106 :
では、貼ります:
では。「反デューリング論」(エンゲルス;国民文庫版)より。
二 暴力論
<以下デューリング>
「経済的法の諸形態にたいする一般政治の関係は、私の体系では、きわめて決定的に、同時に
きわめて独特な仕方で規定されているので、研究を容易にするためにこの点について特別な指示
をあたえておくことは、むだではないであろう。 #政治的# 諸関係の形成が #歴史上基底的なも
の# であって、 #経済的な# 従属はたんに #結果# か、または特殊な場合にすぎず、したがって
つねに #第二次的な事実# にすぎない。最近の社会主義体系の二、三のものは、目に映るままの、
これとはまったく逆の関係のような外見を指導原理として、政治的従属は経済状態のなかからい
わば生えだしてくるもののように主張している。ところで、こういう第二次的な作用そのものは
たしかに存在しているし、現在では最もはっきり感知される(12)。しかし、 #本源的なものは直
接的な政治的暴力# に求める #べき# であって、間接的な経済力に求めてはならない。」
<以上デューリング>
107 :
では、貼ります:03/04/14 22:57
これと同じことは、別の箇所でも言われており、そこでは、デューリング氏は、
<以下デューリング>
「政治状態は経済状態の決定的原因であり、これと逆の関係は第二次的な反作用をあらわすに
すぎない、という命題から出発する。……論者が政治的編制を、それ自体のための出発点としな
いで、もっぱら #食う目的のための手段# として取り扱うかぎり、その人は、どんなに急進社会
主義的で革命的であるように見えても、自己のうちに一片の隠れた反動をひそめていることであ
ろう。」
<以上デューリング>
これがデューリング氏の理論である。この理論は、ここや、また他の多くの箇所で、いきなり
打ち立てられ、いわば布告されている。それを証明しようとしたり、あるいは反対意見を論駁し
ようとしたりするほんのわずかな試みも、この三巻の分厚い書物のどこにも見られない。また、
たとえ論拠がキイチゴのように安直であっても(13)、デューリング氏はなんの論拠もわれわれに
108 :
では、貼ります:03/04/14 22:57
示してはくれないであろう。なぜなら、この件は、ご承知のとおり、ロビンソンがフライデーを
隷属させたあの有名な堕罪によって、すでに証明ずみだからである。あれは一つの暴力行為であ
ったし、したがって一つの政治行為であった。そして、この隷属化がこれまでの歴史全体の出発
点、また根本事実であり、この歴史全体に不正義という原罪を植えつけ、しかもきわめて深く植
えつけたため、その後の諸時期は、この原罪を緩和して「より間接的な経済的従属の諸形態に転
化」することばかりにたずさわってきたほどであるから、またこれまで有効性をたもってきた「
暴力的所有」の全体も、やはりこの原始隷属化にもとづいているのであるから、あらゆる経済現
象の説明は政治的原因に、つまり暴力に求めなければならないことは、明瞭である。そして、こ
れに満足しない者は隠れた反動家である、と。
まずはじめに言っておきたいのは、このような見解は全然「独特な」ものなどではないのに、
それをきわめて「独特な」ものだと考えるには、デューリング氏ほどのうぬぼれ屋でなければな
らない、ということである。政治的な国事劇が歴史において決定的なものであるかのように見る
考えは、歴史叙述そのものと同じくらいに古く、この考えこそ、これらの騒々しい場面のうしろ
で黙々としておこなわれている、ほんとうの推進力である諸国民の発展について、ごくわずかな
資料しか保存されていないことの主要な原因である。こういう考えは、過去の歴史観全体を支配
109 :
では、貼ります:03/04/14 22:57
してきたものであって、王政復古時代のフランスのブルジョア的歴史家たちがはじめて、それに
一撃をくわえたのである。ここで「独特な」ことは、こういうことをデューリング氏がまたして
もなにも知らないことだけである。
さらに、いましばらく、これまでのいっさいの歴史を人間による人間の隷属化に帰着させてい
るデューリング氏の考えが正しいと仮定しても、われわれは、まだけっして事柄の根底に到達し
たことにはならない。それどころか、まず第一に、いったいどうしてロビンソンはフライデーを
隷属させるようになったのか、という疑問が生じる。たんなる気ばらしのためなのか? けっし
てそうではない。その反対に、フライデーは「奴隷またはたんなる道具として #経済的# 労役を
強制され、やはりまさにたんなる道具として給養される」ということを、われわれは知っている。
ロビンソンがフライデーを隷属させたのは、ただフライデーをロビンソンの利益のために働かせ
るためにほかならない。では、どうすれぽロビンソンはフライデーの労働から自分のために利益
を引きだすことができるのか? もっぱら、フライデーにひきつづき労働能力をたもたせておく
ためにロビンソンが彼にあたえなければならない生活手段よりも、フライデーが彼の労働によっ
てつくりだす生活手段のほうが多い、ということによってである。だから、ロビンソンは、デュ
ーリング氏の明示的な命令にそむいて、フライデーの隷属化によってつくりだされた「政治的編
110 :
では、貼ります:03/04/14 22:58
制を、それ自体のための出発点としないで、もっぱら #食う目的のための手段として# 取り扱っ
た」わけである。そこでロビンソンは、自分の主人で教師であるデューリング氏とどう折りあい
をつけるか、自分でくふうするがよろしい。
こうして、暴力が「歴史上基底的なもの」であることを証明するために、デューリング氏がわ
ざわざ考えだした子供じみた用例は、暴力が手段にすぎず、これに反して経済的利益が目的であ
ることを、証明しているのである。目的は、この目的を達するために用いられる手段よりも「よ
り基底的」であるが、それと同じ程度に、歴史においては、関係の経済的側面が政治的側面にく
らべてより基底的である。だから、この例は、それが証明するはずのことの正反対のことを証明
している。そして、ロビンソンとフライデーの場合に見られるのと同じことが、これまでのすべ
ての支配と隷属の場合に見られる。隷属化はいつでも、デューリング氏の優雅な言いまわしを借
りていえば、「食う目的のための手段」(この食う目的ということを最も広い意味にとって)で
あったし、いつでもまたどこでも、「それ自体のために」導入された政治的編制であったことは
なかった。租税は国家において「第二次的な作用」にすぎないとか、支配するブルジョアジーと
支配されるプロレタリアートとの今日の政治的編制は、「それ自体のために」あるので、支配す
るブルジョアの「食う目的」のため、つまり利潤獲得や資本蓄積のためにあるのではない、など
111 :
では、貼ります:03/04/14 22:58
と空想するのは、デューリング氏でなければやれないことである。
しかし、わが二人の男に立ちもどることにしよう。ロピンソンは「剣を手にして」フライデー
を彼の奴隷にする。だが、こういうことをなしとげるためには、ロピンソンには、剣のほかにま
だほかのものが必要である。奴隷はだれにでも役に立つわけではない。奴隷を使用することがで
きるためには、二とおりのものをもちあわせていなけれはならない。すなわち、第一には、奴隷
の労働のための道具と対象、第二には、奴隷がやっと命をつないでゆけるだけの生活手段である。
だから、奴隷制が可能となるまえに、すでに生産がある段階に達しており、分配のある程度の不
平等が生じていなければならない。また、奴隷労働が一社会全体の支配的な生産様式となるため
には、生産や商業や富の集積がさらにはるかに高度に増大していることが必要である。土地の総
有側をもつ古代の自然生的な共同体では、奴隷制はぜんぜん生じないか、もしくはきわめて従属
的な役割しか演じていない。農民都市であった原初のローマでもそうであった。ところが、ロー
マが「世界都市」になり、イタリアの土地所有が少数のとほうもなく富んだ所有者の階級の手に
ますますにぎられていったとき、農民人口は奴隷人口によって駆逐された。ペルシア戦争の時代
に奴隷の数がコリントスでは四六万、アイギナでは四七万にものぼり、自由民人口一人あたり一
○人の奴隷がいた(15)とすれば、そのためには「暴力」のほかにまだなにかがなけれはならなか
112 :
では、貼ります:03/04/14 22:58
った。つまり、高度に発展した工芸および手工業と、ひろまった商業とがなければならなかった。
アメリカ合衆国の奴隷制は、暴力にもとづいていたというよりは、はるかに多くイギリスの木綿
工業にもとづいていた。綿花を栽培していなかった地方や、また境界諸州(16)でやっていたよう
な綿花栽培諸州むけの奴隷飼育をやらなかった地方では、奴隷制は、暴力を用いるまでもなく、
引き合わないという簡単な理由でひとりでに死滅してしまった。
だから、デューリング氏が、今日の所有を暴力的所有と名づけ、これを、
「たんに天然の生活手段の使用から同胞を締めだすことだけに #基礎をおく# のではけっして
なく、さらに、はるかに重要なことだが、奴僕的労役をやらせるために人間を隷属させることに
基礎 #をおく# 支配形態」
とよんでいるのは、この関係全体を逆立ちさせるものである。どんな形態においてにせよ、奴
僕的労役をやらせるために人間を隷属させるには、この隷属させる者が、隷属させられた者を使
用するのにぜひとも必要な労働手段をもちあわせていることが前提され、また奴隷制の場合には、
なおそのほかに、奴隷を生かしておくのになくてはならない生活手段をもちあわせていることが、
前提される。つまり、どんな場合にも、すでにある程度の、平均をこえた財産の所有が前提され
るのである。この財産の所有はどのようにして生まれたのか? とにかくはっきりしていること
113 :
では、貼ります:03/04/14 22:59
は、それが強奪してきたもの、したがって #暴力# にもとづくものである場合もたしかにあるだ
ろうが、かならずそうでなければならないわけではけっしてない、ということである。それは、
労働によって得たもの、盗みとったもの、商売によって得たもの、かたりとったもののどれであ
ってもよい。そればかりではない。およそ財産を強奪しようというには、そのまえに財産が労働
によって得られていなければならない。
だいたい私的所有は、強奪や暴力の結果として歴史に登場してくるものではけっしてない。そ
の反対である。それは、ある種の対象に限られてはいても、すでにすべての文化民族の太古の自
然生的な共同体に存在する。それは、すでにこれらの共同体の内部で、はじめは外部の人間との
交換において、商品の形態にまで発展する。共同体の生産物が商品形態をとることが多くなれば
なるほど、つまり、生産物のうちで生産者自身の使用のために生産される部分が少なくなり、生
産物がますます交換の目的で生産されるようになればなるほど、共同体の内部でも交換が原始的
な自然生的分業を駆逐してゆけばゆくほど、共同体の個々の成員の財産状態がますます不平等と
なり、古くからの土地の共同所有がますます深く掘りくずされ、共同体はますます急速にその分
解にむかってすすみ、分割地農民の村落に変わってゆく。東洋の専制政治も、征服者たる遊牧諸
民族のつぎつぎの支配も、数千年にわたってこの古い共同体を少しもそこなうことができなかっ
114 :
では、貼ります:03/04/14 22:59
た。ところが、大工業の生産物の競争が共同体の自然生的な家内工業をしだいに破壊するのにと
もなって、共同体はますます分解してゆく。この場合に暴力が問題にならないのは、モーゼル河
流域地方やホーホヴァルトの「ゲへーファーシャフト」で今日なおおこなわれつつある共有耕地
の分割において、暴力が問題にならないのと同じである。農民は、耕地の私的所有が共同所有に
とって代わることが、まさしく自分たちの利益になると考えているのである(18)。ケルト人やゲ
ルマン人のあいだで、またインドの五河地方〔パンジャーブ〕で、土地の共同所有にもとづいて
おこなわれた自然生的な貴族の形成でさえ、はじめはけっして暴力にもとづくものではなく、自
由意志と慣習とにもとづいている。私的所有が発展してくるところではどこでも、それは、生産
および交換の関係が変化した結果として、生産の増大と交易の促進とのために、――したがって
経済的原因から、起こるのである。そのさい、暴力などはまったくなんの役割も演じない。なぜ
なら、強奪者が他人の財貨を #わがものにする# ことができるためには、そのまえにすでに私的
所有の制度が存在していなけれはならないということ、したがって、暴力は所有状態を変えるこ
とはできても、私的所有そのものを生みだすことはできないということは、まったく明らかだか
らである。
だがまた「奴僕的労役をやらせるための人間の隷属化」の最も近代的な形態、つまり賃労働を
115 :
では、貼ります:03/04/14 23:00
説明するためにも、われわれは暴力をも、暴力的所有をも、つかうわけにはいかない。古代の共
同体を分解させるうえで、したがって、私的所有を直接または間接に一般化するうえで、労働生
産物の商品への転化、自家消費のためでなく交換のための労働生産物の生産が、どのような役割
を演じるかということについては、われわれはすでに述べた。ところで、マルクスが『資本論』
のなかで明々白々に立証しているように――デューリング氏は、用心してこれにはただの一言も
ふれないようにしているのだが――、商品生産は、ある発展段階で資本主義的生産に転化するの
であって、その段階では「商品生産と商品流通とにもとづく取得の法則、または私的所有の法則
は、この法則自身の内的、不可避的な弁証法によって、その反対物に転化するのである。最初の
取引として現われた等価物どうしの交換は、一転して、ただ外見的に交換がおこなわれるだけに
なる。なぜならば、第一に、労働力と交換される資本部分そのものが、等価をあたえずに取得さ
れた他人の労働生産物の一部分にすぎないからであり、第二には、この資本部分は、その生産者
である労働者によって、ただ補填されるだけでなく、新しい剰余」(超過分)「をともなって補
填されなければならないからである。……最初は、所有は、自分の労働にもとづくものとしてわ
れわれの前に現われた。……所有は、いまでは」(マルクスの展開の終りでは)「資本家の側で
は他人の不払労働を取得する権利として現われ、労働者の側では彼自身の生産物を取得すること
116 :
では、貼ります:03/04/14 23:00
の不可能性として現われる。所有と労働との分離が、外見上両者の同一性から出発した一法則の
必然的な帰結として現われる。所有と労働との文理が、外見上両者の同一性から出発した一法則
の必然的な帰結となる(19)。」言いかえれば、強奪や、暴力行為や、詐欺の可能性がまったくな
いとしてさえ、あらゆる私的所有が最初はその所有者自身の労働にもとづいているものと仮定し、
またその後の経過をつうじてずっと等しい価値が等しい価値とだけ交換されるものと仮定してさ
え、生産と交換の進展につれてわれわれが必然的にゆきつくのは、やはり現在の資本主義的生産
様式であり、一方の少数者の階級の手に生産手段と生活手段とが独占され、他方の膨大な多数者
をなす階級が無産のプロレタリアに押しさげられることであり、思惑的な生産と商業恐慌との周
期的な交替であり、今日の生産の無政府状態全体である。この経過全体は純経済的な原因によっ
て説明されており、強奪や、暴力や、国家や、なんらかの政治的干渉を、ただの一度も必要とし
なかった。この場合にもまた、「暴力的所有」というのは、事物の現実の経過にたいする無理解
を隠すためのほら吹き文句にすぎないことがわかる。
この経過は、歴史的に表現すれば、ブルジョアジーの発展史である。もし「政治状態が経済状
態の決定的原因である」とすれば、近代のプルジョアジーは、封建制度との闘争をつうじて発展
してきたのではなくて、封建制度が自発的に生んだいとし子でなければならない。だれでも知っ
117 :
では、貼ります:03/04/14 23:00
ているように、実際に起こったのはその反対のことである。もとは支配者たる封建貴族にたいし
て頁租の義務を負い、あらゆる種類の隷農や農奴から補充されていた、抑圧された身分であった
市民階級は、貴族とのたえまない闘争のなかで、つぎつぎに権力の地位をたたかいとり、ついに、
最も発展した諸国で、貴族に代わって支配権をにぎるにいたった。すなわち、フランスでは、直
接に貴族を倒すことによって、イギリスでは、貴族をしだいにブルジョア化し、自分自身の装飾
的な頭部として自分に合体させることによって。では、彼らはどのようにしてこのことをなしと
げたのか? もっぱら「経済状態」の変化をつうじてである。そして、それにつづいて、遅かれ
早かれ、自発的にせよたたかいとられたにせよ、政治状態の変化が起こったのである。封建貴族
にたいするブルジョアジーの闘争は、農村にたいする都市の、土地所有にたいする工業の、現物
経済にたいする貨幣経済の闘争であった。そして、この闘争において市民の決定的な武器となっ
たものは、はじめは手工業的だったが、のちにはマニュファクチュアにまで進歩した工業の発展
によって、また商業の拡大によってたえず増大していった彼らの経済的な権力手段であった。こ
の闘争全体をつうじて、政治的暴力は貴族の側にあった。ただし、王権が、一方の身分によって
他方の身分を牽制するために、貴族に対抗して市民階級を利用した一時期は例外である。しかし、
政治的にはまだあいかわらず無力であった市民階級が、その増大してゆく経済力によって危険な
118 :
では、貼ります:03/04/14 23:01
ものになりはじめたそのときから、王権はふたたび貴族と同盟を結び、そうすることで、まずイ
ギリスで、ついでフランスで、市民階級の革命を呼びおこした。フランスの「政治状態」はもと
のままで変わらなかったのに、「経済状態」が成長して、この政治状態の枠をはみだしたのであ
る。政治的地位からすれば、貴族はすべてで、市民は無であった。社会的地位からすれは、市民
はいまでは国家内の最も重要な階級であったし、他方、貴族は、その社会的機能をすべて失って
しまい、ただ所得のかたちでこの消滅した機能にたいする報酬を取りこんでいただけであった。
そればかりではない。市民階級の生産は――マニュファクチュアだけでなく、手工業でさえ――
とっくに中世の封建的な政治形態をこえて成長していたのに、この生産全体が、ひきつづきそれ
らの政治形態のなかに、すなわちいまでは生産の妨害や桎梏でしかなくなった、千にものぼるあ
らゆるツンフト的特権や地方および州の関税障壁のなかに、押しこめられていた。市民階級の革
命はこうした状態を終わらせた。だが、それは、革命が、デューリング氏の原則にしたがって経
済状態を政治状態に適合させた――これこそは、貴族と王権が長年のあいたむだ骨をおってきた
そのことであった――からではなく、反対に、古いかびくさい政治的がらくたを掃きすてて、新
しい「経済状態」が存立し発展することのできるような政治状態をつくりだしたからであった。
そして、この経済状態は、自己に適合したこの政治的および法的雰囲気のなかで、輝かしい発展
119 :
では、貼ります:03/04/14 23:02
をとげた。この発展はきわめて輝かしいものであったから、ブルジョアジーは、いまではすでに、
一七八九年に貴族が占めていた地位からあまり遠くないところまで来ているほどである。ブルジ
ョアジーは、ますます社会的な余計者になってゆくはかりか、社会的な邪魔者になってゆく。彼
らは、生産活動からますますぬけだして、かつて貴族がそうであったような、所得を取りこむだ
けの階級にますますなってゆく。そして、ブルジョアジーは、自分自身の地位のこのような変革
と、プロレタリアートという新しい一階級の創出とを、どんな暴力の手品もつかわずに、純経済
的な方法でなしとげたのである。そればかりではない。ブルジョアジーは、彼ら自身の行為や活
動から生まれたこのような結果を、望んだわけではけっしてなかった。――それどころか、この
結果は、ブルジョアジーの意志に反し、彼らの意図に反して、逆らうことのできない力で自己を
貫徹したのである。ブルジョアジー自身の生産力が成長して彼らに統御できないものとなり、自
然必然性によるかのように、ブルジョア社会全体を破滅か、でなければ変革か、どちらかにむか
って駆りたてている。そして、いまブルジョアたちが、崩壊してゆく「経済状態」を倒壊から守
ろうとして、暴力にうったえるとすれば、それは、彼らが、デューリング氏と同じように、「政
治状態が経済状態の決定的原因」であるかのような錯覚にとらわれていること、彼らが、デュー
リング氏とまったく同じように、「本源的なもの」、すなわち「直接的な政治的暴力」を用いて、
120 :
名無しさん@3周年:03/04/14 23:02
そんな事よりおまいらよ、ちょいと聞いてくれよ。スレとあんま関係ないけどさ。
昨日、近所の代々木駅行ったんです。代々木駅。
そしたらなんか党員がめちゃくちゃいっぱいで前に進めないんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、都知事選挙は日本共○党へ、なんて書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、街宣演説如きで普段来てない代々木駅に来てんじゃねーよ、ボケが。
街宣演説だよ、街宣演説。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で代々木駅か。おめでてーな。
よーしパパ投票しちゃうぞ〜、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、新宿逝き130円切符からさっさと帰れと。
代々木駅ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
反対側に止まった右翼の街宣車奴といつ喧嘩が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
で、やっと少し進めたかと思ったら、隣の奴が、イラク難民、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、イラク難民なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、イラク難民、だ。
お前は本当にイラク難民を助けたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、イラク難民って言いたいだけちゃうんかと。
代々木駅通の俺から言わせてもらえば今、代々木駅通の間での最新流行はやっぱり、
給料カット・、これだね。
ディーゼル・給料カット・カジノ。これが通の頼み方。
給料カット・ってのは財政は上向き。そん代わり職員はたまらない。これ。
で、それにディーゼル・カジノ。これ最強。
しかしこれを頼むと次から組合員にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、赤旗でも読んでなさいってこった。
121 :
では、貼ります:03/04/14 23:03
あの「第二次的な事実」、すなわち経済状態とその避けられない発展とをつくりかえることがで
きるものと、つまり、蒸気機関とそれによって動かされる近代的機械や、世界貿易や、今日の銀
行および信用の発展の経済的諸結果を、クルップ砲とモーゼル銃とでこの世界からふたたび撃ち
はらうことができるものと、空想していることを、証明するだけである。
(今日は、ここまで。まだ「3 暴力論(つづき)」「4 暴力論(結び)」
があります。)
122 :
名無しさん@3周年:03/04/15 00:26
民主主義とはかけ離れ、孤立して
党員幹部だけの生活と暮らしを守る
日本共産党です。
党員の皆様へ
共産党は統一選で惨敗しました。
しがない党員
幹部を浅間山荘で総括しようぜ!
123 :
名無しさん@3周年:03/04/15 01:08
↑またアホ登場・・とほほ
124 :
名無しさん@3周年:03/04/15 01:28
>>123 せめて日共と赤軍の区別ぐらいつけられるように、初心者マークの反共の志士のためのお勉強スレッドでも立てたいね。
126 :
皆空 ◆hu.lPvKgI. :03/04/15 06:11
そういえば一つの文書のコピペでその文書を語るというスレが今までこの板にはなかった。
資本論スレはモニタの向こうでそれぞれが持っている資本論を前提としていたし。
もう仕事なんで後で読むことにする。Mステが終わった後当たりに。
今日t.A.T.uが出るらしい。見のがせない。あっ、プロジェクトXも見のがせないな。
SFの中だけでしか知ることのなかったコンピュータを人々の生活の中に生かそうとしたトロン。
この国産OSをいかにアメリカが破壊したか。
俺達は事実を知らなくてはならない。
つーかサンクス。
>>106-119 読み終わった後俺も一言ぐらいは書きたいことが出て来るだろう。
そん時ゃよろしく、悪気はないんで。
なぜ平和を望む石原知事がイラク攻撃否定せんかったの?
128 :
貼り物続きです:03/04/15 22:24
三 暴力論(つづき)
しかし、デューリング氏のこの全能の「暴力」を、もう少し詳しく考察してみよう。ロビンソ
ンは、「剣を手にして」フライデーを隷属させる。彼は、どこからその剣を手に入れたのか?
ロビンソン物語の空想の島でも、今日まで剣が木に生ったためしはないし、デューリング氏は、
この質問にたいしてはなにも答えていない。ロビンソンが剣を手に入れることができたのと同じ
ように、フライデーがある日一挺の装填されたピストルを手にして現われる、と仮定してもさし
つかえないであろう。そうなると、この「暴力」関係全体は逆になる。つまり、フライデーが命
令し、ロビンソンがあくせく働かなけれはならなくなる。元来子ども部屋の話で、科学には関係
のないこのロビンソンとフライデーの物語に、われわれがこんなにもしょっちゅう立ちかえるの
を、読者はお許しねがいたい。だが、われわれにどうしようがあろうか? われわれは、デュー
リング氏の公理的方法を誠実に適用することをやむなくされているのであって、そのさいわれわ
れがたえずまったく子どもじみた事柄の範囲を動きまわるにしても、それはわれわれのせいでは
ない。そこで、ピストルは剣に打ち勝つ。そうだとすれば、きっとどんな子どもらしい公理主義
,rn
r「l l h. / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 、. !j |
ゝ .f _ |
| | ,r'⌒ ⌒ヽ、. │
ttp://www.saitama.gasuki.com/korea/ ,」 L_ f ,,r' ̄ ̄ヾ. ヽ. │ こんなのあったニダ
ヾー‐' | ゞ‐=H:=‐fー)r、) |
| じ、 ゙iー'・・ー' i.トソ |
\ \. l ; r==i; ,; |' .人_
\ ノリ^ー->==__,..-‐ヘ___
\ ノ ハヽ |_/oヽ__/ /\
\ / / / |.
y' /o O ,l |
130 :
貼り物続きです:03/04/15 22:26
者にも、暴力というものはたんなる意志行為ではなく、暴力をはたらかせるためにはきわめて実
在的な先行条件、つまり #道具# が必要であり、より完全な道具がより不完全な道具を打ち破る
のだということ、さらに、それらの道具がすでに生産されていなければならないということが、
わかるであろう。ところで、このことを認めれば、同時に次のことをも認めたことになる。それ
は、より完全な暴力の道具、ひらたくいえば武器の生産者が、より不完全な武器の生産者に打ち
勝つということ、一言でいえば、暴力の勝利は武器の生産にもとづいており、そして武器の生産
はさらに生産一般に、したがって――「経済力」に、「経済状態」に、その暴力がもちあわせて
いる物質的手段にもとづいているということである。
暴力、それは今日では陸軍と海軍である。そして、この両者には、われわれみなが身にこたえ
て知っているように、「目の玉のとびでるほどの金」がかかる。だが、暴力は金をつくりだすこ
とはできず、せいぜいすでにつくりだされている貨幣を取りあげるだけであるが、これもあまり
役に立つものでないことは、われわれがフランスの数十億(20)でこれまた身にこたえて経験した
とおりである。だから、金は、結局は経済的生産を媒介として供給されなければならない。つま
り、暴力は、またしても、暴力の道具を装備し維持するための資金をそれに供給してくれる経済
状態によって規定されるのである。だが、そればかりではない。ほかならぬこの陸軍と海軍ほど
131 :
貼り物続きです:03/04/15 22:26
に経済的先行条件に依存するものは、ほかにないのである。武装、構成、編制、戦術、戦略は、
なによりもまずそのときどきの生産の水準と交通連絡とに依存している。この分野で変革的な作
用を及ぼしたのは、天才的な将帥たちの「悟性の自由な創造物」ではなくて、より優秀な武器の
発明と兵士材料の変化とであった。天才的な将師たちの影響は、せいぜい、戦闘法を新しい武器
や戦闘員に適応させることに限られるのである(21)。
一四世紀のはじめに、火薬がアラビア人から西ヨーロッパ人に伝えられ、どんな学童でも知っ
ているように、作戦法全体を変革した。だが、火薬と火器の導入は、けっして暴力行為ではなく、
一つの工業上の進歩、したがって経済的な進歩であった。物の生産を目的としようと、その破壊
を目的としようと、工業はやはり工業である。そして、火器の導入は、作戦法そのものにたいし
てだけでなく、政治的な支配および隷属の関係にも、変革的な影響を及ぼした。火薬と火器を手
に入れるためには、工業と貨幣とが必要であった。そして、これを二つながらにもっていたのは、
都市市民であった。だから、火器は、はじめから諸都市と、諸都市を支柱として勃興してきた君
主制とが、封建貴族にたいして向けた武器であった。それまで近づくことのできなかった貴族の
城の石の城壁は、市民の大砲に屈し、市民の手銃〔Handbu¨chse〕の弾丸は騎士の甲胄《かっち
ゅう》をつらぬいた。甲胄に身をかためた貴族の騎兵隊が崩壊するとともに、貴族の支配も崩壊
132 :
貼り物続きです:03/04/15 22:26
した。市民階級が発展するにつれて、歩兵と砲兵とはますます決定的な兵科となった。火砲の出
現にせまられて、軍人職業は、一つの新しい、まったく工業的な部門、すなわち工兵隊をつけく
わえなければならなかった。
火器の発達は非常にのろのろとおこなわれた。火砲はあいかわらず鈍重で、手銃〔Handrohr〕
は、部分的発明がたくさんなされたにもかかわらず、粗末なものであった。歩兵隊全体を武装さ
せるのに適した小銃ができあがるまでには、三〇〇年以上もかかった。ようやく一八世紀のはじ
めに、剣付きの燧発銃が、槍を歩兵の武装から最後的に駆逐した。その当時の歩兵は、きびしい
教練をほどこされてはいたが、まったくあてにならず、棍棒でやっとまとめられていた諸王侯の
傭兵からなっており、社会の最も堕落した分子や、ときには強制徴用した敵の捕虜で構成されて
いた。そして、これらの兵士が新式銃を使用できた唯一の戦闘形態は横隊戦術であって、これは、
フリードリヒ二世のもとで最高の完成をとげた。一軍の歩兵全体が、三列からなる、非常に長い、
中空の方陣に配備され、戦闘隊形では全体が一つとなって運動するだけであった。せいぜい二つ
の翼の一方がいくらか前に進んだり、うしろにとどまったりすることが、許されたにすぎない。
このぎこちない集団は、まったく平坦な地形で、それもゆっくりした速度(毎分七五歩)でなけ
れば、秩序をたもって運動することができなかった。交戦中に戦闘隊形を変えることは不可能で
133 :
貼り物続きです:03/04/15 22:26
あったし、勝敗は、歩兵がいったん銃火をまじえるやいなや、短時間のうちに一撃で決せられた。
アメリカの独立戦争では、こういうぎごちない横隊にたいして、反乱者の兵群が立ちむかった。
これらの兵群は、教練は受けていなかったけれども、それだけにかえってその旋条銃をたくみに
撃つことができたし、自分自身の利益のために戦っていたので、傭兵部隊のように脱走すること
もなく、また、イギリス軍の望むところにしたがって、同じような横隊をつくって平坦な開闊地
で対戦するようなまねもせずに、急速に運動できる散兵群に散開して、掩護物となる森林のなか
で対戦した。そこでは横隊は無力であり、目に見えない、つかまえることのできない敵に敗れて
しまった。散開戦闘がふたたび発明されたのである。――これは、兵士材料が変化した結果生ま
れた、一つの新しい戦闘法であった。
アメリカ革命が始めたものを、軍事の分野でも、フランス革命が完成した。連合軍の訓練をつ
んだ傭兵軍隊に立ちむかうのに、フランス革命もまた、ろくろく訓練されてはいたいが、多人数
の集団、すなわち全国民の総員徴集をもってするほかはなかった。しかし、いまやこうした集団
を用いてやらなければならなかったことは、パリを守ることであった。つまり、一定の地域を守
備することであった。だが、そうするには、どうしても開闊地での集団戦で勝利をおさめなけれ
ばならなかった。たんなる散兵戦では不十分であった。集団使用のためにも、一つの形態が発見
134 :
貼り物続きです:03/04/15 22:27
されなけれはならなかった。そして、その形態は #縦隊# のうちに発見された。縦隊編成によれ
ば、ほとんど訓練を受けていない部隊でも、かなりの秩序をたもって、しかもより大きな行軍速
度(毎分一〇〇歩以上)をもってさえ、運動することができた。縦隊編成によれは、旧式の横隊
隊形のこわばった形態を突破し、どんな地形でも、したがってまた横隊にとって最も不利な地形
でも戦い、どんなふうにでも適宜な群に部隊をまとめることができたし、また、分散した散兵の
戦闘と結合して、敵の横隊を支え、引きつけておき、疲労させ、こうして好機がくれば、予備と
してとっておいた集団をもって陣地の決定的な地点で敵の横隊を突破することができた。散兵と
縦隊を結合すること、また各種の兵科から編成された独立の諸師団または諸軍団に軍隊を区分す
ることに基礎をおくこの新しい戦闘法は、戦術的な面でも戦略的な面でも、ナポレオンによって
完成されたのであるが、それは、右のようなしだいで、なによりもまずフランス革命の用いた変
化した兵士材料によって必要になったのである。しかしまた、この戦闘法には、なお二つの非常
に重要な技術上の先行条件があった。その第一は、グリボヴァルが考案した野戦砲の軽量砲架で
あって、これによってはじめて、野戦砲は、いまやそれに必要になった、より急速な運動をおこ
なうことができるようになった。また第二は、フランスで一七七七年に採用された改革であって、
それまで銃身の延長線上にまっすぐ伸びていた銃床尾を、猟銃にならって彎曲させたことであり、
135 :
貼り物続きです:03/04/15 22:28
その結果、一人ひとりの兵をねらったのではかならず撃ちそこなうということがなくなった。と
ころで、この進歩がなかったとしたら、旧式の小銃では散開戦闘をおこなうことはできなかった
であろう。
全人民の武装という革命的制度は、まもなく制限されて強制徴兵(資産のある者は兵役免除金
を払って代理を立てる制度があった)に変えられ、この形態で大陸の大部分の大国に採用された。
ただプロイセンだけが、後備軍制度(22)というかたちで国民の防衛力をもっと大きな規模で汲み
とろうと試みた。そのうえ、プロイセンは、――一八三〇年から一八六〇年までのあいだに完成
され、軍用にも使用できた前装旋条銃が短いあいだある役割を果たしたあとで――最新の兵器で
ある後装旋条銃をその歩兵の全員に装備した最初の国であった。一八六六年のプロイセンの成功
(23)は、この二つの処置に負うものであった。
ドイツ=フランス戦争ではじめて、ともに後装旋条銃で装備した二つの軍隊が対戦し、しかも、
そのどちらの側も、旧式な滑腔燧発銃の時代と本質上同じ戦術隊形をもって戦った。ただプロイ
セン軍が、中隊縦隊を採用することで、新しい武装にもっと適合した戦闘形態を見いだそうと試
みただけであった。だが、八月一八日にサン−プリヴァ付近(24)で、プロイセンの近衛兵がこの
中隊縦隊を本気で用いようと試みたとき、戦闘の主力であった五個連隊は、二時間足らずのあい
136 :
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だにその兵力の三分の一以上(一七六名の将校と五一一四名の兵士)を失った。それからという
ものは、中隊縦隊も、大隊縦隊や横隊と同じく、戦闘形態としてはだめだということにきまった。
それ以後は、どんなものにせよ密集部隊を敵の銃火にさらす試みはいっさい放棄され、戦闘はド
イツ軍の側では、もっぱらあの密度の高い散兵群によっておこなわれた。それ以前でも、縦隊は、
降りそそぐ弾雨のもとでは、ひとりでに散開して、こういう散兵群になるのがすでにきまりとな
っていたが、これは、司令部からは軍規違反として非難されていたのである。同様に、敵の銃火
の射程内では、いまや #駆歩# が唯一の運動方式となった。この点でもやはり兵士のほうが将校
よりも利口であった。今日まで後装銃の銃火のもとでただ一つためしずみのこの戦闘形態を、 #
兵士# は本能的に発見して、指揮官の抵抗にもかかわらず、それを遂行して成功をおさめたので
あった。
ドイツ=フランス戦争とともに、それまでのあらゆる転回点とはまったく別の意義をもつ、一
つの転回点がやってきた。第一に、兵器がいちじるしく改良されたため、なんらかの変革的な影
響を及ぼすような新しい進歩はもはや起こりえないようになった。目で見わけうるかぎり一個大
隊に命中させることのできるカノン砲と、一人ひとりの兵を目標としてそれと同じことをやるこ
とができ、しかも装填するのに照準するほどの時間もかからない小銃とがあれは、それ以上の進
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歩はすべて、野戦のためには多かれ少なかれどうでもよいことである。だから、この方面から見
れば、発展の時代はだいたいにおいて終わったことになる。だが、第二には、この戦争にうなが
されて、大陸のすべての大国は、プロイセン式の後備軍制度をいっそう強化したかたちで自国に
採用することを余儀なくされ、それとともに、幾年もたたないうちに自滅するほかないような軍
事的負担を背負いこむことになった。軍隊は国家の主要な目的となり、自己目的となった。諸国
の人民は、兵士を供給し、兵士を養うためだけに存在しているのである。軍国主義がヨーロッパ
を支配し、それを呑みこむ。しかし、この軍国主義は、またみずからのうちにそれ自身の滅亡の
萌芽をもひそめている。各国相互の競争にせまられて、これらの国家は、一方では、年々ますま
す多額の金を陸軍、海車、火砲等に使うことを余儀なくされ、こうして財政的破綻をますます早
めている。他方では、いやおうなしに一般兵役義務をますます真剣に実施し、それによって、つ
いには全人民を武器の使用に習熟させなければならなくなっている。したがって、ある瞬間には、
人民が軍司令部のお歴々にさからって自分の意志を押しとおすことができるようにしているので
ある。そして、その瞬間は、人民大衆――農村や都市の労働者と農民――が一つの意志をもつや
いなや、やってくる。この点までくると、王侯の軍隊は人民の軍隊に転化する。機械はいうこと
を聞かなくなり、軍国主義はそれ自身の発展の弁証法によって滅亡する。一八四八年のブルジョ
138 :
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ア民主主義が、まさにそれが #ブルジョア的# であってプロレタリア的でなかったという理由で
なしとげることができなかったこと、すなわち、労働する大衆に彼らの階級的地位におうじた内
容をもつ一つの意志をあたえるということ――このことを、社会主義はかならずなしとげるであ
ろう。ところが、このことは、軍国主義、それとともにまたいっさいの常備軍を #内部から# 爆
破することを意味する。
これが、われわれの近代歩兵史の一つの教訓である。第二の教訓は、われわれをふたたびデュ
ーリング氏のところに連れもどすものであって、軍隊の編制や戦闘法の全体、したがってまた勝
敗は、物質的な、つまり経済的な諸条件に、すなわち、人的材料と兵器材料に、したがって住民
の質および量と技術とに、依存していることがわかったことである。アメリカ人のような狩猟国
民にしてはじめて、散開戦闘を再発明することができたのだが、彼らが狩猟者だったのは、純経
済的な原因によるものであった。それは、ちょうど旧諸州のこの同じヤンキーが、今日純経済的
な原因によって農民、工業家、航海者、商人に変わっているのと同じことである。彼らは、いま
ではもう原始林のなかで散開戦闘をやってはいないが、そのかわりに、それだけたくみに投機の
分野で散開戦闘をやっており、そこでは集団使用の点でも大いに進歩をとげている。――また、
フランス革命のように、市民、ことに農民を経済的に解放した革命にしてはじめて、大衆軍隊を
139 :
貼り物続きです:03/04/15 22:30
発見し、それと同時に、旧式な、こわばった横隊――これは、それが防衛した絶対主義の軍事的
な似姿である――をむかえて打ち砕いた、あの自由な運動形態を発見することができたのである。
そして、技術の進歩は、それが軍事的に利用できるようになり、そして実際にも利用されるよう
になると、たちまち、ほとんど力ずくで、そのうえしばしば軍統帥部の意志に反して、戦闘法の
変化、いな変革を押しとおしたということは、われわれがおりにふれて見てきたとおりである。
そのうえ、作戦法がどんなに自国の後方地における生産性と交通連絡手段や、また戦場における
それに依存しているかということは、今日では、勤務熱心な下士官なら、デューリング氏に説明
して聞かせることができる。要するに、どこでも、またいつでも、「暴力」を助けて勝利させる
――勝利がなければ、暴力は暴力でなくなる――のは、経済的な諸条件と経済的権力手段とであ
って、もしだれかがデューリング式原則にしたがって、これと反対の立場から軍事を改革しよう
とするなら、その人は鞭でむくいられるのがおちであろう〔*〕。
〔*〕 プロイセンの参謀本部も、このことをすでに十分よく承知している。「軍事の #基礎#
は、第一に、諸国民の経済的生活形態一般である」と、参謀本部の一大尉マックス・イェーン
ス氏は、ある学術講演で述べている(『ケルン新聞』一八七六年四月二〇日、第三面(25))。
140 :
貼り物続きです:03/04/15 22:32
こんどは、陣から海に移れば、この二〇年間だけでも、以上に述べたものどころでない徹底的
な変化が見られる。クリミア戦争(26)当時の戦艦は、六〇門ないし一〇〇門のカノン砲をのせた
木造の二層甲板艦と三層甲板艦であって、まだ主として帆で動かされ、たんに補助的なものとし
てのみ、力の弱い蒸気機関をそなえていたにすぎない。それは、主として砲身車量約五〇ツェン
トネル(27)の三二ポンド砲をそなえ、ほかに九五ツェントネルの六八ポンド砲数門をもっていた
だけであった。この戦争の終りごろに、装甲された浮砲台が出現した。これは、鈍重な、ほとん
ど動かすこともならないしろものであったが、当時の火砲にとっては歯の立たない怪物であった。
まもなく装甲は戦艦にも用いられた。はじめはまだ薄く、四インチの厚みの鉄でも非常な重装甲
と見なされていた。しかし、砲の進歩がまもなく装甲を追いこした。装甲がつぎつぎにその厚み
をくわえるたびに、新しい、もっと重い(28)火砲が出現して、やすやすとそれを撃ちぬいた。こ
うして、すでに今日では、一方では一〇、一二、一四、二四インチの厚みの装甲(イタリアは、
三フィートの厚みの装甲をほどこした軍艦を建造しようとしている)にゆきついており、他方で
は、二五、三五、八〇トン、それどころか一〇〇トン(一トンを二〇ツェントネルとして)の砲
身重量をもち、三〇〇、四〇〇、一七〇〇ないし二〇〇〇ポンドの砲弾を前代未聞の遠距離に飛
ばす腔綫砲にゆきついている。今日の戦艦は、排水量八〇〇〇ないし九〇〇〇トンで、六〇〇〇
141 :
貼り物続きです:03/04/15 22:33
ないし八〇〇〇馬力をもつ巨大な、装甲された螺旋推進式蒸気船であって、旋回砲塔と、四門か
ら多くて六門までの重砲をそなえ、艦首は吃水線下で敵艦を突き沈めるための衝角に終わってい
る。これは一個の巨大な機械であって、そこでは蒸気力によって船が急速度で推進されるだけで
なく、操舵、錨の巻き揚げ、砲塔の旋回、火砲の照準や装填、ポンプによる排水、ボート――こ
れ自体また一部は蒸気力をそなえている――の揚げおろし等々も、蒸気力によっている。そして、
装甲と火砲の火力とのあいだの競《せ》り合いはまだ終わっているところではないから、今日で
は、軍艦は、まだ進水もしないうちにほとんどきまってもはや要求をみたさないものになり、時
代おくれになってしまうほどである。近代の戦艦は、近代の大工業の産物であるばかりでなく、
同時にその一つの見本でもあり、一つの浮き工場――なるほど、おもに貨幣の浪費を生みだすた
めのものではあるが――でもある。大工業がいちばん発展している国が、このような軍艦の建造
をほとんど独占している。トルコの装甲艦の全部、ロシアの装甲艦のほとんど全部、ドイツの装
甲艦の大部分は、イギリスで建造された。およそ使用に耐える装甲板は、ほとんどもっぱらシェ
フィールドでつくられる。最重量級の火砲を供給できるヨーロッパでただ三つの鉄工所のうち、
二つ(ウリッジとエルシック)はイギリスにあり、第三番目のもの(クルップ)はドイツにある。
デューリング氏の言うところでは「経済状態の決定的原因」である「直接的な政治的暴力」が、
142 :
貼り物続きです:03/04/15 22:33
反対に、まったく経済状態に隷属していること、海上での暴力の道具である戦艦の建造ばかりか、
その操縦までが、それ自体近代の大工業の一部門となっていることは、ここでは手にとるように
明らかである。そして、こうなったことでだれよりもいちばん苦い顔をしているのは、ほかなら
ぬ当の暴力、つまり国家である。いま国家は、一隻の軍艦をつくるのに、以前に一小艦隊をまる
まるつくれたほどの費用をかけており、しかも、その高価な軍艦がまだ進水もしないうちにもう
時代おくれになり、したがって価値を失うのを、黙って見ていなければならない。また、いまで
は艦内では、「経済状態」の代表者である機関科将校が「直接的な暴力」の代表者である艦長よ
りもずっと重要な人物になっているのを、国家がデューリング氏に劣らずいまいましがっている
ことは、確かである。これに反して、われわれは、装甲と火砲とのあいだのこの競り合いで戦艦
が人工の極致にまで発達させられ、そのために手のでないほど高価になり、そのうえ戦争の役に
も立たなくなるということ〔*〕を知っても、またこうして、軍国主義も他のあらゆる歴史的現
象と同じようにそれ自身の発展の結果によって滅びるという、あの内的な弁証法的運動法則を、
この競り合いが海戦の分野でも明らかにしていることを知っても、すこしも腹をたてる理由をも
たないのである。
〔*〕 海戦のための大工業の最近の産物である自動推進式魚雷の完成は、このことを実現す
143 :
貼り物続きです:03/04/15 22:34
るもののように思われる。この結果、最小の水雷艇が最も強力な装甲艦にまさることになろう。
(ついでながら、以上は一八七八年に書いたものであることに、読者の注意をうながしたい(29)。
)
こうして、ここでもまた、「本源的なものは直接的な政治的暴力に求める」べきであって、「
間接的な経済力に求め」てはならないということが、だんじて真実でないことは、まったく明ら
かである。その反対である。暴力そのものにおいて「本源的なもの」であることがわかったのは、
まさになんであったか? 経済力である。大工業の権力手段を自由にする力である。近代の戦艦
に基礎をおく海上の政治的暴力は、「直接的」なものではけっしてなく、まさに経済的権力によ
って、冶金術の高度の発達、熟練した技術者や豊富な炭坑の支配によって媒介されたものだとい
うことが、わかったのである。
しかし、そんなことがいったいなんだというのか? 次の海戦ではデューリング氏に最高司令
権をあたえるがよい。そうすれば、彼は、魚雷やその他の小細工にたよらずに、彼の「直接的な
暴力」だけを用いて、経済状態に隷属したいっさいの装甲艦隊を全滅させてしまうであろう。
144 :
読むのが辛い:03/04/15 22:35
簡単にお願いします。
眠たくなる。
145 :
貼り物続きです:03/04/15 22:38
>>145 いつか、要約しましょう。とにかく、ここに貼っているのは、ここだけで
使用されるわけでなく、原典をそのまま貼る必要があります。
146 :
皆空 ◆hu.lPvKgI. :03/04/16 00:05
>>116 >必然的な帰結として現われる。所有と労働との文理が、外
細かくてスマンがこの「文理」って分離じゃないか?
そうだったら俺でも意味が通るんだけど・・・ チョット ジシンナイ
で、最初のジャブはこんなところで
# お疲れ様でした。
(^^)
148 :
名無しさん@3周年:03/04/17 12:07
日本共産党にとって相当都合の悪い書き込みがあったスレは何ですか!
>>146 ありがとうございます。では、続きを。
四 暴力論(結び)
「一つのきわめて重要な事情は、実際に #自然に# たいする支配は、一般に(!)人間にたい
する支配をつうじてはじめて起こった」(支配が起こった!)「ということである。かなり大き
い面積の土地所有の経営が、なんらかの種類の奴隷労役または賦役をやらせるためにまえもって
人間を隷属させることなしにおこなわれたことは、かつて、またどこにもなかった。物にたいす
る経済的支配の樹立は、人間にたいする人間の政治的、社会的、経済的支配を前提としてきた。
奴隷、隷嬢または間接的な不自由民にたいする大地主の支配をもあわせて考えないで、どうして
大地主を考えることだけでもできるだろうか? せいぜい家族補助者の力しかもちあわせていな
い個々人の力が、かなりに大規模な農耕にとって、どんな意味をもちえたろうか、またもちうる
だろうか? これまでの歴史では、個々人の自然的な力をこえる規樵の土地の利用、またはそれ
への経済的支配の拡張は、土地支配が打ち立てられるにさきだって、またはそれと同時に、それ
に必要な人間の隷属化(30)もまたおこなわれたことによって、はじめて可能になったのである。
その後の発展の諸時期に、この隷属化は緩和された。……それの現在の形態は、高度の文明諸国
では、多かれ少なかれ警察支配によって管理されている賃労働である。したがって、今日の富の
うちで、かなり大規模な土地支配および(!)かなり大きい土地所有に現われているような種類
の富の実際的可能性は、この賃労働にもとづいている。いうまでもなく、他のあらゆる種類(31)
の分配的富も、歴史的にこれと同じような仕方で説明されなければならない。そして、現在、経
済的に最も発展した状態の特徴となっている人間にたいする人間の間接的な従属は、それ自体か
らではなく、以前の直接的な圧服と収奪とのいくらか転形した遺産としてのみ、これを理解し、
説明することができるのである。」
<以上、デューリング>
こうデューリング氏は言っている。
命題――(人間による)自然の支配は、(人間による)人間の支配を前提とする。
証明―― #かなり大きい面積の# 土地 #所有# の経営が奴僕を使わずにおこなわれたことは、
かつて、またどこにもなかった。
証明の証明――奴僕がいなければ、どうして大土地所有者が存在できようか。なぜなら、奴僕
を使わず、大土地所有者と彼の家族とだけの力では、むろん彼の所有地の一小部分しか耕作でき
ないであろうから。
つまり、人間は自然を征服するためには、まえもって人間を隷属させなければならなかった、
ということを証明するために、デューリング氏は、「自然」を無造作に「かなり大きい面積の土
地所有」に転化させ、そしてこの土地所有――だれのものともきまっていない――を、すぐさま
また一人の大地主の所有に転化するのである。この大地主は、もちろん、奴僕を使わずには自分
の土地を耕作することはできない。
第一に、「自然にたいする支配」と「土地所有の経営」とは、けっして同じものではない。工
業では、自然にたいする支配は、農耕とは段ちがいの巨大な規模でおこなわれているが、農耕で
は、今日まで、天候を支配するどころか、天候に支配されないわけにはいかないのである。
第二に、もしかなり大きい面積の土地所有の経営だけに限って言うなら、この土地所有がだれ
のものかということが、肝心な点である。そこで、あらゆる文化民族の歴史のはじめに見いださ
れるのは、デューリング氏がここで「自然的弁証法(32)」と自称する彼のいつもながらの手品師
的なやり方でわれわれにつかませる「大地主」ではなくて、――土地を共有する部族共同体と村
落共同体である。インドからアイルランドにいたるまで、かなり大きい面積の土地所有の経営は、
はじめはこういう部族共同体や村落共同体によっておこなわれた。それも、あるときは、共同体
の勘定で耕地を共同で耕作するという仕方でおこなわれ、またあるときは、林地や放牧地をひき
つづき共同で利用しながら、共同体から各家族に期間を限って割り当てた個々の分割耕地でおこ
なわれた。「政治と法学の分野での」デューリング氏の「最も徹底的な専門研究」の特徴は、こ
こでもまた、これらすべての事柄について彼がなにも知っていないということであり、彼の全著
作には、ドイツ法全体の基礎であるドイツの原始的なマルク制度(33)にかんするマウラ-の画期
的な諸著作(34)や、またヨーロッパとアジアのすべての文化民族のあいだに原始的な土地共有制
があったことを証明し、この土地共有制のさまざまな存在形態や解体形態を叙述している文献―
―主としてマウラーの刺激にもとづくもので、いまでもたえずふえてゆく文献――についてのま
ったくの無知が現われているということである。フランス法やイギリス法の分野でのデューリン
グ氏の無知がどんなにひどいものであったにせよ、彼は「その全無知を自力で手に入れた(35)」
のであったが、ドイツ法の分野でのはるかにひどい無知も、やはり同じように自力で手に入れた
のである。大学教授たちの視野の狭いことをあれほど猛烈に憤慨している人物が、ドイツ法の分
野では、今日なお、せいぜいよくいって教授たちが二〇年まえにいたところに立っているのだ。
かなり大きい面積の土地所有を経営するためには、地主と奴僕とが必要であった、というデュ
ーリング氏の主張は、彼の純然たる「自由な創造物と構想物」である。共同体または国家が土地
所有者となっている東洋全体をつうじて、その諸言語には地主ということばさえないのであって、
この点についてはデューリング氏は、例のイギリスの法律家たちに助言をあおぐことができる。
この法律家たちは、ちょうど故ロイス−グライツ−シュライツ−ローベンシュタイン−エーバー
スヴァルデの君主ハインリヒ七二世(36)が、夜番はだれか、という問題を解こうとしてむだ骨を
おったのと同じように、インドで、土地所有者はだれか、という問題を解こうとしてむだ骨をお
ったのである。東洋では、トルコ人がはじめて、彼らの征服した国々に一種の地主的封建制度を
導入した。ギリシアは、すでに英雄時代に一つの身分編制――それ自体がまた、明らかに、かな
り長い、未知の先史の産物であるが――をもって歴史に登場してくる。しかし、そこでも、土地
はおもに独立農民によって経営されていた。貴族や部族首長のかなり大きい領地は例外であり、
そのうえ、その後まもなく消滅してしまった。イタリアはおもに農民によって開墾された。ロー
マ共和国の末期に、大きな兼併領地すなわちラティフンディウムが分割地農民を駆逐して奴隷と
置きかえたとき、それは同時に農耕を牧畜と置きかえ、こうして、すでにプリニウスが理解して
いたように、イタリアを滅亡させてしまった(latifundia Italiam perdidere(37))。中世には、
ヨーロッパ全体をつうじて(ことに荒蕪地を開墾するさいには)農民の耕作が主要なものであっ
た。その場合、これらの農民がどれかの封建領主に貢納を支払わされていたかどうか、また、ど
ういう貢納を支払わされていたかということは、当面の問題にとってはどうでもよいことである。
スラヴ人から奪いとったエルべ河以東の土地の耕作にあたったフリースラント、下ザクセン、フ
ランドル、下ラインからの植民者は、自由農民として、非常に有利な率の賃租(38)でそれを耕作
したのであって、けっして「なんらかの種類の賦役」によって耕作したのではない。――北アメ
リカでは、この国のきわめて大きな部分が自由農民の労働によって開墾され、他方、奴隷を使っ
て略奪耕作をおこなった南部の大地主たちは、地力を枯渇させてしまい、ついにはその土地には
樅しか生えないようになったため、綿花栽培はたえず西へ西へと移ってゆかなければならなかっ
た。オーストラリアやニュージーランドでは、土地貴族を人為的につくりだそうとしたイギリス
政府の試みは、みな失敗に終わった。要するに、気候上ヨーロッパ人にとって農耕労働が不可能
な熱帯と亜熱帯の満民地を除けば、奴隷または賦役農奴を使って自然を自分の支配に服させ、土
地を開墾する大地主というものは、まったくの幻像だということがわかる。その反対なのだ。イ
タリアのように、古代に大地主が登場した場合には、彼らは荒地を開墾するどころか、農民が開
墾した耕地を牧場に変え、幾多の地方全体の住民を絶やし、それを荒廃させたのである。近代に
なってはじめて、人口が稠密となったために地価が上がり、ことに農学の発達のおかげで劣等地
も利用できるようになってからはじめて――そうなってはじめて、大土地所有は荒蕪地や放牧地
の大規檄な開墾にたずさわりはじめたのであって、しかもそれは、イングランドでもドイツでも、
主として農民の共同体所有地を盗みとることによっておこなわれた。そして、それさえ反対の面
をともなわずにはいなかった。大土地所有者たちは、イングランドで共同体所有地を一エーカー
開墾するごとに、スコットランドですくなくとも三エーカーの耕地を牧羊場に変え、それどころ
か、おしまいには、大猟獣を狩りたてるたんなる猟場に変えてしまったのである。
われわれがここで問題にしているのは、ただ、かなり大きい地域の開墾、したがっておそらく
は耕作地域のほとんど全部の開墾が、大地主と奴僕以外の手でおこなわれたことは「かつて、ま
たどこにも」なかった、というデューリング氏の主張――すでに見たように、歴史についての真
に前代未聞の無知を「前提とする」主張――についてだけである。だから、すでに全部または大
部分開墾ずみの地域が、いろいろな時代にどの程度まで奴隷(ギリシアの全盛期のように)また
は隷農によって(中世以後の荘園のように)耕作されたかということにも、また、いろいろな時
代の大土地所有者の社会的機能がどんなものであったかということにも、ここではかかわりあう
にはおよばない。
さて、その演繹の奇術か、その歴史の偽造か、どちらにより多く感心したらいいかわからない、
このみごとな空想画をわれわれに見せたあとで――デューリング氏は意気揚々と叫ぶ。
「いうまでもなく、他のあらゆる種類の分配的富も、 #歴史的にこれと同じような仕方で説明
されなければならない# !」
こう述べることで、彼が、たとえば資本の発生について、それ以上ただの一語でも費やす手間
をはぶくということは、もちろんである。
もし、人間による人間の支配が、一般に人間による自然の支配の先行条件であるというデュー
リング氏の主張が、われわれの現在の経済状態全体、農業と工業が今日到達している発展水準が、
階級対立をつうじて、支配=隷属関係をつうじて展開してゆく社会史の結果であるということを
言おうとしているにすぎないのなら、彼は、『共産党宣言』以来とっくに陳腐になったことを言
っているわけである。肝心なことは、まさに諸階級と支配関係との発生を説明することであって、
デューリング氏がこれについていつも「暴力」という一語だけしかもちあわせていないとすれば、
われわれは出発点から少しもすすまなかったことになる。いつの時代でも、支配され搾取される
者のほうが支配し搾取する者よりずっと人数が多く、したがってほんとうの力は前者の側にある、
という簡単な事実を考えただけでも、暴力論全体の愚劣さを明らかにするのに十分である。だか
ら、問題は、あくまでも支配=隷属関係を説明することにある。
この関係は、二とおりの道すじで発生した。
人間はもともと動物界――狭義の――から出てきたものであるから、それが歴史に足を踏みい
れるときには、まだなかば動物であり、野生のままで、自然の諸力にたいしてまだ無力で、自分
自身の力をまだ知っていない。したがって、動物と同じように貧しく、生産性の点で動物と大差
はない。生活状態のある種の平等がおこなわれており、また家族の長について見ても、やはり社
会的地位の一種の平等がおこなわれている。――すくなくとも、社会階級は存在していない。こ
の社会階級がないという状態は、のちの文化諸民族の、農耕をいとなむ自然生的共同体でもなお
つづく。こういう共同体のそれぞれには、最初からある種の共同の利益が存在しており、それの
保護は、たとえ全体の監督のもとでにせよ、個々人に委託されなければならない。争訟の裁決、
個々人の越権行為の抑制、水利の監視――とくに暑い諸国において――、最後に、太古の原始状
態にあっては宗教的機能がそれである。このような職務は、あらゆる時代の原生的な共同体に、
たとえばドイツの最古のマルク共同体に見いだされ、インドでは今日でもそれが見いだされる。
いうまでもないことながら、それらの職務はある種の全権を付与されており、国家権力の端緒で
ある。しだいに生産力が増大してゆく、人口がより稠密になると、個々の共同体のあいだに、と
きには共同の、ときには相反する利害がつくりだされる。これらの共同体が一群となってより大
きな全体をつくるようになると、またもや一つの新しい分業が生まれ、共同の利益を保護し、相
反する利益を撃退するための機関がつくりだされる。これらの機関は、群れ全体の共同の利益の
代表者だというだけでも、それぞれの共同体にたいして、ある特殊な、場合によっては対立的で
さえある地位を占めるのであるが、まもなくそれは、一部は職務の世襲化――これは、なにごと
も自然生的に起こる世界では、ほとんど自明のなりゆきである――の結果、また一部は、他の諸
群との衝突が増大するにつれて、これらの機関がますます不可欠のものになってゆく結果、さら
にいっそう独自化してゆく。社会にたいする社会的機能のこのような独自化が、どのようにして
時とともに強まって、社会にたいする支配となることができたか、はじめは召使であったものが、
どのようにして好機に恵まれたところでしだいに主人に転化していったか、この主人が、どのよ
うにしてそのときどきの事情におうじて、東洋の専制君主またはサトラップ(39)として、ギリシ
アの部族首長として、ケルト人の族長〔Clanchef(40)〕等々として登場したか、この転化にさい
して彼はけっきょくどの程度まで暴力をも用いたか、最後に、個々の支配者たちがどのようにし
て一つの支配階級に結合したか――そういう点には、ここで立ちいる必要はない。ここで肝心な
ことは、どこでも政治的支配の基礎には社会的な職務活動があったということ、また政治的支配
は、それが自己のこういう社会的な職務活動を果たした場合にだけ長くつづいたということを、
確認することだけである。どれだけ多くの専制支配がペルシアやインドで興亡したにしても、そ
れらのすべては、自分がなによりもまず河川流域の灌漑の総請負人であることを、まったくはっ
きりと心えていた。この国々では、灌漑をおこなわずには、農耕は不可能なのである。インドで
このことに気づかなかった最初の者は、開明したイギリス人であった。イギリス人は、灌漑水路
や水門を崩れるにまかせ、いまになってようやく、規則的に繰りかえす飢饉を見て、インドにお
ける彼らの支配をせめてその先行者たちの支配と同程度に正当なものとすることができたであろ
うただ一つの活動を、自分たちがなおざりにしてきたことを、発見しているのである。
だが、この階級形成とならんで、なおもう一つの階級形成がすすんでいった。農耕家族の内部
での自然生的な分業は、ある程度の裕福さに達したとき、一人またはそれ以上の他人の労働力を
取りいれることを可能にした。古くからの土地の共同所有がすでに解体していたか、またはすく
なくとも古くからの共同耕作がそれぞれの家族による割当地の個別的耕作に席を譲っていた国々
では、ことにそうであった。生産はかなりに発展していて、いまでは人間の労働力は、自分の生
計を維持するだけのために必要であるよりも多くのものを生産できるようになっていた。より多
くの労働力を給養する手段が存在していたし、これらの労働力を働かせるための手段もやはり存
在していた。労働力はある #価値# をもつようになった。しかし、自分の共同体や、この共同体
が属していた連合体は、自由に使える余分な労働力を供給してはくれなかった。他方、戦争がそ
れを供給した。そして、戦争は、いくつかの共同体群が同時にならんで存在するようになったそ
のときから、存在していた。それまでは、戦争の捕虜をどうしてよいかわからなかったから、捕
虜はあっさり打ち殺されていた。もっと以前には、捕虜は食われたのである。ところが、「経済
状態」がいま到達した段階では、捕虜はある価値をもつようになった。そこで、これを生かして
おいてその労働を利用するようになった。こうして、暴力は、経済状態を支配するどころか、反
対に、経済状態に強制的に奉仕させられた。すなわち、 #奴隷制# が発明されたのである。奴隷
制は、まもなく、古い共同体をこえて発展してきたすべての民族のあいだで支配的な生産形態に
なったが、しかし、けっきょくはまた、これらの民族の没落の主要な原因の一つにもなった。奴
隷制によってはじめて、農業と工業とのあいだのかなり大規模な分業が可能となり、それによっ
て、古代世界の花であるギリシア文化が可能になった。奴隷制がなければ、ギリシア国家もなく、
ギリシアの芸術と科学もない。奴隷制がなければ、ローマ帝国もない。だがまた、ギリシア文化
とローマ帝国という基礎がなければ、近代のヨーロッパもないのである。われわれの経済的、政
治的、知的な発展の全体は、奴隷制が必然的でもあり一般に承認されてもいた状態をその前提と
しているのだということを、われわれはけっして忘れてはならない。この意味で、古代の奴隷制
がなければ近代の社会主義もない、と言っても不当ではない。
奴隷制やそれに類するものを一般的なきまり文句で罵倒したり、こういう恥ずべき事柄にたい
して高潔な道徳的憤怒をあびせかけるということは、きわめてお手軽にやれることである。残念
なことには、そうしたところで、だれでも知っていること、つまり、これらの古代の制度はわれ
われの今日の状態にも、またこの状態によって規定されたわれわれの感情にももはや応じない、
ということ以外には、なにも言ったことにはならないのである。だが、そう聞いただけでは、こ
れらの制度はどのようにして成立したのか、なぜそれらは存続したか、また歴史上でそれらはど
んな役割を演じてきたか、ということについて、われわれは一言でも知ったことにはならない。
そしてこの点に立ちいって述べるなら、それがどんなに矛盾しているように、また異端的なよう
に聞こえようと、奴隷制の導入は当時の事情のもとでは一大進歩であった、と言わなければなら
ない。人類は動物から出発したものであり、したがって、それが野蛮状態からぬけだすためには、
野蛮な、ほとんど動物的な手段が必要であったということは、なんといっても事実である。古い
共同体は、インドからロシアにいたるまで、それが存続したところでは、数千年このかた最も粗
野な国家形態である東洋的専制政治の基礎となっている。ただ共同体が分解したところでだけ、
諸国民は自力でさらに前進した。そして、彼らのその次の経済的進歩は、奴隷労働を手段として
生産を増大させ、発展させたことであった。人間の労働がまだあまり生産的でなく、したがって、
必要な生活手段をこえてはわずかな剰余しか供給しなかったあいだは、生産力を増大させ、交易
を拡張し、国家と法を発展させ、芸術と科学を創始することは、分業を強化することによっての
み可能であったし、そして、その分業は、単純な手労働に従う大衆と、労働の指揮、商業、国務
に従い、のちにはまた芸術や科学にたずさわった少数の特権者とのあいだの大きな分業を基礎と
するほかはなかったこと、これは明らかである。この分業の最も簡単な、最も自然生的な形態が、
ほかならぬ奴隷制であった。古代世界、とくにギリシア世界の歴史的前提のもとでは、階級対立
に基礎をおく社会への前進は、奴隷制の形態によってしかおこなうことができなかった。これは、
奴隷にとってさえ一つの進歩であった。奴隷大衆の供給源であった戦争の捕虜は、まえには殺さ
れ、もっと以前には焼肉にさえされたのに、いまではすくなくとも命だけはとりとめたのである。
このさいつけくわえて言っておけば、搾取する階級と搾取される階級、支配する階級と抑圧さ
れる階級との、これまでのあらゆる歴史的対立は、人間の労働の生産性が比較的に未発達だった
というこの同じ事情によって説明されるのである。実際の労働に従っている住民が、自分たちの
必要労働にあまりにも忙殺されていて、社会の共同事務――労働の指揮、国務、法律事務、芸術、
科学など――に従う時間が彼らに少しも残されていないかぎり、いつでも、実際の労働から解放
されてこれらの事務に従う特別の一階級が存在しなければならなかった。しかも、じっさい、こ
の階級は、いつもきまって自分自身の利益のために労働大衆にますます多くの労働負担を負わせ
るのであった。大工業によってなしとげられた生産力の巨大な増大によってはじめて、例外なく
すべての社会成員に労働を割り当て、そうすることによって各人の労働時間をいちじるしく短縮
して、社会の全般的な事務――理論的な、また実践的な――にたずさわる十分な余暇がすべての
人々に残されるようにすることが可能になる。だから、いまこそはじめて、支配し搾取する階級
はすべてよけいなものに、それどころか社会発展の障害物になったのである。そして、いまこそ
はじめて、これらの階級は、たとえどれほど「直接的な暴力」をもっていようと、容赦なくとり
のぞかれるであろう。
だから、デューリング氏が、ギリシア文化は奴隷制に基礎をおいていたという理由で、ギリシ
ア文化を鼻であしらうなら、彼は、当然に、ギリシア人が蒸気機関も電信機ももっていなかった
という理由で、彼らを非難してもよいわけである。また、われわれの近代的な賃金隷属制は奴隷
制のいくらか転形し、緩和された遺産にすぎず、それ自体から(すなわち、近代社会の経済諸法
則から)それを説明することはできない、という彼の主張は、賃労働も奴隷制も、隷属と階級支
配との形態であるという、どんな子どもでも知っていることを意味するにすぎないか、さもなけ
れば、誤りであるか、どちらかである。というのは、それと同じ論法で、当然に、賃労働は食人
――これが、征服した敵を利用する原始的な形態であったことは、今日どこでも確認されている
――の緩和された形態としてしか説明できない、と言ってもよいことになるからである。
暴力は歴史上で経済的発展にたいしてどういう役割を演じるかということは、以上のことから
して明らかである。第一に、いっさいの政治的暴力は、はじめはある経済的、社会的な機能にも
とづくものであって、原始的な共同体の分解によって社会の諸成員が私的生産者に転化され、し
たがって共同の社会的機能の執行者たちからますます疎外されてゆくにつれて、それが強まって
ゆくのである。第二に、政治的暴力は、社会にたいして独自化し、召使から主人に転化したあと
では、二とおりの方向に作用することができる。一方では、それは、合法則的な経済的発展の精
神において、またその方向に作用する。この場合には、両者のあいだになんの抗争もなく、経済
的発展は加速される。あるいはまた、それは経済的発展にさからって作用する。そしてこの場合
には、それは、わずかな例外を除けば、通例は経済的発展に屈服してしまう。このわずかな例外
というのは、より野蛮な征服者が一国の人口を根だやしにするか、または駆逐してしまい、彼ら
自身ではどう扱ってよいのかわからない生産力を荒廃させるか、または滅びるのにまかせてしま
った、そういう個々の征服の場合である。たとえば、ムーア人支配下のスペインで、キリスト教
徒がムーア人の高度に発展した農耕や園芸の基礎になっていた灌漑施設の大部分を扱ったやり方
がそれであった。すべてより野蛮な民族による征服が、経済的発展を攪乱し、多くの生産力を破
壊するということは、いうまでもない。しかし、征服が長期にわたるときには、大多数の場合に、
より野蛮な征服者は、この征服から生まれてくる、より高度の「経済状態」に適応しなければな
らなくなる。征服者は、征服された住民に同化されてしまい、たいていは彼らの言語をさえ採用
しなければならなくなる。だが、征服の場合を別とすれば、一国の内部の国家権力がその国の経
済的発展と対立するようになると――そして、これは、これまでほとんどあらゆる政治的暴力に
ついて、ある段階で起こったことである――、その闘争は、いつでも政治的暴力の転覆で終りを
告げた。経済的発展は、例外なしに、また容赦なく、道を切りひらいてすすんだ。その最近の最
も目ざましい実例を、われわれはすでにまえのほうであげておいた。フランス大革命がそれであ
る。もしデューリング氏の学説にしたがって、一定の国の経済状態と、それとともにまたその経
済構造とがもっぱら政治的暴力に依存するとすれば、フリードリヒ・ヴィルヘルム四世が、彼の
「光栄ある軍隊(41)」をもってしても、一八四八年以後に鉄道や、蒸気機関や、彼の国にまさに
発展しかけていた大工業の上に、中世的なツンフトやその他のロマン主義的な気まぐれを接木《
つぎき》することがどうしてもできなかったのはなぜなのか、また、彼よりももっとはるかに強
大なロシア皇帝〔アレクサンドル二世〕が、自分の負債を支払えないばかりか、西ヨーロッパの
「経済状態」からたえず金をせびりとらないでは、彼の「暴力」を維持することさえできないの
はなぜなのか、まったく見当がつかなくなる。
デューリング氏にとっては、暴力は絶対の悪であり、最初の暴力行為は彼にとっては堕罪であ
る。彼の叙述全体は、このためにこれまでの全歴史が原罪に感染したということ、この悪魔の力、
暴力によってあらゆる自然法則および社会法則が恥ずべき変造をこうむったということについて
の、悲嘆のお説教なのである。だが、暴力は、歴史上でもう一つ別の役割、革命的な役割を演じ
るということ、暴力は、マルクスのことばを借りれば、新しい社会をはらんでいるあらゆる古い
社会の助産婦であるということ、暴力は、社会的運動が自己を貫徹し、そして硬直し麻痺した政
治的諸形態を打ち砕くための道具であるということ――このことについては、デューリング氏は
ひとことも語らない。彼は、搾取経済を転覆するためにはおそらく暴力が必要となるかもしれな
いということを、溜息をついたりうめいたりしながら、やっと認めているだけである。――残念
なことに、である! なぜなら、どんなものでも、暴力の使用は、それを使用するものを堕落さ
せるからだというのだ。勝利に終わったどの革命からも、つねに大きな道徳的、精神的な高揚が
生じたという事実を前にして、こういうことを言うのだ! しかも、人民に実際に暴力的衝突が
押しつけられる可能性があり、そしてそういう衝突が、すくなくとも、三十年戦争(43)の屈辱の
結果国民の意識にしみこんだ下段根性を一掃するという利益をもたらすにちがいないこのドイツ
で、こういうことを言うのだ! それなのに、この気のぬけた、ひからびて無力な説教師的な考
え方が、おこがましくも、歴史上に知られた最も革命的な党に、あえて自分を押売りしようとす
るのか?