みんな読んだ?
2 :
名無しさん@3周年 :04/05/22 00:24
青い鳥のひとくちコラム
あぼーん
4 :
&rlo;∪・ω・( &lro;弱い犬 ◆JrNMd471Nk :04/05/22 08:53
共産党宣言ぐらいなら読んだよ。 資本論、何度も(読もうとして毎回とちうで)挫折しているっす…(汗
資本論は「論文」だぞ。 小学生が高校物理の本読んだって無意味。 ちゃんと段階を踏め。
うーん・・・ 段階でやんすか… 相応な本ねぇ・・・ そうそうすると、是非とも 学研のまんが ○○のひみつシリーズ で、 社会主義のひみつ とかを解説してホスィもんでやんすな(ヘラヘラ …いや、そのタイトルだと旧共産圏の暴露本になってしまうか(苦笑
7 :
名無しさん@3周年 :04/05/22 09:03
足の裏診断の元幹部で、現在は反戦ネットワーク、親金光教派のリーダー、LPG議長(ねっw) さんが7年も無職状態で生活しているのは、こういうことと関係があるらしいと、大阪で赤旗の 配達員をしているこの人がいっていました。 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 59 :黒目 :04/2/9 3:17 近所のおばあちゃんが、お地蔵さんにおそなえしたおいなりやくだものがすぐになくなるので おかしいと思い、物陰から見張っていると犯人はねっwだったそうです。近所の神社の神主さんも 「最近、さいせんドロが出て困っている」と話していましたが、確証のないことでもあり、 「犯人はねっwかも知れない」というわけには行きませんでした。ねっwの名誉の為にいって おきますが、これらのこととねっwが7年も失業状態(現在進行形)というのは無関係と確信して います。地蔵役でじっと立っているねっwを見るのがつらい今日この頃です。
つーか、1がマルクスであることに今気付いた。 正直言っておまえさん、字が汚い以前に、文才無いよ。 推敲が足りない。資本論だって、才能のある人が書けば あの1/5ぐらいの文字数で書けるんじゃないか? まじで。
じゃあ段階を設定してくれ 読んだら感想書くから
マルクスのテキストならチンカリ、チンシあたり読むのが先なんではないか?
11 :
&rlo;∪・ω・( &lro;弱い犬 ◆JrNMd471Nk :04/05/22 09:16
おいおめーら、なんでマルクスにこだわりやがるのですか?? 入門はすなおにエンゲルスセンセの 空想から科学へ じゃないのですか?
「空科」はスターリニストが大好きな、晩年エンゲルスの典型的悪書。
13 :
&rlo;∪・ω・( &lro;弱い犬 ◆JrNMd471Nk :04/05/22 09:29
14 :
名無しさん@3周年 :04/05/22 09:31
>>12 ネタをネタとして・・・ryな精神があれば、その後の様々な発展から、
エンゲルス主義の限界がわかるので、超OK。唯経(L)も同様。
ヲタ的には、唯物史観が「どういうものであったか」を知る上で、欠かせ
ないね。
ところで、アルチュセール『「資本論」を読む』を読んだ人はいるかな?
15 :
名無しさん@3周年 :04/05/22 09:33
>>8 一次資料にアクセスして、読めるのがエンゲルス先生だけってのも、公平性
からしてアレだな。
それに、ファクシミリ版なる、150万円もする原稿が、今頃出版されるしぃ。
公平性?! マルクス?!! 正直なところ、脳味噌にカビの生えた爺さんには酷な話だが、 ハッキシ言って、マルクスなんてもう古いね。全然ダメ、お話にならない。 あんなの歴史の屑篭にぽいぽいのぽいさ(ゲラゲラ やっぱり これからの時代はスターリンだね。 シスタープリンセス、略してスターリン。 萌え萌え〜(ぃゃ、ホントはよく知らんのだがw) っていうか、共産主義者たるもの、教条主義に陥ってはならず、 常に現状認識を適切に行うべきなんだよ。例えば、時代の流れってのには 気をつけなきゃいけない。時代の流れは早いからね。 ハッキシ言って、これ書いている間にもすでにスターリンなんてもう古いね。 あんなの歴史の屑篭にぽいぽいのぽいさ(ゲラゲラ やっぱり これからの時代は毛沢東だよ。毛沢東。 みんな、毛沢東語禄を読もう。実践論 矛盾論だ。 古本で買ったら、共産党の学習指定文献って帯がついてたよ? さすが(50年前の)共産党は時代の最先端をいっていたなぁw
17 :
名無しさん@3周年 :04/05/22 13:04
禿同。資本論など、出版当時はまるで相手にされなかったではないか。 その点、毛主席語録は出版直後から全世界に普及し億単位で読まれたんだぞ。
う。 …予想外のリアクションだw しかし、インテリを中心にした全世界の自称マオイストは、 その後の毛沢東の自己矛盾に満ちた転落に 何も感じ無かったのかねぇ…(´・ω・` )ショボーン
そんなこと言ってたらルソーなんか読めないよ。 ルソーが私生活で何をしていようと、彼の仕事は金字塔。
いや、プラトン主義者に対する新プラトン主義者のように、 毛沢東主義者に対する新毛沢東主義者というムーブメントがあっても 良さそうなもんだと思うですよ。 国内の左翼のゴタゴタと衰退・壊滅状況を見るに、それをキッチリ乗り越える、 骨のある左翼の欠如を憂いるときに、おいらが残念に思うのは 新毛沢東主義という存在の欠如なんでして… 左翼運動の破壊に関してのみは、日本の権力機構は優秀ですなぁ。。。 優秀なのは其処だけみたいですが(苦笑 ちゃんと左翼の代替としての マトモな政党育成にもその能力を発揮してくれればいいのに。まったく…(ブツブツ
お前等ちゃんと読めよ
>21 ぎゃふん >22 おいマルクス! 今からでも遅くない、推敲しろ推敲。
24 :
14=15=阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :04/05/22 22:17
>>16 もうすぐ、葉寺同志にマオ選第一巻がhtml化されてアップされるで
しょう。しかし、それにしても、犬さん、壊れたか・・・。師団長の錆
が移ったのかな?
25 :
14=15=阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :04/05/22 22:18
>>24 葉寺同志のサイトにマオ・・・・です。訂正。
26 :
&rlo;∪・ω・( &lro;弱い犬 ◆JrNMd471Nk :04/05/22 22:28
いや〜、そう(14〜=文士センセ)かなーとは思っていましたw もちろん16は、場を盛り上げるための話術としての軽口でやんす、 スルーしていただければ幸いでござます>マルクス古い発言。
27 :
14=15=阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :04/05/22 22:33
>>26 いやあ、ネタをネタとして楽しむにしても、小生の1ビットCPUでは
意図を汲み取れませんでした。
28 :
招き猫 ◆yk/JpL/Z9U :04/05/22 22:34
ぷぷっ、自分とこの党首にあんなこといわれているよ。 無理しないで改憲派になればいいのに。 そうすれば一条改正して天皇の日本での地位を定め尊敬を強制できるし 武装し、侵略者と戦争だってできるのに。 あっ、もちろんあの汚らわしい前文は戦争・天皇マンセー文に変えてくれるんだろ。 まじめな話だけど俺は改憲論者に突っかかったりしない。 ある意味で改憲を必要と考える人達はまじめだよ。 自分にも社会にも正面から向き会っている。
30 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :04/05/22 22:39
31 :
招き猫 ◆yk/JpL/Z9U :04/05/22 22:46
>>30 太宰治
弱い犬さんは彼を読んで、女たらしの極意を学んでみては♪
32 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :04/05/22 22:48
>>31 意外とキリスト。(故郷での逸話面白かったし。)
そうそう。太宰を読むと、戦前のアカってイケてたんだな、と思う。
33 :
招き猫 ◆yk/JpL/Z9U :04/05/22 23:07
>>32 津軽の金持ちの出だというのが許せません。私怨。。
芥川賞の無心したとか、彼のリアルは作品より面白いですね。
んで、今でも若い女性に人気あるんでしょうか?
桜桃忌にはどっと集まるとか読んだ記憶が。。
いいなぁー。
弱い犬さんもチャンスだよ。恋に破れた乙女がたくさんいそう。
いやははは(汗 恋は、陥る事ができればそれなりに素敵だと今でも思いますが それ自体は付随物であり目的では在りませんですよ(冷汗w
やはり目的は中田氏か!
>35 ちがうよ。相手の、敬愛に値する人格が目的なんだよ。 あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ 思い出しちゃったじゃないか、折角忘れかけてたのに!(畜生
とりあえず読んでる!経済学部出身なんでね。
39 :
名無しさん@3周年 :04/05/23 14:57
>>1 何故共産主義者でもないのに読まねばならんのだ?
40 :
名無しさん@3周年 :04/05/23 15:09
>何故共産主義者でもないのに読まねばならんのだ? そう!それはそっくり共産党活動家や民青の糞連中に返せる言葉だ
41 :
&rlo;∪・ω・( &lro;弱い犬 ◆JrNMd471Nk :04/05/23 15:22
>40 その糞じゃない共産主義者ってのは誰の事で、 それを明かす証左は何があるというのさ。 罵るだけならバカでもできるよ?
42 :
名無しさん@3周年 :04/05/23 15:51
>>39 君は自分の信じる主義の本以外読まないのか?
ケインズ主義者だってハイエクくらい読むぞ。
保守思想家だって丸山真男くらい読んでいる。
43 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :04/05/23 16:47
>>39 読まねばならない、というよりも、面白くて味わい深いから「反共R−
工房」の過去を持つ俺は読みました。まあ、ホントは身近のブサヨの
屁理屈の根源は何かを知りたかったからなんだけど・・・。嵌った。
44 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :04/05/23 16:52
45 :
名無しさん@3周年 :04/05/25 03:55
>>42 古事記や日本書紀を読んでいる共産主義者がいるとは思えん。
共産主義者以外においては 広く読まれている文献 …でもないやん、それ。
47 :
名無しさん@3周年 :04/05/25 07:37
『大乗起信論』が左翼の必読文献
>>46 贈る言葉
『蟹は己の甲羅に合わせて穴を掘る』
歴史に取り組んでる人間はほぼ全員記紀くらい読んでる。
バカウヨも少しはマトモな古典・名作を読みなさい。
読めと言われて読み始める純朴なおいら(w
Erster Abschnitt Ware und Geld ERSTES KAPITEL Die Ware 1. Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert (Wertsubstanz, Wertgrose) ─────────────────────── SECTION 1 THE TWO FACTORS OF A COMMODITY: USE-VALUE AND VALUE (THE SUBSTANCE OF VALUE AND THE MAGNITUDE OF VALUE) ─────────────────────── § 第1部 資本の生産過程 § 第1編 商品と貨幣 第1章 商品 第1節 商品の二つの要素・・使用価値と価値(価値実体、価値の大きさ)
訂正。 ─────────────────────── Part I: Commodities and Money CHAPTER ONE: COMMODITIES SECTION 1 THE TWO FACTORS OF A COMMODITY: USE-VALUE AND VALUE (THE SUBSTANCE OF VALUE AND THE MAGNITUDE OF VALUE) ─────────────────────── …しかし、“§ 第1部 資本の生産過程”ってのが どこなのかが解らんチン
日本文の転載は拙いか。。。早速方針変更。俺様訳で逝く。 Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Pro- duktionsweise herrscht, erscheint als eine "ungeheure Warensamm- lung" 1), die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Un- tersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware. ───── The wealth of those societies in which the capitalist mode of production prevails, presents itself as "an immense accumulation of commodities," [1] its unit being a single commodity. Our investigation must therefore begin with the analysis of a commodity. ───── 俺さま訳: 資本主義っぽい生産様式なれんちうの豊かさってのは“メラごっつい売りモンの山”(※1)で、その片鱗が個々の商品なわけよ。 俺らの研究は商品を分析することからはじめなけりゃな。
Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, ein Ding, das durch seine Eigenschaften menschliche Bedürfnisse irgendeiner Art befriedigt. Die:(≒the@英語) →der Ware:♀ 製品、商品 Ist:(≒is@英語) →sein Zunächst:副) さしあたり Ein:(≒a@英語) Äußerer: 外側 Gegenstand:♂ 物体、客体 Ding: 物体、事柄 Das:定冠詞 この Durch:(≒through@英語) Seine:→sein(≒be@英語) Eigenschaften:♀ 特性 Menschliche:形) 人間の Bedürfnisse: (≒need@英語) 欲求、需要 Irgendein:代名詞)(≒some[one]@英語) Art:♀ 性質 Befriedigen.:他動詞)(≒satisfy@英語) ───── A commodity is, in the first place, an object outside us, a thing that by its properties satisfies human wants of some sort or another. ─────
>56 直訳:商品はさしあたり、人の欲をなんらか充たすタチ(性質) の 物 という外見な目的だ。 ───── 俺さま訳:商品ってのは 誰かに 欲しいって思わせてる だろ?
58 :
名無しさん@3周年 :04/07/10 16:28
資本論の第1巻から3巻まで、2回読み通しました。読むたびに、発見があります。
>読むたびに発見 …そりゃあんな暗号みたいな悪文、どうとでも解釈できるだろうよ。
60 :
名無しさん@3周年 :04/07/10 17:48
61 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 07:47
理系だからかなぁ、 そういうところから理解しようとするのは。 日本語だろうと英語だろうとドイツ語だろうと 一気に一つの言語で読み続ければいいのに。 大切なのは一つ一つの言葉ではなく 全体を流れる思想だろ。 コマ切れの中では何も見出すことはない。
62 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 07:47
62は犬だろ
>63 はずれ。 資本論が(原書では)全3巻であることぐらい、おいらだって知ってるYo
共産党宣言、資本論、両方とも買ったのはいいのですが 凡愚な私には難しすぎて内容がよく読み取れません。 いい解説書はありませんか。
66 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 12:09
駄菓子菓子、「剰余価値学説史」は事実上の資本論第4巻とされていなかったか
67 :
&rlo;∪・ェ・( &lro;弱い犬 ◆JrNMd471Nk :04/07/11 12:11
あ、そうなんだ。そりゃ知らなかったYo ありがとう。
68 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :04/07/11 12:19
剰余価値学説史・・・って、既出やん。
>>66 お説の通り。
なお、2巻以降はエンゲルス編著。
まるちゃんアボーンしちゃったからね。 質問なんだけど、スターリン主義って何?
70 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :04/07/11 12:25
>>65 共産党宣言なら、「共産主義者宣言」(太田出版)が解説書代わりになった
と思います。
資本論は、確かに難しいですね。特に、第一章。世間で良い解説書と言われ
ているのは内田義彦の「資本論の世界」がありますね。また、共産党の幹部
が書いたものには「資本論全三部を読む」(不破哲三、新日本出版社)があ
ります。氏の本は丁寧でありますが、#あえて#隠しているという、政治的
側面がありますが、氏の本を踏み台にモノゴトを考えるには良いのではない
でしょうか。
71 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :04/07/11 12:30
資本論を読まれるならば、その前準備として「賃金・価格・利潤」は欠かせ
ないと思います。また、「賃労働と資本」もいいですね。ただ、論理的には
かなり批判されていますが・・・。また、マルクスがなぜ資本論で資本主義
の崩壊=社会主義革命の必然の証明に成功したと言われるのか、に関心がお
ありでしたら、「ゴータ綱領批判・エルフルト綱領批判」も読まれることを
お薦めします。
また、多分歴史的にキチンと葬式を出さなければいけない「主義」に、
マルクス=レーニン主義というものがございますが、資本論などの一つの
読まれ方として、無視し得ないものがあります。それの概説については、
以下のサイトをご参考下さい。
http://www.geocities.jp/mlismtxt001/kokuminbunko401/mokuji.html この中にあなたの疑問に答えられるものがあるはずです。
では。
72 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 13:58
>>66 「事実上の」というか、もともとは「資本論第4巻」として書かれていた。
死後に編集・出版される過程で、別の題名がつけられた。
73 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 14:03
読んでる人いたんだ 地方の共産党の事務所とかで マルクスの勉強会とかあるんですか?あったら参加したいのですが。
旧社労党くらいだろう、まともな古典学習会やってんのは。
読みました。すべてはスターリン、 が悪いし間違えている。
77 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 14:30
>>73 共産党なら「労働学校」というので学習会を開いているが、テキストが不破だったりするから
あまり薦められない。
日本キリスト教団富山二番町教会 - なんでもQ&A
http://www.h6.dion.ne.jp/~nbc/q001.htm#church07 Q.いろいろ教会がありますが、どこの教会に行けばよいのか分かりません。
A.まず大切なことは、それが「キリスト教会」であるかどうか、ということです。
看板だけみると「キリスト」の字が入っていたりしても、実際にはキリスト教ではないものがあります。
異端ではない、正統的なキリスト教会とは、三位一体(さんみいったい)の神を信じ、「使徒信条(しとしんじょう)」、「ニケア信条」(または、ニカイア信条)等の、古代教会の基本信条を重んじているものです。
このことはそこの教会の牧師に聞かなければなかなか分からないことかも知れません。
次に、その教会が聖書を神の言葉として大切にしているかどうかです。
「聖書は誤りの多い神話であり、参考書に過ぎない」とか、
聖 書 以 外 の 書 物 を 聖 書 と 並 ぶ 重 要 な 書 物 と し て い る よ う な 所 は 、 や め た 方 が よ い で し ょ う 。
・・・だからどうだ、とは俺は言わん。
あとは各自で判断してくれw。
≫74、77 ありがとうございます。 「マルクスの研究をしたい」と先生に言ったら「頼むからやめてくれ」と言われましたw
80 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 15:00
>>70 何が悲しくてわざわざ不破の本を。
経済原論の教科書は山ほど出てるよ。
81 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 15:06
>>79 どこの大学だよ?地域は?
大学にマルクスをやってる教員がいなくても、近くの大学にいれば、授業に出てみればいいかもよ。
82 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 15:10
経済原論の本を複数買って、読み比べるのがいいでしょう。(1冊だと問題あり) 経済原論講義(ナカニシヤ出版)はわかりやすい。 図解 社会経済学(桜井書店)は法政の大谷教授 資本主義経済の理論(岩波書店)は宇野派の代表的論客の伊藤誠教授のもの
阪大です。
>
>>81 阪大です。
経済人類学の授業がかなりあやしぃと友人が言ってましたので今度行ってみます。
経済学とは関係ないですが、マルクスの書き方というか文体そのものが,刺激の少ない人生を
送ってきた僕のような田舎者にはとってもいいです。レーニンにしびれてしまいましたw
マルクスを教えている国立大学は九州大学くらいだろ? ただ、大学院で経済を専攻したら、近経。マル経両方が院試にでるが。
85 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 15:26
86 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 15:33
Q.いろいろ党派がありますが、どこの党派で活動すればよいのか分かりません。 A.まず大切なことは、それが「マルクス主義者の党派」であるかどうか、ということです。 看板だけみると「マルクス」「共産」「労働」の字が入っていたりしても、実際にはマルクス主義ではないものがあります(お隣の国をご覧ください)。 異端ではない、正統的なマルクス主義者とは、弁証法的唯物論の立場に立ち、「革命とは階級独裁に他ならないこと」、 「国家の本質は階級対立の非和解性の産物であり、その実態は各種の暴力装置であり、『議場でのおしゃべり』が政策を決定しているなど幻想も甚だしい」等々、 科学としての歴史を何よりも重んじて生きている人達です。 このことはそこの党派の活動家に聞かなければなかなか分からないことかも知れません。 次に、その党派が歴史に選ばれた古典群をマルクス主義の学説として大切にしているかどうかです。 「××は時代遅れで誤りである」とか言ってメンバーに読むのを禁じたり、 自 分 と こ の 指 導 者 の 著 書 を 古 典 と 並 ぶ 重 要 な 書 物 と し て い る よ う な 所 は 、 や め た 方 が よ い で し ょ う 。
87 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 15:34
しかし、阪大に受かるんなら、東北大や横浜国立大や一橋大などに入ればよかったと思うが。
88 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 15:35
>>86 まさにその通りだね。不破派はマルクス主義ではない。
89 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 16:02
>>84 やはりそうですか・・・。
≫85
ありがとうございます。行ってみます。
≫86
とても参考になります。実際、党派?には怖くて近寄れないです。
先日、京都の古本屋に行って、あやしい本を何冊か購入してしまいましたけどw
自分には刺激が強すぎたので、とりあえず、大月出版から出てるマルクスとレーニンの原典を読んでいるところです。
もちろん翻訳されたものですが。
≫87
地元が大阪なんものですみません。高校時代はマルクスを読もうなんて全く考えたこともなかったですし。
一橋でマルクスを勉強できるのですか。自分のイメージでは阪大と同じように商科一辺倒という感じだったのですが。
90 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 16:06
>>89 一橋は社会学部ならマルクス関係の教員がいる。
経済学部も、少ないがいる。マルクス派経済地理学の有名な教授もいる。
もし大学院に行くなら、京大・一橋大・東大・東北大などがある。
91 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 16:22
≫90 京大ですか。実際問題、かなり厳しいですw
92 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 16:26
93 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 16:36
94 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 17:01
>>92 >>93 三年です。今、ゼミでちょうどハイエクをやっているところですw
経済学を学んでいて、マルクスを読んでもいないのに乗り越えたとか資本主義の勝利とか、ちょっと違うんじゃないかと。
せめて原典をよんで批判してみようと思ったわけです。で、読んだのが資本論。
すっかりかぶれてしまいましたw
95 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 17:03
96 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :04/07/11 17:55
97 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 18:11
98 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :04/07/11 18:12
>>97 現在毛沢東選集第四巻電子化中で、それが終わったら着手します。
なお、ちょ・・・著作権!!で公開できませんが、メールを頂いたら、
お送りします。
99 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 18:22
>>95 思わず熟読してしまいました。こういう板もあるんですね。しかもヤフーで。
冒頭で大学におけるマルクス主義研究の衰退について書かれてましたが、昔は
すごかったのですね。今、うちの経済学部の学生はマルクスを読んでもいない
のに紋切り型の批判をして終わりという感じです。ハイエクよりはるかに読み
応えあると思うのですが・・・。
>>96 買った後で無料で読めるという事実を知るとかなりへこみますね。
でも、正直読みにくいですねwまだ身体がITに制度化されていないようです。
これからは電子文献が当たり前になるのでしょうか。
でも、無料というのはすごいですね。
100 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 18:35
>>99 大阪大学経済学部は昔からマルクス派が排除されてるからね。理由はわからないが。
ところで、この本を読んでみるといいと思うよ。
イデオロギーとは何か 平凡社ライブラリー (281)
テリー イーグルトン (著), 大橋 洋一, Terry Eagleton
101 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 18:52
>>100 昔からなんですか。仕方ないですね。大阪は左翼が多いと聞きますが、その反動でしょうか。
「イデオロギーとは何か」は早速、読んでみます。ありがとうございました
102 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 19:17
>>101 大阪市立大は昔からマルクス経済学者が多い。
関西では京大と大阪市立大だね。
103 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 19:20
なんで今日は「こち亀」のかわりに7:00から「ワンピース」なんだ!?
104 :
名無しさん@3周年 :04/07/12 00:45
>>89 おつけ書店のL全は要注意です。
スターリン大先生のちぇっくが入ってます。
社会主義はロシア一国でも可能という妄言を「レーニン」が言っています
105 :
mikitty_sukisuki :04/07/12 00:50
ドイツイデオロギー難解でギブアップしました
>>105 頑張れ!あれしき読めなければ、未来は切り拓けない。
時期によって主張がぶれるレーニンよりマルクスの方がある意味でわかりやすい。
初期マルクス抜きの「マルクス主義」は
スタやよっちゃんへの道
107 :
名無しさん@3周年 :04/07/12 06:38
初期アテムと後期アテムは別人と考える奴もいる。 たしかに最初の頃のアテムはチョット違っていたとは思う。 だけど俺にいわせればアテムはアテムだよ。 分けて考えることにそれほど意味があるとは思えん。
108 :
名無しさん@3周年 :04/07/12 06:50
ロシアでは、ソ連崩壊後にかつてのレーニン全集には 未収録だった文章を集めて補巻が出版されている。 日本でも翻訳してほしいものだな。
ドイデは解説書もでてるから、それ読むとヨロシ
110 :
名無しさん@3周年 :04/07/12 12:47
資本論を第1巻〜3巻まで、2回読みとおしてみて、第3巻の「利子価値論」(利子はどこを源泉として、生み出されてくるか)という命題に、大変興味をひかれたことを、覚えています。 銀行の利子は、「労働者の剰余価値が源泉」というマルクス・エンゲルスの解明に、新鮮な発見をした記憶があります。 サラ金会社の法外な利息も、すべては労働者が生む出す剰余価値が源泉なんですね。 理解がなかなか不明だった箇所としては、第3巻の差額地代の部分です。ここだけは、さらに理解を深めるために、勉強します。 資本論学習においては、不破さんの「代々木資本論ゼミナール」(第1冊〜7冊)が、とても参考になります。
111 :
ぶらさがり ◆5vSmarTBoA :04/07/12 19:27
共産党宣言と空想から科学へは読んだ。 字面を追うだけで深い意味は分からなかった。 いずれにしても読んだからといって日本共産党とは無関係。
112 :
名無しさん@3周年 :04/07/12 19:36
古典に挑戦すること自体、立派なことです。
113 :
名無しさん@3周年 :04/07/12 20:40
>>104 できれば検閲前後を読み比べてみたいです。
以前、戦前の文学の検閲でちょっと読み比べたりしたことがあったのですが、
あんまり意味がないところを訂正してたり、当然検閲されてもおかしくない個所を
スルーしていたり結構いいかげんだなぁと思ってました。
ソビエトはそういう甘いことはしないでしょうがw
115 :
丼売ってくれ(104) :04/07/12 21:17
僕はロシア語はできません。
そんなわけで、L全第5版とトロツキーが引用するレーニンを比較しただけです。
同一箇所と思われる部分が大きく異なっています。
トロツキーの勘違い、歪曲かそれともL全がねじ曲げられているかのいずれかです。
>>113 ありがとうございます。
「一国で可能」というのはドイツを想定しているのではと思います。
116 :
丼売ってくれ(104) :04/07/12 21:22
ごめんなさい、スレはマルクスでしたね>>ALL 「君主の本質は生殖である」見事ですね(笑)『法哲学批判』でした?
>>116 はいな。嗚呼、雅子様・・・
前後貼っておきますね・・・
君主の世襲性は君主の概念から出てくる。君主は特別に類全体から、すべての他の人から、区別
された人だとされる。では、ひとりの人の他のすべての人からの窮極の固定した区別点は何なの
か? 体(からだ)である。体(からだ)の最高の機能は性行為である。それゆえ国王の最高の
憲法的行為は彼の性行為である。けだしこれによって彼は一人の国王を作って、己が体(からだ
)を伝えていくのだからである。
訂正! 電子版調べたら、「ヘーゲル国法論批判」の中の文章のようです。 国民文庫では、「ヘーゲル法哲学批判序論 他」に収録されています。
119 :
名無しさん@3周年 :04/07/12 21:54
120 :
名無しさん@3周年 :04/07/12 21:54
へーでる、よーでる ププっ
121 :
丼売ってくれ(104) :04/07/12 22:22
122 :
名無しさん@3周年 :04/07/17 23:50
マルクスを読もうと思ってもどの訳がいいかわからん。
123 :
名無しさん@3周年 :04/07/17 23:54
公務員試験にも司法試験にも入社試験にも出ないんで読まない。 日共入党試験には出るの?
124 :
名無しさん@3周年 :04/07/18 09:08
125 :
&rlo;∪・ェ・( &lro;弱い豚乞食 ◆JrNMd471Nk :04/07/18 09:51
>124 それが諸悪の根源だ。 っつーか、該当宣伝も党内資格を設けて、 それを持つ者以外は禁止すべきだ(トカイウ
126 :
名無しさん@3周年 :04/07/18 09:59
カクマルじゃあZレベルの加入でも 過去の人生の総括やら今後の決意表明やら書かさせるぞ。 (もちろん「不合格」あり)
128 :
名無しさん@3周年 :04/07/20 11:33
俺は、とても革マルには、はいれねぇなぁ・・。
129 :
名無しさん@3周年 :04/12/20 20:00:08
「俺、漢字が多くて読めないや〜」といって資本論&共産党宣言を途中放棄した 反戦ネットワークのLPG(ねっw)、低脳
130 :
革命的名無しさん :04/12/21 01:11:49
俺高卒だけどチンカリ・チンシ(この呼び方をここではじめて知った) 読んでるよ。本屋で資本論買おうと思ったらぶ厚さにびびって、とり あえず入門ってことでw
131 :
革命的名無しさん :04/12/24 11:01:37
つまり馬鹿が多いの?
132 :
革命的名無しさん :04/12/24 12:43:09
>>127 World Socialist Movement (中心はSPGB Socialist Party of Great Britain)では党出版物をたくさん読んで試験に合格しないと入党できない。
133 :
革命的名無しさん :04/12/24 21:51:50
ポル・ポトは宣言した。 新しい理想郷には学校も病院も貨幣もいらない。 たとえ親でも社会の毒なら微笑みながら殺せ。 今の家が新しい世界だ。 泣いてはいけない。 我々は過去を切り捨てた。 泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。 笑ってはいけない。 笑うのは昔の生活が懐かしいからだ。
134 :
革命的名無しさん :04/12/24 21:54:40
メガネっ娘がいない社会なんてヤダーヤダーヤダー
135 :
革命的名無しさん :04/12/24 22:13:23
看護婦たんがいない社会なんてヤダーヤダーヤダー
136 :
革命的名無しさん :04/12/24 22:14:31
セーラー服が似合う女学生がいない社会なんてヤダーヤダーヤダー
137 :
革命的名無しさん :04/12/24 22:16:58
幼女たんハァハァ同人が検閲されるコミケなんてヤダーヤダーヤダー
138 :
革命的名無しさん :04/12/24 22:17:46
セーラー服を着た水兵さんは変態でしょうか? セーラー服を着た女子高生が変態でしょうか? セーラー服を着た共産党員は変態でしょうか?
139 :
革命的名無しさん :04/12/24 22:21:47
昔の「前進」によると、セーラー服をお召しになった中核戦士が、 マルのアタマを踏みつけ、「お前らなどにやられてたまるか、 殺してやる」と一喝していたことがあったらしい。
萌え〜
141 :
革命的名無しさん :04/12/24 22:49:31
もまい、強くてエッチな女の子、好きだろ?
142 :
革命的名無しさん :04/12/24 23:18:08
社会主義経済は、失敗することはない。 なぜなら失敗するのは社会主義経済ではないからだ。 社会主義は、政策において誤ることがない。 なぜなら政策において誤るのは社会主義ではないからだ。 社会主義者は、常に正しい。 なぜなら正しくない者は、社会主義者ではないからだ。 正しくないと認めたら、政権を譲らなければならないしな。
すばらしいです。
144 :
革命的名無しさん :05/01/30 18:05:45
『資本論』第一巻の新訳が筑摩書房からマルクス・コレクションという名前で出た。 週刊新潮によると、読みやすいとか。はたしてどうだろうね。
145 :
革命的名無しさん :05/03/11 19:15:36
93 :LPG(ねっw)の祖母「おしげ」:05/03/08 21:39
資本論を三ページほど読んで、「漢字が多くていやになった、もう、やめた」、反戦ネットワーク、LPGの祖母、「おしげ」でございます。 皆様、また孫が世間を騒がせているようでゴメンナサイネ。特に「マルクス様」・・
私の主人はシベリアに抑留され、収容所からの脱出に成功したのですが、かくまわれた農家の娘さんと恋仲になり二度と日本に帰ってくる事はありませんでした。
それでもかすかな望みを持って、幼い熊吉(LPGの父)の手を引いて舞鶴港の岸壁に立ち、帰りを待ったものです。あれからもう60年、月日の経つのは早いもの。
孫、LPGは、子供の時から何不自由なく育て、純真で優しい子供になりましたのに、いつの頃からか大阪の「黒目」と称する方の影響を受け、家族の言うことを聞かなくなってしまいましたの。
去年の夏も二人で「靖国神社」の鳥居によじ登って、なにか、「フンサーイ」と叫んでいたらしく善良な多くの市民の方から反撃を受けてしまったそうです。
それからというもの、黒目さんという方は近所のイタズラ好きの子どもたちに、「この、非国民!」といわれ、道頓堀川に投げ込まれること、数えきれないとか。
昨日も孫に電話をよこして、「LPGよ〜、馬鹿はかぜをひかないというけど、あれ嘘だぜ、おれ、
昨日川に投げ込まれてかぜをひいてしまった、LPGはいつも「おいら馬鹿だから絶対にかぜひかない!」と自慢しているけど注意した方がいいぞ」と優しく励ましてくれたそうです。
下のファイルの下段にあるメールでの嫌がらせ、孫の犯行に間違いありません。今までの大罪をお許し下さいませ。一家の長として孫に代わりまして深くお詫びいたします。
http://www.geocities.jp/peaceadvance/
146 :
革命的名無しさん :2005/03/28(月) 00:52:00
筑摩書房のマルクス・コレクション、資本論第一巻しかないのが残念。 全巻訳してくれれば良かったのに。
147 :
革命的名無しさん :2005/03/28(月) 18:03:03
三民主義買ってきた。
148 :
革命的名無しさん :2005/03/28(月) 18:51:13
読む気にならん。
149 :
革命的名無しさん :2005/03/28(月) 19:12:34
73 :LPG(ねっw)の母、:05/02/07 13:37
反戦ネットワーク、LPGの母、「タマ」でございます。「かあさん、今は金融革命の時代だよ、ペイオフに備えようよ」といわれ、勧められるままに買ったのが西武鉄道、一週間後には紙くず、ペイオフの対象の10分の1ほどのわが家の全預金がパ〜、
連日、家族ケンカが絶えないわが家でございます。皆様、また愚息が世間を騒がせているようでゴメンナサイネ。特に「竹中様」・・
あれでも、子供の時から何不自由なく育て、純真で優しい子供になりましたのに、いつの頃からか大阪の「黒目」と称する方の影響を受け、親の言うことを聞かなくなってしまいましたの。
去年の夏も二人で「靖国神社」の鳥居によじ登って、なにか、「フンサーイ」と叫んでいたらしく善良な多くの市民の方から反撃を受けてしまったと聞いています。
その時、黒目さんという方が隣の家のおばあさんの洗濯前の赤い腰巻きを盗んで、それを振りながら「革命的労働者、学生諸君!われわれの下に結集せよ!」と絶叫していたとか。
それがあってからというもの、黒目さんという方は近所のイタズラ好きの子どもたちに、「この、非国民!」といわれ道頓堀川に投げ込まれること、数えきれないとか。
昨日も愚息に電話をよこして、「LPGよ〜、馬鹿はかぜをひかないというけど、あれ嘘だぜ、
おれ、昨日川に投げ込まれてかぜをひいてしまった、LPGはいつも「おいら馬鹿だから絶対にかぜひかない!」と自慢しているけど注意した方がいいぞ」と優しく注意してくれたそうです。
下のファイルの下段にあるメールでの嫌がらせ、愚息の犯行に間違いありません。今までの大罪をお許し下さいませ。本人に代わりましてお詫びいたします。
http://www.geocities.jp/peaceadvance/
150 :
革命的名無しさん :2005/04/09(土) 05:20:19
>>125 「代々木」には認定講師資格試験というのがある。とはいえ取ったからとて
専従職員になれるわけではなく、一方持ってなくても党員教育の講師をやる
香具師もいる。分類は以下の通りだったと記憶。
初級講師(1種類)
中・上級講師(科学的社会主義、党綱領、党史の3種類)
151 :
革命的名無しさん :2005/05/08(日) 00:47:13
筑摩書房のマルクス・コレクション読んだ人いる?どうだった?
152 :
革命的名無しさん :2005/05/08(日) 16:29:07
やっぱ成り手がいないんじゃないの。
153 :
(゚∀゚ )<アヒャ?@そろコテ ◆2roT590xCk :2005/05/18(水) 01:08:17
共産党はマルクスを「すばらしい」という理由として 「その当時の経済学、哲学、社会主義論」全てを批判的に摂取した、などという。 加えてエンゲルスもレーニンも同様の理由で絶賛していて「科学的な見地」を盛んに 賛美する。マルクスは当時の古典派の経済学、エンゲルスは知らん。レーニンはヒルファーディング の金融資本論を批判的に読み込んだりしたわけだが、どういうわけかケインズ以降共産党が経済学の理論を 系統的に読み込んだ、という話を聞いたことがない。あれこれの経済学者を「あいつらはクソだ」とか言いはするが 現在の経済学の批判的理論を展開しているわけではなく、ちょっと現状を聞きかじって分析するくらいのものだ。 置塩信雄らがケインズやシュンペーターなどに言及していたのは80年代後半?90年代のことで何も残さず死んでしまった。 しかもケインズやシュンペーターなど自体はとうの昔に自由主義経済学者から徹底的に批判されており共産党がケインズに 言及するなどは遅きに失した。 最近の中国は「社会主義市場経済」などと言っているが、いうなればレーニンのネップを原理主義的に大規模に展開しているだけのことで そもそも理論的にどうなのかなどというものではないわけだ。 共産党には理論的なバックボーンがないに等しく、ちょっと現状を分析しているくらいのものだろう。 マルクスの資本論を訓詁学的に棒読みすることはもはや経済学的な意味はないに等しく、したがって理論的な支柱はないといっていいだろう。
俺頭悪いからここで内容について語りまくれるほど やってないけど、レーニンの帝国主義、引用が殆ど 論争相手の学者のところからなのが凄いと思った。 ああいうことできる人ってあんまりいないだろうなぁ。
155 :
革命的名無しさん :2005/06/04(土) 18:08:08
何も変わらない気はします。
156 :
革命的名無しさん :2005/06/20(月) 09:31:39
マルクス主義の悪口をいうと反戦ネットワークのLPG(ねっw)さんに怒られますからご注意下さい。
しかし、ねっwの「おいら、高田健さんからの信頼が厚く、ワールドピースナウの元実行委員として重要な役割を担ってきた」という自慢話。どうもおかしいとは思っていたが、やはりうそだったか。
それと、ねっw!おまえ、「おいら、ブントにほめられちゃった」といって俺に紹介した下のファイル、おまえのことなんて一言も書いていないじゃないか!
http://www.bund.org/editorial/20040505-2.htm
新訳・共産党宣言(マルクス・エンゲルス) 新訳刊行委員会訳 750円 『宣言』の抜本的改訳に挑戦。従来の歪曲・誤訳を大きく訂正。 『共産党宣言』の翻訳はまた、訳者の階級的姿勢をも表現している。日本共産党は、 70年代前半から「暴力」(ゲバルト)の二文字を消し去り、「強力」という意味不明の言 葉におきかえた。大内兵衛・向坂逸郎の訳(岩波文庫)も同様である。 わが新訳は、原典の内容を正確に今日の労働者に伝えることに最大限の努力をは らった。
158 :
革命的名無しさん :2005/06/20(月) 09:49:40
159 :
革命的名無しさん :2005/07/04(月) 15:54:40
警察に通報しなかったのか。
160 :
革命的名無しさん :2005/07/18(月) 20:12:12
「おいら!資本論を読んで勉強するんだ」、といって3日で放棄、部屋の中はAV女優のグラビア誌だらけ、反戦ネットワークのLPG(ねっw)。私、姉の「おくま」でございます。
あれでも、子供の時から何不自由なく育て、純真で優しい子供になりましたのに、いつの頃からか大阪の「黒目」と称する方の影響を受け、親の言うことを聞かなくなってしまいましたの。
去年の夏も二人で「靖国神社」の鳥居によじ登って、なにか、「フンサーイ」と叫んでいたらしく善良な多くの市民の方から反撃を受けてしまったそうです。
それからというもの、黒目さんという方は近所のイタズラ好きの子どもたちに、「この、非国民!」といわれ、道頓堀川に投げ込まれること、数えきれないとか。
昨日も弟に電話をよこして、「LPGよ〜、馬鹿はかぜをひかないというけど、あれ嘘だぜ、おれ、
昨日川に投げ込まれてかぜをひいてしまった、LPGはいつも「おいら馬鹿だから絶対にかぜひかない!」と自慢しているけど注意した方がいいぞ」と優しく励ましてくれたそうです。
この間、「父さん、どうして弟の頭、あんなにおかしくなってしまったの?」と聞いたところ、
「泥酔して母に挑んだため、着床した時点で能にアルコールが回ってしまったらしく、どうすることも出来なかったんだ」といいながら涙を流していました。
一日も早く家を出て行くなり電車に飛び込むなりしてくれることを願っているわが家です。
下のファイルの下段にあるメールでの嫌がらせ、弟の犯行に間違いありません。今までの大罪をお許し下さいませ。弟に代わりまして深くお詫びいたします。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/5270/
161 :
革命的名無しさん :2005/07/28(木) 12:34:39
いずれかです。
162 :
革命的名無しさん :2005/08/05(金) 11:45:54
163 :
革命的名無しさん :2005/08/10(水) 17:50:28
暴露本になってしまうか(苦笑
164 :
革命的名無しさん :2005/08/13(土) 07:59:37
やっぱ価値形態論は除外しておけよ。
165 :
革命的名無しさん :2005/08/27(土) 02:35:48
>>13 ありがとうございます。
「一国で可能」というのはドイツを想定しているのではと思います。
166 :
革命的名無しさん :2005/09/15(木) 05:03:46
マルクス主義の悪口をいうと反戦ネットワークのLPG(ねっw)さんに怒られますからご注意下さい。
しかし、ねっwの「おいら、高田健さんからの信頼が厚く、ワールドピースナウの元実行委員として重要な役割を担ってきた」という自慢話。どうもおかしいとは思っていたが、やはりうそだったか。
それと、ねっw!おまえ、「おいら、ブントにほめられちゃった」といって俺に紹介した下のファイル、おまえのことなんて一言も書いていないじゃないか!
http://www.bund.org/editorial/20040505-2.htm
167 :
革命的名無しさん :2005/10/13(木) 19:24:56
国民文庫では、「ヘーゲル法哲学批判序論 他」に収録されています。
168 :
革命的名無しさん :2005/10/13(木) 19:35:45
169 :
阿Q :2005/10/17(月) 12:42:55
「共産党宣言」 これだけ読んで共産主義者になる馬鹿をつくる本 「資本論」 読んでわかったふりする馬鹿をつくる本
170 :
革命的名無しさん :2005/11/11(金) 23:11:19
171 :
革命的名無しさん :2005/12/11(日) 21:31:57
序文のholy allianceっていうのが向坂訳では「神聖な同盟」になってる みたいですがこれはむしろアレクサンドル一世が提唱した神聖同盟という 固有名詞を指していると考えることは妥当ですか?小文字なのでどうだか 分かりませんしあまり内容には関係ありませんが気になるので…。
172 :
171 :2005/12/11(日) 21:32:22
あ、書き忘れ失礼。共産党宣言の序文です。
173 :
・・・( ̄△ ̄;)@そろこて ◆f9Y./QYQPU :2005/12/11(日) 21:50:01
向坂訳の資本論って岩波だろ? あれは最低だな。あんなくだらん翻訳本みたことない。 読みにくいことこの上ない。読むのやめろ。
174 :
革命的名無しさん :2005/12/12(月) 02:06:09
>>166 さん、息子です。
「共産党の単独政権、もうすぐだね、おかあさん」が口ぐせの反戦ネットワークのLPG。私、母の「たま」でございます。
子供の頃は近所の小学校で子どもたちが飼っているニワトリ小屋から「無断で失礼」して来たのでしょう、「はい、おかあさん、今晩のおかず、今日は特売日だって」という、とても家族思いの子どもでしたが、
いつの頃からか大阪の「黒目」とかいう人と知り合いになってからというもの、ますます変な方向にエスカレートしてしまいましたの。この黒目という方は近所のイタズラ好きの子どもたちに、「大阪の恥さらし!どアフォ!」といわれ、
道頓堀川に投げ込まれること、数えきれないとか。昨日も電話をよこして、「LPGよ〜、馬鹿はかぜをひかないというけど、あれ嘘だぜ、おれ、昨日、川に投げ込まれてかぜをひいてしまった、LPGはいつも
「おいら馬鹿だから絶対にかぜひかない!」と自慢しているけど注意した方がいいぞ」と優しく励ましてくれたそうです。先日、小学校に通う娘「おとら」に、「かあさん、どうしてLPG兄さんの頭、
あんなにおかしくなってしまったの?」と聞かれ、「おかしくなったんじゃないのよ、おとうさんが酔っ払った勢いで母さんに挑んだため、着床した時点で能にアルコールが回ってしまったらしく、どうすることも出来なかったのよ」と
話した途端、涙があふれて来てしまいました。見ると娘「おとら」の目にも大粒の涙が・・「どんなに馬鹿でも「おとら」のお兄さんだもん、これって家族愛っていうんでしょ、今日、学校で教わったばかりだもん」といって、
兄をかばう妹。心優しい子どもに育ってくれました。
下のファイルの下段にあるメールでの嫌がらせ、愚息の犯行に間違いありません。今までの大罪をお許し下さいませ。本人に代わりまして深くお詫びいたします。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/5270/
175 :
革命的名無しさん :2005/12/12(月) 07:09:07
ニーチェの超訳みたいに、「資本主義はカルトです!−資本論超訳」でも出ないかな。 と思っていたら、革命の英雄たちを二次元美少女化「マルクスたん」売っていて、ひどく 疲れた。
176 :
革命的名無しさん :2005/12/12(月) 21:41:17
マルクスたんなぁ…。左派が廃れてる時代だから新しい層を開拓する 発想としては悪くない(ただ、二次元美少女はやりすぎ)けど内容が薄すぎる。 ってか単に右寄りに偏向した時代小説だろ?
177 :
革命的名無しさん :2005/12/13(火) 02:59:55
178 :
革命的名無しさん :2005/12/13(火) 11:25:46
>>177 岡田雅宏さんは米川研究所の事務局長ですか?
179 :
革命的名無しさん :2005/12/14(水) 12:30:10
180 :
革命的名無しさん :2005/12/14(水) 14:01:16
>>174 さん、
共産板の全スレにAAで落書きをしたり、自分で架空の世界を作り、架空の人物を登場させた(時には数分間隔での)自作自演の落書きをして、「あの人、病気ではないのか」と噂されている反戦ネットワークのLPGの悪口をいうと、
同じ仲間のHN、「赤いイワナ」とかいう人に怒られますから注意して下さい。しかし、LPGの「おいら、ワールドピースナウの実行委員を卒業して、今は九条の会の事務局員やってんだ〜」という自慢話。やはり嘘だったそうですね。
それと、「おいら、ブントにほめられちゃった」といってみんなに自慢している下のファイル、あなたのことなんて一言も書いていませんよ。
http://www.bund.org/editorial/20040505-2.htm ※スレ全体への落書き(同一スレへの回数は考慮せず)は、13日は、64スレです。これまでの最高記録は、11月7日の164スレです(2位は3日の154スレ)。これに60回、70回を越える落書きをしたスレが、
およそ10スレ、これに10回、20回落書きをしたスレ(ほぼ毎日あるが))を合計すると、900回を越える落書きをしたものと推定されます。1回1分と仮定しても14時間!
※同一スレへの落書きの最高は、11月27日の220回!これだけで4時間!
これ→
http://money4.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1131684083/ 「LPG様の病気治癒を祈願する市民の会」及び参加賛同人一同
182 :
革命的名無しさん :2006/03/13(月) 05:31:11
読んだ人いませんか
183 :
革命的名無しさん :2006/04/05(水) 17:12:23
大内・向坂版の宣言読んだけど訳が分かりづらいな。 俺ドイツ語全然わからんからロシア語版とちょっと比べてみたけど共産主義の 幽霊、ってロシア語でなってるのが大内・向坂版だと共産主義という幽霊、 だったり。こういうところってかなり解釈次第で意味違ってくるような…。
184 :
革命的名無しさん :2006/04/05(水) 22:16:16
共産党宣言の大内・向坂版は俺も読んだけどやはり分かりにくい。 二度目でやっと理解した。
185 :
革命的名無しさん :2006/04/05(水) 22:21:31
非実力派宣言を読むべきだよ。
186 :
革命的名無しさん :2006/04/06(木) 23:45:53
スターリン万歳!毛沢東万歳!金日成万歳! 全国の革命的スターリニストは、 世界革命戦争に前進勝利せよ!
187 :
革命的名無しさん :2006/05/05(金) 14:53:26
解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ! 解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ! 解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ! 解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ! 解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ! 解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ! 解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ! 解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ! 解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ! 解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ! 解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ! 解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ! 解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ! 解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!解脱するぞ!
188 :
革命的名無しさん :2006/05/15(月) 09:52:12
,: 三ニ三ミミ;、-、 フレームアップの党! xX'' `YY"゙ミ、 -=-::. 彡" ..______. ミ. / \:\ ::::: ::; .| ミ:::| ,=ミ______=三ミ ji,=三ミi ミ|_≡=、´ `, ≡=_、 |;/ i 、'ーーー|,-・ー |=|,ー・- | <日本共産党は解体しろ!! ||..● .| ̄|. ● |─/ヽ i; ':: ::: ーー" ゙i ,ーー'j |ヽ二/ \二/ ∂> ,, - '"r' ーi:: ::i: /`^ー゙`、_ ..i ̄ヽ、 /. ハ - −ハ |_ ./ / { |:::. ゙"i _,,.-==-、;゙゙i l | ヽ/ヽ/\_ノ /-、 i |〉::.:.. 丶 " ゙̄ .'.ノ i ! . \、 ヽ二二_/ヽ/ ヽ |_ \`ー-、.,____,___ノ/ //
189 :
革命的名無しさん :2006/05/19(金) 22:49:44
( ゚∋゚)金正日をギロチンにかければいいのさ
190 :
革命的名無しさん :2006/06/06(火) 22:42:58
在日に参政権を与え日本共産党員とともに小さな村に移住させ、 その自治体を乗っ取り「無防備地域宣言」させて、山村工作隊が無血入城。 日本共産党が臨時革命政府を各地に誕生させ、中共、北朝鮮と地域集団安保体制を締結する。 (((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
191 :
革命的名無しさん :2006/10/21(土) 10:51:58
192 :
革命的名無しさん :2007/01/16(火) 22:57:49
193 :
革命的名無しさん :2007/01/17(水) 11:42:46
いま日本社会は、世界は、どのように動いているのでしょうか? そして未来社会は……? その答えを『資本論』から見つけてみませんか?
『資本論』は、いまから百数十年前の本ですが、「資本主義の原理を奥底からつかむと、現代がよく分かる」と実感させてくれる力をもっています。
また『資本論』は、経済学の本であると同時に、私たちが世界を見る「科学の目」を養うのに、たいへん役立ちます。
資本主義を乗り越えた次の社会はどのような社会で、どんな特徴をもつのか、という未来社会論についても正面から詳しく論じています。
ここに紹介する文献を手がかりに、『資本論』に挑戦してみてはいかがでしょう。
http://www.shinnihon-net.co.jp/catalog/article.php?ano=4
194 :
革命的名無しさん :2007/01/17(水) 11:46:33
オメー、強酸盗の回し者じゃろが。 ここはそげん汚らしいもんの来る所じゃなかよ。
195 :
革命的名無しさん :2007/01/31(水) 13:38:42
196 :
革命的名無しさん :2007/02/22(木) 12:10:32
経済学部卒だが、資本論の価値形態論の論理展開がいまいち納得できん。 あれを論理というのか。
197 :
革命的名無しさん :2007/02/22(木) 19:47:57
本なんかいくら読んだって革命は起きない。所詮机の上の物だ。 革命を起こすのは「殺す力」だ。民衆を震え上がらせる暴力の恐怖だ。 「躊躇せず殺す」これが革命の語る時の「言葉」だ。
198 :
革命的名無しさん :2007/02/23(金) 12:45:13
まさに"カクメイを語る時"の言葉であって、 革命する時の言葉じゃない。
199 :
革命的名無しさん :2007/02/23(金) 16:16:51
そんなもの読むカー、俺はトウスポ以外読まない。
承子女王殿下が
>>200 本斬りを達成しますた
'~" ̄ヽヽ;i;;;i;;;;i;;;;i
ノ:ノ::ノ;/;;;;;i;;i あぁ・・・承子い、いっちゃうぅぅ
__,,,,,,,,,,,___/:/;/:/;;i::ノ/
/^~"´ ̄-‐‐‐'''"´/:/;ノ;;;;ノ:// _、-、_
/::::::/:::::::_,,,、---‐‐'''`~,、-''/::/ /"`'ー-''`''-、
/:::/:-‐''''"~~::::::::;;;;-、,,,,、-,,、-‐ヽ,,_ / ヽ
;/;;'`"~、-''''''~^'''''ー-、_,,i:i、 ヽ`ヽ、;ヽ、,,,ノ. /"´ ̄~''/ ::::ヽ
;;;/~":、---、___/´ ,,i:''' :: ヽ. ヽ.`'''"´ /´ :::./ :::::::i
;;;;;'''''^~~~~^'''''/ー- ';、 ::: ` ヽ`''ー-,,,i_ -‐''" ::::::::;/-、,
;;;、;;;`''ー-,,,,,,,,,,,,,,_,,,,,、_ '' ',:::: `'ー _、-'''~ ̄`''''''ー-、 :::::;/:: ヽ、
;;;ヽ、ー、;;ー-、,,,,,,,、-‐''" .;´ ̄`, ',::::,,,,、- /"'::;,:ヽ 、 ヽ.::::::: ''ー
:::::ー、ヽ、,,''ー-ヽ.''''",.,;' "^' 'ー-‐'' . _、-'''''"´ / ヽ,,,ノ ヽ| ヽ:::: ::
:::ヽ、`''ー-、ー-、'ヽ"、i;. ヽ /" i::: i: '::: :::::
、::ヽ;;ヽ、:ー-、,,,,,、.ヽ ';'' ノノノ/;/ i:::::::::: υ " :::
ヽ,,_::''‐、,,,,''ー-''ー-"''/~'"''"/:/:: ::、:::i..:::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::
ヽー''"~´ ヽ、 "`'i::::::::i、:.. :~^ヽ:::::::::::::::::::::::::::::ノ:::::::::::::::i'/::::::::::::::::::::::
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ヽ'''''''''''''' '' :::::;;;;;;;;;;;;;;;;`-、:::::::::::::::::iノ::::::::::: """`''ー、,,_;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
201 :
ホッシュジエンの国内ニュース解説 :2007/02/23(金) 18:33:24
彡ミ ___ __ あれからもう10年も経つのに共産党は相変わらず |ヽ /| ,,,,,,,,l / / バカな土建幹部使ってクダラン事を考えているようだね |ヽ | | ミ ・д・ミ/_/旦~~ ⊥ |  ̄| ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| 中曽根が永くないからあせってるんですか? 凵 `TT | ̄l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l もういい加減あきらめた方がいいですね。m9(・∀・) 07.2.23 ホッシュジエンの国内ニュース「『リンケージ』問題のその後」
202 :
革命的名無しさん :2007/02/24(土) 22:31:46
自民党って次の選挙で終焉を向かえるにしても 赤字国債という最大の負の遺産を国民に残すことになるんだろ? だったら今のうちに 過去の自民党議員、癒着官僚、天下り官僚を全てリストアップして 財産差押さえしておくべきだね 少しでも財政赤字の穴埋めをしてもらおうよ
203 :
大家 :2007/02/24(土) 23:02:51
資本論より宇野教授の本を読んだ方がいいですかね?
204 :
革命的名無しさん :2007/02/24(土) 23:05:03
宇野教授の本より竹田博士の論文を読んだ方がいいですかね?
205 :
革命的名無しさん :2007/02/24(土) 23:08:05
「お、おじちゃん、なにするの?」 赤「いいんだよ、大丈夫だよ……おぢさんはね、自由教育の体現をだね」 「でもっ、でもっ!」 赤「動かないで! キミの性の解放を抑圧している、こ、この パンチィはだね、革命的闘争で粉砕されなければならないんだ!」 「ほえ〜!」 赤「さぁ、脚を開くんだ……そして、キミのプチブル的処女膜をだね、 こ、この、おぢさんの階級的憤怒の肉鉄槌でつらぬくんだ!」 「おじちゃん、やめて〜」 赤「な、泣くな! 処女性を惜しむ、封建倫理のくびきによって 流される涙は、修正主義的敗北主義の象徴で、ボクらは それをエンゲルス的実践で超克していかねばならないんだ!(ズブッ!)」 「あ、い……いや、あ、い、痛い!」 赤「ぉぉうっ、か、革命には痛みは付きモノだよ! 耐えるんだ!」 「……うぐっ、痛いよぉ〜」 赤「ぁぁあああ、ぉぉおおお……素敵だ。世界永久革命の光明が現前に ある! ぁあ、カール・マルクス同志ばんざ〜い!(1発目) フリードリヒ・エンゲルス同志ばんざ〜い!(2発目)
206 :
革命的名無しさん :2007/02/28(水) 05:39:29
誰の訳読めばいいのか教えろ
207 :
革命的名無しさん :2007/02/28(水) 08:11:20
岡崎次郎訳を薦める。 向坂が岡崎に行ったあの醜い仕打ちを考えても やっぱ岡崎訳だと思う。 ただ国民文庫は未だ資本論を刊行してるのかいな? それが問題。
http://kyuuri.blogtribe.org/ 中国が私有財産保護法(物権法)を作ったと本日の読売の一面にある。
胡総書記になってから、2004年に憲法に私有財産保護を明記したとあるから、これはその具体化なのかもしれない。
いずれにしても私有財産制を認めるということは、共産主義の基本原理である"私有財産の否定"をくつがえすこと
になるわけだから、中国は法律レベルでは共産主義を実質的に捨て去ったことになるといえるだろう。
そして今後さらに中国は独禁法、労働契約法といった欧米的な社会民主主義的法律を作っていくことで、ある意味で
今よりも社会主義的になっていくことになる。つまり、ここ数年の共産主義中国は西側よりも市場主義的なところも
あったわけだが、中国は今後はそれなりの時間をかけて西側と同じ社会民主主義的な体制になっていくと予想される。
社会主義〜共産主義は否定されているものの、ヨーロッパを中心とする西側諸国が社会民主主義体制に落ち着くことで、
社会主義と自由主義の中間地点が”グローバルスタンダード”とされているのだろう。
社会民主主義がグローバルスタンダードとなれば、実質的に自由主義が敗北したことになるが、今後アメリカがどう
なるかが重要だ。
209 :
革命的名無しさん :2007/03/12(月) 09:20:11
>>208 それが天安門でインターナショナルを歌いながら自国の戦車に引かれて死んだ学生に対する言葉ですか?
210 :
革命的名無しさん :2007/03/12(月) 10:31:25
色眼鏡しないでマルクスを読めるほどの知性は日本において小室直樹しかないだろう。
防衛省
http://www.mod.go.jp/ リニア中央新幹線
http://www.linear-chuo-exp-cpf.gr.jp/ 自衛隊(軍隊)に使っている国家予算(5兆円!!5兆円!!5兆円!!)を リニア鉄道建設に回そう!!
自衛隊(軍隊)なんて無駄飯くいな組織!!
なぜ5兆円!!もの巨額な費用が必要なのか? 防衛費用は4兆円では駄目なのか?
なぜ25万人!!の軍人が必要なのか? 人員20万人では駄目なのか?
あなたは考えたことがありますか? あなたは思考停止になっていませんか?
自衛隊(軍隊)の予算を削減!!
削減!!削減!!削減!!削減!!削減!!削減!!削減!!
削減!!削減!!削減!!削減!!削減!!削減!!削減!!
あなたたち弱き民が収めた貴重な『血税』が悪の組織!!悪代官【自衛隊】に搾取されている!!
あなたたち弱き民が収めた貴重な『血税』が悪の組織!!悪代官【自衛隊】に搾取されている!!
あなたたち弱き民が収めた貴重な『血税』が悪の組織!!悪代官【自衛隊】に搾取されている!!
いつも暇をもてあましている !!!!!搾取集団!!寄生虫集団!!
自衛隊員【25万人】を大リストラして リニア中央新幹線を建設しよう!!
リニア中央新幹線を建設して新しい日本の未来を切り開こう!! 新しい日本を作りましょう!!
あなたは【自衛隊】に税金を搾り取られるよりリニア鉄道を建設したほうが
日本の更なる発展に役立つと思いませんか??
212 :
革命的名無しさん :2007/07/28(土) 16:14:21
213 :
革命的名無しさん :2007/08/26(日) 17:48:32
質問 「一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている、――共産主義の妖怪が。」 共産党宣言の序文、これはどういう意味なのでしょうか? マルクスはこの一文で何を訴えようとしているのでしょうか? 最後の、「万国の労働者よ、団結せよ」は、言いたいことがよく 理解できるのですが、妖怪の文は何を言ってるのかさっぱりわかりません。 要するに共産主義というのは妖怪のように恐ろしいから退治すべしってこと? でも、マルクスがそんなことを言うわけないし・・・。うーん。
214 :
革命的名無しさん :2007/08/26(日) 17:51:45
コピペは健康にいいってことじゃないか?
215 :
ところで・・・もう丸五日経った訳だが・・・ :2007/08/26(日) 18:07:14
【なんで『「板中にある」』のに証拠を出せないの?】 【なんで『「板中にある」』のに証拠を出せないの?】 【なんで『「板中にある」』のに証拠を出せないの?】
36 :革命的名無しさん:2007/08/20(月) 04:38:45
あきれてものが言えないのは、選挙で連戦連敗の責任を
「オミンス」なるものに責任転嫁し、「オミンス」なるものを逆恨みしている
おまえのような頭のおかしい狂惨厨のほうだろw
38 :論理的思考力:2007/08/20(月) 10:15:56
>>36-37 「共産党が負けたのは民主党が独自候補を擁立して『利敵行為』したせいである」との書き込みがどこかでただの一遍でも為されたのなら、オマイは正しい。
39 :革命的名無しさん:2007/08/21(火) 18:28:06
>>38 お前とそっくりの文体のバカが、今でも毎日板中にそれをコピペしてるんですが。
40 :革命的名無しさん:2007/08/21(火) 18:35:50
レス・リンク貼り付けてみな。
「板中にある」んなら簡単だよな?
またいつぞやの「証拠のコピペ」みたいに待たせるなよ
217 :
マル同巨根派 :2007/12/16(日) 13:58:14
ゆっくりと、でも確実に、行こうかな。
180 名前:OFW :02/03/24 20:41
>>176 (吉本隆明さん)
>秋葉原や歌舞伎町に集う人
がお気に入りの様で、スレのテーマに関連付けてみよう。
彼ら(経済学的には<消費者>と一括されるが)は何故集うのか?
その疑問は、マルクス『資本論』第1巻第1章第1節冒頭の叙述に直結する。
「資本家制生産様式が支配的に行われている社会の富は<巨大な商品の集積>として現われ、
個々の商品はその富の要素という形式として現われている。したがって、われわれの探求は、
商品の分析から始められる。」(訳はネット上の某訳を少し修正したもの)
つまり、商品を求める貨幣の所有者(購買者)と、貨幣を求める商品の所有者(販売者)とが集う場所が秋葉原や
歌舞伎町であり、(他人が欲しがるモノへの欲望でなく)他人が所有しているモノおよびカネへの欲望同士が出会う
場所(つまり市場)ということが、その本質なわけです。
無論、それはまだ資本主義世界のほんのトバ口であり、価値の流通界や、とりわけ(
>>174 のような)その地下室で
ある生産界は見えていないが、既にマルクスはそこに商品の謎めいた姿が現れているのを見逃さない。
>>179 (三毛さん)
>ある哲学者の言及をあえてなさってませんよね。
誰のことでしょう?(議論は成り行きで、格別の意図なしデス。)
218 :
マル同巨根派 :2007/12/16(日) 14:01:19
183 名前:OFW :02/03/25 04:56
>>180 (吉本隆明さん)
>お前さんが説く荒れた「暴力革命」など、なんの意味もないのだよ、といいたいわけね。
それは言い過ぎ。『資本論』とは直接にはブルジョア社会に関するマルクス仮説(ブルジョア社会の本質は社会関係
が(経済的)価値という物象化形態において現れている点にある)の体系的な検証でしょう。
資本主義下でも個別企業の生産は計画的に行われており、たとえば工場子供の資本主義はよりナチュラルである
がゆえにより浸透力があるが大人の場合、ナチュラルなものを抑圧するという仕方で二重に自然化した理性の
道具性もある。
人は疎外された個人として実存している。つまり<私>の固有性は否定インフラに対する需要の固定性や
最終生活財に関する受注生産の効率化内分業は厳格に調整されている。それが全社会に広がることに何の原理
的な問題もないでしょう。要は社会的な需要(およびその変化)を捕捉し、それに生産を適応させる方法如何という
技術的な問題であり、基礎旧ソ連や東欧諸国では国家官僚(イコール党官僚)がすべてを統制していたので、
極端に恣意的・政治的な生産管理だったと言える。
現代の中国は「社会主義的市場経済」なる計画的無政府経済に発展した??等を踏まえれば、市場(商品経済)
の役割は極小化可能でしょう。
219 :
マル同巨根派 :2007/12/16(日) 14:06:36
211 名前:OFW :02/03/31 21:29
送別会、歓迎会の季節とて、飲みすぎや「人身事故」にご用心。
>>188 (27さん)
>人間はこう生きるべき、っていう原イメージがあるのだろう。
「何をなし、いかに生きるべきか?」といった倫理的・主体的な問いは、「人間とは何か?」という哲学的な
反省(本質認識)なしには答え得ないもの。
「人間は社会的動物である。」(アリストテレス)という洞察において直接的な統一をなしていた<個人>と
<社会>は、「個人は絶対的な主体である。」という近代個人主義の主張においてその疎外を完成させ、
両者は完全に外的な対立物にまで発展した。
26歳のマルクス曰く、
「なにはともあれ、「社会」をふたたび抽象物として個人に対立させ、そのままくぎづけにしてしまうことは
避けなければならない。(中略)
したがって、人間なるものは、たとえかれがどれほどまでに特殊的な個人であったにせよ―そしてまさしく
かれの特殊性こそかれをして一個の個人たらしめ、かれをして現実的で個人的な共同体的本質存在
たらしめているのだ―、同様に全体的性格のものである。」(『経済学=哲学手稿』青木文庫)
つまり、個人と社会との統一、という(原イメージならぬ)<理念>がその後の研究を導いていたということ。
(理念なき現代では理解困難?)
>>190 (27さん)
>結構楽しそうにしているじゃないかw
消費の場面での<王様>精神と生産の場面での<賃金奴隷>精神との対照は、たとえばリーマン板を
一瞥するだけでも十分に分かるでしょう。
220 :
マル同巨根派 :2007/12/16(日) 14:11:31
212 名前:OFW :02/03/31 21:30
>>196 >自身の「階級的な正義感」を克服したやつがほとんどいない
なかなか面白い表現ですね。中産階級固有の正義とは何か?
普遍的市民(ブルジョア)のそれか、階級対立の調停か?
ここには矛盾そのものが存在しており、辻元某ならずとも、その欺瞞性に巻き込まれずにはいかない。
>>203 >戦後の日本経済が社会主義だった
国家(独占)資本主義と社会主義は天地ほど異なるもの。
>>208 (ら@さん)
>永久革命論の文献
トロツキーに関しては、下記サイトがベストでしょう。
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~Trotsky (『総括と展望』(日本語訳)『Permanent Revolution』(英語訳)
など豊富に電子化されている。)
221 :
マル同巨根派 :2007/12/16(日) 14:14:55
223 名前:OFW :02/04/05 23:53 <本質>から現象を導出するのが説明であり、記号的対象の<意味>を解明するのが解釈です。 現象vs本質は記号vs意味とは異なるわけ。 テレビや新聞で「デフレギャップ」つまり供給過剰(需要過少)あるいは「資産デフレ」として“説明” (実際は単なる現象記述)されているこの歴史的不景気の根本原因は、資本のあくなき価値増殖欲を支える 労働力の乱費(生産労働の極大化とそのコストの極小化)から来るわけ。 資本主義下でも個別企業の生産は計画的に行われており、たとえば工場内分業は厳格に調整されている。 それが全社会に広がることに何の原理的な問題もないでしょう。要は社会的な需要(およびその変化)を捕捉 形態に発展している。それは所有としての所有である私有を前提にしており、<モノ>が支配する近代特有 のもの。確かに貨幣欲に支配された主観的な存在でしかないにも拘わらず、他方でそれがどこかに実在する かのように言うからですね。 一方「共産主義はイデオロギーでない」とは、それが<理念的存在>であり、自由主義者やかってのスターリ ン主義者のように、現実に存在しているとは主張していないからです。 プラグマティストは「我々の基準からは、イスラム世界では反証不可能なドグマが支配しており、“開かれた世界 の敵”としてそれを『悪の枢軸』と呼ぶのは科学的に正しい。」などと言うのかな? 理念性は主観性と客観性の統一であり、科学の対象ではないが、現実を照らし実践を導くものです(ここは 哲学者の出番でしょう)。
222 :
マル同絶倫派 :2007/12/18(火) 18:58:12
やっぱ巨根派って精力と根気は無いんだよね。
280 名前:OFW :02/05/06 11:43
どもお久しぶり。仕事が忙しくて亀レスだが、偽者君も多いようで。
>>215 (羊飼いさん)
>>国家(独占)資本主義と社会主義は天地ほど異なるもの。 とちらも1930年代に出現した。
前にも書いたが、旧ソ連、東欧等は社会主義を標榜していたが、実際の政治経済体制は最後まで
国家資本主義だったと見るべきでしょう。
<国家の廃絶>は共産主義(ここでは社会主義と同義)のABCです。
>>227 >もしかして・・・ですか?
人違いでしょう。先生と呼ばれるほどの・・・でなし。
>>259 (Iridiumさん)
>マルクスって初めから革命しようと思ってたんだっけ?
革命の意味によるが、人間の解放(疎外状態からの回復)に関する弁証法的(革命的?)な思考は初めから
でしょう。政治的には、労働者階級の世界的な組織化による議会内での政権獲得→国家廃絶という路線
(かなり長期的)を考えていたのではないかな。
「共産主義者の当面の目的は、他のあらゆるプロレタリア政党の目的と同一である。すなわち、プロレタリアートの
階級への形成、ブルジョアジーの支配の転覆、プロレタリアートによる政治権力の獲得である。」
(
ttp://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/sengen1.html )
223 :
革命的名無しさん :2008/02/02(土) 00:16:13
224 :
革命的名無しさん :2008/02/07(木) 20:01:55
289 名前:OFW :02/05/12 21:02
>>282 >人類が原則として他人よりも自分自身を、とおい人びとよりももっとちかい人びとを
>好むということが、真理でなくなるとき
人間が類的普遍の立場にたつということでしょう。
諸個人が自らの排他的個人性あるいは特殊な関係性(その最大のものは階級と呼ばれる)を
共同的類の上位におく場合、相克(社会の戦争状態)は避けられない。
しかし、私有財産(財の排他的私有)およびその物質的根拠である資本主義的生産関係の
下では利己主義こそが適合的な倫理ですから、社会の変革抜きでいくら利他性を説いても、
ゴマカシにしかならないでしょう。
>>286 >「暴力革命」
を批判する多くの議論は(「テロ反対!」一辺倒の昨今と同様に)暴力の根拠や、
特に<国家と暴力>の必然的関係に関する反省が欠けている。
「社会のうえに立ち、社会にたいして外的なものとなってゆく、武装した人間の特殊な部隊
(警察、常備軍)の必要が、どうして現われたのかという質問にたいして・・・和解しがたく
敵対する階級へ社会が分裂したという、主要で基本的なことをぼかすことによって、俗物を
みごとにねむらせる。」
(
ttp://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/kokkaku1.html )
そしてまた、“平和な”日常の中にある微分的な暴力に無頓着であり、その根拠を反省する
ことなしに、形式だけの非暴力を唱えることは、知性をイデオロギーによって眠らせることで
しかない。暴力は社会の中に遍在しており、それは社会の敵対的な本質から不断に
現実化したものである以上、最終的に暴力を無くすためには「支配者を支配せよ」(否定性を
否定せよ)という転回が必要となる。哲学的に言えば、真に暴力を否定し、止揚するのは
弁証法的理性の力だということ。
225 :
革命的名無しさん :2008/02/07(木) 20:05:48
292 名前:OFW :02/05/17 05:25 「商品は、まず第一に、一つの外的対象であり、その諸属性によって人間の何らかの 種類の欲求を満たす一つの物である。」(『資本論』第1巻第1編第1章第1節) すぐに気がつくことだが、上記において通常は商品の一種とされているサービス提供 は除外されている。このことは価値を考える上で重要な点であり、サービス労働の成果 が譲渡可能なモノ(*1)ではない以上、本来サービス提供は商品には成り得ないのであ る。たとえば、床屋の労働はお客の頭(髪型)において対象的形態をもつが、無論、客の 頭は商品ではない。また、芸人が歌う唄はお客の精神に感動を呼び起こすが、未だに 精神を譲渡した者はいない。実際、国民経済学(近代経済学)の<財およびサービスの 生産>という概念には、本来モノではない労働をモノとして扱う近代特有の物象化の働 きが反映されている。そして、社会の豊かさを市場価値で計る価値物神の下では、 GDP(国内総生産、すなわち一国内で生産された財およサービスの価値)という指標概念 において、家事労働あるいは企業内経費的労働を“アウトーシング”(商品化)するだけで 価値額が増す、という奇妙な事態が現出することにもなる。 (*1) 「物は根拠と現存在という二つの規定が発展して一つのもののうちで定立されている ものとして、統体である。・・・諸規定は物の諸性質であり、それらと物との関係は、 持つという関係である。・・・Haben[持つ]という言葉は、多くの言語において過去をあら わすに用いられているが、これは当然である。というのは、過去とは揚棄された有で あるからである。・・・物は、諸性質を持つかぎりにおいて現存在するものではあるが、 しかし、あれこれの特定の性質にむすびつけられているのではなく、したがって、 それを失っても、その物でなくなるということはない。」 (ヘーゲル『小論理学』第2部本質論Ac125節)
226 :
革命的名無しさん :2008/02/07(木) 20:10:23
294 名前:OFW :02/05/18 07:35
>>293 そうではなく、巷間行われている人間を物扱いする経済と、それを合理的なものと言っている
経済学がトンデモだと言うこと。(労働価値説については後ほど詳しく解説をば。)
295 名前:OFW :02/05/18 07:39
(『資本論』第1巻第1編第1章第1節(承前)ー以下同様)
「鉄、紙などいっさいの有用物は、二重の観点から、質および量の観点から、考察されなければ
ならない。このような物はどれも、多くの属性からなる一つの全体であり、したがって、さまざまな面
で有用でありえる。これらのさまざまな面と、したがって物のいろいろな使用の仕方とを発見するこ
とは、歴史的な行為である。有用物の量をはかる社会的尺度を見つけだすこともそうである。
諸商品尺度の相違は、一部は、はかられる対象の性質の相違から生じ、一部は、慣習から生じる。」
有用性(モノの効用)はそれ自体相対的な概念であり、その質的な多様性と量的な大きさは
主体およびモノの両面において限界付けられている。
つまり、ある人にとって有用であるモノも、他の人にとっては無用であり得るし、また多すぎる有用物
は余剰であり、不足する有用物は欠乏である。
いわゆる<限界効用説>(価値とは限界効用である)は価値の直接性の立場から出られない、
非本質的なものである。
「ある物の有用性は、そのものを使用価値にする。」
使用価値はモノ的存在について言われるということ。日本語としては使用価値物とした方が分かり
やすいかも知れない。先にサービス提供は商品ではないと言ったが、モノでない以上、
それは使用価値物でもない。
たとえば、床屋の労働は有用労働であるが、それ自体は価値物ではなく、消費的労働であるから
価値をもつ生産物を結果することもない。いわゆる労働力商品(賃労働力)とは、その主体である
労働者をモノとして取り扱う場合にのみ、何らかの意味をもつ概念である。
それに対して「賃金は商品代金ではない。それは労働に対する報酬(サラリー)である。」という通念
は欺瞞である。何故なら、すべて市場において取引されるものは商品と呼ばれる以上、労働市場
(正しくは労働力市場)において売買される対象も当然商品と呼ぶべきだから。
227 :
革命的名無しさん :2008/02/07(木) 20:15:07
299 名前:OFW :02/05/19 20:12
>>296 (293さん)
>労働力商品の有用性・使用価値とは一体何に?
『資本論』の最初の章は「商品」という表題がついており、商品一般の話ですが、私の注釈あるいは
敷衍的解説(解釈)は先回りをしているために、どうしても舌足らずになる。
途中を飛ばして先を読むと、
「すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働
または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、
特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、
それは使用価値を生産する(16)。」(同上「第2節商品に表された労働の二重性」)
という叙述が出てきます。
つまり、すべての生産労働は商品価値を形成する<抽象的人間労働>と、
使用価値を形成する<具体的有用労働>とに二重化されるということ。
また、<労働力商品>は「第1巻第4編第4章貨幣の資本への転化第3節労働力の購買と販売」で
登場します。
そこでは以下のように書かれている:
「一商品の消費から価値を引き出すためには、わが貨幣所有者は、流通部面の内部で、すなわち
市場において、一商品・・それの使用価値そのものが価値の源泉であるという固有の性質を持っている
一商品を、したがってそれの現実的消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造である
一商品を、発見する幸運にめぐまれなければならないであろう。そして、貨幣所得者は、市場でこの
ような独特な商品を・・労働能力または労働力を、見いだすのである。」
つまり、労働力商品の使用価値とは「それが価値の源泉である」ということです。
228 :
革命的名無しさん :2008/02/07(木) 22:23:53
300 名前:OFW :02/05/19 20:15
>>296 (293さん)(つづき)
>床屋の労働と技術者の労働と工員の労働、それぞれの異同
上記引用の直後には、
「だれでも、自分の労働力と異なる商品を売ろうとすれば、もちろん、生産諸手段、たとえば原料、
労働用具などを所有していなければならない。彼は革がなくては長靴をつくることはできない。
彼にはそのほかに生活諸手段も必要である。」
という記述があります。
先の床屋の例は、生産諸手段を所有している場合(自営業者、一括してプチ(小)ブルジョアという
中間的階級に属する)として挙げたのであり、美容技術者や工員が生産手段を所有しておらず、
美容院経営者や工場主(資本家)にその労働力を売るしかなければ、賃労働者という階級に
属することになる(サラリーマンという意味不明な区分も同様。
以前TVで破綻した某銀行の重役夫人が「主人もサラリーマンです」とか発言していたが。)
229 :
革命的名無しさん :2008/02/07(木) 22:26:07
301 名前:OFW :02/05/19 20:16
>>297 >スポーツ選手とかはどうなるんだろう?
近年日本のプロ野球でも労働組合(選手会)ができて、オーナーとの間で団体交渉をするように
なったが、芸術・芸能・スポーツ業界も企業化(資本主義化)され、自営(自由業)が少なくなって
きた。球団に所属する(雇用契約)か、フリーで競技会の賞金稼ぎをするか(業務請負契約?)
によって、スポーツ選手の位置づけも異なるでしょうね。
>あと、名のある職人の労働と無名の労働者の労働は、時間や労力が一緒でも値段が違ったり
>するのはなぜ?
値段(労賃)とは労働力商品の価格(価値の貨幣表現)であり、価値の源泉である労働自体に
価値はないのです(これポイント)。個別労賃は市場の競争原理にまかされているから、
<労働力の質>(熟練、知識、スキル等)によって、わずかながらでも差異を生むでしょう。
一方、価値とは一定の社会での平均的な熟練度そして強度において、ある商品の(再)生産に
必要な社会的平均的な労働時間、を言います。結局、労働力商品の価値とは要は労働者の
再生産、つまり平均的な生活に必要な生活財の価値に還元されます。
230 :
革命的名無しさん :2008/02/07(木) 22:28:01
309 名前:OFW :02/05/21 20:30
>もちょっと日本語っぽい日本語に
確かに固いが、限られたスペースで厳密に言おうとすると、日常的な言い回し(用語や表現)だけでは、
やはり無理とて、しばしご容赦をば。
例:「現存在」(Existence)という用語は単なる存在という意味ではなく、何らかの基底的な存在から
出現した、という含意あり。
>暗黙のご了解
門外漢なので「マルクス(主義)経済学」業界内部にある「学会の常識」めいたものがあるのか良く知り
ませんが、誤解も多いように見える。
(最大の誤解は、『資本論』は資本主義経済の諸現象を合理的に説明した経済学(科学)の体系
である、というものでしょう。)
>>308 >一区切りついたら教えてね。
そうですね。第1節を終えるまで(あと10レス位)。
・・・ということで、ヒンシュク覚悟で、少しまとめカキコをしよう。
231 :
革命的名無しさん :2008/02/07(木) 22:32:09
310 名前:OFW :02/05/21 20:32 (第1節、承前) 「使用価値の考察に際しては、一ダースの時計、一エレのリンネル〔亜麻布〕、一トンの鉄などのような その量的規定性がつねに前提されている。」 有用物の量を規定するための単位に関して言えば、可分的な素材製品については、より物理的な 自然単位が使われるが、最終製品については、当然ながら、使用可能な最低の大きさが単位となる だろう。 価値(Value)において量が本質的な契機であるのは何故か?という設問に対しては、 <物の効用>自体が相対的な存在であるという点を反省する必要がある。 ある物が有用であるか否かは、その質のみならずその現存量に依存し、必要以上に存在する有用物は その反対つまり無用物に転化する(一般的に言えば、量が質に転化する)。 また、有用性自体に度(内包量)があり、生きる上で必要不可欠な物から、ぜいたく品にいたるまでの <必要性の強度>をもっている。かくして、価値の限界効用説に続いて、有用物の必要量と現存量 との比(いわゆる稀少性)をもって価値と呼ぶ<価値の稀少性説>が出てくるのは見やすい道理である。 しかし、それもまた(否定性に進んではいるが)価値の直接性の立場をこえていない、非本質的なもの である。「直接性の真理はそれが媒介された直接性であることである」(ヘーゲル)。 すなわち現存在の根拠を問うことは、直接的・表面的な現象を去ってその本質に向かうことであり、 哲学的反省が必要とされる地点である。価値というテーマに即して言えば、 「この有用物はどこから何故にこの世界の中に現れたのか?」 あるいは 「一体君はその有用物をどこから、どのようにして手に入れたのか?」 という始源(歴史)への問いが、価値の本質論の始まりとなる。
232 :
革命的名無しさん :2008/02/07(木) 22:36:54
311 名前:OFW :02/05/21 20:34 「使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的内容をなしている。 われわれが考察しようとする社会形態においては、それは・・同時に交換価値の素材的担い手をなしている。」 ここで初めて使用価値と区別された交換価値が登場するが、 1.富の内容としての使用価値は社会的形態によらないが、交換価値は商品交換が一般的な社会 においてのみ存在する富の形式であること 2.使用価値は交換価値の媒体(質料)であり、後者は前者の形相である(つまり両者は本質的な 反照関係にある)ことが明確に述べられている。 にも拘わらず、一般人のみならず殆どの経済学者や哲学者も両者を混同しており、マルクスからそれらの 区別を学んだはずの「マルクス主義」学者すらその区別を正しく理解できず、弁証法にあてはめた珍解釈 を披瀝したりする始末である。 (たとえば、「使用価値ー交換価値ー価値(自体)の関係は正ー反ー合に対応する。」「いや、それらは 有ー無ー成の関係である。」等々言われ。) 交換価値とは<他者(非所有者)にとっての使用価値>という形式内容(規定性)をもち、使用価値の 否定(他在)を抽象的に含んでいるのは確かだとしても、本質関係(反照形式)として、より進んだ<物> (現存在する根拠)というカテゴリ圏(そこでは<持つ>という、より発展した関係性が支配的である) において、初めて具体的なのである。
233 :
革命的名無しさん :2008/02/07(木) 22:40:22
312 名前:OFW :02/05/21 20:37 「ある特定の商品、たとえば一クォーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などと、要するに きわめてさまざまな比率で他の諸商品と交換される。だから、小麦はただ一つの交換価値をもっている のではなく、いろいろな交換価値をもっている。」 貨幣経済の下では、小麦が靴墨や絹と直接に交換されることは殆どないから、上記の言明は一つの 仮設的あるいは過渡的な世界に関わっている。 直接的現実(完成された貨幣経済)の被媒介性を論理的かつ歴史的に跡付けることは、価値の 本質論として正しい探求方法である。展開された価値形態(第3節C参照)は単純な価値形態 (物々交換)と同様に、貨幣形態において止揚された契機として内包されており、その解明には 弁証法的な思考が要求される所以である。 使用価値が相対的であるのと同様に、交換価値も相対的であり、交換の相手に応じて、その大きさ (値)を伸縮させる。ちょうど、ある長さを計るのに、尺貫法を用いるかメートル法を用いるかで、 その値が変わるように。 「しかし、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などは、たがいに置きかえうる、またはたがいに等しい大きさの、 諸交換価値でなければならない。したがって、第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しい ものを表現する、ということになる。」 相手(尺度)が変わろうと、そこに表された大きさは単位が異なるだけで、等しい大きさであり、 <価値自体>は一つであるということ。無論そのためには、実際にもたがいに置きかえる行為が(歴史的に) 存在したことが前提となる。ちょうど、メートル法が世界的に通用する過程において、まずメートル原器と 呼ばれる1m長の妥当する剛体を設けて、それを長尺やヤード尺で計測しなくてはならなかったように。 「尺度される対象の吟味は尺度の吟味でもある」(ヘーゲル)。
234 :
革命的名無しさん :2008/02/08(金) 17:53:51
313 名前:OFW :02/05/22 01:55 「しかし、第二に、交換価値は、そもそもただ、それとは区別されるべきある内実の表現様式、 「現象形態」でしかありえない。」 上記の文はいわゆる<労働価値説>(価値の実体は労働である)の導入部分であるが、 <現象>vs<本質>あるいは<実体>の対立は論理的な性格をもち、ある現存在が 現象と見なされるなら、そこにはそれとは区別される本質的な総体性が顕現しているのだ ということを指摘することは、現象主義流行りの学問の現状では、特に重要だろう。 実際「交換価値とは何か?」と問われて、 「それは商品交換における交換比率に過ぎない。」と言いながら、 「ではGDPが表示している対象は何か?」という質問に、 「一国で生産された財およびサービスの価値量である。」として、 その<名目>と<実質>の区別を 「貨幣価値(同じことだが、一般的物価水準)の変動を反映するか否かの便宜的なものに過 ぎない。」 と答える経済学者は、価値がその貨幣表現(価格)とは異なる実体的な存在であることを暗黙 ながら認めているわけである。実際、価値の尺度である貨幣自体の価値が変動する(いわゆる インフレーションおよびデフレーション)という不可思議な現象は、アインシュタインの特殊相対性理論 と同様、一般人には理解不能なものであるが、貨幣物神に陥っている経済学者にも満足に説明 できないのである。
235 :
革命的名無しさん :2008/02/08(金) 17:58:52
314 名前:OFW :02/05/22 02:03 「たとえば、1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄によって表されうる。この等式は何を意味 するか? 同じ大きさのある共通物が、二つの異なった物の中に、すなわち一クォーターの 小麦の中にもaツェントナーの鉄の中にも、存在するということである。」 「この共通なものは、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他の自然的属性では ありえない。」 「そこで、諸商品体の使用価値を度外視すれば、諸商品体にまだ残っているのは、ただ一つの 属性、すなわち労働生産物という属性だけである。」 上記の数センテンスは、(ある論者により「マルクスの蒸留法」と批判されたものだが)労働と価値との 関係を実体と属性との関係として捉えたもの、ただし<商品体がもつ価値>なる物性的・自然的属性 としてではなく、社会的実体としての労働とその成果としての価値として捉えたものである。 商品交換において等置され、自己同一なものとして諸個人間の諸関係を結ぶもの、それは社会の 紐帯としての諸個人の協働的な生産であり、その結果としての価値は協働的社会の姿を経済的に 反映するものである。にも拘わらず、世の人および経済学者はむしろ結果としての価値を商品体に 備わった自然的(物象的)属性とみなして、その本質的現存在として貨幣を置くから、貨幣こそが社会の 自然的(永遠的)紐帯と考える。それは仮象を本体ととり違えることである。もっとも、それは必然的な 取り違えではあるが。
236 :
革命的名無しさん :2008/02/08(金) 18:03:11
322 名前:OFW :02/05/23 06:08 (第1節、承前) 「労働生産物の有用的性格と共に、労働生産物に表れている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、 これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、 すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。」 <抽象的人間労働>という概念は<人類>という概念と同様に抽象物であるが、諸個人が諸個人 として互いに関係を取り結び、一つの社会を形成している場合には、現実的な妥当性をもつ概念である。 たとえ、その関係が私的な商品交換(モノとモノとの関係)であり、その社会が非社会的な社会(市場) だとしても、確かに皆が抽象的個人として人類の一員(抽象化された市民(市場の民))なのである。 「そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような 同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態には かかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。」 ここでのポイントは「凝固体」という言葉である。自然的には労働力の支出は労働生産物の構造 (物理学的にはエントロピー変化)として結果している。しかし、社会的な凝固とは、その自然的な 支出が価値として現象している点にある。このことは貨幣の登場と共に現実的なものとなる。 先の床屋の有用労働の例で言えば、それが商品として通用するのはひとえに客が貨幣の一定量を 対価として引き渡すからであり、もし貨幣がなければ、床屋の労働は価値として結晶するべき対象 をもたず、したがって商品になり得ないだろう。
237 :
革命的名無しさん :2008/02/08(金) 18:06:41
323 名前:OFW :02/05/23 06:09 「これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、 人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶 として、これらの物は、価値・・商品価値である。」 上記は労働価値説の内容そのものであるが、ポイントは「社会的実体の結晶」という表現にある。 価値は決して自然的実体ではなく、人間が自然の中から社会を形成し、自立するための営為 である労働こそが社会的実体であり、価値はその結晶としての対象化であるということ。 「したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化 または物質化されているからにほかならない。」 殆どすべての人は「ある財が価値をもつ」という表現を「ある財には価値が内在している」と同義 と考えるだろうが、その途端に倒錯に陥ることになる。 何故なら、確かにその生産のために抽象的人間労働が支出されたが故に「ある財は価値をもつ」 わけだが、それは自然的な属性のように財に内在しているわけではないから。 近代経済学が「価値はある主観的なもの」と主張するのはその限り正しいが、それは決して単に 主観的なものでなく、ある客観的な存在(社会的な必要労働)の対象化であることを見逃している。
238 :
革命的名無しさん :2008/02/08(金) 18:10:58
324 名前:OFW :02/05/23 06:11 「では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。」 上記の文は一種の“躓きの石”を含んでおり、「マルクス経済学」者の中にも誤解する者が多いようである。 量とは実在的な概念であり、存在するものについて使われるため、 「価値の大きさをはかるためには、それに含まれている労働の量によれば良い」 と聞けば、その財の生産に実際に支出され確定した<過去の労働量>(いわゆる投下労働量)のこと を考えるのは自然ではある。 もともと<実体>概念自体が過去性を帯びたもの(*2)であり、「実体の真理は主体である」(ヘーゲル) という洞察を踏まえて、それが一定の限度内でのみ妥当性をもつ概念であることを弁えなければ、 「価値を形成する実体」という言葉を自然的実体のように捉えるのは止むを得ないとも言えるが、 そうなるとまたしても社会の物象化(価値の実体化)の罠にはまってしまう。 (*2) 「実体とは偶有(直接的現実)の全体であり、自己を媒介する必然的な相関である。」(ヘーゲルちょと パラフレーズ)。
239 :
革命的名無しさん :2008/02/08(金) 18:18:24
325 名前:OFW :02/05/23 06:13 「しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。 商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成り たっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。これらの個人的労働力の それぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力 として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、 労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。社会的に必要な 労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度 とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。」 直前の引用文の「諸価値の実体をなす労働」と異なり、 「諸価値に現される社会の総労働力」「一商品の生産に・・・社会的に必要な・・・労働時間」と 述べられている。つまり、直前の引用では「それに含まれている労働の量」として過去に支出された 労働力を指しているように書かれ、上記では「何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間」 として未来の労働力の支出を指している。つまり<財の価値>をはかるとは、その財の<再生産> のために支出すべき労働力をもって「実体をなす労働」をはかることだということがわかる。 実体は必然的なものであり、その自己同一性を因果関係において示すが、それはあくまで過去が 現在を決定するという相関である。それに対して、人間の生きた労働は現在の必要(必然)を未来 の満足(自由)に転化させるための活動であるから、価値のあるものを価値のないものに変える行為 と言えるだろう。
240 :
革命的名無しさん :2008/02/08(金) 19:45:17
326 名前:OFW :02/05/23 06:16 「たとえば、イギリスで蒸気織機が導入されてからは、一定の量の糸を織物に転化するためには、 おそらく以前の半分の労働でたりたであろう。」 過去に多額の支出をして糸を購入し、在庫として抱えていた糸商人は大損となるが、 それは、その(社会的な)価値が下がったためである。価値物神に捕われ、糸の中には自らが支払った 黄金と同等(以上)の価値が内在していると信じて疑わない商人は、ヘーゲルの言う知恵の最下級学校、 つまり<ケレスとバッカスのエレシウスの密儀>(『精神現象学』A一感覚的確信、このものと思いこみ) に送り返されるべきだろう。 「労働の生産力は、いろいろな事情によって規定され、とりわけ、労働者の熟練の平均度、科学とその 工学的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模とその作用能力によって、 さらには自然諸関係によって、規定される。」 <生産力>という概念は唯物論的な歴史観のキー概念の一つであるが、上記の言明自体は誰でも 経験的に理解できるものだろう。 「ダイヤモンドは地表にはめったにみられないので、その発見には平均的に多くの労働時間が費やされる。 そのため、ダイヤモンドはわずかな体積で多くの労働を表すことになる。」 「ある物は、価値であることなしに、使用価値でありえる。人間にとってのその物の効用が労働 によって媒介されていない場合がそれである。たとえば、空気、処女地、自然の草原、 原生林などがそうである。」 「自分の生産物によって自分自身の欲求を満たす人は、たしかに使用価値を作りだすが、 商品を作りだしはしない。」 ・・・ということで、取り合えず第1節が終わった。(長文失礼)
241 :
革命的名無しさん :2008/02/08(金) 19:48:59
327 名前:OFW :02/05/23 06:25
>>326 誤: 糸を購入し 糸商人 糸の中には
正: 織物を購入し 織物商人 織物の中には
242 :
革命的名無しさん :2008/02/08(金) 19:53:46
350 名前:OFW :02/05/25 05:30
>>346 >「社会的平均的な労働時間」というものをどうやって計測するの
現代日本の場合、厚生労働省の下記ページに計測結果が掲載されている。
ttp://www.mhlw.go.jp/toukei/data/index.html (確かに<(サービス)残業時間>がブラックボックスになっている!)
>「社会的平均的な労働時間」が「労賃」を決定する。
それは誤り。(前レスを良く読んで欲しいな)
労賃=労働力商品の価格 であり、価値と価格そして労働と労働力とは別のもの。
そして、価値の実体(正体)は労働である、ということです。
1.価値vs価格
貨幣の存在を自明の前提とする近代経済学(一般均衡論等)では、<価値>という概念は
消去されて<価格>しか登場しないために両者を区別できないが、
>>313 で触れたように
貨幣価値自体が変動することで、名目上の価格と区別される実質的な価値が対象として
浮かび上がってくる。また(在庫評価や固定資産の減価償却といった)資産価値の評価の場面で、
市場価格とは異なる実在的な存在を指した「価値」という言葉は日常的におなじみのものですね。
経済学の祖と称されるアダム・スミスは、貨幣ではなく労働こそが時代を通して価値の正しい尺度
である、と言ったわけですが、『資本論』のテーマは「価値とは、そして価値を生む価値である資本と
は何か?」ということです。
2.労働vs労働力
労働力とは労働という対象的活動を行う人間の能力(潜在的な力)であり、労働はその発現として
現実の活動を指します。たとえば「安い労働力を買う」とは言うが、「安い労働を買う」とは言わない。
労働力を買った後にそれを使用すること(賃労働させること)が(産業)資本家(あるいはその代理人
たる経営者)の任務です。
243 :
革命的名無しさん :2008/02/08(金) 19:57:00
362 名前:OFW :02/05/26 19:55
>>352 (346さん)
>同じ時間でも、労賃がちがう。これはどういう訳なんでしょうか?
繰り返しますが、(時給を含め)労賃とは労働力商品の価格(要は生活費)であり、労働力の使用
によって生産される商品の価値(これは労働時間によって規定される)とは別のものです。
また、(労働力商品を含め)商品の価格は市場の競争により規定されるが、資本の利潤原理のた
めに常にその価値から外れるもの。
>あと、ある車が100万円だったとしますよね?
>ある服が一万円だっととしたら、車は服のちょうど100倍の労働時間を費やしたということで
>いいんですか?
違います。車産業は独占・寡占が進んでおり、価値通りの値段からは大分高いと言える。
20世紀文明(大衆消費社会)はフォードの“安い”大衆車から始まったが、そこで働く労働者が
自らの作ったフォード車を買うためには、過酷な労働に耐えざるを得なかった。
実際、下記の自動車生産に関する労働生産性(労働者一人あたりの生産台数)をみれば、
たとえばトヨタで年間67台(1996年度)であり、実際の販売価格がいかに“高い”ものであるかが
分かるでしょう。
ttp://www.isc.meiji.ac.jp/~sanosemi/seminar/1995Tada/outsourcing2.html >べつの要素が価格決定には作用しているのではないでしょうか?
市場における競争およびその結果としての独占という要素です。利潤最大化あるいは市場占有率
を巡って、資本間の弱肉強食の争いが日夜繰り広げられている。その結果、個々の商品の価格は
価値(その商品の社会的必要)から外れ、自由競争市場であればいわゆる生産価格(費用価格)
プラス平均利潤というゆがんだものになる、ということがマルクスの主張です。
244 :
革命的名無しさん :2008/02/08(金) 20:00:11
363 名前:OFW :02/05/26 19:56
>>353 >価格は売り手が勝手に決めてんだから。
そんなことはあり得ない。完全独占価格といえども買い手が支払い可能な上限をもち、寡占状態下の
激しい価格競争も現実の姿。すぐ上に書いてあるように、価値と価格の区別ができないのは致命的エラー。
>ビル・ゲイツやヒッキーの労賃がそれだ。
彼あるいは彼女の収入は労賃ではなく、それぞれ資本家利得(および経営者利得)あるいは自営業
としての利潤であり、階級的に異なるもの(
>>301 参照)。
>限界効用価値説
>>295 ,
>>310 で少し触れたが、その非本質性は現象を本質と取り違え、使用価値を交換価値と混同し、
価格を価値と混同することに表れている。
貨幣を前提にした議論は貨幣自体が何故発生したのかを説明できないため、貨幣物神を免れない。
実際、質的にも多様で主体によっても異なる物の効用に関して<社会的効用の総量>を言うことは、
貨幣を前提にしなければ不可能(単位すら決められない)であり、単なる欲求を支払い可能な欲求と
混同することである。
大体、上の「価格は売り手が決める」というのと矛盾するが・・・。
>オークションでつく値段
市場価格は価値を説明し得ず、逆に価値から市場価格を説明するのが科学的な説明であり、
オークション(競り)は多くの買い手(貨幣)と多くの売り手(商品)の下での、個別商品の市場価格を
決めるための極めて弁証法的な過程だが、その結果定まる価格と商品固有の価値との関係は
(単なる慣習として)むしろ隠蔽されてしまう。
245 :
革命的名無しさん :2008/02/08(金) 20:05:41
364 名前:OFW :02/05/26 19:58
>>354 (346さん)
>いっぱい資金や労働力を費やしても、その商品に需要がなかったばあいは、
>やっぱり利益も労賃も0ですよね?
当然そうです。マルクス言うところの「命がけの飛躍」に失敗したわけ。
商品に含まれる価値は貨幣形態をとらない限り(つまり売れない限り)、社会的な価値としての自己
の本質を実現できない、ということです。
>>355 >商品経済の形態に規定された、商品のいわゆる交換力を「価値」とするならば
>>311 以降に書いてあるように、使用価値、交換価値、価値自体は相互に異なるもので、
区別が必要です。
交換力とは交換価値としての商品に固有のものであり、もともと一商品であった貨幣に集約された、
というのがマルクスの価値形態論の主張です。現在の商品には“貨幣との”交換力はあっても、
“他の商品との”交換力は非常に弱い(偶然的)でしょう。
(確かに「すべての商品は貨幣である」(ケインズ)という主張は成り立ちますが。)
>こういう「価値」の三段構えはだめですか?
「限りの実体」というのはシェーリング的な用語ですね。
マルクスの解釈としてなのか、価値の解釈としての話なのか不明ですが、
たとえば「ニュートン力学の解釈」とは言わず「ニュートン力学の理解」と言うように、
『資本論』に書いてある内容をまず理解することをお勧めします。
246 :
革命的名無しさん :2008/02/08(金) 21:45:41
OFWって人のコピペ、参考にさせてもらってます。 もっと続けて下さい。
247 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 09:16:58
474 名前:OFW :02/06/06 01:11
>>365 (346さん)
レスが遅れましたが・・・(仕事が忙しいのでスマソ)。
>マルクスの資本論は経済学の書と言うより、哲学書だということでしょうか?
そうですね。『資本論』の副題は「経済学批判」となっており、当時の国民経済学と
それが対象にしている資本主義経済の批判的解明です。
経済学という科学は、対象である資本主義経済を合理的なものとして説明する
使命があるが、対象自体が非合理的である場合は科学の限界だと。
>近経は『価格』を分析する学問だが、資本論は『価値』を分析した書であるということですね?
価格と価値との対比という面で言えばそうですが、要点は価格とは貨幣なしでは意味を持たない
存在だが、貨幣ー価格とは価値形態の一種だという点です。
この辺については、もう少し分かりやすく説明したほうが良いのでしょうね。
>「労働時間=商品価値」だが、「労働時間=商品価格」ではないということですね?
「実体」という言葉(概念)は本来難しい論理的な内容を含んでいますから、本当は詳しい説明
が必要なのですが、価値、貨幣、資本というものの正体が実は労働にあるのだ、ということです。
資本主義の秘密(その強さと弱さを含め)を解くためには、価値を解明することが必須の課題
だということです。
248 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 09:21:44
492 名前:OFW :02/06/07 06:28
>>484 >経済学は対象が非合理であるがゆえに、まだ科学に達していない
ここでの「批判」という言葉は倫理的ではなく、科学としての成立要件に対する限界設定という、
認識論的な意味合いが含まれています。
経済学に限らず社会科学の研究対象は生きた主体ですから、自然科学のような客観性を
得ることは一定の条件内でしかできない。「まだ科学に達していない」より「既に科学を超えている」
と言う方が適切でしょう。
>ここを、もっとくわしくお願いします。
価値概念を持たない近代経済学が<価格の分析>を行な(っているように見)えるのは、
貨幣を<価値自体>として自明な前提にしているから。
小学校でも「需要と供給の均衡」という(ミクロ)経済学の“大”法則は習うでしょうが、
そこでの説明(いわゆる需要曲線と供給曲線の交点が価格と需給量を同時に決定する)とは
奇妙なものです。
1.価格とは正確には<単価>(=商品単位当たりの○○)ですが、(商品量×単価)つまり
販売額が何を表わしているのか(○○とは何なのか)の説明がない。
それは単なる貨幣量(例:金xxg、紙幣xx円、電子マネーxx単位等)であり、貨幣とは
「何でも買える便利なもの」という位ですね。それは何ら科学的な説明ではない。
2.需要といっても、貨幣を所持して市場に登場する必要があるが、それはどこから手に入れたのか?
「市場から」と言うなら、それは循環論法ですね。
また、異なる商品種に対する最大の効用量(満足度)とは何なのか?
(欲求が貨幣に換算(変容)されている。)
3.供給といっても、利潤最大を目指すための販売であり、利潤=売上−仕入(あるいは売上原価)
である以上、既に決まった仕入額(あるいは売上原価)から利潤が如何に発生するのか
(結果論ではない)説明が必要ですが、通常は「付加価値」といった偽の概念でごまかす位ですね。
等々。
>「価格」も労働時間に規定されるということですか?
当然そうです。市場価格はそこからの変動(偏差)しか表現しない。
249 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 09:24:58
494 名前:OFW :02/06/08 09:28
>>493 >労賃と利潤はどうちがうのですか?
スレのテーマであるマルクス自身の“しっかりとした”説明(1847年の労働者向けの講演会で述べた内容)
が『賃労働と資本』として公表されています。(下記サイトに電子化されているので、簡単に読める。)
ttp://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/chin0.html 少し引用すると、
「賃金とは、労働力の価格・・ふつう労働の価格とよばれている・・にたいする、人間の血肉以外には
やどるべき場所のないこの独特の商品の価格にたいする特別の名まえにすぎないのである。」
「資本は、新しい原料、新しい労働用具、新しい生活資料を生産するためにつかわれる、あらゆる
種類の原料と労働用具と生活資料からなりたっている。資本のこれらの構成部分はみな、
労働の創造物であり、労働の生産物であり、蓄積された労働である。新しい生産のための手段
として役だつ蓄積された労働が、資本である。」
「直接の生きた労働を蓄積された、過去の、対象化された労働が支配することが、はじめて、蓄積
された労働を資本とするのである。」
>階級差を規定する定義は?
一般的には<生産手段に対する所有関係>が階級を規定します。
<生産手段>とは、土地、海洋、原材料等の労働対象と、施設設備、道具、機械等の労働手段
とに大別され、衣食住のための<生活手段>と対比されます。生産手段と労働力の結合が生産活動
であり、その最終生産物が生活手段(資料)ですね。
資本家階級は、生産手段を私有し、他人の労働力を使用する。労働者階級は、他人の生産手段に
結合されて、自らの労働力を使用する。自営業者(小ブルジョア階級の一部)は生産手段を私有し、
かつ自ら労働する、という中間的な位置にある。
250 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 09:28:38
495 名前:OFW :02/06/08 09:30
>>493 (つづき)
>ゲイツやヒッキーの労賃も、<平均>すれば、けっきょくは適正価格になるのですか?
経営者(トップマネジメント)とは資本家階級の一部(代理人)であり、その収入は利潤の
一部から充当されるものです(彼らは従業員ではなくその収入は労賃ではないから、
価格はなく、適正な値もない)。
他人に雇われないクリエータ(自由業)も自営業ですね(その収入は自己に支払う労賃プラス利潤
と言える。)
>ヒッキー(クリエーター)の労働時間を、どうやって計測するか
社会的平均から大きく外れた人(あるいは事象)は、確かに世の注目を浴び、羨望の的
にもなるが、科学者は例外事象として統計から外すでしょうね。(幻想を売る場合は、
また違うが。)
>それとも、クリエーターの作業は、労働とは言えないのですか?
もちろん労働ですが、上にも述べたように、生産労働ではなくサービス労働(消費的労働)です。
クリエータ(創造者、たとえば歌手)は芸術的・精神的な価値をもつ作品を産み出すが、
それは経済的な価値をもつもの(商品)としてはCDやCMコピーとして市場に出てくる。
それらはレコード会社や広告代理店という資本主義的企業の所有に属し、歌声や笑い顔は
CD生産の原材料として製造原価に算入すべき(工業簿記)か、著作権料として販売管理費(経費)
に算入すべき(商業簿記)か、経理課でも迷うかな(笑)。
251 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 09:41:38
505 名前:OFW :02/06/09 08:09
>>496 >なるほど、クリエーターの労働はあくまでも例外事象であって、マルクス経済学が注目するのは
>CD製造とか、製本などの工業的作業過程の労働だということですね?
全く違うな。上で言ったのは、
1.資本主義経済の下での基本的な階級区分は、資本家階級/労働者階級/中産階級
(小ブルジョア階級)に大別され、クリエータ(正確に何を指すのか不明だが)が資本家に
雇われなければ、自営業として第3の階級に属する。しかし、その商品は企業化されざる
を得ないため、結局第1の階級に従属する「中間的で動揺した部分」(マルクス)だ、
ということであり、中産階級(の労働)は例外事象ではない(確かに、ウォルフレンが言うように、
日本の中産階級は弱過ぎで、“先進”諸国の中でも例外的かな(笑))。
2.例外事象とは、ゲイツやヒッキーという飛び抜けた個人の例を指しているのであり、「社会的に
必要な平均的労働時間」の計測にとっては例外的なものだということ。
3.ゲイツやヒッキーの「労働」は決して賃労働(労働力商品の販売)ではなく、その収入は
賃金ではないということ。労働(Work,仕事)一般と賃労働(Labor,労働力商品)とを混同
するのは、マルクスの時代からあった意図的なゴマカシでもある。
4.「マルクス経済学」の話はどこにもなく、資本主義企業での経理(近代会計学)の話。
また、
>>474 で書いたように、日本の「マルクス経済学」なるものはマルクスの思想を誤解していると。
>それだけのリスクをつねに背負っているのに、資本主義社会では資本家が労働者を搾取している
>と主張されるのはどういうことでしょうか?
「ハイリスク・ハイリターン」(マルクス謂う所の「命がけの飛躍」の現代的表現)と搾取(剰余価値の
形成とその帰属)とは直接関係がない。
搾取とは剰余価値(形成された価値の必要労働分以上の余剰)に関して、それが等価交換原則
から外れている(不払い労働)事情の俗称です。
252 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 09:44:08
506 名前:OFW :02/06/09 08:12
>>496 (つづき)
>リスクを背負う以上、それ相応の分け前をもらうのは当然ではないでしょうか?
初期の「冒険資本主義」の時代から、リスクは常に一攫千金の夢と共にあるものだが、賃労働者には
夢は無い反面、失業、過労死、労働災害、精神破壊の高いリスクがあることを忘れずに。
また「分け前の正当性」という、昔の労働組合までが使った余り適切とは言えない議論が重要なのではなく、
>>494 で引用したマルクス自身が説いているように、「労働者が自らの生産した生産物(資本)によって
支配される」という<物象化、疎外>が本質的な問題なのだということ。
資本家とは資本というモノ、カネに憑かれた非ー人間(これは道徳的意味ではなく、論理的意味として)
に過ぎないので、確かに資本家自身が資本の限度のないリスクの犠牲者だとも言える。
(「あなた人間止めますか、それとも資本家止めますか」ちゃて。)
>共産主義社会が成立して、資本家も労働者も収入が同じになる
共産主義は階級(資本家と労働者の区別)自体の廃絶を目指す運動です。「能力に応じて働き、
必要に応じて受け取る」という労働・分配原則は、“分け前”といったブルジョア的な原則とはレベルが
異なるもの。
253 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 12:38:54
529 名前:OFW :02/06/12 06:13
>>507 >自由な立場で商品選択させて、そこには強制はないから。
「自由とは何か?」とは古来から哲学上の大問題だが、
「形式的な自由を恣意と呼ぶ。その内容は他から与えられており、自己が産み出したものではないため、
それは真の自由ではない。」(ヘーゲル、パラフレーズ付き)
くらいは心得ておこう。選択の自由とはまさに与えられた枠内で選ぶ恣意に過ぎない。
>旧共産圏
「旧国家資本主義圏」の誤り。前スレその他で繰り返し言っているが。
>>508 >ブルジョア的な自由
とは、利己的な個人の恣意そして貨幣価値の増殖の自由でしかない。
>理性の設計による権力の大きな惨劇
<理性の設計>などどこにあったのかな?たとえば、いわゆる計画経済は実は恣意的な強制経済
だったわけで、“理性的”官僚のトップダウン方式は民主的な要素に欠けるために実は無計画なのは、
日本でも同じ。
>>509 >「マルクスその可能性の中心」を読んだこと
だいぶ前に読んだので詳細まで憶えてないが、後に著者自身が語っている通り、「どこにも<中心>
が書かれていない。こりゃ看板に偽りありだ。」と当時感じた記憶がありますね。
特に「賃金が前払いだという点がポイントだ」とか・・・。
>>510 >20世紀にあれほど多くの人命を奪ったマルクス主義
相変わらずのステレオタイプな意見だが、どれほどの人命が<マルクス主義>(何を指しているのか不明だが)
によって奪われたと言うのかな?
「国家社会主義」ナチス政権下のホロコーストの話?「一国社会主義」スターリン政権下の収容所列島の話?
「毛沢東主義」ポルポト政権下のKilling Fieldの話?・・・人命を奪うのは常に国家権力(テロ)では?
254 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 12:44:08
530 名前:OFW :02/06/12 06:15
>>512 (いっしょさん)
>肉体だけでなく、才能も持っているからかな?
労働一般は人類が誕生して以来、営々と行ってきた活動(知的・非知的を問わず)を指し、
賃労働とは近代資本主義の根拠としての特殊な労働形態を指します。
生産手段の所有・非所有(生産関係)がポイント。
>どっちが悲惨なんですか?
むろん中小企業(殆ど自営業)の社長は大資本との競争において悲惨だからこそ、過酷な競争の
根源自体を廃棄すべきだということ。
>賃労働者なんて、過労死するぐらいなら、さっさと仕事やめればいい
世のサラリーマンが聞いたら、「そだよな。だけど、どこも似たり寄ったりで出口なしの社会だし、
仕事は大切だから・・・」とか言いそう。
>大量の資金を借り入れた資本家なんかより、はるかに自由人です。
資本家=資金を持つ人では?『資本論』はまさに自由の逆説(弁証法)を説く。
「近代労働者は二重の意味で自由である。伝統的な共同体の束縛から自由であり、
自己の裸の(注:別に肉体という意味ではない)労働力以外に何も持たない(所有からの自由)という意味で。」
>資本家であり賃労働者でもあるんです。
階級とは本質的な、つまり個々の実在とは異なる関係概念だということを理解すれば、
現象が直ちに本質ではない以上、<資本をもつ賃労働者>が個別に存在することに不思議はない。
要はそれが統計的に社会の基幹(本質)をなす部分かどうか(偶有的か実体的か)ということ。
>階級廃絶の具体的なビジョンがまったく見えないのですが?
何故階級廃絶が必要(必然、不可避)なのか?という根拠が分からなければ、そこへのビジョンも見えて
こないでしょう。<社会の解放>とは実践的な課題であり、課題化する主体にとってしか存在しない対象です。
>○○がほしいから、これだけ給料をくれと請求するんですか?
給料(サラリーではなく賃金)という形態ではなく、直接的な物量としての取得という形態でしょう。
無論そのためには高い生産力が前提となる(既にデフレギャップ(供給過剰)の時代に入っているが)。
255 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 12:47:40
555 名前:OFW :02/06/15 12:39
>>522 (ふにゃぽんさん)
>真の「プロ独」はどのように行われるべきか?
<プロレタリア独裁>とは具体的にどのような形態(状態)を指しているのかについては、
形式的には民主主義でも実質的には<ブルジョア独裁>の現状を分析すれば、
大よそのイメージが得られるでしょう。そこでは、政治と経済、社会が形式的に分離しており、
「民主主義は工場の前で立ち止まる。」といった状態です。
「何故社長を従業員の選挙で選ばないのか?」と問えば、
「私企業は資本家の所有物であり、政治機関ではない」という政経分離が説かれ、
<私企業内の政治>は独裁的なままですね。
たとえば「社長公選制を実現しよう!」とは(共産党ですら掲げない程の)ネタですが、
“暴力革命”よりはるかに民主主義的・平和的なスローガンであり、真のプロ独への一歩でしょう。
>それはどのように運営されるべきか?
マルクスは『ヘーゲル国法論批判』で、代議制民主主義と官僚制とは不可分の関係にあることを、
鮮やかに分析している。そしてパリコミューンの経験から、国家(幻想の共同体)と官僚制(統治技術の体系)
を廃棄するためには<交替制による全住民の行政事務への参加>を通して、皆が複雑な支配技術など
不必要であることを習得し、国家統治(他者の支配)を社会的自治に回収する可能性を説いている。
それは(日本共産党を含む)社会民主主義政党内部の官僚制にも言えること。
レーニンも(現実には官僚制に敗れたが)以下のように述べている。
「そして、結合された労働者は、自分で技術者、監督、簿記係を雇いいれ、彼らすべての労働にたいし、
一般にすべての「国家」官吏の労働に支払うのと同じように、労働者なみの賃金を支払って、この機構を
運転することが十分にできる。」(レーニン『国家と革命』)
256 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 12:49:41
556 名前:OFW :02/06/15 12:40
>>522 (ふにゃぽんさん)(つづき)
>生産や支配行為、特に熟練が必要とされると思われるものについては、
>(革命前に)どこでどのように習得されるべきか?
たとえばNHK番組『プロジェクトX』に登場する、生産に関しての“熟練”労働者達はいわゆる政治には
無関心でしょうが、実際の労働現場では生産(モノ)の管理と人の管理(支配行為)は一体になっている
(つまり無意識に政治に参加している)。
要はその“未熟練”な政治性を自覚すれば良いだけであり、政党の役割は単なる票集めではなく、日常の
政治的教育・啓蒙にある所以です。
>>526 (電波狸さん)
同上です。
高度情報化社会はますます<支配の不可能性>を増大させ、コミュニケーションと社会連帯を必然化させている。
>>545 (吉本隆明さん)
>労働価値説は実は暗黙に「作れば必ず売れる」というセーの法則を前提にしている。
面白い新解釈ですね。その論拠(ソース)を示して欲しいな。因みに、マルクスはセーを俗流経済学者として
批判しているが、自分を誤解していた、ということかな?
257 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 12:51:19
732 名前:OFW :02/07/13 12:55
>>730 (いっしょさん)(つづき)
>詩や芸術のように、かんぜんに自立した観念というものがリアルに存在するのでは?
正確にいえば「存在するかのように経験される」でしょうね。そこで何よりも重要な点は、
虚構(想像的なもの)を現実(実在そのもの)と取り違えないことです。
「あらゆる詩は、表面には現れてこないけれども、条件を示す文句を言外に含んでいる。
つまり、もしいろいろなことがこれこれであったならば、そのときには・・・という具合に反応が
発展する。」(I.A.リチャーズ『文芸批評の原理』)
>「客観的な傾向」というものを、共通了解性の高い形で示すことができるでしょうか?
そのためには、経験科学の研究成果を十分に利用しなくてはならず、たとえば20世紀以降の
時代を<帝国主義>という概念にまとめるためには、レーニンが『帝国主義論』で展開したように、
地道で体系的な探求が必要となるでしょう。
「私は、その一言で世界が凍りつくような言葉が欲しい」(吉本隆明)といった主観的な傾向(衝動)
のようには行かない。
258 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 12:53:03
735 名前:OFW :02/07/14 02:08
>>733 >役にたたない無駄な夢物語ですね。
さて、その根拠は何かな?(哲学は根拠を問うことから始まる。)
夢(幻想)は唯物論から最も遠いものであり、上の例で言えば、医学、特に解剖学は近代唯物論の
源流の一つをなしている。たとえば、フーコーは、神経病理学における医者の患者(事物)に関する
二つの観察記述を証言として提出した後、認識論上の構造変化を指摘している。
「この二つの文章の間の差は、ごく小さいものでありながら、全面的なものである。・・・というのは、
ベールの単語の一つ一つが、その質的な精緻さによって、われわれのまなざしを恒常的な可視性
の世界にみちびくからである。これに反して、ボンムの文章は知覚の支えのない、心象(ファンタスム)
のことばをかたる。」(M.フーコー『臨床医学の誕生』序)
同様に、マルクスは、資本主義におけるファンタスムの言葉(夢物語)つまり商品語を転倒することにより、
<価値形態>を可視的なものにした。両者は共に、幻想から現実に向かう唯物論の必然的な歩みです。
259 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 12:58:54
738 名前:OFW :02/07/14 20:44
>>736 >並べるのはいかがなものかと。
フーコーとマルクス(主義)の表面的な共通点および相違点をあげれば、
1.真理のイデオロギー性に対する理解
「真理は権力の外でも権力なしでも存在しない」(フーコー)
「もっとも古い階級である僧侶階級の末裔としての哲学者」(マルクス)
<権力><主体>概念については、フーコーは抽象的・無人格的な構造概念として捉えており、
そのため知識人の政治的役割に関して逆に「知こそが力である」というベーコン流啓蒙主義に留まって
いるように見える。
一方、マルクス(主義)は実体的な生産関係(下部構造)に基づく<階級>概念の下位概念として
権力を捉え、階級支配の現実性および小ブル的知識人の政治性を捉える。
2.方法論としての歴史主義(知の考古学VS社会の自然史)
「同じ種類の契約で、もっと隠れた、もっと奇妙なものが、同じ頃に、施療院と臨床教育との間に、
ひそかにとりかわされている。・・・貧乏のために施療院に助けを求めるほかなかった患者を、
いかなる権利によって臨床的観察の対象に化しうるか、・・・今や彼は、あるまなざしのために
要求される。そのまなざしにとって、彼は客体である。」(フーコー)
「資本主義を基礎とする産業の躍進によって、働く大衆の貧しさとみじめさは、この社会が存続
するための必要条件の一つにまで引きあげられた。・・・要するに、啓蒙思想家たちのすばらしい
約束と比較して、「理性の勝利」によってうちたてられた社会的・政治的諸制度は人々を幻滅さ
せる痛烈な諷刺画であることがわかった。」(エンゲルス)
上記からも、近代医療が物象化(患者Subjectの客体Object化)されてきた過程の背景には、
医療行為における<観察的まなざし>以上に、ブルジョアの<価値物神的まなざし>があることが分かる。
260 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 13:01:11
742 名前:OFW :02/07/16 06:39
>>737 >バブルもたらした官僚制の弊害
バブル経済は別に官僚制が原因ではない。誰がそう言っているのかな?
>資本主義や議会制民主主義で直せば良いし、・・・マルクス主義で
資本主義、民主主義、マルクス主義とは何のことか?
>>739 >なぜマルクス主義といえるのでしょう?
マルクス主義が何かは論者によってさまざまでしょうが、この階級社会において、
労働者階級に向けた思想であることはミニマムラインです。
大学教授や殆どの知識人は別の階級に属するため、とかく「階級対立など存在しない」
と言いがちで、親マルクス的でも要注意。
>>741 >抽象的人間労働、私的労働の意味がよくわからない
労働に二つの種類があるということではなく、分業社会の中でのすべての労働(仕事)が
もつ二側面を言います。
社会から孤立した人が自給自足の生活を営む場合、彼(女)の労働(仕事)は当人だけの
私的なものですが、社会の中では何らかの<他人のために役立つ仕事>を行っている。
彼(女)の労働は社会的なものとなり、他のすべての労働と区別の無い<人間労働一般>という、
それ自体は抽象的・普遍的な側面をもつことになる。
個々の労働者は具体的に特定の仕事をすることで社会に貢献するが、それは他の労働と
同じ普遍的な労働でもあり、「我々は同じ労働者だ」と言われる所以です。
私的企業主(資本家、経営者)は「いや、労働者は私にだけ役立つ汎用的な(何にでも使える)
労働力の担い手に過ぎず、交替要員はいくらでも調達できる」と矛盾したことを平気で言うが・・・。
261 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 13:03:50
746 名前:OFW :02/07/17 05:40
>>743 横レス失礼。
>抽象的人間労働は、具体的有用労働を抽象化したもの。
>おもに労働時間によって計測されます。深い意味はありません。
昔から日本人は抽象的思考が苦手なようで、ピカソの「抽象」絵画が初めて紹介された時に
「こんな子供の落書きのような絵に何の意味があるのか?」と酷評されたようですね。
確かに芸術的価値の評価は難しいものですが、当然それはピカソが費やした制作(労働)時間では
計測されない。しかし、今は“経済的”価値の話。ピカソが生み出す芸術作品の経済的価値は
その商品価値であり、ピカソ本人よりは絵画商の方が詳しいでしょう。彼(女)は言うでしょう、
「私は芸術は良く分からんが、それがいくらで売れるかは誰よりも良く知っている。」と。
特に生活必需品以外の便宜品、奢侈品に対する<社会的需要>、つまりそれに対して支払い
可能な社会平均的な欲求量の大きさは、社会の豊かさの指標の一つでしょう(例:バブル期日本)。
確かに「複製時代の芸術」(ベンヤミン)作品の芸術的価値は経済的価値に比例して低下したとも
言えなくもないが、後者はコピー作品の制作技術とその制作時間(労働時間)(製造原価)に反比例
している。
>資本家の労働
(繰り返しだが)資本家=非労働者というのは、階級的な本質概念。
>不当におとしめる効果があります。
>資本論的詭弁の温床
資本の経済的価値を弁証法的に論じた『資本論』の学問的価値を詭弁的におとしめる解釈
については如何?
262 :
革命的名無しさん :2008/02/10(日) 21:49:57
このOFWサンってオーさん、ようわからんが大学のセンセとちゃう? その知識量も凄いんだろうけんど、いっちゃん関心したんは 説明のわかり易さだわな。 よう知っておらんと、ああは説明でけへんよ。
263 :
革命的名無しさん :2008/02/11(月) 10:06:42
>>262 どっかのスレで、マルクスなんたら同人会の会員じゃないの?ってな
カキコがあったよ。
確か自分でも先生とは違うって言ってたような、言ってなかったような。
264 :
革命的名無しさん :2008/02/11(月) 19:05:09
747 名前:OFW :02/07/17 05:46
>>746 誤:反比例している 正:比例している
265 :
革命的名無しさん :2008/02/11(月) 19:07:41
807 名前:OFW :02/07/20 20:15
>>748 >抽象化と具体化をくり返すことが、「説明」すると言うこと
>>9 でも簡単に触れているが、科学的な説明とは本質的・原理的な存在から現象を理論的に
導き出すことを言います。
本質(Essence)とは、あるものがそのものである根拠を言い、それ自体は抽象的自己同一性
として可能的なものに過ぎないが、具体的な諸条件の中におかれたあるもの(現存在)がそれとして
存立するための<最終的審級>(決定的条件)をなすものです。
>具体性に還元する
抽象的なものから具体的なものに進むことは「還元」ではなく、<綜合>と呼ぶべきでしょう。
>資本集中の法則、利潤率低下の傾向の法則、貧困増大の法則などなど
法則とは、上記本質が世界のうちに現象する形式を言い、具体的な成立条件を抜きにしては
その当否が語れないもの。各々の条件は何かな?
>資本家階級も労働しています。
むろんそうでしょう。その限り、経済空論家の精神労働や経営者の監督労働も資本主義の維持
に寄与しているが、彼らの労働はシステム(モノ)の要請であり、法則の奴隷としての非本質的
(非主体的)な労働です。
>こちらが階級的な本質概念です。
<階級>の定義は?
本質とは、上に述べたように、あるものの自己同一性であり、すなわち本質的な対立(矛盾)の
総体としての根拠を言います。<賃労働と資本>は互いに相手の反対であり、かつ同一のもの
であるということが、階級の本質なのです。
266 :
革命的名無しさん :2008/02/11(月) 19:11:05
812 名前:OFW :02/07/21 10:51
>>809 >「ホンシツ」は止めてくれよ。
19世紀末頃から、古典的資本主義経済の行詰りと歩調を合わせるかのように、
西欧哲学上の認識論および存在論の世界でもホンシツ論が消え去り、現象主義が
主調となったが、それは確かに実証諸科学の脱哲学化に対抗した哲学の敗北の結果
とも言える。(例:「カントに帰れ」から「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」
「事物の本質を問うより、その存在を問え」までの理性的批判精神の衰弱の過程)。
しかし「現象(現わるがまま)が本質(あるがまま)と一致するなら、およそ学問など不要であろう。」(マルクス)
という事情があるから、科学者そして哲学者も「ホンシツ」を止めるわけにはいかないでしょう。
>言説の「意味」が根こそぎ抜け落ちるから。
19世紀末頃に、ソシュールが一般言語学を講義して、言説の「意味」をラング(記号体系)の
共時的・恣意的差異性に還元して以来、言語学の研究対象から言説の「意味」が根こそぎ
抜け落ちてしまい、言語の本質(言語行為としての象徴的(代理的)コミュニケーション性)が
見失われてきた。前に挙げたI.A.リチャーズや時枝誠記は、共にソシュールに対する批判者であり、
<言説の意味>とは何かを正しく捉えた、つまり言語本質論を展開した、数少ない学者あるいは
思想家でしょう。
つまり、ホンシツが無ければ、およそ言説は意味のないもの(無根拠な恣意)になる、ということです。
267 :
革命的名無しさん :2008/02/11(月) 19:15:04
892 名前:OFW :02/07/27 10:23
>>819 >(文献)史料の文言(言説)とその解釈こそが全てそれを書いた人物の思想などを再構成
>することは不可能という考え方哲学的分類では解釈学的現象学の亜流と考えてよいので
>しょうか。
歴史学の動向については余り詳しくないので、的確な回答はできないと思いますが、
私は、<歴史>は哲学にとって最後のテーマであり、すべての反省的思考が収斂して行く
場所と考えています。
まず、現象学について言えば、現象主義よりむしろ本質主義の面が重要でしょう。
それは客観的・超越的本質は立てないが、現象のうちに形相的・志向的本質(<意味>)を
立てる。それは非歴史的な存在です。
次に、解釈(学)について言えば、ガダマーといった解釈学派の現象学者は、現在の人間が行
う歴史文献(テキスト)の解釈によって明らかになる<テキストの意味>はつねに解釈者に相対的
だという事情を理解していたようです(『真理と方法』)。しかし、「新しい経験による先入見の修正」
という解決策は、むしろ非方法的なものと言え、既にあった現在と現存する過去との連続性の認識
のためには、現在的自己の相対化(対象化)が必要でしょう。
>>820 (819さん)
>戸坂潤『科学論』 四つの研究方法(分析・解析・統計・実験)
ttp://isweb35.infoseek.co.jp/school/pfeil/B1/FRAMEB1_2.HTM 戸坂の分類は幾分類型化しすぎだと思うが、史料解析(歴史データの情報化、つまり構造化ないし
組織化)は歴史概念の形成のために必要な一操作、ということは言える。
分析・綜合はその後にくる判断のタイプであり、それらは推理に発展する、というのが弁証法的な
認識論です。
過去世界総体とその通時的な変化(内発的発展・衰亡)の認識のためには、社会の本質論を踏まえ
なくてはならない。
268 :
革命的名無しさん :2008/02/11(月) 19:19:46
914 名前:OFW :02/08/02 03:12
>>906 (ふにゃぽんさん)
>そのさいに、いわゆる「南北格差」はどうなるんでしょう?
南北格差とは“先進”工業国資本の“後進”諸国に対する植民地的な収奪の結果として
理解すべきでしょう。収奪のない社会間では互恵互譲が原則であり、豊かさは「北」から
「南」へ還流する(格差解消)。
>「プロレタリア」とみなしていいのでしょうか?
賃労働者とは政治経済的な関係存在であり、資本(増殖する貨幣価値)があれば必ず
そこには賃労働(者)があります。また自然条件や歴史を異にする諸社会が相互作用した
結果として近代世界が形成されてきたが、その普遍力はもともと<共に働く人類>のもの、
その発現です。同じ労働者の連帯こそが人類の普遍(歴史貫通的な自然)だということ。
>「同時革命」は遂行されるべきなのか?
世界革命と世界同時革命は異なり、特に後者は日本の新左翼(赤軍派等)が使用した
用語ですが、殆ど現実性のない冒険主義的戦略だった。
共産主義の内容は国際的・普遍的なものですが、その具体的な形態や発展の過程は
国や民族によって一様ではなく、一見反動的な運動の中にその萌芽がある場合もある(例:イスラム原理主義)。
現代の世界革命は単なる政治的総力戦よりはむしろ社会的そして思想的(精神的)な
主体形成の面が重要であり、故石堂清倫氏がグラムシを受けて述べたような、<新しい「陣地戦」>
といった粘り強い戦略が立てられるべきでしょう。
(
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~ikawag/isidoubunko.htm#bunko9 )
>>907 (ふにゃぽんさん)
>「国家主導型」では、いけないのか
これからの時代は国家の役割など急速に無用なものとなり、その社会的機能(共同的利益の遂行)
は本来の社会の中に回収されて行くだろうことは殆ど疑い得ない(例:国際的NGO)。
国家(階級対立の隠蔽)は少数者の支配にとってのみ必要であり、多数派(世界的広がりにおける
労働者階級)が社会権力を握った場合には、国家は存立の根拠を失う。
「プロレタリアは祖国をもたない」存在であり、世界に遍在している。
269 :
革命的名無しさん :2008/02/11(月) 19:23:21
918 名前:OFW :02/08/03 12:58
盆踊り(とその後)で飲み過ぎた・・・気持ちワル・・・
>>915 ,916(ふにゃぽんさん)
>「国家」とは・・・有史以来、常に人類にとって普遍的な共同体
ではなく、階級対立は国家の根拠です。
最古の支配階級(祭祀、僧侶階級)は精神労働と肉体労働の分離(霊魂の独立)を説き、
幻想の共同体=国家を司る(例:大和朝廷と現代の皇室)。
>「町」だとか、「県」だとか、「家族」のような他の・・・「共同体」
盆踊りは町内<会>主催の<祭>でしたが、消防団が櫓やテントを設営、地元の警察が交通整理
(唯一の合理的機能)、婦人会が進行、子ども会が参加、の共同運営でした。
<伝統的共同体>(マルクス)は<会>として、祭りの中に微かに存続している。
「ストライキは祭りのように町中に広がり、生産活動は自主的に組織されていったが、最終的に国家
(連邦警察)の登場により粉砕された。」(ジェレミー・ブレッヒャー『ストライキ!アメリカの大衆ラジカリズム』
からのパラフレーズ)
>「生産力の発展」は、「資本主義」に任せなければならないのか
全然関係なし。
生産力は資本主義によって発展したのではなく、協働的な生産と連携した科学技術の発達や
労働組織の有機化によって発展した。
>現代の段階あたり・・・で、「プロ独」を行うとマズイのか
全然問題なし。階級廃絶は可能というより、現代では現実的(他は不可能であることが既に現れている)
であり、プロ独がその現実性です。
>「家族、結婚制度」「私有財産」等
かっては結婚制度は(人間が唯一の生産力であったため)それ自体生産関係(下部構造)でしたが、
その理想は(“かけがえのない”全ての相手といった)無差別的なものではないかな。
>自己の労働力によって、獲得したものを、備蓄しておくということ
自分のものと他人のものの区別(私有=排他的所有)はなくなり、不慮の災害・事故に対する備えは
すべて社会的なもの(共有)に置き換わる。
270 :
いわし雲 :2008/02/16(土) 10:17:27
『資本論』の周辺をば。 149 名前:OFW :03/02/01 21:16 なかなか面白いテーマで、基本的な質問を一つ。 「効用性」(utility)という言葉は「役に立つ」「実用性」といった言葉と同義であり、何らかのモノ的存在の 属性を表わす概念ですが、功利主義者が個人あるいは社会の<幸福>をその手段に過ぎない <モノの効用>に還元してきたのは、何故なのか? たとえば、エピキュロスは快楽主義者だったかも知れないが、少なくとも功利主義者ではなかったろう。 また、幸福自体は計量不可能であるから、その尺度として有用物(つまり財あるいは資源)の量を持ち 出してくるのは一見自然に見えるが、そこには、幸福を財(所有)に還元する市民(ブルジョア)社会の フェティッシュな思考が見え隠れする。 そう考えて行くと、最近の選好功利主義という立場も、幸福や自由の問題を、その手段ないし条件である モノ(資源)に対する選好の問題に還元し、実質的に幸福や自由や生命を損得勘定に還元するブルジョア (資本家)思想と言えるのではないか?(例:臓器移植とサバイバルロッタリ) 経済学では「価値は限界効用である」と言われるが、価値は効用の否定であり、道徳は快楽の否定、 法律は道徳の否定、政治は法律の否定でしょう。
271 :
いわし雲 :2008/02/16(土) 10:18:57
165 名前:OFW :03/02/03 22:42
>>150 さっそくのレス感謝。さて・・・
>社会一般の快楽(これを幸福と呼ぶ)
>前者は一般に利己主義と呼ばれ、アリストテレス・・・
一般的な用法とは少しずれているような。
「一般的に言えば,幸福とはある主体の欲求ないし要求が持続的に満たされた状態を意味する.」
(岩波『哲学・思想事典』「幸福」の項)
「自己の利益や欲望の充足をひたすら追い求め,そうした己の行為が他者に及ぼす影響を度外視
する行為原理.」(同上「利己主義」の項)
たとえば、プラトンは「幸福とは魂の秩序である。」と言っています。
272 :
いわし雲 :2008/02/16(土) 10:22:40
166 名前:OFW :03/02/03 22:43
>>150 (つづき)
>功利主義者なら幸福自体の計算を問題にしないでは意味がない
その通りでしょう。
しかし、それは<私的言語の不可能性>と同じくらい不可能なことは、少し考えてみれば
明らかであり、実際に行っているのは富あるいは価値の計算だということです。
簡単な話、計算するための<幸福の単位>は何でしょう?
1.自分を“幸福だと思っている”個人を無差別に1(単純幸福人)とする。
→主観性の比較不可能性の問題を措いたとしても、それは幸福自体の量を測ってはいない。
「私はあなたより、どれだけ幸福なのか?」
2.ある社会で“他人に比べて幸福だと思っている”個人を無差別に1(比較的幸福人)とする。
→定量(量の限定)は既に<より幸福>という変量に変わっているから、幸福相対主義への転落である。
「どこかの共産主義社会に比べれば、千倍幸福だ。」
3.ある社会で幸福とされる標準的な属性(例:身体的、精神的、経済的、等々)を“実際に持っている
”個人を1(標準的幸福人)とする。
→属性は<所有>(帰属性)を前提するから、それは既に幸福自体ではなく、その基準あるいは条件の
問題に変容している。
「並外れた容姿をもつ女性はその分だけ幸福なのか?」
4.上記3に対する機会(可能性)に開かれた個人を1(可能的幸福人)とする。
→現実性から可能性への飛躍は、幸福と不幸の境界を曖昧にする。
「今は不幸でも明日は幸福になれるなら、既に幸福なのか?」
273 :
いわし雲 :2008/02/16(土) 10:25:06
167 名前:OFW :03/02/03 22:43
>>150 (つづき2)
>選好の対象はモノ(資源)とは限らない。
その通りでしょう。
しかし、対象(object)とは一定の限定された存在者であるから、たとえば<行為に対する選好>は
行為の対象に対する選好に帰着する。「善行とは善なるものを目指す行為である。」
幸福に関する効用の立場とは、幸福自体でなく<幸福をもたらすモノ>が選好対象となるという、
特殊な(媒介的な)立場だということです。
>ヒュームが使った用語を単にベンサムが借りただけじゃないの?
ヒュームの<社会的効用>(social utility)とベンサムの<効用原理>(principle of utility)との共通点と相違点は
多くの議論が可能でしょうが、さしあたりベンサム自身の効用の定義を挙げておくと、「功利性(utility)とは、
あらゆるものにある性質であり、その性質によってそのものは、利害関係のある当事者に対し、
利得、便宜、快楽、善、幸福(これらすべてはこの場合同じことになるのであるが)を生み出す傾向を持つ
のであり、または、 (再び、同じことになるのだが)利害関係のある人に対し、損害、苦痛、悪、不幸が生じる
ことを妨げる傾向を持つのである。もしその当事者というのが社会一般であれば、社会の幸福であり、特定の
個人であれば、その個人の幸福である。」
274 :
いわし雲 :2008/02/16(土) 10:27:27
168 名前:OFW :03/02/04 17:11 功利主義が帰結主義の一種とみなされているのは一見奇妙である。 何故なら、効用の立場とは目的である快あるいは善にとって手段として役立つものを重んじる立場であり、 それに対して帰結主義とは、ある行為それ自体ではなく、それが引き起こす結果によって、その道徳的正否を 決めるという立場であるから。つまり、行為の目的ー手段連関が過程の原因ー結果連関に逆転しているわけ である。 次の言葉はその辺の事情をよく示している。 「たとえば他人の幸福、人類の向上、あるいは何かの芸術でも研究でも、それを手段としてでなくそれ自体を 理想の目的としてとり上げるのだ。このように何か他のものを目標としているうちに、副産物的に幸福が 得られるのだ。」(J.S.ミル) ここにあるのは、現代の利己主義マンセーとは裏腹の、理想主義的な功利主義思想であり、経済学的には 古典派経済学(それは自己の利益を追求すれば、結果として社会の福祉が増大すると主張する。)から 厚生経済学への変容を示すものである。 「構造改革なくして景気回復なし。今日の(他人の)痛みに耐えれば、明日の(我が身の)繁栄が結果として やって来る。」(某首相)
275 :
いわし雲 :2008/02/16(土) 10:30:12
171 名前:OFW :03/02/08 05:50 主体が何らかのモノを使用することにより主体の目的に適う効果が得られる場合、「そのモノには効用がある。」 と言われる。 有用物の所有は財(property)と呼ばれ、財は幸福の物質的な条件とされる。 そのために、幸福を求める者は、まず財を獲得することを目指す。 無論、功利主義者はそれを奨励するだろう。しかし個人の財にも限度がある。 限度を超えた所有欲は貪欲と呼ばれ、限度を超えた節約は吝嗇と呼ばれる。 世界をそれ自体としてではなく、有用物に溢れた世界と見て、それを我がものにしようとするのが、 世界に対する功利主義的態度である。 そして、その極限には<他者にとっての有用物>(つまり商品)を宇宙の崖まで充満させ、 それらの一般的等価物(つまり貨幣)を手中にすることにより、世界自体を所有しようとする 「ブルジョアジーの夢」(ベンヤミン)がある。 その限り、功利主義は近代ブルジョアジーの最強のイデオロギーであり、個人の自由という その精神主義の真理は<所有の自由>という物質主義(俗物主義)なのである。
276 :
いわし雲 :2008/02/16(土) 10:32:41
173 名前:OFW :03/02/08 05:55 効用の大きさはそのモノの使用によって得られる効果の大きさであり、究極的には主体の主観的な満足度 そのものとされる。 しかし、個人の満足には限度があることを知るのは、知恵の第一歩である。 たとえば、人が米を食用に供するのは、それにより空腹を満たすためである。その場合、夕飯に茶碗2杯分の 飯を常用する個人にとって、茶碗1杯分の米では不十分であり、また茶碗3杯では多過ぎるだろうから、 満足の大きさが(過不足のない)茶碗2杯で最大になることは、容易に分かる。 では、満足度によって計られた、米の効用の“客観的な”大きさも茶碗2杯で最大か?と問えば、 通常は「否」という答が返ってくるだろう。 <モノの効用>とは相対的な存在であり、一方で主体の目的や性質、他方でモノの機能や品質によって その質および量が異なるから、常に「誰にとって、何のための、いかなる状況での効用か?」が指示されなくては 意味のない事柄である。 そしてまた、<満足度>という主観的かつ浮動的な効果から計られた効用を、客観的にも妥当すると主張する ことはさらにできない、と。 実際「誰にとっても、いつでも、変わらずに有用(つまり常に無用)」なのは貨幣くらいだろう。 しかし逆に、効用とは単に主観的なもので何らの客観性もない、と主張することもまた誤りである。 たとえば、主食としての米の効用が万人にとって普遍的であることには生物学的な根拠があり、 基礎的栄養源としての米の効用とは客観的なものである。 その限り、<茶碗1杯分>という飯の単位は標準的な個人(身の丈)を基準にした米の効用の 単位でもあり、効用の客観性を表している。
277 :
いわし雲 :2008/02/16(土) 10:36:24
174 名前:OFW :03/02/08 05:56 さて、茶碗1杯分では不足だが茶碗3杯分では過剰である、という上記の事情が経済を発生させる。 <希少性(あるいは希少価値)>の登場である。 過剰な有用物は無用であり、有害ですらある。 しかし、今日は過剰な米も、明日には希少(不足)になる恐れがある。それが貯蓄の根拠である。 また、ある人にとって過剰な米も、他の人にとって希少(不足)であるかも知れない。それが交換あるいは 再分配の根拠である。最後に、現存する米が希少(不足)な場合、それを必要十分な量にすれば良い。 それが、貨幣など存在しなかった太古から営々と行われてきた、生産の根拠である。
278 :
革命的名無しさん :2008/02/17(日) 19:27:38
誰ぞにいわしは食われちまったかな? 175 名前:OFW :03/02/08 07:08 たとえば、当初1万円と値踏みされていた作者不詳の絵画の作者がゴッホであったと判明したことで 3000万円に跳ね上がった場合、その絵の<美的価値>が変わったのか、と問われた功利主義者は 何と答えるか?絵画の効用とは、その鑑賞により芸術的な感動(満足)を得ることだが、オークションとは、 対象物(今の場合ゴッホ)が“非所有者にとって”どれだけの満足を与えるか、を基準にして行われる競り 売りである。同じ絵がゴッホであるかどうかで満足の度合いが変わるのか?また、絵画の美的価値は その経済的価値つまり商品価値(交換価値)に影響されるのか? 1.「ありふれた才能をもった画家の絵」が「類まれな才能をもった天才の絵」に“実際に”変化した以上、 その希少性が変わり、美的価値が変化した。 2.絵としては“客観的に”同一物である以上、それを求める人はその経済的価値の変化 (つまり根拠不明な値上がり)に期待しているだけである。 ゴッホの絵がもつオーラ(ベンヤミン『複製時代の芸術』)は、如何にも市場の民がもつ功利主義 (欲望の疎外性、他者性)のありようを示している。
279 :
革命的名無しさん :2008/02/20(水) 17:52:28
176 名前:OFW :03/02/08 16:33 現代倫理学における功利主義の主流は選好功利主義と呼ばれ、それはミクロ経済学における効用理論 (無差別曲線、効用関数等)との親近性を増したものになっている。そこでの第一のキーワードは「合理的選択」 だろう。まず、およそ<合理的>(rational)という概念には注意が必要であり、<理性的>(reasonable)との 区別が重要である。前者は主に目的ー手段連関の論理的整合性を言うものであり、目的自体の可否は不問 に付す。というより、そこに功利主義が入り込んでくるわけである。 選好功利主義者は、諸個人が幸福、善、権力等何を目的にするかについては問わず、それらの選好を最大限 に充足することをより原則的なものとみる。したがって、それは個人の形式的自由の主張である。 個人が自己の自由を最大限に発揮できること自体に異論をはさむ者はいないだろう。しかし、自由といっても、 孤島での自由ではなく、一定の社会の中における自由である以上、その条件が問われなくてはならない。 他人の自由を侵してまで自己の自由を広げることは許されていないわけであり、それは自由の条件にまで及ぶ。 つまり、自己の行為が結果として、他者の自由の機会を奪う場合(例:市場の独占)、功利主義の立場からは その行為自体(例:自由競争)も是認されるものではないだろう。結果において存在することは、もしそれが必然 ならば、原因においても存在するから。特に、人(人なるもの)が生まれた<自然状態>(オリジナルポジション) を壊すことを社会は許容しない。たとえば、映画『天国と地獄』で示されたような、高台の上の豪華な家を、 その下にある貧弱な家から見上げるような配置の下で人生のスタートを切る個人にとって、自由の機会は、 他者の行為の結果として、既に奪われている。帰結主義をとる功利主義者は、その配置が自然の結果 (合理的な自然選択?)であるとして不問に付すが。
280 :
革命的名無しさん :2008/02/20(水) 17:55:41
178 名前:OFW :03/02/08 22:14 選好功利主義の第二のキーワードは「選好の比較不可能性」だろう。 諸主体の選好間の優劣比較はできないという議論は、諸主観間の直接的比較はできないという 一般的な議論の特殊ケースであるが、諸選好自体を評価すべき一般的な基準が要請されるにも 拘らず、<自由な諸主体>の前提からそれが存在し得ないという矛盾である。 ミクロ経済学でも選好が登場するが、個別主体(消費者あるいは投資者)が与えられた諸対象間に 選好順位を付けて、それらの価格あるいは代替費用と予算金額とを勘案して、最大の効用あるいは 利得を得る購買量あるいは投資量の組み合わせを“自由に”決める、というものである。 そこでは貨幣という普遍的で強制的な基準が存在するから、上記の問題は事実上回避されている。 そのことが、倫理的功利主義の脆弱さに比した経済的功利主義の強靭さの秘密である。 実際「死後の救済のために、現世における勤勉と節約に基づく致富は奨励れる」という <(初期)資本主義の精神>は、禁欲の帰結を彼岸にまで引き伸ばした宗教的功利主義とも呼ぶ べきものであり、現世における利殖選好を支えたエトスと言われる。それは前近代的な子孫への相続 の否定でもあり、同時に、未来における社会の繁栄という、本来の功利主義的な進歩主義(それは 産業革命と共にやってくるだろう)もそこにはないが、資本の本源的蓄積にとって適合的なイデオロギー であったろう。神による選択(最後の審判)はその恣意的(不合理)な選好に基づくが、<見えざる神の手> は市場の合理的選択により全体の福利厚生を増すか?
281 :
革命的名無しさん :2008/02/20(水) 17:57:51
179 名前:OFW :03/02/09 11:49 確かに、現代において自由主義を唱えることは保守的であると言える。 自由主義者の努力は、近代が達成した政治的原理である<個人の自由>をさまざまな異議申し立て (例:社会的不平等、経済不況、環境問題)から擁護することに費やされており、市民革命期のように時代 を切り開こうという推進力はない。 したがって、今日ハイエク流のウルトラ自由主義を進歩思想と同一視することは、いかにも時代錯誤的である。 その点では、ポパー流の批判的合理主義も同じであり、それは市民的(ブルジョア的)自由を保守するための 妥協(批判の自由)と言える。 実際にも、見かけ上の対立にもかかわらず、両者は(何故か全体主義と同一視されている)共産主義に対抗 するためにのみ政治的に利用されており、現状を変革するための“効用”は少ない。
282 :
革命的名無しさん :2008/02/20(水) 18:01:27
180 名前:OFW :03/02/09 11:50 そのような中で、ブルジョア政治経済学の分野において、機会均等の条件や社会的公正を巡って、 改めて功利主義的なアプローチが唱えられてきているようだ。 たとえば、 「資源の平等は厚生の平等を生み出さなければならない。」(ローマー) とは、均等に与えられた資源の活用機会を活用目的としての社会的厚生により評価せよという主張であり、 平等主義的な功利主義の主張である。 また、 「個人の困窮の度合いは個人の願望達成の尺度には現われないかもしれない。固定化してしまった困窮の 問題は、不平等を伴う多くのケースで、特に深刻である。・・・これらの潜在能力から得られる効用を単純に 合計することによっては行なうことができない。」(セン) とは、一見反功利主義的な外見ではあるが、社会的厚生の評価において、個人の<基礎的潜在能力> を、当人の現実の願望如何によらず、組み入れよという主張であり、<自由の条件>にまで拡大された 功利主義と言える。実際、困窮とは自由の貧困であり、サラリーマンには労働力商品としての自由しかない 以上潜在能力をいくら開発しても・・・。
283 :
革命的名無しさん :2008/02/20(水) 18:03:23
181 名前:OFW :03/02/09 17:22 功利主義にとって挑戦的なテーマの一つにいわゆる自然保護の問題がある。 地球環境や生態系の破壊の進行が誰の目にも明らかになり、その主たる原因が産業や人間生活にある ことが次第に分かってきた。直接的な<自然の搾取>(マルクス)から間接的なエネルギー収支の偏りに 至るまで、産業革命以来の近代人が共通にもつ、自然に対する功利的・技術的態度が引き起こした 帰結の一つと言われ、環境保全は世界的な政治問題にまで発展している。 環境倫理学なるものも現れ、日本では(ヘーゲル研究者)加藤尚武等が地球全体主義(earth holism) を唱え、自由や欲望の制限を訴えている。 ブルジョア経済学者は、環境ビジネスは奨励するが、<経済外部性>などと洒落るばかりで、問題から 逃げている。 さて、功利主義者は何と答えるか?
284 :
革命的名無しさん :2008/02/20(水) 18:05:39
182 名前:OFW :03/02/09 22:45 結局のところ、功利主義者が自然を人間の目的(幸福、自由等)のための資源(resource)とみなす限り、 自然はむしろそれ自体で完結した存在としての自然性を示し、<用在性>(ハイデガー)とは別の無関心性 を顕わにするだけだろう。 地球や宇宙は人間のために存在するわけではないし、人間は自然の一部である(マルクス)以上、人間の 目的(object)ではなく、自然の対象性=客観性(objectivity)を知ることが、生命的=有機的自然の 合目的性=目的無き合目的性(カント)、そして対象的活動(働き)としての人間の根拠を知ることに なるのである。 それまでは、<精神的動物>(ヘーゲル)としてモノ(object)に執着するフェティシズム的な所有欲から “自由”になることはないだろう。 「私は粗大ゴミでも不良在庫でもない。リストラ反対!」(窓際リーマン)
285 :
革命的名無しさん :2008/02/20(水) 18:07:49
184 名前:OFW :03/02/10 23:41
>>183 >貴方の代わりはいくらでもいるもの
いかにも功利主義的なレスで助かるな・・・。
<人間の効用>について言えば、他の資源とは少し様相が異なる。
人間の特質は、「かけがえが無い」という言葉で表現されるように、個体性(個性)が強い、という点にあり、
資源としては、希少性が非常に高いモノと言える。ミクロ経済学の用語で言えば、他の財に対する
<限界代替率>が非常に大きい、つまり代わりになるモノを見出すには、よほど多くの種類および量の
財を集めなくてはならない資源だということである。
その理由は、人間の効用が多岐に亘る、つまりその汎用性が高く、知能も高いために、複雑な用途に
対する生産性が高い=高性能なため。
裏を返せば、「代わりがいくらでもいる」とは「個性がない」と同義であり、流行性や専門性の中に埋没
した鋳型(ステレオタイプ)財であること。
ベンヤミン『ボードレール論』(「7人の老人」)にもあるように、人間がモノとしての量的な性格を強め、
個体識別が困難になってきているのは、近代の特性でしょう。
また「無用な人間」とは「無能な人間」のことではなく、必要数以上の余分な人間のことであり、
余剰人員と呼ばれる。
では、何にとっての必要か?つまり、<人間の使用目的>は何か?という問いになるが、さてまた、
功利主義者は何と答えるか。「利潤の追求。これが答えだ!」(ブルジョアと呼ばれる経済動物)
286 :
革命的名無しさん :2008/02/20(水) 18:12:56
185 名前:OFW :03/02/11 10:16 善あるいは正義が規定困難だという理由で、倫理に快あるいは幸福を持ち出すことは、実際には 現実の不正を相対化してしまうという効果がある。 つまり、幸福という、より規定困難な存在を基準にするために、直接的な幸福をもたらすものが善で あるとされ、たとえば儲かりさえすれば手段は問わないと言うマスターに呼応して、役に立つなら 使用目的は何でも良いと言うサーバも出てくる。 そして、行為の直接的な目的を行為がもたらす間接的な影響から切り離してしまうために、 目的による手段の正当化(例:国際平和のための戦争。 それは平和を目的ではなく手段(口実)として用い、真の目的は別の所にあることを隠す)、 あるいは手段の目的化(例:より高性能な兵器開発。 それは手段に過ぎない兵器開発を自己目的化し、利潤を生むビジネスに変えてしまう)を 招くことにもなる。
287 :
やっぱコピペは俺でなくっちゃな。 :2008/02/21(木) 18:19:58
186 名前:OFW :03/02/11 10:17 このような倫理の功利主義的な相対化は、日常の至る所にも見られる。 曰く「面白ければ、TVでは何でもアリ。」 曰く「誰にも迷惑かけてないから、援助交際OK。」 曰く「難しいことをやらせるのは可哀そうだから、円周率は3で良し。」 曰く「明日の労苦より、今日の楽しみを。」(サラ金CM) 最後に出てくるのは、またしても<貨幣>という万能の功利(効用)自体=有用物をもたらすものであり、 その狡知に長けた反合理性には誰もが逆らえず、むしろ逆に、功利主義をモットーにする経済学者 などは「たとえ諸主体が(何故か幸福と同一視されている)自己の私利を追求しても、“公正なルール” に基いた市場の作用を通して、社会全体に福利厚生が齎される」と言って現状を弁護する(経済学の効用)。 しかし、いまやそれをまともに信じる者は殆んどいないだろう。 「ゲームはいかさまだ!幸福計算は間違っている!商品は偽善者だ!」
288 :
やっぱコピペは俺でなくっちゃな。 :2008/02/21(木) 18:21:51
188 名前:OFW :03/02/12 21:57
>>187 (功利主義者さん)
ども。レスがないので、勝手に書いていたが、要約すれば、思想・学説としての功利主義はかなり練られた
「通好み」な説だが、現実には利己主義を覆い隠す働きをしている、と言うことでしょうか。
一般に、倫理学という学問分野が自立できないのは、社会自体のあり方を問うことをしないためと言えます。
>>149 でも触れたが、道徳(倫理)は、一定の社会の中での個人の適応様式であり、社会自体に問題が
ある場合、問題は倫理的にではなく、社会的(政治的あるいは経済的)に解決しなくてはならない。
近代社会は、個人の恣意と諸個人間の敵対関係を強制する社会だから、一旦切れた<人間の絆>は、
功利主義的な戦略でも修復不可能かと。
289 :
やっぱコピペは俺でなくっちゃな。 :2008/02/21(木) 18:24:14
190 名前:OFW :03/02/13 23:38
>>189 (功利主義者さん)
>誰の倫理学説
倫理学プロパーの話には余り詳しくないので、倫理学学者にお任せするとして、
本来「人はポリスにおいて如何に生きるべきか」(アリストテレス)として政治学と密接に関連していた倫理学が、
近代以降に、独自の「倫理学」として自立してきたのは確かでしょう。それは広く言えば、政治は職業政治家
が行い、学問は職業的学者が行うべきものといった<職業倫理>に呼応しているとも言えますが。
>個人が心の平静を追求することによって解決を図る手段を探そうとする学問だ
<倫理>の位置が、むしろ倫理学者がどう自己規定するかによって決められているということです。
通常、人はことさら倫理的に振舞っているわけではなく、倫理が問われるような場面(葛藤状況あるいは
限界状況)において初めて「いかに行為すべきか(あるいは行為せざるべきか)」という問いが生じてくる。
それは具体的で実践的な問いですから、まさに当事者自身が決めることです。にも拘らず、倫理学者が
「もっぱら倫理的に振舞うとはどういうことか?」と一般的な形で問題を立てるとした場合、まずそれが
何故可能なのか自体を反省すべきでしょう。
290 :
やっぱコピペは俺でなくっちゃな。 :2008/02/21(木) 18:27:24
198 名前:OFW :03/02/15 05:45
>>193 >パレート原理
<パレート最適>とは功利主義と同様、良く考えられたものですが、論理的なおかしさも同様に
もっている。
「財あるいは利益の配分状態に関して、現状から何らかの変化を起す場合に、関係するすべての
成員にとって不利益が生じないような状態」をパレート最適と定義するようですが、それだと財や
利益の総量が固定された場合、すべての可能な状態はパレート最適ということになる。
(いわゆる最適の複数性)
つまりパレート最適とは状態に関する概念ではなく、状態変化に関する概念であるにも拘らず、
状態に関して定義されているという矛盾です。
「大きいとはより大きいこと、大きくなること。」(ドゥールーズ『意味の論理学』あるいは不思議の国のアリス)
現状が最適なら、そこからの変化は起こしようも無いのは自明の理であり、実際にも、「ワルラス均衡は
パレート最適である」という市場主義マンセーの保守的経済学者や「賃上げをするには、パイの大きさを
増やすしかない」という不平等を固定したままでの膨張主義的な発想(例:Bomb Iraq!)も出てくる。
「部分(例:個人)は全体、全体(例:国家)は部分。」(ヘーゲル)
291 :
やっぱコピペは俺でなくっちゃな。 :2008/02/21(木) 18:29:41
200 名前:OFW :03/02/15 08:12
>>199 >パレート改善自体には誰も文句がないのだから
少なくとも私(OFW)は文句があるのだから、パレート改善原理自体がパレート最適ではない(笑)。
いわゆるゼロサム状態でのパレート改善の例として、古本を売る場合の話が下記サイトに出ている。
(勝手にリンクと引用。サイト自体はグッド。)
「売った人にとっては、もう役に立たない物がお金になったという点で状況の改善です。古本屋にとっては、
利益を生む商品が手に入ったという意味で状況の改善です。このように、社会の富の総計が増加しなくても、
パレート改善は可能なのです。」
ttp://www.thinker.jp/tls/qa/a017.htm 法哲学ではともかく、経済学的には問題ありですね。
<社会の富>の変化は通常GDP(国内総生産)で表わされ、それは国内での中間製品を除く商品売買
の総額として算出される。ですから、古本売買もGDP要素で富を増加させることになります。
ただし上記は、ブルジョア経済学と同様に、効用と価値(交換価値)の区別がついていないという好例であり、
さらに<個人の満足度>を持ち出されると、もはや計算不可能。何がパレート改善なのか理解不能です。
292 :
やっぱコピペは俺でなくっちゃな。 :2008/02/21(木) 18:32:03
203 名前:OFW :03/02/23 21:39 社会全体の幸福を効用(利便性)で計り、 効用を富(財)で計り、 富を価値(貨幣)で計り、という計測は、 前者の内包量(可能量)を後者の外延量(実在量)で計ることだが、それが妥当だとみなされる根拠は、後者 が前者をもたらすための条件(条件とは実在的可能性の謂い)になっていると考えられるが故。 しかし一方において、無用なものがもたらす幸福があり、他方において、富が限度を超すと不効用(無駄な余剰) が生じるから、計測にも限界がある。 そして何よりも(経済的)価値(利益)最大化原理の下では、未来の効用(価値)を現在の効用の代わりに置 くから、効用が最大化(飽和)することは、原理的にあり得ないだろう。そこから、<満足>を知らないビジネス (忙しさ、商売)社会の成長神話も生まれた。 労働(価値を形成し、効用を作り出すもの)の立場こそが、効用原理の真理であり、社会をそれ自体として 存立させる、効用の根拠である。
293 :
やっぱコピペは俺でなくっちゃな。 :2008/02/21(木) 18:35:15
204 名前:OFW :03/03/01 09:34
>>1 >現在の自由主義の基盤を成す功利主義
とは、ミルの唱えた自由主義と功利主義との結合に由来するだろう。
それは「個人の自由は最大限尊重すべきである。ただし他人に害を与えない限り。」という<個人の自由>
に対する<社会の必要>からの制約を正当化する理由付けであり、功利主義が自由主義の積極的基盤
になっているわけではない。
そこでは、“同等な”複数の<個人の自由>間の衝突が功利主義的に調停可能であるかのように説かれるが、
実際にはある行為とその他者への影響とは“不等な”ものであり、比較不可能なものであるから、優先順位づけ
は常に第三者(例:“公共”の僕たる政府や裁判所)の恣意的判断に任されることにもなる。
「自己に係わることは自己のみが決定すべきである」との自由の原則も、社会の中では<自己に係わること>
はすべて<他者に係わること>でもある以上、それを貫くためには、社会から出て行かなくてはならないだろう。
確かにそれが市民社会という非ー社会(私的社会)であるが。
幸福を自由に置き換えても、功利主義は常に何が幸福、何が自由、何が社会か、という本質やその条件に
対する考察からは程遠く、市民社会の俗っぽい世間知や打算を原則化しただけのものでしかない。
それは既に(力ずくで)獲得した自己の自由(実は恣意)や幸福(実は所有)に対して「他人が手を付けるな」
と叫ぶだけである。
294 :
やっぱコピペは俺でなくっちゃな。 :2008/02/21(木) 18:36:59
205 名前:考える名無しさん :03/03/01 10:40
>>200 それはパレート改善への批判ではなくて、古本の例が不適切であるという
批判でしかないと思われ。
295 :
やっぱコピペは俺でなくっちゃな。 :2008/02/21(木) 18:40:01
296 :
やっぱコピペは俺でなくっちゃな。 :2008/02/21(木) 18:42:31
211 名前:OFW :03/03/23 05:49 さて、スレも上がってきたので、現在の世界最大の関心事である<戦争>について、功利主義的に 問うてみよう。 つまり「戦争の効用は何か?」である。より具体的に言えば、「もしそれが最大多数の最大幸福を もたらすならば、戦争も容認される。」という主張について、それを是認できるか否か、ということである。 まず、確かに戦争は一部の人間にとって有用である。ざっと上げてみると 1.職業軍人にとって・・・彼らの職業自体(存在理由)であるから。 2.戦争で儲ける商人にとって・・・大きなビジネスチャンスであるから。 3.当事国の為政者にとって・・・自らの権力の維持と拡大に結びつくから。 4.当事国の国民にとって・・・いわゆる<国益>なるものがあるから。 5.それ以外の人間にとって・・・暇つぶしのネタになるから。 などがあるだろう。 ある事柄の正否はそれ自体ではなく、それが齎す帰結や効果から判断すべきである、という功利主義は 物事の倫理的・政治的判断を損得勘定に変えるが、戦争の損得計算は、諸個人の生命(無限数)を 諸国家の共同性(複数)そして人類の共同性(単数)に集約していくだろう。個は類である(ヘーゲル)。
297 :
ヴォケ!コピペなんぞ誰でも出来るんじゃい。 :2008/02/22(金) 19:31:37
212 名前:OFW :03/03/23 12:11 そこで次に、上記1.職業軍人にとっての戦争の効用について。 「常備軍は国の守り」とはよく言われるが、「国家の効用は何か?」と問えば、まずアダム・スミスの <夜警国家論>が出てくるだろう。 つまり、個人(市民)の生命と財産を国内外の簒奪者から守るために、国家が必要ということであり、 具体的にその任に当たる者が、国内的には警察、国外的には軍隊というわけである。 市民は国家を自己の生命、財産の保全のための手段として捉え、軍人という<人間の効用>を 最大限に引き出そうとする。 戦争において最も安価なのは人間であり、功利的な幸福計算においては、兵器や他の資源に比 して兵士のコストは殆んど無視できる程であろう。 一方、軍人にとっては、国家は一つの絶対的な実体であり、個人は国家に殉じるべきだという強固な 観念をもつ。 自由主義的な市民は個人主義であり、軍人はもともと全体主義である。 その点で「自由主義国家」とは自己矛盾であり、それを調停すべき功利主義的国家観も、軍人の 存在において、人間をモノ(消耗品)と見做さざるを得ないために破綻する。
298 :
ヴォケ!コピペなんぞ誰でも出来るんじゃい。 :2008/02/22(金) 19:33:07
219 名前:OFW :03/03/26 00:46
>>213 >アマルティア・セン
NHK教育番組「アジアの教育」でインド自由労働者学校の紹介をしていましたね。
極端な貧困の中でわずかな奨学金のおかげで教育を受けられるようになった子供が、
読み書きや計算を憶え、潜在能力を伸ばし、未来への希望を拡げるという話は、
<教育の効用>の無限性を示していて感動的でした。
終戦直後のアメリカン・デモクラシー、今いずこ。
299 :
ヴォケ!コピペなんぞ誰でも出来るんじゃい。 :2008/02/22(金) 19:34:36
220 名前:OFW :03/03/26 00:48
>>214 >政治はすべて「結果責任」であり、合法性や手続き的正当性は、究極的には望ましい
>結果をもたらすための「手段」に過ぎない。
いわゆる「目的のためには手段を選ばず」とは、原因ー結果連関を目的ー手段連関と混同する
ことからくる誤謬でしょう。
たとえば、現在進行中の戦争(“自由のための戦争”)に関して「それが民衆の解放をもたらすが故に、
この戦争は正しい。」と言われるが、そこには<戦争>という原因が<民衆の解放>という結果を
引き起こすかのような錯覚(いわゆる結果論の誤謬)があるわけです。
政治“力学”とは人間の盲目的自然性(物理性)に留まる立場であり、ライプニッツの<自己原因>の
立場や、<自己実現>(自己の真理性を証明する過程)の立場に及ばないもの。
手段とは目的の実在的可能性であり、現存在という形式における目的自身をいうから、
目的と整合的でない手段は何ら手段ではない。そのことは、件の言明が、戦争の“真の目的”を覆い隠すための“偽りの目的”であることを、論理的に逆照(反証)している。
300 :
ヴォケ!コピペなんぞ誰でも出来るんじゃい。 :2008/02/22(金) 19:44:56
221 名前:OFW :03/03/27 04:05
次に、上記(
>>211 )2.商人にとっての戦争の効用について。
およそ商人は功利主義者の鑑と言うべき存在であり、事柄自体の是非よりそれがどれだけの<利>を
もたらすかという点に関心がある。
特に軍事産業にとっては、自らの市場を活性化させる戦争が望ましいのは、自明である。戦争は国家の
専権事項であり、国家政府は軍事産業の唯一の顧客であるから、軍事産業が国家に働きかけるのは、
国家を自己の利益に適うものにするためであり、「国民にとって平和が望ましいなら、そのための手段
として戦争が必要である」という論理は、<平和と戦争の等価交換>として、優れて功利主義的・
ビジネス的な発想と言える。
かっては、利を超えた精神的価値(例:倫理、正義)が尊重され、政治には<利>ではなく<義>や
<道理>が必要とされていたが、ビジネスマン(資本家階級)がその代理人を通して政治を執行するように
なると、大義自体が営利の手段に変容し、自己にとってどうでも良い“戦争の大義”も、大衆を動員するため
に有用なイデオロギーとして利用することになる。
その点で、“大義なき”戦争とは、“等価なき”交換(略奪あるいは搾取)と同様、隠れた計算を美辞麗句で
粉飾する余裕すらなくなった証しである。
301 :
ヴォケ!コピペなんぞ誰でも出来るんじゃい。 :2008/02/22(金) 19:46:58
225 名前:OFW :03/04/06 15:40
忙しいので、久しぶり。
>>223-224 (214さん)
>目的の如何は、考慮の外である。
功利主義も一つの実践倫理である以上、正しい行為とは如何なるものか?」との問いに解答(行為の指針)
を与えようとして、「主体の行為が引き起こす結果が望ましいなら、当該行為は正しい。」と言い、
「望ましい結果が最大になることを、行為の目的にせよ。」と主張する。
つまり、功利主義は行為自体ではなくその目的を考慮の内に取り込んだ点では、他の倫理学説以上
と言えるでしょう。
問題は、個々の行為の直接的な目的と、多くの媒介が必要なその一般的帰結とが混同されて、
たとえば<自由のための戦争>などという欺瞞を許してしまうその近視眼性(戦争の手段化・有用物化)
にある。
>果てしなく続く「解釈」と「論争」があるだけである。
解釈の相対性は解釈者の相対性であり、客観的(絶対的)な根拠がある。
302 :
ヴォケ!コピペなんぞ誰でも出来るんじゃい。 :2008/02/22(金) 19:49:49
226 名前:OFW :03/04/06 15:41
次に、上記(
>>211 )3.為政者にとっての戦争の効用について。
国民国家(nation state)とは民衆(people)の国民(nation)への編成の定立であり、
自然的(native)な住民は非自然的な国家(state)において初めて主権者たる自己
を定立する。
それは同時に、各個人が自らの主権を国家代表(為政者)に全権委任(譲渡)する
行為により自らの主権を立てる、という矛盾である。
外に向かって主権を宣言することは、内に向かって主権放棄を宣言することであり、
“国家の名の下に”すべての国民は統合される以上、国家を握る者は全国民を握る
ことになる。そこに為政者にとっての<国家の効用>がある。
しかし、主権国家が実在する、つまり区別された絶対的で無制限な自己決定権が
複数あることは上記の矛盾の現れであり、世界は常に不安定な状態の中に置かれ
ていることを意味する。
かくて、国民連合(united nation)は世界政府(単一の支配)に向かわざるを得ないが、
それは既に存在する合衆国(united states)の量的拡張(帝国化)の威力に対抗できない
だろう。
何故なら、主権は国家において初めて現実的である以上、国家なき国民など存立し
得ないから。
「民主主義と言っても、国家に過ぎない。」(レーニン)
303 :
ヴォケ!コピペなんぞ誰でも出来るんじゃい。 :2008/02/22(金) 19:51:48
227 名前:OFW :03/04/12 04:06
次に、上記(
>>211 )4.当事国の国民にとっての戦争の効用について。
「国益」(national interest)とは曖昧な概念であり、政治的用語一般がもつ催眠作用を
良く示している。
それはまた、功利主義が現実政治に適用された場合の最初の表象でもあり、
「最大多数の最大幸福」とは政治的には「国益第一」と同義であろう。
何故なら、国家とは成員にとっては唯一絶対の全体(計算不可能な無限性)であり、
成員以外の者にとっては規定された部分(計算可能な有限性)であるという矛盾であるから。
実際たとえば、日本に功利主義を紹介し、自らも功利主義者であった官僚学者西周も、
人類平和という究極の目的のためには、現実に存在する国家間の戦争状態を利用して、
国家間の「彼併合呑併の事業」たる戦争を推進する必要がある、と考えた。
(
ttp://www.u-shimane.ac.jp/kikakuka/kikaku/contents/u-shimane/lecture_koizumi.htm )
人類の普遍的・共同的利益と国家の特殊的・排他的利益との間にある本質的対立を
単なる量的差異として等閑視する功利主義者にとっては、「国益」の最大化が人類の
利益の最大化であると単純に信じられているわけである。
304 :
ヴォケ!コピペなんぞ誰でも出来るんじゃい。 :2008/02/22(金) 19:54:22
230 名前:OFW :03/04/12 14:11
最後に、(
>>211 )
5.それ以外の人間にとっての戦争の効用について。
平和な日常に退屈している者にとって、自らが関わらない戦争は「リアルなゲーム」としての
娯楽的な効用があるようである。
そのことは、今回の作戦名「衝撃と恐怖」(“shock and awe”)が、開戦時に早速、利に聡い
某ゲームメーカにより商標登録申請がなされたことにも例証されている。
TV画面上に映し出される<仮構された現実>は、時おり挿入されるCMと同様にメッセージ化
されており、「正義と悪との最終戦争」として演出されている。
<自由の戦士>は<独裁者><テロリスト>を爆撃するが、実際にそこに居るのは、日々の
暮らしを営む住民である。
ライブカメラは戦場とPCでの目撃者の場所とがリアルタイムに地続きであることを示すが、
その結果、戦士自身が世界中の観客を前にした演技者として振舞う必要もでてくる。
(例:侵略国の国旗掲揚とその禁止令)
かくて、戦争ゲームとゲーム戦争との境界は不分明となり、実際の戦争の娯楽性(限界効用)は、
不特定多数の見物人とゲームメーカ(戦争仕掛人)の双方に最大満足(利潤)をもたらすだろう。
ゲーム化した戦争の開戦時に「ゲームは終わりだ。」(某大統領)と宣言することは誤りなのだ。
305 :
ヴォケ!コピペなんぞ誰でも出来るんじゃい。 :2008/02/22(金) 19:56:12
231 名前:OFW :03/04/12 14:12
>>228 >人類の普遍的戦争
とは何を指しているか分からないが、まず<戦争>とは国家間の全面的な武力衝突である、
という本来の定義から始めて、次に派生的な用法(例:受験戦争、情報戦争、
人間の原初的戦争状態)を考察すべき。
>>229 (功利主義者さん)
>単純には信じておらんぞ。
それはそうでしょう。
上では特に日本の功利主義者第1号である西周の思想(帝国主義列強間の戦争の正当化)に
即して述べている。
>シンガー
菜食主義を実践した御仁のようですが、野菜も生き物として苦痛があるから、随分と恣意的な
功利主義かと。
「釈迦が生類を憐れめと説法した時、自ら食んでいるゴマメの叫びにまで思い及んだか?」(埴谷雄高『死霊』、
字句どおりにあらず。)
306 :
革命的名無しさん :2008/02/24(日) 10:33:12
18 名前:Kurihara :03/03/04 01:24 あと、高校の政経で習うと思うが、所得の三類型というのがあって、この区別を覚えなければならない。 その三類型とは、労賃、利潤、地代、の三つである。 この内労賃は勤労所得とも呼ばれるが、その名が示す通り、それは労働力の支出の対価として、 労働者が受け取る所得だ。 対して、利潤とは商品の売買差額から得られるもので、これは労賃と所得の源泉を異にしている。 投資家が得る所得も株の売買差額から得られるものなので、これは労賃ではなく利潤所得の範疇 にはいるものなのである。 従って、投資家が「労働」しているというのは誤りである。彼が得ている所得は金融商品の売買差額 からの利潤を源泉としているのであって、それは労賃ではないからだ。 だから、投資家が自身の正当な「労働」の結果として利潤を得ているというのは誤りで、もし彼が労働 をしているのなら、彼が得る所得は労賃でなければならないが、彼が得ているのは、商品の売買差額 である。商品の売買差額から得るのは利潤であって労賃ではない。 従って、労賃を得ていない投資家はそもそも労働力を支出していない。
307 :
革命的名無しさん :2008/02/24(日) 10:35:03
19 名前:Kurihara :03/03/04 01:42 投資家が労働をしていないという理由を顕著に示す例として、彼が一夜にして億万長者になることもある というのがあるだろう。労働者が一夜にして億万長者になることなどあり得ない。いまだかつて、一億円 もの労賃が一夜に工場労働者に払われたことなどない。こんなことからも、投資家の所得たる利潤が労賃 と範疇を異にすることは明白である。 投資家だって「労働」をしているという言い草は、労賃と利潤の区別を曖昧にするものだが、ジョージ・ソロス の得た莫大な金を労賃だと思う人はまずいまい。 労賃、利潤、地代とは、資本主義社会の三大階級である労働者階級、資本家階級、地主階級のそれぞ れの所得の源泉に正確に対応しているが、投資家も「労働」をしているという言い草は、投資家を擬似的な 労働者に仕立て上げることで、労働者階級と資本家階級の階級差を隠蔽する常套のイデオロギーとして 機能する言説にほかならないが、もし、投資家も労働者なら、彼の得る所得は労賃でなければならないが、 彼の得ているのは明々白々に労賃ではなく利潤である。
308 :
革命的名無しさん :2008/02/24(日) 10:38:38
22 名前:Kurihara :03/03/04 02:01
普通は国家が資本に寄生するのですね。
例えば資本に法人税を課税して、収益の横取りを国家はするわけだから。
だから、資本原理主義者であるハイエクなどは国家の極小化を要求するわけです。
26 名前:Kurihara :03/03/04 02:48
あと、今まで述べたことは東大名誉教授で経済学者の伊藤誠氏の経済理論を忠実に踏まえているので、
決して自前の経済理論などを語ったわけではない。
それでもなお僕に意見したいのなら、そこのところ注意するように。
40 名前:Kurihara :03/03/05 00:10
>>36 資本が寄生体であることはその通りだが、国家はそれに輪をかけた寄生体だということだ。
つまり、国家は寄生体に寄生する寄生体であって、だから、論理的には国家は資本を前提するものだ。
国家の二重の寄生性に比べれば、資本は相対的には十分生産的な存在だ。国家とは文字通りなにも
生産しない寄生体である。
シュムペーターは国家の本質は税であるといったが、国家とは税の搾取体以外の規定を実態的には
持たない本物の寄生体である。
資本は労働者の労働に寄生するものだが、国家は労働者と資本家を共に「国民」と一括し、そこに寄生
する包括的で無差別の寄生体(税の搾取体)である。だから、国家は始めにありき、と考えてはならない。
寄生体は寄生主の存在を前提するものだからであり、例えば、日本の奈良時代の律令国家体制はそもそも
中国からの政治技術の輸入で可能になったものであり、国家体制なるものが、そもそも外来品なのだ。
だから、国家がもともとあったというのは遠近法的倒錯である。それは本質的に外部的であり、寄生的なのだ。
309 :
革命的名無しさん :2008/02/24(日) 10:40:43
41 名前:Kurihara :03/03/05 00:23 律令国家体制を特徴付けているのは「租庸調制」という税の搾取システムであることはいまさら言うまでもない。 大宝律令などはそれに法的根拠を与えたものにすぎない。 43 名前:Kurihara :03/03/05 00:52 奈良時代に資本があったかといえば、商人資本はあったというべきだろう。 貨幣とは生産物交換から必然的に析出するものだとマルクスの価値形態論は教えるが、生産物交換の 起源は奈良国家よりもずっと古いものなのであり、従って、そこから石貨や貝貨が発生したのであって、 その原始的貨幣の蓄積を目論む商人資本家(守銭奴)の起源はそれと同じくらい古いというべきである。 しかし、奈良国家の租税制度は現物納税を主にしていたので、それはいまだ資本には寄生していなかった とは言えるだろう。 国家が資本に本格的に寄生し始めるのは、貨幣経済が一般化する頃からであり、だから、資本はそれまで は国家の寄生を受けずに自由に利殖をしていたのであって、そうであるからこそ、貨幣経済を汎通化させる ほどの力を蓄えることが出来たというべきである。
310 :
革命的名無しさん :2008/02/24(日) 19:25:58
なしてクリちゃんのコピペよ? クリちゃんって核○の元活じゃん。 反宇野のOFWと宇野マンセーのクリ。 ありゃ、もしかしてJimmyってクリか?
311 :
革命的名無しさん :2008/02/25(月) 13:11:47
>>310 だったら愉快このうえなし。
Jimmy=OFW説も何度か噴出したことがあったな。
312 :
コピペは開始したらお仕舞いまでやってね。 :2008/02/27(水) 08:52:39
309 名前:OFW :03/07/12 05:52 >108 :ふにゃぽん :03/07/11 09:43 >まず、階級、分業の廃棄のためには、高度な分業に裏打ちされた、高いな生産力が >必要なわけですが、その高い生産力を維持、発展させて行くには、やはり高度な >「専門技能」=「ほぼ一生を、その専門技能の習得、および発展に費やさねばならない >くらいの膨大な教育、研鑚」が必要になるわけで、結果として、「分業の廃棄」が非常に >困難になるように思われるのですが、ここはいかがでしょうか? 専門分野に必要な技能を習得するために「ほぼ一生を費やす」としたら、それは高い 生産力水準とは言えないでしょう。 一方で高度な道具=“簡単な”操作で高機能・高性能な作業を行う労働手段が人間の <非有機的身体>として存在し、他方で高度な精神性=個別的な形態のうちにある 普遍性の習得が容易であることが高い生産力です。 「今では企業秘密がなくなり、世界のどこからでも最新コンピュータの動作原理をマスター する教育プロ グラムを受講できるようになった。これもInternational Non-Business Machine のおかげだ。」
313 :
コピペは開始したらお仕舞いまでやってね。 :2008/02/27(水) 08:54:25
312 名前:OFW :03/07/12 10:03
>>310 (ふにゃぽんさん)
>半導体や回路に至るまで、構造を熟知している人間は少ない
それは能力の問題ではなく、社会的必要(労働時間)がないためでしょう。
>高性能にさせていくのは、そうした人間にしかできない。
コンピュータと通信の一つの結合技術である携帯電話に関して言えば、
その原理とそれを実現させる機構、そして両者を物理的・論理的に構造化させる
技術(移動体通信技術)は比較的最近(30〜40年?)のもの。
それは短期間のうちに飛躍的に発展を遂げたが、それが可能だったのは、
(昔のエジソンやグラハムベルのように)少数の専門家がいたというより、開発・製造が多数の
<非専門的専門家>に分業化され、それらの社会的総合(技術水準by戸坂潤)の成果
として現われたからでしょう。
携帯電話を実現させるために動員される多くの知識・技術は、個別に見れば、高校生レベルの
能力・教養でも十分理解可能な科学技術であり、理論やノウハウが公開されればされるほど、
誰でも短時間で習得し活用可能な環境になる。要は、各部門に割り当てるべき労働時間の
節約(エコノミー)の問題であり、素質や熟練の問題ではないでしょう。
314 :
コピペは開始したらお仕舞いまでやってね。 :2008/02/27(水) 08:55:33
318 名前:OFW :03/07/13 14:44
>>313 >俗流マルクス主義的スターリン主義者
どこからそうなるのかな?
>実体主義者
弁証法とは究極の実体を認めない立場、くらいは理解しておこう。
<実体>と<関係>とは相互反照する概念であり、関係の関係としての自己関係が実体
であり、実体の真理は<主体>だということです。
>宇野+広松=青木
右辺は知らないが、左辺の下らなさは良く知っているから、多分計算式が合っているなら
その値はゼロとなり、期待は殆んどできないな。
315 :
コピペは開始したらお仕舞いまでやってね。 :2008/02/27(水) 08:57:10
324 名前:OFW :03/07/15 23:06
>>321 (302さん)
>関係実体論
初めて聞く言葉(関係論でも実体論でもない)で、意味不明。
関係vs実体は対立概念であり、諸関係の総体としてその否定が実体であり、実体の諸現象
としてその否定が実在的な諸関係です。
>上の文章のとおりだから主体なるものは諸関係の複合にすぎない
誤解があるようですね。上で言っていることは、実体とは関係の関係(自己との関係、
自己内相関)であり、単なる諸関係の複合ではないということ、そして、主体とは
実体の真理(その概念に合致する存在)として、自己を知る(自己に向かっている)者である、
ということです。
例:「動物は対象に関係するが、人間は関係に関係する」(マルクス)。
「人間の本質とは、・・・その現実の在り方においては、社会諸関係の総体(アンサンブル)
なのである」(マルクス)。
316 :
コピペは開始したらお仕舞いまでやってね。 :2008/02/27(水) 08:59:05
328 名前:OFW :03/07/16 23:40
>>325 (302さん)
>この点で広松とOFW氏に違いは無いんじゃないかと。
私(OFW)は関係主義者ではないから、大いに違いがあるでしょう。
>どうして関係の総体が関係の否定になるのか
<社会諸関係>(<諸本質>と言っても良い)とは、社会の中で諸個人が取り結ぶさまざまな
関係のことであり、それには経済的、法的、政治的、芸術的、(狭義の)社会的等々、
種々のものがある。
それぞれの社会関係は社会科学の個別分野(経済学、法学、政治学等々)により研究され、
諸個人間の経済的関係、法的関係等々、固有の関係性(本質性)として定立されている。
しかし、すべての関係を現実に担う主体(実体にあらず)は諸個人であり、各個人はすべての
社会関係に関与すると同時に、それらの単なる寄せ集めではない。たとえば、もっぱら経済活動
だけを行う個人は「経済動物」と呼ばれ、伴侶から「あなたは人間ではない」と言われる結果
にもなる。
>マルクスが初期の個人実体説を清算した文言として
初期マルクスは「個人実体説」(用語自体耳慣れないが)論者にあらず。
317 :
コピペは開始したらお仕舞いまでやってね。 :2008/02/27(水) 09:01:35
334 名前:OFW :03/07/17 22:46
>>330 >マルクスの相対的過剰人口論
産業革命以来において失業者が増えてきた理由についての論議ですが、平たく言うと、
機械制大工業が発達するにつれてモノが安く作れるが、それ以上に労働力(人間)が
必要なくなり一文無しが増える、ということです。
−147−
>>331 >関係の第一次性論を批判しないで
取り合えず下記を参照下さい
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/ >人間は諸関係の結節点にすぎない
と本気で思っているとしたら、どういう事か、自身の言葉での説明きぼーん。
>ヒューマニスト
通常「人間主義者」「人文主義者」と訳されるが、多分マルクスには当てはまらないレッテルかと。
318 :
コピペは開始したらお仕舞いまでやってね。 :2008/02/27(水) 09:03:12
335 名前:OFW :03/07/17 22:50
>>332 >もっと詳しく説明してほしいところだけど。
そうですか・・・。たとえば「浮世のしがらみ」という言葉がありますね。
あるいは「義理と人情の板ばさみ」でも良いが・・・。
<義理>とは一つの人間の関係性(倫理)ですが、ある社会(江戸時代日本)に固有の、
社会(諸個人の集まり)の統合原理だった。
一方<人情>とは、当時において<ある普遍的なもの>(今で言えば「人間性」)として
意識され始めてきた、別の統合原理の萌芽でしょう。既に、義理では如何とも、し難い事柄
(例:男女間の恋愛)があったわけで、義理という倫理的関係は否定的なものと現われていた。
その場合、倫理だけを捉えると、その状況は説明できない。社会(個人の実体)故に個人
(そして個人間の関係)があり、個人と共に社会が動く。
あるいは・・・。現代は<職業社会>として、分業(労働の分割)が極限にまで進んでいる。
哲学者は哲学オンリー、運転手は運転オンリーだが。
・・・結構酔っているので、本日は、この位で失礼をば。
319 :
今やろうと思ってたのになぁ。 :2008/02/27(水) 18:17:08
341 名前:OFW :03/07/18 19:32
>>333 知的啓蒙の徒として発言している積もりですが、インチキ思想が大杉。
>>338 >本質と現象、原因と結果の連鎖
本質と現象は連鎖関係ではなく、反照関係です。
また<相互作用>とは実体間について言われる概念であり、本質と現象は相互作用しない。
>ホーリズムの立場の広松的表現だろう。
関係主義の帰結がホーリズム(全体論、全体主義)とは、反ー弁証法的(対立物への無媒介的
な転化)で面白い。何故なら通常、全体主義とは実体主義の一種と考えられているから。
例:日本民族とは個々の日本人の底にある悠久の実体である(民族主義者)。
関係(媒介性)の一次性(無媒介的な直接性)という矛盾の現われかと。
>質料は形相が現実のかたちを得るための条件という程度
「霊魂が現実のかたちを得るために、肉体という条件を必要とする」とは唯心論。
森は森の木が集まって形成されるが、森の木を離れて森はない。
<森の形>は種々の樹木間の相互作用により規定され、変化する。
320 :
今やろうと思ってたのになぁ。 :2008/02/27(水) 18:20:24
342 名前:OFW :03/07/18 19:33
>>339 >機械的連帯から有機的連帯への図式
義理とは有機的(前近代的)であり、人間愛とは機械的(近代的)とも言えますね。
本来の機械は生物(有機体)より後世に現われたのは確か。
>社会と個人が相互に媒介されていると言ってるだけにしか思えませんが。
上記の文だけ取ればそうでしょうが、諸個人(実在的部分)が先です。
>OFW氏も広松も同じヘーゲリアンであり、社会有機体説である
<ヘーゲル主義者>とは如何なる内容かな?
少なくとも、私(OFW)もヘーゲル(精神論者)も社会有機体論者(社会=一つの有機体)ではない。
321 :
今やろうと思ってたのになぁ。 :2008/02/27(水) 18:22:07
320の続きでしゅ。
>>340 >この「社会」って、ホーリズム的な全体と違うんじゃないの。
全体は存在しません。
社会は複数の主体から構成され、維持され、発展する相互交渉の開かれた場(空間性)として表象
できるでしょう。
>円環的な閉じられた構造に対する、ドゥルーズとガタリの批判
<円環的構造>は一定の自己同一性を定立しますが、無論、永久機関は不可能であり<、
現実の構造は常に開かれたもの(例:蒸気機関の螺旋構造)。
322 :
今やろうと思ってたのになぁ。 :2008/02/27(水) 18:22:49
349 名前:OFW :03/07/19 11:28
>>343 (340さん)
>ドゥルーズとガタリに近い
そうでしょか?脱構築主義者には根無し草(デラシネ)の退廃性が漂い、成果を生まない自己
(知識人階級)のアリバイ作りしか見えないが。
>>345 >直接に相互作用にかけてません。
了解デス(そうかなともオモたが)。
>質料因の位置づけが、おそらく関係主義を批判するうえでの重要論点だ
たとえば、廣松氏お好みの<紙の上の模様→老婆あるいは若い女性>とは、それ自体外的な
関係(形態)ですね。有機体において質料の形相化が客観的に現われてくる。種子が発芽して
枝葉を広げ、花を付け、実を結ぶ、という自然過程は、可能態としての質料が現成態としての
形相に推移する形態転化(ヘーゲル流推論w)ですが、質料の無限の可能性(生物の多様性)
は環境との相互作用により、独特の形相を創発的に生むことがある。
それは、「始めに関係ありき」ではなく、新たな関係性の歴史的創造と言えるでしょう。
323 :
今やろうと思ってたのになぁ。 :2008/02/27(水) 18:24:03
350 名前:OFW :03/07/19 11:28
>>346 >こういうことを書くと、普通ヒューマニストと言われるけど。
「実存主義はヒューマニズムである」(サルトル)かな。
本質存在ではなく現実存在(実存)を見よという実存主義は、むしろ現実の諸個人の姿
(社会的実存)を見ない、中産階級の善意のイデオロギーでしかない。
>いったん社会的文脈ができて解釈学的堂々めぐりが始まると、そこまで登るのに必要
>だった梯子は捨てられるわけ。
なるほど、細かい内容は措いて、言いたいことは分かる。
ただし、「人間は常に自己から始める」(『ドイツ・イデオロギー』)ではないが、誰でも直接的経験
から始めて客観的認識に至るものです。
その上で逆に、自己の辿ってきた道を反省(追思惟byヘーゲル)する。
それが世界の論理的な“再”構成(主観的解釈ではなく客観的説明)ですね。
そこでのポイントは主観(主体)の複数性です。つまり、客観は一つだが、その定立のためには複数
の主観が必要である、ということであり、決して<共同主観>など存在しないのです。
それがあると錯覚(廣松流に言えば錯認w )するから、神、民族精神、国家、超人等が登場する。
324 :
革命的名無しさん :2008/03/02(日) 00:38:10
325 :
革命的名無しさん :2008/03/03(月) 09:41:12
長々と誰も読まないカキコをゴクローサンともいいたくないな。 短文でズバリとかいてくれ。
326 :
B75 ◆LgNBT1a0O6 :2008/03/03(月) 10:29:32
>325 マルクスにも言ってくれ。悪文にも程がある('A`
327 :
革命的名無しさん :2008/03/03(月) 10:38:17
>326 向坂にも言ってくれ、悪訳にも程がある('A`
328 :
B75 ◆LgNBT1a0O6 :2008/03/03(月) 10:41:56
代々木系の本の訳もあれだが、サキサカしぇんしぇーもなのか。。。
329 :
やる時は、仕舞までやってね。 :2008/03/03(月) 19:20:10
352 名前:OFW :03/07/20 23:27
>>351 >これだけではベルグソンみたいのに取り込まれうるわけで。
無論、あくまで質料vs形相という抽象的対立の自然界での例デス。
>革命的質料主義の立脚点をさぐる
「革命」とは喚情的効果(byI.A.リチャーズ)が強いだけの言葉かと。
>現実の諸個人が社会形成の出発点であるからこそ社会を根底から変革
アリストテレスも、実体とは形相と質料の統一としての個物であるとして現実態を重視したが、
社会の主体(実体の真理)は奴隷だった。
「主人が主人であるのは、奴隷が主人に対して奴隷として振舞うが故。」
>高度に物象化が進んだシステムにおいても(おいてこそ)言える
映画『マトリックス』のように、<システム>に支配された人間が反逆を企てるというテーマは
ハリウッド映画お好みの一つであり、大衆の疎外感を代償的に満たす商業戦略は成功している
と言えますね。
しかし、そこにあるシステムの実体視とヒューマニズムはそれ自体幻想的なもの。
何故なら、システムとは<それが在ると思い込む時にのみ存在する>ような全体(つまり仮象)だから。
資本主義的価値システムも同様です。
330 :
やる時は、仕舞までやってね。 :2008/03/03(月) 19:22:25
353 名前:OFW :03/07/20 23:28
>>351 (つづき)
>主観が思惟を基盤にしてるかぎり、対象に外面的であるという思惟の限界は免れえないわけで、
>それゆえ複数の主観が要請され、共同主観性論になってしまう
論点は「ヘーゲル主義の認識論如何」でしたが、認識論が言語論的転回を遂げて進行中なのは、
それなりの必然性があるでしょう。思惟は常に言語において現実的な働きですから、それ自体複数の主観に
おいてのみ成立する対話(弁証法)的な活動だということです。
認識は主観とその対象(実在)との関係としてあるが、対象性の転回が起きる地点では他の主観(主観
の他在、否定)が必要です。
共同主観と呼ばれるものは止揚された(大文字の)主観としての表象であり、実在の経験的主観では
ないという事情は、言語論的には<観念的な自己分裂>(by三浦つとむ)と呼ばれています。
>この点で、「生産の過程としての自然」こそが実在的な連関だと主張し、間主観的関係に対置した
>ポストモダンに学ぶ点はあると思われる。
間主観的関係と実在的連関とが如何に対置されるのか、今一つ不明。
331 :
やる時は、仕舞までやってね。 :2008/03/03(月) 19:25:31
359 名前:OFW :03/07/21 19:56
>>354-355 (ザハトホ実存主義者さん)
>現実は、・・・ある一つの体系に完全に還元する事はできない。
>>352 等で言っているのは、まさにそのこと(イデオロギー=観念論的解釈&体系的全体存在の否定)だが?
>民衆の現実を置き去りにすることができた
具体的に、どのような現実を指しているのかな?
>抽象的な議論をいくら繰り返したとしても、その議論が具体的な社会に密着していないなら、それは何ら実践的
>な意義を持たない空疎な議論
具体的に、どの理論を指しているのかな?「具体的なものとは抽象的なものの結合である」(トロツキー)であり、
社会という最も具体的な存在の解明&止揚には、高度の抽象力が必要。
>具体の生産点での諸問題の具体的な解決を、体制内化する機関
具体的に、どの機関を指しているのかな?
332 :
やる時は、仕舞までやってね。 :2008/03/03(月) 19:26:50
363 名前:OFW :03/07/23 05:42
>>360 >般若心経の世界
「色即是空」ですか。
「実体の真理は主体である。」とは<即>という直接的な関係ではなく、最高度の媒介関係(必然性の真理
は自由である)を言います。
>社会形態には実体がないという。
そんなことは言っていないが。仮象は必然的な仮象(現象)です。
>主観的な取り違えとは別に、客観的転倒も存在する
むしろ、客観的な諸条件により主観的な取り違えが起きる、でしょう。
例:社会的な生産が私的に行われるとき、物象化は必然的なものとなる。
333 :
やる時は、仕舞までやってね。 :2008/03/03(月) 19:28:24
364 名前:OFW :03/07/23 05:45
>>361 >『イデオロギーとしての技術と科学』
は未見ですが、確かに“マルクス主義者”ハーバーマスが労働に言及しないのは、ホルクハイマー『道具的理性批判』
以来のフランクフルト学派に共通する表面的な労働観(近代的技術主義という前提)に由来するかと。
その点で、自然に向かう労働と自己形成との必然的な結びつき(例:主人vs奴隷関係の止揚)を押さえている
ヘーゲルの方が深い。
>「対話」によって共通了解あるいはフュアウンスがもたらされたとしても、それが知と存在の一致である保障がある
>わけではない。
無論、真理は多数決で決まるような事柄ではないが、誤謬(非真理)を必然的契機とする運動であり、存在の
普遍性に向かう知にとって<他者の知>が必要だということ。
>はじめに行為ありき、というのがポイント。
はじめに対象的行為ありき、でしょうね。
334 :
やる時は、仕舞までやってね。 :2008/03/03(月) 19:30:30
372 名前:OFW :03/07/25 02:55
>>368 (あちょーさん)
>主観をいくら集めても間主観になるだけで、真の客観にはならないです。
確かに「複数の主観」と言うと主観が数えられるような誤解を生むが、本来<数えられるもの>は実在と呼ばれ、
個物、個体あるいは個人などを指します。それらの共通の特徴は単位として分かたれた部分であるということです。
一方、主観は実在しません。それは知る働き(主体)であり、主観が存在するもの(対象的ないし客観的なもの)
と考えられた場合、その特徴は<一者>として分かち得ない全体であるという点にあります。その存在性格は、
実在と区別して、本質存在と呼ばれます。
>共同体の連帯協力によって得られた認識は共同主観です。
たとえば共同体とは実在ではなく、本質存在です。
それはある全体的なものを指しますが、複数の共同体(他の共同体)が存在するとは、それらが既に全体ではなく、
諸部分であることですから、連帯協力は間主観であって、共同主観ではないでしょう。また、それらの連帯により得
られた(対象化された)認識内容は一つの客観ですが、認識主体(主観)は複数ですね。
共同主観の例としては国家(例:一つの日本)がある。
335 :
やる時は、仕舞までやってね。 :2008/03/03(月) 19:32:06
373 名前:OFW :03/07/25 02:56
>>369 (あちょーさん)
>マルクスは、労働者と資本家に分けて考え
たのは、主観的(安易?)な認識ではなく、客観的な根拠に基づくものです。
考えを「安易な考え」と「根拠のある考え」に分けて考えることが、哲学では重要です。
>上に立つ人や資本家の言動
言葉を発することも、一つの労働(働きかけ)ですから、その限りでは、資本家も労働している。
資本の反対語は賃労働(特殊な方式における労働)であり、労働一般ではないということです。
336 :
やる時は、仕舞までやってね。 :2008/03/03(月) 19:33:48
380 名前:OFW :03/07/26 04:41
>>377 (あちょーさん)
>性質、概念、役割といった・・・複数の本質存在
そうですね。
本質は分かち得ないが「或る本質」(あるいは諸本質)とという場合、それは既に分類されて複数になっている。
分類とは<類の分割>であり、それぞれの本質存在は特殊な<種>(種類)と呼ばれます。
アリストテレスはそれらの諸本質を数え上げて<カテゴリー表>(範疇表)というものを作り、カントが認識
(正確には判断)の基礎として、再び取り上げた。最高レベルのカテゴリーは、<質><量><関係>
<様相>という4つの本質存在です。
しかし彼等は、それら相互の関係は何なのかという点については明確にしなかった。
ヘーゲルが類ー種ー個の相互関係に基づいて、諸本質存在の必然性を明らかにしたのが『論理学』です。
>細胞の集合である人間の主観も共同主観であるといえます。
集合体を形成する個々の細胞が、勝手に(主観的に)「私は一個の主体である」と考えて活動したら、
人間の体はバラバラになってしまうでしょう。
最初に一つの胚細胞があり、細胞分裂して多くの子供の細胞になり、それらが集まって諸器官を作り、最終的
に一つの肉体(個体)ができる。
337 :
革命的名無しさん :2008/03/11(火) 11:20:13
チベットやネパールの仏教徒は難解なお経を読む代わりに、マニ車という 赤ちゃんをあやす時につかうオルゴウルのようなものをいつも手にして ひまさえあれば回している、一回まわせばお経100回読んだ効果があるそうで 過酷な生活環境に耐えられる精神安定剤の代わりになっているそうだ、資本論 共産党宣言なんてものにつまらぬ時間とられるくらいなら、マニ車作って 党員に配布(しっかり有料)したらいいと思う、資本論マニ車を手にする共産党員 はきっと絵になると思いますよ。
338 :
革命的名無しさん :2008/03/11(火) 11:27:18
キョーサントウパカニスルナ
339 :
革命的名無しさん :2008/03/11(火) 11:29:42
>>337 そんな封建蒙昧な前近代地域は一刻も早く解放してやらないとな。
340 :
革命的名無しさん :2008/03/11(火) 11:39:16
マニ車にはどんな文章を入れる? "Q.よくこの板で" だとあんまりだよなあ。
341 :
五体投地も楽じゃないよ。 :2008/03/12(水) 12:45:48
381 名前:OFW :03/07/26 04:42
>>377 (あちょーさん)(つづき)
>主観と共同主観は実在としては同じものです。
そうです。つまり、共同主観などは実在しない(表象に過ぎない)のです。
>マルクス主義が失敗したのはなぜでしょう。
「失敗した」でしょうか?たとえばイラク戦争はまだ終わっていない。アメリカ資本主義は成功した?
>>379 >「資本家」と「労働者」に分けた客観的な根拠
他人の労働を自己のものに(私有)するか、自己の労働を他人のものにされるか(疎外された労働)
か、です。つまり、私有財産(生産手段の私有に基づく過去労働の領有)が資本の根拠です。
342 :
五体投地も楽じゃないよ。 :2008/03/12(水) 12:47:35
388 名前:OFW :03/07/26 23:29
>>382 >株式会社の場合
「資本家とは資本の人格化に過ぎない」(マルクス)であり、資本主義的階級対立の特徴は、
主人と奴隷の関係(人格的支配)ではなく、モノ(カネ含む)と人との関係(物象化的支配)
です。
その点では、資本家のいない企業(“法人”)の方が、資本システムの理念型(笑)に適うとも
言える。
また、日本的な株式持合い制度は、系列化や企業グループ化を目指した独占(競争の制限)
の特殊形態。極限的には、国家独占に至るかと。
>「マルクス主義が失敗したかどうか」は別でしょう
<共産主義>(マルクス主義)と言う場合、まず19世紀以降の世界史を貫く一つの客観的な
運動(傾向性)を指し、次にその具体的な現われ(思想、事件、政治活動等)を指します。
つまり、イラク戦争も共産主義とは別物ではなく、その世界史的な一環であり、個々の成否、
現象形態を超えて、現在進行中の歴史総体の中に位置づけて考えるべき、という趣旨です。
343 :
五体投地も楽じゃないよ。 :2008/03/12(水) 12:49:21
389 名前:OFW :03/07/26 23:30
>>383 >イラク特措法
<テロとの戦い>とは、冷戦後において、帝国主義(それはレーニンの時代から少しも進歩
していない)的な侵略(国家による非合法的暴力=テロ)を正当化するための新機軸に
過ぎない。しかしその言葉には、確かにイデオロギー固有の幻惑的効果があり、
少し変だと感じる者も明確に反対の根拠を対象化できない。批判的知性が必要な所以です。
>マルキストとしてそんなんでいいんですか?
「労働者階級の解放は、労働者自身の事業でなくてはならない」(マルクス)とは、
マルキストが良く引用する言葉ですが、これまでのマルクス主義の歴史的経験から学ぶべきことは、
カクメイ家、セイジ家、チシキ人、ヤクニン等は目立ったが、肝心の労働者自身が主体として、
殆んど不在だったということでしょう。そして、現代は高度情報化社会(洗脳社会?)であり、
啓蒙(お望みなら思想闘争と言っても良いが)は、以前にも増して重要なマルキストの課題かと。
無論、最も良い自己啓蒙は、労働現場と階級闘争の中にあるわけですが。
344 :
五体投地も楽じゃないよ。 :2008/03/12(水) 12:50:36
394 名前:OFW :03/07/27 17:12
>>386 (あちょーさん)
>バラバラでない統制された集合体を形成する
繰り返しますが、ヒトのような多細胞生物において<個体発生>は一つの胚細胞(卵細胞)から
始まり、多くの細胞分裂の成果として、一個の個体が形成される。予め多くの細胞主体があって、
それらが集合したのではなく、個体形成の過程が<主体形成>の過程であるわけです。
>共同主観も存在するもの(対象的ないし客観的なもの)
表象(主観的なもの)として存在すると言うならば、正しいでしょう。
>通貨より信用できる政治があれば通貨はなくなると思います。
確かに誰でも(女子小学生ですら)政治家の言うことよりおカネの言うことを聞くようだから、
未だそういう政治は存在していない。荻生徂徠『政談』ではないが、
武士(=かっての政治家)よりも商人の方が実権をもつ社会だということですね。
>>393 >労働者階級がマルクス主義を必要としていないのでは?
何より必要としているのは、カネでしょうか。「それ(貨幣の秘密)は自分達の労働のことだ」
という知恵は、必要ないかな?
345 :
五体投地も楽じゃないよ。 :2008/03/12(水) 12:52:01
397 名前:OFW :03/07/28 04:50
>>395 >マルキストが100年以上同じことを「啓蒙」し続けて今の結果がある
古くからいわゆる<外部注入論>という考えがあります。
それは、「労働者は自分達だけでは社会主義的意識を得られず、
ブルジョア階級の知識人によって、階級外からそれを伝えられなくてはならない。」
というもので、カウツキーが述べ、組織論・革命論としてはレーニンも継承したと言えるでしょう。
チシキ人やカクメイ家の指導的役割の強調は、
いわゆる「プロレタリアの前衛」といったエリート主義や、
「偉大な首領」といった個人崇拝の源泉ですね。
100年以上経ち、いまだに某“前衛”党などは同じことをし続けているが、
啓蒙とは程遠いもの。
346 :
五体投地も楽じゃないよ。 :2008/03/12(水) 12:53:27
398 名前:OFW :03/07/28 04:52
>>396 (あちょーさん)
>人類は統制された集合体を形成することは不可能でしょうか。
統制(control)された集合体とは客体であり、
それを統制する主体が集合体の外部に存在する場合、それは支配ー隷従関係と呼ばれます。
近代社会は人格的支配ではなく、<法の支配>を原則としているが、
実際には<貨幣の支配>ですね。つまり、マネーゲームのルールです。
>統制された社会
ではなく、自己統制する諸個人から形成された一つの社会、でしょう。
マルクスはコミューンについて語ったが、
“マルキスト”達はアリのような統制された社会(社会有機体説)を理想としているかのようです。
アリの社会とは、上に述べたように、盲目的な機械的全体が主体です。
>主観(例えば知る働き)を客観的に説明すること
は客観(モノ)ではなく、事柄(コト)として可能です。
概念的認識とは客観世界を事柄として対象化する働きです。
347 :
五体投地も楽じゃないよ。 :2008/03/12(水) 12:55:21
399 名前:考える名無しさん :03/07/28 16:49
>>397 >ということは、結局マルクス主義はこのまま先細りで消えてしまう、ということでしょうか。
400 名前:OFW :03/07/28 22:57
>>399 別にそうではなく、旧来の「マルクス主義」と呼ばれていた諸思想や諸運動形態が、
時代と共に変化してきたというだけです。
思想面で言えば、カウツキーのマルクス主義は社会民主主義になり、
レーニンのそれはボルシェヴィズムになり、スターリ二ズムになった。
それなりの必然性をもって、です。
しかし、資本主義と共に生まれた社会主義そして共産主義は、資本主義が抱える矛盾の反映、
その出生の秘密(ヘーゲル流に言えば真理)ですから、
資本主義が終わるまで消えることはないでしょう。
資本主義システムは、生産力を開発し過ぎたために、ますます自己制御能力を失い、
以前は成功したような、政治的国家による修正主義的調整あるいは統合も、
その効果が失われてきている。圧倒的な生産力(コミュニケーション含む)の発展を前にして、
歴史はもはや繰り返し得ないでしょう。つまり、啓蒙は必然的です。
348 :
五体投地も楽じゃないよ。 :2008/03/12(水) 12:57:09
402 名前:OFW :03/07/30 00:07
>>401 >どうなっていくんでしょうか?
スレが終わってしまいそうな質問(笑)。
マルクスと同様、私も預言者ではなく、すべては主体が決めることですが、
まったくの想像話として、敢て預言者風に・・・。
今回の9.11は非常に象徴的であり、「アメリカが崩れた!」というその衝撃は、
全世界の人々の心にも響いたはずです。
そのショックの反動は、当然ながらまずアメリカ自身に来たが、本当の敵が何なのかは分からず、
世界の至るところに潜む<テロ>に向かって、八つ当たり的な暴走を始めた。
まったく余裕を失い、確固とした世界戦略も無しにです。
恐らく、政治的には<アメリカ>が終わり始めたのは、確かでしょう。
特に現政権は、物事を単純化し「敵か、味方か」の二分法に変えてしまったから、
10年後の姿すら不透明なほど、世界を流動化させてしまった。かっては、
ファシズムと世界戦争というはけ口があったが、
もはやそれも禁じ手(1度目は悲劇、2度目は喜劇、3度目は死?)である以上、
「100年後の世界は間違いなく共産主義になっている」と思えるほどに。
349 :
転び歩きもいいけど、仕舞いまで決めてね。 :2008/03/16(日) 19:59:30
407 名前:OFW :03/08/02 06:55
>>405 >全世界がコントロールできること
サイバネティックス(現代流に言えば情報科学)の創始者の一人であるN.ウィーナーは、
世界の技術的なコントロール(制御)という課題を前に して、
<情報>という概念を発見し、「情報とはネガエントロピーである」と定義した。
それはコミュニケーションの伝達モデルと呼ばれている。
しかし同時に、人間と機械との相違点として、
「人間はノイズ(雑音)をシグナル(信号)化できる機械である」と喝破した。
まさに、伝達モデルに基づく閉じた会話(例:携帯電話の雑音的おしゃべりあるいは機械的な業務指示?)ではなく、
開かれた対話こそが、世界にネガエントロピー(秩序、理性)をもたらすものでしょう。
技術は必要であり、計画は重要だが、
モノの管理と人間の管理とを同一視する現状の世界(労働現場、管理社会)は、
ディス・コミュニケーション に支えられた、人間の物象化、システム化でしかなく、
自己制御(自律)が働かない無秩序(テロ)の世界と言えます。
一つのメインフレームではなく、冗長化された無数のネットワークを。
350 :
転び歩きもいいけど、仕舞いまで決めてね。 :2008/03/16(日) 20:00:08
419 名前:OFW :03/08/03 19:53
>>408 >物象化とは何が物象化するのでしょうか?
社会とは諸個人が諸関係を取り結ぶ場であり、
その相互依存関係(絆)は個人にとり、
本源的自然との関係を媒介する“第2の自然”(人倫)として個人に内在的な実体ですが、
唯物論の立場から言えば、
社会的諸関係の基礎には「自然と人間との永遠の物質代謝」としての生産があり、
<生産関係>が社会の土台をなすものです。
そして、社会的生産が私的に営まれ、
生産関係が生産物の交換を媒介にした間接的なものになっている場合、
個人の社会的本性(相互依存性)は人と人との関係ではなく、
モノとモノとの関係として現われる。
その事情を物象化と呼ぶのであり、
物象化するのは<諸個人(諸主体)間の社会的関係性>です。
そこでは、各個人はむしろ自己を自由・独立な排他的主体として表象し、
モノ(そしてカネ)を所有する限りにおいて、
社会的自立と威力を我がものに(私物化)できると表象する。
しかし実際には、物象化された社会の方が必然的な実体として、
偶然的個人を襲うということです。
351 :
五体投地を転び歩きとは失敬な! :2008/03/20(木) 15:53:17
420 名前:OFW :03/08/03 19:54
>>408 (つづき)
>内的確実性を捨ててしまうのだから、多数決以外に決まる事柄がない。
良心(倫理)なき社会はまず法状態に入るでしょう。
法の定立(立法)とは政治的行為であり、
政治とは公共性(共同性の疎外形態)を巡る 事柄(公事)です。
民主主義的な多数決は政治的国家(幻想の共同体)の登場において座礁することになるでしょう。
多数による非倫理は集団レイプにも走るが、非合法的な集団にも犯罪(反倫理)の共同性が必要だった。
「イッキイッキ!」の祭りと掟。
>他者の承認そのものが必要とされるゆえに必要とされている。
>共通了解ではあるが共同主観ではない
確かに本来の論点が不分明になっているようで、
共同主観なるものの認識論的当否(思惟と存在の一致の条件)を巡ってだったと思うが、
「承認」という社会的・倫理的な必要性はどこから来るのかな?
>そもそも他者なるものが認識可能なのか甚だ疑問である。
と言うより「他者との言語的コミュニケーションなくして認識なし」というのが、
独我論的な認識論を脱する言語論的転回の主眼では?
352 :
五体投地を転び歩きとは失敬な! :2008/03/20(木) 15:55:41
422 名前:OFW :03/08/04 21:24
>>421 >「(諸主体)」をテツガク的な認識主体と同一視する
意味が判然としないが、主体とは認識および実践の双方に関わる概念。
もっぱら認識する主体(テツガク者?)も、
もっぱら実践する主体(非テツガク者?)も存在しないないでしょう。
>認識論は哲学者の振る舞いに他ならず
「認識論」という言葉の用法に誤解(齟齬)があるようですが、
認識論=認識とは何かを問うこと、
あるいは、
認識に関する理論ということであり、
特定の主義主張(例:主観的観念論)を指しているわけではない。
科学的なあるいは唯物論的な認識論も存在します。
>精神指導の規則
とは如何なるものかな?
デカルトのそれ?
>認識論はしょせん独我論にすぎない。
同上。
独我論的でない認識論も、いくらでも存在する。
353 :
五体投地を転び歩きとは失敬な! :2008/03/20(木) 15:58:45
426 名前:OFW :03/08/06 22:16
>>423 >意識と存在の一致という課題を途中放棄し、共通了解の条件をさぐるだけ
そうではなく、
認識にとって(共同主観などではなく)主観の複数性(他者の知)が必要ということであり、
それで十分とは言っていない。
当然ながら、認識には認識対象が存在することも必要です。
その場合、「何を対象にしているのか?」という点が、認識論にとって極めて重要 な観点であり、
「認識が変われば、認識対象も変わる」(ヘーゲル)という<生成する真理>(真理の弁証法)
の現場を捉えるべきでしょう。
>>424 >間主観性論は妥当するがゆえに妥当する循環論法に帰着する
まず<妥当性>(思惟とある基準ないし体系との整合性)と
<真理性>(思惟と存在との一致)とは区別すべきでしょう。
また、たとえば「人は社会を認識するまえにすでに客観的に振る舞い、
社会を形成している。」(
>>361 )とは正しいが、
「人」とは、前段では(決して対象になり得ない)<主観>を、
後段では(実在的)<個人> を別個に指していることに注意。
それが間主観性という事態です。
354 :
五体投地を転び歩きとは失敬な! :2008/03/20(木) 16:00:54
428 名前:OFW :03/08/10 09:36
>>424 (つづき)
>だから20世紀に認識論は崩壊し、反科学論、ポストモダンが流行った
別に崩壊したわけではなく、言語論、コミュニケーション論等に発展したと捉えるべきでしょう。
自然科学(物理学)の分野での認識論的なテーマとしては、
量子力学における観測問題(例:不確定性原理、シュレディンガーの猫)があり、
また、相対性理論における観測問題(例:同時性の相対性)があります。
共に、<あるがままの客観>の直接的な認識可能性を否定するものですが、
別に科学的認識の客観性自体が疑われているわけではない。
むしろ、「反科学論」が出てくるのは、科学技術の圧倒的な成果を前にして、
その行き過ぎを説くヒューマニズムか、観念論派の哲学者が自らの対象(仕事)を奪われる恐怖か、
がその動機でしょう。
実際、<存在確率密度>あるいは<同時性の相対性>といった概念は、
生成的かつ構造的な自然の姿を示しているから、形式論理の集合論では片がつかず、
「可能的意味の世界」などという虚構に走ることにもなる。
355 :
団塊の連中って何でもやりッ放しなんだもんな :2008/05/01(木) 11:44:55
429 名前:OFW :03/08/10 18:24
>>424 (つづきのつづき)
>デラシネとか階級規定しただけでは、懐疑主義を批判したことになりません
いわゆるポストモダニズムは、ヘーゲルの形而上学的体系を批判したが、脱構築、差異の戯れ、
リゾーム(根茎)等の賞揚は、大地(自然)に根をもたない否定的な表象であり、そこには自然、
労働および唯物論に対する知識人(および商業ジャーナリズム)の「知の欺瞞」が感じられる。
本来の懐疑(蓋然的判断)とは以下のようなものでしょう。
「十八世紀の終わりまでのすべての幾何学者にとって、平行線は存在するのであった。・・・
本質的な懐疑の要素がこれらの人々とともに姿を現す。・・・
延長された非ユークリッド的展開が論理の点ではまったく満足なものであることをかいま見た・・・
実際、たんに矛盾が出てこないことが分かるだけでなく、ここで一つの開かれた演繹に直面していることが、
やがて感じられてくる。・・・
もし人が科学的精神の内面にまで立ち入ってその新しい弁証法を知りたいと思うなら・・・
相補的思考のこの史上最初の形成の中で自らを教育することが一番であろう。」
(バシュラール『新しい科学的精神』第1章)
356 :
団塊の連中って何でもやりッ放しなんだもんな :2008/05/01(木) 11:47:40
430 名前:OFW :03/08/10 22:02
>>424 (つづきのつづきの補足)
>第2に、主体が文脈に規定される循環に取り込まれてしまう。
まさに真理(思惟と存在の一致)とは具体的な過程であり、文脈に規定される主体的・実践的な事柄だということです。
>>429 の引用例(非ユークリッド幾何学の誕生)のように、科学者は実在
対象のうちに沈み、その中で思考を展開する。その場合、<実在>とは必ずしも合理的なものではなく、
それまでの理論では説明できない事象に出会った場合、そこに一つの問題論的(蓋然的)状況が発生する。
それは実在の判断を停止することであり、世界は仮のもの(仮説的対象)となる。
それは「もし○○ならば、□□のはずだが・・・」という推論への高まりであり、
真の対象および真の理論双方を巡る実験でもある。
コミュニケーション論的に言えば、指示は記述を必要とするということであり、
実在には(承認・妥当でなく)証明が必要だということです。
あるいはまた、政治論的に言えば、共産主義的政治とは、勝てば官軍ではなく、
その真理性を不断に証明しつつ進む<啓示の過程>でなければならないということです。
357 :
団塊の連中って何でもやりッ放しなんだもんな :2008/05/01(木) 11:50:32
431 名前:OFW :03/08/12 09:03
>>423 (つづき)
>これのどこが唯物論的なのか不明である。
唯物論を簡単に定義すれば、精神に対する自然の先在性ないし根源性を主張する思想、と言えるでしょう。
一方、心、意識、自我といった存在を本源的なものとする立場を広く観念論と呼びます。
認識それ自体は主観的なものですから、
<物質としての観念>という矛盾した観念を立てる思想(機械論的唯物論)などは裏返しの観念論と言えます。
「人間は、鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、
というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる。
人間ペテロは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関係を通じてはじめて人間としての自分自身に関係する。
だが、それと共に、ペテロにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、
人間という種属の現象形態として通用するのである。」(『資本論』第1巻第1章第2節注(18))とは、
良く引用されるが理解されることが殆んど無い、弁証法的唯物論の主張です。
358 :
団塊の連中って何でもやりッ放しなんだもんな :2008/05/01(木) 11:53:18
432 名前:OFW :03/08/12 23:12
>>425 (Kuriharaさん)
>ラカンとマルクスとの関係
現代日本では、引きこもりと共に、鬱病が一つの社会問題にまでなっているが、
社会の抑圧性を<エディプス・コンプレックス>や<去勢不安>(<欲望する機械>も含む)などで説明することは、
まったく見当違いでしょう。
「共産主義こそ、真の精神分析である。」(トロツキー)
確かに、ラカンの<鏡像段階>はヘーゲルの<主人と奴隷>と並行的であり、
>>431 の<ペテロとパウル>にも類似しているが、
精神病理学と精神現象学そして価値形態論とは対象領域も前提も異なるものであり、不用意な一般化は禁物です。
359 :
団塊の連中って何でもやりッ放しなんだもんな :2008/05/01(木) 11:57:28
433 名前:OFW :03/08/14 02:27
>>432 (つづき)
「精神分析学は社会の次元を捨象している」という批判はよく聞かれるが、
最小の社会である家族を原型にして自我の問題を扱っている以上、必ずしも当たっていない。
吉本隆明のように「フロイトは、対幻想と共同幻想とが逆立することを見なかった」という意見もあるが、
家族とは一対の男女プラス一人の子供という三項関係(核家族)が最小単位でしょうから、
家族には二つの対幻想が必要であり、共同幻想は家族幻想の延長でもある(例:国家)。
その点で、鏡像関係(母親のまなざしvs子供の私)という対自ー対他関係から始め、
そこに権威主義的な父親を介在させたラカンの視点は、結構鋭い。
確かに、オイディプス・コンプレックスという仮説は近代的家族の問題を古代にまで拡大した不当な神話に過ぎないが、
『アンチ・オイディプス』のように、専制国家(政治)とブルジョア(経済)家族とを「生産機械」「欲望機械」
(固有の対象をもたない機械)といった抽象的表象で平面化(脱領域化=脱コード化w)させることもできない。
フロイトがマルクス主義を評した言葉を借りれば「唯物論が足りない」と。
360 :
団塊の連中って何でもやりッ放しなんだもんな :2008/05/01(木) 11:59:55
436 名前:OFW :03/08/19 03:22
>>433 (つづき)
P.ジャネ以来、精神病(神経症含む)の一般的性格として、<現実との生きた接触の喪失>という点が指摘されてきた。
そこでは、極端な場合、自我は現実世界から引き下がり、現実との接点をもたない想像世界を立てることで、
現実からの影響を極小化、非現実化しようとする。
それに対して、ラカンは、世界を現実界、想像界、象徴界という三つに区分した。彼によると、
現実界(リアル)とはそれ自体決して認識できないモノの世界、想像界とは自我の回りに展開される表象(イメージ)の世界、
そして象徴界とは記号(シニフィアン)が織り成す世界である。
つまり「現実は認識できない」と考えるラカンは、自ら現実との生きた接触を失っており、
想像界あるいは象徴界の方を真なる対象とする倒錯に陥っているわけである。
ラカン流精神分析理論およびそのポストモダニズム的後裔が陥った混乱の原因は上記の観念論的な転倒にあり、
そこには現実的なもの(=働くもの)を恐れる小ブル知識人特有の自己欺瞞(両義性)が働いている。
そのイデオロギー性の暴露(精神分析)こそがまず必要であろう。
361 :
団塊の連中って何でもやりッ放しなんだもんな :2008/05/01(木) 12:02:16
440 名前:OFW :03/08/22 23:03
>>438 (SWさん)
論旨が判然としないが・・・
>現実は<そのまま>認識できない、が正確。
ラカンからの引用が不正確ということかな?
>カント以来繰り返される問題だ。
カントはまさに認識の媒介性を研究した哲学者であり、われわれの認識は現象を捉え得るが、
物自体にまで及ばないとの結論を下した。つまり、認識の媒介を把握しても、
現実自体の把握は問題ありとしたわけだが?
>現実への直接的接触は労働を媒介とする働きかけ以外にはない。
通常の認識論では、知覚を媒介にすると言われるが、それについては?
>たとえばラカンとジジェクは矛盾しない。
矛盾とは、実在の区別(差異性)ではなく、本質の区別(対立)の最高段階を言うから、
およそ具体的実在間に矛盾は存在しないのは自明の理。
>レーニンでも生きてりゃそうするだろうという政策であり革命だな。
銀行の国有化自体は国家資本主義でしかないことは、レーニンも了解済。
362 :
団塊の連中って何でもやりッ放しなんだもんな :2008/05/01(木) 12:31:18
442 名前:OFW :03/08/23 21:38
>>441 (SWさん)
>マッハの問題提起に対するマルクス側の回答
知覚に関する現象主義についての話なら、別スレにも少しだけ書いた。
知覚現象自体は主観的であり、たとえば3次元物体は正面しか見えないが、客観的には物体は3次元ですね。
認識とは世界の再構成であって、構成ではないということを忘れると、マッハ主義に陥るということです。
>「たまごっち」への批判
不勉強にて不詳。大衆心理と商業主義は表裏するが、土台は経済にあり。
>市場経済と自由主義という前提において、いかなる実効性をマルクス系から見い出せるか?
現代資本主義は、高度な生産力の発達に伴い、資本の蓄積および集中が極度に進んだため、
かってのフォーディズム流大衆消費やケインズ流の有効需要政策も十分な雇用を生まなくなっている。
余剰労働力の吸収を3次産業(サービス消費型産業)が引き受けることになるが、
貨幣欲に見合うだけの幻想的欲望と現実的雇用の創出は難しいでしょう。
363 :
団塊の連中って何でもやりッ放しなんだもんな :2008/05/01(木) 12:33:20
447 名前:OFW :03/08/26 22:38
>>443 (Kuriharaさん)
>ジジェクの「いまだ妖怪は徘徊している」
は未読ですが、旧ユーゴでの民主化運動に関わり、あの内戦を経験したマルクス主義者なら、
イデオロギー分析より政治経済的な視点が欲しい。
「ユーゴスラヴィア共産主義者同盟における多数派を金縛りにしたものこそ、
こうしたチトーの遺産への表面的な忠誠であり、それがミロシェヴィッチに政治的イニシアチブを与えてしまったのだ。」
「チトーの遺産において本当に救済の価値あることを真に擁護する唯一のもの、
それは九〇年代初頭における独立ボスニアのサラエヴォ政府だったのだ。」
(『「テロル」と戦争』ー<現実界>の砂漠へようこそ)
とあり、チトー主義(分権的連邦主義、非同盟主義、労働者自主管理)を擁護しているように見えるが、
第2次石油ショック→対外債務の増大→国家権力の強化→民族主義の台頭→チトー死後の民族紛争、内戦
そして西側の干渉という、資本主義政治経済の力学をどの程度“リアル”に踏まえているのか不明。
マルクス主義は、民族対立の根底に階級対立をみる立場です。
364 :
団塊の連中って何でもやりッ放しなんだもんな :2008/05/01(木) 12:35:27
365 :
団塊の連中って何でもやりッ放しなんだもんな :2008/05/01(木) 12:37:28
>>459-460 (SWさん)
>金持ちと貧乏人の食事に関する志向の違いとして
多分、人間の欲望は単なる動物的な本能ではなく、文化的に変容されたもの、との部分かな。
たとえば、遠隔地にある美味までを食欲の対象にしようとする金持ちのグルメ嗜好とは、
<食欲自体>を追求する精神の動物化(即(=近接化)物主義)でしょうね。
>弁証法でいう量質転化にも似た面はありますが
「似ている」(類似性、アナロジー)とは、表象(イメージ)的思考の謂いですが、認識は論理的・概念的であるべきでしょう。
吉本隆明は何より詩人(唐牛)であり、理論を文学的に語るが、
「学問とは表象を概念に変える、苦労の多い労働である。」(ヘーゲル)
>統合失調患者の幻覚が典型例かもしれません。
>現前に具体的な事実として対象化できない相手を観念的に対象化
抽象的な対象を捉えるためには、表象として具象化するのではなく、本質を抽象し、論理的に媒介して、
概念として統合化する必要がある。ポスモダ的な象徴的思考は論理的な統合に失調をきたしているわけです。
366 :
団塊の連中って何でもやりッ放しなんだもんな :2008/05/01(木) 12:40:27
468 名前:OFW :03/08/31 12:22
>>464 (SWさん)
>政治経済からは説明できないどころか、解決はおろか分析すらできない。
ヘーゲルに倣って、<心>を精神の即自態(存在するものとしての精神)と定義すれば、唯物論の立場からは、
「それは仮象である」となります。つまり、それは<あたかも存在するような対象>であり、まったくの無ではない。
その対象性は他者の身体行動(主体性)の観察から得られ、言語行動において現実的な心として<意識>になる。
つまり、<心>はそれ自体として存在しないから、その構造を客観的に論じる場合、
身体(脳含む)や行動(言語含む)から切り離せない。
フロイトは、無意識を神経生理の上に基礎づけようとしたが、社会的な本性をもつ心に対しては、
社会科学的なアプローチが必要です。
その点で、メルロ・ポンティの<身体図式>やピアジェの発達心理学を援用した
トラン・デュク・タオ『意識と言語の起源』は弁証法的唯物論の立場からの心的現象論の一例と言えます
(その後の発展を聞かないが)。
>吉本の論述に関しては芸術じみたものを感じることはありません。
形式は理論でも内容は理論(科学的説明)でなく、解釈的記述でしょう。
367 :
団塊の連中って何でもやりッ放しなんだもんな :2008/05/01(木) 12:42:31
469 名前:OFW :03/08/31 12:23
>>467 (SWさん)
横レス失礼
>アナロジカルにいえば光学カメラの具象と映像の関係が類似してる。
視覚のカメラモデルは、既に廣松も批判している通り。観念とは<止揚された実在>であり、
非実在的存在(要は運動)です。
前期シェリングの同一哲学における極性(polarity)概念に啓発されたと思われるヘーゲルは
「具体的なものは、それ自身とその否定との統一である。」と洞察した。
実在しないものを実在的(質、量、限度)に取り扱う思考は、
類推的推理あるいは(形式論理学、近代経済学のように)推移的(数学的)推理にまでしか及ばないでしょう。
本質論が足りないわけ。
368 :
団塊の連中って何でもやりッ放しなんだもんな :2008/05/01(木) 12:44:32
491 名前:OFW :03/09/02 06:51
>>470 (Kuriharaさん)
>広松ヨイショ
ではなく、手近な反例として挙げただけデス。廣松説にも難点アリと。
>>471-472 (SWさん)
>「現象」する「本質」から読みとることしない
論理的に言えば、
現象する本質が<現実性>(Wirklichkeit(独),actuality(英))です(byヘーゲル)。
それは現在進行形の(働く)本質のことであり、それに対して、本質自体は単なる可能性として、
他(であること)も可能な過去形の(働かない)存在です。
本質の他者が不可能であることによって、本質は必然的に現象するが、それには活動的主体が必要。
>時枝などの方法論
以前にも書いたが、三浦つとむによって継承・発展された言語過程説は、唯物論の立場に立つ言語の本質論として、
第一級のものでしょう。吉本言語論は、それに負う所が多いかと。
369 :
団塊の連中って何でもやりッ放しなんだもんな :2008/05/01(木) 12:46:24
492 名前:OFW :03/09/02 06:52
>>486 (SWさん)
>マルクスの可能性が日本では貧弱
スレのタイトルでもある<マルクスの可能性>を今さら云々するのも妙だが、柄谷も含め、
マルクス=共産主義を一つの可能性として捉え、あれかこれかと当為的に関わることは止めた方が良いでしょう。
それは現実的なものであり、その他者が不可能であること、つまり<マルクスの必然性>をこそ捉えるべきなのです。
その点では、過労死、いじめ、リストラ、テロといった<否定的現実>の中にこそマルクスは生きており、
リゾーム、地域通貨、マルチチュード等々の不可能な可能性を追い求めることは、現実から目を逸らせるもの。
日本ではマルクスの可能性が豊富にある。
資本論を読む〈上〉 1996 筑摩書房 ルイ アルチュセール, ピエール マシュレー, ジャック ランシエール, Louis Althusser, Pierre Macherey, Jaques Ranci`ere, 今村 仁司 マシュレーは本書収録の「『資本論』の叙述過程について」のなかで、『資本論』は観念論の批判つまり 科学的批判のレベル(交換価値)と経験主義の批判のレベル(使用価値)の言説が同時進行していて、交わ らないとしている。少なくともヘーゲルの言う意味での弁証法的には推移していないという。 マシュレーは明らかにスピノザの並行説を援用しているが、これは説得力のある読みだと思う。 マルクスは同じ用語を使っているので読者のなかで両者は交差してしまうのが混乱のもとといえる。 マルクスがスピノザを称して「スピノザの体系は本人が思ってるのとは違う体系のなかにある」と言ったと 同じことがマルクスの方にこそ言えるのだ。 経済学的成果を取り出すべきだと考える人もいるだろうし(宇野弘蔵)、思考の原型を取り出そうとする 人もいるだろうが、マシュレーの指摘は今日的な『資本論』の読みの出発点と言えるものである。 マシュレーの短い論考を収めた上巻だけでも入手しやすく出来ないだろうか、、
371 :
革命的名無しさん :2008/08/27(水) 01:05:45
小室直樹ならかなり読んだ
372 :
革命的名無しさん :2008/08/27(水) 01:11:08
一週間便秘でケツの穴からぶっ放された屁みたいに臭いスレ
373 :
革命的名無しさん :2008/08/27(水) 01:16:38
高校生でも読める資本論教えて下さい。
374 :
革命的名無しさん :2008/08/27(水) 02:00:13
高校生ならナンパしたほうがいいよ。あんな本一生かけても理解できないから。なぜって間違いだらけだからなのさ。それとも間違いだらけの共産党員になりたいのかい?
375 :
革命的名無しさん :2008/08/27(水) 02:04:35
共産党では資本論は実質禁書です。 読んだだけなら入党できますが、理解したら除名です。
376 :
革命的名無しさん :2008/08/27(水) 02:06:17
うまいこと言うね、拍手!
377 :
革命的名無しさん :2008/08/27(水) 11:49:16
378 :
革命的名無しさん :2008/08/27(水) 11:58:00
>>375 でも誰かさんみたいに「児童ポルノ本」を愛読するよりはいいよね?
379 :
革命的名無しさん :2008/08/27(水) 17:25:06
>>378 オメーはアフォか?
『資本論』より「児童ポルノ本」の方がよっぽど楽しいし、
諸々に役に立つのを識らんのか?
380 :
革命的名無しさん :2008/08/27(水) 17:30:44
>>379 おsageさんがアフォなのはもう議論の余地は有りません。
一日中児童ポルノの話ばかりしていることだけを見ても明らかです。
381 :
革命的名無しさん :2008/08/27(水) 19:23:36
おsageさんの頭の中は児童ポルノのことで一杯で他のものが存在しないのですから やむを得ません。
382 :
革命的名無しさん :2008/08/28(木) 17:05:10
>>380 ,
>>381 チミは考え違いをしておる。
ポルノであれ、なんであれ、ある特定なことで一杯で他のものが存在しない、
とは熱心さと懸命さの表れであると把えることじゃ。
もっとも、友とはしたくないがな。
383 :
革命的名無しさん :2008/08/28(木) 17:35:26
たぶん自分の頭のなかが痴情で溢れかえっているから、気2なってしかたがないんだろ。
384 :
革命的名無しさん :2008/10/13(月) 02:27:54
久しぶりで新宿のJ書店のマルクスコーナーに行ったらPOPに 「蟹工船を読んだら、次は資本論だ!」 と書いてあった。 J書店経営の資本家さん、いくら何でも無理がありすぎないかい? 経済恐慌寸前の空気に乗って一気に在庫をさばきたいのは山々だろうが、物事には限度ってものがあるだろ??
385 :
革命的名無しさん :2008/11/16(日) 20:12:48
386 :
革命的名無しさん :2008/11/16(日) 20:19:21
同じことを繰り返すしか能のない左翼ですね
387 :
正義の見方 :2008/11/21(金) 11:49:12
今の日本、今の日本の社会も歴史はくり返すになってるじゃないですか。 強度の累進課税はどんどん執り行うべきだ。
388 :
革命的名無しさん :2008/11/27(木) 13:05:39
>>386 違うな。
毎日同じ事を繰り返している人民の生活過程に照応してるだけさ。
つーことは、ダ左翼なんぞにカクメイなんぞ永久に出来ない、ってこと。
389 :
革命的名無しさん :2008/12/04(木) 10:15:23
『資本論』とか『共産党宣言』なんて今でもマジつか、 何かを求めて読んでる連中っているかな? 共産党員でも読んでないって語時勢にだよ。 オレならヘーゲルどまりにしておくな。
390 :
革命的名無しさん :2008/12/06(土) 18:30:39
えーと、マルクスの本を読む前にはヘーゲルの本が必読ってこと? もしそうなら、すっげー時間がかかる、つか、もしかしたら 一生かかっても読めない連中がほとんどじゃない?
391 :
革命的名無しさん :2008/12/08(月) 12:10:43
>>390 マルクスもヘーゲルも今や訓詁学の一部よ。
もっと役に立つつ〜か、切実に読みたい本を嫁。
共産主義、マルクス、左派系統の知識は価値を無くしていったからな! 若い時に無駄な時間を使っただけだな…
393 :
革命的名無しさん :2008/12/10(水) 18:10:21
>>392 駄目ー!
そんな弱気を自分に許しては。
394 :
革命的名無しさん :2008/12/19(金) 00:58:47
マルクス・エンゲルス全集って90年代にCD-ROMが出てたよな 今もあるのかな? ディアゴスティーニ社みたいに 「週刊 マルクス・エンゲルス全集 CD-ROMコレクション 全30号」とかやってくれないかな
395 :
革命的名無しさん :2008/12/20(土) 03:48:38
なんて題だったか覚えてないけど、 図書館でマルクスが書いた本借りて読んだことある 「闘え!」だの「殺せ!」だの、 怒りや怨念のこもった強烈な文言が並ぶ危険な本だったと記憶してる
396 :
革命的名無しさん :2008/12/20(土) 07:32:19
資本論は多少読みましたが、共産党宣言は絶対に読みません。 後、5中総決定とかも読みません。 読めといわれますが、下らないと思いますので読みません。 だけど、左は大好きです。
397 :
革命的名無しさん :2008/12/20(土) 11:56:49
>>396 共産党宣言なんて30分で読めるよ。
資本論より楽なのに。
よんだら日本共産党から離れなきゃならなくなるから読めないだけだろ、ホントは。
398 :
革命的名無しさん :2008/12/20(土) 13:20:38
マルクス、エンゲルス、レーニンを学習して現代日本及び世界情勢に理論と実践を 創造的に発展応用し我々の生活悪化を食い止め、より良くしていく事も左翼の重要なる 歴史的任務であると考えます!
399 :
革命的名無しさん :2008/12/20(土) 13:47:00
マルクス、エンゲルス、レーニンをただお経みたいに死んだ干からびたものとして 読む事はマルクス主義を学習するにあたり、最も戒めなければならない態度である! 万物は、すべて生成発展消滅の過程にあり、他と切り離した死んだ干からびたものとして 観てはならず、現実は理論よりも品位が高い、とレーニンは「哲学ノート」の中で書いている! 現実を無視し間違った理論政策では革命は成功しないのである! マルクス主義を学習し現代日本に創造的に発展される事を願ってやまない!
400 :
革命的名無しさん :2008/12/20(土) 18:10:57
>>397 そんなの読む前から離れられていないんだよ。
だけど、読んだやつのほとんどが雑魚的思想ばかりだから
嫌になったってだけだ。そんなの読む時間自分の財布の中
を見つめ続けてる方が全然有益だ。
まじめな話、宣言と空科は読まないほうがいい。 チンシ、チンカリを読めばそれで十分じゃない? 俺だったら歳時記と聖書を読むけどね(笑
創造維持破壊 オーム
403 :
革命的名無しさん :2008/12/21(日) 01:16:07
404 :
革命的名無しさん :2008/12/21(日) 05:17:57
>>403 別に自分は不破信者ではないんでね。
あなたみたいな信者と同じにしないで下さいね。
405 :
革命的名無しさん :2008/12/21(日) 05:25:15
ってか、このスレを建てたのが、反共攻撃が目的なのか、 共産党を賛美させるのが目的なのかは分からないけど、 資本論・共産党宣言を読まない人間が共産党を批判するな というやつも、マルクスやレーニンと聞けば共産主義怖い と単に言い放つやつも同レベルに妄想しすぎんじゃない って思うね。
共産主義が怖いって結論自体は間違っていないだろ?
407 :
革命的名無しさん :2008/12/21(日) 11:13:50
>>406 妄想による結論自体が怖いという事であって、
時代が共産主義を求めるのに「怖い」というのも妄想だ。
なので、結論自体を求めるどうこうではなく、
「何故怖いのか?」という議論が全くされないのが怖い。
どこのスレでもそうだが、「昔の共産党はこうだった」と
言うだけの羅列で結論づけられていることが多い。
では今の自民党の政治はそれからかけ離れてるかと
言えば、やってることは大企業優先、軍事費優先にして
社会保障費削減、消費税増税、とやってることはここで
「共産主義が怖い」という理由と何ら変わらない事を
やっているのだ。それにし対してはノータッチという
感覚がわからない。
もっとわからないのは、生活苦でも共産主義よりマシ
と思うのであればそれを思うのは個人の思想の自由だが
それを「公務員の給与削減」とか「正社員の給与が高い」
などと、他人に生活苦を強いるやつが多いあたりが、
「あなたの思想の方が共産主義より悪質じゃないの?」
って思ったりする。
408 :
革命的名無しさん :2008/12/21(日) 12:06:50
>>407 革命とは客を呼んで茶を飲むことではない。
一つの階級が別の階級を襲い打倒する激烈な行動なのである。
恐ろしいのは事実。特に特権階級やその走狗にとってはな。覚悟しろ。
409 :
革命的名無しさん :2008/12/21(日) 13:04:16
>>408 いいこと言うな。
刺すか刺されるかだ。
刺されたら刺し返す、
これが復讐法だ。
別にいいことは言っていないだろ。
せっかく
>>407 が語り合うことの大切さを書いているのに
>>408 がそれを否定するなら最悪の形で
>>407 の正しさを証明しただけ。
>>407 は逆の立場の人たちのことを書いたんだとしても。
それに資本家は奪ったりしない。
労働力を安く買い取るだけだ。
それを労働者階級が生産手段を奪うなら
俺にはでこピンされたから相手を殺しましたって話に聞こえる。
復讐法ってそんなものか?
ハムラビ法典ですら右手を切られたものは相手の右手以外のものを奪うことが許されないのに。
411 :
革命的名無しさん :2008/12/21(日) 13:47:00
>>410 逮捕監禁して取り調べという名の話合いか?ざけんな!!
412 :
革命的名無しさん :2008/12/21(日) 13:49:15
拷問して語りかけるという手も使うのか?卑劣だのう。
対立を煽れば階級的な目覚めを期待できたのは遠い昔の話だって思っていたけど・・・ うまくすればそんなカビの生えた手法も生きてくるのかな。 少なくともそれぐらい俺の生活はこの2年で破壊されてしまった。 日本共産党、その「下部組織」の組合はこの件では何の力にもならない。 俺が悪いらしい。 ま、「グットラック」ぐらいは言っておこうかなw
414 :
革命的名無しさん :2008/12/21(日) 16:34:05
エセ共産党による恐怖政治は甚だしい誤謬かユダヤ秘密組織の謀略である! マルクス主義の古典は、エセ共産党による誤謬を批判し正しい本来の共産主義への 道を理論的に暗に陽に示している! 左翼は決してマルクス、エンゲルス、レーニンの著作から離れてはならない! 日本共産党の修正主義路線もマルクス、レーニンの古典の立場から明解に批判し得るのである! マルクス主義の古典に帰り理論の現代に於ける創造的な応用を行う事は左翼の歴史的任務なのである!
>>414 で、マルクスは常にどんな古典に帰ったんだ?
俺の知っているマルクスとあんたの知っているマルクスはだいぶ違うようだね。
俺の知っているマルクスやレーニンは過去の思想を尊重しても縛られやしなかった。
あんたはマルクスに帰ると同時にマルクスは批判したヘーゲルに帰る中でマルクスを批判するべきだな。
そういうことを書いているんだし。
ヘーゲル弁証法から資本論を読み直すなんて過激派諸兄に気に入られそうだしw
416 :
革命的名無しさん :2008/12/21(日) 20:24:25
〉415 基本的には、生産力と生産関係の問題、レーニンの超過利潤の問題だな! これらから新たに展開される理論は現実に帰る事を我々に促し机上の反共主義を 打破する上で非常に重要だ!
問題なのは机上の反共主義じゃなくて庶民の生活の中の反共主義なんだけどね。 天皇と自分の生活をどう成り立たせているのか俺は想像もつかない・・・
418 :
革命的名無しさん :2008/12/21(日) 21:12:48
>>407 で言おうとしていた結論は
>>417 が指摘しているような
方向なんだけどね。
どこのスレでも「階級闘争」という言葉尻だけはよく知っているが
それは現実逃避をするために使われている武器に使われていることだ。
要するに反共主義だろうが、反自主義だろうが、「公務員攻撃」
「年金者攻撃」「生活保護者攻撃」などの他人の生活苦を強いるよう
な発言が出ない事を前提に自分がいくら生活苦になったとしても、
「天皇」「軍事」などの思想を語ることで思想的欲求を満たされている
対価を得ているのであれば、何も反対はしないが、ただ思想だの何だ
のと言って自分が生活苦になってるやつあたりを「階級闘争」だの
「復習法」だのと言葉を難しくして「自分自身は単に共産党にやつあ
たりをしているだけ」という現実から目を背けているあたりも悪質さ
を感じる。
419 :
革命的名無しさん :2008/12/21(日) 22:11:52
>>418 途中まではいい話だけど、最後になんでいきなりマイナーな泡沫政党の話になるの?あの党は共産主義とも関係ないし。
420 :
革命的名無しさん :2008/12/21(日) 23:36:46
>>419 だからあんたみたいな「言葉尻」を気にしてるだけのやつのことを
言ってるんだよ。良い話だと言いながらやってることが逆。
ま〜例えの餌食になってくれてサンキューな。
421 :
419 :2008/12/21(日) 23:57:18
>>420 おいらの「やってること」とは?
419を書きこんだだけよ。何をいいたいのやら。
422 :
革命的名無しさん :2008/12/22(月) 04:18:04
>>421 ってか、言わんとしてる事は伝わってるのに、あなたの
ようなそこまで言葉尻をつつかないといけない精神状態の
現実が「泥沼化」を感じるね。
>マイナーな泡沫政党 これは事実誤認じゃないかって思う。 日本共産党はマイナーでも泡沫でもない。 >共産主義とも関係ないし。 これも違う。 「独裁」を「執権」と言い換えたり「暴力」を「強力」と言い換えたりしてマルクス主義の理論を捻じ曲げたのが日本共産党だからだ。 しかも、現在は暴力革命によるプロレタリア独裁を否定している。いや、敵対している。 関係がないんじゃない。日本共産党は共産主義を否定し続ける階級敵なんだよ。 「最後になんでいきなり」っていうのは思うよねw それほど強く世間が日本共産党に対して敵意を持っているわけじゃない。 拡大でもやって疲れているからそんな印象を持っているのなら「お疲れ様」ぐらいは言ってもいいけどw
425 :
革命的名無しさん :2008/12/22(月) 14:07:33
中
426 :
革命的名無しさん :2008/12/24(水) 22:05:46
マルクスの奥さんってイメルダだったよね
427 :
革命的名無しさん :2008/12/24(水) 22:17:45
マルコスじゃろ デマルコクラシー、流行ったのう
429 :
革命的名無しさん :2008/12/25(木) 07:54:08
政治的に力を持つということは私生活での人格までも評価の対象に
されてしまうってのはある話だし、それが人間の心ってもんだよな。
>>423 確かに言葉を綺麗な言葉に言い換えてるごまかしの点は同意だね。
この世の中を生きていくためにはそういう不条理にぶつかること
はよくあることだけど、それは「自分達の生存維持」に反映すると
いう目的があってのもの。
要するに一例として「暴力」→「強力」というような言葉でもし
表さないといけないとしたら「何故言葉を変えないといけないか?」
を国民にわかりやすく説明するのが、それを指導したものの責任な
のだが、その部分には触れないというあたりも支持されない一つに
思う。不破が委員長のときに誰かに
「上流か下流に、下流は上流にとあるが、これは差別ではないのか?」
の問いに、明らかにその回答から上流だの下流だの言う言葉使いは
おかしいんじゃないの?と、当時から共産党支持の自分ですら思った
ほどだ。
とはいえ、思想や表現のおかしさを語ってても良いのは自分の生活
がある程度満たされている上での話であり、今のように明日の米です
らどうしようかって時に、外見に惑わされて思想を語っていながら
生活苦を耐え忍ぶなんてのはもっと嫌だから、今は共産党批判はして
る場合でもないとは思うけどね。
430 :
革命的名無しさん :2009/02/09(月) 23:57:52
431 :
革命的名無しさん :2009/02/10(火) 00:49:16
ってことはマルクスでも娘に嫌われたくないのか…。父親は世界共通で娘には甘いな。いいか?娘って字は「女は良い」って書くんだぜ!
432 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :2009/02/10(火) 08:12:25
>>428 『ヘーゲル法哲学批判序論』からコピペしますね。現実的批判があって、宗教を否定することは欺瞞である。
----
宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。宗教は追いつめられた
生きものの溜息(ためいき)であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民の
阿片である。
人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。彼らの状態に
かんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求する
ことである。かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。
433 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :2009/02/10(火) 08:12:56
すまぬ。現実的批判→現実的悲惨
434 :
革命的名無しさん :2009/02/28(土) 12:53:32
じゃぁ、再開しますね。
19 名前: OFW 投稿日: 2001/01/20(土) 22:16
>>1 弁証法はヘーゲルの専売特許ではないが、
他の思想家は弁証法を主題として取り上げていないし、
弁証法を自分の哲学的方法の根幹に置いているのも、
ソクラテスそしてヘーゲル位かなと思うなので、弁証法って何?
というと、どうしてもヘーゲル弁証法から始めるざるを得ないということになってしまう。
因みに旧ソ連(そして日本共産党)で言われていた(いる)「最高の科学としての弁証法」とは
明らかに誤まりです。
また、弁証法が本当に理解できる教科書は日本には存在しない、と言うしかないのが現状でしょう。
(余り調べたことはありませんが)
>>18 >どうして、定立と反定立との関係が止揚されて総合出来るのか
弁証法に関する通常の解説書は、「正、反、合のトリアーデ」といった言葉を使いますが、私はどうもしっくりしない。
少なくとも、初めてその言葉を聞いて、「なるほど、そういう事か!」と言える人など、まずいない。
大体、ヘーゲル自身が上記のような説明を「フィヒテ流の外的な構成」と批判するでしょう。
>それぞれの形態の空間の次元の広がりに、時間の次元の広がりを加えて、それぞれを時空間の広がりに立体化して
>一つにすることになる
自然現象に弁証法が成立するかどうか?とは、結構問題になっているようで、かの共産主義思想家エンゲルスが
『自然の弁証法』という本を書いたが、ひどく評判が悪いのです。その悪評が妥当かどうかはさておき、
空間と時間の関係は物理学のみならず、哲学的な問題として古くからあった。
たとえば、古代ギリシャの哲学者ゼノンが「飛ぶ矢は飛ばない」と言って「ゼノンのパラドックス」として有名なものですね。
現代流に言えば、「運動の不可能性」とでも言えます。
435 :
革命的名無しさん :2009/02/28(土) 13:31:14
25 名前: OFW 投稿日: 2001/01/21(日) 14:54
>>23 >心身問題を弁証法的に解決すると?
心理学板で議論が高まっています
>>24 >弁証法とは「否定の否定」
と急に言われても、初めての人はわからないでしょう。サルトル(そしてラッセル?)も、
「何故、否定の否定が肯定になるのか理解できない」と言っています。
私も2チャンで弁証法についてカキコするのはこれで3回目ですが、なかなか理解されないのは、
「一言で言えば…ということ」という言い方で説明して、「なるほどそうか、良く分かった」とは逝かないのが、
思想というものだからでしょう。
ヘーゲルも「学とは苦労の多い労働である」というようなことを書いています。
そのためにも、弁証法とは何?と聞かれて、真理に至るための一つの認識方法であり、前の段階から次の段階へと、
一歩一歩苦労しながら探求していく、思考の過程ですとでも言う必要が、まずあるでしょうね。
(「一歩前進、二歩後退」(レーニン)、なんちゃって。)
それで、出発点として、「弁証法は事物の<概念>を捉えることを求める」ということから始めるのが良いと思う。
当然、すぐ<概念>って何?という疑問がでてくるでしょ。日常でも
「あなたの言うことは概念的には理解できるが、具体性に欠ける」とか
「それは概念に過ぎず、現実ではない」とか言いますね。
その場合、「ものごとを全体としておおざっぱに捉えること」といった意味合いで使う訳ですが、
ヘーゲルやマルクスが<概念>と言う場合、より強い(厳密な)意味を持っています。
それはヘーゲルが常に言う所の「具体的なものはそれ自身とその否定との統一として理解されなくてはならない」
ということに関係します。
つまり、「否定の否定」とは<概念把握>のことだと言えるでしょう。
436 :
革命的名無しさん :2009/02/28(土) 13:35:03
30 名前: OFW 投稿日: 2001/01/21(日) 22:06
>>27 >弁証法で証明もしくは把握・理解することが可能であった、具体例
また「証明」ですか。最近では、物事を数学の証明に導出することが真理の解明だと、皆が考えているようですね。
そのうち、
「弁証法による計算結果が正しくなければ真だと認めない」
と言う人が出てきそう…。
私は、哲学とは「存在の根拠への問い」と理解している。そして、根拠への遡及は、弁証法的な反省を抜きには為し得ない
でしょう。
>>28 >>あの心理学板の心理学的な議論は弁証法的なんですか?
現在の議論自体が弁証法的とは必ずしも言えないが、少なくとも真剣で真摯な議論があり、
それが事柄の本質に迫るならば、弁証法的な側面が出てくると言える。
見解の対立とは事柄の本質(根拠)に向かうための必然的な契機ですから。
合い言葉で言えば、それは一つの「否定の否定」です。
私が引用したのは、「心身問題」というテーマ自体に含まれる弁証法的な内容のためです。
いわゆる「心身問題」というのは、唯物論的な立場から言えば、偽の問題であり、
それは有機体の現実的行動に向かうことで止揚されるべき事柄でしょう。
特に、人間の意識的な側面については、言語行動を解明することなしには、
物心二元論的な表象から逃れられないでしょう。
437 :
革命的名無しさん :2009/02/28(土) 13:38:23
36 名前: OFW 投稿日: 2001/01/22(月) 05:24
>>31 (伍長さん)
>「否定」=非A群が存在する。
>「否定の否定」=非・非A群が存在する=A群が存在する。
(伍長流にきっぱりと)違います。
概念化とはAと非Aを統一的に把握する認識作用ということです。
まず、何らかの対象をAであると措定することは、Aと非Aを弁別することであり、
全体的(具体的)な対象世界からAを取り出す(抽象する)ことですね。
つまり、実在者の措定=質的(実在的)な区別ということです。
その場合、非Aは否定されたものとして、「不特定な一般」と言えますが、
それはむしろ、非−実在(背景に退いている非−対象的な観念的存在)として存在する。
上記を対象認知の運動として過程的に言えば、
1.これは何?
(2.それはAか?そうではない(B、C、D、…)か?)
3.それは(A以外のものではなく)Aである。
という実在者の措定としての弁証法的な運動を含んでおり、
その成果として<それ−A>という質的な存在者(実在)が措定される。
しかし、括弧でくくった思考(観念化作用自体)の運動は終結して表面上消えている。
これが第一の否定です。「すべての規定は否定である」(スピノザ)。
「そうではない」という否定を対象的にできれば、
つまりAとは非Aに媒介された直接性(実在性)だということが対象化できれば、第二の否定にジャンプできる。
「AのA」とは実在する多くのAから、それをAとする所以のもの、
つまり<Aそのもの>(Aの本質、根拠)を反省することです。
通常は共通性(一般性)として見られる本質性とは、本当は否定の否定としての実在の根拠を言い、
弁別作用を弁別することとして、自己同一的な存在(種別的なもの)を遡及的に措定すること(前提作用)です。
つまり、「否定の否定」とは実在的対象に対して、その存在の根拠を明らかにするという、
反省的(反照的)(Reflective)な立場へのジャンプです。
ヘーゲルの功績は、同一性−区別−根拠等の反照規定を明示的に取り出し、その概念を明らかにしたことでしょう。
(行数一杯!)
438 :
革命的名無しさん :2009/02/28(土) 13:40:54
38 名前: OFW 投稿日: 2001/01/22(月) 21:40
>>37 (農民ゲリラさん)
>弁証法とは、経験を通じて認識を新たにすること。
確かに、認識を新たにすることは、既成の認識の枠組みを革新することですね。
それは、素朴実在論、実証的経験論、悟性的合理論、反省的観念論、
そして弁証法的唯物論へと深化するのでしょう。
>社会全体を認識するのもそれと同様で、経験によって思考のプロセスが深まり、より多くのことを知り得るようになる。
確かに、思考のプロセスが深まること=プロセスの成果としての概念が高まり、
その内包(潜在的な内容)が豊かになることですね。
そして、その適用範囲は広がり、社会全体にまで及ぶ。深さは広さに比例する訳です。
>(概念の運動=弁証法的運動)
まさに、概念は世界の内に生起する事柄の発展を反映した、客観的世界の見取り図と言えます。
我々は経験からそれを学び、それを頼りに、さらに広大な世界に乗り出す訳です。
439 :
革命的名無しさん :2009/02/28(土) 17:18:33
おい、ここはアカ板だぞ。 ヘーゲルよりマル糞をコピペしろ!
440 :
革命的名無しさん :2009/02/28(土) 17:29:01
ある点ではヘーゲルはマルクスの母胎ですから、ご容赦を願って....
43 名前: OFW 投稿日: 2001/01/24(水) 05:13
>>41 (伍長さん)
>もっと平易な言葉にならないのかなあ?
また言われてしまった…。確かに一度に全部を言おうとするから、いけないのでしょうが、
具体的にどういう面が分かりにくいか、指摘して貰うと助かるのですが。
言葉、言い回し、何を表象したらいいのかとか、…。
私も最初はヘーゲルの書いたものを読んで、さっぱりでした。
それは、たとえば「無は有と同一である」などと言われて、具体的に何を思い浮かべればよいのか分からないので、
解釈の手がかりがなく、謎のような言葉として現れたわけです。
しかし、そのうちに、具体的な表象というより、概念として考えよ、と言っているのだと、理解するようになった。
無とは表象としては、たとえば「何も見えない闇」「暗黒宇宙」というような何ら存在と呼べるものが無い、
漠然とした広がりのようなものをイメージする。
しかし、問題は「無」「無い」と「有」「有る」との区別は何かという点でしょう。
純粋に言えば、「両者の間には明確な、特定の区別がない」ということであり、
対象(有的なもの)と非−対象(無的なもの)という区別でしかない。
それはまさに「存在の措定」という認識の最初の行為です。区別(弁別)することから認識が始まるし、
「なにものかが存在する」するのであって「すべてが存在する」のではない、ということです。
それが最初の肯定です。(ね、既に否定を否定しているでしょ?)
そして「なにものか」は直示的に指差すことができたとしても、他者には不定です。
それを特定するためには、その規定性(質的な内容)を表示しなくてはならない。
たとえば「それは『赤い』ものだ」とかね。
441 :
革命的名無しさん :2009/02/28(土) 17:33:38
44 名前: OFW 投稿日: 2001/01/24(水) 05:14
>>41 (伍長さん)(つづき)
>>「否定」=非A群が存在する。
まず、イコール記号は誤解されやすい、というよりは比喩ですね。
それは、数式で使われる等号ですから、式の両辺の「値」が同じだということを表わしている、とつい考えてしまう。
それは簡便な表現ですが、否定は代数計算ではない(最近は皆そう考えているようだが)。
そこで、上記は否定という言葉の「解釈」が表明されているのだと理解してみる。
まず、非A群が存在するとは既に思考運動の結果ですよね。
まず「非A群」を分析して、非−A−群とすれば、
A:なんらかの個別的な実在者が複数存在していて、
その共通な特性を一般的に表現した記号と言い換えることができる。
そうすると、そこにはなんらかの、個別的な、実在者、複数、存在する、共通な、特性、一般的、表現、記号という
かなり高度な(抽象的または専門的な)概念が登場してくる。
特に実在者は個別的であるという点がまず問題ですね。
実在者は指差すことのできる、単一なものという前提がそこにはある。
つまりそれは、複数の実在者が存在するを潜在的に含んでいるのです(質は量である)。
そして、それは数の概念(単位と集合数)を予想させる。
また、実在者は質的な存在であり、変化しない質を特性と呼ぶ特性とは、
複数の実在者に共通な質であるというかなり専門的な部類の概念も前提されていますね。
ここまでで、如何でしょう?
442 :
革命的名無しさん :2009/02/28(土) 21:17:35
53 名前: OFW 投稿日: 2001/01/26(金) 22:14
>>45 (伍長さん)
>43はよくわからないけど、44は何とかついていけます。
確かに43を読み返してみると、「弁証法は否定の否定」という合言葉に引きずられて、
その説明を性急にしようとしたために、端折った言い回しになってしまいました。
あまりそれに捕われないほうが良さそうです。
そこで、事柄を経験と思想といった面から考え直してみると、経験は具体的な対象に直接触れるのに対して、
思想は対象の抽象的、一般的な面を捉える。と言えると思います。
そして、対象の一般的な在り方を概念と呼べば、その個別的な在り方は実在と呼べるでしょう。
その場合、概念とは事物の運動様式を存在形式として表現したものと言えると思います。
それは我々がある対象を捉える場合、それが何らかの運動の結果として存在するそして、反照的(相関的)に言えば、
それが他のものとの関係の中において存在するという面を表現したものが、概念だということです。
その限り、個別的な実在の否定として概念が存在する、と言えるわけです。
それは観念的なものとも呼ばれます。
何故なら、観念とは実在の否定として、我々の「頭の 中」にしか存在しないからです。
目の前にある経験的実在と、どこにも実在しない抽象的観念との対立は認識にとって基本的なものでしょう。
両者の一致を真理と呼びます。
そのことは、目の前にある個別的な実在はその真理においては、決してそれが経験された通りのものではなく、
他のものに媒介されたもの(媒介とは「他になること」です)であり、他の実在との関係性のうちにおいてのみ、
それが何であるかを正しく規定できる、ということです。
443 :
革命的名無しさん :2009/02/28(土) 21:25:16
54 名前: OFW 投稿日: 2001/01/26(金) 22:18
>>45 (伍長さん)(つづき)
そうなると、認識の発展につれて認識の対象も変化するという弁証法的に重要な面がでてきます。
始めは個別的なものとして質的実在と呼ばれた対象も、それが他に変化しまた消滅する以上、
それは「他在性」という存在形式のうちにある。
つまり、定まった存在として質的であった対象は、むしろ「他になること」がその内的規定(定め)であるということです。
そのことが認識された場合、認識の対象は質的変化のうちにある「他になっても同じもの」、
つまり量的な存在に移行する。
「可変的かつ可分的とみられる量も、その純粋な姿においては単一かつ不可分な存在である」(スピノザ)という
(純)量の概念が得られるわけです。上記のことを要約すると、
質的実在の真理(他在性・変化性)がそれとして定立されたものが量であるという命題(ジンテーゼ?)になります。
また、量はさらに限定されると、最終的に数の概念が得られる。
それは単位(観念的)と集合数(実在的)を対立的な契機として含むそれらの統一です。…等々。
以上の過程を一般的に言えば、対象を規定(限定)することにより対象自体が否定され、
その真理(概念と対象自体の一致)はさらに高次の概念として表現されるということ(否定の否定)を示しているわけです。
「人間の認識は常に生成の言葉を存在の言葉に翻訳する」(マルクス)と言われるのも、
運動を止める(止揚する)ことで認識が可能になると言っていると解釈できる。ついでながら、このことは、
いわゆる実証主義(Positivism)のもつ肯定的な側面と否定的な側面を共に明らかにするでしょう。
マルクスがPositive(肯定的、積極的)と言う場合、それは単なる経験主義ではなく、
認識作用のもつ否定の否定としての実証的、現実的、実践的な面を強調していると思います。
444 :
革命的名無しさん :2009/02/28(土) 21:27:49
57 名前: OFW 投稿日: 2001/01/28(日) 21:07
>>55 (伍長さん)
>どうも私には無理みたいです。
そう言わずに。私の説明の仕方が問題なのでしょうから。
「弁証法とはかくかくしかじかのことである」という正面切った言い方は、所詮無理があるようなので、
少し変えて、具体的なテーマに即した方が良いようですね。
>>56 >2チャンで例えれば、エロネタ・遊びネタと硬派ネタを脳味噌の同じ部分で思考し、表現する事ですね。
そうですね。ニュース板で言えば、
テレ朝のSCOOP特集に対する2チャネラーの反応を同じものとして観察する視点のようなものです。
先週は新宿にいる<車イス>の女性ホームレス、
今週は南紀の動物園での<痛んだ足>をもつ象の死に関する特集だったが、反応は実に対照的です。
先週は通行人に蹴られて歩けなくなった女性を見て、
圧倒的に「ホームレスおよびやらせテレ朝は逝ってよし」の反応だったが、
今週はタイ人調教師に傷つけられて歩けなくなった象を見て「動物虐待は許せん」のカキコばかり。
http://saki.2ch.net/test/read.cgi?bbs=news&key=980677962 両者(ホームレスと象、そして、両者に対する2チャネラーの異なった反応)の同一性と差異性を共に把握することが、
弁証法的な社会認識かな。
445 :
革命的名無しさん :2009/02/28(土) 21:32:57
65 名前: OFW 投稿日: 2001/02/18(日) 22:59
>>62 >そういえば、松田聖子には、哲学におけるヘーゲル的スター性と崇高さの裏面としてのいかがわしさがありますな。
確かに「聖と俗の弁証法」は昔から神話や演劇における格好のモチーフですね。
近くでは何と言っても劇作家ブレヒトが「異化作用」(裏返しの裏返し、否定の否定)の弁証法を実践して、
社会の真の解放を訴えた。
また、スキャンダルは「白は白、黒は黒」という自明性に覆われた日常が偽りのものであることを垣間見せてくれる。
最近の例1:
「軍事訓練」という私人の遊びによる、「事故」という民間船への突撃に際して、
「滅私奉公」を金言としていた某国総理は、ゴルフ場に来た記者に対して
「何で入ってくるのか、今はプライベートだ」と言い、その場所が「正当な脱税」の成果であることをばらされてしまった。
(公事は私事、私事は公事)
最近の例2:
「外交上の秘密」を守るべく、外務官僚は馬を買い、女性を養う。(外交機密費とは援助交際費であり、
それは国家(公然)の秘密である)
最近の例3:
妻の不倫とストーカ事件を検事から「警告」された裁判官は、自らの正義を守るべく、
「証拠の非存在」を証明しようとしたが…。(ディスク・データの論理的削除は事案の法的削除を結果しない)
最近の例4:
大学教授は、入学試験を厳正に実施するために、同僚にそれを伝えた。
(厳正とは正確に問題を漏洩すること)エトセトラ、エトセトラ、社会の秘密は貨幣の秘密…。
446 :
革命的名無しさん :2009/02/28(土) 21:36:24
80 名前: OFW 投稿日: 2001/02/19(月) 20:38
>>79 (通りがかりの人)
>73の僕的解釈みたいなのは懐疑論っていうって事でしょうか?
近代哲学の祖デカルトは懐疑をもって自らの反省的思考を開始しました。
既成の意見(独断的教義)を徹底的に疑い、最後に「我思う、故に我在り」
つまり「疑う我は疑い得ない」との自覚に到達したわけ。
懐疑は第一の否定であり、真理に向かうための必然的な一歩でしょう。
>A国とB国がある問題で対立しています。
対立とは本質的な区別であり、矛盾そのものです。
>A国人にとっては自分が正しく、B国人も自分が正しいと思っています。
「正しい」とは主観的な真理であり、一定の基準自体を「思い込むこと」。
>この対立が深刻になると戦争になり、結局A国またはB国どちらか一方の意見が通ります。
いわゆる「矛盾」とは「どんな盾をも突き通す矛」と「どんな矛も突き通せない盾」との戦争です。
しかし、状況により、矛は盾になり、盾は矛になる。たとえば、「武器が不足しています」と訴えた部下に対して、
革命家毛沢東は「心配するな、武器は敵が持っている」と答えたとのこと。
革命的思考とは通常の思考を転覆することです。それは、両国が共に負ける(国家の廃絶)と同時に、
共に勝つ(人々の勝利)ことを目指します。
>ハーフの意見の方がA国人、B国人よりもより正しい(進歩した)意見
そうですね。
ハーフは矛盾を身に帯びているから、対立の乗り越え(止揚)に成功するか失敗するかは、
まさに一身上の一大事でしょう。昨日もNHKで「二つの民族、一つの教室」というタイトルで
中東紛争(イスラエル−パレスチナ戦争)の特集をやっていましたが、
「子供は仲良くできるのに、何故大人は争うの?」という疑問にどう答えるか。
ユダヤ−アラブの対立には、「神々の争い」という誤った根拠と、「階級対立」という真の根拠がある、
というのが私の意見(答え)です。
>最近はインターネットとかがあるので結構簡単にできるんじゃないか
確かに、インターネットは戦争に対抗するための強力な手段になり得る。対話は、共同の真理に向かう、
最高度の弁証法ですから。
447 :
革命的名無しさん :2009/03/01(日) 17:10:50
86 名前: OFW 投稿日: 2001/02/23(金) 02:14
>>83 >全体としてどこが「否定の否定」なのか「弁証法とはなにか?」がいまいち分かりません
ども、困った。まあ、またーりと、行くしかないでしょう。
>経験的実在と抽象的観念の一致とはどういうことでしょうか?
まず、「一致」という言葉は日常的には実在的な存在間について使われるため、
「観念と実在の一致」とは誤解を招きやすい表現ですが、
それは実在的一致ではなく、
(言語を含む)記号とそれが表わすもの(記号の対象)との一致として捉えた方が良いでしょう。
『意味の意味』(オグデン&リチャーズ)には、
記号の機能として「指示の象徴」説が述べられており、
「我々は、現前していない実在的対象への指示を記号によって象徴する。」
と述べられています。
これは、対象に正しく到達するための脈絡(筋道)の代表(代わり)として記号が使われる、ということです。
我々が何らかの対象を思い浮かべ、それを他人に伝える場合、
「こうしてそうすれば、そこに到達できる」
という指示的な言い方と、
「それは○○だ」
という象徴的な言い方の二通りをします。
ここで、前者を簡略化(概念化)したのが後者だということです。
自分が到達したい(または相手に到達させたい)対象に自分が(または相手が)めでたく到達できた場合、
観念と実在が一致した、つまり真の対象が得られたと言えるでしょう。
弁証法的に言えば、「媒介性と直接性の統一として、完全な対象」という所かな。
(どうしても難しい言葉になる…)
448 :
革命的名無しさん :2009/03/01(日) 17:15:54
87 名前: OFW 投稿日: 2001/02/23(金) 02:17
>>83 (つづき)
>実在というのは個別的なもので、観念≒概念はそれを分節するものなので、一致するようだったら、
>個別的実在の数だけ>概念があるみたいなおかしなことになってしまう
次に、象徴(記号)は常に一般的・抽象的ですから、具体的な個物を対象にする場合、
その位置(場所)を指定するための世界が必要です。
上記の説では「象徴場」あるいは「談話世界」と呼ばれています。
すべての個別的実在は何らかの世界の中で他の実在との間の関係性のうちにあるからこそ、
そこに存立しているということです。
概念という記号体系は世界の見取り図であり、対象に正しく到達するために、
世界の分節と実在間の関連性を表現したネットワークと言えます。
同時に、それぞれの概念自体は「単一なもの」ですから、上記と合わせると結局「全一的なもの」が概念です。
そこから「具体的普遍」という概念の個別的かつ普遍的な側面が出てくる。
>その一致を真理と言ったとして、その時に実在はなぜ他との関係性の中で正しく規定されるのでしょうか?
カントはカテゴリー(範疇)を「最高類概念」と呼び、
森羅万象(実在)はすべて何らかのカテゴリー区分の元に置かれることでその本質規定(それが何であるか)が
正しく認識される、と言いました。
そして、質、量、関係、様相およびそれらの下位区分(各3種)から構成される範疇表を提示したわけですが、
ヘーゲルは「それはカテゴリー自体を固定化する外的・偶然的なやり方だ」と批判して、
カテゴリー間の関連性を明確にしたと言えます。
実在の規定は質、量、限度と否定的に推移し、それは本質へと反照する、そしてモノから現象に外化して、
現実性に至って、概念として自己(真実在)に復帰する、といった具合。
むろん、観念論ですが、むしろ観念の弁証法(否定の否定)を明らかにしたと言えます。
449 :
革命的名無しさん :2009/03/01(日) 17:23:00
90 名前: OFWファン 投稿日: 2001/02/24(土) 09:35 >一連のOFWさん 丁寧な解説ありがとうございます。 だんだん分かってきたような、ますます分からなくなってきたような… でともかく埒があかなそうなので、 ここは発言36に戻って36の僕なりの解釈をさせてもらいました。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 弁証法とは事物の<概念>を捉えることを求める。 事物を概念化するということはAと非Aを統一的に把握する認識作用である。 で話を分かりやすくするため、概念化というより認知作用を例にとってみる。 1.これは何? (2.それはコップか?、「そうではない」(カップ、おわん、…)か?) 3.それは(他のものじゃなく)コップである。 ( )は暗黙の思考として意識から消えている。この「そうではない」という暗黙の否定が「第一の否定」である。 そしてこの「第一の否定」自体を対象化すると、 つまり「コップとはカップやおわんに媒介された実在性」だという事実そのものを対象化するとき、 「第二の否定」に向かうことができる。 この「第二の否定」とはここで新たに対象化した「第一の否定」の根拠を反省することである。 (きっと否定とはnotの意味ではないんでしょうな…) そして「カップ」の本質とは、上のような「否定の否定」による実在の根拠の問いかけによって規定され、 また保証される自己同一性である。 よってこの「否定の否定」による実在の根拠の問いかけをつきつめると、 人は事物の本質の正しい認識(=絶対知?)に到達することができる。 この運動が弁証法である。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 何度も読み返した結果、こんな感じで捉えたのですがどうでしょうか? でもこう考えると43の有と無の話や概念の話といまいちつながってこないのですが…
450 :
革命的名無しさん :2009/03/01(日) 17:25:46
91 名前: OFW 投稿日: 2001/02/25(日) 00:16
>>90 私の抽象的な言い回しも少し理解されてきたかな。
ヘーゲルも同じことを繰り返し繰り返し思考し直して、概念の働きを明らかにしていった訳ですから、
しつこく説明を試みよう。
>弁証法とは事物の<概念>を捉えることを求める。
そう。概念的把握とは実在対象の十全的な(欠ける所のない完全な)理解とも言えるでしょう。
直接的な存在は、その根拠が明らかにならないうちは、偶然的で不十分な存在でしょう。
概念的把握とは結局、対象を歴史的に発展する事柄として、動的・総体的に理解することです。
>事物を概念化するということはAと非Aを統一的に把握する認識作用である。
通常の科学や形式論理ではAはあくまでAだと言い、
非AとAの区別は外的なつまり主観的な区別に過ぎないと言われる。
ヘーゲルはA自体の中に非Aを見るから、
区別するだけの認識(悟性)をむしろ「無概念的な認識」と言っています。
(マルクスも当時の(今もそうだが)経済学を同様に批判している。)
>1.これは何?
事物に対する問いがすべての認識の出発点であり、それは、主観が対象Xを立てること(措定と言います)です。
「これ」とは目の前にある「何ものか」(何らかの実在者)です。
それは認識によって明確に規定されるが、それ自体は既にそこにある、つまり前提された存在です。
このことは、「対象」概念の二重性を示しています。「対象」とは、
一方でそれ自体で存在する実在(客観的な存在)を指すが、
同時に主観にとっての「対−象」であるということです。
ヘーゲルは前者を真(実在)の契機、後者を知(認識)の契機と呼んでいる。
両者の区別と統一が働きとしての概念化作用です。カントは両者を機械的に分離したから、
「我々は現象を超えて、物自体を認識できない」
という不可知論になった。
451 :
革命的名無しさん :2009/03/01(日) 17:28:22
92 名前: OFW 投稿日: 2001/02/25(日) 00:19
>>90 (つづき)
>(2.それはコップか?、「そうではない」(カップ、おわん、…)か?)
認識は対象の特定、区別(弁別)、識別(同定)ですが、
さしあたり主観は対象認識を“遂行する”から、認識自体は対象化(意識化)されない。
対象を認識しようとする思考は否定的な働きです、
というのは、知性は感性と違い、対象をあるがままに受容するのではなく、「これは何だ?」と言って、
その「あるがまま」(自体)を否定するからです。
「対象を知るには、その直接性を否定しなくてはならない」そして、
直接的な対象(実在)はまず質によって区別されます。
「質とは対象を実在とする、最初の規定性である」(ヘーゲル)
それは主観の区別作用が対象の上に反映しているということであり、
対象を実在(直接的な存在)とすることは
「あれかこれか」の側面から対象を吟味することの結果(差異に基づく対象認知)です。
>3.それは(他のものじゃなく)コップである。
思考の直接的な否定性は、否定性自体を対象化できない。
それは「Aでない」を常に「他のもの」、
つまり「Bか、Cか、…」という実在的な形式(対象的形態)でしか捉えられない。
そのため、自らの作用である「他のものじゃなく」(否定の否定)は対象化(意識化)されず、
その結果として得られた一般概念「コップ」が対象そのもの(真の実在)だと主張する。
実際、「それはコップである」(個別的なものは一般的なものである)は根拠のない断言であり、
まさに直接的(根拠をもたない)対象の判断(質の判断)です。
しかし、その真理は「個別的なものは一般的なものである」という形式に含まれており、
その結果、「あれかこれか」の質の判断は「あれもこれも」という、
量の判断(形式論理の数学的等価性「A=B」)に移行する。
>きっと否定とはnotの意味ではないんでしょうな…)
いや、まさにnotであり、何ら神秘的・深遠な働きではない。
サルがnotを正しく弁別できれば、人間になれる、かな。
(少なくとも、見せかけと真実の区別は分かっているようだ。)
452 :
革命的名無しさん :2009/03/01(日) 17:31:52
93 名前: OFW 投稿日: 2001/02/25(日) 00:20
>>90 (つづきのつづき)
>そして「カップ」の本質とは、上のような「否定の否定」による実在の根拠の問いかけによって規定され、
>また保証される自己同一性である。
そう。
本質とは「生成変化する事物の本体、その直接的な存在の底にある自己同一的なもの」です。
客観科学とは普遍的な法則、原理を目指す本質の探求ですが、
そこでは対象が相関的な関係性において捉えられる。
また、根拠とは「同一性と区別との同一性」であり、
「あるものがそれであるのは、あるものが他のものとは違うからである」ということ。
>本質の正しい認識(=絶対知?)に到達することができる。
ヘーゲルは「正しい(正当性)」と「真の(真理性)」とを明確に区別します。
前者は悟性(分析的、判断的理性)の在り方であり、何らかの基準に合致する妥当性を求め、
後者は本来の理性として根拠に基づく、認識と実在的対象との一致を求める。
また、絶対知とは「概念とそれ自身との一致」という絶対的観念論の主張であり、神がかりですね。
>43の有と無の話
例が悪く、ヘーゲル流な難解さの例になってしまった。
「概念と対象」の最も抽象的なケースとでも言えば、良かった。
上にも書きましたが、概念は具体的なものであり、常にその対象面(実在的側面)と
その規定性の面(観念的側面)との否定的統一です。
最も抽象的な概念は「存在」でしょうが、それは特定の対象をもたない。
「すべてのものは何らかの点で存在するが、『すべて』は存在せず、常に特定の対象が存在する」からです。
つまり、抽象的な存在とは、対象性そのものだということであり、
最初の具体的概念とはむしろ「生成」(有と無の統一)です。
存在論では、「存在するとはどういうことか」という過激な設問を出して、
「存在と区別される何ものか」つまり「無」を存在的(対象的・主語的・名詞的)に立てる。
「存在が存在するのであり、無が存在するのではない」(ハイデガー)と言われたりもする。
しかし、我々は常に何らかの経験的実在から始めるのであり、
存在自体から始める存在論は形而上学(天上の学問)と呼ばれます。(以上、長文失礼)
453 :
革命的名無しさん :2009/03/02(月) 19:28:58
98 名前: OFW 投稿日: 2001/02/26(月) 23:28
>>95 いやぁ、哲学板では皆お金の話には関心がないと思っていたので、珍しいな。
もっとも、この板でお金についてカキコするのは、これで3回目ですが。
>『資本論』で、商品における使用価値と価値との矛盾が貨幣において止揚されるというのも
>弁証法的展開だと考えていいのでしょうか?
良いでしょう。
しかしまず「商品における使用価値と価値(正確には交換価値)との矛盾」とは如何なるものか、
を考える必要があるでしょう。
(経済学者は誰もそんな事を考えない。これは経済学を震撼させる設問だ!)
使用価値とは通常の言葉で有用性あるいは効用と呼ばれる、
経済学の基本概念ですね。
経済学者は皆「それは主観的なあるものだ」と言い、
それ自体について余り深くは考えません。
彼らは常に価格、つまり価値の貨幣形態から議論を始めます。
貨幣を価値の絶対的基準だと見なしているから、
価値自体についてそれ以上考察しなくて良いという訳です。
しかし、一方で、たとえば「物価の上昇は貨幣価値の減少だ」などと平気で言い、
貨幣と商品は互いに鏡のような関係にあることを暗黙に認めている。
現在、殆どすべて有用物は商品として市場で交換される。
それは売買と呼ばれ、貨幣を商品と交換することです。
454 :
革命的名無しさん :2009/03/02(月) 19:31:16
98の続きです。 しかし、小学生も物々交換の存在を知っており、 それは有用物と有用物を直接交換することです。 しかし少し考えてみれば、貨幣が無ければ、 Aの所有物aとBの所有物bを直接交換することは、 理論的にはなし得ない行為だということが分かる。 何故なら、物の効用は主観的であり、 Aにとってbがaより有用であり、 同時にBにとってaがbより有用であることが、 物々交換の条件なわけですから、 物々交換とは「二つの不等価性」どうしの交換でしかなく、 決して「aおよびbの客観的価値」に基づく「等価交換」などではないから。 「物々交換は不可能である」、 これが使用価値と交換価値の矛盾です。 その矛盾を解決するために、万物の価値を尺度するもの、貨幣が要請される。 それは商品世界を統一する、グローバル・スタンダードです。 しかし、それは商品の矛盾の完成であり、決してそれを止揚しない。 貨幣とは社会的人間の疎外された姿であり、その物象化の完成なのです。
455 :
革命的名無しさん :2009/03/03(火) 09:44:01
すっげー良く解るわ、このコピペ。
456 :
革命的名無しさん :2009/03/04(水) 18:21:11
99 名前: OFW 投稿日: 2001/02/26(月) 23:30
>>95 (つづき)
>しかし、生産物交換がない社会とはなかなかイメージしにくい
歴史を遡るまでもなく、今でも漁村や農村など村落共同体の中には、
協業により生産された生産物は成員への「再分配」と呼ばれる分配方式が残っているでしょう。
「共同体の神」と「老人、寡婦、病弱者、子供」の取り分をまず控除し、
次に「不時の将来への備え」として(可能な分を)控除し、残りを各自の必要に応じて均等に分配する。
そこには商品、貨幣などなく、さらには「価値」と呼ばれる物象的な力など、かりそめにもない。
また、「互酬」と呼ばれる(広義の)再分配方式もある。
それは「所有物(あるいは労力)を互いにプレゼントし合う」という、これまた商品、
貨幣を不要とする生産物の「無等価交換」でしょう。
>生産物交換(交易)は縄文時代からあった
まさに商人は歴史上最も古い「世界市民」であり、伝統的な共同体を超えて、
価値の差異(マージン)を利用して富を蓄積して行ったわけです。
「実在(質)の『限界』とはその内において実在がそれであり、
同時にその外において実在(質)がそれである所として、
他の実在(質)と出会う『共同性』(広場、量)の定立である。」
(ヘーゲル@パラフレーズ)
彼らはそれと知らずに、伝統的な共同体を外部から壊し、その世界化を推進した革新者です。
確かに貨幣は「革命的」であったが、もはやその歴史的使命は終りつつある。「否定の否定は真の肯定」、かな。
457 :
革命的名無しさん :2009/03/05(木) 21:15:16
100 名前: 95 投稿日: 2001/02/27(火) 00:31 >OFW氏 レス、サンクスです。 貨幣とは「共同体の否定」だが、貨幣を否定する共産主義社会とは「共同体の否定(貨幣)の否定」として、「共同体の真の 肯定(否定の否定)」だということですね。ここにも、弁証法が活用されているわけですね。 貨幣は確かに弁証法的(革命的)契機だが、 それはたかだか「第一の否定」しかなしていなく、 貨幣(第一の否定)の否定としての共産主義ををもって始めて 弁証法的展開(否定の否定)だということになるわけですね。 ・・・っていう具合に、マルクスの弁証法を捉えてみたんですが、よろしいかな? 101 名前: 名無しさん 投稿日: 2001/02/27(火) 00:44 弁証法は、3段階のどの部分に力点を置くかによって立場も大きく変わると思います。 ヘーゲル左派のなかでも綜合を強調する立場と、綜合を強調するあまり、 反定立が定立を保持した運動になってしまうのではないかという立場では、大分ニュアンスが異なりますね。
458 :
革命的名無しさん :2009/03/05(木) 21:17:17
102 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2001/02/27(火) 00:47 A + anti A =B 103 名前: 名無し 投稿日: 2001/02/27(火) 00:56 A + antiA ≡ A , ∵antiA⊂A 104 名前: OFWファン 投稿日: 2001/02/28(水) 15:36 久しぶりにこの板に戻ってきました。 ヘーゲルの解釈本(城塚登著「ヘーゲル」講談社学術文庫、 金子武蔵著「ヘーゲルの精神現象学」ちくま学芸文庫)をざっと読んだのですが、 というか読んでいたのですが、そのあまりのつまらなさにモチベーションの低下はさけられず、 中途半端に断念してしまいました。 でもOFWさんやみなさんの意見とその本で 弁証法やヘーゲルの思想がおおざっぱに分かってきたような気がします。 ということであまりに疲れたので、しばし思考を停止し羽を伸ばしたいと思います。 ではみなさんお元気で。
459 :
革命的名無しさん :2009/03/05(木) 21:18:04
105 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2001/02/28(水) 19:59 AとBは同時に存在出来ない、そこからAを発展させBを止めておく。 これで2つの物が存在できるってこと? 106 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2001/02/28(水) 22:58 Aの内包が時間という概念のもとに変化する限りは ~Aの外延がAの外延と同値であるとはいえなくなるので弁証法も科学的といわれ続けるのですかねえ。 107 名前: 106 投稿日: 2001/02/28(水) 23:10 もとい! "~Aの外延がの「B」の外延と同値であるとはいえなくなるので"でした。 ただし、現時点で、>105さんの話しで~A≡Bだという前提で。
460 :
革命的名無しさん :2009/03/05(木) 21:19:05
108 名前: OFW 投稿日: 2001/03/13(火) 21:21
>>100 (95)
忙しかった仕事が一段落したので、亀レスながら。
>貨幣は確かに弁証法的(革命的)契機だが、それはたかだか「第一の否定」しかなしていなく、
>貨幣(第一の否定)の否定としての共産主義をもって始めて弁証法的展開(否定の否定)
>だということになるわけですね。よろしいかな?
OKです。
マルクスの「社会の自然史」という方法論的立場は、
即自的(=向他的)(自然的、潜在的、推移的)
|
向自的(自立的、顕在的、反照的)
|
即且向自的(歴史的、自覚的、発展的)
というヘーゲルの否定の否定を、社会の唯物論として転倒し、
歴史の真の主体が何かを明らかにしたものと言えるでしょう。
>>101 >弁証法は、3段階のどの部分に力点を置くかによって立場も大きく変わる
確かに、対立(矛盾)を強調するか、その止揚を強調するかで、ニュアンスが異なる。
ヘーゲルも自己の哲学を「思弁哲学」と呼んだが、それは、むしろ遅れたドイツの反映でしかなく、
保守的・妥協的な観念論になった。
461 :
革命的名無しさん :2009/03/05(木) 21:19:35
462 :
革命的名無しさん :2009/03/05(木) 21:20:12
108の続きです。
>>102 >A + anti A =B
数学的な記号は「相当性」「等価性」という外的なものを表象させるので余り適当ではないでしょう。
(記号論理学のような無思想になる。)
anti(反)とはA自体に含まれているものです。
>>103 >A + antiA ≡ A , ∵antiA⊂A
集合論的な比喩を離れれば、「Aと非Aからなる全体」とは、「Aの定立根拠」のこと。
「Aとそれ自体との同一性」が「Aと非Aとの区別」と同一であることをAの存立と言います。
それは「自己に帰る運動」です。
463 :
革命的名無しさん :2009/03/05(木) 21:24:41
109 名前: OFW 投稿日: 2001/03/13(火) 21:23
>>104 >そのあまりのつまらなさに モチベーションの低下はさけられず
日本には、まともな弁証法の解説書は無いのではないかな。
弁証法的な思考は具体的・実践的・革命的なものであり、
活きた現実の中でこそ力を発揮するものでしょう。
>>105 >AとBは同時に存在出来ない、そこからAを発展させBを止めておく。これで2つの物が存在できるってこと?
通常、B(非A)はAによらずそれ自体でBと考えられているが、AならばBでない、
という排他性(他者の否定が自己である)に進展すると、AとBは関係性において見られることになりますね。
そのことは、両者は独立した2つの物ではなく、1つの物の2つの現れとして存在することを示している。
>>106 >Aの内包が時間という概念のもとに変化する限りは
変化とは「Aが非Aになること」であり、「非AはAであった」ことですから、
内包Aは非Aにおいて“否定的に”保存されていますね。
>~Aの外延がAの外延と同値であるとはいえなくなるので
非Aとはむしろ外延しないもの、観念(内包)そのものでしょうね。
外延論理学(形式主義論理学)は内包(質的区別)を抽象して、
その真理である量において世界を外的に(無思想的に)思考します(計算と呼ぶ)。
そこでは、非(否定)は無−差別という肯定に過ぎない。内包が変化しても、それに無頓着なわけ。
>弁証法も科学的といわれ続けるのですかねえ。
エンゲルス以来、日本共産党に至るまで弁証法を科学と呼ぶが、それは大いなる誤解、です。
464 :
革命的名無しさん :2009/03/06(金) 12:13:29
>>463 アンチ日共の三浦つとむも弁証法は科学とか言ってたな。
465 :
革命的名無しさん :2009/03/06(金) 19:27:04
110 名前: ・e・ 投稿日: 2001/03/14(水) 00:41 面白いスレだなぁ。 全て読ませていただきました。 で、いきなりOFWさんに質問したいんですが、 A(或いは、これはコーラだろうか)という定立に既に潜在的にAの定立を否定する非Aの契機 (これは牛乳ではない、コーヒーでもない、等々)が含まれているわけですね。 そして非Aが顕在化すると同時に、 改めて(牛乳やコーヒーとの関係性から)「これはコーラだ!」という総合へと発展する、 これをA+と呼んでおきますと・・・ A+の中には非A+(これは食べ物ではない、等々)が含まれており、 非A+の内容が顕在化すると同時に、 改めて非A+との関係性から「これは飲み物だ!」という総合へと発展する、 これをA++と呼んでおきますと・・ 〜と具合に、抽象性や一般性のより高度で幅広いステージへ移行する、と。 まぁ大雑把に言うとこんな感じですか?
466 :
革命的名無しさん :2009/03/06(金) 19:28:30
111 名前: ・e・ 投稿日: 2001/03/14(水) 00:52 で、問題は二点ありんす。 一点は非Aの内容(これは牛乳ではない、コーヒーでもない)は この内容が顕在化されて初めて「創造」されるものなのか、 或いは初めからA(これはコーラだろうか)の中に含まれていたものか、という点。 要するに弁証法的思考における自由と必然性に関するものです。 で、もう一点は上と多少関係するのですが、 いわゆる思考の三段論法はそのうちに時間的な推移を認めない、 純粋な論理的操作だと私は考えていますが、 他方で弁証法発展というものにおける「生成の論理」は何らかの時間規定を含んでいるのでしょうか。 後期ヘーゲルでは弁証法は歴史の発展原則そのもののように考えられ、 理性の自己発展としての世界史は、 神的な普遍理性が「永遠の今」のうちに繰り広げる歴史の必然的な推移のように 捉えられていたような気がします。 だとしたら弁証法は、思考の「しなやか」な自由を保証するものではなく 歴史的事象の必然性を正当化するようなものになってしまう恐れがあるような気がします。
467 :
革命的名無しさん :2009/03/06(金) 19:34:41
118 名前: OFW 投稿日: 2001/03/15(木) 23:31
>>110 (・e・さん)
どもです。
>面白いスレだなぁ。
いえいえ、・e・さんにはとても及びません…(とおべんちゃらなど)
>A(或いは、これはコーラだろうか)という定立に 既に潜在的にAの定立を否定する非Aの契機…
>が含まれている>わけですね。
そう思います。
「何かがある」とは、多様で変容する世界の中で主体が特定の存在者に向かうことであり、
対象Xを実在するものとして指示するためには、「それの何」(質)をAとして、
非Aから識別(区別)する働きがそこにある。
しかし、区別から同定に帰る運動自体は非対象的で、
対象化されるのはその結果(総括)としての「これ−A」という存在者です。
>そして非Aが顕在化すると同時に、「これはコーラだ!」という総合へと発展する、
実在判断(質の判断)は「個別的なものは普遍的なものだ!」という形式内容を持ちます。
しかしコーラとは個別対象ではなく、一般概念ですから、
主語「これ」と述語「コーラ」との関係は「である」という同一性ではあり得ない。
「これはコーラそのものではない」からです。
「これ」は様々な(多様な)個別者、一般的な個別者を指している。
つまり「これのこれ」「あれのこれ」等の間の共通性が<これ−コーラ>です。
しかし、そうなると質の判断は反省の判断(関係性の領域)に移行します。
>非A+の内容が顕在化すると同時に、…「これは飲み物だ!」という総合へと発展する、
反省の判断は、単称判断、特称判断、全称判断に区分されます。
「<これ−コーラ>は一つの飲み物だ!」(単称判断)
>抽象性や一般性のより高度で幅広いステージへ移行する
『(小)論理学』では、
質の判断→反省の判断→必然性の判断→概念の判断→質的推理→反省の推理→
必然性の推理→客観的関係→…として、
より“具体的”なステージへの移行として示されています。
468 :
革命的名無しさん :2009/03/06(金) 19:37:29
119 名前: OFW 投稿日: 2001/03/15(木) 23:34
>>111 (・e・さん)
>この内容が顕在化されて初めて「創造」されるものなのか、
創造ではなく、より客観的・具体的な対象への移行でしょう。
「これはコーラだろうか?」に対する答としては、
1. いや、これは牛乳であってコーラではない。(偽の概念)
2. いや、これはコーラと呼べる代物ではない。(偽の対象)
3.そうだ、まさにこれはコーラと呼ぶべきものだ。(真の対象・概念)
の3通りがある。
ある対象をコーラと呼ぶためには、コーラの質(コーラの<コーラ性>)が他の質と区別され、
明確になっていなければならない。
対象Xがコーラであって牛乳ではないのは、それがまさにコーラだからでしょう。
それは、概念としての質を表現し、単なる名辞ではない。
そして、真の概念とは客観的な対象を指示するものを言いますから、
対象の「見かけ」を通してその本体に向かう場合、本体は前提されたものです。
それは、現象に過ぎない存在から、より現実的で客観的な世界を対象化して行く知性の運動であり、
「真の実在」に到達するための(精神的)労働です。
>要するに弁証法的思考における自由と必然性に関するものです。
客観的世界の必然性を認識することは、認識主体の自由そのものではないでしょうか。
必然性の概念は「他ではあり得ない」(否定の否定としての自己肯定)ということですから、
必然的なものとは本来、自己を媒介する運動です。
しかし、それがその媒介に対して外的な関係を持つが故に、「外的必然性」と呼ばれ、
盲目的運命に喩えられたりもする。必然的なものを認識するとは、その被媒介性を知り、
「他でもあり得た」という可能性と「他ではあり得なかった」必然性とを結合すること、
すなわち、全体として歴史を動かす自己を知ることです。
そのことが、歴史の主体として「プロレタリアートの運命をその未来に変え」、
「必然性の王国から自由の王国へ」(マルクス)と向かうための第一歩と言えるでしょう。
469 :
革命的名無しさん :2009/03/06(金) 19:44:16
120 名前: OFW 投稿日: 2001/03/15(木) 23:36
>>111 (・e・さん)(つづき)
>弁証法発展というものにおける「生成の論理」は 何らかの時間規定を含んでいるのでしょうか。
とても重要な指摘ですね。
存在と生成の関係は弁証法の基幹にある。
経験的な世界は変転極まらず、固定した存在と見えるものも生成消滅を免れ得ない。
その様相を「生成」という概念で定着させると、それは無から有への移行として跡付けられる。
では“何が”移行するのか、と問えば、「未だ生まれず、既に無ではない何者か」と言わざるを得ないが、
それは移行の“内に”あって自己に止まるものであり、移行の果てに現れるものでしょう。
それは外化しつつある何者か、
時間的な過程を通してその統一を保持しつつ発展する<事柄としての歴史>そのものと言えます。
ハイデガー的に言えば、「時熟」するものの概念化が歴史的形成の論理としての弁証法でしょうか。
(ハイデガーは<存在>観念に捕われ過ぎたが、生成する物質的自然こそが本源的な存在でしょう。)
>理性の自己発展としての世界史は、神的な普遍理性が「永遠の今」のうちに繰り広げる
>歴史の必然的な推移のように捉えられていた
ヘーゲルの弁神論においては、絶対者は決して世界に現存在できない。
実体の主体化が見せかけに過ぎないのは、結局、主体が単数だからです。
それは具体的普遍を説くことで、
近代的個人主義(すべての個人が絶対的主体である)の抽象を超えてはいるが、
本源的自然(唯物論)が欠けているために、本来的な他者を知らない。
人間にとって自然とは必然であり、自己の根拠をなすものですが、社会的労働により自然は媒介され、
諸個人は共同的な類として、初めて現実的主体になる。
>だとしたら弁証法は、思考の「しなやか」な自由を保証するものではなく
>歴史的事象の必然性を正当化するようなものになってしまう
内的な必然性とは外的な必然性(偶然的な必然性)とは違い、
自己を必然とする(自己の実現を目指す)ものです。
それは、外的な世界の必然性を自己の自由な条件とする思考(歴史的構想力)によって、
しなやかで創造的なものになるでしょう。
「状況は開かれており、未来はそこにある。」
470 :
革命的名無しさん :2009/03/06(金) 19:48:02
121 名前: ・e・ 投稿日: 2001/03/16(金) 00:45 >OFWさん なるほど。 ところで『小論理学』を一度読みたいのですが 手ごろなところではやはり岩波の古い翻訳になるのでしょうか? それと個別的な事象に「質」が対応する(一致ではないですね、厳密には)のは分かるのですが、 一方でヘーゲルの言う「量」概念が分かりません。。。ご教授いただけます?
471 :
革命的名無しさん :2009/03/06(金) 19:52:57
122 名前: OFW 投稿日: 2001/03/17(土) 10:21
>>121 (・e・さん)
>手ごろなところではやはり岩波の古い翻訳になるのでしょうか?
そうですね。講義ノート(補遺)がついているから、理解の手がかりとして便利です。
しかし、難解さは天下一品ですから、スルメをしゃぶるように読むしかないでしょうね。
>「量」概念が分かりません。。。ご教授いただけます?
そんな大それたことはできませんが、ヘーゲルの紹介程度なら…。
472 :
革命的名無しさん :2009/03/06(金) 19:58:26
122 名前: OFW 投稿日: 2001/03/17(土) 10:21
>>121 (・e・さん)
>手ごろなところではやはり岩波の古い翻訳になるのでしょうか?
そうですね。講義ノート(補遺)がついているから、理解の手がかりとして便利です。
しかし、難解さは天下一品ですから、スルメをしゃぶるように読むしかないでしょうね。
>「量」概念が分かりません。。。ご教授いただけます?
そんな大それたことはできませんが、ヘーゲルの紹介程度なら…。
473 :
革命的名無しさん :2009/03/07(土) 19:08:11
122の続きです。 1.量とは質の止揚(揚棄)である。 質とは存在(有)と一体となった規定性(区別)であり、 有(純有、無、成):始源における無−規定性としての質 定有(実在性(即自有)、他在(向他有)、限界):変化としての質 向自有(一者):自己関係(自己復帰)としての質 と進行するが、向自有において、その自己関係性は矛盾(多くの一者)として立てられ、 量(無−差別性)に移行する。 2.量の規定性は、 純量(連続量と不連続量、単位):量の即自有、無−関係性としての量 ↓ 定量(外延量、(集合)数) :量の定有、自己超出としての量 ↓ 度(内包量、尺度、比) :量の向自有、自己関係としての量 と進行する。 3.度に至って、量は限度(質的な定量、質量)に移行する。 …と書くと、「不可解なりぃ!」となるでしょうから、少し解説をば。
474 :
革命的名無しさん :2009/03/07(土) 19:12:36
123 名前: OFW 投稿日: 2001/03/17(土) 10:22
>>121 (・e・さん)(つづき)
「通常分割可能と考えられる量も、それ自体を直観すれば、
唯一かつ不可分な存在であることが分かる」(スピノザ)と言われるように、
質的な多様の底には存在の一様性がある。
それが純量であり、絶対的な連続性としての自然の在り方です。
同時に、質の否定性としての他在は限界として立てられた訳ですが、
量においては単位という区別に止揚されている。
単位とは区別の無差別性であり、
多様な存在を連続化(一様化)させる根拠であると同時にそれを区別化(集合化)させる根拠でもあるでしょう。
それらを完全な形で展開したものが、数(単位と集合数の統一)です。
エレメントとしての“1”において、両者は直接的に統一されている。
数学は数を作ること(数えること)から始まるが、何を単位にするか、が重要な点です。
そして算術は単位と集合数の関係の展開であり、和とは数を規定すること(数の限定)、
積とは集合数を単位に変換すること、冪は単位と集合数の相等性を立てること、等々と言われます。
また、ヘーゲルは微分にも言及しており、微分量を「消滅しつつある量」と呼んでいます。
それに呼応した言明としてエンゲルスの「微分積分の登場によって、
科学は運動を取り扱えるようになった」というのがあります。
数学的思考は事柄の内面に踏み込まない外面的な思考であり、
外面的(相互外在的)対象には妥当するが、それも一定の<限度>内でのみということを忘れると、
現代の形式論理や経済学の無思想になるのはホントですね。
近代は商業と数学によって切り開かれてきた。
それはデカルトの「幾何学の精神」の源泉でもあり、さまざまな国を冒険したガリバーが到達した結論
「人間精神の違いは体の大小に過ぎない」にも示されている(花田清輝『転形期の精神』のバラフレーズ)。
しかし、深遠なものは広大なものでもあるから、内包は外延に比例するのです。
外面的な大きさはむしろ卑小な内面を覆い隠す「見せかけ」だということは、
「外見がすべてだ」という現代にこそ相応しい警句でしょう。
475 :
革命的名無しさん :2009/03/07(土) 19:33:49
124 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2001/03/17(土) 18:43
>>123 最後の段落(「しかし…」)はどうにもおかしい。
思うに、「深遠なものは広大なものでもあるから」を削除して、
内包は外延に反比例する、とすべきだろう。
そうしないと「外面的な大きさは…」以下ともうまく重ならない。
そもそも内包・外延を内面・外面と読みかえるのが強引なのだが。
126 名前: ・e・ 投稿日: 2001/03/18(日) 00:28
>>122 いかにもヘーゲルって感じの力技ですね(笑)。いや、だいたい分かります。
質と量との相互媒介によって、概念がだんだんと規定、領域化されてゆき、
なおかつ上のレベルへの移行がなされているのがよく分かります。
ですが量に関するこうした議論をみてゆくと、
一見ヘーゲルは数学や自然科学の基礎づけをしているように見えます。
ですから現在の数学が、対象に対して外在的にふるまうだけの思考である、という下りはよく分かりません。
現在の数学はヘーゲルの所産だけを見て、そこに至るまでの弁証法的な思考の運動を省みていない、
という意味なのでしょうか?
476 :
革命的名無しさん :2009/03/07(土) 19:37:53
127 名前: OFW 投稿日: 2001/03/18(日) 12:09
>>124 >「深遠なものは広大なものでもあるから」を削除して、内包は外延に反比例する、とすべきだろう。
添削ありがとうございます。
ただ、内包量(示強性の量)vs外延量(示量性の量)は、
即自的(観念的)vs向他的(実在的)な関係にあり、
現存しない量vs現存する量の関係として、
比例が正しいと思います。
現存する量の間の関係(関係が実在的になっている)ならば、
“総量(質量、限度)は一定”であり、その限度内において、両者は反比例すると言えますが。
>そもそも内包・外延を内面・外面と読みかえるのが強引なのだが。
ヘーゲル論理学では、同等のカテゴリーが3度登場する、と言えます。
(余り良い言い方ではないが)最初は実在の領域(直接性)、
2度目は本質の領域(媒介性・相関性)、
3度目は概念の領域(媒介された直接性)です。
<内包・外延>は量としての実在領域におけるカテゴリーですが、
その本質領域での対応(対照)物は<内容と形式>の相関、
あるいは<内的なものと外的なもの>の相関と考えられます。
外面的な大きさは、内面的な大きさ(度量の広さ、教養の広さ等)とは異なり、
事物の外面性における単に外的な(非本質的・偶然的な)ものであり、
それは仮象として外面性における単に内的なもの(可能的なもの)です。
真の内面性は自己を現実化する力として、向自的な精神性でしょう。
「人間、40歳にもなれば、自分の顔に責任がある」(リンカーン)だそうです。
477 :
革命的名無しさん :2009/03/07(土) 19:40:57
128 名前: OFW 投稿日: 2001/03/18(日) 12:10
>>126 (・e・さん)
>いかにもヘーゲルって感じの力技ですね(笑)。
ども。
『ヘーゲルは美味しい』(西研)のは、時にバカバカしく思える程の概念力(大雑把さ)のためでして…。
>現在の数学はヘーゲルの所産だけを見て、そこに至るまでの弁証法的な思考の運動を省みていない、
>という意味なのでしょうか?
デカルトの「幾何学の精神」から、悟性的(明晰・判明)な知性が発達し、
特に数学は強力な分析ツールとなりましたが、量および数には思想が含まれているのだ、
という事は数学者自身も反省すべきでしょう。
たとえば、かのラッセル(大のヘーゲル嫌い)は『数学原理』なる論理学書をもって数学の基礎を打ち立てた、
と言われるが、実際にはむしろ逆に、論理(思考のオルガノン)を数学(集合論)に還元してしまったと言えます。
以前、論理学スレで、形式主義論理学論者と議論して明らかになったことは、
「真理の計算」を論理的思考と呼ぶことは、非合理的な結果(例:爬虫類である人間)を容認して省みない
悪しき形式主義に陥る、ということでした。
世界を計算し、経済を計算し、歴史を計算できれば、人間は要らず、
カネ勘定だけに没頭する厨房が増えるのも無理はないというもの。
実際、分数計算も満足にできない小学生が増えている現在、
学校教育で早くから弁証法的思考を習得させ、
「分数とは何か」という量の概念から理解させることは、知性改善にとって有益かつ急務の課題でしょう。
しかし、株価は暴落(限度を失い)、数理経済学の均衡理論は均衡を失い、
経済は政治化(非合理的に人間化)され、いやはや哲学なき時代は…。
478 :
革命的名無しさん :2009/03/07(土) 19:44:40
129 名前: 素人です! 投稿日: 2001/04/14(土) 20:33 エンゲルスが形式論理学が初等数学なら、弁証法は高等数学だと言ったそうですが、 それはどういう意味なのでしょうか?
479 :
革命的名無しさん :2009/03/07(土) 19:46:26
130 名前: OFW 投稿日: 2001/04/14(土) 23:20
おや、一ヶ月ぶりに上がっている。
>>129 1まず、「形式」(Form)という概念について
古代ギリシャ哲学以来、形式(形相)は質料(Material)との対立として議論されてきたカテゴリーであり、
存在論−認識論において重要なものです。用語からだけでも、
両者は観念論(Idealism、形相主義)と唯物論(Materialism、質料主義)との対立にも関係しています。
形は静止、完成として重んじられるが、質料は運動、未完成として、とかく敬遠されがちです。
ニーチェもギリシャ精神に、「アポロ的(彫塑的)vsディオニソス的(劇的、音楽的)」という対比を見ている。
形式−質料は相互に反照する本質規定であり、発展すると、形式−内容の対立に移行します。
つまり、形式は質料の他者、他者としての質料であり、個別的な存在(実在するもの)から、
その普遍的な面を抽象したものが形式であり、アスペクト(局面、観点、相面)自体と言えます。
形無き質料は形をもつことにより、それとして規定され得る。
質料は個別的な運動の原理であるのに対して、形は普遍的な静止の原理です。
2形式論理学と弁証法
近代は量の時代、形式化の時代です(量の本質が形式ですから)。
デカルトの「幾何学の精神」以来、数学は世界を計算可能にした。
それは、世界の中の多様な事物を一様な面に射影することにより、
すべての対象は形式的に分類・整理され、原理的に未知なものが無くなった。
論理学も伝統的に形式論理であり、「それは白か、白でないかである」などと言われたが、
数学化によりその形式性はより純粋になった。しかし、それは<事柄の内面>に入り込まない、
表面的なものでしかない。それは世界の生成、運動、歴史を無視して、
規則(形式、秩序)が永遠だと強弁する。
弁証法はそこを突く。それは徹頭徹尾、批判的、唯物論的、実践的であり、
形式の<妥当性>を超えて、<対象の真>(生成発展する事柄の概念)を目指す内容的、実質的な思考です。
480 :
革命的名無しさん :2009/03/07(土) 21:11:01
毛沢東語録は読んだよ。
481 :
革命的名無しさん :2009/03/07(土) 21:57:14
党員のみなさん、最低「共産党宣言」は読んで下さいね。
482 :
革命的名無しさん :2009/03/08(日) 14:56:06
132 名前: OFW 投稿日: 2001/04/16(月) 21:58
>>131 (129さん)
>判断は判断される対象の性質を記述しているとされます。
形式論理では判断の対象を「事態」と呼び、それは<論理的な世界>における無時間的な存在だと言う。
それはむしろ対象の表象に過ぎない。
>記述されるべき対象である世界の諸存在者は常に変化の相におかれている
実在する<この世界>において、そうですね。
>言語は存在者の変化に対して常に「遅延」していると言えます。
記述は常に遅延ですね。(かのデリダは「差延」と言ったが。)ただし、それは実在的な遅延というより、
「否定」という観念化です。ヘーゲル『精神現象学』の言うように、在るとは在ったこと。
言語的記述は、在る−もはや無い−在った、という運動であり、記憶に基づく表象作用として、
実在的時間の止揚(観念化)と言えます。
>いったん子供とみなされた対象は永久に子供でなければならない
これが存在から存在の<意味>への転換、言語主義という観念論です。
>形式論理が想定していると思われる「世界と言語の恒常的対応性」は厳密には成立していません。
そこで「可能的意味の世界」などというものが登場してくる。
>対象世界は常に変化の相にあり、マテリアルな対象世界が世界を形式化しカテゴライズせんともくろむ言語
>行為に対してプライオリテートを有している(質料の優先性=マテリアリズム・唯物論)という認識にたっている
形式(形相)化は認識の進展にとって重要な一歩です。常住定まらぬ世界において常住的なものを見ることは
知性の業であり、個別的な実在からその真理としての本質的な存在への飛躍です。
しかし観念論はそれ以上に進まず、そのために形而上学となる。
有機的自然において、対象自身(有機体)が形態化により自己の内容を現わす<働くもの>となっている。
それを前にして、観念論は無力です。
483 :
革命的名無しさん :2009/03/08(日) 14:59:05
137 名前: OFW 投稿日: 2001/04/24(火) 21:35
>>134 (RAGE AGAINST THE PHILOSOPHY君)
くだらない煽りにも、何かしら意味があるのだろう…
>弁証法じゃなけりゃ解決できない問題なんてあるわけ?
たとえば、かのマルクスが『資本論』を書くに当たり、ヘーゲルの論理学を読み直して、
「非常に役に立った。
お望みなら、自分はヘーゲルの弟子だとおべんちゃら言っても良い」(正確な引用ではない)と言っている。
つまり、資本主義の本質を解明するには弁証法が必要だと言うこと。
商品、貨幣、資本とはそれだけやっかいな存在なのだ。
>>136 (フィロゾファッカーさん)
>お久しぶりです。
お久しぶりです。最近は固定HNが少なくなり、張り合いが無かったです。
>結局、私にとってヘーゲルは難しすぎたようです。
ヘーゲルは確かに難解で、私も「虚仮の一念」で食い付いたのです。
しかし、神秘主義的思弁が混じっているため錯綜しているが、本当はごく分かりやすいものなのです。
(私の説明はマズイですが)
私は、何よりも弁証法を、固定したドグマを批判し、
事柄の真実を探求するめの方法、として理解しています。
世の中の矛盾した姿を見て、「これは一体、どういうことなのか?」 と疑問を持ったとしても、
「この世に矛盾など存在せず、正しいものは正しい」 と言う形式論理では、その答は得られない。
たとえば、<合法的な不正>が行われている現状を訴えても、「法は法であり、そのようなものは存在しない。
異議を却下する。」 との裁定が下るのみでしょう。
それは現実の現実性を見ない形式主義です。
その形式主義はすべての学問にも浸透していると言えます。
弁証法は、常に実践的・具体的・現実的に事柄に向かう知性の動力であり、
働く者に対して、生き生きとした思想の力を与えるもの、と言えます。
転変極まりない変化の中に静止を見ること、逆に固定した存在の中に運動を見ることは、
世界を現実に変革する者の自己認識でもあるわけです。
484 :
革命的名無しさん :2009/03/10(火) 13:42:54
・弁証法とは事物の<概念>を捉えることを求める。 概念的把握とは実在対象の十全的な(欠ける所のない完全な)理解とも言えるでしょう。 直接的な存在は、その根拠が明らかにならないうちは、偶然的で不十分な存在でしょう。 概念的把握とは結局、対象を歴史的に発展する事柄として動的・総体的に理解することです。 ・事物を概念化するということは(A)と(非A)を統一的に理解する認識作用である。 通常の科学や形式論理では(A)はあくまで(A)だと言い、(非A)と(A)の区別は外的な、つまり、主観 的な区別に過ぎないと言われる。 ヘーゲルは(A)自体の中に(非A)を見るから、区別するだけの認識(悟性)をむしろ「無概念的認識」と 言っています。
485 :
革命的名無しさん :2009/03/10(火) 13:44:41
1.これは何? 事物に対する問いがすべての認識の出発点であり、 それは、主観が対象Xを立てること(措定といいます)です。 「これ」とは目の前にある「何ものか」(何らかの実在者)です。 それは認識によって明確に規定されるが、それ自体は既にそこにある、 つまり前提された存在です。 そのことは、「対象」概念の二重性を示しています。 「対象」とは、一方でそれ自体で存在する実在(客観的な存在)を示すが、 同時に主観にとっての「対―象」であるということです。 ヘーゲルは前者を真(実在)の契機、後者を知(認識)の契機と呼んでいる。 両者の区分と統一が働きとしての概念化作用です。 カントは両者を機械的に分離したから、 「我々は現象を超えて、物自体を認識できない」という不可知論になった。
486 :
革命的名無しさん :2009/03/10(火) 13:47:21
2.それはコップか? 「そうではない、カップ、おわん…か。」) 認識は対象の特定、区別(弁別)、識別(同定)ですが、 さしあたり主観は対象認識を”遂行”するから、認識自体は対象化(意識化)されない。 対象を認識しようとする思考は否定的な働きです。 というのは、知性は感性と違い、対象をあるがままに受容するのではなく、 「これって何だ?」と言って、その「あるがまま」(自体)を否定するからです。 「対象を知るには、その直接性を否定しなくてはならない。」(ヘーゲル) そして、直接的な対象(実在)は、まず質によって区別されます。 「質とは対象を実在とする、最初の規定性である。」(ヘーゲル) それは主観の区別作用が対象の上に反映しているということであり、 対象を実在(直接的な存在)とすることは 「あれかこれか」の側面から対象を吟味することの結果(差異に基づく対象認知)です。
487 :
革命的名無しさん :2009/03/10(火) 13:49:25
3.それは(他のものじゃなく)コップである。 思考の直接的な否定性は、否定性自体を対象化できない。 それは、「Aでない」を常に「他のもの」、 つまり、「Bか、Cか、…」という実在的な形式(対象的形態)でした捉えられない。 そのため、自らの作用である「他のものじゃなく」(否定の否定)は対象化(意識化)されず、 その結果として得られた一般概念「コップ」が対象そのもの(真の実在)だと主張する。 実際、「それはコップである」(個別的なものは一般的なものである)は根拠のない断言であり、 まさに直接的(根拠をもたない)対象の判断(質の判断)です。 しかし、その真理は「個別的なものは一般的なものである」という形式に含まれており、 その結果、「あれかこれか」の質の判断は「あれもこれも」という量の判断(形式論理の 数学的等価性「A=B」)に移行あうる。
488 :
革命的名無しさん :2009/03/11(水) 13:20:36
あのー、484から急に高度つか難しくなってきたんすが、 これもOFWセンセのコピペなん?
489 :
革命的名無しさん :2009/03/11(水) 18:33:33
>>488 はい、そうだと思います。
でも、484と483は続きではありません。
490 :
革命的名無しさん :2009/03/12(木) 19:22:40
148 名前: OFW 投稿日: 2001/04/26(木) 22:26
>>144 >カントの場合、アンチノミーは あくまで仮象(見かけの矛盾)ヘーゲルの弁証法は実際の矛盾を止揚
>するということですか
カントはアンチノミー(二律背反、矛盾)について、
カテゴリーを経験的対象を超えて物自体に適用したために起きる 「仮象の論理」 であるとして、
弁証論を否定的に捉えたのですが、ヘーゲルは矛盾は客観的なものと見る。
「アンチノミーの真実で積極的な意味は、あらゆる現実的なものは対立した規定を自分のうちに含んでおり、
したがって、或る対象を認識、もっとはっきり言えば、概念的に把握するとは、対象を対立した規定の具体的
統一として意識することを意味する、ということにある。」(『小論理学』48節補遺)。
弁証法の要点ですね。
>>145 私もOFWです。宜しく。
>>146 (RIVIERAさん)
>量子力学はほんとに弁証法的思考の産物ですか
必ずしも意識的に弁証法を“適用”したわけではない。
あくまで古典物理学では説明できない物理現象を科学的に説明するために生まれてきた<科学的>
理論です。(アインシュタインはその確率論的な解釈を嫌ったが。)
湯川博士は晩年「自然現象は唯物論的で弁証法的だ」と語ったそうですが、
具体的に何を指していたのか、知りません。
弁証法は、エンゲルスや三浦つとむ氏の考えるような、
通常の意味での科学理論あるいは科学方法論ではなく、
むしろその批判(限界設定)として実践的な認識活動そのものです。
491 :
革命的名無しさん :2009/03/12(木) 19:30:15
183 名前: OFW 投稿日: 2001/07/27(金) 00:58
ども、お久しぶり。少々夏ばて気味。
>>165 >単に説明不足なだけです。
確かにその面が大きい。と言うより、説明者自身の無理解があるような。
前にも書いたが、「正・反・合」とはフィヒテの「外的弁証法」、
つまり自我ー他我ー大いなる自我という関係を一般化した外面的なものでしょう。
>ちなみに正・反が、そもそもどうして正・反なのかも、わかりません。
通常、正をテーゼ(定立)、反をアンチ・テーゼ(反定立)、合をジン・テーゼ(総合)などと言うようですが、
世の説明は誤解の元ですね。
1.定立とは何か。
ある事態をそれとして対象化することです。
たとえば、 「今の経済状態は何なのだ?」 「これは<デフレスパイラル>だ」 という具合に、
ある全体的な対象デフレスパイラルが直接に立てられる。
それは、ある直接的な事柄を媒介されたものとして根拠付けることであるにも拘らず、
媒介無しに断言(断定)として言われるから、一つの矛盾(形式と内容の矛盾)を形成する。
まさに「正・反・合は正しい」などは根拠の無い独断的主張に過ぎない。
2.反定立とは何か。
そこで、その根拠に関して反対の主張が同等の権利をもって主張され得る。
何故なら<根拠>とは定立と反定立双方の根拠であり、両者の本質的な同一性(矛盾)として
単に可能なものですから。
上記の例で言えば、 「いや、今は可能的にのみ<デフレスパイラル>であり、現実は違う。」 という具合に。
(実際にも「景気は全体として好調であるが、その回復のテンポはより緩やかになりつつある」という矛盾した
言説が続いた。)
3.総合とは何か
結局、根拠(理由)が直接的に立てられることは根拠の本性にあっていないのであり、
全体的な事柄を媒介する真の根拠とは<事柄の本質>であるということです。
上記例で言えば、資本主義の本質認識から始まって、
初めて<恐慌(デフレスパイラルの極限)の必然性>が導ける。
492 :
革命的名無しさん :2009/03/12(木) 19:36:15
184 名前: OFW 投稿日: 2001/07/27(金) 00:59
>>167 (165さん)
>やるなカント。
カントの優れた点も限界もそこに現れていることを見て欲しいな。(詳細は省略)
>>173 (hhさん)
>猫は死ぬ だから私の猫も死ぬ
私の猫は他のすべての猫とは違い、特殊な猫(招き猫)かも知れない?
「招き猫は本来の猫ではない」ということから <猫の本性> が遡及される。
>>174 (屁下るさん)
<根拠>(対象が何であるか)を示さない事は、独断的主張と呼ばれる。
>>177 >ようするにアルゴリズムみたいなものですか
数学的な論理操作ではなく、対象と対象認識の相互媒介です。
>>178 (変人さん)
>最後の勝者も、負かされる運命にある
<最後>とは何でしょう?
続けることを続けないこと(自己否定)ですね。それは運動を停止させること、
未来(未定)の運命を自ら決定すること。
>>179 >集合論
集合を作るためには、実在対象を数的な存在(要素)に変えなくてはならず、
それは実在の質的差異を捨象する。無内容な形式は思想形式のないもの。
>>180 (ffさん)
>空は青い だからイタリアの空も青い・・・・・弁証法
単なる古典論理における誤謬。
すべての空とは実在のイタリアの空ではなく空そのもの(空の本質)である、が弁証法。
493 :
革命的名無しさん :2009/03/12(木) 19:37:47
189 名前: OFW 投稿日: 2001/07/28(土) 20:10
>>185 >概説書
前にも書いたが、日本には、どうも弁証法に関するまともな概説書はなさそう。
ヘーゲル『小論理学』(岩波文庫)
レーニン『哲学ノート』(同上)
などの古典を丹念に読むしかないでしょう。
494 :
革命的名無しさん :2009/03/14(土) 23:09:37
496 :
革命的名無しさん :2009/03/20(金) 00:04:56
497 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :2009/03/20(金) 00:29:21
498 :
革命的名無しさん :2009/03/20(金) 10:09:52
>>496 リンクみちゃったw
嫌な話だ。
アメリカ版の文化大革命面白そうだねw
499 :
革命的名無しさん :2009/03/21(土) 09:34:47
500 :
革命的名無しさん :2009/03/21(土) 11:07:23
>>499 さすがに「文化大革命」はオーバーじゃないか?
これがただのガス抜きの可能性だってある。
それも2400万円以上の人が対象。
2390万円の人だってワーキングプアの十年以上の年収を一年で貰うんだ。
今後に期待かな。
501 :
コピペの代役ってことで。 :2009/03/22(日) 07:58:56
193 名前: OFW 投稿日: 2001/07/29(日) 17:55
>>192 (165さん)
>なぜ断言する必要があるのでしょうか?
「なぜ?」 とは根拠(理由)の定立に向かう認識の運動(理性欲求?)です。
それは、断言しないことも可能であるのに、
目の前には断言が現存在していることから出てくる問い(媒介の要求)ですね。
人が 「○○は××である」 と断言したり、しなかったりするのは、
断言(判断)とはそれだけで正しいと主張された<関連性の定立>であるという(矛盾した)
定義の中に含まれている。つまり、上記の問いは
「なぜ物事の関連性を立てる必要があるのでしょうか?」 と言うことを含んでおり、
そうなると、事物間の関連性を立てることは客観的認識の最初の行為だ、
という答えが出てきます。
>断定しないで、 「その段階では判定不可能である、もっと根拠を探す、
>考察を重ねるなどしなくてはいけない」と言えばいいだけなのではないか
<段階>とは<発展>という高度に弁証法的なプロセスに関わる概念です。
発展は飛躍という前段階の否定を含み、単なる量的な(実在的な)拡大重畳ではないのです。
認識の発展は、
主観的には知覚(直観)→判断→推理、
対象的には実在論→本質論→概念論
という段階を踏むと言えます。(実在は推移し、本質は反照し、事柄は発展する。)
また<判定>とは言明を何らかの基準と比較してその正否、妥当性を立てる判断ですが、
その場合、基準はそれ自体で真とされており、無根拠です。
基準の基準(最終的判定)はどこにあるのかが問われるべきであり、
それに対しては概念と実在の一致としての真理であるというのが、差し当たりの答えです。
それは正当性(妥当性)ではなく、真理性に関わります。
クルーグマンにいわせると、米国の社会主義的財政出動はこれでもまだ不十分だそうだが。
503 :
代役の代役だかんな。 :2009/04/02(木) 20:02:15
194 名前: OFW 投稿日: 2001/07/29(日) 17:58
>>192 (165さん)(つづき)
>生じる矛盾?の領域が、必ずしも断言した(定立した)領域の広さと等価であると評価できるとは、
>かぎらないため、一般論として成立しない
<領域>(対象領域)の定立とはまさに実在のカテゴリー化による再構成であり、
定立されたものとその否定(無限定)の両者を含む本質論的世界を対象化することです。
それは実在の一定の運動様式を抽象したものと言えます。
また、生じた矛盾(本質的対立)は常に限定的な矛盾であり、一般論ではなく具体論、です。
たとえば<明暗>(明と暗の矛盾)とは<光>(明暗の本質)の領域を立てるのであり、
音の領域とは矛盾しない。つまり、矛盾は常に自己の世界の中でのみ生じるものであり、かぎられたものです。
>根拠の本性
ある存在者の本性(本質)とは、それがそれである所以のもの、ですね。
それは現存在の根拠として、その様々な現れの底にある自己同一性です。
それは、その存在者が他のものでない所以のもの、と同じものであり、現存在の総体性を指しています。
「○○は××である」 という断定(判断)は根拠を示さないと、
そうとも言えるしそうでないとも言えるという単なる可能性に過ぎないが、
それはとは実在世界の中で様々な側面をもつ具体的な対象であるため、
「ある」という実在的な関係性では○○の全体を捉え切れないからです。
そこから「○○は□□であるが故に××である」と根拠付け(推論)が出てくるが、
しかし形式的な同一性が内容の
区別に対して外的に立てられた場合、根拠がそれ自体根拠付けを必要とするという無限後退に陥り、
「根拠の形式主義」(これは形式論理の数学的推論でもある)が生じる。それが根拠の本性です。
それは総体性としての根拠(関係性)が個別的に立てられるためであり、
現存在する根拠つまり<物自体>(無関係性)によって止揚される。
たとえば貨幣とはモノとして現存在する(経済的)価値(一般的等価物)であり、
すべての個別的評価(価格)を超越して、市場世界自体を定立するそれ自体無価値な価値根拠です。
そこでは「持つ」という関係性が支配する。
504 :
代役の代役だかんな。 :2009/04/02(木) 20:04:44
195 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2001/07/30(月) 18:01 デフレによる物の価値の下落はマルクスの価値論的にはどうなのですか?
505 :
代役の代役だかんな。 :2009/04/02(木) 20:05:25
197 名前: OFW 投稿日: 2001/08/01(水) 21:40
>>195 >デフレによる物の価値の下落
詳しい話は経済板の方が良いでしょうが・・・。
マルクス(主義)経済学派の経済学者でも労働価値説をまともに論じている人が見当たらないのは、
(経済的)価値の概念を正しく捉えていないためと言えます。
商品経済社会においては、「物の価値」は
1.使用価値(効用性そして稀少性)
2.交換価値(非所有者にとっての効用性)
3.価値本体(価値実体)
の3重性において現れ、それらは互いに弁証法的な関係にあります。
一方、(近代)経済学(そこでは価格の理論はあるが価値の理論はない)おいて、
「物の価値」とは常にその貨幣表現としての価格を言い、
1.個別商品種の価格(単価)
2.いわゆる物価、すなわち標準的生活財あるいは生産財の平均単価合計
のどちらかを指している。
1については古来「需要供給の均衡法則」として現象論的に説明?されているが、
2に関する満足な説明はない。
それは価値根拠として貨幣を公理的前提(説明原理)としているために、貨幣価値自体の変動を
説明できないのです。(物差しの長さが変るとは不可解!)
物価の一般的騰貴あるいは下落(景気循環)とは資本主義固有の現象であり、
資本による過剰生産(それは労働力の過剰消費でもある)に直接の原因があるわけです。
506 :
SL :2009/04/11(土) 19:57:23
社会主義者達はヘーゲルの観念哲学、弁証法を人間革命の要諦 年、その人間革命によって国家改造を目指した。 なを、人間革命は創価学会だけの専売特許ではない。日本人の 社会主義者が論理的につかったが、まさに、実践行動の最高の哲理だ これでニートか人間主義の社会主義者か見分けられる。 働かざる者は喰うべからず飢えて死ぬ者に革命の力は生まれない。 働く気力のないプチブルは社会の役立たず。飢えて死にたくない者 だけが革命の原動力となる。 働く気がないから、革命の邪魔をする。反革命反動主義者は苦労をい やがり正義を阻害し特権を独占する反革命主義者。 これを打たずば革命は達成いつまでも達成しない。
507 :
革命的名無しさん :2009/04/11(土) 21:15:23
このスレまだあったんだな。 まったく読むのも疲れるようななんか小難しい長文満載なスレになったな〜 簡単に言えば 「窮鼠猫をかむ」 「窮鼠そのまま猫にかまれる」 のどちらかって事だよな。
508 :
革命的名無しさん :2009/04/14(火) 00:23:53
読めば読んでもたいして意味がないとわかるから読めばいい。 現代人なら、誰でもわかるようなことを小難しく書いてあるだけ。 学者がえばるために、存在価値がある本と言える。
509 :
革命的名無しさん :2009/04/14(火) 15:09:26
そーなんだぁ・・ くだらねー 教えてくださいましてありがと感謝≫508
510 :
革命的名無しさん :2009/04/14(火) 16:53:08
「844」ドキュメンタリーDVD『ポピュリズムの体現者 ヒューイ・ロング』頒布のお知らせ。映画『オール・ザ・キングスメン』の
公開を機に、ポピュリズムの真実を学びましょう。2007.4.16
http://www.snsi-j.jp/boyakif/wd200704.html ヒューイ・ロングの体現した、ポピュリズムというのは、平たく云えば、「反ロックフェラー、反ルーズヴェルト」
ということで、金満資本家・政治家(プルートクラシー)による少数派の権力者の専制を批判し、庶民の草の根の
利益を代弁する政治運動のことです。
ヒューイ・ロングが、「モルガン、ロックフェラー、メロン、(バーナード・)バルーク」と、当時のフランクリン・
ルーズベルト大統領たちのさらにその上に君臨する者たちを名指しで叫ぶ様子は、今回これを翻訳した私たちの
仲間が「これは、殺されて当たり前だ」とつぶやいたほど凄いものです。是非、ご覧になって見て下さい。
ポピュリズムこそは、アメリカの本物の民衆思想だ。真実のデモクラシー(民主政体)を要求する切実な
アメリカ国民の怒れる姿だ。
“ポピュリズムの本場”アメリカで、1930年代の大不況さなかに民衆の不安と苦しみを背景にして登場した特異な
政治家たちがポピュリストである。
実際に当時のフランクリン・ルーズベルト大統領に対抗して出馬して、その激しく訴えかける名演説で、
「ニューヨークの石油財閥による政治支配をやめさせよ。富豪たちによる独占体制を打ちたおせ」と唱えて、
大統領選でアメリカ国民の熱烈な支持と注目を浴びた。そしてその選挙戦のさなかの1935年に案の定、
暗殺された。
511 :
革命的名無しさん :2009/04/14(火) 16:54:14
従って、ポピュリズムというのは、決して、今の日本で有識者や新聞記者たちによって使われているような 「大衆迎合主義者」や、「民衆の受けを狙った人気取り政治家」のことではない。本当は、ニューヨークの 金融財界や大富豪たちが、裏からあやつる謀略政治をやめさせようとするアメリカ独特の民衆運動こと なのである。本当の民主政治(デモクラシー)を実現しようという切実な運動のことである。これを支える 民衆の動きを、「草の根」(グラス・ルーツ)という。 彼らは決してリベラル派や労働組合の人々ではない。むしろ保守的な中産階級の白人たちの運動なのである。 アメリカ国民は1929(昭和4)年10月のニューヨークの株式暴落から始まった大不況に苦しみ、収入と 職の不安を抱えて、ワシントンの腐敗した政治に対していきり立っていた。
512 :
革命的名無しさん :2009/04/14(火) 16:59:07
ポピュリスト populist 、やポピュリズム populism (民衆主義)のことを、こんなにいい加減に使ってはいけない。 絶対にいけない。ただの「民衆迎合主義」で「人気取り政治家」のことを、ポピュリスト政治家だ、と思っている程度の、 その程度の知識人では、話にならないのだ。日本の立派そうな新聞記者たちでも、その程度の知識と知能しかない。 学者や言論人たちでも同様の低レベルだ。話にならない。 アメリカ政治(史)の中で、ポピュリスト政治家たちが、どれほどの血を流し、殺されていったのかを、歴史を全く 知らないで、使っている。(私、副島隆彦は日本ポピュリスト言論人なのだ、と、ずっと書いてきた。) 私の映画評論本などでも、このポピュリスト、ポピュリズム(民衆主義)とは何か、については、しつこく書いて きました。これが分からないと、アメリカ政治なるものは、一番肝心なところが分からないのです。 だから、私は、今日は少し怒っているのです。 私のアメリカ研究の本を読めば、これらのことは分かることだ。 (中略) だから、ロックフェラー石油財閥が、ニューヨーク金融界までも握るようになって、それに対して、「アメリカには 真のデモクラシーがない。死んだ。大統領までもあいつらが決めてあやつる。私たちの真の代表が大統領になって いない」と騒ぎ出す”草の根(グラスルーツ)”の保守の中産階級の白人大衆の怒りを体現して登場するのが ポピュリストたちである。 これがアメリカ政治の最大のダイナミズムであり、この民衆反乱の波が、数十年に一度、繰り返しアメリカを襲うのだ。 このことの政治思想上の重要性を理解しなければ、アメリカ政治学どころか、世界の政治学の根幹が分かったことに ならないのだ。
513 :
かく 酩的名無しさん :2009/06/06(土) 17:07:10
オポチュニスト(日和見主義者)は日本にはいっぱいいるんだがなあ。
514 :
革命的名無しさん :2009/06/06(土) 17:34:55
オポチュニストは共産党にも結構いそうですね。
515 :
革命的名無しさん :2009/06/06(土) 17:49:35
そりゃズル顕はそうやって伸し上がってきたからな そのDNAのおかげで今の日共はなんにも出来なくなった かっての社会党のように自民党の補完勢力に成り下がっちまったよ
517 :
革命的名無しさん :2009/07/01(水) 01:30:47
518 :
革命的名無しさん :2009/07/01(水) 08:39:50
>506 ここまでわけのわからない文を書けるやつってどんなやつなんだろう いままでいろんなバカ見てみたがここまでひどいのは知らない 少なくとも自分の生活圏の中で遭遇したことはない
519 :
革命的名無しさん :2009/07/01(水) 08:41:18
>506 人間革命うんぬんでお里が知れちゃってるけど
そもそも、資本主義が行き詰らないと、 社会主義革命なんて起こりようもないはずなのに、 なぜか、それに遅れた国で革命が起こってしまった。 この時点で、すでに理論が破綻しているようにも思うし、 逆に、この革命が本物じゃなかったとも思える。 後者だとすれば、将来、資本主義が行き着くところまで行き着いた国で、 革命が起こるということになるわけだが、 となると日本あたりか?
521 :
革命的名無しさん :2009/07/07(火) 23:03:00
同意。ただ、共産社会が到来するより先に地球がなくなっているか人類が絶滅していると思う
522 :
革命的名無しさん :2009/07/07(火) 23:47:58
日米。 それから、ロシアは帝国主義段階に移行したから、そのあとの社会主義段階への移行は理論的にありえる。 がスターリンが革命をつぶした。 そもそもロシア−ドイツ−ヨーロッパ革命−世界革命というのがレーニンの基本。
>>522 中国・モンゴルの共産化というのがありえんかったということになるんだろうな
ありゃなんだったんだろうな、形を変えた王朝だったんだろうか?
資本論を読んでも資本主義という言葉が一つも見当たらない。 もしかしてマルクスの言葉じゃない?
「資本主義的生産様式が支配的である諸社会の富は、、、」 いきなり出てくるがなw
526 :
革命的名無しさん :2009/08/02(日) 16:11:02
マニフェストー!!! マニフェストー!!! マニフェストー!!!
まさしくマニフな書き込みw
528 :
革命的名無しさん :2010/04/30(金) 18:43:40
『資本論』を読もうにも、ヘーゲルをお勉強しておかなきゃ 『資本論』理解できないって話じゃんかよ。 なして、唯物論の本を理解すんのに観念論の権化が必要なんよ? ここが理解に苦しむとこよな。 もっと言やぁ、ヘーゲル主義者じゃねぇマルクス主義者はいねぇって話じゃん。 これま解んねぇよな。
529 :
革命的名無しさん :2010/05/02(日) 20:27:34
530 :
革命的名無しさん :2010/05/04(火) 20:50:40
いいね、いいよ。 資本論なんぞ読んだこともない党員が増え、 マンガ本でも資本論が読める。 こんな形でもマルクス主義宗派の絶対化からの 離脱が可能になる、と。
531 :
阪僑文士 ◆oz7Wpm.iX2 :2010/05/05(水) 13:03:31
532 :
革命的名無しさん :2010/05/24(月) 11:11:12
>>528 なんでいまさら『資本論』なんか読みたいん?
>>531 つーことは、ヘーゲル研究者が一番の資本論の理解者って可能性が
一番高いって理解していいんか?
ヘーゲル論理学にしたって、マルクス資本論にしたって
すごく難しい本らしいよな。
下手したら、読了且つ理解するには、一生かかるってこともありうるぞ。
世の中、もっと愉しいことがあるだろうによ。
533 :
革命的名無しさん :2010/06/04(金) 18:51:03
>>532 もちろんもっと、もっと楽しいコトがいっぱいあるわいな。
あんなコトとかこんなコトがな。
ほんでもやな、楽しいコトをしながらやなぁ、
資本論は読めるんとちゃうん?
勘違いしなや。
資本論読みながら、且つイイコトしーや、ってのとちゃうんやからな。
ある時は、資本論、ある時はイイコト、って具合やな。
カキコしてるだけで、もっこりやで。
534 :
革命的名無しさん :2010/06/10(木) 01:06:48
a
535 :
革命的名無しさん :2010/06/10(木) 13:05:09
>>533 こっちは、読んでるだけで、もっこり。
今日は早く家に帰って、グジュグジュ、クチュクチュするんだ。
536 :
革命的名無しさん :2010/06/10(木) 13:33:46
不破志井もクーデター首謀者で権力の虜だ。 資本論はもう棄てるぜ。
537 :
革命的名無しさん :2010/06/10(木) 14:15:27
おまいらクーデター未遂の、自衛隊を配下に持つてんで出鱈目な共産党はとっとと 日本から出て失せろ!この三百代言どもめが!内乱罪の最高刑は死刑なんだ! 忘れるな! おまいらクーデター未遂の、自衛隊を配下に持つてんで出鱈目な共産党はとっとと 日本から出て失せろ!この三百代言どもめが!内乱罪の最高刑は死刑なんだ! 忘れるな! おまいらクーデター未遂の、自衛隊を配下に持つてんで出鱈目な共産党はとっとと 日本から出て失せろ!この三百代言どもめが!内乱罪の最高刑は死刑なんだ! 忘れるな!!
538 :
全日本地下抵抗運動評議会 :2010/06/10(木) 14:32:00
【共産党はクーデター勢力にまで堕落した】先日まで議会制民主主義を通じ多数者の 論理により革命を遂行す、としていた不破志井共産党が我々を裏切り、暗然多数勢力を 潜入している自衛隊を使いクーデターをおこすと言う魂胆が明らかになった! かくなる上はクーデターを目的に撹乱を行う共産党の言動に左右されずに、 議会制民主主義を転覆し不破志井独裁体制を敷かれる以前に、自由な現在の我々の あらゆる限りの手段を尽くして不破志井独裁クーデターを未然に包囲殲滅しようではありませんか! この重大案件は民主党、社民党、自民党、国民新党、みんなの党、新党日本をはじめ 自由と平和を愛するすべての団体、組織、個人の方々に向けて発するものであります!
540 :
革命的名無しさん :2010/06/11(金) 22:31:34
>>538 >>不破志井独裁クーデターを未然に包囲殲滅しようではありませんか!
基本的に間違ってるぜ。
共産主義者はありとあらゆる機会を契機にして流血赤色革命を狙っている。
たとえその機会が日共スターリニストによるクデターであっても、だ。
541 :
革命的名無しさん :2010/06/11(金) 23:33:53
日共加齢臭爺の刈り込みは、派遣ホームレスも総スカンクだな。 臭いんだよ、日共のプロパガンダは。あの悪臭、だれでもすぐにわかる。わからない奴が馬鹿なんだな。
542 :
革命的名無しさん :
2010/06/12(土) 00:01:17 日共狼は無党派民主団体の赤頭巾をかぶってね。幼稚園でもわかる。