43 :
名無しさん@1周年:
ルソーの言う「自然人」とはキリスト教的原罪などない完全なる「善」の存在である。
社会契約論冒頭「人は生まれながらにして自由であるのに〜」の「人」とはこの自然人のことであろう。
よりオタクなことを言うと、自然人とは少年エミールのことであり、かつての放浪の孤児ジャン・ジャック当人である(w)。
そしてルソーは言う、
自発的に奴隷になることなど受け入れられない。
自由の放棄は人間を人間以下の存在にする(人間の本性とは両立しない)。
しかし現実に無数の人間が共同生活を営むためには、ルールを強制され、拘束されねばならない。
ルソー自身、「自然人」など現実には存在したことがないし、
今後も存在しえないことを認めている。
曰く、
私のように文明社会を否定するものが、逆に人工国家を構想する矛盾は自覚している。
だが何人も現実には「自然」にも「自由」にもなれない。
「自然的自由」を放棄する以上、その理由は「崇高」なものでなくてはならない。
これがルソー的「人民主権(一般意思?)」思想の根幹である。
44 :
名無しさん@1周年:02/10/21 14:21
(その2)
人はなぜ政府に従うのか?
ホッブスはご存知の通り、それが大抵の場合自己の利益になるからだ、と考えた。
だから市民は政府との間に契約を結ぶ。
政府=主権者(当時は君主のこと)に、法の制定と強制力行使の権利を認める。
そして一旦契約が結ばれれば、カオスを避けるため(=自己の利益のため)には主権者に絶対的権力を与えるべきだ、とした。
これにより、邪悪な個人は相互の攻撃から安全になる。
つまり、仮に奴隷になるにしても、自発的に契約を結んだことになる。
そして、市民は主権者に強制された故に法に従う。
曰く、「強制力が権利を創る」。
ルソーは前述の通り、こんなことは認めない。
彼の考える市民共同体は自発的な存在である。
人は生まれながらにして自由であり自らの主人である、
だから何人たりとも各個人の同意無しに命令を下すことはできない。
すなわち、市民は「強制されたから」ではなく「法に従うべきと信ずるから」法に従う。
45 :
名無しさん@1周年:02/10/21 14:22
(その3)
ルソーは「政治と道徳とを分離するものはどちらも理解していない」と言ったが、
ルソーにとって政治とは道徳性から派生するものである。
「強制されたから従う」ホッブス説では、市民には「道徳的な義務」はないことになる。
これが「ホッブス的社会契約」と「ルソー的社会契約」の決定的違いである。
46 :
名無しさん@1周年:02/10/21 14:26
(その4)
さて、(当時の)現実の政治社会は当然ながらルソーの考える通りにはなっていない。
ルソーは「その主目的は不平等の合法化であり」、
「大多数の人間を経済的奴隷状態においている」と断じている。
ある政治理論では、
「法は神の言葉をその権威とするが故に強制できる」(王権神授説)。
別の政治理論では、
「(政府や法を自然現象とみなし)法は『自然法』に依拠するが故に委任統治である」。
etc・・・。
ルソーは法は制定した主権が民主的である場合に限り、
すなわち「一般意思」が立法者である場合(人民主権)のみ受容できる、とした。
この時主権者たる人民は、主権者たる自分自身に従っているだけである(直接民主主義)。
「自然的自由」を放棄した代わりに、法の自発的受容に基づく「道徳的自由」を得る、
これが「ルソー的社会契約」である。
47 :
名無しさん@1周年:02/10/21 14:27
(おわり)
・・・という訳で、マルクスのルソー理解はそうデタラメではないと思われ。
マルクスはこうも言った。
ブルジョワ政府に対する契約義務はない。
国家とはプロレタリア階級の道具である。