北方4島・樺太・千島列島について@共産板

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486北方領土問題の概要
(1)  もともと、千島にどのような人が住んでいたのか定かではありませんが、江戸時代にはアイヌの人たちが住んでいました。
 日本は正保年間には、択捉島・国後島を含む千島の存在を漫然と知っていました。しかし、択捉島を詳しく知ったのは、ここを日本人としては最初に探検した、最上徳内の成果でした。
最上徳内が択捉島に渡ったとき、すでにロシア人がそこに居留していました。徳内はロシア人から択捉島やそれより北の地域について知識を得ました。
なお、択捉島に、最初に勢力をおよぼし、税を取り立てたのはロシア人イワンチョールヌイです。
487北方領土問題の概要:2005/06/04(土) 11:26:54
(2)  択捉島には日本よりもロシアのほうが先に勢力を及ぼしましたが、これは長続きしませんでした。
高田屋嘉兵衛の国後・択捉間の航路開拓により、19世紀になると日本の支配が確立してゆきます。
1855年、日本とロシアとの間で下田条約(日露通好条約)が締結されました。
この条約交渉でロシア全権プチャーチンは当初、択捉島のロシア帰属を主張しましたが、交渉の結果、当時の、現実の支配関係に従って日露間の国境は択捉島とウルップ島の間に引かれました。
なお、この時期、樺太には日露双方ともに支配が及んでいなかったので、樺太には両国間の国境を定めず、混住の地とされました。
 この条約は日露両国の友好をうたったものでしたが、日露戦争により完全に失効しました。
488北方領土問題の概要:2005/06/04(土) 11:27:50
(3)  1875年に締結されたサンクトペテルブルグ条約(千島樺太交換条約)は、樺太をロシア領とする代わりに、千島列島のうちロシア領だった部分を日本領にしました。
 同条約はフランス語が正文でした。交渉に当たった榎本武揚は日本語訳を作りましたが、訳文は不正確なもので、若干の誤りがありました。
この誤訳を根拠にして、国後島・択捉島が千島列島に含まれないとの解釈が1950年代から1980年代までありました。

(4)  第二次大戦末期の1945年、ソ連は、米国大統領ルーズベルトの要請で対日参戦しました。
そして、日本が降伏した9月2日に出された一般命令第一号にしたがって、千島諸島はソ連が占領するものとなりました。
 なお、ソ連の対日参戦は、国際法廷である東京裁判で、正当なものと認定されています。
489北方領土問題の概要:2005/06/04(土) 11:28:44
(5)  1946年1月29日、GHQは日本の行政権の範囲を定めたSCAPIN-677を命令します。この命令により、日本政府の施政権は北方領土に及ばなくなりました。
1946年2月2日、ソ連は四島を含む千島列島・南樺太を自国領に編入しました。

(6)  1951年のサンフランシスコ平和条約で、日本は千島列島を放棄しました。
平和条約の起草国である米国代表は演説の中で、「"Kurile Islands"という地理的名称がハボマイ諸島を含むかどうかについて若干の質問がありました。ハボマイを含まないというのが合衆国の見解であります」との発言をしています。
吉田茂全権大使は、「北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島」と表現し、歯舞・色丹が千島列島に含まれないとも受け取れる発言をしていますが、国後島・択捉島を「千島南部の二島」と表現しています。
このように、日本が放棄した千島列島に、歯舞・色丹が含まれるのかどうかについて、意見が一致しなかったことが知られています。
 国後島・択捉島については、1951年秋の平和条約及び日米安全保国会審議の中で、西村政府委員および草薙政府委員が、国後島・択捉島はサンフランシスコ条約で放棄した千島列島に含まれると明確な説明をしています。
490北方領土問題の概要:2005/06/04(土) 11:30:02
(7)  1955年頃になると、徐々に東西冷戦が深刻化しましたが、その一方、日ソ間では外交関係を回復する気運が高まってきます。
そうした中、ソ連から、『歯舞群島・色丹島を日本に引き渡し、国後島・択捉島以北はソ連領とすることで、平和条約を締結したらどうか』との提案がなされました。
 サンフランシスコ平和条約から5年後の、1956年9月7日、米国政府は対日覚書で『日本は、同条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持つてはいない』と断定し、日本の対ソ交渉に対して厳しく制限を加えました。
さらに、同じ覚書の中で、米国政府は、『択捉、国後両島は、常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に到達した』と二島返還で妥結する事をきびしく禁止しました。
 このような経緯があって、1956年10月、日ソ共同宣言によって両国の外交関係は回復されましたが、平和条約を締結することは出来ませんでした。そして両国は平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意しました。
また、ソ連は日本の要望にこたえ日本の利益を考慮して歯舞・色丹両島を、日本に引き渡すことに同意しました。ただし、これらの諸島は、日ソ間に平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとなりました。
しかし、現在にいたるも、両国間に、平和条約は締結されていません。
 なお、1956年11月29日参議院外務委員会において、下田武三条約局長は、歯舞・色丹に関して「事実上ソ連がそこを支配することを日本はまあ認めたわけでございまするから、ソ連の引き続き占拠することが不法なりとは、これまた言えない」と説明しています。
491北方領土問題の概要:2005/06/04(土) 11:30:50
(8)  1961年10月3日、衆議院予算委員会において池田総理大臣は、ウルップ以北が千島であり、南千島などは存在しないとの答弁をしました。
これまでの地理上の常識や、日本政府の説明をまったく無視した強引な解釈がこのとき生まれました。
 この3日後、小坂外務大臣はウルップ以北が千島であることの根拠は、1875年に締結されたサンクトペテルブルグ条約であると説明しました。
しかし、この根拠はフランス語を日本語に訳すときの誤訳であることが、その後、明らかにされています。当時、この条約の日本語版が誤訳であることは知られていませんでした。

(9)  1964年6月17日、外務事務次官は自治事務次官に対して、国後島・択捉島を南千島と呼ばないように各方面を指導することを求めた、通達を出しました。
 この結果「南千島」の用語は徐々に使われなくなり、現在では多くの場合「北方領土」と呼ばれています。
492北方領土問題の概要:2005/06/04(土) 11:31:22
(10)

 北方領土返還運動は、1945年12月、当時、根室町長だった安藤石典が、北方四島をアメリカ軍の占領地域にして欲しいと、マッカーサー元帥に陳情したのがはじまりであるとされています。
 なお、マッカーサー元帥への陳情は、占領とほぼ同時の1945年8月から始まり、総数40万〜50万と言われていますので、たくさんの陳情の一つに過ぎない、安藤石典の陳情をマッカーサーが読んだかどうか定かではありません。
千島列島がソ連占領地になったのは、トルーマンとスターリンの合意事項なので、米軍占領地司令官に過ぎないマッカーサーに、陳情内容を実現する権限はまったくありませんでした。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Gaiyou.htm