狭山事件と救援会
一九九五年 三月 日本国民救援会中央本部
〈「狭山事件と救援会」の発表にあたり〉
千葉刑務所で無期懲役囚として服役していた狭山事件の石川一雄元被告人(敬称略)は、
一九九四年一二月二一日に仮出獄しました。なお石川は、東京高等裁判所にたいし再審請求
を行っています。
一方、狭山事件をとりあげて活動している「解同」(部落解放同盟)は、いま、彼らの組
織と運動を物質的に支えている地方自治体による同和対策事業を永続化させることを目的と
して、第三期部落解放基本法制定を求める運動を強めています。そして、その運動の一環と
して各地方自治体に働きかけ、部落差別撤廃条例や人権宣言の制定を強く要求しています
「解同」は、こうした要求闘争をすすめるうえで、今日もなお部落差別が現存する典型的な事例として
狭山事件を取りあげ、これを「狭山差別裁判」と規定し運動を展開しています。
こうした情勢のもとで、狭山事件にかかわって疑問や質問が救援会に寄せられています。そこで、改めて
狭山事件と救援会との関係について、裁判闘争や支援運動の経過にもふれて報告し、みなさんの理解をもと
めるものです。
〈狭山事件とは〉
1.狭山事件は一九六三年五月一日、埼玉県狭山市で発生した女子高校生の誘拐・殺人事件です。
翌二日、身代金を受取りにきた犯人をとり逃がすという警察の捜査の失敗に、世論の非難が集中しま
した。
こうした中で、五月二三日、石川一雄(当時二四歳)が別件の「窃盗・暴行等」の容疑で逮捕され、
マスコミは「中田善技さん殺しの有力容疑者捕まる」と大々的に報道しました。
石川は六月一三日、窃盗等で起訴され、一七日「保釈」されましたが、その場で、「殺人等」の罪名
で再逮捕され、六月二〇日に「善枝さん殺し」を自白するにいたりました。そして浦和地方裁判所に起
訴されました。
2.石川が逮捕されて六日後、父・富造の依頼によって、自由法曹団の中田直人弁護士ら三名が弁護
を引き受けました。
石川家は弁護料を支払うことができなかったのですが、中田弁護士らは自費で真相究明に欠くことの
できない捜査記録をととのえ、面会や調査活動などの費用をまかなっていました。
ほとんど孤立無援の状態にあった弁護団は、地元の何人かの人たちや救援会埼玉県本部の役員など、
ごく限られた人たちの協力を得られただけでした。しかも、「女学生殺しの弁護はやめろ」との脅迫状
が、何度も突きつけられるという困難な中で裁判に立ち向かっていました。
3.一審の公判において、石川は善技さん殺しを認め、一貫して自白を維持していました。しかし、
弁護団は法廷に提出された証拠物の発見経過の問題点や、証拠物と自白との矛盾をついて「石川被告は
真犯人ではない」と主張してたたかいました。だが、石川が自白を維持していたこともあって、一審の
裁判所の壁は厚かったのですが、それにも屈せず弁護団が「石川被告は犯人ではない」との最終弁論を
行ったことは、数あるえん罪事件の弁護活動の中でも例をみない優れたものでした。
しかし、裁判所は充分な審理も行わず、翌年の三月一一日、石川被告に「死刑」判決を宣告しました。
この一審での弁論が、控訴趣意書の重要な論点となり、二審における主張・立証の正当性をうらづける
大きなよりところとなりました。
一九六四年九月一〇日、東京高裁での第一回公判が開かれました。弁護人の控訴趣意書陳述のあと、
石川被告が突然「私は善技さんを殺していません」と自白を全面的に否定しました。
以来、一〇年におよぶ七〇回余の公判は、弁護団の尽力とこれを支える大衆運動によって全面的な
事実調べがおこなわれるにいたりました。死刑判決の誤りが次々と証され、明るい展望がきりひらか
れるにいたりました。
〈救援運動のはじまり〉
1.一九六八年三月「狭山事件の真相を聞く会」が、救援会中央本部の難波英夫会長(当時)を
むかえて埼玉・川越市で開かれ、この集まりが運動を大きく発展させるきっかけとなりました。
その後、現地調査、事件学費ム公、公判傍聴などが取り組まれました。そして東京での「石川一
雄さんを守る会」の結成をはじめとして、埼玉、京都、大阪、兵庫などにあいついで「守る会」が
組織され、公判記録の作成や弁護団活動を支えるカンパ、全国的な規模での現地調査、さらには記
録映画の制作・上映など、運動は急速に発展して行きました。
2.控誌審に入ってから、狭山事件はえん罪事件であるが「未解放部落住民にたいする偏見と差
別」が捜査官権によって利用され、それが石川が一審で自白を維持していることに関わっているの
ではないか、と中田弁護人らは、部落解放同盟中央本部を訪問して、裁判の問題点を報告し、何回
も支援の要請を行いました。しかし「本人が自白を維持している。観念している」ということで、
支援を得ることができませんでした。
ところが、「解同」(部落解放同盟)は、「部落民以外は差別者だ」という朝田理論にもとづく
運動方針を決定した一九六九年三月の第二四回全国大会で、狭山事件支援の特別決議を採択し、そ
の後狭山事件を「差別裁判」と規定していきました。
〈不当な中傷・非難〉
1.裁判闘争は、何よりも事実と道理にもとづいてすすめられるべきものです。しかし、
「解同」は狭山事件の裁判闘争を「狭山差別裁判」と規定し、全国大会後は狭山差別裁判の
糾弾闘争に「連帯するか否か」ということを踏絵とし、彼らの主張に同調しない団体や個人
を一方的に「差別者」ときめつけ糾弾するにいたりました。
そもそも「差別裁判」とは、部落出身者たることを秘して結婚した男を誘拐罪で逮捕し、
懲役刑にした高松裁判のような事例を指すことは、「差別のひどさを天皇に直訴した」と
北原泰作らが書いているとおりです。
正木ひろし弁護士も「狭山事件を差別裁判と言わなければならないとしたら、すべての
事件が差別裁判だということになる」(七四年一一月一日付朝日新聞)と論じています。
「解同」のこうした規定が間違っていることは改めて言うまでもありません。
2.こうした不当な非難・攻撃のほこ先が、何よりも第一審以来献身的に尽力してきた
中田弁護人らと救援会および「守る会」に集中しました。彼らは「日共・救援会の公正裁
判路線粉砕」と非難し、救援会や「守る会」が行う狭山事件の学習会に押しかけ、集会を
妨害するまでにエスカレートしました。
このように部落排外主義、暴力・利権あさりをすすめる「解同」の狭山差別裁判糾弾闘
争は、民主勢力を攻撃する手段として使われる結果となりました。
石川自身も彼らの誤った立場にくみして、私たちを一方的に非難、中傷することを少し
も恥とせず、中田弁護人たちや救援会・「守る会」の支援運動に攻撃のほこ先をむけてき
ました。
〈団結が破壊される〉
1.こうしたなかで東京高裁において死刑判決が破棄され、石川被告に無期懲役の判決が
言い渡されました。それから四か月後の一九七五年二月中旬、救援会および「守る会」は、
事件の救援運動をすすめる上で、最も基本的な被告、弁護団、支援団体の団結が破壊され、
狭山事件の支援運動から手を引かざるを得なくなりました。
2.以上のような経過について理解を助けるために、「狭山事件と救援会・守る会などの
取り組み(年表)」を今回新たに作成し、同時に救援会が狭山事件運動から手を引くことに
なった後に発表した文書「挟山車件の経過・問題点と我々の態度」を資料として再録するこ
とにしました。
註(以下の参考資料は、一九七八年当時、本部として発表したものです。)
参考資料1
狭山事件の経過・問題点と我々の態度 日本国民救援会
〈はじめに〉
一九七七年八月九日、最高裁第二小法廷は狭山事件の上告を決定によって棄却した。
これによって石川被告の「無期懲役」の刑は確定し、九月九日、千葉刑務所に収監され
た。弁護団は東京高裁に「再審」を申し立て、第四刑事部山本裁判長らによって審理さ
れることになった。ところで、狭山事件を支援している「部落解放同盟」などの団体は、
都内の各労働組合にいっせいに支援を申し入れているもようで、いくつかの労組から・
狭山事件の経過と問題点は何か・・救援会はどうしているのか・などの問い合わせが寄
せられている。
そこで、これらの質問に答えるため、狭山事件の経過と我々の態度を明らかにしてお
くことにした。
〈事件の経過と問題点〉
狭山事件は一九六三年五月一日、埼玉県狭山市で発生した女子高校生の誘拐・殺人事件である。
身代金を受取りに来た犯人をとりにがすという捜査の失敗に、世論の非難が集中した。
こうした中で、五月二三日、石川一雄(当時二四才)が別件の「窃盗・暴行等」の罪名で逮捕さ
れ、マスコミは「善技さん殺しの有力容疑者捕まる」と大々的に報道した。六月一三日、窃盗等で
起訴され、一七日に「保釈」されたが、その場で「殺人等」の罪名で再逮捕され、六月二〇日に
「善技さん殺し」を自白するにいたり、浦和地方裁判所に起訴された。
一審の公判において、石川被告は一貫して善枝さん殺しを認め、自白を維持していた。しかし、
中田弁護人らの弁護団は、法廷に提出された証拠物の発見経過の問題点や、証拠物と自白との矛盾
をついて「石川被告は真犯人ではない」と主張して闘った。だが、裁判所は充分な審理も行なわず、
翌年三月一一日、石川被告に「死刑」を宣告した。
一九六五年九月一〇日、東京高裁での第一回公判が開かれたが、石川被告は突然「私は善技さんを
殺していません」と自白を全面的に否定した。以来一〇年におよぶ七〇余回の公判は、弁護団の尽力と
これを支える大衆運動によって全面的な事実調べがおこなわれるにいたった。死刑判決の誤りが次々と
証され、明るい展望がきりひらかれるにいたったのである。
ところが「部落解放同盟」が狭山事件を「差別裁判」と規定し、これを承認しない人々を
「差別者」だとして糾弾の対象にするにいたり、支援運動は大きな混乱におちいった。こと
に、石川被告の逮捕以来献身的に弁護に当った中田弁護人等に対して「部落解放同盟」その
他の団体から「差別弁護士」とか「日共系弁護士」などと不当な非難・攻撃が加えられ、こ
れに同調した石川被告から中田弁護人らを「解任」するとの書面が送付されるという事態と
なった。また、国民救援会や石川一雄さんを守る会に対しても、不当な非難や、「真相報告
会」「映画会」の会場占拠など暴力的な攻撃が各地でひきおこされた。こうしたなかで、一
九七四年一〇月三一日、東京高裁は一審の「死刑」を破棄し「無期懲役」を宣告したのであった。
なお、重大なのは「差別裁判」に同調する「中核派」「反帝学評」などの挑発暴力集団が
「日帝寺尾体制打倒」「石川青年奪還」を叫んで、二審判決の前々日、五名が東京高裁長官室に
乱入、長官ら三名に鉄パイプでなぐりかかり(七四年一〇月三〇日付朝日新聞)、二年後には
有罪判決の報復として、寺尾正二裁判長の出勤途上を四谷で待ち伏せし、五人組がバットで乗
用車後部のガラスをたたきわり、頭、腕などに負傷させたことである。(七六年九月一七日付同紙)。
最高裁決定後には、調査官宅に時限式爆燃物、杉並駐在所、狭山・西宮・広島の派出所に放火し、
中核派は記者会見で同派の犯行を認めている(七七年八月二三日付同紙)。右のようなテロ行為は
枚挙に暇がない。
〈弁護団および救援会の活動〉
石川被告が逮捕されて五日後、彼の父・富造の依頼によって、自由法曹団所属の中田弁護士ら三名が弁護を
ひきうけた。石川家は弁護料を支払うことができなかったが、中田弁護士らは自費によって、真実究明で欠く
ことのできない公判記録をととのえ、面会や調査活動などの交通費もまかなっていた。孤立無援の弁護団は、
何度か「女学生殺しの弁護はやめろ」の脅迫状を突きつけられながら、裁判に立ちむかった。
裁判所の厚い壁は、石川被告が自白を維持しているということもあって、弁護側証人三二名の請求に対して、
「情状証人」四人を取調べたのみで、その他は却下されてしまった。それにも屈せず弁護団は「石川被告は犯人
ではない」と最終弁論をおこなったことは、数ある・えん罪事件・の中でも例をみないすぐれたものであった。
この弁論が、控訴趣意書の重要な論点となり、第二審における主張・立証の正当性をうらづける大きなよりどころとなっていった。
ところで、松川事件をはじめ八海事件など数多くの裁判の誤りを、大衆的裁判闘争によってただし、勝利の土台を築いてきた
日本国民救援会が、狭山事件を支援するようになったのは事件がおこってから五年後であった。もっとも、救援会の会長で、
部落解放同盟東京都連の会長でもあった難波英夫氏らは「部落民へのねらいうちだ」として、捜査本部にしばしば抗議し、
さらに第一回公判以来かかさず傍聴し、のちには解放同盟関東甲信越静協議会としてパンフ・狭山事件・などを発行したが、
大きな成果をあげるまでにはいたらなかった。
一九六八年一〇月、いよいよ最終弁論をむかえるという時、難波氏ら有志のよびかけで「第一回現地調査」が行なわれた。
参加は三〇余名にすぎなかったが、全参加者は裁判の重大性を痛感し、弁護団の支援と守る会結成による大衆的裁判闘争を
決意した。こうして、東京での守る会結成をはじめ、埼玉・京都・大阪・兵庫などにあいついで守る会が組織され、「公判
記録」の作成や弁護団活動費のカンパ、全国的規模の現地調査、さらには、「記録映画」の制作・上映など運動は急速に発展した。
〈「解同」の態度とその変化〉
狭山事件の審理が第二審に入ってから、石川被告の、「自白維持」が部落問題にかかわるのではないかと
痛感した中田弁護人らは、部落解放同盟中央本部を訪問して、裁判の問題点を報告して支援をしばしば要請
したが、かえりみられるまでにいたらなかった。
ところが、一九六九年三月、九段会館で開かれた第二四回部落解放同盟全国大会は、狭山事件支援の特別
決議を採択し、以来「狭山差別裁判」と規定して差別裁判糾弾闘争をとりくむにいたった。この大会は「部
落民以外は差別者だ」との朝田理論にもとづく「運動方針」を決定するとともに、日本共産党を差別者集団
として糾弾し、共産党代表のあいさつを拒否するなど異常な大会であった。そして、大会後には「狭山差別
裁判」の糾弾闘争に「連帯」するか否かを踏絵にして、これに同調しない団体・個人を「差別者」として糾
弾するにいたったのである。
しかし、そもそも「差別裁判」とは、部落出身者たることを秘して結婚した男を誘拐罪で逮捕し、懲役刑
にした高松裁判のような事例を言うことは、「差別」のひどさを天皇に直訴した北原泰作らが書いていると
おりである。正木ひろし弁護士も、「狭山事件を差別裁判と言わなければならないとしたら、すべての事件
が差別裁判だということになる」(七四年一一月一日付朝日新聞〉と論じている。彼らの規定が間違ってい
ることは改めて言うまでもない。
不当な非難・攻撃のほこ先が、何よりも第一審以来献身的に尽力してきた中田弁護人らと国民救援会およ
び守る会に集中したことについては、すでに述べた。「部落解放同盟」による狭山闘争が「部蕗排外主義者」
や「刺権あさり集団」・「暴力集団」の好餌となり、過日の東京における革新都政に重大な困難をもたらし、
また、大阪府下の各地で革新自治体破壊のよりどころになったことも周知のとおりである。
〈弁護団辞任のいきさつ〉
第二審判決後の一九七五年二月、中田主任弁護人ら七名は・石川君自身が、反共・反民主主義的破壊活動を
こととする「部落解放同盟」朝田派の立場にくみし、私たちを一方的に非難することを少しも恥としなくなっ
た以上、石川君の弁護人となることによって、その誤った立場をともにすることは、もはや私たちにはできま
せん・と声明して、弁護人を辞任せざるをえなかった。石川被告が、中田弁護人らの忠告に耳をかさず、自ら
一党一派に偏することによって無実を証かす唯一の道から転落したからである。
もっとも、第一審においても、石川被告は「金もうけのための弁護士だ」という取調官や拘置所職員などの
デマのまどわされ、弁護人に真実を述べようとさえしなかった。これは、第二審第一回公判における「私は善
枝さんを殺して居ません。このことは弁護人にも話してありません」という陳述にもあらわれており、この直
後、ある者の策動によって中田弁護人ら全員を、間もなく家族の説得で撤回しましたが、解任したこともあっ
た。
一九六九年、「部落解放同盟」が「狭山差別裁判糾弾」と規定し、中田弁護人らを非難するにいたっても、
なお、二年余にわたって石川被告は、中田弁護人らを信頼して「すべての人々に真実のみを訴え、誤りに手を
かすことがないように」との意見にしたがっている。
しかし、一九七三年にいたって、石川被告は中田弁護人らを「日共系弁護士」と公然と非難するにいたり
(七三年一月一五日付解放新聞)、さらに一九七四年四月には、中核派機関誌・武装・誌上において「三月
公判に於ける弁護士の不誠意・斗魂のなさといいましょうか、勉強不足には耳をふさぎ目をそむけたくなる」
と非難をエスカレートしていった。
このような状態の中で、やむなく中田弁譲人らが辞任した三カ月後の「解同」第三〇回大会への訴えにお
いて、石川被告は「何故一審当時から弁護活動を続けてきた日共系弁護士を、あたかも汚物を吐き出すかの
ごとく、切り棄ててしまったのか」として、さきの辞任声明をとりあげ、「日共系弁護士は一皮むけば、あ
のように破廉恥行為を平気で起こすんだ」と非難し、加えて控訴趣意書の量刑不当の論点をとらえ「私の糾
弾を真正面から受止めて自己批判するのではなく、恥知らずの居直りをおこなった「中田弁護人らに厳しい
糾弾がなされて当然だ」と悪罵を浴びせかけている。
石川被告の中田弁護人らに対する態度について、もはや論評を必要としない。
なお、「量刑不当」について附言すれば、控訴趣意書を作成した当時は、石川被告は「善枝さん殺し」の
自白を維持していたので、弁護団の論点の中心は「死刑判決の誤り」におき、最後に「かりにやったとして
も」というただし書のうえ、量刑不当を主張したのであって、「自白」を維持している裁判においてはやむ
を得ないものであり、石川被告が自白を撤回して以来、弁護団はこれを一回も主張していない事でも、充分
うなずけるものである。
〈結論にかえて〉
以上の経過が示すように、狭山事件について、真の大衆的裁判闘争は事実上不可能となった。
一方、「解同」による暴力は、一九六九年の矢田事件をはじめとして全国各地に波及し、七四年に
は兵庫県但馬地域をおおい、ついに八鹿高校教師に対する集団リンチ事件をうみだし、これら犠牲
者の救援こそ、正義と真実を守る重要な課題となった。
今日、「公正裁判要請」をはじめいかなる形にせよ、狭山事件の裁判闘争を支援することは「部
落解放同盟」の統一戦線破壊の策動に手を貸すことになるばかりでなく、挑発暴力集団の暴力をい
っそう助長することになることは、火を見るより明らかである。彼らの間違った裁判闘争の触手は
すでに狭山事件以外の島田事件にも伸ばされており、油断は禁物である。松山事件を先頭とする再
審事件のたたかいを正しく発展させて勝利することがますます大切になっている。
一九二八年に創立され、治安維持法下の暗黒時代から五〇年にわたって一貫して無数の弾圧裁判
をたたかってきた日本国民救援会の歴史と教訓をまなぴ、彼らの裁判闘争の誤りを大衆的に明らか
にすることは真に緊急かつ重要な課題である。日本人民の血と汗の結晶である松川、青梅、メーデー、
吹田、辰野、八海、鹿地、仁保等の無罪勝利の金字塔を断固として守り、今日の芦別、大須諸事件の
たたかいをさらに大きく発展させるべきときである。彼らの間違った裁判闘争は、司法の反動化に油
をそそぐのみであり、百害あって一利なきものである。いまこそ国民救援会の人権と民主主義を守る
たたかいを広げていくことが必要となっている。
参考資料2
中田弁護人らの辞任の声明
私たちは、石川一雄君の無実を確信し、弁護人としての活動に誠心誠意努力してきました。
すでに一九六七年後半には、「石川一雄さんを守る会」の真実と正義にねざす活動が、実質
的に始められていました。
「部落解放同盟」朝田派は、一九七〇年に至って、にわかに「狭山差別裁判糾弾」をとりあ
げ、同時に、「部落民にたいする差別的偏見と予断によって」「警察・検察・裁判所と同じ論
理のうえに立ち」、「石川無罪にたいする確信」を失い、「差別判決を根本的なところで是認
し」、「根本的なところでまったく屈服して」しまい、「決定的な誤りをおかした」として、
私たちをひぽうしました。以来、「部落解放同盟」朝田派は、あれこれの表面的態度にもかか
わらず、私たちを「日共系弁護士」と呼び、「差別者」と中傷し、私たちと石川君を離間させ、
私たちを解任させようとするなどの策動を執ようにくりかえしました。
そればかりではなく、「部落解放同盟」朝田派は、「差別裁判」を踏み絵とし、多くの分野の
人びとに、暴力と脅迫をもって、自己の政治的立場に屈服することを強要してきました。そして
また、殺人を公然賞揚するいわゆる「中核派」など暴力者集団と結びつき、かれらを「狭山差別
裁判闘争」の動員に利用しながら、民主勢力に敵対する攻撃を強めてきました。「石川一雄さん
を守る会」などの主催する集会は、しばしば「粉砕」の対象とされました。
「部落解放同盟」朝田派および殺人暴力者集団のこのような動きは、真に石川君を救援しよう
とする裁判闘争の大道とは全く無縁でありもともと、反共・反民主主義的破壊活動のために狭山
事件を道具とするものにすさません。私たちは、早くからこのことを明らかにし、公然と批判し
てきましたし、弁護団内部にあっても、このような誤った運動の反映を克服し、無実の者を救う
という一点で団結するよう努力しました。
194 :
名無しさん@3周年:04/01/20 23:15
>>191 長文、ごくろう。
晩年の中田弁護士は、石川が真犯人かもしれないと周囲に漏らした
と言われているが・・・真相やいかに。
さらに私たちは、石川君に対しても、すべての人びとに真実のみを訴え、誤りに手をかすこと
のないよう説得をつづけてきました。しかし、石川君は、これら策動の影響のもとで、ときに、
私たちを公然と非難するようになりました。一九七三年一月八日付および一五日付、「部落解放
同盟」朝田派機関紙「解放新聞」上の「新年の訴え」やいわゆるゆる「中核派」の機関誌「武装
」一九七四年八月号の「獄中からのアピール」における弁護団非難などがその例です。
控訴審判決後、「部落解放同盟」朝田派は、いち早く「日共差別者集団」の「粉砕」を叫び、
「一部の弁護人はかたくなに冤罪事件と限定した」とし、「部落差別がこの事件と裁判をつらぬ
く本質であるという主張をよわめ、否定する見解をもちこんではならない」などと述べて、私た
ちを排除することを求め、民主勢力に対する分裂策動を強化することをあきらかにしました。
それでもなお、私たちは、無実の者を救うために、被告人と弁護団の真の団結を固めるよう、
さまざまに努力しました。
ところが、「毛沢東思想」という雑誌の一九七四年一二月号は、石川君が父の言葉をかりる形
であるにせよ、「この判決のいったんに、量刑不当の控訴趣意書が大きく影響を及ぼしていると
いうことから遠藤さん(注1)は紹介者としての責任をとったのでありましょう、昨日付けで共産
党から脱退したそうであります」などという、全く事実無根のことを述べ、私たちを「力のない
弁護士」と非難する、石川君から「部落解放同盟」朝田派「推せん」の弁護人に宛てた「判決後
の第一信」を掲載しました。被告人の弁護人に対する私信であれば、その公表について、石川君
とその弁護人の同意があったことは明白です。
石川君じしんが、反共・反民主主義的破壊活動をこととする「部落解放同盟」朝田派の立場に
くみし、私たちを一方的に非難することを少しも恥としなくなった以上、石川君の弁護人となる
ことによって、その誤った立場をともにすることは、もはや私たちにはできません。しかも、出
版物において、一方的非難が加えられた以上、私たちは、その態度を明確にし、これを公表せざ
るをえません。
一九七五年二月一三日
弁護士 中田 直人
弁護士 石田 享
弁護士 橋本 紀徳
弁護士 宇津 泰親
弁護士 福地 明人
弁護士 宮沢 洋夫
弁義士 城ロ 順二
(註1) 遠藤さんは、当時から一貫して地域の民商会長を、救援会員の拡大などで活動されています。