YMCA地塩寮や、西部構内の山岳部BOX、文学部地下などが家宅捜査された。
「闘争は、一部のハードコア活動家と大学とで繰り広げられたのではない。OBぐるみ、
教官ぐるみで『大学の自治』をめぐる反撃を組織されていたのである。」
「77年中、学外で開かれた授業221件、中止された授業139件、学外で開かれた会
議126件、という数字が当時の京大のおかれた状況をよく示している。評議員や学部
長、それに処分を評議会に上申した経済学部の教官の姿を見かけるたびに、学生らは
それを取り巻いて糾弾し、校門の外に放逐した(朝日新聞)。ある朝、車で乗りつけた岡
本総長は、車ごと正門の外に押し出された。放逐の際に頭からペンキをかけられた教官
もいた」
●1978年 もともと竹本処分を粉砕するために同学会を再建したのであって、処分が敢
行されたら、同学会も終わるかと思われたが、彗星のように「市田良彦氏」があらわれ、
1979年まで、異例の2年間の長期間の委員長をした。現在、神戸大教員。ネグリ「帝国」
の紹介者である。
●1978年 「S君の教育実習」闘争
このころ、文学部闘争委員会、理学部共闘会議、毛派の「立志社」へ流れる。A自A闘
(緑ヘル)は、独自のノンセクト路線を堅持。経済学部同好会は、釜ヶ崎への支援運動を
行いつつも、徐々に浅田彰路線に。教育学部自治会が民青同に。
●1976年ごろから、京大のノンセクトに影響を与えた日学線は正式には「日本学生戦線」。
中国派系だったが、資金源は民族派の右翼だったと聞く。その後「立志社」に、さらに「M
PD」と名前を変えた。