小西誠への質問状 4

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688ヽ(´∀`)ノ 蝿
暴力行為の介在の有無で、言論の自由度がどれほど違うかは
明白じゃないかとおもいます。

 暴力とは少し離れますが、ナチス台頭時、なぜドイツ国民が
共産主義勢力に結集しなかったのか?というとき、
(ナチスではなく)警察権力によって、共産主義組織への弾圧があったからだ、
と言う話がありますね。 その程度で人々は簡 単 に 批 判 の 口 を 閉 ざ し て し ま う。
ゲバルトの荒らしの中で正常な議論、バイアスのかからない批判が出来るはずがない、
左様に思います。

そして、批判 という “自己を検証する 能 力 ”を失った勢力が、
腐敗の中に墜ちる事など、人類の歴史において枚挙に暇が無いことでせう。。。

 …やっぱり、内ゲバなんて、下 ら な い と思いませんか?
689名無しさん@3周年:03/07/03 14:38
>>688
>暴力行為の介在の有無で、言論の自由度がどれほど違うかは
>明白じゃないかとおもいます。

「閉じた政治行為」という観点に即して書いてるんですけど。たとえ言論という
形態をとろうが「閉じた政治行為」である限り暴力への移行は易いってこと。だ
って思想的に同じ位相にいるわけなんだから。

「言論の自由」論はそこを視野外に置く。だから暴力批判は常に後手に回るんだろ。
690ヽ(´∀`)ノ 蝿:03/07/03 14:45
申し訳ないが、閉じた、という観念を、
(素人質問かもしれませんが)
何がどう閉じているのか、補足説明頂けないでせうか。。。
691名無しさん@3周年:03/07/03 17:51
>>690
厳密に説明するのは難しいのですが、他党派や大衆からの批判によって自
己点検することを初めからプログラムしていない態度。このような態度は
自分が真理に到達している(他者は敵のイデオロギーに支配されていて真
理が見えない)と信じているか、もしくは自分のことは自分だけで批判で
きると信じていることから来ると思われる。
692名無しさん@3周年:03/07/03 17:52
更に始末が悪いのは、自分の誤りを認めることに恐怖を抱いている場合。
相手を蛆虫のように論難したり殺傷してしまった者がこれに陥る。論難の
誤りを認めることは、自分が蛆虫以下であることを認めねばならないし、
自分の誤謬が死に値するという観念が生じ、その現実から逃れるために相
手を永遠に蛆虫や死ぬべき者どもに固定する「必要」が出てくる。

認識が終局のない社会的な営為、協働作業であることを理解していればこ
ういった自閉は有り得ないはずなんだよ。
693名無しさん@3周年:03/07/03 17:57
上に書いたような状況は暴力行使以前から存在し、暴力行使への敷居は
かなり低いはず。

ブルジョアジーが生んだ「言論の自由」はその認識論において個人主義
的であると思うが、どうかね。認識の社会性・協働性・無限界性をその
哲学にしているだろうか?
694ヽ(´∀`)ノ 蝿:03/07/03 18:09
>691 あんがと。

その後のレスも、ちょっち かんがえるですだ… ほな。
695名無しさん@3周年:03/07/03 18:30
>>694
まだ続くんだが。

自然科学が何ゆえにドグマを回避することが可能かと言えば、そこに「実験」や
「観察」が作りつけになっているからだ。いわば広大な自然からの批判を受け入
れる回路ができている。ポパーが言うように理論が反証可能なように出来ている
から科学なのではない。批判を受け入れる回路があるから反証可能な理論を構築
できるわけだ。
696名無しさん@3周年:03/07/03 18:32
しかるに「内ゲバ党派」つーかスターリン以来の左翼は理論や自己の観念
それ自体が真理への道を用意していると勘違いしてきた。当然、批判の回
路を自己の理論(観念)の内にしか求めることをしなかった。ぶっちゃけ
た話、姿見不要つーわけだな。

ま、これは認識論上の内ゲバ解析であって、言論か暴力かみたいな二元論
の底の浅さを指摘するための議論の一つに過ぎない。それだけでは内ゲバ
批判は完結しない。
697名無しさん@3周年:03/07/03 18:39
682.683
の視点はオレも重要だと思うよ。「言論の自由」や
「暴力」反対などのブルジョア民主主義を掲げた部
分の最も組織的な暴力は何度もあったわけだし。

認識の共同主観性、歴史性にどれだけ自覚的になり
うるかというのは重要な課題だとオレも思う。あと、
重要なのは党派という特殊な共同体の形成過程・存
立構制だな。よく考えれば、日本の党派=セクトと
いうのは実に不思議な共同体だ。これが、日本的価
値観を基礎に形成されてきたというのがあるのでは
ないか。無意識のタブーや、古い伝統的価値観を保
持・熟成・疎外させていく過程があると思うよ。機
関紙などにおけるレッテル貼りとか。その過程で
「閉じた政治行為」に無自覚になり、党派間の暴力
のみならず、その共同体内の支配被支配や性暴力も
疎外的に生み出していくのではないか。
698名無しさん@3周年:03/07/03 18:45
おまえら、暗いぞ。
どん底だな。
699名無しさん@3周年:03/07/03 18:47
>>698
いや、おもしろいよ。
どんどん、続けてくれ。
700名無しさん@3周年:03/07/03 18:48
革命は現実からの飛躍であるが、同時に現実に足を置かねばならない。
しかし、独我的認識論は足場を現実に置かずに批判回路の欠落した理論
や観念の内に求めた。現実から遊離した「現実からの飛躍」は糸の切れ
た凧、というにはあまりにも凄惨なドラマを描いてしまった。

「大衆からの遊離」とは、単に主人公置き去りという手続き問題ではない。
現実からの切断という視点で考えるべき問題でもある。ちなみに、飛躍を
忘却した連中の語る「大衆とともに」はあまり信用できないね。
701名無しさん@3周年:03/07/03 19:13
>>697
>「言論の自由」や「暴力」反対などのブルジョア民主主義を掲げた部
>分の最も組織的な暴力は何度もあったわけだし。

イラク侵略が「より大きな暴力を粉砕するため」「民主主義のため」という
大義名分で実行されたばかりだね。
702名無しさん@3周年:03/07/03 19:50
>>701
内ゲバ暴力が人民から遊離した共産主義だとすれば、
ネオコン暴力はさしずめ市民から遊離した市民主義か。
左翼崩れがネオコンやってるのも頷けるよな。