1 :
革命的名無しさん :
2007/11/18(日) 04:50:28 世界に冠たる2大ノンセクト学生自治会。 特に70年代の話で盛り上がれたらいいなあと。 80年代の吉田寮闘争、田辺移転阻止バリストも可。 同大90年代後半の不問権との泥仕合は萎えますね。
2 :
革命的名無しさん :2007/11/18(日) 17:53:38
80年12月、京大同学会が金大中死刑阻止でバリスト。 その頃は、京都三大学共闘(京大、同志社、花園大)が60人位で三里塚へ。
3 :
革命的名無しさん :2007/11/19(月) 07:56:05
同学会出身で、民青同盟から実名ビラ出されていたのに、大学の教授になった人 →鵜飼哲 ほかにもいる?
4 :
革命的名無しさん :2007/11/19(月) 07:58:23
>ほかにもいる? 鬼界彰男(筑波大) 伊藤公雄(京大) 市田良彦(神戸大) 木下誠(神戸大) その他、たくさんいる、と思う。
6 :
革命的名無しさん :2007/11/20(火) 12:33:03
浅田彰あたりはどうなん? まあ、「准教授」だけど。
7 :
革命的名無しさん :2007/11/20(火) 12:54:59
8 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 01:53:34
浅田さんは民青ビラには出たのかなあ。 暴力学生市田とか木下とかは見た覚えがあるが。 それと、崎山政毅さんは確実にビラになってるでしょ。
9 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 02:03:35
あ、学者じゃないけど現岩波書店編集者の山崎貫
70年代終わりに京大と同大が一緒になってなんか中途半端なイベントやってたなぁ。
11 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 09:32:21
>10 何年かにいっぺんはそんなことがあったような。 ということは92年(?)の熊野と同大学友会の一部がつるんだ 京大教養のバリストもそんなようなイベントということか…
12 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 11:19:19
>>11 TAMO2というおっさんも参加していたみたいw
京大熊野寮から中核に就職(常任だけでは食っていけなくてシンパのコンビにバイトで生活費を稼ぐ)
した方が、あのおっさんといっていたねw
13 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 11:27:42
>>12 反中核で有名な共産同・烽火の元活ですね。
確か、法大弾圧の支援関係では、中核派と対立してきたから
中核派や全学連には内緒にして賛同人にさせてくれといってた方ですね。
そのくせ裁判を傍聴したら古参の中核派に抱擁されたと嘯いたお方ですね。
この方前進に仏教徒といって投書してたよね。なんでも主催するサークル(大阪仰山党)
で十一月労働者集会のビデオ上映会やるとかなんとか投稿してたよねw
だけどこの方自分のブログでは、蛆虫(ママ)に協力したと差別発言(カクマルが中核を罵倒する用語)を
使って説明してたね。この方、本心はどこにあるのだろう?
極右といってみたり、維新政党新風党首と交流しているといってみたり、
反中核といってみたり、古参の中核派活動家に抱擁されたといってみたり、
一体何なのでしょうか?
14 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 11:31:26
>>13 反日共で反中核の極右が正体。
マルクス主義著作を電子化しているだけで
インテリぶってる元活です。
15 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 11:34:08
なんでもTAMO2は新日本出版社ともめていたようですね。 その逆恨みからTAMO2は日本共産党に対する憎悪が激しいようで、 共産党を揶揄することを生きがいとする変態と連携して いろいろ蠢いているようです。
16 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 11:56:20
>>共産党を揶揄することを生きがいとする変態と連携して 葉寺・ブサヨディックのことね。
17 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 11:57:16
葉寺・ブサヨディックって変態だよね。 あいつのサイトはマジキモイ。
18 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 12:00:59
共産同・烽火は実にいい加減な奴が多いね。 関東の共産同烽火のひげ高橋(元法大労問研で新社会党党員で 板橋区議選に出馬との噂があった。)とかw
19 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 12:20:04
20 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 13:14:45
大阪仰山党はファシストばっかりだねぇ。吐き気がでそうだ!
21 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 13:14:50
22 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 13:53:05
TAMO2が法大弾圧の支援関係では、中核派と対立してきたから 中核派や全学連には内緒にして賛同人にさせてくれといっていたのは、 奴の情報は京大熊野寮からもれたことを察知しているからだ。 あれだけTAMO2が経歴やその他もろもろのことをTAMO2自身が自己紹介 しているのだからバレそうなもの。 TAMO2によれば、裁判を傍聴したら古参の中核派に抱擁されたと嘯いたり、 前進に仏教徒といって投書しているというぐらいだから、 中核派と対立してきたから 中核派や全学連には内緒にして賛同人にさせてくれ ってことはないでしょう?あれはやんわり中核批判しているわけだよねTAMO2さんw
23 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 13:54:00
あれはやんわり情報もらした京大熊野寮の中核批判しているわけだよねTAMO2さんw
24 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 13:56:06
TAMO2が法大弾圧の支援関係では、中核派と対立してきたから 中核派や全学連には内緒にして賛同人にさせてくれといっていたのは、 TAMO2の情報は京大熊野寮からもれたことを察知しているからだ。 あれだけTAMO2が経歴やその他もろもろのことをTAMO2自身が自己紹介 しているのだからバレそうなもの。 TAMO2によれば、裁判を傍聴したら古参の中核派に抱擁されたと嘯いたり、 前進に仏教徒といって投書しているというぐらいだから、 中核派と対立してきたから 中核派や全学連には内緒にして賛同人にさせてくれ ってことはないでしょう?あれはやんわり情報もらした京大熊野寮の中核批判しているわけだよねTAMO2さんw
25 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 13:58:39
うちはだいこさんは堂々と本多さんを侮辱してましたね。
26 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 14:00:36
ただし、それらをあいての攻撃につかえるとふんだTAMO2自身が 自分でいぜん暴露していた経歴などを2ちゃんでTAMO2自身が晒したということなのだ。 それらを京大のあの故福島さんをダシにして某元活を抱き込んで攻撃に使ったのが元共産同烽火のTAMO2さんだということだよね。 あんた本当に汚いよねw
27 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 14:03:49
TAMO2の別ペンネーム名佐野鷹男名で、さまざまなサイトで 極右反動差別発言をしてきたのも、元共産同烽火のTAMO2さんだということだよね。 もちろんそれらを不問にして良心的な左翼として元共産同烽火のTAMO2さんと 高く持ち上げているのが、アッテンことペンネーム名日高と、岡田雅宏ら趣味者・政治ごろ。
28 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 14:16:07
TAMO2の別ペンネーム名佐野鷹男名で、さまざまなサイトで 極右反動差別発言をしてきたのも、元共産同烽火のTAMO2さんだということだよね。 もちろんそれらを不問にして元共産同烽火で今は極右のTAMO2を良心的な左翼として 高く持ち上げているのが、アッテンことペンネーム名日高と、岡田雅宏ら趣味者・政治ごろ。
29 :
70年代後半 :2007/11/22(木) 16:02:34
烽火の評判をひとりで下げている (それとも「烽火はそもそもそういうところ」なのかもしれないけれど…)方のことは これくらいにして 京大同学会 同大学友会の お話を!ぜひ!
30 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 18:41:03
ファシスタ大阪仰山党!
31 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 18:45:12
烽火の評判をひとりで下げている (それとも「烽火はそもそもそういうところ」なのかもしれないけれど…)方 って大阪仰山党党首TAMO2ことですねw
32 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 18:50:44
三里塚に坂志岡団結小屋に結集してたのに、いつのまにか労農合宿所に結集した経緯とか もっと、深い歴史を報告してくれ。 TAMO2とかの話題はスルーで
33 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 19:29:29
TAMO2も赤ヘルかぶって三里塚闘争に参加したとかw
34 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 19:35:51
ヘルメットと盾で弾圧する側じゃねえの
35 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 19:58:49
36 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 20:00:42
ぜーんがーくじーちかーいー どうがっかーい ゲバ棒ビュンビュンビュンビュビューン 赤ヘルは行く!!
37 :
俺に関する噂か、このスレ・・・やれやれ :2007/11/22(木) 20:04:44
3年前、某氏を囲んで京大・赤ヘルの方々とお酒の席が。 色々と昔話やら、現在進行形の話やらで盛り上がる。 しかし、皆偉くなったなあ。 RITZの学生さんよ、あんたの指導教官は伝説的人物なんだよ。 頑張ってくれたまえ。
38 :
赤ヘルの話題出さないと申し訳ない :2007/11/22(木) 20:05:58
それはそうと、赤ヘル周辺が1986年頃に出した「前転」誰かアップして くれないかなあ。紛失した。 雲は湧き 光溢れて 天高く 純白のヘル 今日も飛ぶ
39 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 20:08:39
スナック・すすむ 笑える人だけ笑ってくれ。
40 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 20:46:49
>>35 あなた大学院生でねばってたらしいじゃない?
あなた卒業後も京大によくきているそうじゃない?
だけどあなたが嘯くような、中核はあなたを××なんてことまったくないから
あまり誤解のある表現は控えてくざいね(はーと
41 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 20:49:36
>>35 あなたは有名人だから、天皇決戦に参加した京大熊野寮生
も知ってるみたいだよ。
あなたが京大にいたころのこともじゅうぶん知っているらしい。
TAMO2というハンドルネームで一発であなたをあてたから。
42 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 20:50:33
その熊野寮出身の方はあなたと同じように高校では野球部だったとのこと。
43 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 20:53:14
>>35 愛媛県からご苦労w
関西では大阪仰山党のオフ会やらないんですか?
今年は、大阪仰山党では労働者集会のビデオ鑑賞はやらないの?
また前進に投稿しないの?
44 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 23:51:46
タカモ○は、ずるい奴やね。
45 :
革命的名無しさん :2007/11/22(木) 23:59:22
佐野鷹男っていうのが、TAMO2の共産同烽火京大支部時代、いや失礼 京大赤ヘルのペンネーム名?
46 :
革命的名無しさん :2007/11/23(金) 00:01:00
ノンセクト学生自治会って名ばかりで反中核の 共産同系セクトのあつまりでしょう。
47 :
革命的名無しさん :2007/11/23(金) 00:02:38
同大90年代後半の不問権との泥仕合は萎えますって、 最近の統一地方選挙で社民党市会議員候補に出ていた京都大学卒の方は、元政経研の方だって?
48 :
革命的名無しさん :2007/11/23(金) 00:04:00
同大90年代後半の不問権との泥仕合は三つ巴だったのですね。 政経研と、共産同烽火&赤ヘルと、熊野の中核&白ヘルの三つ巴。
49 :
革命的名無しさん :2007/11/23(金) 01:20:41
>>12 -以降、うちはだいこ かよw
しかし、こいつの「TAMO2ストーカー」は、もう5年くらいやってんのか?w
50 :
革命的名無しさん :2007/11/23(金) 03:09:19
>48 っていうか、京大赤減るから見れば、とっても迷惑だった同大学誘拐。
51 :
革命的名無しさん :2007/11/23(金) 05:26:03
>49 瀬戸某うるせぇな。 維新政党新風の得票は日共以下w
52 :
革命的名無しさん :2007/11/23(金) 10:15:52
うちはだいこストーカーは5・6人がやっているとか。 筆頭は、右翼団体員の瀬戸某。
53 :
革命的名無しさん :2007/11/23(金) 13:12:39
>うちはだいこストーカーは5・6人がやっているとか。 >筆頭は、右翼団体員の瀬戸某。 また卑劣だいこが願望と現実とを取り違えた妄想を書いてやがる!
54 :
革命的名無しさん :2007/11/23(金) 15:25:38
維新政党新風の子飼いが書き込んでいるね!TAMO2は維新政党新風の党首とは 京大時代から知り合いだと自慢していたね。 TAMO2批判を封じ込めているのは同じムジナの維新政党新風シンパ層w
55 :
革命的名無しさん :2007/11/23(金) 23:31:47
2ちゃんで大人気の維新政党新風って社民党、新社会党以下の得票しかとってないねw 民社党関係は民主党と維新政党新風と国民新党にいるようだけど、 ファシストはまとまった基盤をもっていないのに、どうして 2ちゃんはファシストの巣なんだろう? それは同じ奴が同じような書き込みを一日中やっている証拠なのではなかうか?
同学会は赤ヘルをかぶって、白衣を着て機動隊と戦っていた皆さんですね。 E号館の前で、中核派が機動隊にやられそうになったとき、 同学会が応援に来て、機動隊に突入したとき、学生たちから歓声が上がったのが印象的でした。
57 :
70年代後半 :2007/11/24(土) 09:51:33
78年だったか、京大であった反天皇集会に参加したことがあった。 前方に「竹本処分粉砕」の大書、赤ヘル隊列の多さ、そして吉田寮…。 地方大学の私は、「ここだけ時間が止まっているのか」とアゼンとした記憶がある。 街頭デモでは、機動隊にかなりボコられ 友人がけがをした。でも、その手の病院が準備してあってすぐに処置。きわめて事務的にそこの 女医さんが対応してくれた思い出がある。
58 :
革命的名無しさん :2007/11/24(土) 12:07:53
権力粉砕で共闘することもあったのですね。
59 :
革命的名無しさん :2007/11/24(土) 12:12:32
といっても、TAMO2に対する中核派の評価は低い。
60 :
革命的名無しさん :2007/11/24(土) 19:21:44
同志社学友会が、ブンド系だと言えるのは、全学闘が執行部を握っていた 1976年5月まで。それ以降は、ノンセクトならぬ、アンチセクトの烏合の衆。 彼らは、ファッションで赤ヘルをかぶっていただけ。ブント系なんてウソ。
61 :
革命的名無しさん :2007/11/24(土) 19:54:17
いえいえ、ブント系の流れは汲んでましたよ。ただ、ブントが分裂を 際限もなく繰り返すから、諸潮流の影響を受けたノンセクの烏合化と なっただけなんですよ。
62 :
革命的名無しさん :2007/11/24(土) 20:56:32
>>60 はちょっとだけいいことを言ったが、間違っている。
まず、1976年ではなく、1977年の5月だ。
このときの反全学闘連合(大成寮、PB団等)のクーデターにより
全学闘は学友会の主導権を失った。
これにより、同大学友会は「関西ブント系」ではなくなった。
これが、正しい表現。
そりゃ、叛旗や吉本イズムも「ブント系」というならば、その後も
「ブント系」かもしれんな
63 :
革命的名無しさん :2007/11/24(土) 23:38:13
64 :
革命的名無しさん :2007/11/25(日) 00:03:12
>>59 >といっても、TAMO2に対する中核派の評価は低い。
では、卑劣だいこに対する中核派の評価は?
65 :
革命的名無しさん :2007/11/26(月) 02:15:04
>>62 確かに「叛旗縮刷版」「乾坤」「試行」
三上治の「幻想の革命」読んどったな。
66 :
革命的名無しさん :2007/11/26(月) 21:02:43
全学闘の置き土産は、関西ブント→12.18ブントの論文集「同志社評論」。 出版費用には学友会費が充てられたんやろなあ…
67 :
革命的名無しさん :2007/11/26(月) 22:05:36
>>63 同大学友会は
佐藤優を輩出したという程度のものなのですか?
もうすこしは
戦果があるのですか?
よければ
教えてください。
佐藤のいた神自はちょっと異質な位置づけだったな。 自治会選挙なんかも別枠だったし。
69 :
革命的名無しさん :2007/11/27(火) 01:02:11
>>67 清水アリカ 確か文自でトッポイ感じ。赤メットが似合ってた。
第14回すばる文学賞を「革命のためのサウンドトラック」で受賞した。
「チャーリーと水中眼鏡」
「革命のためのサウンドトラック」
「天国」
「トルネイド・アレイ」 (バロウズの翻訳)
「デッドシティ・レイディオ」
石丸次郎(アジアプレス)も文自じゃなかったかな?
71 :
革命的名無しさん :2007/11/28(水) 00:27:00
>>60 80年代前半、RG榎原の「資本論の復権」が本棚にあると
ヤバイと囁かれたこともあったなぁ。。
叛旗系も読んどったけど漢文系も読んどったで。
烽火の機関紙は読むとこなかったよーに思たが。
72 :
革命的名無しさん :2007/11/28(水) 19:25:49
「資本論の復権」箱に入ったまま本棚に鎮座しています。 しかし、箱入り装丁の本なんて…労働者は読まんねえ
73 :
革命的名無しさん :2007/11/29(木) 00:41:08
77〜8年頃、NHK「若い広場」での大学新聞特集。 (司会のよーなものを戸井十月がやってた) 京大は「竹本処分粉砕」大書した時計台をバックにスリーピースで登場。 いきなり赤ヘル被って喋りだすし、同大はゲバ文字落書きだらけのBOXで グラサンかけ斜に構え漫画「ドーベルマン刑事」を批判的に語りだすし で、おもろかったな。当時、逝くなら京都やなと。
74 :
革命ぎらいな名無しさん :2007/11/29(木) 19:45:05
学生運動を容認する余地はある。しかしそれは、あくまで学生が学問にしたしむための条件に関する事項 に限定された非暴力の運動の範囲内で容認されるにすぎない。 全共闘運動は、たしかに、一面としてそのような側面を持っていた。しかし、中核派、革マル派などの政治党派 による運動の引き回しによって、変質を余儀なくされた。 かの有名な「東大安田講堂事件」は、政治党派に引き回された学生運動の墓標であった。 あそこで、すべては惨めに終わったのだ。ここに書き込んでいる香具師の冥福をお祈りします。 はやく成仏してください。合掌。ちーん。
75 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :2007/11/29(木) 20:54:58
>>74 学問の「ありよう」、大学の「ありよう」を批判したのが全共闘運動
であり、それは党派の引き回しとは関係ないと思うが。
76 :
革命ぎらいな名無しさん :2007/11/29(木) 20:58:26
>>75 あのバカ騒ぎがどのように
>学問の「ありよう」、大学の「ありよう」を批判したって?
78 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :2007/11/29(木) 21:07:29
>>76 まあ、何でもいい、当事者の本を読むことだ。それは一つの主観に
過ぎないが、しかし、「批判」という行為は主観的なものだ。
これ以上は書かない。「学ぶ気があれば、学ぶであろう」。
79 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :2007/11/29(木) 21:10:36
>>76 ひとつくらいは本の題くらいは書いておくべきかな。
『安田講堂 1968‐1969 (中公新書) (新書)』
80 :
名無しさん@3周年 :2007/11/29(木) 21:24:22
>>78 >「批判」という行為は主観的なものだ。
究極的にはそうかもしれないが、それをいっちゃあお終いよ。
だから「大学解体」となるのかね?学問の「解体」なんだろうが。
>「学ぶ気があれば、学ぶであろう」。
だから大学に進学したのではないのかね?
81 :
名無しさん@3周年 :2007/11/29(木) 21:27:25
78さんは、左翼運動を懐かしむより禅寺でも逝ったら? 京都ならいいところがあるでしょう?
82 :
革命的名無しさん :2007/11/29(木) 22:05:48
>>71 同大全学闘の末期の指導者は確かにRG(赤報)の影響下にあったと思う。
全ての大衆運動を非合法等建設に従属させていこうとし
それが、ノンセクの大反発を食らい、学友会から放逐されてしまった。
結局そういうことやろな
>千本秀樹は? ブッチとイモッチですね。
84 :
>>74 :2007/11/30(金) 02:47:37
>>学生運動を容認する余地はある。しかしそれは、あくまで学生が学問にしたしむための条件に関する事項 >>に限定された非暴力の運動の範囲内で容認されるにすぎない。 君!ぜひ我が民青同盟に入りタマエ!
85 :
革命的名無しさん :2007/11/30(金) 03:21:17
>>82 そのRG(赤報)も80年代に入ると年に一回位の機関紙に
「社会革命と文化」なんてのを連載してたな。
結局終刊号?となった機関誌「共産主義」21号編集後記に
「党の蜂起をかかげて結党(71年)し、党建設の第二段階
党活動の転換(77年)を経て、国際主義の復興(87年)を
めざしてきた我々のその後の活動は、商品、貨幣、資本の
廃絶の実践的展望にもとづいた社会革命の理論を解明する
ことに軸をおいていた。」とある。
で、今は大阪の高槻市で「スロータウン富田」か。。
86 :
革命的名無しさん :2007/11/30(金) 04:41:48
高槻市は赤軍・中核のメッカですから。
87 :
革命的名無しさん :2007/11/30(金) 04:58:51
東国原知事「徴兵制はあってしかるべき」発言に波紋 こんな奴は辞職させるべきだ。東国原をやめざる運動を。
88 :
革命的名無しさん :2007/11/30(金) 22:13:34
やめざる
89 :
革命的名無しさん :2007/11/30(金) 22:26:34
> 宮崎県の東国原英夫知事は11月28日、県民との座談会で「徴兵制はあってしかるべき」と述べた。 > 個人的な意見として語ったとのことで、若者には規律を学ぶ期間が必要だと考えているという。
90 :
革命的名無しさん :2007/11/30(金) 23:32:39
そういえば宮崎県知事選挙は共産党が勝ってたよな、共産厨的には。 成果出てるじゃん。
>>90 ↓
連立協議、首相が提案
[共同通信社:2007年11月02日 22時36分]
小沢氏は会談で
自 衛 隊 海 外 派 遣 を 随 時 可 能 に す る 「 恒 久 法 」 の 必 要 性 を 強 調 。
民主党の主張を検討するなら、
給 油 活 動 を 再 開 す る た め の 新 テ ロ 対 策 特 別 措 置 法 案 の 成 立 に 協 力 す る
考えを示したという。
80年頃、京大教養構内に松下昇の<< >>空間があったけど 最後はどうなったんやろ。
93 :
革命的名無しさん :2007/12/01(土) 09:14:36
京大に不法占拠状態の場所は現在位いくつあるんだ? 西部講堂? 寮?
94 :
70年代後半 :2007/12/02(日) 15:32:15
↑私も知りたい。 ただし、自主管理している場所ですが。
95 :
革命ぎらいな名無しさん :2007/12/03(月) 22:10:39
>>84 大学とは学問の場である。それが気に食わないのか?
呆れた香具師だ。
無邪気に「大学は学問の場」と信じる
>>95 が微笑ましいwww。
97 :
84 :2007/12/05(水) 00:59:47
>>95 君と我が民青同盟の主張が同じだから、君も仲間になってほしいとお願いしてる
のだが・・なにが気に食わないの?
98 :
革命的名無しさん :2007/12/05(水) 23:03:33
あのぅ、ドイツ語の池田です。D号館。
99 :
革命的名無しさん :2007/12/06(木) 01:22:29
池田さんは今、精華大学でしょ? 池田さんには立命で池田―崎山ラインを形成してほしかったね。 精華じゃ松尾だからね。法政で「非」中核から散々恨みをかったという。
むかし、京大学生運動史を書いたけど、1990年までしか掛けないので もう、載せないね。その後、どうなったのやら? 一時期、同学会中執を烽火が名目だけ継続していたと聞くけど、いまは ノンセクトに政権移譲さえたらしい。 今年のNFのパンフでは、汚い手書きの同学会のアピールで残念でしたね。 昔は、知性(ガタリを呼ぶ)と過激さ(どぶろくの密造酒)と、面白さ (西部の叛流)、とイベント屋としても一目を置かれたのに。
101 :
革命的名無しさん :2007/12/17(月) 22:29:33
※参考:「図解これがネットウヨク(保守派)」 / ̄ ̄ ̄ ̄\←日教組への反発を言い訳に勉強しなかったので中身からっぽ。 ( 人____) |ミ/ ー◎-◎-)←「株」という字が「妹」に見えてしまうほどのヲタク。 (6 (_ _) ) _| ∴ ノ 3 ノ←元慰安婦の女性を「売春婦」呼ばわりして恥じない。 (__/\_____ノ__ / (__)) ) []_ | | 日本会議ヽ←国民の歴史という「大きな物語」との一体感に酔い痴れている。 |[] | |______) \_(___)三三三[□]三)← いま童貞。これからもずーっと童貞。 /(_)\:::::::::::::::::::::::/ | 正論 |::::::::/:::::::/ (_____);;;;;/;;;;;;;/ (___|)_|)←戦争被害者の声を踏みにじることによってしかアイデンティティーを維持できない。
103 :
革命的名無しさん :2007/12/24(月) 00:37:16
104 :
革命的名無しさん :2008/01/20(日) 20:22:36
>>104 おお懐かしい。1978は夜にゴダールなんかの映画祭をした時だったと
記憶しているが・・・。
ちなみに1980の画像も1978の流用じゃないかな?
106 :
革命的名無しさん :2008/01/20(日) 20:55:50
107 :
革命的名無しさん :2008/01/20(日) 21:11:41
「寮のアパート化」って、1961年当時から言われてたんだな
109 :
革命的名無しさん :2008/01/21(月) 11:59:45
東京は早稲田も法政も明治も画一化されつつあるが、関西はまだ元気そうですね。 だが彩流社新刊の神津陽「極私的全共闘史 中大1965〜68」のような、史資料に 基づいた年代記は出ているのですか? こんな勝ち方を書いた本が役立ちます。
>1961年の京大、同志社の寮生活ドキュメント
>
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/next/index.html 見逃した。だれか、焼いてくれないか?
>109 :革命的名無しさん:2008/01/21(月) 11:59:45
>東京は早稲田も法政も明治も画一化されつつあるが、関西はまだ元気そうですね。
>だが彩流社新刊の神津陽「極私的全共闘史 中大1965〜68」のような、史資料に
>基づいた年代記は出ているのですか? こんな勝ち方を書いた本が役立ちます。
京大新聞社の「入学アルバム」に、吉田寮の記録が載るはず。今年度版(2万円)
を購入すると、年代記は残っている。
京大学生運動史と、吉田寮自治会がどうやって、廃寮攻撃を粉砕したかの
表の記録は、駒場寮の「いろは」の一部でネット上で、冊子は「闘争の記録 1985-1990」に
裏の記録はミクシーのコミュニティに遺言している。
でも、やり続けることが、一番の「年代記」以上のノウハウ・暗黙知だよ。
がんばれ、革命は、自分の時代には成就しないかもしれないが、僕らの
戦い方の残し方で、来世紀には、実現できるかも知れない、と思って
ゆっくりと、そしてじっくりと行こうぜ。
状況認識においては悲観的に、行動は楽観的に by グラムシ
元祖趣味者
111 :
革命的名無しさん :2008/01/24(木) 00:01:33
>見逃した。 安心せよ。趣味者的には観る価値全く無し。 番宣写真は一見闘争の場面風だが、あれは只のストーム。
112 :
革命的名無しさん :2008/01/24(木) 00:25:05
京大といえば昔も今も中核派でしょ。
113 :
革命的名無しさん :2008/01/24(木) 00:37:17
>京大 熊野寮祭 2007年12月7日
>
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1825740 >外山恒一を囲む会 寮の食堂で満員盛況。司会は黒ヘル。
外山は、高校の後輩でもある(ただし、外山は中退・放校)だから、
まあ、いい。
>その前日だったか青ヘル(寮生)らが時計台を占拠しアジりビラばらまき
~~~~~~~~~~~~
上記は、センスや「趣味者」のどうのこうの、という以前の
無粋で、世間知らずの「退廃」ですな。こういうのを学生は許しては
ならない。学生運動の悪宣伝でしかない、と書いておこう。
(もっとも、許す許さないは当事者や学生の判断で、相互学習/相互点検
でやりあってくれればよくて、それを大学当局や、丸山一派が摘発しようもの
なら、そういう第三者権力による介入は「退廃」以上に問題であって、
断固として、トコトン戦わなければならないが。)
そうか、熊野寮の連中か。あそこは、1984年4月赤ヘル同学会の
影響力を完全に排してきたから、まともな運動文化が育たなくなってい
るかなあ。
B401/B402の中核派ボックスの撤去、B地下への移動そのものは
正しい処理だけれども、その決定(デュー・プロセス)が、右翼的
な発想、学生のわがままだったら、むしろ、中核派に同情する。
きちんとした、民主主義が、1983年3月26日、そして、最後の中核派
いがいのメンバーとの食堂での、一坪共有化運動をめぐる討論会開催
を最後に(中核派に敵対するセクト、ノンセクト、リベラリストが退寮
せざるを得なくなり、ブロック会議、委員長選挙の立候補、寮生大会が
有名無実のどこかのDCの全国委員会みたいなものになった)、話し合う
という作風が消失したので、無関心層と、あほが増えて、それがZFに
とって都合がよい寮になった(20世紀は)。でも、そのしっぺ返しは
21世紀になって、都合がよいどころか、左翼の幅広い再生産装置とし
ての機能は回復不能までになった。近衛にある寮とは、まったくことなる。
青ヘルは、やめてくれよ。
>京大といえば昔も今も中核派でしょ。 主流派は、一部の期間を除いて、 共産党(戦前の滝川事件/高木養根、久野収) 反戦学同、ブント府学連(北小路、野口、白ヤギ、黒ヤギ、上野千鶴子、 塩見、上野勝輝) 赤ヘルノンセクト(八島、鬼界、ブッチ、イトL、うっかい、サッキー..) というブント系が主流。西部、吉田、安全センター、山岳部、E地下、 L地下、森毅、ドイツ語教師、教官有志(作田、河野、野村、山田、佐藤、 森口、中村ピン、山口昌、浅井、坂本慶一、歴代総長・岡本、西島、長尾、尾池) と。 反戦自由で、赤ヘルをOB、学生部、教官、地域の方々含めて多様な層の方々 が、愛情を持って、養成している大学です。 でも一部の期間 1)民青の同学会とC自支配(1965年7月→1972年11月、罷免) 2)沢田総長(1980-1985)と赤ヘル、吉田寮廃寮の死闘で、アカヘルつぶし (そのため、自殺者2名。全学連副委員長代行の福嶋真一郎さんへの テロによる死亡1名、殺害をもたらす、1月20日だったかな、その日は あっしも、彼を追悼します。人格者でした) 3)それに付随して「痛覚派のC支配」 1984年4月〜1992年(A自再建ま) は、ズ〜〜〜と、赤ヘル、社会党、山宣、タカラブネ、RGのながれでしょう。 東大路から、西部講堂の「リッダの3つの赤い星★」が見えている間は、 その傾向は続くでしょう。
>京大は「竹本処分粉砕」大書した時計台をバックにスリーピースで登場。 >いきなり赤ヘル被って喋りだすし、 あはははっは、その人、知っているよ。 今は......。
>>115 慎一郎だよ。悼む気が本当にあるなら死者の名はちゃんと刻め。
>慎一郎だよ。悼む気が本当にあるなら死者の名はちゃんと刻め。 ごめんな、キーボードの「変換ミス」で、きちんと確認するのを 怠りました。ご指摘、ありがとう。その点を、故人に対して申し訳ない。 彼の好きなピアノ曲はなんだったか、わすれた、バッハかサティだったか。4日遅れで、それを聞こうと思う。 「死者の名はちゃんと刻め」という書き方は、どの点を 怒っているのかなあ。そういう書き方は、キャラクター文字での 通信では、はげしくお怒りの感情を読み手に伝えようとしていると 忖度しますけれど。何か、おなかに据えかねることがあるのでしょうね。 ご返信は、不要です。そういう風に感じた、とまで。
119 :
革命的名無しさん :2008/01/25(金) 21:17:00
♪
120 :
3回生女子 :2008/01/26(土) 05:40:22
皆さん、お忘れなく。 所詮、ニート化の権化――京大ですよ。トホホ 全てが出遅れてる・・・そんな印象っ。っか、伝統?(llV∀V)
121 :
革命的名無しさん :2008/02/03(日) 19:06:44
>>115 「痛覚派のC支配」 1984年4月〜
その頃に熊野Rの黒ヘルが一挙に白ヘル化。
今出川から このオセロゲーム、なんだかなぁ と見ていたら
別館2Fで ”足へし折られ”が起きた。。
同志社では全学闘系の此春Rが民問と揉めて相国寺で
痛めつけられたりしてたな。
京大の同学会も同時期、民問にやられてたと記憶。
80年代中期頃から京大・同大共に赤ヘルの勢いが
失せて行ったような気がする。
122 :
革命的名無しさん :2008/02/07(木) 19:03:14
どっかに京学連-同志社全学闘-京大L研のスレはないのか 取香の華、祇園石段下のカタマリを語れる古老はいないのか
123 :
革命的名無しさん :2008/02/07(木) 19:23:39
がんばれニッポンマル青同スレならあったと思うが。 それより政経研スレないのか。
124 :
sage :2008/02/07(木) 20:11:00
ない
125 :
革命的名無しさん :2008/02/07(木) 21:23:09
>>123 がんばれニッポンマル青同スレならあったと思うが。
それは京都のハジぢゃ
消したい悪い記憶ぢゃ
126 :
革命的名無しさん :2008/02/07(木) 21:27:19
>>123 がんばれニッポンマル青同スレならあったと思うが。
それは京都のハジぢゃ
消したい悪い記憶ぢゃ
127 :
革命的名無しさん :2008/02/08(金) 11:57:30
>>126 それは京都のハジぢゃ
消したい悪い記憶ぢゃ
そうか、京学連が語られないのは
マル青派生がトラウマになってるからなのね。
一時は全共闘再生の唯一の希望の星だったのに。
128 :
革命的名無しさん :2008/02/09(土) 19:06:07
そもそも京学連って何年から何年まで存在したんだ?
129 :
革命的名無しさん :2008/02/12(火) 08:25:27
>>128 71年だろ。
ウヨみたいなネーミングで趣味悪いなと思ったもんだ。
130 :
革命的名無しさん :2008/02/13(水) 02:02:33
色々、考えたんだろうけどね。 だいたい使う単語が限られてるからね。 ・・会議・連合・評議会・戦線・同盟・委員会 こうした感じの名称以外の斬新なネーミングって難しいね。
131 :
革命的名無しさん :2008/02/13(水) 12:50:31
今出川百万遍荒神口北大路赤帽同好会 他にはどこの学校が入ってたんだっけ
132 :
革命的名無しさん :2008/02/14(木) 00:48:05
今出川百万遍荒神口北大路深草植物園前上加茂同盟評議会委員会
133 :
革命的名無しさん :2008/02/14(木) 02:20:24
>>ウヨみたいなネーミング それなら、いっそ「新左京連合」くらいがよかったかも。 新左翼な京都の学生の連合→新左京連合
134 :
革命的名無しさん :2008/02/14(木) 02:21:44
ローカルな暴走族みてえだな。
136 :
革命的名無しさん :2008/02/14(木) 21:44:22
確かにw じゃあ「左京連合」に改称。 より極道っぽさが増しました。
137 :
革命的名無しさん :2008/02/15(金) 19:51:58
左京小鉄会!
ソ連・スターリン → コミンテルン → ゾルゲ・朝日新聞・尾崎秀實 → 敗戦革命
共産主義シンパの近衛文麿首相のブレーンとなり、日本を戦争へ導く工作を行った。
彼のねらいは、日本を共産主義国にすべく、レーニンの言う「敗戦革命」を起こすことにあった。
朝日新聞からは尾崎のほか、佐々弘雄、笠信太郎なども近衛に近づき、影響を与えた。
ちなみに同じく近衛のブレーンだった西園寺公一(きんかず・西園寺公望の孫)は
戦後、日本共産党に入党したが、除名され、家族と共に中国に行き、中国共産党の党員となった。
1950年、GHQのレッドパージにより、朝日社内から約二百人もの共産分子が追放された。
現在、朝日新聞社は社会主義国家建設にむけて、今度は中国共産党と手を組み、工作を続けている。
大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義 三田村 武夫【著】
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4915237028.html 第3篇 日華事変を太平洋戦争に追込み、日本を敗戦自滅に導いた
共産主議者の秘密謀略活動について
139 :
革命的名無しさん :2008/02/16(土) 10:52:59
>>132 京学連=同志社、京大、立命、龍谷、府立大、他には?
もうすこし、京大学生運動の地図を持ったほうがいいんじゃないか? 俯瞰図になるテクストには、むかしの文章があるんで、ポストしておくわ。 でも、今度dat落ちしても、載せんからね。 (京大 赤ヘル放蕩記 戦前編) ◆ 京都大学の学制改革 1947年 1947年4月、「6・3・3・4制」が実施され、男女共学が始まり、京都大学に は17人の女子学生が入学してきた。同年10月には、京都帝国大学から国立 京都大学に改称され、帝大と正式に別れを告げることになった。 そして1949年には、京都大学にも新制大学としての第1期生が入学してくる。 旧制第三高等学校は京都大学に吸収されて、教養部となった。 さらに、戦時体制のなかで設けられた航空医学、航空学、日本精神史などの 講座が廃止され、応用物理学、哲学史、農薬化学などの講座が新設され、食 糧化学研究所や人文科学研究所、教育学部が生まれるなど、新しい大学への 衣替えが進んでいった。 この間、学生運動も活発になっていった。とはいうものの、まだ後年のような政 治的色彩を帯びたものではなかった。GHQの後押しもあって組職化が進んだ労 働運動が先鋭化していったのに比べると、学生運動はまだ穏やかなものだった。 学園民主化の要求や「反戦平和」をスローガンに掲げた文化活動は盛んだった が、時の権力と対決するといったかたちの学生運動が表面化するのは、極東情 勢が再び緊迫して、GHQが「日本は共産主義進出阻止の防壁」と意識し始めた 1949年以降のことである。 ◆ 全学連結成と加入と学費値上げ反対 1948年 1947年12月、京大で国立大学学生会議が開かれ、学生戦線統一のため全 国国立大学学生自治連盟が結成された。これを受け、私学の自治会組織との 統一も進み、1948年2月には関西自治連が結成された。やがて、こうした動き は全学連結成へと発展した。
この頃問題となっていたのは、文部省のいわゆる理事会案と学費値上げ案で あった。理事会案は、新大学制案として発案されたので、9人の大学理事によっ て学校教育方針、教官の任免等に権限をもつとされたが、各大学の教授会の反 対にあっていた。学生たちも、大学自治を守る点からの反対であったが、理事会 案の名目である「大学の社会化」に対しては、これに代わる民主的な大学行政機 構の案を提出しようとの態度であった。 当時は大学と市民とのつながりが模索されていた時期であり、夏休みともなれば 市民講座が多数開かれ、大学教官にとっても「休めない夏休み」といわれるほど であった。学生たちも、市民とのつながりを真剣に追求していた。 私学の学費値上げがあいつぐ中、1948年5月に文部省より国立大学、高専の 学費3倍値上げ案が発表されると、全国的に不払い運動が起きた。京大では、不 払い方針が世論の支持を受けていたが、学生運動内部には、この戦術は急進分 子の組織拡大運動であると考える勢力が存在した。 この頃の同学会代議員は、運動部系もしくは右派系が大半を占め、日本共産党 の影響下にあった青年共産同盟(青共)、民主主義学生同盟 (民学同)、社会科 学研究会など左派学生は、全代議員の3分の1程度であった。
1948年6月5日、経済学部同好会の臨時委員会では、近代経済学研究会派 と社会科学研究会派の暗黙の対立と議事運営の混乱を背景に、不払い運動反対 を決議した。しかし同好会がのちに世論調査したところ、不払い賛成多数のため、 同好会委員たちは総辞職、解散した。これを発端に、同学会不信任の声も強まり、 改組要求の運動が起こった。法学部有信会は、法学部生の世論を受け、不払い 反対の声明を行なった。6月14日の全国立大学会議で「値上げ反対に固執せず」 とする同学会案は孤立した。6月21日、文学部では学生大会が開かれ、不払い支 持を掲げて単独ストに入ることを決議した。このような混乱の中で、10月1日、同 学会代議員会は、9月に結成された全学連への加入を決定した。 1949年には、文部省による大学法試案への反対運動が高揚した。この大学法 案は、「理事会案」の代替案にすぎないとされ、関係各方面で反対にあった。この ため、国会には、国立学校設置法・教員職員免許法等に分割して上程された。全 学連はこれに関して闘争宣言を発表し、各大学にスト指令を発した。しかし同学会 はスト反対の意志を表明した ◆ 京大看護婦事件 1949年 このようななかで京都大学にとって大きな問題が発生した。 事の起こりは1949年5月に、京大新聞に載ったルポ記事であった。だれもこれ がその後の嵐の発端となるとは予想だにしなかった。医学部に付属の看護婦養 成機関がある。「厚生女学部」という。ここでは賃金も支払われず、女工哀史のよ うに悲惨だ、ということで学生新聞にそのルポルタージュが掲載された。この反響 は大きく、しかもこれに共産党が飛びついた。不採用者の二度のハンストを経て、 医学部長や病院長と団交にいたった。病院側は対抗手段として、女学部のその春 の卒業予定者39人のうち最も精力的に活動していた6人を、京都大学病院就職 を希望していたにもかかわらず、不採用にしてしまった。
このため騒ぎは大学全体に波紋を広げ、各学部自治会が支援を決定、同調スト を打ち出す事態になった。いよいよ5月18日夜、病院長室を数百人の学生が取り 囲み、交渉に入った。にらみ合いが続くなか、9時すぎ突如約400人の警官隊が 突入し、学生たちを排除し、そのなかの3名の学生が逮捕される。 京都大学に戦後はじめて警官隊が入ったわけである。「大学の自治の侵害だ」と、 興奮と騒ぎは収まるどころか、ますます広がる一方であった。 5月19日、3000人の学生を集めて緊急全学学生大会が開かれた。この大会 では 「学園の自治を侵すような警察権の行使に反対する」「逮捕者3名は総長、 学部長の名において即時釈放して貰うことを要求する」との決議を上げた。同学会 も学園自治擁護のために闘うとの声明を発表した。これについて鳥養総長は、つ いに「学園に警察権が入ったことは誠に遺憾のことだが、今度の場合、また将来の 場合も学校側が学園に自治問題で警察権を導入することはあり得ない」と言明した。 ◆ 原爆展示会 1951年 1951年5月、「きけわだつみの声に応える」と銘打たれた春季文化祭が開催され た。なかでも、原爆展、原爆講演会が市民の注目を浴び、4日間で4万人以上を集 めた。会場では医学部から出品された原爆症の実物標本などが展示された。 この原爆展は、7月京都青年学生祭の一環として、丸物百貨店(現在の京都駅前 の近鉄百貨店)でも開かれた。このときには10日間で2万7千人以上の市民が来場 した。特別出品として丸木位里、赤松俊子両画伯の「原爆の図」などが展示され、大 きな反響を呼び、のちに全国を巡回して、わが国の原水爆禁止運動を高揚させる役 割を果たすことになる。また学生たちの真剣な解説は、多くの人々の理解を促した。 原爆について被害が十分に明かされていない中にあって、広島・長崎の惨状を多く の市民に知らしめた。
1951年9月、対日講和条約、日米安保協定が結ばれたが、国会批准反対闘争 はもり上がりに欠け、文・経の両学部でストが行なわれたに過ぎなかった。 ところで当時の日本経済は、戦後の超インフレ克服の荒療治としてとられた、いわ ゆるドッジ・ライン政策によって、不況のどん底にたたき込まれていた。しかし皮肉に も朝鮮戦争による米軍の特需で、特需景気に酔うことになる。食糧事情も年を追って よくなり、学生生活も改善し始めた。各種の経済統制も次々に撤廃されていった。し かし、学生をめぐる政治環境は、そうした経済状態の好転に反比例するように、むし ろ厳しさを増していった。 ◆武装闘争方針に走る共産党 1952年 レッド・パージの弾圧に対抗して共産党は、1952年2月、地下組織による武装闘争 方針を決める。一方、地方自治体の公安条例が次第に運用が強化されたのをはじ め、1952年には破壊活動防止法が成立した。学生運動は、こうした権力・反権力 の力の対決のはざまで繰り広げざるをえなかった。1952年秋の「天皇事件」、それ に続く破防法反対闘争、数々の基地反対闘争、学園復興会議事件など。
◆京大天皇事件 同学会解散 1952年 1952年11月12日午後1時20分、天皇は京大に到着した。京大生、職員他 約2000人は正門から正面玄関まで幾重にも列をつくって待っていたが、天皇が玄 関に到着する瞬 間、学生の中から「平和を守れ」の歌声がおこり、その歌声はほとんどの学生の口 に伝わり、スクラムをくむようにして御料車を中心に半円形に集まった。このときす でに天皇は本部総長宴のほうへ進んでいたが、はじめ20人ほどの警官は刻々増 加され、2時には500人にたっした。大部分の学生はカバンや本を持ったままで、な かにはアベック学生もいて、まるでスターを待つファンの群れのように華やいだ雰囲 気さえあった。そのあいだを同学会の腕章を巻いた数人の学生だけが、真剣な表情 で走り回っていた。 12時35分、百万遍から東一条、正門にかけて警官が5mおきに立ち並んだころ から、西門・裏門は通行止めとなり、職員証・学生証の提示が求められるようになっ た。天皇が新聞社のニュース・カーが奏する君が代とともに正門に入って玄関に到 着すると、東側の学生の中から「平和を守れ」の歌声が「君が代」をかきけすように おこり、学生たちは築山の上で「平和、平和」を高唱した。警官はますます増強され る一方、学生は興奮、さらに警官隊450人が入るにおよび、それまで傍観していた 学生も「警官帰れ」「俺たちの大学だ」と口々に叫んでスクラムに入り、その数は 約1800人に達した。 2時12分、天皇は予定より少し遅れて玄関に出て、ちょっと会釈してそのまま乗 車、車は急スピードで学外へ出て行った。これが京大天皇事件のアウトラインであ る。わずか五十二分の出来事であった。築山の松が傾いたくらいで、1人の逮捕者 も1人のケガ人も出なかった。そこに居合わせた学生たちはこれが「事件」と名のつ く種類のものに発展するとは予想だにしなかった。
しかし、事件は直後から、大きく右に旋回しながら迷走を始める。ニューヨーク・タ
イムスの一面トップに東京特派員電としてニュースになっていた。
事件翌日の11月13日、早くも衆議院文教委員会でこの問題が取り上げられる。
天野文部大臣は国会で審議中であった大学管理法案にかこつけて、大臣権限の
強化を示唆する答弁を行っている。11月15日には同学会に解散命令が出される。
17日には同学会の幹部8人の無期停学処分が発表された。26日には服部竣次
郎学長や青木宏同学会委員長らが衆議院法務委員会の証言席に立つ、と矢継ぎ
早の攻勢が襲ってくる。
中岡哲郎氏は京大天皇事件の重要なポイントとなる「公開質問状」の起草者でも
あった。「私達は個人として貴方を見る時、同情に耐えません。例えば貴方は本部
の美しい廊下を歩きながら、その白い璧の裏側は法経教室のひびわれた璧であるこ
とを知ろうとはされない」という書き出しで始まる公開質問状は、吉田分校正門前な
どに立てられたが多分、天皇の目に触れることはなかったに違いない。しかし、事件
後には大量のビラとして印刷され、大学内外に当時の京大生の心情を訴える手段と
して使われることになった。この内容は「わだつみ世代の天皇観のひとつの見事な
典型であった」。
大学当局が11月20日までに整理した投書のうち、学生を非難するもの35通、
支持するもの15通であり、一方、同学会への投書は、非難するもの4通、支持する
もの12通、各学校、労組、市民団体からの激励37通であった。
1952年1月31日、天皇事件後初の河上祭では、追悼講演会に1,400人の学
生が集まるほどの盛況ぶりで、名物の「河上まんじゅう」が飛ぶように売れたという。
しかし、この後、同学会の空白期を迎えて、本学の学生運動は停滞する。
http://www.ritsumei.ac.jp/se/~t-yamada/test.html http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/25/rn1953-700.html
◆同学会 再建 1953年
1953年に入って、同学会再建の気運が高まり、6月に代議員選挙が行なわれ、
再建宣言が発せられた。また同時に、同学会の下部組織であった運動部協議会が
体育会として独立した。
11月、「荒神橋事件」が起こった。これに先立ち10月27日、京都府学連主催の
学生大会が本学時計台前で開かれたが、学外者を含む学内集会であり学内規則
に違反するとして、警官隊二百人が導入された。11月、学園復興会議の会場とし
て学生たちは法経一番教室の使用を申請したが許可されず、紛
糾した。
学生たちは11月9日、11日抗議集会を本学内で強行し、11月11日には広小路
にある立命館大学へ向け「わだつみ像歓迎市中行進」に参加しようと荒神橋に向
かった。この橋の上で、不法デモとする中立売署警官隊ともみあい、学生13人が
鴨川の河原に転落させられる事件が起きた。これに憤激した学生たち約800が、
夜9時に京都市警へ抗議デモに出発したが、このデモ隊に警官隊が突如警棒と催
涙弾を使って襲いかかり、重軽傷者80人を出した。11月19日、これに抗議して学
生3500人に市民を加えた大集会が時計台前で開かれた。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/27/rn1955-680.html http://www.eonet.ne.jp/~takahate/jibunshi/5shou.htm
上田ウザ
149 :
革命的名無しさん :2008/02/17(日) 01:48:15
【京都大学西部講堂特別先行上映イベントの御案内】 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』の特別先行上映イベントの京都開催が決定しました。 当日は、若松孝二監督をお迎えしての舞台挨拶&ティーチインが行われます。 会場は京都大学西部講堂。若松監督は拘り抜かれたと聞きます。 現在でも学生による自主管理が行われているこの場所には、当時の若者たちが権力と闘った爪痕がまざまざと残されています。 言わば全共闘時代の象徴とも言え、この場所でのイベント開催に若松監督は拘り抜いたとか。 その甲斐あって、<この会場だからこそ!>という意義を持ったイベントとなります。 「公開まで待ちきれない!」という方や、「若松監督のお話が聞きたい!」という方、「西部講堂で鑑賞したい!」という方は要チェックですよ。 <日程>:2008年3月20日(木・祝) <会場>:京都大学西部講堂 <進行> 12:30 開場 13:00〜 開会挨拶(若松孝二監督) 13:10〜 本編上映 16:40〜 ティーチイン(若松孝二監督) 18:00 終了予定 <料金>:一般・大学生=1,500円(当日・前売均一料金)高校生以下=1,000円(当日のみ) <主催>:『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』特別先行上映実行委員会 <お問い合わせ先>:京都シネマ(075‐353‐4723) ※前売券はチケットぴあにて発売中です
150 :
革命的名無しさん :2008/02/17(日) 04:23:05
>148 :革命的名無しさん:2008/02/16(土) 23:21:11 >上田ウザ 動物のような「延髄反応」するな、ボケ。あんたらが歴史しらんから いまさら京学連がどうのこうのという質問がでてくるんや。 かわりに、148が解説してみいや。阿呆。 たとえば「京学連」のような毛沢東派系の人民戦線的な動きが登場するには 戦後の運動の流れから抑えんと、わからんやろ=つまり共時的、通時的な 歴史の空間配置をおさえておかんと中途半端な理解になる、ちゅうもんや。 ま、あたしがここでボランティアやる必要はあらへんから、あんたが、説明しよし。 閑話休題、源氏名か組織名かで相手を指摘しておくのが、この世界の 仁義ちゅうもんでっせ、「延髄反応」坊や。
上田ウザ
154 :
革命的名無しさん :2008/02/18(月) 13:39:25
延髄さんとか動物さんとかのことはさておいて 上田さん(でいいのか?) 続きをたのんます。 なぜあの時期に、 全国全共闘=ハッパ共闘が分解したとき、 連赤ができたとき、 京学連がでけたんか、 ワシは知りたい。
155 :
革命的名無しさん :2008/02/19(火) 20:14:43
しかし、京大闘争が最高潮だった頃、 ゲバラが時計台から睥睨してた頃、 Mツオが銀ヘルかぶってた頃、 同学会は日共=民政の牙城だったわけよな。
156 :
革命的名無しさん :2008/02/19(火) 23:20:34
代々木の牙城という点では立命館と双璧だったけど、京大はその後も 教員・学生の反代々木派が残り、立命館は民青の一元支配となった。 大学当局の姿勢の違いによるのだろうけど、誰かも言っていたが キャンパスの広さが棲み分けを可能にした、というのもあるかもしれない。
当時、同志社は狭かったもんなww。
158 :
革命的名無しさん :2008/02/22(金) 09:16:19
>155 >ゲバラが時計台から睥睨してた頃 あのゲバラが消えたのはいつ頃だったっけ?
159 :
革命的名無しさん :2008/02/24(日) 13:05:18
>>155 民青支配の同学会を赤ヘルが奪還したのはいつ?
してそのきっかけは?
竹本処分?
>>159 そんな基本的なことも知らないでここに書き込んでいるのか。
自分で調べなさい。
161 :
革命的名無しさん :2008/02/24(日) 15:52:41
>>160 そんなこと言わんと教えてくれよー、爺さん。
162 :
革命的名無しさん :2008/02/24(日) 17:34:49
163 :
革命的名無しさん :2008/02/25(月) 00:20:18
>>そのきっかけは? 民青の告訴事件と聞いてるが。 あ、おれ京大じゃないから、間違ってても怒らないように。
164 :
革命的名無しさん :2008/02/26(火) 14:15:38
>>163 民青の告訴事件と聞いてるが
誰が誰を告訴したの?
ちょうど新日和見主義騒ぎの後だよね。その混乱?
吉田寮で「松浦君」って呼ばれてる人物が 実は松浦玲センセのことだと知って驚きました。
166 :
革命的名無しさん :2008/02/27(水) 21:27:50
>>162 赤ヘルにつかまった教授を救出しようとして逆につかまったミンセイのジーパンをみんなの前で脱がせて下半身をさらした事件があった。あそこで俺はひいた。人格までを毀してはあかん。
167 :
革命的名無しさん :2008/03/01(土) 18:55:42
野間宏の「暗い絵」 数十年ぶりに読んでしまったが 京大にはその頃から 「暗い花盛り」の伝統があったんやなあ、 いつかまたそういう日が来る、きっとまた。
168 :
革命的名無しさん :2008/03/01(土) 19:54:44
>野間宏の「暗い絵」 滅茶苦茶懐かしいな。
あれは現在の銀閣寺道交差点あたりが舞台なんですかね。
中核派スレより >671 :革命的名無しさん:2008/03/04(火) 00:45:47 >ついでにいうと >橋本には染みのような権力欲はないよ。そこがある意味、欠点。 >京大医学部トップの成績で合格との噂もあった秀才、弟さんも >活動家だったが不慮の死。 >脱落とか反革命化とか中央派いうのだろうが、うまく追い落とされ >たという方が近いだろ。 >もちろん塩川派という組織があるわけではない。 名前は聞いたことがあります。 1962年の医学部入学で、ひとつ学年下が上野勝輝さん。 橋本利昭氏は、 1964〜65年 京大同学会副委員長(3回生)。そのときの委員長は 赤軍にいった高原浩之氏。1965年にブント系から、民青に政権移行し たときの中央執行委員会の一人。 卒業は、1973年。11年かかったわけ。
>誰が誰を告訴したの? >ちょうど新日和見主義騒ぎの後だよね。その混乱? 無知にも、程度というモンがあるんでは?
172 :
革命的名無しさん :2008/03/05(水) 12:13:52
>無知にも、程度というモンがあるんでは? そんな説教垂れ手ないで教えてやってくれ >上田はん
>>教えてやってくれ
>>152 :革命的名無しさん:2008/02/17(日) 12:32:37
152さんに聴いたらよろし。 ウザイくらいだから、知悉してはる
んでしょうから。
174 :
革命的名無しさん :2008/03/05(水) 13:34:12
学生運動している人は中退とか多い。 中核派も中退が多いらしい。
175 :
革命的名無しさん :2008/03/05(水) 13:58:27
同学会OBで毛沢東主義者のTAMO2は最近元気?
176 :
学生運動/完敗 :2008/03/05(水) 13:58:41
|| ___ ||. /γ\ \ヽ ||└/_@└‐》_] / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ || .`(´∀`)0)\ < や〜い、今じゃリストラ対象! |.| /|日V日|| ̄ ̄ ̄| \ (⊃))】.| |: .|| ━━ | [ニ回ニ.|| ゚ ゚| |__人_|| ゚ ゚| |_|_|| ゚ ゚| (__.(_||____.| 赤い思想に 想いをよせて 語り尽せぬ 青春の日々 時には闘い 時には傷つき 議論を交わした あの日・・・ あれからどれくらい 経ったのだろう 逃げる同士を いくつ数えただろう マルクス主義は 今でも君の心の中にいますか? 完敗! 今、君は人生の 大きな大きな節目に立ち はるか辛いリストラを 語りはじめた 君に総括あれ! 元歌:長渕剛/乾杯!
>そんな説教垂れ手ないで教えてやってくれ >上田はん かいたるわ、ところで、そんな名前じゃないぞ。 せめて、上記のhandle nameで呼ばんかい。 1970年安保闘争、1971年の沖縄闘争といったあたりまでは、京大学生運動も 全国的な学生の政治運動の流れの中にあった。1970年安保、アスパック闘争、 1971年沖縄奪還闘争、三里塚闘争など。 ところが、それが変わってくるのは、1972年の、いわゆる民青系学生による告 訴・告発問題からだった。個人と旧同学会(同学会を牛耳る民青)の名前で、まず 5月に2人が告訴・告発された。 その直接の発端は、1972年の初めに、全国の大学で戦われた学費3倍値上阻 止闘争(年1万2千円が一挙に年3万6千円へ)だった。このとき、民青は、「ストライ キは、授業をうける権利の放棄」と陳腐な主張を展開し、学費値上げ阻止運動に全 国、とくに京大では敵対を続けていた。その過程で、民青と全闘連(学費値上げ粉砕 全学闘争委員会連合)が衝突していったのである。
史実をならべると 1972年1月から全学バリケード闘争や百万遍の解放区闘争を展開するなど、大 きな盛り上がりをみせたが、民青系学生はことごとく反対。 2月に無期限ストを決議しようとした文学部学生大会において、肉体をも使った衝 突が発生した。 5月に2人が告訴され、その後、確か10人くらいが続いて告訴・告発された。 9月には八島久男さんという、後に再建同学会の委員長となる人が、釜ケ崎の地域 闘争の支援活動を展開している際、釜ケ崎の現場で逮捕された。さらに酒井一君という、 文学部学友会の委員長だった人物も逮捕された。 そういうことがあって、当時あった全闘連と各学部の自治会によって告訴・告発を糾 弾する運動が展開されていった。 11月10日、教養部代議員大会で、民青系の教養部自治会執行部が罷免された。 このころは、自治会執行部は民青系が握っているものの、代議員大会になると全共闘系 の流れである全闘連が勝つという構図があった。もっとも、教養部自治会に関しては、結 局、民青系執行部は罷免したものの、全闘連系の自治会は再建されないままとなった。 11月29日には、全学学生大会が開かれ、同学会の執行部を罷免し、代議員会の解 散が決議された。 12月20日には、選挙を経て第1回の新たな代議員会が行なわれ、八島委員長が選 ばれ、同学会が再建されたのである。 (なお、八島久男氏は、京大職組(共産党系)の 開催する教室に、前日夜もぐりこんで、黄金のうん●を壇上にのこし、実力で、反動的な 民青系の集会を粉砕したと伝えられる、伝説の委員長であった)。 俯瞰すると、学費の問題で盛り上っていたエネルギーが、学生を権力に告訴・告発する というような民青系学生の行為によって、パッと燃え上ったという感じだった、という。
179 :
革命的名無しさん :2008/03/05(水) 17:55:31
>>177 ,178
いやーおもろいなー、ありがと、元祖はん
この八島って人が今トリノで数学の先生してる人なのね、理学部?
同じ頃に東Cでは
現在T大教授のK川とかTVに出てくるK大教授のK子とか
新日和見主義連中が民青の分際で無期限ストとか跳ね上がってたんだ。
面白いなあ。
同学会のOBタカモトに対して、誰か批評してみてよ。 やっぱり「新左翼は偽左翼」だったんですかね?
181 :
革命的名無しさん :2008/03/05(水) 18:06:02
↑ 田中(爆笑)
しつこい粘着質なタカモト一派(大爆笑
たかもと=米軍基地外^^
↑ やれやれ、「馬鹿に馬鹿が吸い寄せられるの法則」発動か┐(´ー`)┌
185 :
【マッチョイズム=体育会感性=男根思想=モーホー】 :2008/03/05(水) 18:18:30
モーホーとは、「男の肉体こそ至高」とするマッチョ・ファシズムの思想である。 男尊女卑の古代ギリシャ社会では「愛」といえばデフォルトでモーホーの事を指していた。 男尊女卑の武家社会では男色は女色より高尚であるとされ、男色は「武将の嗜み」であった。 この事は、あの「三島由紀夫(モーホー兼ファシスト)」を見ても歴然としているし、 全身黒革で肉体(筋肉)を誇示したモーホーお馴染みの吐き気を催す「マッチョ・スタイル」を見ても歴然としている。 今尚男尊女卑の風土が濃い九州でモーホー行為が多いのも決して偶然ではない。 そう言えば田中(うちはだいこ)の居る福岡も九州である。 また児童心理学や教育心理学においても、 何らかの精神的外傷などで大人の女性とキチンとした関係を築けない対人能力障害者が、 「代償行為」としてロリコン、モーホー、ヲタク、といった指向に走り易い事は立証されている。 あの三島由紀夫も度し難い肉体的コンプレックスからボディビル(筋肉マッチョ)・モーホーへと走り、 その人格的歪みは「力への崇敬の思想(ファシズム)」「男根思想(男尊女卑)」へと進化していった。 現実の運動圏には全くコミットできず、こんな匿名掲示板でしか威勢のいい事が言えない、 (他にもこういう輩は居るが)これらの事象は全て「一本の糸」で結ばれているのだ。 408 :革命的名無しさん :2006/09/08(金) 11:25:52 オランダ極右政党の某党首: 同性愛者を攻撃するアジテーションを散々行ってきたが、 事もあろうに自分自身がモーホーであることが発覚( ´,_ゝ`)プゲラッチ ホモだいこ(福岡の田中): 「コイツはホモだ。気持ち悪い。」「あんたホモなんでしょ?好みの男は何よ?」 「〜は女装趣味の持ち主。」「ぶん殴られたお釜の×××〜」などと眉をしかめる様な誠に上品な発言を連投しまくったが、 事もあろうに自分自身がモーホーであることが発覚(◔ิc_,◔ิ )クスクス ・・・確かに「同類」かも知れんな。
>いやーおもろいなー、ありがと、元祖はん >この八島って人が今トリノで数学の先生してる人なのね、理学部? そう。経歴は複雑で、もともと68年文学部入学、 1972年に文学部学友会委員長 そのころは、卒業するとブル転といわれていたのを カレが最初に、文学部哲学の大学院へ進学する道を開いた。 語学と論理の天才的な能力をもっていて、23泊24日で 拘留されるたびに、ギリシャ語、ドイツ語などをマスターしてゆき、 拘留されるほうが勉強になるから、逮捕されていると言われたぐらい。 1977年9月竹本処分に抗議して、時計台の前に、羽織を広げて 断髪式をおこない、総長不在の総長室へ奉納(ぶらさげた)し、博士 課程を中退。 その後、八島氏の能力を高く評価していた、理学部の山口昌哉(物理数学で、 フラクタル理論の日本での導入者、もちろん赤ヘルのシンパ) そして、数学のメッカ トリノへ留学し、勝手に空いている部屋を自分の 研究室にして、そうじのおばちゃんと仲良くなり、教授よばわりされていたら 本当に教授になってしまった。日本へは、一部の知り合いと手紙でやりとりを 日本語をべースにしていましたが、1980年代終わりには、近代文明にも 日本の運動圏にも絶望し、通信手段としての日本語と英語を放棄。 古い親友とでさえ、イタリア語とギリシャ語など限定した言語でしか 交歓しなくなった。それほどに、現前のものに絶望をしたわけである。 なお、京大山岳部(AACK)の重鎮でもあり、彼の考案した山の携行食 はまでも「ヒゲパン」と呼ばれて伝わっている。通称「ヒゲ」さん。
187 :
革命的名無しさん :2008/03/05(水) 18:53:02
反共右翼盲従集団タカモト一派が執念深く追い掛け回している!
188 :
革命的名無しさん :2008/03/05(水) 22:07:29
>>同じ頃に東Cでは 現在T大教授のK川とかTVに出てくるK大教授のK子とか 新日和見主義連中が民青の分際で無期限ストとか跳ね上がってたんだ。 誰のことやら、判らん。実名で書いても問題ないだろ。 以下、このスレの話題とはずれるけど。 川上・大窪「1960年代」を読むと大窪さんらは東大闘争当時、 構改派の「層としての学生運動」などにシンパシーを感じていたよし。 革マルらとともに文学部のストライキやら教授軟禁?やら、民青と してはけっこうハネていたのだが、そこへ党が介入し、東大共産党の ヘゲモニーは党忠実派にとってかわられた、というようなことが書かれていた。 てことは、その後また一定の党批判意識を持つ新日和見派が東大をおさえた ということなのか? ところで、京都において、新日和見主義事件がどのように影響したのか、 しなかったのか、ほとんど何処にも書かれていない。誰か教えてくれ。
>京都において、新日和見主義事件がどのように影響したのか、 >しなかったのか、ほとんど何処にも書かれていない。誰か教えてくれ。 そりゃわからんわ。 1981年に、除名された広谷俊二の講演会を聴いたが、新日和見主義 という言葉じたい、ずっとあとから明らかになったことだし、すくなくとも 京都においては、1970年代は、民青は東京とは違って不抜の勢力 を誇っていたんだから。1978年まで、蜷川府政があって「民主連合 政府」構想が信じられていたから。 ただ、1980年以降の右傾化に際して、危機を感じた民青が「学費 値上げ反対」をとなえて、東Cや京都でも「1日スト」をでっち上げよ うとしたけれど、それ以前の反トロでの「ストライキは授業を受ける権 利の放棄」言説との矛盾から失笑をあび、おおきな動きとならなかった。 学費へ値上げ反対の主張そのものはただしかったが、それまでの 戦う学生との対立から、まったく人民戦線路線も組めなくなり、裸単騎 になり、また体質の変化からストライキも汲めなくなるほどの、ズブズブ の組織になってしまった。 そんなときに、広谷は「俺がいれば立ち直らせるのに(マヌーバー的にで も、またゴリ民になれるように指導できる)」と講演していた。つまり、体 質変化が慫慂として進み、また、それを快復させる指導層もいなくなったと いう影響を、1980年代の京都(立命・京大・同志社)では読み取れるかも。 この時期、民青の主張の左傾化は、ノンセクトとしては恐怖だったんだけれど、 それは一時的なものに終わった。たしかに広谷がしたら、もっと左傾化して、 なお、人民戦線的な学生統合の絵をかけたかもしれない。 1990年代にはいると、京大では、民青が握っていた自治会が次々と 崩壊し(教育学部、医学部、教養部)、理学部はノンセクトへ。 唯一のこった法学部自治会は、2005年に中核派になり、ついに 京大では「京大班」としてしか残っていない惨状。
1980年代初頭でも、民青同盟員は200人を超えていて、学部毎 に「班」があったのに、どういうわけかは、理解できない。主張が面白 くなかっただけでは、片付けられないなにかがあったのだろうか? その真意は内部にいた方にしか、わからない事情だろう。 不幸なことに、民青の衰退は、赤ヘルの衰退にもつながるから 「民青の諸君 がんばりたまえ」と1980年代なかばから、赤 ヘルからもエールをおくっていたけれど、賢いやつほど、民青には 入らなくなった、見た目にもアホばかりになり、すると、赤ヘルの 主張も雑になっていった。これは、共犯関係だろうな。もっとアホ な中核派の台頭も痛かった。ノンセクト運動のブント的カー ニバルの魅力が発揮できなくなり、結局、中核派のみ、宗教的に 京都(熊野寮)では残ったというわけだろう。
191 :
革命的名無しさん :2008/03/06(木) 11:42:54
>>188 >>同じ頃に東Cでは
現在T大教授のK川とかTVに出てくるK大教授のK子とか
新日和見主義連中が民青の分際で無期限ストとか跳ね上がってたんだ。
誰のことやら、判らん。実名で書いても問題ないだろ。
キツカワ、カネコだな。
実際、彼ら東C自治会執行部の提案どおり無期限ストに入ったのだよ。
192 :
革命的名無しさん :2008/03/06(木) 17:05:08
以前京学連のことを質問してシカとされたモノですが、 > 俯瞰すると、学費の問題で盛り上っていたエネルギーが、学生を権力に告訴・告発する というような民青系学生の行為によって、パッと燃え上ったという感じだった、という。 この同学会奪還の時期はモロにL研・C戦・京学連の全盛期とかぶってるのではないか? 同学会とどういう関係にあったのか 佐野さんとか八木さんはなにかややこしい画策はしていなかったのか、 そこらへんの昔話キボンヌ。
>>170 卒業してるの>橋本
多分、任期切れ退学なんじゃないの。知らんけど。
194 :
革命的名無しさん :2008/03/06(木) 20:23:53
195 :
革命的名無しさん :2008/03/06(木) 20:24:45
ピーナッツ
196 :
革命的名無しさん :2008/03/06(木) 21:58:49
カルトは烽火でしょ? タカラブネ労組はどないなりました? 近所のタカラブネはつぶれましたけど。
197 :
革命的名無しさん :2008/03/06(木) 22:16:59
タカラブネはお菓子は和菓子はうまかったけど、ケーキが和食みたいで あんましだった。砂糖がちがっていたのでは?
198 :
革命的名無しさん :2008/03/06(木) 22:54:53
1989年6月4日天安門事件への抗議集会で、民青と同学会が合同で集会を 打ったね。一緒にインターを歌った。勿論、中国人留学生も。
へぇ、民青同盟員ってインター歌えるんだ。 君が代歌うのは知っていたけどインター歌うのは知らなかった。 自らの思想に忠実じゃなく歌は歌として楽しむんだね。
200 :
革命的名無しさん :2008/03/07(金) 03:52:11
民青同盟員のインターなど ここ10年も聞いたことない。
201 :
革命的名無しさん :2008/03/07(金) 16:08:05
八島の話は何が言いたいのかよくわからんが、そんなに立派な奴の跡を継いだ キカイなどが武本処分のボス交を許し、シロに病院送りにされても無抵抗で 同学会にぺんぺん草がはえる廃墟を残したことは、どうなんじゃ 八島は結局、何も出来なかったことに言い訳もたたず、日本から逃げ出した ただそれだけじゃ!
202 :
革命的名無しさん :2008/03/07(金) 16:51:39
とりあえず今度、みんなで京大行って白殴ってスカッとしようじゃないか。
203 :
革命的名無しさん :2008/03/07(金) 19:37:21
中にしろマルにしろ 宗教団体に対する暴力は許されない
204 :
希土暁宣 :2008/03/08(土) 03:54:23
ああ、先月に、読んでいますよ。悲しい(あほな)姿ですね。
暴力反対(HOW)だけでものごとを発想し、どこへゆく(WHAT)、
なぜそうなっている(WHY)を考えないから、他人に裏切られたとか、
いまだに、社会主義/共産主義だとか、トリビアルな発想に取り付かれる
のだろう。
同じ空気を吸っていても、かの山口昌哉の研究室にいた、同じ1976年入学の
稲葉寿さん(東大准教授)は、つぎのように書き(こちらが古き、京大生の発想だろう。
文化人類学・複眼思考しているもの)
http://www.ms.u-tokyo.ac.jp/~inaba/inaba_JAMB_NL_1999a.pdf 他方、1977年入学の宮川さん(辺野古支援)は次のように回想する。
「1995/06/18」の項
http://www.cosmos.ne.jp/~miyagawa/text19a.html これらのほうが、体験から何かを学ぼうとする(否定も肯定もしない)
learning by doing を感じますね。
「希土」氏は、発想がデカルトちっく(分析的)で、しなやかさが
すくない。いいもわるいも、そういう「単眼思想」のひとが増えてたのが、
1970年代の中ごろ。決定的にしたのが、共通一次が強制する「思考フ
レーム」だと思う。その反動として、1983年の「全共闘」ブームがあ
った(一時的に終わる、三里塚の分裂もあり、さーーと退いた)。
「共産」党は、本来、運動に向いていない「単眼思考」「分析思考」の層
の京大生に依拠して、京大の「赤ヘル勢力」を攻撃していた構図がある。
けれど、学生時代に立命では主流派の「ゴリ民」と話す機会があって、
すると、ゴリ民の発想・しぐさは、わりと京大赤ヘルと似ていて、しかも
議論で頭にきたら、おいらに殴りかかる(ふり)潔さは、むしろ、人間的
だったかも(彼は離党しましたが)。
それが、有田を生み出した立命の風土と、だれも生み出さなかった京大
民青の違いかもしれない。
と、せめてばかりでも、元も子がないから、病との付き合い方 (距離感)を自分なりに掴むことが先決ですね。こんなところに連投 するのは、認知されたいという衝動でしょう。 推測では、京大赤ヘルとの争闘がトラウマになっているのではなく、 それ以前の幼児期や青年期に、両親や周囲とのあいだで「優等生になり なさい」「けんかはダメよ、暁宣ちゃん」「なにかしらぐちゃぐちゃ あっても、真実は一つ、正解は一つよ」というメッセージが刷り込まれ ていることは、ないだろうか。 こういうときには、赤ヘルシンパの先生の本で申し訳ないが 森毅の「まちがたっていいじゃないか」とか 河合隼雄の「生きる力」なんかが、ほぐれるかもしれない。 しょせん「鬱」は直らないから、どうその気持ちと付き 合ってゆくかがメルクマールで、その原因をもう30年前 の京大赤ヘルに求めたってしょうがないじゃん。 終わったことは、月曜日の「生ごみ」の日にポイ。 ひとつひとつの「体験」は、たしかにその人にとって、かけ がえのないものかもしれないけれど、その悩みは、月面からアー ムストロング船長と一緒に眺めてむれば「絶景かな」、屁のつ っぱりにもならないだろう。 さらに、ホモ=サピエンスの歴史でみたら、僕らは一瞬の 存在。共産主義は、今はまだない/けれど、いつか獲得する 「生産諸力、生産諸手段、消費諸手段」の新たな運動態かい なと気長にみると、無理せんから、いい。 一歩でも良い方向へ歩めれば、ええやんか。 コーチングでペーシングしてもらうとか、インディアンの ビジョンクエストとか、丹田とか自立訓練法とか、ほいほい とチャレンジする「軽やか」の精神こそ、時代と戯れると言 い放った、赤ヘルの最大のスター浅田彰の言説。1975年 入学だから、きっとかぶっているのね。あ、ヘルメットは、か ぶらない方でしたね。すんません。
>>205-206 ご無沙汰です。「逆説」「ひっくり返し」という弁証法が共産党には欠けている
と思う今日この頃です。
希土さんのところにコメントしときました。暴力論は、考え続けている
問題なので。
208 :
希土暁宣 :2008/03/08(土) 10:59:45
元祖趣味者さんの感想、ごもっともと思いますよ。でもね、行動するとなれば、趣味人では許されない。 何かを正しいと決めなければ行動できないわけです。だから、元祖趣味人さんの評論は、ディレッタントだと思います。 ぼくは単眼思想ではない。(そもそも思想というほどのものはもってない。)あなたの目の前で無法な暴力があるときに、 あなたは何を正しいといって、何をするのかが知りたいです。 稲葉寿さんの随想は、単なる、何も考えていないノンポリのノー天気な感想以外のなにものでもありません。 宮川さんのは、長すぎて読む気がしない。ごめんなさい。 ぼくのブログについて申し上げますと、過去の学生運動について述べることが目的ではありません。 ただ、昔書いたそれらの原稿がすでにあったので、掲載しただけです。 本当は、パレスチナ問題とか、1990年代以降に明らかにされてきた、ナチス以外のいろんな暴力について検討したい。 しかし、ぼくはずっとサラリーマンをやってきたので、学問がない。ユニークなことを書けない。それで行き詰っているところです。 友人から聞いた話によれば、浅田彰氏は、ヘルメットはかぶっていませんでしたが、経済学部の学生大会のときは、後方の席で 赤ヘルの指揮をとっていたそうです。 阪僑文士さん、ブログへのコメントありがとうございました。ぼくも簡単ながら返答を書いておきました。恥ずかしながら、 「暴力論」と銘打って、実はソレルも読んでいないのです。つまらないからやめちゃった。今のところ恥ずかしいブログではありますが、 何年かかけて成果を上げたいと思います。 うつの原因が赤ヘルとの闘争だけとは思いませんが、大きいとは思います。とにかく、家庭が貧困でしたからね。それもあるでしょう。 小学生のときは、オール2、高校2年のときは300人中の273番でしたから、優等生教育などというものは受けていません。とにかく、すべての授業中寝ちゃうんだから・・・。 ま、勉強が苦手なので、なかなか現代の暴力に取り組めない次第です。ご指導ご鞭撻お願いします。
209 :
希土暁宣 :2008/03/08(土) 17:01:17
元祖趣味者さんは、稲葉寿さんの随想を、「体験から何かを学ぼうとする『肯定も否定もしない』」と書いておられますが、 それは単なる見物人だから「肯定も否定もしない」でいられるだけのことです。 でも、今よく読んでみたら、なんだ、赤ヘルのシンパじゃないですか。自分が泥をかぶることもなく、単に カッコつけていきてるように見えるけど、それがlearning by doing ですか?
あたしゃ「ディレッタントだ」といわれると、ほめ言葉に感じる 気質(たち)なんで、ありがとう、といっておこう。 こんなことかいていたら、モンティパイソンの「貧乏自慢」のコント みたいでアホみたいですが、あたしんちも、親が中卒の日雇い労働者で 年収300万円以下。ずっと授業料免除で、仕送りはなしでしたけど。 それでも、やっていけるし、どうどうと留年できましたわ、自己責任で。 貧乏であることが、どう言説を強化するのかしらん? 「被害者意識」を強迫観念として抱く限り、ある種のルサンチマンにとらわれ 鬱から逃れられませんよ。もっと「有り様」でみるといい。 ひとは多様で、違っていることが当たり前で、また、それぞれの体験そのも のに「間違い」はないということ。でも、そこから何を学ぶか、が決定的に、 人生を愉しめるか、どうか違うのではないかな。
211 :
希土暁宣 :2008/03/08(土) 21:07:58
元祖趣味者さんのアドバイス、わかるような、わからないような。 確かに、30年もたっていまだに「被害者意識」にとらわれているぼくの精神は 情けないですね。恥ずかしいです。 ただ、うつといっても、会社をやめてからは楽な生活をしているので、それほど辛くありません。 ブログをつくるのも、こんな議論をするのも楽しいです。 仕送りなしはすごいですね。ぼくは3万円もらってました。ま、貧乏自慢してもしかたないけど、 貧乏でもがんばってる人は尊敬します。 貧乏であることは、言説を強化するためにいったのではなく、うつの原因として考えてみただけです。 貧乏自慢すると、亡き父はすぐけんかして会社をやめてしまうので、しばしば無収入状態に陥り、不安でした。 いったい、会社で何をけんかすることがあったのか、理解できませんよ。これもルサンチマンです。 私の貧乏は子供時代のことで、学生時代以降はバイトできたから、何の不安もありませんでした。 人は多様というのはわかりますが、赤ヘルの人権侵害まで、「多様」で許してもらっては困ります。
>>208 うーん、趣味者兼主義者も実在するんですがねえ。しかも、共産党員。
それに、自らの生活に関わらないことについて「行動する人」なんて、
社会の極々少数派だし。
余り固く概念的なものに社会を当て嵌めて認識しようとすると、苦しく
なると思う。
赤ヘルについては「学園主義」とか言う批判はあったようですね。
ただ、そういう批判をしていたのは党派の方々で、しかし、そういう人たち
に限って「党生活者」を辞めたときに一切の運動から離れていったようです
よ。
生活という名の「タタカイ」は続くんですがね。
「希土暁宣」氏とのやりとりは、歴史に役立たない個別的な内容に なりはてそうなので、別の場所で、いずれ。もっと類的な情報のほ うが良いとおもうので、閑になったら、気をとりなおして1953 年以降の闘争史を、いつか載せるわ。ブント史観ですけれど。 ところで、市田良彦さんが、トニ=ネグリを日本に招聘し、関西では 京大で講演会を開く予定です。 ネグリもその渦中にいた「イタリアのアウトノミア運動」は、生活世界に もとづいてラジカルに展開されたため、その広がりを恐れた西欧社民に 1978年ごろ、大弾圧されました。ネグリは、国会議員の非逮捕特権ま で剥奪され、指名手配されましたが、いつのまにか、逃亡先で、定刻もとい 帝国で、哲学者になっちゃいましたね。(サルトルやフーコーが 泣くぞ)。でも結局、アウトノミアやMARTA、三里塚をはじめとする 「セイカツ」にもとづいた執念・生き様が、一番、運動として長持ちするかも。 >「党生活者」を辞めたときに一切の運動から離れていったようです は、悲しいけれど、認めます。 ゴリ民の大賀さん(ニセC「自」委員長)が、北海道で弁護士でがん ばっているほうがほほえましい。 なお、 一部「赤ヘルの人権侵害」は擁護しません。
214 :
希土暁宣 :2008/03/11(火) 03:03:34
歴史に役立たない個人的な話してごめんなさい。反省します。 ただ、「一部の」赤ヘルの人権侵害、という言い方はできるのでしょうか?彼らは、 組織暴力としてやっていた。「一部の」暴力団の人権侵害、という言い方はしないでしょう? 組織暴力は赤ヘルの本質です。市田良彦氏が直接暴力を振るったかどうか聞いてないけど、学生大会の場で、 組織暴力が行われた中に彼もその勢力としていたわけだ。赤ヘルが暴力を直接ふるうときは覆面をしていたから、逆に その中に市田氏がいなかったかどうかもわからない。 そんな市田氏が、またネグリなんか招聘して、いったい何をやろうとしているんだろう? 暴力は、人権侵害だけでない。思想信条の自由、言論の自由、集会の自由、あらゆるものを破壊する悪の根幹だと思う。 それを免罪して、評価してしまっては、だめだと思う。うそと暴力と下品さが彼らの特徴だ。 よく知らないけど、アウトノミアの中の民主主義なんて、うそっぽい。 まあ、私は学識がないので、難しい話には入れないから、当面、こんなところで撤退します。
>歴史に役立たない個別的な内容 史実の解釈について、この板の読み手の多くに「役立たない」だけであって 「希土」類さんには、役には立っているようなので、その点は卑下しないように。 だから、別のどこかで。パキシルとかサイレースとかの話題にもついてゆけます。
216 :
希土暁宣 :2008/03/11(火) 04:04:09
史実の問題でいうと、次の記述は疑問。 「(72年)11月10日、教養部代議員大会で、民青系の教養部自治会執行部が罷免された。 このころは、自治会執行部は民青系が握っているものの、代議員大会になると全共闘系 の流れである全闘連が勝つという構図があった。」 赤ヘルは、民主主義というのをまったく無視していたから、教養部代議員退会に出席していた 代議員は、クラスで選出されていないニセ代議員が多かった。ぼくのクラスでは、まったくクラ討を行わず、 3人の赤ヘル派が勝手に代議員になって、クラスの代表として代議員大会に出席していた。(私のブログにも書いた) 赤ヘルは「(ブルジョア)民主主義ナンセンス」と思ってるんだから、そこらへんの代議員代議員退会なんていうのは、 全部デタラメだと思う。 どうも、元祖趣味者さんのいう「史実」は赤ヘル史観だなぁ。赤ヘルのうそに騙されてはいけないと思う。
>組織暴力は赤ヘルの本質です。 混ぜっ返しすいません。 「(直接的・物理的でない)組織暴力は「共産」党の本質です」と言いたいです。 デマをこととすること、法律の隙間を駆使して他人の権利を侵害することは 暴力ですよね。いや、そういう体質に希土さんは傷ついて党を離れたんだと 思う。だから、責めているわけじゃありません。 ちなみに、繰り返しになりますが、小生は暴力一般を否定していません。 暴力はツールです。しかし、物神崇拝に至り易い、人間の「主人」になり 易い恐るべきツールですね。
218 :
希土暁宣 :2008/03/11(火) 14:02:54
この掲示板の意図するところと、方向が違っていたらごめんなさい。 うそと暴力は、赤ヘルの本質、というより共産主義の本質だと思う。もちろん、その中に 共産党も含まれる。ただし、ぼくが共産党のうそやデマを見たわけではない。 ただ、民主集中制というのは非常に問題だった。それがある限り、共産党もうそと暴力の 体質になりかねない。ただ、共産党が民主主義に貢献してきた面も否定すべきでない。 しかし、「誹謗中傷等」の暴力と、有形力の行使である赤ヘルの暴力を、同じ「暴力」という 言葉で語ってはいけない。言葉で非難されるのと、鉄パイプで殴られるのは、まったく意味が 違うと思います。人権侵害のレベルが違う。 京大教養部自治会は、73年に赤ヘルに投票所を襲撃され、投票できなくなって崩壊したと聞いた。 こんな民主主義の根底からの破壊も、有形力の行使ならではです。 「暴力一般を否定しない」というのは、私もそうです。絶対非暴力主義ではない。正当防衛は当然の権利だ。 でも、これは一般論として言ってもあまり意味がなく、個別具体的に検討すべきことがらのように思います。 暴力に関する普遍的原理はまだ発見されていないから、悩ましいのです。 人間は本来暴力が好きだから、恐ろしいです。一般的には、「暴力反対」のほうを強調しておくべきでしょう。
まあ、共産主義運動以外の政治(保守系も含めて)に関わった経験がある から断言しますけど、「うそと暴力は政治の本質」で、それは社民主義も 例外ではないですよ。逃れようにも逃れられない。そして、民主主義こそ 嘘を必要とするのです。(この辺は、カントあたりを援用すればエレガント なんでしょうが、やめときます) 社民主義なんて、ぶっちゃけ「社会主義的理念を自由主義なる、批判精神 のみに依拠したイデオロギーならぬイデオロギーで薄めて資本主義に適合 させただけのみすぼらしくも痛々しい主義」と思っています。 だけど、だからと言って社民主義の全てが否定されるべきでもない。
220 :
希土暁宣 :2008/03/12(水) 11:16:13
でもねぇ、90年代以降明らかになったスターリン、毛沢東、ポルポト、ついでに赤ヘル等々のうそと暴力を 見ると、保守派と比べて、やはり共産主義のうそと暴力はけた外れだと思います。 「民主主義こそうそと暴力を必要とする」というのは、おもしろそうなテーゼですね。ぼくにもわかるよう、簡単に エレガントに教えていただけませんか?
221 :
革命的名無しさん :2008/03/12(水) 12:29:39
>保守派と比べて、やはり共産主義のうそと暴力はけた外れだと思います。 ってねえ。。。 曲がりなりにも民青やってた人間がねえ。 70年代の南米や60年代のインドネシアで何が起こったのか、もう記憶の片隅にもないのかねえ。
222 :
革命的名無しさん :2008/03/12(水) 18:21:42
わたしゃ通りすがりで京大には関係ないし、 70年代前半の他の学校だったけど 民コロ(民青なんてお上品な呼び方はできない)に殴られた回数はぎょうさん、 いまだになにがあろうが日共だけには投票なんかしない、と思ってる、 これも一種70年代後半京大元民コロさんと同じトラウマなのかね。 しかし当時の京大民コロは「暴力反対」以外のことは何にも言ってなかったの? そこまで丸バカだったの?
223 :
革命的名無しさん :2008/03/12(水) 21:32:26
>>222 俺は暴力は暴力であって「暴力反対」を丸バカとは思わんよ。カクマルであろうと民コロであろうと生身の人間を暴力で黙らすというのは自分の無理論の証明だよ。
別に共産党も革マルも好きでないけど、単に「丸バカ」という決め付けは好かんね。
まずは民主主義と暴力。僕の下手な説明よりもE.H.カーの『危機の 20年』あたりを読まれたほうがいいと思いますが、とりあえず非常に 簡単に。 民主主義はその構成員に共通の前提を要求します。この前提というもの がクセもので、単純にルールとか掟とか言い切れない。ルールを守ると いう言葉がありますが、それはルールを守らない人がいるということを 前提にしますね。ルールを承認している人ならば罰則を受け入れたりす るんでしょうが、しかし、そのルールそのものが現前する前の力関係で 決定されたに過ぎないことがよくあります。ルールに従うことを是とし ない人がいれば、どうでしょう? 何によって「共通の前提」を守らせ るのでしょうか。勿論、直接の、あるいは間接の暴力が必要とならない ように、ルールや掟を構成員の行動原理として内面に組み込むことによ って、社会は保たれます。そこで暴力は内部的に制度化されます。共産 党が正しくもお嫌いなフーコーあたりに脱線しました。 また、マルクス主義的にはそのルール、そして規範としての支配的な イデオロギーが支配者のイデオロギーとして見抜きましたね。支配的 イデオロギーを暴くことは、ルールや掟そのものを疑うこと、すなわ ち共通の前提を疑うことです。その場合、民主主義は自らの「外」か ら叛逆するものにたいして雅量ある態度を示すでしょうか?
226 :
革命的名無しさん :2008/03/13(木) 00:10:29
> この辺は、カントあたりを援用すれば 「定言命法」っすか。。。
>>224 ちょっと通りがかっただけだけど・・・・
>民主主義はその構成員に共通の前提を要求します
このことは、別に民主主義に限らないのではないですか?
共通の前提をまったくもたない社会なんて存在するのでしょうか。
228 :
革命的名無しさん :2008/03/13(木) 00:38:02
京大、同志社、立命・・・の日共=民青がいったいどれだけ「暴力」を行使してきたことか。 ex. 高橋和己の「我が解体」に、ノンセクトが日共=民青の「暴力」で失明させられ、それの対応も如何に人非人か 詳しく書かれていますよ。
229 :
希土暁宣 :2008/03/13(木) 03:16:57
「大量虐殺の社会史」(松村高夫、矢野久編著)によると、65〜66年のインドネシアにおける共産主義者虐殺50から100万人。 ウクライナにおけるクラーク虐殺400〜500万人。スターリンの「人民の敵」粛清・銃殺68万人。ソ連では、このほかにも強制収容所や飢餓でたくさん死んでる。 ユーリー・アファナーシェフによれば、ソ連では3世代で5000万人が殺されたという。中国はもっとひどいと聞いている。ケタが違う。 ぼくは、「暴力反対」のために共産党に入ったからそれ以外のことはあまりやってない。でも、共産党は、「トイレに紙を」なんてアホな要求闘争もやってたな。 暴力反対は、極めつけの重要課題。暴力に満ちた理想社会なんてありえない。それをバカという人はおおばか。 高橋和巳の書いてることなんて、単なる赤ヘルが流したうわさ話をなんの根拠もなく書いている。 76年の7.2自治委員会の翌日、赤ヘルが民青を拉致してさんざん暴行したときも、失明した、なんてうそいってた。自分たちで襲撃しておいて、反撃されたら、 民青の暴力はひどいのなんのと、泣き言をいう。情けない連中。 「暴力反対」の共産党と、「暴力賛成」の赤ヘルのどちらの暴力がひどかったなんて話もばかげてる。 ぼくの4年間の体験で、民青が殴った話はただ一度だけ。友人が逃げるとき、振り向きざまに1発赤ヘルの顔を殴ったら、びっくりしてたそうな。 民青が赤ヘルを襲撃したなんて話は聞いたことない。鉄パイプやゲバ棒で殴った話も聞いたことない。あかつき行動隊というのは、昔あったみたいだけどね。 暴力反対で戦ってたわれわれに対して、民青も暴力をふるったなんていうくだらない話は聞きたくない。 いずれにせよ、共産主義なんて、もう過去のものです。 「民コロ」に殴られた回数はぎょうさん」なんて人は、ゲバ棒振り回してたんじゃないの? こういう議論の場で「民コロ」などという下卑た言葉を使うのは、赤ヘルさんの感覚だね。
230 :
革命的名無しさん :2008/03/13(木) 04:08:33
>民青が赤ヘルを襲撃したなんて話 京大って無かった?他校では まだゲバの季節でもなかった60年代半ばに、同志社で学友会を襲撃。 ゲバの季節も終わろうかという70年代半ば、立命で狭山共闘学友を 拉致、一晩中地下BOXに監禁・暴行し自己批判書を強要。
231 :
革命的名無しさん :2008/03/13(木) 04:10:26
>>225 自己投影しているそうですが、彼もかなりのゴリスタです。
スターリンは大衆に支持されていたという弁護は、とってもアレです。
232 :
希土暁宣 :2008/03/13(木) 04:36:21
230
事実かどうか知らないけど、民青が赤ヘルを襲撃するなんていうのは、めったにないから話に残る。
我々は、日常的に襲撃されていた。集会も開けなかった。ビラをまくにも、裏の塀を乗り越えて、隠れて撒いた。
赤ヘルはいつも自由自在にかっぽして、楽しそうでした。
この話はもうやめよう。生産的でない。とにかく、暴力に反対でない人が、民青の暴力うんぬんをいう資格はない。
まだ、現代の暴力を語れていない恥ずかしいブログではあるが、京大の76年の学生運動の体験は、次のブログで。また宣伝させてもらっとこ。
http://blogs.yahoo.co.jp/anti_war1021/folder/349751.html
市田さんプロデュース「ねぐり公園」の詳細が、下記にあります。
無料だ、時計台で会いましょう。
http://www.kyoto-u.ac.jp/notice/05_event/2008/080325_2.htm ◆ 人文研アカデミー アントニオ・ネグリ講演「知識労働とプレ
カリアート」
京都大学人文科学研究所では、アントニオ・ネグリ氏の来日に際して、
時計台百周年記念ホールで講演会を開催いたします。マイケル・ハート
との共著『<帝国>』や『マルチチュード』において、グローバル化す
る世界情勢のただなかに新たな社会運動の主体の生成を見きわめ、現在
世界的にもっとも注目されるこの哲学者の関西圏で唯一の講演会に、多
くの方々の御来場をお待ちしております。
アントニオ・ネグリからのメッセージ
Copyright David Balicki
著作権代理 株式会社 フランス著作権事務所
「私は今回初めて日本を訪問できることを大変幸せに
思っており、 その意志と忍耐と好奇心によって、この出会い
を可能にしてくれたすべての方々に感謝します。ある思考の
豊穣さが、それが現実や違和感や齟齬に直面する際に受け入
れるリスクによって測られるほかないのだとすれば、そして
また、その思考の誠実さが、それが放棄することのできる確
実性に応じて評価されるほかないのだとすれば、出会いと旅
ほど、思索を前進させるものはありません。まさに私はその
ように私たちの来るべき対話を構想しているのです。なぜな
ら、諸々の差異から出発して共通のものをゆっくりと構築し
てゆくことこそ、私が求めているものなのですから」(続く)
(続いた)
日時 2008年3月25日(火曜日) 18時00分〜20時30分(開場17時30分)
場所 京都大学百周年時計台記念館 百周年記念ホール
演題 アントニオ・ネグリ『知識労働とプレカリアート』
(講演イタリア語・日本語逐次通訳あり)
コメンテーター:市田 良彦 神戸大学教授
司会:王寺 賢太 京都大学准教授
定員 500名
聴講無料・事前申し込み不要
主催 京都大学人文科学研究所
共催 財団法人 国際文化会館
協力 日本航空 <JAL>
問い合わせ先 京都大学人文科学研究所 総務掛
Tel: 075-753-6902
E-mail: z-academy の後に @zinbun.kyoto-u.ac.jp をつけて下さい
部局URL:
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/
235 :
革命的名無しさん :2008/03/13(木) 10:42:59
>>229 >高橋和巳の書いてることなんて、単なる赤ヘルが流したうわさ話をなんの根拠もなく書いている。
そんな書き方しているようじゃ、読んでもいないようですね。(笑)
236 :
革命的名無しさん :2008/03/13(木) 11:21:56
客観的にこのスレだけ見る限り、名無しの有象無象より 希土暁宣氏の方が自己の実体験に根ざしていて 遥かに説得力があるのは事実だ。
237 :
革命的名無しさん :2008/03/13(木) 12:13:58
238 :
希土暁宣 :2008/03/13(木) 14:04:14
弁解するのもおこがましいですが、高橋和巳は高校時代に、「悲の器」、「わが解体」、「たそがれの橋」 を読みました。入学前には、高橋和巳と共に京大を退官した3名の教授の一人の家に遊びに行って、 「惜しい方を亡くしました」なんてご挨拶してました。友人の叔父さんだったので。 「高橋和巳はどんな人でしたか?」とうかがったところ、「とにかくやさしい人でした」と いっておられました。高校時代に「わが解体」なんか読んでも、何の意味もわかっていなかった。 入学して読み返したら、多くの矛盾や、出所不明の誹謗中傷があって怒りました。 今、手元に「わが解体」も「憂鬱なる党派」もないのですが、私の記憶では、「民青が女性の陰毛を焼いた」などという 話が載っていたように記憶します。いったい、そんなうわさの事実関係がなぜわかるのでしょう? 高橋和巳を読んで、学生運動というのは、知的なものかと思っていたら、現実はまったく違っていた。 「おう、おう、わりゃー、なんたらかんたら」みたいなヤクザ言葉にまずびっくり。 過激派同士で「出入り」なんかもやってました。 「説得力がある」とご評価いただき、嬉しいです。とにかく、ぼくは一生「暴力反対」を訴えて生きます。
239 :
革命的匿名 :2008/03/13(木) 20:12:59
うそつきは、民青(代々木)のはじまり とゆうことで、うそつき希土くんは華麗にスルーがよいかと。 学生運動は知的なもの、なんて本気で思っていたら、民青に行くはずがない(笑)
240 :
革命的名無しさん :2008/03/13(木) 20:25:39
241 :
革命的名無しさん :2008/03/13(木) 20:35:59
242 :
革命的名無しさん :2008/03/13(木) 20:47:32
●民青 / ゲバ民
ttp://bund.jp/yui/ > 民主青年同盟。共産党の指導下にある青年同盟。ずいぶんと苛められました(笑
> 「暴力反対!」とか言いながら、それは右派に対してだけであって、私たちのような左派には平気で殴りかかってくる。「この暴力集団め!」とか言いながら殴るということが、いかにマンガチックか、本人たちだけが気がついていないようだった。
> > 彼らの中でも、平気で殴りかかって暴力的に対立党派を潰そうとする人や支部、あるいは暴力専門部隊として、新左翼や全共闘が強い大学を渡り歩き、
> 組織的に派遣されるような部隊や支部は、通称『ゲバ民』と呼ばれて恐れられていた。革マル派が一人、ゲバ民に殺されているし、
「突破者」の宮崎氏は、学生時代はゲバ民だったという。
> 日大全共闘を潰すために、深夜2時にヘルメットと角材で武装した2千名(一説では1万人)のゲバ民部隊が急襲したこともある。
とにかく左派に対しては加減というものがない。京大では右翼体育会と共闘し、実際に全共闘のストを壊滅させたこともあるくらいに強かった。ここまでくると、ほとんど「民間機動隊」である。
243 :
希土暁宣 :2008/03/13(木) 20:56:46
「うそつき」だの、「民コロ」だのという言葉を使うことが、子供じみているとわかりませんか? まるで京大全共闘の落書きやビラのレベルです。 これ以上議論しても生産的なものは出て来ない気がするので、一旦、この掲示板は抜けます。 とりあえず、さようなら。
244 :
革命的名無しさん :2008/03/13(木) 21:04:08
>とにかく左派に対しては加減というものがない。京大では右翼体育会と共闘し、 実際に全共闘のストを壊滅させたこともあるくらいに強かった。 ここまでくると、ほとんど「民間機動隊」である。 これは京大闘争の発端の逆バリのことを言ってるんだろうが、 なんだか伝聞に伝聞を重ねてこんな言いぐさになったのかもしれないがおおげ過ぎる。 しかし希土元民(あえてコロはつけないが)が決定的にあかんと思うのは 自分の4年のしいたげられた京大生活がすべてで 赤ヘルの先祖たる全共闘(とか新左翼)がなにゆえに現れたのか については日共のくされパンフ以外に知識がなく知識を得ようという努力もなく 自分ら民青日共がかつてどのようなものであったのかについてもベンキョーした形跡がないという 歴史的な知識が欠如していることに厚顔無恥な居直りガンジー主義を臆面もなくさらしていることであろう。 まあ、そういう御仁がいてもいっこうにさしつかえないけど 当時の京大日共ー民青がこんな御仁しか組織できなかったということについては 唖然としてしまうのだよ、おじいさんは。
245 :
革命的名無しさん :2008/03/13(木) 21:16:11
何も具体的で自身の実体験に基づいた反論は出来ず、 やっと出て来るものはと言えばネットの検索と他人の著作のコピペだけ。 まあ確かにこんなクオリティの人間が左翼を僭称していたとは 「唖然としてしまうよ」。
◆同学会 再建 1953年
1953年に入って、同学会再建の気運が高まり、6月に代議員選挙が
行なわれ、再建宣言が発せられた。また同時に、同学会の下部組織で
あった運動部協議会が体育会として独立した。
11月、「荒神橋事件」が起こった。これに先立ち10月27日、京都府学
連主催の学生大会が本学時計台前で開かれたが、学外者を含む学内
集会であり学内規則に違反するとして、警官隊二百人が導入された。
学園復興会議の会場として学生たちは法経一番教室の使用を
申請したが許可されず、紛糾した。
学生たちは11月9日、11日抗議集会を本学内で強行し、11月11日
には広小路にある立命館大学へ向け「わだつみ像歓迎市中行進」に参加
しようと荒神橋に向かった。この橋の上で、不法デモとする中立売署警官
隊ともみあい、学生13人が鴨川の河原に転落させられる事件が起きた。
これに憤激した学生たち約800が、夜9時に京都市警へ抗議デモに出発
したが、このデモ隊に警官隊が突如警棒と催涙弾を使って襲いかかり、重
軽傷者80人を出した。11月19日、これに抗議して学生3500人に市民を
加えた大集会が時計台前で開かれた。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/27/rn1955-680.html http://www.eonet.ne.jp/~takahate/jibunshi/5shou.htm
◆ 第二次滝川事件 松浦玲君 放校 同学会また解散 1955年 1955年には「第2次滝川事件」が起こった。11月祭(秋季文化祭)と創立 記念祭の実施方法、援助等について、同学会と大学当局の間で話し合いが決 裂し、6月3日学生約50人が滝川総長に真意をただすべく会見を要求したが 受け入れられず、総長を取り囲むに至った。滝川総長は「最後の土壇場として、 暴力で監禁しているのだから警察権の発動を要請した」が、このとき混乱はな かった。同日、学生部長は辞表を提出、翌日総長は外遊にたった。6月5日、 補導会議は同学会解散を命じ、創立記念祭も中止された。さらに、6月7日、 この事件に関し2人の学生が逮捕され、傷害等で起訴された。こうして再び同 学会は解散させられ、1959年の再建まで4年間の空白を見ることになる。こ のときの逮捕者が吉田寮生の松浦玲氏であり、この問題は寮の入寮選考を めぐる大きな火種となっていった。 ◆「戦後」に終わりを告げる 1955年 1956年度の経済白書は、「もはや戦後ではない」と謳い、実際、日本経済 は高度成長に突入し、日米安保体制のもと、未曾有の発展をとげた。当初は 輸出景気として、ついで設備投資の増大による好況によって成長は継続され、 重化学工業が発展していった。1954年から1956年にかけて、景気の変わり ようはまさに劇的であったため、神武天皇時代以来かつてなかった好景気とい うことで、「神武景気」という言葉さえ生まれた。 政治状況としては、自由民主党の一党支配体制が始まった時期でもある。 1955年、保守合同によって自由民主党が成立し、また1951年の日米講和 条約をめぐつて左・右に分裂していた社会党の統一も実現する。労働運動は政 治闘争から「春闘」方式による経済闘争へと路線転換がなされた。この「55 年保革体制」と、1960年の安保改定とは、日本の政治の安定をより強固なも のとした。日本経済は戦後の復興を終え、次なる高度成長時代へと助走を始め たのである。
◆六全協、分裂する学生運動 1955年 共産党も路線を転換する。1955年の、六全協(第6回全国協議会)で極左冒 険主義武装路線を捨て、振り子のように大衆追随主義路線を採択した。1956 年2月にはスターリン批判、10月にはハンガリー動乱が起こり、学生党員に衝 撃を与えた。また全学連や反戦学生同盟(反戦学同)は、共産党中央への批判 を強めてゆき、1958年5月には反戦学同が社会主義学生同盟(社学同)へと 改称し、6月には全学連大会で物理的衝突が生まれるに至った。こうした学生 党員の動きは12月の共産主義者同盟結成、各大学における細胞の集団離党 へとつながった。一方、日本トロッキスト連盟を前身とする日本革命的共産主義 者同盟(革共同)が1957年12月に結成され、学生たちに影響を与えた。 こうした背景のなかで、1950年代初頭から始まった「右旋回」がさらに進行 する。とくに教育の世界で国の管理を強める動きが顕著になる。教育委員の公選 制から任命制への変更、道徳教育の導入、教職公務員への勤務評定実施など が、着々と進められた。1958年には、戦前の治安維持法の再来といわれた「警 職法」(警察官職務執行法)改正案が登場する。いったんは国会へ提案されたも のの、全国で巻き起こった大衆抗議運動によって撤回された。 この時期はGHQによる「戦後民主主義体制」がきしみをともないながら、新しい 社会の枠組みを右寄りにつくり変えられていく時代であったのかもしれない。 経済面でみると、戦中戦後に抑えられていた国民の消費への欲求が爆発した 時代でもあった。食糧事情もすっかりよくなった。白黒テレビ、電気洗濯機、電気 冷蔵庫が三種の神器といわれ、より豊かな、合理的な生活の象徴として、爆発的 に売れた。それは、主婦を家事労働から解き放し、しばらくあとに実現する目覚ま しい女性の社会進出を支える基盤をつくることになる。
テレビの普及は、大宅壮一をして「一億総白痴化」といわしめるほど、国民の文 化生活を変えた。石原慎太郎の『太陽の季節』がベストセラーとなり、「太陽族」と 呼ばれる若者たちが誕生したのも、日本社会が戦後を脱却して新しい時代へ入 った象徴のようであった。1957年には、ソ連が人工衛星の打ち上げに成功、ア メリカも翌年これに続いた。 ◆ 同学会再建と安保闘争 1958〜1959年 さて、同学会の再建運動は1958年に活発化し、再建準備会は6月9日に代議 員選挙の公示を行なった。しかし大学は課外教育研究会の結論が出るまでは全 学自治組織の結成を認めないとし、6月11日に告示第7号を出して選挙を禁止し た。同準備会は6月16日から選挙を強行し、3608人が票を投じたが、大学側と の対立が深まった。このとき、のちに全学連書記長となった北小路敏(当時経済学 部3回生)がトップ当選している。大学は7月1日に告示第8号、第9号で、9学生 の処分と同準備会の解散を発表。このうち処分は10日後に解除されたが、同学 会の再建は遠のいた。 1959年、京大の学生運動は安保改定反対闘争と同学会再建運動でほぼ埋ま った。 全国レベルでは、1959年3月28日、134団体からなる「安保改定阻止国民会 議」が生まれ、安保反対闘争の推進母体となった。全学連は、3月末の第18回 中央委員会で 「日本帝国主義の侵略と抑圧、安保改定を阻止せよ/岸帝国主 義内閣を打倒せよ」 の行動スローガンを採択し、6月初めの第14回全国大会で 安保闘争を当面の最重要課題と決定した。 京大での取組みは遅く、同学会の再建がなされるまでは振るわなかった。4月28日 の全学連統一行動第一波における全京都学生集会には京大生はわずか50人、 同じく6月25五日の統一行動には300人が参加したに過ぎなかった。しかし 10月30日の統一行動には、授業辞退の宇治分校から600人の参加があり、これ を機に吉田分校や本部の学生たち、同学会の安保改定反対闘争の気運が盛り上がった。
同学会の再建問題は、再結成された再建準備会と学生部の間で、1958年9月 から約20回にわたる話し合いを経て、1959年5月にようやく合意を見た。5月22 日より、同学会再建規約の信任投票があり、約4900人が投票し、4000票を越す 賛成をもって、正式に4年ぶりの再建が決まった。代議員選挙は8月12日より行な われ、約3500人(全学の54.6%)が投票した。8月20日、第1回代議員会が行な われ、「『1人はみんなのために、みんなは1人のために』映画『戦艦ポチョムキン』の この言葉は、その永遠の芸術の語りかけに恥じない私達の行動によって、今こそあ かしをたてられなければならない」とする「同学会再建宣言」が発せられた。 ◆安保闘争 1960年 1960年1月16日、全学連は国民会議とは別行動をとり、岸首相以下の新安保条 約調印全権団の渡米を阻止しようと羽田デモを決行した。学生約1000人が羽田空 港ロビーを占拠し、67人の検挙者を出した。京大の学生は空港に入れず、付近で集 会をしただけであった。このデモは、全学連内の主流派(共産同)と反主流派(共産党 系)分裂したのち、主流派で行なわれた。同学会は、再建時から共産同の影響が強く、 首都圏と連動した闘争を組み、関西の学生運動の中で重要な役割を果たした。 4月26日には全学連統一行動としてゼネストが行なわれ、全国で82校3万人もの 学生が参加した。京大は当日、吉田分校、文学部、理学部がストに入り、大学不許可 のまま、同学会が時計台前集会を強行した。この集会には職組、生協関係者らも加 わり、参加者は1500人にのぼった。 同学会はさらに5月13日、全学学生大会を開き、「説得ピケ」による実質ストライキ を決議し、ついに19日ストライキに入った。26日には、同学会、大学院会、職組、生 協、教官有志による本学史上初の全学大会が図書館前で開かれ、約3千人が参加 し、「日本の将来は国民の意志により決められるべきである。そのために即時国会の 解散を要求する」という大会宣言を発した。 さらに6月4日の統一行動では、京都府内の各労組のストを支援して、円山公園で の集会に京大からは2000人以上が参加した。
6月15日、全学連主流派のデモ隊が国会に突入しようとして警官隊と衝突し、東大 の学生樺美智子さんが死亡した。この日の夜、京大新聞によると「京大付近の食堂は テレビに見入る学生で、満員。寮では興奮した学生が、口々に東京へ行こうと叫んで 騒然たる雰囲気」だったという。 山岳部は「人間らしい生活のできる民主的な社会状勢にない現在、我々はスポーツ を続けていることはできぬ」との声明書を張り出し、合宿を中止した。 平澤総長も6月18日、「およそ暴力は、如何なる形のものであっても否定されなけれ ばならない。しかしその前提としては議会主義と民主主義のすみやかな確立が必要で ある」と談話を発表した。 6月20日、全学学生大会が開かれ総長談話の支持と、「樺さんを殺した政府官憲の 暴力を許すな」など5つのスローガンを採択した。各学部ではスト決議が上がった。 この年、夏休みに入るまで、大学内は安保闘争のために授業はほとんど行われなか った。連日のように開かれる集会には多数の学生が参加し、特に5月19日の国会での 単独強行採決以後は、集会への参加者数は1000人を越えることがほとんどであった。 しかし6月26日、新安保が自然成立すると、多くの学生は混乱し、無気力、虚無の淵 に沈んでいった。学生運動は、7月の全学連3分裂(共産同系、代々木系、革共同系)、 10月の共産同3分裂などもあり、全国的には低迷を余儀なくされた。しかし、関西にお いては、共産同関西地区委員会の強力な指導の下に比較的活発な活動が見られ、同 学会はその中心的な役割を果たした。
◆ ポスト安保の停滞を打破する関西での闘い 1961年
1961年は、政治的暴力行為防止法(政暴法)案が国会に上程され、これに反対す
る運動が起こった。同学会は、全学連の全国統一行動に合わせ、5月31日「政暴法粉
砕時計台前集会」を無届けで強行した。6月3日には、前日衆議院で政暴法案が自民
党、民社党で強行採決されたことに抗議し、正午過ぎから法経一番教室で約1000人
の集会が開かれた。6月5日には各学部でスト、授業辞退が相次ぎ、無届けのまま時計
台前集会が開かれた。このあと学生は、京大1500人、立命大1000人、同志社大
1000人を中心に4000人が円山公園に集まりデモを行なった。6月8日、政暴法案は
各界の反村にあい、継続審議となって闘争は終結した。
http://knakayam.exblog.jp/1805205/ http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/No93/ogino030516.htm ◆ 高度成長へ 1962年
高度経済成長の基調を受けて、「所得倍増計画」改革に乗り出し、産業構造の転換へむ
けて文部省は池田内閣のに見合う教育制度の科学技術教の振興がうたわれた。1962年
度版『教育白書』には、「教育投資論」が色濃く打ち出され、経済発展に寄与する人材を効
率よく開発することが教育に求められた。大学教育においては理工科系を中心とした大幅
定員増により、大学の大衆化がますます進んだ。
◆同学会をめぐる共産同系、民青系の確執 1964年〜1966年 さて、京都府学連内部では、主流派(共産同系)と反主流派(民青系)が理論・主張面で は対立しつつも、行動面では統一して動いていた。しかし、9月の定期大会で民青系が京 都府学連をボイコットし、事実上分裂するに至った。10月31日の全国統一行動では、主 流・反主流で別個の集会が開かれた。しかし、分裂後に行なわれた12月の最初の同学会 代議員選挙と教養部正副委員長選挙では、ともに主流派が勝利した。 11月14日には、医学部において、医学連(全国医学生連合)関西ブロックの集会が 約400人を集めて開かれた。1950年代から引き続くインターン制問題に関し、出願拒 否・国立病院ボイコット等の決議を上げたあと、医学生らは白衣姿で円山公園までデモをした。 1964年になっても関西の学生運動は衰えず、6月19日の全国統一行動には、「新暴 法反村」「改憲反対」を掲げ、京都・大阪・兵庫三府県学連による「全関西学生総決起大会」 が開催され、20大学から5000人が参加し、会場の円山公園を埋め尽した。 1965年6月には、ベトナム戦争での米軍による北爆と、日韓条約調印に反対して、三府 県学連が円山公園で集会を問いた。この集会には約7000人もの学生が参加し、京大生も 約1400人参加した。 しかし、この一連の政治闘争の高揚のために、主流派(共産同系)は学園での選挙運動 が手薄となり、皮肉なことに1965年6月末の同学会代議員選挙、教養部正副委員長選挙 では民青系に敗北してしまったのである。
254 :
革命的名無しさん :2008/03/13(木) 21:29:03
>>244 >赤ヘルの先祖たる全共闘(とか新左翼)がなにゆえに現れたのか
>については日共のくされパンフ以外に知識がなく知識を得ようという努力もなく
>自分ら民青日共がかつてどのようなものであったのかについてもベンキョーした形跡がないという
まあ、この「希土暁宣」@1976年入学 さんは
>>229 >ぼくは、「暴力反対」のために共産党に入ったからそれ以外のことはあまりやってない。
という人ですから。(笑)
◆同学会 民青系の手中に 1965年 一方、六全協(1955年)及び第8回党大会(1961)の1961年綱領採択で宮本顕治のヘ ゲモニーを確立させた日本共産党は、国会で議席を占めることで統一戦線政府を樹立しよう という、議会主義の立場に移行していた。そして共産党の指導下の学生運動は、選挙運動 への沈め石の役目を負わされることになったのである。京大において日本共産党−民青同 盟は、自治会の選挙運動にその全力を集中して票をよく伸ばし、ついに1965年6月の同 学会前期選挙にて、同学会中執と教養部自治会常任委の多数派を占めた。さらに同年 12月には完全に執行郡を手中に収めた。 それまで京大学生運動を領導してきた共産同系は政治闘争、とりわけ昭和1965年の日 韓闘争の盛り上がりを選挙に活かせないまま、同学会中執を民青系にあけわたした。これ は、高度経済成長下の見せかけの繁栄のなかで、政治闘争が学生層全体の関心事ではな くなり、その結果、学生層において活動家と「無関心学生」の乖離が発生していたことを示し ている。そして、民青系は、こうした無関心層の意識に依拠して自治会選挙に勝利したので あり、このような自治会執行部が学生運動を展開できるわけがなかった。何となれば、 1966年の警官隊学内乱入事件、1967年の自衛官入学拒否の闘いは、同学会執行部 (民青系)をのり越えて、反民青系の「全学共闘会議」によって展開されたのである。
◆大学管理法から国大協路線へ 1963年 1965年ごろから、大学の自治の機能が変質し始めた。60年安保闘争における学生の 政治化に危機感を覚えた政府は、1962年5月、池田首相の「大学が革命の手段に便われ ている」という有名な演説を契機にして、大学の国家管理を強める方向に動き始めた。しか し、国立大学協会は学長選任権を文相が握るような大学の国営機関化には強く反発し、 「大学の管理運営の責任者である学長を大学で選ぶことは大学自治の根幹をなすもの」と して研究・教育と人事に関する大学の自主性の尊重を主張した。学生の反対運動の盛り上 がりもあって「大学管理法案」は流産した。国大協による大学管理の「自主規制」路線は、 当時においては、ある程度の意味をもちえたが、国内外の政治情勢の緊迫化に伴い、国 大協路線は文部省によらない学生運動の監督の役割を次第に明確化してくることになる のである。 ◆ 学生運動の新たな地平の創出 1967年〜1969 1967年、南ベトナムなどへ訪問する佐藤首相の出発を阻止しようとした三派全学連の 学生らは、羽田空港付近で警官隊と衝突した。日韓闘争以来急激に強まった機動隊の弾 圧、テロルに対抗するため、初めて全員がヘルメットを着用し、角材・石という武器を手にし て警官隊に激突。この時京大文学部1回生の山崎博昭君が警官隊の暴力で死亡した。彼 の死によって、この闘争は強く全学生・教職員に焼きつけられた。この第1次羽田闘争は、 それ以前の学生運動がデモンストレーションの枠内にあった限界性を打ち破り、反体制の 攻撃勢力になったことを示した。たちまち、官憲、マスコミ一体となった「暴力学生」キャン ペーンが始まり学生に集中攻撃が加えられた。し かし、直接に政府・確力へ打撃をねらうこの闘争スタイルはその後、学生運動に定着してい った。
さらに、第2次羽田首相訪米阻止闘争(1967年11月12日)、米軍空母エンタープライ ズ号佐世保寄港阻止闘争(1968年1月18日)、三里塚空港建設阻止闘争、王子野戦病 院開設阻止闘争(3月)と、反戦闘争は盛り上がっていった。 だが、京大学内では、教養部代議員大会は流会の連続で、大衆的な盛り上がりを欠いた。 これは、武装闘争という地平に学生運動の先端が到達したことに少なからぬ学生が戸惑い を感じたことによる。その状態にのっかって低調な自治会選挙が行なわれ、民青系が執行 部を掌握。あいかわらず学生運動を国会選挙における共産党の票集めに矮小化し、闘う 学生層に対して民青系は「暴力学生」攻撃を行なうのみであった。そのため、形式的には 民青系が自治会執行部を占めていても、学生大会が成立するやほとんどの場合、反民青 系の議案が可決されるという二重権力状態になった。 ◆はじめてのバリケードストライキ 1968年 学外の反戦運動の高まりを受けて京大では「反戦連合」が生まれ多くの学生が・参加し た。理学部、経済学部が運動の中軸となり、教養部でもクラス反戦が結成された。反戦連 合は1968年春から夏にかけてベトナム反戦をかかげて大規模な闘いを展開し、ついに は10月21日の国際反戦デーで教養部のストライキを実現させた。 10月18日に開かれた教養部代議員大会は法経一番教室にオブザーバーを含めて 1500人が参加し、熱のこもった討論が行なわれた。教養部自治会常任委(民青系)の議 案は、賛成4、反対521で否決、反民青系の議案は賛成534、反村24で圧倒的な大差で 可決された。 そして、この議決に基づいて行なわれた教養部ストライキは、10月21日のたった一日 の間とはいえ京大で初めてバリケードストライキを実現し、教養部の3ヶ所の門は机など でふさがれた。この10月21日の国際反戦デーは、東京では新宿駅占拠が行なわれ、中 核派に対して「騒乱罪」が適用されるという激しい闘争になっていた。
◆ 寮問題を契機に闘いが爆発 1968年 1968年は、全国の大学で学園闘争が爆発していった。東大、日大をを頂点 とする学園闘争は、学生処分問題、寮運営、学生会館運営などの問題を発端 にして、ついには「大学とは何か、大学生とは何か、自分とは何か」を問いつめ ながら、大学の学生管理にたち向かう運動になっていった。それまでの大学は、 「大学の自治」の名の下に官憲の侵入を許さぬ聖域として扱われてきた。だが、 その実態は、教授会の自己保証制度として教授会自治が権力として与えられ、 その一方で「教授会自治」を用いて学生を管理していたにすぎなかった。そこに あるのは、自治でも自由でもなく、自主規制にすぎない。しかもそこでの教育は、 資本が要求する幹部や中堅社員を養成するだけのものであり、こま切れの知識 を人間性とは関係なく追い求める内容でしかなかった。「学問の自由」「平和と民 主主義」といった戦後を支えていた理念が、もはや現実においては矛盾を覆い隠 すイデオロギー装置でしかないことが暴露され、批判の狙上にのせられていった。 東大、日大において、全学共闘会議(全共闘)が、大学当局、官憲と激しい闘い を展開していた時も、京大は表面上は平静を保っていた。しかし1969年1月、長 くくすぶり続けていた寮問題がついに爆発し、以降10ヶ月にわたって京大闘争が すすむのであった。 1968年12月、吉田寮、熊野寮によって組織された全寮闘争委員会(「寮闘委」・ 反民青系)は、三項目要求(1.無条件新寮建設、2.経理全面公開、3.20年長 期整備計画白紙撤回)を掲げて、「一月闘争」を提起した。過去、14年間にわたる 寮闘争は平澤前総長や奥田総長との「話し合い」路線の下に屈伏してきた。「寮闘 委」は、これまでの闘いを「不徹底であった」と自己批判し、一月闘争においては、 寮問題を先進的に闘う部分を組織しつつ、各学部で行なわれている大学の自治 =教授会の自治の悪辣さの暴露の闘争と連帯してゆく、と行動を提起した。
◆ 寮闘争委員会 学生部を封鎖 1969年 1月14日、「寮闘委」は学生部で岡本道雄学生部長と団交を始めた。団交会場 は、民青系学生の妨害に備えて、簡単なバリケードが築かれ、「半封鎖」状態にあ った。1月15日午前1時には、奥田総長を交渉相手に変えて団交が行なわれるこ とになった。この間、民青系学生及び職員は「封鎖実力阻止」をとなえて、約200 人が法経1番教室に集結し、深夜に角材、ヘルメットを法学部地下に搬入し始めた のだった。 総長団交では、「寮闘委」の3項目要求は一切認められず、1月16日午前1時 に「寮闘委」は「団交決裂」を確認、直ちに学生部封鎖に突入した。 1月16日朝、学生の登校をまって、寮闘委・教養部闘争委員会(C闘委)の「封 鎖貫徹」の宣伝と、同学会など民青系「封鎖糾弾」の宣伝が火花をちらした。正午、 寮闘委の集会(300人)と、民青系の「五者連結会議」(職組・同学会・院協・生協・ 生協職組)の集会(400人)が時計台と学生部の間で隣接して開かれた。その周 囲を2000人の一般学生 や教職員が取り囲み、騒然とした雰囲気につつまれた。黄ヘルメット姿にゲバ棒装 備の「同学会行動隊」(民青系)100人が、C闘委を襲撃し、学生部前までつめ寄っ て封鎖解除を試みた。 1月17日、岡本学生部長は 「学生部封鎖の事態について」なる印刷物を配布。 内容は、1.寮生が自主選考をやめない限り新寮は建設しない、2.長期計画は寮 に関する部分のみ撤回する、3.経理公開は実現の方向で検討する、という内容だ った。
1月18日、この日早朝、東大本郷構内へ、8500人の機動隊が出動し、安田講 堂などにたてこもる全共闘の学生に激烈な攻撃を加えた。この東大の闘いが、京 大での3日目をむかえた学生部封鎖に一段と緊張感を昂めさせた。この日、正午か ら時計台前で5000人を集めて、総長の「所信表明」が行なわれ、総長はすみやか に封鎖を解くように要求し、話し合いを強調した。また、午後1時からは総長と「五者」 の間で団交行われた。2000人以上を集めて法経1番教室で設けられた団交は、終 始、「五者」のペースで進められた。会場の入口では封鎖支持派の学生はチェックさ れ、入室が出来なかった。一方、吉田寮、熊野寮のそれぞれの寮生大会では、封鎖 支持の決議があげられた。 1月19日、「五者」の総長団交は午前11時まで続いた。大学当局と「五者」が緊密 な連携をもつことになった。その間に、東大安田講堂は落城し、東大の熾烈な闘い、 ことに機動隊乱入による研究施設荒廃が報道されるや、「京大を第2の東大にする な」というエゴイスティックな危機意識が京大に蔓延し始めた。これが、「五者」=民青 の路線を右から支えた。
◆「われわれは大学に愛を告げた」滝田修 1969年 1月20日、翌日の封鎖支持派の「全関西総決起集会」を前に、「五者」を中心に封 鎖解除に向けた動きが活発化した。工学部を中心に「研究室を自衛しよう」という共 通利害が生まれ、「京大は京大人の手で」という京大ナショナリズムが鼓舞された。 翌21日には学外者の立入りが禁止されることが決まった。 1月21日、当局及び「五者」は各門に教職員を立て学生証提示を強制し、学外者 の立入りを阻止した。このため正午から予定されていた「全関西総決起集会」及び羽 仁五郎の講演会は、東一条通りに場所を変えて1000人を集めて行なわれた。夕方 には、生協花谷会館周辺から大量の資材が運ばれ、正門に高さ3メートル、奥行き5 メートルのバリケードが築かれた。検問は、もはや学外者のみならず、京大生である 封鎖支持派にまで及び、一方で民青同盟員はフリーパスであった。封鎖支持派は孤 立した学生部封鎖学生の支援のため本部正門から突入を試みるが、バリケードと、 民青行動隊のピケと、消化栓からの放水によって、正門に近づくことすら出来なかっ た。このような衝突が3日間続き、「狂気の3日間」と呼ばれた。驚くべき事実に、本部 で正門を固めていた「五者」=民青同明員及び一般学生に、京大当局は2000個の ヘルメットを支給し、2000食の炊き出しを行なうなど金に糸目をつけず、逆封鎖体制 を支援していたのである。 1月23日午前10時半、「五者」の本部逆封鎖により孤立していた、学生部封鎖学 生=「寮闘委」は、学生部2階の窓に白旗を掲げ自主解除をした。
262 :
革命的名無しさん :2008/03/13(木) 21:50:23
私は、二十歳の頃には既に、岩波・朝日文化人たちを小馬鹿にしていた。彼らのことを、同じ社会主義 勢力内でも、「スターリン主義者」と呼びならわすのが、60年代末から70年代初めにかけての大学 闘争の影響を受けた、いわゆる新左翼に共感を感じる数十万人の若者読者人層の共通感覚であった。 日本共産党の学生組織である民青同盟員のことを「民コロ」と呼び捨てたのは、新左翼や全共闘運動 にシンパシー(共感)を覚えた人たちだけではなく、政治的発言を好まなかった多くの学生たちであった。 だから、私は、大内兵衛や、丸山真男や、中野好夫らに騙されていたと思っていなかった。しかし、 実際には、彼らの本をその後も読んでいたのである。影響を受ける、ということは、不思議なことで あって、はっきりと軽蔑していても、それでも、大きな意味で彼らの影響下にあったことになる。 そのことにようやく気がついたのが、二年前の八月のソビエト連邦の解体劇と、ソビエト共産党の 瓦解・消滅劇を、テレビでみてからである。その後の数ヶ月間、私は、ずっと不快感だった、毎日が 憂鬱で不愉快でならなかった。その不愉快さの原因をさがし求めて、考えあぐねていたのだが、 最近、たどりついた答えが、やっぱり岩波文化人にその原因があったのだということである。 副島隆彦「切り捨て御免」P106~107
ところが、この「狂気の3日間」を通じて逆封鎖に参加した者から、いったい自分は 何を守っていたのだという疑問があがり、そして同学会など「五者」の寮闘争に対する 暴力的な圧殺に対して糾弾の声を上げ始めた。「五者」は逆に学内で孤立を深めるの だった。そのような中、1月27日、医学部本科4回生が医局解体、「統一青医連」結成 を掲げて無期限ストに突入。続いて「C闘委」が1月30日の教養部代議員大会を提起 し、自治会執行部(民青系)の逃亡にもかかわらず、600人以上の代議員を集めて、 1月31日からの無期限バリケードストライキを可決した。1500人の学生が集まった この教養部代議員大会は教養部における高揚を示していた。 教養部無期限ストが引き金になって、文学部、医学部本科、工学部が無期限ストに 突入した。さらに理学部、農学部も長期ストで決起した。こうして、各学部が独自の課 題(研究体制、寮問題)を持ちつつ、闘いは全学に波及した。 一方、同学会と「C自」の執行部を握る民青はスト収拾に奔走した。2月14日、教養 部代議員大会開催を目ろんで、全京都から動員された「民青行動隊」と、全共闘−「C 闘委」の間で激しい武力衝突がおこった。数時間続いた末、双方に200人以上の重軽 傷者を出した。「バレンタインデー未明闘争」と呼ばれる、この行動の中で、経済学部助 手竹本信弘(滝田修)は「われわれは大学に愛を告げた」と激をとばした。 2月26日、京大入試粉砕を掲げて全共闘は本部時計台を封鎖した。東大の入試は 中止されたたが、京大の入試は会場を学外に設けて強行された。
◆ 1分間で入学式が粉砕 1969年 4月、新入生をむかえ、まず入学式粉砕闘争が行なわれた。時計台ホールの演壇を 占拠した全共闘300によって入学式は1分間で粉砕され、その場は新入生と仝共闘の 討論会となり、500人の新入生が参加した。そして、この日から教養部や西部講堂など で「バリサイ」(バリケード祭)が催され、既製の文化を批判する講演、映画等がくりひろ げられた。更に、京大や他大学の教官を招いて、「反大学講座」という自主カリキュラム が持たれた。 しかし、半年の闘いを経て、学生の離散傾向が現われ、各学部毎に封鎖が解除され た。そうした中でも、農・文・医・教養においてはまだ封鎖が維持されていた。8月3日、 大学運営臨時措置法が国会で成立。6ヶ月以上の紛争校について運営を、文部省が 直接行なう、という内容のこの法案は、各大学当局を動揺させた。大学法の恫喝に屈し た京大当局は、9月21日、機動隊導入を決定した。これに対し、全共闘は時計台を封鎖 して決戦に挑んだ。 機動隊2000人が京大に投入された。時計台及び医学部図書館の死守戦と、これに 呼応した、百万遍や近衛通でのゲリラ的な闘争などが展開されたが、逆に機動隊によっ て、教養部を始め全ての学部のストライキが解除された。9月29日、授業が半年ぶりに 再開された。
◆第1次竹本処分粉砕闘争 1973年 1972年から1974年にかけては、国内、国外にわたって政治的にも経済的にも大事 件が続く。田中角栄の列島改造内閣の登場、米中の国交回復、べトナム和平協定調印、 ニクソン・ショック、オイル・ショックと世界的な経済危機が起った。日本の経済社会も高 度成長によってもたらされたひずみが社会問題となっていた。 一方では、浅間山荘−連合赤軍事件や連続企業爆破事件に象徴される過激な闘争 が続き、これに対する体制側の「反過激派キャンペーン」は、大衆運動や学生運動の分 裂、後退を増幅させていた。 こうしたなかで学生運動の焦点は、1972年の沖縄返還粉砕・自衛隊沖縄派遣阻止闘 争、1973年のミッドウェイ横須賀母港化阻止闘争、1974年のフォード大統領来日・訪 韓阻止闘争などが実力闘争として展開された。狭山差別裁判糾弾や刑法改正1保安処分 粉砕、原発反対などにも取り組んでいた。 京都大学では1972年11月、京都大学史上三度日の全学学生大会で民青系執行部 を罷免して、「闘う同学会」が再建された。 この再建同学会を中心に1973年、第1次竹本処分粉砕闘争が闘われることになる。竹 本信弘・経済学部助手は「滝田修」のペンネームでも知られた全共闘リーダーの1人である。 自衛官殺害事件にかかわったということで指名手配され、1972年から地下潜行していた。 この長期無断欠勤を理由に、経済学部が免職処分を上申したため、学内に激しい反対運 動が巻き起った。これは、大学当局自身による京都大学史上はじめてのレッド・パージに ほかならず、許せないというわけである。結局このときは、処分を強行しようとした前田総長 が総長選挙に敗れ、3年間凍結させる、という成果を勝ち取っている。
◆学生気質の変化 1975年 学生運動を取り巻く社会環境は大きく変わっていた。1970年代前半の混沌化した、い わゆる「武闘」(武装闘争)の時代の反動である。日航よど号ハイジャック事件(1970年)、 浅間山荘事件などの連合赤軍リンチ事件(1972年)。パレスチナ入りした日本赤軍はテ ルアビブのリッダ空港で乱射事件やを起こし、ハイジャック・大使館占拠事件で国際的に知 られるようになる。東アジア反日武装戦線による企業爆破事件が頻発し(1974年)、激し さを増した中核派と革マル派の内ゲバは多くの死傷者を生んだ。 この時期は「過激派」という言葉が連日マスコミに躍った時代でもあった。学生の闘争形 態が一般市民の感覚ではついていけないものになるにつれ、マスコミは学生運動家を「過 激派」という形容詞でひとくくりにした。そうしたキャンペーンもあって、市民の支持を得られ ないまま、学生運動家たちは精神的にも肉体的にも疲弊していった。札付きの赤い大学・ 京大に入学する新入生は、父母から「学生運動だけはやらないように」と釘をさされ、いわ ゆるノンポリ比率が増えるばかりだっ た。にもかかわらず、セクトはいがみ合い、内ゲバ騒ぎを繰り返す。学生運動は「冬の時代 」を迎え、年々、教養部でビラを受け取ることを拒む学生が増えていった。
◆ 竹本処分強行される 1977年 国際的にも国内的にも、それまでの図式が大きく塗り替えられた。とりわけ、インドシナ半 島でアメリカを退けたベトナムが中国と戦火を交えたことや、ソ連軍が戦車隊をアフガニス タンに送ったことは「左翼」内部の亀裂の探さを印象づけ、国内の思想状況にも長く尾を引 く影を落とした。 1970年代、京都大学で最も大きな事件となったのが、1977年から一年間、キャンパス を燃え立たせた第2次竹本処分粉砕闘争でる。 この年2月、京都大学評議会は、竹本信弘・経済学部助手の分限免職をめぐる審議を再 開した。激しい反対運動によって1973年、いったん中断していたのを岡本道雄総長は「勉 強ができたから」と懸案解決に乗り出したのである。 全共闘時代から時は流れ、現役の学生は当然のことながら、だれ一人として竹本個人に 会ったこともなかった。それでも、その処分は学問・思想の自由にかかわるもので、戦前の 「滝川事件」の再来と受け止められた。竹本への容疑そのものがあやふやであり、警察の デッチ上げで、大学がすんなり免職を認めるのは、権力側の思想弾圧に手を貸すことにほ かならない。「竹本処分は断乎粉砕する」ということで、同学会は再び闘争のノロシを上げ、 文学部・農学部・経済学部・教養学部が相次いで抗議のストライキに入った。 大学当局は学生の反発を恐れ、学外施設を転々としながら評議会の審議を続けた。いよ いよ採決を残すだけになった段階で、岡本総長は団交に応じた。1977年6月17日の夜の ことである。時計台下の法経1番教室は約1000人の学生、職員で埋まった。6時間あまり の団交のなかで同学会は「断乎粉砕」戦術を改め「票決を学内で行うのなら実力介入せず、 静かな怒りで包囲する」という非暴力戦術を提案した。岡本総長は「さきほどから深く考え てみて、明日の評議会は学内で行うことにしました」と答えた。団交に出た者の多くは評議会 で処分案が否決、あるいは再び棚上げされる見通しがあるものと期待を寄せた。
しかし、翌日の6月18日、それが幻想だったことが明らかになる。時計台で開かれた評 議会は、3分の2の賛成で竹本免職を決定した。同学会の戦術転換は「OB活動家と当局 側との裏交渉によるものだった」と告発するビラがまかれ、学生の失意に追い打ちをかけた。 京都大学新聞は号外を発行した。「竹本処分処分強行される」の大見出しと、総長の背 後から法経1番教室の1000人をぐるりと撮ったパノラマ写真。二面には、竹本助手が友人 の教官に送った委任状の記事が載っている。大学で飛ぶようにさばけた。 このあと大学当局は年末にかけて、たぴたび機動隊を導入し、学生側をしめつけた。吉 田参道にはいつも機動隊が待機する状況になり、学生側は完敗したのである。 大学当局は1977年12月、処分の露払いに時計台に白ペンキで書かれていた「竹本処 分粉砕」のスローガンを消し去った。そして「学内正常化」の旗印のもとに、立看板撤去や ビラ・ポスター禁止、正門の夜間ロックアウトなどの措置を矢次早に打ち出していった。当 局側の言葉でいう「管理が行き届いて」いったのである。 この時代、同学会は学外闘争に大きなカを注いでいた。三里塚の農民との闘いを足場と し、節目の全国集会には必ず「部隊」を派遣した。また、狭山裁判をめぐる反差別闘争にも 日常的な取り組みを続けていた。 他方、共産党の指導を受け、同学会と真っ向から対立していた民青は「暴力学生追放キ ャンペーン」を行うなどした。しかし、キャンパス全体を見渡すと、学生層の意識は「反体制 的なるもの」から遠ざかる一方だった。「一億総中流化」「軽薄短小」の時代だったのである。
◆経済大国ニッポン 1979年 1970年代中葉は、戦後最大の不況だった。狂乱物価を抑え込む強力な金融財政政策 がもたらした不況である。円高の進行に1978年の第二次石油ショックもあって、企業は減 量経営に躍起になり、国は安定成長を目指すことになる。ガルブレイスの『不確実性の時 』がベストセラー(1978年)になり、NHKの朝の連続ドラマ『おしん』が大ヒットしたのも、そ うしたこの時代のムードを象徴している。 しかし、この時期に日本経済は、さらに実力を増してゆく。二次にわたる石油ショックや通 貨危機の激動で、先進工業国も発展途上国もおしなべて打撃を受けた。日本も当然のこと ながら衝撃はあったが、比較的うまくこの困難な状況を克服していく。省エネルギー型産業 が登場し、ハイテク企業が産業界をリードするようになる。そして、日本経済は、円高不況を 克服して、国際経済摩擦を頻発させるほど、世界経済のなかにおける相対的地位を上昇さ せた。アメリカからもヨーロッパ諸国からも「ジャパン・バッシング」に遭いながら、否応なしの 国際化が進行することになった。
◆保守回帰、戦後政治の総決算の1980年代 新保守主義が意識された時代でもあった。アメリカではレーガン政権が登場し、イギリスで はサッチャー政権が登場し、経済政策はもとよりさまざまな政策が「古典的自由主義」に返ろ うとする。日本でも中曾根康弘内閣が誕生し、「戦後政治の総決算」を掲げた政策を推進す る。そして、1986年の衆参同時選挙では自民党は衆議院で三百議席という絶対多数を獲 得、あたかも保守回帰が時代の色であるかのように思わせた。 自民党の長期政権が続くあいだに、政治スキャンダルが多発した。1976年には、「首相 の犯罪」を裁くことになったロッキード事件が発覚し、1988年には与野党幹部を含む政財 界・マスコミ界にまで未公開株をバラまいたリクルート事件が起きる。いずれも政治不信をか き立てるのに十分な政治スキャンダルであるが、前者は保革伯仲状況をもたらしただけで、 それ以上の変革にはつながらなかった。昭和が終わって平成になるまで、社会の枠組みは、 大きく変わらなかった。 大学のキャンパスを取り巻く環境は、偏差値教育が浸透して、乱塾時代が社会問題化し、 1979年からの共通一次試験制度が、さまざまな角度から大学の姿を決めつけていったの である。
271 :
革命的名無しさん :2008/03/13(木) 22:58:27
>>254 君は単に茶化しているだけだよ。赤ヘルが暴力を振るってないならそう言えばいいじゃん。振るってるならなんで?ミンセイならいいのかい?
272 :
革命的名無しさん :2008/03/14(金) 01:30:47
>>元祖趣味者さん >>1964年〜1966年 >>さて、京都府学連内部では、主流派(共産同系)と反主流派(民青系)が理論・主張面で >>は対立しつつも、行動面では統一して動いていた。しかし、9月の定期大会で民青系が京 >>都府学連をボイコットし、事実上分裂するに至った。 当時の府学連の反主流派はフロントではなかったか? 具体的には、主流派=最大会派として京大・同志社のブントがおり、 最大野党として立命館のフロントがいるという構図。 更に革共同が学芸大(現教育大)や京大医・立命経(今、話題の橋本兄弟!) を拠点にしていたが、如何せん当時の京都では少数派であり、府学連内部では 国会における共産党のような立場であったのではなかったか。 民青に関してはちょっと自信がないのだが、意識的に参加していなかったか、 もしくは参加してはいても革共同同様、少数派に過ぎなかった筈・・
>当時の府学連の反主流派はフロントではなかったか?
>具体的には、主流派=最大会派として京大・同志社のブントがおり、
当時は、フロント(立命館)も含めて、府学連は、ブントとフロントが主流派。
反主流派が民青同で、それが1963年の平民学連結成で、府学連から逃亡すると
線引きがシフトして、フロントが府学連内で「反主流派」になったのかもしれませんね。
しかし、京大の学部自治会レベルでは、1965年まで反主流派は「民青同」ですね。
接着剤としての民学同の役割は大きかったし、中央はさておき、京都では民学同の「努力」
で、統一行動が保てたから、大衆的な動員が1965年まで実現できたと思います。
そういう意味で、こと京都の学生運動でいうならば、民青同の分裂主義は、罪悪であった。
直前の1964年には、同志社を襲撃しているし(同志社の栞に詳しい)。
<府学連 内>
主流派 反主流派 平民学連
1962年 ブント・フロント・民学同 民青同 −
↓
1964年 ブント フロント・民学同 民青同
↓
<府学連 崩壊>
<京大>
主流派 反主流派
1966年 ブント 民学同・民青同
1966年 民青同 ブント(旧主流派という名前に)・民学同
http://www.assert.jp/data/history/mg-website.htm http://www.assert.jp/data/history/mgdata/mg0003.htm
276 :
革命的名無しさん :2008/03/14(金) 17:27:48
国難に内乱を太一せよ?
277 :
革命的名無しさん :2008/03/15(土) 00:35:56
越境。
278 :
革命的名無しさん :2008/03/15(土) 18:40:52
50過ぎた京大出のおっさんが、 30年前に殴った殴られたってマジ顔で言い争ってる 平和な世の中で俺はうれしいよ
279 :
革命的名無しさん :2008/03/15(土) 21:05:14
>>242 私は73年〜78年にあなたの嫌う民青系の学生運動をしていました。私の大学では□○が「民青はこんな暴力を振るってた」
という立て看やビラを出していました。
個人的には「あかつき時代にかえりたいな〜」と思った事は1000回もあります。でも当時の民青は「反暴力」になっていました。□○に殴られれば殴られはなしの
時代でした。はっきり言って、その頃の民青の活動家は60年代の「あかつき」の連続性はありませんでした。
情けない話・・・・
281 :
希土暁宣 :2008/03/15(土) 22:13:21
ちょっと、再登場する。
278の方の感想はごもっとも。しかし、「殴った、殴られた」というと、素手で殴り合っているみたいだけど、違うんだよ。
赤ヘルさんというのは、鉄パイプやゲバ棒で、集団的に襲いかかるわけでね。そういうのに、いつ襲われるかわからない、という恐怖感には、
イマジネーションを働かせてほしい。京大でも、86年1月に中核派の方がひとり殺された。
http://www.longtail.co.jp/yoshida/8603.html 横浜国大生だった兄の目の前でも二人殺された。下宿を襲ったりもする。
暴力は、肉体を破壊し、苦痛を与え、人権を、言論の自由を、思想信条の自由を、集会の自由を破壊する。人間と民主主義を基礎から破壊する。
赤ヘルさんは、自分たちが「暴力をふるっていない」とはいえないから、「民青も暴力をふるった」といって自己正当化を図る。みっともない話。
共産主義の暴力を過小評価してはいけない。
ぼくは、学生時代、赤ヘルのような幼稚な暴力集団は共産主義者ではないと思っていた。
でも、今になって90年代以降明らかにされた世界の共産主義政権の実態を見ると、赤ヘルこそ、その残忍性において正当な共産主義者だったと思うようになった。
暴力反対の共産党というのは、共産主義の本家じゃないよ。別の名前にした方がいい。民主集中制も捨ててほしい。
赤ヘルの暴力を容認する人間には、平和や民主主義を語る資格はないと思うね。
みなさん、匿名はいいけど、固有の名前で発言していただかないと、発言の連続性がわからないね。
282 :
希土暁宣 :2008/03/15(土) 22:18:29
ちょっと、再登場する。
278の方の感想はごもっとも。しかし、「殴った、殴られた」というと、素手で殴り合っているみたいだけど、違うんだよ。
赤ヘルさんというのは、鉄パイプやゲバ棒で、集団的に襲いかかるわけでね。そういうのに、いつ襲われるかわからない、という恐怖感には、
イマジネーションを働かせてほしい。京大でも、86年1月に中核派の方がひとり殺された。
http://www.longtail.co.jp/yoshida/8603.html 横浜国大生だった兄の目の前でも二人殺された。下宿を襲ったりもする。
暴力は、肉体を破壊し、苦痛を与え、人権を、言論の自由を、思想信条の自由を、集会の自由を破壊する。人間と民主主義を基礎から破壊する。
赤ヘルさんは、自分たちが「暴力をふるっていない」とはいえないから、「民青も暴力をふるった」といって自己正当化を図る。みっともない話。
共産主義の暴力を過小評価してはいけない。
ぼくは、学生時代、赤ヘルのような幼稚な暴力集団は共産主義者ではないと思っていた。
でも、今になって90年代以降明らかにされた世界の共産主義政権の実態を見ると、赤ヘルこそ、その残忍性において正当な共産主義者だったと思うようになった。
暴力反対の共産党というのは、共産主義の本家じゃないよ。別の名前にした方がいい。民主集中制も捨ててほしい。
赤ヘルの暴力を容認する人間には、平和や民主主義を語る資格はないと思うね。
みなさん、匿名はいいけど、固有の名前で発言していただかないと、発言の連続性がわからないね。
283 :
革命的名無しさん :2008/03/16(日) 00:15:47
>>282 oyobidenai
京大同学会 同大学友会
世界に冠たる2大ノンセクト学生自治会。
特に70年代の話で盛り上がれたらいいなあと。
284 :
革命的名無しさん :2008/03/16(日) 19:02:21
ちょっと、再々登場しないでくれ!
285 :
革命的名無しさん :2008/03/16(日) 19:15:20
お前の書き込みよりは遥かに価値があると思うが。
>>227 ナイス突っ込み(笑)。 本当ならば、民主主義というよりも国民国家と
一般的には書かれるところですよね。ただ、希土さんのところの書き込みとの
兼ね合いもあり、民主主義と書きました。
「化外の民」、あるいは「マージナル」な人間を#認めない#のが国民国家
やら民主主義やらの本質と考えているもので。それがどれほど抑圧的な、
無惨なことになりかねないか。
287 :
希土暁宣 :2008/03/16(日) 22:22:55
阪僑さんのおっしゃることは難しいですね。どれだけ理解できてるかわからないので、議論に加わるべきかどうか・・・。 民主主義はルールを持ち、そのルールは国民国家の暴力装置によって担保されます。これはいいでしょう? 「化外の民」や「マージナル」な人間が認められないのは、民主主義の欠陥ではない。民主主義が不十分なのだと思います。 民主主義以外に、抑圧的でない組織原理があるでしょうか? 「化外の民」は国家の外の人間だから、国民国家の民主主義というより、国際間の民主主義の話ですね。 「マージナル」とは「マイノリティ」と同義でしょうか?
288 :
希土暁宣 :2008/03/16(日) 22:35:29
「化外の民」をマージナルと同義で使っておられるんでしょうね。それなら、マイノリティはどういう位置づけになるのでしょう?
289 :
革命的名無しさん :2008/03/16(日) 22:52:29
つーか、話はアレだが、みんせいの「暴力反対」ってやってた連中ってやっぱり集団転向起こしてるんだよね?
290 :
革命的名無しさん :2008/03/16(日) 23:03:43
権力の暴力にはもともと鈍いふりするからな。 ネオリベ圧制下の様々な暴力にも鈍感なふりするのは間違いない。
あ、わかった。元民青同さんと、元赤ヘル(ばかへる、と言われてもいいですよ)では、 寄りしろとする「民主主義」の考えが違ううんでしょうね。あっしらが、体験的にまなんだ、暴 力学生が支配する学生寮(といっても、京大・同志社の寮はみな、そうでしたが..)での 「民主主義の優先順位」(寮生流 民主主義)は、意訳しますが、次のようでした。 きっと、このなかに「暴力を肯定するプロセス」があって、それは元民青同とは相容れ ないでしょう。 1.まず、諸個人の「考え方の自由」があること。 → 「思想の自由」を最優先する。 (そのためには、たとえ、敵である原理研究会の思想の自由をも、保障する。ヴォルテールの考え方も含む) 2.次に、自分のことは自分で決められるということ。 → 「自己決定権」 (そのためには、意思決定できうる情報公開を求める。秘匿しない。報道の自由をもとめる。そうでなければ 決定できないから。よって、公の場で、大学当局との「団交」を赤ヘルは求めます)。 3.でも、個人の自由を野放しにすると(放縦と自由の勘違いも発生する)、音楽(主に中島みゆき)を大音量で寮内 で流すと隣の人の「自由」に侵食、あるいはアジをやっている学生と、教室で静かに本を読んでいる学生とでも、 折り合いがつかなくなることがでてくる。 そのときには、ルールでどうのこうのいうよりは、まずは、当事者通しで利害について「話し合い」をせよ、という 発想がある。ルールをがんじがらめに作るよりは、案外、2人で話してみると、人となりをしることで、互いにワカリ アッテ解決することが多い。 →「自己解決の原理」
4.しかし、話し合いで解決しないとき、話し合い以外の方法もあるだろう。このときは、声が大きいもの、喧嘩が強い ものがその場を制することも、容認する。 →「暴力肯定」 1対1の暴力も、コミュニケーションの一種とみなす。 5.しかし、1対1で解決できないときや、1対1ではなく多数対多数の複雑な「利害」の調整が必要になるときがくる。 このときは、単なる暴力ではは、まとまりません。このとき調整者が現れる。寮では、総務という。総務は、民主集 中制の徹底した某党派とは違い、任期のある村長さんみたいなもので、関係者を呼び、車座になって食堂あたり で、延々、エピソードを出し合い、最後には、なんらかの暫定の解決を巫女のごとき、決めます。 →「寄り合いの法則」(宮本常一 風) 6.さらに時代は進むと、村と村で(寮と寮で)、利害がぶつかるときがあります。すると、話し合いで利害が調整される ときも、たまにはありますが、古代、利害調整は、武力で決着がつくものですな。 →「戦争は内政の延長」 再び暴力容認 7.ところが、時代が下って第1次世界大戦(内ゲバ時代)ともなると、毒ガス、塹壕堀、バール、火炎瓶などありとあら ゆる武器で数百万人も死ぬ時代がくると、武力(内ゲバ)での決着は、コストが高いことに気がついた。 そこで、ディベートです。イギリスなどは早くから、殺し合いで王を10人は下らぬ数を殺し、ロンドン 塔に閉じ込めた歴史があるからこそ、はやくから議会での決着法を編み出しました。 →「話し合いと戦争の費用対効果」 中華区派と描く丸派だって、内ゲバのコストに気がついて、1986年以来やっていないでしょ。
8.しかし、話し合いでは、時間がかかりすぎることがわかりました。延々と小田原評定をやっていると、時宜を逸 することもあります。そこで、初めて「多数決」を編み出しました。でも、多数決は、はじめは全員ではなく 一部の人のみが、投票権を持っていました。なぜなら考える力が無い人も、おなじ1票だと、採決結果が 税金をたくさん払っている実力者に納得感が少なくなるからです。今でも国連やEUでは、その考え方は 残っていますね。 でも、そうすると武力を持たない、女性、若者、有色人種が文句をいいます。そこで、ようやく、普通選 挙の導入です。 →「普通選挙への道」 9.けれども、話し合いでも、多数決でも決着がつかないときは、やっぱり武力です。 これは、グローバルスタンダードは、国家は武力をもって、いざと言うときに備えることです。 だから、元赤ヘルは、日本の武力放棄は言いません。自衛隊はなくすのではなく、人民軍へ改組する という考えをとります。→最後は武力や。 でも、核は、武力ではありません。核戦争は「戦争」ではありません。 というのは、核を使ったコミュニケーションには、勝者がいないからです。勝者が無い以上、戦争のメリ ットはありまへん。
では、共産党の諸君をはじめ、不幸にも「個人の考えの自由」「自分で自分を決める自由」「他者と1対1 で解決する」「トコトン話し合うこと」を抜かしたまま「多数決」のルールつくりばかりをやったり、や、誰かに決めてもらう 「代行主義」という「民主主義」になっていまったのですなあ。民主集中制など、最悪の「民主主義」というか 民主主義じゃないでしょう。 しかも、日「共」−民青同の諸君は、暴力はいけないといって、「暴力」を国家や学校が独占することを許 してしまったのです。 だから、警察に告訴−告発する民青同の勘違いやろうを、赤ヘルが人間として怒って、なぐるのをあっしは 止めません。あtだし、ものにはカゲンというものがあるから、そこをほのめかすぐらいです。 立命館の民青同とは、同じ考えでしたけれど。京大の民青同の諸君は頭が、いいのか、自分から手を汚す のが嫌いなのか、知らんけれど、暴力が嫌いというだけで、赤ヘル反対が多かったね。きっと、小学生のころ から殴り合いの喧嘩をしたことがない、いい子ちゃんだったに違いない。あっしは、そういう人間は嫌いですね。 殴り合いの喧嘩は、小さいころにやっておくほど、あとから手加減がわかって、大きな怪我をさせることがないのよ。 立命の屋郎は、あっしの小指を握っておいらを痛みつけているくせに、大仰に「いてててて、赤ヘルが暴力を振る っているんですよ」と演技をする。こいつらは、プロだと、思いましたね。
でも、民主主義の欠陥はわかる。けれど、いくら、民主主義が欠陥だらけ の方法であっても、ほかによい制度はないから、セカンドベストとして、 民主主義を実践するしかないでしょう。これは家庭内でも同じですよ。 希土暁宣さんは、きちんと、両親や兄弟のかたと、受け止められる範囲内で トコトン話し合い、フィードバック、殴り合いも含めた意思の交通をやりま したか? ご縁が遠くなった、元連れ合いのかたと、適切な言葉を選択し て、自分の気持ちをわかるように伝える努力をしましたか? なぜ、民青に加入して、そしてやめて、そういった経験を、過去にとらわ れるのではなく、未来へ向けて再解釈して、伝えようとしましたか? 彼女に、オーラルで伝えられない内容を、テキストベースで、ネットで伝 えようとしても、難しいと(ダメというわけでないけれど)思います。 だから、ネットに書く意味・目的・効果は、自分の意思の賛同者を得よう というのではなく、書くことによって、自分の整理をしようという、治療過 程と、いえるでしょう。よい治療となることを、お祈りしますが、狭い方向 に、収斂しないように、懸念だけ申しておきます。
閑話休題
>>282 京大でも、86年1月に中核派の方がひとり殺された。
民青同(C「自」)のビラではなく、赤ヘルの機関紙(大学新聞)では、次のような記述でした。
●京都大学新聞 1986年2月1日号「殺人事件に糾弾の声」
1月20日午前10時30分頃、教養部A1号館廊下で教育学部3回生で、中核派の活動家、
福嶋慎一郎さん(25)が、革マル派に襲われ殺害された。福嶋さんはC代大の情宣でクラス入
りに向かう途中であった。これに対し、学生からの糾弾の声が上がっている。
中核派は、声明を出し「反革命カクマル、この憎しみで余りある日帝・中曽根の手先ファシス
トどもは、、わが中核派のほこる京大生、全学連副委員長代行の福嶋慎一郎同志を虐殺する
という、絶対に許すことのできない凶行をおかした。わが、革共同中核派は、満身に燃えたぎ
る憤怒と憎悪を持って、この白色テロルを徹底弾劾し、血の復讐を徹底的に全面的に貫徹す
ることを宣言する」
また、同学会、文学部学友会、経済学部同好会など11団体連名で、「革マル派による1.
20福嶋君殺害を糾弾する」という声明を出している。
民学同もビラで「殺人行為を満身の怒りを持って糾弾する。殺人グループは、自治会運動
内部の自治破壊者として追放されねばならない」と述べた。
一方、民青系学生諸君は、「内ゲバ殺人」キャンペーンを展開。「大学の内ゲバの戦場化を
許すな」「暴力学生は大学から出てゆけ」「大学当局は責任ある態度をとれ」と主張して、弾圧
を要請している。
警察は、事件を口実に、1月20日に尚賢館、21日に熊野寮を不当捜査した。
● 京大は次の掲示を行った。
「掲示
1月20日朝、教養部構内において、暴力行為によって学生が死亡するという最悪の事態
が起こった。総長として、深い悲しみと激しい憤りを覚える、つよい、決意をもって二度とこのよ
うな暴力事件の起こらないよう学問の府としての大学の維持を当たる所存である。全学の各
位の理解と協力を切望する。 昭和61年1月21日 京都大学総長 西島安則 」
297 :
希土暁宣 :2008/03/17(月) 06:39:44
民主集中制は、独裁の温床。もちろん民主主義などではない。共産党は、一刻も早く民主集中制を放棄してほしい。 ただし、これは党内意の規則であり、現在までのところ、党外に適用しようとはいっていない。 暴力を国家が独占するのは当たり前。社会契約説でそうなる。赤ヘルや赤軍派が独占したら、ポルポト政権になっちゃう。 刑事犯罪を告訴・告発するのは当たり前。国家が暴力を独占しないと、「万人は万人に狼」となり、赤ヘルみたいなうちゲバの世界になる。 ぼくは、暴力反対だけど、子供のときから殴ってる。殴られたことはない。不良グループに、けんかの腕を買われて誘われたぐらい。 そんなことが許されるのも中学生まで。 大学生になっても暴力を振るう赤ヘルは、おばか。それも、許容できる範囲でない、武器を使った、殺人政治テロ。 暴力を許容する民主主義なんて、ありえない。
298 :
希土暁宣 :2008/03/17(月) 06:42:10
赤ヘルの暴力の具体的事例として、1976年7月2日に民青系自治委員会を赤ヘルが襲ったときの模様を記す。 この襲撃の最初の場面は、それを目撃したノンポリ(政治的無関心派)小田切氏の近著に描かれています。 「人垣の中に紛れ込んで、野次馬の一員となって見ていると、ゲバ棒をもって会場内に突入しようとする学生と、 それを入れまいとして阻止する民青系の学生が、いくつかの入り口の付近でぶつかり合っていた。すると突然に、 一人の学生が建物の中の方から外へ放り出されるように転がり出てきた。 その男は僕の目の前、2メートルぐらいのところで転がった。そこへ間髪入れずに、駆け寄ってきたヘルメット姿の学生が、 その男めがけて渾身の力を込めて角材を振り下ろした。 その角材は、転がった男の後頭部から首筋にかけて直撃したように見えた。 動かなくなった男に向けて、その学生は二度三度と角材を振り下ろした。隣にいたおばさんの「死んじゃう〜」という悲鳴にも似た声が聞こえた。 僕は思わず「やめろ、死ぬぞ」と叫ぶとともに一歩踏み出していた。その瞬間、動きを止めて振り返ったその学生と目が合った。興奮しきった、 明らかに常軌を逸した、何かに取りつかれたようなあんな目を見たのは、僕は初めてだった。倒れた男の耳のあたりからは血が流れ出し、 アスファルトの上に広がっていたように記憶している。(中略)僕はそのまま、合コンの待ち合わせ場所へと向かった。」 (「だまされない『学び』のために」 新風舎 小田切秀穂著 2007年刊:48頁) 「小指を握って痛みつけてる」というレベルの暴力ではないでしょう? 「トコトン話し合うことを抜かして」暴力をふるっているのは、赤ヘルでしょう?
299 :
希土暁宣 :2008/03/17(月) 06:44:45
離婚の理由は、家庭内民主主主義の問題ではありません。愛情関係はしっかりしていました。一度もけんかしたことない。 私の父は、生活力がなく、巨額の借金を背負っていて、家もなかった。兄は、内ゲバ殺人を目撃して(だけが原因とは思わないが)、 うつ病→重度の統合失調症となった。 私はこの家族を支えなければならなかった。妻は不安性で、自殺用の毒薬を常備している女だった。 私が発病した結果、妻は私を含む家族4名を養わなければならなくなることに恐怖した。 それには耐えられないので離婚した。 ぼくも、妻の不安は最もだと考えて、離婚に同意した。抱き合って、泣きあって別れました。 離婚のもう一つの原因は、私が発病したとき、妻が赤ヘルに見えて、恐怖する、という幻覚症状を呈したこと。 この幻覚症状を起こした患者は、恐怖に抵抗しようとして、赤ヘルの幻覚(妻)に襲い掛かる可能性があった。 その恐怖が妻にはショックだった。 やくざみたいな暴力を許容する民主主義なんていう形容矛盾はやめてください。
300 :
希土暁宣 :2008/03/17(月) 07:28:05
294<「殴り合いの喧嘩は、小さいころにやっておくほど、あとから手加減がわかって、大きな怪我をさせることがないのよ。」 殺し合いのけんかをやってるじゃないですか! 素手で殴りあうレベルではない、といってるでしょう?
>>297 いえいえいえ、彼らがヘゲモニーを握った労組では見事に押し付けて
いますよ。それに恐怖した、例えば小生のいた労働組合は規約の中に
「日本共産党のように、労働組合を党の従属物として扱う党とは強く
一線を画する」と書かれています。
マージナルは周辺人、化外の民は掟・ルールの埒外ですね。 とりあえず、これだけ。運動圏でヨヨギとかかわるとよく分かるが、 共産党の言う「民主主義」とやらも、内部ではそういう存在を認めない。
303 :
革命的名無しさん :2008/03/17(月) 09:03:32
呆れ果てつつお尋ねするのだが、 ほんとに70年代中期〜後期、京大日共=民青には 希土民みたいなのしかいなかったの? 数年ちがいでここまで転落してたの? なんか情けないっすよ、おじいさんは。
304 :
革命的名無しさん :2008/03/17(月) 09:26:55
「おじいさんは」を専ブラのNGリストに入れました。
305 :
革命的名無しさん :2008/03/17(月) 09:50:42
おsageさんの先輩方のお話ですよ。
あほか。 >ぼくは、暴力反対だけど、子供のときから殴ってる。殴られたことはない。 ということは、学生時代に殴られていた民青同は、希土氏ではなく、べつの 民青同で、希土氏は殴られている知人をかばって自分がいたい目にあうわけ でなく、「暴力反対」といって、7月6日に眺めていたわけだ。 豊田商事の社長殺害のときに、殺人者をさえぎることなく、単に写真を とていたバカ・マスコミと同じではないか。 そういう、評論家みたいな言質は、「ひと」として信頼されないよ。
間違い
7月6日→7月2日
なお、あっしも暴力黒書(1977年12月→1978年1月まで第3弾まで)を
所有しているが、ほぼ同じ内容の新入生向けのチラシ(小田切 某風の内容)
を配られましたが、その描き方のいやらしさから、逆に、C「自」なんて
トンデモ団体だと、すぐに気づきましたよ。
なんどでもいうが、1980年代初頭の立命民青は、そうではない
根性と知性があったから(立命民青から、続々と、共闘派が離脱していた
くらい)、京大がトンでもなかったということだろう。民青から赤ヘルに
成るのは、1982年が最後くらいで、その後は人材も払底していましたね。
>呆れ果てつつお尋ねするのだが、
>ほんとに70年代中期〜後期、京大日共=民青には
>希土民みたいなのしかいなかったの?
いや、大賀浩一くんは、戦いがいのあるゴリ民でしたが、
後継者がいませんでしたね。
http://www.e-hoki.com/lawyertown/174.html?hb=1
308 :
革命的名無しさん :2008/03/17(月) 20:04:45
>いや、大賀浩一くんは、戦いがいのあるゴリ民でしたが、 後継者がいませんでしたね。 おじいさんなんですがね、 やっぱり新日和見主義が日共中央において抹殺されたことが大きいんですな。 それと関連するんでしょうが、連赤、革共同内ゲバ、 民主連合政府なんつー夢を見ていた日共中央には跳ね上がりの学生ミンを統制せなあかんかったんですな。 その路線で入ってきたのは希土ミンさんみたいのばっかし。 これでは相方の全共闘末裔たちも退廃するわ。 元祖はんの年表のおかげでなんとなく俯瞰できましたよ。 ところで当時のミンは竹本処分についてはどういう態度を表明してたんでっか?
とりあえず、何となく書いておきますね。 「復讐だ、直ちに復讐だ、奴らの頭蓋に熱きバールを!」 もうね、アボガド・うましかかと。
310 :
革命的名無しさん :2008/03/18(火) 00:31:38
>>元祖趣味者さん 立命民青ほめすぎ。
希土氏は知らないのか。あの頃、同じ代々木と言っても、確信犯的に赤ヘルなぞ 抹殺してもいいと考えていた部分と、単に「暴力反対」につられて民青同盟員 やってるだけの部分がきっちり内部的に区別されていたことを。前者は後者に 分からないように、塩酸ビンを投げたり、釘のついたプラカードで殴りかかった。 C自再建とやらの日だ。教室の中にいた同盟員と「自治委員」は外でゲバルト応援 部隊が何をやっているか、まったく知らされていない。 警察に出頭し、これが殴られて破壊されたメガネです、なんて言いながら、その実 自分でメガネをわざと折ってた同盟員もいたぞ。
京都バレンタイン闘争の時は、地区民青が登場。 強かったよ。 暴力反対と言いたかったが言えなかったw で、捕虜になったよw 大平洋戦争を知ってる世代と知らない世代があったように 全共闘運動前後を知ってる世代と知らない世代が生まれ てるな、と酒を片手にチベット見ながら思ってる今日この頃。
京大学生運動史は、実は卒業で忙しかったのと(最終学年で100単位 獲得闘争、笑)と、1980年代は、まだ機が熟してなくてかけなかっ たんで、いまだ文章化できていないの。俯瞰図は持っているのですが、 まあ、死ぬまでには残さないと、あかんのですが。 インタビュー(1987年)と、レジュメで相すみません。 ◆ 1970年代を語る 伊藤 公雄氏(京都大学文学部教授)いとう・きみお。昭和26年(1951)埼玉 県生まれ。51年文学部卒業。56年同大 学院博士課程修了。京大文学部助手、神戸市立外国語大学、大阪大学を経て、現職。 <リード> 60年代後半から70年代初頭にかけて、全国の学園、街頭を吹き抜けた学生運動の 熱い嵐も、70年安保闘争、71年沖縄闘争を経て、党派間の内ゲバや連合赤軍事件の 影響もあり、急速に衰退していった。しかしながら京都大学においては、竹本処分反対運 動を一つの核として、独自の運動を構築、展開し、70年代を通じて全国の学生運動を牽 引していったのである。74年から75年まで、同学会の議長を務めた伊藤公雄氏のイン タビユーによって、当時の京大学生運動の状況、その目指したものなど、振り返っても らった(1987年)。 <同学会を再建、第一次竹本処分粉砕闘争を展開> ――70年代京大学生運動を振り返っていただきたいと思うんですが、70年安保闘争、 71年の沖縄闘争といったあたりまでは、京大の学生運動も全国的な学生の政治運動 の流れの中にあった、と言えるんじゃないですか。 伊藤 そうですね。それがちょっと変わってくるのは、1972年の、いわゆる民青系学生 による告訴・告発問題からだったじゃないでしょうか。個人と旧同学会の名前で、まず5 月に2人が告訴・告発されました。
――72年の初めに、学費値上阻止闘争が闘われていて、その過程での衝突が、契機 となっていたんですね。 伊藤 あの学費値上阻止闘争は全学バリケード闘争や百万遍の解放区闘争を展開す るなど、大きな盛り上がりをみせたんですが、民青系学生はことごとく反対してきた。そう いうなか、2月に無期限ストを決議しようとした文学部学生大会において、ちょっとした衝 突があったわけです。 ――学費の問題で盛り上っていたエネルギーが、学生を権力に告訴・告発するというよ うな民青系学生の行為によって、パッと燃え上ったという感じでした。 伊藤 まったくその通りで、5月に2人が告訴され、その後、確か10人くらいが続いて告 訴・告発された。9月には八島久男さんという、後に再建同学会の委員長となる人が、釜 ケ崎の地域闘争の支援活動を展開している際、釜ケ崎の現場で逮捕されています。さら に酒井一君という、文学部学友会の委員長だった人物も逮捕された。 そういうことがあって、当時あった学費値上阻止全学闘争委員会連合(全闘連)と各学 部の自治会によって告訴・告発を糾弾する運動が展開されていくわけですね。11月10 日には、教養部代議員大会で、民青系の教養部自治会執行部が罷免されています 。だいたい当時は、自治会は民青系が握っているものの、代議員大会になると全共闘系 の流れである全闘連が勝つという構図があったわけです。もっとも、教養部自治会に関 しては、結局、民青系執行部は罷免したものの、全闘連系の自治会は再建されずに、今 だに正式には承認されていない事能が続いていると思います。 それから11月29日には、全学学生大会が開かれて、同学会の執行部を罷免し、代議 員会の解散が決議されました。そして12月20日には、選挙を経て第1回の新たな代議 員会が行なわれ、先に言った八島委員長が選ばれ、同学会が再建されるわけです。 それで、当時の京大学生運動の特徴といったことに触れておくと、一つには、さっきの 釜ケ崎の例にあるように、地域に出ていく、ということがありました。とくに反公害運動や 下層労働者に対する運動という形で、地域に出ていく。それと同時に、学内における政 治的諸課題に取り組んで闘っていくというような構図があったわけです。
――そして73年1月には、経済学部教官協議会が竹本信弘氏の分限免職処分の評議 会への上申を決定します。 伊藤 そこから、第1次竹本処分粉砕運動、闘争が展開されるわけですね。時計台にくっ きりと記された「竹本処分粉砕」の文字、あれがある意味で1970年代京大学生運動の シンボルだったと思います。 それとこの時期、もう一つ大きな要素としてあるのは、全学臨職闘争委員会(全臨闘)を 中心とした臨職の運動です。 それから、当時の学生運動の展開のなかで特筆されるものだと思うんだけど、竹本処 分粉砕、全臨聞の運動を進める過程で、3月に、差別・分断・生活破壊と闘う全国労学交 流集会というものが京大で開かれた。これは、多数の労働者、労働組合、地域運動の活 動家が京大に集って、学生運動と交流し合いながら一緒に運動を進めていくという方向 を指し示したものであったわけです。それまでの学生運動がもっていた観念的な傾向み たいなものを克服すると同時に、「生活破壊と闘う」というようなレベルの、生活領域にま で至るような運動の方向性を示した。京大学生運動がその後も、全国の学生運動が低調 になるなかで、ますます力をもっていったことの理論的、実践的な根拠の一つは、この3 月の全国労学交流集会の中にあったと思うんですね。
――交流集会で示された方向の延長線上で、1973年4月には同学会主催で新入生 歓迎連続・シンポジウムが開かれています。 伊藤 このシンポジウムに、同学会の理論的、実践的方向性が端的に示されていました ね。内容をちょっと紹介しておくと、開幕講演が字井純さん。テーマとしてはまず「現代産 業社会における臨時労働者」というのがあって、これは全臨闘がやった。次に「釜ケ崎 と高橋和巳」というテーマで、これは底辺委員会という釜ケ崎の運動と結びついている グループ。そして「列島改造と住民闘争」、これは伊方共闘という四国の反原発の運動 をしていた人たち。それから全学統一救村による「弾圧網を包囲せよ」、同学会による 「戦後史からの証言」と続いたわけです。 そういうふうに、学生運動がそれまでもっていたアクマでっかちのところを克服するよ うな形で、地域と結びつき、反公害闘争と結びつき、生活破壊と闘う運動と結びつき、底 辺労働者と結びつきながら同学会運動というものが表現されたということは、その後の 京大学生運動を展開していくうえでの大きな基盤となったと思うんです。 たとえば、その年の6月、そういうさまざまな運動と結びつきながら、しかも教育学園闘 争を展開していくという構図のなかで、筑波大学法案粉砕闘争というものに取り組んだ んだけど、教養部だけで7〜800人が決起するというような状況を生み出したんですね。 当時、連合赤軍事件と内ゲバで学生が政治に無関心となり、学生運動が大きく退潮し ていたわけで、この7〜800人という数は、相当なものだったと思います。 ――そういう動きのなかで、いわゆる「清風荘密会事件」がありました。 伊藤 1973年6月でしたね。竹本処分の関連で、警察が池田浩士さんの研究室を 不当捜索したものだから、教養部の学生500人が集って、機動隊を学内からたたき 出してしまった。 ――あの時の熱気はすごかったですね。 伊藤 全国的に学生運動がきわめて低調ななかで、目立った運動が行なわれていたと いうのは、本当に京大だけでした。
<参院文教委の来学を阻止> ――あの頃、同学会は国際機関誌を発行していたと記憶しています。 伊藤 THE DOHGAKKAIですね。英語版、仏語版で、全世界100所くらいの大学や運 動体に送付して、京大を中心とする日本の学生運動、京大が関係をもっている労働 運動、地域の運動などを紹介していくということを続けていました。 また、この年の秋には同学会として2名の学生をタイで行なわれるアジア学生会議 に派遣したんだけれど、途中で強制送還されるということがありました。しかし、この アジア学生会議に行こうということを、一つの大学の自治会として決定し、しかもそれ を実行しょうとしたことは、当時の同学会運動というものが、日本全国のさまざまな連 動と連携すると同時に、世界的にも運動の輪を広げていこうという、ある面、非常に 健全な国際主義を掲げていたということであり、これは強調しておいていいと思うんです。 ――田中角栄が1973年7月にタイへ行って反日運動にさらされたり、学生反乱で タイの旧政権が倒されたり、というような時期でした。 伊藤 だからこそ、同学会派遣団の強制送還というようなことになったんでしょうね。 タイや香港の新聞は、この事件を一面トップで報じていました。そういう意味では、国 際的にも非常に明確な形で状況に関わっていこうとしていたと言えると思います。 73年の後半はこの他、京大=「公害」発生源を糾弾する全学集会、労災職業病 公害と闘う全開西活動者集会を京大で開催したり、釜ケ崎越冬闘争の支援などに 取り組んでいます。
――年末には、岡本新総長が登場しますね。竹本問題が大きな転機を迎えます。 伊藤 前田総長が再任されずに、当時、竹本処分反対派であった岡本さんが新総長 に選ばれた。総長が再任されないというのは非常に異例な事能であって、このこと の背後には、同学会を中心とする学生運動の力というものが、大きく作用していた と言うことができると思います。学内世論の形成ということに関して、同学会がかな りの力をもっていたことの証明ではないか。 岡本さんはその後、74年3月に、竹本処分の評議会での審議を凍結するという 宣言をして、第1次竹本処分に関しては、この時点でひとつの区切りがついたわけ ですね。 ――74年の前半は、狭山闘争が運動の中心だったと記憶しています。 伊藤 そのなかで、一つ触れておかなければならないのは、京大学生運動という ものがこの年の5、6月くらいの時点で、いわゆる党派型の学生運動からほぼ切れ てしまった、ということです。当時、京大のなかには政治セクトと関わりをもついくつ かのグループがあって、彼らの党派性を前面に出した動きによって学内は少しギ クシャクしたりするんですが、結局、それらのグループは京大から出ていってしま ったわけです。で、残った方のグループは、政治潮流としてはブンド系の流れをく むんだけど、組織としては完全にノンセクトという形で、その後の京大学生運動を 主導していくと、その象徴が6月15日の全京大集会で、500人が結集し、新たな 同学会運動の流れが形成 されたわけです。
――この年の秋には、参議員文教委員会の京大査察が行なわれようとしました。 伊藤 国会で「京大は暴力支配されている、ケシカラン。学部長室も占拠されており、 きわめて異常な事態である。調査が必要だ」と、問題化したんですね。それで、 10月16日に文教委が来学するという情報を、10日くらい前に入手するんだけど、 この頃というのは京大学生運動のパワーというものが若 干、衰えをみせていた時で集会をもっても2、30の部隊しかつくれない、というよ うな状況だったんです。そこで、「10日間戦争」と名付けて(笑)、かなり必死の情 宣活動をやりました。そのかいあって、10月16日当日には、地域の労働者も含 めて、確か3000人くらいの反対集会を時計台前でもつことができました。この結 果、参院文教委はトラブルを恐れて来学できない、という事態をかち得たわけです。 この問題が、京大学生運動にとって一つのカンフル剤になった、ということも言える かと思います。 その後、1974年11月にフォード米大統領が来日するということで、それを阻止 しようと羽田現地闘争に部隊を派遣する。そして、フォード大統領が京郡へ来てそ こから韓国へ行くというんで、入洛阻止、訪韓阻止闘争を展開します。確か時計 台前で、同学会の呼びかけにより1000人くらいの集会を開きました。
――75年に入ると、学費値上阻止闘争が大きなテーマとなりました。 伊藤 当時としては本当に全国でも珍しいことだったんだけど、京大では全学的 なバリケードストライキ体制で闘われました。1976年1月23日に教養部代議員 会で無期スト突入が可決され、4月11日までバリストが貫徹されます。 それと、75年というのは世界史的に非常に大きな意味のある、ベトナム完全 解放が達成されます。5月10日に、ベトナム完全解放を祝う全京都集会というも のが、京都べ平連の主催で1000人を集めて行なわれました。当時、京大の同 学会はべ平連との関係というのはあまりなかったんだけれど、まあ いいじゃないかと(笑)、確か赤ヘル100人くらいで登場して、デモの先頭に立っ たのを覚えています。 75年はまた、同学会として天皇訪米阻止闘争を、かなり大衆的なレベルで進 めています。この際、天皇の戦争責任を糾弾する在米アジア人の運動と連帯す る形で、アメリカに同学会の代表を派遣し、アメリカでの来米阻止闘争も担ってい ます。国際連帯というものを現実的な形で展開していったわけですね。京都では、 同学会主催で、900人くらいの規模の天皇訪米阻止全京都市民集会が開かれ ました。また、9月の末の羽田現地闘争には、京大から150人の部隊を派遣し ています。
――75年には、東北大学生処分粉砕運動への協力というか― 伊藤 そうですね。京大には、竹本処分粉砕闘争で培ってきたいろんなノウハウ があったもので、そのノウハウでもって、東北大ちょうど行なわれていた学生処 分粉砕闘争を、指導と言ったら言いすぎかもしれないけれど、協力、経験を交流 させるような形で担っていった。実際、東北大に京大同学会のメンバーが5、6名、 常駐していましたからね。もうほとんど、学生運動の核になる部分がないという ような時代でしたから、京大同学会が全国の学生運動を主導する形になってい たわけです。 年が明けて76年の2月に東北大処分粉砕闘争を支援するため300人の集 会を開き、慶応大学でも700人を集め、仙台へと乗り込んでいった。そして2月 10日に、仙台で1000人の集会、現地闘争が展開されるわけです。こうした一 連の全国的な闘いというものは、もうほとんど同学会が中心的な形で担ってい たと言ってもいいと思いますね。 注1 問題に取り上げたのは勿論、日本共産党である。1972年4月10日、参 議院で京大の「トロキスト」弾圧として、京大新聞と京大出版会へのBOX貸与取 消の制裁をするよう文部大臣に要求した。京大出版会は、序章社に名称を変え、 学外へ。 注2 東北大文学部自治会が、民青からノンセクト系に移行し盛り上がった。しかし、 同学会が手を引くと、東北大のノンセクト学生運動は分裂し、その流れの一部が 中核派(日就寮)、第4インター(東北大学新聞)になった。最後まで、ノンセクトを貫 いたL共闘も、80年代始めに自治会を解散した。
注3 証言「なぜか京大の赤ヘルが仙台の東北大学への「革命の輸出」に 力を入れていた時期があって、京都から仙台にいって戦術指導をしていた。 東北大卒のひとに聞くと「えらい迷惑してた」そうな。 東北大の赤ヘル?の稚拙な戦術で、東北大当局などがたかをくくってい たら、京大から指導に来て、一夜にして戦術があくどく高等化し、当局が 困ってしまったとのこと。 京大と東北大をなぜか連帯させたがっていて、京大で「もうこのへん で(スト)やめよか」とまだ赤ヘルシンパ初心者といった感じの教養部 の学生がいったとき、L学友会の筋金入り赤へルのKさん(当時、それな りに業界では有名人だった。学部生になってもC共闘の指導をしていた。 それでこのひとはよくいまは学者やっているもうひとりの鬼界さんとつ るんでいた。こっちの鬼界さんもLのひとで有名人。このあいだ哲学書 の新書版をものしていた。)・・が「そんなこといったら、トンペイの やつらがぽしゃるやんけ」と言った。「トンペイ、はぁ?・・」 東北大のことだとわかるまですこし時間がいりましたよ。」
――76年といえば、突然、夏休み中に、総長室に鉄扉と鉄格子が取り付けられ、 驚かされました。 伊藤 これはいったい何なのか、ということで、凍結状態の竹本処分が再開され るんではないかと判断したわけですね。それで、9月に、鉄扉、鉄格子を外させる 運動というのを展開しました。実際にハンマーのようなもので、鉄扉を叩いて壊した りもしました。結局、岡本総長の専決ということで、学内的にも反対意見が多くて、 鉄格子はさすがに外されることになります。ただ、鉄扉は、一度、壊されたものの 再び取り付けられてしまいました。 それから秋には、天皇在位50年式典に対する反対運動に、同学会としてもか なりカを入れて取り組み、全学ストライキで闘っています。 ――この年でしたか、京大に初めて反憲学連が登場したのは。 伊藤 そうですね。それまでも原理はちょくちょく頗を出していたんだけど、この年 の11月に反憲学連が黒ヘル姿で登場してきました。全国の学生運動の最大の拠 点校ということで、向こうにすれば相当に体制を整えてからやってきた、という感じ でしたね。それで、武力衝突が起こって、この件が元で翌年の2月、当時の同学会 委員長が逮捕されています(注 鬼界彰男:現筑波大学教授)。 この、右翼と衝突した後くらいから、京大学生運動のカが急激に衰えをみせ始め ます。とくに教養部の学生というものが、ほとんどもう学生運動に関心を払わないと いうような状態で、実際にヘルメットをかぶって運動しているのは、3回生、4回生が 中心になっていました。ヘルメットアレルギーというものが相当に強くなっていたん ですね。
――そして翌77年、第2次の竹本処分問題が起こってきます。 伊藤 鉄扉と鉄格子が出硯した時に我我が予想した通りになったわけで、2月の末 に岡本総長が、竹本信弘氏の分限免職処分についての審議を再開すると言い出し ます。それで同学会として、粉砕闘争を展開していくわけですが、さっき言ったように 京大学生運動のパワーが落ちている時期で、おまけに春休みということもあって、 かなり時間をかけて集めても60〜70人程度の部隊しか集まらない、というような 状況でした。 竹本処分粉砕闘争、反対闘争というものが、どういう位置づけのもとに闘われた のかということを整理しておくと、次のようになるだろうと思います。竹本氏に対する 処分が行なわれるならば、他の大学と比べれば比較的自由な学内の空気みたい なものが、管理強化という形で圧殺されていくだろうし、当然、その前段階として、唯 一、京大のみが持ち得ていた学生運動の力というものに対しても、大きな圧力がか けられてくるであろう。竹本処分とは、そうした大学の管理強化の流れの一つのメ ルクマールに他ならない、という論理のもとに運動が展開されたわけです。
――その運動のなかで、大きな注目を集めたのが卒業式での闘いでした。 伊藤 そうですね。辛業式に関しては、学内世論というものを考慮して、卒業式そのも のを潰すというような論理を、我々は残念ながら持ち得ませんでした。卒業式を大切な ものとして考える学生もいるわけだから、式そのものは潰さない。しかし、処分をする と言った総長が学生に対して祝辞を述べるということは、どうも許せないんじゃない か、という論理で行動を起こしたわけです。 で、ネクタイを締めたりして脇にはヘルメットをかかえるというようなスタイルで(笑)、 20〜30人が会場に入り、最前列の席に陣取ったわけですね。そして、証書授与 の間はヤジを飛ばして批判の声をあげる程度で、比較的おとなしくしていた。しかし、 証書の授与が終わった段階で式の中心は終了したと判断し、かかえていたヘルメッ トをかぶってですねえ(笑)、壇上に上って総長の祝辞は阻止した。 これは結果的に、春以降の運動の大きなバネになるんです。というのはマスコミが 大きく報道しまして、テレヒはどの局もいちばんの最初のニュースとして流すし、新聞 も大きく紙面を割いた。新入生にしてみれば、自分がこれから入る大学というのは問 題が起こっている、処分問題が起こっているという認識をもっただろうし、帰省してい る学生たちも、あっ、京大ではやっばり同学会が大きな運動を展開していってるんだ な、という印象をもっただろうと思うんです。 ――大きな宣伝になりましたね。 伊藤 それで、この春休みの段階で考えたのは、「ホーチミン作戦」と名付けたんだ けど、大衆運動で展開していかなくちやいかん、ということだったんです。1000人規 模の集会を春の早い段階でやろうと、スローガンも竹本処分「反対」ということにしま した。粉砕ではなくて。そして、集会、竹本処分に反対する全学集会を4月28日に設 定するわけですが、この組織化は相当シビアにやりましたね。何としても1000人規 模の集会を実現するんだ、ということで。僕はもう、その頃は大学院生だったんですが、 全学部の学部名簿をチェックして、まるで選挙運動みたいな形で動員を図る、という ようなことをやりました。
そして4月28日を迎えたわけですが、何とこの日は、大雨が降っていたんです。 12時から時計台前、ということだったんだけど、ザザ降りでとても1000人が集ま るとは思えなかった。ところが、11時45分くらいになったら、突然、陽が射し始めた んですね。そして、1000人の集会が実現した。あの時、僕は最初にアジテーショ ンをしたんだけど、「天が我々に味方した」(笑)なんて言ったのを、覚えています。 それ以降は、最大動員1000人規模の闘い、処分行われるまで繰り広げられま す。そんな京大学生運動のパワーを、朝日新聞は特集記事のなかで「学生運動の ガラバゴス」なんて言っていました。常時活動家80、緊急動員200、最大動員1000 とその記事にはレポートしてあるんだけど、実際その通りで、あの77年の時点でそ れだけの学生運動の力をもった大学など、どこにもありませんでした。 そういう大きな運動の高まりのなかで、評議会の前日、6月17日に総長団交が もたれるわけです。我々には、勝てるという見込みがあったんですが、結果的には 非常に奇妙な確約を取っただけに終わってしまいました。いろんな要素の判断のう えでそうなってしまったんだけど、総長に、最終的な処分の評決のための評議会は、 学内で行なえ、という確約を取っただけにとどまった。そして6月18日、800人くら いの学生が時計台を包囲するなかで、結果的に処分が行われてしまった、というこ とですね。 それ以後も評議委員に対する糾弾行動などが続けられるわけですが、翌78年の 初めに、経済学部の教官協議会が「一日も早く竹本君を同僚として迎える日がくる よう、待ちます」というような文書を発表する形で、竹本処分反対運動というものは、 一応、終息をみた、ということです。
――それ以降の京大というのは、やはり相当、管理が強化されてきたと言えますね。 伊藤 同学会が言っていたように、処分が為されて以降、京大の管理は急速に強 まってきました。文部省の大学を再編していこうという動きもあったわけでしょうが、 官僚がどんどん力をもってくるようになります。そこで、総長=時計台専決体制を許 すな、というような運動も起こすんですが、残念ながら力を持ち得なかった。それま で比較的保たれていた京都大学の自治、それは相対的なものだし幻想ではあるん だけど、そういうものが急速に失われて硯在に至っていると思います。 ――最後に、70年代の京大学生運動の特徴をまとめていただきたいと思うんですが。 伊藤 なぜ、京大の学生連動だけが、全国的にみたら非常に特異な存在として、 「ガラバゴス」と言われるくらいに「生き残って」きたかと言うと、まず第一に、最初の方 でも触れたように観念的なものではなく、きわめて実践的に連動を展開してきた、と いうことがあります。生活のレベルにまで至る形で、差別の問題や底辺労働者の問 題、公害の問題や地域住民闘争などに積極的に関わってきた、ということですね。 ――それがやはり、学生の間に広く深い支持を得る基盤となり、また教官層の支持 をも呼んできたと。 伊藤 実際、毒物たれ流し問題にしても安全センターの問題にしても、同学会が提起 して運動を展開していくなかで、それを大学当局が受け容れざるを得ないような形に なって、京大のいくつかの改革が為されてきた、ということがあります。つまり、アクマ でっかちの学生の論理じゃなくて、きわめて実際的なレベルで、しかもいろんな人たち とつながりをもちながら運動を推し進めてきた。 そして次に、国際的な広がりというものをもっていたこと、さらに、赤ヘル系ではあっ たけれどもノンセクトの運動であったということ、これが大きいと思いますね。
内部には実にいろいろな要素があるんだけど、論争を厭わず、時には殴り合いまで しながら、しかも全体としてはまとまっていこうというような作風。これが結果的に学生 運動の活性化を促したと思うんです。お互いの主張を最後まで闘わせながら、しかも 大同団結していく、小異を残しながら大同につく。常にいろんな小異を生み出しなが ら、それが運動全体のエネルギーとなるような構図があったと思うんです ――セクト、党派では、学内的ににそういう基盤を持ち得ませんからね。 伊藤 結局、70年代末までは、どこの政治セクトも介入できないというか、指をくわ えて眺めているというような状況が続きましたからね。そういう意味で、70年代とい うのは「京大らしい学生運動」が花開いたと言えるかもしれない。 ――それまではやはり、全国的な政治の流れのなかで、京大がどういった位置を 占めるか、というふうな構図だったように思います。 伊藤 いろんな教官の手記なんかを読んでみても、70年代が非常に印象深いとい うことをよく書いてあるんだけど、それはやはり、京大の自治をめぐる問題がかなり 大きなテーマとなって学生運動が行われていた、ということがあるんじゃないかと思 うんです。もちろん、それに対してどのような態度をとるかということはあるんだけど、 仮りに無視したとしても、心の中には相当、印象深く刻まれたんじゃないでしょうか。 そういう意味で、同学会運動が教職員に対しても、京大らしいという一種の誇りみ たいなものを与えていた側面もあったように思いますね。 (終わり)
■ 京大ノンセクト運動の歴史(レジュメ編) まだ裏を取っていないので真偽のほどは保障しない。 ●1969年 9月 京大時計台闘争 9月の時計台決戦で、東大安田講堂のような大量逮捕をさけるため、党派から数 名ずつの代表を出して、逮捕者を限定するように決定。例えば、○人、○人とか。こ の時の人の割り振りは熊野寮の闘争委員会の委員長がしきった。 1969年ごろの「C闘委」はノンセクト。ただしC闘争委員会のキャップの松尾眞氏 は、ノンセクトから中核派に移行し、全学連委員長として活躍し、日比谷暴動により 破防法適用。現在、精華大学の教員である。 文学部は、ブント系。農学部や工学部は、研究体制を問題視する共闘派。医学部 は中核派。黒ヘルの「京大パルチザン」は、特段、拠点を持たずに存在。京大出版 会は、クロ八木さんの主催で、赤軍(上野勝輝)やRG派(榎原均)、北海道解放出版 会(野田正彰・奥野路介)とのつながりをもつ。このころシロ八木さん(八木沢二郎氏) が乞われて宝船支援に(後、社長)。 ●1970年6月 反安保 アスペック闘争 「70年安保6月行動委員会」で各党派と、ノンセクトが久しぶりに共同して活動。法経 前のT字路で全学学生大会成立。神戸大学の反大学教官の松下昇さん(ドイツ語)が、 神戸大学を追い出され、京大に移動。教養部A号館北側のドイツ語資料室を住居に して、妻や子供と住みはじめる。1982年に資料室を追い出された。 ●1972年 学費値上げ反対闘争(学費3倍に1万2千円→3万6千円)最後に、全国 の大学で統一したストライキ闘争が取り組まれた年。
●1972年11月 民青系の同学会執行部罷免される 。同学会政権移行。「八島同 学会」と称された。 各フラクション=「レーニン研究会、全学戦線・C戦線・T戦線」「現代中国研究会」「ノン セクト」「京大パルチ」「プロ青」などのパワーポリティクスを、八島委員長がうまくコント ロールして成立させ、「同学会ボナパルティズム」とも言われた。薬学部自治会崩壊。 C自治委員会成立せず教養部自治会崩壊。 1972年12月 同学会再建宣言が発せられた。 「ヴェトナム反戦戦争の戦列の最先端にやどった、我らの新しい思想と戦いの質は、全 共闘運動のなかで深化され、学生運動の共有財産となり、そして、全国各地の人民の闘 いに学び結合し、その闘いを大学の中に還元してゆくなかから、今は、個々バラバラの 細流であっても、新しいそしてとてつもなく大きな奔流として形成され始めている。この奔 流を生み出すための一つの溶鉱炉が、京大同学会というそれが、今ここに建設されたの だ。この溶鉱炉には、すべての闘いが投げ込まれ、燃え上がり、溶け合って、やがて、一 つの大きな奔流となって、未曾有の時代を切り拓くのだ。さあ、行こう。 夜明けの熱列な 預言者として 1972年12月20日 再建宣言」 ●1973年1月 第1次竹本処分闘争 赤ヘル系の学生自治会は、同学会、文学部、経済学部、農学部、医学部、理学部、教育 学部、工学部を握り、吉田寮と熊野寮も掌握。対する民青は、法学部、生協、文連、院生 協議会、女子寮、職組であった。
●1974年 これまで、1972年後期同学会(民青同)と、赤へル系の同学会が、並立し ていた。岡本総長は就任すると、赤ヘル系の同学会を公認。民青は、これを大学によ る「過激派泳がし」と非難した。この年、現代中国研究会が、中執フラクとなる。中国か らの京大への訪問団があったとき、赤ヘル同学会と当局が合同で、法経1番で1000名 の歓迎集会をした。時計台には、「熱烈歓迎 北京大学」の巨大ステッカーが貼られた。 佐々木博道同学会委員長は、タモリ風の滅茶苦茶な「中国語」もどきで挨拶の言葉を 送る。それを聞いた日本人の学生らは、さすが京大同学会委員長は中国語を話すの かと勘違いをして、大拍手。一方、中国人訪問団は、委員長が日本語で歓迎してくれ たと思って感謝の拍手。その横で事情が分かっている、ひとり人文研の井上清教授だ けが苦笑していた。この年、T自崩壊。 ●1975年 C戦線が、マルクス主義青年同盟に合流し、京大から召還。山岳部人脈か ら、鬼界彰夫さんが委員長に。現筑波大学教員でヴィトゲンシュタインの研究者である。 理学部自治会が、民青に。こののち、ひとつひとつ民青同が自治会を掌握してゆく。 彼らに言わせると「民主化」という。 ●1976年 学費値上げ反対闘争が盛り上がる。現代中国研究会が日本労働党へ合 流。空白になった、中執フラクに突如、彗星のように「SAAR 原水爆禁止問題研究会」 が登場する。 7月2日、民青同が、京都中のゲバルト民青同盟員をあつめて「C自」をでっち上げ。 赤ヘルは、民青とのゲバルトに完璧なまでに敗北。 同時に、「反憲学連」(黒へル右翼) が京大を襲撃し、教養部の赤へル支配が崩れて行く。数年ぶりに、教養部のストライキ がない年になり、森毅が、「ヘルメット学生にスト不成立の反省文を求めた」というエピ ソードが残っている。
●1977年 第2次竹本処分粉砕闘争 朝日ジャーナル 1981年1月号より 「本部の時計台に白ペンキで書かれた竹本処分粉砕の文字はもうない」で始まる、朝 日ジャーナルの大学レポート「京大編」が掲載されたのは、1981年1月1日号だった。 書いたのは今は亡き寺山修二である。 寺山の手元には、京大広報の1978年1月1日号があり広報には予定原稿の「清掃 された時計台は、吉田山を背景にくっきりと浮かび建っている」と引用している。でも、京 大広報が皆の目に触れたときには、新しい「竹本処分粉砕」の文字が、以前にもまして力 強く、書かれていた。大学は面目を丸つぶれにされた。 「1977年6月18日に開かれた評議会で経済学部助手の竹本信弘の免職処分が決まっ た。これに反対する学生たちは授業妨害、ストライキ(教養部、農学部、文学部、経済学 部、教育学部)で、教官放逐作戦で応じたが、大学側は機動隊を導入、力によって学生た ちと対応した。それがかえって学生たちの反発を生んだ。学生たちは、総長室、経済学部 長室などを占拠し、闘争は一段と激しさを増した。1971年8月の朝霞事件で指名手配さ れた竹本助手は、以来、姿をくらましたままとなった。第一次竹本処分粉砕闘争の1973 年を経て、1977年6月18日、大学評議会は晴れがましいはずの大学創立記念日でも あるこの日に無断欠勤を理由に竹本助手の分限免職処分を決めてしまった。学生は、欠 席裁判、政治思想処分と非難したが、大学側は、無警告機動隊導入で、これに答えた。」 「1977年12月27日、機動隊の警戒の中、大学は5年ぶりにペンキ文字を消した。しか し、1978年1月10日、ナワバシゴの6人の学生が、スプレーで再び『竹本処分粉砕』と 書きつけた。大学は建造物侵入罪で6名の『決死隊』を逮捕したが、その6人の学生は活 動家でなく、『一般学生』(京大山岳部)だったことで、大学側はショックを受けることになっ た。」
YMCA地塩寮や、西部構内の山岳部BOX、文学部地下などが家宅捜査された。 「闘争は、一部のハードコア活動家と大学とで繰り広げられたのではない。OBぐるみ、 教官ぐるみで『大学の自治』をめぐる反撃を組織されていたのである。」 「77年中、学外で開かれた授業221件、中止された授業139件、学外で開かれた会 議126件、という数字が当時の京大のおかれた状況をよく示している。評議員や学部 長、それに処分を評議会に上申した経済学部の教官の姿を見かけるたびに、学生らは それを取り巻いて糾弾し、校門の外に放逐した(朝日新聞)。ある朝、車で乗りつけた岡 本総長は、車ごと正門の外に押し出された。放逐の際に頭からペンキをかけられた教官 もいた」 ●1978年 もともと竹本処分を粉砕するために同学会を再建したのであって、処分が敢 行されたら、同学会も終わるかと思われたが、彗星のように「市田良彦氏」があらわれ、 1979年まで、異例の2年間の長期間の委員長をした。現在、神戸大教員。ネグリ「帝国」 の紹介者である。 ●1978年 「S君の教育実習」闘争 このころ、文学部闘争委員会、理学部共闘会議、毛派の「立志社」へ流れる。A自A闘 (緑ヘル)は、独自のノンセクト路線を堅持。経済学部同好会は、釜ヶ崎への支援運動を 行いつつも、徐々に浅田彰路線に。教育学部自治会が民青同に。 ●1976年ごろから、京大のノンセクトに影響を与えた日学線は正式には「日本学生戦線」。 中国派系だったが、資金源は民族派の右翼だったと聞く。その後「立志社」に、さらに「M PD」と名前を変えた。
●1979年 「熊取原子炉停止。工学部毒物垂れ流し」糾弾闘争。熊野寮自治会臨時執 行部体制。L学友会の委員長は、日学戦系で、それに対抗して副委員長は労青団。 ●1980年 「金大中 死刑反対運動」 立志社はカンボジア・ポルポト問題に傾斜し、ノンセクトと溝が深まる。文学部地下の BOXと理学部非分属の学生控え室から立志社が撤退。 「女解放研究会」(おんなかいほうけんきゅうかい・通称 おかいけん)が分裂。その一部 が、女性問題解放研究会 (じょかいけん)を名乗り、教養部E号館BOXを占拠。それが、 後の政治経済問題研究会・女性問題題研究会となる。政経研が同学会委員長を襲う。 大学新聞に「女問研一派を糾弾する 同学会」というアピールが残っている。 ●1981年「入寮募集停止粉砕運動」。熊野寮書記局に「1980年C闘委」が合流。熊野 寮自治会として三里塚闘争を、 同学会とははじめて別部隊で決起することになった。何 度か、政権が民青同とノンセクト間で拮抗していた医学部自治会が、民青に完全掌握され る。ノンセクトは、医学部新聞会に結集。
●1981年 ・刑法改正阻止(150人) ・原理研究会追及(300人) ・入寮募集停止粉砕行動10.30(300人)、12.14(500人) ●1982年〜1983年 ・吉田寮在寮期限粉砕闘争 ●1983年 ・レーガン来日粉砕闘争 関西学生連絡会が、東京に現地闘争。100人以上。 ●1984年 ・全斗換来日粉砕闘争 時計台前で7月に集会250人 ●1985年 ・吉田寮廃寮粉砕闘争 1980年代前半も、同学会は、最大300〜400人レベルの集会。農学部、文学部、経済学部 の学生大会でストライキを敢行出来る力量を示したが、1984年より三里塚空港闘争で対立す る勢力に「脱落派」と規定され、同学会は大衆運動をくみにくくなってゆく。
京大学生運動のサイドストーリー 「吉田寮闘争」 ◆敗戦後の混乱下で、寮自治を維持> 一九四五年(昭和二十年)八月十五日、日本は敗戦を迎える。しかし、この日を境に 軍国主義がたちまち崩壊し、民主主義の時代が始まったなどというドラスティックな変 化はない。寄宿舎の舎生の価値観は、ゆるやかな変化にとどまり、戦後数年間は、戦 前からの寮自治の秩序が保たれた。 寄宿舎は、復員学生の収容問題に直面した。生活難の折り、入舎希望者は多かった が、全員は収容できない。そこで希望者の納得がいくよう入舎順位を決めた。例えば、 第一位は「寄宿舎在籍のまま動員された者」、以下、訳あって退舎した者のうち「出陣 学徒・応召学徒・動員学徒」の順で入舎の優先権を定めた。この時、収容数を増やす ため、二人一室制や共用の集会室(和室)の一時使用のアイディアも挙げられたが、 良好な勉学環境の維持を優先し、定員増は却下された。 一方、一九四五年(昭和二十年)十一月、在舎年限の規約を変更した。多くの学生に 入舎の機会を提供するため、舎生規約では従来三年との在舎年限を設けており(医学 部は四年)、留年者は退舎する決まりになっていた。但し、戦時中は軍事徴用のため休 学が頻発したため、在舎期限に休学年数を参入しないよう取り決めた。しかし、その規 約のままだと、今後休学の形を取れば何年でも在舎できることになる。それを避けるた めに、再び休学年数も在舎年限に参入するよう改め、厳密な運用を強いた。復員学徒 には変更の適用を除外した。 以上からは、厳しい環境下で良好な寄宿舎の生活環境の維持を計るとともに、その受 益のルールは厳しく運用するという、寮自治の態度が伺い知れる。総務の努力もあるが、 舎生たちが人格的に「大人」であったことにも支えられた。
◆ 楽友会館返還運動 寄宿舎の南隣に隣接した京大楽友会館は、京大生の憩いの場として戦前から親しまれ てきた。しかし、一九四五年(昭和二十年)十月二日、進駐軍クラブとして接収され、大学 の運営の手を放れた。クラブでは夜遅くまで音楽が奏でられ、ストリップが催された。その 音は寄宿舎にも漏れ聞こえ、舎生たちは大いに迷惑を感じていた。 ついに、一九五一年(昭和二十六年)九月二十一日、舎生大会で返還要求を決議。要 求署名は千名にのぼり、大学や進駐軍などに働きかけた。一九五二年(昭和二十七年) 六月、返還された。 ◆学園復興会議、荒神橋事件 一九五三年(昭和二十八年)十一月八日から全国の自治会代表者が集まって、全日本 学園復興会議が京都で開催された。この時、京大当局と同学会(全学自治会)が法経一 番教室の会場の使用を巡って対立。大学は、学外者を含む集会は認められないとして不 許可にした。十一月九日、同学会は大学の禁止を押して、法経一番教室で不許可に対す る抗議集会を開催。 さらに、十一月十一日、立命館大学(広小路校舎)の「わだつみ像記念集会」に合流す るため京大を出発した同学会のデモ隊を、京都府警の警官隊が厳しく規制する事件が発 生した。警官が荒神橋の両端からデモ隊を挟み込だため、水のない石河原に学生が橋か ら墜落し、多数の負傷者が出た。その夜、負傷者を寄宿舎にかくまったため、デモ者の検挙 を恐れた舎生たちは、寄宿舎の玄関を閉ざし、徹夜で見張りを続けた。幸いにも、警官は こなかった。 十一月十九日、警官隊の過剰な規制に対する抗議集会が時計台前で開かれ、未曾有 の三千五百人が参加した。しかし、十二月一日、会場無断使用の責任を理由に、大学は 同学会の執行部六名を処分した。この中に舎生の松浦玲さんが含まれ、彼一人、退学処 分という重い処分だった。 舎生大会では、松浦さんの退学処分反対と生活支援を決議。さらに、全学学生大会でも 処分反対の決議が挙げられ、反対運動が展開された。退学処分は撤回されなかったが、 引き続き松浦さんは寄宿舎に住んだ。
◆松浦さんの退舎を巡って 一九五四年(昭和二十九年)三月一日、卒業予定の舎生の予餞会に、恒例に従い総長 が出席した。その途中、松浦さんが会場に入室すると、滝川総長は不満を表して退席した。 三月二十七日に、厚生課長は「松浦君が退舎するまで新入舎生募集をしない」と通告。し かたなく、舎生大会で退舎を決議した。 この問題は、翌年末まで尾を引いた。実は、長期宿泊という扱いで松浦さんの在舎をその 後も認めたからである。 一九五五年(昭和三十年)十二月、厚生課長がこの長期宿泊を問題視した。結局、同居 の舎生は自主的に退舎、松浦さんの長期宿泊扱いも解除。さらに今後は、一ヶ月を越える 宿泊は厚生課長の許可を必要とする規則に改め、これで解決を計った。従来、宿泊者の許 可は総務の権限にあったので、「寮自治の後退」と舎生の目に映った。 ◆ 自治憲章生まれる 舎生側から 松浦問題は、入退舎に関わる権利の重要性と、舎生規約の整備の必要性とを強く意識 させた。 一九五五年(昭和三十年)十二月、四十年続いてきた「舎生規約」を大改正した。慣習に 則っていた寄宿舎の運用を明文化した。改正を機に規約の名称を「自治憲章」に改めた。 しかし、厚生課長から「自治憲章を公表すると総長を刺激する」と公表をやめるよう要望さ れ、これに従った。つまり、寮内の申し合わせ事項として非公式に、自治憲章は出発したの である。
◆寄宿舎規程の制定 大学側から 一方、大学には戦前から「京都大学寄宿舎に関する規程」があった。その内容は、「入舎」 「退舎」「転室」「寄宿寮並びに電力料」の4項目からなる簡易なもので、大学による寮の実 際の取扱も慣習に則っていた。宇治寮(一九五二年)、女子寮(一九五四年)の開設に伴 い、大学は寄宿舎の管理運営規程制定の必要を感じたが、舎生との混乱を嫌った学生部 厚生課が消極的だったため、先送りになっていた。 一九五九年(昭和三十四年)一月、ついに厚生課から寄宿舎に「寄宿舎規程案」が示され た。規程案には、それまでの寮自治の運営実態に相反する内容が盛り込まれていた。例え ば「学生部長は入舎希望者に対して選考を行う」とあるが、これまでは舎生と厚生課長が合 同で面接し、合否を決定していた。また「所定の日までに光熱水料を納付しない場合は退舎 させることがある」とあるが、開舎時から光熱水料は請求されることはなかった。さらには、 退舎の権限は総務が有するというのが舎生の一般的な認識だった。 結局、芦田譲治学生部長の「規程は規程としてあり、運用は寛大に行う」という発言に舎生 が納得し、同年二月、大学評議会で「京都大学寄宿舎規程」が承認された。 実務上は、入舎銓衡は慣行通り合同で実施。また光熱水料は、同年六月に厚生課が徴収 を申し入れたが、舎生の反対にあい請求はされなかった。 こうした大学の「寄宿舎規程」と、舎生の「自治憲章」の二重規約常態は、一時な解決でし かなかった。
◆「寄宿舎規程」 改正運動 一九五九年(昭和三十四年)二月、大学は「寄宿舎規程」を制定し、その中で初めて正式 に「京都大学学生寄宿舎吉田寮」という名称を付与した。一九五二年(昭和二十七年)、宇 治分校に一回生向けの寄宿舎が完成すると、それを「宇治寮」と命名し区別したが、この時 は吉田寮は従来の「京都大学学生寄宿舎」という名称のままだった。一九六〇年(昭和三十 五年)、寮生の自治会規約「自治憲章」の改正でも「吉田寮」を採用した。以降、本稿では「吉 田寮」と表記し、また「舎生」を「寮生」、「入舎銓衡」を「入寮選考」と表す。 一九六二年(昭和三十七年)五月、寄宿舎規程改正運動が開始された。寮生の要求は、 入寮選考を寮生によるのみで行うこと、退寮処分は寮生大会で寮生が決定することであった。 背景には、入退寮権を寮自治会が保持したいという強い志向があった。この志向は、現在ま で引き継がれている。改正前の規程では「学生部長が選考を行う」とあり、運用実態は、学生 部職員と寮生の二者が出席する面接選考方式が慣行として踏襲されていた。 一九六三年(昭和三十八年)二月、寄宿舎規程が改正された。寮生の要求の一部が認め られ、「寮生活の運営は、寮生の責任ある自治による」と寮自治の存在が規程に盛り込まれ るとともに、「退舎させる場合は、寮生代表および当該寮生の意見を聴取する」「入寮選考は、 寮生代表の意見をきいて、学生部長が行なう」となった。しかし、これは規程の内容を運用実 態に近づけただけで、寮生のめざす入退寮権の獲得には至らなかった。
◆増寮運動の展開 二千人寮プラン 京大の新入学生数は、戦後間もない頃は、千三百人である。ところが工学部の拡充に伴 いその数は急増した。一九六〇年(一七二八人)、一九六四年(二二六四人)、一九六八年 (二五〇四人)。 これに比して、寮の定員増はわずかだった。他大学と比較してみよう。一九六三年の調査 では寮の定員数の全学生比(カッコ内は自宅外通学者比)を列挙すると、東大が十五% (三十一%)、阪大は八%(二十三%)、北大十三%(二十一%)と軒並み自宅外通学者の 二割以上を収容できていた。一方で京大は、八千二百名の学生数(うち自宅外通学者は 五千七百人)に対して、寮の定員は三百五十人。比率では、四%(六%)と極端な低い数字である。 加えて、一九六一年に宇治分校が廃止されると、それまで宇治キャンパスで学んでいた 一回生が、吉田キャンパスで学ぶようになり、左京区近辺の下宿難は深刻になった。 一九六二年(昭和三十七年)、寮生は同学会厚生部と協同して、増寮運動を開始した。 入学者増は、キャンパス内の厚生施設の不足や、学生の居場所が無いという問題を引き 起こしていた。増寮運動は教養部学生会館の要求運動と並行して行われた。 増寮計画は当初、吉田西寮(一九五九年開設)と宇治寮(一九五二年開設)の建替の名 目で進んだが、次第に「二千人寮プラン」という内容に発展していった。これは、一九七一年 までに定員二千人をめざして増寮をすすめるという構想である。二千人寮計画の実現は、 大学・寮生双方の合意事項になった。 一九六五年(昭和四十年)四月、プランに基づき熊野寮のA棟(二百人)及び食堂が開設 した。同時に宇治寮は閉鎖。翌年にはB・C棟(二百二十人)が完成した。熊野寮の開設で 寮の定員は、全部で六百七十人に増えたが、これでも全学生の七%、自宅外通学者の十%を 収容するにすぎなかった。新寮の設計で寮生は「人格向上」の理念を掲げて、相部屋だけ でなく一人部屋も盛り込むよう要求したが却下され、全室が相部屋(四人部屋と二人部屋) になった。 熊野寮では、吉田寮からの引っ越し者を中心に自治会が形成され、その後ほぼ二十年間、 二つの寮は、寮運動を連携して推進した。
この頃の吉田寮生の生活ぶりはどうだったか。一九六五年(昭和四十年)の寮内アンケート では、仕送りのない寮生は五十%、親に逆に仕送りをする寮生は五%存在した。この年の日 本育英会奨学金の応募資格は、五人家族で年収七十二万以下なのに対して、吉田寮の応 募資格は五十二万以下と厳しかった。京大に入学よりも吉田寮に入る方が難しいと言われた。 ◆文部省の学寮運営方針 文部省の学寮運営方針が変わった。一九六二年(昭和三十七年)七月の学徒厚生審議会 答申「大学における学寮の管理運営の改善とその整備目標について」で、「学寮は貧困学生 の収容施設に終わってはならない」「学寮の有する教育的意義をより効果的ならしめる」との 考えを示した。寮生は、この答申を文部省による寮自治への介入であると警戒した。 さらに、一九六四年(昭和三十九年)二月、文部省通達「学寮における経費の負担区分に ついて」(二・一八通達)で、寮の光熱水料の個人負担を指示した。同様に、学生会館や生協 へも別の通達を示して、光熱水料の負担を求めた。 学寮は、戦前においては国家の求める人材育成の一環という位置付けから、光熱水料は 大学の公費でまかなわれていた。戦後も、徐々にいくつかの大学で個人負担が導入された が、多くの大学では請求は見送られていた。二・一八通達は、個人負担の原則を全国の大 学で徹底しようとしたものだった。 同年8月、「○○大学学寮管理運営規則(参考案)」(○管規)を文部省は作成。寮の管理 運営の徹底と標準化を目指したもので、入退寮の許認可権、光熱水料の徴収権等、学生部 長の権限と責任を明確にした。 これら一連の学寮政策の変更は、一つには高度経済成長期にあって、政府−文部省が 文教費の効果的な活用のため、国の負担を軽減し、その分の負担を国民(寮生)求めたこ と。第二に、一九六二年(昭和三十七年)に大学管理法案が廃案になった代わりに、文部 省が各大学の運営に干渉する方法として、予算執行権への介入を図ったことが背景にあった。
◆全国の大学 寮問題で対立 「二・一八通達」「○管規」の適用は全国の学寮、学生会館、生協で反発を生んだ。一九六 五年から一九六七年には、お茶の水大学、静岡大学、山形大学、佐賀大学、宇都宮大学、 長崎大学、九州大学などで寮問題をきっかけに大規模な学生運動が発生した。 一方、京大当局は、文部省に対して以前からある「京大寄宿舎規程」の存在を示し、他大 学のように「○管規」をダイレクトに適用することを拒んだ。文部省方針と異なる「京大方式」 と呼ばれる自主路線を歩み、「大学自治の尊重」の形を保つことで、大きな学内対立を避け た。従来の寄宿舎規程の適用で、寮問題を解決して行こうというものである。実際には、今 ある寮では光熱水料の適用は難しいが、新寮建設をきっかけに改悪していく意図が見え隠 れしていた。 吉田寮は政府の文教政策そのものに寮問題の根元があるとして、「学内共闘から全国共 闘へ」「生活防衛闘争から政治権力闘争へ転換」(一九六五年)を唱え、寮運動のエスカレー ションで、京大の自主路線に揺さぶりをかけようとした。 ◆熊野寮の寄宿料不払い闘争 一九六五年(昭和40年)六月十日、寄宿料の三倍値上げ(一人三百円/月に)反対をきっ かけに、「寄宿料値上げ反対」「炊フ公務員化」「光熱水料の国庫負担」を掲げて、吉田寮と 熊野寮は「寄宿料不払い闘争」を宣言した。実際の不払いは熊野寮のみで、吉田寮は熊野 寮生の不払い闘争に連帯する位置付けだった。 奥田総長は、寄宿料不払いの不正常状態を理由に、増寮予定の「修学院寮(四百人収容 予定)」の概算要求を取りやめた。加えて、一旦は寮自治会と合意していた炊フの公務員化 も凍結した。
熊野寮生に対して、不払いの切り崩し工作が行われた。一九六六年(昭和四十一年)一月、 大学は熊野寮生全員に寄宿料支払の督促状を送付。一九六七年(昭和四十二年)二月に は、寄宿料不払いを続ける熊野寮生のうち法学部生に対し、不払いの件で法学部教授が個 別に面接する事態もあった。さらに三月には学生部委員会で、不払いの寮生を処分すること が検討されていたことが発覚した。 寄宿料不払い問題は、大学側と寮生側の膠着状態が続く中、一九六七年(昭和四十二年) 十二月、熊野寮の寮生大会で「寄宿料不払い解除」が決議され、不払い闘争は、寮生側の敗 北に終わった。しかし、むしろこの敗北の経験が、一九六九年へ向けてのヨリ過激な闘争形 態を促したのである。 ◆京大方式で紛争を回避 1968年(昭和四十三年)、全国の大学で学園闘争が多発した。きっかけは、学費値上げ、 学生会館の管理運営権など様々であったが、共通点もある。それはマスプロ教育などの教 学環境の歪みの是正を求める「学園問題」と、ベトナム反戦・七〇年安保の「政治問題」を連 結させたことだ。 一方、京大は平静を保っていた。 奥田総長は、話し合いを基調とする「京大方式」で寮問題等の収拾を図り、火種の発生を 押さえていた。京大方式とは、第一に文部省の方針に追従するのでなく、京大の大学自治 の範囲で独自の解決を図る、第二に学生・寮生らの要求する話し合いには応じ、場合によ っては確約を行う、第三に確約の実行をすぐに行わないが、紛争が収まる点には校費を出 して譲歩するというもの。寮生は、これを「国大協の自主規制路線」と呼び、非難した。 「最高形態としての闘争」と寮生が自称した寄宿不払い運動を実施しても、光熱水料徴収 を記した京大寄宿舎規程の撤回、及び炊フ公務員化は実現しなかった。その上、「二千人 増寮計画」は、一九六七年の寄宿料不払い闘争、及び一九六八年から大学の職員を排除 した「自主入寮選考」を実施したことを理由に予算化できないと、奥田総長は団交の場と発 言していた。寮生は「口実にすぎない」とこれを非難し、両者の対立は深まっていった。寮生 は次第に「話し合い路線」では、寮の要求は実現できないと考えるようになった。
◆学生間の対立 もう一つの対立があった。日本共産党の青年組織「民青同盟」(以下「民青系」)の勢力と、 民青系と路線を異にする勢力(以下「反民青系」)の対立である。戦後の学生運動は、日本 共産党の影響の下、全学連を中心に統一した基調で進められていた。それが、六〇年安 保の少し前から、学生運動はおおまかに先の2系列に分裂。京大同学会(全学自治会)は 反民青系の拠点であったが、一九六五年以降は民青系が優勢となる。吉田寮と熊野寮で は反民青系の執行部が続いていた。学内は民青系、寮内は反民青系という色付けが強かった。 一九六八年(昭和四十三年)当時、民青系は、寮運動も含む学生運動を「民主連合政府 樹立」のための戦いと位置付け、平和革命路線を唱えていた。対して、反民青系は「帝国主 義的大学再編と治安弾圧粉砕」のための戦いと位置付け、世界同時革命・武装闘争を訴 えていた。当時助教授の高橋和己はこう書いている。「同じマルクス主義的語彙が双方か らとびかいながらも、発想法が全く違っているのだ」。両者の冷静な対話は難しくなっていた。 そして、暴力の行使が公然化した。以前にも、反対運動の示威行動、占拠という過程でや むにやまれぬ形で、権力者や機動隊に暴力を行使する場面があった。その暴力が矛先を 替えて、学生間の意見の対立の場にも使われるようになった。
◆三項目要求から学生部封鎖へ こういった状況下で、一九六八年十二月十二日、寮生は大胆な対学生部闘争を開始。民 青系と路線との違いを際だたせるためにも、より戦闘的な運動方針を選択した。吉田寮と 熊野寮の執行部系の寮生百五十名は、奥田総長、岡本学生部長と十八時間に及ぶ団交を 実施した。会場の学生部会議室の外では、教養部自治委員会を終えた民青系の学生六十 名が団交反対で押し掛けたが、執行部系の寮生らは学生部入り口にバリケードを築いて入 室を阻止した。 この団交で、執行部系の寮生は「三項目要求」を行う。三項目要求とは、「無条件増寮、 二十年長期計画白紙撤回、経理全面公開」である。 「無条件」とは、○管規、光熱水料徴収を適用しない新寮であること。「計画撤回」には、 同年十一月に発表された京大の整備計画に吉田東寮の廃止が含まれており、これの撤 回を要求。また、「経理全面公開」は、財源が無いので炊フ公務員化はできないという言い 訳に対して、その根拠である経理を明らかにせよということ。いずれに要求に対しても、奥 田総長は拒否した。 一九六九年(昭和四十四年)一月十四日午後五時から、反民青系の吉田寮と熊野寮生 からなる全寮闘争委員会(寮闘委)の二百人と、学生部長との団交が始まった。途中から 総長も出席した。議題は、三項目要求についてである。総長は、前年十二月の団交の立 場から譲歩し、「長期計画」のうち寮に関する部分は撤回するが、全面白紙撤回は出来な いこと、「経理公開」は実現の方向で検討する、但し「無条件増寮」はできないことと回答し た。しかし、寮闘委は三項目要求の完全獲得を追求した。 一月十六日午前一時、三日間に渡る団交が決裂すると、その場にいた寮闘委は、ただ ちに学生部建物を占拠した。 学生部占拠について寮闘委は「長い増寮運動のなかで話し合いを続けても問題は解決 しないことを知った寮生の、あらたな問題解決の表現であり、蓄積された怒りの表現」と説 明した。
一月十六日、寮闘委らの封鎖貫徹の集会(三百人)と、民青系の「五者連絡会議」(同学 会・職組・院協・生協・生職組)の封鎖糾弾の集会(四百名)が、学生部前と時計台前で隣 接して開催された。その廻りを二千人の学生・教職員が取り囲み、騒然とした雰囲気に包 まれた。黄色ヘルメットを被った民青系の同学会行動隊が学生部の封鎖解除を試みたが、 寮闘委は跳ね返した。 折しも、東大では学生が占拠する安田講堂で、機動隊との攻防戦が一月十八日、十九 日に行われていた。機動隊の占拠解除に伴う研究施設の荒廃の映像は「京大を第二の 東大にするな」という感情的な危機意識を秩序派に引き起こさせ、「紛争化を避けたい」の 一点で総長と民青系の「五者」が連携した。 一月二十一日、学生部封鎖を支持する学生らによって全関西総決起集会の開催が学生 部前で予定されていたが、これを妨害するため、民青系の「五者」が本部構内をロックア ウトした。本部正門に高さ三メートル、奥行き5メートルもの「逆バリケード」が築かれ、集 会参加者が本部構内に入れないようした。学生部を封鎖する寮闘委は、本部構内で孤 立した。本部構内の外にいる学生部封鎖を支持する学生らは、「逆バリケード」を何度も 突破しようと試みたが、放水や民青系の同学会行動隊のピケで本部に近づくことができ ない。このような衝突が、雪の降る中、夜間も含めて三日間続き、この光景は「狂気の三 日間」と呼ばれた。
◆学生部封鎖解除 そして京大闘争へ 一月二十三日午前十時半、寮闘委は学生部の窓に白旗を掲げ、封鎖を解除した。十一 時、「五者」は法経一番で、封鎖をしていた寮闘委の寮生六十名を連行し取り囲んで「暴力 学生弾劾」集会を開始した。千五百人の学生教職員が参加した。ところが、会場から民青系 の追及に非難が起こり、学生部封鎖を行った寮生が、寮運動の意義と「五者」の運動妨害 を発言すると、会場からは寮闘委支持の声が続出した。弾劾集会の目論見が破綻し、森 是議長ら「五者」は会場から退席した。寮闘委がその場で学生部長団交を呼びかけると、 残った千二百人らと寮闘委は、学生部長さらには総長を法経一番に呼び入れ、闘争破壊 の責任追及を行なった。総長は二十五日の再団交を約束した。 一月二十五日、約束の総長団交の直前に全学闘争委員会(後の京大全共闘)が結成さ れ、寮闘委は全学闘争委員会に合流した。総長団交は、二十七日まで五十三時間続いた が、決裂した。 その後、教養部、文学部、医学部、工学部が無期限ストライキに突入。農学部や理学部 も長期ストへ。京大闘争では、研究体制のあり方や、創造的な知的活動が議論の俎上に 載せられた。闘争に関わった学生の意識は多様だった。党派に属する学生は、固有の革 命理論に基づく政治運動の拠点作りをめざしていたが、大多数の学生は、管理社会に堕 した日常性を打破し新しい活力を求めようとしたものだった。そういった多様性が、京大闘 争を深く、長く継続させた。京大闘争は、その年の三月の入試粉砕闘争を経て、九月二十 一日の時計封鎖解除まで高原状態を保った。 反面、寮運動の課題は、京大闘争の中で相対的に小さく扱われるようになった。
◆入退寮権に関する同意へ 寮生による自主入寮選考が続いていた。この状態が続くと、大学は入寮者の把握と寄宿 料の徴収が出来ない恐れがあった。それでは予算執行にも支障を来すことになる。 一九七〇年(昭和四十五年)一月、新任の前田総長は京大新聞とのインタビューで、自 主選考を認める発言を行った。現状を追認することで、宙ぶらりんな状態を解消することを めざした。 一九七一年(昭和四十六年)二月、淺井健次郎学生部長は団交で、「入退寮権は一切寮 委員会が保持・行使する」ことを認め、入寮者の募集、選考、決定および退寮者の決定を寮 委員会が行い、新入寮者氏名を京大新聞に掲載することになった。学生部はその新聞発 表をもとに、寮生から寄宿料を徴収した。 光熱水料については、学生部は寄宿舎規程にある徴収の項目の削除は拒んだが、徴収 方法を明示しないことで「継続審議扱い」となり、実際には寮生から徴収されないままにな った。炊フについては、臨時職員という扱いであったが、全員が公費負担で雇い入れられた。 大学当局は、一九六九年の京大闘争以来、くすぶり続ける学生運動への対応におわれ、 吉田寮と熊野寮に関してはほとんど寮生の要求を受け入れた。但し、大学は新寮建設に ついては、条件付きでないと予算化ができないとして、寮生の要求する無条件新寮は認め なかった。一九七八年(昭和五十三年)の沢田敏男学生部長登場まで、臨時職員の定員内 公務員化要求を除いて、表だった対立はなくなった。
◆民青との対立激化 一九七四年、寮内での民青系と反民青系(執行部)の対立は、ついに裁判にまで発展し た。民青系の「全寮連を支持する会」の寮生が、四月二十七日の吉田寮の寮生大会で執 行部系の寮生に暴力を振るわれたとして、京都府警に告訴した。六月二十五日、二名の 反民青系の吉田寮生が逮捕。他の二名が指名手配されたが、後にそれぞれ逮捕。四名 のうち三名が起訴された。民青系の寮生八名が、吉田寮を「退寮処分」になった。 これ以降民青系は「寮は暴力学生に支配されている」と国会を利用したキャンペーンを 行い、左京区一帯にビラを配布した。そのため入寮希望者は激減。寮は定員割れを起こ した。公判の維持に自治会活動の労力を割かれたこと、及び定員割れは増寮運動の動 きを止めることになった。修学院の新寮用地は、宙に浮いたままになった。 判決は、一九七七年(昭和五十二年)九月、執行猶予付きで三名とも有罪が言い渡され た。 ◆学寮不要の文部省方針 一九七一年(昭和四十六年)六月の中央教育審議会答申で、学寮を「紛争の根源地」と 断定し、文部省は学寮の教育的意義を否定した。一九六二年の学徒厚生審議会答申で は、学寮に対して少なくとも一定の教育的意義を認め、大学による適正な指導の下での 寮自治の遂行を期待していた。しかし一九六九年の学生反乱を経て、文部省は、そういっ たわずかながらの「寮自治」すら好ましくないものと見なすようになっていた。 多くの大学の学寮では、この中教審答申に基づいて、光熱水料の徴収や、入退寮権の 大学掌握が進行した。これに反対して寮生が徹底抗戦を図った電通大学、大阪大学、岡 山大学等の学寮に対して、大学側は機動隊の力を借りて、廃寮に追い込んでいった。
◆竹本処分を敢行、次は寮の「正常化」 ところで京大では、一九七二年十一月、同学会(全学自治会)が再びそれまでの民青 系からノンセクトと呼ばれる反民青系に移り、その後も長い間、一〇〇〇名規模の集会 動員力が維持されることになった。ノンセクト系の同学会は、従来の世界革命を頂く観念 的な学生運動を排し、教育学園の課題と、地域の反公害や反差別の課題、底辺労働者 の課題などを実践的に結びつけた運動を志向した。教育実習生の部落問題教育の改善、 また安全センター運動など、大学側が学生の提起を受け入れざるを得ない状況を作って いった。大学は、そういった同学会への対応に追われたため、吉田寮と熊野寮について は、この時期、一九七一年の合意の秩序を維持し、衝突を避けていた。 同学会の最大の闘争課題は、一九七二年から継続された経済学部の竹本信弘助手 の分限処分粉砕闘争だった。しかし、一九七七年(昭和五十二年)六月、竹本助手の処 分が大学評議会で承認され、これによって一九六九年から九年間続いた「京大の紛争状 態」は終結した。 一九七八年一月、時計台に白ペンキで書かれた闘争のシンボル「竹本処分粉砕」の文 字が消し去られるのを境に、学生たちの自治会運動への関心は徐々に薄れていった。竹 本処分を巡る混乱を収めると、大学は寮の「正常化」に着手した
◆寮の「正常化」へ 確約の破棄 一九七八年(昭和五十三年)四月、学生部長に沢田敏男農学部教授(のち総長)が就 任すると、吉田寮および熊野寮の自治会とは団交をしないこと、また以前の確約の内容 については「是々非々で対応する」と宣言した。つまり、一九五〇年代から行われてきた ”重要な事は、団交で確約としてルールを決め、その確約を引き継ぎながら、寮を運営す る”という運営方式を否定したのである。さらに、炊フを始め寮内の職員(守衛や事務員、 掃除人)が退職しても、今後は公費では補充しないこととした。沢田学生部長は、文部省 方針に則った「正常化」を進め、寮自治会はこれを「中教審路線にもとづく管理強化」と 非難した。 一九七九年(昭和五十四年)九月十四日、その年の春に行われた調査に基づいて、会 計検査院は京大の寮費の支出について文書で改善勧告を行った。指摘事項は、会計 検査院が検査のため立入出来なかったことから、「寮は占拠状態である」ということ。さら に前年度の学生部の支出について、四寮に関わる光熱水料二千九百万円が大学の超 過負担であること、寄宿料四十九万円が未徴収であること。岡本総長は、三年以内のこ れらの改善を約束した。 一九八〇年一月十日付けで、翠川学生部長名の文書が、二月一日の京大広報に掲載 された。それには寮の「正常化」へ向けた基本的な考え方が述べられており、沢田学生 部長の進めた「正常化」を承継した内容になっていた。 特に対立項目になったのは、入寮届けである。学生部は、京大新聞で発表された名簿 は記載事項が正確でないので、今後は寄宿料を新聞発表に基づいて徴収しない主張。 ついては、寮生の確認のため、個人が入寮届けを提出することを求め、提出しない寮生 を「不正規寮生」と規定した。
◆「在寮期限」=廃寮の評議会決定 一九八二年(昭和五十七年)十二月十四日、大学評議会は「吉田寮の在寮期限を昭和 六十一年三月三十一日とする」という廃寮決定を行った。会計検査院に改善を約束した 三年目の期限ぎりぎりであった。大学は、現在の寮自治会と交渉を続けることによる「正 常化」を諦め、現自治会と縁を切って「正常化」する方針に転換したのである。すなわち 「廃寮=建て替え」である。大学の「正常化計画」では、さらに一九八三年、熊野寮に同 様の「在寮期限」を設定する内容が盛り込まれていた。 ところが、吉田寮の「在寮期限」が、学内のコンセンサス作りが不十分なまま、強引に決 定されたため、それが学生自治会の猛烈な反対運動の呼び水になった。文学部、教養 部、農学部、理学部で、吉田寮廃寮に反対して学部長団交が行われ、それぞれの部局 長は学生部の独走に非難の意志を示した。「在寮期限」方式は、教官層の一部にも不信 感を生み、その結果、当初計画にあった熊野寮の「在寮期限」設定は見送られた。 学部長団交と並行して、一九八三年(昭和五十八年)一月には、五年ぶりに学生部長団 交が実現した。だが、神野学生部長は、三回の団交を経て、逆に強硬路線に転換。二月に 話し合いを一方的に打ち切ったのち、三月から光熱水料の請求書を四つの寮自治会に送 付した。寮自治会は、話し合い抜きの請求は認められないとして、支払いに応じなかった。 一九八三年(昭和五十八年)四月の会計検査院の来寮阻止行動に起因して、寮生八名 が逮捕され、五名が起訴された。時計台と学生部棟への抗議行動が建造物侵入に当たる というのが理由であった。この「建造物侵入裁判」や、光熱水料請求への対応に吉田寮は 追われ、そのため「在寮期限」撤回の運動を十分に取り組めないまま膠着状態に陥った。
◆吉田寮運動の分化 寮運動の担い手が分化していった。熊野寮は開寮以来、吉田寮と共同歩調をとってい たが、二寮間に齟齬が生まれてきたのである。 一九八四年(昭和五十九年)一月、熊野寮は他の三寮(吉田、室町、女子)に先駆けて 光熱水料の支払いに応じた。それまで四寮協同で学生部と交渉に臨んでいたが、熊野寮 は単独交渉で支払いを決定。支払いに応じた事実を他の寮に伝えないまま、四寮協同の 交渉を行っていた。しかし、そのこと事実がし、四寮の共同歩調に混乱が発生した。結局、 他の三寮は、遅れて支払いに応じることになった。 支払いは裁判に大きく影響した。「建造物侵入裁判」では、光熱水料の請求そのものが 不当であり、それへのやむにやまれない抗議行動が「建造物侵入」に至る事になったとい う主張を構成していた。ところが、支払いに応じたことで、抗議行動の正当性の根拠が希 薄になり、裁判維持を困難にした。二寮間に不信感が芽生えた。裁判は、一九八五年一 月、執行猶予付きで有罪判決が言い渡された。 一九八五年(昭和六十年)五月、吉田寮は新寮建設推進方針に転換して、翌年の「在 寮期限」到来を乗り切ろうとした。すると、熊野寮は新寮建設を妨害する行動をとった。当 時、熊野寮は委員長経験者が「人生を決意してマル学同・中核派に加盟」するなど政治 闘争への志向が強かった。熊野寮は、吉田寮の「在寮期限」反対運動をきっかけに「在寮 期限決戦の大爆発で」「機動隊の阻止線を突破し」「三里塚(成田)空港二期決戦への寮 生の決起」を主張していて、この文脈から、熊野寮は吉田寮の方針転換は「決戦から逃 亡」し「自治を売り渡」すものに映り、非難した。 対して、吉田寮は生活防衛と、生活に根ざした差別選別を許さない共同性の発展、す なわち自主管理を方針に掲げ、新寮を獲得することで共同性を破壊する「在寮期限」の効 力を無効にしよう、と主張していた。
未明から続く元祖趣味者の書き込みは間違いだらけだし、単なる荒らしと変わらんなw
「在寮期限」を翌年に控えた一九八五年七月、吉田寮は新寮予算の確保に必要な寮 南側の新寮予定地の埋蔵文化財調査を学生部に要求した。同月二十九日から始まる 調査の実施で、六〇人規模の新寮予算が確保される見通しだった。しかし、熊野寮自治 会書記局が、吉田寮内にヘルメットと竹竿を持ち込み、調査を実力で粉砕した。このため、 その年の概算要求は厳しくなった。以来、長年の吉田寮と熊野寮との共闘関係は崩れた。 しかし、「在寮期限」到来を目前にして「寮生追い出し」という事態に、対立はしながらも、 多くの学生団体が廃寮反対の声を挙げ、そのことが大きな力になった。 さらに新任の西島安則総長は、「京大らしい対応をしたい」「吉田寮へは愛情を持って 接したい」と、かならずしも強制退去を望んでいないことを明言していた。 ◆「在寮期限」の執行終了 一九八六年(昭和六十一年)三月三十一日、在寮期限を迎えたが、大学は上記の学内 状況から「在寮期限執行中」という扱いとし、百四十名の在寮生が継続して居住することを 認めた。但し、食堂の廃止、一名を除く職員の配置転換、入寮募集の停止を行った。吉田 寮は入寮募集停止にも関わらず自主募集を続け、その後も百数十名の寮生数を維持した。 一九八八年(昭和六十三年)八月、大学は、老朽化の著しい吉田西寮のIV棟を解体・撤 去した。IV棟撤去をきっかけに学生部と吉田寮の話し合いの機運が生まれた。十一月の 第一回目の河合隼雄学生部長との団交で、学生部長は吉田西寮全体の撤去をもって「在 寮期限の執行を終了すること」を提案した。吉田寮は、問題の長期化が新寮予算や現寮 の補修予算の障害になっていることを重視して、提案を受け入れた。一九八九年二月ま でに、河合学生部長と五回の団交を重ねた。西寮撤去、寮自治会による寮生名簿の一括 提出、寄宿料の自治会徴収による一括納入、に応じることになった。 三月二十五日、西寮が撤去されたのを受けて、二十七日に入寮募集停止の措置が解除 された。そして、吉田寮が四月十四日に寮生名簿と寄宿料を提出すると、同月十八日、評 議会で「在寮期限の執行完了」が承認された。 一九五九年以来続いた、大学と吉田寮の三十年に及ぶ「死闘」は、ようやく終結した。
はい、荒らしです。 それがどうした! エ・アロール(et alors)
自分が関わった闘争は裏事情まで詳しいのだろうが、それ以前のものは文献や伝聞に基づいているから薄っぺらい。
なにも、書かない奴に、いわれとうないわ。 >自分が関わった闘争は裏事情まで詳しいのだろうが、 あほ、自分がかかわったことこそ、詳しく書いていないことに、 気がつかないくらい、頭がぼけているオジンですね。 >それ以前のものは文献や伝聞に基づいているから薄っぺらい。 そのとおり、薄っぺらい。 1965年から卒業年次までのビラ高さ6m「蒐集」し(いま付属図書館かな)、 また熊野寮自治会の寮生大会ファイルを眺め、「○代」のレジュメや「樹々のみどり」 (1973年〜1983年)、学徒厚生審議会ニュース、国会の文教委議事録、京大新聞、京大 学生新聞、以文会誌、京大70年の歩み、などを元に記述したから、そりゃ、あんた のいう「まちがい」もあるだろうが、裏は取っている。 証言も、名簿の黒山羊さん、奥野さん、現中研のゾゾム、森毅、E地下のタケちゃん、 その他大勢に取材しているから、まあ「伝聞に基づいている」という悪罵も あたっているかもしれないなあ。 こちとら、長年、趣味で「ゴロ」をやっているんだ、史実、生データ には逆に厳しいでっせ。 何か屈折した恨みでもあるんでしょうな。 自分史を解してゆく希土氏のほうが、まだ正直で素直。 話がかわって、京大民青の運動史、京大民学同の運動史、京大マル学同(熊野寮) の運動史も、もちろんあるだろう。熊野寮自治会による赤ヘル罵倒史観以外は、 お目にかかったことがないのは、残念ですね。
361 :
革命的名無しさん :2008/03/18(火) 19:54:45
>>356 そう思うなら、お前は具体的に指摘してみろよ。
俺はじっくり楽しませてもらってるよ。
上田ウザ
363 :
革命的名無しさん :2008/03/20(木) 19:58:17
西部講堂けっこう人入ってたよー
364 :
初心者 :2008/03/20(木) 20:23:26
私は元祖趣味者さんの書き込みに敬意を表している者です。 ひとつの社会史なんだから。 2chで、ここまで丁寧に史料を提供してくれる方は少ないでしょう。 元祖趣味者さん、ありがとうございます。
365 :
革命的名無しさん :2008/03/20(木) 20:47:11
同志社のセクト、ノンセクトは?
366 :
革命的名無しさん :2008/03/20(木) 21:20:49
>>363 どんな感じでした? 若松さんはこの日を楽しみにしていたでしょうし。
367 :
革命的名無しさん :2008/03/20(木) 21:36:31
>>366 上映後にティーチインがあって、何かグダグダだったけど、
でも若松監督は意気軒昂でしたねww
368 :
革命的名無しさん :2008/03/20(木) 23:55:08
ほんとうに、資料を探してもわからないことがある。 素朴な疑問で、吉田寮自治会が、1969年1月、学生部長団交が決裂したと き、なぜ、それが「学生部封鎖」と言う、飛び跳ねた戦術を導き出したか、それ をどう寮闘争委員会は説明し、寮生、学生は感じたかということ。 普通に考えて、団交決別と学生部封鎖は、気持ちはわかるけどその手段は いかがなものか、というレベルである。 吉田寮、熊野寮の膨大なファイルや、学内ビラをみても、学生部封鎖を非難 する民青のほうが、当時も今も納得できるのである。民青が闘争破壊者となって 京大の右翼層に依拠して、戦う学生を弾圧したというのは、運動が盛り上がった 「後付け」であり、民青が対応を間違えなかったら(ifはないけれど)、あそこ まで、京大闘争は盛り上がらなかったし、いまの民青の凋落もなかったろうに、 と感じる。次の1文は、ようやく見つけたフレーズで、あった。 > 学生部占拠について寮闘委は「長い増寮運動のなかで話し合いを続けても問題は解決 >しないことを知った寮生の、あらたな問題解決の表現であり、蓄積された怒りの表現」と説 >明した。 結局、尾崎ムゲン(Pのブント)や、時計台の被告者の某弁護士の方にき いたら、「京大で暴れたかったから、その理由を探していた」というのが、 学生部封鎖の真相である。前年10月21日に、初めて教養部で1日バリ ケードストをやって、ワクワクして、そして当時は、京大の戦う学生は 東大で暴れて、同じくらいの数の東大生が京大で司法試験の勉強をしていた らしいが、東大でウキウキしていた戦う学生が、いっちょう京大でも、 というノリだった。 歴史と言うのは、現場レベルではそんなもんだ。
なおもう一つ。吉田寮自治会は圧倒的な数で執行委員会を共闘派系が 選挙で民青を抑えて維持していたけれど(1968年10月委員長選挙 で反民青系110対民青系65)、熊野寮自治会は、12月選挙で反民 青系194対 民青157と、追い上げられれて、磐石の基盤ではなか った。 よって、先に書いた、ほかの大学と比べてボルテージの低い京大で学生 運動を盛り上げ、さらに対民青で優位に立とうという目的で、あえて過激 な闘争手段を選択してというのが、かかれていないけれど、共闘派の狙い と思われる。じじつ、学生部長団交の時には、あえて、1968年12月 の団交で拒否さえた3項目要求をだして、飲めないのが承知の上で、団交 を開始し、そのときには学生部封鎖も準備もできていたのである。既定方 針。岡本学生部長が、飲んじゃったらどうするつもりだったんだろう。 ノラリクラリと、1969年8月の臨時大学措置法成立がきたら、 京大闘争は幻に終わったと思うね。
(1968年10月委員長選挙で反民青系110対民青系65)、 熊野寮自治会は、12月選挙で反民青系194対 民青157と 吉田寮の執行部系は、芥川賞を後に受賞した高城修三(若狭さん)や、 時事通信社の長沼節夫さん、なくなった田中真人(同志社大教授)さんら。 熊野寮の執行部系は、チンパンジー学者の黒田末寿さんら。そりゃ、 吉田寮のほうが大人の人格者だわな。
372 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :2008/03/23(日) 20:16:34
学生の闘争の享楽性を表現されていますなあ、と書いておこ。別に肯定も 否定もしないっす。スガ先生が指摘したことだし。
373 :
革命的名無しさん :2008/03/23(日) 20:57:16
>>岡本学生部長が、飲んじゃったらどうするつもりだったんだろう。 京大・立命の全共闘運動が勃発する少し前に、同志社で封鎖闘争があって、 学生側が結構厳しい要求を突きつけたにもかかわらず、リベラル?な 当局側はその要求を飲んでしまったために、闘争終結、封鎖自主解除、 なんてことがあったと記憶す。 この影響があったのかどうかは知らないが、同志社は全共闘運動に 乗り遅れた。当時の新聞にも先の2校に比べて平穏なキャンパスの同志社 といった記事もあり、プライドの高い同志社左翼としては結構くやしい 思いをしていたのではないか、と勝手に推測。 しかしその後、さーさー真打の登場ですよー!とばかりに赤軍と供に浮上 した同志社でありました。 同やんじゃないので違っていたらすんません。
ジャルゴンの解説
>「○代」の
「マルダイ」とよぶ。同学会の代表者会議で、L学友会、A自−A闘、
S共闘、P全闘、J刑事法研究会、T反原発学習会、E同好会、C闘委
M新聞会、といった学部自治団体、および三闘委、狭山−久世を戦
う会、日韓、原水禁研、女解研のフラクションの代表者があつまる会議。
70年代から、80年代半ばまでは、手帳に代に○を囲んで、マルダイ
の日をチェックしていた。それに対して、活動家全員の会議が、マルゼン
といって、全体の「全」を○で囲んでいた。ここに、吉田寮自治会と熊野
寮自治会は入らない。また、同じ左翼系ノンセクト団体の、安全センター、
南部アフリカ研究会、関西LA研究会、琵琶湖研究会、京大新聞、山岳部、
探検部、有機農法、水俣告発、地塩寮、名簿編纂、西部講堂連絡協議会、
自主講座、自然科学史ゼミも丸大の対象ではなかった。けれど、京大ノン
セクト活動家を有む、豊かな土壌(苗床)であった。また、民学同→赤ヘル
のコースはあったが、その逆はなく、また民学同も、草刈場であった。
中核派との対立状況の中で、丸善と丸大の数が同じになってしまったのは、悲しい事実だろう。
なお、「全体会議」の記述は、吉田寮資料集の「熊野寮 45期方針 常任委員会」
http://www.longtail.co.jp/yoshida/890130.htmlにも見られる 。
>←83年3月、同学会全体会議(赤ヘルの活動家全体会議)において、脱落派支援決議を行った。このときA自A闘は(緑ヘル)は、これに反対して退場。
余談だが、こんな「京大寮闘争論」を書く連中に京大が蹂躙されていたとは(卒業後はし
らん)、いや、これほどまでに歴史性やペースペクティブがない主張に、反論もできない状態に
されていたとは、80年代の丸太町は住みにくい場所だったんですね。
どうして、そうなったかの前史は、1979年までさかのぼるが、2chに
書くべきことではないので。
375 :
革命的名無しさん :2008/03/26(水) 09:51:38
ベ平連だのリベラルだの解放だのと言っていた人たちは、チベットでの 出来事に「知らぬ顔の反米」ですな。
376 :
革命的名無しさん :2008/03/27(木) 02:12:41
↑ 「チベットはどうした!中国には何も言えんのかw」 これ、最近の反サヨのトレンドだが、「知らぬ顔の反米」 ってところが、ちょっとイイw ま、サヨクを嘲笑してんじゃなくて、自分で抗議行動せーよ、 てことだなw
(京大 赤ヘル放蕩記 戦前編) ◆帝国大学時代の京大学生運動 <「教授会自治」確立の時期(明治三十年代〜大正初期)> 帝国大学時代の学生運動は、総じて、国家主義的な教育政策に対して、教授会を中心とする大学自治を、 大学現場において下から学生が支えようとするものであった。 近代教育の初期にあっては、明治四年(1871年)の廃藩置県、明治六年の徴兵制に続いて、統一された 教育制度の確立は、日本が列強に伍するためにはなくてはならない改革であった。つまり、欧米列強に追い つき、追い越すために、欧米の科学技術および市民主義的な近代思想の移入が積極的に行なわれていた わけである。しかしその反面、徳川幕府の封建的秩序における忠誠心を、統一された明治国家に対する忠 誠心に置き換えるためには、国家主義的教育を施す必要があった。 森有札は、当初は欧化主義者と目されるほどの自由主義者であったが、初代文部大臣としての座に就く や、国家主義的教育を強力に推進した。森は「諸学校を通じ、学政上においては、生徒其人の為にするに 非ずして、国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」と述べているように、教育を国家にとって有為 な人材を磨く手段として位置づけていた。しかし、欧米の近代的自我に根ざした批判精神こそが、科学技術 振興の基礎となるのは疑いえなかった。このジレンマは、あらゆる国民に村する義務教育と、ごく少数の特権 エリートに対象が限定された高水準の大学教育という、歪んだ教育制度のうちに解消された。すなわち、義 務教育においては、道徳心と愛国心を徹底して叩き込み、大学教育においては、比較的自由な教育環境 とし、学問・研究の自由を保障したのである。つまり、大学の自治は、森有礼ら国家上層部が企図していた ように、教育的意義の観点から有益と認める範囲においてのみ許容されていたに過ぎない。しかし、大学 の「大衆化」に伴って、あるいは許容される自治の範囲が狭まるにつれ、この「エリートの自由」を逸脱する 者が現われ、「大学自治」の意味も変容していく。そこでは、まず、政治的大衆運動の高揚が見られるまで の、「教授会の自治」確立の時期を見ていこう。
大学自治への関心を喚起したものとして、明治三十年の「戸水事件」がある。ポーツマス講和条約に臨 む政府の「軟弱外交」を右派の立場から批判する東大法科大学教授戸水寛水が、文官分限令によって休 職処分に付された事件である。東大法科大学の教授たちは、教授の地位が政府によって決定されることを 不当として抗議した。文部省と東大教授会は、教授の言論の自由、地位の確保をめぐって、数ヶ月にわたり 対立した。事件は文相久保田が辞職し戸水が復職して、東大側の勝利に終わった。この事件以降、本学に おいても大学自治のあり方を捉え返す気運がようやく生まれたといえる。 明治末から大正初期にかけて、日清日露両戦争を踏み台に、国家資本主義経済体制が確立されていく 中、わが国に内在する社会的諸矛盾は深刻さを増していった。労働争議は続発し、明治三十年に高野房太 郎・片山潜らが労働組合期成会を結成するなど組織的労働運動が展開され始めていた。これに村し政府は、 明治三十三年の治安警察法制定、明治四十三年の大逆事件(幸徳秋水事件)等をもって弾圧し、社会主義 運動は冬の時代を迎えた。しかし大正元年には、労使協調主義、キリスト教的人道主義の友愛会が、鈴木 文治らによって結成され、労働争議の調停にあたっていたが、やがて組織の拡大とともに急進化していった。 本学においても、社会的諸矛盾に目を向け、積極的に国政批判を展開していた進歩的教授たちが多くい た。明治四十三年には、法科大学助教授河田嗣郎の著書『婦人問題』が家族制度を破壊するものとして「自 発的絶版」に処せられた。また、明治四十四年六月には法科大学教授岡村司が、「親族と家族」と題する講 演を行なったことに関し、「政治当局者二対シ、過激ニ渉ル言辞ヲ用ヒタル」かどで文部省より講責処分を受 けた(岡村事件)。この事件を機に、本学の学生の中にも大学の自治に積極的に関わろうとする者が現われる。
大正二年、「沢柳事件」が起こった。この事件は、総長沢柳政太郎が、文・工・医の七教授の辞職勧告をし たことに端を発するが、法科大学教授たちは教授の任免について教授会の権限を主張して沢柳総長と対立 した。法科大学学生は法科大教授側を支持した。大正三年一月十四日には学生大会を開催し、 八百余名が これに参加、総長排斥を決議した。一月十八日、学生代表十人が東上し文相を訪ね、七教授の復職・沢柳退 職を請願した。学生大会は第四回(一月二十一日)まで開かれ、動員学生数は約三千人に及んだ。一月二十 四日、文相は教授会側の要求を認めたため、事件は解決した。この事件は、大学自治すなわち教授会自治 という定式を免れるものではなかったが、学生が大学自治に関して独自の動きを見せたという点で意義深い。 当時法科大学学生であった滝川幸辰は次のように回想している。「教授はもちろん、学生運動を抑えていた が、なにしろ多数の学生の行動を制止することはできない。総長が教授側の主張を認めない限り総辞職の他 なし、という報道がでるに及んで、学生は総退学を決議し、退学届をまとめにかかった者もあった。とにかく一 学期の終わりから二学期にかけて法科大学では全然講義がなかった」 このような学生たちの中から、学外の社会問題に目を向け、政治運動としての学生運動に身を投ずる者が 多数生まれてきたのである。 それを象徴するように、大正四年六月、「京大学生政談演説事件」が起こる。五人の弁論部学生が衆議院選 挙に際し、京都丹波地方へ政談遊説に行き、演説会を開いたことが警察によって報告され、学生監に呼び出 されたというものである。五人の中には高山義三(法、元京都市長)、古市春彦(法)らが含まれている。破らは 学生の本分に背き「学業懈怠」という理由で譴責処分に付された。当時はまだ、学生の「政治的自由」は認めら れていなかった。 本学の自治的な学生組織は、大正二年に、運動会と親睦団体「以文会」が統合され、同学会の前身である「学 友会」に発展した。しかしこの学友会は、のちには運動部偏重・自治機能低下として批判にさらされた。政治的に はノンポリの自治機構であった。
◆河上肇を慕い 全国から進歩的学生が参集 (大正六年〜十四年) 沢柳事件を契械とした学生たちの独自の動きは、やがて組織的政治活動へと発展した。大正六年二月、京都 市内に友愛会の京都第一支部が発足、その支部長に京大生高山義三が就任した。同年、ロシアでは帝政が打倒 され、十一月にはレーニン指導のボルシェビキ、労働者、農民、兵士によってソビエト政権が樹立された。また 国内では、七月、富山県に米騒動が起き、八月には全国化した。京都では全市にわたり民衆が蜂起し、さらに 労働争議がこれに結合して、全国で最も急進的な「騒動」を京都は体験することになった。このような京都の政 治的風土が学生たちにも影響を与えたのであろうことは想像に難くない。 九月には、わが国初の学生・労働者の組織「労学会」が京大基督教育年会館(現在のYMCA地塩寮)におい て結成された。労学会は学生十人、労働者二十人ほどで構成され、労働問題の研究等の活動にあたった。結 成時、幹事役には高山義三がなり、また水谷長三郎(法、元商工相)、松方三郎(経、登山家)らが加わってい る。十一月、東大に「新人会」が結成されるが、労学会はこれに少なからぬ影響を与えたという。 大正の中頃は、大正デモクラシーが全盛期を迎えていた。友愛会は大正八年「職業別組合連合体」として「大 日本労働総同盟友愛会」と改称し、さらに二年後、「日本労働給同盟」となり、労働組合の全国組織として指導 的な役割を果たした。大正十一年、水平社宣言がなされ、未解放部落の解放をめざす部落大衆自身の全国 組織、そして全日本農民組合が結成された。さらに、平塚らいてうらが雑誌を発刊し、「元始女性は太陽であっ た」と宣言し、女性解放運動が始まった。この大正デモクラシーの中で、普通選挙法制定運動が高揚していった。
京大、同志社大を中心とする京都の学生たちも、友愛会とともに普選運動を展開した。大正八年二月、友愛 会は尾崎行雄を京都に招き、岡崎公会堂において普選期成労働大会を開催し、五千人の聴衆を集めたが、こ のとき労学会は前線で奮闘し、成功に一役買った。この後、労学会は京大当局の規制、奥村電気争議での 敗北、高山義三の兵役入営によって弱体化していき、大正十年にはメーデーに制服制帽で参加しようとしたこ とが京大当局に察知され、解散を命じられた。 政治運動の高揚の中で、十一月、東大新人会の呼びかけで、東京の大学や専門学校、全国の高等学校の 進歩的学生団体の連合「学生連合会」(学連)が結成された。関西でも大正十二年、三悪法案(過激社会取締 法案、労働組合取締法案、小作争議調停案)に対する反対運動の中で、「開西学生連盟」が組織された。 労学会の解散以来、労働者と組織のつながりがなかった本学においても、経済学部数授河上肇を中心とし た思想問題研究会「伍民会」が結成され、大正十二年十二月には「社会科学研究会」(社研)と改称し、学連 に加盟した。学連は、学生の啓蒙活動にあたる一方、学外の労働運動、政治運動と組織的に結びついてい った。しかし、大正十三年六月の「第一次共産党事件」により関東の学連が弾圧を被ったあとは、本学社研 が全国の学生運動の中心となっていった。その要因としては、河上肇が大正五年『大阪朝日』に『貧乏物語』 の連載を開始して以来、次第にマルクス主義的な姿勢を明確にしていくにつれ、彼を慕う全国の進歩的な学 生の多くが本学に集まって来たことが挙げられる。
さて、学連は大正十三年から十四年にかけ、「学生軍事教育反村運動」と、これに起因する高等学校社会 科学研究会解散に対する抗議運動にとりくんだ。当時政府は軍国化の道をひた走り、徴兵制の更なる強化 を狙っていた。加藤内閣の文部大臣岡田良平と陸軍大臣は、中等以下の学校を卒業した志願兵の在営年 限・召集期間の短縮と引き換えに、入営前の素養を高めるための学校教練を振興することとした。これを知っ た学連は、全国の傘下団体に軍事教育反村運動の準備にあたらせた。本学社研も反対運動の資金を集め るため、大正十三年十月、山本宣治を招き連続講習会を開いたり、「全国学生軍事教育反対同盟」の日本の 拠点となって反対運動を組織したりした。しかし文部省は、このような全国の学生の反村運動を圧殺せんと、 同年末から全国高等学校社研の解散命令を出した。このため五高を皮切りに、全国の高等学校の社研は 次々と解散させられた。最後まで存続していた三高の社研も翌年十月には解散させられた。こうした中で、 全国の大学では配属将校をおいての軍事教練が次々と導入されていき、本学においても、大正十四年七 月、評議会が希望者に限っての実施という条件付きで導入を決定した。このとき、教練希望者数は、在官年 限短縮という特典に魅かれたので約三千人に及んだという。暗い時代を予兆させる事件であった。
◆治安維持法の制定と「京都学連事件」 (大正十四年〜十五年) 大正十四年四月、治安維持法が公布された。これは普選法の実施と引き換えに制定されたもので、昭和 三年の改正緊急勅令、昭和十六年の全改で、極刑主義・予防拘禁制度がとられ、特高と結びついて生活の 末端に至るまで猛威をふるった。一方、「昭和」の時代を迎えても、大正以来の不況は深刻化するばかりで あった。財政政策の破綻、世界恐慌の余波は日本における人身の動揺をもたらし、他方、産業の合理化が 進み失業者が増大した。とりわけ農村は、主要農産物価格の下落で深刻な不況に見舞われた。資本の集 中が進み金融資本が現われた。軍国主義が台頭し、わが国は十五年戦争に突入していった。 わが国がまさにファシズムヘ突き進む転機となった大正十四年、本学の学生運動は大きな弾圧を被ること になる。 「京都学連事件」がそれであるが、この事件の前兆はすでにあった。京都府警は、七月本学内で開かれた 学連第二回全国大会に際し、本学学生監からの不当介入への抗議を無視して臨監した。本学内の集会は、 学生監が責任をもつという慣習を、公然と踏みにじった最初のできごとである。九月には、日本労働組合評 議会(旧日本労働総同盟の左派、昭和三年に解散)の招請で来日した全ロシア労働組合委員長レプセが京 都駅を通過した際、本学社研のメンバー十一人が秘密文書を手渡そうとしたとして特高に検挙された。(レプ セ事件)。このとき、騒ぎに乗じ社研メンバーの鈴木安蔵(経、憲法学)は京都駅から巧みに列車に乗り込み、 レプセと会見して、大阪駅で検挙された。 ことあるごとに弾圧の機会を伺っていた京都府特高課は、大正十四年十一月十五日同志社大学構内に 軍事教育反対のビラが貼付されているのを発見し、十二月一日朝、一斉検挙を行なった。不穏文書所蔵の かどで家宅捜索の上、逮捕されたのは、本学十五人の、計三十三人にのぼった。(第一次検束)。
本学において特に問題となったのは、家宅捜索の方法だった。川端署の私服刑事四名は、同日、寄宿舎 (吉田寮)に本学当局者に無断で、しかも守衛が制止したにもかかわらず、何人の立会いもなく、本人不在の 部屋に押し入り捜索し、書類を押収した。二日、学生監と書記官が荒木総長名代で府知事池田を訪ね、同 席の警察部長、特高課長に村し、大学の自治を侵すものとして、学生の検束に抗議した。 京大と同大の社研は 「家宅捜索・検束問題に就て全学生諸君に伝ふ‥」という声明を発表した。同日夜、 吉田寮では舎生大会が開かれ、「警察の不当行為を問責すべし」という決議が上がった。七日、全員が釈 放されたのを機会に本学では学生集会所に学生五百人、河上・末川教授、学生監、書記官が集まって真相 報告会が開かれた。この中で、当時医学部三回生岡本忠文が病臥中を検束され、留置所内で喀血卒倒し 再起不能になったこと、またもう一人の社研メンバーが拷問にあい、重傷を負った事実が判明し、学生たち を激昂させた。このうち岡本は、これが原因で不帰の人となった。十二月八日、三条基督教育年会館で真 相発表会を開き、事件を報告して世論に訴えた。 世論の多くは学生に同情的であった。十二月十四日には、沢柳事件以来十二年ぶりという学生大会が、 法経二番教室で開かれ、超満員の千人を集めた。学問研究の自由を擁護せんことを斯す、として、その具 体策を決議した。 十二月二十四日には、法学部・経済学部教授会が警察の不当な行為を非難する意見書を発表した。 世論の反発と、証拠能力の薄弱さは警察の面子を潰すことになった。しかし警察は、内務省・司法省との 密議のもと、第二次検束を計画し、大正十五年一月十五日、社研関係者の全国一斉検挙を開始した。これ により三十八人の学生が検挙され、このうち本学関係者は二十人を店めた。そして三十八人全員が治安 維持法の本格的な適用の第一号として起訴された。本学社研メンバーの中には仙石田義道(経、のち拷問 で死亡)、石田英一郎(経、文化人類学)らが含まれている。この事件は思想の自由にまでファシズムが踏 み込んできたという点で、もはやひとり京大の問題ではなく、全国的な思想統制の先駆的現象になっていた。 裁判は、学生側の全面的な敗北に終わった。
385 :
革命的名無しさん :2008/04/16(水) 12:24:33
暗い絵の時代はまだでつか?
◆「弾圧の息」の下、非合法運動へ(昭和七年) 昭和三年三月、第二次共産党事件が起きた。これは二月の第一回普通 選挙における共産h党の議席獲得にたいしての弾圧といわれている。三月 十五日、共産党に対する徹底的な検挙が行なわれた。うち七人を放学にし、 社研に村しては四月十九日解散が命ぜられた。これに関連して、総長は河 上肇に村して四月十六日、辞職を勧告した。河上は、沢柳事件以来の大学 自治の慣行に従うのが適当と考え、勧告には応じなかった。 しかし、経・法学部教授会が河上の辞職を認める決議を行なったことを 知り、大学の自治のため、四月十七日これに従った(河上事件)。ここに至 り、経済学部教授会の自治は形式化に陥り、教授の内部処分の道具と化 してしまった。 この時期の学生運動は、厳しい情勢下で混迷を深めていた。学連事件後 の大正十五年五月に文相岡田が学生左翼思想取締について内訓を発した あと、東大新人会を中心にして、六月「全日本学生自由擁護同盟」が結成 され、内訓反対に立ち上がった。「同盟」は、学問研究の自由・大学の生存 権を守れと主張して学生大衆の利害を代弁し、これと学連の無産階級運動 を結びつけていく役割を果たした。しかし、この頃共産党中央では、このよう な学生の大衆運動を「経済主義」「折衷主義」と斥ける「福本イズム」が全盛 であり、学生運動は低迷した。また一方、右翼的な学生運動が台頭してきた ことも重要である。本学においては、河上事件のとき、辞職に抗議するため の学生大会の期間中、右翼が騒動を起こしている。
第二次共産党事件で打撃を受けた本学社研は、「プロレタリアート指導下による学生運動」として非合 法化していたが、学連とともに再建に乗り出した。昭和三年には、宇都宮徳馬(経、政治家)、松田道雄(医、 医学評論家)、水田三喜夫 (法、政治家)、勝間田清一(農、政治家)ら数十名の新人を迎え入れている。 翌昭和四年三月、学連は自ら解体して、共産青年同盟(共青)の指導下に入ることを決定し、本学社研も 四月「戦闘的解体」を行なった。 一方、学内での公然活動としては昭和四年頃に学友会改革運動があった。当時学友会は運動部偏重、 自治機能の低迷を批判されていた。昭和四年九月、「学友会解散同盟」が組織され、左翼的な合法組織と しては学内唯一の講演部と協力して運動した。また、学友会共済部よりも安く商品を提供しようと「学生消 費者組合」(学消)を十一月に学外に結成、昭和五年五月三十日の第一回総会までに組合員数は千三百 八十一人にのぼった。しかし本学学生課は、役員学生の処分を重ねる一方、活 動に不穏なる点があるとして自発的解散勧告を行なって昭和六年十一月に解散させた。 非合法の学生運動は、「弾圧の嵐」の真只中であった。昭和四年の四・一六事件、昭和五年の再建共産党 事件、中京刑務所襲撃事件、昭和六年の八・二六事件、昭和七年の九・三事件等々の近畿三河の検挙に、 京大生多数が連座して逮捕された。学生大衆の自治的な運動も、非合法下での運動も、ともに冬の時代を 迎える。
◆滝川事件から大戦突入へ (昭和八年〜二十年) このような背景の中で、昭和八年、「滝川事件」が起きた。四月二十二日、文部当局は、総長小西に対し、 法学部教授滝川幸辰の著『刑法講議』と『刑法読本』が学生および社会に悪影響を及ぼすものと認めた ので、同教授に辞職を勧告するか、もし応じなければ休職を命ずると強要した。これについて各学部教授会 で協議が重ねられたが、五月二十四日、総長は文相鳩一郎と直接会見し、文部省の要求には絶対応じ られない旨の回答をした。しかし、文部省は五月二十五日、文官分限令によって休職を命ずることを決定 し、五月二十六日の閣議で発令した。法学部教授団は辞表を提出して抗議し、総長小西は事件収拾の責 任および健康上の都合を理由に辞職した。学生からは「反動」よばわりされた新総長松井元輿は、就任早 々、辞表の出されていた法学部教授のうち、滝川・佐々木・宮本・森口・末川の六教授の辞表のみを進達 し、七月その依願免官が発令された。松井はまた七月十八日に東下して文部省と折衝し、「今回滝川教授 二付文部当局ノ執リクル処分ハ非常特別ノ場合」とする解決案を得た。しかし、この「非常特別ノ場合」に おける教授の地位の取扱いについて不満とする教授田村・山藤の二人、助教授五人と講師・助手・副手 八名が本学を去った。 学生の動きは早く、五月二十二日には法学部学生大会が法経済一番教室で七百人から八百人を集め て開かれ、「教授会の方針絶対支持」を決議した。経済学部生は、河上事件以来「良心のない」経済学部 教授会を批判し、反省を促すため、五月二十六日、「謹んで」講義の辞退を軍言した。この受講辞退(学部 当局は休講とした)は暑中休暇まで続いた。五月三十一日、法経文連合学生大会が開かれ、決議に基づ き、「大学自由擁護連盟」を結成した。さらに、文、理、医、農、工の各学部で学生大会が開かれ、法学部 教授会を支持し文部当局を問責する決議が採択された。六月六日には大ホールにおいて本学最初の全 学学生大会が開催され、在籍者の約六割にあたる三千人が結集した。六月十七日、学生代表は総長小 西に留任を墾望した。また六月二十日には文学部も「教授団の抗争参加の日まで受講ボイコット」を決議 した。
このように運動が大衆化した背景には、各学部の高代会議と全学代表委員会での徹底した民主的な討 論、運営があった。この頃、高木養根(中退、元日航社長)、奈良本辰也(文、日本史家)、花田清輝(文、 作家)らが活躍している。学生の連動は、東北大、九大の学生の支持を受け、東大では「大学自由擁護連 盟」が結成された。 しかし、この高揚した学生連動を警察は執拗に弾圧した。当時、これら学生運動を指導していた活動家の 中に、共青メンバーが多数含まれていた。「京都共産党事件」では、京大生十五人が検挙され、このうち高 木養根が起訴された。この事件で京大の非合法的組織は壊滅した。法学部の残留教官たちは、学生運動 の弾圧へと一気に反動化した。七月二十八日、学生組織の法学部中央部は残留教授会から解散命令を 受け、特高課員包囲のもとで事務所の明け渡しを強要された。 七月三十一日、大学自由擁護連盟の学生十一人(うち京大生四人) が非合法活動をなしたとして検挙 された。滝川事件は、学生運動の弾圧によって、文部当局の意図通りに終結。 この事件は、既に社会主義思想からは奪われていた「研究教授の自由」と、形骸化しつつあった大学自 治=教授会自治を擁護するものでしかなく、学生運動も、その自治を下から支えるための運動にならぎる を得なかった。しかし、同時にこの事件は、ファシズムと対決し市民的自由を守ろうとする過程で、広範な 人々の結集を呼んだのであった。払われた犠牲は大きかったが、意義は大きい。
本学における学生連動は、その後、非合法化の中で地道に行なわれた。京都帝国大学新聞は、滝川事 件に際して抗議連動の先頭に立ってプレスキャンペーンを展開しようとしていたが、本学当局の報道規制 が行なわれた。これに抗議して脱退した元新聞部員らが中心になって、昭和十一年五月、『学生評論』が 創刊された。当時の閉領的な状況の中で海外の反ファシズム運動を紹介するなどして異彩を放った。滝川 事件以降の学生運動は、学友会改革運動と、合法的な反ファシズム文化運動に流れていたが、『学生評 論』はその一環と伺える。しかし、昭和十三年六月には主要メンバーが検挙され、廃刊となった。 昭和十五年俳句会すら弾圧されるという情況となり、学生の自主的創造的活動はもはや考えられなか った。大戦突入の昭和十六年四月、文部省の命令で学友会が改組され、同学会と改称し、国家的協同 精神涵養にあたるとされた。九月には大学報国隊が置かれ、学生は軍隊式に組織された。十月、勅令に より、大学学部の在学年限は六カ月以内短縮できるとされ昭和十八年の学徒出陣以降、その短縮幅は 広がっていった。 本学では法・文・経と農の一部の文科系学生は、在学わずか一年八ヶ月で学徒出陣することになる。
(戦前 吉田寮史) ◆京大創立と同時に寄宿舎誕生 最初は間借り 京都帝国大学寄宿舎、いまでいう吉田寮が誕生したのは1897年9月11日。 大学の創立は同年6月18日、授業の開講が9月11日だから、ほぼ同時と見て良い。 大学は、第三高等学校(現在の本部地区にあった)の建物の一部を間借りしてス タートした。同じ敷地内に三高の立派な寄宿舎があったが、大学の寄宿舎はそこを 使用せず、 大学事務室の平屋の一角を代用していた。つまりは「間借り」の「又貸 し」である。1代目の京都帝国大学寄宿舎は平屋の仮宿舎で、あまり格好良くない 始まり方であった。 当時の舎生数は24人。大学の総学生数が53人なので、その半数近くが舎生とい うことになり、大学の中での寄宿舎の存在感は大かったに違いない。 1898年(明治34年)8月、ようやく三高の新しい校舎と寄宿舎が、東一条通り南 側の二本松地区(現総合人間学部)に完成し、そこに三高が移転した(紅萌ゆるの 寮歌で有名な三高自由寮は、この新設されたほうである)。 それまで三高が使っていた本部構内の校舎や寄宿舎を京大が譲り受け、寄宿舎 は写真にある瀟洒な3階建ての建物に移った。 この2代目の寄宿舎は、現在の付属図書館の北東にあった。勾配の険しい瓦葺き 屋根の建物で、一見、2階建てに見えるが、実際はその上に広い屋根裏部屋を有し、 3階建てになっていた。1階が自習室、2階が寝室。4〜5人の相部屋生活で、90人 程度が生活できた。寄宿舎の北側には、外廊下で繋がった食堂と浴室があった。
◆一時閉鎖へ 1911年(明治44年)、三代目総長菊池大麗は、寄宿舎を一時閉鎖して、新寮を建 てることを決定。 新しい寄宿舎は定員が増えるものの、財政難から現在の寄宿舎を解体してその材 料を当てるため、閉舎してから1年間、寄宿舎が無い期間が生じることになった。 舎生たちは、この決定が自分らに何らの相談もなく評議会で決められたこと、学風 刷新の活動の担い手である寄宿舎が1年間なくなること、そして、新しい寄宿舎の運 営の考え方に猛反発した。 新しい寄宿舎は、従来の1室4人制を変更して、1室1人制にするとともに、舎生を排 除して大学当局じしんが入寮選考を行い、学業優秀な者を優先的に入舎させるという。 従来の寄宿舎では相部屋は自治の基礎集団として機能しており、個室化はその破 壊であった。また、学業優秀を選考の基準におくことは、自治活動を支える寄宿舎の否 定であった。 実は、菊池総長は、学生間の交友や切磋を認めながらも、現寄宿舎のもつ過剰な自 治を問題視していた。さらに、当時の京都帝大は高等文官試験の不振が影響して、法 科の志望者が減少していた。定員200名に対してその2割しか志望者がいない年もあ った。大学は風紀面の向上もさることながら、学力面の向上が緊急課題となっていた。 そこで、学業優秀な者を全室個室の寄宿舎に住まわせ、学習面の便宜を図ろうとした のである。 それに対して、舎生たちは新寄宿舎を「高等下宿屋価値」 だけで、なんら精神的価 値を見いだせないとして、舎生総会を開いた。そこでは大学当局からの解散を待つの でなく、自らで寄宿舎の解散を行うことを決定した。解散式の開催を抗議の意を込めて、 1912年(明治45年)2月10日の開舎記念日にした。解散式後、6月末までに舎生た ちは、それぞれに退舎。 こうして、1886年(明治19年)に三高の寄宿舎として建てられ、1897年(明治30年) に京都帝大に移管された寄宿舎は解体されることになった。 1913年(大正2年)9月、新しい寄宿舎が近衛に完成した。
◆近衛に新寮 東には三十六峰、北には比叡愛宕の両峰。東雲が薄らぐ朝と、夕陽に映える夕暮の 景色は、得も言われないほどの美しさだ」 一九一三年(大正二年)九月十一日、本部を離れて吉田近衛町に二階建の新寄宿舎 か復活した。一年三ケ月ぶりである。この建物が現在の吉田寮である。復活の感動を舎 生が冒頭のセリフに表した。 旧寄宿舎との大きな違いは、南向きの一人一室制を採用したことだ。旧寄宿舎も含め 旧制高校の寄宿舎が相部屋だったなかで、群を抜いてデラックスであった。その狙いは、 京大生の学力向上へむけた環境作りだった。 寄宿舎は、三棟を構え本館で連結。附属の建物として食堂、浴場、洗面所があった。 定員は百十七人。防火璧を数ケ所に設け、防火には注意が払われていた。後年、二回 の火事が発生したが、いづれともこの防火壁でくい止め、全焼を免れている。 ◆新たな寮運営 最初の入寮選考は、学生監(大学の職員)単独による面接によるもの。残念ながら、 旧寄宿舎で大学当局にクレームを付けられた「舎生による面接」は退けられた。それで も、旧寄宿舎の入寮経験者が入舎し、新しい寄宿舎の自治を作っていった。早速、舎生 規約と実行箇条を定めた。規約の冒頭には、一九〇六年(明治三十九年)の「総長の告 示」を掲げ、「舎生は総長の告示に基づき自治生活を営み学生の研学修養を全うせん」 と記した。初代木下総長に回帰することは復古主義でなく、むしろ自治意識の涵養につ ながっていた。 自治組織は南寮、中寮、北寮から一名ずつ、総務を選出。三人で構成する総務部が寄 宿舎を代表し、事務を執行した。決議機関として代議員による総代会と、全員出席による 総会があった。他に衛生部、遠足部などの専門郡が設けられた。
◆大学自治の拡大 一九一三年(大正二年)、大学で澤柳事件が起こった。これは、就任したばかりの澤柳 総長が七人の教授を、学問的そして人格的に不適当として辞職勧告をしたところ、教授会 が反発した事件である。結局、教授の任免は総長と教授会の合意が必要であると文部省 が公式に認め、澤柳は退任。教授会自治が確立した画期的な出来事だった。 一九一五年(大正四年)には、学内の教授から初めて荒木寅三郎が総長に登用された。 いわば「プロパー総長」の誕生である。 さらに、一九一八年(大正七年)、総長を学内選挙で選ぶことが実現。こういった大学自 治の確立と拡大は、寄宿舎の自治運営にも好影響をもたらした。同じ年、入寮選考につい て舎生総会で舎生の参加を決議したところ、これを荒木総長が認めたのである。その後、 学生監と舎生が協同で入寮選考の面接を行うことになった。 ◆舎生の生活 大正年間の舎生の生活はどうか。明治期と同様、遠足部主催で毎年、岩倉山に松草狩 りに出かけている。この行事は終戦直後まで続いた。庭球部は、テニス大会、卓球大会を 催し、三高生や京都一中の猛者をよんで対抗試合を行った。インフルエンザが流行すると、 衛生部が薬品を配布した。暖房器具は当初は火鉢で、舎生はチケットで木炭と火種を購 入した。一九二三年(大正十二年)からは、電気ヒーターに変わった。談話部主催で講演 会が催され、一九一五年〔大正四年〕十一月には河上挙が「修学の態度、その他生活の態 度」の趣旨で講演を行っている。 コンパの様子は、一九二〇年(大正九年)四月の予餞会を見てみると、月桂冠と折り詰め 弁当が出され、余興では小唄・端唄、義太夫、落語、化け猫踊り、琴尺八ビオロンが披露 された。この時だけは、寮内で飲酒が許された。
◆寄宿舎に人気 一九二一年〔大正十年〕は、第一次世界大戦後の不景気が席巻した。鈴木商店の倒産、 金融不安の頃である。京大生の就職率は前年の百パーセントに対して、この年は四十パ ーセントと激減。一方で、授業料は一九二二年に年五十円から七十円に、一九二五年に は百円に増額された。そのため、同年には学費の未納のため三百十人の除籍・中退者が発 生している。けっして、今で言う引きこもりや、ニートの発生によるものでなく、考えられない ほどの不況だったのである。「大学は出たけれど」という言葉が流行した・。そのころの京大 の在学数は三千人だから約一割に当たる。こうした中、寄宿舎は安く暮らせるという理由で 待望者が殺到した。現在とその様子は変わらない。 一九二六年(大正十五年)の四月選考は、欠員四十人に対し希望者が二百七十一人も あった。七倍である。これは、現在と大きく異なることだ。
◆京都学連事件 ファシズムの嚆矢 一九二五年(大正十四年)京都学連事件か起こり、それに寄宿舎が関わっている。学連事 件とは、学生の研究団体である社会科学研究会と、それが加入する京都学生連合の活動に 対する官憲の思想弾圧である。同年、十二月二日に同志社大学構内に貼られた軍事教練反 対のビラを理由に、京大と同大社研の中堅メンバー三十六人を逮捕、その中に舎生の熊谷孝 雄が含まれていた。このとき、川端署員は、大学当局に無断で本人不在中の寄宿舎の彼の 部屋に入り、しかも立会人無しで家宅捜索を行った。 このことが、大学の自治と学問の自由の蹂躙として大きな反発を呼んだ。とくに手続きを無 視して、大学当局の了解を得ないで寄宿舎を捜査したことが問題視された。 翌日の十二月二日には、大学当局は学生拘束および捜査の不当性を主張し、府知事、警察 部長、特高課長に抗議した。三日には、舎生大会で抗議を決議。十四日には、法経二番教室 に学生千人が集まり学生大会を開いて、学問の自治を守る宣言と決議を行い、内務大臣の弁 明を求めた。また、法学部の佐々木惣一教授らと経済学部の河上肇教授らの教授団は、それ ぞれ意見書を発表し、研究の自由と学生の正当性を訴え、世間の支持を得た。抗議文の冒頭 には、寄宿舎への不当捜査が述べられている。 しかし、翌一九二六年、内務省は前年の三月に成立したばかりの「治安維持法」の適用を決 め、全国の社研メンバーを逮捕し、追訴した。事件の新聞報道すら禁止され、反対の声は封じ られた。この学連事件は、柳澤事件から始まった大学自治の拡大に対する揺り戻しであり、な かんずくファシズムの始まりだったのである。
◆昭和へ 一九二六年(大正十五年)十二月、大正天皇が死去。時代は昭和に突入する。天皇の病状 悪化が伝えられると舎生一同と学生監は伏見桃山へ治癒を祈願した。容体の変化が毎日黒 板に書かれて、十二月二十六日に死亡が伝えられると一同で東京へ向かって深く礼をした。 翌年のコンパは大正天皇の喪中により、余興は中止、酒も控えた。 一九三〇年(昭和五年)、食堂の業者委託を廃止して、寄宿舎で炊事人を雇うことになった。 「自炊制度」が開始された。自炊制度の開始を記念して、この年から毎年十二月は「自炊制度 記念祭」を食堂で開催することになった。この頃は、総長、学生監、教授らも出席、挨拶を述べ て帰ると、舎生たちの余興が始まる手順になっていた。この年の演目で「北寮土民団」が初めて 登場して「土民踊り」を披露、大いに人気を博したと、ある。その後のコンパでは欠かせない名 物芸となった。その様子は、裸になって墨で体を真っ黒に塗り、腰に蓑を巻いて踊るというも の。三高自由寮で行われていた「ジンジロゲ踊り」の一種であった。この土民踊りをきっかけ に、帝国大学生である舎生の生活に旧制高校風の放縦さが見られるようになった。洒に酔っ て寄宿舎の窓を割ったり、ストームを起こす者、三条の「正宗ホール」を借りた寄宿舎のコン パで、徳利や脇息を持ち帰る者が現れ、そのたびに総務が謝りに行って、返した。
◆再び存続の危機 一九三五年(昭和十)、寄宿舎の敷地の管轄が三高に移ると寄宿舎の存続問題が再発した。 寄宿舎を移転するか、廃止するか、このまま三高の敷地のまま残すか。廃止論の根拠として は、一部の者のために、大学の経費をまかなうべきでない、昨今の寄宿舎の風紀の乱れが 問題であるとのこと。総務部は、寮歌を制定して、イメージアップをはかり、また舎生のOB会 「舎友会」を、一九四二年(昭和十七年)六月に発足させ、寮の支持基盤の形成に努力した。 そうこうしているうち、日中戦争が勃発し、時勢の急転で寄宿舎の存廃問題は棚上げになった。 一九四一年(昭和十六年)三月八日、中寮二十七弓で発生した火事は中寮をほぽ全焼して 鎮火した。原因は電気ヒーターによる。翌年六月、焼けた中寮は再建された。そのため、中寮 は、他の寮とは作りが異なる。よりプライバシーを重視した間取りになった。 戦争の影響がさらに進む。一九四一年から、大学生の在学期間が三年から二年半に短縮し、 この年は、三月と九月の二回、卒業生を送り出した。さらに、一九四三年(昭和十八年)秋から は学徒出陣によって、文科学生は定員の二十パーセントまで落ち込んだ。寄宿生らも、二十人、 三十人ごっそり抜けてゆく。残った理系学生は、勤労奉仕で学業に専念するどころでない。風 呂の回数が、週三回から二回へ、電気ヒーターの使用も禁止。冬は炊事や風呂に使用する燃 料を調達するため、総務は街中をあたった。こんな中でも、卓球大会やラグビー大会、レコード コンサートで、一時のやすらぎを得るのだった。 一九四五年(昭和二十年)にはいると、総務日誌には連日、空襲警報の有無が記されている。 そして敗戦。むしろ、舎生たちは、この日から生活に落ち着きを取り戻している。
明治期の吉田寮生の生活はどういう様子だったのか。当時の日記から拾い読んでみる。 ◆三高生を率いて、松茸狩り 戦前の大学は、九月に開講し、翌年の7月に終了となった。 まだ、京都の近郊の自然が豊かだった。毎年、十月になると松草狩りに出かけている。岩倉 山や山科へ歩いて行った。その際には、学生監はもちろんのこと三高生なども連れている。六 十名ほどの大人数で、松草を飯に炊いたり、汁に盛って食べていると言うから、相当量の松茸 がとれたのだろう。 十一月には園芸部が寄宿舎の庭に栽培した菊を、かがり火で照らして、観菊会。ある時期、 園芸部が試験的に鶏をかって庭で養鶏事業を試みたが、すぐに事業は挫折した。猫や寮生が、 鶏を捕ってたべてしまうのだった。 ◆総長にプレゼント 十二月は再び、岩倉山にウサギ狩り。三高生や府立一中生を率いて、朝の三時に出発。五、 六羽の収穫があった。時に、その一羽を退任した木下元総長にプレゼントしている。 一月一日は、寮食堂で新年会。お屠蘇を飲み、両陛下と寄宿舎の萬歳を三唱。 本部にあったころの寄宿舎食堂で百六十坪というから広い。食堂の北側に赤煉瓦作りの浴場 と賄いがあった。舎生が集まる場所は、食堂の他に「乾堂」という集会所があった。これは剣道柔 道の道場になるとともに、茶話会や懇親会などにたび たぴ用いられた。「乾」というから北西に位置していると思われる。
◆開舎記念日に芸を披露 二月十日は、寄宿舎の開舎記念日である。祝賀式を「尊攘堂(尊皇攘夷の意味で図書館の北 に現存する)」で行った後、乾堂で茶話会。まここでも萬歳三唱。茶話会では、剣舞、琵琶謡曲な ど、なかなか芸達者である。 一代日の寄宿舎は造りが中廊下式だったので、部屋が北向きと南向きりの二種類があった。 そこで公平を期すために、二月と九月に部屋替えを行っている。 入寮基準が厳しいため、舎生数が定員割れしているのを利用して、運動会を開催するときに訪 れた高校生の宿泊や、受験生の宿泊に提供した。 食堂は、おそらく舎生だけでなく、広く学生にも開放されていたと考えられる。なぜなら、通学生 に対して投書箱を設け、食堂の利用に関するアンケートを募集していたから。 ◆社会教育に注力 三高生や付近の中学生に対してイベントをよく開いている。いまでいう社会教育を意識してい たようだ。まあ、田舎の若衆宿の都市版だったかもしれない。 茶話会、講演会を寄宿舎でおこない、参加を呼びかけている。 「運動会」「以文会」の本部は、寄宿舎内にあった。写真は、高校生と一緒に園遊会や海水浴に いったときのもの。明治期である。
401 :
革命的名無しさん :2008/04/19(土) 18:51:21
早よ野間宏の時代に行っとくれ
402 :
革命的名無しさん :2008/04/19(土) 19:56:53
いや、戦前の京都の描写はこのスレタイにも相応しいと思います。 学都の歴史記憶の延長に運動があるわけですから。 これからも同様のカキコミをいただきたく。 〜[序章]赤軍派雑誌[査証]スレ立て人より〜
403 :
革命的名無しさん :2008/04/19(土) 22:16:34
>[序章]赤軍派雑誌[査証]スレ立て人さん お久しぶりです。
404 :
革命的名無しさん :2008/04/19(土) 23:48:23
こちらこそ。 「第1期」赤軍派雑誌スレは、マイナーなスレタイの割りに、一年足らずで満了となりました。出入りされた諸兄姉はこちらに拠点移動されたと思われ。 今後また、面白いネタでスレ立てしたいと考えています。今後とも宜しく。
>>356 :革命的名無しさん:2008/03/18(火) 13:21:42
未明から続く元祖趣味者の書き込みは間違いだらけだし、単なる荒らしと変わらんなw
もう、このボケ親父は出てこないようですね。
他方
>>401 :革命的名無しさん:2008/04/19(土) 18:51:21
早よ野間宏の時代に行っとくれ
いちおう、戦後編から始まって、戦前編をあとでUPしたから
表の通史としては完結しましたので、野間宏さん云々はご勘弁を。
裏は、仁義として、書けまへん。
あとは、樹々のみどりのバックナンバーや、京大附属図書館や吉田寮や熊野寮、
学部自治会BOXに保管されている膨大な生資料(ビラやパンフレット)
を眺めてくださいな。
406 :
革命的名無しさん :2008/04/20(日) 08:08:06
>>405 京大図書館の資料ってどうすれば閲覧できるんでっか?
京大卒業生でなくてもOKなんでっか?
>>京大図書館の資料ってどうすれば閲覧 普通に、大学図書館に資料閲覧を申請するデュープロセスに則れば いいだろう。それが、個別大学でどうだかは知らんが、まあ、あるで しょうから、ご自身で。 ただしキーワードや手がかりは、記す。 もう解散した「京都大学百年史編集委員会」関連の元資料群をあたることだるね。 なぜなら、上記の編集作業に助手として、在寮期限粉砕闘争を担った吉田寮 自治会元委員長(1984年)が在籍していたんだから、京大の公的な歴史と して、赤ヘルや吉田寮闘争について、学生寄りに徴が刻まれたわけ。 決して「暗黒の歴史」ではない。それが阪大の宮山寮や、東大駒場寮につい て、大学の公的記述(悪罵と、寮自治の否定)とは、きわだった対比を残して いる。
408 :
革命的名無しさん :2008/04/25(金) 19:22:43
進出してきた当初、レーニン研は東京では毛派ではなく(もろ毛みたいな奴もいたが) ボサツ圭ノンセクトというイメージだったのだが、 そのへんの成り立ちの過程とか、 元祖趣味者さん、 わかること公表できることあったら教えてくれませんか。
ttp://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/motoyama.html 。。。著者は2006年まで京大経済学部の教授だった。
この経歴をみれば、経済学業界の人々ならすぐわかるように、彼は日本共産党の御用学者である。なぜなら、彼の世代はそれが京大経済学部の教官になる条件だったからだ。
かつては、学術論文を1本も書いたことのない民青の元全国委員長が助教授に採用され、同学会(なぜかブント系の学生自治会)に糾弾されたこともある。
なぜ京大が共産党(講座派)なのかといえば、東大が労農派(かつての社会主義協会)だったからだ。
それ以外の理由はない。東大が「マルクス経済学」なら京大は「マルクス主義経済学」と称し、マルクスを批判する宇野弘蔵を攻撃していた。なぜなら、マルクスが間違ったことをいうはずがないからだ。
さすがに最近は京大も、マル経の供給が絶えたので、普通の経済学者を採用するようになったが、著者の世代はほとんど共産党員(あるいはそのシンパ)である。。。
411 :
革命的名無しさん :2008/05/09(金) 19:33:23
>彼の世代はそれが京大経済学部の教官になる条件だったからだ。 いくらなんでもそれはウソやね。彼が採用されたころにはたしか25名の教官中9人が明確に 代々木系だった。彼は採用された当初から自分は御用学者でないというそぶりを盛ん に見せたがったが、その「9名枠」で採用されたものだから、教授会内の投票行動では 代々木の一員として振舞っていた。 >学術論文を1本も書いたことのない民青の元全国委員長が助教授に採用され、 同学会(なぜかブント系の学生自治会)に糾弾されたこともある。 これもいくつかの話が混同されとるな。O崎はY島に殴られたが、それはO崎が教授 昇進にあたり、条件であるはずの刊行著書をもってなかったからにすぎん。 ま、いやがらせで難癖つけたわけよ。「詐取」とか言われたうえ殴られて、O崎には その後トラウマになったみたいだが。
412 :
革命的名無しさん :2008/05/10(土) 16:00:33
元京大経済学部長の蜷川虎三は自ら「戦前戦中、私は進歩的な教官を追放しましたが、その責任を取り 学部長を辞め京大を去った訳です。」こんな人間を京都府知事に永年推していた 共産党は戦犯と同類か?
「決戦の春」?
414 :
革命的名無しさん :2008/05/19(月) 21:07:19
元民青の人、たまには覗いている? 『未来派左翼』(ネグリ)にこんなのがありました。 暴力の行使が合法的だと認められるのはあくまでも受け身の立場にある 場合に限ると言う人がいるわけです。逆説的なことですが、これはまさに、 非暴力だけが合法的な暴力の行使だと言っているのと等しい。(中略) こうした考え方は、理論的にも歴史的にも、道徳的にも政治的にも誤り だと私は思います。(中略)人間どうしの関係が暴力的になりうるのは、 人々がそれを望むからではありません。そうではなく、暴力というもの が、生まれること、成長すること、死ぬことなどとまったく同様に、 ひとつの出来事だからなのです。(中略)私が言いたいのは、ただ単純に、 政治的議論から暴力を排除するのはばかげたことであり、食べることも 飲むこともできない世界を考えるようなものだということだけです。 暴力は、あくまでも人間の現実の一部なのです。
415 :
革命的名無しさん :2008/05/22(木) 21:58:02
>>414 おめーは何を言いたいんだよ。昔のことは分からんけど、権力でも左翼でも「ボウリョク」を正当化できんだろう。ニッキョーに対してはボウリョクをふるうことが正当化されんのけ?
小難しいことはいいんだよ。俺はわからんよ。
416 :
414 :2008/05/25(日) 21:50:53
>>415 あなたみたいな人が、現前する暴力の前に穴に首を突っ込むだけ、
というのは経験上断言できますね。
417 :
革命的名無しさん :2008/05/25(日) 23:48:50
日本語でおk
418 :
革命的名無しさん :2008/05/28(水) 18:28:02
やっと「実録・連合〜」見たけど 京大闘争の頃、山田さんとか板東さんとか何してたの?
419 :
革命的名無しさん :2008/06/10(火) 17:15:44
ageとこ 来たれ赤P
420 :
革命的名無しさん :2008/06/10(火) 21:44:44
>>416 何を言いたいのか分からないね。こないだのアキハバラみたいな事も相手がキドーターイとか
ニッキョーだったら許されるのかい?
なんかブッシュとかわらないじゃん。
422 :
革命的名無しさん :2008/06/11(水) 02:21:25
423 :
革命的名無しさん :2008/06/16(月) 17:51:03
盛り上がらんな。 元祖趣味者さんがいなくなっちまったからかな。
424 :
革命的名無しさん :2008/06/22(日) 18:26:49
>>418 塩見の回想録によると坂東さんは京大パルチだったんじゃないかと。
まあ塩見の回想だからアテにはならんけど、
なんせ、京大全共闘議長が赤軍派だったくらいの大学だからねえ。
>京大全共闘議長が赤軍派 え、いつ頃の誰の事?
426 :
革命的名無しさん :2008/06/23(月) 14:36:28
小俣プ 自称じゃないの。
428 :
革命的名無しさん :2008/06/23(月) 20:08:55
429 :
革命的名無しさん :2008/06/23(月) 20:15:48
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/studentpower.htm 日本評論社編集部編 19690920 『全共闘運動』(日本の大学革命5) 日本評論社
京大闘争と全共闘運動の理論 小俣昌道
第一部 京大闘争の中間総括
一 入試粉砕闘争とは何であったか
1 京大入試粉砕闘争は全国ではじめての目的意識的闘いとして組織された
2 京大入試粉砕闘争は京大闘争を反民青の質から、反権力の闘いへと発展させた
3 入試粉砕闘争は全人民闘争であり、全国全共闘の結合をもたらした
4 入試闘争は京大全共闘内部の諸傾向を明白にした
二 京大全共闘内部の三つの傾向
1 帝大解体=コンミューン派
2 反戦連合
3 戦闘的組合主義
4 内ゲバ―権力闘争主体の形成
三 学生部封鎖から入試粉砕まで
1 寮団交→学生部封鎖へ!
2 総長団交よりC無期限バリケード・ストへ!
3 二・一三、一四の反革命粉砕
4 時計台占拠と入試粉砕
5 京大闘争の<静かなる一ヶ月>
430 :
革命的名無しさん :2008/06/23(月) 20:16:13
第二部 全共闘運動の理論 はじめに 一 学園闘争の戦略的位置 1 個別学園闘争の全学化 2 政治的経済闘争への転化 3 権力闘争の根拠地 二 占拠と大衆の武装 1 バリケード占拠 2 大衆の武装 3 計画された戦術 三 全共闘とコンミューン的団結 1 実験としての全共闘 2 コンミューン的団結 3 全共闘の革命的再編
431 :
革命的名無しさん :2008/07/05(土) 13:28:09
やれやれ、小俣か。あいつ実力闘争戦った事あるのか。確かLのブンドシンパの崩れ左 翼だったと思うが。こういう売文で小遣い銭稼ぐのを何とも思わないんだろうな。 突っ込みどころ満載だが、 2 京大入試粉砕闘争は京大闘争を反民青の質から、反権力の闘いへと発展させた って京大闘争の発端に対する矮小化だし 3 入試粉砕闘争は全人民闘争であり、全国全共闘の結合をもたらした なんていう事実はないし。(強いて言えば東大安田攻防戦だろ、その役割を担ったのは) 入試粉砕闘争なんていう、はなから敗北(粉砕をしないことを予定したカンパニア闘争) を総括の中心においているところで、もう論外。 京大闘争の場合、はじめから、東大闘争に続けと、あえていえば負けてなるものかと 目的意識的に戦われた闘争だったし、寮闘争を契機として一挙に学生部封鎖に到る 戦術のエスカレートもその証。はじめから何が何でも学生部封鎖をし、それをもって 東大闘争へのエールとする闘争だった。 中心は学部でなくあくまでC闘委だったわけで(その議長が知る人ぞ知る松尾君)、全 共闘なんて組織、大衆的には存在しておなかったぞ。他大学に合わせて、名乗っては いただろうが。 そもそも全学共闘会議なる名称はブンドの大衆組織名に使われていたという特殊事情 があったので、京大ではその名を名乗る事はセクト色丸出しになりかねないので、ノン セクトの学生に好まれなかったという特殊事情もあったし。
433 :
革命的名無しさん :2008/07/05(土) 23:43:50
なるほど。 確かに京大全共闘、同大全学闘ともにブンド系大衆組織。 京大同学会、同大学友会も共に肝心要のブンドが散開して しまったが故の諸々含む比較的緩やかな党派性を継続して いたからこそ長持ちしたのかもしれませんね。
歴史はこういう風に偽造されていく。
435 :
革命的名無しさん :2008/07/06(日) 01:42:11
俗称「京大全共闘」は京大全共闘(準)のまま、 つまり正式に発足することなく終わったと聞いたぞ。 立命館全共闘の場合は準備会から結成大会を経て、 正式に全学共闘会議となったらしいが。
>「京大全共闘」は京大全共闘(準)のまま、
というのは、多分事実だろうと俺も思う。
とすると、ありもしない京大全共闘議長小俣某ってw
>>426 > 69年11月12日、塩見は部下の1人をアメリカ、キューバに旅立たせた(この海外派遣が公表されたのは翌70年1月)。
> この男は赤軍国際部長で、京大全共闘議長であった小俣昌道である。
当時の京大の党派間の力関係を考えても、ブンド寄りの小俣を
中核が全共闘議長として認めるなんていうことはありえなかった。
ま、今話題の塩川に聞けばわかることだがw
437 :
革命的名無しさん :2008/07/06(日) 10:35:19
バレンタイン闘争のときの新聞だろ(笑)。 闘い終わって、見てあきれた記憶がある。 ブンド崩れが半分おふざけで作った「チラシ」だよ。もしかしたら京大新聞 に巣食っていた連中かな。そのタイトル見てもわかるように本人たちもおふ ざけだったはずだが、おかげでバレンタイン闘争という名が有名になってし まった。 それ作ってた連中は確か一部がその後「パルチザン軍団」とか作ったり、 していたはずだ。 まあ今から思うと楽しくていい時代だった。 全共闘運動って言うのは、闘うものが勝手に戦い、好きな名を名乗っていい アナーキーな運動だから勝手に全学共闘会議名乗ったって、とがめだてされ るわけじゃないから。 東大全共闘とか日大全共闘のようにオーソライズされた全共闘は当時の京 大には無かったよ。
439 :
革命的名無しさん :2008/07/17(木) 02:04:50
>>410 この池田信夫なる人物
今日はじめて知ったのだが
ネット依存者特有の煽りと罵倒を文章に散りばめることで
切れるナイフのごとく装ってるのだろうか
マルクス主義の基本タームは理解しているようだが
用法が己に引き付けすぎるがあまりに
辻褄合わない嘘の上塗りになってる
東大が労農派、これ間違い
労農派=社会主義協会、これも間違い
マルクスを批判する宇野弘蔵、これも間違い
まるで宇野経済学を批判した自称正統派の論客のそれと
何らかわらない珍奇な論理構成だ
木乃伊取りが木乃伊になってるようだ
学業の系譜を語るなら京大の河上肇と講座派
彼が院を過ごした慶大の先達遊部久蔵と己のマルクス主義理解など
ぜひ高説拝見したいものだ
おっとこれ以上はスレ違いだな
441 :
革命的名無しさん :2008/07/17(木) 05:34:46
>>440 しかしまあ
この人のどこが「京都の神童」なのかw
史的時系列はむちゃくちゃ
荒の書評を語る上で
荒派は当時から広松どっぷりなんて平気で書いちゃって
本当に広松のゼミにいて、友人が荒派なのか甚だ怪しい
荒の広松への接近は90年代に入ってからで
荒本人も「広松思想の摂取の立ち遅れは根本問題(西田派に比べ)」とまで言ってるし
70年代初期は猛省期と重なりむしろ反広松だったのに
笑いが止まらない
中江兆民の持ち出しもずれてる感覚がするね
荻生徂徠出してたら「センスいいねえ」なんて感じるけど
また訳知り顔で池田某の尻馬に乗った取り巻きの書き込みも
気持ちが悪いや
御説開帳するならきちっとした用語使えばいいのに
「運動家」だとか半可知識で通ぶって語ろうとするから
へんちくりんな文章になってる
これを指摘できない池田某もやっぱり怪しいや
勝谷だとかやたら威勢のいい罵倒系の書き手は
底が浅いのが丸見えだし
フォロワーや取り巻きも質の悪いのしか集まらんのだな
ハイエクなんかからの接近してる取り巻きはそりゃ仕方ない気もするが
池田某がそんな環境に身を置いていた文章とは思えないね
「学生運動に詳しい池田御大」などと持ち上げられて
その実まったく詳しくなく、書き込みの間違いも指摘できない
どこをどう好意的にとれば
>>440 さんが書いてるような
受け取り方が出来るか
まったく理解できません
この人のどこが相当な経歴なのか
聞きかじりの生半可知識をさも自分が渦中で経験したように
左翼批判の気分に浸ってるゴロツキにしか見えん
442 :
革命的名無しさん :2008/07/17(木) 05:54:52
朝っぱらから元気ですね 興味持ったので覗いてきたら いやはやあれはひどい 門外漢ならやめときゃいいのに おだてられて珍説ご開陳って感じだね で、この人同学会なの?
443 :
革命的名無しさん :2008/07/17(木) 10:48:25
>>440 >ブクロ走狗の謀略で友人4人虐殺された
>ポンタがいたころの、例の誤爆殺人ね。
↑
お前は、マル&チュンスレだけでシコシコやってろよw
445 :
革命的名無しさん :2008/08/03(日) 17:23:21
つーかただの革マル崩れの右翼じゃん>>池田信夫
446 :
革命的名無しさん :2008/08/06(水) 18:28:34
>>445 革マルは崩れる前から右翼ちゅーことになってたと思うが・・・
447 :
革命的名無しさん :2008/08/06(水) 18:51:19
しかしこのおっさんはどこからどうみても現時点では革マルにはみえねえから、革マルから他のなにかに崩れてなったんじゃないの?
448 :
革命的名無しさん :2008/08/19(火) 17:51:35
革マルのおかげでスレ全体がしぼんじまったな age
449 :
革命的名無しさん :2008/08/28(木) 21:06:26
京大なんて東大に比べれば カスですから・・・ こんなとこしぼんでも結構だす。藁藁藁
>1 :革命的名無しさん:2007/11/18(日) 04:50:28 >世界に冠たる2大ノンセクト学生自治会。 >特に70年代の話で盛り上がれたらいいなあと。 >80年代の吉田寮闘争、田辺移転阻止バリストも可。 21世紀に、学生自治が維持できているのは、寮や西部などの 場の存在が大きかったなんだろうなあ。もちろん、その「場」をうま く使おうという学生の努力があってこそ維持できるのであって、 「場」があるからだけで、学生自治が成り立つわけでない。 吉田寮の在寮期限粉砕から20年が経過した。いまも、当時の雰囲気 を寮は残しているという。 在寮期限当時のパンフレットと、整理しかけて、結局、10年以上放置 したままの年表を残しておこうと思う。 いつ死ぬか、わからないから私蔵していてもしかたないから。 吉田寮史1 1897(明治37)9.11 京都大学寄宿舎、大学本部事務室の一角を借りて開設。大学の総学生数53人、舎生24人。 1898(明治31)8 三高の寄宿舎を譲り受け京都帝国大学寄宿舎とする。現附属図書館の北東に位置する。 1901(明治34) ◇当時の学生の生活費は月額17円程度(授業料2円50銭、舎費75銭、食費5円10銭、雑費8円50銭) 1903(明治36)舎監を学生監と改称。(1928に学生主事に) 1905(明治38)舎生有志5・6名が規則と自治組織を作ろうと提起するが、舎生大会で否決される。 12 木下広次総長は寄宿舎閉鎖を発令。舎生は反対したが敗れて退散。当時舎生82人。 1906(明治39)1 木下総長が寄宿舎再開を告示。 2.10 学生監が選抜した57人の新舎生の入舎式。前年の改革有志の発案に沿った自治組織が成立。 1911(明治44)7 山本学生監が舎生に、来年7月寄宿舎を閉舎し、翌翌年9月に新寄宿舎を建設すると通告。 9 休暇明けに新寄宿舎案を知った舎生は学生監に1年間の空白への対策を交渉。舎生の「仮寄宿舎 設置」等の要求を大学側が拒否。 12.15 舎生らは舎生総会で自ら寄宿舎解散を決議。
吉田寮史2 1912(明治45)2.10 解散式 7.15 大学が正式に寄宿舎を閉舎する。 1913(大正2)9.11 近衛町に2階建ての新寄宿舎開舎。舎生117人。 1914(大正3)3 舎生規約と実行箇条を制定。冒頭に1906年の「総長の告示」を掲げ「自治生活を営む」と宣言。 1915(大正4)11 舎内の談話部主催の講演会に河上肇が来舎。 1918(大正7) 入舎の面接選考に総務3名が参加することになる。学生監2票。総務各1票。 1925(大正14)12 京都学連事件。京大社会科学研究会の逮捕者18人中に舎生1人が含まれ、川端署の刑事が大 学に無断で家宅捜査。舎生大会が問題提起。 1926(大正15)4 この年の入舎選考は欠員40に対し希望者271。 1930(昭和5)食堂の業者請負をやめ、自炊制度開始。 11 自炊制度を記念し記念祭(コンパ)を開き、この年以後定例に。 1935(昭和10) ◇寄宿舎敷地が三高の管轄に。存廃問題おこる。 1941(昭和16)3.8 中寮27号室で火事発生、中寮ほぼ全焼。 1942(昭和17)6 中寮が再建される。 10 京都帝国大学報国隊の下部組織として寄宿舎報国隊結成。南・中・北の各寮小隊に分かれる。 1943(昭和18)11.21 食堂で学徒出陣壮行会。舎生多数が退舎。 1945(昭和20)9月 食糧難で寮の庭の畑の薯の葉や蔓を食べる。 1945(昭和20)10月 寺尾宏二氏初代厚生課長に就任。 1946(昭和21)2月 酒一升配給、後半期煙草を配給。 1946(昭和21)4月 学生主事廃止せられる(学生部に改組?)要調査。 1946(昭和21)6月 食糧難続き、朝食はパンまたは粥、昼食は粥となる。 1946(昭和21)8月 清酒、シャツ、パンツの配給 1946(昭和21)9月 この頃より、水漏れ、燃料不足等のため、風呂の使用不能。 1947(昭和22)2月 電気ごたつが全寮生に1個づつあたるようになる。理髪店開業を許可。 1947(昭和22)4月 実行箇条ならびに舎生規約改正の会議(評議会)頻繁に。 1948(昭和23)1月26日 三高自由寮全焼する。
吉田寮史3 1948(昭和23)12月 舎生規約改正、冒頭の木下総長告示を削る。 1949(昭和24)2月 食費滞納者98人に。 1949(昭和24)4月 ◆新制大学生の入学始まる 1949(昭和24)10月 就職の件で寮内の思想調査、厚生補導課の不当な干渉を受ける。 1950(昭和25)5月 舎生大会で2人1室制を却下。京都学生会館、同学会代表とともに、学生部に増量要求。 1950(昭和25) ◆新制大学実施で、下宿不足がより深刻に。 1950(昭和25)8月 舎友会東京支部結成される。 1950(昭和25)9月16日 6日前に採用した炊事夫が実は窃盗容疑者。川端署刑事に連行される。 1950(昭和25) 前年・当年とも武装共産党の細胞所属の舎生の捜索で、警官の立入相次ぐ。 1950(昭和25)9月3日 食堂の食件制度始まる。 1951(昭和26)3月 入社銓衡で、総務12点、学生課12点で面接。 1951(昭和26)6月 学内集会規定施行にともない、舎内での集会にも学生課の許可が必要となる。 1951(昭和26)10月 舎誌「去来1号」発刊。15号(1968年)まで続く。 1951(昭和26)11月 ◆京大天皇事件起きる。同学会解散。 1951(昭和26)9月21日 舎生大会で進駐軍に接収されていた楽友会館の即時返還要求を決議し運動開始。署名1000人を越える。 1952(昭和27)1月 南中寮階下、中央に洗面所新設。 1952(昭和27)5月 厚生部発足 1952(昭和27)6月2日 舎生小室直樹さんの軍事問題研究会を学生部が公認し、全学学生大会で解散決議 1952(昭和27)6月 楽友会館返還され、寮が一部を運営する。 1952(昭和27)7月1日 ◆宇治寮が部分完成。38名が入寮。翌年5月には、定員78名に。 1952(昭和27)8月15日 共産党の山村工作隊をしていた元舎生の部屋を警官が捜索。後日、隣接の教養部から火炎瓶31本を押収。
吉田寮史4 1952(昭和27)10月 学園祭の準備会は、軍研の「再軍備と第三次世界大戦」(元陸軍中将講演)の企画の拒否を確認。 1953(昭和28)4月 京都学生会館や学生部の要望に従い、十畳八畳部屋26室を二人部屋とすることを決定。 1953(昭和28)4月 入寮銓衡、募集78名に対して、応募304名。 1953(昭和28)5月20日 寮評議会で新寮建設運動の推進と、実行委員会の結成が決まる。 1953(昭和28)7月 舎生増員に伴う電力消費量増大による危険に鑑み、事務室北側に30Kのトランス設置、 伝統の電圧220ボルトを110ボルトに切り換う。 1953(昭和28)9月27日 府寮連結成。府下27寮の代表70名が出席。 1953(昭和28)11月8日 ◆京大で全国学園復興会議 寮分科会では全国寮連合結成準備会が発足。 1953(昭和28)11月11日 ◆荒神橋事件 1953(昭和28)12月1日 学園復興会議の開催で暴行があったとして、舎生松浦玲さんが放校処分。 1953(昭和28)12月6日 舎生大会で、処分撤回の運動と、松浦さんの生活防衛を決議。 1953(昭和28)12月12日 全学学生大会成立。スト体制確立。 1954(昭和29)1月21日 厚生課長、西園寺公一さんの講演を茶室で開催しないこと。松浦さんの退舎を要求。 1954(昭和29)3月1日 予餞会で松浦さんが出席し、滝川総長退席。 1954(昭和29)3月27日 大学当局は「松浦君が退舎するまで新入舎生募集をさせない」と通告。 1954(昭和29)4月11日 舎生大会で松浦さんの退舎を決定。長期宿泊とする。処分撤回の全学闘争委員会の設置、 処分撤回の行政訴訟を決定。 1954(昭和29)5月 旭丘中学問題・公職選挙法改正で、舎生らが活発に運動。 1954(昭和29)5月16日 第1回府寮連合祭を立命館で開催。これを機にコーラス部「コール・ポコチ」が誕生。 1954(昭和29)5月1日 京大女子寮開設。学生による選考にて。 1954(昭和29)6月 松浦さんが京都地裁に行政処分執行停止命令申請書を提出。
吉田寮史51954(昭和29)6月 吉田首相が同申請書に意義。「松浦は共産党員であり、処分停止が全国の学生運動に与える影響が大きい」としえ。 1954(昭和29)8月 広島での平和集会に寮代表を送る。 1954(昭和29)9月9日 松浦さん処分取消行政訴訟第1回公判 1954(昭和29)11月 奈良女子大寮と合同ハイキング。 1955(昭和30)2月 卒業記念所植樹の銀杏の歯抜け4本をを補植。酔った舎生がまた抜いたため歯抜けとなる。 1955(昭和30)6月3日 記念祭の開催で滝川総長に同学会幹部が暴行したとして、8名処分(舎生1名含む)。同学会解散。 1955(昭和30)11月 松浦さんの裁判で、住所を「京大寄宿舎」としたため、松浦さんを長期宿泊させていた舎生松尾さんの退舎を厚生課長が要求。松尾さん自主退舎。 1955(昭和30)12月 松浦宿泊問題を受け、1ヶ月以上の宿泊は厚生課長の許可制とした。 1955(昭和30)12月24日 自治憲章を施行。寮内の内規として扱われ、公示されなかった。 1955(昭和30)12月28日 元舎生松浦れいの放学処分取り消し請求訴訟の最終公判で京都地裁は原告の請求を棄却。 1956(昭和31)10月 特別会計でマイク購入、設置す。 1957(昭和32)5月 職員宇野氏辞職。 1957(昭和32)6月 大学当局が、マイク設置。 1957(昭和32)9月 寮務主任北島竜輔氏病死せらる。 1957(昭和32)10月 特別会計で電気洗濯機購入設置す。 1958(昭和33)5月 厚生課内に寮務係設置、児玉広海氏就任す。 1958(昭和33)7月7日 北寮2号で蚊取り線香の不始末でぼや。 1958(昭和33)8月25日 松竹「女侠1代」のロケを玄関で行う。 1958(昭和33)8月 炊事調理場の応急修理。 1959(昭和34)4月 売店を閲覧室内に移転。 1959(昭和34)5月7日 京都織物女工寄宿舎を買収、京大寄宿舎吉田西寮として発足。当面二回生のみ収容。64名。 1959(昭和34)6月 特別会計にて、テレビを購入(4万7千円)、閲覧室に設置。 1959(昭和34)6月 電灯代、水道代、ガス代徴収を大学当局が申し入れたが、寮生の反対により一時延期さる。
吉田寮史6 1959(昭和34)7月1日 女子寮開設。定員35名。 1959(昭和34)8月 西寮発足に伴い食堂を大改造す。 1960(昭和35年)7月3日 南寮庭にて舎友会総会、平沢総長など150人が出席。 1960(昭和35)11月23日 京大寄宿舎吉田寮創立62周年記念祭が行われる。 1961(昭和36年)3月 寮母の野田もとさん退職。昭和15年以来の勤務で多くの舎生に慕われていた。 1961(昭和36年)4月 ◆学生部次長設置される。学生運動弾圧を狙ったものとして同学会が反対していた。 1961(昭和36年)4月 宇治分校が廃止。京都市内の下宿難さらに深刻になる。宇治寮は継続し、吉田へ通った。 1961(昭和36年)5月3日 NHKの「日本の素顔」に登場。10分間。他にボート部、地塩寮なども。 1962(昭和37年)2月5日 R.ケネディが楽友会館で学生と懇談するという話があったが、学生部に断る旨連絡。 1962(昭和37年)5月 吉田、宇治寮の建替寮の名目で厚生課と新寮建設の交渉進む。 1962(昭和37年)5月 ◆この頃、京大の寮収容数全学で350人で全学生の3.9%。全国平均16%。東大は教養学部だけで収容数1100人。 1962(昭和37年)7月25日 ◆学徒厚生審議会答申「大学における学寮の管理運営の改善とその整備目標について」 1962(昭和37年)5月25日 寮生大会で大学の寄宿舎管理規程改正運動を決議。 1962(昭和37年)11月 芦田学生部長と4回に渡り団交。規程改正を巡って。 1963(昭和38年)2月 寮規定改正。「入舎選考は、舎生の意見を聞いて学生部長が行う。自治憲章の承認は学生部長の承認を要す。」 光熱水料は、学生部長の裁量にて請求を決めるとし、規程そのものは請求権を明示した。 1963(昭和38年)11月11日 寮生大会で、新寮を建設しても現寮の撤去に反対すること決議。 1963(昭和38年)11月20日 平澤総長と会見。 1964(昭和39年)2月1日 新寮問題で寮生150名、総長宅に押し寄せて団交。 1964(昭和39年)2月18日 ◆文部省通達「学寮における経費の負担区分について」(2・18通達)。 ←寮生の私生活のための光熱水費は寮生自身が負担すべきもの。
吉田寮史7 1964(昭和39年)3月 熊野寮第1期200人分の設計図明らかになる。 1964(昭和39年)4月 新入寮63名。入寮希望者は318名。 1964(昭和39年)5月31日 学生部長室で総長団交。(50人)。寮生作成の新寮設計図を承認する。 1964(昭和39年)6月1日 ◆民青が前執行部(反民青)を無視して、全寮連第6回臨時大会を開き、全寮連が分裂。 1964(昭和39年)8月 ◆ 「○○大学学寮管理運営規則(参考案)」(○管規)、文部省により作成。 1964(昭和39年)11月17日 新寮闘争委員会、受益者負担、修学院寮について学生部長と団交。 1965(昭和40年)1月 自治機構調査委員会を設置し、自治憲章や自治機構の改訂を検討。 1965(昭和40年)1月22日 新寮闘争委員会、新寮のC棟と、西寮撤去について学生部長団交。 1965(昭和40年)2月15日 学生部長団交で炊夫の増員と、公務員化を要求。 1965(昭和40年)3月 宇治寮廃止。 1965(昭和40年)3月 ◆全国の学寮で「負担区分、○管規、寮費値上げ(100円→400円)で反対運動広がる。 1965(昭和40年)4月 食堂の改修行われる。 1965(昭和40年)4月13日 熊野寮第1期開設。 1965(昭和40年)4月13日 室町寮開設(定員18名)。 1965(昭和40年)4月22日 寮生大会。自治憲章を大改正。総務制から、執行委員会制へ。監察委員会、評議会という3件分立を構築。 1965(昭和40年)6月9日 京大寮連合(吉田、熊野、女子)と奥田総長団交。炊夫は3人については公務員化。 受益者負担を撤回要求するが平行線。 1965(昭和40年)6月10日 熊野寮寮費値上げ反対で、寮費不払い闘争開始。 1965(昭和40年)6月29日 公務員化と熊野寮C棟問題で学生部長団交。 1966(昭和41年)1月 三寮合同で寮祭を開催。 1966(昭和41年)1月 吉田寮(齋藤委員長)、熊野寮(柴田委員長)ら、学生部長、総長、厚生課長と話し合い 続く。熊野寮の石油、修学院寮、外人宿舎問題で。
吉田寮史8 1966(昭和41年)4月7日 吉田寮、熊野寮、負担区分で学生部長団交。平行線。 1966(昭和41年)1月18日 学生部長団交、入寮選考で厚生課長の立会の排除を要求するが、かなわず。 1966(昭和41年)4月 熊野寮2期工事完成。 1966(昭和41年)4月 4月29日実施の熊野寮の入寮選考で不正疑惑。執行部は反民青系だが、民青の締め出しを狙ったという指摘。 1966(昭和41年)5月31日 同学会、京大三寮、京都学生会館共催で、決起集会開かれる。負担区分粉砕、修学院寮建設。 1966(昭和41年)7月18日〜26日第2回熊野寮祭 1966(昭和41年)7月 熊野寮委員長に民青系が当選。 1966(昭和41年)7月3日 ◆全寮連第8回大会、民青と反民青で暴力事件。 1966(昭和41年)10月10日 ◆反民青の学寮で新寮運動運動協議会に吉田寮が参加。 1966(昭和41年)11月10日 庄司学生部長と団交。負担区分と寮費不払いについて、決裂。 1966(昭和41年)11月20日 寮祭。お祭り要素から、個人の認識を深める内容に。 1966(昭和41年)11月15日 寮生大会。西寮の暖房を要求して、寮費支払い保留を決議。 1966(昭和41年)12月14日 総長団交。三寮の暖房を保証する。公務員化、負担区分は進展せず。 1966(昭和41年)12月 寮費不払いの寮生に、教官によるオルグや、卒業証書交付保留が発覚。 1966(昭和41年)12月 熊野寮委員長に反民青系が当選。 1967(昭和42年)2月14日 熊野寮生200人、不払い報復に対し、総長宅へ深夜押し掛け団交要求。 1967(昭和42年)2月28〜3月6日熊野寮生、寮費問題で総長、学生部長らと計5回、のべ31時間の団交。 1967(昭和42年)6月22日 吉田(柿沢委員長)、熊野寮(黒田委員長)、修学院寮の建設で学生部長団交。進展せず。 1967(昭和42年)11月24日 吉田、熊野寮、修学院寮の建設で学生部長団交。増寮と寮費不払いはリンクしないことを確約。 1968(昭和43年)2月23日 熊野寮、学生部長団交(21時間)。炊夫の公務員化、2.18通達に学生部は拘束されない確約。
吉田寮史9 1968(昭和43年)4月7日 ◆医学部、インターン制反対の一環で医学部に機動隊、5名逮捕。 1968(昭和43年)4月 全国の学寮で自主入寮選考運動。 1968(昭和43年)5月13日 岡本学生部長と団交。 1968(昭和43年)5月 補充入寮選考で、学生部職員の参加を拒否し単独で選考。 1968(昭和43年)6月27日 岡本学生部長と団交。「負担区分の適用は問題がある」確約。「2000人プランを推進する」 1968(昭和43年)6月 初めて熊野寮・吉田寮推薦で同学会代議員に立候補(5名)。全員落選。 1968(昭和43年)11月 岡本学生部長、京大新聞とインタビューで改めて修学院寮建設と2000人寮を約束。 1968(昭和43年)11月24日 11月祭に併せて吉田寮祭 1968(昭和43年)12月13日 岡本学生部長と団交。熊野寮・吉田寮150名。18時間の及ぶが決裂。会場の外では民青60名 が押し掛け、自治会執行部はバリケードで阻止。 1969(昭和44年)1月14日〜16日岡本学生部長、奥田総長団交、三項目要求(無条件増寮、20年長期計画撤回、経理公開) 1969(昭和44年)1月16日 団交決裂し、全寮闘争委員会が学生部封鎖。 1969(昭和44年)1月18日 吉田寮・熊野寮の寮生大会で封鎖支持決議(吉田賛成103、反対31・熊野賛成144、反対107) 1969(昭和44年)1月18〜19日◆東大闘争。安田講堂始め本郷構内の建物の封鎖解除される。 1969(昭和44年)1月21日 当局と民青、本部構内をロックアウトし、学生部封鎖を孤立化。民青が封鎖解除で学生部へ放水・投石。 1969(昭和44年)1月23日 学生部封鎖解除される。「狂気の3日間」と呼ばれる本部ロックアウトも解除。 1969(昭和44年)1月23日 封鎖解除後、法経1番で民青による封鎖寮生への責任追及。逆に民青への学生の反感が大きくなる。 1969(昭和44年)1月23日 封鎖を支持する学生、学生部長、総長と団交。 ◆これにより、京大闘争が本格化。寮問題から、大学問題へ拡大。
吉田寮史10 1969(昭和44年)1月〜2月 ◆C、L、S、M、T、A、J長期ストライキに突入。 1969(昭和44年)3月 ◆全共闘派、京大入試粉砕闘争。入試は実施される。 1969(昭和44年)4月21日 文部省通達「大学内における正常な秩序の維持について」(4・21通達)。 1969(昭和44年)5月14日〜15日上柳学生部長団交。 1969(昭和44年)8月17日 ◆「大学の運営に関する臨時措置法」発効。6ヶ月を越える紛争校の休校閉校措置が決定。 1969(昭和44年)9月20日 ◆時計台封鎖解除される。 1970(昭和45年)1月26日 前田総長、京大新聞とインタビューで増寮問題への対応、また自主入選を認める発言。 1970(昭和45年)3月 大学、自主入選を認め、大学が費用負担。入寮者氏名の「届け出」を求めたが、寮自治会拒否。 1971(昭和46年)2月22日 吉田寮自治会・熊野寮自治会、浅井学生部長と団交。吉田寮・熊野寮の委員会が入寮選考を行い合格者 の氏名を京大新聞に発表する方式に同意する確約(71年確約)。 1971(昭和46年)3月8日 吉田寮自治会・熊野寮自治会、浅井学生部長と団交。2月22日の確約の再確認。 1972(昭和47年)3月8日 看護婦寮にストームをかけて問題に。若狭、後藤、名指しで糾弾される。 1972(昭和47年)9月 ◆民青による暴力事件での告訴告発路線。民青系と全闘連系の対立激化 1972(昭和47年)11月 ◆告訴告発路線の民青が握る「同学会中執」全学学生大会で罷免。以降、同学会はノンセクト系に移行。 1974(昭和49年)4月27日 吉田寮寮生大会で、民青系と反民青系の衝突。 1974(昭和49年)6月25日 4月27日の件で、民青系が寮生を控訴。寮生三名逮捕。 1975(昭和50年)9月4日 文部省通達「国立学校学生寄宿舎の維持管理について」。 1977(昭和52年)6月18日 ◆大学評議会、竹本処分を決定 1977(昭和52年)7月8日 巽学生部長団交。炊夫の病気補償却下。食堂のガス釜導入。 1977(昭和52年)9月19日 74.4.27の暴行事件で、三名有罪(執行猶予付き) 1978(昭和53年)3月7日 ◆京都大学国有財産取扱規程(3・7規程)制定。 1978(昭和53年)4月20日 ◆文部省通知「学園における秩序の維持等について」(4.20通知)。
吉田寮史11 1978(昭和53年)5月19日 沢田学生部長(78.4.22〜79.8.1)、引き継ぎ確認の場において、団交拒否・確約破棄を宣言。 1978(昭和53年)7月19日 沢田学生部長、吉田寮・熊野寮との団交の場に機動隊導入、団交破壊。 これ以降、寮の正常化・廃寮をめぐる対立始まる。 1979(昭和54年)9月14日 会計検査院、岡本総長に対し、吉田寮・熊野寮について「占拠状態」と規定、炊ふの人件費・水光 熱費の大学負担を「予算の適正な執行とは認められない」と指摘。 1979(昭和54年)10月27日 岡本総長、会計検査院に対し、3年以内の改善を回答。 1979(昭和54年)12月3日 文部省、19大学の学生部次長・厚生課長を招集して老朽寮改築計画の提出を求める。 1980(昭和55年)1月10日 「学寮における当面の諸問題に関する学生部の基本的な方針」(学生部長 翠川修79.8.1〜80.8.1)、 吉田寮・熊野寮の寮生に送付。79年度入退寮舎を明かにし、在寮者名簿を提出するように要求。 2月1日付京大広報にも掲載。 1980(昭和55年)5月 8年ぶりに寮祭復活 1980(昭和55年)6月3日 厚生補導施設改善充実に関する調査研究会報告「国立大学における厚生補導施設の改善充実について」。 1980(昭和55年)7月10日 「在寮者の確認及び寄宿料の納入について」(学生部長 翠川修)、吉田寮・熊野寮の自治会委員長に送付。 1980(昭和55年)10月30日 「在寮者の確認について」(学生部長 翠川修)、新聞発表によって明らかにされた79・80年度入寮者に送付、 「大学としては、現在、あなたを入寮者として認めておりません」。「寄宿舎入寮について(ご依頼)」 (学生部長 翠川修)を親元に送付、「ご子息とも連絡のうえ、在寮の届け出に応じるよう貴殿のご協力 をお願いします」。
吉田寮史12 1980(昭和55年)12月13日 学生部委員会において、吉田寮・熊野寮に対し、入寮募集停止措置の方針で望むことを決定。 1981(昭和56年)2月15日 「吉田寮熊野寮の現状と問題」(学生部長 藤原元始80.8.1〜81.10.16)、京大広報に発表。 1981(昭和56年)4月6日 学生部委員会、入寮募集停止措置方針を再確認。 1981(昭和56年)10月1日 「吉田寮熊野寮に関するその後の経過」(学生部長 藤原元始)、京大広報に発表。 1981(昭和56年)10月12日 学生部委員会、入寮募集停止措置方針を再確認。 1981(昭和56年)12月12日 学生部委員懇談会、入寮募集停止措置方針を放棄、基本方針を策定して全学の方針とすることを決定。 1981(昭和56年)12月15日 入寮募集停止粉砕の全学集会500名。うちヘルメット部隊150名。1970年以降で寮として最大動員。 ◆一方で、三里塚闘争を重視する熊野寮自治会と、在寮期限を始めとする学内闘争を重視する吉田寮 自治会の対立すすむ。 1982(昭和57年)3月23日 学生部委員会、在寮期限設定―新寮建築―入寮停止の具体的措置を定めた学生部長メモを承認。 1982(昭和57年)5月31日 学生部委員会、新寮建設の「基本方針」を決定。 1982(昭和57年)6月14日 学生部委員会、基本方針実施のために、「在寮期限を定め、のち在寮期限にあわせて新寮を建てる。 なお、在寮期限の到来に先立って入寮停止措置をする」と決定。 1982(昭和57年)8月9日 寮小委、吉田寮の在寮期限を86年3月または85年3月、熊野寮の在寮期限を87年3月または86年3月 と設定することを決定。 1982(昭和57年)9月 「本学の学寮問題について」(学生部長 北川善太郎81.10.16〜82.10.15)、発表(実際の発表は10月12日)。 「基本方針」及び在寮期限方式を初めて全学に明らかにする。 1982(昭和57年)12月14日 評議会、「吉田寮の在寮期限を昭和61年3月31日とする」と決定。抗議行動に駆け付けた吉田寮自治 会・全学自治会同学会のデモ隊が時計台2階から突き落とされ、8名が重軽傷を負う。
吉田寮史13 1982(昭和57年)12月15日「学生寄宿舎をめぐる問題」(総長 沢田敏男)京大広報に掲載、在寮期限設定の理由に正常化が付け加えられる。 1983(昭和58年)1月28日 吉田寮自治会、第1回神野学生部長(82.10.16〜84.3.31)団交。600人。一連の団交には常に大学側の 職員が200名以上含まれていた。 平行して、文学部、農学部、理学部、教養部、経済学部でも学部長団交。工学部でも追及行動。 1983(昭和58年)2月7日 吉田寮自治会、第2回神野学生部長団交。12月文書の自己批判・撤回、学寮経費の負担区分に関して 話し合いの合意なき一方的決定はしない旨の確約。400人。 1983(昭和58年)2月14日 吉田寮自治会、第3回神野学生部長団交。神野学生部長、前回の確約を破棄すると言い残して逃亡。 500人。会場の半分を大学職員が占め、学生部長を防衛していた。 1983(昭和58年)4月15日 「会計検査院に不当な「指摘」をさせない全学集会」開催、集会後デモを行い、時計台2階に上がって抗議 文を総長に手渡す。総長、機動隊導入。 1983(昭和58年)5月18日 総長、吉田寮・熊野寮に機動隊乱入、4月15日に時計台2階に上がったことをもって「建造物侵入」として 3名逮捕、1名指名手配。緊急抗議集会開催、集会後学生部棟へデモ隊が入ると当局は入口の扉を閉めて 機動隊を呼び2名を「建造物侵入」で逮捕させる。機動隊に抗 1983(昭和58年)6月2日 不当逮捕糾弾集会。300名。 1983(昭和58年)6月7日 5月18日の「建造物侵入」に対して寮生1名逮捕。 1983(昭和58年)6月9日 4月15日の「建造物侵入」で指名手配されていた寮生1名が逮捕。 4・15の時計台への抗議行動で、寮生4名起訴される。 1984(昭和59年)2月22日 吉田寮自治会、寮生大会において2月分より負担区分の支払に応じることを決定。25年に及ぶ負担区 分問題に決着。 1985(昭和60年)1月9日 吉田寮自治会、加藤学生部長(84.4.1〜85.9.1)に対し「要求書」提出、団交要求。
吉田寮史13 1985(昭和60年)1月14日加藤学生部長、1月9日の吉田寮自治会の要求書に回答、「新々寮は、 原則として新入生のための学寮であります」とした上で団交拒否。 1985(昭和60年)1月25日4・15「建造物侵入」で4名に有罪。執行猶予付き。 1985(昭和60年)4月 吉田西寮4棟の居住、危険につき放棄。 1985(昭和60年)5月5日 吉田寮総会、「在期」完全粉砕(評議会での「在期」撤回決議)方針を転 換し「在期」実質化阻止 (「在期」後、現吉田寮生が全員新寮に移行で きるまで暫定的延期)方針を確認。 1985(昭和60年)5月6日 吉田寮自治会、加藤学生部長に対し「要求書」を提出。 1985(昭和60年)7月1日 「在寮期限」粉砕!新自治寮獲得!全学集会」(主催:吉田寮自治会・熊野 寮自治会・室町寮自治会)、教養部正門前にて約230人の参加。女子寮、 全学自治会同学会などからアピール。終了後、約150人 にて学内デモ、三項目要求についての約1700名分の署名を学生 ◆これを最後に、熊野寮開設以来20年続いてきた、吉田寮と熊野寮の自治会の共闘終焉。 1985(昭和60年)7月9日 加藤学生部長、吉田寮自治会委員長宛に回答。 1985(昭和60年)7月29日 熊野寮自治会、吉田寮の新寮建設のための埋蔵物調査を妨害。そのため新寮計画暗礁に。 1985(昭和60年)7月30日 吉田寮自治会、武内寮小委委員長を追求。「新寮完成時には現吉田寮生の希望者の全員が入寮する ことのできるよう努力」との確約を得る。 1985(昭和60年)10月28日 吉田寮自治会、四項目要求を発展させ五項目要求を発表。 1985(昭和60年)12月13日 京都大学新聞社、西島新総長にインタビュー、吉田寮問題に「京大らしく対応」と答える(『京都大学新 聞』第1943号(12月16日)掲載)。
吉田寮史14 1985(昭和60年)12月19日 吉田寮寮生大会、自治憲章改正を採択(翌20日採決、翌年1月1日施行)。この年 女子受け入れ開始。 1986(昭和61年)1月7日 学生部委員会。総長の寮問題に関するより詳しい方針が提出される。 1986(昭和61年)2月3日 在寮期限粉砕と新寮獲得を掲げて集会。250人参加。吉田寮単独開催。 農学部、文学部、経済学部で学部長団交。 1986(昭和61年)2月25日 学生部委員会、86年度の吉田寮入寮募集停止を決定。 1986(昭和61年)3月1日 朝尾学生部長、吉田寮自治会委員会宛に「吉田寮の入寮募集について」送付、入寮募集停止を通告。 1986(昭和61年)3月31日 「在寮期限」到来。守衛1名室町寮へ配転、炊フ2名北白川スポーツセンターへ配置転換、寮食堂閉鎖。 「京都大学」名での掲示第9号により吉田寮への入寮禁止が告示。朝尾学生部長、吉田寮自治会委員長 宛に「吉田寮からの退寮について(通知)」を送付。3月付 「吉田寮 西島総長、吉田寮を「在寮期限執行中」とし、強制追い出しを行わないこととする。 1986(昭和61年)12月8日 筧田学生部長(86.9.12〜87.12.7)、吉田寮自治会委員長宛に退寮勧告。 1986(昭和61年)12月 『アサヒグラフ』、吉田寮を取材(〜下旬、1987.2.6日号で特集記事)。 1987(昭和61年)2月7日 筧田学生部長、吉田寮自治会委員長宛に「吉田寮の入寮募集禁止について」送付。 1987(昭和61年)3月1日 「京都大学」名での掲示第3号により吉田寮への入寮禁止が告示。 1988(昭和63年)7月21日 学生部委員会、吉田西寮4棟撤去を決定。 1988(昭和63年)8月4日 吉田寮自治会は全寮総会において撤去受け入れを決定。吉田西寮4棟撤去(〜6日)。 1988(昭和63年)10月7日 吉田寮自治会、河合学生部長に対し「要求書」。 1988(昭和63年)10月17日 学生部委員会、「本年度中に在寮期限設定に伴う吉田寮問題の解決をみるよう努力する」との基本方針を決定。 1988(昭和63年)10月31日 吉田寮自治会、評議員に対し「公開質問状」。
吉田寮史15 1988(昭和63年)11月7日 吉田寮自治会、学生部会議室にて第1回河合学生部長団交、約100名の参加。吉田寮自治会、「5項目 要求」提示。西寮撤去及び名簿・寄宿料の提出と引き換えに東寮を補修して残すとの「河合提案」が明らか にされる。一方的な決定をせず、今後も公開の場での話し合いをおこなうこと。 1988(昭和63年)11月25日 川崎教授らによって吉田東寮の建築耐用性調査が行われる。 1988(昭和63年)12月1日 吉田寮自治会、『11・7「河合提案」に対する我々の見解』第1刷発行(3日に第2刷)。 1988(昭和63年)12月7日 吉田寮自治会、学生部会議室にて第2回河合学生部長団交、約150名の参加。 1988(昭和63年)12月10日 業者並びに河合学生部長ら、吉田東寮畳調査。 1989(平成元年)1月12日 吉田寮自治会、学生部会議室、引き続き法経1番教室にて第3回河合学生部長団交、約100名の参加。 1989(平成元年)1月13日 吉田寮自治会、法経1番教室にて第4回河合学生部長団交、約100名の参加。プレハブ建設など、 「河合提案」の全貌が明らかになる。 1989(平成元年)1月22日 吉田寮自治会、88年度後期運動方針を採択。河合提案受け入れ。 1989(平成元年)1月23日 吉田寮自治会、河合学生部長宛に要求書提出。河合学生部長、要求書に回答。 1989(平成元年)1月24日 評議会、吉田寮問題の解決案を承認。 1989(平成元年)1月25日 学生部委員会、吉田寮入寮募集禁止措置解除棟を決定。吉田東寮補修開始。 1989(平成元年)2月26日 吉田寮自治会、法経1番教室にて第5回(最終)河合学生部長団交、 50名弱の参加。吉田寮自治会、総長宛の「要求書」提示、取り次ぐよう要求。「吉田寮自治会 と学生部長とが必要に応じて、公開の場で話し合いをもつことが望ましい」、「在期」の失効を評議会 で確認するよう総長にはたらきかけるなどの確約を得る。
年表終わり(1997年まで) なお、同大の田辺移転闘争については、学友会残務整理委員会編集の 「『同志社の栞』資料集1957〜2004」の502〜531頁に田辺 貴重な年表があります。どなたかテキスト化を。 1989(平成元年)2月「吉田寮問題について」(学生部長 河合隼雄)、発表。 1989(平成元年)3月26日 吉田西寮撤去開始。 1989(平成元年)3月27日 吉田寮に対する入寮禁止措置解除が公示。 1989(平成元年)4月14日 吉田寮自治会、在寮者名簿と寄宿料を提出。1967年以来、22年ぶりに自治会として提出。 1989(平成元年)4月18日 評議会、在寮期限終了を承認。 1990(平成2年)7月 留学生受け入れ開始。 1991(平成3年) 院生・聴講生・研究生・医療技術短期大学部生を含めた京大生全体を入寮募集の対象に。 1992(平成4年)11月18日吉田寮自治会、万波学生部長と団交。6項目()の確認。 1994(平成6年)7月9日 「駒場寮廃寮反対運動に連帯する特別決議」採択。 1994(平成6年)7月14日 『週刊朝日』の取材。 1994(平成6年)11月17日吉田寮自治会、瀬地山学生部長と団交。6項目の確約を引き継ぐ旨が確認される。この年度 「京都大学学生との同居の切実な必要性」が認められる者を入寮募集の対象に。 1995(平成7年)1月23日 阪神・淡路大震災被災者の受け入れを合意。後、1名を受け入れ。 1996(平成8年)5月16日 吉田寮自治会、益川学生部長と団交。 1996(平成8年)10月31日学生寄宿舎学生部室より出火、同所を全焼、吉田寮食堂を半焼する。 1996(平成8年)11月6日 焼失に伴う寮機能の早期回復に関する「要望書」を学生部に提出。 1996(平成8年)11月7日 京都大学新聞社との協力関係を確認。 1996(平成8年)12月6日 学生部長団交。火災についての確認書を締結、新寮問題について決裂。 1997(平成9年)7月11日 井村総長との団交に参加。 1997(平成9年)12月21日新シャワー室・洗濯場使用開始。
1986年の吉田寮入寮パンフレットのUP 非難が轟々とあがるまで、UPするつもり、だ。 1986年3月4日、映えある大学入試の日に、60頁に及ぶ「吉田寮」の入寮案内パンフレット、「生活指南」が、 全受験生8000人に向けて配布された。全文字写植で、写真・イラストが豊富なこのパンフレットは、およそ100 万円ほどかけて作られ、以来、このパンフレットを越える内容の入寮案内のパンフレットは作られることがなかった。 なぜか。1986年3月31日をもって、大学の決定では、吉田寮には住んではいけないことになっており、当然、 新入寮生の募集はありえなかったのである。入試会場のそこここには、「吉田寮の入寮を禁止する」と張り紙が してあった。この大学当局の入寮妨害を粉砕すべく、吉田寮の全体重をかけてつくられたのが、このパンフレット だった。その成果は、4月の入寮者30名になんなんとする実績になってあらわれた。翌年以降も新入寮生は続き、 このことが、1989年3月の「廃寮決定」の撤回を導くことになった。 なお、大学当局の「吉田寮の入寮を禁止する 京都大学」という張り紙を剽窃して、吉田寮生は 「吉田寮の入寮を歓迎する 京都大学」という、当局と瓜二つの張り紙を、マルセル・デュシャンばりの芸術性を もって対抗し、慌てた大学当局は、二度と無粋な張り紙をすることはなかった。 歴史性をかんがみれば、パンフレットの内容は、単に1986年の入寮募集の目的だけでなく、1980年代半ばの 京大のノンセクト学生運動の「時代の感性」を表していているのである。(抜粋しながら紹介します)
巻頭書 このパンフを手にしている今、君は試験問題の配られるのを待っているのだろうか。それとも試験の終った解 放感に充たされているのだろうか。 さて。 発表までの二週間、引っ越しの準備の外に、もう一つすることがある。このパンフを読破すること。このパンフは、 一日24時間京大で生活している吉田寮生が、総力を挙げて作りあけた情報の束だ。京都へ来る前にこのパン フを読んでおけば、来るなり京都在住十年のフリができる。 ちなみに吉田寮には、パンフに載せられなかった丸秘情報も印刷に間に合わなかった最新情報も、足の踏み場 のないほど転がっている。だから京都での学生生活を充実させようと思ったら吉田寮に入るとよい。吉田寮生、な かでも入寮以前に下宿した経験のある寮生全員がお勧めする。 吉田寮自治会 1985年度後期執行委員長
教官から 「人間関係形成の場」 佐佐木 綱 いま大学生活にとって、寮は非常に重要なものになってきました。寮生活には人間関係形成の原 点があるように思えるからです。現在の日本の家庭では、自分の味方になってくれる兄弟の数も少 なく、また、友達も受験競争ので、心を打ち割って話のできる本当の友達もできにくくなってきていま す。 早くから子供部屋で一人て育ち、パソコンで遊び、大学に入学するとマイカーで通学するような生活 をしていると、どうしても他人との人間関係がわづらわしくなり、社会にでてからの団体生活に危惧 を感じて、社会に出ていく勇気がなくなってしまう人も多いのです。人間関係の基礎は、他人との共 同生活の中で、他人の立場に立って物事を考えることができるようになること、またその事を通じて 自己の長所・社会的役割を見つけ出すことにあります。もちろんそれは部活動にもあります。しかし 寮生活は24時間の人間関係です。そこには自分の人生観と他人の人生観との激しい討論もあるで しょう。討論時間は無限にあるのですから。しかし一方で思考を越えた肌身で感じる「他人の痛みを 自分の痛みと感じる」感覚が芽生えてくるものです。そして自己の尊厳が他人の尊厳を認めることに よってしか保障きれないものであること、その事が寮の自由を守り団結をうながすものであることを 知るのです。これまで多くの立派な先輩が寮から輩出したことも当然と思われます。 入学試験に合格したときが新しい心のスタートです。古い建物にも新しい心が宿るものです。 (ききき・つな=工学部交通土木工学科教授・運輸交通計画、元学生部委員、1984年負担区分闘争の交渉相手)
「ひとこと」 森 毅 もとより、京都大学という空間が、均質で透明であるはずもない。 いくらか半透明で、なにかの未知を生みだそうとする場所が、キャンパスのあちこちに、そこに棲息 する人間たちとともに、息吹いていねばなるまい。吉田寮も、そうした場所のひとつであり続けた。 ただ困ったことは、自然の移りかわりのほうが、そうした場所を「老朽化」させがちなことだ。ちなみ に、そうした場所の候補になりうるかどうか知らないが、時計台のほうもまた、いくらか「老朽化」して いる。 なお、寮問題の推移次第では、ぽくも評議員として追及きれかねない。その節は吉田寮に逃げ込 むから、かくまってくださいね。 吉田寮に自由を。 (もり・つよし=教養部教授・数学) 「ノミの歌」 浅田 彰 去年の夏、吉田寮でノミが発生して騒ぎになったとき、思わず叫んだヤツがいる。 「権力は手ぬるい! あんなところはいっぺん焼いて、消毒しなけりゃダメだ!!」 言うまでもなく、汚点とみれば拭い去らずにおかぬこの種の清潔パラノイアは、ファシズムの源泉の ひとつにほかならない。 それに抗してノミとの共生を貫徹し、遂には自らノミと化してあちこち跳びはねながら腐敗と頽廃の種 を撒き散らすらすことこそ、革命的吉田寮生の任務である。 たかがノミ、といって侮るなかれ。どんな檻の隙間をもやすやすと通りぬけることができるのだ。 檻の強化か檻の破壊かという闘争はなおも続いている。しかし、今いちばん問題なのは、受験体制と いう檻から解放されたにもかかわらず自ら新しい檻を作って閉じこもるというような、小心な自己規制の 風潮だろう。 そこで、いたずらに檻の破壊を唱えて「のれんに腕押し」となるよりも、とりあえず腐朽した檻の隙間を ノミのように自在に出入りしてみること。 そういえば、「自分が囚われているどんな檻(ケージ)からも逃れよ」と歌ったの、あの鳥籠売りジョンだ った。ジョンの愛するキノコが畳の間合から生えてくるなんてのも、悪くないかもしれない。 だけと、やっぱり、たまにはおヘヤをきれいにしてくださいね。 (あきだ・あきら=人文科学研究所助手・社会思想史)
◎「在寮期限」とは 君たちが入試に合格すると、きまざまな学内団体から印刷物が送られてくるが、それと同時に大学当局から「入学案内」と いうものも送られてくる。1983年からこの中に、吉田寮「在寮期限」ということばが登場しつづけている。この「在寮期限」 について説明しよう。 今を去ること3年と3ケ月前、1982年12月14日、京都大学最高の意志決定機関である評議会は「吉田寮の在寮期限を 昭和61年3月31日とする」ことを決定した。つまり、1986年3月31日で吉田寮をなくしてしまうというのだ。僕たち寮生は 以下の理由からこの「在寮期限」を批判し、ねばり強い運動を続けている。 @「在寮期限」の背景には学生部の寮「正常化」方針(つまり寮自治をつぶしてしまうこと)かあること。この寮「正常化」方 針については後で詳しくふれることにする。学生部は、現在の吉田寮を廃寮に追いやることで寮の「正常化」を達成しようと しているのだ。 A評議会では「在寮期限」は吉田寮の「老朽化」による建てかえの問題として決定したが、学生部はあとで「正常化」の問 題にすりかえている。学生部は「正常化」では全学の意思一致を作れなかったのだ。現在でも学生部は新寮を建てるという ポーズを装っているが、現在の吉田寮をとにかく潰すしてしまうのが目的であり、実際に現吉田寮の建てかえとして新寮を 建てるという目的は学生部にはない。 B決定の方法からみても非常に問題のある決定だ。寮に関する問題については、実際に寮で生活し寮を運営している寮 生が主体である。寮に関することからはすべて寮生との話しあいによって決定していくべきだ。それにもかかわらず「在寮 期限」に関して学生部長は寮生との話しあいを行わなかったし、評議会での「在寮期限」決定の当日、抗議にむかった寮 生・学生に対する大学当局の答は、多数のゲバルト職員を動員して抗議の声を圧殺することだった。このときゲバルト職 員が押したため多数の寮生が時計台の階段から転落してけがを負わされた。
◎「在寮期限」に対する全学的反撃 1983年に入って、寮生・学生の全学的な反撃が全学団交戦という形で展開された。文学部・理学部・教養部・農学部で 学部長団交・評議員団交が行われ、多くの学部長・評議員が「在寮期限」決定に賛同したことを自己批判し、寮の「正常化」 は全学方針ではないことを明らかにした。先に述べたように、学生部の「正常化」路線は全学的に意志一致がとれていなか ったため、学生部は「老朽化による建て替え」という一般論でのりきったのだか、全学団交戦により「正常化」は全学の方針 でないことが霞わになり、学生部は一層孤立したのである。 また、1978年から寮生との公開の場での話しあいを一切拒否してきた学生部長は、寮生・学生のねばり強い運動によっ て団交に応じざるを得なくなった。そして1983年1月から2月にかけて合計三回の学生部長団交が行われ「負担区分(寮の 水光熱費のうち寮生負担分)に関しては継続的に話し合い、話し合い合意が得られるまでは負担区分の額の決定・請求 (=これも学生部の方針すなわち「正常化」の一環である)は行わない」という確約も得られた。(ただしこの確約は、二週間 後に学生部長神野が一方的に破棄)
◎反対運動に対する弾圧 寮生・学生による1983年1月2月の全学団交戦は、学生部および総長沢田の寮「正常化」方針を孤立させた。あせった学 生部は全学的な反対運動を圧殺するため京都府警との密接な連絡の上、大弾圧を行うことになる。 話は、1983年4月15日に、会計検査院が大学に来学したことに始まる。同じころ吉田寮食堂に勤務する炊フさんに対し て学生部から「寮が負担区分を支払わなければ職場を配転する。支払えば配転せず厨房設備も改善する」という恫喝がか かる。これらの状況を分析し他大学の前例も調査した寮生・学生は「会計検査院に不当な(指摘)をさせない全学集合」を開 催する。他の大学では会計検査院が大学の寮関係支出に対して「不正常」と指摘し、大学が寮に負担区分支払いを強要す ることにお墨付きを与えていた。これと同様のことが京大でも行われると予測した寮生・学生が抗議の意味で集会を開いた のである。集会のあと抗議の声を届けるために時計台の中ヘデモに行った。総長は怒って「退去しなさい。今、機動隊を呼 んだぞ」と叫ぶ。機動隊はデモ隊が時計台から帰るとき京大に到着、結局この日は何もなかった。 しかしこの後5月18日早朝、機動隊が吉田寮・熊野寮に乱入。4月15日に時計台二階にあがったことを「建造物侵入」 として3名を逮捕、1名を指名手配にする。これに対して寮生・学生が同じ日に緊急抗議集会を開き、学生部棟へ抗議行動 に行った。デモ隊が二階にあがると入口の鉄扉が閉じられ、デモ隊は学生部棟に閉じこめられる。と直ちに機動隊が学生 部棟に入って2名を「建造物侵入」で逮捕、その後、怒りを覚えた学生が機動隊を蹴とばすと「公務執行妨書」で逮捕、他に 3名を指名手配する。
反対運動の圧殺にある程度成功した学生部は、寮食堂の炊フ引き揚げを恫喝に負担区分の寮生への強要を行った。 さらに1985年1月の学生部長加藤の声明では「新寮は新入生のためのもの」と言明し、現吉田寮と新寮との間に断絶を 作る意図を露わにした。前に述べたが、学生部にとって新寮建設は現吉田寮を廃寮にするためのポーズにすぎず、新寮を 建てるとしても現在の吉田寮生が新寮に移り住めないようにするつもりだ。つまり、現吉田寮を潰し、一定の年月をあけて 人的にも断絶を作った後に、学生部の思い通りの寮を作る(この具体的な内容については、新々寮批判として後で述べる) のが学生部のねらいであることが明白となってきたのである。 ◎埋蔵文化財試掘調査 寮生は「在寮期限」の実質化を阻止し新しい自治寮を克ち取っていくための闘いを準備した。 1985年3月には入寮募集情宣を大々的に行って、例年に倍する60名もの新入寮生を迎え入れた。 1985年5月には、新たな自治寮を克ち取っていくという目標に向けて、新寮建設予算化の前提条件である吉田寮敷地 内の埋蔵文化財調査を条件つきでスケジュール化させるという方針をうち出した。京都で新しい建物をたてる時は、建 設予定地の埋蔵文化財を調査することが条例で義務づけられている。何か大変な文化財が掘り出きれると建設はか なり延期される)。この方針は@「在寮期限」到来時に寮の機能を停止するな。A現吉田寮生の新寮への移行を認めろ。 B学生部長は新寮について公開の場で話し合え。の三項目要求を学生部長に提出し、「在寮期限」実質化阻止と新自 治寮接待にむけて新寮予算をつけさせるために埋蔵文化財調査を受け入れる、ただし新寮建設が吉田寮自治会の解 体を招来すると判断した時には調査を実力で阻止する、というものだった。この方針に沿って5月より学生部委員追及と 三項目要求署名を展開していった。そして7月4日の全学集会で「在寮期限」粉砕・新自治寮獲得にむけた全学的共闘 の輪をひろげるとともに千七百名の署名を学生部に叩きつけた。
さらに7月16日に学生部第三小委員会(寮問題)委員長武内が、「在寮期限到来時に強制的手段によって寮の機能を 停止しない」ことを言明した。これにより、埋蔵文化財調査が吉田寮自治会の自治活動を解体するものではないと判断し、 5月からの方針に沿って、7月29日から行われる予定の埋蔵文化財試掘調査を妨害しないことを寮内で決定する。とこ ろが7月29日からの試掘調査は、意見の不一致により熊野寮常任委員会・書記局の諸君の「阻止行動」で延期されて しまった。学生部はこの試掘調査延期によって1985年度内に新寮の予算がつかないことを口実に、「在寮期限」到来 時の吉田寮自治会の非公認化を、以後策動することとなる。 ◎「在寮期限」70日前まで 7月の試掘調査の延期によって1985年度内に、新寮予算がつく可能性は薄くなったが、僕らはあくまでも「在寮期限」 実質化を粉砕して新自治寮を獲得する運動を進めている。 10月には、6月の三項目要求署名の項目を発展きせた五項目要求署名を展開した。と同時に10月24日から時計台 前無期限すわりこみ闘争を、二度にわたるすわりこみテント強制撤去にもかかわらすやり抜いた。11月13日には、「在 寮期限粉砕・新自治寮獲得・全評議員追及大集合」で、北海道大学・山形大学・横浜国立大学・大阪大学・同志社大学な ど各地の寮を招いて全国的な共闘の輪をひろげ始めた。11月29日には全評議員に対して「在寮期限」に関する公開質 問状を送付し、全学的規模での評議員・学部長団交・追及の準備を進めている。1986年1月13日には学生部長朝尾 を大衆的に取りかこんて追及した。 今後「在寮期限」にむけて学生部は寮内職員の引き揚げ・入寮募集に対する妨害といった策動を進めていくことが考え られる。僕たち寮生は各学部での団交戦と協力しながら学生部長団交を克ち取り、必らず「在寮期限」実質化策動を粉 砕し、そして新自治寮を権得する。
◎大学当局による寮「正常化」とは 大学当局、なかでも総長と学生部による寮「正常化」路線について説明しよう。寮「正常化」のねらいは、一口で言ってし まえば寮自治の根絶であり、具体的には次のような形であらわれてきている。 @寮生の選考・認定の権利、つまり入退寮権を寮生の手から奪い取ろうとする動き。寮生の募集・選考は寮自治の重 要な要素として寮生が責任をもって行っている。1971年の寮自治会と学生部長との確約で、入退寮権は寮自治会にあ ること、人・退寮者の氏名は寮自治会が京都大学新聞紙上に毎年発表するということが確認されている。ところが学生部 は1979年から「在寮者確認」というものを寮生に強要し、寮自治会による募集・選考を切り崩そうとしている。 A負担区分の適用。1983年まで寮の水光熱費は全額大学が負担していた。しかし会計検査院の「不当支出」指摘を 背景に、学生部は負担区分を寮生に強要してくる。経過は省くか、結局、現在水光熱費約半分を寮生が負担している。 いま争点となりつつあるのは、炊フの人件費で、これから学生部はこれも寮生に強要してくるだろう。 B「正常化」の決定打として、現在の吉田寮を廃寮にしてしまい、しばらく時期をおいて人的断絶を作った後、学生部の 思い通りの管理運営形態・建物構造の新々寮を建てようとする動き。
◎「正常化」をめぐる経過 寮「正常化」は、1978年から学生部によって学生管理強化の中心課題として位置づけられた。全学的な反対運動にも かかわらず1977年に経済学部竹本助手の免職処分をなしきった京大当局は、それ以降攻撃目標を寮に定めたのだ。 1978年4月沢田学生部長(1979年から1985年まで総長)が登場し、「確約については是々非々で考える」 と発言し、それまで続いていた寮生と学生部長との間の団交−確約体制を破棄した。 1979年9月会計検査院が突然来寮して「寮は不法占拠状態である」と総長沢田に通知した。総長沢田と学生部は、こ の会計検査院による「不法占拠状態」発言を利用して以後、寮「正常化」を進める。 1980年1月、翠川学生部長が確約全面破棄・団交拒否・在寮者名簿提出要求を文書で寮自治会に通知してきた。学 生部は以後「在寮者確認」を強要してくる。 1981年には、学生部は「入寮募集停止」をかけようとするが、寮生の反対の闘いと、学内各部局の意志一致不足によ り計画を断念する。 1982年10月には北川学生部長が「本学の学寮問題について」なるパンフを学内に配布し、「学寮の正常化を実現し ていくことを本学の基本方針とする」という「基本方針」を公表した。そして1982年12月14日、寮「正常化」を推進 するために総長・学生部は吉田寮「在寮期限」を評議会で決定させる。 その後の経過は先に述べた通りである。
◎闘いのなかから得たもの 寮自治の実践の中から、僕ら白身の生活を促えかえし、変革していくような試みも生まれている。 具体的な例として、男女学生を募集するようになった経緯を紹介しよう。もともと吉田寮は男子寮であった。しかし 1970年代に看護女子寮にストームをかけるという事件かあり、女子学生から吉田寮生の女性差別の意識について糾 弾された。これをきっかけとして何度か看護女子寮と話しあった。 1985年にようやく、男性だけで生活するのでなく、男性女性ともに寮自治を行い、その中で女性からの批判を受けて ゆくことで、女性差別の意識を変革していこうという目的により、女子学生の入寮受け入れが始まった。現在、吉田寮に は女子寮生も住んでいる。しかし女子の寮生かいるからと言って直ちに女性差別かなくなる訳ではないのはもちろんで あり、僕らの試みはまだまだ出発点でしかない。 また、合成洗剤の人体・環境に及ぽす影響についての討論のうえ、1981年に合成洗剤追放決議が寮生大会であ がっている。以後、吉田寮では庶務部が粉せっけん・せっけんシャンプー・せっけん歯みがきなどを販売しており、寮内 で合成洗剤追放運動が続いている。 寮の共同性の意義についてはまた別の部分でふれてあるが、僕ら自身の手によって新たな生活を創造していくという 可能性を寮自治はふんだんに持っている。
<京大再編の基礎知識> 1982年12月14日、京都大学最高の意志決定機関である評議会において「吉田寮の在寮期限を昭和61年3月 31日とする」ことが決定された。 「在寮期限」・「負担区分適用」・「正常化」なと、寮に関する京都大学当局の政策は先に述べた。学生が学寮で自由 にくらすことは昔に比べてすいぶんむづかしくなってきている。しかしその傾向は寮の周辺だけではない。大学のいた るところに、学生の自由な活動をしめつける動きがみられる。 ■経済的な圧迫 入学金・授業料がウナギのぼりに値上げされる近年、経済的にあまり楽でない学生にとって授業料免除制度はます ます欠くことのできないものとなってさえいる。京都大学にももちろん授業料免除制度はある。が最近になって免除適用 のワクがせばめられつつあるのが現実だ。 1985年の夏、京都大学に会計検査院が来学。授業料の免除を留年者にも適用している京都大学の状況について 「不正常」と指摘した。大学運営上の実際の執行機関である学生部は会計検査院の指摘に呼応して、同年9月より留 年者とマイカー通学者を授業料免除制度から排除することを決定した。留年者は成績不良の者であり、マイカー通学 者は経済的に余裕のある者である、というのが理由である。決定を知った学生たちは「授業料免除制度改悪阻止」を スローガンに、何人かの学生部委員と団交をもった。 授業料免除制度は経済的に困っている学生に教育の機会均等を保障するための措置である。留年者のなかには、 生活費をかせぐためにしばしば講義を欠席せざるを得ない学生もいるだろう。病気や事故で偶然ながら試験をうけられ なかった学生もいるかもしれない。大学院の入試に再挑戦するために卒業を延期してわざと留年する学生も多い。そ れらの学生を全部「留年者は成績不良者」として一律に授業料免除制度から排除するのは、この制度の本来の目的に 合致しない。授業料の免除を適用されている学生の多くは、日本育英会などの奨学金も受けているが、もとより留年生 は奨学金を停止される。それならば留年生こそ授業料を免除されるべきだと言える。生活費をかせぐためアルバイト に忙しい学生が、そのために留年して奨学金を停止されてしまったら年間20万円もの授業料をどうやって払えと言うのだ。
マイカー通学者もそれぞれに事情があろう。公共交通機関から遠い所に住んでいて車で通学するのがもっとも便利 だという学生もいるはずだ。他にも身体上のいろいろな事情によってふだん車で来るのを常としている人もいるかもし れない。第一、車をもっているからと言って必ずしも生活に余裕があるとは限らないではないか。車なんて中古で買え ば冷蔵庫なみ(新品)の値段で見つかる。車よりもずっと高価なものをもっている人も多いかもしれない。にもかかわら ず一律にマイカー通学者を授業料免除の適用から排除するというのは解せない。留年者もマイカー通学者も人それ ぞれに事情があるのだから、大学側は、それらの事情に応じて免除の適用・不適用をきめるべきだ。 授業料免除制度改悪に対しては各学部自治会が動いて学生部委員との団交を行った。学生部委員は各々団交の 場で「学生部委員会で再検討する」と確約した。しかし、その後再検討の結果は伝ってこない。いや再検討かあったか どうかさえ明らかでないのだ。各学部自治会は再度学生部委員と団交するのか、あるいは追及行動をおこすのか、情 報が伝ってこない。最近では授業料免除について「留年生排除」どころか教養部において成績評価制が今後導入され る、あるいは既に導入された(教養部には留年かない)とのウウサさえ聞かれている。免除を申請するすぐ別の学期の 取得単位数、または入学時ならば入学試験の点数が、判断の材料になる(あるいはなっている)というのだ。 経済的に楽でない学生には、きらに苦しい未来が待っているのだろうか。 授業料免除制度の改悪はぼくたち貧しい学生にとって非常に重い足かせである。
■自由な活動に対する規制 文化サークル連合会(通称「文連」)という団体がある。京都大学の文化系サークルの60が参加している、いわば サークルの自治会だ。サークルはそれぞれ大学の講義では得られない自主的創造的文化活動を追求しているか、そ れらサークル間の連絡をとりあったり大学側から物質的援助を獲得するために「文連」は存在する。しかし、この「文連」 への予算援助は1972年以降金額は固定されたままである。サークルの機関誌を発行したり、サークルボックス(京大 では部室をBOXと呼ぶ)の備品を購入したりするのは、多くのサークルの場合、学生のポケットマネーだけでは不可能 だ。サークルボックスは、その九割が吉田寮と同様に老朽化している。そのうえ数も不足していてボックスのないサー クルは活動を必然的に制限される。京都大学ではサークル活動も自由気ままにできないのが現状である。 さて、サークルの勧誘をはじめとして、いろいろな団体や個人が、教室に入る者・廊下を歩く者に何かを訴えるため、 大学構内のあちこちの璧に貼り紙をする。かつてはそれが当然だった。 しかし1982年の夏休み、京大教養部当局は教養部の建物内のほとんどの璧に貼り紙防止剤「ザクロン」なるもの を抜きうち的に塗布したのだ。以降、教養部内の璧にはポスター・チラシ・ビラなどをはってもすぐはかれてしまう。黒 板にも、貼り紙によって黒板の利用面積を減らきれないためにという名目でパラフィンが塗ってある。バラフィンの上 からチョークの字は書けないので、貼り紙とは無関係に黒板の有効面積は減少した。窓ガラスにも防止剤が塗ってあ るのでガラスの向うが濁って見える。サークル勧誘のポスターなど人目につく場所にはりたいものだか、安心してはれ る場所が極めて少ない。
学生の表現手段として立て看板というものもある。サークルが催し物を知らせたり、各学部自治会が集会を知らせた りするのによく使う手投である。京都大学の場合、通行する学生数を考えて吉田参道(京大本部と教養部を隔てている 細い道)から東一条交差点と百万遍交差点がメインステージとなる。11月察(京大の学園祭)の前になると吉田参道 にはカラフルな立て看板がすき間なく立ち並ぷ。たたみ四費分の立て看板に大きな文字で何か書いてあれば道行く学 生・教官・職員のほとんどが目を向ける。宣伝効果は抜群である。しかしこの立て看板も1985年1月から頻繁に撤去 されるようになった。理由をたずねると「実観をそこなう・樹木をいためる」というまったく主観的な返答がかえってくる。 京大当局は、このようにして学生の言論・表現の自由を奪うのだ。 撤去というとわれわれ吉田寮生はにがい思い出をもっている。1985年10月吉田寮自治会が京大本部時計台前ですわ りこみをした時のことだ。「在寮期限」以後の寮生の生活保障や新寮についての学生部長との話しあいなどを要求して 始めたすわりこみである。時計台の前に学生部から借りたテントを設営し、連日ここから前述の要求について学生・教 官・職員のみんなに訴えかけていた。同じ内容で要求署名も集めていた。ところが京大総長(当時)沢田某は、あろうこ とか機動隊まで呼んでこのテントを強制撤去したのである。しかも二度にわたって。学生部長はわれわれの要求書を受 け取っていながら何の回答もせずに立ちのきの警告を出して総長に手を貸す始末。理由は「美観をそこなう・交通の妨 害になる」のだそうだ。テントに集う学生と歓談するのもビラをまくのも吉田寮生の主張と日常生活を伝える表現手段だ。 (パフォーマンスだ!) その表現を機動隊導入という武力で押さえつけるとは言語道断、どこに大学の自治があるのか、 どこに言論と表現の自由があるのか。
このすわりこみは入寮募集情宣も兼ねていた。吉田寮では毎年4月に新入生のために入寮募集を大々的に行うが、 ほかに6月・11月・2月にも補充入寮の募集をしているのだ。だから、学生部には「入寮募集情宣伝のため」と届けてテ ントを借りたのだか、テントを借りることきえできなかったという例もある。 1984年6月、韓国文化研究会など全斗煥大統領来日に反対する学生たちか「全斗煥来日阻止!」を掲げてハンスト をしようとした。連日連夜ハンストをして学生に訴えかけるために、雨露をしのげるようにテントを借りようとしたのだが、 学生部は「ハンストという自らの身体を傷つける行為にテントは貸し出せない」と言ってテントを貸し出さなかった。結局、 韓国文化研究会の諸君はビ二−ルシートを尾根のかわりにしてハンストを決行したのである。 このように京都大学当局は、学生の自由な活動に露骨ないやがらせをかけてきている。サークルや自治会は大学当 局の管理強化のために自由活発な活動をしづらくなってきているのだ。 しかし、そんな傾向もサークルや自治会に対してだけあるのではない。近年、教養部では単位の取得がむづかしくなっ てきている。本来、単位の認定は講義内容を学生がいかに理解しているかを判断の材料とすべきてある。ところか最近 はことさらに出席をとったり出席の回数によっては試験をうけさせなかったりする教官かふえてきた。出席を点数の一部 とする教官もいる。以前は、講義にほとんど出席しなくても既に得ている知識で試験をクリアして単位を取得するのはよ くあることだった。しかし現在の教養部ではそれがかなりむづかしくなってきている。学問の本質は出席にあるのか。 研究者に対しても管理がきびしくなるようだ。学術情報システムという構想が今ねられているが、これが導入されると、 各研究者が他の研究者の成果を一覧することができ、自分の研究に他人の研究を有効にいかすことかできる。しかし その一方で、研究内容が常時監視されるということになるのだ。そして国家や大資本の役に立たない研究はすぐ予算を 削られ、国の政策や大企業の方針と対立する研究は即刻予算ストップとなるだろう。そういう研究をした研究者は妙な レッテルをはられて大学を追われるのかもしれない。こんなことでいいのだろうか。学問の自由は幻想なのだろうか。
■ タテカンの作り方 京都大学には立て看板(通称タテカン)か多い。多いと言っても他の大学と比べてということであって、いつも学内にタテカ ンがあふれている訳ではない。しかし、毎年入試の時と新歓時期、学祭期間(11月にある)になると、学内いたるところに大 小さまざまな色とりどりのタテカンがあふれ、大変華やかである。受験生の諸君も、吉田参道(時計台の前の通りのことね) の両脇いっぱいに並べられたタテカンを見たことであろう。 さて、このタテカン、作るのに多少金と時間がかかるけど、一度に大勢の人間に情報を伝達できるという点で、学内におけ る広告媒体としては最も優秀なものであろう。作り方自体は、そんなに難しくないのて、一度作ってみたらどうだろう。作っては みたものの、何も書くことかない人は、タテカン上にアートしちゃったりして、学内展示してみるのも、また一興である。 では、タテカンの作り方を説明しよう。 (図 削除) 次に、作ったタテカンに何かを書く訳だが、たいていの場合、枚の上に紙を貼り、その上に書く。一回しか使わない時は 別だが、何回も使いたい時はこうしなくてはいけない。実は、この紙にも、貼り方というものがある。これは雨が降っても はがれない為である。 さて、書き方であるが、これは実際に、何回も書いてみないとうまくいかない。これは、普段タテカンのような大きな所に物を 書くということをしないため、なかなか感覚がつかめないのと、ハケの使い方に慣れない為であろう。最初のうちは下書きを しっかりする方がよい。 完成したタテカンは、吉田参道の生け垣の所か吉田食堂の前あたりに出せばいい。その時、タテカンをしっかり固定して おかないと、風などで倒れるので注意しよう。また、吉田参道に出すと、時々学生部によって撤去されるが、撤去きれたタテ カンは、必ず近くにあるのて、構わず再度出せばよい。
■ ビラの作り方 ある程度まとまった文章を、多くの人に伝えたい時、最も簡単な方法はコピーを使うことだ。京大のまわりでは コピーはたいてい一枚10円で、安いところでも8円する。これだと10枚作っても80円、100枚作ると800円になってし まう。しかし、ガリ版印刷や謄写ファックスを使用すれば、低コストて大量の印刷物を作ることができる。 ただし、ガリ版印刷には鉄筆・ヤスリ・謄写版・ローラが必要であり、ファックス印刷には、ファックス機・ 輪転機などの機械・道具が必要である。これらの設備を揃えるとなると、莫大な費用が必要となるので、どこか 安く使わせてくれるところを探さなければならない。現在分かっている所では、教養部の複写室に、謄写版がある ということだが、その他については詳しくは知らない。図書館や公民館などで貸してくれるという所があるらしい ので、自分で探してみるといい。ちなみに、吉田寮では、上に述べた印刷設備はすべて持っているが、一般貸し出 しはしていないので悪しからず。
■ ステッカーの作り方 ステッカーとは、璧などに貼ってある「新人募集!」「バンドやるぜ」とか、「○月×日何とか集会へ!」とかの紙である。ステ ッカーヘの印刷の仕方はビラと同じである。紙はだいたいの場合、色上質紙を使っているが、生協で売っている、はッきり しない色のヤツを使うよりは、かえって白い紙を使った方が、綺麗だと個人的には思う。綺麗な色上質紙なら、街の文房具 屋に売っている所があるので探してみるといい。 さて、ステッカーでコツが要るのは、貼る時である。大量の紙を効率良く璧に貼る為の、紙の巻き方を説明しよう。貼る時 は、のりを塗る人と、紙を貼る人と二人一組で行けばよい。貼る場所は、教養部構内ならどこでも構わないと言える。教室 の黒板でも、両脇はパラフィンが塗ってあって、チョークで書けないようになっているので、貼っても構わない。璧にはザクロ ン(2章参照)が塗ってあるところが多いが、これに対する効果的な対策は、吉田寮の現在の科学力をもってしても、未だ考 え出されていない。 (図 削除) 最後にステッカーを貼る時の仁義として、日時が記載されているステッカーで、まだその日になっていないもの の上には貼らないようにするということがある。一見当然のことだが、11月祭前になると、これを無視した無法者 が出て来るので、困ったものである。
■ 「集会」について 受験の時はきれいになっているが、合格して京大に入り、教養部を歩いてみると、集合開催を知らせるステッカーが貼られて いるのを見たりするだろう。中には「全学集合」などと銘打ってあったりするか、別に全員参加する義務はない。いやむしろ 、全学集合などと言っていても、参加者は全学の100分の1もない場合もある。 吉田寮もよく集会を主催する(中にはもちろん「全学集会」もある)。参加人数は少ない時で50人そこそこ(これはやってい て非常に恥しい)、1985年で最も多い時で250人ほど(これは去年11月13日に行なわれた「在寮期限粉砕/ 新自治寮穫得/全評議員追及/大集会」という名前の集合である)の参加人数があった。こういった参加者はどこから来る のか。大部分は、主催団体の人たちとその仲間たちだが、集合の目的から言って重要なのはむしろ、遠巻きに集会を眺め ている「観客」たちである。特に屋外集合に関して言えることだが、一人でも多くの人に自分たちのことを知って欲しいというこ とから集合を行なうのであるから、何も知らない人たちに(こそ)集会を眺めてほしいのだ。 吉田寮も4月以降よく集会をやるだろが、眺めてみるなリビラを受け取って見るなりして欲しい。
■ 新々寮 四条件批判 ここでは新々寮四条件を、厚生施設としての寮の意義と、寮の教育的意義すなわち共同生活の意義から導きだされる自 治会の存在という二点より批判していきたい。 新々寮四条件とは、 1.学生部長が入退寮権をもつ。 2.全室個室。集合室なし。 3.寮食堂なし。 4.負担区分完全適用。 の四つである。 ■ 入退寮権 @入寮選考権について 現在、吉田寮では自主入寮募集・選考を行っている。ここでは寮生が入寮希望者を面接し選考する必要性・妥当性を述 べ、当局が選考を行うことの批判をしていく。 a.真に考慮されるペきは本人の経済状況であるということ。 当局が面接・選考をすると、経済選考が主になる。それも家庭の収入から機械的に本人の条件を算出することになる。 しかし重要なのはむしろ、本人の経済状態であり、それは本人から直接きかなければわからないことである。たとえ当局が 面接して本人から直接状況をきいたとしても、その場限りのウソは容易である。しかしこれから長い間ともに生活する寮生 には、ウソを言ってもいずれバレるであろう。また入寮希望者も寮生に対しては卒直な意見を言いやすいだろう。
b.日本育英会・授業料免除とならぶ使命が寮にはあること 現在、京大には、経済的困窮者救済措置として、学寮のほかに日本育英会奨学金および授業料免除の制度がある。この うち後の二つは当局が親の収入をもとに経済選考をしている。ここで仮に寮の選考も当局が行うとすると、選考基準は、ほ ぽ育英会・授業料免除と同じになってしまうだろう。ここで考えねばならないのは、育英会・授業料免除の恩恵をうけられない 経済的困窮者の存在である。当局側の算出方法により親の収入から算出すると経済的に困っていないと判断されても、本 人の生活が苦しい者は確かにいる。家に借金がある・家から仕送りをもらわず一人で生活費を稼ごうとしているなどいろいろ 理由があろうが、育英会選考方式でいくとそのような理由は考慮されない。寮の選考基準が育英会・授業料免除と同じにな ると、そのような者を学寮という彼らにとって最後の救いの場から排除してしまうことになる。 c.どうしても寮に入りたい者は入れてもいいんじゃないかな 本人の家庭がかなり金を持っていて本人もさほど困っている訳ではないが、どうしても寮に入りたい、寮に入り自治活動を 通じた共同生活をしてみたい、一緒に反戦運動をやりたいという人がいたとする。当局が選考した場合、定員にアキがない限 り落とされてしまうだろう。しかし寮自治会が選考した場合、他のポーダーライン上の人の熱意とその人の寮に入りたい熱意 とを比較して検討することができる。これは寮を厚生施設としてのみその意義をとらえるのてはなく、共同生活空間としても 見ているからである。 d.選考する際に必要と思われること 以上述べてきた、入寮選考権をわれわれが持つことは必要かつ妥当である、という考えのもとに、次はわれわれだけで面 接する際に考えておかなければならないことを書いてみる。 まず全学に対し、寮自治会が責任をもって選考していることを示すことが必要である。それは、当局の選考方法と同 じ方法を導入しているということによって示されるだろう。具体的には家庭の経済選考における「家計点方式」の取り入れ等 である。そのうえであくまで本人目身の経済状態を直接きいて判断材料にする。
A入退寮権について いったん入寮した寮生は、寮を経済的に必要とする限り卒業まで在寮を保証されるべきである(寮生本人の意志による退 寮はこの限りでない)。これは寮の厚生施設としての意義から考えて当然である。しかし新々寮においては「風紀を乱した」「共 同の秩序を乱した」などを理由として政治的処分を受ける者が存在し、しかも留年者の排除も行われている。 a.当局による退寮処分について 当局が寮生に対して、政治的活動を行っていることを理由に退寮処分にするとしたら、それはわれわれが持っている「言論 の自由」「思想・信条の自由」の立場から批判されるべきことである。 また「風紀を乱した」「共同の秩序を乱した」などと理由づけして退寮処分にする時も(こういった理由で政治的処分のなされ る例がいくつもあったが)「風紀」や「共同の秩序」を乱されたと感じるのは何よりもそこに住んでいる寮生であり、判断するのも 寮生とその総体である寮自治会であるべきである。
b.留年者の排除について 在寮期間を最短修業年限とするやり方は、留年者を学寮から排除していく。この方式の批判を以下に述べる。 留年者の中に、少数の極めて経済的に困窮する者が含まれる。彼らを寮から排除することによって拡大される募集枠はす べて、より経済的に豊かな者を入寮させるために使われることを考えると、留年者の排除は寮の厚生施設としての意義に反する。 留年者を寮から排除するという考えのもとになっているのは「怠け者(すなわち留年者)は苦労せよ(すなわち寮から出よ)」 という考えではなかろうか。この考えは「自業自得」「因果応報」的に説得力をもっているようだが、実は「単位数の獲得」と「経 済的困窮」という全く関係ない二つのことを無理やりくっつけたものだ。実際、単位数が少なくても金には困らない者はいる。そ ういう者は留年しても経済的苦労をしない。寮を追い出されて苦労するのは結局、経済的困窮者だけ、という不幸な状態になる。 これは教育の機会均等に反することである。 留年者を怠け者とする認識は、いまだに多くの人が持っているようだ。そのために留年者に対する数々の不利益(学寮から の排除・授業料免除からの排除・奨学金の停止など)に対しても、それを当然のことと思う者が多い。しかし、大学の正課のカリ キュラムでは満足できない、社会的関心や授業以外の課外活動、人格形成の過程での進路・学習研究内容選択に関する試行 錯誤は否定されるべきでないし、それに伴う留年は、むしろあり得るべき当然のことではなかろうか。
■ 全室個室。集会室なし。 @個室について よく新入生などにアンケートをとると、個室を希望する者が多いと言われている。また個室は個人のプライバシーを守れると言 う。しかし多くの者が学寮において個室を希望するのは、ただ単に自分の今までの生活を変えられたくない、他人に干渉された くない、というだけのものではないだろうか。互いに自己を確立したうえで互いのフライパシーを守るというものではなく他人との 摩擦・ぷつかり合いを恐れ、個室に逃避しているだけではないだろうか。 A集会室について 寮の教育的意義と寮生の経済的権利から自治会の存在が導きだされれば、集合室は寮生の自治会活動または相互の討論 関係を保障するうえで、ぜひ必要なものであると認識できよう。 大阪大学新稲寮(女子)は1979年に廃寮され、1981年に新々寮化された。40人規模の寮をわざわざ壁で4ブロックに 仕切り、学生を分断している。浴室・補食室がブロックごとに設けられており、それぞれのブロックは互いに完全に独立している。 他のブロックヘ移動するにはいったん外へ出て、別の玄関から入らなければならない。各ブロックを隔てる壁には「非常の際には 破って逃げるよう」と標示されているが、ふだんこの「非常口」を通路にすることは固く禁じられている。寮外生は面会室までしか 入れない上、その面会室は寮とは別棟のわすか6畳程度の部屋である。
■ 寮食堂なし 寮食堂の意義については、安価な食事を提供するという重大な意義とともに、健康な食生活を保障するという意義をも持って いる。寮食堂がなくなれば、当然経済的な圧迫が増すことになるし、食費に多くを割けない者は食事内容に大きなしわよせが加 わる。これは学寮の厚生施設としての意義の放棄である。 ■ 負担区分完全適用 @水光熱費の公私区分について 負担区分とは、寮内で使用される水光熱費のうち「私的」区分を寮生に負担させる、というもので、例えば廊下は「公」て居室 は「私」と分けられる。吉田寮では負担区分交渉の際に、断固として公私区分をうけいれなかった。現在は全使用量のうち(細 かい点は省くが)47%か寮生負担分となっている。 吉田寮が公私区分を受諾しなかったのは、この公私区分を近代資本制のイデオロギーと認識し、負担区分の適用はイデオ ロギーの押しつけであると判断したからだ。 象徴的二分法なる近代の思考によって、二分された一方は他方に差別され抑圧され搾取されてきた。例えば、男と女、市場 と市場外、都市と農村、健常者と障害者、資本家と労働者、などである。「公私」区分もそれら同様で、「私」は「公」に押さえつ けられ、「公」のためにこそ存在しているというイデオロギーてある。生産すなわち貨労働を基準とした「公」と、生活すなわち労 働力再生産過程とされる「私」という二分法そのものが、資本の包括した限りでの生産を基軸として成立する極めて資本主義的 (アングロサクソンの)特殊性を帯びているものなのだ。
A受益者負担主義について 利益を受ける者が、利益を受ける事業の費用を一部負担する、というのがその意味である。学寮の負担区分はしばしばそう 呼ばれる。確かに、「自分で使ったものは自分で払え」というのは資本主義の大原則であり、一見正しい真理のように思えるか もしれない。しかし、これには当然なから「誰が・どんな状況で」という条件がつかねばならない。福祉の枠のことである。従って 受益者負担は妥当な場合もあり、そうでない場合もある。「誰もが、いかなる状況においても、自分で使ったものは自分で払え」と いう考え方は、学寮の福利厚生施毀としての意義を否定することになり、われわれの金銭負担を増加させることによって経済収奪 を強化し、課外活動を行う金銭的余裕を、或いはアルバイトによってその時間的余裕を、奪うものである。 B負担区分通達の不当性 負担区分の適用を促した2・18通達は、上記に書いたように学寮の福利厚生施設としての意義を否定するものであるが、ま ず「経費負担」というわれれの権利義務に直接影響のある事項について、すなわち通達によってなし得ないことを、議会による 立法でなく通達の形式でなしているので、憲法のいう「国民主権」に反している。また、通達は行政機関・職員を拘束するが、わ れわれ学生を拘束しないものである。そして学寮の福利厚生施設としての意義の否定は教育の機会均等に反し、違憲と言える。 以上のように違憲・無効・不当なる2・18通達を遵守して負担区分を強要するのは、憲法への侵犯行為でてあり、不当な行為である。
■国家と大資本のためにある京都大学 京都大学には現在、文・教育・法・経・理・医・薬・農・工の九学部がある。このうち理・農・工などの理科系学部におい て人々のためではなく国家や資本のための研究を行っている講座が、環境破壊などの問題で学生・研究者・地域住民 などから批判されている。 大阪府泉南郡熊取町に京都大学原子炉実験所がある。全国平均の二倍以上の人口密度をもつヘッドタウンのどまん なかだ。この原子炉は1964年に始動したのだが、建設以前から現在にいたるまでずっと多くの問題をかかえており、地 域住民の反対にあっている。 今から30年前の1956年、文部省が関西に研究用原子炉の建設を決定したのをうけて、京都大学・大阪大学からなる 準備委員会は建設候補地に宇治を選ぶ。しかし宇治は大阪の水源淀川の上流ということで下流住民の反対にあう。その 後、高槻・交野・四条畷といずれの建設候補地でも反対運動がおきて計画は実現しない。結局、泉南郡熊取町で反対住 民に「一切の放射能は出さない」などのできもしない約束を「おぼえ書き」として示し、建設了承にこぎつけた。1961年着 工、1964年始動したこの原子炉は、「おぽえ書き」に反して、1971年、ガスの漏出箇所を調べるためにわざと放射性ガ スを生成させるという非常識な実験を行い、放射能を放出した。1979年4月にもセシウム134・セシウム137という放射 性元素をたれ流し、同年9月にもコバルト60を相当量含むビ二−ルホースを露天で焼却して、放射能の灰・煙を辺りにま きちらしたが、京都大学は汚染土壌の回収も地元への謝罪も行わず、「微量だから安全」とくり返すだけだった。それだけ ではない。さらに二号炉の建設計画もおし進めようというのだ。
1972年に京都大学が臨界集合体実験装置の建設計画を発表したとき地元では「二号炉につながるのでは」という強い 抗議があった。これに対し、大学側は「そんなことはない」と説明して建設を強行したか、ミニ原子炉とも呼ばれるこの実験 装置では二号炉建設に要するデータが着々と出されている。二号炉建設への国(科学技術庁)の安全認可は1978年に おり、地元の大阪府原子炉問題審議会でもすぐに安全専門委員会が一次報告を出した。ところがこの報告は、実にズサ ンなもので、耐震設計の不備・炉の材料の欠陥を専門家に指摘されたため、審議会は安全専門家から補足説明を受けて それで二号炉建設にOKを出そうとした。しかし住民がその補足説明を傍聴しようとすると「説明会はは中止」と偽って他の 場所で秘密会議を開き、それが発覚して計画はすべて失敗におわった。その後スリーマイル島原発事故や一号炉の放射 能汚染発覚などのために二号炉の審議は中断せざるを得なくなったが、1981年に安全 専門委から二次報告が出た。しかしこの二次報告もまた、いくつかの活断層を無視した過少地震評価・仮想事故時の被 曝量の異常な安全基準など多くの問題がある。 結局、住民の反対運動が優勢、というよりも京都大学熊収二号炉計画はあまりにひどすぎるという世論が優勢で、1978 年に国の安全認可かおりて7年経過した現在も二号炉建設は実現のメドがたたない。
京都府と福井県の境、丹波高原の奥座敷に、京都大学農学部は演習林をもっている。この京大芦生演習林は、面積 四二〇〇町歩のうち約半分が原生林に近い状態で残されている、という近畿以西の西日本全域でも有数の広域なもので ある。朝日新聞社の選んだ「日本の自然・百選」にも含まれている。古いところでは明治の植物学者、中井猛之進が「植物 ヲ学ブモノハ一度ハ京大ノ芦生演習林ヲ見ルベシ」と題した文の中て、芦生に大自然が残されていることを「感嘆スル外ハ ナイ」と述べている。古くから周辺の山村のひとびとは、トチ・クリ・クルミなとの木の実、フキ・センマイ・ワラビ・ウドなどの山 菜、シメシ・ナメコ・マイタケなどのキノコ類、ヤマブトウ・ヤマナシ・スモモなとの果実、クマ・シカ・ウサギ・イノシシなどのけも の、ヤマメ・イウナ・ウグイなどの魚、といった豊富な大自然の恵みを利用してきた。現在の演習林は生態学・林学・林産工 学・社会学などの恰好のフィールトとして多くの研究者・学生に利用されている。一方、周辺の町村は過疎に悩まされて「開 発」を待っている。 そんな演習林の中心に、大規模なダムを建設する計画を関西電力か発表した。1967年のことである。京都府北桑田郡 美山町京大演習林内につくった上部ダムと福井県遠敷郡名田庄村につくった下部ダムとを地下パイプてつなぎ、140万 キロワットを発電しようという計画だ。具体的には若狭湾岸につくった大飯町原子力発電所の夜間余剰電力で、福井側の 下部ダムから声生演習林の上部ダムヘ水をあげ、昼間の電力消費ピーク時にその逆、つまり上部ダムから下部へ水を 落として発電する、ということをする。いったんつくった電気エネルギーを水の位置エネルギーにして貯めておき、再度電気 エネルギーにかえて使うのだから、マイナスエネルギー源として働くわけだ。その効率は70パーセント。なぜこんな馬鹿ら しいことをするのか。それは原発が急停止・急始動のできない存在だからであ る。一度動かしたら一日中運転させなければならない原発の、尻ぬぐいとしてこのダムは立案されたのだ。
1965年、関西電力は100万キロワット級の揚水発電所建設を計画。1966年に福井県側・京都府側双方に予備調査 (ダム建設の可能性調査)の申し入れをした。福井県側は過疎化対策にメリットありとして建設に同意、水没予定集落の 立ちのき補償交渉に入った。一方、京大演習林は美山町からの借用地(京都帝国大学が大正10年に99年の契約で借 りた)なので、演習林の地権者である九ケ字財産区管理委員会に予備調査を申し入れ、地上権をもつ京都大学にも調査 許可願を出した。案の定、関西電力は「ダム建設可能」との判断を下し、1967年には建設計画の公式発表を行った。と 同時に、事前調査(建設を想定した環境影響調査で、これをOKするとその後工事を中止させられないので事実上の着工 になる)を申し入れる。ダム建設をもちかけられた美山町ては、町議会において「安全性が確認さない限りダム建設は許可 しない」ことを決議し、民間でも1968年にダム反対期成同盟が結成されて町長・府知事・京大に調査の不許可を要請し、 反対署名を集めた。京都大学はそれとは別に独自調査をし、「ダム建設予定地 はわが国の生物学界・京都大学の学術研究にとってかけがえのない貴重なものであり、ダム建設は学問に支障をきたす ので、調査を認めない」と発表する。 これで計画は一時棚上げとなる。 しかし、調査不許可のおもわくは別の所にあったのかもしれない。関西電力は福井県名田庄村への計画中断の通達の 中で、京大の学内事情について、「全国的に学風紛争が拡大の一途をたどりつつある…紛争の原因である70年安保が 終らなければ京大側との話しあいがすすめられなくなった。大学紛争が収まりしだい早急に大学側と話しあい、そして本工 事に着手したい」と述べている。
その後、何としてでもダム建設を誘致したい名田庄村長は、姻戚関係にある.福井県知事とともに美山町を訪れて町長 を説得、関電・京都府幹部らとも談合を重ねてダム建設計画推進を行政レベルで確認しあう。これら地元の動きを背景に、 1978年関西電力は、建設予定地を当初の「上谷」からその後の皆伐によって大部分が造林地になった「下谷」へずらし た再計画案を京大に打診する。この「下谷」も以前は「上谷」と同様にうっそうとした原生林だったのだが、60年から70年代 にかけて演習林の施業計画で伐採地に指定され原生林が皆伐されたのである。ダム計画と前後しているのは偶然の一致 かどうかわからないが、とにかくこの「下谷」に建設するなら貴重な原生林の破壊にはならない、と判断した関電が巧妙な策 をねったのだった。 1982年予備調査の申し入れを受けた京都大学は調査を許可、翌年には建設可能の報告が美山町に出される。関電の 事前調査の申し入れは美山町に対して非公式になされ、京大には何もなされないまま1984年になる。この年、京大農学 部の演習林長は「調査は受け入れられない」との見解を明らかにして関係者に安心感をもたらした。しかし、ダム建設計画 はその後「山村振興計画」と名をかえて美山町から京都大学に提出される。この計画は、下谷にダムを建設しダムを見下 ろす展望台を作る、上谷を「冒険の森」にしてケヤキ坂にはスキー場を作る、ダム周辺はレクリエ−ションゾーンにする、と いった演習林の観光地化が目的のものである。「演習林の地元への活用」ということばの影にダム建設を隠蔽したこの計 画の立ち入り調査に対して、京大はまたもや安易に許可を与えた。 原発の尻ぬぐいとして考案された芦生のダムは火力・原子力あわせても全国一の発電力をもつことになるが、ロックフィ 式なので重力式よりも損壊の危険性が高い。加えて最近ではダムが地震を誘発するという事実も例証されている。損壊 ・地震・水害などの不安を下流住民に与え、周辺住民にも河川漁業なとに大きな影響を与えるこのダム計画は、過疎の問 題・原発の危険性・電力需要増大の真偽・自然生態系の破壊などなど、多くの問題とからまりあってまたまたあちこちに論 議を呼んでいる。
熊取原子炉、芦生ダムと同様に京都大学の御用学者が暗躍している例はほかにもある。 現在、国や滋賀県が強力に推進している琵琶湖総合開発もその一つだ。琵琶湖にかぎらず湖の自浄作用においてヨシ 帯の果す役割は非常に大きいが、近年とくに富栄養化の問題が議論を呼んでいる琵琶湖で、ヨシ帯を潰してコンクリートの 湖岸堤を建設しようというのだ。琵琶湖は古くから京都や大阪の水資源として利用きれてきた。 阪神工業地帯に水を供給するため、この「利用」をきらに強化しようというのがそのねらいである。湖岸堤・湖中堤・湖中 橋・管理用道路の建設は、水位を変動させ、ヨシ帯をあるいは水没させあるいは干あがらせる。湖の汚濁が進行すれば現 在おこなわれているような漁業にも大きな影響が出てくるだろうし、自然の景観も損われ、遊泳もできなくなるかも知れない。 この自然破壊の計画に対して、水質の悪影響などについて無責任な発言をし、計画推進に手を貸しているのが京大工学部 の御用学者だ。 また、島根県の中海・宍道湖淡水化計画に協力しているのも農学部の教授である。この計画は中海・宍道湖に生息する 海水性の魚貝類(シジミなど)が湖の淡水化のために生息できなくなるので、これら魚貝類をとって生活している漁民たちに 反対されている。 御用学者はほかにも、東南アジア研究センターや農学部熱帯農学講座などに、うごめいていて、発展途上国からの経済収 奪の強化を研究し巨大資本に貢献している。
ここいらで、引用は終わる。冊子の1/3ぐらいを紹介した。 熊野寮自治会が、国鉄民営化・三里塚に傾倒した主張をしていたのと まったく対比的に、いっさいアクチュアルな政治情勢には触れない 「学園主義的」な主張を貫いた。 政治闘争に関心が無いわけではなく、「持ち場」での戦い(陣地戦) にこそ鍵があるという考えだった。自治空間を守る戦いは、 後退戦を余儀なくされているが、けれど、留年も辞さぬ寮生の執念も あって、かなり維持されていると、いえるだろう。
その陣地戦が同志社では果てしない後退戦となり 結果的に逃亡(逃亡する戦士さえいなかったともいえるが)招いてしまった 学外政治主義排除の全学闘排除の同志社運動の内部規律は やはり学園主義の蛸壺に陥って 蛸足を全部食い尽くしてしまったなれの果てである
ゲバ棒とっては日本一に 夢は大きな世界革命 元気いっぱい一度や二度の 内ゲバなんかに挫けない! オー!がんばれ、強いぞ、僕らの仲間 赤ヘル同学会 赤軍の形見の赤ヘル着けて かける気合の竹ざお部隊 なんの負けるなマルキの楯に 散らす火花の一騎打ち! オー!がんばれ、強いぞ、僕らの仲間 赤ヘル同学会
504 :
革命的名無しさん :2008/09/19(金) 20:04:57
くっさあ!
505 :
革命的名無しさん :2008/10/05(日) 01:13:22
ttp://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2008100400060&genre=G1&area=K00 京大熊野寮に監視カメラ 自治会側が要望「反権力」どこへ
「反権力」「学生自治」の象徴として知られる京都大の学生寮の一つ熊野寮(京都市左京区)に、外部を見張る監視カメラが取り付けられたことが3日、分かった。
カメラは寮自治会の要望で大学側が設置しており、監視社会の容認とも受け取れるだけに「『反権力』の看板は下ろしてしまったのか」との声も上がっている。
監視カメラは8月13日に2台が設置された。1台は丸太町通に面した通用門を見下ろすように建物の2階付近に、もう1台は敷地内の玄関前付近に取り付けられている。2台とも録画機能を備えている。
大学によると、寮自治会の学生らが7月下旬ごろ訪れ、カメラの設置を要望した。
理由として、最近、酒に酔った男が建物内に侵入してきたり、投石によって食堂の窓ガラスが割られる事件などがあり、「抑止力としての効果を期待したい」との趣旨の説明があったという。カメラは寮自治会が管理している。
熊野寮は1965年に完成し、鉄筋コンクリート4階建ての3棟の建物に、現在は約400人の学生などが暮らしている。1960、70年代を中心に学生運動の拠点として、寮自治の在り方などをめぐり大学当局と激しい闘争を繰り返してきた。
熊野寮に住む学生は「学生自治の伝統は続いている。ここで生活するための安全は、自分たちで守りたい」と話す。一方、京大関係者は「あの熊野寮がそんなことを頼むのか、と驚いた。学生運動が沈滞する中で、寮生の気質も変わったということなのか」と語った。
自治とは学生自らの手で守り抜くもの 侵入投石はレポたてて防衛すれば事足りる 管理容認へ自ら筋道つけるなど よく伝統は続いてるなど嘯いたもんだな あきれ果てた
>自治とは学生自らの手で守り抜くもの これを言葉でしか理解できないのが「ゆとり自治」なんだろうなw。 まあ自由から逃走するために、見えない監視者を作り上げて、 安心を恵んでもらいたい気持ちは理解できないわけではないが。 このカメラを利用してネットで「熊野寮TV局」でも作れよ。
その情報が権力に利用されるという発想はないのだろうか。 ま、どうせもう反権力派なんか大して住んでいないんだろうな。 赤軍部屋、中核部屋、今はどうなってるんだろ。
509 :
革命的名無しさん :2008/12/03(水) 18:09:15
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/news4/2008/081220_1.htm とほほ、学生運動・全共闘は、「人類学」の研究対象になりにけり。
京都人類学研究会12月季節例会シンポジウム「学生運動と人類学−全共闘世
代の人類学者に聞く−」
全共闘運動に代表される60年代末の学生運動の時代から、既に40年が経過
しようとしています。世界最大の規模で生じた運動は、当時の社会状況のな
かで生まれると同時に状況を動かし、人文・社会科学の学問分野における思
想的な転換を導いたといわれています。しかし、日本の人類学史を振り返っ
てみると、この時代が人類学の研究や思想にどのような影響を及ぼしたの
か、これまでほとんど検討されてきませんでした。60年代末に人類学を志
した人たちは、この時代をどのように生き、状況と関与したのか、そして
また、その経験は後の思想形成にどのような影響を及ぼしたのか。本ミニ
・シンポジウムでは、全共闘の時代を生きた人類学者からの報告をもとに、
学生運動と人類学者との関わり、さらに日本の人類学的知の系譜を辿ります。
日時2008年12月20日(土曜日) 14時00分〜18時00分
場所京都大学稲盛財団記念館3階稲盛記念ホール (京都大学東南アジア研究所
キャンパス内)会場までの道のりは、以下をご覧ください。
京都大学東南アジア研究所へのアクセス
http://www.cseas.kyoto-u.ac.jp/about/access_ja.html プログラム
14時00分 趣旨説明
14時10分 菅原和孝 (京都大学大学院人間・環境学研究科)
「儀礼的暴力と自己言及の言説 — 大学闘争と人類学の現在 — 」
15時10分 休憩
15時15分 船曳建夫 (東京大学大学院総合文化研究科)
「全共闘のころを懐かしむ」
16時15分 休憩
16時30分 コメント 小田マサノリ (中央大学文学部)
16時50分 コメント 太田心平 (国立民族学博物館先端人類科学研究部)
17時10分 総合討論
18時00分 懇親会
510 :
革命的名無しさん :2008/12/03(水) 18:11:10
菅原和孝 (京都大学大学院人間・環境学研究科) 「儀礼的暴力と自己言及の言説 — 大学闘争と人類学の現在 — 」 この発表は、全共闘運動のクロニクルを回顧的に跡づけるものでは ない。私には逮捕歴もゲバルトの経験もないので、実践者の視点から 運動の意味を論じる資格はない。「心情全共闘」として運動の周辺に いた青年期の自分にとって、あの歴史的出来事は何であったのか。そ れを私に痕跡を残した言説(と少数の逸話)を手がかりにして再考し たい。出発点として、叛乱へのヴァルネラビリティの個人差を指摘す る。叛乱の前夜に伏流していた吉本隆明、大江健三郎、高橋和巳といっ た知識人の思考にも注目する。さらに、闘争の本質は、<儀礼的暴力の 開示>と<知の自己言及>にあったという論を展開する。ただし、実践者 はそれを「まじめな暴力」として追求せざるをえなかったことを強調す る。出来事の神話化を拒み、「始まりも終わりもない」闘いを「今ここ」 の場で直示する必要がある。メルロ=ポンティの「自由」論をヒントにし て、身体性に基盤を置いた「革命」の可能性を、青年期の聴衆と共に考 えてみたい。
511 :
革命的名無しさん :2008/12/03(水) 18:12:20
船曳建夫 (東京大学大学院総合文化研究科) 「全共闘のころを懐かしむ」 こんなテーマ、「学生運動と人類学」が成立するのかな、と思いなが らもお引き受けしたのは、無理なお題で頭をひねるのは、大喜利の落語 家ならずとも、よい試練になると思ったからです。さて自分のことを語 るか、他の人たちについて語るか、昔話を中心とするか、現在に焦点を おいて論ずるか、と、考え、自分の、それも昔の自慢話を披露しようと 思いました。 それは、偉人たちの事跡ではなく、名もなき庶民の暮らしに目を向け る歴史学が盛んであることを思うと、私のささやかでノスタルジックな、 それでいてかなり、大小の有名人が出てくる一つ話の繰り言が、本人の 過剰な自意識の深いところで、無意識の証言たり得ると考えたからです。 しかし、そのためには、聞き手の力量に負うところが大きいのです。鼻 白むのではなく、「ふっふっふ」と余裕の態度で、「それで何?」など と言わずに、「ということは、こうでもあったとは思いませんか?」と、 批判していただきたいと思います。 お願いまで。
512 :
革命的名無しさん :2008/12/04(木) 22:45:12
age
514 :
革命的名無しさん :2009/01/13(火) 12:27:09
またage
学友会解散はしってるけど、同学会は今もあるの? タテカンなどは見かけないけど…
516 :
革命的名無しさん :2009/01/29(木) 00:41:00
同学会は今も昔も 自他共に認める全学自治会僭称集団として健在です。
517 :
konndo- :2009/02/01(日) 19:23:34
兄弟は確かにすごい。
化学けんきゅうじょの斧県なんか
「教員」はめっちゃすごい。
でも学生はひどいのもいる。しかもD
コンドー浩太 kondou「アットマク」ssc1.kuicr.kyoto-u.ac.jp
(例Q例ー誤87誤ー誤7例例)
なんか最低・・だと聞く。。
三重大からのロンダ。
研究ぜんぜんしない。
秘書の女性の体触ったりするので教員不在の飲み会の場が凍りつく
俺らは止めるけど見えてないところでは何やってるかわからない
学部時代の研究の説明も聞いたが
何もしてないみたい。「(指導してくれた先生は)こう言ってました。
(指導してくれた先生いわく)こういうことらしいです。
(指導してくれた先生が実験してくれて)こういうデータでました。
(指導してくれた先生いわく)こういう意味があってこんな結果でて
こんな考察です」って発表で聴いてて嫌になっちまうよ・・・
Dにもなって研究せずに文句ばっかいって助教の火災先生に
実験させてデータもらってんだもんな学部時代からやって無くて当たり前か。。。。
京大をよりよくするためにまず、屑の排除からすべきと思って書き込む。
しかし、悔しいが、俺は同級ゆえにその力が無い。。。
現状でやれることといえば、世論に訴えて行くしかない。
そしてその声を上の人間にわかってもらい動いてもらうしかないのだ。
俺ももちろん言うだけでなく斧県で全力でがんばるから、、
協力をお願いしたいと思う。。
ペンは剣よりも強いことを思い出して欲しい!! 斧県
http://ssc1.kuicr.kyoto-u.ac.jp/indexj.html
↑こんなとこじゃなくてタテカンに書いてよ
519 :
革命的名無しさん :2009/03/10(火) 18:16:34
age
しかし
>>517 ひどい文章だな なんだか情けない
520 :
革命的名無しさん :2009/03/11(水) 20:44:47
市田良彦氏が、塩見孝也氏と鼎談していて、塩見氏が、ミクシーで公開している。 市田氏はネグリや1968年の視点から、赤軍派に 一定の評価を与えるという視点があるわけだけど。そこから赤軍派の「戦術」を再検討しているw 市川氏は機関紙「赤軍」を塩見氏から借り受け、丹念に検討したようだ。 やっぱ最終的に68年は、赤軍がでてくるのかなあ。 雨宮も塩見の弟子だし。 塩見は、すっかり、この世界不況に発破をかけられ、昔の関西ブント「過渡期世界論」に戻っていて、 革命的ロマンティシズムを 再び唱え、俺は一貫している、といっているわけだけど・・・ どうですか、みなさん、もう一度!
523 :
革命的名無しさん :2009/03/23(月) 14:41:09
首切り村はどないなってん?
524 :
革命的名無しさん :2009/03/30(月) 14:10:07
525 :
革命的名無しさん :2009/04/08(水) 09:40:47
私たち京都大学農学部学生自治会常任委員会は、琉球大生有志による座り込み闘争を圧倒的に支持し連帯の意をここに表明します。 これは、琉球大学当局が非常勤講師の仕事の多くを取り上げ、また学生から、人生を豊かにするものとしてのリベラルアーツ(教養科目)に触れる機会を取り上げることに対し、満腔の怒りを表明するものです。 同時に、大学という場所を通り過ぎる場として見なさず、あるいは見えぬことにしてつつがなく過ぎ去るのではなく、大学という一つの社会の問題に否を突き付けるあなた方有志の感受性と行動力に敬意を表します。 大学の事務も講義も非常勤の皆さんにその多くを負っています。 にも拘らず、労働条件における差別的待遇と身分の不安定さは隠しようもありません。 現に、京都大学でも解雇が迫った非常勤職員による座り込みが現在も継続して行われています。 今回琉球大学で解雇されようとしている非常勤講師はあくまで授業1コマに対してしかその報酬を支払われず、他方で長時間の移動を余儀なくされ時間外労働はないことにされ、非常勤講師用の空間はろくになく、契約は1年や半年単位であり状況の改善はなかなか見込めません。 今も昔も大学教育において非常勤講師が多用されている以上これは構造的な問題です。 私達の大学にも同様の問題があります。この構造を変えていかねばなりません。 次にリベラルアーツについてです。近年就職活動のためのプログラムや、就職後即役に立つ知識の涵養が強く求められまた実施されていますが、他者との経済競争に勝つためだけに「知」はあるのでしょうか。 自分の内面を豊かにするもの、世界を見る目を養うもの、あるいは理想に向けて共有されるものとしての「知」の在り方はそこから発する問や闘いとともに次々と抑圧され潰されてきました。 そして今回の語学切り捨ては琉大生は視野を広げる必要などないんだと琉球大学自ら宣言するようなものではないでしょうか。 私達は「知」を権力者の道具としてではなく、人生と社会を豊かにするものとして私達の側に取り戻さなければなりません。 この「気付き」のチャンスが無にされないことを。 階級の再生産に終わらない大学と知の在り方を目指して 2009年3月25日 京都大学農学部学生自治会常任委員会
526 :
革命的名無しさん :2009/04/08(水) 10:29:59
527 :
革命的名無しさん :2009/04/08(水) 12:23:50
528 :
革命的名無しさん :2009/04/08(水) 13:32:07
>>506 証拠映像にするため。つまり、何かあれば自主管理ができないなどといって
言いがかりをつけられて閉鎖される可能性があるからだろう。
今起きている窓ガラスがわられるなどの行為や投石は通常の人間がやっているのではないだろうからね。
法大の場合をよく考えたら、誰がしかけているかはわかるというもの。
法大学生会館が放火されてここまできたのを厳粛にとらえているからさ。
熊野が同じ手口をやられる前の防衛だろう。
529 :
革命的名無しさん :2009/04/08(水) 13:34:58
つまり、監視カメラを街頭に置きだしながら、自ら自作自演でもなんでも やる「連中」に対抗して、自主管理として学生側が運営できるという実態を しめしているからカメラが必然的に用いられているということにすぎない。 レポをたててそれでよしとしていたら、法大学生会館の二の舞になってしまう。 お分かり?あなたの時代と今は違って、カクマルじゃなくて権力が直接乗り込んできているんだよね。
530 :
革命的名無しさん :2009/04/08(水) 22:12:23
531 :
革命的名無しさん :2009/04/08(水) 23:08:20
どこをどうよんでそうなるのか?馬鹿ウヨめ。
532 :
革命的名無しさん :2009/04/08(水) 23:11:55
馬鹿ウヨは熊野寮が閉鎖されてほしいから、いいがいりをつけているんだよね。 自主管理に対して当局や権力から言いがかりをつけられる前に、学生がちゃんと自主管理できている という主張としてカメラを設置しているというもの。 また、熊野寮には投石がすでにあるのだから、権力や右翼から放火される可能性すらある。 それは法大学生会館の放火と閉鎖と解体をみればわかるものだ。 トンキン湾事件、満州事変、江華島事件、いずれも権力は謀略を行って 目的をはたそうとするものだからだ。 権力の提灯持ちにとって、こうした指摘は邪魔したくて仕方がないそうだ。
533 :
革命的名無しさん :2009/04/08(水) 23:13:07
>>507 馬鹿ウヨまるだし。「ゆとり云々」とはいかにも馬鹿ウヨの言葉だ。
馬鹿ウヨまるだしだぞ。
534 :
革命的名無しさん :2009/04/20(月) 10:38:19
がんばれくびくびカフェ!
535 :
松山 赤○○字 病員 清 掃 商 事 :2009/04/22(水) 00:56:22
職場のパワハラで再発した鬱が原因で死にたいです 愛媛県松山市です
536 :
革命的名無しさん :2009/05/04(月) 10:29:28
537 :
革命的名無しさん :2009/05/06(水) 05:53:48
>>532 対カクマル戦の70年代の方が今の何十倍も、
カクマルからも公安警察からも
武装襲撃や謀略がかけられる危機状況にあったはずだろ。
そのことを想像できないこと自体が中核派の危機じゃないのか?
当時は熊野寮はノンセクトだったけどさ。
むしろ80年代前半に中核派が武装登場してノンセクト&他党派を暴力的に追い出した。
538 :
革命的名無しさん :2009/05/06(水) 07:43:02
監視カメラに関して―。 モニターが学生の手にあることは知っています。「権力が監視する わけではないのだからいいじゃないか、むしろ権力から身を守るための ものなのだ」という見解は一理あるにしても、では今後、当局側の論理 にどう対抗していくのか、ということです。今の大学は「安心・安全化」 を掲げて監視カメラを導入しているのですから、学生自身が安心・安全化 を掲げてしまったのでは対抗の仕様がないではないか、と。 対「公安謀略」を強調する方もおられるようですが、権力との緊張関係 は現在よりも70〜80年代の方がずっと高かったのです。 法政学館にせよ、熊野寮・西部講堂にせよ、反権力的アジールでは 大いにリスクを背負いながら自主管理が営まれていたのです。 そこには公安・スパイの入り込む余地も充分あったわけです。 しかし、解放的空間とはそういうものであって、対権力的防衛の強調は 熊野寮の<前進社化>に他なりません。熊野寮は革命組織の拠点では ないし、あってはならないのです。 「安心・安全」か、それとも「自由・解放」か、です。 じゃあ、謀略的放火が行われたらどうするんだ!?という問いには 「その時は、その時。それが謀略であったなら断固として暴露し闘う!」 と答えるしかないでしょう。 【2008/10/25 02:56】 | 一日千秋のプロレタリアート #- | [edit]
539 :
革命的名無しさん :2009/05/06(水) 14:46:50
吉田南の中核派テント【革命村】があまりにイタすぎる件について
540 :
革命的名無しさん :2009/05/06(水) 17:26:43
革命有理!糞ウヨ粉砕!
541 :
革命的名無しさん :2009/05/06(水) 17:54:41
テロリストは日本から出てけ!
542 :
革命的名無しさん :2009/05/06(水) 17:56:00
ボンクラテロリストは日本から出てけ!お前らみたいな大バカ者がいるから日本が腐るんだ!今すぐ出ていけ!
543 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :2009/05/06(水) 22:19:52
「テロリスト」日本には古来存在しない観念を振り回す人間こそ、 出て行くがよろし・・・とか書いてみる。 晋作も小五郎もテロリストぴょん。
544 :
革命的名無しさん :2009/05/07(木) 09:26:07
>>吉田南の中核派テント【革命村】 何それ? まさか時計台前のユニオンエクスタシーじゃないよね? 俺は断固支持だけど。
545 :
革命的名無しさん :2009/05/10(日) 02:12:36
546 :
革命的名無しさん :2009/05/10(日) 04:39:16
>>538 法大の学生会館の解体理由をふまえての決断だろ。
お前さんの時代と違うわけだよ。
547 :
革命的名無しさん :2009/05/10(日) 04:39:57
タカモトさんはテロリスト?
548 :
革命的名無しさん :2009/05/10(日) 04:44:26
「その時は、その時。それが謀略であったなら断固として暴露し闘う!」 それでは、自ら攻勢を予防することを放棄することになる。 いいがかりをつけられる前に自主管理ができているという事実を証明するものとして 存在しているということに気づきなさい。 これだから、過去系の活動家は馬鹿なんだよな。
549 :
革命的名無しさん :2009/05/10(日) 04:49:05
法大学生会館の場合は寮じゃないから簡単に放火できたかもしれないが、 熊野寮は人が住んでいるから、うかつにはできず投石ですませているのだろう。 いずれにせよ、「学生には自主管理できませんねぇ」という口実に使われるのは必定。 学生自治破壊がどういうところから行われるか法大はいい証明役になっているといえよう。 「自主管理できている証、投石の犯人を抑える意味、これから仕掛けられる可能性が高い 不測の事態に即して自主管理するのは当然」なんです。 「その時は、その時。それが謀略であったなら断固として暴露し闘う!」 なんていっても そのときではすでに遅い。 ましてや、監視カメラがなければ犯人すらわからないではないか。
550 :
革命的名無しさん :2009/05/10(日) 06:00:10
学生寮をすでに投石事件が相次ぐなど「不審者」から守るという意味でも、「自主管理」に ほかならないので、監視カメラの設置は断固として継続していくべき。
うちはだいこは自分自身の言動をしっかり管理しろ。
552 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :2009/05/10(日) 10:27:10
実際、寮では昔から盗難問題があったし、謀略放火もあったわけだ。 監視カメラの問題は、設置そのものではなくて(そんなことを言えば 繁華街とかジャスコとか歩けなくなる)、誰がどのように利用するか、 であろう。 それから。熊野寮で中核派のヘゲモニーって、もうないと聞いている んだが。どうなんだろう。
553 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :2009/05/10(日) 10:38:53
俺は後輩たちの決断を尊重したい。
554 :
革命的名無しさん :2009/05/11(月) 03:49:21
タカモトさんと一致しました。 >誰がどのように利用するか、 >であろう。 そのとりです。権力が乱用するとでっちあげに使われるわけですが、 学生側であれば謀略放火を防げますね。 >熊野寮で中核派のヘゲモニーって、もうないと聞いている >んだが。どうなんだろう。 数年前に私が遊びに行ったところ、中核のヘゲはなくノンセク・一般学生が つめていて、農学部自治会をよんでもらった記憶があります。 >俺は後輩たちの決断を尊重したい。 まったく正しい。いろいろありましたが、ここはひとつ、 今度、一緒に法大生応援か、熊野寮訪問にでかけてみませんか?
555 :
革命的名無しさん :2009/05/11(月) 03:54:05
かつてはカクマルゲバ、今は権力が攻撃しているといっもいい。 それに即した防衛であってよかろう。 相手は謀略と法律でくるのだから、合法的に防衛していけばよい。
556 :
革命的名無しさん :2009/05/11(月) 04:44:18
うちはだいこは気持ちわるいのう。
557 :
革命的名無しさん :2009/05/11(月) 05:24:59
と石川の右翼団体員名瀬こばとが書き込みしています。
558 :
革命的名無しさん :2009/05/11(月) 11:21:02
>>555 >相手は謀略と法律でくるのだから、合法的に防衛していけばよい。
カクマルの論理そのものじゃん。
559 :
革命的名無しさん :2009/05/11(月) 12:21:53
うちはだいこは早稲田か和光に逝って埃になれば良かったのに。
560 :
革命的名無しさん :2009/05/11(月) 12:29:41
tamo2と友だちになりたかった説どころか、今から友だちになろうとしてるよコイツ。 しかも呼び方は相変わらずふざけてるし。 にゃにゃにゃにゃにゃとも和解と馴れ合いしたいのかな、やっぱり。 ああキモい。
561 :
革命的名無しさん :2009/05/12(火) 03:40:52
石川の右翼が介入したがっています。右翼は分断がいつもの手口だからね。
562 :
革命的名無しさん :2009/05/12(火) 03:41:52
>>558 権力と民間反革命の攻勢は、個別・具体的でなければならないという意味を
理解しないのはお前が右翼だから。
563 :
革命的名無しさん :2009/05/12(火) 12:29:53
たいこだとか中核だとか同学会にも学友会にも関係ないんとちゃいまっか
564 :
革命的名無しさん :2009/05/12(火) 12:45:21
カクマルはもっと無関係。
565 :
革命的名無しさん :2009/05/12(火) 12:50:01
かっきゅーどー関係の皆さんはどっか他のとこで荒れなさい。
566 :
革命的名無しさん :2009/05/12(火) 12:51:38
567 :
革命的名無しさん :2009/05/17(日) 03:27:07
568 :
革命的名無しさん :2009/06/01(月) 09:10:52
産経新聞、京都新聞につづき、読売新聞でも報道された。「拠点だった」という書き方が、癪
だなあ。いまでも赤ノンの学部自治会の関係者が多数が、寄りシロとしていて、同学会の
連絡先でもあるんだが。「在寮期限」を2年とするという当局案はクソみたいな提案だ。
<国内最古の京大「吉田寮」建て替え、大学側が計画案提示>
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090601-OYT1T00048.htm?from=main5 京都大が寮生に建て替え計画案を示した「吉田寮」(京都市左京区で)現存する学生寮と
しては国内で最も古く、かつては学生運動の拠点だった京都大の「吉田寮」(京都市左京区)
について、大学側が寮生らでつくる自治会に対し、具体的な建て替え計画案を初めて示したこ
とがわかった。
建て替え計画は30年以上進んでいなかったが、建築後1世紀近くたって老朽化、耐震性に
懸念が出てきたことから、これまで大学側に反発してきた自治会も交渉に応じている。
京大関係者によると、吉田寮は1913年(大正2年)建設。木造2階建て3棟で定員約
150人。現在の寮費は月約2500円で、自治会が運営や入寮者の選考などをしている。
大学の計画では、2010年度に寮西側の旧食堂棟を取り壊し、現在の寮生と留学生約180人
が入居する「A棟」を新築。その後、寮を取り壊して「B棟」を新たに建て、全体の収容人員を
約400人に拡充する。
569 :
革命的名無しさん :2009/06/01(月) 09:11:58
このうち、A棟新築については、6月までの合意を目指す大学側に対し、自治会も「安い費用
で住める寮の定員が増えるのは、ありがたい」と前向きで、寮費や入寮期限の設定などを巡って
話し合いが続いている。
ただ、寮の取り壊しが前提となるB棟建設に関しては紆余(うよ)曲折が予想される。「学生の
安全が第一。ぜひ、実現したい」とする大学側に対し、自治会は「寮はライブや演劇の会場とな
るなど、学生の文化施設の役割を果たしてきた。愛着を持ち、残してほしいという声も大きく、
建て替えは慎重に検討したい」としている。
吉田寮は、1960年代の大学紛争で闘争の主要な舞台となり、警察の家宅捜索を受けたこと
もある。建て替え計画は、在寮者名の確認や在寮期限の設定などを求める大学側に学生らが反発、
決裂を繰り返してきた。ところが、耐震性への懸念が大学内外から相次ぎ、大学側は昨年11月、
改めて建て替えの意向を表明。今年4月、計画案を示した。(2009年6月1日05時27分 読売新聞)
(当局案)
http://chimidoro.web.fc2.com/090420kihonnhousin.pdf (経過)
http://www3.atword.jp/toujin1985/2009/04/30/ ↑ なんか読売新聞の記事は、wikiや他からの、盗作ぽい記事だな。
570 :
革命的名無しさん :2009/06/03(水) 06:37:52
571 :
革命的名無しさん :2009/06/23(火) 13:07:21
572 :
革命的名無しさん :2009/06/27(土) 23:08:56
573 :
革命的名無しさん :2009/07/04(土) 19:26:30
同大の1977年5.19前後は今から思えば異常だった。 規約に依拠せずに学友会が新体制になるし、 「同大学生運動有志」とかいう情ない団体が 此春寮を襲うし。 詳細は避けるが、当時の新旧学友会ともに人的レベルはかなり落ちてた。 ファッションみたいなやつもおったし。 ただし、サークル戦線はレベルが高い時期もあった(法共闘も含む)。
574 :
革命的名無しさん :2009/07/04(土) 19:41:12
5.19以降も学術団本部では見るべき取り組みがあったのだが、 学友会全体としてはナツメロ路線へ走っていった。 10.8の10周年記念集会や、完全に復古の時限バリケード路線=中でコンサートとかする。 これを70年代後半にやってたんですよ。 しかも血の気は多いから、民青を追いかけた学友会幹部がパクられるし。 ヘルメットが赤いだけで、BUNDの匂いはあなり感じなかったな。 まあ、私も田辺とかいろいろやりましたけど。 何せ高校が中核派系でしたので、歯がゆかったです。
>>574 >しかも血の気は多いから、民青を追いかけた学友会幹部がパクられるし。
たしか「T君I君」でしたね。
こっちの大学では、マックスとかいうひとは、組織化能力のあるかたで、
彼が民告で停滞をまねいたのが、その後の学友会にとって、いたかったと。
>10.8の10周年記念集会や、完全に復古の時限バリケード路線=中でコンサートとかする。
コンサートや寸劇、パロディといった仕掛けは、重要だよ。チャップでさえ、
尚賢館の前で、黒服・チェーンで超パンクを爆音で演じ、それをみた公安は
唖然としていた。
576 :
革命的名無しさん :2009/07/05(日) 20:00:36
>>575 やっぱ、バリの中は反スタや宇野経を巡る議論とかがいいんじゃないかい?
当方、高校時代からノンセクながら中核派とかセクトの友人がたくさんいたんで、
そういう「仕掛け」はなじめないんです。
577 :
革命的名無しさん :2009/07/05(日) 20:11:42
70年代後半の同大で、何の脈絡もなく 「プロレタリア国際主義と組織された暴力」なんて スローガンを引っ張り出してきたお坊っちゃんがいましたね。 ファッションだけ関西BUNDで。 言うのは簡単、実際にやるのは・・・(w。
578 :
革命的名無しさん :2009/07/05(日) 22:49:04
「赤軍‐PFLP世界革命戦争宣言」の映画ポスター張るだけで、 後は女とチャラチャラ遊び。まさにファッション「左翼」。 で、就職はブラック業界の株屋。 真面目にやってきた俺としては、愛想つかす以上のものがあったな。
579 :
革命的名無しさん :2009/07/05(日) 23:15:53
578だが、これは学友会の一部メンバーに限ったこと。 P(新聞局)・B(放送局)・団(学術団本部)の各闘争委員会に結集した 多くのサークル員は田辺町移転粉砕等を果敢に闘った。 とは言っても、70年代初頭の中核派暴動闘争や、 74年同大学費闘争とは比較できないけどね。
580 :
革命的名無しさん :2009/07/05(日) 23:45:55
74年2・6政治集会以降の同大全学闘、 つまり学費闘争の自然発生性に、自らが思う目的意識性を対置した組織は 関西BUNDとして1つの筋を通してたかなと、たまに思います。 末期の同大全学闘は RG(エル・ゲー=ローテ・ゲバルト=赤い暴力)の影響が強かったとも言われていますが。 まあ、サークル員としては迷惑な存在でしたけど。
吉田では、ヤギさんが静かに見守っていたし、ヒゲさんもいた。 タカセさんはいいタイミングで亡くなった。 あまり大きな声でいえないが、全学自治会がいまだに公認なのは 法政や早稲田とは、違う軋むような攻防があったみたい。 まあ、前の総長の尾池さんにいたっては、赤ヘルのコをみると ええコやなあ、って団交をしたがっていたくらいだし。
582 :
革命的名無しさん :2009/07/06(月) 13:27:28
>タカセさん 確か、桜の花をこよなく愛した方でしたね。 亡くなられた時には、毎日新聞が大きく取り上げていました。 >前の総長の尾池さんにいたっては、赤ヘルのコをみると >ええコやなあ、って団交をしたがっていたくらいだし。 同大も、理事が 「赤ヘルの学生、おのがコート脱ぎ、我に着せたり、激論の中」 という詩を残されています。全学闘時代です。底冷えする時期の京都での団交だったのでしょうね。
>>578 へえ、へえ、へえ
そのP局は、なんで、80年代を前にして三上治や吉本新喜劇に
はしっちゃったん? 関大の社寺や新聞から、同人誌ゆわれてた
三里塚へも取材に来いへんし 同大三闘委やタイセーと仲悪いんか
584 :
革命的名無しさん :2009/07/06(月) 16:51:10
>>583 Pは結構いい加減かなと思う。
77年5・19以前は全学闘の投稿も掲載していたのが、
5・19が起これば突然、新学友会支持の興奮した紙面になるし。
Pと、三上や吉本の件は知らんが、70年代後半に
サークル戦線が叛旗的路線に行った時期があるのは確か。
うちに古文書(w)がある。
当時の大成寮は毛派で、三里塚闘争も当時は中心的に担ってた。
関大の状況はよく知らんが、社自は連合戦線として
同大全学闘、滋賀大経自と共同で集会をしてた。
社自=連戦と言い切っていいのかは知らん。
関大新聞会はよう知らん。
585 :
革命的名無しさん :2009/07/06(月) 17:07:20
同大全学闘と大成寮は、少なくとも末期は相容れなかっただろうな。 かたやレーニン主義、かたや毛沢東主義。 寮同士の対立局面になった時期もあった。
586 :
革命的名無しさん :2009/07/06(月) 17:26:39
585 だが、補足しておくわ。 末期の全学闘は、「分散せる大陸革命派を領導する基準を闘い取れ」とか 「レーニンの第2インターとの党派闘争の意義を復権せよ」とか 言っていた(記憶力減退で、細部は違うかもしれん)。 これが権力奪取を鮮明にする「唯一プロ独派」の主張になり、 サークルや寮(特に大成寮=当時、大衆運動に取り組んでいた)を 「経済主義」と規定し、対立することにつながっていく。 そして76年夏の今出川における武力衝突を経て、77年5・19へ つながっていく。
587 :
革命的名無しさん :2009/07/06(月) 17:51:25
タカモトちゃんは、毛沢東主義の赤ヘルを被っていらしたのですね。
588 :
革命的名無しさん :2009/07/06(月) 18:27:23
タカモトちゃんは知らんけど、 同大の毛派大成寮は当時黒ヘルでした。 ちなみに、全学闘の旧学友会に破産宣告をした 当時の二部学友会も黒ヘル。 旧学友会、全学闘、新学友会等は赤ヘルです。 あ、当時は年に1回ほど白ヘルさんが早朝情宣に来ていました。
589 :
革命的名無しさん :2009/07/06(月) 18:30:45
そうですか。 赤軍議長の塩見ちゃんは、赤ヘルブント系でしたね。 当時、塩見ちゃんは毛沢東を評価してましたね。
590 :
革命的名無しさん :2009/07/06(月) 18:31:49
現代のナチス・カクマルがやった白ヘルの福島さん虐殺に関して、赤ヘルの諸君はどのような 意見を出していたのですか?
591 :
革命的名無しさん :2009/07/06(月) 18:50:11
>>590 吉田寮の史料集に出てくる。
基本的には中□vs□○については中立的だが
□○は赤ヘルの関わってた運動にことごとく敵対し
中□とは対立はしていたけど同じ隊列にいたので
□○は球団しF君は追悼の立場。
中□は「赤ヘルの追悼と□○球団はヌルいので反革命」と批判したが。
594 :
革命的名無しさん :2009/08/13(木) 17:50:41
昔、田舎の山中で「スーパー カクマル」(「スーパー かくまる」だったかもしれん) という店を発見した時はワロタな。 スレ違いスマン。
595 :
革命的名無しさん :2009/08/13(木) 17:56:09
594ですが、 「スーパー 角丸」だったかもしれません。 勧業角丸証券という会社もあったし。
596 :
革命的名無しさん :2009/08/28(金) 13:13:44
同大が新学友会になった前後、 サークル内で「赤色サークル主義粉砕」とか 「対当局質的全面対決」とかの言葉が流通していた。 「赤色サークル主義」については、単に好き勝手でいいと誤認する向きも あったけど、「理念の説教師は不要」ということだと思う。 「対当局質的前面対決」は、公式カリキュラムにサークルの関係性の質を 対置することかと。 両者とも、吉本隆明・BUND叛旗の匂いがする。
>>590 福島さんってもともとは赤ヘルだったってきいたよ
昔々の同大新町の教室の黒板に「赤ダニ」とか チョークで一面に書いてあった。 かくまる君かな。 サークルには、明らかにかくまる君系と思える紹介文を 「同志社の栞」に寄せているのがあったけど。 全学闘系学友会は寛容だったんだな。 まあ、昔の同大はゴッタ煮状態。
599 :
革命的名無しさん :2009/09/13(日) 10:38:46
中核=ウジ虫。黒ヘル=ゴキブリ。赤ヘル=アカダニ。青解=青虫。
600 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :2009/09/13(日) 12:15:09
俺に言わせれば革マルは生物ではない。
601 :
革命的名無しさん :2009/09/13(日) 18:53:51
>>599 国労はコックローチなんでしょ?
黒ヘルとはどういう関係なの?
602 :
革命的名無しさん :2009/09/14(月) 01:07:15
603 :
革命的名無しさん :2009/09/16(水) 13:52:41
>>599 第四インター=カマトンカチ
というのもありましたな。
604 :
革命的名無しさん :2009/09/16(水) 13:57:55
603です。連投スマンが、
>>600 にはワロタ。
605 :
革命的名無しさん :2009/09/18(金) 10:52:01
カマトンカチって蔑称なの?
606 :
革命的名無しさん :2009/09/21(月) 20:28:33
>>605 まあ、かくまる君の頭脳の中では蔑称なんでしょうね。
ところで、かくまる君の拠点校って國學院大とか大阪経済大とかあるんだが、
その辺りのレベルの大学生は黒田寛一の衒学趣味が理解できるのかな。
607 :
革命的名無しさん :2009/09/27(日) 07:41:25
吉田寮は建て替えを拒み、「泥沼」のような、まおしはぐだぐだと京都時間 で、時の権力をはぐらかす1200年の知恵というか、まだまだ木造の異能 空間を維持しようと、懸命な努力と忍耐を続けるようだ。 あの、終戦直後の焼跡のような根っからの「鎮守の杜」が、ずっと維持されて 重要文化財になってほしいなあ。 以下引用 「こうなったら何が何でも吉田寮を大規模補修してやる実行委員会」について 去年の10月に、寮生、元寮生、寮と繋がりのある人々で結成されました。 その名の通り、吉田寮の建物を補修して、今後に残すために結成されました。 吉田寮自治会の公式の組織ではありませんが、自治会と情報交換しつつ活動 しています。これまで、京都大学元総長であり地震学者である尾池和夫氏を 招いて寮で講演をしていただいたり、食堂で行われるイベントで寮の補修 を訴えたりしてきました。現在は「おめでとう!吉田寮ほぼ100周年祭」実 行委員会の中心として祭りの準備に勤しんでいます。
608 :
革命的名無しさん :2009/09/27(日) 07:42:17
「おめでとう!吉田寮ほぼ100周年祭」とは 今年の4月頃から大学当局が吉田寮自治会に対して建て替えを提示してき ています。吉田寮を残そうと考えている私達としては、その流れに対抗 するべく、なんらかの行動を起こそうと考えました。現在吉田寮は築96年 目ですが、96年になればそれはもう100年も同義だろうということで、 「おめでとう!吉田寮ほぼ100周年祭」というタイトルでお祭りをしよう ということになりました。 吉田寮では毎年吉田寮祭を行っていますが、今回の祭りでは、寮生、 元寮生、寮と繋がりのある人々との交流をメインに据え、さらに寮に 興味のある人を巻き込んでいくことを目標にしています。現在のとこ ろ、以下のようなスケジュールを予定しています。 期間 9月18日〜30日 18日 前夜祭 19日 みんなで会場準備の日 20日 オープニングライブ 21日 ライブ 22日 大同窓会.演劇公演 23日 演劇、シンポジウム 24日 学寮甲子園、麻雀大会 25日 学寮甲子園、麻雀大会 26日 演劇系イベント、DJ 27日 厨房ライブ、落語、ダンス 28日 演劇公演、盆踊り 29日 盆踊り 30日 閉会式、打ち上げ
609 :
革命的名無しさん :2009/09/27(日) 07:43:29
同窓会以外にも企画が目白押しですので、是非ともご参加下さい。
また、「ほぼ100祭」の開催にあたり、具体的に今、このような方を探
しています。
(「何実」「ほぼ100祭」実行委員会ともに資金的なバックボーンを持た
ないので、運営の資金繰りに苦心しております。)
○紙ならまかせろ!と言う方・・・広報の為に大量の紙を必要としてい
ます。
○パネル作りならまかせろ!と言う方
・・・吉田寮のほぼ100周年を振り返るパネル展を計画しています
○フィルムならいくらでも出せる!と言う方
・・・祭りの資料を残すために写真や動画で記録を残すことを考え
ています。
○「ほぼ100祭」運営資金をカンパしていただける方
・・・大金は必要ありませんが、実行委員が負担することなく祭り
を行いたいと考えています。
そして、吉田寮補修のためのカンパをだしていただける方も探してい
ます。2005年頃に大学当局の調査によって、吉田寮の大規模補修には
億単位の金が必要といわれました。大学当局はそれを根拠に、補修は
不採算であるから、建て替えをすべし、と主張しています。しかし、
もともと一部の寮生と繋がりのあった、京都の町屋の補修に関わって
いる工務店の方から聞いた話によると、総額でも7000万ほど、しかも、
数十万、数百万単位のお金が集まれば、手を入れられるところがたく
さんある、とのことでした。直せるところから直していけば、当局の
理屈をねじ伏せることが出来ると考えます。また、現在、寮内でも建
て替えか、補修かで揺れている現状を補修に傾けてゆくこともできる
と考えます。より詳しい話を聞きたいということであれば私までメー
ルを頂けると幸いです。皆様のご協力をお願いします。
建て替えの話などは、以下のサイトを参考にしていただけるかと思います。
何実のホームページ(まだ情報が少ないですが、今後充実させて行く予定です)
https://sites.google.com/site/nanijitsu/
>>596 いつの時代のことか特定できないが
たしかに社研は吉本一派の滝村隆一よんで講演させてた
かといって滝村が叛旗であるわけではないが
なんちゃって吉本イズムやなちゃって赤軍がいたのは事実
赤ヘルひとくくりの中で
しかも党派主義との一線によって
個人的志向や折衷によっていろんな傾向の潮流が雑居していたとは思う
大昔だが 同大新町校舎門前でビラまきしていた叛旗派が 押しかけた全学闘にいじめられていたなあ まだ叛旗派が存在していた頃の話ね
612 :
革命的名無しさん :2009/10/02(金) 22:50:05
>>611 それ、いつ頃の事ですか?
叛旗派は75年頃に解散してるし、
同大で俺の知ってる叛旗系は5.19以降のHさんを中心とした
サークル戦線。その路線も短命に終わった。あと、法共闘が類似路線。
もしかしたら大先輩ですか。
だから 大昔 まだ叛旗派が存在していた頃 って書いてあるやんか
614 :
革命的名無しさん :2009/10/02(金) 23:03:20
関西に叛旗派がいたのが驚き。
70年代初め〜叛旗派解体まで ごく少数だけどおったよ、叛旗派 当時の龍大学費闘争は 叛旗派指導だったことは 知る人ぞ知る有名な話
616 :
革命的名無しさん :2009/10/02(金) 23:16:43
>>615 ありがとうございます。
同大では一時、全学闘=赤軍シンパ的要素もあったから、
BUND関西派・関東派の闘争という面もあったんですね。
龍大のことは初めて知りました。
617 :
革命的名無しさん :2009/10/02(金) 23:24:14
叛旗派は赤ヘルかぶってたんですか。 私は叛旗派解体以降の世代なんで、 独学で叛旗本とか読んで労働運動とかしてました。
まあ叛旗派は文学左翼なんて揶揄されてたから 常に急進派、武闘派でありたいという願望が強い関西ブントの縄張り内では 根付く土壌がなかった、ということやろうね 関西での叛旗派政治集会なんかもあって 結構人も集まってたようだが、 活動家はほんの少数で、 たまに叛の赤ヘルでコソコソとビラまきして全学闘にいじめられているだけ、 龍大では叛旗×烽火のゲバも何度かあったらしいが、 叛旗の全戦全敗やったらしいしねえ
確かに 70年代始め頃の龍大全共闘のリーダー格だった Y氏やF氏は叛旗やったな その後、叛旗の党派としての関西での登場は許さない、 とかの理由で烽火が叛旗にゲバを仕掛けて何度かゲバがあったらしい
>>619 >叛旗の党派としての関西での登場は許さない
なんでだったんですかねえ?
叛旗は関東派というイメージが強かったから 関西ブントの変な縄張り意識が強く働いたのだろうねえ
80年代だけど同大別館サークルBoxのロッカーに 古色蒼然たる『叛旗』紙の創刊号が残ってたな。
80年代前半、三上治が何度か講演会で同志社に来てた。 神津陽も呼ばれたがっていると伝え聞いたのですが・・
70年代最後半の同大サークル員総会の「基調」は 吉本イズムの色が濃かった。80年代の三上は、その流れかな。 当時の法共闘の立ち位置が、いまだによくわからん。
625 :
革命的名無しさん :2009/10/27(火) 02:52:33
ただいま交渉継続中 吉田寮「新A棟」
(京都大学新聞 2009.10.16)
http://www.kyoto-up.org/archives/849 10月2日の昼休み、小雨がぱらつく中、京大のシンボルとも言えるクスノキ前にテントが出現。
吉田寮生ら学生有志がアピール活動を行なった。
目的はこの日行われる予定の西村副学長との吉田寮新A棟をめぐる折衝にひとりでも多くの学生を呼ぶためだ。
「西村副学長はいい加減なこと言うな!」などシュプレヒコールを飛ばした。
この春から既に半年が経過した吉田寮をめぐる話し合いだが、今何が起こっているのだろうか。(魚)
626 :
革命的名無しさん :2009/10/27(火) 14:30:32
ゲバ棒とっては日本一に 夢は大きな世界革命 元気いっぱい一度や二度の 弾圧なんかに挫けない! オー!がんばれ、強いぞ、僕らの仲間 赤ヘル同学会 赤軍の形見の赤ヘル着けて かける気合の竹ざお部隊 なんの負けるなマルキの楯に 散らす火花の一騎打ち! オー!がんばれ、強いぞ、僕らの仲間 赤ヘル同学会
627 :
革命的名無しさん :2009/10/27(火) 18:07:08
俺は高校2年の時に初めて10.21国際反戦デーの 御堂筋デモに行ったんだが、 京大の赤ヘルはカッコよかったな。 多分に、高校生の京大に対するあこがれがあったんかもしれんが。 ジグザグ・フランス・信号無視・渦巻き――当時はなんでもあり。 ビルには防石ネットが張ってあったな。 ちなみに、動労も大部隊で来てました(w。
628 :
革命的名無しさん :2009/10/28(水) 16:20:16
70何年ころ? 73、4年かな?
レッド・アロー・プロジェクトというセクトについて知ってる人いますか?
631 :
革命的名無しさん :2009/10/28(水) 23:13:38
内実とか展望とかはともかく 賑やかで楽しい瞬間であったことは間違いないでしょうね。 もう二度とそんな時代は来んだろうなあ。
やっぱ、67〜68年頃の 京都府学連の赤ヘル部隊が最高にカッコよかった・・・・ ってちょっと話が古過ぎか・・・・
ある事情で「一機」の元・隊員の人と知り合いましたが、 おじいさんでした。 歳月の流れは残酷ですね。
634 :
革命的名無しさん :2009/11/08(日) 10:04:34
>>632 塩見の『赤軍派始末記』に「ともかく同志社の社学同はカッコいいんだよ」と
ありますね。
京都府学連委員長は共に同志社出自の蓮池(後の三派全学連副委員長)
から藤本(後の反帝全学連委員長)の頃でしょうか?
>>634 あのイケメンで加藤登紀子を虜にしたと敏夫さんですか。
>>635 蓮池、藤本(加藤登紀子の夫)両氏共にイケメンでしたね。
あと赤軍の旗揚げ時から政治局員だった堂本氏(同志社)もイケメンで
「女の子から人気があった」と元RGの中野正夫著『ゲバルト時代』に。
日比谷の全国全共闘集会で関東ブントを蹴散らした最強ゲバルト部隊の
指揮官だったとのこと。
塩見、中野の著作からすると京大ブントは「アタマいい」同大ブントは
「カッコいい」ということで。
67,68年頃の京都府学連委員長は D大のT崎、N平、Y谷やね 蒲池、藤本は在東京でほとんど京都にはおらんかった こんなこと知ってるなんて歳がばれるわ、ハハハ・・・・
>>637 >D大のT崎、N平、Y谷やね
この方々もカッコよかったんでしょうか?
T崎、Y谷はまあイケメン系の優男やったな しかしN平はおよそイケメンとはほど遠い ぶくぶく太ってまるでゴリラみたいな風貌の男やったねえ T崎は70年代後も関B幹部として烽火におったのやないかな、現在どうしているかは不明 Y谷は赤軍派分裂直後に消耗して一切の運動から逃亡、現在は在アメリカでブル経済学者 N平は70年代初め頃まではD大全学闘と繋がりあったようだが、 その後離れて現在も京都在住で小企業の経営者になっているはず
ちなみに、 69年〜赤軍派分裂までのD大学友会委員長だったS賀は、 これも赤軍派分裂騒動で消耗してD大の大衆運動から一切逃亡して、 その後ちゃっかりD大卒業だけはして、 現在は関西では有名な某外食産業会社の経営者
D大は69年6月からブント主導で全学闘がバリストに突入したが、 その後すぐのブント内赤軍派分裂騒動でD大ブントの主要幹部は わけがわからなくなって消耗、逃亡 D大ブントはこの時事実上解体、消滅 残されたノンセクトの少数活動家の手によってかろうじてバリケードが維持されたが その後の秋期闘争は組織的な行動は何もできず 一揆的行動が散発的に行われるだけでバリストは形だけとなり M館籠城、機動隊導入ロックアウトで権力の制圧状態となって 69末期〜70年始めまではD大ではほとんど何も起こらずに過ぎていった
67〜69年始め頃のD大ブントのキャップだったM月は、 小柄でイケメンではなかったが、いかつい顔立ちで野武士的雰囲気の活動家だった 69年4.28闘争では、D大社学同首都派遣部隊の留守番役でD大バリストを指導していたが ある時何を思っていたのかM館前で空を見上げて呆然と立ちつくしていた姿が印象的だった その後すぐにD大では全く姿を見なくなったが、 その後彼の消息を聞いたのは赤軍派分裂騒動での犠牲者となってからであった・・・・合掌
643 :
革命的名無しさん :2009/11/09(月) 20:40:20
おーい、ハッシーにチンゲヘッド! たまには熊野寮の連中にメールよこせや! ルイージも寂しがっとるぞ!
69年の赤軍派分裂騒動後のD大ブント解体後D大バリストを維持したのは L共闘、T闘委等に結集した少数のノンセクト活動家であった しかし彼等も散発的な秋期闘争後の機動隊導入ロックアウトによって四散 やっと70年春になって学友会再建、全学闘再結集となり その後ブント内の分派闘争には関知せずの姿勢を崩さず いわばD大独立ブントとも言うべき独自の路線で進むこととなる
645 :
革命的名無しさん :2009/11/19(木) 21:59:21
>いわばD大独立ブントとも言うべき独自の路線で進むこととなる にもかかわらず、その4年後の74年2・6政治集会以降、 旧学友会と全学闘が「目的意識性」を強調し始めたのは なぜなのでしょうか。 当時の全学闘メンバーに聞いても、「よくわからない」との答えでした。 RGの影響があったとの書き込みもあったようですが。
645ですが、間違えました。すみません。 ×74年2・6政治集会 ↓ ○75年2・6政治集会
647 :
革命的名無しさん :2009/11/26(木) 20:58:22
あげ
648 :
革命的名無しさん :2009/11/29(日) 21:05:48
D大の場合、77年5・19以降は運動体構成員の質が完全に落ちた気がします。 良かれ悪しかれ、D大全学闘は「革命」を志向していたのですが、その後は まあファッション左翼が多くなったかな。Hさんとかは例外ですが。
649 :
革命的名無しさん :2009/12/06(日) 15:47:39
「流乱」の事、ご存じの方おられますか。
ココ読め↓
http://www.kyoto-u.com/lounge/lifestyle/html/200511/05110010.html 詳細に、解説すると
●京大の「祭り」
京都大学では、毎年11月に学園祭が行われている。その黎明期は、戦いの歴史であった。
京大学園祭の始まりは、1947年までさかのぼる。この年の10月下旬に京都大学創立
50周年記念祭として、1週間にわたって講演会、演劇、映画上映会がくりひろげられた。
同時に、工学部、理学部、医学部では標本展、実験器具の公開がなされた。学生の祭りとい
うよりは、大学と京都市民との交流の意味合いがあった。
1951年、学園祭の一環として、当時の京都市にあった「丸物百貨店」(近鉄百貨店跡)
にて同学会主催で、「原爆の図展」(丸木位里・赤松俊子)が開かれた。「原爆反対、
平和を守ろう」のスローガンのもと、市民らに平和を訴えようとしたもので、多くの来場者
がきた。このころより学園祭は、徐々に社会に対して働きかけをしていこうという志向が高
まり、学生の政治化を危惧する大学当局との間で、衝突が起こり始めた。
1955年の創立記念祭に対して、大学当局すなわち滝川幸辰総長は「厳粛に、大学関係 者だけで行うように」と指示した。同学会は、創立記念祭を開放的なお祭りとして位置づけ、 フォークダンス・前夜祭を行おうと主張。しかし、大学当局は前夜祭を含む、野外集会のす べての中止を求めた。 6月3日、滝川幸辰総長と同学会との間で会見が行われ、このとき、 学生に暴行を受けたとした滝川総長が警官隊を時計台に導入、2名の学生が逮捕された。そ の後、起訴された。全学自治会同学会は解散。これが「京大記念祭事件」とよばれるもので ある。起訴された学生は実刑判決を受けたが、それは吉田寮に住んでいた歴史学者・松浦玲 さんである。吉田寮自治会は、松浦玲さんの退学処分決定後も、松浦さんを寮生としてあつ かい居住を許可したが、大学当局は入寮募集停止を恫喝材料として松浦さんの退寮を指示し た。吉田寮自治会はやむなく、松浦さんの退寮を決定。この入退寮権利をめぐるこの争いは、 1969年の京大闘争の火種となったのは皮肉である。 学園祭が復活したのは、京大同学会が再建された1959年である。この年が正式な「第 1回 11月祭」である。
●その後の学園祭 京大の1970年代は、まだまだ学生自治会の力が強く、何をしても許される、という状 況が続いた。しかし、1977年の竹本信弘助手の分限(退職)処分、1978年の成田空 港開港を境に変わっていた。1978年、成田空港の管制塔占拠事件におびえた政府−文部 省が、大学の秩序を守り、施設の管理をすすめる新しい大学管理規則を発信、学生の学園内 の活動を規制する動きを全国的に進めた。このとき、京大同学会は、同志社大学学友会や、 東大文学部学友会と共同で、実質化阻止の全国闘争を戦った。また政治と祭りとの連携を目 指し、その成果が、同志社EVE祭と共同で行われた11月祭の「流←→乱」のイベントだ った。そうした実績の中で、画期的な企画が次々に行われた。1979年、「アンドロギュ ノスの饗宴」と銘打ったゲイの東郷健氏(ザ・ゲイ編集長)、伊藤文学氏(薔薇族の編集長) の対談が大いに注目された。カミングアウトという言葉が、定着する十数年前のことである。 東郷健は雑民党から選挙に立候補し、選挙公報に 「オカマ、パンパン、妾、ホステス、サ ド、マゾ、レズと差別され区別されているあなたへ送る愛の詩。もしもあなたが異常者と呼 ばれ変態扱いされるのなら私は言おう、あのロッキードの黒幕達に平気で嘘を言っている、 お前たちこそ異常だと、さあズボンのチャックをひきずり下ろせ。戦争にまつわる資本家共 に向かって、君の銃口を立てて発射せよ(以下、略)1977年7月10日 参議院(東京 選出)」とアピールしていた人物である。
トラブルも発生した。1982年、小泉今日子のコンサートをめぐる騒動である。 主催は「アイドル研究会」という団体だった。まず、教室で有料コンサートを行い、これ は成功裏に終わった。つづいて吉田グラウンドに移動し、16時からフリーコンサートが催 されることになったが、開始2時間前には1万人を超えるファンが殺到、人波がゆれだした。 そこで実行委員会と主催団体はフリーコンサートの中止を決定した。しかし、中止に怒った ファンがステージに上がり、マイク、PA、バックスクリーン等を破壊したのである。当初、 アイドル研究会は、11月祭全学実行委員会に80人の警備員を出すと申請していたが、警 備員の実態はファンクラブのメンバーで、中には女性の高校生も含まれていた。アイドル研 究会は、大手プロダクションとファンクラブによる、名前だけの団体だった。その後、こう いう団体の登場は淘汰されていった。その騒動の最中、禁止されていたどぶろく作り(密造 酒)の実演会や、天皇へパチンコを投げた奥崎健三氏の講演がおこなわれていた。この乱雑 さが京大学園祭の魅力でもある。 1985年、フランスからポスト構造主義思想のフェリックス・ガタリ氏がフランスから来 日、浅田彰、宇野邦一と対談。翌日、ガタリは浅田に付き添われて大阪の釜ヶ崎をおとずれ た。その後も、2004年、ミスコンテストの開催をめぐって、学生間で討論が続き、マス コミでも報道されることとなったのは記憶に新しい。 京大の学園祭では、一般には、やりにくいことが実験できたのは、もちろん開催をささえ る学生自治があったからだが、それだけでない。環境問題でも、差別問題でも、薬害の問題 にしても、学生が提起し展開していくなかで、関連した大学当局も受けいれざるを得ないよ うな形になり、さらには世論も10年後に追いついてくるということが繰りかえされてきた からだろう。そういう問題提起の場が学園祭であった。
●西部講堂の奔流 幻野祭、流←→乱 京大の祭りの「左バネ」が西部講堂である。 もともとは武道場だった西部講堂に、学生が映写機を持ち込み、そして次第に文化サークル 活動の拠点となっていったのは1950年代である。 それが一変したのが、1969年以降。高瀬泰司(元京都府学連委員長)は京大全共闘の実 質的な指導部の一人であった。この高瀬と相棒の小松辰男が、1969年の教養部で「バリ 祭」「反大学」を演出し、そして、時計台の陥落(1969年9月)、百万遍カルチェ、今 出川解放区の壊滅のあとに、残された拠点である西部講堂で活動を始めたのである。 西部講堂に関わっていたのは京大生だけでない。当時、同志社大学学生放送局、京都市美 大サークル、立命館寮連合などが出入りしていた。 「FUCK ’70」と題したロックコンサートが、1970年12月31日に西部講堂 で大音響とともに始まった。「なにが黄金の70年代や」「紅白だけが大晦日か」との主張 のもと、大晦日の徹夜ロックコンサートが始まった。住民と大学当局に大迷惑をかけながら、 しかし、このイベントは、京都の恒例行事になっていった。この大晦日コンサートに出演で きれば、翌年、かならずマスコミに売れるぞ、とまで言われた。たしかに、ジョニー大倉、 矢沢栄吉も無名のころ、さも期待されずに出演していたという。 次に、隔週土曜日のコンサートが始まった。「MOJO WEST」である。パンフレッ トには、「MOJO WESTとは自由を求める集団ですか。いいえわれわれは秩序を求め ます。それは新しい秩序であり、新しい関係であり、自律であり、責任である。仕事であり、 作業である」。このMOJO WESTを機に、西部講堂と学外のグループ、個人との交流 が広がった。沢田研二、ショーケンらのPYG。チャー、村八分、かまやつひろし、カルメ ン・マキなどが登場した。イベントの前夜から、新宿のヒッピーが京都へ、西部講堂へヒッ チハイクで移動してきたと言われた。
1972年1月、府立体育館で行われたMOJOは、モップス、カルメン・マキ、頭脳警 察ら西部講堂ではぐくまれた奔流が街に繰り出した格好となった。おなじころ、経済学部助 手の竹本信弘氏がデッチ上げの容疑で全国指名手配になった。折悪しく、ガサ入れになった スナックのいくつかから、このMOJOの前売券が見つかった。公安警察が会場に駆けつけ る、緊張したMOJO開催だった。 1972年8月16日、五山の送り火の日、京大農学部グラウンドからはとりわけ大きな 「大文字」がみえる。そのグラウンドで行われたのが、「三里塚空港粉砕」をスローガンに した「幻野祭」である。三里塚の野火と大文字の送り火をつなぐコンセプトだった。第一回 目は三里塚で1971年7月14日に開催された(頭脳警察が伝説の「世界革命戦争宣言の 歌」を披露。加藤登紀子はヤジと罵声でステージから引きずり降ろされたという)。 じつは、この幻野祭に関連して、超有名なペイントが出現した。8月の灼熱の炎天下に十 数人の裸体の男たちが数日間かけて、西部講堂の大屋根をライトブルーに塗り上げたのであ る。それだけでない、図柄では海か空か、その青い水平の定かならぬところに純白の白い雲 が浮かべられ、赤い3ツのオリオンが光を放った。それを日本共産党が「日本赤軍の三人の 兵士だと指摘」し、物議をかもした。じっさいは美大生によるスーパー・リアリスムのデザ インで3ツ星を選択したものであったが、逆に、西部講堂は「己の生きるシルシとして、3 ツの赤い星を永遠の刻印として刻むことにした」という。幻野祭の当日、西部で、アラブで 散った日本赤軍兵士の京大卒業生(奥平剛士ら)の追悼集会を開催し、西部講堂から農学部 グラウンドまでの一大ページェント「幻野祭」を貫徹した。その後も、なんども西部講堂の 屋根は塗り替えられたが、3ツの赤い星だけは今も健在である。
そして、西部講堂連絡協議会が1975年に発足。名物の炊き出し、夏祭り、フリーマー ケット、無公害食品の即売などが始まった。特筆すべきは、1976年2月4日、フランク・ ザッパとマザーズのステージである。内田裕也の紹介で行われた。ザッパは西部講堂を見て 叫ぶ。「OH BEAUTIFUL!」。ザッパ言うところの世界でもっともビューティフ ルでクレージーな劇場である西部講堂の存在が、彼の口コミで大物ミュージシャンに伝わっ た。ストラングラーズ、XTC、トーキングヘッズ、トム・ウイエツ、そしてポリスが西部 講堂に来た。パンクの東京ロッカーズ(Zelda、フリクションなど)や、ローザ・ルクセンブ ルク、スターリンなどが西部講堂で公演するのは必然だった。 スターリンのギグでは、PAが防衛のために箱で囲われ、「今日は、死人が出ても知りま せん」とMCが叫ぶ中、歌手の遠藤みちろうが爆竹を観客に投げていた。そんな空間は全国 でも西部講堂だけだった。彼らは直前、熊本大学で公演中止処分にあっていたので、そのう っ憤晴らしで、西部で爆発!!したのだ。 京大学園祭と西部講堂の連携が行われたこともある。1978年の「流←→乱 火山帯 サイクロプス計画」である。西部講堂と同志社学生会館を基地にして、両者を結ぶ幹線イベ ントが催された。村上龍と板坂剛「反文壇闘争」講演、「西部大迷路 大お化け屋敷」、竹 中労講演など。火山は11月23日誕生、24日・25日噴火、26日終了とある。残された 写真には、西部講堂前で組まれたパイプを溶岩流が流れてゆく姿がうかがい知れる。こうい った西部講堂の奔流は、1980年のポリス公演をめぐる騒動と、高瀬泰司・小松辰男の引 退(死)とともに、変わっていった。
●吉田寮祭 吉田寮では、毎年5月に「吉田寮祭」と呼ばれる祭りが行われる。これは京大で一番伝統 がある祭りである。 1930年、寮食堂の業者委託を廃止して、寄宿舎自身が炊事人を雇い入れする「自炊制 度」が開始された。この開始を記念して、「自炊制度記念祭」を開催することになった。こ れが、寮祭の始まりである。この頃は、総長、学生監、教授らも出席、挨拶を述べて帰ると 舎生たちの余興が始まる手順になっていた。余興の演目に「北寮土民団」があって「土民踊 り」を披露、大いに人気を博したらしい。その様子は、裸になって墨で体を真っ黒に塗り、 腰に蓑を巻いて踊るというもの。三高自由寮の「ジンジロゲ踊り」の亜種だった。戦後も吉 田寮祭として定着していた。 しかし、1972年3月8日、卒寮生の追い出しコンパの後、酒の勢いで当時薬学部の裏 にあった看護学校瑞穂寮に、寮生数十人がストームをおこなった。その時、差別発言があっ たとして「ストーム糾弾」の声が瑞穂寮で挙がった。糾弾をきっかけに、寮生活におけるエ リート学生意識や女性蔑視の考え方が問題視され、問題の解決が不十分という理由から、吉 田寮は1972年から寮祭を中止した。伝聞では、いつもは団交で寮生から要求されていた 学生部長(法学部教授)が「今日ぐらいオレの言うことを聞け」とばかりコンパで酒を振る まい、ストームを促したというが、真相は不明である。
1980年4月、9年ぶりに吉田寮祭が復活。寮生の世代も変わり、前回のストームの反 省には触れなかった。やりたいからやる、というのが再開の理由だった。このときの目玉企 画として「鴨川レース」が発案された。これは、鴨川を丸太町橋から今出川デルタまで 1.5kmを逆走する水上疾走レースで、参加者はさまざまな服装で走った。真剣にタイム を競おうと身軽な格好の者から、目立とうとして仮装する者、大旗をはためかして力走する 者や、自転車に乗っていこうとする者など。 1982年、寮闘争が全学の課題となる状況下、「寮祭を寮の外へ」のコンセプトで「仮装 決起集会」が開かれた。集会は、1969年の「バリ祭」へのオマージュとして、教養部A 号館のファザードから仮装した男がザイルで降りて、宙でビラまきを行い、そのまま、仮装 した集団が授業中のクラスに宣伝に向かった。それからも、吉田寮生らが授業中に仮装して 乱入することが、大学の5月の恒例行事となった。しかし、たまには反発もある。 週刊文春(2000年8月31日号)から「あまりの乱痴気・京大吉田寮祭に法学部長激 怒」。 「憤りを隠さないのは、中森喜彦・京都大学法学部長。事件は、五月下旬の昼前、 時計台下の大教室で起きた。教室では、佐久間教授による民法の講義が粛々と行われている。 そこに突如、上半身にペインティングを施したり、仮面をかぶったりという異形の集団が、 奇声を発しながら闖入してきたのだ。彼らの正体は京都大学吉田寮の学生たち。吉田寮とい えば、旧制三高の伝統を引き継ぐ京大のシンボル。佐久間教授から報告を受けた学部長は、 寮を管轄する学生部に顛末を伝えた。なぜ寮生は仮装して講義に乱入したのか? 『仮装決 起といい、一般教養の先生は慣れているけど、法学部には余力があればたまに行くという感 じなので、先生は驚かれたのではないでしょうか』(寮生)。教室に入って何をやるかとい うと、『先生にお酒をふるまったり、芝居の宣伝に寸劇をしたり、午前中の講義廃止を呼び かけたり(笑)いろいろ。総長室に押しかけたり、時計台の上に登ったりもします』」。も ちろん、今もどこ吹く風と聞き流して、乱入するらしい。
●祭りと政の間には 縷々、紹介したこれらの事例で言いたいのは、昔は良かった、という思い出のためではない。 感じ取ってほしいのは、祭りはやりたい者がやる、そういう自律的なモノであるというこ と。活き活きと生きたいという僕ら、君らの情念をだれも止めることはできない。そのとき は「大学」や「寮」という枠なんか気にしちゃいない、京都の街や他大学生と交歓してゆく、 すると驚くほど祭りは豊かなものに広がってゆく。また、いろいろと利害がぶつかることが あるだろう。それを解決してゆくのも、また祭りのひとつだ。 いまや、祭りは、「3人あつまって囁きあえば共謀罪」というぐらいに、政(まつりごと) に接近してきた。祭りの場が、きわめて政治的になってきていることに無自覚ではいられな い。祭りと政の間は、垣根どころか、もはや紙一枚しかないのだ。若い人たちの間から、連 鎖反応して祭りが出現することを、願ってやまない。
660 :
革命的名無しさん :2009/12/08(火) 20:35:36
じっくり読ませていただきます。ありがとうございました。 ところで、1970年代後半に立命広小路を多分全京都の赤ヘルが一列で行進(制圧?) しているところを上から撮った写真がどこかに掲示されていましたが、 「流乱」と関係があるのでしょうか。 私は出づっぱりではなかったので、それには参加していません。 どこに掲示されていたのかも覚えていませんし、今となっては謎です。
661 :
革命的名無しさん :2009/12/08(火) 23:36:40
>>1970 年代後半に立命広小路を多分全京都の赤ヘルが一列で行進(制圧?)
1977年だったか78年だったか忘れたが衣笠キャンパスに100名程の全京都の
赤ヘルが登場したことはある。スローガンは三里塚空港粉砕!同志奪還!みたいな感じ。
確か三里塚でパクラれていた京・同・立の学生が「奪還!」されたばかりだった
んじゃなかろうか。但しこれは俺が入学する以前の出来事なので、先輩からの伝聞。
尚、この件は京大新聞にも載ってたはず。民青が撮った写真も見たことがあるが、
隊列は3列〜5列縦隊くらいだったと記憶する。
保守
663 :
革命的名無しさん :2009/12/19(土) 00:22:17
今日は、12.18ではないか!
664 :
革命的名無しさん :2009/12/28(月) 01:08:36
僕らの世代では、12.18ブントとか、よくわからないのです。 解説をお願いします。 7.7華青闘告発とかは、なんとなくわかってるつもりですが。
12月9日 青森市造道、強殺で再逮捕の女供述「パチンコ代欲しかった」
12月9日 山形県飯豊の強盗殺人、容疑者を起訴「パチンコ好き、殺害後パチンコに行く」
12月8日 高知市/27歳女性を殺害・遺棄の被告に懲役20年判決「パチスロで借金を重ね」
12月7日 岐阜、大阪で2005年、女性2人を殺害/被告側、死刑回避求める「パチンコで借金」
11月26日 元厚生次官ら連続殺傷、小泉被告「パチプロだった」
11月11日 大阪/DDハウス&中国人留学生強殺、2審も死刑「パチンコや競馬で負け続け」
9月14日 和歌山市六十谷の強盗殺人、初公判「給料をパチンコに使い、盗んだ金もパチンコに」
9月7日 元民生委員に無期懲役 名古屋の83歳女性強殺「パチンコなどで借金」
8月27日 朝からパチンコしまくり、赤ちゃんを車内で放置死させた31歳母親逮捕…秋田
7月7日 広島呉市の強盗殺人、元同僚を起訴 「パチンコなどの遊興のため、借金を繰り返す」
6月22日 静岡市葵区の金融店主強殺で無期懲役判決 静岡地裁「パチンコなどで借金を重ね」
6月18日 鹿児島市高齢夫婦殺害事件 逮捕の男、事件前に年金を使い込む「パチンコ使った」
6月16日 神奈川県小田原市の強盗殺人、元プロボクサーに無期懲役「盗んだ金をパチンコに使う」
6月11日 茨城県土浦市で祖父母を殺害し現金奪った男に無期懲役「パチンコなどに使った」
6月9日 群馬・パチンコ店員連続殺人事件、死刑確定「遊ぶ金欲しさからパチンコ仲間と共謀」
5月26日 青森県八戸市/父親をハンマーで殺した男に無期懲役「パチンコ代欲しさに殺害」
5月3日 兵庫県加西市で女性の遺体がみつかる「犯人は交際相手、パチスロ代欲しさに殺害」
2月9日 大阪市城東区で元妻を殺害し放火した男の初公判「パチンコなどで借金数百万円」
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/pachi/1244185075/ ◆警察がパチンコ社会を作りだしている◆
◆パチンコを朝鮮玉入れと呼ぶのは間違っている・・・警察朝鮮玉入れが正解◆
http://news.livedoor.com/article/detail/4461070/ http://www.cyzo.com/2008/10/post_1040.html
666 :
革命的名無しさん :2009/12/31(木) 22:29:03
京大C戦線の復活はまだでつか?
667 :
革命的名無しさん :2010/01/08(金) 23:11:46
>>666 C戦線て、マル青同の母体の1つになったとこですか?
今にして思えば、マル青同の運動スタイルはかなり奇異だったかと。
ファッションも含めて。
>>667 この頃、右翼と街宣で正面から亙りあえてたのは
マル青同と中核派ぐらいだったような気がすw
>>668 マル青同の街宣は、「反帝 反社帝」の看板を付けた白い街宣車で、
インターナショナルを大音量で流しながら京都の街を走り回るスタイルだったかと。
京大熊野寮に街宣車が置いてあったな。
中核派の京都での街宣は記憶にありません。どんな感じだったのでしょう。
670 :
革命的名無しさん :2010/01/12(火) 06:14:42
吉田寮のトイレにはいまだにセクトのステッカーが貼られたままになってるね。 中核派、反帝学評、プロ青同、マル青同・・・ 「80年代三里塚闘争勝利へ!」「現代のナチス・カクマルを殲滅せよ!」とか書いてあるから 30年位前に貼られたんだろうなあ。 あと、寮内に黒ヘルメットが結構あるけどいまだにデモとかやってるのだろうか。
671 :
革命的名無しさん :2010/01/13(水) 02:19:18
法政にRの黒ヘルが登場したじゃないか。一人だけだったけどね。
672 :
革命的名無しさん :2010/01/13(水) 04:06:27
673 :
革命的名無しさん :2010/01/14(木) 14:14:44
>>671 「R」って立命の意味ですか、それとも寮の意味ですか。
あ?なんか文句あんの?俺ガキん頃アラブとかに住んでて学校が銃撃戦で俺何発か食らって ナイフとか刺さって鉄パイプとかで殴られて内臓破裂して血とか吐いたけど そのまま3人ボコって潰して病院で奇跡的とか言われたけど全然平気だったよw 俺ジャニーズ事務所みたいなイケメンとか目とかきれいって言われるけどお前ら 温室みかんみたいな虚弱アニメ見てるとむかつくんだよね実際
675 :
革命的名無しさん :2010/01/15(金) 01:28:11
676 :
革命的名無しさん :2010/01/18(月) 19:30:39
子供が受験期です。 入寮するなら、吉田寮と熊野寮、どちらが安全ですか? 日和見主義的質問ですみません。
>>676 20年以上昔に吉田寮に住んでいた♀です。
熊野寮に住んだことはないので直接に比較することはできませんが、
友人の話などを総合すると、どちらの寮もそれなりに楽しく安全だったかと思います。
古過ぎる話であまり参考にならないかもしれませんね、すみません。
679 :
革命的名無しさん :2010/01/28(木) 00:09:16
生め 梅 うめ 埋め 宇目 ウメ 産め
おい、60年代末期の同大学友会のY谷、S賀 おまえら同大ブントを潰して何もかも放ったらかして逃亡したことをちゃんと総括しろ!! アメリカのブル計学者や、ガンコの社長に納まってんじゃないよ たまにしゃしゃり出てきて、昔の学生Mは甘かったなんてほざきやがって、 死んだM月も浮かばれねえよ・・・・
お〜い、関西ブントの残党ども、生きてるかあ???
682 :
革命的名無しさん :2010/02/01(月) 17:34:00
ランチタイム。 青竹竿の上に小さな赤布。 学館から烏丸通を西門へ。構内に入ったら竹竿を前に突き出す。 やがて77年5.19へ。
683 :
革命的名無しさん :2010/02/25(木) 17:42:23
先ほど時計台にてバイオリンでインターが奏でられてた....
684 :
革命的名無しさん :2010/02/25(木) 22:26:11
京大が中核派だけになってしまったのは いつごろからですか?
685 :
革命的名無しさん :2010/04/13(火) 13:21:58
686 :
革命的名無しさん :2010/04/23(金) 11:11:15
a
687 :
革命的名無しさん :2010/05/05(水) 16:23:32
g
688 :
革命的名無しさん :2010/05/18(火) 20:46:27
689 :
革命的名無しさん :2010/05/18(火) 21:59:15
日共民青の視点だね
690 :
革命的名無しさん :2010/05/19(水) 19:57:19
>688 民青の拠点だったJ(法学部)に今なぜ民青いない?
691 :
革命的名無しさん :2010/05/20(木) 01:55:38
692 :
革命的名無しさん :2010/05/20(木) 14:44:39
693 :
革命的名無しさん :2010/05/20(木) 21:34:27
法・文・農は、中核派が牛耳っているらしい。
694 :
革命的名無しさん :2010/05/20(木) 21:45:30
これ↓が中核か?民青でさえないようだが・・・
http://www.kyodai-j-jichi.com/jichikai 沿革
1962年 「法学部学生自治会規約」により、現在のJ自が誕生。
1999年度 この年を最後に学生大会が行なわれなくなる。
【以後 急速に活動人員が減少する。】
2000年度 この年を最後に法学部祭が行なわれなくなる。
2003年度 この年を最後にゼミ紹介冊子が発行されなくなる。
2005年度 定期試験過去問題集の発行がJ自から分離。
法経本館の耐震改修工事をめぐり学生の自主活動スペース確保の交渉を行う。
J地下の自主活動スペースを引き続き維持することに成功する。
2007年度・2008年度 事実上の機能停止。
2009年度 活動再開!
695 :
革命的名無しさん :2010/05/20(木) 21:47:53
常任委員は毎日募集中らしい・・・
696 :
革命的名無しさん :2010/05/20(木) 21:57:29
697 :
革命的名無しさん :2010/05/20(木) 22:25:34
698 :
革命的名無しさん :2010/05/20(木) 23:41:32
でもノンセクトともノリが違うような
699 :
あ :2010/05/20(木) 23:45:18
700 :
はははははははwww :2010/05/20(木) 23:45:36
京大生嫌い
J自から中核は撤退しました。 今は一般学生が中心らしいですね。 熊野寮自治会もほとんど撤退寸前だとか
702 :
野次馬 :2010/05/21(金) 16:20:58
703 :
革命的名無しさん :2010/05/21(金) 23:07:23
中核派対右翼自治会の対決構造ですね。
704 :
革命的名無しさん :2010/05/22(土) 01:43:12
文学部・農学部・経済学部・吉田寮→ノンセクト 法学部→ノンポリ 熊野寮→中核
705 :
革命的名無しさん :2010/05/23(日) 20:31:50
70年代中盤 共産党系の学生を取り囲んで公衆の面前でジーパンを脱がせた やつらがいた。あの瞬間終わったと思ったよ。
706 :
革命的名無しさん :2010/05/25(火) 19:29:48
>>705 そんなのあったんですか。
70年代中盤は、まあ過渡期ですかねえ。
同大も74年学費闘争以後、「権力問題」「経済主義」の対立があって、
77年5・19で新しい学友会体制に移行しましたが、
「な〜んちゃって赤軍」系とかがいて閉口しました。
ひと言で言うと、チャラいやつが多くなりました。
その前の同大全学闘は超真面目な人もいましたけど。
707 :
革命的名無しさん :2010/05/25(火) 22:00:17
結局今では、京大も同大も、中核派オンリーになりました。
708 :
革命的名無しさん :2010/05/25(火) 22:46:18
>>705 組織の腐敗なのか分からないが、人として最低限は守らないとね。
「右翼だから」「共産党だから」「赤ヘルだから」というだけで
何をやっても許されるという腐敗した考えはあったのでは・・・?
710 :
革命的名無しさん :2010/05/26(水) 10:00:49
711 :
革命的名無しさん :2010/05/26(水) 22:01:51
京大の中核も終わりか 法大に送り込みすぎたからな
712 :
革命的名無しさん :2010/05/27(木) 00:24:58
再建協議会についた学生はいなかったのかな。 あっちの方がまだ先があると思うんだが。
処分撤回小屋完成!
ついについについに!
京大キャンパスにわれらが小屋が完成いたしました!!
前回は骨組みまで出来上がっていましたが、
赤布で壁をつくって・・・
完成!!
処分撤回署名運動の拠点として、自治の砦として建設いたしました。
京大南キャンパスT字路にございます。
みなさんお気軽にお越しください♪
こんな人たちが待ってます。
もちろん普通の人たちもいます。ぜひぜひ寄っていってください!
http://zengakurenkantou.blog.shinobi.jp/Entry/54/
715 :
革命的名無しさん :2010/06/01(火) 18:01:50
にぎやかなのは、いいことです。 今の格差社会では、かつての「血債の思想」は 受け入れられないのかもしれませんね。
716 :
革命的名無しさん :2010/06/02(水) 00:15:57
>>処分撤回小屋完成! でも、例の京大8回生の処分撤回は無理でしょ。
717 :
革命的名無しさん :2010/06/02(水) 14:08:26
今の学生って「ヘルメット」をどんなふうに考えてるの。 あんまり被ってないようだけど。
718 :
革命的名無しさん :2010/06/10(木) 01:40:19
a
719 :
革命的名無しさん :2010/06/10(木) 02:28:33
あの小屋か・・・
720 :
革命的名無しさん :2010/06/17(木) 11:54:03
今は、「日帝のアジア侵略を内乱へ!」とか 「血債かけて連帯せよ!」とか 「武装し、戦う革共同万歳!」とか言わないの? 今のことは、詳しくは知らないんだけどね。
721 :
革命的名無しさん :2010/06/23(水) 14:16:48
労働運動だけで革命できるのかな。 国家は、機動隊も自衛隊も持ってる。
革命の前兆 軍隊が誰に銃を向けるか そこで人民の軍隊であるか天皇の軍隊であるかがわかる
723 :
革命的名無しさん :2010/07/03(土) 15:08:25
>>722 何となく井上清風の正論で、正面切っては反論できんけど・・・。
しかし、被支配者が支配を支えている場合もあるわけで・・・。
そこのところで「階級意識」とか出してくると、
話がすっごく復古的になる感じがする。
724 :
革命的名無しさん :2010/07/14(水) 15:11:34
保守あげ
726 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :2010/07/17(土) 23:01:47
>>723 俺は「ブリュメール18日」を思い出した。
階級闘争を「否定」するマルクスw
727 :
革命的名無しさん :2010/07/20(火) 01:33:41
a
728 :
革命的名無しさん :2010/07/25(日) 22:43:19
森毅死去
ほんまや 森さん死んでもうた
730 :
革命的名無しさん :2010/07/26(月) 00:18:02
オールドリベラリストがどんどんいなくなるね。 寂しい限り
731 :
革命的名無しさん :2010/07/28(水) 12:25:35
あげ。
732 :
革命的名無しさん :2010/08/17(火) 15:39:13
森さんて、「同志社が田辺に移転するんやったら、 ほんやら洞も一緒に移転せえ」という意味のことを言うてはったね。 木田元さんは関東系の人やし、リベラリストて言うてええかどうか分からんけど、 昔は本物の闇屋やったし、 精神の闊達さは持ってはるみたいやね。
733 :
革命的名無しさん :2010/08/18(水) 23:03:14
京都大学 中核派 30名 その他なし 同学会とやらは30年前の話ですよ
734 :
革命的名無しさん :2010/08/18(水) 23:43:11
中核派 3名 その他なし でしょw
735 :
革命的名無しさん :2010/08/20(金) 15:44:59
熊野寮に入ったら、オルグされますか?
学友会は81年、T君I君のタイーホで一つの時代が終わったな。
>>736 それって、70年代後半じゃなかったっけ?
バリ封中の今出川(当時、田辺はなかった)に民青が押しかけてきて・・・。
738 :
革命的名無しさん :2010/09/18(土) 16:24:05
京都大学は動労千葉派のものです。「赤ヘル」は消えました。
739 :
↑赤ヘルは広島じゃ!!! :2010/09/19(日) 09:34:25
740 :
革命的名無しさん :2010/09/21(火) 12:01:54
a
741 :
革命的名無しさん :2010/09/22(水) 12:08:51
742 :
革命的名無しさん :2010/10/18(月) 04:15:22
過疎スレ埋め
743 :
革命的名無しさん :2010/10/19(火) 10:04:41
どうぞ
744 :
革命的名無しさん :2010/10/19(火) 19:39:09
「高橋和巳をしのび、アジアの激動を考える」@時計台地下。 確か1975年ぐらい。懐かしいっす。
745 :
革命的名無しさん :2010/10/19(火) 19:58:46
同学会って今でもあるの? 京大キャンパスで目立つのは、中核派の超大型タテ看板だけです。
746 :
革命的名無しさん :2010/10/19(火) 23:46:30
過疎スレ埋め
747 :
革命的名無しさん :2010/10/20(水) 00:08:38
過疎スレ埋め
748 :
革命的名無しさん :2010/10/20(水) 01:21:07
過疎スレ埋め
749 :
革命的名無しさん :2010/10/20(水) 11:53:09
過疎スレ埋め
750 :
革命的名無しさん :2010/10/21(木) 19:59:56
過疎スレ埋め
751 :
革命的名無しさん :2010/10/22(金) 05:19:36
過疎スレ埋め
752 :
革命的名無しさん :2010/10/22(金) 13:42:49
 ̄\ / ̄ _ .ノ | |ヽ _ ( .` (●)| |(●) ´ .) (⌒ ノ| |ヽ ⌒) | / \ | \ ノ(●)ノ/ \ヽ(●)ヽ/  ̄ ̄ ̄~ 「誰だ ~ ̄ ̄ ̄ _____ おまえは」 ____ / ヽ(●)ヽ\ /ノ(●)ノ \ | .\ / | (_,. ヽ| |ノ 、_) (_,. (●)| |(●) 、_) .ヽ | |ノ _/ \_
753 :
革命的名無しさん :2010/10/24(日) 14:18:37
746-751ではないのですが、 同大の民問研というのが分かりません。 婦問研(女解研という名称の頃もあった)の問題も あまり分かりません。 何しろ、全学闘から新学友会の過渡期に在学していた爺なもので・・・。 過去レスにあるかもしれませんが、どなたか教えてくださいな。
754 :
革命的名無しさん :2010/10/31(日) 07:18:22
a
755 :
革命的名無しさん :2010/10/31(日) 12:17:25
>753 90年代にかけて、京大、同大、立命などに勢力を拡大した 「政経研」グループの同大での名前が婦問研でしょ。 都立大のアジ研グループとの関係と核マルとの関係 については諸説あるけど。 同大では確か、新聞会を獲得して、学友会と対立。 泥仕合を繰り広げたが、最終的に学友会が消滅して終了。 立命ではアジ研を名乗ってたが、休眠状態だった公認サークルの 歴研、ボラ研、立命評論の乗っ取りに成功した。 90年代半ばに日共側に発覚して全面衝突。00年代半ばくらいまで 細々と活動してたけど、最近の状況は知らんね。
756 :
革命的名無しさん :2010/11/02(火) 13:03:23
a
757 :
革命的名無しさん :2010/11/02(火) 18:38:48
>>755 ありがd。
その時期、同大全学闘てまだ生き残ってたん?
民問研事件絡みで、全学闘が相国寺界隈で殴られてたみたいな記述があった。
新学友会発足後に「同大学生運動有志」とかいうのが
此春寮を襲ったことがあるようだが、感心せんな。
赤軍シンパ→全共闘型組織として自立、の同大全学闘の面目はいずこへ。
758 :
革命的名無しさん :2010/11/06(土) 05:28:36
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759 :
革命的名無しさん :2010/11/08(月) 07:02:48
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760 :
革命的名無しさん :2010/11/10(水) 13:15:00
格差社会戦犯のコイズミなんかAAするな。アホめ。 子ブッシュとのサル同士の手踊りを思い出すわw ところで最近、京大に性犯罪で放校になる奴が多いな。 新興の私立中高一貫校出の増加とかと関係あるのかな。
761 :
革命的名無しさん :2010/11/10(水) 16:24:05
そんなのカンケーねぇ!
762 :
革命的名無しさん :2010/11/16(火) 23:13:31
過疎スレ 無駄なスレ 生め 梅 うめ 埋め 宇目 ウメ 産め ume
763 :
革命的名無しさん :2010/11/16(火) 23:19:59
764 :
革命的名無しさん :2010/11/18(木) 02:12:34
>>763 確か、京都市立紫野高校から京都大学文学部だったよね。
ご冥福をお祈りします。
高校時代、匿名で封書が来て、中には
「革共同大政治集会」の招待状が入っていまして
確か、北小路氏が「基調」(だったかな?)をして、
「全学連(松尾真委員長)」が名を連ねていました。
はるか、かなたの事ですね。
765 :
革命的名無しさん :2010/11/23(火) 06:20:01
過疎スレ 無駄なスレ 生め 梅 うめ 埋め 宇目 ウメ 産め ume 丶丶丶丶丶丶温幽籬櫑櫑櫑櫑櫑幽厶雌櫑幽岱垉厶丶丶丶丶丶丶 丶丶丶当櫑欟欟櫑欟欟欟欟欟欟欟櫑欟櫑櫑翻麗謝叱丶丶丶丶丶 丶丶丶覇竃櫑櫑欟欟欟欟欟欟欟櫑欟櫑欟欟欟層櫑艶旨丶丶丶丶 丶丶丶層櫑欟欟欟欟欟欟欟欟欟嬲竃嬲竃竃欟櫑竃覇覇丶丶丶丶 丶丶丶灑嬲欟欟嬲嬲嬲嬲嬲鬻辧卻眉贈幗層欟欟櫑竃櫑廴丶丶丶 丶勹僧層櫑欟鬱綴綴局悦局局拇狐綴綴鋼幗幗竃欟竃櫑廬丶丶丶 丶湘嬲嬲櫑欟辧綴仰災欠災沼卻局綴綴掴綱幗櫑嬲幗櫑廳丶丶丶 丶勺覇欟櫑鬱即卻仰災災沿己卻凹句郊塀獅幗櫑櫑欟櫑勳丶丶丶 丶丶濁幗欟圓扼卻仰災災沱災可沼笳鏑櫑雌彌幗櫑欟櫑欟眦丶丶 丶丶層櫑櫑鬱狐猖旛幽迫己旧卻獅嬲嬲幗幗幗幗櫑欟櫑覇眇丶丶 丶丶櫑欟欟鬱掴嚴憫笥局仰可局綮当踏審綱燒幗層欟櫑欟廴丶丶 丶丶層覇櫑欟即尚旛籬籬枢叫猖鬱幣憫牒憫椹禰幗欟欟欟杉丶丶 丶丶層欟櫑欟抓儕凹沼珱卻旧塀簡紹笳綴僻綴掴幗欟欟鬱丶丶丶 丶丶丶層櫑欟仰卻旧突句己沒笵綴囹卻仰加仰塀禰層欟欟企丶丶 丶丶丶瀰欟欟仰旧句災沼卻卻卻獅雌扼卻卻狐綴綱層欟欟歡丶丶 丶丶丶湧欟欟紀凹句巡卻仰似局綴獅雌卻卻綴掴綱幗嬲覇黙丶丶 丶丶丶丶層眼眼句旧卻卻鍵輔禰層嬲幗囹卻綴掴囃幗櫑歉丶丶丶 丶丶丶丶勺龝圄句沒卻卻卻卻沺禰幗幗雌歳狐掴囃彌欟默丶丶丶 丶丶丶丶丶丶丶句沒卻笳僻把洞雄櫺櫑顧綴鋼囃讃幗嚶丶丶丶丶 丶丶丶丶丶丶丶勺句卻譲嬲霸嫻嬲幗難掴獅幗幗幗嬲艶二丶丶丶 丶丶丶丶丶丶丶丶句旧卻卻綴掴燒辧辧讃幗幗幗幗杉欟欟幽丶丶 丶丶丶丶丶丶丶丶丶刈皿狐卻仰瀉囃雌幗幗幗覇歉勺欟欟欟櫑幽 丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶勺牋綴燒雌幗幗幗幗幗鬱三儲欟欟欟櫑櫑 丶丶丶丶丶丶丶丶二旛櫑封贈簡幗難幗幗櫑鬱災三灑欟
766 :
革命的名無しさん :2010/12/27(月) 20:13:38
767 :
革命的名無しさん :2010/12/31(金) 19:12:36
>>766 京大ノンセクトって、今はおらんやろ。
赤ヘルノンセクトは、はるか昔の話。
768 :
革命的名無しさん :2011/01/01(土) 21:16:47
京大のノンセクトが赤ヘルを被っていたのはいつまでですか?
769 :
革命的名無しさん :2011/01/03(月) 18:33:01
>>768 少なくとも1970年代後半までは円山公園音楽堂で集会を開いてたし、
その周りには公安刑事がうろうろしとったな。
770 :
革命的名無しさん :2011/01/10(月) 14:59:30
771 :
革命的名無しさん :2011/01/14(金) 10:55:57
1978年10月21日、同学会と立命全額行動委員会との共催で教養部で集会 やった。国際反戦デー集会・デモを円山公園まで行った。 恒例の祇園下でのジグザグデモで機動隊と衝突。 楽しかったわい。
772 :
革命的名無しさん :2011/01/14(金) 14:00:19
哲学研究会というのはあれはセクト系ですか?
773 :
革命的名無しさん :2011/01/15(土) 14:11:46
>>771 京都三大学共闘(京大、同志社大、花園大)は京学連の流れになるんですか?
三里塚にも来ていましたが
774 :
革命的名無しさん :2011/01/15(土) 14:21:07
>>771 その頃、同志社では全学闘がほぼ放逐され、
田辺町移転阻止が盛り上がりつつあったんだが、
赤ヘルというだけで、内実はBUNDとは関係ない潮流がほとんどだったな。
しかし、立命にそんな組織があったのかあ。
同志社のバリに攻めてきた民青(正門へ御所側から威嚇)しか
知らんかった。
775 :
革命的名無しさん :2011/01/15(土) 20:50:20
同学会は80年12月頃、金大中死刑阻止でバリ封していたね
共産主義者は反戦運動家で かつ平和主義者のうそ ゾルゲ事件死刑囚 朝日新聞 尾崎秀実の主張<資料> 1937年(昭和12年)9月23日付の『改造』臨時増刊号で、 局地的解決も不拡大方針もまったく意味をなさないとして講和・不拡大方針に反対、 日中戦争拡大方針を主張した。 1937年(昭和12年)11月号では「敗北支那の進路」を発表、 「支那に於ける統一は非資本主義的な発展の方向と結びつく」として中国の共産化を予見した。 、翌1938年(昭和13年)1月16日の第一次近衛声明に影響を与えた。 昭和13年『改造』5月号で「長期抗戦の行方」を発表し、 日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つということだけ、 他の方法は絶対に考えられない、日本が中国と始めたこの民族戦争の結末をつけるためには、 軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を殲滅するほかないと主張、 昭和13年『中央公論』6月号で発表した「長期戦下の諸問題」でも中国との提携が絶対に必要だとの意見に反対し 、敵対勢力が存在する限り、これを完全に打倒するしかない 、と主張して、講和条約の締結に反対、長期戦もやむをえずとして徹底抗戦を説いた。
アジアが戦場になり、 日本が原爆を受け、 沖縄も悲惨な戦場になったのは、沖縄の宮城与徳、西園寺公一、尾崎秀実、朝日新聞等 左翼 ついでに近衛文麿 がソビエト連邦 や中国共産党を守るために、 国民党との長期戦やアジア南方進出を強く煽ったためである。 こいつらこそ戦犯。 京大卒多し。 こういう事知ってて京大入って 革命遊びやってたんですね? 京大どうやって入ったの?入れただけの低脳?
安田将三、石橋孝太郎著太田出版『朝日新聞の戦争責任』
■朝日新聞の圧力で一度は絶版
http://www.amazon.co.jp/朝日新聞の戦争責任 ―東スポもびっくり-の戦争記事を徹底検証-安田-将三/dp/4872332369
戦争責任の大部分は、開戦責任にあるはずだが、その部分に触れられていないのは非常に残念である。
「すでに終息に向かいつつある盧溝橋事件を、1937年7月11日 付けの東京朝日新聞
は一面に巨大な見出しで「日支全面衝突の危機!」とありもしない虚偽をかかげて煽っている。
朝日新聞が「全面衝突」を心底で望んでいたことを示している。
1937年7月12日、朝日新聞社説は「(中国は)北平(北京)における平和交渉を全面的に拒否するに至った……」
との真っ赤な嘘の創作をそれと知りながら書いているのである。」
このような、朝日新聞による捏造記事が国民世論をミスりードしていった過程を書いてこそ、
朝日新聞の戦争責任を追及することができるのだが、著者にはその気もなければ、
歴史認識も左翼史観(自虐史観)そのものである。
!!!なぜなら、近衛政権と朝日新聞の報道が日本を破滅に導いた張本人である。 !!!!
それを、戦後、隠蔽・責任転嫁し続けてきたのが左翼そのものであるからである。
朝日新聞を糾弾するように見せかけて、朝日をかばうという、
共産主義者がよく使う偽装の書である。
http://homepage3.nifty.com/katote/iraqsorge.html 第一の革命運動ではとるにたらない党でありながら、
第二の情報戦・諜報戦では世界各地の活動にさまざまな人材を供給しうる米国共産党だった。
ブラウダー書記長指導下の1930年代米国共産党は、
そうした二重組織としてソ連共産党=コミンテルンから位置づけられ、世界各地での工作担当者を輩出した。
ここに、ブラウダーのディミトロフ宛手紙の意味が浮上する。モスクワの使命を帯びて、
コミンテルン米国駐在員アイスラーと米国共産党書記長ブラウダーを中継地にして、
中国のアグネス・スメドレーら、日本のゾルゲ・尾崎秀実ら、
米国西海岸の野坂参三・ジョー小出らが、それぞれに使命感を持ち、
一つの目的のために活動し援助されていた。
彼らは「世界革命」の情報収集・心理戦=情報戦の戦士たちだった。
たとえ実際は「ソ連擁護」であったにしても。
加藤哲郎(一橋大学大学院教授・政治学)
社会的な弱者はルサンチマンから逃れられない。 フラストレーションをむしろ肯定し、何もできないことを正当化するようになる。 社会的な価値感を否定したり、反転した解釈を行うようになる。 こういった自分の陥っている状態を正当化しようとする願望こそ、 奴隷精神の最大の特徴である。 こうしたルサンチマンの表れの例として、敵を想定し、 その対比として自己の正当性を主張するイデオロギーにある。 こういったイデオロギーは、敵が悪の元凶とし、 だから反対に自分は道徳的に優れていると主張する。 「彼らは悪人だ、従ってわれわれは善人だ」というわけである。 敵として想定される存在は、自分が無力だと感じさせる対象が選ばれる。 例えば、貧しさに無力を感じるルサンチマンの敵は資本家や大企業になる。 例えば、異性にもてないということに無力を感じるルサンチマンの敵は、 自分を無視する異性や、もてる同性、あるいは恋愛そのものになる。 さらに、そのルサンチマンの敵が拡大すると、対象が社会全体になる。 「世界はどうしようもなく悪によって支配されている。 したがってわれわれのほうが世界より優れている」 と拡大解釈されるようにもなる。
>>774 佐藤優さんが神学部にいたころの話ですか。
782 :
革命的名無しさん :2011/01/19(水) 13:20:10
佐藤が同志社神学部に入学したのは79年。 事件は78年だから佐藤はまだ入学していない。 立命には「全学評議会」というノンセクト主体の組織があったが、この頃から 日学戦が介入→分裂。
783 :
革命的名無しさん :2011/01/21(金) 14:28:34
>>782 「事件」は、民青の挑発に乗ってバリを飛び出した同大学友会メンバーが
民青によって警察に引き渡された件だろ。
俺は、新学友会による、懐メロ的内容の70年代後半バリストは支持できんかった。
田辺校地の開発申請の時は、結構燃えたけどな。
>>772 京大の「哲学研究会」は中核派のダミー団体
よってスレ違い
785 :
革命的名無しさん :2011/03/27(日) 13:38:31.95
京大卒の残念なタレント辰巳琢郎の売名
15日はチェンメのデマを信じてブログでデマ拡散
21日はデマ情報を拡散した無理矢理な言い訳(謝罪ではない)
24日は厨房でも分かるどう見ても虚言の日記
15日付けのブログにてどう見てもデマ
「石巻の避難所で子供が餓死」と
知人からの伝聞を事実確認もしないまま
あたかも事実であるように書き、ネット上で無責任に拡散
しかし
被災から4日間で人間が餓死するのは無理であり
宮城県が「避難所で死者が出たのは19日がはじめて」と発表したため
(
ttp://s.nikkei.com/fOD2P2 )
後日こっそりブログで
「指定の避難所」→「避難している場所」、
「餓死」→「食べることのできない子供の死」
などと苦しい言い訳。「衛星電話を持っている知人」が
政府関係部署に連絡もせず芸能人に連絡し、
その避難所の場所を明かさなかったのも「深慮遠謀」と無理な理由付け
結局避難所の場所もなくなった事実があるのかも確認するすべがなく
「衛星電話を持っている知人」が実在するのかも謎
京大出身インテリがウリの芸能人がやることとは思えない残念さ
786 :
革命的名無しさん :2011/03/29(火) 23:47:06.35
共産同、中核、革マル、一時期三派系全学連としてマスコミの脚光を浴び、 カッコいいことが大好きでエリート意識が強烈な若者たちがこれらの集団に結集し、 国家権力という仮想敵と闘った。彼らは多少本は読め、それなりの言葉は使えるが、 そのレヴェルは「無知の涙」の永山則夫と変わらない。 メディアや大学教官は無力で彼らを支持するか、傍観するのみであった。 そして森恒夫という悪霊が生まれた。かれはスターブローギンのつもりだったのか。
>>786 でも、そういう意味での知性ならば、若者全般がそうではないのかね?
右翼や民青も含めてね。
>>786 革マルが三派系?
多少の本も読めず、それなりの言葉も使えないようだね
たいした知性だw
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東電のカネに汚染した東大に騙されるな! by Univ-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka
水俣病のときも、東大の学者を利用して世論操作を行い、被害を拡大させてしまっている。
一方、長崎大学は、その買収的な本性に気づき、東京電力の寄付口座受け入れを取りやめ、
すでに大学側に振り込まれていたカネ全額 を東京電力に突き返した。
1956年に水俣病が発見された際、東大教授たちに病研究懇談会、通称「田宮委員会」を作らせ、
『腐った魚を喰ったせいだ』 等という説をでっちあげ、当時のマスコミも、東大教授たちの権威を悪用した 世論操作に乗せられて、被害を拡大してしまった。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1301321462/ --------------------------------------------------------
チェルノで被曝したウクライナ人のナターシャ・グジーさんの意見
http://www.youtube.com/watch?v=ry_WACFd8Ds
790 :
革命的名無しさん :2011/05/31(火) 18:16:51.82
京大生諸君! とりわけても原子力を研究する諸君。 折田先生の名に恥じぬようしっかりしなさい。
元祖趣味者さん乙
792 :
革命的名無し :2011/08/22(月) 15:52:46.51
インパクション20号(1980年10月30日):京大新聞の1979年9月16日号 に掲載された同学会の声明「裏切られた反『竹本処分』運動」の転載 八月八日、「元」京大経済学部助手、竹本信弘氏が国家権力に逮捕され、十年にわたる潜行生活にピリオドをうつこと になった。氏が常々言っていたように、潜行とはそれ自体、 国家権力の「鼻をあかし、恥をかかせる」という闘争である。 我々はまずはよく逃げたと彼の<闘争>を讃えたい。
793 :
革命的名無し :2011/08/22(月) 15:57:18.83
しかし、ブルジョアジーとプロレタリア人民の国家権力を めぐる闘い総体 、という観点から氏の逃亡と今回の逮捕を眺 めてみると現在、真に問題点として把みだしておくべきなのは、 氏のやったことあるいはやらなかったことや、七十年 代初頭の華やかりし全共闘運動への小市民的思い入れを込めた回顧なのではなく、 氏の逃亡と逮捕が、プロレタリア人民の戦いに対する弾圧の新たな材料として使われている、ということである。
794 :
革命的名無し :2011/08/22(月) 15:59:27.58
竹本の件」をロ実にどれほど多くのガサ入れが行なわれ、またこれから行なわれようとしていることか反権力的な地下人脈を徹底して 洗い出し、そこに深く根を降ろした運動をいわば兵糧攻めにするために「竹本の件」は使われているのである。 また、個別京大に目を移してみても、「竹本処分」は支配 体制転換の大きなメルクマールとなった。この処分をやりきることで、 京大は「自由の砦」幻想を最終的に自らかなぐり棄て、総長と文部官僚に一元的な権力が集中する体制
795 :
革命的名無し :2011/08/22(月) 16:07:57.15
体制を完成させたのである。これは単に「竹本という過激派を京大から追いだした」ということにつきるのではない。竹本処分の過 程で、評議会の空洞化、学部発言権の弱化、そしてそれに代えて時計台文部官僚が総長直属の実質的権力者となる構造転換が行なわれたりである。 それを最も象徴的にあらわしたのが、処分の翌年三月七日に公布された京大「国有財産管理規定」であった。 この規定によれば、たとえばどとかの学部に機動隊を導入することを、たとえ当該学部が反対したとしても、総長の鶴の一声で
796 :
革命的名無し :2011/08/22(月) 16:10:04.25
学部に 機動隊を導入することを、たとえ当該学部が反対したとしても、総長の鶴の一声で できるのである。その後、同学会を先頭にした全学の闘いによってこの現実的適用には今のところ歯止めがかけられている。 しかし、この規定は既に明文化されているのであり、学生と当局の力関係次第こよっては、いつなんどきこの歯止めがはずされてしまうか わからないのである。こうした支配体側強化の露先払いとして「竹本処分」はあったのである。 竹本氏が「世に出た」今、再び京大当局、とりわけ処分上 申学部たる経済学部の責任が問題とならざるを得ないだろう。 彼らは処分を行なうことで「竹本=過激派教祖」キャンペーンに
797 :
革命的名無し :2011/08/22(月) 16:14:55.08
に権威を与え、現在進行しつつある弾圧のお先棒をかついだのであり、 また学内管理強化に手を染めてきているのである。我々はこうした観点から、これから開始されるだろう竹本氏の公判に注目するのである。 ここで、竹本氏が潜行という形態で権力との攻防戦を戦っていた間、発表を差し控えざるを得なかったいくつかの事実を公にしよう。 それは七七年の処分強行阻止闘争に関わる事柄であり、我々はこれらの事実の背後にある問題が今後の、公判闘争を軸とした反弾圧の闘い の方向性を定める上で、きめて重要であると判断している。先日、吉田山の某スナックで
798 :
革命的名無し :2011/08/22(月) 16:17:17.18
会合がもたれ「竹本君救援会」なる団体が 結成されたと聞く。(「京都竹本氏救援連絡会議」はこの団体とは何の関係もない。念のため。) ここの主人はTといい、近頃やたらとマスコミに顔と名な売りたがっているので、御存知のむきも 多かろう。我々は率直にいって、彼が救援会結成を呼びかけたことを聞いて少々驚きもし、またあきれもした。実はこのTなる人物は、我々自身の恥をさらすことになる のではあるが、七七年、第二次竹本処分粉砕闘争、正雍には処分を決定した六月一八日の評議会
799 :
革命的名無し :2011/08/22(月) 16:19:22.45
までは、我々と一票に「闘ってきた」人物なのである。我我はTに一杯食わされたのである。 処分が決まるほんの少し前、処分粉砕闘争が大詰めの局面を迎えていたとき、竹本氏本人から教官有志に対して、評議会へ出席して 自分の代理人としで弁明してくれるよう依頼する手紙が届いた。そのときには我々はTが竹本氏と直接連絡が とれる、というふうに思い込まされていたので、Tが「この手紙はワナかもしれぬ、確かめに行ってくる」という言葉を信じ、 手紙を公表せず、手紙を公開しないことと六月一七日
800 :
革命的名無し :2011/08/22(月) 16:21:31.65
の総長団交開催を取り引きしたのである。 彼はあたかも一八 日の評議会当日、竹本を自分で評議会に連れて来るかのように、我々に思わせていたのである。 結果はどうだったか。もし竹本が直接乗り込んでくるなら、学内で評議会をやらせたほうがよい、と考えた我々は結局、竹本を学内で処分 することに自らゴーサインを出してしまったのと同じことをした のである。
801 :
革命的名無し :2011/08/22(月) 16:23:36.83
そのうえT一派は一八日当日、我々が評議会へ突入することを、策を弄して阻止したのである。 以来、我々は処分阻止闘争敗北を主体的自己批判的に総括し、乗り越える作業の大前提として彼および彼のスナックにたむろし、 階級闘争をダシにして自分が遊ぶことを考えている連中とはスッパリ縁を切ってきた。彼らは当局と我々の間に介入して、 我々を当局に屈伏させたのであり、まさしく
802 :
革命的名無し :2011/08/23(火) 00:24:41.38
処分推進派だったのである。そんな連中が竹本君救援会とは一体何事だろうか? 竹本氏に対する敵の逮捕起訴攻撃が多くの人の注目と批判の的になり、新たな反撃の体制が構築されようとしている現在、 T一派のような、反権力反体制運動の原則を踏みにじって涼しい顔をしている部分の存在を許すことはできないし その動向を 厳重に監視することを怠ってはなるまいーーーーーー。
803 :
革命的名無し :2011/08/23(火) 00:32:54.46
792の日付に関する 訂正。京大新聞1982年9月16日号掲載の同学会声明としてください。
804 :
革命的名無し :2011/08/23(火) 03:07:08.71
792−803:若き日のI教授(現京大文学部のI氏ではありませんよ)が怒りに震えて出した声明です。ここで出てくるT一派とは よく白樺派とか パルチとよばれていた人たちのことです。彼らは日共から同学会を奪還 した72年以降の京大の学内に跋扈しました。実はこの人たちの客観的な闘争破壊はこのとき だけではありませんでした。第一次竹本処分粉砕闘争のさいにもOB や一部教官の人たちの 不健全な介入がありました。
805 :
革命的名無しさん :2011/08/23(火) 11:29:14.86
77年の竹本処分粉砕闘争に参加されました皆様おひとりおひとりに、心から感謝いたしております。ほんとうに勇気をいただきました。ありがとうございました。
806 :
革命的名無しさん :2011/08/25(木) 10:35:02.18
やっぱり同学会はカッコいいね!
807 :
革命的名無しさん :2011/08/25(木) 10:46:43.83
ケツの穴開いて、呻いている姿がねw
808 :
革命的名無しさん :2011/08/25(木) 11:21:46.83
詳細は、なによりも当事者に聞くしかありませんが、77年京大の闘いがなければ、78年に東大文学部で10年ぶりにスト権確立というようなこともなかったのではないかとおもいます。少なくとも、影響無しとは、思えません。
その当時は民学同でした^^