勝手に)想像できます。
神様は人間等を遥かに超えた存在なのだから、
「この矛盾、苦悩、不合理に満ちた世界」など必要としなかった筈だと考えるのは自然です。
そしてヘーゲルはその事を若い時から大真面目に考えて死ぬまで続けたのだと思います。
時代的にも西欧近世が近代に移行しようとする18世紀末の事ですから、
歴史的激動期(確かにどんな時代でも激動期と言える訳ですが)にあってそれまでの総括を余儀なくされていました。
そしてその結果、あの森羅万象を論理的に語り尽くした「哲学体系という弁神論」が出来たのです。
685革命的名無しさん:2009/02/18(水) 21:31:08
169の続き

「観念論はヘーゲルをもって完成し、同時に本質的に終わった。」、これは確かな事です。
(「ミネルヴァの梟」とはヘーゲルの事です。)
19世紀の人ニーチェは言いました、「神は死んだ、余りに人間を愛したが故に。」と。
そして、20世紀はまさに「神無き時代」であり、
モノとカネを神とする人間が殺戮と暴虐を繰り広げた(そして今なお繰り広げつつある)時代でした。
(”Heil,Hitler!”は辞書では”Hegel”の近くにありますが、何と遠い事か)
21世紀を間近にした現在、改めて人類の歴史を総括すべきかも知れません。
そのためにも、ヘーゲルが到達しようとして果たし得なかった、しかしマルクスが確実に継承したものが何か、
を考えるのは有益でしょう。
哲学の定義が何であれ、すべての哲学者に共通している事は「存在の根拠、始源、本質を内省的に問い、
言葉によってそれを表現し万人に伝えようする営為」を自らに課していた事でしょう。
「尋ねよ、さらば門は開かれん。」(これもパラフレーズですよ。)
686革命的名無しさん:2009/02/18(水) 21:36:02
170 名前: 6 投稿日: 2000/09/16(土) 06:14
>154(続き)
>マルクスの「資本論」でも読んで現状の資本主義システムを理解するということなのか? さらには唯物、機械的な認識を
>得る必要があるといったところでしょうか?

リストラの例に沿った私の説明はそうなっているのですが、一挙にすべてを言おうとしたため、
非常に乱暴になっています。そこでもう少し話しを戻すと、まず「社会の本質」という言葉で何を理解するかという点です。

まず「本質」という言葉の定義について、ヘーゲルはまず「現存在の根拠」と言っています。
「現存在」(Existence)は単に「存在」と訳される事もあるが本来「現れたもの」という事であり、
何かが現れたその何かの事をその「根拠(理由、基盤)」と呼びます。
感覚される存在はみな「これ」とか「あれ」とか指差せるものであり、
個別的なものですが、それらは生成・変化します。
それは仮象(見かけ)に過ぎないというのが哲学的認識(反照的認識)の第一歩です。
その本体は何かと問い、それを本質という言葉で表現します。それは直接的な存在と見なされると、
変化しない、自己同一的な「それ自体」と呼ばれます。それは「これ」「あれ」という個物ではなく、
「すべてのxx」といった全体を対象とする(マクロ的と言っても良いかな)概念です。
687革命的名無しさん:2009/02/18(水) 21:37:23
170の続き

したがって「本質とは何か」を問う本質論ではすべての概念は二重化され、相互反照的あるいは相関的になります。
自己の」反対(対立物)においてその概念内容が表わされるという事です。
たとえば「同一性の何たるは対立において現れ、本質の何たるかは非本質的な現象において現れる」という事です。
科学者でも、何らかの存在の本質を理解するためにはまず「存在の起源(始源)」を求めることから始めるでしょう。
何故なら「すべての存在者は生成の結果」であり生成の源に遡及することがそのものの「何」を明らかにするからです。
たとえば、「貨幣はその生成の秘密を商品において表現している」と言った具合です。
貨幣は元々は商品の一つに過ぎなかった。
金色に光り輝くその衣装の端から透けて見えるのは卑しいその出生の秘密だと言う訳です。
(これはマルクス流でヘーゲルは観念論者としての気高さからそんな言い方をしないでしょう。)
と言ったように社会の本質を唯物論的に探っていくことが、
アホな経済学とこの資本主義体制を根底から転倒させるための哲学的・弁証法的なやり方でしょう。
688革命的名無しさん:2009/02/18(水) 21:44:33
171 名前: 6 投稿日: 2000/09/17(日) 11:47
>169
誤:Phylosophical  正:Philosophical
(かなり酔って書いていた。偉そうにして失礼)

175 名前: 6 投稿日: 2000/09/18(月) 22:20
>172

やはり、そうかなぁ。掲示板でできるだけ分かり易く説明しようとしても限界があるな。
しかし、ヘーゲル論理学を解説する学者は必ずその観念論の罠にはまってしまう。
173で言われている紀平正美教授も絶対観念を称揚しているらしいし、下記サイトの人もそうだ。
http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/FILE/MOKUZI.html
繰り返しになるが、ヘーゲル弁証法は唯物論的に把握し返さなくては何の価値もない。
もっとも鯵坂真を始めとするスターリン主義型似非唯物論者の言う「最高の科学としての弁証法」など
何の役にも立たないが。(と言う事で少し、話のテーマを変えた方が良いかな。)
689革命的名無しさん:2009/02/18(水) 21:47:40
177 名前: 6 投稿日: 2000/09/19(火) 21:57
「観念と物質は違う」とは決して晦渋な言葉ではないが、その違いは何かと考えると結構難しい。
「すべては観念に過ぎず、各自の主観的な考えが絶対である」とされる20世紀では特に難しい。
「本質は現象とは異なる」とは決して晦渋な言葉ではないが、その違いは何かと考えるとかなり難しい。
本質を学問の対象から消去した20世紀では特に難しい。
ヘーゲルは言った、事物の違い(差異、区別)を知ることがその本質を知る始まりであると。
差異、不等、対立、矛盾と深まる区別を知ることで対象の本質に迫ることができる。
(ポストモダニスト達は差異という第一の否定(抽象的否定)ばかりを強調したが、差異を言う時、
 実際に対象にしているのはむしろ同一性なのです。否定の否定こそが具体的な認識をもたらしてくれる。)
「すべては鏡、反射、反照のうちに現れる。」、この場合の主語「すべて」とは「『すべて』という概念」のことです。
「すべての存在」などは存在しない。それは区別された実在に反照する本質存在をいうのです。

結局、ヘーゲルは「概念的認識」の重要性を弁証法的に明らかにした事で、ソクラテスやアリストテレスと同様に、
永遠に歴史に残る事になるでしょう。
しかし、F.フクヤマといったチンピラ保守反動のヘーゲル誤読者とは違い、歴史は未だ終わってなどいないのです。
(と言う事で、一旦引くことにします。活発な議論を!)
690革命的名無しさん:2009/02/19(木) 09:41:09
おーい、もっと解りやすいのをコピペしろや!
ナニ言ってるんだか、わかりませ〜ん。
そんでなくても難しいヘーゲルなのに、
難しいコピペをそのまんましたら、なんの為のコピペよ?
691革命的名無しさん:2009/02/21(土) 11:54:11
>>690
こんな2chごときでヘーゲルを識ろうなんて、
ちょっと可笑しくねー?
692革命的名無しさん:2009/02/21(土) 18:02:15
>>691
まぁ、いいじゃん。
続きいくよ。

197 名前: 6=OFW 投稿日: 2000/12/30(土) 21:10
お久しぶりです。私、固定HNにしました。
ヘーゲルが結構読まれているようなので、意外かつ心強い、です。
しかし、私のカキコもあちこちで晦渋、難解と言われ、困っています。
具体的にどの辺(全部?)が難しいか、教えてもらえると助かります。
21世紀には、ますます弁証法が必要になる、ってか。
693革命的名無しさん:2009/02/21(土) 18:03:38
202 名前: OFW 投稿日: 2000/12/31(日) 22:02
>>200
>マルクスは『資本論』で弁証法を活用したわけだが、

マルクスは商品、貨幣、資本価値について、「労働」をそれらの実体的本質だと見た訳ですが、
そのこと自体はアダムスミスやリカードが既に発見していた。
マルクスの独自性はその「必然性」を解明しようとしたことであり、そのためにはむしろ「価値形態」に着目して、
その展開を行う必要があったのです。そして、それは、特に『資本論』の最初に出てくる「教科書的」な説明に
要約されているように、価値なるものの弁証法的な矛盾とその発展、そしてその止揚として捉えられた訳です。

>資本の動きは弁証法的に記述できるなら、弁証法の称揚は資本の単なる肯定になりはしないのか?

内在的本質における矛盾は現実の事態として現象せざるを得ない、と言うのが弁証法的な記述と言えるなら、
資本自体の矛盾を記述するとは、それを肯定することではなく、
否定の否定(他ではあり得ない必然的なもの)として捉える事です。それは例えば、
価値自体に内在している「使用価値と交換価値の矛盾」という抽象的な本質が価値法則として展開されており、
それは資本形態においても実体として、”最終的には”恐慌を引き起こす原因になっている、という認識であり、
法則の根拠である根本的矛盾(資本と賃労働の対立)を止揚しない場合、自己を否定して、
無法則な事態に結果する、という認識です。
もちろん、「実体の真理は主体である」とは実践的な命題ですから、現実の矛盾は記述によってではなく、
実践的変革によってのみ止揚できる。そのためには、
労働者階級の組識的団結と現実における必然性の洞察(主体的かつ客観的な世界認識)が必要です。
「必然(運命)を自由(未来)に変える」事は労働者の共同的な事業としてのみ達成可能です。
694革命的名無しさん:2009/02/21(土) 18:06:45

共産党の諸君!

まともになれ! それだけだ! 
695革命的名無しさん:2009/02/21(土) 19:29:56
age
696革命的名無しさん:2009/02/21(土) 21:12:40
共産党の諸君、真理を探求せよ!

それだけだ!
697革命的名無しさん:2009/02/21(土) 21:15:52
>>696
>探求せよ!

この板に繰るような奴はこの言葉の意味を知るべきだろう?
天つばだけど・・・
698革命的名無しさん:2009/02/25(水) 14:46:44
>>696
真理をタンキュした結果、マル糞主義にたどり着きました。
699革命的名無しさん