大月書店「弁証法的唯物論と史的唯物論」

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10黒目:02/07/11 06:11
無政府主義とは、自由共産主義でっせ。
ことを、論証することにつとめよう。
 われわれはまた、無政府主義者が、プロレタリアートの独裁を否定するかぎり、ほんとうの革
命家でもないことを、論証することにつとめよう。……
 では、本題にはいろう。


      一 弁証法的方法

          世界ではすべてのものが運動している。……事情は変化し、生産力は成長
し、古い関係は崩壊する。
           ##K・マルクス## (1b)

 マルクス主義は、社会主義の理論であるだけでなく、全一の世界観であり哲学体系であって、
マルクスのプロレタリア的社会主義は、そのなかからひとりでに出てくるものである。この哲学
体系は弁証法的唯物論と呼ばれる。
 だから、マルクス主義を説明することは弁証法的唯物論をも説明することである。
 なぜ、この体系は弁証法的唯物論と呼ばれるのか?
 それは、その ##方法## が弁証法的であり、その ##理論## が唯物論的だからである。
 弁証法的方法とはどんなものか?
 社会生活はたえまのない運動と発展との状態にある、といわれている。それはただしい。生活
は、ある不変のもの、固定したものと考えてはならない。それは、けっして同じ水準にとどまっ
ているものではなく、永久の運動のうちにあり、破壊と創造との永久の過程のうちにある。だか
ら、生活にはいつでも、 ##新しいもの## と ##古いもの、成長しつつあるもの## と ##死につ
つあるもの## 、革命的なものと反革命的なものとが、存在している。
 弁証法的方法は、生活を現実にあるがままに観察することが必要だ、と述べている。われわれ
は生活がたえまのない運動のうちにあることを見た。したがって、われわれは生活をその運動の
うちに観察し、生活はどこにすすんでいるか、という問題を出さなければならない。われわれは
生活がたえまのない破壊と創造との姿をあらわしていることを見た。したがって、われわれの義
務は、生活をその破壊と創造とのうちに観察し、生活のうちでなにが破壊され、なにが創造され
ているか、という問題を出すことである。
 生活のうちでうまれ、日一日と成長しているものは、――うちかちがたく、その前進運動を停
止させることはできない。すなわち、たとえば生活のうちで階級としてのプロレタリアートがう
まれ、それが日一日と成長しているならば、プロレタリアートが今日どんなによわく、また少数
であろうとも、結局はプロレタリアートはやはり勝利するだろう。なぜか? プロレタリアート
が成長し、つよくなり、前進するからである。反対に、生活のうちで老いこみ、墓場にむかって
すすんでいるものは、 ##今日## どんなに強力に見えていようとも、不可避的に敗北するにちが
いない。すなわち、たとえばブルジョアジーが、しだいにその足場をうしない、日ごとにあとも
どりしているならば、彼らが今日どんなにつよく、また多数であろうとも、結局は彼らはやはり
敗北するであろう。なぜか? それは、ブルジョアジーが階級として腐敗し、よわくなり、老い
こみ、生活のよけいな重荷となりつつあるからである。
 ここからまた、つぎの名だかい弁証法的命題(2)がうまれてきた。すなわち、すべて現実に存
在するもの、つまり日一日と成長するものは合理的であり、すべて日一日と腐敗するものは非合
理的であり、したがって敗北をさけることができない、ということである。
 実例。前世紀の八〇年代に、ロシアの革命的インテリゲンツィアのあいだで大論争がおこった。
ナロードニキ(3)は、「ロシアの解放」をひきうけることのできる主力は農村と都市との小ブル
ジョアジーである、と主張した。なぜか?――とマルクス主義者が彼らにたずねた。農村と都市
との小ブルジョアジーが今日多数をしめていて、そのうえ彼らが貧乏で貧困のうちにくらしてい
るからである、とナロードニキは言った。
 マルクス主義者はこたえた。農村と都市との小ブルジョアジーが今日多数をしめていること、
彼らが実際にまずしいことは、そのとおりだが、しかし、はたして問題はそこにあるだろうか?
と。小ブルジョアジーはすでにずっとまえから多数をしめているが、しかし、これまでプロレタ
リアートの助けをかりずには「自由の」ための闘争でどんなイニシアティヴを発揮したこともな
いのだ。それはなぜか? それは、小ブルジョアジーが、階級としては成長せずに、反対に、日
一日と分解し、ブルジョアとプロレタリアとに分離してゆくからである。他方では、いうまでも
なく貧乏ということは、ここでは決定的な意味をもっていない。「浮浪人」は小ブルジョアジー
よりもまずしいが、彼らが「ロシアの解放」をひきうけることができるとは、だれも言わないで
あろう。
 ごらんのとおり、問題は、今日どの階級が多数をしめているか、または、どの階級がいっそう
まずしいか、ということにはなく、どの階級がつよくなっているか、どの階級が腐敗しているか、
ということにある。
 プロレタリアートは、たえまなく成長し、つよくなってゆき、社会生活を前進させ、自分のま
わりにあらゆる革命的要素をあつめる、ただ一つの階級であるから、われわれの義務は、プロレ
タリアートを現代の運動の主力としてみとめ、プロレタリアートの隊列にくわわり、プロレタリ
アートの先進的な志向を自分の志向とすることである。
 このようにマルクス主義者はこたえた。
 あきらかに、マルクス主義者は生活を弁証法的に見た。ところが、ナロードニキは形而上学的
に考えた、――彼らは社会生活を一点に固定したものとしてえがいた。
 弁証法的方法は、生活の発展をこのように見ている。
 だが、運動にもいろいろある。背骨をまっすぐにのばしたプロレタリアートが、兵器庫をおそ
い、反動に攻撃をくわえた「十二月事件(4)」のときのような、社会生活の運動があった。だが、
プロレタリアートが、「平和的」発展の条件のもとで、個々のストライキや小さな労働組合の結
成にとどまっていた、あの十二月事件以前の時代の運動もまた、社会運動と呼ばなければならな
い。
 あきらかに、運動にはいろいろの形態がある。
 だから、弁証法的方法は、運動には進化的形態と革命的形態との二つの形態がある、といって
いる。
 進歩的な要素が自然成長的にその日々の活動をつづけ、古い秩序のなかへ小さな ##量的## 変
化をもちこむばあい、その運動は進化的である。
 また、進歩的な要素が結合し、単一の思想でつらぬかれ、古い秩序を根絶し、生活のなかに #
#質## 的変化をもちこみ、新しい秩序をうちたてるために、敵の陣営におそいかかるばあい、そ
の運動は革命的である。
 進化は、革命を準備し、革命のために地盤をつくりだすが、革命は、進化を完成し、そのひき
つづく活動を促進する。
 同じような過程は自然の生活のうちにもおこっている。科学の歴史は、弁証法的方法が真に科
学的な方法であることをしめしている。つまり、天文学から社会学にいたるまでのどの部門でも、
世界には永久的なものはなにもなく、すべてのものは変化し、すべてのものは発展する、という
思想が確認されている。したがって、自然のなかのすべてのものは、運動、発長の見地から観察
されなければならない。そして、このことは、弁証法の精神が現代科学の全部をつらぬいている
ということを意味している。
 運動の形態についてみても、つまり、弁証法によると、小さな ##量的な## 変化が結局は大き
な質的な変化をもたらすということについてみても、この法則は自然の歴史のばあいでも同じよ
うに適用される。メンデレーエフの「元素周期律」は、量的変化から質的変化が生じるというこ
とが自然の歴史のなかでどんな大きな意義をもっているかを、はっきりとしめしている。このこ
とを生物学で立証しているのは新ラマルク主義の理論である。この理論にたいして新ダーウィン
主義(5)は席をゆずりつつある。
 われわれは、F・エンゲルスが彼の著書『反デューリング論』のなかで十分完全にあきらかに
した他の諸事実については、なにも述べないことにする。
 以上が弁認法的方法の内容である。

          *   *   *

 無政府主義者は弁証法的方法をどう見ているか?
 弁証法的方法の父祖がヘーゲルであったことは、だれでも知っている。マルクスはこの方法を
あらいきよめ改善した。もちろん、この事情は無政府主義者にもわかっている。彼らはヘーゲル
が保守主義者であったことを知っている。そこで、機会をとらえてヘーゲルを「王政復古」の支
持者だとしてさんざんののしり、「ヘーゲルは、王政復古の哲学者であり、……絶対主義的な形
態の官僚的立憲主義をほめたたえており、彼の歴史哲学の一般概念は、王政復古期の哲学的傾向
に従属し、それに奉仕している」ことなどを熱心に「証明」している(『ノバチ(6)』第六号、
ヴェ・チェルケジシヴィリの論文を見よ)。
 これと同じことを、有名な無政府主義者クロポトキンが彼の著書のなかで「証明」している(
たとえば彼のロシア話の著書『科学と無政府主義』を見よ)。
 チェルケジシヴィリから、シャ・ゲにいたるまでのわがクロポトキン主義者は、声をそろえて
クロポトキンの口まねをしている(『ノバチ』の各号を見よ)。
 なるほど、これについてだれも彼らと論争はしない。反対に、ヘーゲルが革命家でなかったこ
とには、だれでも同意するだろう。ほかならぬマルクスとエンゲルスが、だれよりもはやく、彼
らの『批判的批判の批判』〔『聖家族』〕のなかで、ヘーゲルの歴史観が根本的に人民の主権に
対立していることを論証した。だが、それにもかかわらず無政府主義者は、ヘーゲルが「王政復
古」の支持者であることを、あいかわらず「証明し」ているし、また、それを毎日毎日「証明す
る」ことが必要だと思っている。彼らはなんのためにそうするのか? たぶん、すべてこうした
やりかたで、ヘーゲルの信用をおとし、「反動主義者」ヘーゲルの方法もまた「いやらしい」非
科学的なものでしかありえないということを、読者に感じさせるためであろう。
 このようなやりかたで、無政府主義者は弁証法的方法を論破しようと考えている。
 このようなやりかたでは、彼らは、自分自身の無学のほかにはなにものをも証明するものでは
ない、とわれわれは断言する。パスカルとライプニッツは革命家ではなかったが、彼らの発見し
た数学的方法は、今日、科学的方法としてみとめられている。マイヤーとへルムホルツは革命家
ではなかったが、物理学の領域での彼らの発見は科学の基礎となった。ラマルクとダーウィンも
また革命家ではなかったが、彼らの進化論的方法は生物学をひとりだちさせた。……だとすれば、
ヘーゲルの保守主義にもかかわらず、彼ヘーゲルが弁証法的といわれる科学的方法を仕上げるこ
とができた事実を、なぜみとめてはいけないのだろうか?
 しかり、 ##こんなやりかたでは## 無政府主義者は、自分の無学のほかにはなにものをも証明
するものではない。
 さきへすすもう。無政府主義者の考えでは、「弁証法は形而上学である」。ところで、彼らは
「科学を形而上学から、哲学を神学から解放することをのそんでいる」のであるから、彼らはま
た弁証法的方法を排斥するわけである(『ノバチ』第三号と第九号のシャ・ゲを見よ。またクロ
ポトキンの『科学と無政府主義』をも見よ)。
 なんという無政府主義者だ! ことわざのように「自分の頭痛をひとのせいにする」ものだ。
弁証法は、形而上学との闘争のなかで成熟し、この闘争で自分の名声をかちえたのだが、無政府
主義者の考えでは、弁証法は形而上学だということになるのだ!
 弁証法はいう、世界には永久的なものはなに一つない、世界では、すべてのものが暫存的で可
変的であり、自然が変化し、社会が変化し、道徳、風俗が変化し、正義の概念が変化し、真理そ
のものが変化する、――だから、弁証法はすべてのものを批判的に見る。だから、それは、ただ
いちど確立されるとそれきりという真理を否定し、したがって、それは、「いちど見いだされた
ら、あとはただ暗記していさえすればよいというような」抽象的な「教条的な命題」をも否定す
る( ##F・エンゲルス## 『フォイエルバッハ論』〔第一五巻四三〇ページ〕を見よ)。
 だが、形而上学は、これとはまったくちがったことをわれわれにいっている。形而上学にとっ
ては、世界は永久的なもの、不変のものである( ##F・エンゲルス## 『反デューリング論』を
見よ)、世界は、だれかによって、またはなにものかによって、ただいちど規定されるとそれき
りのものである、――だから、形而上学者はいつでも「永久の正義」や「不変の真理」というこ
とをロにする。 .
 無政府主義者の「父祖」たるプルードンは、世界には ##いちど規定されるとそれきりの不変
の正義## が存在していて、それが未来の社会の基礎とならなければならない、と言っている。
そのためにプルードンは形而上学者と呼ばれるのである。マルクスは弁証法的方法の助けによっ
てプルードンとたたかい、世界のすべてのものが変化する以上「正義」もまた変化しなければな
らず、したがって「不変の正義」とはまさに形而上学的なたわごとであることを論証した( ##
K・マルクス## 『哲学の貧困』を見よ)。ところが形而上学者プルードンのグルジアにいる弟
子どもは、われわれ
にむかって「マルクスの弁証法は形而上学だ」とくりかえしている!
 形而上学は、たとえば「認識できないもの」、「物自体」というような、いろいろのあいまい
な教条《ドグマ》をみとめ、そして結局は中味のない神学にうつってゆく。プルードンとスペン
サーに対立して、エンゲルスは弁証法的な方法の助けによってこのようなドグマとたたかった
(『フォイエルバッハ論』を見よ)。だが、プルードンやスペンサーの弟子である無政府主義者
たちは、プルードンとスペンサーは学者であるが、マルクスとエンゲルスは形而上学者だ! と
われわれに言っている。
 無政府主義者たちが、自分で自分をあざむいているのか、それとも自分の言っていることがわ
からないのか、二つに一つである。
 どっらにしても、無政府主義者が、ヘーゲルの ##形而上学的## 体系と彼の ##弁証法的## 方
法とをごっちゃにしていることは、うたがいない。
 不変の理念に立脚しているヘーゲルの ##哲学体系## が一貫して ##形而上学的## であること
は、いうまでもない。だが、あらゆる不変の理念を否定するへーゲルの ##弁証法的方法## が一
貫して ##科学的## であり ##革命的## であることもまた、あきらかである。
 だから、ヘーゲルの形而上学的哲学体系を破壊的な批判にかけたマルクスは、それと同時に彼
の弁証法的方法をほめたたえたのであって、この弁証法的方法は、マルクスのことばによると、
「なにものにも威伏させられることなく、その本質上、批判的であり、革命的である」(『資本
論』
第一巻、第二版あとがきを見よ)。
 だからエンゲルスは、ヘーゲルの方法と彼の体系とのあいだにある大きな違いを見いだしたの
である。「ヘーゲルの ##体系## に重点をおいたものは、この〔宗教と政治の〕どちらの分野で
もかなり保守的でありえた。だが、弁証法的な方法に重要性をみとめたものは、宗教的にも政治
的にも極端な反対派に属することができた。」(『フォイエルバッハ論』〔第一五巻四三六ペー
ジ〕を見よ)
 無政府主義者は、この違いを見おとして、かるがるしく「弁証法は形而上学だ」とくりかえし
ている。
 さきへすすもう。無政府主義者は、弁証法的方法が「まやかし論」であり、「詭弁の方法」で
あり、「論理のうえでの命がけのとんぼがえり」であり(『ノバチ』第八号、シャ・ゲを見よ)、
「その助けをかりると真理も虚偽も同じように手がるに証明される」(『ノバチ』第四号、ヴェ
・チェルケジシヴィリの論文を見よ)と言う。
 このように、無政府主義者の意見では、弁証法的方法は真理も虚偽も同じように証明するわけ
である。
 ちょっと見たところでは、無政府主義者の提起した非難には根拠がなくはないように見えるか
もしれない。たとえば、エンゲルスが、形而上学的方法の追随者のととを、つぎのように言って
いるのをきいてみよう。
 「……彼らのことばは、『しかりしかり、いないな、これに過ぐるは悪よりいずるなり』であ
る。彼らにとっては、あるものは存在するかしないかのどちらかである。つまり、それ自身であ
ると同時に他のものであることはできないのだ。肯定と否定とは絶対に相排斥する。……」 (
『反デューリング論』序説〔第一四巻九三ページ〕を見よ)
 どうしてそうなんだ!――と無政府主義者はいきりたって言う、――同じ対象が同時によくも
ありわるくもあるということが、はたしてありうるだろうか? これは、「詭弁」であり、「だ
じゃれ」であり、「君は真理も虚偽も同じように手がるに証明したがっている」ということにな
るではないか!……
 だが、問題の本質をよく考えてみよう。
 今日、われわれは民主共和国を要求している。われわれは、民主共和国が、あらゆる点でよい
とか、あらゆる点でわるいとか、言うことができようか? いや、できない! なぜか? それ
は、民主共和国が封建制度を破壊するという一面から見たときだけはよいが、しかしそのかわり、
それがブルジョア制度をかためるという他の面から見るときはわるいからである。だから、われ
われもまたこう言うのだ。すなわち、民主共和国が封建制度を破壊するかぎり、それはよく、わ
れわれもまた、そのためにたたかうが、しかし、それがブルジョア制度をかためるかぎり、それ
はわるく、われわれもまた、これに反対してたたかうのである、と。
 同じ民主共和国が、同時に「よく」もあり「わるく」もある、つまり「しかり」でもあり「い
な」でもある、ということになる。
 八時間労働制についてもこれと同じことを言うことができる。八時間労働制は、プロレタリア
ートをつよめるかぎり「よく」、それと同時に賃労働制をつよめるかぎり「わるい」のである。
 エンゲルスが右にあげたことばで弁証法的方法を特徴づけたとき、彼はほかならぬこのような
##事実## を心にとめていたのである。
 無政府主義者はこのことを理解しなかった。そして、まったくはっきりした思想が彼らにはあ
いまいな「詭弁」だと思われた。
 もちろん、これらの ##事実## に注意しようがしまいが、それは無政府主義者のかってである。
彼らは、砂浜に立っていながら砂に気づかないことさえありうるのだ。――それは彼らの権利で
ある。しかし、このさい、ここで問題となっているのは、弁証法的方法なのである。それは、無
政府主義とはちがって、目をとじて生活を見るようなことはしないで、生活の脈搏にふれ――生
活が変化し運動している以上、あらゆる生活現象には積極的傾向と消極的傾向との二つの傾向が
あって、われわれは、そのうちの前者を擁護し、後者をしりぞけなければならないということを、
はっきりと言うのである。
 さらに、さきへすすもう。わが無政府主義者の考えによれば、「弁証法的発展とは激変的な発
展であって、それにしたがえば、まず過去がすっかり破壊され、つぎに、まったくこれとは独立
に未来が確立される、……キュヴィエの天変地異説(7)は未知の原因によってうまれたが、マル
クスとエンゲルスの激変は弁証法によってうまれる。」(『ノバチ』第八号、シャ・ゲを見よ)
 他のところで同じ筆者は、「マルクス主義はダーウィン主義にもとづいており、これを無批判
的にあつかっている」(『ノバチ』第六号を見よ)と書いている。
 これは注意してほしい!
 キュヴィエはダーウィン的進化を否定している。彼は天変地異をみとめるだけである。ところ
で、天変地異は「 ##未知の## 原因によってうみだされる」 ##不意の## 爆発である。無政府主
義者は、マルクス主義者が ##キュヴィエ説に味方をし、## したがって ##ダーウィン主義をし
りぞけている、## と言っている。
 ダーウィンは、キュヴィエの天変地異を否定し、漸次的進化をみとめている。ところが、無政
府主義者は、「マルクス主義がダーウィン主義にもとづいており、これを無批判的にあつかって
いる」、つまりマルクス主義者が ##キュヴィエの天変地異## を否定している、と言うのだ。
 一言でいえば、無政府主義者は、マルクス主義者がキェヴィエの説の味方をしているといって
責め、それと同時に、マルクス主義者がキュヴィエではなくダーウィン説の味方をしているとい
ってしかるのである。
 なるほど、これは無政府だ! ことわざに、下士官の後家は自分で自分をひっぱたく、と言っ
ている! あきらかに、『ノバチ』第八号のシャ・ゲは第六号のシャ・ゲが言ったことをわすれ
たのだ。
 第八号と第六号のどちらがただしいのか?
 事実にかえろう。マルクスは言う。
 「社会の物質的生産力は、その発展のある段階で、……現存の生産関係と、あるいは同じこと
の法律的表現にすぎないが、所有関係と、矛盾するようになる。……そのときに、社会革命の時
代がはじまる。」だが、「一つの社会構成体は、それがいれうるだけのすべての生産力が発展し
きるまではけっして没落するものではない。……」( ##K・マルクス## 『経済学批判』序言〔
補巻3、三―四ページ〕を見よ)
 マルクスのこのテーゼを現代の社会生活に適用するならば、社会的性格をおびている現代の生
産力と、 ##私的## 性格をおびた生産物の領有形態とのあいだに、社会主義革命におわらざるを
えないような根本的衝突が存在している、ということになる( ##F・エンゲルス## 『反デュー
リング論』第三篇、第二章を見よ)。
 ごらんのように、マルクスとエンゲルスの考えでは、革命をうみだすのは、キュヴィエの「未
知の原因」ではなく、「生産力の発展」と呼ばれるまったく特定の主要な社会的原因である。
 ごらんのように、マルクスとエンゲルスの考えでは、革命がおこなわれるのは、生産力が十分
に成熟したときだけであって、キュヴィエが考えたように ##不意に## ではない。
 あきらかに、キュヴィエの天変地異とマルクスの弁証法的方法とのあいだには、すこしも共通
点はない。
 他方では、ダーウィン主義は、キュヴィエの天変地異をしりそげるだけでなく、革命をふくむ
弁証法的に理解された発展をもしりそげる。ところが、弁証法的方法の見地から見れば、進化と
革命、量的変化と質的変化は、同じ運動の二つの必然的な形態なのである。
 あきらかに、「マルクス主義が……ダーウィン主義を無批判的にあつかう」と主張することも
またできない。
 『ノバチ』は、第六号でも、また第八号でも、二つのばあいともまちがっているということに
なる。
 最後に、無政府主義者は、「弁証法は……それ自身からそとへ出たり、または飛びでる可能性
も、自分自身を飛びこえる可能性も、あたえない」と言って、われわれを責めている(『ノバチ
』第八号、シャ・ゲを見よ)。
 なるほど、無政府主義者諸君、それはまったくの真理だ、尊敬すべき諸君よ、諸君の言うこと
は、その点でまったくただしい。弁証法的方法は、実際そんな可能性をあたえないだろうから。
だが、なぜあたえないのだろうか? つまり、「自分白身のそとへ飛びだしたり、自分を飛びと
える」のは野生のやぎのすることであって、弁証法的方法というものは人間のためにつくられた
のだからである。
 ここに秘密がある!……
 以上が、だいたい、弁証法的方法にたいする無政府主義者の見方である。
 あきらかに、無政府主義者は、マルクスとエンゲルスの弁証法的方法を理解しなかったのであ
る、……彼らは、彼ら独特の弁証法をでっちあげて、その弁証法と容赦なくたたかっている。
 こういう見せものを見ていると、われわれはただわらうほかはない。というのは、人間が彼白
身の幻想とたたかい、彼自身のでっちあげたものを粉砕し、それと同時に彼が相手を粉砕したの
だと湯気をたてて断言しているのを見ると、どうしてもわらわずにはおれないからである。


      二 唯物論の理論
          「人間の意識が彼らの存在を規定するのではなくて、逆に、彼らの社会的
存在が彼らの意識を規定するのである。」
           ##K・マルクス##

 弁証法的方法については、われわれはもう知っている。
 唯物論の理論とはどんなものか?
 世界のすべてのものは変化する。生活のなかのすべてのものは発展する。だが、この変化は #
#どのように## しておこり、この発展は ##どのような形で## おこなわれるだろうか?
 われわれは、たとえば地球がかつては赤熱した火のかたまりであり、つぎに徐々に冷却し、つ
ぎに植物と動物が発生し、動物界の発展にともない、一定の種の猿が出現し、そののち、これら
すべてのことにつづいて人類が出現した、ということを知っている。
 自然の発展は、だいたい、このようにしておこったのである。
 われわれは、社会生活もまたひとところにとどまらなかったことを知っている。人間が原始共
産主義を基礎として生活した時代があった。その当時、彼らは、原始的な狩猟によって、その生
活を維持し、森林をさまよって、自分の食物を採取した。原始共産主義が母権制にとってかわら
れるときがやってきた、――そのころ人間は彼らの要求をおもに原始的農業によってみたした。
つぎに、母権制は父権制にとってかわられた。父権制のもとでは人間はおもに牧畜によってその
生活を維持した。つぎに、父権制は奴隷制にとってかわられた、――このとき人間はややいっそ
う発達した農業によってその生活を維持した。奴隷制のつぎには農奴制がつづき、これらすべて
のあとにブルジョア制度がやってきた。
 社会生活の発展は、だいたい、このようにしておこったりである。
 そうだ、こういうことはみなよくわかっている。……だが、この発展は ##どのようにして##
おこなわれたか、意識が「自然」と「社会」の発展をひきおこしたのか、それとも逆に、「自然
」と「社会」の発展が意識の発展をひきおこしたのか?
 唯物論の理論は、問題をこのように提起している。
 ある人々はこう言っている、「自然」や「社会生活」には、あとでそれらの発展の基礎となっ
た世界理念が先行していた、だから、「自然」や「社会生活」の現象の発展は、世界理念の発展
の、いわば外的形態であり、たんなる表現なのである、と。
 これが、たとえば ##観念論## 者の学説であって、それは時とともにいくつかの潮流にわかれ
た。
 ほかの人々はこう言っている、世界には最初から、たがいに否定しあう二つの力、すなわち、
観念と物質、意識と存在があり、これに応じて現象もまた、たがいに否定し、たがいにたたかい
あう観念的系列と物質的系列との二系列にわかれるのであって、そこで自然と社会の発展は、観
念的現象と物質的現象とのあいだのたえまのない闘争である、と。
 これが、たとえば ##二元論## 者の学説であって、これは時とともに、観念論者と同じように、
いくつかの潮流にわかれた。
 唯物論の理論は、二元論もまた観念論をも根本的に否定する。
 もちろん、世界には観念的現象も物質的現象も存在しているが、それはけっして、この二つの
ものがたがいに否定しあうという意味ではない。逆に、観念的な方面と物質的な方面は同じ一つ
の自然また社会の二つのちがった形態であって、一方なしの片方というものを考えることはでき
ない。それらのものは、いっしょに存在し、いっしょに発展している。したがって、これがたが
いに否定しあうと考える理由は、われわれにはすこしもない。
 このように、いわゆる二元論はなりたたないことがわかる。
 物質的形態と観念的形態との、二つのちがった形態に表現された単一不可分の自然、物質的形
 無政府主義者が(あとでわれわれが見るように)すこしもその知識をもたないで、ききかじり
にもとづいて唯物論の理論を批判しようと思いついていたのは、興味がある。その結果、彼らは
しばしば、たがいに矛盾したことを言い、たがいに反駁しあうのであるが、このことはいうまで
もなく、わが「批判家たち」を、ものわらいのまとにしている。たとえばである。チェルケジシ
ヴィリ氏の言うことに耳をかたむけるならば、マルクスとエンゲルスは一元論的唯物論をきらい、
彼らの唯物論は俗流唯物論であって一元論的唯物論ではなかった、ということになる。
 「博物学者の偉大な科学とその進化論体系、変態論、一元論的唯物論は―― ##エンゲルスが
あれほどひどくきらった## ものだが……弁証法をさげたのである」うんぬん(『ノバチ』第四
号、ヴェ・チェルケジシヴィリを見よ)。
 チェルケジシヴィリが是認しエンゲルスが「きらった」自然科学的唯物論は、一元論的唯物論
であった。 ##したがって、## それは是認にあたいする。だが、マルクスとエンゲルスの唯物論
は一元論的ではなく、もちろん承認にあたいしない、ということになる。
 別の無政府主義者は、マルクスとエンゲルスの唯物論が一元論的であって、 ##それだから##
排斥にあたいする、と言う。
 「マルクスの歴史概念は、ヘーゲルの隔世遺伝《アタヴィズム》である。一般的には絶対的客
観主義の一元論的唯物論と、特殊的にはマルクスの経済的一元論は、自然のなかではありえない
ものであり、理論ではあやまっている。……一元諭的唯物論は、正体をかくしそこれた二元論で
あり、形而上学と
科学の妥協である。……」(『ノバチ』第六号、シャ・ゲを見よ)
 一元的論唯物論は許容できない、マルクスとエンゲルスはこれをきらわないで、逆に彼ら自身
が一元論的唯物論者であった、――だから一元論的唯物論は排斥しなければならない、というこ
とになる。
 各人各説だ! 前者と後者と、どちらがほんとうのことを言っているのか、はっきりさせても
らいたい! マルクスの唯物論の長所と短所について、たがいのあいだでさえまだ意見がまとま
っていない。マルクスの唯物論が一元論的であるのかどうかでさえまだわかっていない。俗流唯
物諭と一元論的唯物論と、どちらがよけい許容できるのかさえまだはっきりしていない。――そ
れなのに、自分たちはマルクス主義を粉砕したと、われわれの耳もろうするばかりに大言壮語し
ているのだ!
 そうだ、そうだ。もし無政府主義者諸君が、こんどもたがいに相手の見解をこのように熱心に
やっつけるようであれは、未来が無政府主義者のものであることは、いうまでもなかろう。……
 ある「有名な」無政府主義者たちが、その「有名さ」にもかかわらず、科学上のいろいろの傾
向のことをまだ知っていないという事実も、これにおとらずこっけいなことである。彼らは、科
学にはいろいろの種類の唯物論があり、それがたがいにたいへんちがっていて、たとえば、観念
的方面がもっている意味とそれが物質的方面に作用をおよぼすこととを否定する俗流唯物論もあ
れば、観念的方面と物質的方面の相互関係を科学的に観察する、いわゆる一元論的唯物論――マ
 上二つ、間違いです。以下が正しいです。すいません。

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態と観念的形態との、二つのちがった形態に表現される単一不可分の社会生活、――われわれは、
自然と社会生活との発展を、このように見るべきである。
 これが、唯物論の理論の一元論である。
 それと同時に、唯物論の理論は観念論をも否定する。
 観念的方面、一般的にいって意識が、その発展のうえで物質的方面の発展に先行する、という
ような考えは誤りである。まだ生物が存在しなかったときでも、いわゆる外界の「無生の」自然
はすでに存在していた。最初の生物はすこしも意識をそなえておらず、それがそなえていたのは
##刺激を感受する## 性質と ##感覚## の最初の萠芽だけであった。そののち動物には、しだい
に感覚能力が発達し、動物の生体構造と神経系統の発達にともなって、それが徐々に ##意識##
にかわっていった。もし狼がいつまでも四つんばいをしていたならば、もしそれが背をまっすで
にのばさなかったならば、その子孫である人間は、肺と声帯を自由に利用することができなかっ
たであろうし、したがって言語をあやつることができなかったことであろう。このことは、人間
の意識の発展を根本からおくれさせたことであろう。あるいはさらに、もし猿が後足で立たなか
ったなら、その子孫たる人間は、いつも四つんばいをして、下のほうをながめ、彼の印象を下の
ほうからくみとらなければならないことになる。彼は、上のほうと自分のまわりを見る可能性が
なく、したがって四足獣がもっている以上の印象を自分の脳にあたえる可能性もなかったことで
あろう。これはみな、人間の意識の発展を根本的におくれさせたであろう。
 意識が発展するには、あれこれの生体構造やその神経系統の発展が必要だということになる。
 概念的方面の発展、意識の発展には、物質的方面の発展、外的条件の発展が先行する。はじめ
に外的条件が変化し、はじめに物質的方面が変化し、 ##つぎに、## これに応じて、意識が、観
念的方面が変化する、ということになるのである。
 このように、自然の発展史は、いわゆる観念論を根本からくつがえしている。
 人間社会の発展史についても、これと同じことを言わなければならない。
 歴史のしめすところによると、時代がちがうにしたがって人間がちがった思想と願望をもつと
すれば、その原因は、時代がちがうにしたがって人間はその欲望をみたすためにちがったやりか
たで自然とたたかい、これに応じて彼らの経済関係がちがったやりかたで形成された、というこ
とにある。人間が共同で原始共産主義を基礎として自然とたたかった時代があった。そのときは
彼らの所有も共産主義的であり、だから彼らは、その当時は「自分のもの」と「おまえのもの」
をほとんど区別せず、彼らの意識は共産主義的であった。生産のなかに「自分のもの」と「おま
えのもの」との区別がはいりこむ時代がやってきた、――すると所有も私的な個人的な性格をも
ち、したがって人間の意識が私的所有の感情にそまるようになった。生産があたらしく社会的性
格をもち、したがって所有もまたまもなく社会的性格をもつようになる時代、すなわち現代がや
ってきている、――そして、まさにそれゆえに人間の意識がしだいに社会主義にそまるようにな
る。
 つぎに簡単な一例。ちっぽけな仕事場をもっているが、大経営との競争にたえられないで仕事
場をしめてしまい、たとえばチフリスのアデリハノフ靴工場にやとわれた靴工を想像してみたま
え。彼はアデリハノフ工場にはいったが、それは、永久的に賃金労働者になるためではなく、金
をため、小資本をため、あとでまた自分の仕事場を再開する目的である。ごらんのように、この
靴工の状態は ##すでに## プロレタリア的になっているが、彼の意識は ##いまのところまだ##
プロレタリア的でなく、ねっから小ブルジョア的である。いいかえれば、この靴工の小ブルジョ
ア的状態は、 ##もはや## 消失し、もうなくなっているが、彼の小ブルジョア的意識は ##まだ#
# 消失せず、それは実際の状態よりも立ちおくれたのである。
 あきらかに、この社会生活のばあいでも、まず外的条件が変化し、まず人間の状態が変化し、
つぎに、これに応じて彼らの意識が変化する。
 だが、われわれの靴工に話をもどそう。すでにわれわれの知っているように、彼は、金をため
て、まとで仕事場をひらくつもりであった。プロレタリア化した靴工は、労働してみて、金をた
めることはたいへんむずかしい、なぜなら賃金はようやく生計をみたすにもたらないからだ、と
いうことがわかる。そのうえ、個人の仕事場をひらくことが、もうそれほど魅力がなくなり、場
所代、お客の気まぐれ、金づ事り、大経営の競争、その他こうしためんどうなことが、どんなに
個人職人をなやますか、ということに気がつく。ところで、プロレタリアは、こうした心配から
比較的に自由であり、お客も場所代も彼をなやまさない。彼は朝、工場にゆき、夕方「しずかに
」退出し、土曜日には同じように「しずかに」給料をふところにいれる。ここではじめてわが靴
の小ブルジョア的な夢の翼が切りとられ、ここではじめて彼の心にはプロレタリア的な志向が
うまれる。
 時かたち、わが靴工は、必需品を買うにも金がたりず、貸金をひきあげることがなにより必要
なことがわかる。それと同時に、彼は、仲間たちが組合やストライキのようなことの相談をして
いることに気づく。ここでわが靴工は、自分の状態を改善するために必要なことは、経営者とた
たかうことであって、自分の仕事場をひらくことではないことを自覚する。彼は、組合に加入し、
ストライキ運動にはいり、まもなく社会主義思恕に同化される。……
 このようにして、靴工の物質的状態の変化につづいて ##結局は## 彼の意識の変化がおこった。
すなわち、まずはじめに、彼の物質的状態が変化し、それから、しばらくたってから、これに応
じて彼の意識もまた変化した。
 これと同じことを、階級についても社会全体についても言わなければならない。
 社会生活においてもまず外的条件が変化し、まず物質的条件が変化し、つぎに、これに応じて、
人聞の思惟、彼らの気風、習慣、彼らの世界観が変化する。
 だから、マルクスはつぎのように言っている。
 「人間の意識が彼らの存在を規定するのではなくて、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を
規定するのである。」〔『経済学批判』補巻3、三ページ〕
 もしわれわれが、物質的な方面、外的条件、存在、その他このような現象を ##内容## と呼ぶ
ならば、
観念的な方面、意識その他これと同じような現象を ##形態## と呼んでもよいだろう。
そこから、発展過程では、内容が形態に先行し、形態は内容よりも立ちおくれるという、有名な
唯物論の命題かうまれた。
 マルクスの考えによると、経済的発展が、社会生活の「物質的基礎」であり、その ##内容##
であり、法律的=政治的・宗教的=哲学的発展が、この内容の「イデオロギー的形態」でありそ
の「上部構造」なのであるから……マルクスは「経済的基礎の変化とともに、巨大な全上部構造
が、 ##おそかれはやかれ急速に、## 変革される」と結論している〔『経済学批判』補巻3、三
ページ〕。
 もちろん、こう言ったからとて、マルクスの考えではシャ・ゲが夢みているように(『ノバチ
』第一号『一元論批判』を見よ)、形態のない内容がありうるなどという意味ではけっしてない。
形態のない内容はありえないが、問題は、あれこれの形態が、その内容から立ちおくれるために、
この内容に ##完全に## 照応することがけっしてない、ということにある。このようにして、新
しい内容が一時は古い形態をまとわ「ざるをえない」が、このことは、これらの〔内容と形態と
の〕あいだに衝突をひきおこす。現在、たとえば ##私的## 性格をもつ生産物領有形態は生産の
##社会的## 内容にたいして照応していない。そして、まさにこれを地盤として現代の社会的「
衝突」がおこっているのである。
 他方では、意識が存在の形態である、という思想は、意識がその性質上同じ物質である、とい
うような意味ではけっしてない。こういうふうに考えたのは俗流唯物論者(たとえばビュヒナー
やモレショット)だけであって、彼らの理論はマルクスの唯物論と根本的に矛盾し、彼らのこと
をエンゲルスは、『フォイエルバッハ論』のなかで正当にもあざわらった〔第一五巻四五二ペー
ジ〕。マルクスの唯物論によれは、意識と存在、観念と物質は、一般的にいって自然または社会
と呼ばれる同じ現象の二つのちがった形態である。だから、これらのものは、たがいに否定しあ
うものでなく〔*〕、それと同時に、同じ現象でもない。問題は、自然と社会との発展のうえで、
意識、すなわちわれわれの頭脳のなかでおこなわれることには、これに照応する物質的変化、す
なわちわれわれの外部でおこなわれるものが先行するということ、――あれこれの物質的変化に
は、おそかれはやかれ、これに照応する観念的変化が不可避的につづくということに、あるにす
ぎない。
〔*〕 このことは、形態と内容とのあいだには衝突があるという思想とはけっして矛盾しない。
問題は、衝突が、一般的にいって内容と形態とのあいだではなくて、 ##古い## 形態と、新しい
形態をもとめそれをめがけてすすんでいる新しい内容とのあいだにある、ということにある。

 なるほど、と人々はわれわれに言うだろう、それは自然と社会の歴史のうえではいかにもただ
しいかもしれない。だが、どうして現在、いろいろの表象や観念がわれわれの頭脳のうちにうま
れてくるのであろうか? いわゆる外的条件が現実に存在しているのか、それとも、これらの外
的条件にかんするわれわれの表象が存在するにすぎないのか? もし外的条件が存在するとした
ら、それの知覚と認識はどの程度に可能であろうか?
 これについて唯物論の理論は、われわれの表象、われわれの「自我」は、われわれの「自我」
のなかに印象をひきおこす外的条件が存在するかぎりでしか存在しない、という。われわれの表
象のほかにはなにも存在しない、とかるがるしく言うものは、いっさいがっさい外的条件を否定
し、したがって、自分の「自我」だけの存在をみとめながら、ほかの人間の存在を否定せざるを
えない。これは、はかばかしいことであり、根本から科学の原則に反している。
 あきらかに、外的条件は現実に存在している。これらの条件は、われわれ以前に存在していた
し、われわれ以後にも存在するであろう。このばあい、それがわれわれの意識にはたらきかける
度数が多ければ多いほど、また強ければ強いほど、その知覚と認識は、おそらくそれだけ容易に
なるだろう。
 どのようにしてわれわれの頭脳にいろいろの表象と観念とが ##現在## うまれてくるのか、と
いうことについていえば、自然と社会との歴史のうちにおこるのと同じことがここでも手みじか
にくりかえされることを、われわれはみとめなければならない。このばあいにも、われわれの外
部にある対象は、この対象にかんするわれわれの表象に先行し、このばあいにも、われわれの表
象、形態は、対象から――その内容から、立ちおくれる。私が木をながめ、それが木だとわかる
とすると、そのことは、私の頭脳のなかに木の表象がうまれるにさきだって、木そのものが存在
し、それが、これに照応する表象を私のなかに呼びおこしたのだ、ということを意味するにほか
ならない。……
 以上が、手みじかにいってマルクスの唯物論の理論の内容である。
 唯物論の理論が人間の実践活動にとってどんな意味をもたなければならないか、ということは、
理解しにくいことではない。
 もし、 ##はじめ## に経済的条件が変化し、 ##つぎに## これに応じて人間の意識が変化する
ものであれば、われわれが、人間の頭脳や彼らの空想のなかではなく、彼らの経済的条件の発展
のなかに、あれこれの理想の土台をもとめなければならないことは、はっきりしている。経済的
条件の研究にもとづいてつくりだされた理想だけがよいものであり、また受けいれうるものであ
る。経済的条件を考慮せず、その発展にもとづかない理想は、すべて役にたたず、また受けいれ
られない。
 これが、唯物論の理論の第一の実践的結論である。
 もし、人間の意識、彼らの気風と習慣とが、外的条件によって規定されるとすれば、また法律
的=政治的形態が役にたたなくなるわけが経済的内容にあるものとすれば、経済関係とともに民
衆の気風や習慣と彼らの政治制度が根本的にかわるようにするには、われわれが経済関係の根本
的改造を促進しなければならないことが、あきらかとなる。
 これについて、カール・マルクスはこう言っている。
 「……この唯物論が必然的に社会主義につながることを見ぬくのには、なにもたいした洞察力
を必要としない。もし人間がそのいっさいの知識や感覚やその他を感覚界から……つくりだすの
だとすると、人間がその経鹸の世界を整理して、この世界で真に人間的なものを経験し、また自
己を真に人間として経験する習慣をもつようにすることは、それゆえに、はなはだたいせつなこ
とになる。……もし人間が唯物論的な意味で不自由であるならば、いいかえれば、人間があれこ
れをさけうる消極的な力のゆえにではなく、その真の個性を発揮する積極的な力のゆえに、自由
であるのならば、人は、個々人についてその犯罪を罰すべきではなく、かえって犯罪のおこる反
社会的な発生場所をうちこわさなければ……ならぬ。人間がその環境によってつくられるもので
あるとすれば、人はその環境を人間的に形成しなければならない。」(『フォイエルバッハ論』
付録、『一八世紀フランス唯物論にかんするK・マルクスの記述』〔補巻5、三五五―五六ペー
ジ)を見よ)
 これが、唯物論の理論の第二の実践的結論である。

          *   *   *

 無政府主義者は、マルクスとエンゲルスの唯物論の理論をどう見ているか?
 弁証法的方法がへーゲルにはじまるとすれば、唯物論の理論はフォイエルバッハの唯物論の発
展である。このことは無政府主義者もよく知っていて、彼らは、マルクスとエンゲルスの弁証法
的唯物論をわるく言うために、ヘーゲルとフォイエルバッハの欠陥を利用しようとつとめている。
ヘーゲルと弁証法的方法とについては、われわれはすでに、無政府主義者のこのような策略が彼
ら自身の無知のほかになにものも証明することができないことを指摘した。フォィエルバッハと
唯物論の理論にたいする彼らの攻撃についても、これと同じことを言わなければならない。
 たとえば、こうだ。無政府主義者は自信たっぷりで、われわれにむかってこう言っている、
「フォイエルバッハは汎神論(8)者であった……」、彼は「人間を神化した……」(『ノバチ』
第七号、デ・デレンヂを見よ)、「フォイエルバッハの意見によると、人間は彼がたべる《エス
ト》ところのものである《エスチ》(9)。……」それにもとづいてマルクスは、「したがって、
経済状態がもっとも主要な第一のものである」という結論をくだしたかのようである(『ノバチ
』第六号、シャ・ゲを見よ)、と。
 なるほど、フォイエルバッハの汎神論につき、彼の人間神化につき、その他このような彼の誤
りについて、だれひとりうたがうものはない。反対に、マルクスとエンゲルスはフォイエルバッ
ハの誤りをあばいた最初の人である。だが、無政府主義者は、それにもかかわらず、すでに暴露
ずみの誤りをあらたに「暴露する」ことを必要だと考える。なぜか? たぶん、フォイエルバッ
ハをののしることによって、遠まわしにマルクスとエンゲルスの唯物論の理論をわるく言いたい
からなのであろう。もちろん、われわれが公平に問題を見るならば、フォイエルバッハには、歴
史上多くの学者のばあいにそうであったように、まちがった思想とならんでただしい思想もあっ
たことを、たしかに見いだすだろう。だが、それなのに無政府主義者は、「暴露し」つづけてい
る。 ……
 このような策略によって、彼らは、自分自身の無知のほかになに一つ証明できないだろうとい
うことを、いまいちど助言しよう。
 無政府主義者が(あとでわれわれが見るように)すこしもその知識をもたないで、ききかじり
にもとづいて唯物論の理論を批判しようと思いついていたのは、興味がある。その結果、彼らは
しばしば、たがいに矛盾したことを言い、たがいに反駁しあうのであるが、このことはいうまで
もなく、わが「批判家たち」を、ものわらいのまとにしている。たとえばである。チェルケジシ
ヴィリ氏の言うことに耳をかたむけるならば、マルクスとエンゲルスは一元論的唯物論をきらい、
彼らの唯物論は俗流唯物論であって一元論的唯物論ではなかった、ということになる。
 「博物学者の偉大な科学とその進化論体系、変態論、一元論的唯物論は―― ##エンゲルスが
あれほどひどくきらった## ものだが……弁証法をさげたのである」うんぬん(『ノバチ』第四
号、ヴェ・チェルケジシヴィリを見よ)。
 チェルケジシヴィリが是認しエンゲルスが「きらった」自然科学的唯物論は、一元論的唯物論
であった。 ##したがって、## それは是認にあたいする。だが、マルクスとエンゲルスの唯物論
は一元論的ではなく、もちろん承認にあたいしない、ということになる。
 別の無政府主義者は、マルクスとエンゲルスの唯物論が一元論的であって、 ##それだから##
排斥にあたいする、と言う。
 「マルクスの歴史概念は、ヘーゲルの隔世遺伝《アタヴィズム》である。一般的には絶対的客
観主義の一元論的唯物論と、特殊的にはマルクスの経済的一元論は、自然のなかではありえない
ものであり、理論ではあやまっている。……一元論的唯物論は、正体をかくしそこれた二元論で
あり、形而上学と
科学の妥協である。……」(『ノバチ』第六号、シャ・ゲを見よ)
 一元的論唯物論は許容できない、マルクスとエンゲルスはこれをきらわないで、逆に彼ら自身
が一元論的唯物論者であった、――だから一元論的唯物論は排斥しなければならない、というこ
とになる。
 各人各説だ! 前者と後者と、どちらがほんとうのことを言っているのか、はっきりさせても
らいたい! マルクスの唯物論の長所と短所について、たがいのあいだでさえまだ意見がまとま
っていない。マルクスの唯物論が一元論的であるのかどうかでさえまだわかっていない。俗流唯
物諭と一元論的唯物論と、どちらがよけい許容できるのかさえまだはっきりしていない。――そ
れなのに、自分たちはマルクス主義を粉砕したと、われわれの耳もろうするばかりに大言壮語し
ているのだ!
 そうだ、そうだ。もし無政府主義者諸君が、こんどもたがいに相手の見解をこのように熱心に
やっつけるようであれは、未来が無政府主義者のものであることは、いうまでもなかろう。……
 ある「有名な」無政府主義者たちが、その「有名さ」にもかかわらず、科学上のいろいろの傾
向のことをまだ知っていないという事実も、これにおとらずこっけいなことである。彼らは、科
学にはいろいろの種類の唯物論があり、それがたがいにたいへんちがっていて、たとえば、観念
的方面がもっている意味とそれが物質的方面に作用をおよぼすこととを否定する俗流唯物論もあ
れば、観念的方面と物質的方面の相互関係を科学的に観察する、いわゆる一元論的唯物論――マ
ルクスの唯物論の理論――もあることを知らないらしい。ところが、無政府主義者は、これらの
いろいろの種類の唯物論を ##ごっちゃにし、## だれの目にもはっきりしている区別さえわから
ないのだ。しかも、それと同時に、自分たちは科学を再興しているのだ、と自信たっぷりで公言
している!
 たとえば、こうだ。ペ・クロポトキンは彼の「哲学的」著作のなかで、「共産主義的無政府主
義は、現代の唯物論哲学」に立脚している、と自信ありげに公言している。ところが、彼は、共
産主義的無政府主義がどんな「唯物論哲学」に立脚しているのか、俗流唯物論なのか、一元論的
唯物論なのか、それともなにかほかの唯物論なのか、一言も説明していない。彼はあきらかに、
唯物論のいろいろの潮流のあいだに根本的な矛盾があることを知らず、これらの潮流をたがいに
ごっちゃにすることが、「科学を再興する」ことを意味するのではなくて、まったくの無知をさ
らすものだ、ということがわからない( ##クロポトキン## 『科学と無政府主義』と『無政府と
その哲学』を見よ)。
 これと同じことを、グルジアにいるクロポトキンの弟子についても言わなければならない。ち
ょっときいてほしい。
 「エンゲルスの考えによると、またカウツキーの考えによっても、マルクスが人類に大きな貢
献をしたのは、彼が……」、とりわけ「唯物論的な考えかた」を発見したからだ、と言う。「そ
れはほんとうであろうか? そうは思わない。なぜなら、われわれは、社会の機構が、地理的・
気象的=地球的・宇宙的・人類学的・生物学的条件によって運動させられるという考えをもつ、
すべての歴史家、学者、哲学者は―― ##みな唯物論者だ、## ということを知っているからだ。
」(『ノバチ』第二号を見よ)
 アリストテレスの「唯物論」とドルバックの「唯物論」とのあいだに、またはマルクスの「唯
物論」とモレショットの「唯物論」とのあいだには、なんの区別もないということになる! こ
れが批判だそうだ! このような認識をもった人々が科学の再興をくわだてたのだ! 「靴屋が
まんじゅうをこさえだしたら災難だ!……」というのはもっともである。
 さらにまた、わが「有名な」無政府主義者たちは、マルクスの唯物論は「胃の腑の理論」だと
いうことをどこかで耳にして、われわれマルクス主義者を非難してこう言っている。
 「フォイエルバッハの考えによると、人間は彼のたべる《エスト》ところのものである《エス
チ》。この定式はマルクスとエンゲルスに魔術のような作用をおよぼした。そのためマルクスは、
『経済状態、生産諸関係が、もっとも主要な、第一のものである……』と結論した。」 つぎに
無政府主義者は、われわれにむかって哲学的に説教をする。「 ##たべること## と経済的生産が
この目的(社会生活)をはたす ##ただ一つの## 手段であるということは、まちがいであろう。
……もし、主として、一元的に、 ##たべること## と経済状態とによって ##イデオロギーが規
定される## ものとすれば――大食漢は天才ということになろう。」 (『ノバチ』第六号、シャ
・ゲを見よ)
 これで見ると、マルクスとエ ンゲルスの唯物論を論駁するのはわけのないことのようだ。だれ
か女学生あたりからマルクスとエンゲルスについての町のうわさをききさえすれば、また、こ
うした町のうわさを哲学的な自信をもって『ノバチ』かなんかの紙上でくりかえしさえすれば、
たちどころにマルクス主義「批判家」たる名声を博するにたりるのだ!
 だが、紳士諸君、「 ##たべることがイデオロギーを規定する## 」とは、どこで、いつ、どの
遊星で、どんなマルクスが言ったのか、言ってもらいたい。なぜ諸君は、自分の声明を確証する
ために、マルクスの諸著作から、ただの一句も、一語も引用しなかったのか? なるほどマルク
スは、人間の経済状態が彼らの意識、彼らのイデオロギーを規定する、と言った。だが、たべる
ことと経済状態とが同じことだとは、だれが諸君に言ったのか? 諸君は、たとえば、 ##たべ
ること## というような生理的現象が、たとえば人間の ##経済状態## というような社会学的現
象とは、根本的にちがっていることを知らないのではないか? これらの二つのちがった現象を
たがいにごっちゃにすることは、たとえば女学生あたりならゆるせるが、「社会民主主義の破壊
者」であり「科学の再興者」である諸君が、女学生のまちがいをこんなにかるがるしく繰りかえ
すということに、いったいどうしてなったのか?
 どうしてたべることが社会的イデオロギーを測定できるのだろうか? さぁ、自分の言葉をよ
く考えてみたまえ。たべること、たべる形態は、変化しない。昔もいまと同じように、たべ、か
みくだき、消化した。だがイデオロギーはいつも変化している。ついでながら、古代的、封建的、
ブルジョア的、プロレタリア的、――これが、イデオロギーがもっている諸形態である。 ##変
化し
ないものが、たえず変化するもの## を規定するなどと考えられようか?
 もっとさきへすすもう。無政府主義者の考えによると、マルクスの唯物論は「あの並行論であ
る。……」あるいは「一元論的唯物論は、正体をかくしそこねた二元論であり、形而上学と科学
の妥協である。……」「マルクスは生産諸関係を物質的なものとしてえがき、人間の志向と意志
を、たとえ存在はしているとしても、 ##重要性のない幻想、空想## としてえがいたために、二
元論におちいっている。」(『ノバチ』第六号、シャ・ゲを見よ)
 第一に、マルクスの一元論的唯物論は、筋のとおらぬ並行論とはなんの共通点もない。この唯
物論の見地からいえば、物質的方面、内容は、必然的に観念的方面、形態に ##先行する## 。だ
が並行論はこの見方をしりそげ、物質的方面にせよ観念的方面にせよ、どちらも相手に ##先行
しない## こと、両者はいっしょに並行して発展するということを、はっきりと主張している。
 第二に、実際に「マルクスが生産諸関係を物質的なものとしてえがき、人間の志向と意志を、
重要性のない幻想、空想としてえがいた」としたところで、このととはマルクスが二元論者だと
いうことになるだろうか? 二元論者は、だれでも知っているように、観念的方面にも物質的方
面にも、対立する二つの原理として、 ##同等の## 重要性をあたえるものである。だが、もし諸
君の言うように、マルクスが物質的方面に重さをおき、逆に、観念的方面には、それが空想だか
ら重要性をあたえないというのであれば、諸君は、「批判家」諸君は、マルクスの二元論をどこ
からもちこんだのだろうか?
 第三に、一元論が物質的形態と概念的形態をもつ自然または存在という ##一つの原理## から
出発しているのに、二元論が物質的原理と観念的原理との――二元論によれば、これらはたがい
に否定しあうものである―― ##二つの原理## から出発していることを子供でさえ知っていると
いうのに、唯物論的一元論と二元論とのあいだの関連は、どういうものでありうるだろうか?
 第四に、このマルクスは、いつ「人間の志向と意志を幻想、空想としてえがいた」か? なる
ほどマルクスは、「人間の志向と意志」を経済的発展によって説明し、ある机上の空論家の志向
が経済的事情に照応しないとき、これを空想的と呼びはした。だが、このことはマルクスの考え
によると、一般に人間の志向が空想的なのだという意味であろうか? このこともまた説明が必
要なのであろうか? 諸君は「 ##人間はつねに自分が解決しうる課題だけを自分に提起する##
」(『経済学批判』序言〔補巻3、四ページ〕を見よ)、つまり一般的にいえば、人間は空想的
目的を追うものでない、というマルクスのことばを読んだことがないのだろうか? あきらかに、
わが「批判家」は、自分の言っていることがわからないか、それともわざと事実をゆがめている
かの、どちらかである。
 第五に、マルクスとエンゲルスの考えによると、「人間の志向と意志は重要性がない」などと、
だれが諸君に話したのか? マルクスとエンゲルスがどこでそう言っているか、なぜ諸君は指摘
しないのか? いったいマルクスは、『ルイ・ボナバルトのブリュメール十八日』、『フランス
における階級闘争』、『フランスにおける内乱』、その他類似の小冊子のなかで、「志向と意志
」の重
要性のことを述べているではないか? もしマルクスが「志向と意志」に重要性をみとめ
ないとしたら、なぜ、その当時マルクスは、プロレタリアの「志向と意志」を社会主義的精神で
発展させようと努力したのか、なんのために彼はプロレタリアのあいだで宣伝をしたのか? あ
るいはまた、エンゲルスは一八九一年から九四年の彼の有名な諸論文で、「意志と志向の重要性
」以外にいったいなにを述べているというのだろうか? なるほどマルクスの考えによると、人
間の「意志と志向」は、経済状態のうちからその内容をくみだすのである。だが、このことは意
志と志向が経済関係の発展になんの影響もおよぼさないという意味であろうか? 無政府主義者
にとっては、こんなに簡単な思想がそんなに理解しにくいのであろうか?
 もう一つ、無政府主義者諸君の「非難」がある。「内容のない形態を考えることはできない…
…」、それだから、「形態が内容のあとから ##ついてゆく## (内容から立ちおくれる。 ##コ#
# )と言ってはならない。……これらのものは『共存する』。……さもなければ、一元論はばか
げている。」(『ノバチ』第一号、シャ・ゲを見よ)
 またしても、わが「学者」はいくらか混乱している。形態のない内容が考えられないというこ
とはただしい。だが、 ##現存する形態が現在する内容## にけっして完全に照応するものでなく、
前者は後者よりもおくれ、新しい内容がいつでもある程度古い形態をまとい、そのために古い形
態と新しい内容のあいだにはいつでも衝突がある、ということもまたただしい。これを地盤とし
てこそ革命がおこり、この点に、とりわけマルクスの唯物論の革命的精神が言いあらわされてい
るの
である。だが、「有名な」無政府主義者諸君はこのことがわからない。いうまでもなく、こ
の点で罪があるのは.彼ら自身であって、唯物論の理論ではない。
 以上が、マルクスとエンゲルスの唯物諭の理論にたいする無政府主義者の見方である。もしこ
れが、そもそも見方といってよいのだとすれば。


      三 プロレタリア社会主義

 われわれは、いまではマルクスの理論的学説を知っている。その ##方法## を知っており、ま
た、その ##理論## をも知っている。
 われわれは、この学説からどんな実践的結論をひきださなければならないか?
 弁証法的唯物論とプロレタリア社会主義との関連はどんなものであるか?
 弁証法的方法は、日一日と成長し、つねに前進し、よりよい未来をめざしてたゆまずたたかう
階級だけが、最後まで進歩的であり、奴隷制のくびきを粉砕することができる、と言っている。
われわれは、着実に成長し、つねに前進し、未来のためにたたかうただ一つの階級は、都市と農
村とのプロレタリアートだ、ということを知っている。したがって、われわれはプロレタリアー
トに奉仕し、われわれの希望をプロレタリアートにかけなければならない。
 これが、マルクスの理論的学説の第一の実践的結論である。
 だが、奉仕にもいろいろある。ベルンシュタインがプロレタリアートにむかって、社会主義の
ことをわすれよ、と説いたとき、彼はプロレタリアートに「奉仕し」ているのである。クロポト
キンがプロレタリアートに、分散した、広い工業の土台のない、共同体「社会主義」をすすめた
とき、彼はプロレタリアートに「奉仕し」ているのである。カール・マルクスが、現代の大工業
の土台に立脚するプロレタリア社会主義にプロレタリアートをまねくとき、彼もまたプロレタリ
ナートに奉仕しているのである。
 われわれの活動がプロレタリアートの利益となるようにするには、われわれはどのように行動
すべきであろうか? どのようにしてわれわれはプロレタリアートに奉仕すべきであろうか?
 唯物論の理論は、あれこれの理想がプロレタリアートに直接の奉仕をすることができるのは、
この理想が国の経済的発展に矛盾せず、それがこの発展の要求に完全に照応するばあいにかぎる、
という。資本主義制度の経済的発展がしめしているように、現代の生産は社会的性格をおび、生
産の社会的性格は現存する資本主義的所有を根本的に否定している、したがって、われわれの主
要な任務は、資本主義的所有の打倒と社会主義的所有の確立とを援助することである。だが、こ
のことは、社会主義のことをわすれよ、とおしえるベルンシュタインの学説が経済的発展の諸要
求に根本的に矛盾するということである、――この学説はプロレタリアートに害毒をもたらす。
 資本主義制度の経済的発展は、さらに現代の生産が日ごとにひろがり、個々の都市や県の限界
にはいりきらないで、たえずこの限界をうちやぶり、したがって全国家の領土を包含しつつある
ことをしめしている、――したがって、われわれは生産の拡大を歓迎し、個々の都市や共同体で
はなく全国家の不可分の全領土を、未来の社会主義の基礎と見なければならない。この分野は、
将来はもちろん、ますますひろがるだろう。だが、このことは、未来の社会主義を個々の都市や
共同体のわくのなかにとじこめるクロポトキンの学説が生産の強力な拡大の利害に矛盾するとい
うことである、――この学説はプロレタリアートに害毒をもたらす。
  ##主要な## 目標としての ##広い## 社会主義的生活のためにたたかうこと、――われわれは、
このようにプロレタリアートに奉仕しなければならない。
 これが、マルクスの理論的学説の第二の実践的結論である。
 あきらかに、プロレタリア社会主義は弁証法的唯物論の直接の結論である。
 プロレタリア社会主義とはなにか?
 現代の制度は資本主義制度である。このことは、世界が二つの対立する陣営に、わずかひとに
ぎりの資本家の陣営と、大多数のもの、すなわちプロレタリアの陣営とにわかれているというこ
とである。プロレタリアは、昼も夜もはたらくが、それにもかかわらず、彼らは以前のとおりに
依然としてまずしい。資本家ははたらかないが、それにもかかわらず、彼らは富んでいる。だが、
このようなことになるのは、プロレタリアに智恵がたりず、資本家が天才的だなどというためで
はなく、資本家がプロレタリアの労働の成果をうばうからであり、資本家がプロレタリアを搾取
するからである。
 なぜプロレタリアの労働の成果をうばうのが、ほかならぬ資本家であって、プロレタリア自身
でないのだろうか? なぜ資本家がプロレタリアを搾取し、プロレタリアが資本家を搾取しない
のか?
 これは、資本主義制度が商品生産にもとづいているからである。ここでは、すべてのものが商
品の形をとっている。いたるところで売り買いの原則が支配している。ここでは諸君は、消費資
料だけでなく、食品だけでなく、人間の労働力、その血、その良心をも買うことができる。資本
家はすべてこれらのことを知っていて、プロレタリアの労働力を貰い、彼らをやとう。だが、こ
のことは資本家が自分が買った労働力の主人になるということである。プロレタリアは、この売
られた労働力にたいする権利をうしなう。すなわち、この労働力によってつくりだされたものは、
もはやプロレタリアのものではなく資本家だけのものであって、資本家のふところにはいる。諸
君の売った労働力は一日に百ルーブリの産品を生産するかもしれない。だが、それは諸君の知っ
たことではなく、諸君のものではなく、それは資本家だけの知ったことであり、彼らのものであ
る、――諸君がうけとるべきものは諸君の毎日の賃金だけであって、それは諸君が、もちろん節
約してくらすならば、たぶん諸君の必要な要求をみたすにたりるくらいである。簡単にいえば、
資本家はプロレタリアの労働力を買い、彼らはプロレタリアをやとっている。それだからこそ資
本家はプロレタリアの労働の成果をうばう。それだからこそ資本家はプロレタリアを搾取するの
であって、プロレタリアが資本家を搾取するのではない。
 だが、いったいなぜ資本家はプロレタリアの労働力を買うのだろうか? なぜプロレタリアは
資本家にやとわれるのであって、資本家が労働者にやとわれないのだろうか?
 それは、生産用具と生産手段との私的所有が資本主義制度の主要な基礎だからである。それは、
工場、土地、地下の埋蔵物、森林、鉄道、機械、その他の生産手段が、わずかひとにぎりの資本
家の私的所有にかわっているからである。それは、プロレタリアがこれらいっさいのものをうし
なっているからである。だから、資本家は工場を運転するためにプロレタリアをやとう、――さ
もなければ、彼らの生産用具と生産手段はなんの利潤ももたらさないことだろう。だから、プロ
レタリアは彼らの労働力を資本家に売る、――さもなければ、彼らは飢えのために死ぬことだろ
う。
 以上はみな資本主義的生産の一般的性格をあきらかにするものである。第一に、資本主義的生
産が単一の組織的なものでありえないことは自明である。それは個々の資本家の私的所有にすっ
かり分散している。第二に、この分散した生産の直接的な目的は、住民の需要をみたすことでは
なく、資本家の利潤を増大する目的で売るための商品生産である。だが、あらゆる資本家は彼の
利潤を増大することにつとめるのであるから、彼らのおのおのはすこしでも多くの商品を生産し
ようと努力する。その結果、市場は急速にみちあふれ、商品価格は下落し――全般的な恐慌がや
ってくる。
 このように、恐慌、失業、生産停止、生産の無政府状態などは、現代の資本主義的生産の非組
織性の直接的結果である。
 もし、この非組織的な社会制度がいまのところまだ破壊されず、またそれがいまのところまだ
プロレタリアートの攻撃にたいして強固に対抗しているとすれば、そのことは、まずなによりも
資本主義国家、資本主義政府がこれを擁護していることによって説明期される。
 これが、現代の資本主義社会の基礎である。

          *  *  *

 未来の社会がまったくちがった基礎のうえにきずかれるであろうということは、うたがいない。
 未来の社会は、社会主義社会である。というのは、なによりもまず、そこにはどんな階級も存
在しないであろう、資本家もなければプロレタリアもないであろう、――したがって搾取もない
であろう、ということである。そこには、集団的にはたらく勤労者があるだけだろう。
 未来の社会は、社会主義社会である。というのは、搾取といっしょに商品生産と売り買いもま
た根絶されるだろう、ということでもある。だから、そこには、労働力の買手も売手も、雇い主
もやとわれるものもいる余地がなくなり、――そこには自由な勤労者だけがいることになるであ
ろう。
 未来の社会は、社会主義社会である。というのは、最後に、そこでは質労働といっしょに生産
用具と生産手段とにたいするいっさいの私的所有も根絶されるであろう、貧者のプロレタリアも
富者の資本家もいないであろう、――そこには、あらゆる土地と地下埋蔵物、あらゆる森林、あ
らゆる工場、あらゆる鉄道、等々を集団的に所有する勤労者だけがいるであろう、ということで
ある。
 ごらんのように、未来の生産の主要な目的は――社会の需要を直接にみたすことであって、資
本家の利潤を増大しようとして売るための商品を生産することではない。ここには、商品生産や
利潤のための闘争等々の余地はないであろう。
 未来の生産が、社会主義的に組織された、高度に発展した生産であって、それは社会の需要を
考慮し、社会にとって必要なだけを生産するであろう、ということもあきらかである。そこでは、
生産の分散性も競争も、恐慌も失業もおこる余地がないであろう。
 階級のないところでは、富者も貧者もいないところでは、国家の必要もなく、貧者を迫害し富
者を擁護する政治権力の必要もない。したがって社会主義社会には政治権力が存在する必要がな
いであろう。
 だから、カール・マルクスはすでに一八四六年につぎのように言ったのである。
 「労働者階級はその発展の過程において、諸階級ならびにその敵対関係を排除する一つの結社
をもって、古い市民社会におきかえるであろう。そして、 ##本来の意味での政治権力はもはや
存在しない## であろう。……」(『哲学の貧困』〔第一巻四五〇ページ〕を見よ)
 だから、エンゲルスは一八八四年につぎのように言ったのである。
 「このように、国家は永遠の昔からあるものではない。国家がなくてもすんでいた社会、国家
と国家権力とを夢想さえもしなかった社会が、かつてはあった。社会の諸階級への分裂を必然に
ともなう経済的発展の一定の段階において、この分裂によって国家が一つの必然となったのであ
る。われわれはいま、急歩調で、これらの階級の存在が必然的なものでなくなるばかりか、かえ
って生産の積極的障害となるような、そういう生産の発展段階に急歩調で近づいている。階級の
発生が不可避であったのと同様に、その消滅もまた不可避的であるだろう。 ##階級の消滅とと
もに国家も不可避的に消滅する。## 生産者の自由平等な協同を基礎にして生産を組織しかえる
社会は、国家機関の全体を、それがそのとき当然おかれるべき場所におきかえるであろう。すな
わち、糸車や青銅のおのとならべて古代博物館へ。」(『家族、私有財産および国家の起源』〔
第一三巻四七八ページ〕を見よ)
 それと同時に、共同の事務を遂行するためにいろいろの情報を集中する地方的な局とならんで、
社会主義社会には、全社会の需要にかんする情報を収集し、つぎに、これに応じていろいろの労
働を勤労者にわりあてるべき中央統計員が必要なことは、自明のことである。会議およびとくに
大会もまた必要であって、その決議は、つぎの大会まで、少数派である仲間にたいして無条件に
拘束力をもつ。
 最後に、自由な、同志的な労働が、未来の社会主義社会で、あらゆる需要を、同じように同志
的に完全にみたすようにならなければならないことは、あきらかである。だが、このことは、未
58名無しさん@1周年:02/09/21 22:23
日本人拉致事件・8人死亡発表 苦しむ在日コリアン 怒りぶつける相手が違う/神戸

 日朝首脳会談で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金正日総書記が、日本人拉致と、8人の死亡を認めたことで、怒りが渦巻いている。
しかし、北朝鮮指導者や、手をこまぬいていた日本政府へ向けられるべきその怒りが、時に、在日コリアン社会に向けられ、市民が苦しんでいる。
59名無しさん@1周年