【バレンタイン】昔々京大では【闘争】

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101革命的名無しさん
102革命的名無しさん:04/11/06 17:10:55
ヒバクシャ差別を許さないぞ。
103革命的名無しさん:04/11/06 17:44:21
マルの耳に念仏。馬耳東風労組。
104革命的名無しさん:04/11/07 01:53:34
>55 :革命的名無しさん :04/10/17 09:54:37
>京大全共闘から70年代前半の動向について概
>説したサイトか本を知りませんか?

紫翠会出版『京都大学90周年記念協力出版−京大史記』
に次の記事が掲載されています。抜粋します。

<同学会を再建し、雄々しく安保闘争へ>
 (昭和三十四年〜三十五年)

 昭和三十四年、本学の学生運動は安保改定反対闘争と同学会再建運動で盛
り上がった。この年の三月二十八日、百三十四団体からなる「安保改定阻止
国民会議」が生まれ、安保反村闘争の推進母体となった。全学連は、三月末
の第十八回中央委員会で「日本帝国主義の侵略と抑圧、安保改定を阻止せよ
/岸帝国主義内閣を打倒せよ!」の行動スローガンを採択し、六月初めの第
十四回全国大会で安保闘争を当面の最重要課題と決定した。
 本学での取組みは遅く、同学会の再建がなされるまでは振るわなかった。
四月二十八日の全学連統一行動第一波における仝京都学生集会には京大生は
わずか五十人、同じく六月二十五日の統一行動には三百人が参加したに過ぎ
なかった。しかし十月三十日の統一行動は、授業辞退の宇治分校から六百人
の参加があり、これを機に吉田分校や本部の学生たち、同学会の安保改定反
対闘争の気運が盛り上がった。
 同学会の再建問題は、再結成された再建準備会と学生部の間で、昭和三十
三年から約二十回にわたる話し合いを経て、昭和三十四年五月にようやく合
意をみた。五月二十二日より、同学会再建規約の信任投票があり、約四千九
百人が投票し、四千票を越す賛成をもって、正式に四年ぶりの再建が決まっ
た。代議員選挙は六月十二日より行なわれ、約三千五百人(全学の54.6%)
が投票した。六月二十日、第一回代議員会が行なわれ、「『一人はみんなの
ために、みんなは一人のために』映画『戦艦ポチョムキン』のこの言葉は、
その永遠の芸術の語りかけに恥じない私達の行動によって、今こそあかしを
たてられなければならない」とする「同学会再建宣言」が発せられた。
105革命的名無しさん:04/11/07 01:54:48
 昭和三十五年一月十六日、全学連は国民会議とは別行動をとって、岸首相
以下新安保条約調印全権団の渡米を阻止しようと羽田デモを決行した。学生
約一千人が羽田空港ロビーを占拠し、六十七人の検挙者を出した。本学の学
生は空港に入れず、付近で集会をしただけであった。この事件は、全学連内
の主流派(共産同)と反主流派(代々木系、革共同)の対立を引き起こし、
三月十六日の全学連臨時大会は二会場に分裂して行なわれた。同学会は、再
建時から共産同の影響が強く、首都圏と連動した闘争を組み、関西の学生運
動の中で重要な役割を果たした。
 
106革命的名無しさん:04/11/07 01:56:03
四月二十六日には全学連統一行動としてゼネストが行なわれ、全国で八十
二校三万人もの学生が参加した。本学では当日、吉田分校、文学部、理学部
がストに入り、大学不許可のまま、同学会が時計台前集会を強行した。この
集会には職組、生協関係者らも加わり参加者は一千五百人にのぼった。
 同学会はさらに五月十三日、全学学生大会を開き、「説得ピケ」による実
質ストライキを決議し、十九日ストライキに入った。二十六日には、同学会、
大学院会、職組、生協、教官有志による本学史上初の全学大会が図書館前で
開かれ、約三千人が参加し、「日本の将来は国民の意志により決められるべ
きである。そのために即時国会の解散を要求する」という大会宣言を発した。
 さらに六月四日の統一行動では、京都府内の各労組のストを支援して、円
山公園での集会に本学から二千人以上が参加した。
107革命的名無しさん:04/11/07 01:57:02
 六月十五日、全学連主流派のデモ隊が国会に突入しようとして警官隊と衝
突し、東大女子学生樺美知子が死亡した。この日の夜、学園新聞によると「
京大付近の食堂はテレビに見入る学生で満員、寮では興奮した学生が、口々
に東京へ行こうと叫んで騒然たる雰囲気」であった。山岳部は「人間らしい
生活のできる民主的な社会状勢にない現在、我々はスポーツを続けているこ
とはできぬ」との声明書を張り出し、合宿を中止した。平澤総長も六月十八
日、「およそ暴力は、如何なる形のものであっても否定されなければならな
い。しかしその前提としては議会主義と民主主義のすみやかな確立が必要で
ある」と談話を発表した。六月二十日全学学生大会が開かれ総長談話の支持
と、「樺さんを殺した政府官憲の暴力を許すな」など五つのスローガンを採
択した。各学部では一斉にスト決議が上がった。
 この年、夏休みに入るまで、大学内は安保闘争のために授業はほとんど行
われなかった。連日のように開かれる集会には多数の学生が参加し、特に五
月十九日の国会での単独強行採決以後は、集会への参加者数は一千人を越え
ることがほとんどであった。しかし六月二十六日、新安保が自然成立すると、
多くの学生は混乱し、無気力、虚無の淵に沈んでいった。学生運動は、七月
の全学連三分裂(共産同系、代々木系、革共同系)、十月の共産同三分裂など
もあり、全国的には低迷を余儀なくされた。しかし、関西においては、共産
同関西委員会の強力な指導の下に比較的活発な活動が見られ、同学会もその
中心的な役割を果たした。

108革命的名無しさん:04/11/07 01:59:34
同学会をめぐる共産同系、代々木系の確執>
    (昭和三十九年〜四十一年)

 さて、京都府学連内部では、主流派(共産同系)と反主流派(代々木系、
民青派)が理論面では対立しつつも、行動面では一致を見ていた。しかし、
九月の定期大会で代々木系が府学連をボイコットし、事実上分裂するに至
った。十月三十一日の全国統一行動では、主流・反主流で別個の集会が開か
れた。分裂後に行なわれた十二月の最初の同学会代議員選挙と教養部正副委
員長選挙では、ともに主流派が勝利した。
 十一月十四日には、医学部において、医学連(全国医学生連合)関西ブロッ
クの集会が約四百人を集めて開かれた。一九五〇年代から引き続くインターン
制問題に関し、出願拒否・国立病院ボイコット等の決議を上げたあと、医学
生らは白衣姿で円山公園までデモをした。
 昭和三十九年になっても学生運動は衰えず、六月十九日の全国紙一行動に
は、「新暴法反村」「改憲反村」を掲げ、京都・大阪・兵庫三府県学連によ
る「全関西学生総決起大会」が開催され、二十大学から五千人が参加し、会
場の円山公園を埋め尽した。
 昭和四十年六月には、ベトナム戦争での米軍による北爆と、日韓条約調印
に反対して、三府県学連が円山公園で集会を問いた。この集会には約七千人
もの学生が参加し、本学学生も約千四百人参加した。
 しかし、この一連の政治闘争の高掲のために、主流派(共産同系)は学園
での選挙運動が手薄となり、昭和四十年六月末の同学会代議員選挙、教養部
正副委員長選挙では代々木系に敗北してしまったのである。
109革命的名無しさん:04/11/07 02:02:42
 一方、この頃、吉田寮を中心とする増寮運動が地道に続けられていた。昭
和三十八年、学生部は構内の敷地整備を目的として吉田西寮と宇治寮の取り
壊しを染表した。寮生、学生たちは、全国の他の国立大学と比較して、不十
分な京大の寮生収容率をさらに低くすることとして反発し、これを契機に新
寮獲得運動が取り組まれた。新寮(熊野寮)は吉田寮生の意見を取り入れて
設計され、昭和三十九年三月、ようやく予算化された。また、昭和三十九年
から四十年まで、実現はしなかったものの教養部学生会館建設要求が同学会
によって取組まれた。
 このように、昭和三十四年に再建された同学会は、安保闘争、政暴法、大
管法、日韓闘争の政治闘争協力に推進していた。安保闘争の総括をめぐって
四分五裂していた全国の学生運動の中で、京大は安保闘争時の動員力を長く
維持し続け、ときには安保闘争を上回る運動を京都で展開した。
 
110革命的:04/11/07 02:03:40
一方、六全協(昭和三十年)及び第八回党大会(昭和三十六年)の六十一
年綱領採択で宮本顕治のヘゲモニーを確立させた日本共産党は、国会で議席
を占めることで統一戦線政府を樹立しようという、議会主義の立場に移行し
ていた。そして共産党の指導下の学生運動は、選挙運動への沈め石の役目を
負わされることになったのである。京大において日本共産党−民青同盟(代
々木系)は、自治会の選挙運動にその全力を集中して票をよく伸ばし、つい
に昭和四十年六月の同学会前期選挙にて、同学会中執と教養部自治会常任委
の多数派を占めた。さらに同年十二月には完全に執行郡を手中に収めた。
 
111革命的:04/11/07 02:04:06
それまで京大学生運動を領導してきた共産同系は政治闘争、とりわけ昭和
四十年の日韓闘争の盛り上がりを選挙に活かせないまま、同学会中執を代々
木系にあけわたした。これは、高度経済成長下の見せかけの繁栄のなかで、
政治闘争が学生層全体の関心事ではなくなり、その結果、学生層において活
動家と「無関心学生」の乖離が発生していたことを示している。そして、代
々木系は、こうした無関心層の意識に依拠して自治会選挙に勝利したのであ
り、このような自治会執行部が学生運動を展開できるわけがなかった。何と
なれば、昭和四十一年の警官隊学内乱入事件、昭和四十二年の自衛官入学拒
否の闘いは、同学会執行部(代々木系)をのり越えて、反代々木系の「全学共
闘会議」によって展開されたのである。
 昭和四十年代に入ると、大学の自治の機能が変質し始めた。六〇年安保闘
争における学生の政治化に危機感を覚えた政府は、昭和三十七年五月、池田
首相の「大学が革命の手段に便われている」という有名な演説を契機にして、
大学の国家管理を強める方向に動き始めた。しかし、国立大学協会は学長選
任権を文相が握るような大学の国営機関化には強く反発し、「大学の管理運
営の責任者である学長を大学で選ぶことは大学自治の根幹をなすもの」とし
て研究・教育と人事に関する大学の自主性の尊重を主張した。学生の反対運
動の盛り上がりもあって「大学管理法案」は流産した。国大協による大学管
理の「自主規制」路線は、当時においては、ある程度の意味をもちえたが、
国内外の政治情勢の緊迫化に伴い、国大協路線は文部省によらない学生運動
の監督の役割を次第に明確化してくることになるのである。
112革命的名無しさん:04/11/07 02:04:23
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       ★コテハンの皆様へ★

まだ<http://ex7.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1099759026/
に書き込んでいないコテハンさんは、いますぐカキコしてください。

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=======================================
113革命的名無しさん:04/11/07 02:16:49
<学生運動の新たな地平の創出>
 (昭和四十二年〜四十四年)

 昭和四十二年、南ベトナムなどへ訪問する佐藤首相の出発を阻止しようと
した三派全学連の学生らは、羽田空港付近で警官隊と衝突した。日韓闘争以
来急激に強まった機動隊の弾圧、テロルに対抗するため、初めて全員がヘル
メットを着用し、角材・石という武器を手にして警官隊に激突。この時京大
文学部一回生の山崎博昭君が警官隊の暴力で死亡した。彼の死によって、こ
の闘争は強く全学生・教職員に焼きつけられた。この第一次羽田闘争は、そ
れ以前の学生運動がデモンストレーションの枠内にあった限界性を打ち破り、
反体制の攻撃勢力になったことを示した。たちまち、官憲、マスコミ一体と
なった「暴力学生」キャンペーンが始まり学生に集中攻撃が加えられた。し
かし、直接に政府・確力へ打撃をねらうこの闘争スタイルはその後、学生運
動に定着していった。
 さらに、第二次羽田首相訪米阻止闘争(昭和四十二年十一月十二日)、米
軍空母エンタープライズ号佐世保寄港阻止闘争(昭和四十三年一月十八日)、
三里塚空港建設阻止闘争、王子野戦病院開設阻止闘争(三月)と、反戦闘争
は盛り上がっていった。
 だが、京大学内では、教養部代議員大会は流会の連続で、大衆的な盛り上
がりを欠いた。これは、武装闘争という地平に学生運動の先端が到達したこ
とに少なからぬ学生が戸惑いを感じたことによる。その状態にのっかって低
調な自治会選挙が行なわれ、代々木系が執行部を掌握。あいかわらず学生運
動を国会選挙における共産党の票集めに矮小化し、闘う学生層に対して代々
木系は「暴力学生」攻撃を行なうのみであった。そのため、形式的には代々
木系が自治会執行部を占めていても、学生大会が成立するやほとんどの場合、
反代々木系の議案が可決されるという二重権力状態になった。
今夜はココまで。
114革命的名無しさん:04/11/07 02:21:11
ほっと、ブサヨって馬鹿だね。w
115革命的名無しさん:04/11/07 02:36:12
>114 :革命的名無しさん :04/11/07 02:21:11
>ほっと、ブサヨって馬鹿だね。w


「馬鹿」じゃなくては、サヨクはやれませんよ。
このまま、バレンタイン闘争まで書き続けます。
還暦近い、時計台闘争の皆さん、ご期待ください。


 学外の反戦運動の高まりを受けて京大では「反戦連合」が生まれ多くの学
生が・参加した。理学部、経済学部が運動の中軸となり、教養部でもクラス
反戦が結成された。反戦連合は昭和四十三年春から夏にかけてベトナム反戦
をかかげて大規模な闘いを展開し、ついには十月二十一日の国際反戦デーで
教養部のストライキを実現させた。
 十月十八日に開かれた教養部代議員大会は法経一番教室にオブザーバーを
含めて千五百人が参加し、熱のこもった討論が行なわれた。教養部自治会常
任委・代々木系の議案は、賛成四、反対五二一で否決、反代々木系の議案は
賛成五三四、反対二四で可決された。そして、この議決に基づいて行なわれ
た教養部ストライキは、二十一日のたった一日の間とはいえ京大で初めて
バリケードストライキを発現させ、教養部の三ヶ所の門は机などでふさがれ
た。この十月二十一日の国際反戦デーは東京では、新宿駅占拠が行なわれ、
中核派に村して騒乱罪が適用されるという激しい闘争になっていた。

 
116革命的名無しさん:04/11/07 02:38:05
<寮問題を契機に闘いが爆発>

 昭和四十三年(一九六八)は、全国の大学で学園闘争が爆発していった。東大、日大を
を頂点とする学園闘争は、学生処分問題、寮運営、学生会館運営などの問題を発端にして、
ついには「大学とは何か、大学生とは何か、自分とは何か」を問いつめながら、大学の学
生管理にたち向かう運動になっていった。それまでの大学は、「大学の自治」の名の下に
官憲の侵入を許さぬ聖域として扱われてきた。
だが、その実態は、教授会の自己保証制度として教授会自治が権力として与えられ、その
一方で「教授会自治」を用いて学生を管理していたにすぎなかった。そこにあるのは、自
治でも自由でもなく、自主規制にすぎない。しかもそこでの教育は、資本が要求する幹部
や中堅社員を養成するだけのものであり、こま切れの知識を人間性とは関係なく追い求め
る内容でしかなかった。「学問の自由」「平和と民主主義」といった戦後を支えていた理
念が、もはや現実においては矛盾を覆い隠すイデオロギー装置でしかないことが暴露され、
批判の狙上にのせられていった。
 東大、日大において、全学共闘会議(全共闘)が、大学当局、官憲と激しい闘いを展開
していた時も、京大は表面上は平静を保っていた。しかし昭和四十四年一月、長くくすぶ
り続けていた寮問題がついに爆発し、以降十ヶ月にわたって京大闘争がすすむのであった。
 
117革命的名無しさん:04/11/07 02:39:17
 昭和四十三年十二月、吉田寮、熊野寮によって組織された全寮闘争委員会(「寮闘委」
・反代々木系)は、三項目要求(1.無条件新寮建設、2.経理全面公開、3.二十年長
期整備計画白紙撤回)を掲げて、「一月闘争」を提起した。過去、十四年間にわたる寮闘争
は平澤前総長や奥田総長との「話し合い」路線の下に屈伏してきた。「寮闘委」は、これ
までの闘いを「不徹底であった」と自己批判し、一月闘争においては、寮問題を先進的に
闘う部分を組織しつつ、各学部で行なわれている大学の自治=教授会の自治の悪辣さの暴
露の闘争と連帯してゆく、と行動を提起した。
 一月一四日、「寮闘委」は学生部で岡本道雄学生部長と団交を始めた。団交会場は、民
青系学生の妨害に備えて、簡単なバリケードが築かれ、「半封鎖」状態にあった。一月十
五日午前一時には、奥田総長を交渉相手に変えて団交が行なわれることになった。この間、
民青系学生及び職員は「封鎖実力阻止」をとなえて、約二百人か法経一番教室に集結し、
深夜に角材、ヘルメットを法学部地下に搬入し始めたのだった。
 総長団交では、「寮闘委」の三項目要求は一切認められず、一月十六日午前一時に「寮
闘委」は「団交決裂」を確認、直ちに学生部封鎖に突入した。
118革命的名無しさん:04/11/07 02:40:31
一月十六日朝、学生の登校をまって、寮闘委・教養部闘争委員会(C闘委)の「封鎖貫
徹」の宣伝と、同学会など民青系「封緒糾弾」の宣伝が火花をちらした。正午、寮闘委の集
会(三百人)と、民青系の「五者連結会議」(職組・同学会・院協・生協・生協職組)の
集会(四百人)が時計台と学生部の間で隣接して開かれた。その周囲を二千人の一般学生
や教職員が取り囲み、騒然とした雰囲気につつまれた。黄ヘルメット姿にゲバ棒装備の
「同学会行動隊」(民青系)百人が、C闘委を襲撃し、学生部前までつめ寄って封鎖解除
を試みた。
 一月十七日、岡本学生部長は 「学生部封鎖の事態について」 なる印刷物を
配布。内容は、1.寮生が自主選考をやめない限り新寮は建設しない、2.長期
計画は寮に関する部分のみ撤回する、3.経理公開は実現の方向で検討する、とい
う内容だった。
 一月十八日、この日早朝、東大本郷構内へ、八千五百人の機動隊が出動し、安
田講堂などにたてこもる全共闘の学生に激烈な攻撃を加えた。この東大の闘いが、
三日目をむかえた学生部封鎖に一段と緊張感を昂めさせた。この日、正午から時
計台前で五千人を集めて、総長の「所信表明」が行なわれ、総長はすみやかに封
鎖を解くように要求し、話し合いを強調した。また、午後一時からは総長と「五
者」の間で団交行われた。二千人以上を集めて法経一番教室で設けられた団交は、
終始、「五者」のペースで進められた。会場の入口では封鎖支持派の学生はチェ
ックされ、入室が出来なかった。一方、吉田寮、熊野寮のそれぞれの寮生大会で
は、封鎖支持の決議があげられた。
 一月十九日、「五者」の総長団交は午前十一時まで続いた。大学当局と「五者」
が緊密な連携をもつことになった。その間に、東大安田講堂は落城し、東大の熾
烈な闘い、ことに機動隊乱入による研究施設荒廃が報道されるや、「京大を第二
の東大にするな」というエゴイスティックな危機意識が京大に蔓延し始めた。こ
れが、「五者」=民青の路線を右から支えた。
119革命的名無しさん:04/11/07 02:41:40
<「われわれは大学に愛を告げた」>

 一月二十日、翌日の封鎖支持派の「全関西総決起集会」を前に、「五者」を中
心に封鎖解除に向けた動きが活発化した。工学部を中心に 「研究室を自衛しよう」
という共通利害が生まれ、「京大は京大人の手で」という京大ナショナリズムが
鼓舞された。翌二十一日には学外者の立入りが禁止されることが決まった。
 一月二十一日、当局及び「五者」は各門に教職員を立て学生証提示を強制し、
学外者の立入りを阻止した。このため正午から予定されていた「全関西総決起集
会」及び羽仁五郎の講演会は、東一条通りに場所を変えて一千名を集めて行なわ
れた。夕方には、生協花谷会館周辺から大量の資材が運ばれ、正門に高さ三メー
トル、奥行き5メートルのバリケードが築かれた。検問は、もはや学外者のみな
らず、京大生である封鎖支持派にまで及び、一方で民青同盟員はフリーパスであ
った。封鎖支持派は孤立した学生部封鎖学生の支援のため本部正門から突入を試
みるが、バリケードと、民青行動隊のピケと、消化栓からの放水によって、正門
に近づくことすら出来なかった。このような衝突が三日間続き、「狂気の三日間」
と呼ばれた。驚くべき事実に、本部で正門を固めていた「五者」=民青同明員及
び一般学生に、京大当局は二千個のヘルメットを支給し、二千食の炊き出しを行
なうなど金に糸目をつけず、逆封鎖体制を支援していたのである。
120革命的名無しさん:04/11/07 02:42:36
 一月二十三日午前十時半、「五者」の本部逆封鎖により孤立していた、学生部
封鎖学生=「寮闘委」は、学生部二階の窓に白旗を掲げ自主解除をした。
 ところが、この「狂気の三日間」を通じて逆封鎖に参加した者から、いったい
自分は何を守っていたのだという疑問があがり、そして同学会など「五者」の寮
闘争に対する暴力的な圧殺に対して糾弾の声を上げ始めた。「五者」は逆に学内
で孤立を深めるのだった。そのような中、一月二十七日、医学部本科四回生が医局
解体、「統一青医連」結成を掲げて無期限ストに突入。続いて「C闘委」が一月
三十日の教養部代議員大会を提起し、自治会執行部(民青系)の逃亡にもかかわ
らず、六百人以上の代議員を集めて、一月三十一日からの無期限バリケードスト
ライキを可決した。千五百人の学生が集まったこの教養部代議員大会は教養部に
おける高揚を示していた。
 教養部無期限ストが引き金になって、文学部、医学部本科、工学部が無期限ス
トに突入した。さらに理学部、農学部も長期ストで決起した。こうして、各学部
が独自の課題(研究体制、寮問題..)を持ちつつ、闘いは全学に波及した。
 一方、同学会と「C自」の執行部を握る民青はスト収拾に奔走した。二月十四
日、教養部代議員大会開催を目ろんで、全京都から動員された「民青行動隊」と、
全共闘−「C闘委」の間で激しい武力衝突がおこった。数時間続いた末、双方に
二百人以上の重軽傷者を出した。「バレンタインデー未明闘争」と呼ばれる、こ
の行動の中で、経済学部助手竹本信弘(滝田修)は「われわれは大学に愛を告
げた」と激をとばした。二月二十六日、京大入試粉砕を掲げて全共闘は本部時計
台を封鎖した。東大の入試は中止されたたが、京大の入試は会場を学外に設けて
強行された。
121革命的名無しさん:04/11/07 02:43:36
四月、新入生をむかえ、まず入学式粉砕闘争が行なわれた。時計台ホール
の演壇を占拠した仝共闘三百人によって入学式は数分で粉砕され、その場は
新入生と仝共闘の討論会となり、五百人の新入生が参加した。そして、この
日から教養部や西部講堂などで「バリサイ」(バリケード祭)が催され、既
製の文化を批判する講演、映画等がくりひろげられた。更に、京大や他大学
の教官を招いて、「反大学講座」という自主カリキュラムが持たれた。
 しかし、半年の闘いを経て、学生の離散傾向が現われ、各学部毎に封鎖が
解除された。そうした中でも、農・文・医・教養においてはまだ封鎖が維持
されていた。八月三日、大学運営臨時措置法が国会で成立。六ヶ月以上の紛
争校について運営を、文部省が直接行なう、という内容のこの法案は、各大
学当局を動揺させた。大学法の恫喝に屈した京大当局は、九月二十一日、機
動隊導入を決定した。これに対し、全共闘は時計台を封鎖して決戦に挑んだ。
 機動隊二千人が京大に投入された。時計台及び医学部図書館の死守戦と、
これに呼応した、百万遍や近衛通でのゲリラ的な闘争などが展開されたが、
逆に機動隊によって、教養部を始め全ての学部のストライキが解除された。
九月二十九日、授業が半年ぶりに再開された。
122革命的名無しさん:04/11/07 02:44:12

     うんこ派サンド来ましょ。
123革命的名無しさん:04/11/07 02:53:17
70年代はインタビューで、実際に運動を担った人物による紹介。

伊藤 公雄氏(大阪大学人間科学部社会学)いとう・きみお
昭和26年(1951)埼玉県生まれ。51年文学部卒業。56年同大
学院博士課程修了。京大文学部助手、神戸市立外国語大学講
師、助教授を経て、現職。

<リード>
六〇年代後半から七〇年代初頭にかけて、全国の学園、街頭を吹き抜けた学
生運動の熱い嵐も、七〇年安保闘争、七一年沖縄闘争を経て、党派間の内ゲ
バや連合赤軍事件の影響もあり、急速に衰退していった。しかしながら京都
大学においては、竹本処分反対運動を一つの核として、独自の運動を構築、
展開し、七〇年代を通じて全国の学生運動を牽引していったのである。
 七四年から七五年まで、同学会の議長を務めた伊藤公雄氏(現、大阪大学
人間科学部助教授)に、編集部インタビユーによって、当時の京大学生運動
の状況、その目指したものなど、振り返ってもらった。

<同学会を再建、第一次竹本処分粉砕闘争を展開>

――七〇年代京大学生運動を振り返っていただきたいと思うんですが、七〇
年安保闘争、七一年の沖縄闘争といったあたりまでは、京大の学生運動も全
国的な学生の政治運動の流れの中にあった、と言えるんじゃないですか。
伊藤 そうですね。それがちょっと変わってくるのは、七二年(昭和四十七
)の、いわゆる民青系学生による告訴・告発問題からだったじゃないでしょう
か。個人と旧同学会の名前で、まず五月に二名が告訴・告発されました。
――七二年の初めに、学費値上阻止闘争が闘われていて、その過程での衝突
が、契機となっていたんですね。
124革命的名無しさん:04/11/07 02:54:58
伊藤 あの学費値上阻止闘争は全学バリケード闘争や百万遍の解放区闘争を
展開するなど、大きな盛り上がりをみせたんですが、民青系学生はことごと
く反対してきた。そういうなか、二月に無期限ストを決議しようとした文学
部学生大会において、ちょっとした衝突があったわけです。
――学費の問題で盛り上っていたエネルギーが、学生を権力に告訴・告発す
るというような民青系学生の行為によって、パッと燃え上ったという感じで
した。
伊藤 まったくその通りで、五月に二名が告訴され、その後、確か十人くら
いが続いて告訴・告発された。九月には八島久男さんという、後に再建同学
会の委員長となる人が、釜ケ崎の地域闘争の支援活動を展開している際、釜
ケ崎の現場で逮捕されています。さらに酒井一君という、文学部学友会の委
員長だった人物も逮捕された。
 そういうことがあって、当時あった学費値上阻止全学闘争委員会連合(全
闘連)と各学部の自治会によって告訴・告発を糾弾する運動が展開されてい
くわけですね。十一月十日には、教養部代議員大会で、民青系の教養部自治
会執行部が罷免されています。だいたい当時は、自治会は民青系が握ってい
るものの、代議員大会になると全共闘系の流れである全闘連が勝つという構
図があったわけです。もっとも、教養部自治会に関しては、結局、民青系執
行部は罷免したものの、全闘連系の自治会は再建されずに、今だに正式には
承認されていない事能が続いていると思います。
 それから十一月二十九日には、全学学生大会が開かれて、同学会の執行部
を罷免し、代議員会の解散が決議されました。そして十二月二十日には、選
挙を経て第一回の新たな代議員会が行なわれ、先に言った八島委員長が選ば
れ、同学会が再建されるわけです。
 それで、当時の京大学生運動の特徴といったことに触れておくと、一つに
は、さっきの釜ケ崎の例にあるように、地域に出ていく、ということがありま
した。とくに反公害運動や下層労働者に対する運動という形で、地域に出て
いく。それと同時に、学内における政治的諸課題に取り組んで闘っていくと
いうような構図があったわけです。
125革命的名無しさん:04/11/07 02:56:38
――そして七三年一月には、経済学部教官協議会が竹本信弘氏の分限免職処
分の評議会への上申を決定します。
伊藤 そこから、第一次竹本処分粉砕運動、闘争が展開されるわけですね。
時計台にくっきりと記された「竹本処分粉砕」の文字、あれがある意味で七
〇年代京大学生運動のシンボルだったと思います。
 それとこの時期、もう一つ大きな要素としてあるのは、全学臨職闘争委員
会(全臨闘)を中心とした臨職の運動です。
 それから、当時の学生運動の展開のなかで特筆されるものだと思うんだけ
ど、竹本処分粉砕、全臨聞の運動を進める過程で、三月に、差別・分断・生
活破壊と闘う全国労学交流集会というものが京大で開かれた。これは、多数
の労働者、労働組合、地域運動の活動家が京大に集って、学生運動と交流し
合いながら一緒に運動を進めていくという方向を指し示したものであったわ
けです。それまでの学生運動がもっていた観念的な傾向みたいなものを克服
すると同時に、「生活破壊と闘う」というようなレベルの、生活領域にまで
至るような運動の方向性を示した。京大学生運動がその後も、全国の学生運
動が低調になるなかで、ますます力をもっていったことの理論的、実践的な
根拠の一つは、この三月の全国労学交流集会の中にあったと思うんですね。
――交流集会で示された方向の延長線上で、四月には同学会主催で新入生歓
迎連続・シンポゾウムが開かれています。
126革命的名無しさん:04/11/07 02:57:34
伊藤 このシンポジウムに、同学会の理論的、実践的方向性が端的に示され
ていましたね。内容をちょっと紹介しておくと、開幕講演が字井純さん。
 テーマとしてはまず「現代産業社会における臨時労働者」というのがあっ
て、これは全臨闘がやった。次に「釜ケ崎と高橋和巳」というテーマで、こ
れは底辺委員会という釜ケ崎の運動と結びついているグループ。そして「列
島改造と住民闘争」、これは伊方共闘という四国の反原発の運動をしていた
人たち。それから全学統一救村による「弾圧網を包囲せよ」、同学会による
「戦後史からの証言」と続いたわけです。
 そういうふうに、学生運動がそれまでもっていたアクマでっかちのところ
を克服するような形で、地域と結びつき、反公害闘争と結びつき、生活破壊
と闘う運動と結びつき、底辺労働者と結びつきながら同学会運動というもの
が表現されたということは、その後の京大学生運動を展開していくうえでの
大きな基盤となったと思うんです。
 たとえば、その年の六月、そういうさまざまな運動と結びつきながら、し
かも教育学園闘争を展開していくという構図のなかで、筑波大学法案粉砕闘
争というものに取り組んだんだけど、教養部だけで七百〜八百人が決起する
というような状況を生み出したんですね。当時、連合赤軍事件と内ゲバで学
生が政治に無関心となり、学生運動が大きく退潮していたわけで、この七百
〜八百という数は、相当なものだったと思います。
127革命的名無しさん:04/11/07 02:58:51
――そういう動きのなかで、いわゆる「清風荘密会事件」がありました。
伊藤 これも六月でしたね。竹本処分の関連で、警察が池田浩士さんの研究
室を不当捜索したものだから、教養部の学生五百人が集って、機動隊を学内
からたたき出してしまった。
――あの時の熱気はすごかった。
伊藤 全国的に学生運動がきわめて低調ななかで、目立った運動が行なわれ
ていたというのは、本当に京大だけでした。
<参院文教委の来学を阻止>
――あの頃、同学会は国際機関誌を発行していたと記憶しています。
伊藤 THE DOHGAKKAIですね。英語版、仏語版で、全世界百ヶ所くらいの大学
や運動体に送付して、京大を中心とする日本の学生運動、京大が関係をもっ
ている労働運動、地域の運動などを紹介していくということを続けていまし
た。
 また、この年の秋には同学会として二名の学生をタイで行なわれるアジア
学生会議に派遣したんだけれど、途中で強制送還されるということがありま
した。しかし、このアジア学生会議に行こうということを、一つの大学の自
治会として決定し、しかもそれを実行しょうとしたことは、当時の同学会連
動というものが、日本全国のさまざまな連動と連携すると同時に、世界的に
も運動の輪を広げていこうという、ある面、非常に健全な国際主義を掲げて
いたということであり、これは強調しておいていいと思うんです。
128革命的名無しさん:04/11/07 03:02:48
――田中角栄が七月にタイへ行って反日運動にさらされたり、学生反乱でタ
イの旧政権が倒されたり、というような時期でした。
伊藤 だからこそ、同学会派遣団の強制送還というようなことになったんで
しょうね。タイや香港の新聞は、この事件を一面トップで報じていました。
そういう意味では、国際的にも非常に明確な形で状況に関わっていこうとし
ていたと言えると思います。
 七三年の後半はこの他、京大=「公害」発生源を糾弾する全学集会、労災
職業病公害と闘う全開西活動者集会を京大で開催したり、釜ケ崎越冬闘争の
支援などに取り組んでいます。
――年末には、岡本新総長が登場しますね。竹本問題が大きな転機を迎えま
す。
伊藤 前田総長が再任されずに、当時、竹本処分反対派であった岡本さんが新
総長に選ばれた。総長が再任されないというのは非常に異例な事能であって、
このことの背後には、同学会を中心とする学生運動の力というものが、大き
く作用していたと言うことができると思います。学内世論の形成ということ
に関して、同学会がかなりの力をもっていたことの証明ではないか。
 岡本さんはその後、七四年三月に、竹本処分の評議会での審議を凍結する
という宣言をして、第一次竹本処分に関しては、この時点でひとつの区切り
がついたわけですね。
129革命的名無しさん:04/11/07 03:04:24
――七四年の前半は、狭山闘争が運動の中心だったと記憶しています。
伊藤 そのなかで、一つ触れておかなければならないのは、京大学生運動と
いうものがこの年の五、六月くらいの時点で、いわゆる党派型の学生運動か
らほぼ切れてしまった、ということです。当時、京大のなかには政治セクト
と関わりをもついくつかのグループがあって、彼らの党派性を前面に出した
動きによって学内は少しギクシヤクしたりするんですが、結局、それらのグ
ループは京大から出ていってしまったわけです。で、残った方のグループは、
政治潮流としてはブンド系の流れをくむんだけど、組織としては完全にノン
セクトという形で、その後の京大学生運動を主導していくと、その象徴が六
月十五日の全京大集会で、五百名が結集し、新たな同学会運動の流れが形成
されたわけです。
――この年の秋には、参議員文教委員会の京大査察が行なわれようとしまし
た。
伊藤 国会で「京大は暴力支配されている、ケシカラン。学部長室も占拠さ
れており、きわめて異常な事態である。調査が必要だ」と、問題化したんです
ね。それで、十月十六日に文教委が来学するという情報を、十日くらい前に
入手するんだけど、この頃というのは京大学生運動のパワーというものが若
干、衰えをみせていた時で集会をもっても二、三十の部隊しかつくれない、
というような状況だったんです。そこで、「十日間戦争」と名付けて(笑)、
かなり必死の情宣活動をやりました。そのかいあって、十月十六日当日には、
地域の労働者も含めて、確か三千人くらいの反対集会を時計台前でもつこと
ができました。この結果、参院文教委はトラブルを恐れて来学できない、と
いう事態をかち得たわけです。この問題が、京大学生運動にとって一つのカ
ンフル剤になった、ということも言えるかと思います。
 その後、十一月にフォード米大統領が来日するということで、それを阻止
しようと羽田現地闘争に部隊を派遣する。そして、フォード大統領が京郡へ
来てそこから韓国へ行くというんで、入洛阻止、訪韓阻止闘争を展開します。
確か時計台前で、同学会の呼びかけにより一千人くらいの集会を開きました。
130革命的名無しさん:04/11/07 03:07:32
――七五年に入ると、学費値上阻止闘争が大きなテーマとなりました。
伊藤 当時としては本当に全国でも珍しいことだったんだけど、京大では全
学的なバリケードストライキ体制で闘われました。一月二十三日に教養部代
議員会で無期スト突入が可決され、四月十一日までバリストが貫徹されます。
 それと、七五年というのは世界史的に非常に大きな意味のある、ベトナム
完全解放が達成されます。五月の十日に、ベトナム完全解放を祝う全京都集
会というものが、京都べ平連の主催で一千人を集めて行なわれました。当時、
京大の同学会はべ平連との関係というのはあまりなかったんだけれど、まあ
いいじゃないかと(笑)、確か赤ヘル百人くらいで登場して、デモの先頭に
立ったのを覚えています。
 七五年はまた、同学会として天皇訪米阻止闘争を、かなり大衆的なレベル
で進めています。この際、天皇の戦争責任を糾弾する在米アジア人の運動と
連帯する形で、アメリカに同学会の代表を派遣し、アメリカでの来米阻止闘
争も担っています。国際連帯というものを現実的な形で展開していったわけ
ですね。京都では、同学会主催で、九百人くらいの規模の天皇訪米阻止全京
都市民集会が開かれました。また、九月の末の羽田現地闘争には、京大から
百五十人の部隊を派遣しています。
131革命的名無しさん:04/11/07 03:08:01
――七五年には、東北大学生処分粉砕運動への協力というか――
伊藤 そうですね。京大には、竹本処分粉砕闘争で培ってきたいろんなノウ
ハウがあったもので、そのノウハウでもって、東北大ちょうど行なわれてい
た学生処分粉砕闘争を、指導と言ったら言いすぎかもしれないけれど、協力、
経験を交流させるような形で担っていった。実際、東北大に京大同学会のメ
ンバーが五、六名、常駐していましたからね。もうほとんど、学生運動の核
になる部分がないというような時代でしたから、京大同学会が全国の学生運
動を主導する形になっていたわけです。
 年が明けて七六年の二月に東北大処分粉砕闘争を支援するため、三百人の
集会を開き、東京でも七百人を集め、仙台へと乗り込んでいった。そして二
月十日に、仙台で一千人の集会、現地闘争が展開されるわけです。こうした
一連の全国的な闘いというものは、もうほとんど同学会が中心的な形で担っ
ていたと言ってもいいと思いますね。
注1 問題に取り上げたのは勿論、日本共産党である。七二年四月十
   日にも、参議院で京大の「トロキスト」弾圧として、京大新
   聞と京大出版会へのBOX貸与取消の制裁をするよう文部大臣
   に要求した。京大出版会は、序章社に名称を変えた。
注2 東北大文学部自治会が、民青からノンセクト系に移行し盛り上
   がった。しかし、同学会が手を引くと、東北大のノンセクト学
   生運動は分裂し、その流れの一部が中核派(日就寮)、第4イ
   ンター(東北大学新聞)になった。最後まで、ノンセクトを貫
   いたL共闘も、80年代始めに自治会を解散した。
132革命的名無しさん:04/11/07 03:20:57
――七六年といえば、突然、夏休み中に、総長室に鉄扉と鉄格子が取り付け
られ、驚かされました。
伊藤 これはいったい何なのか、ということで、凍結状態の竹本処分が再開
されるんではないかと判断したわけですね。それで、九月に、鉄扉、鉄格子
を外させる運動というのを展開しました。実際にハンマーのようなもので、
鉄扉を叩いて壊したりもしました。結局、岡本総長の専決ということで、学
内的にも反対意見が多くて、鉄格子はさすがに外されることになります。た
だ、鉄扉は、一度、壊されたものの再び取り付けられてしまいました。
 それから秋には、天皇在位五十年式典に対する反対運動に、同学会として
もかなりカを入れて取り組み、全学ストライキで闘っています。
――この年でしたか、京大に初めて反憲学連が登場したのは。
伊藤 そうですね。それまでも原理はちょくちょく頗を出していたんだけど、
この年の十一月に反憲学連が黒ヘル姿で登場してきました。全国の学生運動
の最大の拠点校ということで、向こうにすれば相当に体制を整えてからやっ
てきた、という感じでしたね。それで、武力衝突が起こって、この件が元で翌
年の二月、当時の同学会委員長が逮捕されています。
 この、右翼と衝突した後くらいから、京大学生運動のカが急激に衰えをみせ
始めます。とくに教養部の学生というものが、ほとんどもう学生運動に関心
を払わないというような状態で、実際にヘルメットをかぶって運動している
のは、三回生、四回生が中心になっていました。ヘルメットアレルギーとい
うものが相当に強くなっていたんですね。
133革命的名無しさん:04/11/07 03:22:17
――そして翌七七年、第二次の竹本処分問題が起こってきます。
伊藤 鉄扉と鉄格子が出硯した時に我我が予想した通りになったわけで、二
月の末に岡本総長が、竹本信弘氏の分限免職処分についての審議を再開する
と言い出します。それで同学会として、粉砕闘争を展開していくわけですが、
さっき言ったように京大学生運動のパワーが落ちている時期で、おまけに春
休みということもあって、かなり時間をかけて集めても六十〜七十人程度の
部隊しか集まらない、というような状況でした。                                                       一一
 竹本処分粉砕闘争、反対闘争というものが、どういう位置づけのもとに闘
われたのかということを整理しておくと、次のようになるだろうと思います。
竹本氏に対する処分が行なわれるならば、他の大学と比べれば比較的自由な
学内の空気みたいなものが、管理強化という形で圧殺されていくだろうし、
当然、その前段階として、唯一、京大のみが持ち得ていた学生運動の力とい
うものに対しても、大きな圧力がかけられてくるであろう。竹本処分とは、
そうした大学の管理強化の流れの一つのメルクマールに他ならない、という
論理のもとに運動が展開されたわけです。
134革命的名無しさん:04/11/07 03:23:41
――その運動のなかで、大きな注目を集めたのが卒業式での闘いでした。 
伊藤 そうですね。辛業式に関しては、学内世論というものを考慮して、卒業
式そのものを潰すというような論理を、我々は残念ながら持ち得ませんでした。
卒業式を大切なものとして考える学生もいるわけだから、式そのものは潰さ
ない。しかし、処分をすると言った総長が学生に対して祝辞を述べるという
ことは、どうも許せないんじゃないか、という論理で行動を起こしたわけです。
 で、ネクタイを締めたりして脇にはヘルメットをかかえるというようなス
タイルで(笑)、二十〜三十人が会場に入り、最前列の席に陣取ったわけで
すね。そして、証書授与の間はヤジを飛ばして批判の声をあげる程度で、比
較的おとなしくしていた。しかし、証書の授与が終わった段階で式の中心は
終了したと判断し、かかえていたヘルメットをかぶってですねえ(笑)、壇
上に上って総長の祝辞は阻止した。
 これは結果的に、春以降の運動の大きなバネになるんです。というのは、
マスコミが大きく報道しまして、テレヒはどの局もいちばんの最初のニュー
スとして流すし、新聞も大きく紙面を割いた。新入生にしてみれば、自分が
これから入る大学というのは問題が起こっている、処分問題が起こっている
という認識をもっただろうし、帰省している学生たちも、あっ、京大ではや
っばり同学会が大きな運動を展開していってるんだな、という印象をもった
だろうと思うんです。
――大きな宣伝になりましたね。
伊藤 それで、この春休みの段階で考えたのは、「ホーチミン作戦」と名付
けたんだけど、大衆運動で展開していかなくちやいかん、ということだった
んです。一千人規模の集会を春の早い段階でやろうと、スローガンも竹本処
分「反対」ということにしました。粉砕ではなくて。そして、集会、竹本処
分に反対する全学集会を四月二十八日に設定するわけですが、この組織化は
相当シビアにやりましたね。何としても一千人規模の集会を実現するんだ、
ということで。僕はもう、その頃は大学院生だったんですが、全学部の学部
名簿をチェックして、まるで選挙運動みたいな形で動員を図る、というよう
なことをやりました。
135革命的名無しさん:04/11/07 03:24:51
そして四月二十八日を迎えたわけですが、何とこの日は、大雨が降ってい
たんです。十二時から時計台前、ということだったんだけど、ザザ降りでと
ても一千人が集まるとは思えなかった。ところが、十一時四十五分くらいに
なったら、突然、陽が射し始めたんですね。そして、一千名の集会が実現し
た。あの時、僕は最初にアジテーションをしたんだけど、「天が我々に味方
した」(笑)なんて言ったのを、覚えています。
 それ以降は、最大動員一千人規模の闘い、処分行われるまで繰り広げられ
ます。そんな京大学生運動のパワーを、朝日新聞は特集記事のなかで「学生運
動のガラバゴス」なんて言っていました。常時活動家八十、緊急動員二百、
最大動員一千とその記事にはレポートしてあるんだけど、実際その通りで、
あの七七年の時点でそれだけの学生運動の力をもった大学など、どこにもあ
りませんでした。
 そういう大きな運動の高まりのなかで、評議会の前日、六月十七日に総長
団交がもたれるわけです。我々には、勝てるという見込みがあったんですが、 
結果的には非常に奇妙な確約を取っただけに終わってしまいました。いろん
な要素の判断のうえでそうなってしまったんだけど、総長に、最終的な処分
の評決のための評議会は、学内で行なえ、という確約を取っただけにとどま
った。そして翌十八日、八百くらいの学生が時計台を包囲するなかで、結果
的に処分が行われてしまった、ということですね。
 それ以後も評議委員に対する糾弾行動などが続けられるわけですが、翌七
八年の初めに、経済学部の教官協議会が「一日も早く竹本君を同僚として迎
える日がくるよう、待ちます」というような文書を発表する形で、竹本処分
反対運動というものは、一応、終息をみた、ということです。
136革命的名無しさん:04/11/07 03:27:44
――それ以降の京大というのは、やはり相当、管理が強化されてきたと言え
ますね。
伊藤 同学会が言っていたように、処分が為されて以降、京大の管理は急速
に強まってきました。文部省の大学を再編していこうという動きもあったわ
けでしょうが、官僚がどんどん力をもってくるようになります。そこで、総
長=時計台専決体制を許すな、というような運動も起こすんですが、残念な
がら力を持ち得なかった。それまで比較的保たれていた京都大学の自治、そ
れは相対的なものだし幻想ではあるんだけど、そういうものが急速に失われ
て硯在に至っていると思います。
――最後に、七〇年代の京大学生運動の特徴をまとめていただきたいと思う
んですが。
伊藤 なぜ、京大の学生連動だけが、全国的にみたら非常に特異な存在とし
て、「ガラバゴス」と言われるくらいに「生き残って」きたかと言うと、ま
ず第一に、最初の方でも触れたように観念的なものではなく、きわめて実践
的に連動を展開してきた、ということがあります。生活のレベルにまで至る
形で、差別の問題や底辺労働者の問題、公害の問題や地域住民闘争などに積極
的に関わってきた、ということですね。
137革命的名無しさん:04/11/07 03:28:51
――それがやはり、学生の間に広く深い支持を得る基盤となり、また教官層
の支持をも呼んできたと。
伊藤 実際、毒物たれ流し問題にしても安全センターの問題にしても、同学
会が提起して運動を展開していくなかで、それを大学当局が受け容れざるを
得ないような形になって、京大のいくつかの改革が為されてきた、というこ
とがあります。つまり、アクマでっかちの学生の論理じゃなくて、きわめて
実際的なレベルで、しかもいろんな人たちとつながりをもちながら運動を推
し進めてきた。
 そして次に、国際的な広がりというものをもっていたこと、さらに、赤ヘ
ル系ではあったけれどもノンセクトの運動であったということ、これが大き
いと思いますね。
138革命的名無しさん:04/11/07 03:29:18
 内部には実にいろいろな要素があるんだけど、論争を厭わず、時には殴り
合いまでしながら、しかも全体としてはまとまっていこうというような作風。
これが結果的に学生運動の活性化を促したと思うんです。お互いの主張を最
後まで闘わせながら、しかも大同団結していく、小異を残しながら大同につ
く。常にいろんな小異を生み出しながら、それが運動全体のエネルギーとな
るような構図があったと思うんです
――セクト、党派では、学内的ににそういう基盤を持ち得ませんからね。
伊藤 結局、七〇年代末までは、どこの政治セクトも介入できないというか、
指をくわえて眺めているというような状況が続きましたからね。そういう意
味で、七〇年代というのは「京大らしい学生運動」が花開いたと言えるかも
しれない。
――それまではやはり、全国的な政治の流れのなかで、京大がどういった位
置を占めるか、というふうな構図だったように思います。
伊藤 いろんな教官の手記なんかを読んでみても、七〇年代が非常に印象深
いということをよく書いてあるんだけど、それはやはり、京大の自治をめぐ
る問題がかなり大きなテーマとなって学生運動が行われていた、ということ
があるんじゃないかと思うんです。もちろん、それに対してどのような態度
をとるかということはあるんだけど、仮りに無視したとしても、心の中には
相当、印象深く刻まれたんじゃないでしょうか。そういう意味で、同学会運
動が教職員に対しても、京大らしいという一種の誇りみたいなものを与えて
いた側面もあったように思いますね。
(終わり)
139革命的名無しさん:04/11/07 22:33:14
京大の赤ヘルノンセクトやってた連中のうち、ある者は、人民の海へいうことで、流れ流れて港合同や、関生の労働運動へ行き着いた連中もいる。
中核が天まで持ち上げているDCと共催で行っている11月7日の労働者集会、かげで支えているのは、案外党派とは関係ない、このような人たちだったりして。
140革命的名無しさん:04/11/07 22:38:56
それでいいんでは・・・・
何か問題でも??
141革命的名無しさん:04/11/07 23:19:01
>104-
紫翠会出版『京都大学90周年記念協力出版−京大史記』の引用だが、
この紫翠会出版。『回想田宮高麿』(田宮高麿さん追想出版委員会/編)、
『「リハビリ」終了宣言』(塩見孝也)を出しているところ。
「京大百年」を記念する『京大の世紀』が出たときには、この本の関係で
紫翠会出版のチラシが学部事務室にあり、裏面には田宮さんや塩見さんの
本の宣伝も載っており、ちょっとワクワクした。
142革命的名無しさん:04/11/08 07:25:30
紫翠会出版は、1974年の同学会委員長の
佐々木道博(通称オオゾゾ)が、運営してい
る出版社。現代中国研究会の後押しで、中執を
掌握。磐梯、コゾゾらも現中研にはいたが、
1976年に日中友好協会(正統)を経て
日本労働党に合流した。岡山県の衆議院選挙
に立候補したりしたが、その後、離党し、
紫翠会出版を起こした。
 ちなみに、現中研の召喚の前に、レーニン研究会
−C戦線も、マル青同を結成し、大学の基盤を
放棄したため、京大は、ノンセクト主体に結果的に
なったのが、70年代中葉の状況。

赤ヘルノンセクト同学会は、
竹本処分粉砕闘争(1977年)後も毎年、全学課題を
惹起し、
・S君の教育実習実現闘争(1978年)
・熊取原子炉停止運動(1979年)
・金大中死刑反対運動(1980年)
・刑法改正阻止、原理研究会追及(1981年)
・吉田寮在寮期限粉砕闘争(1982年)
・レーガン来日粉砕(1983年)
・全斗換来日粉砕(1984年)
・吉田寮廃寮粉砕闘争(1985年)
など、時に4桁、まあ300〜400人レベルの集会
と、農学部、文学部、経済学部の学生大会でストライキ
を敢行出来る力量を示し、関西学生連絡会の中心で
関西のキー大学であったが、いかんせん、1984年の
中核派公然登場により「脱落派」規定され、大衆的実力
闘争を組みにくくなってしまった。
143革命的名無しさん:04/11/08 22:50:55
「本部の時計台に白ペンキで書かれた「竹本処分粉砕」の文字はもうない」で始まる、
朝日ジャーナルの大学レポート「京大編」が掲載されたのは、1981年1月1日号
だった。書いたのは今は亡き寺山修二である。
 寺山の手元には、京大広報の1978年1月1日号があり、広報には予定原稿の
「清掃された時計台は、吉田山を背景にくっきりと浮かび建っている」と引用して
いる。でも、京大広報が皆の目に触れたときには、新しい「竹本処分粉砕」の文字
が、以前にもまして力強く、書かれていた。大学は面目を丸つぶれにされたのである。
 朝日ジャーナルから続いて寺山の文章、
「1977年6月18日に開かれた評議会で経済学部助手の竹本信弘の免職処分が
決まった。これに反対する学生たちは授業妨害、ストライキ(教養部、農学部、文学
部、経済学部、教育学部)で、教官放逐作戦で応じたが、大学側は機動隊を導入し、
力によって学生たちと対応した。それがかえって学生たちの反発を生んだ。学生たち
は総長室、経済学部長室などを占拠し、闘争は一段と激しさを増した。
 1971年8月の朝霞事件で指名手配された竹本助手は、以来、姿をくらました
ままとなった。第一次竹本処分粉砕闘争の1973年を経て、1977年6月18日、
大学評議会は晴れがましいはずの大学創立記念日でもあるこの日に無断欠勤を理由に
竹本助手の分限免職処分を決めてしまった。学生は、欠席裁判、政治思想処分と非難
したが、大学側は、無警告機動隊導入で、これに答えた。」
144革命的名無しさん:04/11/08 22:52:00
 寺山修司より続く
「1977年12月27日、機動隊の警戒の中、大学は5年ぶりにペンキ文字を消し
た。しかし、1978年1月10日、ナワバシゴの6人の学生が、スプレーで再び
『竹本処分粉砕』と書きつけた。大学は建造物侵入罪で6名の『決死隊』を逮捕し
たが、その6人の学生は活動家でなく、『一般学生』(京大山岳部)だったことで、
大学側はショックを受けることになった。」
 YMCA地塩寮や、西部構内の山岳部BOX、文学部地下などが家宅捜査された。
「闘争は、一部のハードコア活動家と大学とで繰り広げられたのではない。OBぐ
るみ、教官ぐるみで『大学の自治』をめぐる反撃を組織されていたのである。」
 吉田山のスナック「白樺」には、元京都府学連委員長の高瀬泰司らがいて、そし
て、教官共闘には教養部の池田浩士、野村修、山田稔、工学部の槌田、佐藤、教育
学部の本山、農学部の飯沼二郎らがいた。
「77年中、学外で開かれた授業221件、中止された授業139件、学外で開か
れた会議126件、という数字が当時の京大のおかれた状況をよく示している。評
議員や学部長、それに処分を評議会に上申した経済学部の教官の姿を見かけるたび
に、学生らはそれを取り巻いて糾弾し、校門の外に放逐した(朝日新聞)。ある朝、
車で乗りつけた岡本総長は、車ごと正門の外に押し出された。放逐の際に頭からペ
ンキをかけられた教官もいた」
 寺山修司がレポートを書いていた、1980年12月のある朝、赤ヘルメットを
被り、鮮やかな赤旗を持った学生らが突然、時計台の屋上を占拠した。時計台の正
面には「日韓連帯 金大中死刑判決阻止」の大ステッカーが貼られ、全国のメディ
アにも紹介された。教養部は、もちろんバリケードストライキだ。
 地方にいたマセタ高校生は、わずかな大学入試の情報源として朝日ジャーナルを
読み、面白そうな大学と思ったのだろう。志望校を思わず「京都大学」に変えたの
が、数人いた。その一人がオレだ。
 入学したころは、雨の日の時計台を見ると、うっすらとタイルの目地に残った白
ペンキの「竹本処分粉砕」の文字が見ようとする人には、見えるのが何よりだった。
 そして、2004年の今は、時計台は磨き上げられ、目地のスプレー跡は、今度
こそ、本当に「もうない」。
145革命的名無しさん:04/11/11 01:24:14
1972年12月 京大同学会(全学自治会)が再建されたときに
同学会再建宣言が発せられた。

「ヴェトナム反戦戦争の戦列の最先端にやどった、我らの新しい思想と
戦いの質は、全共闘運動のなかで深化され、学生運動の共有財産となり
そして、全国各地の人民の闘いに学び結合し、その闘いを大学の中に
還元してゆくなかから、今は、個々バラバラの細流であっても、新しい
そしてとてつもなく大きな奔流として形成され始めている。この奔流を
生み出すための一つの溶鉱炉が、京大同学会というそれが、今ここに
建設されたのだ。この溶鉱炉には、すべての闘いが投げ込まれ、燃え上
がり、溶け合って、やがて、一つの大きな奔流となって、未曾有の時代
を切り拓くのだ。
 さあ、行こう。
 夜明けの熱列な預言者として   1972年12月20日」
 
この同学会再建宣言のの終章を、ある思い入れをこめて記したい。
「溶鉱炉」。そう、僕たちは、投げ込むことを忘れていなかったか。
燃え上がらせて、溶かし合わせることを忘れていなかったか。溶鉱炉
そのものを、タコの足のように溶かし、形だけの奔流でごまかそうと
していなかったか。溶鉱炉に火を! 赤い火をくべよう。

 ちなみに、この宣言は、「樹々の緑」という、京大同学会発行の
新入生向けのパンフレットに載っている。同パンフレットは、同学会
再建後、1973年から1980年、そして、間をおいて、1983年
1998年に、都合、9冊発行されているが、それぞれに、同学会委員長
や各学部自治会、闘争フラクション(狭山ー久世、刑事法研究会、反原発
学集会、原水爆禁止問題研究会、女解放研究会、三里塚闘争委員会など)
のアピールが載っていて、貴重な資料となっています。
146革命的名無しさん:04/11/12 02:10:59
70年代 京大学生運動裏話

森毅の「僕の京大物語」が、表の裏話ならば、以下は、裏の裏話です。

1969年 9月 時計台闘争

      9月の決戦では、東大型の大量逮捕をさけるため、党派から数
      名づつ代表を出して、逮捕されるように決定された。中核○人、
      青解から○名とか。このとき、中核派は京大籍の加盟員を温存
      するため、大阪市大のメンバーを出したことで、後の時計台裁
      判でぎくしゃくすることになった。なお、時計台裁判の記録は
      被告団が冊子(2分冊)にまとめており、当時の状況が克明に
      わかります。「京都大学新聞」で取り扱っているはずですので、
      入手したい方は、googleで探してください。

      なお、この時代は「京都大学新聞」は、青解派であった。
     (青解系の全学連の副委員長に、京大新聞のメンバーが就任)。
      ただし、1975年に京都大学新聞は休刊に追い込まれ、同学
      会が同新聞の運営を引き継ぎ、現在に至る。
     
      この時代の「C闘委」はノンセクト。ただしC闘争委員会のキ
      ャップの松尾真氏は、ノンセクトから中核派に移行し、今は精
      華大学の教員となる。

      文学部(ブント系)、農学部や工学部は、研究体制を問題視する共
      闘派。医学部は中核派。黒ヘルの「京大パルチザン」は、特段、拠点
      を持たずに存在。
      京大出版会は、八木健夫さんの主催で、赤軍(上野勝輝)や
      RG派(榎原均)とのつながりが強かった。

147革命的名無しさん:04/11/12 02:11:57
1970年 70年安保「6月行動委員会」で各党派と、ノンセクトが久し
      ぶりに共同して活動。このころ、神戸大学の反大学教官の松下
      昇(ドイツ語)が、神戸大学を追い出され、京大に移動。教養
      部A号館北側のドイツ語資料室を住処にして、妻や子供と住み
      着いた。1982年に資料室を追い出された。

1971年 中核派、沖縄闘争で京大内から召還。中核派の認識によると、
      自分たちが居ない隙に、ノンセクトが勝手に京大で運動をやっ
      ていたという見解である。

1972年 学費値上げ反対闘争(学費3倍に1万2千円→3万6千円)
      最後に、全国の大学で統一したストライキ闘争が取り組まれた年。

1972年11月  民青系 同学会罷免
      八島同学会は、「レーニン研究会、C戦線・T戦線」「現代中
      国研究会」「ノンセクト」「京大パルチ」「プロ青」などのパ
      ワーバランスを、うまく八島委員長がコントロールして成立。
      「同学会ボナパルティズム」と言われた。
      なお、民青が対抗して、C代大を開こうとしたが、深夜法経1
      番教室に忍び込んだ赤ヘルが、会場にうんこをして、当日使え
      なくして、タイミングを外させたということがあった。このと
      き、緊張してなかなかウンコを出せないメンバーに対し、八島
      さんだけが堂々とした、ウンコを出し「さすが委員長」と言わ
      れたとか。八島氏は、今は日本語と英語を放棄し、イタリアで
      数学を教える。薬学部自治会崩壊。C自治委員会成立せず自治
      会崩壊。
148革命的名無しさん:04/11/12 02:12:36
1973年1月 第1次竹本処分闘争
      このころ、赤ヘル系の学生自治会は、同学会、文学部、経済学
      部、農学部、医学部、理学部、教育学部、工学部を握り、吉田
      寮と熊野寮も掌握。対する民青同は、法学部、生協、文連、院
      生協議会、女子寮、職組であった。

1973年 C戦線が、規約の運用や正当性に対しては厳しく運営したので、
      1976年までは「同学会代議員大会」は、きちんと運営され
      ていた。代議員大会の議長に伊藤公雄(大阪大学教官)が就い
      たこともある。

1974年 これまで、1972年後期同学会(民青同)と、赤へル系の同
      学会が、並立していたが、岡本総長は就任すると、赤ヘル系の
      同学会を公認。民青同は、大学による「過激派泳がし」と非難
      した。
      現代中国研究会が、中執フラクとなる。この年、中国からの京
      大への訪問団があったとき、赤ヘル同学会と当局が合同で、法
      経1番で1000名の歓迎集会をした。
       このとき、佐々木道博同学会委員長は、タモリ風の滅茶苦茶
      な「中国語」もどきで挨拶。それを聞いた日本人の聴衆は、さ
      すが京大同学会委員長と勘違いをして、大拍手。一方、中国人
      訪問団は、委員長が日本語で熱烈歓迎してくれたと思って感謝。
      その横で事情が分かっている、ひとり井上清教授だけが苦虫を
      かんでいた。
      T自崩壊。

1975年 C戦線が、マルクス主義青年同盟に合流し、京大から召還。
      山岳部人脈から、鬼界彰夫さんが委員長に。現筑波大学教員で
      ヴィトゲンシュタインの研究者である。
      理学部自治会が、民青に。こののち、ひとつひとつ民青同に
      自治会を「民主化」されてゆく。
149革命的名無しさん:04/11/12 02:13:08
1976年 学費値上げ反対闘争が盛り上がる。現代中国研究会が日本労働
      党へ合流。空白になった、中執フラクに突如、彗星のように
      「SAAR 原水爆禁止問題研究会」が登場する。

      7月2日、民青同が、京都中のゲバルト民青同盟員をあつめて
      「C自」をでっち上げ。赤ヘル、ゲバルトに負ける。
     
1977年 第2次竹本処分粉砕闘争

1978年 白樺派の総括を巡って、ノンセクト内でぎくしゃく。もともと
      竹本処分を粉砕するために同学会を再建したのであって、処分
      が敢行されたら、同学会も終わるかと思われたが、またまた、
      彗星のように「市田良彦氏」があらわれ、1979年まで、異
      例の2年間委員長をした。現、神戸大学教官(P.ヴリリオな
      どの研究者)

1978年 「S君の教育実習」闘争

      このころ、文学部闘争委員会、理学部共闘会議、毛派の「立志
      社」へ流れる。A自A闘(緑ヘル)は、独自のノンセクト路線
      を堅持。経済学部同好会は、釜ヶ崎への支援運動を行いつつも、
      徐々に浅田彰(同好会文化部長、現京大教官)路線に。
      教育学部自治会、民青同に。

1979年 「熊取原子炉停止。工学部毒物垂れ流し」糾弾闘争。   
      熊野寮自治会臨時執行部体制。日本労働党による常任委員長、
      書記局掌握から、ノンセクトへ移行。
150革命的名無しさん:04/11/12 02:13:42
1980年 「金大中 死刑反対運動」
       立志社、カンボジア・ポルポト問題でノンセクトと溝。
       結局、文学部地下のBOXと理学部非分属の学生控え室から撤退。
      「女解放研究会」(おんなかいほうけんきゅうかい・通称 おかい
       けん)が分裂。その一部が、女性解放研究会(じょかいけん)を
      名乗り、教養部E号館BOXを占拠。それが、後の政治経済問題研
      究会・婦人問題研究会となる。政経研が同学会委員長を襲う。

1981年 前年度の金大中闘争で、消耗した教養部闘争委員会のメンバーを、
      中核派の某Uが同学会元委員長に「預かるぜ」と言って、オルグ。
      これが、のちのちの、中核派の京大制覇の糸口になった。

   5月「入寮募集停止粉砕運動」。熊野寮書記局に「80年C闘委」が合流。
      熊野寮自治会として、三里塚闘争を同学会とは別部隊で決起するこ
      とになった。熊野寮自治会が中核派色となる初年度。      

      何度か、政権が民青同とノンセクト間で拮抗していた医学部自治会が、
      民青同に完全掌握される。ノンセクトは、医学部新聞会に結集。


151革命的名無しさん:04/11/12 19:59:29
又聞きの昔話をあらためて聞かしてもらった。
>146時計台に誰が残るかもめたので、熊野寮の委員長が、指名して決めたという話を聞いたことがあるが
>149白樺グループについては、竹本処分の評議会をなぜ、学内でやらす指示を同学会にしたのか、学生には非常に不満が残った。放逐戦という、教官を学内に入れないという消耗する戦いをやらせやがってという感じ。民青には暴力学生とレッテル貼られるし。
今から思えば77年秋の二度?にわたる機動隊導入に対し、1000名規模で学生が反対抗議し、これが不満もつ学生のガス抜きになった感じ、それ以降いつの間にか、運動収束したから。
それより、78年以降頻繁にカクマルが出没し始めた。ノンセクトがしょうけんかんで仕事してると、情報収集であれこれ言ってきたりしていた。
152革命的名無しさん:04/11/12 20:11:04
今のz書記長が出没し始めたわけね。それからもう・・・〇〇年・・。ようやるね。w

153革命的名無しさん:04/11/12 20:26:11
団塊の世代のノスタルジーか。
団塊の世代が年金生活に入る今後、学生運動を懐かしむビジネスが繁栄するかもなw
154革命的名無しさん:04/11/12 20:56:17
>>152
今のz書記長は1997年入学の現役学生ですが、何か?

>1999年9月21日台湾集集地震(M7.7):
>D2課題演習による学生調査レポート
>*D2課題演習は、理学部地球物理学教室地震学研究室が受け持つ学部3回生向けの演習です。

>   ◆ 余震と本震の断層運動の違い(担当:谷口)

http://www-seis1.kugi.kyoto-u.ac.jp/d2/99/
155革命的名無しさん:04/11/13 00:23:59
富士山大爆発→東京ハルマゲドンいてた椰子こいつかな。わらわら

156革命的名無しさん:04/11/13 09:53:34
2老してようやく送り込み成功(プッ)
学内潜入スッパイ要因。
仲間も増やせずヤケクソz書記長デビューウー(プッ)
もう学内登場も不可能、籍あと1年ガケップチ30歳の私でつが何か???
157革命的名無しさん:04/11/13 10:01:16
97年入学、今年度8回生w
158革命的名無しさん:04/11/13 12:00:50
京大のトモチビも風前のトモチビてやつでつね。
頼みの綱たる大境内も大学本腰入れてきたらすい。
関西のトモチビやばぁあ〜♪
159革命的名無しさん:04/11/13 12:47:01
828 名前: 名無しの経大生 投稿日: 2004/11/12(金) 18:44
当然、テロられるのも怖いのもあるでしょう
情報持ってるし、家まで来られたら怖いよ
やられる時は別働隊というか本隊の戦闘的革命闘士が来るわけだし

832名前: 名無しの経大生 投稿日: 2004/11/13(土) 02:00
>>828
新聞部みたいに潰される事あるからな

833 名前: 名無しの経大生 投稿日: 2004/11/13(土) 02:55
それマジ?

834 名前: 名無しの経大生 投稿日: 2004/11/13(土) 03:12
部室にうんこバラ撒いたのは自治会?

835 名前: 名無しの経大生 投稿日: 2004/11/13(土) 03:39
でも自治会に従わなきゃ部活もまともにできないのも可笑しな話
とりあえず自治会潰したい派(部活在籍中)
160革命的名無しさん:04/11/13 12:53:16

大 阪 経 済 大 

【革マル派】自治会を考える・その2【全学連】
http://jbbs.livedoor.com/bbs/read.cgi/study/56/1081766627/
【革命】自治会を考える【闘争】
http://jbbs.shitaraba.com/study/56/storage/1039528791.html
【戦争】正直、自治会はいらん。【反対】
http://jbbs.shitaraba.com/study/56/storage/1017642635.html
自治会ってどう?、語れる?
http://jbbs.shitaraba.com/study/56/storage/1037188609.html


神 戸 大

《神大生なら》核○うざい《思うだろう?》
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=386&KEY=1042603685
【蘇れ】なんでも反対団体の張り紙を破り捨てるOFF【白い壁よ】
http://jbbs.shitaraba.com/study/386/storage/1042651488.html
161革命的名無しさん:04/11/13 15:14:59
マル共連フォーラムより↓


「反戦マーチ」 in 京大

お名前: カタロニアオレンジ
登録日: 2004年11月13日13時46分
リンク:
樂さんは「Re:京大祭」で書きました。
>屋内企画で「日本民主青年同盟京大班 リアルドラ○もん像 」というのがあ
>り思わず噴出してしまいました。

これ対し、革マル派が「かみなり様」先頭に「反戦マーチ」を仕掛けると俄然もりあがることと思います。
まだ衣装等は処分されていないのでしょうから、関西の学友にもわが革マル派の勇姿をみせていただくよう謹んでおねだりいたします。
 
162革命的名無しさん:04/11/13 15:33:01
関西のz諸君はなぜ我が同盟の伝統芸「マーチ」をしないのだ?
まさか恥ずかしいとか、見っとも無いとか思っているんではなかろうな。
そう思っているなら即刻、革命的左翼の看板を返上したまえ!!
我が同盟に諸君らのような肝っ玉のちっちゃい香具師らは不用。
残った香具師で京大反戦マーチをやりたまえ。何?3人?じゃ3人でやれ!!
思いっきり変わった変装しれ。3人で5レンジャーでもやれ(2人案山子)。わら


163革命的名無しさん:04/11/13 17:25:40
 このスレッドにはどういうわけか、民学同(民主主義学生同盟)についての記述がありませんが。民学同=C学生共闘は70年代では第三勢力の地位を教養部で占めていたのですぞ。
164革命的名無しさん:04/11/14 01:53:38
東大以外は低学歴。氏ねよ。
165革命的名無しさん:04/11/14 11:35:44
京都精華大とか竜谷大とかどうよ。
166革命的名無しさん:04/11/17 04:26:11

Re:京大祭

お名前: 趣味者
登録日: 2004年11月16日23時57分
------------------------------------------------------------------------
今年の企画を若い人に聞いてきました。2004年11月16日の状況。

・経済学部同好会は、デリダ追悼で、柄谷行人・浅田彰・鵜飼哲の鼎談を
 する。グッバイレーニンの映画上映を行う。
・文学部学友会は、アイヌ沖縄の企画を行う。
・同学会は、国際映画祭として、「パルチザン前史(滝田修)」「ウカマ
 ウ集団」「ゴダール」の映画上映を行う。
・農学部自治会と理学部自治会は、「北部祭典」として、共同で企画。
 たとえば、「泥ウソとテント」上映、また、鶏の頸を絞めて食べる、
 水俣の無農薬みかんの販売、長野の無農薬りんご販売、京大植物園
 の無料開放で、観察など。センスがよいです。

 でもって昔から民青系といわれた、法学部自治会、教育学部自治会
医学部自治会の企画が、パンフレットに、かれらの企画内容、中間
実行委員会アッピールすら掲載されていません。企画が無いようです。
 
 祭なき場に「政」なし。また文化サークル連合のメーセージも無い。
そこまで、京大民主青年同盟は、衰えたか。また、以前は、民主青
年同盟京大理学部班とか、学部単位で「班」があったのだが、今は、
京大班だ。それも本気で「ドラエモン」をオブジェとしてこさえる
らしい。昨年は民青京大班として「憲法を考えるという」企画をやっ
ていたが、今年は「ドラエモン」?  大衆追随主義もいい加減にし
ろ、といいたいが、民青の方々も、今の京大では完全に少数化した
ようで、かつての「赤ヘル」として、妨害・非難を受けたものとし
ては大変寂しいものです。
167革命的名無しさん:04/11/17 04:26:49
 なお、ミスコンの件は、後援していた企業(桂由美)が撤退し、
ブライダルショーの仕掛けが、できなくなり、もしかしたらこのまま
開催を断念するかもしれない、という風評でした。
 
 閑話休題、文学部学友会(自治会)が、数年ぶりに、学生大会
を開催しスト決議を目指すそうです。課題は、アカデミックセクス
ハラスメントです。日程は忘れたが、12月の学生大会の当日の
午後は「休講」措置になり、文学部当局は、ずいぶん、物分りが
よい態度をとっている。そのまま、1/3の委任状も含めた定足数で
成立、ストライキ、団交の「12月祭」を盛り上げてほしい。
 
 議論することは、まず、なんといってもええこっちゃ。
 
 他大学の多くが「ミスコン」を無批判に開催する中、それを
ディベートの場で粉砕し、しかも、副学部長団交を実現。さらに
文学部で学生大会を開こうとしている、ノンセクトの諸君に
感涙の念を抑えることができない。がんばれ、日本のガラパゴス。

(↑ http://marukyo.cosm.co.jp/forum/index.cgi?id=7&stat)
168革命的名無しさん:04/11/17 13:25:07
愛知県警犬山署は16日、他人のキャッシュカードを盗み、現金を引き出したとして、
窃盗の疑いで、京都大大学院生で同県犬山市の京大の関連施設に通う中山桂容疑者(29)
=犬山市犬山中ノ宮=を逮捕した。
調べでは、中山容疑者は4月24日、犬山市内にある銭湯の脱衣所のロッカーから、
現金約13万円とキャッシュカードなどが入った女性会社員(55)の財布を盗み、
同市内の銀行から現金計約370万円を引き出した疑い。
銀行の防犯カメラに現金を引き出す姿が写っており、発覚した。
中山容疑者は容疑を認め「生活費や遊びに使った」と供述している。
169革命的名無しさん:04/11/19 21:24:35
>がんばれ、日本のガラパゴス。

座布団10枚!!わら


170革命的名無しさん:04/11/25 05:34:02
>151 :革命的名無しさん :04/11/12 19:59:29
>又聞きの昔話をあらためて聞かしてもらった。
>>149白樺グループについては、竹本処分の評議会をなぜ、学内でやらす指示を同学会にしたのか、学生
>には非常に不満が残った。放逐戦という、教官を学内に入れないという消耗する戦いをやらせやがって
>という感じ。民青には暴力学生とレッテル貼られるし。

もしかしたら、下記の内容ですか。
http://www.cosmos.ne.jp/~miyagawa/text19a.html

上気の文章は、大変、史実的に記録しているので、読みやすく、貴重です。I氏とは、伊藤
公雄を指すものと思います。彼は公然登場だし、非公然の時は「麻生令彦」
だから暴露してもよいでしょう。同学会代議員会議長をお名乗りですから。
 で、著者には無断ですが、引用してみましょう。
==========================
171革命的名無しさん:04/11/25 05:34:39
(その1)
 本日6月18日が何の日か知っているだろうか。そう、京都大学の創立記念日である。18年前の今日、
京都大学評議会は「反戦・自由の砦」の創立を記念すべきこの佳き日に、経済学部助手竹本信弘に対する
「連絡不能」を理由とする「分限免職処分」の決定を賛成多数で可決した。早朝から時計台一階に座込ん
でいた我々は、既定方針通り、京都大学総長岡本道雄の要請に基づき時計台を包囲していた京都府警機動
隊によって、一人ずつ「ゴボウ抜き」にされ、「平和的」に排除された。ジェラルミンの盾の列の間を両
腕を抱えられて連行されながら、おめでたくも私、おそらく私たち、はまだ、採決による勝利を5分5分
の可能性で読んでいた。採決の決定的瞬間に会議場の二階におらず、怒りをもって突入すべきときに機動
隊の包囲の外側で時計台を茫然と遠まきにすると言う無残な結果をもたらしたこの早すぎる「武装解除」
が、当局と「白樺」派との密約の内容であったことを知ったのはもっと後のことだ。私たちに楽観的な読
みをさせたガセネタももちろん「白樺」の仕業だろう。
 2年後、全学学生自治会同学会新政権はこの日の「敗北」に至るすべての事実を明らかにし、全面的に
自己批判する文書を発表した。その頃完全に「ひよって」いた私は、その文書を強烈な違和感とともに手
にしたのを憶えている。一握りの陰謀集団によって「踊らされていた」に過ぎない愚かな者たちとして自
分たちが描かれることも不愉快だったが、あらゆる運動につきものの裏切りや陰謀にも関わらず、その運
動にただ一人でも「大衆」が関与したかぎり、運動の生命は防衛されなければならないと思った。その年
の4月に入学したばかりの私は、「組織者」であるよりは、より大きく「大衆」の一人であった。
172革命的名無しさん:04/11/25 05:35:40
(その2)
 もともと「赤軍派になる」つもりで大学に入ってきた私は、4月28日の時計台前全学集会に向けての
熱狂の中に、否応なく、いや、すき好んで巻き込まれた。この集会の参加者は公称1、200、実際にも
800はいただろう。東一条から百万遍まで敢行された「無届け」の「フランス・デモ」(道幅いっぱい
に手をつないで広がるやつ)には警察も手だしができなかった。
 6月中旬評議会決定の見込がうわさされる中で、6・14教養部代議員大会、スト権確立、評議会情勢
に応じてストライキ突入という方針の下で、連日の「怒涛のような」「クラス入り」が開始された。朝7
時、「尚賢館」結集、簡単なうち合せの後教養部正門前ビラまき。毎日新しい内容のビラを1、000部
用意した。8時50分の一時限め開始とともに、あらかじめの分担に基づいてクラス入り。語学などのク
ラス授業に介入して、討論を組織し最終的には代議員3人を選出させる。「尚賢館」の壁には、大きな模
造紙に各クラスの討論組織状況の一覧が張り出されていた。すでに4月17日の三里塚集会で「デビュー」
をはたし、ものずきな一回生として「将来を嘱望」されていた私は、とりわけ政治意識が低いとされてい
る工学部に所属していたせいもあって、20クラス以上もある一回生工学部クラスを中心に討論の組織を
任されることになった。
 教養部の半数が工学部である以上、代議員大会の成否は、工学部の組織化にかかっていることは誰もが
認識していた。でも、民青すら手だし出来ない膨大なノンポリ層。はじめは全く無理とも思えたが、やが
てここに一人あそこに一人と、話を聞いてくれる人が現れ始め、「尚賢館」の壁の一覧表にも代議員選出
を示す赤旗マークがつきはじめた。
 人間は変化することが出来る。働きかければ、必ず反応を引出すことが出来る。逆に、働きかけなけれ
ば、絶対に、反応を引出すことは出来ない。「しつこすぎると嫌われる」と言うのは、こと政治運動に関
するかぎり、何もしないことの言い訳に過ぎないこともわかった。そして、より危険なことだが、人を否
応ない変化に誘い込む、「権力の味」も知った。
173革命的名無しさん:04/11/25 05:37:18
(その3)
 6月14日、すでに選出代議員数は定足数を超えていたが、当日本当に出席してくれるかどうかは、前
夜の徹底的な電話オルグにも関わらず、自信がもてなかった。議会制民主主義に大した敬意をもっていな
い我々は、当然のように出席数の水増し工作の準備をしていた。法経一番教室の入口でいわば二重帳簿を
操作していた部隊と会場内との伝令をしていた私は、出席者の実数が「本当に」定足数を超えてしまった
ときの、文字どおりの「うれしい悲鳴」を今でも忘れることが出来ない。
 代議員大会などと言うものは、成立さえさせてしまえば、必ず議案は通る、それどころか、最も「左の」
路線に傾くものだ、といわれてはいた。しかし、会場の議論の行方は我々「組織者」の予想をはるかに超
えた。無理やり頼み込んで来てもらった筈の「一般学生」の代議員たちが、次々に壇上に頼まれもせずに
登り、あまつさえ「無期限スト」などの「極左路線」をぶちあげたりしている。
 6月17日、評議会決定の前夜、同じく法経一番教室で開催された総長団交には教養ぶを中心に、500
名以上が結集した。すれっからしの活動家の追及にはのらりくらりと返答をかわす技を身につけていた総
長岡本も、かわるがわるマイクをつかんで立ち上がる「ノンポリ」教養部生の発言には明らかに動揺して
いる。私たちは、少なくとも私は、勝利を確信していた。

 運動と言うものは、勝つにせよ負けるにせよ、始めるよりも、終わることの方が難しい。「白樺」をめ
ぐる混乱のなかで、もちろん当時の私にはその辺のことはよくわかっていなかったが、暫定的に出された
「報復戦貫徹」の方針。処分賛成派の評議員の研究室に夜間、乱暴ロウゼキをはたらいたり、農学部グラ
ウンドで早朝ゴルフの練習に現れた岡本にささやかな「テロ」を加えたりといった、「不毛な」闘いに対
して活動家が一人減り、また一人減りする中で、あまりなにも考えていなかった私は、このささやかな
「破壊活動」を結構楽しんでいたような気もする。だが、運動の高揚期には、えらそうに現れて「断固た
る」決意を述べたりしながら、退潮期の「尻ぬぐい」が始まるとさっさと消えて行った人達への恨みはま
だ消えていないかもしれない。
174革命的名無しさん:04/11/25 05:38:17
(終わり)
 同学会OBたちは、次世代指導部形成のため教養部の主だった活動家を集めて「研究会」などを始めた。
無内容な「単ゲバ」と思われたのだろう、私は誘われなかった。連日の「不毛な」「破壊活動」に疲れ切
っていた私は、その「サロン・マルクス主義」を糾弾するつもりで、一人乗込んでみじめにも泣き出して
しまったと言う、情けない記憶を持っている。そのとき、レーニンだかなんだかの読書会を主催していた
のが、現在阪大か神戸大か忘れたが教授におさまっているI氏だ!

 何だか、下品な暴露記事めいてきたからそろそろやめるけど、もう18年も前になるこんなささやかな
記憶にいまだに私が「こだわって」いるのは、別にそれが「青春の記念碑」だか「墓碑銘」だかであるか
らではなく、また誰に恨みがあるわけでも、悔いが残っているからでもなく、あれは疑いもなく「勝利」
の経験だったからだ。空間を支配する「権力」、「権力」の支配する空間。ストライキ中の教養部を満た
していた空気の「におい」、あれはミニチュアではあるが、「権力」そのものの「におい」だった。
 やがて、そのミニチュア権力が包囲され、本来の権力に奪い返され「秩序」が取り戻される。その「潮
目」の変化、「風向き」の変化に気がついたときは大抵、もう遅いのだ。別に自分の個人的経験を過大評
価するわけではないが、その「潮目の変化」は、より大きな文脈のなかで、戦後の大きな歴史的転回と連
動していた。おりしもその年の5月、三里塚では鉄塔が撤去され、一人の活動家が殺された。翌年の管制
塔占拠はすばらしい勝利だったが、その後の官公労に対する徹底的なパージは、国鉄分割民営化のさきが
けを成すものだったろう。同じ年の8月には、狭山裁判の上告棄却決定。思えば77年はとんでもない年
だったのだが、忙しい闘争スケジュールをこなすだけの私たちには、おそらく、その後の「戦後政治の総
決算」は全然予想できていなかった。
175革命的名無しさん:04/11/27 11:22:11
京大農学部闘争委員会はまだ健在なのか?
176革命的名無しさん:04/12/18 10:31:36
京大熊野寮寮生のサイト
http://aogarasu.hp.infoseek.co.jp/
177革命的名無しさん:04/12/18 10:53:28
寮も健全化しつつあるようだね。w
178革命的名無しさん:04/12/18 11:05:24
京大も赤ノンがいるからもっているようなもんでチュンが何言おうが蚊帳の外、いまや風前の灯火だろ。
179革命的名無しさん:04/12/18 11:25:14
マルに進出されんようにせいぜい気をつけるこったな。
虎視眈々と狙っているぞ。w
180革命的名無しさん:04/12/18 15:21:53
>>179
8年生のあいつ一人だけ。
来年度からは、東Cパターンで、研究生として居座るのが精々。w
181革命的名無しさん:04/12/18 15:27:30
書記長様でつね。w
何の書記記録してるのかな?地震観測とか天変地異関連??マルの次ネタでしょ。(w(W
182革命的名無しさん:04/12/20 21:37:52
京大はいまやブント統一委員会の傘下でしょ。
183:04/12/21 05:38:09
「京大はいまやブント統一委員会の傘下」って、本気?冗談!?
赤ノンの坊やでしょう。
184革命的名無しさん:04/12/21 19:46:45

立命館大学におけるラディカリズムの不/可能性を考えるためのノート
http://www.ritsumei.ac.jp/kic/%7Elp004998/class/dd1/sinistra.html
185:04/12/22 01:31:13
山本崇記(立命館大学院生)は、所詮、公式的組織の
中で右往左往したやからで、自分で運動を作りあげた
人でないでしょ。評論家は、趣味者よりも性質が悪い
と考える。なぜなら、趣味者は、少なくともなんらか
の運動経験があって、そこから逃げ出したけど、趣味
者独自の事実提供がある。評論家は、運動経験と、オ
リジナルな事実提供は無い。にもかかわらず、「ある
べき」論だけある。言う前に、手前がやれよな。
186革命的名無しさん:04/12/22 01:57:04
>>185

立命院生の彼が実際に運動しているかどうかは、あれを読むだけでは断定できない。

で、それは置いといて、
>>185のいう趣味者=少なくともなんらかの運動経験があって、そこから逃げ出した
という捉え方は、事実と違うね。
運動を一貫してやっていない趣味者も多い。
それと、「評論家」に対して、「「あるべき」論だけある。言う前に、手前がやれよな。」
とは、また、つまんない捉え方、批判だね。

世の評論家、映画評論家、音楽評論家、文芸評論家・・・・
すべての評論家に対して、同じことを言うわけか?
187名無しさん@3周年:04/12/23 17:19:31
京大の教師って学生と鬼ごっこするのが仕事なのかい?

こいつらに税金使う意味ねえな。
188革命的名無しさん:04/12/26 11:54:06

 全国学生運動の頂点に立つ京大の2004年1年間の総括をどうぞ。