大月書店「カールとローザ」

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1大月書店愛好会
 第二弾です。マル共連に出入りしている方の要望により、「カールとローザ」を電子化し
ました。この本を読みますと、なぜ共産主義者が社民指導部を憎悪するのかがよくわかりま
す。でも、だからといって社民に結集している労働者を憎悪するのは、トロツキーが言うよ
うに、いけませんね。つーか、カールやローザが依拠しようとしたのは、まさにその社民に
結集する労働者なのですから。

 関係スレ:「世界の共産党」
http://money.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1009200776/l5
2 :02/05/07 22:28
>>1
いいぞ!
って優香、君は誰?
(大月書店国民文庫=441、『カールとローザ ―ドイツ革命の断章』第1刷を電子化)
クララ・ツェトキン他著
栗原 佑訳
Karl und Rosa. Erinnerungen. Zum 1〇〇. Geburtstag
von Karl Liebknecht und Rosa Luxemburg
Institut fu¨r Marxismus-Leninismus beim ZK der SED
Herausgegeben yon Ilse Schiel und Erna Milz
Dietz Verlag, Berlin 1971
(c) 1975 by Otsuki Shoten Publishers. Tokyo
From German translated by Tasuku Kurihara
Printed in Japan
 電子版凡例(国民文庫=441 凡例を適宜変更)


一 本書は、ドイツ社会主義統一党中央委員会付属マルクス=レーニン主義研究所、イルゼ・シ
ールとエルナ・ミルツ共編『カールとローザ、追憶集。カール・リープクネヒトとローザ・ルク
センブルクの生誕一〇〇年を記念して』ディーツ出版社、ベルリン、一九七一年、の全訳である。
一 原書には三六葉の写真があるが、本訳書では割愛した。原書巻末の出典一覧表は各追憶の末
尾に分散して掲げた。
一 各種読み仮名は《》内で示した。例:生半可《なまはんか》
一 ドイツ語のウムラウトは"¨"で表わした。例えば、aウムラウトは、"a¨"である。エスツェ
ットはβで表わした。
一 編集者と訳者の注は〔*〕印を付して文章の段落末にかかげた。
6「目次」P4:02/05/07 22:32
 目次

まえがき
ゲルトルート・アレクサンダ
ローベルト・ビール
クルト・ベーメ
へルマン・ドゥンカー
ケーテ・ドゥンカー
フリーダ・デューヴェル
フーゴ・エーバーライン
ヴィルヘルム・アイルダーマン
オットー・フランケ
フリッツ・グロービヒ
マルタ・グロービヒ
フリーデル・グレーフ
7「目次」P5:02/05/07 22:33
クララ・へッカ−テルバー
フリッツ・ヘッカート
ルーツィエ・ハイムブルガー−ゴットシャール
アントーン・ヤーダッシュ
マルガレーテとエーリヒ・レヴィンゾーン
ゾフィー・リープクネヒト
フランツ・メーリング
アルフレート・メルゲス
クルト・ネットバル
マルタ・ノートナーゲル
ヴイルヘルム・ピーク
ロッテ・ブーレヴカ
アルフレート・シュミーデル
ヴィリー・シェーンベック
パウル・ゼルケ
ローベルト・ジーヴェルト
8「目次」P6:02/05/07 22:33
アルフレート・シュティラー
フリッツ・ウルム
ヤーコプ・ヴァルヒャー
ヴィリー・ヴィレ
エーリヒ・ヴンダーゼー
クララ・ツェトキン
年譜
    かれらのありし日のすがた、
    かれらがその存在と
    活動とによって世にあたえたもの、
    それは 不滅である。
    それは 無数のプロレタリアのなかに
    深く入りこんでいて
    知識となり
    意志となり 行為となる
        クララ・ツェトキン
10「まえがき」P9:02/05/07 22:35
  まえがき

 この追憶集は、ドイツ労働者階級の忘れることのできない指導者カール・リープクネヒトとロ
ーザ・ルクセンブルクの生誕一〇〇年を記念して、ふたりに献げられるものである。
 カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクはドイツ労働運動と国際労働運動の最も決
定的な革命的力のなかに数えられている。彼らはドイツの帝国主義と軍国主義の戦争政策とたた
かううちに、またさまざまの形をとって現われた日和見主義、修正主義、社会排外主義と和解で
きない対決をする間に、ドイツの左翼の指導者となった。彼らの革命的生涯の最後を飾るものが、
ドイツ共産党の樹立である。彼らのはたらきはいまも忘れられないでいるし、今後いつまでも忘
れられないであろう。彼らのはたらきはドイツ労働者階級と革命的政党の英雄的歴史のなかに残
っている。
 カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクはマルクス=レーニン主義的労働運動とき
りはなすことはできない。彼らが成就しようとして戦った目的は、ドイツ民主共和国のすがたを
とって生ける現実となった。
 この出版物はカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクをしのぶ最初の追憶文選集で
ある。執筆者たちはカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクの友人であり、戦友だっ
11「まえがき」P10:02/05/07 22:36
たから、労働者のこの両指導者の生活と政治的活動について重要なことや興味あることを語るの
には、ふさわしい人びとである。
 それと同時に、この追憶集はドイツ労働運動史の一こま、わけても今世紀最初の二〇年間の、
帝国主義、軍国主義、戦争に反対するドイツ労働者階級の国際主義的勢力の闘争を知るのにも役
だつ。それはロシアの革命運動と十月社会主義大革命のドイツ労働者階級におよぼした影響を反
映している。
 カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクの戦友の追憶によって明らかになることは、
ふたりがどんなに共感をもってロシアの革命的な事件をみまもり、どんなに感激をもって十月社
会主義大革命を歓迎し、どんなに深くこの革命の世界史的意義をみとめたか、ということだ。
 追憶の執筆者たちは革命的事件を積極的に共同一致して推進した人たちであるから、湧きかえ
るような十一月革命の日々と、ドイツ共産党の歴史的な創立大会をいきいきと描きだしている。
彼らは政治闘争のまっただなかにあって、党のなかで、青年と勤労大衆のなかで、活動した。ま
た彼らはそれぞれ社会民主党の中央党学校で聴講し、イェナでひらかれた革命的反対派の青年組
織の復活祭会議に参加し、『ローテ・ファーネ』紙に協力し、スパルタクス同盟の中央本部に所
属し、ドイツ共産党を樹立した人たちだった。
 この一巻にかかれていることは、人びとに知られていることもあれば、知られていないことも
あり、また歴史的に重要なこともあれば、ささやかな逸話もある。追憶のいずれもカール・リー
プクネヒトとローザ・ルクセンブルクの人となりや政治活動を描きつくしたわけのものではない。
12「まえがき」P11:02/05/07 22:36
しかし全篇をまとめてよむと、政治的指導者であり偉大な人間であったふたりの深い印象がつた
わってくる。
 二、三の筆者はカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクの威風堂々たる姿を描いて
いるほか、フランツ・メーリング、クララ・ツェトキン、レオ・ヨギヘス、ヴィルヘルム・ピー
ク、フリッツ・ヘッカート、オイゲン・レヴィーネ、ヘルマン・ドゥンカーその他、ドイツ労働
運動の有名な人たちに会ったときの興味深い印象についても語っている。
 この追憶集の出版は、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクのかずかずの歴史的
事件、その生涯と活動をくまなくのべ、それを評価することをねらいとしたものではけっしてな
い。追憶というものはすべて、おのずとそうであるように、これらの記録もある一面をとくに強
調したり、また主観的印象や判断をしるしているが、編集者は注釈をそえることはさしひかえた。
カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクの戦友たちの追憶はふたりと同じ時代をいき
た人びとのいつわらざる証言である。証言は自分自身のために自由に語るべきものだ。
 追憶集の大部分はもう大分前にかかれたもので、最近かかれたものはごくわずかである。執筆
者の多くはもはやこの世にはいない。編集上やむなく手を加えなけれはならなかった場合にも、
執筆者それぞれのスタイルや言葉づかいはできるだけもとのままにしておいた。記録はABC順
に執筆者をならべた。
 それぞれの追憶の前にかかげた簡単な略歴は執筆者を紹介したものである。そこに記されてい
る役職は、ただ追憶ののべている時点のもので、けっして完全なものではない。
13「まえがき」P12:02/05/07 22:37
 付録として、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクの生涯と活動の簡単な伝記概
要をのせた。これは追憶のなかに出された問題の理解に役だつはずである。
 追憶はごくわずかな例外をのぞき、党中央文書庫の在庫記録によったもので、その多くは、こ
のたびはじめて公表されるものである。すでに全部あるいは一部が単行本か科学的歴史的雑誌に
発表された追憶は、出典一覧表によって、それぞれそれがわかるようにしておいた。
          編集者
  ゲルトルート・アレクサンダー


     一八八二年チューリンゲンのルーラに生まれる。図画教師。一九〇六年以後社会民主
党員。『グライヒハイト』紙の寄稿者。『ローテ・ファーネ』の編集者。一九六七年死去


 スパルタクス同盟の創立者たちのうち、私はその創立の一〇年以上も前にまずローザ・ルクセ
ンブルク、クララ・ツェトキン、それにフランツ・メーリングと個人的に知りあいになりました。
それもカール・カウツキーのところで、つまりドイツ社会民主党の理論的機関誌『ノイエ・ツァ
イト』の編集部で知りあいになったのです。そのときの情況は多少普通とかわっていました。と
いうのは、私はブルジョア・インテリゲンツィアの家庭出の若い娘でしたが、そのころあんなに
強大になったドイツ社会民主主義の指導者たちの仲間に、ほんとうにだしぬけにいれてもらうこ
とになったからです。一九〇六年のことでした。
 そういうわけですから、私はそこに居あわせた人たちをまえにしてすわっても、はじめのうち
はまったくどぎまぎしていましたが、やがて陽気な会話に気分もほぐれてきました。彼らが私を
受けいれてくれたのは偶然ではなく、いっしょに申し合わせていたことでした。それは私が最初
の論文『労働者の予言者コンスタンタン・ムニエ〔*〕』を送りとどけたあとのことで、その論
文は偉大なベルギーの彫刻家の壮大な、同時にきわめてリアリスティクな作品にたいして感激を
表明したものでした。ですから、彼らは私がどんな人物だろうかということについても、話しあ
っていたのでした。クララとローザとメーリングは、まだごく若い感激居士にちがいないと考え
ていました――これはまさにその通りでした。しかしカール・カウツキーと奥さんのルイゼは、
いいや、筆者はもう分別盛りの中年の男にちがいないと言ったので、みんな大笑いしました。私
の論文は満場一致で採用され、私は新しい寄稿者として歓迎されました。みんなはさらに次の寄
稿を求め、そして問題になるテーマについて早くも相談しました。私は顔をかがやかせ、うれし
くなって、作家としての最初の成功に足どりも軽く、友人のアレクサンダーと彼の父のところに
まいりました。彼らは社会主義的出版物と政治的舞台への私のデビューの成果をいまかいまかと
待ちかまえていたのでした。
 〔*〕 ムニエ、コンスタンタン(一八三一―一九〇五)――ベルギーの彫刻家、画家、ロダ
ンに感激し、絵も彫刻も工業地帯や炭鉱地帯の労働者を主題としたものが多い。

 この一九〇七年から八年のころはまた、私がシュトゥットガルト近郊のデーガーロホにクララ
・ツェトキンをはじめて訪ねたときにあたります。私はベルリンでひどく疲れる教師の仕事をや
っていたのをやめていました。私の健康が痛めつけられていたのです。そして結婚する前にスイ
スで少し静養してくるように言われました。シュトゥットガルトはその途中でした。ローザ・

クセンブルクはクララン近郊のボジーのモントルー上手にある小さな、彼女のよく知っている下
宿屋に申込みをしてくれていました。そこは、かつてジャン=ジャック・ルソーが住んでいて、
『エロイーズ』を書いた古典的な土地なのです。ローザ・ルクセンブルクはここに二、三度やっ
てきて保養したことがあり、宿の人たちは彼女のことを忘れてはいませんでした。ローザや、ま
たかなりのロシアの亡命者たちがそこにいたことをいくらか自慢し、いまや援助の手を私の上に
ものばしてくれたのは、スイスの社会民主党員たちでした。彼らはその近辺の、ローザの好きな
場所を教えてくれました。それは彼女が朝しばしばとても早く、日の出を待ちうけながら、下の
青い湖が朝の光をうけて輝くときに、また夕べのすばらしい色のたわむれが山や湖に映えるのを
楽しんで、散歩したところでした。ときは一〇月、私は自分でまわりのぶどう畑に入って熟れた
房をもいで、畑のまわりの低い壁に腰をおろしてそれをたべさせてもらいました。
 私はローザ・ルクセンブルクをはじめて訪ねたときのことを思いだしていました。クララはベ
ルリンに滞在するときにはローザのところに泊りました。クララは訪ねてくるようにと、私を招
いてくれました。ローザはシェーンベルクの、鉄橋の奥のほど遠くないところに住んでいました。
住まいはアパートの一階で、窓からは庭の緑が見えました。私は胸をときめかせてベルを押しま
した。するとドアが開いて、ローザは私のまえに立っていました。私はそのころはじめてカウツ
キーを訪ねたときに、彼女に会っていましたし、それから集会や演壇できびしい分析をしながら
講演したり、火を吐くような演説をする彼女を見ていました。いまその彼女がまっすぐひだをと
った質素な黒絹のふだん着をきて私の前にちかぢかと立っていたのです。そのふだん着のきびし
い線が彼女のまじめな表情とぴったり調和していました。彼女は私に手をさしのべ、クララのと
ころに案内して、二言三言話してから私たちを二人だけにして席をはずしました。
 クララは私とこれからの仕事について話しました。彼女はいくらか拍子抜けのていでした。と
いうのは、私は学校の仕事をやめたあと、彼女のいるシュトゥットガルトに行って『グライヒハ
イト』紙の仕事を手伝うものと思っていたからです。つまり、そうしないで、私は結婚するとい
うのですから。けれどもそのときはもうどうにもなりませんでした。
 しばらくすると、ローザがふたたび入ってきて、お茶に呼んでくれました。美しいアンゴラね
こが私たちを迎えてくれました。ねこはのどを鳴らしながらテーブルのまわりをあるき、ローザ
のひざにとびのって、お菓子をもらいました。ローザは――クララも同じように――生きものな
らなんでもすぎでしたが、ねこをとてもかわいがっていました。しばらくして、私たちはねこの
ミミーをもといた所にかえしてやりました。クラランの私の宿の人たちも、家畜にたいするロー
ザの愛情についてのエピンードを話してくれました。
 後になってはじめて、私はクララン近在のボジーとこの下宿はレーニンの多くの友人たちの避
難所の一つだったことを知りました。
 一月あと、一一月のはじめに私はジュネーヴ湖の暖かい岸辺から寒いドイツへ、さしあたって
シュトゥットガルトに、帰ってきました。クララがシュトゥットガルトの駅のコンコースで私を
持っていてくれるようにきめていたのです。
 それは秋のどんよりした朝のことで、つめたい風が吹いていました。私たちは自動車にのって、
町にいちばん近い郊外の丘にあるデーガーロホに行きました。ネッカー河の流れる美しい谷を見
おろすと、町は冠のような山々の間に広がり、銀の帯のような河にとりまかれて光り輝いていま
す。私たちは車をとめました。森のはずれの大きな庭園のなかに小さな家が立っていました。「
あのツンデル(クララの再婚したときの夫)が建ててくれたのよ」とクララはちょっと誇らしげ
に説明してくれました。私たちは庭園のなかを歩いていきました。一頭の大きなグレートデーン
が私たちをひどく勢いこんで歓迎してくれ、家までお供をしてきました。家では家政婦が迎えて
くれ、私たちのつくのが遅いので、食事が冷めてしまったと、いくらかシュヴァーベンなまりで
小言をいいました。手を洗うときにクララは「どこかにちりが残っていても、あまりやかましく
言ってはいけませんよ。主婦の美徳は私のところでは政治のうしろに引きさがっていなければな
りませんからね」と言いました。
 昼食のときにクララは、どんなふうにして家を建て、近所の農夫のところから家具や古い刺し
ゅうや農民風の焼き物を手に入れたか、話してくれました。食事のあとクララは「詩人」――彼
女は画家のツンデルをおどけてこう呼んでいました――に少し音楽をきかせてくれるように頼み
ました。彼はグランドピアノにすわり、私たちは耳を傾けました。あとでクララは私を上の客間
に案内してくれました。私はまだジュネーヴ湖畔の暖かい夜になれていたものですから、ここで
は上等の羽根ぶとんをかけていても、なかなか暖まりませんでした。
 私は次の朝にも立つつもりでしたが、彼女はそれを思いとどまらせようとしました。どうして
もシュトゥットガルトを少しは見てまわらなければいけない、というのです。しかし私は彼女が
仕事のためにながくは一人の客の相手をしていられないことをよく知っていました。それで私た
ちはやはり朝早目に出かけました。クララは、私がいくらことわってもそれを押しきって、二つ
の手荷物のうち重いほうをしっかりもって、町までのかなりの道のりを最後まで手ばなそうとし
ませんでした。私たちは歩くほかありませんでした。というのは、郊外でこんなに遠いところで
は早朝では自動車など自由にならなかったからです。それは気持のよい朝の散歩で、クララはし
ばしばそうした散歩をしました。そして彼女は見晴らしのとくにすばらしいところや町の名所を
教えてくれました。私たちはちょうどうまいぐあいにチューリヒ―シュトゥットガルト―フラン
クフルト―ヴァイマル―ベルリン行きの汽車に間にあいました。彼女が駅員や乗客たちにもよく
知られている人であることは見ていてわかりました。彼女はしょっちゅうあいさつされていまし
た。私たちは車室のまえに立ちました。彼女は心をこめて私を抱きしめてくれました。私は階段
をのぼり、彼女は私に帽子入れを手渡してくれました。それを私はひとまず空いた席におきまし
た。私たちは窓ごしに別れのことばを二言三言かわしました。列車は出発しましたが、私たちは
まだたがいに手をふりつづけました。
 私がふりむくと、いっしょに乗りあわせた小柄で丸々した親切なシュヴァーベン人が、ちょう
ど私の帽子入れを網棚にのせようとするところでした。のせながら彼は「ねえ、お嬢さん、や、
こいつは重いですな。まさか爆弾でもはいってるんじゃないでしょうね」と言いました。 私は
あっけにとられてポカンと彼を見つめるばかりでした。まわりの人たちもじっときき耳をたてて
います。「いったいどうしてそんなことをおたずねになりますの」と私はききかえしました。す
と彼は大笑いしながら「だってあれは社会民主党員のツェトキンさんだったじゃありませんか。
あの人はいつもそれ、そうじゃ、火を吐くような演説をするんだよ――国会でも、ここであっし
らのところでもね」と答えました。
 私はやりかえしました、「ええ、私はあの人を訪ねてきたところです。帽子入れにはもちろん
帽子は入っていませんが、しかし爆弾でもないんです。本が入っているのです。それに私たち社
会主義者は爆弾投げじゃないことぐらいは、ちゃもと知っておいていただきたいものですわ。」
これにたいして、彼はゆったりしたシュヴァーベンなまりで言いました。「わかってますよ、お
嬢さん。しかしあっしはほんとう政治なんてものにはまったく興味がもてんのでね。」

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA〇〇〇七
  ローベルト・ビール


     一八九八年ブラウンシュヴァイクに生まれる。指物師。一九一九年以後共産党員。
デュッセルドルフで十一月革命に参加。 ベルリンの古参共産党員


 一九一三年三月はじめのある日、われわれは社会主義労働青年の夕べのつどいで青年ホームに
集まった。青年ホームはブラウンシュヴァイクの労働者たちが大いに財政的に奮発したおかげで、
ようやく最近できあがった建物の五階にあった。この建物には党や労働組合、それに社会民主党
の機関紙『デル・フォルクスフロイント』編集部も部屋をもっていた。建物は公爵の城のすぐ隣
にあって、輝くばかりに赤い硬質煉瓦でたてられていたので、労働者たちからは冗談まじりに「
赤い城」という名で呼ばれていた。
 われわれより少し年上で、ブラウンシュヴァイクの社会主義労働青年の指導的な役員の一人オ
ットー・グローテヴォール〔*〕と、あの大作曲家と同姓同名で、党派性を堅持し、情熱と辛辣
な筆をふるってブラウンシュヴァイクの労働者新聞の編集者の職務をつとめていたリヒャルト・
ヴァー
グナーとが、われわれの夕べのつどいに参加した。こんなことはたびたびあることではな
かった。われわれは、なにかおこりそうな気がしていた。そしてまた実際にそうなった。夜も一
〇時に近づいていた。まもなく青年ホームは閉ざされなければならなかった。そのとき、ルード
ルフ・ザックス、ローベルト・ゲールケ、フリーダ・ハーゼと私は、見張り役の同志たちの部屋
に呼びいれられた。オットー・グローデヴォールとリヒャルト・ヴァーグナーは、まだホームに
のこっていた青年たちに、会を終りにして家に帰るようにいった。
 〔*〕 オットー・グローテヴォール (一八九四―一九六四)労働運動の指導者、政治家。社
会民主党員。反ナチス運動に参加して闘争、第二次大戦後ピークとともに社会主義統一党を組織
し、ドイツ民主共和国の発展につくす。

 若い同志たちがみんなホームを出て、ホールの明りが消えてしまうと、両同志はわれわれのい
る部屋に入ってきた。ヴァーグナー同志はわれわれ一人一人を鋭く見つめた。われわれはなにか
ばかげた若気のいたずらでお説教をちょうだいするのじゃないかと思った。そんな目にあうのは、
われわれのばあい実際ないことではなかった。しかしこれはわれわれの思いちがいだった。もっ
と大事な事柄だったのだ。オットー・グローテヴォールはわれわれにたずねた、二、三日中に、
三月八日を国際婦人デーとして、ブラウンシュヴァイクではじめて、婦人の示威集会を開いて祝
うことになっているが、それを君たちは知っているか、と。われわれは誇りをもって報告した、
われわれは政治講座のさいに国際婦人デーの意義について話したし、示威集会のことも知ってい
る。しかしこれは婦人たちの事柄であって、われわれにはたしかになんのかかわりもない、と。
ヴァーグナー同志はムッとした声で、そのことについて君たちはもう一度よく考えてみるべきだ、
と言った。彼はアウグスト・ベーベルのことや、われわれに読むように勧めていたベーベルの『
婦人と社会主義』をわれわれに思い出させ、労働者階級は婦人たちと共同しなければ、支配階級
から勝利をたたかいとることはできないことを、われわれにはっきり説明した。われわれは返す
ことばもなく、恥ずかしくなって床に目をやった。
 ヴァーグナー同志はふたたび話をはじめて、次のような計画を示した。「君たち四人の青年同
志は、党から責任の重い仕事をするために推せんされたのだ。まずはじめに、君たちがわれわれ
に約束しなければならぬことは要件全部について無条件にだまっていることだ。君たちの任務は、
この次の日曜日に中央駅へ行って、ベルリン発ケルン行の急行列車からおりてくるベルリンの婦
人同志を迎えて、「ホーエトーアシェンケ」に案内するのだ。この同志の安全を確保し「ホーエ
トーアシェンケ」に時間どおりに着くように、全責任を負わなければならない。では、家に帰っ
て、このことをよく考えてみたまえ。君たちが党の指令を実行する気になったら、明日の夕方七
時に『フォルクスフロイント』紙編集部に「フォルスタッフ」同志を訪ねてきたまえ。」このペ
ンネームをつかってリヒャルト・ヴァーグナーは毎土曜日、支配社会と警察を狙った諷刺記事や
詩を書いていた。「編集部の書記が君たちを私の仕事部屋に連れてくることになっているが、君
たちはそれを根気よく要求しなければならない。彼は君たちから聞きだそうとするだろう。君た
ちがなぜ「フォルスタッフ」のところへ行きたいのか、知ろうとするだろう。聞きだされないよ
うにしたまえ! 頑張るんだぞ! 黙秘の義務をけっして忘れないで! では、おやすみ。」
 われわれはたがいに顔を見合わせて、目くばせをした。それでわれわれの了解は確かめられた
のだ。なにしろわれわれはすでに数年間もたがいによく知りあった仲だったからだ。それまでわ
れわれはいくどか困難な状況をいっしょにのりこえてきた。ポスターを貼ったり大農場にビラを
もちこんだりもした。そのときには犬をけしかけられて、追いたてられたこともあった。
 われわれが通りに出ると、なごやかな風がまわりをふいていた。とうとう春になったのだろう
か。それとも、いま聞いたことで頭がそんなに熱くなっただけのことだろうか。いっしょに家に
帰る途中、ほとんど一言も口をきかなかった。「おやすみ、では明日あさ七時に」と言って別れ
た。党の指令を果たさなけれはならないということは、みんなはっきりしていた。
 次の日の夕方、われわれは申し合わせていたように「フォルスタッフ」のところに行った。編
集部の書記は、べつになにもきかないで、われわれをヴァーグナー同志の仕事部屋に案内してく
れた。そこにはもう経験のある役員たちが二、三人きていた。われわれはたがいによく知ってい
た。党の同志や青年の同志はみんな家族のようなものだ。今度は果たすべき任務について説明を
うけた。それは、日曜日にローザ・ルクセンブルク同志を駅まで迎えにいって、ある酒場に案内
することだった。そこでブラウンシュヴァイクで初めての三月八日示威集会がひらかれることに
なっていたのだ。われわれはめいめいきまった指令を受けとった。万一必要なときには警察の注
意をそらさせるためになにをすべきかについても、たがいに打ち合わせた。
 フリーダ・ハーゼと私は車輛のところまで進んで、ローザ同志が列車からおりるのを助け、落
ちついた足どりで人ごみのなかを駅の出口へ歩いていく手はずになっていた。駅前では一台の辻
馬車がゆっくり通りすぎる段取りだった。私にあてがわれた任務は、この辻馬車をとめて、「お
ばさん」とわれわれを「われわれの住まい」までやってくれるよう、御者とかけあうことだった。
この辻馬車の御者の役目はカール・ヘッセ同志――労働者合唱団の活動的なメンバー――がきっ
と引受けてくれると、わかっていた。彼は石炭販売と古道具屋を営んでいて、そのために馬と馬
車をもっていた。しかしわれわれは、彼を知っていないようなふりをすることになっていた。
 みんなそれぞれ自分の仕事を正確にのみこむようにするために、もう一度話し合った。日曜日
には時間どおりに中央駅に出かけた。ベルリン―ケルン間急行列車は定時に到着した。そしてわ
れわれはわれわれの「おばさん」をすぐに見つけた。ローザ・ルクセンブルクは一人で車輌から
おりてきて、あたりを見まわした。彼女は長いジャケツとつば広の黒い帽子の旅装をしていた。
手には小さなスーツケースをもっていた。姪や甥にふさわしいように、われわれは「おばさん」
にあいさつして、彼女の小さいスーツケースをもってあげた。旅客の雑踏のなかを、われわれは
出口に歩いていった。
 申し合わせていたように、一台の辻馬車が通りすぎた。私はかけよっていって、その馬車を手
に入れたときには、もちろんうれしかった。「われわれの住まい」というのは、集会所の「ツー
ア・ホーエトーアシェンケ」のことで、ホールのあるこの飲食店は、多くの労働者組織や団体が
催しをするところだった。辻馬車の御者は駅前広場とゾンネ通りを抜けて、安全にわれわれを引
きまわし、それからホーエトーア橋を渡り、マダム通りにそって少しばかり馬車をはしらせた。
そうしてわれわれはしばらく気持よく馬車にゆられたあと、ホーエトーア墓地のそばをすぎて、
クロイツ通りに折れた。
 「おばさん」は、われわれがどこで働いているか、なにを勉強しているか、いろいろたずねる
のだった。われわれははじめは多少引っ込み思案だったが、やがて誇りと自信をもって、毎月青
年ホームでおこなわれるへルマン・ドゥンカー指導の夜の学習会に出席していることを話した。
ローザは満足して「いい先生をもっていますね。その調子でおやんなさい」といった。われわれ
は目的地についた。隣りの建物の階段を通って、非常口の脇の入口から、ホールの演壇に出た。
 約五〇〇名の主婦や娘らがホールに集まっていた。私の知っているファスビンダー同志――彼
女が、クララ・ツェトキンやローザ・ルクセンブルクと緊密な接触のあることを私は知っていた
――が、開会を宣した。私は舞台裏にかがんで、この婦人集会に若い男子として参加させてもら
った。ローザ・ルクセンブルクは小一時間ばかり話した。ホールの婦人たちは彼女の才気あふれ
る思想や火を吐くようなことばに感激した。一種ふしぎな高揚した気分がみなぎり、私もそのと
りこになった。集会が終わると、婦人たちは通りへどっと流れ出た。けれども彼女らはばらばら
にならずに、みんないっしょにホーエトーフ墓地へむかって歩きだした。
 党の決議――それは文書できめられたのでなく、口頭で伝えられたのだが――に従って幾百人
もの同志たち――夫や息子や友人たち――が墓地に集まっていた。いまや男たちは墓地から出て
きて婦人たちと合流した。こうしてすばらしいデモ隊が組まれ、宮城にむかって動きだした。デ
モ隊はどうしても町の中央を通り抜けなければならなかった。というのは、幹線道路の一つであ
るボールヴェーク通りで、婦人の同権のためにデモンストレーションをおこなうことになってい
たからだ。そして集会や労働者のデモのおこなわれる伝統的な広場、ハーゲンマルクトでこの三
月八日の催しは終わる予定になっていた。
 われわれ四人の青年同志は、ローザ・ルクセンブルクをきたときと同じ辻馬車で駅まで送り、
確実にベルリン行き急行列車に乗せる任務を帯びていた。われわれは駅の入口で弁護士で多くの
政治訴訟の弁護をしてきた同志ハインリヒ・ヤスパー博士とおちあった。彼はわれわれのために
は入場券を、ローザ・ルクセンブルクと自分のためには切符を手にいれていた。ヤスパー同志は
マグデブルクまでローザ・ルクセンブルクに同乗していった。われわれは別れをつげて、青年ホ
ームに帰った。そこでわれわれはデモの経過について報告をきいた。この三月八日は、われわれ
にとって波乱に富んだ忘れることのできない日であった。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA〇〇六八
  クルト・ベーメ

     一八八九年エルツゲビルゲのザイダに生まれる。精密機械工。一九一〇年以後社会民
主党員。チューリンゲン労働青年地区指導部議長、一九六八年死去

 国際主義的感覚と思想をもつ社会主義者として私は、社会民主党国会議員団が帝国主義戦争を
支持したことにきわめて深刻な打撃をうけた。自分と同じ考えをいだく同志たちと力を合わせて、
私はたきつけられた戦争陶酔に反対しようと考えた。われわれは仕事仲間によびかけて、彼らと
いっしょに啓蒙的な政治話しあいをした。これはしばしばじつに困難なことだった。というのは、
人民大衆はたえずカイザー側の宣伝機関から影響されていたからである。こうしてあらゆる新聞
を動員して世論をもりあげて、戦争の当初はごく少数だった反戦主義者に「売国奴」の嫌疑をか
け、第一次世界戦争の本質をあばく反戦主義の啓蒙活動を水の泡にしようとしたのであった。私
はこれを身にしみて体験しなければならなかった。
 ロンウィの戦闘のあとはじめて「勝利」の鐘が鳴りひびいたとき、私は同僚たちに警告し、こ
の「勝利の鐘」は戦死した父や息子や兄弟のために鳴る弔いの鐘だときづかせ、それによって戦
争反対の結論を引きだすようにした。正気を呼びさまそうとするこの私のことばは「反逆」だと
非難された。その同じ同僚たちが二年後にははや私の家族の生計のために毎週募金を集めてくれ
たのだった。というのは、私は反戦活動のかどで「軍事保護拘留」をくらって捕われていたから
だ。
 こうして、われわれ反戦論者にとってどうしても必要になってきたことは、政府筋で防衛戦争
だと宣伝していたものは、実は帝国主義的征服戦争であることをばくろすることだった。
 一九一四年一二月二日にカール・リープクネヒトがたったひとりで戦争公債のそれ以上の承認
にたいして反対の二票を投じたことが知れわたると、われわれは彼に注目するようになった。国
会で彼のとった態度の理由を述べることはできなかったので、彼はどうしても党の国会議員団の
斡部には戦争公債反対の理由を明らかにしておかなければならないと考えた。少なくともその声
明の内容は労働者階級の平静にものを考える人々の耳目に届くものにしなければならなかった。
事実またそうなった。
 こうして、ライプツィヒのゲオルク・シューマンはイェナの私の手を経てこの声明を手にいれ
たと、カール・リープクネヒトあての一九一四年一二月七日付の手紙で、報告できたのだ。この
ようにリープクネヒト同志とすみやかに連絡のとれたのは、チューリンゲン労働青年地区指導部
が、青年労働者を教育して自覚したプロレタリア階級闘争の戦士にすることをつねに自分の特別
の任務と考えていたことを、リープクネヒトが知っていたからである。
 ゲオルク・シューマンが一九一二年一〇月一日に党学校に出ていくと、私はチューリンゲン労
働青年地区指導部議長の後任にされ、それと同時に地区の名誉書記の仕事も私にまかされた。第
一次世界戦争の本質をばくろする啓蒙活動を、労働青年や地方の青年委員会の役員にも広げてい
くことは、私にとってはごくあたりまえのことだった。そういう啓蒙活動はりっぱな伝統にもと
づいていた。というのは、チューリンゲン労働青年は、今世紀のはじめに南ドイツに「若き親衛
隊《ユンゲ・ガルデ》」を創設させたのと同じ反軍国主義精神にみなぎっていたからである。
 カール・リープクネヒトは第一次世界戦争前の数年間その首尾一貫した反軍国主義闘争によっ
てプロレタリア青年運動の精神にとっては輝かしい模範だった。チューリンゲン労働青年第一地
区指導部議長ゲオルク・シューマン同志は、同じく熱烈な反軍国主義者であった。彼はリープク
ネヒト同志を、一九一二年の復活祭にイルメナウでおこなわれた第三回チューリンゲン青年大会
の示威集会演説者になってもらうことに成功した。
 カール・リープクネヒトは一五〇〇人の若者のまえで話し、青年労働者にむかって断固たる反
軍国主義の戦士になるように要求した。第三回チューリンゲン青年大会は参加者たちのあいだに、
戦闘的精神を鼓舞するのに、あとあとまで役立った。こうしたことは一九一三年の復活祭にイェ
ナでおこなわれた第四回チューリンゲン青年大会のときにもみられ、参加者はすでに前回の二倍
に達した。
 こうしてチューリンゲン労働青年の間では、一九一四年一二月二日のカール・リープクネヒト
の勇気ある行動によって帝国主義戦争に反対する反対派的精神が強くなつていった。これは社会
民主党幹部会所属の「ドイツ労働青年中央本部」にはあきらかにお気にめさぬことであった。
 一九一六年の夏「軍事保護拘留」から釈放されたあと、私は党幹部会の召集した全社会民主党
地方区選挙団体議長会議で、チューリンゲン労働青年運動での私の政治活動について弁明しなけ
ればならなかった。私はこの会議で党幹部会議長、後の大統領フリードリヒ・エーベルトから、
労働青年チューリンゲン地区指導都議長の職を退くことを強硬に要求された。私は――彼のこと
ばによると――青年にとっては危険であり、しかも青年たちは私を模範と見ているからだという
のだ。そんな要求は私の選挙活動をもちだして私はもちろんうけつけなかった。
 リープクネヒト同志に私の反戦啓蒙活動が知られずにすまなかったことはあきらかだ。という
のは、彼が私を左派の同志たちの小さな集まりにいれてくれたことは、そう考えてみてはじめて
納得がいくからである。会合は彼の招請にしたがって一九一六年一月一日にベルリンの公証人職
の彼の事務室でおこなわれた。そこでの話し合いで、戦争の帝国主義的性格についてイデオロギ
ー的啓蒙活動を強める路線と方法が相談され、労働者階級のために打ちだされる任務が論議され
た。この相談にはカール・リープクネヒトのほかに、労働者階級のすぐれた代表者たち、私の記
憶しているところでは、白髪の同志フランツ・メーリング、ケーテ・ドゥンカー、ヴィルヘルム
・ピーク、ルードルフ・リンダウその他の人たちも参加していた。この相談の成果はスパルタク
スグループの樹立であった。
 私がこの会合に出席していたので、イェナ復活祭会議の終わった後、復活祭第二日月にイェン
ツィヒ山ヘピクニックにでかけたとき、カール・リープクネヒトは私にビラの原稿を手渡し、そ
れを非合法で印刷するよう指示したのは明らかだ。原稿はイェンツィヒ山から帰り道で手渡され
たのだが、そのためにわれわれが北側の下り道を選んだのはカール・リープクネヒト同志のイェ
ナ滞在が非合法であったことを考慮して、だれにも出会わないようにするためだったのだ。この
道をカール・リープクネヒトは私と二人きりで帰った。だからわれわれはビラの印刷とそのベル
リンへの送達方法についてだけでなく、その他の非合法活動の問題についてもいろいろ意見を交
換したのである。
 ビラの内容は一九一六年五月一日に帝国主義戦争反対のデモに参加するようにという勤労人民
へのアピールだった。だからビラは四月末にはもうベルリンに届いていなければならなかった。
カール・リープクネヒトは印刷を手配し、彼にビラを送り届けるよう私に頼んだのである。
 私は老同志アウグスト・グレッチャーと親交があり、彼はイェナ・オストのビュルゲル通りの
自分の家で、端物印刷所を経営していた。私は彼のところで、労働青年地区指導部のいろんな印
刷の仕事をしてもらっていた。彼のところへ行って、カール・リープクネヒトのために非合法ビ
ラの印刷を引きうけてくれるようにたのむと、彼は二つ返事で承諾してくれた。ビラ発送のだん
どりはこれも私がした。この仕事ではクルト・レーマン同志が精力的に私を助けてくれた。われ
われは発送に旅行用梱《こうり》を利用し、旅行用小荷物としてベルリンへ託送した。小荷物証
明書はあらかじめしめし合わせていた方法でカール・リープクネヒト同志に送りつけた。
 ちらしビラ「メーデーに行こう!」はちょうどよい時に彼の手もとに届いた。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA〇〇八二
          『一九一六年イェナ復活祭会議とその現代的教訓』社会主義統一党ゲーラ
地区指導部付属地方労働運動史調査委員会によって刊行、ゲーラ、一九六七年
  へルマン・ドゥンカー

     一八七四年ハンブルクに生まれる。社会科学者。一八九三年以後社会民主党員。スパ
ルタクス同盟中央本部のメンバー。ドイツ共産党創立者の一人。 一九六〇年死去

 私のながい生涯には数々のクライマックスがあったが、その一つは一九一八年一一月九日であ
った。四年にわたる重苦しい戦争の後に、ドイツプロレタリアートは、一九一四年彼らの社会民
主党の指導者の裏切りにおそわれて陥っていた麻痺状態をふりきったのである。彼らは一九一七
年の「パンよこせストライキ」で立ちあがったが、撃退され、一九一八年の一月ストライキはつ
ぶされた。しかし一一月九日にベルリンの大衆が町にくりだしたとき、大衆をいためつけていた
奴らは、やみくもに逃げだした。
 戦争がはじまってから、私は妻のケーテとシュテークリツに住んでいた。われわれの近くには
カール・リープクネヒト、ヴィルヘルム・ピーク、エルンスト・マイアー、ユリアン・マルヒレ
フスキ=カルスキ、レオ・ヨギヘス、ローザ・ルクセンブルク、それにフランツ・メーリングが
住んでいた。われわれはずっとまえから、共通の党活動で知りあっており、みないわゆるシュテ
ークリツ左派、後のスパルタクス同盟の胚種細胞に属していた。戦争のあいだ、同志たちがちょ
うど逮捕されているか、召集されていなければ、われわれはいつも共同してたたかいをすすめて
きたのである。
 一一月九日の朝、ケーテと私は町へ出かけた。彼女はモアビート刑務所に捕われていたヨギヘ
ス同志の世話をするようたのまれていた。われわれスパルタクス同盟員は早朝からすでに活動し
ていた。革命は進みはじめていたのだ。党の巡回教師であった私にとっては、いまこそ、広場や
四つ辻にみるみるうちに集まってくる群衆にむかって事件の意味をあきらかにし、到着するデモ
隊にむかって方向を示すあいさつを述べるときがきたのだ。
 われわれがこのドイツという牢獄のなかで耐えしのばなければならなかった抑圧は、すべて吹
きとばされたように見えた。革命的大衆がベルリンじゅうに洪水のようにみなぎっていたのだ。
赤旗が風にひるがえり、武装した労働者や兵士をのせたトラックがとんでいった。歓呼の叫び声
がひびきわたった。死んだと思われていた昔の同志たちとの再会も少なくなかった。
 私はポツダム広場に立って、私をとりまいている人たちに語りかけた。デーンホフ広場からラ
イプツィヒ通りをこちらにむかって新しく巨大なデモ隊が近づいてきた。重装備をした一人の国
民軍兵士が私のほうへやってきた。それは私の古くからの友人エーミール・ラーボルトで、彼は
青年運動出身の同志で、労働者新聞の仕事をしていたが、戦争の勃発以来はもはや顔をあわせる
ことがなかった。いまや革命がそのわれわれをまたいっしょにしてくれたのだ。われわれは肩を
並べて行進し、「われらは労働者」をうたった。革命は進行しはじめた。しかしこれはほんの序
の口にすぎないことを、われわれは知っていた。
 スパルタクス同盟指導部は、大衆を啓蒙し、彼らの革命的闘争に方向と目標をあたえるために、
同盟の大印刷所と新聞を必要としていた。われわれはこれまで非合法という困難な条件のもとで、
かろうじてこの課題を果たしえたにすぎなかった。
 いまやこうした困難な時はすぎさった。革命的大衆が通りという通りを埋めつくしていた。わ
れわれは自分の任務はよくわかっていた。すはやく私はラーボルト同志に了解をとりつけた。赤
旗をなびかせた一台のトラックが革命的水兵や労働者を満載してわれわれのそばを通りすぎたと
き、それをわれわれは止めた。われわれは大急ぎで同志たちに説明した。『ロカール・アンツァ
イガー』、この恥しらずの扇動新聞がもうこれ以上人民を毒することを許してはならないと。水
兵たちはラーボルトと私を車の上に引っぱりあげ、ツィンマー通り三五―四一番地の表玄関に乗
りつけた。われわれはとびおりた。二、三人の野戦兵士と水兵がわれわれといっしょにきた。守
衛はとびらをあげ、だれひとりとしてわれわれに抵抗しそうな様子もなかった。われわれの掲げ
た赤旗のまえに、敵はことごとく降伏した。植字室で私は簡単にあいさつを述べた。植字工たち
は今後もはや大金特やホーエンツォレルン家のためにあくせく働くのでなく、革命的プロレタリ
ア的新聞をつくるのを助けてもらいたいと。もちろんわれわれはびっくりしたような顔を二、三
見たが、しかしたいていのものはおっかなびっくりで、乗り気になっている気持を示した。
 さてわれわれは大会議室に招じ入れられた。そこには編集局員が集まっていた。そこで彼ら、
つまり堂々たる「おえらがた」が、堅苦しくかたずをのんで無言のまますわっていた。なぜ私が
彼らにながながかかずらわらねはならんのか。通りからは群衆の叫び声がわきおこってきていた。
私は簡明直截に言った。「諸君、事態は一変したのだ。諸君の新聞もまた変わらねばならない。
勝利した革命は反革命的新聞をだまって許しておくわけにはいかんことくらいは判るだろう」と。
 すると妙なことがおこった――おえらがたはうなずいていった。もちろん私たちにはよくわか
っている、おそらくそうなる以外はなかろう、と。彼らはわれわれに経営をあげわたした。革命
的急転回が『ベルリーナ・ロカール・アンツァイガー』を一掃せずにはおかなかったことは、こ
の人たちにさえこの時点では避けられない結論と見えたのである。
 そのあいだに呼びよせておいたエルンスト・マイアー同志といっしょに確かめたことは、一一
月九日の夕刊がすでに印刷されるばかりになっていたことだった。出来あがった版面からは二、
三個所しか外せなかった。そこで『ロカール・アンツァイガー』の忠実な読者は、「赤旗の支配
するベルリン!」という、彼らにとってはたしかにおそろしい大見出しが掲げられてはいたが、
愛読紙をいつもの時間に手にとることができたのである。第一面にわれわれは最も重要な革命の
スローガンと、革命の現状にかんするありのままの報告を印刷した。新聞の頭には『ディ・ロー
テ・ファーネ。前ベルリーナ・ロカール・アンツァイガー』と記し、冒頭に次の告示を掲げた。
「『ベルリーナ・ロカール・アンツァイガー』編集部は革命的人民の代表(スパルタクスグルー
プ)によって占拠された。それとともに編集業務は同志たちの指導下に移された」と。
 革命的急転回にかんするわれわれの報告にはこう書かれた。「いまや事件の進展は猛烈な勢い
でベルリンでもくりひろげられている。今日の午後以来、都市の交通、行政、保安上重要な個所
は、ほとんどすべて労働者兵士評議会とその受託者たちの手中におさめられている。急転回は午
前中に平和裡に始まり、引きつづいて完全に秩序正しくおこなわれた。」
 われわれの最初の『ローテ・ファーネ』の植字と印刷がおこなわれていたあいだ、われわれは
ビラやリーフレットの原稿をつくった。これもすぐにできて、ばらまくために同志たちに手渡さ
れた。
 次の日になってようやくローザ・ルクセンブルクは監獄からベルリンへ帰ってきた。彼女はす
ぐに『ロカール・アンツァイガー』の編集部へ急行した。その間編集部のわれわれは大見出しで
労働者評議会の選挙を布告した『ローテ・ファーネ』の第二号を編集し終わっていた。この第二
号もやはり埋め草にもとの『ロカール・アンツァイガー』のために用意されていた組みを使わな
ければならなかった。なにしろ嵐のような革命の日々は、たんなる編集上の仕事のほかにも多く
の仕事をわれわれに要求していたからだ! そこでこの号もまだ革命的プロレタリア的な力強い
ことばと、ブルジョア的編集者の無味乾燥な新聞ことばとの奇妙なごたまぜとなった。われわれ
の中央機関紙の最初の二号は、赤い十一月闘争の日々のあわただしさと革命的焦燥のなかから生
まれてきたさまをはっきり示している。これらの二号だけがシェルル出版社、つまり『ロカール
・アンツァイガー』で印刷できたのである。
 ローザ・ルクセンブルクが一一月一〇日に編集部にきたときにはすでに、そこの風むきは少し
かわってきた。おえらがたや全従業員は前の日におとなしくプロレタリアートの革命的意志に従
っていたが、いまではしだいに言うことをきかなくなりサボタージュをしはじめた。出版と編集
のおえらがたは政府に出かけていって、そこで助けてくれと悲鳴をあげ、そして新しい「革命政
府」はブルジョア新聞の首脳者たちの愁訴によろこんで耳をかした。エーベルトは、新聞はふた
たびそのもとの所有者の手に引き渡すべきものであり、したがって引きつづき反革命的毒素をま
きちらしても一向さしつかえなしと、指令した。それとともにかなりの植字工と印刷工たちは敵
意のある態度をとるようになった。そこでローザ・ルクセンブルクは全従業員のまえできわめて
迫力のある熱烈な演説をしたので、この側からはもはやめんどうなことはおこらず、『ローテ・
ファーネ』第二号は印刷にまわきれた。
 それからまもなく出版者と編集者は、今度はエーベルトから親政府派の兵士をつけてもらって
帰ってきた。ほろ酔いの兵士たちはわれわれスパルタクスの同志を編集室で逮捕し、せまい一室
に閉じこめた。しかしこんなときでも、ローザにはわれわれにいやがらせをする連中に働きかけ
てなだめる力があった。しばらくたって、われわれはドアに鍵がかかっていないことに気づいた。
酔っぱらいの見張り兵はいなくなった。しかしこうなっては、われわれがこの建物で仕事をする
ことは、もはや考えられないことだった。ことに従業員たちはその間に甘い約束とおどしにかか
って、スパルタクスにたいして狂信的な敵意を抱くにいたっていたからだ。その一方では、この
一一月一〇日にはあいかわらず武装したデモ隊が赤旗を立てて通りにあふれていたので、だれも
あえて直接われわれに不法をはたらこうとするものはなかった。
 それからまもなくスパルタクス同盟の指導部は、自分の印刷所を見つけた。『ディ・ローテ・
ファーネ』は、ローザとカールの編集で一一月一八日にあらためて発行することができるように
なったのである。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA○一六八
          『前進せよ、そして忘れるな』ディーツ出版社、ベルリン、一九五八年
  ケーテ・ドゥンカー

     一八七一年バーデンのレルラハに生まれる。女教師。 一八九八年以後社会民主党員。
十一月革命に参加。スパルタクス同盟中央本部のメンバー。ドイツ共産党創立者の一人。一九五
三年死去

 私はいったいいつごろローザ・ルクセンブルクの名をはじめてきいたのだろうか。それは一八
九八年のこと、私がライプツィヒ大学の国民経済学講座の演習に聴講生として出席していたとき
のことだった。主任のカール・ビューヒャー教授が国民経済学の入門書について論評した。「新
しく出た印刷物のなかで最も重要なものとして、『ポーランドの産業的発展』にかんするローザ
・ルクセンブルクという一人の女性の学位論文がある。これはきわめて高い学問的水準に達して
いるものだ」と。
 一九〇三年私はライプツィヒではじめてローザ・ルクセンブルクの公開講演をきいた。小柄で
きゃしゃな身体つき、腰痛のために歩くのが不自由、美しい頭、表情ゆたかな顔だち、それに輝
く瞳。彼女の話しぶりは聴く人の心を夢中にさせるものがあった。それは激情やスローガンによ
るものでなく、政治的連関を明らかにしてみせるときの明快さ、労働者に歴史的任務を示すとき
の燃えるような情熱によるものだった。彼女は原稿をもたずに自由に、聴く者に感銘をあたえる
ように思想を組みたてながら、おなじことをくりかえさず、機知縦横に、洗練された文章にして
話した。彼女はそのころフランツ・メーリングといっしょに『ライプツィヒ人民新聞』の陣頭に
立っていた。この新聞はメーリングの指導のもとにあって、社会民主党左派の指針となっていた
のだ。
 私がローザ・ルクセンブルクと個人的にさらに親しくなったのは、一九一一年のイェナの党大
会のときであった。問題はシュトゥットガルトの同志たちの党紙『シュヴェービッシェ・ターク
ヴァハト』をめぐる闘争にかんしてだった。ヴュルテンベルクの党幹部が専断的手段に訴えてシ
ュトゥットガルトの同志からこの機関紙を強奪していたのである。編集者のフリッツ・ヴェスト
マイアーが今度この一件について党大会で自説を主張することになっていた。ところが右派の策
謀によって、彼はどたんばで代議権を拒否された。そこでシュトゥットガルト第二代議員であっ
た私にその任務がまわってきたのである。
 それは重要な事柄だった。なにしろ、シュトゥットガルトの革命的労働者にたいする改良主義
者のクーデタを防止することだったのだから。私には準備時間はほんのわずかしか残されていな
かった。私はどうしても自分の報告を、指導的同志たちといっしょに詳しく検討しておきたかっ
た。肝心なことは素朴な同志たちの関心をよびおこし、シュトゥットガルトの人たちの正しい事
を彼らに納得させることであった。主張は鋭くなければならなかったが、しかし同時に慎重でな
ければならなかった。
 私はルクセンブルク同志に助けをもとめた。この話し合いで、私は彼女の頭のよさと機転のき
いていることがじつによくわかった。彼女は私の詳しい説明の要領を了解した。しかし「どうし
て」というやりかた、演説によって聴くものをなるほどと思わせる方法については、一つの実地
教育をうけて、いまにいたるまで忘れることができないのである。そのさい彼女は、助言を「助
言」であると私に気づかせないで、私たちの話し合いの自然な結論だと思わせる手をこころえて
いた。
 一九一四年八月四日が私たち二人を個人的にいっそう親しくした。戦争公債に賛成したことに
よって混乱したベルリンの役員団の同志たちに、帝国主義戦争に反対する革命的立場を明らかに
することが急務だった。
 残念なことに私たちはローザをこの仕事のためにながくは引きとめておけなかった。一九一五
年二月、彼女はいや応なしに一年の禁固刑にせられた。彼女は戦争のはじまるすぐまえに反軍国
主義的宣伝のかどで刑を宣告されていたのである。ローザは長年にわたって兵士虐待の無数の事
例を集め、公開講演でドイツの兵士たちにたいして、戦争のおこったときには、「労働拒否」を
するよう要求していた。一九一六年二月、ローザ・ルクセンブルクの拘禁が満期になり、ベルリ
ンの多くの婦人同志は監獄の門前で彼女を迎えとった。しかしまたしても彼女は同志のあいだで
ながく活動するわけにはいかなかった。一九一六年七月、彼女は「保護拘禁」で捕えられた。一
九一八年一一月九日以後になってようやく、彼女はふたたび「ドイツの自由」を見た――しかし
それもわずか二ヵ月にすぎなかった。
 一九一九年一月五日、私は郊外のジュートエンデのローザ・ルクセンブルクのところにいって
いた。それは不吉な日曜日だった。この日、革命的労働者が彼らの選んだ警視総監長エーミール
・アイヒホルンが解任されたことに反対しておこなったデモンストレーションのあいだずっと、
スパイがデモ隊の先頭に立って「さあ、これから『フォールヴェルツ』ビルへ行こう!」という
文句を言いふらしていたのである。
 反動勢力はまったく無意味な『フォールヴェルツ』紙の建物の占拠によって、スパルタクスに
たいする血なまぐさい一月闘争にふみきる口実をえたのだった。その結果、ベルリンの革命的労
働運動は鎮圧され、われわれの指導者たちは虐殺されたのである。
 労働者の分裂のもたらした結果に、私はひどく打ちのめされた。ローザ・ルクセンブルクも事
件の経過に衝撃をうけていたが、しかし彼女は事態を歴史的関連のなかで観察し、プロレタリア
ートの勝利にたいする彼女のゆるぎない信念を吐露した。こうして、意気消沈した私をひきたて
る手を心得ていた。
 事態ははじめ反革命的コースをすすんだ。当時の国防相ノスケ〔*〕は軍隊をベルリンへ移動
させたが、この部隊はまったく戦争の経験もなく、うその宣伝に迷わされて狂信的に労働者を憎
んでいた。
 〔*〕 ノスケ、グスタフ (一八六八―一九四六)はじめ社会民主党右派、労働運動、革命運
動の弾圧者。

 一月一一日、私はカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクに会いにいって、ゲオル
ク・レーデブーア〔*〕とエルンスト・マイアーの逮捕を知らせる任務をあたえられた。カール
とローザは、迫害のためにやむなくブリューヒャー広場の同志のところに身をかくすほかなかっ
た。シュテークリツから出かけていく途中、私はシュロス通りのはずれで銃剣をつけ、まっさら
の軍服をきた若い兵士たちが長い列をつくって立っているのを見た。市電のなかで一人の婦人が
「なんとかあの人たちの銃剣でスパルタクスを突きころしてもらいたいものだわ」と大声で言っ
た――「女のあなたがそんなことをいって恥ずかしくないの?」と私はやりかえした。そうする
と、ほとんどすべての乗客が私に反対の気勢を示し、私をひっつかまえて、市電から放り出そう
とした。一人の老紳士が間に入ってくれたおかげで、やっと私は次の停留所まで乗っていけた。
 〔*〕 レーデブーア(一八五〇―一九四七)、社会民主党国会議員、第一次大戦では軍事公
債に反対、独立社会民主党に転じ、一九年のベルリン労働者蜂起に参加。 ナチス政権の確立と
ともにスイスに亡命。

 あのころはベルリンの住民の気分は革命的労働者にたいして、こんなにけしかけられていたの
だ。私はカールとローザに報告し、外には虐殺ムードのあることをも話してから、こうつけくわ
えた。「このままここにいてはいけません。ほんとうに。町はずれの労働者街にいかなければな
りません。ベルリンを脱出できれば、もっといいのですが。それにしても変装しなければなりま
せん。でないと、ここから生きて出ることはできません。」――「そんなら」とローザは彼女も
ちまえのさばさばしたユーモアをまじえて答えた、「カール、私があなたの服をきて、あなたが
私の服をきることにしましょう。ところでケーテ、なにか食べものを持っていないこと。私たち
はおそろしくお腹がすいているの。何日も隔離されて、食料切符もないんですもの。」さいわい、
持ってきたサンドイッチの包みを彼らにわたすことができた。私は腹をすかしているこの人たち
のところを立ち去ると、広告塔にばかでかい文字で「リープクネヒトはその幾百万の金をどこか
ら手に入れたか」と書かれてあるのをみた。
 一月一三日には政府社会主義者の新聞にはこんな詩がのった。
    一列に並んだ幾百の死者!――
    プロレタリアよ!……
    カール、ローザ、ラデックとその一味は――
    そこには一人もいない、そこには一人もいない!
    プロレタリアよ!
 一月一五日にローザとカールはけしかけられた雑兵どもに虐殺された。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、NL二/六七
          『ノイエス・ドイツチュラント』一九四九年一月一五日号
  フリーダ・デューヴェル

     一八八四年ハンブルクに生まれる。女教師。一九〇五年以後社会民主党員。 ハンブ
ルクの労働者兵士評議会のメンバー。一九六二年死去

 私がはじめてローザ・ルクセンブルクに会ったのは、一九〇七年フランクフルト・アム・マイ
ンへ行く途中、ベルリンに滞在していたときのことでした。私の記憶では、ローザ同志はようや
く監獄から帰ってきたばかりのところでした。彼女はイェナ党大会での演説で「暴力行為を扇動
した」というので二ヵ月監獄に入れられていたのです。彼女は身体をわるくして、静養していま
した。ローザはベルリン=フリーデナウのクラナハ通り五八番地にかなり住みごこちのわるい住
まいをもっていました。そのころクララ・ツェトキン同志の息子、学生のコスチャが彼女のとこ
ろでくらしていました。ローザはクララ同志の経済的負担を軽くするために、コスチャを引きと
っていたのでした。彼女は警察に監視されていて、郵便物、とくにポーランドやロシアとやりと
りした外国郵便は検閲されていました。
 ローザ・ルクセンブルクは私たちにさまざまの抜け道を書いて送ってくれましたが、こうして
彼女は自分の手紙を滞りなく、ちゃんと外国に送っていたのです。
 からだがよくなると、彼女はスポーツをやりました。こうして彼女はきかんにスケートをやり、
カウツキーの息子たちや、もちろん養い子コスチャ・ツェトキンともいっしょでした。そのころ
もう私はローザの自然を愛する気持に注意していました。冬になると彼女はきちょうめんに小鳥
たちの世話をしていました。
 一九〇七年八月、シュトゥットガルトの国際社会主義者大会で私はローザにふたたび出会いま
したが、ただ遠くから彼女を見ただけでした。彼女はひどく忙しかったのです。
 私はまた党の講習会――第一次世界戦争勃発の数年前、イェナでのことだったと思います――
に出席したときのことを思いだします。ローザ・ルクセンブルクとへルマン・ドゥンカー同志が
私たちの先生でした。ローザは生まれながらの教育者であり、教材をはっきり具体的にだしてく
れましたから、なにが問題になっているのか、すぐにわかりました。しかしこの講義のときにも
まして、ローザがすぐれた教育者であることを知ったのは別の機会のときでした。
 私はそのころ――第一次世界戦争の一、二年事えのことだったと思います――ローザが公開集
会でおこなった演説を速記し、それを『フォールヴェルツ』紙にのせる報告にしあげる仕事を党
から受けていました。それで私はこうした講演をみんなすぐ近くで聞いていたのですが、私はこ
んな仕事など引きうけないで、他の聴衆のように全身全霊を打ちこんで、すっかり彼女のことば
に耳を傾けることができたら、と、幾度か熱望したのでした。報告講演のあいだ、ローザは静か
に立ちつづけてはいませんでした。彼女は小またで演壇をいったりきたりし、生きいきした身ぶ
りをまじえて、彼女のことばを、それにふさわしい身体の動きで強調しました。彼女のくりひろ
げる話を追っていくのはむずかしいことではありませんでした。彼女の話は論理的かつ簡明で、
本質的な点が強調されたので、労働者にはよくわかりました。彼女は演説者としてとても人気が
ありました。彼女の話をきこうとして遠方からもやってきたものでした。
 彼女はそのころ、第一次世界戦争の前夜、ベルリンやその近くで幾度も報告演説をしました。
そして私はいつも自分にまかされた仕事のために、同道しなければなりませんでした。集会のあ
とではいつもきっとローザと二、三の役員たちは、私もそのなかにいましたが、喫茶店にいって、
現在の政治問題について、またしばしば、いましがたおわった集会から引き出される結論につい
ても、話し合いました。ローザの演説や、集会での討論や、喫茶店での相談の印象がまだ新鮮な
うちに、私は仕事にかかり、速記文を普通の文章に直しました。私はこの仕事に懸命に働き、書
いては消したり、ちぢめたりして、簡潔にまとめあげました。それから――ひとねむりしたあと
――朝早くローザ同志のところへ行って、私のつくった原稿をさしだしました。
 そしてこんどは、私にとってとてもためになる授業がはじまるのでした。ローザは報告を読ん
で、訂正をはじめました。しかし黙ってそうするのでなく、なぜ彼女がこのように変えようとす
るのか、それを私に説明してくれるのでした。それは鉛筆をつかう仕事であるばかりでなく、私
相手の仕事で、――この仕事から私は政治的にひじょうに多くのことを学ぶことができました。
 ローザ同志はきわめて優れた方法をこなしていて、私の報告の不十分なところや正しくないと
ころを私に指摘し、鋭くとがめたり、叱りつけたりしたことはありませんでした。彼女の論評が
人を傷つけることはいちどもありませんでした。彼女は訂正した個所を一つ一つ、どんな小さい
訂正でも、説明してくれるのでした。彼女の訂正は、しばしば一つのことばにすぎないこともあ
れば、またしばしば文章の位置をかえることもあり、それによって意味がすっかり変わってしま
うのでした。削ったり、まとめたり、ちぢめたりして、報告の構成はいっそう引きしまり、いっ
そう明快なものになりました。ルクセンブルク同志は、彼女の変更を私が理解しないうちは、け
っして満足しませんでした。こうした指摘をしてもらったので、私はついにはどうにか使いもの
になる集会報告をつくりあげる能力を身につけるようになりました。朝食の卓でのこうした話し
合いは、ルクセンブルク同志が私に授けてくれた一対一のゼミナールのようなものでした。
 朝食のあとで私は、はや報告を待ちかまえているリンデン通りの『フォールヴェルツ』編集部
に早く届けるために道を急ぎました。ローザ同志はいつも必ず郊外の小さな駅まで私を送ってく
れました。――彼女のいわゆる朝の散歩をするためでした。この散歩のときにも私は多くのこと
を学ぶことができました。しかしそれは政治にかんするよりも、むしろ自然科学にかんすること
でした。この分野でのローザ同志の知識はおどろくほど広いものでした。どんな木でも、どんな
草花でも知っていました。その名前ばかりでなく、その発生史、構造、特性までも知っていまし
た。動物にかんしてもまったく同様でした。私たちのまわりを飛びかったり、はいまわったりし
ているもの――ローザは私にいろんな生きものを示してくれましたが、彼女がおしえてくれなか
ったら、私はそれにぜんぜん気がつかなかったことでしょう――は、彼女の注意、彼女の特別な
愛着、いややさしい情愛から逃れることはできませんでした。ここに現われた姿は、世に知られ
ているローザとはまったくちがったローザでした。これらの散歩は、つい近ごろのことのように、
私の思い出のなかにまだ鮮かに残っています。
 さらに私の思い出のなかには、ルクセンブルク同志とのある出会いが浮かびあがってきます。
戦争がはじまったばかりのころでした。数人の同志が相談のために彼女の住まいに集まっていま
した。それはみんな往ったり来たりした、不穏な時期の不穏な時でした。この集まりをするため
に確かな取りきめをするようなことはなかったのです。政府は「用心のために」ルクセンブルク
同志の電話を止めていたのです。
 会合は一九一四年八月四日のすぐあとのことだったにちがいありません。国会で戦争公債にわ
れわれの議員団が賛成したことに私が怒り狂っていたことだけは、いまだにおぼえています。私
は八月四日のこの忘れられない密議に同会の傍聴席で立ちあっていました。そして――今日でも
ありありと目に浮かんでさますが――戦争公債が満場一致で承認されると、フルベルト・ジュー
デクム(社会民主党)が感激のあまりとびあがり、気狂いのように拍手していたのを目のあたり
に見たのでした。われわれ左派の反軍国主義政策を大衆に紹介するために、私は無謀きわまる計
画をいだいていました。そこで私はそのようにして一般市民のなかで活動するだけでなく、兵士
たちのなかにも帝国主義戦争を内戦に転化させる思想を呼びさますために、まず第一に兵士たち
のあいだで活動すべきだという私の意図についてローザ同志と話し合いました。私は速記者とし
て、通信員あるいはフランス語か英語の翻訳者として、すすんで前線に志願するか、あるいは少
なくとも兵站基地に志願しようという私の目論見をローザ同志のまえにもちだしました。しかし
ローザ同志は、そういう軍の事務室の職員では、多くの兵士たちと接触することができるかどう
か、きわめて疑問だという意見でした。そのかわりに、赤十字の看護婦の教育をうければ、野戦
病院で働けるだろうと私に助言してくれました――これは私の実行した計画でもありました。
 私にたいすると同じように、ローザは他の同志たちにもその部署を割りあて、彼らが兵士たち
のあいだで帝国主義戦争を内戦に転化させる宣伝をどのようにおこなうべきかを指示しました。
気が立って神経のたかぶっていた私たちのような人間のなかにあって、彼女は動じることのない
磁極でした。自分は戦争の時代を牢獄の壁の向こうですごさなければならないだろうという運命
を、彼女はすでにこのころ見とおしていたのでした。
 一九一四年八月はじめのこの会合のあと、私たちの道は分かれ分かれになりました。ローザ・
ルクセンブルクは一九一五年二月に逮捕されました。彼女は軍国主義に反対した演説をしたため
に一年の禁固刑をうけました。しかしこの一年がすぎたあとも彼女はつかのまの自由をえただけ
でした。政府は一九一六年七月再度の逮捕の後に、帝国主義戦争に反対するローザの活動を阻止
するために、「保護拘留」というちゃちな手段に訴えました。一九一八年の十一月闘争になって
ようやく彼女は解放されました。しかし彼女の大衆との結びつき、監獄から労働者におよぼした
影響力を、権力者たちはたち切ることはできませんでした。ゾフィー・リープクネヒトあての彼
女の手紙、帝国主義戦争に反対する彼女のパンフレット『社会民主主義の危機』(ユニウス・ブ
ロシューレ)は、それを証言しています。
 革命的事変によって拘留から解放され、一九一八年一一月一〇日ベルリンに帰ってきたローザ
を、私は個人的に歓迎することはできませんでした。私も――ようやく牢獄から解放されたばか
りのときで――まだハンブルクにいたからです。キールの革命的水兵たちが私たちの監獄の門を
実力で開けてくれました。
 私が最後にローザと、またカール・リープクネヒトにも会ったのは、ベルリンでのわれわれの
共産党創立大会のときでした。この大会に私はハンブルクから来賓として出席しました。私たち
はそのときほんのわずかなことばしか交わしませんでした。私は革命の成り行きについてもう一
一月のときほど感激してはいませんでした。一九一八年一一月と一二月の政治的諸事件で、風向
きのかわってきたのが、よくわかっていました。もっとも私たち自身の政治的誤まりについては、
後になってはじめて私にわかってきました。党大会でローザはその革命的なことばによって労働
者たちに強い影響をあたえました。彼女は全身これ炎であり、ファンファーレであり、最後まで
たたかいぬく決意そのものでした。
 最期がきたとき――一九一九年一月一五日――私はふたたびハンブルク『ローテ・ファーネ』
の書記としてハンブルクで私の仕事についていました。この最期は私たちにひどくこたえた衝撃
であり、しばらくは私たちのあらゆる力を奪いとりましたが、しかしやがてわれわれを革命的活
動に進むよう、呼びかけるものでした。
 数日後、私たちはベルリン=フリードリヒスフェルトにカール・リープクネヒトを埋葬しまし
た。ハンブルクの同志のなかから、他の人たちとともに私もこの埋葬に代表として派遣されまし
た。しかしローザの遺体はまだ見つかっていませんでした。惨殺された彼女の遺体がラントヴェ
ーア運珂に流れついたあと、一九一九年六月になってようやく、私たちは彼女を埋葬することが
できたのです。そのデモにも私は参加しました。私の目のまえをローザの生活がよぎっていきま
した。この大胆な革命家、この恐れを知らぬ闘士、しいたげられいやしめられたあらゆる人びと
と共感したローザの生活が。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA〇一七三
          『赤旗のもとに』ディーツ出版社、ベルリン、一九五八年
  フーゴ・エーバーライン

     一八八七年ザールフェルトに生まれる。製図工。一九〇六年以後社会民主党員。スパ
ルタクス同盟中央本部のメンバー。ドイツ共産党創立者の一人。一九四四年死去

 私がベルリンでローザ・ルクセンブルクとはじめて知りあいになったとき、私はまだごく若い
同志だった。私たちは市の同じ選挙区に住み、同じ地区グループに組織されていて、お歴々の党
幹部にたいして烈しく闘争していた。幹部の構成分子というのは、消費組合や健康保険金庫の裕
福な職員や、仲間にしておくほかない店主などだった。
 新しい地区での私の最初に出席した全員集会のことを、私は忘れないだろう。演説者の席では
健康保険金庫の栄養分のたりた役人が、党から委員会に出された提案の理由を述べるのに四苦八
苦して額に汗だくだくのていだった。いわく「彼女はビラまきに出て来ない。彼女は新聞の扇動
活動にも参加しない――大体、彼女は党から出ていってもらわなければならない!」私は隣りの
人に、いったいだれのことを言っているのかとたずねた。「ローザ・ルクセンブルクのことだ」
と彼は言った。何時間にもわたる討論の後、この提案は絶対多数で否決された。ローザ・ルクセ
ンブルクは社会民主党から除名されなかった。彼女はひきつづき党員としてとどまることをゆる
された――彼女がりっはな健康保険金庫の役人とその二、三の友人たちのしゃくの種だったにも
かかわらず。
 裕福な小市民らはわれわれの組織の指導部にいて、ローザが一刻もじっとしていないで、批判
し前進するのを横目でにらんでいた。彼女の批判の成果は間もなくあらわれた。石頭の幹部会は
次の総会で罷免され、若い同志たちが指導を引きついだ。そういうわけで私は四週間後にはマリ
エンドルフ選挙区の議長になり、ローザ・ルクセンブルクは、雑務のときにもわれわれの最も有
能な協力者になった。彼女は婦人集会、青年集会、会員集会の報告演説を引きうけ、他のすぐれ
た報告演説者の配慮もしてくれたので、短期間のうちに組織は大きく飛躍した。いまではヨハナ
・ゲーデ同志の指導のもとにひんぱんに催される婦人読書の夕べにも、彼女はほとんど毎回出席
し、聴衆の数は回を追うごとにふくれていった。あれほど彼女を党から追い出したがっていた老
人たちも、一人また一人とやってきて、彼女の話に耳をかたむけるようになった。
 こうしていっしょに仕事をするときには、ローザ・ルクセンブルクは私の先生にもなってくれ
た。私は彼女がベルリンで催した数多くの講習会に参加し、彼女と緊密に連絡し、ほとんど毎日
いっしょに仕事をして、私は最も多く利益を得たのだった。彼女はきびしい先生だった。彼女は
その時どきの時事問題を社会主義の科学的な問題としっかり結びつけることを最もよく心得てい
た。あれこれの時事問題にたいして、その関連を理解し、正しい決定をするには、どの文献、ど
の本やパンフレットを読まなければならないか、を彼女は毎日自分の生徒たちに注意した。そう
いうときの彼女の授業はいつも面白かったから、社会主義学説に入門するのは退屈な学習だと感
じるものは一人もいなかった。彼女は学習者の一人一人を念入りにためし、当人が論議されてい
る問題をすっかり理解してしまうまでは、けっしてやめなかった。勉強するように生徒たちに課
せられていた文献が実際読まれたかどうか、生徒たちが問題を理解したかどうか、彼女はいつも
あらためて念入りにたずねた。さらに私たちは討論された問題について、自分で短い論文や記事
を書かなければならなかった。これをまたしても彼女は文章を一つずつ再検討し、どんな小さな
まちがいにも生徒たちに注意させることを忘れなかった。彼女はこれらの作業をつねに組織や宣
伝と結びつけるようにした。彼女の教授活動は組織からはなれたところでなく、組織の内でおこ
なわれたのである。彼女はわれわれを生徒として取り扱うばかりでなく、われわれを党のための
アジテーターに育てあげようとしていた。彼女の教授法も、この点に向けられていたのである。
 ある晩、私が仕事から帰ってくると、彼女は私を呼んで、彼女は今晩の会員集会で報告演説を
ひきうけていたけれども他のところでしなければならないことができたので、演説することがで
きない、と言うのだった。彼女は私が彼女の代理としてこの集会で報告するように求めた。もち
ろん私はおどろいてしまった。若造の私がローザ・ルクセンブルクの代理をつとめるというのか。
それは私にはとてもできないことにおもわれた。しかし、どんなに辞退してみてもだめだった―
―私は彼女の代わりにこの報告を引きうけなければならなかった。急いで家にとんで帰って、で
きるだけよく準備しておくために二、三時間腰をすえて勉強した。胸をどきどきさせながら私

集会に出かけていった。そして私が報告をはじめたとたんに、ローザ・ルクセンブルクが聴衆の
一人として集会場に姿を見せた。後で私に言ったところによると、私をテストするためだったの
だ。そのあと集会がおわって、彼女を家まで送っていく途中、彼女は私の話の進め方を批評して、
何が正しくて、何がまちがっていたかをおしえてくれた。彼女はこういう方法をしばしばくりか
えしたのである。
 それから戦争が来た! ローザ・ルクセンブルクはこの時期にノイケルン教育委員会の教師で
あった。生徒たちは、戦争にたいする彼女の態度を講演ではっきり表明してもらいたいと、彼女
にしつようにせまった。ローザは承諾した。けれども教育委員殿は「いけない! とんでもない
! 教育施設の濫用だ!」といって禁止した。講演は妨害された。
 ノイケルンでやったように、ボスたちはいたるところでローザ・ルクセンブルクを組織から遠
ざけ、集会をじゃまし、彼女が演説できないようにつとめた。
 われわれ青年にとっては、ローザ・ルクセンブルクは戦時中もわれわれの最良の教師であった。
ローザがバルニム通りの婦人監獄に拘禁されたとき、私はすでにモアビートに拘置されていた。
この時期に彼女は私に「通信授業」をしてくれた。監獄の役人たちはぶつぶつ不平をならした。
監獄から監獄へとひんぱんに往復する通信には彼らは慣れていなかった。予審判事はローザが私
にすすめた文献を通させまいとした。そこで彼女は猛烈な手紙を彼に書きおくった。それからと
いうものは彼は二度と彼女の本を私に差し止める勇気をもたなかった。こうしてローザはその拘
留期間中みずから党のために若い宣伝家やアジテーターをきたえあげたのである。
 一九一四年八月三日の夕べ、私はローザ・ルクセンブルクといっしょにリンデン通りにある『
フォールヴェルツ』紙の建物からジュートエンデにむかって歩いていった。われわれの気分はと
ても重苦しいものだった。われわれはテルトウ=シャルロッテンブルク=ツェーネベルク=ノイ
ケルンの社会民主党選挙団体の拡大幹部会からの帰りだった。会議の議事日程には「戦争にたい
する党の態度にかんする党員同志への指令」と書かれていた。
 会議はみるもあわれな印象を残した。われわれが議長からきいたのは空虚なきまり文句だけだ
った。ローザはわれわれの選挙区の国会議員老ツーバイルにたいして、明日の議会にたいする議
員団の決議と確認事項を報告するよう迫った。議事日程には戦争公債がのぼっていた。ツーバイ
ル議員は途方にくれた顔で、議員団の黙秘の義務を楯にとった。われわれは大衆の動員、大衆集
会、戦争反対の大衆デモと戦争公債の拒否を要求した。むだであった。指導部は組織上の権限な
どというばかげた問題をもちだしてその陰に身をかくした。
 会議は徒労におわった。帰り道ローザははっきりいった。「どうも最悪の事態がおこりそうだ
わ。国会議員団は明日私たちを裏切るでしょう。彼らは投票を棄権するでしょうよ。」
 社会民主党議員団が戦争公債を承認するなどということは、われわれだれ一人として信じよう
とするものはいなかったのだ。
 その次の日の八月四日に、恐ろしい破局が起こった。社会民主党が戦争公債を承認したのであ
る。彼らは旗をなびかせて大っぴらに国粋主義者の側に移行していった。これほど破廉恥に、プ
ロレタリアートの党がその指導部に裏切られたことは、前代未聞のことだった。戦争にたいして
抵抗もせず、戦争に反対して大衆を動員もせず、一度の呼びかけもせず、幾百万のドイツ労働者
に戦争という恐ろしい犯罪にたいして闘えと呼びかける、解放のことばは一言もなかったのだ!
 国会で決定が下されたすぐあと、私は工場からまっすぐローザのところへ急いだ。彼女は憤激
のあまり度を失っていた。
 こんな決定はわれわれのうちだれひとりとして予想していなかったし、だれひとりとしてあり
うることだとは思っていなかった。たしかに社会民主党のなかには意見の相違はあったし、それ
は月を追うて激しくなった。それがそとに現われたのが、党大会での大衆ストライキについての
討論であり、理論誌『ノイエ・ツァイト』における、また同誌をめぐっての紛糾であって、この
雑誌でフランツ・メーリング、ローザ・ルクセンブルクや左派が、カール・カウツキーや党幹部
にたいして激しい闘争を進めていたのである。しかし国会議員団全体が八月四日に恥知らずにも
プロレタリアートと社会主義を裏切るなどということはありえないことと思われていたのである。
 われわれは社会民主党からの即時脱党こそ、裏切りにたいする有効な抗議だと考えたが、しか
しすぐにこの考えを却けた。というのは、われわれは当時の状況のなかでは党全体の崩壊するの
を恐れたからだ。そこで私は夕方のうちにもわれわれの知っている最良の同志たちを相談のため
にローザ・ルクセンブルクの住まいに呼び集めた。老フランツ・メーリングがやってきて荒れに
荒れ、フランツ・メーリングにしかできない仕方で罵倒した。われわれの古くからの友人、ユリ
アン・マルヒレフスキ、ヘルマン・ドゥンカー、ヴィルヘルム・ピーク、それにエルンスト・マ
イアーがやってきた。そしてわれわれの意見の一致したことは、われわれと同じくドイツ・プロ
レタリアートにたいする裏切りには加担しないだろうとわれわれが確信していた知りあいの同志
すべてにただちに相談のために招集をかけることだった。私はその次の日三〇〇通以上の電報を
郵便局にもっていった。結果は破滅的だった。クララ・ツェトキンだけがひとり、ただちに、そ
して無条件に賛意を送ってきただけだった。ともかく返事だけはよこした他のわずかな人たちは
愚かしいくだらぬ逃げ口上をつかった。みんな戦争のために目がくらんでいたのだ。
 われわれは党内にとどまって、組織のなかで反戦闘争をすすめ、組織することに決めた。
 これにつづく数日のうちに早くもさらに数名の信頼できる戦友がわれわれにくわわった。カー
ル・リープクネヒト、レオ・ヨギヘス、ニーダーバルニムのオットー・ゲーベル、ゴータのオッ
トー・ガイトナー、ケーテ・ドゥンカー、マルタ・アーレントゼーその他の人たちである。
 われわれは声明を発行することを申しあわせた。それにはカール・リープクネヒト、ローザ・
ルクセンブルク、フランツ・メーリング、クララ・ツェトキンが署名し、一九一四年一〇月三〇
日付『ベルナー・タークヴァハト』紙に発表された。
 そしていまや組織のなかで活動がはじまった。シャルロッテンブルクの党役員たちとマリエン
ドルフ地区グループは、公然とわれわれに加担することを表明した最初の人たちであった。
 こうして一九一四年八月四日は、社会民主党指導部のもっとも恥しらずの裏切りの日であった
だけでなく、同時にドイツ労働運動における真に国際主義的な勢力の結集の日ともなり、この勢
力は終始一貫して帝国主義戦争にたいする闘争をすすめていったのである。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、NL三六/四八七
  ヴィルヘルム・アイルダーマン

     一八九七年ブレーメンに生まれる。 ジャーナリスト。一九一五年以後社会民主党員。
リューベックで十一月革命に参加。ドイツ社会主義統一党付属マルクス=レーニン主義研究所研
究員

 ヴァルター・グレーフェと私はブレーメン代表として青年同盟反対派の全国会議に参加するた
め復活祭にイェナにおもむいた。一九一六年の復活祭は四月二三日と二四日だった。旅行中汽車
のなかで早くもわれわれはライン・ルール地域からきた青年同志のグループと接触した。黒髪の、
きわめて活発なドゥイスブルクの娘のことがとくに私の記憶に残った。それはロージー・ヴォル
フシュタインだった。
 われわれが自然愛好者というふれこみでイェナの菜食主義者の食堂においおい集まってきたと
き、私ははじめてカール・リープクネヒト、エードヴィン・ヘルンレ、ゲオルク・シューマン・
オットー・リューレと個人的に知りあいになった。われわれはみなイェナで非合法裡に会ったの
だった。右にあげた同志たちはとくに用心して行動しなければならなかった。だから彼らはレス
トランの庭で撮った会議の参加者たちの写真にも加わらなかった。全国各地域からの代表者は全
体でほぼ四〇から五〇名はいただろう。議長はフランクフルト(マイン)からきたザイベル同志
がつとめた。カール・リープクネヒトは基調報告をおこない、また指導原則の提案理由を説明し
た。この原則は活発な討論ののち満場一致で採択された。
 われわれは街なかで人目につくようなことは避けたかった。だから広く間隔をとりながら一人
で、あるいは二人づれで街を通っていった。私は一度カール・リープクネヒトのお伴をしたこと
があった。そのとき彼は警察相手のゲリラ戦について私に話してくれた。警察は彼をいつもスパ
イしようと企てるが、彼はいつも策略をもちいて出し抜いた。リープクネヒトは彼の合法的闘争
を非合法的闘争と結びつけるすべをじつによく心得ていた。革命的青年の非合法的全国会議に彼
が出席したことだけでもすでに大傑作だった。
 このすてきな復活祭の日、イェナのほとんど人気《ひとけ》のない道を散歩したとき、カール
・リープクネヒトは国会のブルジョア勢力と右派社会民主党勢力の好戦的ならず者どもにたいし
て闘った彼の闘争について話してくれた。彼は国会でカイザー帝国の帝国主義戦争――それはド
イツ人民にたいする犯罪でもあった――について真実を述べることは、計画的に妨害された。戦
争で利益を得ている資本家やユンカーの代表者は自由にすぎなだけ演説することができた。しか
しリープクネヒトが発言を求めたときはいつも即座に「討論打切り」の動議が出され、それがま
た受理された。約二週間まえには、彼は戦争挑発者たちから国会で暴力ずくの攻撃まで受けた。
彼の覚え書きを弁士台からひったくり、床にばらまいたのだ。彼がそれを拾いあげようとすると、
議長はい
った。リープクネヒトは演壇をはなれたから、演説をつづけることは許されない、と。
 しかしカール・リープクネヒトはどんなことがあっても闘争で仕損じることはなかった。ある
とき彼が覚え書きノートをめくっていたとき、私はそれをちらっと見たことがあった。彼は覚え
書きをするには、どうしても自分にしか読めない一種の暗号をつかうほかないのだといって、私
の注意をひいた。彼は警察のスパイが彼の活動をかぎつけようとしていることをいつも頭にいれ
ておかなけれぽならなかったのである。
 この会議でカール・リープクネヒトといっしょだったことは、私にとってはいつまでも忘れら
れないことだった。彼は工作兵だったので、賜暇は国会の審議に参加するためにしか得られなか
ったけれども、イェナには普通の服をきていた。彼は会議でじつにしばしば発言した。意気さか
んで、示唆の力に富んでいた。ときおり私は、彼が聴衆の頭のなかに論拠をたたきこむのではな
いかと感じた。なぜなら、彼はきまった定義や言いまわしや表現をいくどもくりかえしたからだ。
 革命的労働青年のこの会議はまた、来たる五月一日を平和のための示威行動に利用することを
きめた。この記憶すべき五月一日、カール・リープクネヒトはポツダム広場の大衆デモンストレ
ーションのまっただなかで、「戦争をやめろ! 政府をたおせ!」と呼びかけた。この呼びかけ
は世界のすみずみまでひびいた。この勇気ある人が一九一四年にたったひとりで国会で戦争公債
承認に「反対!」を表明したとき、これを呼びかけた人の名ははやくも、すべての反戦主義者、
人間らしくものを考えるすべての人の闘争プログラムとなったのだ。野蛮人どもはわめきたてた。
これこそ、軍国主義者の一味がいまやなぜ彼をとりおさえ、彼を消してしまおうと誓いあったか
という理由だった。
 一九一六年六月末、カール・リープクネヒトがベルリンの軍事法廷で判決をうける期限が近づ
いた。彼は帝国主義的大詐欺師どもの略奪戦争に反対する声をあげていた。彼らを自国内の主敵
としてさらしものにしたのである。
 戦争に反対する革命的労働者、カール・リープクネヒトを敬愛する人々は、ドイツ全国で動き
だし、抗議行動を準備した。戦争利得者どもがおとぎ話的な財宝を着服する一方、生活物資の欠
乏は甚だしくなり、労働大衆は餓死して、大衆の激昂は一段とたかまっていった。
 こうしてあのころには、軍需工場の男も女も、主婦も若者も街頭へ出ていったのだ。リープク
ネヒトの名は人々をふるいたたせる力をもっていたから、多くの土地で戦時中はじめて、しかも
戒厳令下で、戦争反対の街頭デモンストレーションが起こるにいたった。ベルリン、ブラウンシ
ュヴァイク、ハノーファー、イェナ、マグデブルク、ミュンヘン、そしてオスナブリュクではと
くにさかんで、私の故郷の都市ブレーメンでもそうだった。
 私が若者らしく感激して、そうしたデモンストレーションに参加して受けた印象は、あとあと
まで私に影響をあたえた。この影響は、私がニヵ月まえの四月にイェナの反対派青年の非合法会
議で、カール・リープクネヒトと出会ったことによって、さらに強められた。ブレーメン社会民
主党左派は、なにかしなければならない、リープクネヒトにたいする判決に抗議するため街頭に
出て労働者住民に呼びかけなけれはならない、という点ではたがいにはっきりしていた。これは
戒厳令という条件のもとでは、なまやさしいことではなかった。まずリーフレットやビラを非合
法的につくらなければならなかった。六月二五日の日曜日に、私は若い女同志を一人つれて製パ
ン業者の連合会事務所へ行った。
 連合会の職員はわれわれのために鍵の世話をしてくれた。そこでビラをタイプライターでうっ
て、リープクネヒトにたいする審理が目前に追っていることをしらせ、六月二六日夕方の大衆示
威行動に参加せよとよびかけた。ろう原紙に打って謄写板で増刷りしたビラは、その夜のうちに
ばらまかれ、一部は家の壁に貼りつけられた。
 この小さなビラは軍事独裁の息づまるような空気のなかでびっくりするような大きな効果を発
揮した。すでに数日まえから夕方になると、毎日ノルト通りの学校の前の大きな広場に、労働者、
とくに婦人や青年たちのいろんなグループがより集まってきた。彼らは激昂して生活物資の欠乏
について論じあい、一般に戦争にたいして、そしてこれとともにカール・リープクネヒトの声を
抑えつけることに抗議した。労働者たちはカールと固く結ばれていることを感じていた。なぜな
ら、カールはみんなの考えていることを、言ってくれたからである。
 六月二六日の夕暮、幾千の人が立ちあがった。彼らは数百人のデモ隊となって、つぎからつぎ
へと西の場末の労働者街から都心にむけてくりだそうとしていた。デモの隊列には私も加わり、
婦人や若者らもおびただしく参加し、きわめて元気に行進した。われわれはシュプレヒコールで
いくたびもくりかえして叫んだ。「カール・リープクネヒト万才! 万才!」「戦争をやめろ!
 政府をたおせ!」そして警察はデモ隊が都心のマルクト広場や大金特の住む地区に達するのを
じゃましようとして、くりかえしわりこんできた。数人の労働者が逮捕された。
 次の日の夕方、私はまたノルト通りの運動場に行った。そこにはあらたに労働者、婦人、青年
のグループがたくさん集まってきて、軍事独裁や飢餓政策について語りあい、新しい行動の準備
をしていた。やがて警官があらわれて叫んだ。「さあ、いった、いった! たかるな!」広場を
立ちのこうとしなかった若者が一人、公務執行妨害でひっ捕えられた。
 デモンストレーションは日を追って高まっていった。六月二八日の夕方、運動場に集まった人
数はまえよりも一段と多くなっていた。カール・リープクネヒトにたいする判決の言い渡しの日
だった。住民の激昂はいっそう大きくふくれあがっていた。警察は大動員して押しよせてきた。
そしてこの夕方、もし警官がひどく残忍な処置をとってそれを阻止しなかったなら、たしかに都
心への行進がおこなわれたことだろう。九人が逮捕され、なかに四人の婦人が含まれていた。こ
の夕方われわれは全力をあげて非合法的にビラの作製にかかった。これはブレーメンのあらゆる
市区でリープクネヒトの有罪判決に反対する大衆示威行動に参加するよう呼びかけたものだった。
わかい女同志ハンナ・ヴァルデクといっしょに、私はビラづくりや、それを労働者街に夜ばらま
く仕事に加わった。
 その効果は、懸命な準備にかなったものだった。夕方近くになると、男女の労働者が市の中心
にむかって潮のように押しよせた。四方八方からマルクト広場にむかって走る市電は満員だった。
警察はその市電から乗客を降ろしたが、だめだった。警察は、夜の一〇時ごろ市の大通りをおび
ただしい群衆が動くのを、どうしようもなかった。大衆はたえずカール・リープクネヒトとゼネ
ストに歓声をとどろかせた。戦争に夢中になっている者や無関心な者の耳をつんざくようにカー
ル・リープクネヒトのスローガンがひびいた。「政府をたおせ! 戦争をやめろ!」警察が群集
を散らそうとすると、「大畜生!」という叫びが返ってきた。警察は多くのひとの逮捕にかかり、
捕えられたもののうちあるものは、公務執行妨害と暴動のかどで起訴された。
 七月三日と四日、「ヴェーザー」株式会社の従業員の一部がストライキに入った。彼らはスト
ライキに入るすぐまえに賃金要求を出し、労働者のために飢餓手当をよこせと迫った。しかしこ
のストライキがカール・リープクネヒトのための政治的連帯ストライキだったことは、だれの目
にもあきらかだった。総勢ほぼ七〇〇〇名の労働者のうち四分の三以上がストライキに参加した。
ヴェーザー造船所の首脳部は賃上げと時間外労働の制限とを労働者に確約をしてから、労働者は
七月五日に労働に復帰した。
 逮捕されたもののなかには、ストライキ中ヴェーザー造船所で「戦争をやめろ!」という題の
ビラを、まいていたヴィルヘルム・ブーフホルツ同志もいた。そのすぐあとハンス・ブロートメ
ルケル同志も逮捕された。私はそのすぐまえに彼といっしょに左翼急進派の会議に出席するため
に、ブラウンシュヴァイクへ行った。この会議にはブラウンシュヴァイク左派の指導者アウグス
ト・メルゲスも参加していた。
 このストライキにかんする一九一六年六月五日付のブレーメン警察本部の報告にはこう書かれ
ている。「警察本部は、労働組合の指導者だけでなく、目下のところでは、まだブレーメンの労
働者の大多数も、そうしたストライキをも、またビラがそそのかしている政治的扇動をも拒否し
ているという印象をうけている。しかし、社会民主党の労働団体あるいは国会議員力ール・リー
プクネヒトの一派に所属する扇動者の小グループの活動にたいして断固たる処置を講じなければ
彼らは戦争によって生じた困難な状態、とくに生活物資の欠乏を利用して、系統的持続的なアジ
テーションを展開し、ブレーメンの労働者や、とくに兵士の妻や若い労働者のあいだにしだいに
勢力範囲をひろげ、彼らの側に引きつけることに成功するだろう。」
 私個人にとっては、リープクネヒト・デモンストレーションには、まだちょっとしたエピロー
グかついていた。四週間後に私は兵役に召集され、新兵としてノイミュンスターにやってきた。
九月はじめ私は新兵の青い軍服を着たまま、尋問をうけるためにブレーメンの裁判所に召喚され
た。問題は非合法のビラまきだった。予審判事はよく知られているビラやちらしを全部私のまえ
にもちだした。その一部は私も自分でいっしょにつくったものだった。役人が私のまえの大きな
机の上にひろげてみせたのは、ほんとに興味あるコレクションだった。私はその数のおびただし
いのにおどろいた。同志たちはなんと熱心に仕事をしたことか! それから私は、このビラのこ
とを知っているかどうか、とたずねられた。知らない、と私は答えた、今日はじめてこれを見た
のです。私は製パン業者連合会の事務所にいたことがあるか(そんなことまでやっこさんたちは
もう知っているのか、と私は思った。それとも、だれかそこにいたかを、ききだそうとしている
だけなのか)。いいえ、いちども、と私はうそをついた。全部誓言できるか、と判事はたずねる。
もちろんですとも、と私は答える。私にたいしてなにひとつ証拠だてることができなかったので、
私は放免された。
 新兵の教育はよく計算されたシステムだった。屠殺用の若い家畜は自分自身で考えることは許
されなかった。あらゆる注意は一貫して軍務に集中された。それ以外の領域はそもそも存在しな
かった。
 しかしある日のこと、政治がまるで爆弾のように営庭のまっただなかに破裂した。そしてこれ
は将軍の化身ともいうべき人に責任があったのだ。カール・リープクネヒトはそのすぐまえ、ポ
ツダム広場のデモンストレーションのあと、刑務所にぶちこまれた。さてそのとき、この軍国主
義者――それはライト将軍だった――がわれわれの営庭にやってきて、新兵たちに「力強い」あ
いさつをした。われわれはこの大きな動物をなかにして半円形に立ち、動物はいわゆるドイツの
偉大と将来について吹聴した。彼が怒りにもえて「祖国を忘れたやから」のことを語る段になる
と、将軍の声は下品な金切声にかわっていった。
 リープクネヒト! この名がふいにひびいてきた。将軍はかんかんに怒ってその名をぶちまけ
た。まるで落雷のように、この名は挙国一致の墓場の静けさのなかで、すさまじい音をたてた。
少なくとも私にはそう思われた。私の心臓は胸のおくでほとんどきこえるくらいに高鳴った。な
んともいえぬ誇りが私をとらえた。そこで討論の題材が目の前にでてきた。夕方には若い新兵た
ちもふいにひまをみつけて、「リープクネヒト」と「戦争をやめろ!」というテーマで話し合っ
た。私は将軍殿に感謝した。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA〇一八八
  オットー・フランケ

     一八七七年ベルリン郊外のリクスドルフに生まれる。機械組立工。一八九二年以後社
会民主党員。ベルリンで十一月革命に参加し、ドイツ共産党創立大会に出席。 一九五三年死去

 カール・リープクネヒトは、一九一四年一二月二日、戦争公債に反対の声示を投じた。それか
らブルジョア諸政党は彼にたいして狩りたてをはじめた。一一〇議席を擁する社会民主党の国会
議員団は、同僚カール・リープクネヒトにたいして中傷誹謗の最大の重砲列のしかれるがままに
しておいた。
 カール・リープクネヒトは工作兵として召集され、そして国会の会期中議員権を行使しなけれ
ばならなかったときしか、自由行動をとることはできなかった。彼はそういう日を利用して、彼
にかんしてばらまかれた虚言をたたきつぶし、真実をあきらかにした。彼はスパルタクスグルー
プのために働いた。彼らは戦争の真実をドイツのあらゆるところで、そして前線でもつたえた。
 一九一五年一月の中ごろのことだった。社会民主党ノイケルン地区選挙団体――社会民主主義
の牙城だった――が、ホッペの祝賀会場の大ホールに定例月次会員集会を召集した。この夕べの
報告演説者として、社会民主党最右翼からは国会議員のエードゥアルト・ダーヴィト博士、中央
派の国会議員フリッツ・クーネルト、それにいくらか左翼よりのテルトウ=シャルロッテンブル
ク=シェーネベルク=ノイケルン地区選出の国会議員フリッツ・ツーバイルが予告されていた。
集会にやってきた人々はことのほか多かった。来会者の統制は入口の検問係によってきちょうめ
んにおこなわれた。
 演壇の右手には並はずれて長い机がもちだされ、そこに国会議員や党や労働組合の有給役員が
席をとった。集会の議長は後にノイケルン市長になったアルフレート・ショルツだった。まずは
じめに国会議員のエードゥアルト・ダーヴィト博士が発言を許された。二時間にわたる演説で、
彼は待機派社会民主党員の立場を弁護した。つぎの演説者フリッツ・クーネルト国会議員は一時
間話した。彼の所論は、二、三のちょっとした側面攻撃を除けば、カイザー社会民主党員には痛
くもかゆくもないものだった。フリッツ・ッーバイル国会議員はさっそくクーネルトよりは一段
とはげしく社会民主党国会議員団をきめつけた。結論として彼は、戦争公債を承認した議員は戦
争終結後選挙民にいして弁明すべきことを要求した。
 はや夜の一二時になっていた。討論には会場から一八名のものが発言を申しでていた。きわめ
て老練な集会の議長アルフレート・ショルツは、戦争公債承認者に賛成する者と反対する者を、
さらにもう一人ずつ発言させることにしようと、気まえのよい提案をした。集会はこの提案に賛
同した。しかし議事日程については、なお小さなやりとりがあった。というのは、集会の議長が
この二人の討論参加をもつぎの集会まで延期しようとしたからだ。これは集会者の若干の反対で
拒否された。議長は彼の提案が拒否されたために、ことさら機嫌をそこねたりはしなかった。彼
は切り抜けられると、たかをくくっていたのだ。
 ショルツは大いばりでそっくりかえり、挑戦的な口調で言った。「国会議員カール・リープク
ネヒト博士は、リヒターフェルデ(これも上記の選挙区に属していた)に住んでいるのだから、
どうしても自分の見解を弁護するためにここに姿を見せてもらうこともできたのだ。というのは、
今夕この集会で最も重要なテーマが論じられることは、たしかに彼も知っているからだ。それば
かりか、カール・リープクネヒト博士が午前中国会に出ていたのは周知のことだ。」党と労働組
合の職員たちのテーブルは大よろこびで集会の議長に賛意を表し、カール・リープクネヒト国会
議員が出席しないことにけちをつけた。党と労働組合のこれらの指導者らのきたない態度にたい
しては憤激がわきおこった。
 私は議事進行について発言を求め、カール・リープクネヒト博士がこの集会に出席していない
かどうか、どうか質問してもらいたいと要求した。顔に笑みをうかべながら、皮肉たっぷりにア
ルフレート・ショルツ議長はいった。「では、たしかに集会のみなさんに質問することにしまし
ょう」。気ちがいじみた嘲笑が党と労働組合の役員たちのテーブルの方でおこった。議長は集合
の鐘を鳴らした。異常に大入りのこの操会には一八〇〇から二〇〇〇名の選挙団体の会員が出席
していたが、死のような静けさがおとずれた。議長「ではおたずねします。オストハーヴェルラ
ント選出の国会議員カール・リープクネヒト博士は出席しておられますか」それからまた一瞬間
静寂がつづいた。そのとき、とつぜん澄んだ声がひびきわたった。「はい、私は出席しています
よ」と。リープクネヒトは集会にやってきた人々にまじって、会場のまんなかにいた。わきかえ
る歓声のなかを、彼は演壇のほうへかかえられていった。党と労働組合の役員たちのテーブルは、
まえにはあれほど元気で、勝利はこっちのものだと確信し、リープクネヒトは尻込みするだろう
と思いこんでいたのに、いまではみんなしょげかえっていた。カール・リープクネヒトは演壇に
立つと、まずもって国会議員団の同僚たちに正式にあいさつした。
 会衆のなかから、動議が提出され、討論の発言者たちは演説時間をあきらめてカール・リープ
クネヒトにゆずるようにという申し出があった。この動議は会衆によって採択された。党と労働
組合の二、三の役員たちは、そのなかには後の首相バウアーもいたが、立ちあがって集会場を出
るようなふりをした。しかし労働者たちは彼らのテーブルのまわりにつめかけていて、「すわっ
て、本当のことをきけ!」と彼らに叫びかけた。そこで彼らはまた腰をおろすほかなかった。た
しかに党と労働組合職員のおえらがたは、あまりいい気持ではなかった。
 さて、カール・リープクネヒトが話しはじめた。彼はオーバーのポケットから一束のイギリス、
フランス、ベルギーの新聞をとりだして、一九一四年七月二八日と二九日にブリュッセルでひら
かれた会議の決議の記事を二、三どうか読みあげてほしいと、国会議員エードゥアルト・ダーヴ
ィト博士に頼んだ。この会議にはベルギー人、ドイツ人、イギリス人、フランス人、イタリア人
およびロシア人が出席したのであった。またこれは一九〇七年のシュトゥットガルト国際社会主
義者大会の決定と一九一二年のパーゼル大会の決議が実践に移されるべきことをきめた会議であ
った。国会議員エードゥアルト・ダーヴィト博士は、イギリス、フランス、ベルギーの新聞から
の翻訳をことわり、「リープクネヒト君、それを自分で訳するのは、あなたの勝手だ」と言った。
そこでカール・リープクネヒトは三時間にわたる演説でカイザー社会主義者たちを論判し、なぜ
彼が戦争公債に反対票を投じたか、詳細に説明した。
 そのうちに、時計は朝の三時半をさしていた。会場はいやがうえにも大入り満員になっていた。
夜勤からもどった党員たちも、同じようにホールにおしかけてきていた。ホールのなかにはもう
テーブルは一つもなく、椅子まで持ちさられ、こうして集会にやってきた人々はリープクネヒト
の演説の大部分を立ってきいていた。彼の演説のおわったあと、三人の報告者のうち結語を求め
るものは一人もなかった。
 もちろん制服私服の警察は集会にきていた。酒場や会場のまわりの道路にはびっしり配置され
ていた。それはリープクネヒトを保護するなどというものではなく、彼を逮捕するためだった。
しかし労働者はカール・リープクネヒトを逮捕からまもるために、まったくものの見事に彼のた
めに会場からの小路をひらくすべを心得ていた。
 一九一八年一〇月二二日に、ベルリン労働組合委員会は、社会民主党国会議員フルヴィーン・
ケルステンの指導で夜の八時半にエンゲルウーファーの労働組合会館に労働組合役員全体の集会
を招集していた。大ホールはほぼ八〇〇名を収容し、その三分の二は労働組合役員、とくに有給
の役員でしめられていた。労働組合指導者の専断的処置と待機政策のために、大部分の無給の役
員はこの集会によりつかなかった。議事日程にはまたもや待機政策にかんする講演が予定されて
いた。報告演説をすることになっていた人は「盟友」トルコ人であった。それが盛装の祭司だっ
たのである。
 この人の演説をきくかわりに、パウル・エッカート同志は議事日程にかんして発言を求めた。
集会の議長のケルステンは懸命にエッカート同志の発言をじゃましようとした。しかし出席して
いた革命的な労働組合オプロイテ〔*〕に助けられて、パウル・エッカートは自分の目的を達し
た。彼ははっきりこう言った。「私は労働組合の役員たちに伝えなければならない。一〇月二三
日午後五時、われわれの同志カール・リープクネヒトがルッカウ刑務所からアンハルト駅に到着
する。」この短い通達のために右派の役員たちはひどく憤激した。革命的オプロイテたちは罵倒
のことばを頂戴し、彼らにたいして拳骨がふりあげられた。われわれは「インタナショナル」を
高唱して、労働組合会館をあとにした。われわれが通りに出るか出ないうちに、早くも警察がや
ってきた。「青服ども」が四号ホールにおそいかかってきたときには、彼らのまえには、わずか
に右派の労働組合役員たちしかいなかった。
 〔*〕 戦争中、労働組合下級役員は労働者大衆の反戦的気分を反映し、組合官僚の意志に反
して独自の非合法的指導部をつくるにいたった。一九一六年六月リープクネヒト有罪判決にたい
するベルリン金属労働者の抗議ストのさい表面化し、以後大衆的影響をもつにいたる。運動の主
なメンバーは独立社会民主党員だったから、政治的には動揺をまぬかれなかった。この運動の推
進者たちをオプロイテという。

 一九一八年一〇月二三日午後四時半から五時にかけて、ベルリンのプロレタリアは軍需工場か
ら動き始めた。それからまるで一枚の壁のように、労働者たちはアンハルトの駅前にたちならん
で、彼らのカール・リープクネヒトを待ちうけた。
 われらの同志カール・リープクネヒトとともに、一九一八年一〇日二三日、一段と力強い革命
的生命がベルリンに浸透してきた。二年あまりの刑務所の苦しみが彼をひどく衰弱させてはいた
が、しかし休養する暇はなかった。彼の精神は健康で、彼の意志は「革命運動とともに進め!」
であった。一〇月二四日の朝早くすでに彼はベルリンの軍需工場の門前で、大衆の気分を観察し
ていた。夕方には、そのころ代表委員たちがひんぱんに召集した工場集会に出かけた。
 革命的オプロイテの「頭《かしら》」が一〇月末に全軍需工場のオプロイテの非合法会議をひ
らいた。会議では、議長のエーミール・バルトと彼の近しい友人たちが見解をあきらかにし、カ
ール・リープクネヒトはどこの工場でも仕事をしていないのだから、彼を集会に参加させること
はどうしてもできないといった。集会のあいだリヒャルト・ノヴァコフスキーと私がホールの管
理をしていた。われわれはリープクネヒト同志と了解をつけていた。それで彼はこの集会に参加
することができたのである。とつぜんドアのところにヴィルヘルム・ピークが姿を現わした。彼
は亡命先から帰ってきた。そこで彼も集会に参加した。
 一〇月三一日の夕方八時半に、ベルリン=リヒテンベルクで革命的オプロイテが決議をするき
わめて重要な会議がひらかれることになっていた。刑事警察はそれをかぎつけ、強力な警察隊を
投入して会議を解散させようとしていた。どうみても変な人物が通りや飲食店で、だれかリープ
クネヒトに会ったり、見かけなかったかと、たずねまわっていた。ある飲食店に三人の婦人が入
ってきて、リープクネヒトのすわっていたテーブルのわきに腰をおろした。彼女らは、自分たち
の建物の管理人がリープクネヒトかスパルタクス同盟の他の指導的な人がその建物でおちあわな
いか、よく注意しているようにと、刑事警察から指令をうけたと、話し合っていた。
 この晩、リープクネヒトは逮捕をまぬがれた。革命的オプロイテの会議はつぶされた。われわ
れは退却しなけれはならなかった。散々回り道をして、カールは私と夜の一二時すぎに郊外の町
アルト=シュトラーラウにたどりついた。そこはルンメルスブルク湖がシュプレー河に接してい
るところで、袋小路になっている。つまり、われわれは「貸家ホテル」ならぬ「貸木ホテル」に
宿泊した。警察のいぬがわれわれのそばを急ぎ足で通りすぎたかと思うと、またもどってきた。
「このルンペンども、この犯人ども、どこにかくれているか、知れたものじゃない。だって、や
つらときては、どこにでも非合法の宿をもってるんだから! おれたちがあの懲役囚をとっつか
まえたら、やつの頭蓋に一発お見まいしないでおくもんか!」といっているのが、はっきりきき
とれた。
 それからあたりはまた静かになった。われわれは「宿」を出ることにした。しかしどこへ行け
ばよいのか。逃げ道は一つしかなかった。シュプレー河を渡ってトレプトウへ行くか、それとも
ルンメルスブルク湖を渡って、リヒテンベルクに隣接するルンメルスブルクへ行くか。しばらく
考えてから、われわれは第一の道をえらんだ。河を渡るには、小舟を徴発するほかなかった。こ
れにたいしてはわがカールがはげしく異議をとなえた。しかし背に腹はかえられぬ。私の提案が
受けいれられた。われわれは小舟に乗りこんだが、オールのないことをたしかめると、どきっと
した。小舟の腰掛け板をオール代わりに使うほかなかった。そうしてわれわれをのせた「スクリ
ュー船」が船出した。シュプレー河のいちばん幅の広いところで、われわれはあちらこちらへ押
し流され、四五分もたってから、やっとトレプトウの遊園地内の喫茶店に上陸した。リープクネ
ヒト同志は小舟のことをひどく気にしていた。私は彼をなだめた。小舟の持主にあやまり状を書
こうという私の提案に、彼は同意した。懐中電燈の明りで数行書きとめた。その上、カールは硬
貨をそえて、手紙を腰掛け板の下にしっかりさしこんだ。
 今度はベルリンにむかって足早に歩いていった。ま夜中の二時半頃われわれはトレプトウ駅の
近くにやってきた。またもやおなじみの人物が現われた。われわれは急いで回れ右して、トレプ
トウ公園を通りぬけていった。公園ぞいの通りに家具運送車が目にはいった。トラックの扉の鍵
は、専門家の私がすぐに見つけた。そこでわれわれはこの夜の第二の宿「ホテル国際家具運送車
」に乗りこんだ。「われわれは一晩中ここに滞在しなければならんだろうか」とカールはたずね
た。私は答えた。「夜はとても寒いし、われわれが歩きまわるのはひじょうに危険だ。ここは暖
かくて気持がよい。トラックの被いは結構なねぐらになるよ。」われわれは休むまえに、ちょっ
と「ディナー」をとった。有名な軍隊用の山羊のソーセージと乾パンだ。朝の七時われわれは「
ホテル」を出て、街路の噴泉で顔を洗った。
 今度は、その前日に約束したように、ヨハンスタールとアードラースホーフの航空機工場に出
かけた。これらの工場では幾千もの男女労働者が働いていた。ベルリン貸タオル屋のスパルタク
ス同盟員が、これらの工場にまくビラを決めておいた場所にもってきた。それぞれの工場のスパ
ルタクス同盟員がビラを取りにきて、自分たちの工場にひそかにもちこんだ。むつかしくて危険
な非合法のこの仕事は見事に成功した。昼頃にはもうほとんどすべての労働者が、男も女もビラ
を手に入れていた。夕方になってわれわれは報告をうけ、資本家が忠実な「番犬と工場犬」、そ
れに軍人や警察をつかって、ビラを作成したものと配布したものたちをけんめいに探しているこ
とを知らた。作成したのはスパルタクスだったが、見つからなかった。まいたのは、これら軍需
工場の労働者たちだった!
 一一月二日午前九時に、革命的オプロイテ執行委員会の会議がひらかれた。そこで、大ベルリ
ンデモ行進計画が協議された。同じ日の夕方、革命的オプロイテはもう一度会合した。執行委員
会は、一一月四日にゼネラルストライキを宣言し、工場からデモ行進することを提案した。おど
ろいたことに、この夕方の会議にはドイツ独立社会民主党の中央指導部から多数の役員が姿を見
せた。工場内の気分が報告され、ついで革命的オプロイテ議長エーミール・バルトはずうずうし
くも決定を一一月六日まで延期することをやってのけた。
 一一月六日、革命的オプロイテはまた会議のために集まった。ここで執行委員会は蜂起決行の
時点を決定する全権を得た。
 一一月八日、私はあらためて幾人かのスパルタクス同盟員といっしょに会議に出かけた。状況
が検討しなおされた。しばらく相談したあとでわれわれは結論をえた、ただちにベルリンの大工
場へ! 全労働者の動員! いまはまさにその時だ! 一一月九日朝八時、工場から行進! い
まやとくに信頼できる数人の同志たちは、わずかしかない時間に、大いに仕事をしなければなら
なかった。
 カール・リープクネヒトとヴィルヘルム・ピークは、一一月八日の夜おそく革命的オプロイテ
と談合しようとこころみた。私は兵士評議会と協議するよう指令をうけた。その席で一一月九日
に決行しようと計画していた行動について知らせることになっていたのである。夜一二時、カー
ル・リープクネヒトは、それぞれの地区や工場での活動をみずから調べてから、へとへとに疲れ
て宿舎に帰ってきた。彼は疲れきっていたけれども、われわれはそれからまだいっしょに一一月
九日にはまず第一に何から片づけなければならないかを打ち合わせた。
 六時に私はパトロールするために街へ出ていった。そのとき私はギッチン通りでキール軍港か
ら来た約二四〇名の水兵の一隊が行進していくのをたしかめた。水兵たちは赤い帽章をつけてい
た。彼らはレールト駅でとくに国王にたいして忠誠なことで世に知られていた近衛狙撃兵たちの
命令で逮捕されて、いま銃剣にかこまれてゲルリツ駅へひっぱられていくところだった。例の札
つきのノスケがキールで彼らを選びだしておいて、同時に国境警備隊の総司令部に水兵たちがレ
ールト駅に到着することを知らせたのだった。
 ゲルリツ駅ではとくに人々の動きが激しかった。労働者たちは就業時間を終わって帰ってきた。
水兵たちの護送を何としても阻止しなければならないことが口から口へ知らされた。それがまた
うまくいった。
 社会民主党のベルリン地区組織は、党幹部の同意を得て『フォールヴェルツ』紙の印刷所で幾
百万部のビラをつくり、あらゆる人々に人通りの多い地域でばらまいてもらった。そのビラには、
挑発にのるな、工場にとどまれ、と労働者に要請してあった。しかし、プロレタリアは動きはじ
めた。あらゆる市区で巨大なデモ隊がつくられた。一時をすぎてまもなく、シェーネベルクでも
本通りに強力なデモ隊が現われ、都心にむかって動きだした。カール・リープクネヒト同志がこ
のデモ隊をとどめた。私は彼に手をかして、婦人や子供を先頭からひきはなし、代わりに武器を
もった兵士たちを列に入れた。兵士たちはわれわれといっしょに行進した。というのは、フリー
デナウ、シュテークリツ、テンペルホーフの労働者がすでに輜重兵舎と鉄道兵舎をのっとってい
たからである。
 カール・リープクネヒト同志を先頭に、われわれのデモ隊はウンター・デン・リンデン通りを
宮城にむかって進んだ。一九一四年八月四日、ヴィルヘルム二世が「朕はもはや党などは知らな
い。朕の知っているのはただドイツ人だけだ!」と宣言した宮城の同じ場所から、カール・リー
プクネヒトは人を奮いたたせることばでデモ隊に語りかけた。宮城に赤旗がかかげられると、彼
は社会主義共和国の成立を宣言した。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA一一一二
          『前進せよ、そして忘れるな』ディーツ出版社、ベルリン、一九五八年
  フリッツ・グロービヒ

     一八九二年ライプツィヒで生まれる。化学製版工。一九〇八年以後社会民主党員。
ベルリンで十一月革命とドイツ共産党創立大会に参加。一九七〇年死去

 一九一六年復活祭のイェナ青年会議は、反対派青年を組織し政治的目標を設定する上に根本的
な意義をもつものだった。この会議はカール・リープクネヒトがしたしくイニシアティヴをとっ
てひらかれ、あらゆる政治的戦術的決定をするにあたっても彼の指導したものだった。
 それまでは中央組織もなく多かれ少なかれ孤立したグループが、ベルリン・ライプツィヒ、シ
ュトゥットガルト、フランクフルト(マイン)、ハーナウ、ニュルンベルク、バイエルンのゼル
プ、ブラウンシュヴァイク、ハノーファー、ブレーメン、ハンブルク、デュセルドルフ、バルメ
ン=エルバーフェルト、エッセン、ケーニヒスベルク、ハレ、ドレスデン、ケムニツ、およびほ
とんどチューリンゲン全域に存在していた。これらの反対派青年グループは、エーベルト=シャ
イデマン=ダーヴィト=シュルツのすべての社会排外主義的挙国一致協定に抗し、またカイザー
の政府とその将軍たちの裁判テロルに抗して、帝国主義戦争反対のための、平和と社会主義的未
来のための闘争をつづけていた。
 イェナ復活祭会議はわれわれ青年に革命的綱領をさずけ、組織的に独立させた。会議はわれわ
れ青年と、社会民主党と労働組合の指導部との間に一線を画したばかりでなく、カウツキー=ハ
ーゼ=レーデブーアの中央派、後のドイツ独立社会民主党の政策との間にも一線を画した。
 イェナ会議の組織的準備は、きわめて厳格な非合法性をまもりつつ、アルフレート・ノルの指
導するイェナの同志たちの手でおこなわれた。会議はツヴェチェン横町の菜食食堂でひらかれ、
印刷された茶色の招請状でもわかるように、自然愛好者の会議というふれこみでカムフラージュ
された。イェナの青年グループ自身はこれについてなにも知らなかった。彼らはわざと前もって
チューリンゲン青年集会のためにカーラへ連れていかれた。代表者たちは非合法的に残らずカー
ル=ツァイス工場の労働者や職員のところに宿をとった。ツァイスの人々はすでに戦前の労働運
動でりっぱに男をあげ、戦争が起こってからも、彼らの社会主義的責任をどこまでも忠実にまも
った。代表者たちはとくにベルリン、ライプツィヒ、ドレスデン、シュトゥットガルト、ゼルプ、
フランクフルト(マイン)、ブレーメン、ハンブルク、デュセルドルフ、バルメン=エルバーフ
ェルト、エッセン、イェナ、ゴータ、ヴァイマル、ゲーラおよびアイゼナハから派遣されてやっ
てきた。
 第一日目は国会議員で、有名なドレスデン左派のオットー・リューレが、世界戦争にいたった
列強の帝国主義的対立について、また交戦中の列強グループの世界支配計画について、そしてま
た社会民主党と労働組合の指導部の屈伏について語った。討論ではシュトゥットガルト左派とス
パルタクスグループの代表エードヴィン・ヘルンレとフリードリヒ・ノッツ、それにデュセルド
ルフからの代表で同じくスパルタクスグループの婦人が発言した。その日の夕方、カール・リー
プクネヒトが着いた。二人の国会議員の出会いで非合法活動が危険におちいることのないよう、
オットー・リューレは出発した。
 次の日、会議は最高潮に達した。カール・リープクネヒトは軍国主義と帝国主義戦争に反対す
る労働者階級の共同の闘争における青年の特別の意義について語った。リープクネヒト同志は青
年のたたかいのために、彼の提案したイェナ決議の文章を一つ一つ詳しく具体的に説明した。
 カール・リープクネヒトは、労働青年が世界戦争の進展するうちに資本家の企業のなかだけで
なく、戦争で弾丸のえじきにされるための軍事教練によっても、とてつもなくますますひどく食
いものにされていることを明らかにした。こうした権利の剥奪、移転の自由の制限や貯蓄の強制
が労働青年をかりたてて、経済的、政治的、とくに反軍国主義的闘争にますます力づよく参加さ
せたのである。
 労働青年組織の歴史的使命は、全般的社会主義運動のなかで、プロレタリア青年の特殊の階級
的利益のためにたたかうことである。
 青年会議はとくに、一九〇七年のシュトゥットガルト、一九一〇年のコペンハーゲン、一九一
五年のベルンの諸決議の精神を体し、反軍国主義を自分の信条とすることを力をこめて表明した。
決議の核心には次の義務条項が含まれている。「あらゆる日和見主義的諸傾向にたいしては、た
とえそれらが反対派の旗をかかげ、機関の決定する公認の政策に反対しているばあいでも、原則、
戦術、行動において鋭く一線を画すこと……会議は「本質的な対立をぼかしたり、あとまわしに
したりして、不明確なスローガンにもとづいて、できるだけてっとり早く数多くの支持者を集め
ようとするようなことはすべてしりそげる。そんな支持者は決定的瞬間にはまったく信用できな
いものだ。まず明確、次に多数! 見解の一致を伴わない寄せ集めはごめんだ!
 会議は、反対派のさまざまの路線にもある重大な原則的・戦術的相違をすべてプロレタリア大
衆のまえにもちだすことを緊急の必要事であると考えている。これは、組織の民主主義的なあり
かたを実現するなかで、大衆の行動能力とイニシアティヴを押し進めるために、それについての
決定をも大衆にゆだねるためである。」
 決定は主として次のことを明らかにした。あらゆる決定をふみにじったひとにぎりの社会排外
主義的指導者または社会民主党国会議員団に、党の態度と運命を勝手にさせてはならない。
 階級意識にめざめた労働者一人一人の義務は、階級国家と支配階級の権力を切りくずし、議会
での挙国一致を打ちやぶるために全力をつくすことだ。社会主義の最も崇高な原則を長年にわた
ってふみにじってきた党機関は、裏切り者として、その役職と代表権の横領者として、公然と正
体をあばかれねばならない。
 会議は、ドイツ青年運動の公的機関、党幹部会、労働組合総委員会から、労働青年を代表する
いかなる権利をも剥奪する。また青年の同志たちにたいしては、義務を忘れた党と労働組合の機
関にたいしていかなる支持をも拒むよう、要求する。
 党と労働組合に依存する公的青年機関から、顧慮することなく完全に独立し、かつ組織的に分
離することは、プロレタリア青年運動にとって死活問題である。『アルバイターユーゲント』紙
はボイコットすべきであり、独自の青年機関紙を創刊すべきである。設置された臨時中央本部は、
自由な青年運動の個々の部分のあいだに連絡をつけ、かつそれを強固にし、それらに物質的援助
をおこない、青年運動で独立にむかうものが多くなるように指導し、プロレタリア青年の共同の
政治的経済的行動とりわけ反戦闘争を準備し、壮年者たちと接触を保ち、新しいドイツ青年会議
が早急に招集されるよう準備し、その席で臨時中央本部は責任を明らかにしなければならない。
 労働青年インタナショナルは、同じ社会主義的精神を体して活動しているあらゆる国々のプロ
レタリアと結ばれていることを自覚している。国際的連帯と階級闘争にたいする義務は他のあら
ゆる義務に先行する。
 ドイツ青年会議は、ドイツ労働青年運動が国際青年書記局(在チューリヒ)への加入を確認す
る。ドイツ青年会議は他の諸国、とくにベルギー、フランス、イギリス、ロシアおよびバルカン
諸国の同志たちに心から兄弟としてのあいさつをおくり、共同の反戦闘争に全力をつくすよう呼
びかける。
 同じくカール・リープクネヒトによってまとめられ、補足として採択された決議の一節で、会
議は、平和のデモンストレーションであるメーデーの思想を、公然たるメーデーデモで明らかに
するために、あらゆることをやるよう代議員たちに要求している。
 討論では、ゲオルク・シューマン、マックス・ボルスドルフ、ヴィリー・ラングロック、ヴァ
ルター・ホーフマン、クルト・グリムそしてへルベルト・ミュラーのライプツィヒ代表との戦術
上の論争となった。ゲオルク・シューマンは社会民主党の諸機関とただちに公然と決裂すること
をのぞまなかった。波のいうところは、ドレスデンのときのように、二五人のメンバーのなかで
活動するより、むしろ二四〇〇名の青年たちのなかで活動するほうがよいというのであった。
 カール・リープクネヒトは根気よくイェナ決議を擁護し、参加した人々をすべて納得させた。
波のいうところは、必要な分離線を引くのはたんに公認の社会排外主義者たちにたいしてばかり
でなく、潜在的連立派の同志たち、カウツキー派にたいしても必要な分離の一線を画すべきであ
る。なぜなら、こうしてのみ青年と党はよりいっそう革命的な行動力を発揮できるからだという
のであった。イェナにおける決議はすべて満場一致で採択され、ライプツィヒ代表も同意した。
にもかかわらず、ライプツィヒの青年組織は一九一七年四月のドイツ独立社会民主党の創立にい
たるまで、社会民主党青年中央本部と連絡をとりつづけ、ひきつづき『アルバイターユーゲント
』紙を取っていた。
 カール・リープクネヒトは復活祭祝日の二日目、イェナ会議が終わってからすぐ一人で駅に行
った。ベルリン行き急行列車はひどくこんでイェナに着いた。それでカール・リープクネヒトは
ベルリン青年教育団体の二、三の代表――彼らのなかにはゲルトルート・リュック旧姓フイシュ
バハ同志やヴィルヘルム・ロドミンスキーとハンス・ツィンマーリヒ同志がいた――を自分の一
等車室に引きとった。ベルリンにつく直前彼らはたがいの安全を考えてリープクネヒトとわかれ
た。
 イェナ青年会議はただちに全国にわたって効果を発揮した。ベルリンでは独立していた反対派
の青年教育団体の統一が、カール・リープクネヒトの報告演説にしたがって一九一六年三月一一
日と一二日の特別会議で実現した。
 これにたいしてエーベルト=シュルツ=コルンの青年中央本部はかんかんに怒った。青年中央
本部はイェナ青年会議、その発起人と代議員を当局に密告した。イェナ決議をどんな形にしろ発
表することは、固く禁止され、もし発表すれば処罰されたのに、青年中央本部はその全文を特別
回状の形で発表することができた。もちろん、もっぱらテーゼを歪曲し、「反駁する」ためであ
る。彼らはこう書いた。会議は「チューリンゲンの小郡市でひらかれた」「封建的な学生組合集
会所で……すべて多かれ少なかれ老学生たち……彼らは主人やボーイのまえではいきな学生のよ
うにみせかけた。正真正銘のスパルタクスグループの一メンバーは、神聖な秘密裁判の精神的座
長をつとめた」。
 ベルリンの党ボスや待機主義者はライプツィヒ派を自分に忠実な共犯者と見ていた。リヒャル
ト・リピンスキーはイェナ決議の別刷りをつくらせ、それをライプツィヒ社会民主党の拡大地区
幹部会に提出した。その狙いは、復活祭会議に参加したものはみな演説のできないようにするに
あった。彼が自分で思いしらなければならなかったように、彼の地区指導部の多くは、党と労働
組合の職員、消費組合倉庫管理者だったが、カール・リープクネヒトの論拠にたいして的確な反
論の理由をもちだすことができず、リピンスキーの提案を拒否した。それはともかくとして、党
書記のシュレールスはライプツィヒ地区諸団体あての秘密回状で、ゲオルク・シューマン、マッ
クス・ボルスドルフおよびヴィリー・ラングロックの諸同志には、党や青年の集会で演説をさせ
てはならないと指示した。
 ライプツィヒ警察当局はさらに一歩を進めた。当局は復活祭会議に参加した者を逮捕し、彼ら
にたいして取調べをおこない、シューマン、ボルスドルフおよびグリムの諸同志をいわゆる食糧
品騒ぎ、すなわちひどいじゃがいもの配給が原因でおこったリンデナウの飢餓暴動の責任をなす
りつけた。当局は、デモ隊と、彼らにさしむけられた警察や槍騎兵とが衝突した事件を、先にお
こなわれたイェナ青年会議と結びつけたのだ。

 一九一八年一〇月二三日の午後早々、私はマルクグラーフ通りのアイスラー博士の経営する書
店の私の仕事場でアニー同志から電話で呼び出された。「フリッツ、今日カールが五時にアンハ
ルト駅に着くわよ。」
「どのカールだ?」――「ルッカウのよ!」――「わかった!」
 われわれの仕事部屋はウルシュタイン・コンツェルンの建物のなかの以前のローケシュ編集局
であって、公衆電話網と直接つながっていた。私はただちに一連の製版所、とりわけマウラー・
ウント・ディミヒ印刷所に、また私の仕事仲間の兄弟が職長として働いていたダイムラー・モー
ターの労働者たちにも、電話した。「今日午後五時カール・リープクネヒトがベルリンのアンハ
ルト駅に着く。みんな出かけろ!」――「了解!」
 それから私は出かけた。ツィンマー通りで込みの貨物を満載したトラックに出くわした。私は
運送人たちにたずねた。「君らは今からそれを全部おろしてまわるのか」――「あたりまえだ!
」――「そんなら、ゆく先ざきで言ってくれ、今日五時にカール・リープクネヒトがアンハルト
駅に着く。彼は釈放だ。歓迎にいけ!」――「よしきた!」
 プリンツ・アルブレヒト通りとケーニヒグレーツ通りのかど、民族学博物館の前で、市電の大
きなレール網の取り換え作業がおこなわれていた。多くの労働者が玄能やかなてこを使ってたち
働いていた。私はそのまんなかにわって入った。「カール・リープクネヒトが今日五時ルッカウ
からアンハルト駅に着く。彼は釈放だ。君らはいちばん近いんだ。迎えにいけ!」四方八方から
賛成の声、「もちろんおれたちは出かけるさ」。
 市電が通りかかった。私はとびのって後ろの乗降口で私の文句をくりかえした。たらふく喰っ
ている一人のブルジョアが「これは扇動だ! とりおさえねばいかん」と言った。私はもう市電
の中に入っていた。そのうえ、だれかがその男に答えるのをきいた、「あの人の言うとおりだよ。
それともあなたは戦争に賛成かね? われわれはみんなもうこりごりだ!」とびおりるまえに私
は、前の乗降口でも私の勧誘をくりかえした。こうして、またすこしたった。
 それから駅へ行った。そこではすでに数千人の労働者が群がっていた。警官隊は労働者を押し
のけようとしていた。階段とプラットフォームは警察が占領していた。にもかかわらず、私はま
んまと切符を買ってうまくプラットフォームに行きついた。そこで私はドゥンカー夫妻、マルク
スゾーン夫妻、フリーダ・ヴィンケルマンその他のスパルタクスグルーブの同志に会った。有名
な著作家でスパルタクスグルーブの「管財人」エードゥアルト・フックスは私にこっそりあい

つして、ひそひそささやいた。「カールはこないだろう。うわさではもうリヒターフェルデで列
車からつれさられるということだ。」私はやりかえした、「待っていなければならん。彼はくる
よ!」
 それからびっしり満員の列車が入ってきた。そして列車からカール・リープクネヒトも、ゾフ
ィー・リープクネヒトと下の息子ボブ(ローベルト)をつれておりてきた。同志リープクネヒト
夫人はエルンスト・マイアーをとおしてカールの釈放をきき、ルッカウで夫をむかえるために、
マイアーとボブといっしょにそこへいったのだった。刑務所長はなにも知らなかった。所長には
釈放決定が伝えられていなかったのだ。リープクネヒトが釈放されるまえに、まずマックス・フ
ォン・バーデンとパイアーとシャイデマンの政府といく度か根気よく電話でやりとりをする必要
があった。いまやカールはふたたびわれわれのまんなかに立っていた。友人たちは彼の手をにぎ
り、彼を抱きしめて、祝いのことばを述べた。あたりはみんなしんとしてしまい、感動にとらえ
られていた。いったいだれも「リープクネヒト万才!」と叫ばないのか? そう思うと、私は声
をかぎりに叫んだ、「われらのカール・リープクネヒト万才!」と。
 その瞬間群集は警察の交通遮断を突破した。数人のものがカールを肩にのせた。リープクネヒ
トはあいさつをすることになった。彼はひどく興奮していたけれども、群集にむかって数言あい
さつをのべた。プラットフォームへ出る欄のそばに普通兵士が一人立っていた。リープクネヒト
とその兵士はたがいに手をさしのべた。それはあたかもわれらのカールとベルリンのプロレタリ
アートおよび兵士とかわした最初のあいさつのようなものであり、象徴的あいさつ以上のもので
あった。それから群集は広い階段を下へおりていった。
 駅前には巨大な群集がいた。警察はますますいらだち、わりこんでこようとした。「やるなら
やってみろ! リープクネヒトは自由だ! 手を出すな!」みんなどっと彼の方へ押しかけてき
た。空《から》の板車《いたぐるま》が用意されていた。リープクネヒトとゾフィーがデモ隊に
びっしりとりまかれて車の上にのった。二、三のものが叫んだ。「リープクネヒトは立って、他
のものはすわれ! みんな彼を見たかったのだ。「だめだ、おれたちはカールのまわりに立って、
彼を守るんだ。出発!」
 警察はふたたび大衆を押しのけようとした。アスカニア広場を横切りケーニヒグレーツ通りを
下って、車は並足ですすんでいった。万才が叫ばれ、歌がうたわれはじめた。四つ辻ごとに大量
の警官隊が大衆を道の脇へ押しやった。しかし、幾度もくりかえして大衆は前方からやってきて、
びっしり車のまわりをとりかこんだ。
 こうしてわれわれはポツダム広場に到着した。「フュルステンホーフ」と地下鉄の駅のあいだ
に車がとまり、一九一六年五月一日にカール・リープクネヒトがわれわれのまんなかから警察の
スパイどもに引っこ抜かれていったこの場所で、いまカールは短い情熱的なあいさつをし――ド
イツのプロレタリア革命の勝利の日までたたかいつづけ、ロシアの兄弟たちを模範としてその後
につづこうと呼びかけた。
 警察は先へ進むよう要求した。ブタペスト通りでは強力な騎馬警察隊がわれわれに向かってき
た。指揮をとっていた高級警察官の頭から筒帽がとんだ。何かが帽子に当たったのだ。さらにブ
ランデンブルク門をとおってロシア大使館まですすんでいった。
 いまや警察はデモ隊を解散させようとして譲らなかった。リープクネヒトは信頼できる十数名
の友人たちにかこまれて、ゾフィーといっしょにブランデンブルク門まで歩いてもどった。ティ
ーアガルテンのそばで車にのりこみ、シュテークリツの波の住まいへ運ばれていった。
 その次の日、ヘルマン・ドゥンカーは私にむかっていった。「君は、カール・リープクネヒト
に敬意を表して祝われる宴会に、青年代表としてロシア大使館に招待されている。黒っぽい服装
でどうしてもくるようにしたまえ。行事は盛大にとりおこなわれることだろう。」
 たしかに大使館での行事は盛大だった。室内は豪華にしつらえられ、壁には絹の壁布が張りめ
ぐらされ、白い大理石の宴会場はクリスタルガラスのシャンデリアでかがやき、長いテーブルは
花や果物で飾られていた。これらの部屋で最初のロシア労働者農民国家の代表者がドイツの革命
家を祝おうとは、かつての権力者は夢にも思わなかったであろう。
 「カールはどこだ?」――「そこのまんなかにゾフィー・リープクネヒトや、メーリング、フ
ーゴ・ハーゼ、それに大使といっしょだよ。」私はその斜め向かいにすわった。私の左手にはゆ
たかな白髪の有名な同志、作家のホリチャー、私の右手にはモスクワの党委員会書記だと自己紹
介したかなり若いロシアの婦人同志。料理が運びこまれ、ぶどう酒がつかれた。
 大使はロシア社会主義連邦ソヴェト共和国政府およびロシア共産党(ボリシェヴィキ)の名に
おいて、カール・リープクネヒトに祝辞をのべ、レーニン同志の祝電を読みあげた。
 カール・リープクネヒトはこれにこたえていった(私は記憶にもとづいてかく)。世にもまれ
なすばらしい出来事がつぎつぎにおこっている。きのうはまだ刑務所の独房にいたのに、今日は
労働者・兵士・農民の最初の社会主義ソヴェト共和国の大使館にいる。なおそれ以上に、きのう
はツァーリの絶対主義、封建主義と資本主義によって奴隷にされていた労働者と生産する農民で
ある人民が、輝かしい一九一七年の十月革命の後、今日はツァーリズムと資本主義から解放され
た人民となった。この人民は戦争を終わらせ、平和をもたらし、そして彼ら自身がえらんだ機関
によって、彼らの将来の運命を自分で切りひらいている。刑務所の独房にいた私のところへ、ロ
シア社会主義連邦ソヴェト共和国の憲法草案をこっそりもちこんでくれたひとがいた。私はなし
とげられた仕事と天才的なソヴェト組織の偉大さに圧倒された。――リープクネヒトは心からの
大きな感動をこめてそう語った。
 つづいてなお数名の指導的な同志たち、スパルタクスグループの代表、ヤーコプ・ヴァルヒャ
ー、それにハーゼもあいさつした。革命的な経営オプロイテを代表してエーミール・バルトが話
した。私は彼の話すのをここではじめてきいたが、しかしそののちにもきいた。彼はほぼ次のよ
うに述べた。同志諸君、われわれがここで宴会をやっているあいだに、ドイツではまったく何事
もおこらないと思わないでもらいたい。われわれは、よくきいてほしい、刑務所と死の脅威のも
とで、ドイツの革命をも準備しているのだ。しかもロシアでのように、少数者しか動かせないの
とはちがって、ドイツプロレタリアートの圧倒的多数がわれわれの側に立つであろう。――この
演説のために、一堂のものはひどく困惑してしまった。
 そのとき、カールのそばにいた、髪もひげもまっ白なわれらの老フランツ・メーリングが立ち
あがった。彼はきわめてもの静かにほんの二こと三こと話しただけであった。いわく、まだなに
一つ証明したこともなく、おそらくまたほとんど学びもしなかった一人の同時代人が、ここで立
ちあがり、日々歴史的偉業をおこない、世界に実例を供しているわがロシアの階級的同志たちに
むかって、図々しくもきびしい訓戒をたれるなどということは、なんとも奇妙なことである、と。
満場うれしげに賛成した。
 私もまたわれわれ青年の名においてカール・リープクネヒトに数言あいさつをのべることがで
きた。私はカールをわれわれの最良の信頼できる友人として、かつ正しい道を進むようわれわれ
に力をかしてくれる指導者として、あいさつした。カール・リープクネヒトが大衆の革命的意志
によって解放されたように、われわれもまた禁固や懲役に処せられているわれわれの青年同志が
解放されるのをみたいし、戦争をおわらせるばかりでなく、またドイツにも革命を実現するため
に協力をするつもりである。――オットー・リューレは私の話をさえぎって、われわれはドレス
デンの青年同志たちをきょう禁固と懲役から解放したぞ、と叫んだ。
 カール・リープクネヒトは短い結語のなかで、とりわけてわれわれ青年について好意的な意見
も表明したのであった。

          『……だが、おれたちの団結は固い』ノイエス・レーベン出版社、ベルリ
ン、一九五八年
          『赤旗のもとに』ディーツ出版社、ベルリン、一九五八年
  マルタ・グロービヒ

     一九〇一年キール・ガールデンに生まれる。速記タイピスト。一九一八年以後社会民
主党員。ベルリンで十一月革命に参加。ベルリンの古参婦人共産党員

 私たち青年同志は、スパルタクスグループが一九一六年五月一日のメーデーを帝国主義戦争反
対のデモンストレーションで祝おうとしていることを知らされていました。デモの準備にぬかり
はありませんでした。幾千枚のビラがつくられ、ばらまかれ、いたるところに小さなステッカー
が貼りめぐらされました。左派はすべての組織にこのメーデーデモに参加するよう要請していま
した。社会民主党は、メーデーデモをおこない挙国一致を破ることを原則的に拒否しました。彼
らは「無分別な行動」にはしらないよう警告を発しました。デモは多くの人たちが出歩いている
夕方の八時に、ポツダム広場でおこなわれることになっていました。
 私たちは決められた時間よりもずっとまえに早くから集まりました。というのは、そのあたり
で何がおこるか、見たかったからです。ライプツィヒ広場の周囲には栄養のみちたりた警察の馬
が鞍をつけてならび、一方、騎馬隊員はまわりの建物を占領していました。私たちはライプツィ
ヒ広場とポツダム広場のあいだをあちこちぶらぶら歩いていました。つぎつぎにしだいに多くの
同志たちが到着し、ついにグループ全員が集まりました。私たちはゆっくりまたポツダム広場の
方へ動いていき、駅の近くに立ちました。多くの人たちは、ふだんよりもずっと多く、まわりの
通りや広場ににぎわっていました。私たちはカール・リープクネヒトがポツダム広場の喫茶店ヨ
スティのテラスに現われるのを待っていました。喫茶店ヨスティは、都心から見てポツダム広場
の右側にあり、そのテラスは演説やあいさつにはうってつけの場所でした。
 しかし様子がちがってきました。ポツダム駅のまえの広場には警察のスパイたちがうようよし
ていました。リープクネヒトが駅から出てきました。彼が他のどの集会に出かけるときのように、
護衛もつけずに。彼といっしょにきたのは、ローザ・ルクセンブルクその他二、三の同志だけで
した。この小人数のグループは人ごみのために、なかなか前へ進むことができませんでした。ス
パイどもはすでにカール・リープクネヒトをとりかこんで、彼があるいてゆくのをじゃましまし
た。そういうわけで、リープクネヒトはぜんぜん喫茶店ヨスティまで進むことができず、ポツダ
ム広場の真中で有名なスローガン「戦争をやめろ! 政府をたおせ!」を叫ぶことになったので
す。この叫びは遠くまできこえ、先の方へ伝わり、ひろまっていきました。
 またたくまにあらゆるものがたとえようもない混乱におちいりました。同志たちはリープクネ
ヒトをスパイと警官の手からうばいかえそうとし、ローザ・ルクセンブルクは彼にぶらさがりま
した。しかしついにカール・リープクネヒトを逮捕からまもることはできませんでした。警察官
たちは彼を連行していきました。
 この五月一日のメーデーは夜中になってもまだ駅近くの通りはデモをする人びとでいっぱいで
した。彼らにたいしてくりかえし警察が投入されました。しかしカール・リープクネヒトの「戦
争をやめろ! 政府をたおせ!」の声はもはや消しさることはできませんでした。

 社会主義自由青年組織の全国会議が、一九一八年一〇月二六日と二七日の予定で召集されてい
ました。会議の課題は、全ドイツの革命的青年を結集し、目前に迫った闘争にたつ覚悟をさせる
ことでした。
 一〇月二五日の夕方には早くも代表たちはベルリンに到着しました。宿舎委員会のメンバーだ
った私は一〇月二五日から二六日の夜に、シッケル通り五番地のドイツ独立社会民主党の労働者
教育学校で当直していました。ここは会議の会場でもあったのです。ここで私は名前だけはすで
にずっとまえから知っていた同志たちとはじめてしたしく会いました。
 一〇月二六日の朝、会議がひらかれました。リープクネヒトが青年の獲得にどれほど大きな価
値をおいていたかは、彼やスパルタクスグループの当面する多くの課題があったにもかかわらず、
彼が中央幹部会の招待に応じて、会議に姿をみせたことでも明らかです。彼の演説で会議はクラ
イマックスに達しました。彼は青年を故意に政治から遠ざける「青年にふさわしい」青年組織を
批判して、青年が目前に迫った闘争でりっぱにその任務を果たすことができるように、プロレタ
リア青年の政治教育の必要性を強調しました。会議は彼のゆきとどいた議論に答えて熱狂的な拍
手をおくりました。
 会期中へルマン・ドゥンカー同志はかかさず出席し、たびたび討論に割りこみました。そうし
て彼は、政治教育に疑念を表明したライプツィヒのドイツ独立社会民主党青年代表シュレーダー
にたいしとくに論駁をくわえました。決定が採択され、あらゆるプロレタリア的革命的青年グル
ープを一九一六年のイェナ決定にもとづいて統一することが決議されました。
 一〇月二六日の夕方、十月革命をたたえる祝賀会がベルリンの青年によって組織されゾフィー
ホールでひらかれて、非常な成功を博しましたが、この会には会議の代表やソヴェト大使館の代
表も参加しました。ホールは超満員で、感激の気分がみなぎっていました。
 会議は全国中央指導部の結成をみたあと、一〇月二七日午前に終わりました。この指導部には、
ベルリン=リヒテンベルクのグロービヒとケルン両同志も加わりました。
 ドイツ独立社会民主党はベルリンで一〇月二七日日曜日にひらく予定で五つの集会を召集して
いました。そこではカール・リープクネヒトも演説することになっていました。青年会議の代表
たちはいっしょに、アンドレアス通りのアンドレアス祝賀会場の集会に参加しました。集会にき
た人びとはリープクネヒトが姿をみせるまで、辛抱づよく待っていました。彼があらわれると、
熱烈に歓迎されました。集会のあとデモ隊が組織され、その先頭にたって会議の代表たちが行進
しました。デモ隊はアンドレアス通りぞいにフランクフルト大通りのほうへ動いていきました。
アンドレアス通りで早くも警察はわれわれを通すまいとしました。非常線はたち切られましたが、
しかしデモ隊を都心まで導いていくことには成功しませんでした。われわれはフランクフルト・
アレーのほうへ押しやられたのです。ヴェーバー草地のすぐ手前の四つ辻では、騎馬警官と徒歩
の警官がデモ隊を待ち伏せしていました。デモ隊はひるむことなく、この非常線もけ散らそうと
する気勢を示したので、警官たちは抜剣して、人びとに切りかかりました。多くの負傷者が出ま
した。グロービヒ同志は腕の関節をサーベルで打ちくだかれました。警官は人びとを追撃しまし
た。あろうことか、警察は馬にのったままで、デモ隊を家の戸口まで追いかけてきました。つい
に警察はデモ隊を散らすことに成功したのです。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA○二七八
          『前進せよ、そして忘れるな』ディーツ出版社、ベルリン、一九五八年
   フリーデル・グレーフ

     一八九三年ドロッセン近郊のフォアダムに生まれる。速記タイピスト。一九一一年以
後社会民主党員。ベルリン・ノイケルンの労働者兵士評議会に協力。ベルリンの古参共産党員

 フリーデルの夫カール〔・グレーフ〕あて一九一八年一〇月二三日付の手紙の抜粋。――
 カール・リープクネヒトが刑務所から釈放されるというしらせは、あなたもおそらくもうおき
きでしょう。今日の午後五時に、彼はアンハルト駅に着きます。私はもちろん出かけます。私た
ちの支配者どもにはなんとしても心配なことにちがいありません。この次にもっとかきます。
 たったいまアンハルト駅から帰ってきました。私たちのカール・リープクネヒトのために準備
された歓迎は、りっぱなものでした。私はもう四時ごろにはアンハルト駅にいっていました。ま
だだれもいませんでした。旅行にでようとしたり、旅行から帰ってきた人たちだけが、いったり
きたりしているだけでした。とつぜん警察が行進してきました。警官たちは駅前にいた人たちを
全部その反対側に行かせようとしました。そこには二、三人しかいなかったので、もちろん、う
まくいきました。それから、かなり大勢の労働者の一団が駅の方へやってくるのを見ました。私
はうまく駅の構内《ホール》にもぐりこむことができました。そのあと、もう四時半になってい
ましたが、数人の有名な同志たちとプラットフォームにでました。入場券はありませんでした。
たくさんの人を見て駅当局が入場券の販売を止めたのです。しかし私たちは抜け道を見つけまし
た。ケーテ・ドゥンカーが「三〇ペニヒでグロース・リヒターフェルデ行きの切符をお買いなさ
い」と私にささやきました。この合言葉が口から口へと広がっていきました。こうして、私たち
はプラットフォームにでたのです。まもなくその切符も売り切れになりました。警察は群集を駅
前で制止するのにかかりきりでした。
 汽車は五時三分に着くはずでしたが、しかし半時間の遅れをだしていました。プラットフォー
ムにもたくさんの群集がみられました。私たちはアードルフ・ホフマンとカール・カウツキーを
かこんで立っていました。おまわりはプラットフォームにもいましたが、しかし態度はかなりお
だやかでした。一人の警部が人びとに、いったい全体なにがおこったのですか、と丁重にたずね
ました。それにたいして、われわれの友リープクネヒトを待ってるんだという返事が彼にかえっ
てきました。そのあとで一人のおまわりが、カール・リープクネヒトはけっして来ないのを自分
は知っているんだ、と言い張りました。彼はそれをアードルフ・ホフマンに言ったのですが、ホ
フマンはにこにこしながら「彼があなたにそう書いてよこしたのですか」とたずねました。
 カール・リープクネヒトを待っているときに、おそらくビラもまかれたにちがいありません。
というのは、おまわりが二人の若者たちを査察していたからです。ところで、彼らがほんとうに
なにももっていなかったのか、それともビラをこっそりだれかほかの人に渡したのか、私にはど
うもわかりませんでした。ともかく、その警部はあとになって詫びをいいました。おまわりがそ
の一人の若い男に、少なくともビラを一〇〇枚もっている、と申したてたとき、その若者は、も
しおれがそれだけもっていて、それなすでに人びとのあいだにもちこんだというのなら、おれは
うれしいね、と言いました。
 五時半ごろ汽車がつきました。カール・リープクネヒトは後部の車両の一つにいました。彼の
妻とエルンスト・マイアー博士、それにいちばん上の息子が、ルッカウの刑務所から彼を迎えて
つれてきました。しあわせなことに、私は彼に親しくあいさつをのべることができました。万才
の声がとどろきました。外ではもう制止はできませんでした。駅は「強襲され」、警察の非常線
は突破されました。多くの人たちが柵をとび辷えました。「桶」のなかの駅員たちは無力でした。
切符の取り締まりもできなかったし、差し出しもされませんでした。あらゆる人びとが、駅員た
ちまでも、いっしょにどっと歓声をあげました。カール・リープクネヒトにたいする万才の高唱
はつきませんでした。隣りのホームで発車を待っている汽車から、人びとがこちらへ手をふって
いました。一人の兵士が「桶」によじのぼって、通りすぎるカール・リープクネヒトと握手をす
るため手を差しのべました。リープクネヒトは幾人かの男の人たちにたかくもちあげられ、かつ
がれて出ていきました。彼は手に花をもち、帽子をとって歓迎にこたえました。
 プラットフォームは黒山の人でした。わけても兵士たちは、リープクネヒトにあいさつできる
ように押しかけてきていました。カール・リープクネヒトはたえず答えていましたが、しかし彼
が何を言っているのか、わかりませんでした。一度だけ私は彼が「政府をたおせ!」と叫んでい
るのをきいただけです。改札口のところではいくらかゆっくりあるきました。階段はぜんぜん見
えませんでした。前へ進むにはそれこそ一歩一歩ゆっくり運ばなければならず、人が多すぎたの
で倒れることもできなかったのです。私たちはやっと広場を渡りましたが、警察はそこを遮断し
ていて、もはやわれわれを容赦しませんでした。うわさでは、リープクネヒトはなおポツダム広
場であいさつをすることになっていました。そうなったかどうか、私は知りません。二年半の年
月は、私が心配していたほど、彼を弱らせてはいなかったようです。とはいっても、多少老けた
ようにみえます。まあ私の見込みでは、彼は休養すればきっとすぐにもとのように元気になるで
しょう。
 当局は釈放の日取りを秘密にしていました。しかし釈放の前の日にバウムシューレンヴェーク
で独立社会民主党の党員集会がひらかれました。そこで国会議員のヘンケが、カール・リープク
ネヒトはあす午後五時アンハルト駅に着くと伝えました。多くの労働者に知らせる時間はほとん
どなかったのですが、それでも一万もの人たちがアンハルト駅へやってきました。日曜日にはベ
ルリンで四つの公開集会が催されることになっています。カール・リープクネヒトもきっと演説
するでしょう。私はいまからそれをとても楽しみにしています。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA○二九七
  クララ・ヘッカー−テルバー

     一八八五年メクレンブルクのガーデブッシュに生まれる。速記タイピスト。一九〇八
年以後社会民主党員。キールの『シュレースヴィヒ・ホルシニクイニッシェ・フォルクスツァイ
トゥング』紙編集部書記。一九五八年死去

 一九一〇年の秋、私はベルリンの社会民主党中央党学校に通いました。二、三年前には、こん
なことは夢にも考えたことはありませんでした。
 私が一九〇八年にシュヴェーリンのアウグスト・メラー同志のところへいったとき、社会民主
党に入党したことをはっきり申しますと、彼はことはもなくおどろいてじっと私を見つめました。
私の願いはたしかに普通ではありませんでした。というのは、たいていのばあいには友人をとお
して入党し、また入党の申込みをするからです。ひとをよくしっているのは友人なのですから。
メラー同志はおどろきから我にかえっていいました。「では、あなたはご主人の入党の申込みを
したいのですね?」と言いました。私はそれに、「いいえ」と返事をして、私が自分の党員資格
をとりたいのだと説明しました。すると彼は答えました。「婦人は党員にとらないんです」と答
えました。けれども彼はそのとき、そういっただけなのでした。というのは、新しい全国結社法
によれば、婦人も政治的組織をつくる権利をもったからです。
 一九〇九年の晩夏、私はハンブルク=ヴァンツベックでシュレースヴィヒ=ホルシュタイン党
大会の来賓として、党幹部会の婦人局長ルイーゼ・ツィーツとはじめて知りあいになりました。
彼女は党内での私の仕事のことをたずね、それから、私の見るところでは、私を徹底的にテスト
しました。
 党大会が終わって、私たちがハンブルク行きの列車にのっていたとき、彼女は、理論的知識を
広くするために党学校に行ってみる気はないかと私にたずねました。党婦人局では、婦人同志も
党学校にゆかせることが問題になり、党幹部会は次の年にはそうしようと約束したというのです。
ルイーゼ・ツィーツは私にあらかじめ万事よく考えておきなさいといってくれました。というの
は、党学校にいくには犠牲と不自由を覚悟しなければなりませんし、私にとっては生活上のめん
どうをおこすことになるかもしれないからです。
 とつおいつ思案はしましたが――心のなかではすでに学校へ行く決心をしていました。なんで
も、来るがよい。それから、一九一〇年七月一日に党学校から一遍の手紙がとどきました。それ
には、私を次のコースに生徒として受けいれたという知らせが伝えられていました。私の目には
熱い嬉し涙がでてきました。今度こそ私は自分のはげしい知識欲をみたすことができるでしょう。
半年間なんの心配もなく、しかもローザ・ルクセンブルクやフランツ・メーリングのような有名
な先生について勉強できるのは、大きなしあわせだと私は感じました。
 第一次世界戦争前の労働運動の成長は、党の役員たちに有無を言わせず科学的知識で武装する
ことを要求しました。とりわけアウグスト・ベーベルと、後にヴィルヘルム・ピークがドイツ社
会民主党の党大会でこの要求をもちだし、それが徹底的に論議されたあと、党幹部会は、ベルリ
ンに半年のコースの党学校を設立することを、委任されることになりました。党学校は一九〇六
年一一月一五日に開校されました。通例一つのコースには、地区あるいは州の組織から党幹部会
に推挙された三〇名の生徒が参加しました。そのほか党幹部会は自分の自由にできる生徒数の三
分の一を、労働組合の若い役員たちのためにとっておきました。一九一四年までに半年間の冬の
コースが七回実施されました。
 一九一〇年一〇月までの幾週間はとぶように過ぎさりました。到着した日に私はきちんとベル
リンのリンデン通り三番地に顔を出しました。学校は五号庭にありました。その建物は大きな工
業用の建物でした。幾千もの人びとがそこで来る日も来る日も資本に仕えて夫役についていまし
た。ありとあらゆる工場がありました。なかでも極反動新聞『ナツィオナールツァイトゥング』
の印刷所もありました。こうした資本主義のしるしを打ちだした周囲のまっただなかに、中央党
学校があり、そこでは、資本主義とたたかって最後にはこれをねじふせるために、労働者階級の
ための精神的武器がきたえられたのです。
 私は党学校のハインリヒ・シュルツと党学校書記のヴィルヘルム・ピークと知りあいになりま
した。シュルツ同志は私に部屋部屋を案内してくれました。それらはたんに実用を旨としたもの
にすぎませんでしたが、それでも私には堂々たるものに見えました。学校を設立し維持するには、
どれほどの金と財の犠牲を要したことでしょう。またこれからも要することでしょう! 大きな
教室の印象は明るく、親しみのあるもので、そこには控えの間と、それから二列に長机の並べら
れたかなり長細い部屋がありました。長机のまえには教卓があり、その左側には学校用の大きな
黒板があり、壁には大きな書棚があって、その下のところに――番号のかいてある、鍵のかかる
小さな戸棚に――生徒たちは道具類をしまうことができました。二つの大きな窓からは十分に光
が入り、それぞれの長机には電燈が取りつけられていましたので、曇り日や夕方でも十分明かり
がとれるようにしてありました。
 控えの間には机が一つあって、その上に社会主義的日刊新聞が並べてありました。それから朝
には、各生徒の席には故郷の新聞がおかれてありました。壁にはまた大きな書棚があって、カー
ル・マルクスの書物や、われわれの党の刊行物や、その他の学術書が備えてありました。
 一つのドアをあげると衣服部屋で、ここで洗たくすることもできました。二番目のドアからは、
控えの間から先生がたの会議室にいくことができました。
 こうして見て歩いたあとで、私は部屋探しに出かけました。私は二、三のアドレスを手渡され
ていて、ベーフヴァルト通り四八番地のイントルフ同志夫妻のところにおちつきました。
 一○月一日は土曜日でした。生徒たちはつぎつぎにやってきました。私たちはたがいに名前や
職業や役職や住所を紹介してもらいました。それから時間割について話し合い、また組織の問題
について調整しました。各生徒は月に一二五マルク、結婚していればそれに見合った家族手当を
もらうことになっていました。私たちはそれで部屋代や食費や本代を払わなければならなかった
のです。本は特価で買えました。これで党学校の第一日がおわりました。
 日曜日は遠足にゆくことになっていました。ツェーレンドルフ駅に参加者全員が集まりました。
ハインリヒ・シュルツとヴィルヘルム・ピーク同志に引率されて、私たちの小さなグループはシ
ュラハテンゼー行きに乗り、グルーネヴァルトの森の中へはいっていきました。私たちは楽しい
話をかわし、たがいに知りあいになり、夕方くたくたに疲れてベルリンに帰ってきました。
 それから最初の授業の日が来ました。私はとても緊張してローザ・ルクセンブルクの授業をい
まかいまかと待ちかまえました。私は彼女の講義についてすでにいろいろなことをきいていまし
た。いまや私はすべてがほんとうだということを確かめました。ローザ・ルクセンブルクは非常
な教育的才能をもっていました。すばらしい手腕とすぐれた説得力で、彼女はカール・マルクス
がその著『資本論』で説明した政治経済学の複雑な問題を分析し、私たちにわかるように説明し
てくれました。そのさい彼女は立証のために最近の経済と歴史の研究を利用しました。彼女の『
国民経済学入門』は中央党学校でのこの講義から生まれたものです。
 学校の授業ではマルクス主義の基本問題や現在の政治闘争の多様な問題ととりくみました。ロ
ーザ・ルクセンブルクは一九〇七年から経済史と国民経済学の講師として活動しましたが、その
ほかに、私たちのコースではフランツ・メーリングがドイツ史と社会民主主義の歴史について、
アルトゥール・シュタットハーゲンが労働法について、ハインリヒ・クーノウが文化史について、
またエマヌエル・ヴルムが博物学の諸問題について講義してくれました。グスターフ・エックシ
ュタインは哲学と社会学の諸問題について報告講演をし、党学校長で本職は教師のハインリヒ・
シュルツが呼吸術を教えてくれ、また談論、駁論、記事、論文の作成を教えてくれました。多忙
な弁護士フーゴ・ハイネマンは法律学の講義をしました。彼はいつもひじょうにせわしくしてい
ましたので、まだオーバーを着たままでもう講義をはじめ、授業のおわるすぐまえまで、まだし
ゃべりながら、ふたたびオーバーをはおり、急いで出ていきました。
 先生がたの努力、わけてもローザ・ルクセンブルクとフランツ・メーリングの活動が、この党
学校をマルクス主義の思想財、階級闘争の思想財を伝授する真実の学校にしたのでした。
 一〇月八日にささやかな始業式がおこなわれました。教室のとなりの休養室は花や色とりどり
のナプキンで飾りたてられました。ハインリヒ・シュルツとヴィルヘルム・ピークは次から次へ
といろんなしゃれや遊びを考え出しました。前のコースの生徒たちや、もちろん先生がたも、陽
気な一座に加わりました。フランツ・メーリングは、その賢者の目と長く波うつひげで、まるで
本物の家長のように見えました。別れるとき真夜中に、私たちはマルセイエーズをうたいました。
 ある日授業のあとで、ローザ・ルクセンブルクが私に一度彼女を訪ねてくるよう招いてくれま
した。私はよろこんで承諾しました。少しおくれて私は彼女のところへ出かけました。彼女の住
まいはとても質素に見えました。しかし貴重な書物がたくさんありました。寝室にはベッドが部
屋に見捨てられたようにおかれていました。衣装だんすが一つと、書物がいっはいつまった書棚
が三つ壁ぎわにすえられていました。仕事部屋には質素で古風な書きもの机がありました。ロー
ザは書きもの机の小さな戸棚の扉に、テーセウスとヴィーナスのブロマイド写真を貼りつけてい
ました。私はローザに私の職業や政治活動について報告しなければなりませんでした。つづいて
私たちはもちろん、二人ともねこがすきなことも語り合いました。というのは、ローザは私が学
校の銀ねずみ色の若い雄ねことすぐになかよしになったのを見ていたからです。笑いながら確か
め合ったことですが、これで私たちは最良の人たちの仲間入りをしたわけです。というのは、有
名な人たちのなかにはねこを愛した人がたくさんいたからです――クロムウェル、画家のリヒタ
ーとシュヴィント、ゲーテ、E・T・A・ホフマン、メーリケ、ハウフ、それにシュトルムがそ
うでした。
 私がときおりローザ・ルクセンブルクを訪ねることは、有益で元気を回復するおしゃべりの時
間になりました。私たちには多くの時間はありませんでした。私たちの毎日は授業の用意やとて
も多くの学習や宿題でいっぱいだったのです。
 党学校の指導部はそのほかにも、講演をきいたり印象的な見聞をするためにも配慮してくれま
した。こうして、ローザ・ルクセンブルクはレフ・トルストイにやいて一夕の講演を引きうけた
のです。この講演に私たちはことのほか刺激をうけました。フーゴ・ハイネマンのあっ旋で私た
ちはモアビートの裁判所で審理を傍聴することができました。ベルリンの住宅事情にかんするス
ライドつき講演は、資本主義的大都市のプロレタリアの生活をまざまざと私たちに見せてくれま
したが、これは私たちの心を深くゆさぶりました。ベルリンの地下鉄の大きな作業現場には驚異
の目を見はりました。ベートーヴェンの第九シンフォニーを公演したベルリン労働者合唱団の婦
人たちによって、私たちは特別の見聞をすることができました。そして私たちみんなにとって忘
れられないのはソフォクレスの劇「オイディプス王」の上演で、これはマックス・ラインハルト
がシューマン・サーカスの大きな円形舞台で下げいこしていたものです。
 私と同じように一九一〇年から一一年にかけての冬のコースの生徒だった同志たちのたいてい
の人と私は親密な間柄になりました。彼らはドイツのいたるところからベルリンの党学校にやっ
てきました。彼らはたいてい党や労働組合の活動で「練達のベテラン」でしたが、しかしまたな
かには、ハレのヴィルヘルム・ケーネンや、シェトゥットガルトの金属労働者ヤーコプ・ヴァル
ヒャーのような若い同志もいました。
 アンナ=マリア・ディーツ同志と私は、私たちのコースの紅二点でした。休憩時間に私たちは
コーヒーや紅茶やココアをかわるがわるわかしました。というのは、台所仕事は私たちの受けも
ちだったからです。私たちはコーヒー、紅茶、ココア、ミルク、砂糖を買い入れて、いっしょに
勘定しました。私たちの休養室には必要なものは、ガスこんろも食器もみんなそろっていました。
パンと菓子は生徒がそれぞれ自分でもってきました。昼食はどこかある飲食店でとりました。
 一週一週はまるでとぶように過ぎていきました。コースのおわるころ、生徒はめいめい学校で
みじかい報告をするほかに、正規の公開講演をしなければなりませんでした。これはたいていの
ものにはべつにわくわくするようなことでもありませんでした。というのは、私たちは党生活の
実践を経験してきたからです。私は党婦人局からテーマをもらってきて、ノイブランデンブルク
の公開集会で話をするように言われました。それで私はノイブランデンブルクへ出かけました。
はじめ私はいくらかあがってしまいましたが、会は入りもよかったし、来会者とのわたりもつい
ていました。とくにうれしかったのは、婦人たちもこの集会を主催していたことでした。それに
数年のうちになんという変わりようでしょう! 一九〇五年にはまだシュヴェーリンでは、市参
事会の公開集会のはじまるまえ、私はホールの入口で市の役人からえらい見幕で「ここは女たち
の来るところではない。これは男のための集会だ」としめだしをくらりたものでした。
 党学校の最後の時間はローザ・ルクセンブルクの授業でした。私たちが実践活動のなかにあっ
ても学校で教わったことを忘れないで、いっそう努力するようにと、彼女はもう一度私たちの心
に刻みこみました。毎日なにかよい、有益な書物を読むよう、彼女は私たちにさとし、さらにつ
づけていうには、あなた方にはしなければならないことがたくさん持ちこまれるだろうというこ
とは、たしかに承知しています。しかし、肉体が食事をとるために休息を必要とするように、精
神もまた栄養をとるために休息をもたなければなりません。というのは、そうしてこそはじめて、
精神は私たちの闘争の要求をはたせるだけの弾力性をもちつづけることができるからです。
 午後、私はもう一度ローザの家を訪れました。私たちの政治的実践の経験や、学校や動物や草
花のはなしで私たちのおしゃべりははずみました。お別れの時間はあまりにも早く過ぎさりまし
た。ローザはどんなことがあっても手紙を書くようにと、なおも私に言いきかせ、それから私た
ちは最後の握手をしたのでした。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA〇三七七
  フリッツ・ヘッカート

     一八八四年ケムニツに生まれる。建築労働者。一九〇二年以後社会民主党員。ケムニ
ツの労働者兵士評議会議長。ドイツ共産党創立者の一人。一九三六年死去

 私がはじめてローザ・ルクセンブルクに会ったのは一八九八年だった。彼女はちょうどスイス
から帰ってきたばかりで、ドイツではベルンシュタインにたいする闘争を引きうけた。彼の論文
「社会主義の諸前提」はドイツ社会民主党におけるマルクス主義の公然たる修正のはじまりを披
露したものであった。ローザは、ザクセンの工業都市ホーエンシュタイン=エルンストタール郊
外の古い夏場の庭園食堂「ツーア・ツェッヒェ」の大広間で話をすることになっていた。近郊の
あらゆる村や町から、そればかりかケムニツからも、急進的傾向を代表していた社会主義的労働
者が、この若いポーランド婦人の話をきくために、この集会にどっと押しよせてきた。私も両親
といっしょにホーエンシュタイン=エルンストタールに出かけた。そのころの私は、社会民主党
の内部でくりひろげられていた闘争のことはほとんど知らなかったし、彼女の議論の展開よりも
むしろ演説者その人にはるかに関心をよせていた。
 当時は二一歳末満の若い男子はすべて政治的な催しに参加することを厳禁されていた。だから
私は集会の治安をまもる任務についていた憲兵に見つからないように、窓のカーテンのかげにか
くれていた。議長が、二一歳未満の男子はすべてこのホールから立ち去ってもらわなければなら
ない、そうしなければ両親は罰金を課せられるだろうし、集会は解散させられるだろうと告げた。
ちょうどその瞬間、私は庭園のほうから見張っていた憲兵にとっつかまった。ホールは超満員だ
った。聴衆は庭につきだしている窓に文字どおりぶらさがっていた。こういう事情が私の災難に
なったのだ。憲兵は私をカーテンのかげから引きずり出し、憲兵おきまりの悪口雑言を私にあび
せかけた。私は会場を出ていかないわけにはいかなかった。それはまったくつらいことだった。
 集会がおわると、たいていのひとはビアガーデンのほうへ出ていって、家に帰るまえに一杯や
った。ローザもまたそこへやってきて、テーブルに近づき、そこに腰かけている労働者たちと楽
しげに話をした。それから彼女は私の両親のテーブルに腰をおろした。彼女は私のがっかりした
顔つきを見て、私がなやんでいるわけをたずね、私をなぐさめてくれた。「勇気をなくしちゃだ
めよ。私たちの階級の解放のたたかいでは、あなたが今晩この会場で経験したよりもはるかには
るかに大きな失望を私たちは味わうことでしょう。しかし、たとえどんなことがやってきても、
私たちは勝利するのです。だから、あなたは勇気をなくしてはいけません。そんな顔つきはいけ
ませんよ!」私とローザとの親しい友情はこの日からはじまる。この友情はかわることなく私を
彼女に結びつけた――彼女の悲劇的な最期にいたるまで。
 軍国主義と帝国主義戦争にたいするリープクネヒトの態度に動かされて、私は彼の熱烈な支持
者になった。一九一四年一二月に私はドゥンカー夫妻のところで彼に会った。私は彼に、議員団
の規律に拘束されていたとはいえ、なぜ八月に戦争公債の承認に反対票を投じなかったのかとた
ずねた。言うまでもなく、議員団の規律はきわめて厳格なものであった。だれかが断固それをや
ぶるなどということは、だれもほとんど想像することもできなかっただろう。カール・リープク
ネヒトは、一九一四年一二月二日にこの議員団の規律などもはやまったく眼中になかった。彼は
反対の声をあげたのであり、彼は全力をあげて戦争をおわらせ、帝国主義政府を打倒するために
働いたのだった。したがってドイツの革命的労働者は、革命家で国際主義者である彼こそほかな
らずその義務を果たす男のなかの男と見たのだ。
 われわれは歓談のあいだわれわれの若い革命運動について長いあいだ話し合った。そして私は
私の故郷、工業の中心地ケムニツで何がおこっているかを一つ一つ話してきかせた。そのあとで、
彼は国会と彼の住まいへいくのだがしばらくいっしょに来てくれないかと私にたのんだ。この途
中で、彼は現在生じている条件のもとで、社会民主党のなかで仕事をするのがどんなにむずかし
いことであるかを、もう一度私に説明してくれた。この時点から私は前よりもずっと注意して彼
のすすんでいった足どりを一歩一歩みまもることになったのである。
 一九一六年五月一日のリープクネヒトの行動と法廷での彼の態度は、私に最大の印象をあたえ
た。彼にたいする判決は私をめいらせ苦しめた。だからレオ・ヨギヘスがカールが、刑務所から
よせた手紙のなかの幾節かを読んできかせてくれて、われわれの友人は健康で上機嫌だと私に言
ってくれたときにはいつも私はうれしく思ったものだ。私は彼が一九一八年一〇月に釈放された
ことは知らなかった。というのは、そのころ私自身が監獄のなかにいて、世間からひき離されて
いたからだ。
 一九一八年一一月八日に監獄から釈放されたあと、私はふたたびカールに会った。われわれは
プロイセン州議会の廊下でばったり出くわしたのだ。労働者兵士評議会の会議に行くときだった。
彼はわれわれの仕事の大きな進歩について、ウェディングとノイケルンの労働者や、シュヴァル
ツコップ工場、アー・エー・ゲー(一般電気会社)、クノルやその他のベルリンの大工場の労働
者をわれわれの味方に獲得したその速さについて、元気いっぱいで私に報告してくれた。復員し
た兵士大衆をわれわれの側に引きつけることにもわれわれは成功するだろうと、彼は私に保証し
た。
 それから私は、スパルタクス同盟と革命的オプロイテのイニシアティヴで国会議事堂の前をデ
モっていた大衆に向かって、衆議院会館のまえで彼がおこなったあいさつをきいた。
 一九一九年一月五日、私は党の記録をとりにベルリンへ出かけていった。私はノイシュテッテ
ィシェ・キルヒ通りで降りた。すぐ翌朝にはリンデン通りのうえを銃弾が笛のような昔をたてて
とびかった。私は弾丸にあたらないように、通りを四つ這いにたって横切らなければならなかっ
た。あの朝、私はヴィルヘルム通りの近くでレオ・ヨギヘスとローザの二人と短時間話し合った。
ローザは武装蜂起について疑念を述べた。にもかかわらず、彼女は『ローテ・ファーネ』紙で最
大の情熱を傾けてその勝利のためにたたかったのである。
 ローザとカールの死はわれわれにとって重大な打撃であった。その夏運河で発見されたローザ
の遺体はひどい傷を負っていたが、その遺体をフリードリヒスフェルデの墓地に埋葬したときに
も、まだわれわれの受けた落胆はつづいていた。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA〇三五八
          『ランチルナシオナル・コミュニスト』第三巻第三五号
  ルーツィエ・ハイムブルガー−ゴットシャール

     一八九七年ベルリンに生まれる。商店の女子職員。一九一五年以後社会民主党員。
ベルリンの反対派青年中央指導部のメンバー。 ベルリンの古参共産党員

 私はずっと若い娘のころからすでに、ローザ・ルクセンブルクのことをきいていました。一九
一二年以来、私は社会主義労働青年のメンバーで、そしてヴェンゲルス一家とはごく懇意な間柄
でした。第一次世界戦争が勃発してからは、この大家族には、社会民主党から独立社会民主党を
へてスパルタクスグループおよび反対派青年にいたるまで、労働運動のほとんどすべての党派が
そろっていました。だからヴェンゲルス一家ではいつもはげしい討論がたたかわされ、うち中こ
ぞって、とりわけいちばん若い世代とその友人たちは、ひじょうに活発に議論をしていました。
社会民主党の党幹部会のメンバーであるローベルト・ヴェンゲルスは、うれしいことに、「戦争
社会主義者たち」にかんする彼の意見をざっくばらんに述べてくれました。さらに彼は娘のエル
ナと私を彼の「共犯者」とさえ言いました。なぜなら、二人は党幹部会に反対することでは、意
見が一致していたからです。私たちはまたあらゆる行動にも参加しました。私たちからヴェンゲ
ルスのお母さんと呼ばれていたマルガレーテ・ヴェンゲルスは、ベルリンの社会主義婦人運動の
指導的な役員でした。彼女から私たちはおもしろいことをたくさんききました。彼女はしばしば
ローザ・ルクセンブルクのことも話してくれました。
 ローザ・ルクセンブルクはポーランドの革命家の一人で、ヴェンゲルス一家の住まいにかくれ
ていました。それはドイツの警察がツァーリの手さきに彼女を引きわたすために捜索していたと
きのことでした。あるとき、ポーランドの同志たちが衣裳だんすに入って、「家具運送」とみせ
かけて警察の目をごまかし、ヴェンゲルス一家の住まいから安全に運びだされたのを、私はまだ
覚えています。
 ヴェンゲルスのお母さんからはまた、ベルリンの労働婦人たちがローザ・ルクセンブルクに絹
の服を贈ったときのことを聞かせてもらえました。ローザがベルリンの婦人監獄、バルニム通り
の「バルニム」から釈放されることになったとき、新しい服を買うために募金をしました。とい
うのは、ローザのもっていた服はじつにつましいことを知っていたからです。ベルリンの縫い子
たちがその服を仕立てました。それでローザ・ルクセンブルクはこのすばらしい絹服を着て監獄
を出ることができたのです。ヴェンゲルスのお母さんは、ローザ・ルクセンブルクがこの贈り物
をどれほどよろこんだか、話してきかせてくれたのです。
 私がはじめて演説者としてのローザ・ルクセンブルクにめぐりあったときは、感激してしまい
ました。それはベルリンの社会民主党組織の役員たちの集会のときで連合総会と呼ばれ、一九一
六年六月二五日の日曜日にショッセー通り一一〇番地のゲルマーニア・ホールで催されました。
私は二階に腰かけられる集会招待券を手に入れました。私はベルリン労働青年の指導部で働いて
いたからです。私といっしょにリヒャルト・レーボックとフリッツ・シェーファーの青年同志も
参加しました。ローザ・ルクセンブルクがどんなに鋭く右派社会民主党指導部の裏切り政策を非
難したことでしょう。私はびっくりしてしまいました。この集会ではだれひとりとして軍国主義
と帝国主義戦争に反対して彼女ほどおおっぴらなことばを吐露したものはありませんでした。
 二階ではローザ・ルクセンブルクにたいしてとくに強い賛成が示されました。というのは、そ
こには多数の反対派青年や、党幹部会の待機政策にたいしてやかましく反対する人々が陣取って
いたからです。ローザ・ルクセンブルクのおおっぴらではっきりしたことばのおかげで大きなほ
っとした吐息がホール全体にひろがりました。論争の具体的な対象となったのは、エルンスト・
マイアー博士その他の寄稿者たちをやめさせたことで頂点に達した『フォールヴェルツ』紙編集
部にたいする党幹部会の態度でした。ローザ・ルクセンブルクその他の筋の通った革命的同志た
ちにとって肝要だったのは、党幹部会の政策にたいして原則的批判を加えることでした。彼女は
ベルリンの党組織がそのためにイニシアティヴをとることを期待していました。彼女はフーゴ・
エーバーラインその他の人たちと共同でそれにあった提案を出しましたが、しかしこれは自分た
ち自身の勇気に不安を感じたフーゴ・ハーゼ、ゲオルク・レーデブーアとエルンスト・ドイミヒ
の行動のためにだめにされてしまいました。
 カール・リープクネヒトはしばしばベルリン労働青年のまえで話をしました。戦争が勃発した
とき、私はハーゼンハイデの大ホールで彼の話をききました。彼の火を吐くような演説に私たち
若い者は感激したものでした。
 労働者教育学校にカール・リープクネヒトは定期的に教師として出てきました。かれの主要テ
ーマはとくに若い労働者の関心をひいた問題、すなわち戦争と軍国主義に反対する闘争でした。
カール・リープクネヒトの講演に刺激され、労働青年ホームでは、このテーマについて、一九一
四年以後党幹部によって目をくもらされた人たちとのあいだに激論がかわされました。
 私はカール・リープクネヒトが一九一六年五月一日にベルリンのポツダム広場で反戦闘争を呼
びかけたとき、彼を見ました。また一九一八年一〇月二三日彼がルッカウ刑務所から釈放された
あと、彼をベルリン青年同志の一人としてアンハルト駅前で熱烈に歓迎しました。私がふたたび
カール・リープクネヒトを見たのは、一九一八年一一月二〇日、ベルリン労働青年の役員エーリ
ヒ・ハーバーザートの葬式のときでした。ハーバーザートは十一月革命の期間中ベルリンで最初
に倒れた人で、他の革命戦士とともに、ベルリンのフリードリヒスハインにある一八四八年の三
月革命戦死者の墓地に合祀されました。
 カール・リープクネヒトはエーリヒ・ハーバーザートの柩のかたわらの、一列に並んだ墓のま
えに土盛りをした小高いところに、すっくと立ちあがりました。そしてたたかう労働青年に、い
つまでもプロレタリア革命の旗の傍らにとどまり、あくまで帝国主義と軍国主義に反対し、世界
平和と社会主義をまもるたたかいをつづけるよう習わせました。
 エルナ・ヴェンゲルスはローザ・ルクセンブルクの秘書として『ローテ・ファーネ』の編集部
で働いていました。一一月から一二月にかけての闘争の最中、あるとき彼女が病気になったので、
私は労働者兵士評議会の執行委員会で秘書の仕事をしていましたけれども、彼女の代わりをつと
めることになりました。私はローザから手書きの原稿を受けとったときはいつも、彼女の文体の
明快なことと、彼女の真珠のような細かい筆跡の美しいのに感心したものでした。もっとも速記
タイピストにとっては、この雅趣のあるみごとな筆跡はかならずしも判読しやすいものではあり
ませんでした。『ローテ・ファーネ』の編集部で私はまたヴィルヘルム・ピーク、カール・リー
プクネヒト、レオ・ヨギヘス同志にもしばしば会いました。
 それから共産党創立前のあの日々がやってきました。この行事をひかえて多くの話し合いがお
こなわれました。一九一八年一二月の中頃、私はカール・リープクネヒトがプロイセン衆議院会
館のなかにある労働者兵士評議会の執行委員会でエルンスト・ドイミヒとおこなった討論に立ち
あいました。カール・リープクネヒトはこの討論で、ドイミヒと独立社会民主党の指導部が共産
党樹立に参加するように説得しようとしたのです。カール・リープクネヒトがエルンスト・ドイ
ミヒに共産党樹立の必要性を納得させようと努力した根気強さに私は感銘を受けました。彼が立
ち去ったあと、私はエルンスト・ドイミヒの言葉から、独立社会民主党の幾人かの指導者たちに
とっては、肝心な事よりも役職や地位の値切りとることが問題なのだということが判りました。
 プロイセン衆議院での共産党創立集会で、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク
の話をきいたのが最後になりました。私は労働者兵士評議会の執行委員会の来賓として出席を許
されました。この創立集会に参加したことは私にとって大きな事件でした。
 一九一九年六月一三日、ベルリンの労働者たちがローザ・ルクセンブルクの葬式をした時には
ものすごいデモンストレーションになりました。幾千もの人たちがフリードリヒスフェルデに集
まりました。労働青年、とくに多くの娘たちは、ローザに最後の敬意を表するために、もうずっ
と前から集会をひらいていました。
 クララ・ツェトキンがローザ・ルクセンブルクの墓前で話をしました。重苦しい気分があたり
をつつみました。社会民主党指導部の裏切り政策によって反動が日に日につのり、十一月革命の
わずかな獲得物もごまかされはじめました。
 私はクララ・ツェトキンのそばに立っていたので、彼女の姿をはっきり見ることができました。
ローザ・ルクセンブルクの生涯と闘争、そしてそのおそろしい最期について語ったときのクララ
の涙を、私はけっして忘れることはないでしょう。クララ・ツェトキンはときどき演説をつづけ
られなくなりました。それほど彼女の心は打撃を受けていたのです。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA一四八八
  アントーン・ヤーダッシュ

          一八八八年オーバーシュレージエンのクラビツに生まれる。金属労働者。
一九〇七年以後社会民主党員。オーバーシュレージエンのリピーネの労働者兵士評議会副議長。
オーバーシュレージエンのドイツ共産党創立者の一人。一九六四年死去

 一九〇五年は追ってきた。ツァーリ・ロシアにおこった蜂起がポーランドにもおよんできた。
カトリックのオーバーシュレージエンも沸きたっていた。
 組織にはいっていた社会民主主義者の息子であった私は、政治的な事柄にはなんでも耳をかた
むけた。オーバージュレージエンの工業地帯におけるわれわれの生活は苦しいものだった。学校
を卒業してから、私は鉱山労働者として鉱山《やま》に入った。私の一四歳の誕生日にはもう、
父は私を組合の集まりに連れていってくれた。そして一六歳になると私はドイツ金属労働者組合
のメンバーになった。家では父の蔵書に鼻をつっこんだ。そのなかにはマルクスの『資本論』も
あった。それからまた、『正直ヤーコプ』のバックナンバーをむさぼり読んだ。父がこの諷刺雑
誌の予約
購読者だったからだ。
 私はカトヴィツのガイスラーとミュンスターマンの黄銅躊造所で、革命的な労働者たちと接触
するようになり、彼らが私に資本主義の説明をしてくれ、資本主義とのたたかいに参加すること
を教えてくれた。ここで私はまた自分と同じ社会的・政治的環境出身の徒弟や若い労働者を友人
にすることができたのだった。
 一九〇五―一九〇六年の冬、「ローザが来た」とささやかれた。われわれ若いアナグマたちは、
労働組合に組織されていて、すでに党からまかされたいろいろの仕事をやり、ビラをまいたりし
たけれども、まだ党員ではなかったから、ローザという名をきいても、どうしようもなかった。
われわれはローザ・ルクセンブルクをまだ知らなかった。
 ある日、私は社会民主党の一同志から隣の工業地区にある飲食店にくるよう誘われた。それは、
町はずれにある、すすけた飲み屋の小さな部屋だった。そこには、われわれのほかにも政治活動
や組合活動で知りあいになった若者たちが十数人集まっていた。部屋の暖房はきいていなかった。
飲み屋の店のほうには、年輩の男が数人すわっていた。そのうち二、三人は「党員だということ
を私は知っていた。
 きめられた時間に、ある名の知られた同志が小柄な、あまりパッとしない、と言いたくなるよ
うな婦人をつれてあらわれた。すぐに静かになって、われわれは同志のことばをきいた。「青年
諸君、これから、諸君に社会主義のいくつかの問題についてよく知ってもらおうというので、ロ
ーザ同志に政治講演をしてもらいます。」それから、その小柄な婦人は話しはじめた。
 情熱をこめ、目をかがやかせて、彼女は自分の考えをくりひろげた。寒い部屋のことなど忘れ
てしまい、われわれの若い頭は熱くなった。それほどわれわれの心はつかまれたのだ。稲妻の閃
くように、社会主義学説の問題や疑問がわかった。報告者のローザはわれわれを引きつけるすべ
を心得ていた。いやもおうもなく――彼女の話すことばは、われわれの心にしっかりときざみこ
まれた。私にはこの講演がまるで天のさとしのように懸われた。われわれはロシア革命の結果に
ついてはうすうす感づいてはいたが、その偉大さと意義について私がなにかをきいたのはこれが
はじめてであり、私がレーニンのことをきいたのもこれがはじめてだった。
 なお四回か五回、われおれは三日か四日の間をおいて、いつも場所をかえて彼女から科学的社
会主義の諸問題について詳しく教えてもらった。B地区でのそういう講演のある夕方――講演は
穀物倉のなかで行なわれた――われわれはみな逃げなければならなくなった。もちろん血の気の
多いわれわれは、全力をつくして演説者の安全を守り、必要な場合には、防衛するつもりだった。
 それからわれわれの夕べの集会は中止になった。ローザは行ってしまったということだった。
参加した者の多くは政治的活動を忠実につづけた。しかしその他のものはふたたび姿をけしてし
まった。われわれの活動の条件はきわめて困難だった。政治的学習の機会はカトリックのオーバ
ーシュレージエンではほとんどまったくないといってよかった。一八歳末満のものはだれも党員
になることは許されなかった。社会主義青年組織はなかった。その樹立は禁止されていたのだ。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA〇四二四
  マルガーテとエーリヒ・レヴィンゾーン

     マルガレーテ・レヴィンゾーン――一八九〇年ドレスデンに生まれる。婦人労働者。
一九〇九年以後社会民主党員。ザクセンの労働者兵士評議会のメンバー。ドレスデンの古参共産
党員
     エーリヒ・レヴィンゾーン――一八九二年ドレスデンに年まれる。庭師。一九一〇年
以後社会民主党員。ザクセンで十一月革命に参加。ドレスデンの古参共産党員

 ほとんど二年間、ドイツ帝国主義によってたくらまれた第一次世界職争は荒れ狂った。戦場で
は毎日幾千もの若者が血を流して死んでいった。
 戦争がはじまったとき、われわれはドイツ社会民主党員として限りない失望におちいった。な
ぜなら、われわれの党幹部会は一九一二年のバーゼル会議の決議をまもらず、そのうえ帝国議会
の社会民主党議員は戦争公債に同意をあたえてしまったからだ。ただひとりカール・リープクネ
ヒトだけは、一九一四年一二月二日に戦争公債に反対して勇気ある行動をとった。だから、軍国
主義と戦争に反対する彼の徹底的闘争を高く評価していた若い同志たちの敬愛の情は、当然彼に
ささげられた。
 われわれは当時戦争を欲しないというだけでは十分でなく、戦争にたいしてたたかわなければ
ならないと信じてうたがわなかった。カール・リープクネヒトを手本として、われわれは懸命に
反戦のプロパガンダを強めていった。われわれはビラまきの手つだいをし、そのビラによって、
民族相互の虐殺をやめることを要求し、軍需工業労働者にストライキを呼びかけた。マルガレー
テは当時彼女の勤めていたドレスデンの都心のリッツェンベルク通りの労働組合図書館の部屋を、
反対派勢力の会合のために自由に使わせた。われわれはスパルタクスグルーブの集会に参加した。
 一九一六年三月末、カール・リープクネヒトが提案し、四月二三日と二四日にイェナでひらか
れる革命的労働青年の非合法全国会議に参加するよう指示を受けたときには、われわれは感激し
た。それほど進んでいるとは、ほとんど予期していなかった。会議までのあいだ、汽車賃が支払
えるように、食うものも食わずに一グロッシエンでも倹約した。
 ついに、出発の日がきた。サンドイッチの弁当、毛布、それに洗面用具をリュックサックにつ
めこんで紐を結んで――われわれは徒歩旅行のグループのふりをしたのだ――それから出発した。
 われわれドレスデンの若い同志八人は、すばらしい大気に乗じて汽車で目的地に向かった。わ
れわれはしかし、目的の駅の二つ三つ手前の駅で下車して、ザール河にそって残りのキロメータ
ーをイェナに向かって歩いた。そこでは同志たちがわれわれを会場へ案内してくれた。
 全ドイツからここに四〇名以上の革命的青年の代表、若い同志たちが、集まってきたのは、こ
れからの仕事を明確にきめるためであった。カール・リープクネヒトはわれわれに話をするだろ
うかと、われわれはこっそりたずねあった。彼がベルリンをはなれることを禁止されていること
を、知っていただけに、われらのカール・リープクネヒトが会場に入ってきたときのよろこびは
いっそう大きかった。彼は警察の裏をかいて、数時間だけ非合法にイェナへやってきたのだ。い
まや彼は当面するもっとも重要な課題についてわれわれに説明した。
 われわれは彼の詳しい説明に注意ぶかく耳をかたむけた。戦争挑発者にたいする彼のはげしい
告発と、戦争を終わらせるために全力を傾けようという彼の要請が、とくにわれわれの記憶に残
った。カール・リープクネヒトは、労働者階級の闘争の日、メーデーの名誉を回復しなければな
らないと強調し、彼自身はこのたたかいの先頭に立つだろうと述べた。
 会議の防衛はイェナの同志たちが引きうけた。彼らがこの任務をどんなにりっぱに果たしたか
は、会議に参加した人々のうちだれも、防衛の任務をひき受けた同志たちがどのように、そして
どこに、配置されていたかをほんとうに知らなかったことからでも、よくわかる。
 会議のあと、われわれはイェナ近郊の山イェンツィヒへハイキングに出かけた。「鼻」と呼ば
れている、かなりけわしいでこぼこ道を登っていった。登りながらカール・リープクネヒトはわ
れわれに、仕事はなにをしているか、どんな成果をあげ、どんな困難があるか、とたずねた。そ
うしながら、彼はくりかえして戦友として示唆と助言をしてくれ、あるものには慎重にやるよう
さとし、他のものにはもっと勇気を出せとはげました。みんなそれぞれカールのそばを歩こうと
し、彼と話をするか、少なくとも彼の言うことを正確にききとろうとした。
 別れぎわにカール・リープクネヒトは、われわれ一人一人に手を差しだし、メーデーをいたる
ところで戦争をおわらせるためのたたかいの日として祝おうと、われわれに約束させた。彼自身
は約束をまもった。一九一六年五月一日、カール・リープクネヒトはベルリンのポツダム広場で
演説した。
 われわれもとりかわした約束を果たすために努力した。当時「赤い土地」と呼ばれていたドレ
スデン=フライタールのプラウエンの土地は、搾取と抑圧に反対するたたかいでりっぱな伝統を
もっていた。この土地でわれわれは一九一六年非合法メーデーを野外で決行した。
 一年後の一九一七年五月一日には、われわれはもうドレスデン通り、今日のフライタールの本
通りを行進するかなり大きなデモンストレーションを組織した。警察はわれわれを追い散らした
が、しかしわれわれはふたたび隊列をととのえた。そのしかえしに警官はデモに参加した人たち
を逮捕して交番へ連行していった。するとわれわれは「逮捕者を釈放せよ!」と叫びながらその
あとを追った。そのためにますます多くの人が集まってきた。これは大きな効果をあげるメーデ
ーになった。警察は発砲するぞとおどした。数人の若い同志が銃のまえに立ちはだかって、「射
つなら射て!」と叫んだ。デモ隊の姿勢がますます威嚇的になっていくのを見ると、結局逮捕者
を釈放するほかなくなった。いまや、われわれはみんなでメーデー大会広場へ向かって行進して
いった。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA〇五七〇
  ゾフィー、リープクネヒト

     一八八四年ドン河畔のロストウに生まれる。美術史家。カール・リープクネヒトの妻
で戦友。一九六四年死去

 一八九〇年社会主義者取締法が廃止されたあと、ヴィルヘルム・リープクネヒトは妻のナター
リエと五人の息子テオドール、カール、オットー、ヴィリー、クルトをつれてライプツィヒから
べルリンに移住しました。「彼はなかなか決心かっかなかった。彼の心はライプツィヒに執着し
ていた。ベルリンは彼にはなじみがなかった。しかし、ベルリンはまもたく彼にとって新しい故
郷となった。彼のジャーナリストとしての、また議員としての実り多い活動、彼がベルリンの労
働者たちからうけた無限の愛、気のおけない、あたたかい交際、それにクルーネヴァルトの森の
ために、ベルリンは彼にとってしだいに大切な、住み心地のよいところになっていった。」クル
ト・アイスナーはヴィルヘルム・リープクネヒトの追憶でこう書いています。
 まず気のおけない交際、そして次に深い友情が、リープクネヒト一家とバラディース一家を結
びつけました。日曜日ごとのグルーネヴァルトの散歩を綴った写真もそれを雄弁にものがたって
います。それらの写真には、ヴィルヘルム・リープクネヒトとその家族、そしてどの写真にも、
親しいまなざしをしたパラディース氏と、とてもしとやかな若い娘のユリアがうつっています。
彼女は、私の夫や義弟のクルト・リープクネヒト博士の話しでは、リープクネヒト家の五人の兄
弟の遊び仲間で、また幼な友だちでもあり、五人とも彼女に惚れこんでいたそうです。彼らのう
ち、兄たちは彼女と結婚しようと考えていましたが、カールが彼女のお気に入りだということが
わかり、彼はバーダーボルンで司法官試補の期間を終了し、ヴュルツブルクで博士の学位を授与
されてから、一九〇〇年五月、彼の父がまだ生きていたうちに、彼女と結婚しました。
 カールの家族がふえ、彼は二人の息子と一人の娘の成長を楽しんでいましたが、彼はひじょう
に早く最初の妻をなくしました。一九一一年の夏、彼女は友だちといっしょにライン州の自動車
旅行にでかけた途中、エムスで手術を受けなければならなくなり、その手術中に亡くなったので
す。

 日曜日のグルーネヴァルトの散歩は、べルリンと彼を結ぶきずなの固くなっていくことをしめ
すしるしとなりました。わずかに残っている写真で判断すると、ヴィルヘルム・リープクネヒト
は森のなかを歩きまわるとき、家族のほかに友人や知人を自分のまわりに集めるのがすきでした。
いつも新顔が現われました。それで、ある写真には、ヴィルヘルム・リープクネヒトの五人の息
子のいちばん仲のいい幼な友だちで、のっぽのオットー・ブラッケ―― 後にブラウンシュヴァ
イクで弁護士となり、一九一六年の裁判では私の夫の弁護をしてくれました――が、ヴィルへル
ム・リープクネヒトのうしろに立っていて、彼の背たけはみんなを抜いています。別の小さな写
真には、社会民主党議員のヒルシュがヴィルヘルム・リープクネヒトの足許に腰をおろしていま
す。
 一八九〇年から一九〇〇年までのベルリンの一〇年間がたつうちに、この散歩は家族の動かせ
ないしきたりとなり、父が亡くなってからも、このしきたりは息子たちの気持と生活習慣に深く
根をおろし、それを少しでも変えようなどということは、だれにも思いもよらぬことなのでした。
 しかし時代は変わりました。ヴィルヘルム・リープクネヒトの息子たち、テオドールとカール
とオットーは、新しい世紀のはじめに彼ら自身はや父親になっていましたが、日曜日ごとにいっ
しょに歩きまわった思い出が忘れられなくて、いまもなおそっくり生きつづけている深い感銘を、
いま成長ざかりの彼らの息子たちの人生行路でも味わわせてやりたいという願望に結びつけまし
た。ですから、家族のなかへ私が「統合」されたころ(一九一二年一〇月カール・リープクネヒ
トと私は婚約しました)、おなじみの森の小径へハイキングに出かける準備をしたのは、もう三
代目でした。そして、もしも一九一四年のいやな夏がいろいろのもくろみを台なしにしなかった
ら、なにもかも四散させなかったら、そしてヴィルヘルム・リープクネヒトの三人の息子テオド
ール、カール、クルトに軍服を着せてながいあいだ彼らの家族から遠ざけなかったとしたら、お
そらく彼らのあとに四代目がつづいたことでしょう。
 私は夫からこの伝説的な散歩の話をたくさんきいていたので、日曜日ごとの「決起の最高指揮
権」がいちばん上の息子のテオドールの手に移ったことも知っていましたし、またピクニックの
あいだ平和なかおりをただよわせる新鮮な森の空気をみたして、ときおり私の夫と彼の兄弟たち
のあいだに、政治的論議の嵐のふきまくったことも知っていました。そしていま私はずっとまえ
からよく知っていたグルーネヴァルトが新しいすがたを見せてくれるのを待ちきれたい思いでし
た。グルーネヴァルトはしっかりと枝をはる松の幹や、はるか上の方でかすかにざわめく冠のよ
うな梢とともに、私の人生の数々の章の伴侶となってくれ、数々の秘密を護ってくれました。私
は一人で、あるいは二人でクルーネヴァルトへ出かけることを覚え、ヴァンゼーの湖の見える「
大きな窓」のところで胸中の思いを打ちあけたり、決心をつけたりしながら、苦心して仕事をや
りくりしてきた夏の日の幾時間かを、かぐわしく暖かい空気を吸ってすごすのでした。しかし、
連れだっていくのはわりにすきでしたけれども親戚や子供たちといっしょにグルーネヴァルトを
歩きまわるのは、私にはなじめませんでしたし、いつまでもそうでした。
 はや土曜日から、いまでは私になついた子供たち、へルミー、ボビー、ヴェーラはいきいきと
動きはじめました。待ちに待った日の天候について推測したり、小さな丸い晴雨計をたたいて都
合のよいところに合わせようとしたり、行進計画をつくりあげたり、植物採集や蝶類の採集のた
めにいっしょにもっていく道具について議論したり、こうしたことがすべて子供たちの会話の中
味でした。
 日曜日は朝早くからたいてい電話で合戦がはじまりました。この合戦には子供はもちろん大人
もまるで子供のようにふるまいました。電話は鳴りやむことがあっても、またすぐ鳴りはじめま
した。ああでもないこうでもないという天の邪鬼が勝ちました。どこで、何時におちあおうか、
クルーネヴァルトの駅にしようか。いや、ヴァンゼーの駅ツェーレンドルフにしよう。そこから
はシュラハテンゼーの湖やアンクル・トムの小屋へ歩いていけるもの――そして、電話線がジャ
ンジャン言っているあいだに、時間が過ぎていきましたが、これはだれにとっても残念なことで
した。そこで、こうしてむだにすごした時間を長びかせて、あとで後悔することがないように、
テオドールおじさんのおだやかな「命令」で、集合地について怠りがまとまって、愉快に動きだ
すと、まもなく野外につきました――大人たちはすばやく売店で買いあつめてきた日曜新聞を手
にして、はやくも政治的論争にまきこまれていましたし、子供たちはあたりを自由にかけまわっ
たり、ふざけあったりで、楽しそうで、大人たちにいろんなことをきいて質問ぜめにしたり、小
さなグループをつくったり、ひとりで蝶を追っかけたり、あるいは新しい、名も知らぬ花を摘ん
だりするのでした。
 木々のあいだに見えかくれするたくさんの散策者たちにまじって、私たちもしばらくは森の支
配者となって自由に、ゆっくり散策を楽しみました。頃あいになるといつも、一家そろってのピ
クニックのつねで、一休みしました。お次はサンドイッチや自家製の菓子や魔法びんの出る番で、
ぼつぼつはじまる疲れを追い払いました。
 気骨のおれるやっかいな生活は、後で倍の重さで心にのしかかってきましたが、それも小一時
間ばかりは消えてしまい、政治の嵐はしずまり、森はざわめいてきびしいリズムをかなでました。
私の夫といちばん下の弟クルトは二人ともこの辺一帯の植物をすばらしくよく知っていて、摘ん
できた小枝や花を手にとって植物学について楽しそうに語りあい、大きい方の子供たちには植物
の構造や性質を説明してやるのでした――そして二人はそういうことがとても好きで、ひじょう
に上手でもありましたが、子供たちの方ではながくはじっときいていないで、不意にあらわれた
一団の人たちのおもしろそうなとんぼ返りや、インディアン踊りやら、あるいは何だか知らない
踊りに呼びよせられて、あとを追うありさまでした。
 気分はさわやかになったものの、体は疲れて、家路につきました。家に帰ると、重荷を背負っ
た日常生活ははやすでに日曜日の晩から、おとずれてきて、電話がかかったり、手紙が配達され
たり、急ぎの仕事がもちこまれたりするありさまでした。

 ショッセー通り一二一番地の建物にテオドールとカール・リープクネヒト博士兄弟の、後には
テオドールとヴィリー・リープクネヒト博士兄弟の弁護士事務所がありました。
 事務所はひろくて、大きなベルリン風の部屋は待合室に使われていました。さまざまの住民層
の、とくにプロレタリア階層のたくさんの依願人が両弁護士の一人を待っていました。仕事部屋
は、書きもの机、電話、椅子、壁に訴訟書類の棚といった簡単なものでした。事務所は多くの糸
で弁護士たちの家庭と結ばれていました。それは住まいの出店でした。あるいは住まいの方が事
務所の出店だったのでしょうか。婦人事務長は子供たちみんなの名を知っていて、私たちがその
近所に出かけたりして彼女のところへよっていくといつも、私たちを親切に迎えいれてくれまし
た。速記タイピストのかたたちはときどき私たちの住まいに来て口述筆記をしましたし、そうい
うときは少しおしゃべりもしました。事務所からの電話の鳴るのが、朝目をさました最初の合図
で、モアビートで先生たちを持っている開廷の時間を伝え、遅刻しないようにと警告するのでし
た。
 私の夫の死後も事務所の仕事はずっと続けられました。それで一九二五年、私たちがシュテー
クリツの住まいを引き払うとき、私はながいあいだ頭をなやましたあと、追って決心のつくまで
私の夫の多くの蔵書や個人的な書類、少年時代や最初の結婚のときの家族の肖像や写真のさまざ
まなアルバムを、彼の事務所の部屋に収め、こうしてそれらの品々の保管の安全をはかろうと考
えるようになりました。私のこの提案は法律家の義兄たちの賛同を得て、実行に移されました。
そこで訴訟書類の棚はほかに移され、多くの蔵書がならべられ、貴重なものはすべて書きもの机
のなかへ念入りにしまいこまれました。
 この部屋が長年にわたって私の夫と結びついていたことは、わが家の仕事部屋以上のものでし
たから、この部屋に写真や書物が安全に収められたときには安心いたしました。この部屋は、彼
がいなくなったあとでも、まだ彼がここで喫っていた葉巻のかおりをとどめていました。
 第一次世界戦争中、一九一六年一月一日この部屋でスパルタクスグループが結成されたのです。
 ナチ時代には、事務所はナチスの狂暴な破壊からは免れましたが、しかし第二次世界戦争で爆
弾がおちて、彼になじみの深かったものといっしょに、建物は全部破壊されてしまいました。
 一九一三年三月、カール・リープクネヒトはパリとロンドンへの講演旅行に招待されました。
 フランスではそのころ兵役期間が延長されました。期間は三年になりました。そこでこれにた
いしてフランスの社会主義者は抗議しました。「三年反対」がそのときのスローガンでした。
 ですから私たち二人が長年遠くから知っていたのとは勝手のちがうパリにやってきたのです。
今度パリにやってきた私たちの心を引きつけたのは、ブールヴァールの大通りを気楽にぶらつく
ことではなく、またヨーロッパのもっとも完璧なことばにじっと聴き惚れる楽しみでもありませ
んでした。私たちは、カール・リープクネヒトも招待をうけていた大集会に期待をかけていたの
です。郊外で催され、見渡すこともできないくらい大衆が集まり、目つきのわるい騎馬警察にと
りまかれ、ほこり高く断固としたまなざしをかがやかせたフランスの労働者たちの「三年反対」
集会は、ものすごい印象をあたえました。
 高いところに設けられた演壇では、多くの人が入れかわり立ちかわり演説しました。すべての
人が覚悟していた戦争の危機が増大してきたにもかかわらず、彼らは兵役期間の延長が正しいも
のとは認めませんでした。そしてどよめきわたる熱烈な拍手が、集まった人々の了解をものがた
っていました。パリだけでなく、フランス全体がこの時新たなひどい措置に反対する審判者とし
て立っていたのです。それから一年半たつかたたぬうちに、大衆の意志は辱めをうけ、破りさら
れました。フランス人とドイツ人は、ヨーロッパのもっとも気候のよい、シャンパン酒の香る地
方で、たがいに殺しあうことになったのです。しかしこれはその後のことです。
 集会に参加した人々は放射状に分散する長い列をつくって、都市の方々に向かってくりだしま
した。街は平和に陽気にがやがやしていました。私たちもこの街の魅力から逃れることはできず、
予定どおりに少し休んでからうきうきして、新旧の知人に伴われて、人を招きいれるような秘密
の輝きにきらめいている夕べの街を通って、新しい生命にめざめた、かぐわしい並木の下を進ん
でいきました。パリでは春が早くきて、それがながくつづくのです。
 私の夫は毎日協議をし、二、三回演説をしました。どんな犠牲を払っても、すべての国の社会
主義者の路線と義務を統合する道を見つけようとしたのです。国際的連帯は実現できるものかど
うか、また人間が人間を虐殺しようという妄想が迫ってきてもこなくても、それを許さないとい
うことはできるものかどうか、それを講演や討論で明確に吟味し、厳密に規定する必要があった
のです。
 青年のなかでの活動にかんするカール・リープクネヒトの見解の説明、青年を味方にするため
のたたかいでの彼の経験と計画もフランスの戦友たちの関心をひく重要なテーマでした。こうし
た仕事は一日中つづいても中断されませんでした。たいていのフランスの同志はドイツ語を知っ
ていましたし、カール・リープクネヒトもフランス語で用がたせましたけれども、やはりことば
のちがいというものは協議や講演を滞りなく運ぶのには障害になるものでした。
 仕事の合い間の短い休み時に、私たちはきちんと美術館を訪れました。私は一六歳のときから
いくどかパリにまいりましたので、絵や彫刻のコレクションはルーブルのものばかりでなくすっ
かり知っていて、いたるところに私のとくべつ好きな作品がありました。しかし、それらは落ち
ついた観察と想想力を要求しますが、ひらひらするようなこの度のパリ滞在ではこれはできない
ことでした。そこで、私たちはうつくしいホールを歩きまわり、じつにたまらなくりっぱな宝物
をさっと見るだけで満足し、大声で叫んでいるような日常生活に帰ってきました。
 私たちが発つ少しまえに、私たちのホテルにマルクスの孫息子のジャン・ロンゲが会いに来て
くれました。話といえは、戦争と平和のことはかりでした。そしてだれひとり――もっとも賢い
人でさえも――正しく想像することはできないような暗い地獄のような危険が、いつも対話をし
たり、会合をしたりしたあとでは、ますます近づいてきたように思われました。
 こうして早くもパリでの私たちの時は過ぎ去り、私たちはロンドンに来ました。ここでも私た
ちは友人や同志たちに出会いました。 私の夫はここではパリでよりもたびたび講演や協議をし、
私はときおりこの無限に広い、ざわめき、荒れ狂う大都市の街や画廊を一人でぶらつきました。
 ロンドンにはそのころ共産主義者クラブがあって、そこでひじょうに多くの人々がカール・リ
ープクネヒトの講演に耳をかたむけました。そのなかには後にイギリス駐在のソヴェト大使にな
ったイヴァン・マイスキーもいました。彼はその回想録のなかで一九一三年春のカール・リープ
クネヒトのロンドン訪問のことをこう書いています。――カール・リープクネヒトは、われわれ
共産主義者クラブの招待に応じ、そこで当時われわれをいちばんいらだたせていた問題――急速
に近づいてくる戦争の危険について印象的な、火を吐くような演説をした、クラブの大ホールは
満員だった。もはや座席は一つもなく、多くの参会者は立っているほかなかった。がまんのなら
ないほど暑く、蒸せかえるようだった。ホールのなかの緊張が刻一刻と高まっていった。
 演説は嵐のような拍手でしばしばとぎれた。中背で黒い髪をした演説者は、彼の鋭い的確なこ
とばに激しい身ぶりを加えた。彼のことはの一つ一つが私たちの心のなかに、民族を鮮血の深渕
に引きずりこむ権力者たちにたいする怒りと抗議の炎をもえたたせた。カール・リープクネヒト
の話は実によかった。演説者の話術ばかりでなく、彼の深い誠実さがわれわれを魅了した。
これは一九一三年の春のことでした。つづいて一九一四年に何が来たかは、周知のとおりです。

 一九一六年七月一〇日まで、私はローザ・ルクセンブルクとほとんど毎日のように会っていま
した。私が新聞や食事をモアビートの私の夫に差し入れにいったり、ときおりポツダム広場のそ
ばでモアビートへ走ってくれる車をなんとかしてつかまえようとするときは、しばしば彼女はし
ばらく私についてきてくれました。あとで私は、夫から受けとった秘密の手紙をポツダム広場の
わきにある喫茶店「フュルステンホーフ」にもっていって、それをローザに手渡しました。たい
ていのばあい、私たちはそこでコーヒーのおかわりをして、私たち自身のためにも、またまわり
の人たちにたいしても、一種の陽気さをよそおってみせました。私が帰宅を急がないときにはい
つも、私たちはジュートエンデのローザのうちまで行き、そこで彼女は料理の腕前を実演してみ
せました。これは彼女にとって大の楽しみでした。私たちはおいしくいただきました。しかしこ
うしたことはみんな七月一〇日でおしまいになりました。
 状況が変わったのです。というのは、ローザは「保護拘禁」で捕えられたからです。私はまだ
レオ〔・ヨギヘス〕とかかわりをもっていただけでしたが、これとても大へんむずかしくなりま
した。私は来る日も来る日も新聞と食料品をもって、シュテークリツからモアビートへ自転車に
乗っていきました。
 ローザにはこの七月一〇日以来というもの、彼女の友人たちとの面会が頼りになるだけでした。
こういう面会は、そこの司令部で許可をうけとっていれば、許されていたのです。ローザのベル
リン在住の友人たちは彼女と合法非合法の文通をつづけました。そして、こうした多種多様の文
通から容易にわかることは、彼女が面会をどんなに待ち望んでいたか、またその面会のあとでは
いつも孤独と悲しみをどんなにつのらせたか、ということです。
 私あての二、三の手紙で、彼女は私との以前の面会や、ルイーゼ・カウツキーとの面会、マテ
ィルデ・ヤーコプとの面会のことを書いています。彼女はおそらく他のすべての友人たちにあて
たさまざまな手紙のなかでも同じことを書いていたのでしょう。しかし、私はただ私あての手紙
で、面会の前後の彼女の気分を理解することにしようと思います。話題は平凡なもので、こうい
うときはどの囚人のばあいも面会前と面会後の気分は同じところに行きつくものです。けれども、
私あての手紙で私が気づいたことを書きつけておくことにします。それも年代順に。
 ヴロンケ、一九一七年一月一五日――「機関車の汽笛がマティルデの発車をしらせてくれまし
た――そして私の心は苦しみのあまりしめつけられる思いでした。私はここを去ることはできな
い、ああ、ここを離れられさえしたら。」
 面会によって解放をあこがれる気持がこうじてくると同時に知りあいの顔を見たい気持がまた
つのってくるものです。そして一九一七年七月二〇日付のヴロンケからの最後の手紙で、彼女は
こう書いています。「まもなく私はブレスラウからお便りします。できるだけ早くそこへ私に会
いにきてください。」二週間して、一九一七年八月二日付の手紙では、すでにブレスラウから、
「あなたにはやく私に会いにきてほしいの――許可が入り次第早く――電報をください。」
 ブレスラウから次に折をみて持ちだされた一九一七年一一月中頃の手紙が来ます。「私はもう
あなたにふたたびここで会う日までの一週一週を心ひそかに数えています。」この「ふたたび」
ということばで、これは私の二度目のブレスラウ訪問のことだということがわかります。彼女は
一度目のことは述べていませんし、私もそれがいつだったか、わかりません。それについてはな
にもおぼえていません。
 一九一七年一二月中頃の手紙では、私のヴロンケ訪問の思い出が急に姿をあらわします。「ち
ょうど一年まえに、あなたはヴロンケの私のところにきました。そして私にすばらしいクリスマ
スツリーをもってきて下さったのです。」
 一九一八年一〇月一八日付ブレスラウからの最後の手紙で、ローザは彼女の友人たちの面会の
印象についてざっくばらんにうちあけています。「私の友人たちの面会は監視のもとでおこなわ
れ、私がほんとうに関心をもっていることについて話せないのは、もう私にはとてもうんざりす
ることですから、むしろ私たちがたがいに自由な人間として会うまでは、面会は一切あきらめて
しまいたい、私はそんな気持でいます。」
 これらのばらばらの引用から気のつくことは、ローザにとっては面会は決してまじりけのない
よろこびではなかったということです。よろこびはことさらにつくりだされ、誇張されていたの
です。というのは、面会者の双方とも、がらにもない役がらを演じようとしていたからです。
 それでもなお、面会はないよりはあるほうがよかったことはたしかですし、それに面会には実
践的な目的が結びついていました。すなわち文書類を秘密に交換することです。面会人はうまく
カムフラージュした菓子だとか、きれいな花をうえた植木鉢だとか、二重の厚いカバーの本だと
かを持っていったり、次には囚人から受けとったものを巧みに家へ持ってかえらなければなりま
せんでした。
 こうしてローザのユニウス・ブロシューレその他の著作が監獄から持ちだされたのです。しか
し私は白状しなければなりませんが、こういう瞬間、つまり持ってきたものをそっとわたし、持
ってかえるものを受けとったり、それを待ちうけるには、極度に神経を緊張しなければなりませ
んし、その結果、面会者の心と頭のなかは、たとえ監視付きでもいいから、できることならもう
しばらくこのままでいたいと思いながら、しかしまた、一方ではできることなら、気づかれず、
嫌疑もかけられず、取り押えられもせずに、早く外に出てしまいたい、という矛盾した気持にな
るのでした。
 ベルリンへ帰ってから考えてみると、往復の旅路、大小の都市、満員の列車、品物のない空っ
ぽの店、食料品不足の不平などについてはわりにいろいろ話せましたが、面会そのものについて
語るべきことはごく少なかったのです。この事実はおかしなことでもあり、有益なことで、いつ
までも記憶に残っています。というのは、面会時間は正確に測られていて、囚人、面会人、立会
看守それぞれにとってばつのわるい顔合わせでしたが、それをとりつくろうのが、微笑と冗談で
示される紅おしろいというわけで、このお化粧を苦心して一時間はもたせなければならなかった
のです。
 ほとんど二年半におよぶ「保護拘禁」のあいだ、私は三度、ヴロンケに一度、ブレスラウに二
度、ローザのところにいきました。ヴロンケとブレスラウはベルリンからかなりの距離がありま
す。とにかく旅行には幾日もかかりました。そして私は言わないわけにはいきませんが、こうい
う旅行をしたり、面会許可の時間を待ったり、短い面会をしたり、翌日の面会までながい一日を
すごしたりしたあとではへとへとに疲れ、神経はくたくたになるのでした。
 ヴロンケはそのころ、大きな要塞を別にすれば、特別印象にのこる特徴のないドイツの小さな
町でした――東部の景色や雪、途中のわずかな人影、それに親しみのなくもない、暖房のよくき
いた旅館。ヴロンケに着いてから、ちょっと散歩に出ました――面会は翌日の午前にやっと許さ
れることになっていました。子供たちの一団は私をとりかこみ、私のマント、私の手さげ、私の
靴を感心したり、笑ったりしました。私は子供たちに一マルクやりました。子供がこのコインを
受けとったときにみせた喜びくらい心をうたれたことはめったになかったことですし、ひょっと
すると今まで一度もなかったことでしょう。
 しかし、早く暗くなりました。私は広間に腰をおろし、十分に飲んだり食べたりしましたが、
こうしたことは家ではもはやたえてなかったことでした。そして私のまわりの会話に耳を傾けま
した。夕方には軍人も民間人も来ていて、奥さん連れの人もいれば、ひとりできた人もいました。
そして暖房のよくきいた広間でのむビールは彼らにはとてもおいしそうに見えました。彼らは戦
争や、勝利の近いことを話したり、ヒンデンブルクの万才を唱したりしていましたが、しかし、
もしうそでかためた宣伝で彼らが完全に道を迷っていなかったら、彼らはおそらくしごくまとも
な、人のいい小市民だったことでしょう。
 翌朝、私はたずさえてきたクリスマスツリーをもって要塞へ出かけました。すると、きのうの
子供の一群が大騒ぎで、笑って私をむかえてくれました。私は一心に面会のことを考えなければ
ならなかったので、彼らがうるさくなってきました。そこであらためて一マルクをやってよろこ
ばせると、彼らは小さな町のお菓子屋の方へいってしまいました。
 要塞は開いたままの入口と中庭があって、そこでは多くの兵士が働いていて、事務所へ入って
いくにはそこを横切っていかなければなりませんでした。事務所では私を冷淡丁重に受け入れ、
書類を調べ、閉めきった二、三の扉を重い錠前であげて、ローザが居間に使っている二つの小さ
な部屋の一つに私を案内してくれました。
 ヴロンケの役人は厳格ではありませんでした。しばらくのあいだ、私たちだけにしておいてく
れました。女看守は控えの部屋で忙しくしていました。後で彼女が入ってきて、私たちのそばに
腰をおろしました。私たちはおしゃべりをしましたが、どんなことを話したか、もうおぼえてい
ません。時間は私たちが望ましく思ったよりも早く過ぎていきました。私は行かなければなりま
せんでしたが、もう一度来ることを許されました。しかしそれは翌日の午前になってのことです。
それからがながい一日でした。ローザの寝起きしていたところが、とにかくわるくなかったこと
を見たので、私はうれしく思いました。部屋は小さくても、明るくて暖かく清潔でしたし、多く
の書物と二、三枚の写真がべつに不愉快でもない印象を十分あたえてくれました。さまざまの文
房具が机の上にありました。格子のある窓や錠をおろした扉は、まあ、がまんしなければなりま
せんでした。
 私はまたちょっと散歩に出かけました。低い家並の広い通りには私たちとはかかわりのない住
民が行き来していました。多くの兵士がおそらくここで休暇をすごしていたのでしょう。なかに
は腕や頭にほうたいした人がいました。女たちは小さなかごや手さげをもって買い物をしていま
した。住民たちがドイツ語で話していたか、ポーランド語でだったか、私はもうおほえていませ
ん。それから正午になって、またたっぷり食事、昼寝。さて、それからまた次の朝が近づいてき
ました。そしてふたたび監視つきの、また監視なしのローザとの面会。静かな、控え目なおしゃ
べり、次の面会者へのローザの二、三の頼み、しきたりどおりのあいさつ、そして駅へ向かって
急いで歩く、傍若無人の、大声でののしりあう兵士たちで満員の列車。
 そしてベルリン帰着、諸方からの電話、ローザの安否の問い合わせ、彼女の健康状態について
の私の報告にたいする満足、次の面会者と次の面会についての打ち合わせ。
 私がはじめてブレスラウにいったのはいつだったか、おぼえていません。ローザの手紙にもそ
の思い出はありません。私は私よりまえに面会にいった人の勧めに従ったのでした。そして難な
くブレスラウでいちばんのホテル「ツー・デン・フィーア・ヤーレスツァイテン」(四季館)に
部屋をとりました。しかしそれは、私がむかし知っていたミュンヘンの同名の有名なホテルほど
きれいではなく、またブレスラウもミュンヘンほど美しくはありませんでした。私は到着すると
また次の日までローザとの面会を待たなければならず、ブレスラウの、たしかに一種独特の煉瓦
の建物を見物しました。これは、ほかの場合だったら、おそらく私は強い印象を与えられたこと
でしょう。ホテルのなかは気持よくて明るく、ひじょうに活気がありました。時間は早く過ぎさ
りました。
 その翌日、私は規定の時間に監獄の門前に立ちました。それは女子監獄で、ヴロンケとくらべ
ると絶望的な印象を与えられましたし、建物の内部もまたこの印象をぬぐいさってはくれません
でした。私は回廊をずっと歩いていきましたが、ここでは囚人たちは顔を壁に向けて立っていま
した。看守は私とならんでいきました。波は私を一つの部屋に案内してくれましたが、そこには
すでにローザが待っていました。彼女は「保護拘禁」にすぎず、有罪の判決をうけていなかった
のですから、顔を壁に向けて立っている必要はなかったのです。彼女はテーブルにすわっていま
した。看守と私もすわり、そして面会の時はいつものように過ぎていきました。とてもおかしな
ことですが、私はそれについて詳しいことはなに一つ報告することができません。次の日も変わ
ったことはなにもありませんでした。私たちはとても用心ぶかくしていました。そして万事うま
くいったのです。彼女は看守に気づかれずに私から情報を受けとり、私は彼女の仕事をうけとり
ました。
 私が二度目にブレスラウへ行ったのはいつだったでしょうか。一九一八年一月一四日付の手紙
で、ローザが「あなたはいつ来てくださるりもりですか」とたずねています。だからそれはおそ
らく一九一八年の春のことだったのでしょう。ホテル「ツー・デン・フィーア・ヤーレスツァイ
テン」には空いた部屋がありませんでした。私はその間ベルリンでブレスラウ労働組合会館のア
ドレスをきいて知っていましたから、そこに宿をとることができました。その会館の経営者の一
人と奥さんが私を劇場の「余興の夕べ」に招待してくれましたが、これはたいへんありがたく思
いました。というのは、見知らぬ都市でひとりぼっちですごす夕べはなかなかたえがたいもので
すから。
 翌朝の最初の面会は、将校の監視つきでした。彼は私たちから一瞬も目をはなさず談話に強い
注意を払っていました。ローザと私は、まったく同じの、黒い、人の目をひくところとてはなに
もない手さげをもっていました――これをとりかえなければならなかったのです。最初の日はう
まくいきませんでした。二日目に、私がふたたびローザの待っている部屋へ案内されたとき、私
は彼女を抱きしめました。そして私たちは手さげをとりかえたのです。将校はだまっていました。
談話はものうく流れていき、そして私はとても神経がいらだっていました。許された時間がすぎ
ると、将校が立ちあがりました。そしてこう言ったのです。「あなたがたは手さげをとりかえに
なりましたね。抗弁なさってはいけません。私はそれを見ていたのです。しかし今回は、それを
大目に見ることにしましょう。なぜなら、私はルクセンブルク夫人を尊敬していますから。」私
たちはだまっていました。だまって私はローザの手をにぎりしめました。私は外へ出ました。将
校が私のあとからやってきて、回廊で私をひきとめ、あなたは何も心配する必要はありません、
本官はこの件をこれ以上追求しませんし、あなたのことも上司には報告しないでおきます、と言
いました。私は当惑した半面、救われた思いでお礼を言い、そして頭と胸を重くしめつけられる
思いで監獄を出ました。
 とりかえるときにどちらがへまをやったのか、ローザか、それとも私か、いまではもう私には
わかりません。彼女はともかく情報を手に入れましたし、私は彼女の仕事をベルリンへ持ってき
たのでした。
 それ以来、私はもはや二度とブレスラウへはいきませんでした。

 カール・リープクネヒトの拘禁期間中、私は定期的に彼を訪ね、そしてまた多くの秘密の手紙
を運びました。秘密の手紙をもっていると、どこかでだれかになにか見つけられたのではないか、
後で家宅捜索をされるのではないかと、たえず不安に見舞われたものです。私は小さな紙片を棚
の皿のあいだにかくしましたが、朝が来て、レオ・ヨギヘスか、ローザ・ルクセンブルクの秘書
マティルデ・ヤーコプが電話をよこして亡霊を追い払ってくれるまでは、安心できませんでした。
 そのころモアビートの未決監獄にいた私の夫は、じつにさまざまの友人のために秘密の手紙を
私にそっと握らせるのでした。それであるときは、フランツ・メーリングのためのものがあって、
私はまたそれを彼のところへもっていくと、彼はほんとうにごく簡単にそれをポケットにつっこ
みました。
 その翌々日、私は申しあわせていたとおり監獄のまえで義弟のヴィルヘルム・リープクネヒト
博士とおちあいました。彼はカールの二番目の弟で、カールと同じように弁護士で、私といっし
ょに面会許可を得ていたのです。面会人を監視している、ふだんはいつも丁重な軍人は、ひどく
怒って私に向かってきました。メーリング博士が逮捕され、彼が秘密の手紙をもっているのが見
つかった、それをもちだせたのはあなただけだ、あなたがどんな立場にいるのか、そしてそれが
あなたの夫にどんな結果をもたらすか、あなたはおそらくわかってはいないのだろう、と言うの
です。私の義弟ははじめ度を失って、あるいはおそらくことばを失って、そばに立っていました
が、つぎに私をかばおうとしました。ちょうどそのとき、私の夫が連れてこられて入ってきまし
た。彼はもう事情をのみこんでいました。その場の状況は、悲劇的でもあり、滑稽でもありまし
た。ふだんのように一つテーブルにすわらせてくれず、立ったままで、しかも短時間で話し合わ
なければなりませんでした。そして私は、こんなことがもう一度おこるようなことがあれば、面
会許可を取消されるだろうと、おどしをかけられました。不機嫌でむしゃくしゃして、私たちは
客あしらいのすこしもよくない所をあとにしました。そして通りへ出ると、義弟は「カールはい
ったいなんのためにあんなことまでするのかね。秘密の手紙のことなどは、次のときにやってみ
ればいいじゃないか!」と言いました。私は自分の手をひらきました――そこにはまた二、三枚
の紙片がありました。お別れのとき、夫はそれを私にそっと握らせたのです。
 さて、しばらくはそうしていました。それからきたのがルッカウの刑務所です、――そしてま
たしても秘密の手紙です。ただまえよりも間遠になり、三ヵ月ごとに一度でした。というのは、
三ヵ月ごとにしか面会許可がなかったからです。私は子供たちをつれて、三ヵ月に一度刑務所を
訪ねるために、ルッカウへ行きました。いちばん上の子供ヴィルヘルムはすでに一人で父親と話
をする面会許可を得ていました。一一歳のヴェーラは万事平然として、たんに子供らしい好奇心
で受けいれているようでした。しかしまもなく私は、ヴェーラが口で言う以上のことを理解して
いるのに気づきました。私たちがルッカウへ送る『ドイチェ・ターゲスツァイトゥング』紙のほ
かに、夫は『ベルリーナ・ターゲブラット』の週刊版を手に入れていました。彼はある一定のシ
ステムで文字にアンダーラインをしるしてから、それを送り返してきました。この新聞付録が返
ってくるが早いか、その解読がおこなわれました。一三―一四歳のローベルトが、とりわけヴェ
ーラが上手でした。彼女はだれよりもうまくやりました。口数も少なく、彼女は私たちの寝室の
小さな張出し窓に腰をおろし、おくれてやっと満足のていでふたたび現われるのでした。彼女は
一枚の紙に念入りに正確に書きうつして、カールの指示や、呼びかけや、ビラの草稿をもってき
ました。
 けれども、もっとむつかしく、じつに危険だったのは、秘密の手紙を渡すことでした。二、三
のものには実践上の指示が含まれていました。たとえば、「ヨーグルト。上までいっぱい詰まっ
ているビンだけが密輸に使用可。ミルクが濃くて固まっていればいるほどよし。」なによりも重
要だったのは、レオ・ヨギヘスあてのもう一つの指示でした。それは一八年の八月闘争に端を発
するもので、選挙権問題で労働運動のとるべき行動を扱ったものでした。カール・リープクネヒ
ト独特の情熱を傾け、最後にこう述べられていました。「行動、行動、行動、対外的にも対内的
にも――徹底的に――ただちに、ただちに、ただちに! かかれ!」
 私はこれだけはつけくわえておきたいと思いますが、秘密の手紙を無数の小紙片ととりちがえ
てはなりません。これは最後にルッカウで小さなスーツケースのなかにあったものです。夫は自
分の考えをこれらの紙きれに書きとめていたのです、批判や呼びかけなどを。しかしこれは秘密
ではありませんでした。そしてその辺いちめんに大っぴらにとりちらかしてありました。

 レオ・ヨギヘスとはローザ・ルクセンブルクのところではじめて知りあいになりました。ジュ
ートエンデのローザの住まいでした。あるとき、私たち、夫と私が、戦争の勃発直後、そこへ出
かけたとき、バルコニーに赤っぽいふきふきした髪と先の細いメフィストひげをした、みたこと
のない一人の男が、考えごとにふけり、むっつりしてすわっていました。それは、会話のなかで
よく話にでたローザ・ルクセンブルクの友人、レオ・ヨギヘスでした。私はなおいくどかローザ
のところで彼に出会いましたが、彼はいつまでもまったくよそよそしく、ぶあいそうで、私には
一言もものをいいませんでした。それが、思いもよらぬことに、彼と私は後になっていやという
ほどことばをかわすことになったのです。
 時勢はさきへさきへと進み、かけだし、狂ってますます困難になり、おそろしいものになって
いきました。ローザ・ルクセンブルクはベルリンのバルニム通りの女子監獄で一年服役して、そ
のあいだにユニウス・ブロシューレを書きあげてからふたたび活発に仕事にかかりました。彼女
の右手になって働いたのは、彼女の秘書マティルデ・ヤーコプで、マティルデはユニウス・ブロ
シューレをまったくおどろくべき手際で監獄から持ち出したのでした。彼女はその後も引きつづ
いてさまざまに思いをめぐらし、あらゆる骨を折ってローザのためにつくし、そしてアルトナ通
りの彼女のあずまや住まいを落ち合う場所にしました。ここは一九一九年一月まで警察に知られ
ずにすみました。
 時はすぎていき、夫は未決拘留中でしたし、ローザ、メーリング、エルンスト・マイアーは「
保護拘禁」でした。夫と連絡することは妻には許されましたし、ローザもベルリンで――後には
ヴロンケとブレスラウで――面会は許されていました。
 はじめられた仕事はつづけられなければなりませんでした。計画された仕事のごく一部分だけ
を挙げますと――ビラを作り、それをまき、訴訟記録のあるものは印刷し、他のものは複写し、
非合法の印刷所との連絡をつけて確保し、ストライキを軌道にのせなければならなかったのです。
しかし、だれがその先頭に立ち、舵をとらねばならなかったが。
 マティルデ・ヤーコプの住まいや、シュテークリツで、ひとり取り残され、しばしば途方にく
れ、逮捕された人たちのことが気にかかり、食料品を追ってかけずりまわっていた私たちのとこ
ろに、いまや、無条件にみとめられる指導者――レオ・ヨギヘスが現われました。見事に変装し、
ひげもそりおとし、よい身なりをして、二、三日ごとに別の名前で――これには心の構えができ
ていました――たちよって、家庭のことをたずねてくれました。あのころはまったく危険視され
ていなかったので、夕方に私たちのうちへ来て、子供たちや私のために、心のこまやかなよい友
だちになってくれました。私は彼には自分の心配や不安をすべて知らせずにおく必要はありませ
んでした。以前はわざとらしくだまりこくって、人もなげな顔をしていた彼は、その仮面をぬぎ
すてました。
 そうです、子供たちや私と彼は親しくなりましたが、しかし大事なことは、そのころレールト
通りのモアビートの未決囚だった私の夫と秘密の連絡をとることでした。私の夫とレオは同じ大
業に献身していましたけれども、その仕事の仕方がたがいにこうもちがっている二人の人間はな
かなか想像できないでしょう。私はそのころ毎朝、うちで調理してかごにつめた食事と、新聞を
モアビートへもっていくことは許されていました。私は食事をつめたかごといっしょに新聞を自
転車につけて、シュテークリツから出かけました。そうしたことは、そのころ、一九一六年には
たやすいことでした。ベルリンには自動車の往来はまれでしたから。自動車も男たちもみな戦場
にいっていました。私はしばしば面会許可を手に入れ、そして軍人の立ち合いはありましたけれ
ども、私が夫と話をしたときはいつでも、彼は二、三の秘密の手紙を私の手に握らせるのでした。
それはほとんどつねにレオにわたすことになっていました。私は未決監獄の役人に、私がどこへ
行くのか、あるいはどこへ自転車を走らせるかを見られないようにするために、回り道をしてマ
ティルデのところへそれをもっていきました。そこにはレオがきて待っているか、あるいはマテ
ィルデがその紙片を受けとって、それを書き写し、彼が彼女のところに来たとき、それを渡しま
した。ところで私は昼食時には家にかえって、日に日に乏しくなっていく昼食を子供たちに分け
てやり、ときおりどこからかおいしいおやつをもっていってやらなければなりませんでした。
 鉛筆で書いたちいさな紙片の内容は、ひそかにもちだされた、裁判所への請願書の一部を印刷
すること――夫は抗議や暴露や告訴の文書をほとんど毎日裁判所に差し出しました。これらの文
書は後に『刑務所判決』という本にまとめられて出版されました――信頼できる人たちと協議す
ること、ビラを配布すること、外国の友人たちと連絡をつけることを、もどかしそうに、頼みこ
むように、要求するように、書いたものでした。
 ことばの一つ一つから、文字の一つ一つから、投獄されている者の意志と無力とが同時に吐露
されており、大衆をめざめさせ、おそろしい殺人を終わらせる可能性が十分に利用されていない
ことにたいする熱病じみた懸念でした。そして私あての紙切れでは、レオを行動へかりたてるよ
う、彼にあまりながくなにごとも考えさせないよう、大勢の相談相手と協議しないよう、そうで
なく、行動、行動、行動するようにと、私の夫は切々と訴えていました。
 この紙切れはレオをかんかんに怒らせてしまいました。獄窓の人間が、どうして助言などでき
ようか。なんでもできることなら、すべてやっていることが、どうしてわからないのか。私は助
言などききたくない。私は万事正確に考えぬかなければならないのだ。問題の印刷所はベルリン
の外にあるんだぞ。そして、これにつづくある日、秘密の手紙のかたちでこんどは私にたいする
非難がやって来ました。君はレオに秘密の手紙を届けるのをためらっている、いまこそ、まさに
いま、手綱をゆるめてはならない、奮起させること、いやでも大衆を行動させることがどんなに
大事なことか、君はわかっていないのだ、と。そして夕方にはまた私の夫の軽率さと無分別にた
いするレオの非難。私はこの奇妙な決闘でどちらを正しいとみとめるべきか、わかりませんでし
た。
 夫がすでにルッカウにいったときも、すべてそんなふうに運んでいきました。ただ三ヵ月ごと
に一度くりかえされただけで、毎日ではなかったというだけのことです。
 結局私はレオが次のような内容の証明書を私のためにかいてくれるようにたのみました。私は
レオを動かし、カール・リープクネヒトの希望していることを実現するためにあらゆることを試
みたのです、と。レオは笑って、私に声明書をかいてくれました。それはいまでも私の持ち物の
なかにあります。
 一九一七年、広告塔に一枚のポスターが現われました。一人の外人を探索、彼は民衆をあおり、
いたるところで不安をかきたて、勝利の確信をまひさせている、云々。彼を捕えたものには五千
あるいは一万マルクの賞金がかけられていました。蒼くなり、興奮して、子供たちが家にかえっ
てきました。蒼くなり、興奮して、私はマティルデのところにいきました。そこでばったりレオ
と出くわしました。彼は自分の首にかけたにしては賞金は少ないと冗談をとばして、ただこう言
いました。僕はもうシュテークリツのあなたのところへはいけない、というのは、よくドアをあ
けてくれ、夕食をつくってくれるあなたのうちのお手伝いさんはどんな立場の人かわからないか
ら、と。
 私たちは、ルッカウからまた知らせがあるようなときには、晩にベルンブルク通りで出あうよ
う申し合わせ、電話のかけかたや、マティルデのところではめったに会わないこともきちんと申
し合わせました。そしてよい時代のくることを期待して別れました。しかしよい時代はついに来
ませんでした。

          『回想と手記から』
          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、NL一/五八
  フランツ・メーリング

     一八四六年シュラーヴェ(ポンメルン)に生まれる。文芸理論家・歴史家。一八九一
年以後社会民主党員。スパルタクス同盟中央本部のメンバー。ドイツ共産党創立者の一人。一九
一九年死去

    石の壁は牢獄にはならぬ。
    鉄の格子も檻にはならぬ。
    潔白平静な心は、それを
    隠者のいおりと思わせる。
 このイギリスの歌の作者はラヴレースといい、一七世紀の中頃のひとである。彼は神の恩寵を
うけた王国をまもった勇敢な戦士であり、イギリス国王チャールズ一世の騎士であった。彼はな
るほど国王のあとを断頭台まではついていかなかったが、牢獄まではついていった。クロムウェ
ルが牢番であり、この牢番を彼はその歌で嘲ったのだ。この詩にこもる美しさと真実がわが老へ
ルダーをすっかり魅了した。そこでへルダーはこれを『魔王』や『荒野のばら』といっしょに彼
の『民謡集』に集録した。
    石も壁も塀も牢獄にはならぬ。
    格子も獄舎にはならぬ。
    潔白沈着な精神は言う、
    これはわたしの宮殿なのだ。
    心が元気できれいで
    自由で陽気でありさえすれば――
    荒野の嵐も
    わたしほど自由ではない!
 イギリス騎士のこの歌は、ヘルダー訳ではなく、かなりもたもたした翻訳で、ドイツの学生同
盟員のあいだで人気があった。ベルリンの代官屋敷はいまはとりこわされてしまったが、かつて
はデマゴーグ狩りの無実の犠牲者たちを閉じこめていた場所だが、その独房の扉に刻まれた語句
はその後もながく読みとることができた。
    壁は牢獄にはならぬ。
    格子は檻にはならないのだ。
    心が自由に快活に笑えば、
    どんな牢獄もつらくはない。
 この歌をうたって、アーノルト・ルーゲやフリッツ・ロイターのような若者たちは、勇気をふ
るいおこしたのだ。そしてそののちもフライリヒラートが往復書簡で語っているように、国王に
忠誠な戦士のつくったこの歌のうたわれるなかで、四八年の革命家ホイプナーをとじこめていた
牢獄の門がぶちこわされたのだ。…….
 六月二八日の夕方、私が帰宅して、机の上に子供の書いた手紙をみたとき、こうしてふたたび
この歌は私の心中にひびくのであった。「私の父はきょう戦時反逆未遂のかどで懲役二年半の判
決をうけました。」いまやすでに、リープクネヒト家三代目の上に大逆、戦時反逆、反逆の暗い
影がおおいかぶさってきたのだ。二代目カール・リープクネヒトの上にこの影がおちてきたとき、
カールは長男であるこの息子よりも、はるかに幼なかった。彼はまだ母のおなかの中にいた。と
きは晋仏戦争中のこととて、世間はひどい興奮状態で、兇暴な起訴の嵐が荒れ狂い、彼の父〔ヴ
ィルヘルム〕は一〇〇日の未決拘留のさなかに恐ろしい運命の手でうばい去られようとしていた。
そのころこの勇敢な妻を動かした深い大きな情熱が、息子のカールにのり移っていったのだと、
彼女はよくいったものだった。
 彼はほぼ三〇年もまえから私の知りあいである。彼かつくった生徒たちの何かのクラブのため
に『べルリン人民新聞』の無料見本を送ってくれるようにと、ライプツィヒから手紙で私に頼ん
できたが、そのころ彼はまだ一七か八の若者だったにちがいない。それは社会主義者取締法の時
代で、当時『人民新聞』はドイツの新聞のなかで最も急進的な新聞をもって自任してよかった。
私はよろこんで彼の願いをかなえてやった。というのは、そのころのドイツは今日のようにこぼ
れんばかりの知恵にあふれてはなたかったから、シラーが一九歳で『群盗』を書いたこと、また
感激した勇気のある若者の愛すべき愚行でも腰抜け老人のおっかなびっくりの知恵よりは値うち
のあることなど、当時のひとはほとんどわかってはいなかったからだ。それから二、三年たって、
社会主義者取締法が廃止され、彼の両親がベルリンに移ったとき、私はカール・リープクネヒト
とも親しく知りあいになった。彼はそのとき二〇歳になるかならぬかの大学生で、有能で、よく
勉強し、頭がよくはたらき、向こうみずで、いくらか生意気でもあった。まともな若者ならそう
なくてはならなかった。しかし思いあがってもいなかったし、うぬぼれてもいなかった。彼の知
恵は芽ばえたばかりで、まだ未熟だったから、そのままでは完全無欠とはいえなかったが、少し
も神経質ではなかった。カール・リープクネヒトは控えめで愛きょうのある点を、両親から受け
ついだのである。
 後年、われわれはかなり真剣な論争をまじえたが、そのために私たちの個人的な友情のそこな
われたことはいちどもなかった。私が『ライプツィヒ人民新聞』を主宰していたとき、休むこと
を知らぬこの闘士のはやる心を抑えたことが幾度かあった。それは彼が青年運動の闘争でも先頭
にたって成功しはじめたころのことである。彼が読者を奮起させるような論文をカバンにつめこ
んで、はるばるライプツィヒまでやってきたのに、思いもかけず編集部で「としより」にでくわ
したときは、いつもあまりよろこばなかった。私は彼のお母さんを尊敬し、彼の細君とも親しく
し、二人とも私の友人だった。彼の猛烈な雄弁にまくしたてられて、私は「あなたのご婦人たち
にたいしてこの論文の責任はとれない」といって、彼の論文をのせることをことわったときには、
彼はまったく不機嫌になった。これは彼には死んでもがまんできなかった。というのは、カ
ール
・リープクネヒトはこういうことではまごうかたない彼の父の息子であり、ことが偉大な事業に
かかわる場合には、個人的なしんしゃくなど彼にはささいな、下らないものに思われたからだ。
 あのころ私が彼からたたかいとった勝利を今日回想するとき、なんとつまらぬ満足しか感じな
いことだろう! その勝利はなんと安直なものだったことか。なぜなら、この勝利は要するに私
が『ライプツィヒ人民新聞』の印刷機にたいして行使できた支配権にもとづくものにすぎなかっ
たからだ。そして大いにちやほやされた年寄りの知恵などというものは、なんと見かけだおしの
ものだったことか。私の踏み消した彼の火花が、浄化の炎を燃えあがらせることができなかった
ものだったか、私には今日でもわからない。しかし、ドイツの新聞法規や刑法についての私の四
〇年にわたる知識が、現実にこの若い友人の役に立てたはずのときに、みじめにもなんの役にた
たなかったことは、この私がよく知っている。大逆罪に問われた文書のためにすでに一度一年半
の要塞禁固刑に処せられたが、その文書を印刷する前に、いまはなきわれわれの共通の友人ザイ
フェルトが私のところへもってきて検討をこい、私はこれを発表することに同意したのであった。
後にわれわれが同じ武器を手にしてたてなかったときにも、カール・リープクネヒトの怒涛のよ
うな筆鋒をやわらげることにはほとんど成功しなかった。このことを私は今日憂鬱なよろこびを
もって思いだすのだ……
 もう一度一七世紀にたちかえるとすれほ、ラヴレーヌと同じように国王に忠誠だったこの時代
のフランスの詩人が、つぎのような美しいことばを残している。犯罪が恥なのであって、処刑台
にのぼることが恥なのではない、と。
 コルネイユのこの精神にしたがって、軍事裁判もカール・リープクネヒトの行動の根拠の潔白
なことを認めたのだ。だから、あのイギリスの歌は無情な時代に円頂党の牢獄からとびたってク
ロムウェルの鉄騎兵の頭上をこえ、未来の方へ幾世紀もひらひらとんでいったように、いまやふ
たたび、武器の林立する現在のまっ只中をひらひらとんで、われわれの友人の孤独の獄房のなか
へかえるがよい。
    石でも壁でも塀でも
    格子でも閉じこめることはできない。
    無実な精神は静かに語る、――
    これはわたしの宮殿なのだと。
    心すがすがしく清らかで
    良心やすらぎにあるならば
    荒野の嵐も
    きょうの君ほど自由ではない。

          全集、第一五巻、『政論。一九〇五―一九一八年』、ディーツ出版社、ベ
ルリン、一九六六年
  アルフレート・メルゲス

     一九〇〇年ブラウンシュヴァイクのデリクセンに生まれる。精密機械工。一九一六年
以後社会民主党員。十一月革命に参加。ツィタウの古参共産党員

 呪いの重荷を負ったドイツ帝国主義の軍事的敗北がしだいに迫ってきた。ブルジョアジーと戦
争成金どもがドンチャン騒ぎにあけ暮れていたとき、都市には、月に五〇グラムのバターとひど
いパンしかなかった。パンはじゃがいもや油菜を入れて伸ばしたもので、とてもたべられたしろ
ものではなかった。これほど乏しくなった食料の配給でさえ、配給できないことがたびたびで、
その分量はいっそう切りつめられた。こんぱいが前線の兵士たちの間にひろがっていった。部隊
から脱走したり、賜暇をうけたら最後帰隊しないものも多かった。一九一七年ロシア十月社会主
義大革命とドイツの軍事的敗北の影響をうけて、一九一八年九月末から一〇月はじめにかけて、
ドイツでは直接的革命的情勢が成熟してきた。
 ドイツの帝国主義者は崩壊の最中でも救いだせるものはすべて救いだそうとしていた。一切合
財だめにしてしまうことのないように、彼らの見るところではまだ手を汚していなかった政府が
早急に任命された。こうした大がかりな陰謀に、皇帝陛下の政府社会主義者たちは、彼らのお歴
歴であるシャイデマンとバウアーを入閣させ、資本の下僕としての役割を忠実に果たした。マッ
クス・フォン・バーデン公の指導するこの「信託会社」は王侯の玉座と資本家の金庫の前にはべ
って、これを護持し、同時にすでにながいあいだ自由をうばわれていた大衆を欺くために、「民
主主義的な」諸改革を布告した。新政府は現実に右派社会民主主義者とぐるになって革命を阻止
し、少なくともこの革命からブルジョアジーの階級支配を脅やかす危険だけは取り除くにいたっ
たのである。
 政府はこうした情勢のなかで戦争につかれた人民大衆の圧力に折れて、われわれのカール・リ
ープクネヒトを刑務所から釈放した。一九一八年一〇月二三日、彼はアンハルト駅に到着した。
ベルリンの労働者たちは彼を熱烈に歓迎した。
 カール・リープクネヒトはその数日後はやくも反政府的革命的グループを結集して社会主義自
由青年組織にするために、ベルリンに集まってきた革命的労働青年運動の代表者たちにたいして
演説をした。カールといっしょにへルマン・ドゥンカーも来た。諸君はただちに帝国主義政府を
打倒するために革命の準備をし、それによって戦争を終結させよ、というカール・リープクネヒ
トの呼びかけは、われわれのあいだで熱烈な反響をよんだ。
 革命はキールその他の都市からはじまり、一九一八年一一月九日にはベルリンにもひろがって
いった。カイザー社会主義者たちは、はじめから革命を「合法的」軌道に引きこもうとしてやっ
きになっていた。私は革命を蛇蝎のように憎みますと、エーベルトはマックス・フォン・バーデ
ン公に言明した。だからヴィルヘルム二世の家来どもは、ほかならぬこのエーベルトを一一月九
日には安心して帝国宰相に任命できたのだ。
 私は一一月九日の朝早くから革命的労働者と同志たちの武装部隊のまっただなかにいた。スパ
ルタクスダループの闘争目標を労働者兵士大衆のなかへ持ちこみ、この目標のために彼らを動か
すことがわれわれの任務だった。街頭行進中にわれわれの一団はみるみるうちに大きくなってい
った。ひっきりなしに他の集団が、武器をもったものも、もたないものも、隊列にくわわってき
た。兵器廠からはさらに武器がもちだされた。革命のスローガンが家々の正面にむけてひびきわ
たった。ときおり同志のひとりがトラックや階段の中ほどに立って、徹底的にやろう、中途半端
をがまんするな、と叫んだ。ベルリン全体がたちあがったようだった。赤旗をかかげ武装した兵
士たちが、抵抗の気配の見えたところへ介入するために、トラックで街を走り抜けていった。将
校たちは肩章も帽章も武器もとりあげられた。警官は労働者の手に多数の小銃があると見てとる
と、あたふたと自分たちの武器を引き渡した。
 ついに憎むべきドイツ帝国主義と決着をつける時が来た。
 われわれは兵舎のわきを通りすぎた。兵士たちはわれわれにさそわれて兵舎から出てきて、わ
れわれといっしょになった。彼らの一部は武器をもちだしてきた。そこで武装していない労働者
たちも、小銃や機関銃を手に入れた。同じ時分ショッセー通りの近衛連隊兵舎の前で、ベルリン
の革命的青年の指導者のひとり、恐れを知らぬ同志エーリヒ・ハーバーザートが、反動的将校た
ちの弾丸にあたって倒れた。その数日前、彼はカール・リープクネヒトも出席してひらかれた社
会主義自由青年同盟の創立大会で議長をつとめたばかりだった。
 宮城前の広場で、幾千人もの労働者や兵士のまっただなかにあって、私は偉大な歴史的瞬間を
この目でみた。ふだんはカイザーが好戦的なことばをはきちらし、サーベルをガチャつかせてい
たこの場所で、リープクネヒトは大衆の歓声をあびながら社会主義共和国を宣布した。たった今
まで宮城の上に皇帝族がひるがえっていたその場所に、今では革命の赤旗が風にはためいていた。
さわがしい叫び、喝采の嵐がわきおこっていた。ものすごい、喜びにあふれた興奮が人びとをと
らえた。労働者の帽子や兵士の軍幅が空たかく舞いあがった。
 午後われわれも警視庁の襲撃に参加した。幾百名もの囚人を解放し、武器や弾薬もうばいとっ
た。私は騎兵銃のほかに今度はすばらしいピストルまで手に入れた。
 夕方、同志や革命的労働者たちといっしょに、私はジングアカデミーのそばの栗の木立ちのな
かに伏せていた。われわれは銃のつづくかぎり撃ちまくった。反革命将校の一味が企てた市街戦
がはじまっていたのだ。宮城の近くやウンター・デン・リンデン街には殺し屋どもが陣どり、そ
の隠れ家から、近くを通り過ぎる労働者と兵士の部隊めがけて銃火をあびせかけた。木立ちのう
しろに伏せて、われわれはねらい撃ちをして敵を追いつめた。双方から間断なく小銃や機関銃が
火をふきつづけた。すこしはなれたところでは、家の壁が火の束となってアスファルトの上に音
をたててくずれおちた。烈しい戦闘は真夜中までつづいた。われわれは反革命の徒を追っ払って
しまわぬうちは息もつかなかった。われわれは不幸にして数人の死者と負傷者をだされはならな
かった。
 それから数日間、勤労者大衆を、えせ民主主義的裏切り的社会民主党指導者の反革命的影響か
ら引きはなさねばならなくなったとき、私は同志オイゲン・レヴィーネが都心の通りや広場でア
ジ演説をするのについていった。私は幾度か彼を助けて石壁の腰や窓の張り出しや高い手すりの
上によじのぼらせた。そこから彼はきくものを納得させるような生き生きした話しぶりで群衆に
呼びかけ、はっきりとスパルタクス同盟の政策を説明した。私がとくに満足をおぼえたのは、レ
ヴィーネ同志が野次をとばす一人ひとりの、革命に敵対するスローガンを即座に果敢にとらえて、
容赦なく徹底的にやっつけたときであった。
 皇帝は追放され、帝政は転覆され、ブルジョアジーは戦々兢々としていた――けれどもこれは
ほんの短期間にすぎなかった。彼らの共犯者である社会民主党右派の指導者たちは「社会主義」
と「民主主義」の空文句をふりまわして彼らを支援したのだ。
 反動からいちばん憎まれていた革命家は、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク
であった。われわれはそれをよく知っていたから、十分な配慮と献身的な愛情をもって二人をま
もった。私が他の同志たちといっしょにカールの、ときにはまたローザの身がらの安全をまもり、
同時に彼らが無事なように配慮する任務をひきうけたときには、私はうれしかったし、しあわせ
でもあった。
 私がまだ徒弟だったころ、カール・リープクネヒトが帝国議会で国粋主義的陶酔に抵抗して戦
争公債を拒否したとき、すでに私は彼の勇気をどれほど讃美したことであろうか。彼が一九一六
年の五月一日にポツダム広場で「戦争を倒せ! 政府を倒せ!」と叫んで、警官に拉致されたと
きのことを、私はどんなにたびたび思いだしたことか。彼がカイザーの軍事裁判の高級将校たち
にむかって投げつけた勝ちほこったことばも、私には忘れられなかった。「君たちの名誉は私に
は名誉ではない。……私が刑務所の作業衣を身につけたときの名誉をもって、軍服を身につけた
将軍はかつて一人もいなかったのだ」と。あのとき私は、彼の懲役刑の判決に反対するビラを経
営にもちこみ、われわれはブラウンシュヴァイクの他の経営の労働者といっしょにカールに味方
して、仕事を放棄したのだった。
 そしてローザ・ルクセンブルク――想念のなかで、私はふたたび「言葉のない絵本」というス
パルタクスのビラにのっていた彼女、陰うつな独房のなかの彼女をみていた。そして占領地ベル
ギーのカイザーの司令部の来賓であるシャイデマン、ダーヴィト、エーベルトその他の右派社会
民主党の代議士たちを想いやった。監獄で書かれた彼女のユニウス・ブロシューレが私の心に浮
かんできた。また彼女の書いたスパルタクスのビラのことも。以前に私もいっしょにこれをまい
たものであった。そしていまでは、私はこの二人にこんなに近くにいたのだ。
 彼らは『ローテ・ファーネ』の編集部でたゆまず働いた。身体の弱い小柄なローザの力は私に
はほとんど超人間的に思われた。彼女はみたところすぐにもくずれそうだったけれども、彼女は
強固な意志をもって毎日きめられた仕事をきちんとやってのけた。カールがデモンストレーショ
ンから帰ってくると、ただちに彼らは情勢について審議し、中央部の同志たちと協議をつづけ、
こうして彼らは共同でつぎの論説の方針をきめたのである。
 デモや集会や協議にでかけるときには、いつも私はカールのそばにいた。見渡せないほど多く
のプロレタリア大衆のまっただ中で、そしてショッセー通りのおびただしい血の犠牲を前にして、
彼が、火を吐くような抗議をおこない殺人者を告発するのを私はジーゲスアレーできいた。また
プロイセン衆議院議事堂のそばで彼がデモ隊にむかって大演説をやったとき、熱弁とともにふり
あげられた拳を、私は彼から遠くないところで、目のあたり見た。一方その議事堂の中では第一
回労働者兵士評議会大会が開かれ、代議員の多数はエーベルト=シャイデマン路線をすすんだ。
大会の会期中、私は中央本部の急使として会場に入り、オイゲン・レヴィーネとフリッツ・へッ
カートらの同志と幾度かうまく連絡をとった。
 カールがどこで話しても、労働者と兵士で彼の意見に感動しないものはなかった。彼のことば
にこもる強烈な力と説得力によって大衆の心は燃えたった。
 ふたたび一一月―一二月の闘争につぐ闘争の日々が過ぎていった。カールはオーバーと長靴の
ままで、あるレストランの玉突台の上に横になり、ぐっすりねむりこんだ。どんなにしばしば幾
日も休まなかったことだろう。闘争はますます身心をすりへらし、カールをねらう危険はいよい
よ大きくなった。事件とその裁定とがたがいに追いかけあった。カールは不屈の活動をしていた
ので、風采や服装に気をつける余裕はなかった。破れた靴をはいた彼を見るのは気が重かった。
闘争の中で大胆不敵に警告を発し、呼びかけていたあの彼が、いま、街頭から帰ってきたままの
姿でそこに横になっていた。
 われわれが静かに彼の寝息をきいていると、カールに手紙をもってきた急使に「シッ! カー
ルがねている」と注意する同志の声が控室から低くきこえた。われわれは彼をおこしたくなかっ
たが、しかし知らせは重要なものであった。カールはすばやく読み、しばらくじっと考えてから、
返事をした。同時に同志たちを心からねぎらい、闘争を鼓舞することばを送ることもけっして忘
れなかった。それからふたたび眠りについた。
 カールは生命の安全を期するために、もう家族のいる家にはゆけなかった。ときどき彼はシュ
テークリツに住んでいる妻ゾフィー・リープクネヒトと子供たちのところへ私をやった。私がそ
こに着いたとたんに、みんなは私を質問攻めにした。彼はどうしているか、どこにいるかと、彼
らは知りたがったが、私はカールの頼みで苦しい仕事や彼のきびしい生活の実情についてはなに
も話さなかった。そのかわり、幾度も質問にさえぎられながら、私はカールが姿をみせた毎日の
協議や、集会や、公然たるデモや彼の編集活動について、また彼が労働者の大業のために倦まず
たゆまずどんなに奮闘しているかについて、知らせた。また彼の住まいや、住まいが気にいって
いるかどうかについても、話さなければならなかった。私がカールの安否について話すことばの
一つ一つはむさぼるようにききとられ、彼を慕うやさしい気持のうちに、希望と願いで結ばれた。
 ゾフィー・リープクネヒトはカールあての手紙と下着類を、子供たちは少しばかりためておい
た甘い物を私に持たせるのがならわしだった。父親は甘い物が好きで、それをとてもよろこぶの
を子供たちはよく知っていた。ゾフィー・リープクネヒトから、あるときカールのために、小さ
な枕をもってゆくようにたのまれたことも思いだす。それによって、彼女がわれわれの考えてい
た以上に先のことまで見ていたことを私は知った。カールを気づかう気持がしだいにはっきりし
た心配にかわってきた。だから、こうしてシュテークリツのビスマルク通りへ出かけていくこと
はかならずしもなまやさしいことではなかった。それはいつも私には新しい試練であった。なに
しろ私自身はまだ一九歳にもなっていなかったのだから。
 カールは特別の理由から編集局の近くに家具つきの部屋を借り、数日後には別の部屋に移った
ので、私はつぎつぎにたくさんの部屋を借りなければならなかった。彼はこれをすっかり私にま
かせきりだった。彼はもともと質素な人だったから、部屋のことで文句を言ったことは一度もな
かった。とりわけ、彼は私の非合法の経験に頼り、また私が家主とつきあったり立ち話をしたり
して集めた見通しに頼っていた。
 われわれ青年同志やスパルタクス同盟員にしだいに明らかになってきたことは、明確な綱領を
かかげて労働者を闘争と勝利へと導くべき単一の革命党がわれわれにはないということであった。
ついに事態はそこまできたのだ。一九一八年末から一九一九年のはじめにかけて中央本部で働い
ていた一人として私は、青年らしい闘争の感激にあふれて、ドイツ共産党の創立に親しく参加し
た。党綱領でプロレタリアートの執権が承認され、ただちに十月社会主義大革命にたいして態度
が明らかにされたことは、大きな意義をもつものだった。
 革命の炎のなかから生まれてきたこの若いドイツ共産党は、そのゆく道の第一歩からきわめて
きびしい試練にたえなければならなかった。というのは、その大会のすぐあとには武装闘争が、
つぎには非合法状態がつづいたからである。独立社会民主党員が政府から追われたあと、ノスケ
とヴィセルがそのあとがまにすわった。政府は革命的労働者と兵士に挑戦し、彼らはそれにこた
えて新聞社街を占拠した。新しい反革命軍が投入された。政府の挑戦、とくにわれわれの指導者
――なかでもカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク――にたいするあからさまな殺
害のおどしが烈しくなってきた。反革命にけしかけられた義男兵どもが重火器の助けを借りて『
フォールヴェルツ』紙と警察本部を襲った。われわれのもっともすぐれた人々の多くが、一九一
九年のこの一月闘争で射殺され、惨殺され、はずかしめられた。
 労働青年も真に英雄的に革命家たちの味方としてたたかった。新聞の印刷所の防衛でも、市街
戦でも、ビラの印刷配布でも、青年たちは最前線にたってりっぱに任務を果たした。
 こういう苦しい闘争の日々に私は屈することなく活動し、さまざまの任務を全うした。『ロー
テ・ファーネ』の発行を確保し、編集部にたいする攻撃を撃退しなけれはならなかった。そのほ
かにも、必要な連絡はつねにとっておかなければならなかった。それで私は、占拠した『フォー
ルヴェルツ』紙の建物のなかの同志たちのところにいた。オイゲン・レヴィーネは同紙の編集者
の一人だった。彼はたまたまその建物の外にいたので、他の人たちをおそった流血の運命をまぬ
かれたのだった。
 カールとローザの虐殺はわれわれすべてにとって手痛い打撃であった。恐ろしい知らせを私が
知ったとき、憤怒と熱い痛みが私のうちにこみあげてきた。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書魔、EA〇六二三
  クルト・ネットバル

     一九〇三年ベルリンに生まれる。電気組立工。一九二四年以後共産党員。社会主義青
年組織の活動家。ドイツ現代史研究所編集者

 一九一八年一一月末から一二月にかけてベルリンのさまざまの市区で、スパルタクス同盟の公
開集会が催された。「スパルタクス同盟は何をしようとするか」、「政治情勢について」、その
他の問題をテーマとして、スパルタクス同盟の指導的な役員であるカール・リープクネヒト、ロ
ーザ・ルクセンブルク、レオ・ヨギヘス、ヴィルヘルム・ピークその他の同志たちが話した。こ
れらの集会はすでに共産党樹立の地ならしとなるものであった。
 ゾフィー通りの手工業者ホールでもそうした集会が催された。この会議場はハッケ市場のなか
のわれわれの経営のすぐ近くにあった。集会にはとくに青年労働者の参加が要請されていたので、
われわれの社会主義自由青年グループは、徒弟たちの代表団をゾフィー・ホールに派遣すること
に決定し、その代表団に私も選出された。そのうえ青年同志たちは集会で話す任務を私に課した。
私の話すべきことは、集会に参加した人たちにわれわれの要求を述べ、なかでもカール・リープ
クネヒトにたいするわれわれの共感を表明することであり、またわれわれは革命的青年組織とし
て自分たちをスパルタクス同盟の一部であると考えていること、またソヴェト・ロシアの若い革
命家たちをわれわれの模範と認めていることを表明することであり、労働者階級の諸権利のため
の闘争ではいついかなるときでもわれわれ若いスパルタクス同盟員を信用してくれと確約するこ
とであった。
 この集会でカール・リープクネヒトの演説をきくことができたのは、われわれにとってよろこ
ばしくも思いがけないできごとであった。われわれはそれを予期していなかった。カール・リー
プクネヒトのおこなった演説は、私を魅了した。演説は反対のしようもない説得力を放射し、き
くものを感激にひきこみきわめて深い感銘をあたえた。
 とくにカール・リープクネヒトが反対者の野次とまじえたやりとりが、いつまでも私の記憶に
残った。カール・リープクネヒトは十一月革命とロシアの十月革命を比較し、これと関連して、
労働者階級の武装の必要を説明していたが、そのとき、このブルジョア平和主義者は、人間は高
貴で善良であるべきもので、武器などはたたきこわさなければならない、と野次った。
 このとき、カール・リープクネヒトはすこしもあわてず、演説を進めながら、この野次にふれ
て言った。それはなるほどりっぱな格言ではあるが、しかしそれには決定的な内容がない。その
内容を実のあるものにするために――と彼はとりわけつぎのように言った――現在、われわれの
ロシアの階級的同志たちは苦心しているのだ。そのために彼らはプロレタリア革命の勝利を確実
にしようとしているのだ。彼らを助け、ドイツでもプロレクリア革命を勝利に導くことが、ドイ
ツの労働者にとっては善いことであり、高貴なことであろう。労働者階級が人間による人間の搾
取を除くために闘うのは、つねに善いことであり、また高貴なことである、と。
 武器をたたきこわしては――とカールは野次った相手との論争をつづけた――ロシア革命は勝
利しなかった。資本家と軍国主義者たちは自分の武器をたたきこわすなどということは考えても
いない。まさにその逆だ。資本主義的社会体制がつづくかぎり、ブルジョアジーは労働者階級と
進歩を流血をもって抑圧するために、武器をもちいる。だから労働者階級もまた「武器をたたき
こわせ」というイデオロギーを自分のものにするわけにはいかない。
 われわれ多くの青年同志はブルジョア平和主義者とのこの戦闘的対決によって十一月革命後の
数週間にじつにしばしばみられたこうした危険な論証をどうすれは片づけられるか、ということ
を教えられたのである。
 演説が終わって討論がはじまると、私は同志たちから、討論のさいに発言を求める自分の任務
を忘れないようにと注意された。けれども私はひどく気おくれがして、発言を申し出る気になれ
なかった。しかし私の青年同志や徒弟仲間は、われわれ青年グループの決議をたてにとって頑と
してゆずらなかった。とうとう二、三の年輩の労働者がわれわれの口論に気がついて、発言する
ようにと私をはげましてくれた。けれどもカール・リープクネヒトのいるまえで、しかもわれわ
れみんなをひどく感激させた彼の演説のあとで、思いきって発言を申し出ることは、私にはどう
してもできなかった。そのとき突然、年とった労働者が集会の議長団に、もう一人若い労働者が
発言を希望していると大声で伝えた。当然人々の注意があらためてわれわれに向けられた。そこ
で、同志の青年たちに親しく背中を押されて、とにかく私は演説用テーブルのところまでいった。
しかし私は二人の青年同志を自分の援軍として連れていった。私はなんと舞台負けをしたことだ
ろう。私が最初のことばをどもりながら口に出したとき、カール・リープクネヒトは私の方を見
て、自分の思うとおりに、階級意識にめざめた若い労働者らしく話し給えと私にうながした。こ
うして励まされてからというものは、ことばや話しがたんだん気持よく軽々と口をついて出た。
青年グループが私に託していたこと、若い労働者や徒弟としてのわれわれの不安を、のこらず心
から語った。事実われわれにはたくさんの不安があった。われわれ若者にとっては、実際、十一
月革命後もほとんど何一つとして変わりがなかった。ここではあいかわらずカイザーの法律が支
配していた。実業補習学校や徒弟の勤め先でわれわれはいまだに平手打ちをちょうだいし、甘ん
じて第二級の人間として扱われなければならなかった。徒弟は経営者にとってまず第一に特別利
潤の源泉だった。しかし、われわれの方は、何よりもまず十分な職業専門教育とそれに見合う報
酬を要求した。
 私の短い演説が終わって拍手がおこると、私は少なからず誇らしい気になって、二人の若い同
志の方をふりむいた。そのときの私の顔つきは、どうだ兄弟、おれはうまくやってのけたろう、
君たちはおれのやり方に満足したかと言いたげだった。
 カール・リープクネヒトは、こんなぎごちない態度の徒弟の発言にきわめて注意深く耳を傾け
ていたばかりでなく、そのうえメモまでとっていた。彼はわれわれの方につかつかとやってきて、
われわれと握手をした。そして両手をわれわれの肩におきながら、彼は集会にきた人たちに要求
して言った。われわれはこうした幾千人もの労働者を教育しなけれはならない。なぜなら、青年
こそわれわれの革命の後継ぎであり、労働者階級が今日なお勝利しなければ、青年こそ資本主義
の打倒と社会主義社会の建設に向かって闘争をおしすすめる人たちなのだから、と。
 カール・リープクネヒトの登場とわれわれに向けた彼のことばは、若い労働者の私にきわめて
強い感銘をあたえた。彼の話すのをきくことだけでもすでに印象深い体験であった。彼の演説は
私のような若者にもわかりやすかったからだ。ところで、何という大きな人間的温かみが彼から
あふれ出てきたことか、私はそれをつくづく感じた。われわれに親しくかたりかけた彼のことば
は、プロレタリア革命、スパルタクス同盟、とくにカール・リープクネヒトにたいする私の感激
をますます燃えたたせずにはおかなかった。それは私にとっていつまでも忘れることのできない
ものであった。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA〇六七〇
  マルタ・ノートナーゲル

     一八九一年ニーダーバルニム郡ミューレンベックに生まれる。速記タイピスト。一九
一〇年以後社会民主党員。カール・リープクネヒト弁護士事務所の速記タイピスト。ベルリンの
古参共産党員

 一九〇七年三月一五日、私は速記タイピストとしてテオドールとカールのリープクネヒト兄弟
のところで勤務しはじめました。二人とも弁護士で、事務所はショッセー通り一二一番地にあり
ました。私はカールが亡くなってからも一九三三年まで、この弁護士事務所で働いていました。
それはベルリンにあった一〇〇〇ほどの事務所のうち第二番目に大きなものでした。
 職業上の活動のほかに、カール・リープクネヒトの時間は政治的な仕事に完全にとられ、その
うえ彼はプロイセンの州議会および帝国議会の議員でもありました。
 私はカール・リープクネヒトとともに仕事をした時代に、彼の家族とも親しい知りあいになり
子供たちが大きくなるのを見てきました。私が知りあったのは、政治家としてのみならず、一家
の父として、また夫としてのカール・リープクネヒトでもありました。彼の子供たち――二人の
男の子と一人の女の子の三人――は自分たちの父をとても愛していました。しかし、残念なこと
に、家族の人たちが彼からあたえられたものはほんのわずかでした。というのは、彼は政治活動
のためにひどくいそがしく、またしばしばながいあいだ家をるすにしなければならなかったから
です。彼のはじめの奥さんで、子供たちの母ユリアは、たいへん早く亡くなりました。二度目の
奥さんゾフィーはローザ・ルクセンブルクの親友でした。
 カール・リープクネヒトといっしょに仕事をすることは、私にとっていつもきもちのよいこと
でした。彼はゆきとどいた正確な仕事をするように要求し、どんな手助けにも礼を言い、出来ば
えがよいとほめてくれました。毎日処理しなければならない調書や書類が山のようにあったのに、
彼はいつも思いやりがあり、愛情と温かさにあふれていました。協力者がそれぞれ十分に支払い
をうけるように、のみならずたいてい協約できまっている定額以上に支払われるように、とくに
こまかく心をくばっていました。私は帝国議会や州議会に行っていなければならないこともじつ
にしばしばでしたが、彼は休憩時間に政治論文や報告を私に口述筆記させました。こうして私は
しばしは会議に立ちあちことができ、また労働者階級の利益をまもり軍国主義に反対する彼の首
尾一貫した行動をみとどけました。政敵が大騒ぎをしても、彼は冷静に適切に説明をつづけるの
を、私は幾度目のあたりに見聞したことでしょう。政敵は、カール・リープクネヒトが野次を一
つひとつ適切にうけながすので、一人また一人プンプン怒って会議場を脱げだしていくというあ
りさまでした。帝国議会や州議会で痛烈な闘争をしたのに、あのころはすこしも革命的ではなか
った事務員たちのあいだで、彼は人間としてきわめて評判がよかったのです。彼らは例外なくも
っぱら彼のよいところばかり話していました。
 カール・リープクネヒトには刑事事件の依頼人がたくさんいて、弁護士としてのこの活動も彼
をよろこばせたものでした。彼の助けを必要とした多くの普通の人々の訪問もうけました。カー
ル・リープクネヒトは刑事訴訟手続きの弁護もひきうけましたが、主としてひきうけたのは、政
治的訴訟の弁護でした。彼は裁判官たちにこわがられていました。というのは、彼の弁論はしご
く説得的で、傍聴者たちをあっと言わせるような大成功をおさめたからでしたが、おそらく時に
は裁判官たちも感心したからです。しかし裁判官たちは思いきって彼に同意する勇気はなかった
のです。彼は一度も法律の辞句や厳格な条項だけから判断したことはなく、その人間全体、その
生いたち、その環境を判定して、あらゆることを支配的な政治状況と関連させて見るのでした。
彼はつまずいた人にはだれにでも思いやりのある、教えさとすことばをかけました。弁護料の多
寡などは重要ではなく、もっとも重要なことは、彼に心をうちあげた人々にたいする配慮でした。
 こうして私は日々の仕事のなかでカール・リープクネヒトという人をよく知り、彼を偉大な政
治家として、またすばらしい愛すべき人間としても、尊重することをおぼえたのです。

          マルクス=レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA〇六八六
  ヴィルヘルム・ピーク

     一八七六年グーベンに生まれる。指物師。一八九五年以後社会民主党員。スパルタク
ス同盟中央本部員。ドイツ共産党創立者の一人。一九六〇年死去

 一一月一〇日の夜おそく『ベルリーナ・ロカール・アンツァイガー』紙の編集室にスパルタク
ス同盟の数人の同志がおちあった。彼らは世界戦争中、戦争と社会民主党の戦争政策に反対して
断固たる闘争をすすめ、そのために投獄され、軍隊にいれられ、あるいは国外に追放されていた
人たちだった。カール・リープクネヒトは政府によって、一〇月二三日刑務所から釈放され、レ
オ・ヨギヘスは一一月九日モアビート監獄から同志たちの手で解放された。私は一〇月二六日に
亡命先のオランダから帰ってきたし、一一月一〇日の夜の一〇時ごろにはローザ・ルクセンブル
ク同志がブレスラウから到着した。彼女はその地での長いあいだの禁固から革命によって解放さ
れたのである。ほかにまだ数人の男女の同志が居あわせた。
 一一月九日、スパルタクス同盟の同志たちが革命的労働者と兵士に支持されて、『ベルリー

・ロカール・アンツァイガー』紙の印刷所と編集部を占領した。この新聞は戦争中躍起になって
参謀本部に忠勤をぬきんでたのである。そして夕刻には『ディ・ローテ・ファーネ』紙の第一号
が発行され、それから翌朝一一月一〇日には第二号が発行された。そのためにこの大新聞企業の
所有者シェルル商会は、はじめはすっかりふるえあがっていかなる抵抗もしなかった。
 一一月一一日の日曜日、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが泊っていたアン
ハルト駅のそばのホテル「エクスツェルジオール」で会議がひらかれ、スパルタクス同盟の中央
本部が設けられた。スパルタクス運動は戦争中、レオ・ヨギヘスの提案で「インタナショナル・
グループ(スパルタクス・グループ)」というそれまでの名称を「スパルタクス同盟」に変更す
るほどの規模に成長していた。しかし同盟はまだ党ではなく、同盟員は組織的にはドイツ独立社
会民主党に属していた。しかし、同盟はこの党の内部では一つのまとまった宣伝団体であった。
スパルタクス同盟に属していることを明示するしるしをわれわれの信奉者たちに渡すために、ア
ジテーション・カードが印刷され、五〇プフェニヒで発行されたが、通常会費はとらなかった。
もちろん、こういう状態はドイツ独立社会民主党の内部でごたごたをおこさないわけにはいかな
かった。
 スパルタクス同盟中央部は一三人の同志で構成され、先頭にはカール・リープクネヒト、ロー
ザ・ルクセンブルク、フランツ・メーリングおよびレオ・ヨギヘスがいた。ほかになおエルンス
ト・マイアー、ヘルマンとケーテのドゥンカー夫妻、ヴィルヘルム・ピーク、フーゴ・エーバー
ライン、アウグスト・タールハイマー、パウル・レヴィ、ヴィリー・ブーディヒ、パウル・ラン
ゲが中央本部に属していた。これらの同志にはそれぞれきまった仕事があたえられた。編集には
とくにルクセンブルクとリープクネヒトが決められた。ヨギヘスは全国アジテーションを、ピー
クは大ベルリン・アジテーションを、エーバーラインは業務管理を、ブーディヒは兵士アジテー
ションを引きうけ、ドゥンカー夫妻には婦人青年アジテーションがまかされた。
 スパルタクス同盟の中央事務局用にヴィルヘルム通り一四番地のホテルの建物の七部屋ある階
が借りられた。ここに『ディ・ローテ・ファーネ』紙の編集部も部屋をとった。しかし、もうこ
れらの部屋では手ぜまになった。また家主は建物の人の出入りが多くてかなりやかましいので、
事務局を移転してくれとせきたてた。そこでフリードリヒ通り二一七番地にあるロシア電信通信
支局のもとの事務室をひきつぐことになった。この支局は一一月五日ロシア大使館の国外追放と
ともに活動を停止しなければならなかった。赤色兵士同盟の事務室はバーゼル通りに移され、編
集部だけがヴィルヘルム通りにそのまま残った。ほかにアンハルト通りのホテル「アスカーニッ
シャー・ホーフ」に、編集室として使われたいくつかの部屋が確保された。

 ドイツ独立社会民主党の指導者たちは、水兵にたいして政府の企てた攻撃にはまったく反対の
態度をとらず、したがって政府から脱退しようともしなかった。だからスパルタクス同盟はやむ
なくドイツ独立社会民主党の指導者たちと完全に決裂することを余儀なくされたのである。
 ヨギヘス同志の活動は、この数週間に全国のすべての地区と連絡をつけ、またスパルタクス同
盟の全国紙織の前提をつくりだすのに成功した。彼は全国的にもスパルタクス運動のために強固
な組織上の支柱をつくりだすために、ひきつづき地区の代表者たちどの協議をおこなった。かな
り強い地区に属していたのは、ベルリンのほかに、ルール地方、ケムニッツ、ニーダーライン、
ヴァッサーカンテ、ノルトヴェスト、ヘッセン=フランクフルト、シュトゥットガルト、ブラウ
ンシュヴァイク、オーバーシュレージエン、ライプツィヒ、ドレスデン、テューリンゲン、東《
オスト》プロイセン、マグデブルクおよびバイエルンであった。
 運動を組織的にもいっそう強くするためには、自分たち自身の党の創立が必要だという見解が、
しだいに強くでてきた。しかしヨギヘスと、それにローザ・ルクセンブルクも、こうした考えに
はなじめなかった。彼らはむしろドイツ独立社会民主党の内部にあって労働者たちに強い影響力
をあたえるという昔からの彼らの目標を達成することにつとめた。この強い影響によってスパル
タクス同盟の政策はドイツ独立社会民主党のなかに浸透し、党の指導権はスパルタクス同盟の手
に帰するだろうというのであった。そのための前提はドイツ独立社会民主党の全国大会の召集に
あると考え、そこでドイツ独立社会民主党の指導者の政策にたいする態度が決定されるだろうと
見たのであった。
 一二月二五日までには、われわれの党大会召集の要求にたいするドイツ独立社会民主党指導者
の返答がなく、一二月二四日に彼らは交通困難のために、また選挙アジテーションのために、党
大会を開催することはできないと『フライハイト』紙上に声明したので、一二月二九日日曜日に
スパルタクス同盟全国会議の召集が決定された。
 一二月二九日日曜日、州議会の大広間には、四六市町村の代表八三名、赤色兵士同盟の代表三
名、青年の代表一名および外国の来賓一六名が、午前九時半にはじまったスパルタクス同盟全国
会議に集まった。日曜日の会議はまずはじめに自分たち自身の党の樹立に踏みだすべきかどうか
を協議するため、非公開であった。短い討論ののち、反対票三で党の樹立が可決された。党の名
称については二、三意見の相異があった。そのさいローザ・ルクセンブルクとレオ・ヨギヘスは
社会主義労働者党という名称に賛成し、一方他の幾人かの代表者はドイツ共産党という名称に賛
成した。そのために、委員会が設けられることになり、そこでかなりながい討論のあと「スパル
タクス同盟」の名をそえて後者をとることに決定された。
 会議は、たたかいに倒れた水兵たちの埋葬に代表者たちが参列できるようにするため、一一時
半にいったん中断された。
 一二月三〇日の月曜日には党大会の公開審議がはじまった。カール・リープクネヒトがドイツ
独立社会民主党内の危機とドイツ共産党の創立について報告した。ドイツ共産党の創立は討論な
しで決定された。組織形態としては、党組織は社会民主党的な選挙団体組織とは反対に、経営を
土台としてうちたてられなければならないこと、「共産主義共同団」が経営内に創りだされなけ
ればならないことが強調された。経営のオプロイテは地区の党役員団を構成し、この役員団は地
区党指導部を選出しなければならないとされた。
 一二月三一日火曜日、会議は党綱領にかんするルクセンブルク同志の報告によってはじめられ
た。このために提出された動議はすべて二五人の同志からなる委員会に付託された。党綱領は満
場一致で採択された。
 一九一九年一月一日水曜日午前九時から衆議院でまずはじめにオプロイテによって選ばれた特
別委員会との話しあいがおこなわれた。特別委員会ではすでにわれわれはほとんど了解点に達し
ていたのであるが、そのときレーデブーアが現われて、オプロイテの特別動議をわれわれ抜きで
押し通したのである。この動議では、レーデブーアはいくつかの条件を書式にしたが、それによ
って委員会とわれわれの見解とのあいだには相容れない意見の相異の存在することが明らかにな
った。オプロイテはそれ以上の態度決定をドイツ独立社会民主党の党大会のあとまで延期した。
 ドイツ共産党の樹立によって労働者階級の敵対者が姿をあらわした。共産主義運動はドイツ独
立社会民主党の指導者たちのなかに、いっそう広範な公然たる敵をかかえていた。これがスパル
タクス狩りの側にますますついていった。ブルジョアジーと社会民主主義にとって、共産党の樹
立は労働者階級の闘争の強化される合図だった。だからこそ、彼らはスパルタクス運動とその指
導者たちの絶滅に全力を傾けたのである。ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトに
たいする殺害のけしかけがおおっぴらにおこなわれ、街頭のポスターは彼らの虐殺を迫った。兵
士たちのところでは、スパルタクス運動のこの二人の指導者の首に懸賞金がかけられた。この二
人は万悪の根源とみなされ、彼らを消してしまうことはすべての悲惨を除くことだと言いたてた。
 一月一一日土曜日、労働者の占領していた『フォールヴェルツ』紙の建物にたいしてノスケの
部隊の襲撃がはじまった。他の新聞企業ではすでに夜のうちに革命的労働者たちが立ちのかされ
ていた。『フォールヴェルツ』紙の建物はベル・アリアンス広場から大砲や追撃砲で砲撃された。
こんな攻撃にたいしては、いかに英雄的な防衛者でも持ちこたえることはできなかった。彼らは
明け渡すほかなくなった。占領者側から明け渡し交渉のために派遣された七人の軍使は、ノスケ
の雑兵に射殺された。
 さらに迫害者たちから身をかくすよう、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトを
説き伏せることには成功したが、しかし二人は『ディ・ローテ・ファーネ』をできるだけながく
労働者のために持ちこたえるために、どんなことがあってもこの闘争の機関紙の編集をつづける
ことを希望した。そこで彼ら二人をさしあたりノイケルンの個人の住まいにおくりこんだ。しか
し彼らの編集活動に関係していた人たちの出入りがあまりにも人目についたので、はやくも二日
後にはどうしてもあらたな宿舎に移らなければならなくなった。
 政府軍部隊は市街区を一つひとり閉鎖し、武器を探して閉鎖地区内にある住居をくまなく捜索
しはじめた。武器やドイツ共産党の党員証の見つかった家の人たちは射殺された。めちゃくちゃ
な虐殺ムードがみなぎっていた。
 一月一四日の『ディ・ローテ・ファーネ』紙はローザ・ルクセンブルクの論説『秩序がベルリ
ンにのさばる』をのせた。これが彼女の最後の論説となった。この号の外国向け発送分五〇、〇
〇〇部がアンハルト駅の歩哨に押収された。
 一月一五日水曜日、カール・リープクネヒトの最後の論文『たとえどんなことがあっても!』
ののった号の『ディ・ローテ・ファーネ』は、わずかの部分をのぞき政府軍に押収された。新聞
を発行するために毎日必死の闘争を続けなければならなかった。
 ルクセンブルクとリープクネヒト同志がいた家の女家主は、警察のスパイが二人のいるのをか
ぎつけるかもしれないとこわがっていた。それで、われわれは改めて居所を変えるのがのぞまし
いと考えた。ヴィルマースドルフのマンハイム通り四四番地に住む商人マルクスゾーンが、二人
を自分のところに引きとる用意があるとはっきり言った。彼はドイツ独立社会民主党に属してい
た。この党のメンバーは共産主義者ほど迫害されていなかったし、また彼の住居はヴィルマース
ドルフの、あまり人の住んでいない地域にあって、このブルジョア地区ではさしあたり家宅捜索
がおこなわれないだろうと考えることができた。そこでわれわれは、ちゅうちょせずにその申し
出を受けいれることにした。一月一四日夕方の移転がはやすでに生命の危険を伴っていた。なぜ
なら、勝利に狂った白衛兵どもが通りであらゆる車両を停め、武器を探していたからだ。この理
由からも両同志をベルリンの外に宿泊させることはもはや不可能であった。けれどもわれわれは、
なんの妨害もうけずに、首尾よく新しい宿所にたどりつくことができた。
 しかし、どうして秘密がもれたのか、いまだに判らないが、もうその翌日にはローザ・ルクセ
ンブルクとカール・リープクネヒトの新しい居所は白衛兵に知られてしまった。私が一月一五日
の九時ごろ、家宅捜索にそなえて両同志に他人の身分証明書を手渡すために、その住所に彼らを
訪ねようとしたら、住居は軍隊に占領され、カール・リープクネヒトはすでに逮捕されて運び去
られていた。ローザ・ルクセンブルクはまだ住居にいたが、数人の兵士に監視されていた。私は
住居に一歩踏みこんだとたん兵士たちに逮捕され、厳重な検査をうけた。しばらくして、ヴィル
マースドルフの自警団に属している二人の民間人、技師のリントナーと旅館の主人メーリングの
案内で幾人かの兵士がやってきて、家中をくまなく捜索した。彼らは、激しい頭痛のためにべッ
ドにねていたローザ・ルクセンブルクを、むりやりに起こし、着物をきるように命じた。まもな
くローザ・ルクセンブルクと私はエーデン・ホテルへ連れていかれた。
 そこでは奴らはもうわれわれを待ちうけていた。というのは、玄関のまえには数人の将校や兵
士らがいて、大声でわめいたり、ののしったりしながら、われわれを待ちうけ、とくにローザ・
ルクセンブルクにたいしてはじつに下劣きわまる態度をとったからだ。玄関のホールで大勢群れ
て走りまわっていた兵士たちも、同様に下劣にふるまった。それ以上に下劣にふるまったのは、
ホテルのとまり客たちで、廊下にひしめきあって、捕われの身となった二人にたいして兵士たち
をけしかけていた。ことさらにつくりだされた虐殺ムードがついにここでおそろしい爆発をする
だろうということを、万事が暗示していた。
 ローザ・ルクセンブルクはただちにホテルの二階に連れていかれ、そこでパープストという陸
軍大尉がいわゆる裁判権所有者として彼女を訊問した。私は階下の玄関のホールに引きとめられ、
そこでカール・リープクネヒトも同じくこの建物のなかにいる音をきいた。将校たち同士はたが
いに、また兵士たちを相手にして、われわれのうち一人も生かしてこのホテルから出してはなら
ないと、おおっぴらに話しあっていた。一〇分ほどしてから、私も同じように二階に連れていか
れ、壁の凹みに立たされ、この場所を離れたら射殺するぞ、とおどされた。そのすぐあと、リー
プクネヒト同志は兵士たちに取調べ室から階下へ連れていかれた。ことあれかしと待ちかまえて、
この連行を見物していたホテルの客たちは、彼にたいしても下劣きわまるおどし文句をならべた
てた。
 それからまた一〇分たって、ローザ・ルクセンブルク同志が階下へ連れていかれた。ブルジョ
アの女どもは罵声をあびせかけてあきることを知らなかった。私はホテルの玄関のホールの方か
ら大騒ぎの音と女の金切り声をきいた。ホテルの女中が二階に転げこんできて、仲間の一人に向
かってすっかり振り乱してこう叫んだ。「いやよ、あれを見たら二度とわすれられないわ。あの
女をかわいそうになぐり倒して、ひきずりまわすなんて!」彼女のあとを追ってきた下士官は冷
笑しながら「そうだよ、やつらは片づいたよ!」とはっきり言った。ホテルの客たちは廊下から
どくようにせきたてられた。見せ場は終わり、ぶきみな静けさがはじまった。
 私を監視していた二人の兵士は、将校からそっと指令をうけた一人の兵士と交替した。後に彼
自身の自白で判明したように、すでにカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクをたた
きのめし、いまや私を廊下でただちに射殺する任務を受けたのは、狙撃兵ルンゲであった。だが
しかし、私は振りむいてみて、舞台をすっかりよく観察してしまったので、もう一度顔を壁の方
に向けるという催促には応じなかった。それが人殺しルンゲをじりじりさせた。それから彼はそ
の将校から私を建物から連れ出す任務を受けた。しかし私は即座に決心してパープスト大尉の部
屋にとびこんで、ただちに私を釈放するよう彼に要求した。そのとき私の名義でない通行証をも
っていたので、もっけの幸いであった。ところが困ったことには、私は『ディ・ローテ・ファー
ネ』紙の原稿をもっているのを見つけられた。彼らは私を『ディ・ローテ・ファーネ』紙の編集
者だと思っているらしいことが私にも察しかついた。私はそうじゃないと否定し、自分はブルジ
ョア・ジャーナリストだと言いはった。そこでまず将校たちが私の身もと調査をするよう指令し、
私を軍事拘留に引き渡すところまでは、首尾よく彼らをだましおおせた。私は近衛騎兵狙撃師団
の倉庫に、その翌日にはツォオロギッシャー・ガルテンにある別の倉庫に、つづいて警察本部に
連行され、ここで一月一七日金曜日、うまく逃げおおせたのであった。
 一月一六日水曜日『ベー・ツェット・アム・ミッターク』紙は同志ルクセンブルクとリープク
ネヒトの殺害の報道をのせた。しかもそれは、近衛騎兵狙撃師団が世論をあざむくために体よく
でっちあげた書き方であった。リーブグネヒト同志についでは、彼は逃亡の途中で射殺されたと
書かれていた。じつは、彼はティーアガルテンで背後から射殺され、身許不明の死体として死体
公示所に引き渡されたのだ。ローザ・ルクセンブルクは白動車で輸送中に射殺され、ラントヴェ
ーア運河に投げこまれた。彼女の死体は五日三一日発見された。

 それはじつにひどい打撃だった。おそらく若い共産党に命中したもっともひどい打撃であった
ろう。党のもっともすぐれた、もっとも経験ゆたかな指導者が党から奪いさられたのだ。しかし、
党はすでに労働者階級のなかに根をおろしていたので、もっとも悪質なテロルや、戒厳状態や、
党とその新聞の禁止をもってしても、党の指導する革命運動をおしつぶすことはできなかった。
レオ・ヨギヘスがひきつづいて党を指導したが、彼も三月一〇日にお雇いの殺し屋の弾丸を受け
た。また一月二九日、死は七三歳のフランツ・メーリングをも党からうばいさった。こうして党
は、もっともすぐれた、もっとも有能な指導者をうしなったまま、活動をつづけなければならな
かった。悲嘆にくれているときではなかった。全力をつくし、あらゆる迫害に抗して、運動を前
進させなければならぬときだった。カール・リープクネヒトが『ディ・ローテ・ファーネ』紙の
ためにかいた最後の論説のことはが、われわれみんなをふるいたたせた。
 「一月闘争の一週間に血にまみれて敗れたものたち、彼らはあっぱれ試練にたえたのだ。彼ら
は偉大な事業のため、苦悩する人類のもっともけだかい目的のため、窮乏する大衆の精神的物質
的解放のためにたたかったのだ。彼らは聖なる事業のために血を流し、その血はあのように聖化
されたのだ。そしてこの血の一滴一滴から、今日の勝利のためにとてまかれた龍の歯から、戦い
に倒れた人たちのため復讐者がよみがえるであろう。ズタズタに切りさいなまれた彼らの繊維の
一筋一筋から、蒼穹のように永遠不滅の、高邁な事業のためにたたかう新しい戦士がよみがえる
であろう。……しかし、われわれの船はその目標に到達するまでまっすぐに、確固たる誇りをも
って航路を進んでいくのだ。
 そして目標が達成されるとき、われわれはまだ生きているだろうか。――われわれの綱領は生
きるだろう。それは解放された人類の世界を支配するだろう。たとえどんなことがあっても!」

          『十一月革命の思い出から』、演説・著作集、第一巻、ディーツ出版社、
ベルリン、一九五九年
  ロッテ・プーレヴカ

     一八九三年西プロイセンのエルビングに生まれる。実業学校教師。一九一二年以後社
会民主党員。ベルリンで十一月革命に参加。一九六六年死去

 第一次世界戦争中、私はケーテとへルマンのドゥンカー夫妻の家に定期的に集まった若い人た
ちのサークルに所属し、カール・リープクネヒトの二人の息子にもそこであいました。
 一九一八年一一月、革命が起こりました。ブルジョアジーとその下僕たちはこそこそ姿をかく
しました。いまではスパルタクス・グループは公然と印刷することができるようになりましたが、
私たちは印刷所をもっていませんでした。困っていると、同志へルマン・ドゥンカー博士は数人
の労働者を連れてブルジョア新聞『ベルリーナ・ロカール・アンツァイガー』の事務所に出かけ
ました。これはそのころベルリンで最高の発行部数をもっていた新聞の一つでした。
 事務所では編集者のお歴々が革命にびくびくしながらすわっていました。今こそ、彼らが前に
新聞に書きたてたことが本当になるだろう。今こそ、彼らの「のどはかっ切られる」だろうと思
っていたのでした。
 革命はこうした男たちの姿をとって現実に彼らの前に現われたのでした。ヘルマン・ドゥンカ
ーは「みなさん、事態は一変したのです。あなた方の新聞も一変しなければならない!」と言い
ました。今やここで『ディ・ローテ・ファーネ』紙を印刷することになった、と彼らに説明しま
した。ぶるぶるふるえていた編集者のお歴々は、すぐに立ちあがって姿を消しました。無事に切
り抜けたことをよろこんでいたようすでした。一九一八年一一月九日『ディ・ローテ・ファーネ
』紙第一号が発行されました。この朝、郵便受けに『ベルリーナ・ロカール・アンツァイガー』
紙をとりにいったベルリンの人たちはみんなそこに『ディ・ローテ・ファーネ』を見つけたので
した。
 私は女教師として「プロイセン王国立」実業補習学校に勤めていました。しかしこの時には、
授業がおこなわれなかったので、私は『ディ・ローテ・ファーネ』紙の編集部で手伝うことがで
きました。
 選出された労働者・兵士評議会の代表者が『ディ・ローテ・ファーネ』紙防衛のために護衛を
配置しました。編集部へ行こうとおもえば、この護衛のそばを通って、古いラセン階段を上って
いかなければなりませんでした。上ると、それほど広くない廊下にはいりました。そこからドア
をあけると、かなり大きな長方形の広間に通じていて、そのまんなかに楕円形の会議机がありま
した。この机はほとんど部屋の面積全部を占めていて、そのまわりには人の通れる余地しかあり
ませんでした。この広間からはいくつかのドアを通って編集室に行けました。
 『ディ・ローテ・ファーネ』紙で私が働きはじめてから二日めか三日めの朝、私が建物の前に
やってくると、護衛が立っていないことに気がつきました。あのころの私は単純ですぐひとを信
用してかかったものですから、べつになにも考えもしないで、平気で階段をのぼり、廊下に足を
ふみいれました。すると、閉まったドアの向こうの広間のなかで大声で口論したり、暴れたり、
どしんどしんと歩いたりするおそろしい騒ぎがきこえてきました。
 私はいまどうすればよいのでしょう。なかの様子のおかしいことがわかりました。私は走って
いって助けを呼んだらよいのでしょうか。しかしそれでは、われながら卑怯者とみえるでしょう。
他の同志たちは多分あぶないのではなかろうか。そこで私はまず中をのぞいてみてから、どうす
るかをきめようと決心しました。ドアは内側へ開きました。私がドアを細目にあげるやいなや、
もう手がのびて私の手首をつかみ、私を広間のなかに引っぱりこみました。
 机のまわりの通路はひとでいっぱいでした。そこには『ディ・ローテ・ファーネ』紙編集部の
私たちの同志が約二〇人ほど立っていました。彼らの大部分はほんの少しまえやっと牢獄から出
てきたばかりで、みんなやせほそっていました。彼らの多くはおそらくほとんど眠る時間もなか
ったのでしょう。というのは、彼らは編集部の仕事のほかに、いろんな集会に出席したり、また
相談もしなければならなかったからです。私たちの同志は色つやがなく、疲れきって、過労の様
子でした。そのほかに私は、上等の生地でつくった服を着て、身じまいをととのえた栄養のよい
紳士たちを見かけました。最後に、私たちの護衛の兵士たちも広間にいました。その赤い顔から
みて、彼らが酔っぱらっているのがわかりました。部屋全体がむっとアルコールの臭いがしてい
ました。
 この人たちがみんながやがや話していました。兵士たちは長靴や銃床で床をどすんどすんやっ
ていました。そこに居あわせた人が一人また一人と机の上にのぼって、何とか話をきいてもらお
うとしていました。が、それはできませんでした。私はここで何が起こっているのか、さっぱり
わかりませんでした。
 そのとき、同志エルンスト・マイアー博士に助けられて、小柄できゃしゃな婦人が机の上にの
ぼりました。彼女は白いブラウスを着て、その顔だちは怜悧で精力的で、しかも親切そうでした。
「ローザ・ルクセンブルクだ」と私のそばでささやく声がしました。そのときはじめて私はロー
ザを見たのです。たしかに私はもう長い間ローザはどんな人なのか、よく知っていましたが、し
かし彼女の姿を正しく思いうかべることはやはりできませんでした。
 このきゃしゃな婦人が私の前のテーブルの上に立っているのをみたとき、私は心から深く感動
しました。ローザは二、三度手を動かしました。その動きはやさしく頼みこむようでいて、明確
で精力的でした。突然しんとなりました。ローザは普通の声で話しました。
 いまでは私にもここで何が起こっているのか、はっきりわかってきました。優雅な紳士たちは
『ベルローナ・ロカール・アンツァイガー』紙の編集者たちでした。彼らは兵士たちにアルコー
ルをふるまって、『ディ・ローテ・ファーネ』紙の編集者や協力者は革命に反対だと話していた
のでした。そうすることによって、彼らは護衛の者たちをそそのかして、私たちを殺すか、少な
くとも編集部から追放しようとしたのです。兵士たちはもちろん革命の味方でした。彼らはもは
や前線へはもどるつもりはなく、戦争に結着をつけることを望んでいました。ローザのことばを
きくと、兵士たちはたしかに静まりはしましたが、しかしまだ私たちを放免しようとはしません
でした。私たちが通りに向かって窓のある、かなり小さな小部屋に押しこめられたやり方は、け
っしておてやわらかではありませんでした。ここには私たちが身体をよせあって立つ、ちょうど
そのくらいの場所しかありませんでした。窓のわきの隅のところには、小さな固定した机があっ
て、ひとが自由に動けるように、数人の同志が机の上にこしかけていました。私たちはだれも心
配してはいませんでしたが、といって愉快でもありませんでした。しばらくすると、あちこちで
隣りのひとに何かささやきはじめました。もう緊張は解けていくようでした。――ちょうどその
とき、突然ざわめきが起こりました。ドアの鍵が外からまわされたのです。ドアが開いて、私た
ちのところへとびこんできたのは、シャツ一枚の人間で、つづいて書類カバンと上衣が投げこま
れました。それからふたたびドアに錠がおろされました。男が突っこまれたとき、私たちはひと
ところに寄りあつまりていました。いま彼を助けおこしてみると、それはエードゥアルト・フッ
クス同志だったのです。
 またも私たちはしばらくのあいだだまっていました。するとドアがもう一度あきました。私た
ちはびっしり身体を寄せあいたがら、あとずさりしました。入ってきたのは、丸い赤い顔をした
小柄な兵士でした。右手を背中にまわし、連発ピストルをにぎっていました。やっとのことで彼
は両足で身体を支えていました。彼の前には小さな半円形の空間ができました。兵士は酔眼で私
たちの顔をじっとみすえました。彼の視線はあちこちさまよっていました。それから彼は「ここ
のカール・リープクネヒトてのはどいつだ」と呂律の回らぬ舌でしゃべりました。
 私たちのうちだれもカール・リープクネヒトがだれであるかを口にするものはいなかったでし
ょう。しかし、すこし後の方にいたカール自身が押しわけて通り、その兵士のそばのあいたとこ
ろへ出てきました。「何の用かね。戦友」と、彼はまったく落ちついて、気楽にきりだしました。
それはまるでごくあたりまえの出会いのようでした。
 そこでその兵士はうしろから連発ピストルを振りだそうとしました。しかしこれはそうすぼや
くはいきませんでした。おそらく彼がそれほど酔っぱらっていたからでしょうが、またおそらく
カールのことばの親しみのある調子にとまどったからでもありましょう。この瞬間、カールは親
しい友だちにいうよるに、兵士の肩をたたいて言いました。「おい、みんなの笑いものになるな
よ」と。
 こういう状況ではなんと言っても一種独特のこのことばには、あきれるような効き目がありま
した。兵士は突然蒼くなり、同時に顔をがっくりおとしました。黙って彼はくびすをかえして、
部屋を出ていきました。それはすべてじつにあっという間のできごとで、私たちには思いもかけ
ないことでした。私たちはしばらくはあっけにとられてつっ立っていました。今度は何が起こる
のでしょうか。
 まもなく通りの方から労働者の歌声がきこえてきました。私たちの同志、革命的労働老、兵士、
水兵たち、彼らがやってきたのです。私たちは窓から通りを眺めることができました。歌をうた
い、赤旗をもって彼らはこちらへ行進してきました。彼らはまた戦車を一台と機関銃を一梃車に
のせて引っぱってきました。私たちの胸は喜びと興奮で高なりました。これで、どちらの編集部
が革命の味方で、どちらが反対なのか、はっきりわかったのです。

 真に革命的な新しい、党が樹立されなければならないことが、十一月革命の闘争で私たちにい
よいよはっきりしてきました。私はスパルタクス同盟の指導的な同志がこの問題に没頭していた
ことを知っていました。なにしろ私自身、アンハルト駅の近くのアトリエでおこなわれた準備会
の一つに参加する機会を得たのですから。約二〇名の同志が、そのなかにはローザ・ルクセンブ
ルク、カール・リープクネヒト、レオ・ヨギヘスもいれて、この夜集まり、新しい共産主義の党
の樹立について協議しました。
 一九一八年一二月六日、大デモ行進がベルリンの北から都心に向けておこなわれました。デモ
隊は赤色兵士同盟の指導者ヴィリー・ブーディヒにひきいられていました。行進がショッセー通
りとインヴァリーデ通りの角にさしかかると、デモ隊は近衛部隊兵舎の将校や兵士から機関銃で
狙撃されました。ヴィリー・ブーディビは重傷を負いました。弾丸が数発彼にあたったのです。
彼はゆくえ不明になり、みんなは彼が死んだものと思いました。
 スパルタクス同盟はその翌朝すぐに抗議デモを組織しました。私たちは夜のあいだに印刷され
たビラを経営にまきました。その準備を大急ぎでやっているあいだ、ローザが、ブーディヒの死
を信じていなかった私をみて、ヴィリー・ブーディヒを探す任務を私にあたえてくれたのでした。
あらゆる困難を冒して私は首尾よくフィルヒョー病院にいる彼を見つけだしました。彼は生きて
いたのです。私は彼と面会することができました。彼はすぐにローザや、カールや、レオ・ヨギ
ヘスあてのたくさんの委託を私によせました。
 そのあいだも大デモンストレーションはおこなわれていました。沈黙し、脱帽して労働者はた
たかいに倒れた人たちに敬意を表しました。さて私に委託されたことを片づけるために、私がヴ
ィルヘルム通りの同志たちのところにもどってくると、はじめのうちは彼らはブーディヒが生き
ているという私のことばを信じようとはしませんでした。私にあたえられた委託をもちだしたの
で、ようやく私は彼らにわかってもらえました。うれしいさわぎになりました。「私の手下げ袋
はどこにあるの」とローザは興奮して叫びました。それはもちろん書きもの机のいつものところ
に見つかりました。彼女はそのなかにいれてあったただ一枚の二〇マルク紙幣をとりだし、それ
をやさしく私の手に握らせて、ますます喜びに興奮して「彼に花を買ってあげて」とささやきま
した。
 ところで、私は実際的な人間です。金はそのころはたらぬがちだったのです。そこで私は、こ
の金の一部を赤ブドウ酒やその他のものに使ってもいいかとたずねました。「ええ、ええ、必要
なものは何でも買って。彼をもう一度元気にしてあげて。私たちは彼が必要なのです。」
 私はローザのこの委託を果たしました。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA〇七三八
  アルフレート・シュミーデル

     一八八五年ザクセンのグローセンハインに生まれる。旋盤工。一九〇三年以後社会民
主党員。スパルタクスグループの支持者。イェナの古参共産党員

 旧ドイツ社会民主党の左派は、一九〇九年私がイェナにやってきたときには強力なグループを
つくっていた。このグループはエーミール・ヘラインとゲオルク・シューマンの指導する党の討
論クラブに団結していた。私はこのグループに加わった。帝国主義戦争の勃発後ただちに、われ
われは社会民主党指導部の日和見主義的挙国一致政策に断固として反対する立場をとった。党指
導部は戦争公債に賛成しドイツ労働者階級の利益を裏切ったのであった。われわれ反対派の立場
は、後にインタナショナル・グループ、そしてスパルタクス・グループとして、イデオロギー的
に組織的に示されるにいたったのである。
 一九一六年三月、私はイェナの自分の住まいに未知のベルリンの同志の訪問をうけた。彼は「
フリッツ」と名のって自己紹介した。姓の方は事柄に関係ない、というのが彼の説明であった。
彼は信頼できる同志たちといっしょに非合法の会議を準備し組織することを私に要請した。かな
りながく話しあってから、私はその任務を引きうけることを承諾した。もちろんその場合、責任
の重大なことと特殊な困難のあることを私はよくよく覚悟していた。私はそのとき私のよく知っ
ている二、三の同志のことを念頭においていた。彼らはすでにかなり長いあいだ青年運動で積極
的に活動してきた人たちであった。われわれはそのベルリンの同志といっしょに組織の細部につ
いて相談した。「フリッツ」同志の報告によると、集会の部屋は約四〇人から五〇人分の席が必
要だった。会合は非合法的に催されなければならなかった。参加する人たち――フリッツはその
ときカール・リープクネヒトの名をあげた――のために無料の宿泊所を世話しなければならなか
った。
 われわれはまずはじめにイェナ労働組合会館はどうかとあたってみた。しかし会館の主人は、
ここではじゃまがはいるだろうということを考慮するよう注意してくれた。会館の常客のなかに
は社会民主党右派の役員がたくさんいることは、われわれにもよくわかっていた。マルクト広場
のそばの独身者の食堂も公衆昼食のために会議が中断されるだろうから、これもわれわれの計画
には不適当なことがわかった。最後に、われわれはこれは適当だと思われた飲食店を見つけた。
それはツヴェチェン横丁の菜食主義の食堂であった。そこの主人もすぐに承知してくれた。われ
われは計画している会議をテューリンゲン自然愛好者の催しだと称して、会の夏のプログラムを
相談したいのだと言ったものだから、二つ返事で承知してくれた。集会宅は二階にあって、部屋
代はいらなかった。食事は相談のはじまるときに注文し、飲み物は自分で持ってくると約束した。
これで復活祭の会議を組織するにさいして、われわれの第一の課題は果たされた。
 「フリッツ」同志はその後すぐにまたわれわれのところにやってきて、自分で会議場を検分し、
同じく了解した。それ以外にもわれわれはまだ幾度かその飲食店を訪れて、どんな客がそこに出
入りしているかを確かめた。カール・リープクネヒトはとくに信頼のおける同志のところに泊ら
せなければならないと、「フリッツ」同志はわれわれに注意した。
 無料の宿泊所を調達することは問題なかった。われわれイェナの反対派青年グループとわれわ
れに共感をよせる人たちのサークルは、他所からの参加者全員に宿所を提供できるくらい大きか
った。カール・リープクネヒトはゲオルク・シューマンの義理の両親のところと、エルンスト・
ツィリンスキーの両親のところで泊めてもらった。ツィリンスキーは当時イェナの労働青年の議
長をしていた。
 代表者たちははやばやと復活祭の土曜日に到着した。会議は復活祭の日曜日午前九時に始まり、
約五〇人のひとが出席した。会議の運営は両日ともに若い同志たちの手でおこなわれた。
 復活祭の一日目に数人の同志とともにカール・リープクネヒトをかこむ会合がカフェー「ヴェ
ストエント」でおこなわれた。たいていの若者はこのころグループになってハイキング向きの酒
場「シュヴァイツァー・ヘーエ」に出かけた。復活祭の二日目、会議の終わったあとで、われわ
れは午後四雌頃カール・リープクネヒトや代表者たちみんなといっしょにイェンツィヒの山の家
にハイキングに出かけた。代表者たちはそれぞれにグループをつくっていった。
 会議は二日にわたってじやまをされることもなく開くことができた。防衛のために、菜食主義
の食堂の前と建物の二階にそれぞれ見張りをたてた。
 その後復活祭がおわってから、イェナ、ヴァイマル、アイゼナハの州議会選挙区の社会民主党
の新聞『フォルクスツァイトゥング』に一復活祭二日目にカール・リープクネヒトがイェナでシ
ュミーデルといっしょにいるのを見かけたものがある。リープクネヒトがイェナで何をしようと
したかは判っていない、という記事がのった。
 メーデーのデモのあと、私も逮捕され、ヴァイマル地方裁判所にひっぱっていかれた。逮捕後
の最初の質問は「リープクネヒトを知っていますか。彼といっしょにイェンツィヒ山に行きまし
たか。」というのであった。
 私は、もちろんカール・リープクネヒトは知っている、とはっきり述べた。しかしそれ以上の
質問にはすべて返答を拒否した。

          マルクス・レーニン主義研究所、中央党文書庫、EA〇八二八
          『ライプツィヒ教育研究所字報』ライプツィヒ、一九六六年
  ヴィリー・シェーンベック

     一八八五年ベルリンに生まれる。商人。一九〇五年以後社会民主党員。ベルリン・ノ
イケルンのスパルタクス同盟議長。一九五七年死去

 一九一三年三月、私は幸いにして軍国主義と戦争に反対する勇敢な闘士カール・リープクネヒ
トと知りあいになれて、じつによろこばしいことであった。フランクフルト・アム・マイン、ケ
ルン、パリとつづいた講演旅行で、彼はブリュッセルにもやってきた。ここには外国で生活する
二〇〇名のドイツ人勤労者がドイツ人労働者協会に結集していたが、この協会はベルギー社会党
に団体加盟していた。幹部の一人として私は代表団とともにカール・リープクネヒトを南駅に出
迎え、人民会館すなわちベルギーの党の会館まで彼を案内していった。ドイツ人労働者協会のほ
とんどすべての同志のほかに、一〇〇名以上のドイツの市民と二〇〇名以上のベルギーの同志が
大広間に来ていて、われらのカールが入っていくと、嵐のような拍手で彼を歓迎した。ベルギー
の同志たちはフランス語で『インタナショナル』を歌いはじめ、われわれドイツ人もいっしょに
歌った――それは国際的連帯の祝祭となった
 ほとんど二時間にもおよぶ講演で、カール・リープクネヒトは、前世紀末から帝国主義と略奪
戦争の道を進みはじめた、もっとも重要な資本主義諸国の軍国主義の発展を論じた。これらすべ
ての国々では軍拡競争がはじまっていた。その結果、いつかきっと世界戦争がおこるにちがいな
かった。「排外主義にけしかけられたたった一人の気狂いがどこかの主権者めがけて撃った一発
の弾丸が、火薬樽を爆発させることができるのだ」と、リープクネヒト同志はいった。彼はサラ
エヴォの一発を予感していたのであろうか。
 彼は軍国主義と軍隊をプロレタリアートの解放闘争に敵対する支配階級の道具として描きだし
た。常備軍は、とカール・リープクネヒトは詳しく述べた。それ自体すでにたえず平和を脅かす
最大の戚嚇である。それはいわば子供の時から戦争のために調教される武人階級、つまり戦争に
冒険と昇進と致富の道を求める特権的征服者の階級をつくりだす。その上、戦争で自分だけ特別
にうまい汁をすう一味、武器、弾薬、戦艦、その他の軍需品、輸送手段などの請負業者、つまり
軍の御用商人が加わる。将校という冒険好きの連中、それに軍の御用商人という戦争の勝敗には
全然左右されない連中、この二つのグループが天辺《てっぺん》に鎮座している。彼らは最高位
の政治家たちとぐるになり、形式上は和戦の決定権をもっている人たちにたいして大きな影響を
およぼす。彼らはこの影響力を金に換え一また幾千万のプロレタリアのしかばねを犠牲として彼
らの利潤の祭壇にそなえようとするのだ。
 「平和を欲すれば、戦争のために備えよ」という古典的なことばは、途方もない人民欺瞞であ
る。こんな平和の保障以上に大きな戦争の危険はない、とカール・リープクネヒトは述べ、さら
に彼はこうつけくわえた。軍国主義、とりわけ植民地軍国主義は、キリスト教と文明と自由を確
保し国民的名声をまもるのだという口実で、ほとんどどんな犯罪でもやらかすのだ。資本家の利
潤をまもって天を仰ぐ信心ぶったまなざしでごまかされ、欺かれ、花咲く国々は砂漠に変えられ、
無抵抗の人々が強姦され、虐殺され、平和を愛する人々の財産が一切合財奪われ、掠められ、焼
かれ、灰にされるのだ。
 われわれのブリュッセル集会がおわったあと、われわれドイツ人の同志たちは、人民会館のク
ラブ室で、真夜中すぎまでもカール・リープクネヒトといっしょにすわっていた。われわれは戦
争勃発を阻止できるかどうかについて論じあった。われわれにはわが誇りある社会民主党がある
ではないか。われわれには幾百万人の組合員を擁するドイツ労働組合があるではないか。帝国議
会には一一〇名もの社会民主党議員がいるではないか。党と労働組合がゼネストを宣言すれば、
戦予ぱ阻止できるにちがいない――これがわれわれみんなの意見であった。けれども、カール・
リープクネヒトは悲観的であった。アウグスト・べーベルなきあと、党の指導権は日和見主義者
の手に帰し、とくに帝国議会の議員団のなかでは改良主義者が圧倒的多数を占めていた。われわ
れの唯一の希望は、二〇人から三〇人の議員の小さなグループが議員団の規律を破り、それによ
って災いを阻止しようとするだろう、ということであった。この希望も、今日われわれが知って
いるように、われわれを欺いた。
 社会民主党の帝国議会議員団は変節して帝国主義戦争推進者の陣営に投じ、シュトゥットガル
トとバーゼルの聖なる誓いを破り、ゼネストのかわりに挙国一致を宣言した。ただひとりカール
・リープクネヒトだけは、一九一四年一二月二日、国際的連帯の旗、平和の旗をふたたび高くか
かげたのであった。
 それから五年の後、一九一八年一一月、私はスパルタクス同盟の役員集会でカール・リープク
ネヒトにふたたび会った。彼はどんなにひどいめにあったことだろう。彼の美しい黒く波うって
いた髪は刑務所で刈りおとされていた。彼はやせ衰えていた――私は目のまえに見ているのがカ
ール・リープクネヒトだとはほとんど信じることができなかった。しかし彼の目はやはり明るく
澄んでいた。「あれ、ブリュッセルの旧友だ!」彼は私の方へつかつかやってきて、私の手を握
り、ブリュッセルの同志たちのことをたずねた。名前もたいていまだ憶えていた。「そうだ、そ
うだ」と彼はいった、「われわれはつい二、三年前までカイザー社会主義者たちがまだプロレタ
リア的感情の火花の一つぐらいはのこしているだろうと信じていたなんて、まったく無邪気なも
のだった。彼らはわれわれに、つらいけれども、ためになる教訓をたれてくれた。われわれはそ
れをけっして忘れまい。われわれがゆるがせにしてきたことを、今度こそ急いで取りもどさなけ
れはならない――革命的党をつくらなければならない。これがなけれは、革命の小さな成果まで
もまた失われてしまうだろう。」
 一九一八年の暮、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク、ヴィルヘルム・ピーク
の指導のもとにドイツ共産党、ドイツ・プロレタリアートの党が成立した。党は幾度も幾度も中
傷され、教えきれないほど幾度も禁止されながら、つねに新たに隊伍をととのえ、あらゆる闘争
のなかからいっそうゆたかな経験をつんでたちあらわれてきた。この党はカール・リープクネヒ
トとローザ・ルクセンブルクの遺言を実行したただ一つの党である。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文費庫、EA〇八三九
  パウル・ゼルケ

     一八七九年ボンメルンのシュトルプに生まれる。金属加工職工。一八九九年以後社会
民主党員。ベルリン・ライニケンドルフの労働者兵士評議会委員。一九六九年死去

 一九一九年の一月闘争のとき、カール・リープクネヒトはベルリンの大経営の労働者にむかっ
て話しかけるために、いくたびも非合法活動からひょっくり姿をあらわした。
 ライニケンドルフでもそうだった。私はそのころライニケンドルフ労働者兵士評議会の一員で
あった。ある日、ライニケンドルフ・オストに住んでいたエルンスト・ベーンケが私のところに
やってきて知らせるには、カール・リープクネヒトが昼食の時間にライニケンドルフに来て大経
営の労働者に話しをする。経営の労働者全員すでに了解している。しかし事態はカール・リープ
クネヒトにとっても、また集会に参加する人々にとっても非常に危険だ。というのは、彼は信頼
できる筋から、デモに予定された広場に近接している学校に機関銃が据えつけられたときいてい
る、というのであった。その学校は戦争中は兵舎として使われていたもので、おかしなことに、
一九一九年一月になってもあいかわらず若い兵員たちが配置されていた。
 エルンスト・ベーンケは、いっしょにその兵舎を見にいってくれと私に頼んだ。私はまだ軍服
を着ていて、自分が兵士評議員であることを証明できたので、われわれはわけなく兵舎に立ち入
ることができた。まずはじめに、われわれは、指揮をとっているのが将校ではないこと、兵舎内
では選挙でえらばれた兵士評議会が指揮していることをたしかめた。驚いたことには、兵士評議
会の議長から全員にたいして警戒待機命令が出され、学校前の広場を掃射できる位置に機関銃が
一台据えつけられたことを議長が裏書きした。彼がそういう措置をとったのは、リープクネヒト
とその一味が兵舎へ襲撃を計画していると、彼に知らせたものがいたからだというのである。
 そのあいだに、農場監督官のような印象をあたえた兵士評議会議長とわれわれの対話は、これ
をきいていた多くの兵士によって兵舎内の正規の集会に広まっていった。われわれは無責任なま
ちがった情報が兵士たちにつたえられたのだということを、彼らにけんめいに説明した。「カー
ル・リープクネヒトと、武器をもたずに集まる労働者たちは、君たちができるだけ早く帰郷して
平和な仕事につけるようにしようとしているのだ。けれども、万一君たちがばかな噂を信用する
なら、君たちは自分で自分をもっともひどい危険につきおとすことになるだろう。君たちが大量
虐殺をひきおこせば、ライニケンドルフの労働者全員にみなぎっている革命的精神にものをいわ
せて、全勤労者が動員されることになるだろう。したがってわれわれは、示威集会のあいだ兵士
は一人も兵舎の外に出さないこと、平和的な催しをじゃましたりおどしたりすることは一切やめ
てくれるよう要求する。」
 われわれが疑念をことごとく取りのぞいたとはほとんど思えなかったけれども、兵士の大部分
はわれわれの説明に感銘した。彼らはわれわれのいうことに同意した。
 われわれが兵舎を出たのは正午ごろだった。それとほとんど同時に、一合の自動車が門前にや
ってきて、なかにはカール・リープクネヒトがのっていた。そのあいだにライニケンドルフの経
営や、またヴィルヘルムスルーのフォン・ベルクマン、アルグース、ベッカー、ゴッセン、フロ
ーア、プロメートイスその他の工場の労働者もかなり多数広場に到着した。カール・リープクネ
ヒトは工場の建物のすぐうしろ、兵舎の近くに停めてあった車の頑丈な屋根にのぼった。エルン
スト・ベーンケと私は学校の入口にいた。
 リープクネヒトのつかれきった面ざしには無理のかさなった非合法活動の影がみられたが、彼
は一〇〇〇人をこえる男女労働者にむかりて約半時間演説した。彼は遠くまでひびきわたる声で、
いままでの搾取者を無力にするまでは革命を続けるよう、労働者に求めた。ただそうする以外に、
ノスケ=シャイデマン=エーベルトの子分である反革命家どもの悪業をやめさせることはできな
い。彼は熱烈に全勤労者に共同行動をとるよう呼びかけた。
 リープクネヒトはおちついた態度で語り、特に強い調子のことばは右腕を動かすだけで強調し
た。彼の論評に賛意をしめす嵐のような拍手は、演説者にたいする多くの歓呼の声をまじえ、同
時に、勇敢で恐れを知らぬ闘士にたいする大きな共感の表明でもあった。集会は無事に終わった。
こうしてわれわれのところへあらわれたカール・リープクネヒトは車にのり、ふたたびもとの非
合法活動に潜行していった。これでわれわれの心の重荷がとれた。われわれの努力はむだではな
かった。
 数日後、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク虐殺の知らせがわれわれにとどい
たとき、すでにその前にラィニケンドルフで突発事件がしくまれ、カール・リープクネヒトが殺
されるはずだったことがはっきりわかった。そうなっていたら、黒幕どもには都合がよかっただ
ろう。そうすれば彼らは「激昂した人民大衆」に殺害の罪をなすりつけることができたことだろ
う。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA一三四七
  ローベルト・ジーヴェルト

     一八八七年ボーゼンのシュヴェルゼンツに生まれる。左官。一九〇六年以後社会民主
党員。東部戦線兵士評議会委員。ベルリンの古参共産党員

 私は一九〇四年ベルリンではじめてカール・リープクネヒトのことをきいた。彼は七月二九日
「パレス劇場」の大衆集会で話したが、この集会に私は一七歳で参加した。リープクネヒト同志
はケーニヒスベルク裁判について、またロシアの労働者と学生青年の闘争と受難と迫害について
話した。非合法文書を輸送してロシアの労働者の革命的闘争を支援した九名のドイツ社会民主党
員にたいするケーニヒスベルクの裁判で、カール・リープクネヒトは弁護人の一人として出廷し
た。
 集会は、当時は普通のことだったが、警察に臨監されていた。カール・リープクネヒトは集会
が早まって解散させられるのを阻止するために、説明をおだやかな形式でつつまなければならな
かった。
 そういう制約があったにもかかわらず、カール・リープクネヒトの演説はツァーリ体制全体に
たいする告発となった。出席者たちはまったく嵐のような拍手で自分たちの同意をしめした。い
くつかの所説を私はいまでも非常によく思いだすことができる。カール・リープクネヒトはいっ
た。われわれがツァーリ支配の歴史を子細に観察してみると、その上にはシベリアとシュリュッ
セルブルクという二つのことばが書かれている。シベリアとシュリュッセルブルクがなければ、
ツァーリズムは存在しない。ツァーリのロシアは不幸な国家構造である。その国で人間であろう
とするものは、シベリアとシュリュッセルブルクへつれていかれるが、人非人どもは国家を支え
る要素の一つとなっている。
 これはあまりにもしんらつだった。この個所でリープクネヒトは臨監の警部から中止を命ぜら
れた。警部はヘルメットをつかみ、弁士がツァーリ帝国についてそういう侮辱的な言辞をふたた
び口にするようなことがあれば、集会を解散させるといっておどした。カール・リープクネヒト
はいった。私はだれをも侮辱するつもりはない。しかし真実ははっきりしたことばを語るものだ。
ともかく、私の論評はこれでおわる、といって彼はケーニヒスベルク裁判の全被告の無罪判決と
即時釈放を要求した。この結びのことばは嵐のような拍手喝采をまきおこした。
 一九〇五年一〇月、私は石工の修業を終え、むかしからの伝統に従って遍歴の旅に出た。私は
ドイツの多くの地方を知り、デンマークにも出かけ、最後に一九〇八年、スイスに入った。私は
カール・リープクネヒトの人がらに深い感銘をうけていたので、この数年間も彼の行動、帝国主
義と軍国主義に反対する彼の闘争を絶大の関心をもってみまもってきた。一九〇七年二月に出版
された彼の著書『国際青年運動をとくに顧慮した上での軍国主義と反軍国主義』を私は感激して
読んだ。この著書が幾冊か非合法でスイスへもちこまれたときには、私はしばしばそれにたちあ
った。そして憲兵がわれわれをとっつかまえることができなかったときには、いつも大いによろ
こんだものだった。われわれはそのころカール・リープクネヒトのこの著書をわれわれの集まり
で本格的に徹底的に研究した。
 一九〇七年、私はアルゼンのゾンダーブルクでフリッツ・ヘッカートに出あった。われわれは
建築労働組合の代表者として共同の仕事を通してたがいにいっそう親しく知りあうようになった。
こうしてその後長い年月を通じてわれわれを固く結びつけた友情にすすんだのである。私は一九
〇八年からチューリヒに住むようになったので、そのころまだブレーメンで仕事をしていたフリ
ッツ・ヘッカートに、同じくチューリヒに来るように招いた。波は私のさそいに応じてくれた。
一九〇九年にわれわれはいっしょにスイスとドイツの一部をまわる旅に出かけた。フリッツ・ヘ
ッカートはケムニツに彼の両親を訪ねたいとおもっていた。われわれの旅の道順はシュトゥット
ガルトも通った。フリッツ・ヘッカートは二、三の同志を訪ねようともうまえから話していた。
「私の先生で、また私の父の友人でもあるへルマン・ドゥンカー同志と夫人のケーテに君をひき
あわせよう」といった。へルマン・ドゥンカーがライプツィヒで労働組合の書記をしていたとき、
ケムニツの政治的サークルの指導もしていたが、このサークルに彼の両親もフリッツ・ヘッカー
ト自身も参加していたのであった。
 シュトゥットガルトに着いて、われわれはまずクララ・ツェトキン同志をたずねた。彼女はわ
れわれがスイスで見聞したことや、遍歴の旅のもようや、今後の旅の予定について、われわれに
語らせた。われわれはヴュルテンベルクでの遍歴職人たちのみじめな賄いや不潔な宿のことをク
ララ・ツェトキンに話した。クララ・ツェトキンは帝国議会と州議会の議員ヒルデブラントを訪
問してはどうかとわれわれにいってくれた。彼はドイツ社会民主党の右翼の代表者で、シュトゥ
ットガルトでは知られた改良主義者であった。ヒルデブラントはシガーの店をひらいていた。わ
れわれはクララ・ツェトキンの助言に従ってヒルデブラントのシガー店を訪ね、インタヴューを
乞うた。いったいだれがわれわれを彼のところにさしむけたのだ、という彼の質問にたいして、
われわれはクララにかたく教えられたように、われわれ自身で決心してやってきたのだと答えた。
彼は宿泊所のおもしろくない状態についてわれわれの話しをじっときいていたが、われわれが政
治問題、軍備拡張と軍国主義を話題にすると、彼はわれわれを体よく追い出した。
 ケーテとへルマンのドゥンカー夫妻からは、心からの歓迎をうけた。われわれはわれわれの政
治的活動や、大小さまざまの問題について話した。つぎからつぎへと新しく質問されて「われわ
れは勢いこんでさらにいろいろの話しをした。へルマン・ドゥンカーはチューリヒをとてもよく
知っていた。彼はチューリヒの労働運動のことを、またスイス社会民主党議長の老グロイリヒや、
社会民主主義教会同志会の創立者プリュガー牧師や、社会民主党幹部のラング上席判事や、フリ
ッツ・プラッテンや、オーストリア労働者協会のメンバーのフリードリヒ・アードラーのことを
詳しくきいた。われわれは彼にできるかぎり詳しく、グロイリヒとの論争やスイス社会民主党右
派との論争についても、情報をつたえた。われわれは、以前アナーキストだったが後に共産主義
者になったチューリヒの医者ブルーバッハーや『ベルナー・タークヴァハト』紙の編集者ローベ
ルト・グリムについても話した。われわれの対談のおもなテーマは、青年のあいだでの活動、反
軍国主義的アジテーション、それに当時すでにはっきりしてきたドイツ社会民主党内の意見の相
違などであった。
 ケーテ・ドゥンカーもへルマン・ドゥンカーも、じつに活発に談笑にくわわった。彼らはまた
根気よく、そして関心をもってひとの話しに耳をかたむけることのできるひとたちだった。それ
から、われわれはごちそうになった。へルマンとケーテ・ドゥンカーとの出会いは私に強い印象
を残した。それでまたわれわれはスイスの労働運動にへルマン・ドゥンカーにどうしても協力し
てもらおうと心にきめた。
 一九〇九年の暮、われわれはチューリヒに帰ってきた。フリッツ・ヘッカートと私はすぐさま
在外社会主義者同盟の幹部に選ばれた。フリッツ・ヘッカートは教育活動の、私は書籍販売の責
任をひきうけた。在外社会主義者同盟には、ロシア、ドイツ、フランス・デンマーク・チェコ・
クロアチア、その他の国の同志たちが集まっていたが、スイスの労働者組織はこの人たちをいれ
ようとはしなかったのである。「団結」という酒場でわれわれは会合した。われわれの目的はス
イスの労働運動にいっそう強い影響力をもつことであった。
 そのころわれわれはチューリヒ、ダヴォス、ベルン、ジュネーヴでへルマン・ドゥンカーとと
もにマルクス主義者のサークルを組織することに成功し、その参加者の数はだんだん増えていっ
た。へルマン・ドゥンカーは大きな集会でも、たとえばチューリヒ、バーゼル、ベルン、ザンク
ト・ガレンでも話しをした。チューリヒで彼は大きな公開集会でローザ・ルクセンブルクの著書
『社会改革か革命か』の思想に依りながら、改良主義との原則的な論争をおこなった。そのほか
彼はハインリヒ・ハイネや、フェルティナント・フライリヒラートの革命抒情詩を朗読し、また
講演をした載、「イゼルギリ婆さん」をリハーサルしたりして、マクシム・ゴーリキーのために
多くの読者を獲得した。彼はいつも感激的な賛同をうけた。
 とくに大成功をおさめたのは、チューリヒでへルマン・ドゥンカーとロシアのヴァイオリニス
ト、エードゥアルト・ゼルムスがいっしょに登壇したときのことであった。
 われわれの友人仲間は催しのあとではいつも「団結」か、それよりもしばしば「スペイン酒場
」か、「リンゴ部屋」などの公衆晒場でおちあうことになっていた。そこでこのときもわれわれ
はへルマン・ドゥンカーとエードゥアルト・ゼルムスに、もう一、二時間つきあってくれるよう
頼むことになった。われわれは「スペイン酒場」へいった。というのは、そこに一部屋予約して
おいたからだ。まずはじめに、その夜の成功をめぐって歓談の花が咲いた。催し物の実行につい
ては批判的な意見もあった。私は演壇も弁士の机もうかつにも花で飾ることをしなかったので、
文句をいわれた。その批判は率直にみとめられた。われわれはながいあいだ語りあい、小さなグ
ラスでみんなブドウ酒を飲んだ。へルマン・ドゥンカーとエードゥアルト・ゼルムスは禁酒論者
だったので、ブドウ酒でも他のアルコールでも飲むのはことわらねばならんといった。彼らには
そうしたところのあるのを知っていたブラントラーは、もうあらかじめ主人にそのことを注意し
てあった。主人はアルコールの少ないブドウ酒を別々にしておくと約束した。しかし、彼はこの
約束を忘れてしまったにちがいない。というのは、彼が出してくれたのは上等のブドウ酒だった
からだ。その効き目はあとでてきめんにあらわれることになった。
 われわれがそこを出たのは、真夜中になっていたころだったろう。われわれにもう少し何か弾
いてほしいと、ゼルムスにたのむと、彼は階段に腰をおろして、じつにみごとなメロディーを奏
でてくれた。さっそく人々が集まってきて、そのためにまたチューリヒの警察がおびきよせられ
た。われわれの行為は安眠妨害だという警官たちは、土地の人たちの一致団結した抵抗にぶつか
ったのであった。

 国際労働者協会「団結」は、一九一一年、「スイス青少年」組織とオーストリア・ハンガリー
の青年と共同して国際的な社会主義者の会合をひらいた。この催しは七月一六日アルボンでおこ
なわれた。この国際的な社会主義者集会の演説者はカール・リープクネヒトだった。彼が姿をあ
らわすと、歓呼の声で迎えられた。彼の演説は嵐のような喝采で幾度か中断された。われわれは
この大成功に励まされて、カール・リープクネヒトにチューリヒの公開の集会で話してくれるよ
うにたのみこんだ。
 数日後、彼はチューリヒの競輪場の大衆集会にあらわれた。カール・リープクネヒトが会場に
入ってくると、ものすごい熱狂がみなぎった。波はその演説で軍国主義と反軍国主義を詳しく論
じた。われわれはとくにそのことをたのんでおいた。なぜなら、スイスの青年たちのあいだには
アナーキズムとサンジカリズムの傾向がひろまっていたからである。軍国主義からの解放のため
の闘争はプロレタリアの階級闘争の部分としてたたかうばあいにのみ、成功をおさめることがで
きる、とカール・リープクネヒトは指摘した。彼はとくに青年たちにむかって、君たちは戦場で
死んではならない、平和と労働者階級の解放のための闘争の第一線に立たなければならない、と
うったえた。
 このチューリヒ集会で私は最後にカール・リープクネヒトの姿を見、話しをきいたのであった。
しかし私はその後も彼の行動をみまもり、彼が一九一四年一二月二日、帝国議会でくだした勇敢
な決断を、じつによくやってくれた、と心からよろこんだ。
 一九一五年、私は兵士になって東部戦線にでかけた。カール・リープクネヒトの態度によって
反軍国主義闘争をすすめる私は勇気づけられた。彼の国際主義的態度がどんなに高く評価されて
いたか、また彼が諸民族の主要敵、帝国主義と軍国主義に反対する闘争によって普通の人々の真
実の利益をどんなによく代表していたか、それを私は一九一七年の二月革命のあいだにロシアで
身をもって知ったのであった。ロシアの兵士たちは「万才、カール・リープクネヒト! リープ
クネヒト、万才!」と叫びながら、塹壕からでてきて、われわれに近づいてきたのであった。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA〇八九〇
  アルフレート・シュティラー

     一八八三年ブレスラウに生まれる。画家、版画家。一九〇三年以後社会民主党員。ス
パルタクス同盟員。一九五四年死去

 社会民主党右派の指導者たちが一九一四年夏、戦争勃発後に資本と労働のあいだの挙国一致を
説教し、カイザーの本営でユンカー出身の将軍たちといっしょに写真をとっていたとき、左派社
会主義者たちはカール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク・フランツ・メーリング、ヴ
ィルヘルム・ピークらを中心に一団となり、帝国主義戦争反対の闘争をすすめていた。
 小さなサークルのなかで帝国主義戦争反対のアジテーションが準備された。私は二、三度中央
の会議に参加する機会をえた。たとえば「グラフ・デザイナー連合会」というあたりさわりのな
い名称をつかって、われわれはベルリンの新聞街の西にあるふつうの飲食店で適当な集会室を見
つけた。
 定刻通りきちんとあつまることが大事だった。そしてボーイが給仕に来ると、ヴィルへルム・
ピークは集会の議長としてその時発言していたひとに、どうか本題――汽船旅行だとか、懸賞付
九柱戯だとか、団体ピクニックだとか――からはなれないでもらいたい、と注意した。そのため
にきまって大笑いになったが、ボーイの方はここでどんなことがおこなわれているのか、全く感
づかなかった。あるときはまたヴィルヘルム・ピークは突然、一杯飲もうと提案し、そのあとし
ばらく休憩した。ついでながら、われわれの集まりや会はどこの飲食店でももうよく知られてい
たので、われわれは常連に数えられていた。リュツォー通りのヴィクトリア・ビール工場の大広
間では、あるとき支配人が、クラブ室は全部ふさがっているので、彼の私室をわれわれに使わせ
てくれた。ヴィルヘルム・ピークは金庫のそばにすわっていたので、その夜ローザ・ルクセンブ
ルクから「資本の蓄積」をしているのでしょうなどと、二、三の皮肉をちょうだいしなければな
らなかった。目前に迫った行動について協議がおこなわれ、ビラが読みあげられ、スパルタクス
書簡の作成が軌道に乗った。絵のはいった宜伝印刷物を作成するのが私の任務だった。全国各地
区から同志が参加したときには、広い「アンハルター・ホーフ」が利用された。
 十一月革命の闘争でスパルタクス同盟が決定的な課題に直面したとき、常時使える集会所を手
にいれることが必要になった。そこで私はツィンマー通り七七番地の建物の四階にある私のアト
リエをそのために用立てた。ソファー一つと、大きな伸縮テーブルのまわりにあったいくつかの
椅子が、参加者たちが相談のときにすわる席になった。その集会室の窓から外をみると、筋向い
にはスパルタクス同盟が占拠したヴォルフ電信事務所が見えた。
 労働者代表団や革命的オプロイテがさまざまの軍服を着て、ツィンマー通り七七番地のカール
・リープクネヒトのところにやってきた。彼らの詳しい説明は新しい闘争のための弾薬であっ
た。
カール・リープクネヒトはすでにそのころ経営と党の闘争とを結合させることの重要なことを認
めていた。けれどもツィンマー通りの事務所はだれにも知られた集合所にするつもりはなかった。
その部屋はおもに安全な集会場に使おうと考えられていた。カール・リープクネヒトはヴィルヘ
ルム・ピークやオットー・フランケといっしょにたびたび経営に出かけた。彼らは経営内の代表
委員の集会を訪れ、また非常にしばしは街頭で大衆にむかって演説した。
 ある日、カール・リープクネヒトはわらいながらわれわれにこんな話をした。「エレベーター
・ボーイがいましがた私にむかって『リープクネヒトの奴が今日衆議院のまえで演説した。奴は
全人民をけしかけて、こんな豚はぶち殺せといいやがった』と、こういうんだ。そこで私は、リ
ープクネヒトはほかのみんなと同じ人間で、労働者階級の味方なのだといって、彼をなだめてお
いた」と。
 ツィンマー通り七七番地では、一九一八年一二月に、ドイツ共産党を創立するための重要な下
相談も幾度かおこなわれた。なかでも次のような人が参加した。カール・リープクネヒト、フラ
ソツ・メーリング、ヘルマン・ドゥンカー、ケーテ・ドゥンカー、ヴィルヘルム・ピーク、レオ
・ヨギヘス、オットー・フランケ、ローザ・ルクセンブルク、オイゲン・レヴィーネ。
 集会ではヴィルヘルム・ピークが議長をつとめた。ローザ・ルクセンブルクは党綱領のための
提案をおこなった。この問題についての議論は数日間かかった。私は、あるときの会合で若いソ
ヴェトの友人が、勝利した十月革命の国からわれわれのもとにあいさつをもたらしたことを思い
だす。メイケルンの青年組織の代表者がスパルタクス同盟中央本部で始終協力してくれた。とり
わけケーテ・ドゥンカーは婦人の利益を代表した。へルマン・ドゥンカーは『ディ・ローテ・フ
ァーネ』編集者として、オットー・フランケは、革命的オプロイテの一人として、経営とスパル
タクス同盟のあいだの連絡にあたった。全国各地区も代表者をおくってきた。その数ヵ月後ミュ
ンヘンで反革命に射殺されたオイゲン・レヴィーキの展開した議論は、討論のなかでとくに注目
された。
 そうした相談で『ディ・ローテ・ファーネ』の予約募集のためのポスターをつくることも決め
られた。最初の予約募集のポスターは、その同じ部屋で立案されたのである。
 ドイツ共産党創立大会は、一九一八年一二月三〇日、この事務所のすぐ近くにあるベルリンの
プロイセン衆議院会館ではじまった。
 一九一九年一月一二日、この市区全体がノスケの部隊によって封鎖され、しらみつぶしに捜索
されたときでも、まるで奇蹟のように、ツィンマー通りのわれわれの集会室は無傷のまま残って、
発見されなかった。遮断線のところで、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク、ヴ
ィルヘルム・ピーク、他の同志たちも人目につかずに引きかえすことができた。
 ッィンマー通り七七番地の建物、ドイツ共産党樹立のために理論的、政治的、組織的準備のお
こなわれた歴史的な場所は、今日まで保存されている。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA〇九一一
  フリッツ・ウルム

     一八九三年ベルリンに生まれる。 機械工。一九一二年以後社会民主党員。ベルリン
十一月革命に参加。ベルリン郊外ベルナウの古参共産党員

 私がカール・リープクネヒトをはじめて見て、演説をきいたのは、ベルリンのコッペン通り、
今日のカール・マルクス・アレーの近くにあるケラーの宴会場でおこなわれた青年集会のときで
あった。四〇〇〇人ほどの若者がきていた。集会は警察が臨監していた。カール・リープクネヒ
トは軍国主義と反軍国主義について報告演説をした。軍国主義は階級対立の土壌から成長した、
という事実から彼は説きおこし、兵士虐待や軍事裁判について話した。ここで演説者は臨監の警
官から中止を命ぜられた。警官はどら声で、こういうしんらつな批判はやめるように要求し、や
めなければ集会を解散させるぞとおどした。カール・リープクネヒトは「注意」を無視して語り
つづけた。これが警官に集会を解散させるきっかけとなった。幾千人もの「チェッ!」という非
難の声が警官にむかってひびきわたった。警察は集会に参加した人々を追いだし、逮捕にかかろ
うとした。この集会のあとで、私は労働青年組織に加入した。
 それから二、三年たって、これもカール・リープクネヒトが話しをしたもう一つの集会がベル
リンのハーゼンハイデのクリームスのところでひらかれ、私もしたしく見聞した。この集会は迫
りくる戦争の危険を問題にしてひらかれたものであった。二、三千人の若者がきていた。私は演
壇の席について、ごく近くから出来事をみまもることができた。窓の敷居のうえや通路まで若い
男女が立っていた。例によって壇上では警部が速記者を従えて大きな顔をしてのさばっていた。
カール・リープクネヒトはものすごい歓声、たいへんな熱狂、万才の叫びのわきかえるうちに、
迎えられた。若い同志が、集会場の地下室には巡査がいっぱいひかえていると報告すると、警部
の顔がいらいらしてゆがむのがありありとわかった。はじめから非常な緊張が集会を支配してい
た。カール・リープクネヒトは一九一〇年九月コペンハーゲンでおこなわれた国際社会主義青年
会議の模様を語った。彼が、帝国主義者にたいする最上の武器はプロレタリアートに支えられた
国際的連帯と階級闘争であると述べると、警部は立ちあがり、集会を解散させる合図にピッケル
帽をかぶろうとしたが、そのすきに司会者の方で先手をうって、五分間の休会を宣した。警部は
真っ赤になった。この状況は彼の手におえなかったのである。
 さてカール・リープクネヒトが二、三分話すか話さぬうちに、早くもまた雲ゆきがあやしくな
ってきた。もう一度司会者は警部の先手をうって、わきかえる拍手と若者たちの哄笑のうちに、
ふたたび休会を宣した。こんな具合にして、集会は五遍も休会しながら進められなければならな
かった。ピッケル帽はいつもうまく間にあうように頭にのっかることができず、警察は目的をは
たせなかった。「君たちはわれわれのじゃまはできても、われわれに強制することはできない」
といってカール・リープクネヒトはこの集会を最後をでやり通した。われわれはカール・リープ
クネヒトを肩の上にのせて、会場から担ぎ出した。
 一九一四年から一五年にかけての冬、ベルリンでも社会民主党と労働組合の右派指導者たちの
致命的な政策にたいして、反対派が結集しはじめた。反対派の指導者はカール・リープクネヒト、
ローザ・ルクセンブルク、ヴィルヘルム・ピーク、ヘルマン・ドゥンカー、クララ・ツェトキン
その他の人たちであった。われわれ約三〇人の同志はノイケルンのカール公園に集まった。大多
数は青年運動の出身者で、タバコをすわなかった。カール・リープクネヒトはそれに気づくと、
火のついた自分のシガー――彼は猛烈な喫煙家だったが――をわきにおいて、「では私もすわな
いことにする」といった。それほど、彼は控え目で思いやりがあった。
 この集会で彼は、帝国議会における彼の行動と、有名になった一九一四年一二月二日の投票の
さいの社会民主党多数派の見るも哀れな態度についてわれわれに報告した。「挙国一致ではなく、
戦争には戦争を! これがドイツのわれわれのスローガンだ」とのべて、彼は報告を結んだ。

          マルクス=レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA〇九六〇
          『若い世界』一九五五年一二月三―四日号
  ヤーコプ・ヴァルヒャー

     一八八七年ヴュルテンベルクのヴァイソで生まれる。旋盤工o。一九〇六年以後社会
民主党員。シュトゥットガルトで労働青年組織の樹立に協力。ドイツ共産党創立大会に参加。一
九七○年死去

 一九〇七年八月、シェトゥットガルトの歌曲ホールでドイツ国内ではじめての国際社会主義者
大会がひらかれた。これはドイツの労働者階級にとって、わけてもヴュルテンベルクの、社会主
義を奉じる労働者階級にとって、きわめて重要な意義をもち、また最高の関心をもたれた出来事
であった。大会は一九〇五年のロシア革命の強い影響をうけていた。それで、ロシアの革命的な
労働者にあいさつをつたえる使節団を送ることが採択された。
 私は腕の複雑骨折のために大会の期間医者にかかっていた。この偶然の事情のために、私は大
会の全体会議を廊下から目撃することができた。こうして私は社会主義インクナショナルの多く
の代表者とはじめて面識をえ、演説をした幾人かの人とも知りあいになることができた。アウグ
スト・ベーベル、パウル・シンガー、エードゥアルト・ベルンシュタイン、ゲオルク・レーデブ
ーア、エードゥアルト・ダーヴィト、カール・カウツキー、フリードリヒ・シュタンプファーと
いったドイツ社会民主党の有力な指導的な代表者は、名前はもうずっとまえから知っていたが、
そのときはじめて会えた。クルト・アイスナーや社会民主党中央党学校の校長ハインリヒ・シュ
ルツ、またハインリヒ・クーノー、エマヌエル・ヴルム、アルトゥール・シュタットハーゲンら
の先生たちも代表者のなかにいた。カール・リープクネヒトは、大会ではブランデンブルク県の
党組織の派遣委員たちを代表していた。ドイツ社会民主党の指導的な女性では、私はクララ・ツ
ェトキンとルイーゼ・ツィーツにあった。
 もちろん外国の代表者たちも私の興味をひいた。レーニンにひきいられたロシア社会民主党の
代表団のなかには、とくにゲ・ヴェ・プレハーノフ、アクセリロード、エリ・マルトフがいた。
ほかに私の記憶にこびりついてはなれないのは、フランスからジャン・ジョレスとエドァール・
ヴァイヤン、スイス代表者へルマン・グロイリヒ、イギリスからラムゼイ・マクドーナルドとハ
リー・ケルチが大会に参加していたことである。私はまたポーランドの代表団、フェリックス・
ジェルジンスキ、そしてポーランド社会民主党の発言者として登壇したローザ・ルクセンブルク
のことももちろん覚えている。
 世界のあらゆるところからシュトゥットガルトへやってきた多くの外国代表者のうち、とくに
レーニンとローザ・ルクセンブルクの名が私の記憶にこびりついてはなれなかったのは、それな
りの特別の理由があったからである。
 シュトゥットガルト大会の中心問題となったのは、軍国主義、国際的紛争およびさし迫る戦争
の危機にたいする労働老階級の闘争であった。八八四名の代表者のうちドイツ社会民主党員は党
と労働組合の隊列から二八九名の代表者を送りこんだ。軍国主義と、帝国主義的戦争準備に直面
する労働者党の態度との問題について、ドイツ代表団の名においてアウグスト・べーベルの提出
した決議案は、軍国主義と帝国主義の関係に詳しく立ち入り、さし迫る戦争の危機とたたかうこ
とを、あらゆる国の社会主義者に義務づけていた。けれどもこの決議案は、主として議会闘争の
ために方向を決めたもので、それでも戦争がおこった場合の、社会民主党のとるべき態度につい
てはなんの規定もなかった。
 この重大な欠陥はレーニンとローザ・ルクセンブルクの提出した追加動議によって除かれた。
この動議では、青年のあいだで社会主義的反軍国主義的活動をおこなう必要が指摘された。帝国
主義戦争は労働者階級の利益とは根本的に一致しないことが強調された。また帝国主義的世界戦
争の結果、全資本主義体制にとって必ずおこる危機を、資本主義の打倒と社会主義の実現のため
に十分に利用することが、あらゆる国々の社会主義者の義務とされた。アウグスト・ベーベルの
決議は、この追加動議とともに大会によって決定された。これは革命的路線の重要な成果であっ
た。もっとも、大会全体は、インタナショナルのなかでももっとも大きな諸党、とくにドイツ社
会民主党では、日和見主義がますます強まってきたことをはっきり示してはいたが。シュトゥッ
トガルトとその他のヴュルテンベルクの地方ですこぶる有力だった左派には、右にのべた大会決
議はその後は戦争の場合の彼らの行動にとって絶対にそむくことのできない基本方針となり、ま
たその後の年月も彼らはこれにそって行動したのである。そこでこの補足動議の首唱者であるレ
ーニンとローザ・ルクセンブルクの名は、永久にわれわれの記憶のなかに刻みつけられることに
なったのである。

 私は一九一〇年から一一年の冬の半年間、ヴュルテンベルクから代表としてベルリンの中央党
学校の課程に派遣された。ローザ・ルクセンブルクとフランツ・メーリングが支配的な力をもっ
ていた党学校の教師団は、急進的だとみなされ、したがって修正主義者たちの側からはつねに敵
視されていた。
 エードゥアルト・ベルンシュタインが〔左派の革命的路線にたいして〕完全に否定的な批判を
したのがきっかけになって、後年悪名をはせたあの右派のフリッツ・タルノーまでも、一九〇九
年一二月四日の『シュヴェービッシェ・タークヴァハト』紙によせた投書で、ローザ・ルクセン
ブルクの教育活動を断固として擁護するにいたった。タルノーはその投書のなかで、彼も先入見
をもって党学校にやってきたことをかくさなかった。そこで彼は労働組合から派遣された右派の
立場をとる他の生徒たちといっしょに、もしも授業が彼らの見解と両立しない方向へ転換するよ
うなときは、どういう態度をとるべきかについて話しあった。しかし、彼らは実際にそういう態
度表明をせまられたことは一度もなかった、というのであった。
 「反対に、しばらくすると、われわれには疑惑はみじんも残らなかった。とくにローザ・ルク
センブルク同志の経済学の授業はじつにすばらしく、まったく模範的に進められたので、どんな
批判もばからしく思われてきた。これは講義の形式ばかりでなく、その内容についてもいえるこ
とである。……私のみるところでは、教師はすべて一様に、生徒が自分でものを考える力を伸ば
すようにと努力していた。経済学の授業をしたローザ・ルクセンブルク同志はとくにそうで、彼
女は反対の解釈を許したばかりでなく、ほかならぬ批判的な熟慮をもおどろくほど巧みにさそい
だしたのである。」
 周知のようにヴィルヘルム・ピークもすでに一九〇八年、社会民主党のニュルンベルグ党大会
で、党学校の批判者たちにたいして反論し、党学校の維持、強化、拡大のために尽力した。
 私は一九一〇年から一一年にかけて半年の間へ生徒としてローザ・ルクセンブルクの授業をう
けた。彼女は一九〇七年一〇月一日に講師として党学校に招かれた。彼女の教え方に私は感激し、
その授業はすべてきわめて有益だと思った。
 生徒はみんなローザ・ルクセンブルクに非常な好感をもっていた。私がとりわけ感服したのは、
マルクスの『資本論』のなかの思想の富にプロレタリアの生徒たちの興味をもたせ、理解させる
彼女の腕前のじつに見事なことであった。それでわれわれは資本論第一巻を徹底的に勉強した。
議論の余地あるこみいった問題にぶつかると、彼女はだれにも態度をごまかすことを許さなかっ
た。彼女は教壇の机の上に座席順に書いた生徒の名簿をもっていた。ある生徒があまり勉強にみ
をいれていないとみてとると、きまってその生徒の名前が呼ばれて、意見を述べるように求めら
れた。教師のなかでも、ローザ・ルクセンブルクほど生徒と厚い信頼関係を結ぶことのできた教
師はいなかった。
 シュトゥットガルトの青年委員会が一九一三年三月、マリー広場のサーカス会館で抗議集会を
ひらいたとき、カール・リープクネヒトは聴衆の人気をさらう報告演説をおこなった。この抗議
はシュトゥットガルトのシュロス広場のパレードに対抗するものであった。パレードに参集せよ
とよびかけたのは、排外主義的青年ドイツ同盟と、それと気脈を通じたボーイスカウトだった。
その弁士として、ツェペリン伯とならんで、札つきの戦争挑発者フォン・デァ・ゴルツ陸軍元帥
の名が発表されていた。ヴュルテンベルク全域から青年ドイツ同盟員がシュトゥットガルトにむ
かって続々とやってきた。それはヴュルテンベルク国が彼らを無料で鉄道にのせたのだから、ま
すますそういうことになった。排外主義的な憎悪の歌がこの軍国主義的・反社会民主主義的な催
しの伴奏音楽だった。フォン・ガットベルクという殿方が新聞で前もって民族虐殺をたたえる正
真正銘の讃歌をうたった。この殿方は従軍記者として参加した一八七〇年から七一年の独仏戦争
のある戦闘のことを描いたあと、つぎのことばで結んだ。「そういう時がわれわれをも待ってい
る。われわれはそういう時にむかって進んでいきたい。無名のままでベッドの上で死ぬよりも、
その時の鐘の音の消えたあとも、教会のなかの勇士の墓碑の上で生きつづける方が、美しくすば
らしいことだと、男らしく覚悟して。ドイツは戦争のあとで花咲き栄えるにちがいない。われわ
れがどうなろうとも、そんなことはどうでもよい……それこそ青年ドイツの天国だ。」
 シュトゥットガルトの青年委員会が、そうした資料を彼らの催しのための宣伝に利用する手な
みはじつにうまいものだった。不屈の戦争反対者・反軍国主義者カール・リープクネヒトが報告
すると広告できたのは、じつに効果的であることがはっきりした。ポスターにもかかれたように、
彼は労働者と労働青年にむかって、彼らが何をなすべきかについて語るだろう。強烈なアジテー
ションを展開してこの示威行動のために全力をつくせと、労働者に呼びかけられた。宣伝ビラに
は、労働者に友好的なスポーツ団体、合唱団、体操団体はとくに、ブルジョア青年運動と青年ド
イツ同盟員に反対する堂々たる示威行動をやりとげるために、全力をつくすべきだ、とうたわれ
ていた。
 人々は青年委員会主催のリープクネヒト集会へ大挙しておしかけたが、それは予想をはるかに
越えるものであった。こうしたことはシュトゥットガルトでは、いままで一度もなかったことだ
った。次の記事は一九一三年九月三日の『シュヴェービッシェ・タークヴァハト』紙の報道から
とったものである。
 「サーカスでの集会は一一時開会ときめられていた。しかし九時にはもう街の様子は一変した。
四方八方から老いも若きもマリー広場に続々押しかけた。通りという通りは人で黒山のようだっ
た。一〇時頃には巨大な集会場は立錐の余地もなかった。入口は警察の命令で閉ざされたが、人
の流れはあいかわらずたえなかった。あとからきた人たちは、会場がなぜまだ開かれないのか、
集会は禁止されたのだろうか、と心配してたずねた。こうして続々あとからつめかけてきた人た
ちには、サーカスは超満員のために閉められたのだ、という説明だった。ツィンケラッカー・ビ
ール工場の大ホールで別の集会が同時におこなわれたが、一五分もたたないうちに、そこからも
多くの人たちが潮のようにひきかえしてくるありさまだった。またさらに二つのもっと広い会場
が開かれたが、これも同じようにすぐに超満員になってしまった。幾百人もの人たちはもうどこ
にももぐりこむこともできなかったので、ふたたび四散するほかなかった。(スピーカーという
ものはまだなかった)ほとんど一万人のプロレタリアの男女が今日という日の意義を肝に銘じ、
ブルジョア的・軍国主義的な青年団体の厚顔な挑戦に抗する誠実な怒りに貫かれ、青年委員会の
呼びかけに応じたのである。」
 この堂々たる成功に、戦争反対者・反軍国主義者カール・リープクネヒトは少なからず貢献し
たのである。

 一九一四年、帝国主義戦争においてドイツ軍のおさめた最初の戦闘の勝利のあと、北フランス
に侵入するドイツ軍の一見制止できない進撃のあと、排外主義的陶酔と併合主義的欲望はことば
につくせないくらいふくれあがった。シェトゥットガルト社会民主党指導部は公然とこれに抗議
することが自分の義務だと考えた。党指導部は党の地方新聞で「ドイツ・ブルジョアジーの併合
欲に反対」という大見出しをかかげて、一九一四年九月二一日の大抗議集会を広告した。党指導
部は報告者にカール・リープクネヒトをひっぱりだすことに成功した。 予想されていたように、
挑戦的なテーマをもったこの集会は軍当局によって禁止された。しかしカール・リープクネヒト
がシュトゥットガルト社会民主党選挙団体の世話人たちの少人数の集会で報告することは許した。
約八〇名から九〇名のこの集会で彼は「八月四日」というテーマで話をした。
 カール・リープクネヒトは帝国議会の議員団会議の経過を物語った。その会議では激論がたた
かわされ、結局、一四名の議員が党幹部と議員団幹部の要求する戦争公債承認には反対であると
いうことになった。この一四名の議員はカール・リープクネヒトと『ライプツィヒ人民新聞』の
編集長パウル・レンシュに少数派の論拠を声明にまとめあげることを委託した。カール・リープ
クネヒトとパウル・レンシュがその任務の実行にとりかかると、各人は原則的にはまったくちが
った動機であったが戦争公債の拒否に賛成であることが判った。そのうえ彼らには自由な時間が
三〇分しかたかったので、一四名の社会民主党内反対派は帝国議会の開会まで何も手にすること
ができなかった。そこで議長が帝国議会で、また全世界にむかって、戦争公債承認にかんする法
案の満場一致の採択を宣言できるような始末になったのである。
 われわれ左派社会民主党員はこのおそろしい報告で気が遠くなるような激しい衝撃をうけた。
多くの人はそれをまったくのペテンだと考え、すべての人が心底からゆさぶられ、憤激した。少
なからぬ人の目には怒りと絶望の涙が浮んでいた。
 八月四日の裏切りから二日後にひらかれたシュトゥットガルトの世話人会議では、裏切りにた
いして当然の発言がなされて、腹にためていた気持がぶちまけられた。わずか三票の反対と八〇
票以上の賛成で、帝国議会議員団と党幹部にたいする不信任が決議のかたちでしめされた。シュ
トゥットガルト社会民主党の世話人たちは、ほんのわずかの例外を除いて、カール・リープクネ
ヒトの態度にも不満であった。それは九月二一日の集会での彼の報告のあとでおこなわれた激し
い討論でも明らかだった。私の記憶にまちがいなければ、一一名の討論発言者中一〇名はほとん
ど全部経営の労働者だったが、カール・リープクネヒトを鋭く批判した。というのは、聞きのが
せない野次のため、またそのほかの事情で、議会がけっして満場一致ではなかったことをしめす
ことを怠ったからである。
 カールは結語のなかで次のようにのべた。私は心の底からかさたてられ、ゆさぶられた。八月
四日以来私は数多くの党の集会に出席したが、私が幾度か出くわしたのは、私が横車を押そうと
しているとか、私が党の決定を軽んじ、議員団の規律をやぶっているとかいう非難であった。こ
こシュトゥットガルトでは、私が八月四日に大胆に、精力的に、がむしゃらに行動しなかったと
いう非難が私に加えられた。まったく同志諸君のいうとおりである。八月四日に私のなおざりに
したことは重大な誤りであった。私には、将来私の力のおよぶかぎり、あらゆることを断行する
約束をすることだけが残されており、それによって、なおざりにしたことを取りかえし、国の内
外の世論にたいして、ドイツにも帝国主義的陰謀にたいする原則的な反対者が存在し、全心身を
かたむけてプロレタリアの連帯と国際社会主義のために活動する力も用意もあることを示すつも
りである、と。

 一九一五年が一六年にうつるころのこと、カール・リープクネヒトとゲオルク・レーデブーア
はベルリンのヴェディングでひらかれた党の大集会で、戦争のためにさし迫ってきた諸問題にた
いして原則的な立場を表明した。二人の報告者の基本的態度は次の二つのスローガンでしめされ
た。ゲオルク・レーデブーアは古つわものとして知られ、戦争公債承認に反対した一四名の一人
であったが、党幹部と議員団幹部にたいしてあらゆる批判をおこなったにもかかわらず、またド
イツ帝国主義の侵略戦争こそ問題だと力をこめて強調したにかかわらず、「もしロシア人がオー
ダー河の岸べに、フランス人がライン河の岸辺にたてば、私もドイツ防衛に賛成する」という日
和見主義的テーゼを主張した。これにたいしてカール・リープクネヒトの態度は「主敵は自国内
にあり」ということばにはっきり打ちだされた。
 集会第一日めに利用できる時間は二人の報告でとられてしまった。第三日めの集会にはカール
・リープクネヒトは参加することができなかった。スパルタクス・グループ指導部の指示によっ
て、私はゲオルク・レーデブーアとその一味を相手に論争しなければならなかった。
 集会の場所からポツダム広場までの道を、私はカール・リープクネヒトともう一人の同志と連
れだって、話をはずませながら歩いて帰った。そのとき議論になったことは、何らかの方法で、
だれか有名な同志が戦争に反対する大衆の姿勢を強くし、無関心な人々を呼びさまし、彼らに積
極的な行動のきっかけをあたえることのできる合図をする時が来ているのではないか、というこ
とであった。カール・リープクネヒトは、そういう行動が有効で有益であることが明らかになる
時点がやがて来るだろう、という考えをのべたけれども、そういう時期はいまはまだ熟しておら
ず、この種の行動は邪道に迷いこみやすく、闇夜に鉄砲のようなものだろうということもまた確
かだというのであった。
 われわれみんなの知っているように、カール・リープクネヒトはほぼ半年後に、いまこそ政府
と戦争に反対する公然たるデモによって、望み通りの効果が期待できると考えるにいたったので
あった。一九一六年五月一日、ポツダム広場での波の行動、彼の逮補と有罪判決、それによって
展開された抗議デモは、カール・リープクネヒトと彼の友人たちが事態を正しく評価していたこ
とを明らかにしている。
 ポツダム広場のデモにいっしょに参加した私の数少ない仕事仲間は、後になっても消えること
のない、深い影響をあたえられたが、それをみても、リープクネヒトの勇敢な行動が、無党派の
労働者や、多かれ少なかれ政治的に無関心な人たちにも、どんな感銘をあたえたか、推測するこ
とができた。多くの逮捕者のなかにはわれわれの仲間の一人もいたから、その影響はいっそう強
められた。
 ドイツのブルジョアジーが一九一八年一〇月に万策つきたことをはっきり認めたとき、彼らは
いわゆる自由主義者的なマックス・フォン・バーデン公を主班として議会主義的民主主義政府を
組織することによって、救い出せるものは救い出そうとした。中央党と進歩人民党の代表者とな
らんで社会民主党の代表者もはじめてこの政府に参加した。しかもそれはフィリップ・シャイデ
マンと労働組合総委員会副議長グスターフ・バウアーだったのである。
 新政府は、飢えに苦しみ戦争に疲れた人民にドイツでは根本的現実的な転換がおこなわれたと
信じこませるために、大赦を布告し、カール・リープクネヒトにも適用された。ローザ・ルクセ
ンブルクはひきつづき刑務所にとどめられた。
 一〇月二三日、力「ル・リープクネヒトはベルリンに到着した。

 一一月九日の夕刻、カール・リープクネヒトは帝国議会の広い議員団室に腰をおろしていた。
私がその部屋に入っていくと、興奮した人々、それもほとんど一人のこらず軍人たちで、立錐の
余地もなかった。広い廊下にも人が右往左往していた。まもなくわかったことだが、それは兵舎
や軍人宿舎から来たおびただしい代表団であった。彼らにとって眼目は、組閣されるべき臨時政
府に入閣の用意があることをカール・リープクネヒトからむりやりゆすりとるとはいわぬまでも、
何としても、うんといわせることであった。彼らはなによりも停戦と、停戦に署名のできる政府
を欲していた。カール・リープクネヒトはこの無理な要求を頑固に拒んだ。彼はシャイデマンと
そのやからが一九一四年八月以来果たしてきた裏切りの役割を幾度も指摘し、彼らこそ社会主義
革命の不倶戴天《ふぐたいてん》の敵だとのべ、彼らと共同して政府をつくるなどということは
ありえないどころか、彼らにたいして仮借することなく徹底的にたたかわなけれはならないとの
べた。そのために彼は気の立った聞き手の反対にぶつかった。彼らはいまや、ますます鋭く、ま
すます激しく、カール・リープクネヒトが政府に参加する用意のあることを声明すべきだ、と要
求した。
 結局、カール・リープクネヒトは意味深長な譲歩をした。彼は社会主義ドイツへの道を示す六
つの項目を作成した。彼の要求はわけても、ドイツが社会主義共和国となり、行政権と立法権は
すべて勤労者の手ににぎられ、ブルジョアジーの代表者はすべて政府から遠ざけられるべきだ、
ということであった。 そのうえカール・リープクネヒトは、だれでもこれらの条件を受けいれ、
新政府の基本方針とみなす用意のある人ならば、その人と協力するだろうと言明した。激しく彼
につめよった人たちは、これで大かたは満足した。けれどもカール・リープクネヒトの譲歩は実
際上の効果を発揮せずに終わった。まず最初にドイツ独立社会民主党の指導部がこれにたいして
態度を表明し、そのうえ、彼らが賛成するかどうかは、必然的にエーベルトとシャイデマンが賛
成するかどうかにかかっている、と声明した。もちろんこの二人はそっけなく拒絶した。それで
この一件は落着した。残念ながら、このきわめて重要な出来事は、われわれの側から適当な方法
で一般に知らされることがなかった。一九一八年一二月中旬、ベルリンのドイツ独立社会民主党
の全体集会でフーゴ・ハーゼこそは、次のような指摘をしてハーゼ、ディトマン、バルトら人民
委員の恥ずべき役割にたいするローザ・ルクセンブルクの批判を弱めることにつとめたのである。
ハーゼは、カール・リープクネヒトも進んで入閣しようとしていたといった。これにたいしてロ
ーザ・ルクセンブルクは応酬して言った。カール・リープクネヒトが入閣の用意があると表明し
たとき、いかなる条件をもちだしたか。強固な原則にたつ社会主義政策と目標をかかげた政府こ
そが必要だという決定的な条件をもちだしたことを、ハーゼは口をつぐんでいるではないか、と。
 一九一八年一一月日一一日、私はスパルタクス同盟指導部の指令をうけて、ベルリンからシュ
トゥットガルトに移った。ことのほか悪い交通事情のためにたいへん遅れて一二月二九日に、私
はヴュルテンベルクの第二次代表者とともにシュトゥットガルトからベルリンへやってきた。そ
れゆえ、われわれは目前に迫った党創立大会遂行の方針を決めた重要な予備会議に参加すること
はもうできなかった。党大会については、スパルタクス同盟の提案でヴィルヘルム・ピークと私
が会議の運営をまかされた。この任務はそれほど簡単なものではなかった。なぜなら党大会には
スパルタクス同盟のメンバーや、いまや「国際共産主義者」と名のるブレーメン左翼だけでなく、
他のいろいろの代表者たちも参加しており、彼らはたしかに感情的には革命的な立場をとっては
いたが、それにもかかわらず、原則的なマルクス主義の知識がなかったからである。これらのグ
ループはすべて磁石にひかれるようにスパルタクスという名にひきつけられてきたのであった。
 カール・ラデックがソヴェト政府とロシア共産党(ボリシェヴィキ)の名においてあいさつの
ことばをのべて熱烈に歓迎されたとき、大会はまさにクライマックスに達した。カール・リープ
クネヒトはその報告のなかで容赦なくドイツ独立社会民主党の政策をかたづけ、そしてこの党の
指導部はところかまわず革命的空文句をふりまいてはいるが、しかし実は戦争の進行中、すでに
とりわけ一九一八年一一月九日以来エーベルト=シャイデマンの反革命政策を革命的にみせかけ
るために奉仕したことを明らかにした。われわれはむしろ、できれば、ハーゼ、カウツキー、デ
イットマン、バルトおよびその一味とドイツ独立社会民主党の党大会で結着をつけたかったのだ。
れわれの側から党大会の招集を緊急に最後通告の形で要求し、かっこの要求は革命的オプロイテ
の支持をうけていたのに、ドイツ独立社会民主党の幹部はこれを拒絶したのであった。それで、
カール・リープクネヒトが、いまこそドイツ独立社会民主党からの決定的分離は避けられなくな
り、共産党の樹立は必然事となった、と断言したとき、彼は党大会全体の同意を得たのであった。
新しい党をドイツ共産党(スパルタクス同盟)と命名することが満場一致で決定された。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA一三〇一
  ヴィリー・ヴィレ

          一八八二年オーダー河畔のフランクフルトのドルゲリンに生まれる。商人。
一九〇九年以後社会民主党員。ベルリン・ノイケルンの労働者兵士評議会の執行委員会のメンバ
ー。一九六一年死去

 一九一八年一一月のある曇った日の午後、ベルリンのトレップトウの芝生の競技場で大示威運
動がおこなわれた。催しがはじまるまえに、われわれは講演者として予定されていたカール・リ
ープクネヒト、オイゲン・レヴィーネその他の同志たちと近くの酒場でおちあった。われわれは
示威集会の進行について相談し、集会につづいて街頭デモ行進をすることにきめた。天候がわる
かったにもかかわらず、また口づてのアジテーションしかできなかったにもかかわらず、多くの
人々がやってきて、熱狂して演説者のことばに耳をかたむけた。この機会に私ははじめてオイゲ
ン・レヴィーネの話をきいた。私はこんなに具体的に、ものしずかにはなす演説家の話をきいた
ことはめったにない。彼は温かく人間的な思いやりをもって、興味のある革命的な思想をくりひ
ろげてみせた。
 暗やみと雨のなかでトレップトウの示威集会が終わった。そして巨大なデモ隊が組まれ、デモ
の先頭には武装した連中をのせた数台のトラックが走った。車の運転台の上には射撃準備をした
機関銃が据えつけられていた。そのほか自転車にのった人たちも先頭に走り、つねにデモ隊の指
導部と連絡をとっていた。デモのときはいつもそうだったが、カール・リープクネヒトは最前列
にたって行進するといってきかなかった。デモ隊はシュレージエン通りからケペニック通りを進
んでいった。ケペニック橋をわたるとすぐに、自転車にのった二人のものがわれわれにもたらし
た報告では、ケペニック通りとブリュッケ通りの角にかなりの人数の軍隊がいて、通りを遮断し、
さぐり出した情報を総合すると、デモ隊を待ちぶせているというのであった。われわれはカール
をはるか後方へ引きもどすために、彼を列から脇につれだし、デモ隊を先へやりすごさなければ
なるまいと感じた。彼も報告の一部をいっしょに聞いていたにちがいなかった。というのは、彼
は「私の持場は最前列だ!」といってわれわれの真中から脱げだし、ふたたび前方へ歩いていっ
て、もはや後方へ行くことを承知しなかったからだ。デモ隊はためらうことなく道を進んでいっ
た。トラックに乗りこんだ守備隊は戦闘準備を終わっていた。しかし、銃声はひびかなかった。
ブリュッケ通りについたとき、武装した最後の敵が急いでヤノヴィツ橋をわたって姿を消すのが
みえた。
 ある土曜日の夕方、われわれはハーゼンハイデにあるウニオン・ビール工場に大集会を招集し
ていたが、この集会でカール・リープクネヒトが演説することになっていた。木造建築の巨大会
場は集会のはじまる大分まえから立錐の余地もなかった。それでわれわれはやむをえず通路をさ
えぎって、人が大勢たまっている前にある扉を閉ざさなければならなかった。第二報告者として
えぎって、人が大勢たまっている前にある扉を閉ざさなければならなかった。第二報告者として
予定されていて大分まえから壇上にいた人民委員エーミール・バルトは、カール・リープクネヒ
トはまだ姿を見せていなかったが、開会するようにとわれわれを催促した。開会の定刻よりも半
時間すぎて、主にドイツ独立社会民主党の代表者たちの占めていた幹部席の連中はこの催促をき
き入れようとしていた。そこで私は来会者にむかって、カール・リープクネヒトは遅れているが、
諸君は彼の到着を待ってくれるかどうかとたずねた。みんなまつことに賛成した。そこでカール
・リープクネヒトのくるのを待つことにきまった。
 会場がふたたび静かにたったとき、入口のところから大騒ぎがきこえた。私は急いで行ってみ
た。だれかが自分は集会で話をしなければならないのだといって、どうか中に入れてくれと頼み
こんでいるのであった。しかし整理員たちは、もうこれ以上だれも入れるなと指示されている。
報告者のカール・リープクネヒトは別だが、とその男に説明した。すると、外にいた男は、私が
そのカール・リープクネヒトなのだというと、彼らはこのとん智に思わずふきだして大笑いにな
ったが、しかし扉をあげて、たしかめることはしなかった。あげれば、大勢の人がなだれこんで
くるのを恐れたのである。外は大騒ぎだった。私は扉をちょっと開けさせた。と、私の目の前に
カール・リープクネヒトが立っていた。彼は満面に喜びをたたえて、整理員たちは信頼できると
ほめた。通路という通路に壁のように立ちふさがっていた人々のなかからわきかえる万才の叫び
をあびながら、彼はむりやりに押しわけて通っていった。人民委員たちの措置を弁護しようとし
たエーミール・バルトは、この晩もまた大敗北を喫しなければならなかった。興奮した群集はあ
やうく彼を壇上から引きずりおろしかねないほどだった。
 一九一八年一二月のある晩遅くなって、ベルリン労働者兵士評議会がノイケルン市役所で会議
をしていた最中、反革命兵士の一隊がカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクを逮捕
するために『ディ・ローテ・ファーネ』の印刷所に押しいったという知らせを受けた。会議はす
ぐ中断され、トラック二台が用意されて、四〇名から五〇名の完全武装した革命的兵士が乗りこ
み、スピードをあげてケーニヒクレーツ通りへむかった。一五分後にわれわれは現場に到着した。
この時刺、通りにはほとんど人っ子一人いなかった。われわれに知らせのあった敵の一隊は、そ
の辺には見あたらなかった。われわれは彼らがまだ建物のなかにいるか、あるいはすでに退却し
てしまったと想定するほかなかった。われわれは必要な用心をしながら建物の中に入り、後ろの
建物の五階にある印刷室にはいった。それから、そこで仕事をしていた労働者たちがわれわれに
説明してくれたところによると、一隊はカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクを求
めて部屋という部屋をくまなく捜索したが、しかし二人は建物の中にはいなかったから、見つけ
だせなかった。それから兵士たちはしばらくそこをぶらつき、それから、彼らがきたときと同じ
ようにすばやく姿をけした、ということであった。
 われわれがなおしばらくは決心のつかぬまま、手もちぶさたでつっ立っていると、ドアがあい
てカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが入ってきた。二人はもちろんとてもおど
ろいた。彼らは控えの部屋や階段や彼らの部屋の中までもこんなに多くの武装兵の姿をみとめた
のだから。彼らは自分たちの不在中に起ったことなど夢にも思っていなかった。それで私が事件
の経過と、われわれがここに来た目的を話すと、二人ともわれわれのすばやい行動をほめてくれ
た。カールはすぐさま彼の仕事机にむかって、私の申し立てにもとづいて翌日の『ディ・ローテ
・ファーネ』にのせる報告のメモをとりはじめた。彼のかたわらに立って、私は彼がどんなに速
くものを書くか、この目で見ることができた。そして、すでに前に幾度か認めていたことだが、
彼がものを書くのに、ほとんど指でつまめないほどちびた、とても短い鉛筆を使うのにおどろい
た。私が彼に長い鉛筆をさしだすと、彼はありがとうといいながら、しかしこういう短い鉛筆で
書くのが一番すきなのだといって、それを断った。
 白衛兵どもがもう一度やって来ないとも限らなかったので、われわれは夜通し印刷所にいるつ
もりだった。私はたまりを一つわれわれにあてがってくれるよう、カール・リープクネヒトにた
のんだ。しかし彼はそれを絶対に承諾しないで、言った。「君たちがどんなにすばやくここへ押
しかけてきたか、奴らは知ったのだから、もう二度とやるようなことはないだろう」と。彼はわ
れわれがすはやくくりだしてきたことを重ねて感謝し、どうしてもわれわれにノイケルンへもう
一度帰れといってきかなかった。この場合はたしかに彼のいうことが正しかった――白の奴らは
その夜は二度とやっては来なかった――けれども、あのころの情況を思いだしてみると、われわ
れがあまりにもお人よしだったことを認めないわけにはいかない。そしてカール・リープクネヒ
トは、彼個人にかんするかぎり、もっとものんきな人の一人であった。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA一〇二〇
  エーリヒ・ヴンダーゼー

     一八八九年ベルリンに生まれる。大工。一九一三年以後社会民主党員。ベルリンで十
一月革命に参加。ベルリン郊外シェーンアイヒェの古参共産党員

 私はベルリンの警察本部長エーミール・アイヒホルンの管轄下にあった保安隊の兵士評議会の
一員として、十一月革命の闘争の日々にしばしば革命と革命勢力の確保に奉仕する任務をうけた。
 そこで一九一八年一二月二九日のスパルタクス同盟の非公開会議とそれにつづいておこなわれ
たプロイセン衆議院会館の祝賀会場のドイツ共産党創立大会の安全をまもる任務が、私と他の数
名の信頼できる同志たちにあたえられた。われわれは会議のはじまる数日まえ、その建物とその
周囲をよく検分しておいた。また会場の二つの入口をしっかり管理する処置を講じた。創立大会
では、議長をつとめたヴィルヘルム・ピークとヤーコブ・ヴァルヒャーを私は見たし、またカー
ル・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが報告するのを目のあたりに見た。
 一九一八年一二月三一日、私は他の四人の同志といっしょにカール・リープクネヒトをハーゼ
ンハイデのウニオン・ビール工場に連れていく任務をうけた。ドイツ独立社会民主党の指導部が
ノイケルンに招集した集会が、その晩おこなわれることになっていたのである。カール・リープ
クネヒトはオーストリア社会民主党員で連邦主席のカール・レンナーのあとについで第二報告者
として演説する予定であった。
 われわれが着いたとき、すでにレンナーは話していた。ウニオン・ビール工場の会場は立錐の
余地もなかった。カール・リープクネヒトが到着したとき、参会者のなかから大歓声がわきあが
った。われわれは演壇に近いところでカールの傍をはなれなかった。レンナーはその演説をつづ
けた。
 突然、次のようなことがおこった。ウニオン・ビール工場の会場の天井から、幅四メートル、
長さ二メートルほどのプラカードがひろげられた。それは机に向かってすわり、太い葉巻きをく
ゆらしているカール・レンナーの絵であった。絵の下の方には短い文章で、これがオーストリア
労働者代表だ、と書いてあった。この出来事でてんやわんやになったのはもちろんだった。その
絵は非常に高いところからぶらさがっていたので、はずすわけにはいかなかった。だから、集会
がふたたび静まるまでには、時間がかかった。
 レンナーのあとでカール・リープクネヒトが演説した。彼の詳しい説明は社会民主党右派指導
者たちの裏切り的政策をものの見事に暴露したものであった。レンナーはこの夜の集会を一生涯
忘れなかったことだろう。
 われわれはカールをハーゼンハイデのウニオン・ビール工場からクーアフュルステンダムまで
連れていった。それは一九一八年の最後の夜、大晦日のことであった。クーアフュルステンダム
に住んでいる弁護士ヨーゼフ・ヘルツフェルトの家では、カール・リープクネヒトを待っていた。
私たちは玄関まで彼のお伴をしていった。われわれはおたがいに心からのあいさつをして別れた。
われわれは一九一九年という年の始めがどんなに恐ろしいものになるか、だれひとり夢にも思っ
ていなかったのだ。

          マルクス・レーニン主義研究所、党中央文書庫、EA一〇四〇
   クララ・ツェトキン

     一八五七年ザクセンのヴィーデラウに生まれる。教師。一八七八年以後社会民主党員。
『グライヒハイト』誌の発行者。スパルタクス・グループの創立者の一人。一九三三年死去

    わたしは剣だ。わたしは炎だ。
    暗闇の中で君たちを照らしたのはこのわたしだ。
    戦いがはじまると、わたしは
    まっ先に立って、最前列で戦った……
    われわれには悲嘆にくれる暇はない。
    新たにラッパの音が鳴りわたる。
    さあ、新しい戦いのときだ――
        ハインリヒ・ハイネ

 エーベルト、シャイデマン、そして彼らの共犯者たちが祝福し支援した反革命は、犯罪のクラ
イマックスに到達した。反革命はベルリンで革命的プロレタリアの大量虐殺からはじまり、最良
の指導者たちの謀殺へと進んでいった。リープクネヒト同志、ルクセンブルク同志は、逮捕され
たのち、卑怯陰険なやり方で殺された。ローザ・ルクセンブルクはじつに恐ろしい野蛮な状況で
殺されたので、この状況は優れた文化と良俗についてひどく自慢たらたら語るドイツ人にとって、
消すことのできない恥としていつまでも残るであろう。
 謀殺されたこの二人は骨の髄まで革命的闘士であり、筋金入りの、燃えるような革命的闘士で
あった。彼らは全生活を巨大な目標のためにうちこんだのであり、歴史がプロレタリアートの階
級闘争のために掲げたこの目標こそは、資本主義の克服と社会主義の建設による被搾取者の解放
である。彼らは全心身をちちこみ、おおらかに、おしみなく、階級闘争の息づまるような激動の
まっただなかに、つねに身を投じた。階級闘争の決戦は議会内の諸団体のなかでたたかわれるの
ではなく、革命の戦場でたたかわれるのだという深い信念に徹していたから、病床で死ぬことと、
避けられぬ場合には敵のまえで討ち死にすることと、どちらか一つを選ばねばならないときには、
迷うことはなかったにちがいない。精神と行動のこの革命家たちはつねにかぶとの面頬《めんぼ
う》をあげて正々堂々と、まっとうな騎士らしい武器を手にしてたたかった。だから、彼らは公
然と戦って倒れたのではなく、闘争のあとで武器もなく、抵抗もしないのに野獣と化した切り取
り強盗と殺し屋どもの、下劣な犯罪者どもの手にかかって謀殺されたのだ。これが彼らの最期の
にがにがしい悲劇であるゆえんである。
 ローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトは、もういない! ドイツ労働者階級の革
命的前衛は、断固として目標にまい進する、もっとも大胆な、もっとも力強い指導者を失った。
万国のプロレタリア、国際社会主義はこの損失によって、もっとも手痛い打撃をこうむった。と
いうのは、一九一四年八月、ドイツ、オーストリア、フランス、イギリスの社会主義者、労働者
党の大多数が帝国主義のまえに恥ずべき降伏をして以来、そればかりか、労働大衆を帝国主義の
血まみれの戦車にしばりつけて以来、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは多く
の人々の希望であり確信であったからだ。この人々はみな、みずから不抜の信念をもって国際社
会主義を堅持しただけでなく、また二人の確信と同調して国際社会主義をまもる闘争に大衆を動
員するために努力した人々である。カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク、この二
人の名は一つの綱領である。国際社会主義の綱横である。それはしなびはて、つかれはてた口先
だけの信仰告白の綱領ではなく、誇りたかい力にみち、身を挺して犠牲となる行為的意志の綱領
である。彼らはインタナショナルの赤旗そのもののように、卑怯な裏切り、不安な諦め、心をひ
きさく疑い、要するに、世界戦争がそのパンドーラの箱から世界プロレタリアートと社会主義的
前衛のうえにぶちまけたありとあらゆる混迷を照しだしたのである。
 カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクはドイツのきわめて少数の指導的社会主義
者であった――彼らを数えるには片手の指を使うまでもない。帝国主義的諸民族の格闘の始めか
ら、その終りの日まで、数々の出来事にたいする彼らの態度には疑いの影一つさしたことはなか
った。二人がこれらのことがらにどんな態度をとったかは、万人の知るところだ。そしてそれは
外国でも、国際社会主義を消えてなくなるひびきや煙とは思っていなかった同志たちによっても
評価され、階級感情と階級意識の生動しているプロレタリアートの部分にも強い印象を与えた。
彼らは勇気と堅忍と自己犠牲に徹し、勝ちほこる帝国主義のなりひびく流れに抗して幾度も幾度
もたちむかい、とうとうたる濁流の上に国際社会主義のけがれなき赤旗を高くかかげ、ドイツの
社会主義運動にたいする尊敬と共感、運動の復活の確信を死することなからしめた。帝国主義に
奉仕する社会愛国主義者はあらゆる国でシャイデマンとダーヴィトをたてにとった。おとなしい、
原則に確信のもてない反対派の腰ぬけどもはカウツキーの名にかけて誓った。しかし、フランス、
イギリス、イタリア、ロシアでプロレタリアが全世界の兄弟、わけてもドイツの兄弟との連帯の
感情を明らかにし、みずから臆することなく国際社会主義者であることを名のりでようとしたと
きには、つねに、カール・リープクネヒト万才! の叫びがひびきわたった。

 カール・リープクネヒトこそは、ドイツであの党規律という破滅的な呪縛を断然破棄した最初
の、そして長らく唯一の社会民主主義者であった。これはだれも忘れてはならないことだ。じつ
にこの党規律こそは、有効な行動という目的に役だつ手段を変えて、一切を支配するあやしげな
偶像にし、あらゆる行動を犠牲にしてしまうのだ。彼こそはドイツ帝国議会で国際社会主義者と
して演説し行動し、それによって真実に「ドイツの名誉」、ドイツ社会主義の名誉をまもった最
初の、そして長らく唯一の人であった。社会民主党帝国議会議員団の多数派は兄弟殺しのために
戦争公債に賛成した。彼らは社会主義の理想を拒むことによって、ブルジョアジーのうたい文句
やスローガンを自分のものとし、大衆の判断をくもらせ、毒したのだ。
 少数の反対派はあっぱれ屈服して沈黙した。ただひとりカール・リープクネヒトだけは弧塁を
まもり、真の男児として行動し、彼の不屈の「反対!」を議会に、世界に、たたきこむ勇気をも
っていたのだ。
 ブルジョア諸党の狂乱に包囲され、社会民主党の多数派に罵倒され中傷され、少数派からはひ
とり取り残されながら、彼は帝国議会を帝国主義と資本主義にたいする闘争場とし、あらゆる機
会を利用してプロレタリアートのこの不倶戴天の敵の正体をばくろし、被搾取者たちに、敵にた
いして蜂起せよと呼びかけたのであった。そしてついに、帝国議会は、リープクネヒトが議員と
してもっている不可侵権を取り消し、このいわゆる反逆者大逆者を、憎悪にみちたブルジョアジ
ーの階級裁判に引きわたして、議会の名を汚し、議会自身の権利をすてさるにいたった。人々を
めざます活気が、勇猛果敢な闘争のなかから生まれでた。彼はプロレタリアの心に社会主義への
信頼の炎をあかあかと燃えたたせ、プロレタリアの拳を固くにぎらせ、たたかいにそなえさせた。
そしてカール・リープクネヒトはたたかいをおし進めて、たたかいが決着をつけられねばならぬ
ところへ、すなわち大衆の中へ、もちこんだ。彼は大衆のたましいを得るために、ことばと文字
をもって帝国主義と格闘した――、ついにはブルジョア社会はおそれ憎んでいるこの敵に報復し、
刑務所は彼をのみこんだ。なぜか。工作兵である彼が、街頭でプロレタリアにむかってメーデー
を巨大な意志表明の場にするよう呼びかけ、それによって国際社会主義の旗印のもとに背徳的な
「挙国一致」を打ちくだき、諸国民の殺しあいをやめさせ、犯罪的な政府を一掃しようとしたか
らである。
 ローザ・ルクセンブルクは国際社会主義の精神にあふれ、歴史的状況とその危険を深く鋭い目
でみさだめながら、世界戦争の起こるまえからすでに、軍国主義にたいするみごとな闘争をたた
かってきた。だから社会民主党指導者たちの八月四日の政治的破産は、彼女の心を打ちのめすよ
うな不意うちではなかった。彼女は一刻も猶予することなく、きわめて精力的に社会民主党内の
毅然として動じなかったすべての勢力を、目的を意識した行動のために結集し、さらわれていっ
たプロレタリア大衆を自省に、破滅的な諸国民間の戦争から解放のための階級闘争に連れもどす
仕事にとりかかった。
 帝国議会の議員団と党幹部が社会主義の理想と原則を踏みにじったことにたいする抗議と、帝
国主義と社会愛国主義にたいする国際社会主義の闘争宣言とが最初に問題になったときには、小
さなサークルのなかでは多数派の行動にたいしてことばではひどく激しい批判をあびせかけた議
員の数は、太陽に照らされた三月の雪のようにとけてしまった。約二〇名のうちただひとりカー
ル・リープクネヒトだけが、ローザ・ルクセンブルク、フランツ・メーリングや私とともに、そ
の抗議声明に署名したのであった。
 社会民主党の隊列のなかで強く名乗りをあげた反対派は、指導的な機関誌を必要とした。これ
は先頭に立って突撃する指導的な中核部隊のためのものであった。それは鳴りひびき、目ざます
鬨《とき》の声となり、解明し、理論的に深める教育手段となり、国際社会主義という強固な原
則的な見解のゆるぎない基盤の上に反対派を据え、こうして実践的行動の明確な方針を引きだし、
がいにつながりのあるものを溶接し、切りはなさなければならないものを選別する使命をもっ
ていた。なぜなら、見解の明快と行動の確実はあいまいな理念や中途半端とは相容れないからで
ある。
 ローザ・ルクセンブルクは右にあげた友人やその他の友人たもと協同して『インテルナツィオ
ナーレ』誌の発行計画を立て、第一号の準備をした。しかし、彼女がまだ編集の仕事をおわらな
いうちに、階級国家の権力の手は彼女の上にのびてきた。ローザ・ルクセンブルクは突然逮捕さ
れ、重病の後で苦しんでいたけれども、一年の禁固刑に服さなければならなかった。彼女ははじ
めにのべた軍国主義反対闘争のために刑をうけたのである。老人ながら若々しい力のあるメーリ
ング同志がただちに、苦労をものともせず、せまりくる迫害にも屈せず、逮捕された彼女の代り
をつとめた。『インテルナツィオナーレ』誌はこれが第一号で、しかも最後となった。この国際
社会主義の歴史的な記録は、発行はできたが、しかしメーリング、ルクセンブルク同志、デュッ
セルドルフのベルテン同志とプファイファー同志、そして私は、市民的秩序とその国家にたいし
て重大な犯罪をおかしたとて告発されねばならなかった。

 支配階級の暴力がローザ・ルクセンブルクを一年間牢獄にとじこめたとき、彼らは自分のやっ
ていることをよく承知していた。彼らが「国家に危険な人物」をこの一年のうちに、それから数
の月の「息つく暇」――これは休息の時ではなく、熱っぽい闘争の府であった――の後に、保護
拘禁し、二ヵ年半牢獄から牢獄へと引きまわし、ときには――ベルリンのアレクサンダー広場の
留置場のように――強健で精力的な人でも参ってしまうような殺人的状態においたとき、権力者
は自分のやっていることをよく承知していたのだ。しかし、支配階級の暴力の行使者が、ブルジ
ョア秩序の不倶戴天の敵を今度こそ追いつめたと思いこんだとき、じつは思いちがいをしていた
のであった。彼らが理解しなかったこと、彼らの本質上理解できなかったこと、それはローザ・
ルクセンブルクという一個の女性の革命的なたましいのとうていどうにもできない無敵の力であ
った。
 一一月九日という日、ついにローザ・ルクセンブルクのために牢獄の門は開かれ、彼女は完全
に闘争の自由をとりもどした。しかもそれは、ひとが熱烈に待ちこがれていた革命の時代におい
てであった。その少しまえ懲役囚カール・リープクネヒトが大赦で釈放された。燃えあがる革命
の炎の中で、二人の戦友の誠実な友情が堅くきたえられた。革命には大衆を目ざます声が必要だ
った。この声が大衆に闘争の方向と目標を示し、社会主義の旗のかげにかくれておこなわれる反
革命の危険な陰謀をあばいた。この声が大衆に中途半端と怠惰をいましめ、たたかうことによっ
て自分自身の力を信じることを教えた。カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクはい
っしょになって『ディ・ローテ・ファーネ』紙を創刊した。
 いまは、この日刊紙の姿勢とその基本的見解を詳しくのべる時ではない。その性格、その活動
をみるとき、『ディ・ローテ・ファーネ』は革命の機関紙として真実に革命そのものの一部であ
った。同紙は力と生命にみもあふれ、その目とことばは鋭く、表現はわかりやすく、あらわれて
くる問題と現象を論評した。『ディ・ローテ・ファーネ』にははげしい革命の鼓動がききとれ、
『ディ・ローテ・ファーネ』からは燃えるようないぶきが吹きつけてきた。『ディ・ローテ・フ
ァーネ』はローザ・ルクセンブルクその人であった。彼女の協力スタッフは少数だったし、その
上、協力者はみなまだ他の革命的闘争の部署についていた。そこで仕事の重荷は主としてローザ
・ルクセンブルクの肩にのしかかってきた。十分に武装した熱情的なこの革命戦士はこの新聞を
独特の特色あるものにした。
 カール・リープクネヒトは、むしろ話しことばではたらきかけ、集会とデモで活躍した。大衆
が感じていること、苦悩と願望となって大衆を動かしていること、それを彼は表現し、それを意
志の目標としてさし示した。疲れをしらぬ彼は、革命と国際社会主義の旗をかかげて先頭に進ん
だ。謀殺されたこの二人が革命の二ヵ月間に果たしたことは、明らかに、とても信じられないこ
とであり、常人には不可能なことであった。編集の仕事をし、ビラをつくり、演説をし、デモに
参加したうえに、ほとんど絶え間なく組織や団体の会議や集会、個々の人たちとの談合、事務上
の用件、その他まだ多くのしごとがあった。それは夜中までも、ひるのつづきの仕事にあてなけ
ればならないほど、熱っぽい、心身をやきつくすような激忙であった。というのは、それは大旋
風のように続発する事件、電光のように迅速に展開する革命的状況の命令だったからだ。この上
なく誠実な友情を抱いている人々がローザ・ルクセンブルクのために、また高潔な妻がカール・
リープクネヒトのために用意してくれた、くつろいだ家庭で休むことも、一息いれることも、彼
らにはできなかった。そこへ到る道をいかせないようにこの闘士たちをさえぎったのは、彼らに
課せられた重大な義務だけでなく、二人を殺害しようとする敵どもの憎悪でもあった。状況が流
血の市民戦となって爆発するよりもずっとまえ、ほとんど革命の最初の日から、彼らを殺すこと
を誓った狂信者どもは彼らを狙っていた。彼らは毎日のように住居をかえて、住所不定の逃亡者
のような生活をおくらなければならなかった。彼らは謀殺によって倒れてしまうまでは、断じて
くたばらなかった。逆に、彼らにたいする挑戦が激しくなるとともに彼らの力はますます強くな
った。これはあの「奇蹟」の一つである。この奇蹟こそはもっとも強い、もっとも純粋な革命的
情熱が、信念にたいする最高の誠実が、怒濤のような革命の雰囲気のなかでうみだすものなのだ。

 カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが世界戦争中と二ヵ月にわたる革命のあい
だにプロレタリアートの解放のためになしとげたことを、不完全でも、かいつまんで回顧するこ
とは、敬愛する死者と生者にたいする義務であると私には思われた。彼らの活動の多くは、残念
ながら、あまりにも多くの人たちに知られないままである。しかし彼らの活動こそはきわめて堅
固な確信の力と、行動をもとめる献身的な意志の力を、模範としてかがやかしくホしている。戦
争の勃発とともにたたかう国際社会主義者たちにはじまった苦難の時代について、要点だけでも
のべておくことにしよう。
カール・リープクネヒトは社会民主党のもっとも熱烈な、もっとも高く評価された演説者、ァ
ジテ,ターの一人であった。帝国議会とブ,ロイセン衆議院の議員だった彼は終始議会主義の限界
を知っていたし、自分の主な任務は「高い建物」の窓から大衆にむかって話しかけることだと考
えていた。この一五年間、社会民主主義の陣営内で原則や戦術や闘争手段をめぐってたたかわさ
れた論争でも、波は左翼の信奉者としてずはぬけた働きをした。ドイツおよび国際社会主義青年
運動にゆたかな刺激と、行動力ある励ましをあたえたのはじつに彼であった。彼はプロレタリア
階級闘争をおびやかす軍国主義の危険を、社会民主党の多くの指導者たちよりもはるかにはっき
りかつ鋭く認識していた。そしてその危険を、青年のあいだに計画的な反軍国主義的宣伝をおこ
なうことによって、阻止することを要求した。彼自身の反軍国主義的アジテーションのために、
彼は大逆罪で起訴されるにいたった。この訴訟はドイツの階級裁判の歴史における汚辱の一ペー
ジであり、リープクネヒトにたいする一年半の要塞禁固の判決で幕をとじた。一九一四年以前の
数年間、彼も帝国主義に反対する闘争の最前列にたち、大衆にむかって、せまりくる世界戦争の
危険にたいして守りにつくよう呼びかけた。
 ローザ・ルクセンブルクの方はどうであったか。彼女は一八歳になるかならないうちに、革命
的な信念のためにロシア領ポーランドの故郷からスイスへ逃がれなければならなかった。社会科
学、とくにあらゆる国々の科学的社会主義の最良の文献を徹底的に広範に研究するかたわら、彼
女は燃えるような熱意をもって、いくつもの方向に分裂していたポーランドの若い社会主義運動
に参加した。ローザ・ルクセンブルクは、彼女持ち前のエネルギーと明快さをもって、小ブルジ
ョア的、民族主義的、半ば無政府主義的な諸潮流を国際社会主義によって克服するためにたたか
った。彼女のすぐれた精神と性格の力によって、まもなく彼女はある人々からは尊敬され、他の
人々からは侮辱され憎まれる、もっとも影響力の強い指導者の一人となった。彼女の歴史観から
すれば、社会主義のために次の決定的大戦闘をたたかうのは、ドイツ・プロレタリアートであっ
た。彼女は熱い革命的な心情にかられて、この戦闘を準備し戦闘に参加した。
 彼女がドイツ国内に足を踏みいれてからは、猛烈にねばり強く日和見主義的、修正主義的なあ
らゆる潮流に心身を傾けてたちむかった。彼女は革命的活動とそれにふさわしい戦術のために、
新聞で、集会で、党大会でたたかった。敵味方いりみだれての混戦のさなかでローザ・ルクセン
ブルクがたたかって決着をつけなかったような大きな論争問題は一つとしてなかった。彼女は党
大会でも、また彼女がアジテークーとして入っていった国内の大衆のあいだでも、聴くものに耳
をかたむけさせた。
 一九〇五年にロシア帝国でプロレタリアがツァーリズムと資本主義にたいして闘争にたちあが
ったあと、ローザ・ルクセンブルクはこの闘争に参加することが心の命ずるところであり、幸福
であると感じた。困難と危険をおかして彼女はワルシャワへ急ぎ、そこでの身をやきつくすよう
な数ヵ月の活動ののち、勝ちほこる反革命の犠牲となっていとわしい要塞禁固に移された。彼女
は逃亡して、さらに悪い運命から身をまもった。フィンランドとロシアの国境の、ベテルスブル
クの近くにひそんで、ドイツに帰れるようになるまで活動をつづけた。ドイツにかえるとさっそ
く、ふたたび以前のよろこぼしい闘争に突入していった。彼女の生涯をかけた仕事と同じく、彼
女の影響も国際的であった。ローザ・ルクセンブルクは第二インタナショナルのなかでその発言
を重くみられた指導者であった。
 この無味乾燥な報告は、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクのゆたかな美しい
人間味を明らかにするには、何と無力であることか。しかし社会主義の二人の前衛戦士はこの人
間味から彼らの最良の力を引きだしてきたのであり、彼らの活動に輝きと色彩と温かみを与えた
ものこそ、この人間味にほかならなかった。カール・リープクネヒトは彼の偉大な父にふさわし
い息子であるた。この父は先頭にたって突進しつつ「革命の一兵士」であること以外に、いかな
る名声も求めなかった人であった。カールは英雄的に先頭に立って突進する革命の兵士であった。
彼は天成の闘士のもつ、すばらしく激しい、あふれ出るような気質、決活で愉快な冒険心、強情
な忍耐力をもっていた。彼のなかにはむかしの信仰告白者の血が脈うち、山をも移す信念があっ
た。敵の世界に抗して単身立ちむかう、誇りたかい勇敢さは彼独特のものであった。彼は危険や
犠牲をも恐れることなく、中傷や誹謗にもいっさい耳をかさなかった。彼は自分の信念のために
地位も生命も投げうつことを、しごくあたりまえのことと感じていた。彼は父と同じように、ス
パルタ人的無欲と素朴の人であり、それでいて他人にたいする親切にあふれていた。たたかうこ
とさえできれば、カール・リープクネヒトはそれ以外にまったくなんの欲求もなかった。闘争こ
そ、彼には生きるよろこびであり、不老不死の力をあたえる神々の食物であった。
 どこまでも騎士らしい性質のこの人は、どんな不正にたいしても自分の怒りを燃えたたせた。
そして彼はいつでもよろこんで弱い者、不利益を被った者、踏みにじられた者たちのことがらを、
つねに自分自身のことがらとして弁護する用意があった。
 ローザ・ルクセンブルクはまれにみる意志の人であった。きびしい自制心が、彼女の本質の燃
えあがる炎を内面にかくし、外目には沈着冷静のおおいの陰に押しこめた。自分自身を制するこ
とによって、彼女は他の人たちを教育し指導することができた。彼女の感じやすい性質は外から
の攻撃から彼女を保護する防御物を必要とした。冷たく自分の中に閉じこもる見かけが、ほかな
らぬ繊細で深くゆたかな感情生活をおおいかくした。この感情生活は人間にとどまることなく、
むしろ生きとし生けるもの、世界全体をかたく結ばれた一体として捉えたものであった。彼女の
友情は誠実、献身、自己犠牲、やさしい配慮そのものであった。「近よりがたい狂信者」の彼女
が、友人仲間の集まりでは活気と才気をまきちらす、魅力ある話し相手だった。小柄で病身なが
らローザは類いないエネルギーの権化であった。彼女はどの瞬間にも自分自身にたいして最高の
ものを要求し、それを受けとった。彼女は過労でいまにもくずおれそうになったときにはいつも、
いっそう大きな仕事を果たすことで「休養」した。仕事とたたかいのときこそ、彼女の翼《つば
さ》は大きくひろがったのである。

 謀殺された人のための哀悼は告発となる。われわれは、十分準備した計画に従ってカール・リ
ープクネヒトとローザ・ルクセンブルクを殺した反革命家どもを告発する。残虐にも殺された者
の血潮がエーベルト、シャイデマン、ランツベルク、ノスケらの魂にこびりついている。われわ
れはこれを告発する。彼らは行為と不作為の罪によって内戦をひきおこしたのだ。彼らはカール
・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクの謀殺にいきつくほかない雰囲気をみずからつくり
だし、またひとにつくりださせたのだ。シュタンプファーとその一味が、毎日スパルタクス同

員を下劣な犯罪者であると中傷したこと、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは
強盗や人殺しの頭目で、公安を害する危険人物だといいふらして、脅威を感じた有産者の怒りを
操ってこの二人にむけたこと、こうしたことに親分として手をかしたのは彼らなのだ。彼らは、
カール・リープクネビトとローザ・ルクセンブルクを殴り殺せ! カール・リープクネヒトとロ
ーザ・ルクセンブルクを街燈につるせ! と扇動した数十万枚のビラのばらまかれるのを大目に
みていたのである。
 エーベルトとシャイデマンらは謀殺の責任は自分にはないと、あらゆる法律的きまり文句をつ
かって誓言するがよかろう。彼らは恥ずべき事件を良心的に調査することを命じ、有罪者の厳罰
を約束するがよかろう。しかし彼らは身の毛もよだつ謀殺にたいしてどこまでも責任がある。ア
ラビアのどんな香料を用いても、マクベス大人の小さい手からバンコーの血を洗いおとすことが
できなかったように、この者どもの反革命のこぶしには謀殺された者の血が永久にこびりついて
とれないであろう。そしていつかは彼らの栄光ある政府がこの血のなかで窒息する時がくるであ
ろう。
 人殺しの手は炎のような戦士の肉体を打ち殺せただけだ。謀殺された者たちは死んではいない。
彼らの心臓は歴史の中で鼓動しつづける。彼らの精神はこの暗くても、希望のなくはない日々を、
遠くかなたまで照らしている。プロレタリアートはカール・リープクネヒトとローザ・ルクセン
ブルクがことばと行いで、生命をかけた仕事と実例で、プロレタリアートのためにあとにのこし
てくれたゆたかな遺産を受けつぐであろう。謀殺された人々は生きている。彼らは未来の勝者と
なるであろう。彼らのしかばねから、彼らのために報復する者が、革命を押しすすめ完成する者
が、よみがえるであろう。

          『ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒト』、クララ・ツェト
キン演説著作選集、第二巻、ヂィーツ出版社、ベルリン、一九六〇年
          はじめ『ライプツィヒ人民新聞』一九一九年二月三日号に発表
  年譜

1871年
 3月5日
 ローザ・ルクセンブルク,ザモシチ(ロシア頭ポーランド)に生まれる.
 8月13日
 カール・リープクネヒト,ライプツィヒに生まれる.

1887年
 ローザ・ルクセンブルク,革命的・社会主義的なポーランド社会革命党のワルシャワ・グルー
プのメンバ一となる.

1889年
 ローザ・ルクセンブルク,ツァーリの憲兵の逮捕の手がのびてきたので,これをのがれるため
ポーランドを去り,スイスのチューリヒに赴く.

1890-1893年
 カール・リープクネヒト,ライプツィヒ大学で,家族のベルリンへの移住(1890年)後はベル
リン大学で,法学と経済学を学ぶ.

1890-1897年
 ローザ・ルクセンブルク,チューリヒ大学で自然科学と数学,ついで政治学と経済学を学ぶ.

1894年
 ローザ・ルクセンブルク,ポーランド王国社会民主党の創立に参加する.

1897年
 カール・リープクネヒト,ヴュルツブルク大学の法学・政治学部で『普通法による相殺権の行
使と援用』の論文によって学位取得.
 ローザ・ルクセンブルク,『ポーランドの産業的発展』により学位取得.
 ローザ.ルクセンブルク,バーゼルでグスターフ・リューべックとの形式上の結婚によりドイ
ツ国籍を獲得.この結婚は1903年春に解消.

1896年
 5月
 ローザ.ルクセンブルク,スイスからドイツへ移住.ドイツ社会民主党の党員となる.
 9月21日-28日
 ローザ・ルクセンブルク,連続論文『社会改良か革命か』の第一部を『ライプツィヒ人民新聞
』に発表.第二部は1899年4月発表.
 9月-11月
 ローザ・ルクセンブルク,ドレスデンの『ザクセン労働者新聞』の編集長.

1899年
 カール・リープクネヒト,官職を辞し,兄のテオドールと共同でベルリンに弁護士事務所を開
く.

1900年
 5月
 力ール・リープクネヒト,ユリア・パラディースと結婚.この結婚によってヴィルヘルム,ロ
ーベルト,ヴェーラの3人の子どもが生まれる.1911年8月22日,ユリア・リープクネヒト,エム
スの温泉地で死去.
 7月-8月
 ローザ・ルクセンブルク,ドイツ社会民主党幹部会の命をうけてボーゼンでアジテーターとし
て活動.
 8月
 カール・リープクネヒト,ドイツ社会民主党の党員になる.
 9月23日-27日
 ローザ・ルクセンブルク,パリの国際社会主義者大会で,国際平和と軍国主義について報告し,
帝国主義と軍国主義および植民地政策に反対する国際的政治行動の必要性を説く.

1902年
 4月1日
 ローザ・ルクセンブルク,『ライプツィヒ人民新聞』編集部に入る.

1904年
 1月16日
 ローザ・ルクセンブルク,ツヴィカウ地方裁判所刑事部から「不敬罪」により禁固3ヵ月の判
決をうける.
 7月12日-25日
 カール・リープクネヒト,ロシア労働運動を支援したかとで告発された9名のドイツ社会民主
党員にたいする「ケーニヒスベルク裁判」で,弁護士として活動し,すぐれた政治的弁護士とし
て知られるにいたる.

1905年
 ローザ・ルクセンブルク,ロシアにおける革命の発展を研究し,それについてさまざまの新聞
に論文を書き,さらに大衆集会で演説.
 2月9日,12日
 カール・リープクネヒト,ベルリンとライプツィヒの大衆集会で「ロシアにおける革命」につ
いて演説.
 12月28日
 ローザ・ルクセンブルク,非合法的にワルシャワに赴き,ポーランド労働者の反ツァーリズム
闘争に参加,指導する.

1906年
 3月4日
 ローザ・ルクセンブルク,ワルシャワで逮捕されるが,7月健康上の理由からと保釈金を支払
ったので釈放される.フィンランド経由で,9月末,ベルリン帰着.
 9月15日
 ローザ・ルクセンブルク,『大衆ストライキ,党,労働組合』の著作を書きあげる.この労作
のなかで,彼女はロシアにおける革命の諸経験から説きおこし,ドイツの労働者階級の政治闘争
の課題を解明.
 9月23日-29日
 マンハイムの党大会でカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは,プロレタリアー
トの革命的闘争手段として政治的大衆ストライキを弁護.
 12月12日
 ヴァイマル地方裁判所がローザ・ルクセンブルクにたいして1905年イエナ党大会での政治的大
衆ストライキについての演説を理由に,禁固2ヵ月の判決.

1907年
 2月
 力ール・リープクネヒトの著書『国際青年運動をとくに顧慮した上での軍国主義と反軍国主義
』出版.この労作で彼は現代軍国主義にかんする労働運動の理論的認識をゆたかにし,国際労働
青年運動の闘争の先頭に立つ.
 8月18日-24日
 カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク,シュトゥットガルトでの国際社会主義者
大会に参加.ローザ・ルクセンブルクは,国際派左派の代表として反戦闘争について演説.ヴェ
・イ・レーニンとエリ・マルトフと共同して,べーベルの決議にたいする補足修正案を提出.
 8月24日-26日
 シュトゥットガルトで社会主義青年組織の第1回国際会議.カール・リープクネヒト,社会主
義青年インタナショナルの創設に参加.1907年から1910年まで,彼は青年インタナショナル議長
兼書記局員.
 10月1日
 ローザ・ルクセンブルク,ドイツ社会民主党党学校の経済学の教師となる.
 10月12日
 カール・リープクネヒト,『軍国主義と反軍国主義』の著書のためにライプツィヒ大審院から
要塞禁固1年6ヵ月の判決をうける.
 l0月24日-1909年6月1日
 カール・リープクネヒト,グラーツ要塞に拘禁される.
1908年
 1月4日
 ヴェ・イ・レーニン,3日間のベルリン滞在中,ローザ・ルクセンブルクと会う.
 10月11日
 ベルリンのカール・リープクネヒト弁護士事務所で,ドイツ青年組織の非合法代表者会議.

1910年
 1月3日-5日
 ベルリンにおけるプロイセン社会民主党第三回党大会で,カール・リープクネヒトは『プロイ
センの行政』について報告し,プロイセンにおける行政改革の指導原理を提示.そのねらいは,
三級選挙権反対闘争を議会外の闘争によって民主的共和制を戦いとるまで押しすすめることにあ
った.
 9月18日-24日
 マグデブルク党大会において,ローザ・ルクセンブルクは日和見主義に反対する闘争で,政治
闘争のさまざまな方法と路線について,人民大衆をイデオロギー的政治的に啓発するために,政
治的大衆ストライキの問題を立ちいって論じるよう党に要求.
 10月中頃-12月初め
 カール・リープクネヒトは長途のアメリカ合衆国講演旅行を企てる.その演説のなかで,彼は
とくにアメリカ独占体の危険な役割を暴露し,こうして,アメリカ合衆国の階級的同志たちの選
挙戦を支援.

1911年
 7月,8月
 カール・リ-プクネヒトとローザ・ルクセンブルクは,戦争の危険を焦眉のものとしたモロッ
コにおける諸帝国主義国の冒険に反対し,論説や演説で活動.

1912年
 10月
 カール・リープクネヒト,ゾフィー・リュスと結婚.

1913年
 3月15日-24日
 カール・リープクネヒト,ベルギー,イギリス,フランスを講演旅行.この旅行は,戦争に進
んでゆく国際軍需資本に反対する,これらの諸国とドイツの労働者の共同闘争に役立つ.

1914年
 2月20日
 ローザ・ルクセンブルク,フランクフルト(マイン)地方裁判所第二刑事部から禁固1年の判
決をうける.理由は,彼女がドイツの労働者に,フランスやその他の国々の階級的兄弟に銃をむ
けるなと要求したためである.
 5月11日
 帝国議会の演説で,カール・リープクネヒトは,最大のドイツ軍需独占体の戦争準備と反国民
的役割に焼印をおし,国際的にからみあっている軍需独占体の状態について新しい資料を提出.
 6月29日-7月3日
 ローザ・ルクセンブルクはフライブルク(ブライスガウ)の大衆集会で,たえず兵士を虐待す
るプロイセン軍国主義を告発したが,これにたいしてプロイセン陸軍大臣のおこした訴訟は,延
期され,後には中止されざるをえなくなった.
 8月3日,4日
 第一次世界戦争が勃発したのち,カール・リープクネヒトは断固として社会民主党右派指導者
の「挙国一致政策」に反対して活動.
 カール・リープクネヒトは,社会民主党帝国議会議員団の中央主義的少数派を,戦争公債を公
然と拒否する側に獲得するために,必死の努力をする.これが失敗したのちにはじめて,彼は帝
国議会の投票で議員団の規律に従う.
 8月29日
 ローザ・ルクセンブルクの住居で,カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは,戦
争がはじまってのち,はじめて会合し,反戦闘争の今後の手はずについて相談.
 9月4日-13日
 カール・リープクネヒト,占領国ベルギーとオランダを旅行.彼は兄弟党の党員たちに8月4日
以後のドイツ社会民主党内の情勢を知らせ,そのうえドイツ帝国主義の残虐な作戦に反対する資
料を集める.
 12月2日
 カール・リープクネヒト,帝国議会で戦争公債にただひとり反対投票.これによって,ドイツ
の労働者階級は一致して戦争を支持しているという日和見主義者のうそをたたきこわし,帝国主
義戦争に反対してたたかう革命的社会民主党員の断固たる決意を,ドイツの国境のかなたにも明
らかにする.カール・リープクネヒトはそれをドイツにおけるあらゆる反戦論者を結集するため
の合図とする.

1915年
 2月7日
 カール・リープクネヒト,工作兵として兵役に召集される.
 2月18日
 ローザ・ルクセンブルク,逮捕される.1年の禁固刑服役のためにパルニム通りのベルリン女
子刑務所に送られる.
 3月5日
 カール・リープクネヒト,ベルリン=シュテークリツのヴィルヘルム・ピークの住居に指導的
な左派社会民主党員たちの非合法の会合を組織し,その議長をつとめる.ドイツのさまざまの都
市の反対派グループのあいだに連絡がつく.
 4月
 ローザ・ルクセンブルク,刑務所内で小冊子『社会民主主義の危機』を書く.これは1916年初
頭,ユニウスというペンネームで,ベルリンに非合法的に広められる.
 5月末
 カール・リープクネヒト,インテルナツィオナーレ・グループの委託により綱領的パンフレッ
ト『主敵は自国内にあり』を書く.
 9月2日
 カール・リープクネヒト,ツィンマーヴァルト会議(9月5日-8日)によせたメッセージで,戦
争に反対する革命的階級闘争と新しいインタナショナルの建設にくみすることを公然と表明する.
彼はスローガンとして『挙国一致ではなく,国内戦争を!』をかかげる.

1916年
 1月1日
 ベルリンでインテルナツィオナーレ・グループの非合法的全国会議.カール・リープクネヒト,
政治情勢と党内情勢について報告.ローザ・ルクセンブルクの起草した『国際社会民主主義の諸
任務にかんする指導原理』が承認される.政治書簡の出版が決定される.
 1月12日
 日和見主義的多数派,カール・リープクネヒトを社会民主党帝国議会議員団から除名.
 2月18日
 ロ‐ザ・ルクセンブルクの出獄.
 3月19日
 ベルリンでスパルタクス・グループの非合法的全国会議.ローザ・ルクセンブルク,インタナ
ショナルにたいする態度および目前にせまった第2回ツィンマーヴァルト会議にたいする態度に
ついて演説.カール・リープクネヒト,ドイツにおける反対派の課題について報告.会議はいっ
そう大きな大衆行動を組織し指導することに決定.
 4月23日,24日
 カール・リープクネヒト,イェナにおける反対派青年社会主義者の非合法的会議で帝国主義戦
争に反対する闘争と中央派の動揺する姿勢について報告.
 5月1日
 カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク,スパルタクス・グループが組織したベル
リンのポツダム広場の反戦示威運動に参加.このときカール・リープクネヒト,逮捕される.
 7月10日-1918年11月8日
 ローザ・ルクセンブルク,パルニム通りのベルリン女子刑務所,つぎにヴロンケ要塞(ポーラ
ンド),さらにブレスラウ刑務所に「保護拘禁」される.彼女はビラや『スパルタクス書簡』の
ための論文をかき,そのなかで右派指導者の社会排外主義と中央派の社会平和主義の正体をあば
き,革命的大衆行動を呼びかける.
 11月4日
 最終審により,カール・リープクネヒトは「戦場における不服従加重と併合せる戦時反逆未遂
のかどにより,ならびに国家権力にたいする抵抗のかどにより」懲役4年1ヵ月および6年間の
公民権剥奪の判決をうける.
 12月-1918年10月23日
 カール・リープクネヒト,ルッカウ刑務所に投獄される.政治的に隔離されていたにもかかわ
らず,とくにドイツにおける帝国主義と軍国主義反対闘争の具体的条件と可能性にふんする認識
を深める.彼の妻や子どもたちおよび他の人たちをとおして,同志たちと緊密な接触を保ち,指
示やビラの草案,『スパルタクス書簡』のための論文で同志たちを支援する.

1917年
 11月11日
ルッカウ刑務所から妻のゾフィーあての手紙で,カール・リープクネヒトは十月社会主義大革
命を歓迎し,公然とこの革命にくみすることを表明.
 11月24日
 ブレスラウの刑務所からルイーゼ・カウツキーあての手紙で,ローザ・ルクセンブルクは十月
社会主義大革命を「永遠に消えさることのない世界史的偉業」と評価.

1918年
 10月23日
 カール・リープクネヒト,大衆の圧力によってルッカウ刑務所から釈放される.ベルリンのア
ンハルト駅前で,数千人の労働者と兵士から嵐のような歓迎をうける.
 10月24日
 カール・リープクネヒトをたたえて,ベルリンのソヴェト大使館でレセプション.その席上,
ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会のメッセージが朗読される.
 10月26日から
 カール・リープクネヒトは,ベルリンの革命的オプロイテ執行委員会の会議に参加.その指導
部に代表として送りこまれる.
 11月8日
 ローザ・ルクセンブルク,革命によってブレスラウ監獄から解放され,11月10日ベルリン到着.
カール・リープクネヒトとエルンスト・マイアーの署名したスパルタクス・グループのビラは,
皇帝政府を打倒し,労働者兵士評議会の手に権力を収めるよう,ベルリンの労働者と兵士に要請.
 11月9日
 カール・リープクネヒト,午後,ベルリン宮城のバルコニーから自由な社会主義共和国を宣言.
 11月10日
 ブッシュ曲馬館でおこなわれたベルリン労働者兵士評議会大会で,カール・リープクネヒトは
社会民主党右派指導者の反革命的政策に用心せよと警告.
 11月11日
 スパルタクス同盟創立にあたり,カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは中央本
部に選出され,スパルタクス同盟の機関紙『ディ・ローテ・ファーネ』の編集をまかされる.
 11月28日
 カール・リープクネヒト,その『指導原理』の中で革命のこれまでの経過を分析,とりわけ立
法行政司法の全権力を労働者兵士評議会の手に集中することと,大経営と大土地所有を社会化す
ることを要求.
 12月14日
 『ディ・ローテ・ファーネ』はローザ・ルクセンブルクのまとめあげたスパルタクス同盟の綱
領『スパルタクス同盟は何を欲するか』を発表.
 12月16日
 カール・リープクネヒト,第1回全国評議会大会会場のプロイセン衆議院会館前で,デモ隊に
むかって大会の課題について演説.
 12月30日-1919年1月1日
 カール・リープクネヒト.とローザ・ルクセンブルク,ドイツ共産党を創立し,彼らの生涯に
わたる革命的大業の最後を飾る.ベルリンにおける創立大会で,カール・リープクネヒトは『ド
イツ独立社会民主党の危機』という報告でドイツ独立社会民主党からの組織的分離とドイツ共産
党の創立の根拠を,ローザ・ルクセンブルクは党綱領の根拠を説明する.

1919年
1月初め
 ベルリンでの闘争のあいだ.カール・リープクネヒトはドイツ共産党の代表として,33名から
なる行動委員会に所属.カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは『ディ・ローテ・
ファーネ』の編集を継続することに全力をあげ,労働者のためにこの闘争機関紙の維持につとめ
る.
 1月14日
 『ディ・ローテ・ファーネ』にローザ・ルクセンブルクの最後の論文『秩序がベルリンにのさ
ばる』が発表される.
 1月15日
 『ディ・ローテ・ファーネ』にカール・リープクネヒトの最後の論文『たとえどんなことがあ
っても』が発表される.
 カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは,反革命の傭い兵に逮捕され,謀殺され
る.
 1月25日
 カール・リープクネヒトと虐殺された31名の1月闘争の戦士たちは,全ドイツからの幾十万の
勤労者の参列のもとにベルリンの墓地に運ばれる.
 6月18日
 ローザ・ルクセンブルクの埋葬に幾十万のベルリンの労働者と外国の労働者組織の代表者が参
列.この日,ドイツと外国の多くの都市では,国際的反動にたいする勤労者のストライキとデモ
がおこなわれる.
 以上で終了です。なお、電子化ネタは以下の通りです。電子化希望のある方は、
マル共連BBSの「大月書店愛好会」名で書き込まれたスレに書き込んでください。
281大月書店愛好会:02/05/20 00:59
 下げ保存カキコ
282大月書店愛好会:02/05/20 21:22
 新規スレッドを立てられないので、ここで皆様にお願いいたします。

 小生、かつて多数の大月書店国民文庫を保有しておりましたが、他人
に貸与して帰ってこないものが多数あり、現在欠番を揃えております。

 ただ保有するだけではアレなんで、電子版を作成しております。

 で、国民文庫はどうも全て絶版にするようで、本屋にも、また古本屋
にさえも十分ありません。

 そこで、皆様にお願いがあります。以下の本のある古本屋をお教え下
さい。京阪神、東京・横浜ならば出張のついでに購入できます。

 ご協力お願いします。
・資本論綱要=8 ・マルクス回想=10 ・哲学の貧困=13
・労働組合論=17 ・フランスにおける階級闘争=24
・資本主義的生産に先行する諸形態=28
・フランスにおける内乱=31 ・マルクス=エンゲルス=マルクス主義=101
・民族自決権について=104 ・「左翼」小児病=105
・背教者カウツキー=107 ・社会主義と戦争=115
・哲学ノート2=127b ・カール・マルクス=128

 他にも情報お待ちしています。なお、マル・エン、レーニン以外は、
どんな情報でもお待ちします。
283大月書店愛好会:02/05/20 21:23
 なお、東京出張は今月末です。5月31日に出張させるなよ・・・>会社。
サカーヲタの祭典のため、宿がとれるのか??
284名無しさん@1周年:02/05/21 00:24
国民文庫ですか・・・以前、“スターリン主義の基礎”をご紹介頂いた時に
結構探しまわりました。が、(探し方が悪かったのかも知れませんが)
神田古書店街にも 殆ど ありませんでした。

麦のカバー以前の品(四角い枠の表紙、カバーのない奴)は、
最近の古本屋(ブックオフ等)では まず扱っていないです。。。

紹介で協力したいのはやまやまですが、
私が知っているめぼしい古書店は
すでに漏れ様が買いあさり済みですんで、基本的には
空科とかのメジャーな タイトルしか残ってない筈ですな(ワラ

 集めた本は積読状態ですので、屑・・・もとい、愛好会さまへ
提供することも吝かではありませんが たかが40冊(*)ぐらいですから、
欠番の方が多いですし、リストでは13・17・128しかありません。
(むしろ、年配の共産党員の協力(提供)を呼びかけた方が
望ましいかもしれないですね)
兎も角、電子化される分には、ご所望でしたら宅配便とかで
組合事務所にでも送りますですよ。

# * 重複含む(藁) 国革も新しい薄い奴と、古くて厚い版がありますですだ。
285名無しさん@1周年:02/05/21 09:20
絶版ですか・・・↓復刊交渉を請け負うサイトです。
http://www.fukkan.com/
>>285
 情報ありがとうございます。とりあえず、投票欄を作りました。掲示板も。

http://www.fukkan.com/bbs.php3?t_no=4957&act=topic
287名無しさん@1周年:02/05/21 20:55
赤旗祭りで千代田地区委員会のやってる古本市に行くと手にはいるよ。
なぜか除名された人の著作まで手に入る。
288名無しさん@1周年:02/05/21 21:43
厨房質問でごめんなさい。
日本共産党はローザ・ルクセンブルクに関してはニセ「左翼」暴力集団規定は
していないのでしょうか。
289葉寺覚明 ◆SAMVZGzE :02/05/21 22:01
>>288

出典を失念してしまって申し訳ないのですが、日共の本に、あおがローザを
引き合いに出すのは「鷲」であるローザへの冒涜だと書いておりました
290288:02/05/21 22:24
>>289
葉寺さんありがとうございました。
今のあおをローザが見たら嘆くでしょうかね。
291284:02/05/22 09:31
 古本屋の紹介ですが、都心から離れていて申し訳無いけれども、
東京都町田市の高原書店には、数冊ありました。 http://www.takahara.co.jp
(管理が不徹底で、なになすと反デューリング論しか検索できません。
町田店に電話で問い合わせれば、店頭の在庫は解ると思いますが、
在庫確認は「探求書登録」で6ヶ月待つと云う 古本屋です)

 私が古本屋を探した時(スターリン主義の基礎を探していた時)は、
経済系大学の近くなら・・・と考え、国分寺一橋大学近くの古書店を
探しまして見つけたのですが、その店では唯一の国民文庫で且つ特価コーナーでした(鬱
むしろ、小汚い昔ながらの古書店で 一冊20円とかで叩き売られている物で
集めたのが殆どですから、オンライン書店はりようできないと諦めて居ました。
が、国民文庫って事なら、結構あるみたいです。

↓毛沢東のもあるみたいです。
http://211.9.38.163/cgi-bin/search.pl?CID=1&ds=sgenji04&sm=f&si=182&ck=052&ur=&im=&co=&st=&vi=7&vp=870629780

↓例の国民文庫128「カール・マルクス」あるみたいです。
http://www2.odn.ne.jp/~caj88850/mokuloku/bun/mbta.htm

いろいろ。
http://211.9.38.163/cgi-bin/search.pl?CID=1&ds=sgenji06&sm=f&si=127&ck=国民文庫&ur=&im=&co=&st=&vi=14&vp=870629793

↓分類はあるけど、青木文庫しか無いみたいです
http://www15.u-page.so-net.ne.jp/xa3/wakaba/

んではでは。
292284:02/05/22 09:37
「いろいろ」のリンクが 氏んじゃいましたね。

あそこには 「プロレタリア革命と背教者カウツキー」 の在庫があるはずなので、再掲します。
http://www.naritashoten.com/01bunnko.htm の、国民文庫です。
293葉寺覚明 ◆SAMVZGzE :02/05/22 22:31
>>290

あおの「革命軍」は「指揮系統に上下関係があるだけの自由で民主的な作風」
らしいです。ホントかどうか知りませんケド(苦笑)

>>291

ん?「レーニン主義の基礎」ではなく、「スターリン主義〜」ですか?ホスイ
294名無しさん@1周年:02/05/23 08:46
>293 すません、仰るとおり(レーニン〜)ですね。云った私がホスイ(藁
295大月書店愛好会:02/05/23 15:30
>>284さん
 色々ありがとうございます。しかし、成田書店は、青森駅前の奴ですね。
転勤前にゲットしとけばよかった。

 それから、腹をくくって、「レーニン主義の基礎」もここでやっちゃいましょう
か?
296284:02/05/23 18:54
>295 どもです。

上記古書店は通販をはじめているみたいですから、
古本屋も大変な時代だなぁと思いました。
(そもそも あれだけの古書店リストじゃ、
共産主義的レアアイテム収集家の
葉寺覚明さんに 笑われてるんだろうな、きっと。)

さて、レーニン主義の基礎、私は入手に関して、
大分時間がかかりましたし、苦労しましたので
公表には とても価値があると思います・・・確かにそう
思いますが、しかし 今 急いで 腹を くくられることも
ないのではないでしょうか。
あなたは正体がばれまくりなので リスクが心配です。

版権・著作権法に詳しい方や、大月書店の関係者の方は、
ここには 来てませんか? 古典の普及は 良い事だと思いますが
共産党の方が動いてくれたりは・・・しませんかねぇ・・・
297大月書店愛好会:02/05/23 20:25
>>296
 ていうか、このスレッド、大月書店様に連絡したのですが・・・。
なぜかなしのつぶて。こっちのが「止めろ!」と言われるよりつらい
です。

 あ、共産党については、かつて「資本論」で(以下略。そういうわけ
で、新日本出版社は好かん、つーことです。
298  :02/05/23 20:28
このスレって・・・・
創価学会=公明党を、公言とほざいている・・・
政教分離に反していることを、信者自ら認めているな。。。
で、何が楽しいの??

池田大作に死んでもらいたいのは、共産党だけでなく(私はいても構わないが)、
他にもたくさんいるんですが??

そちらのほうにも、スレッド、立ててるんですかね??>1
299大月書店愛好会:02/05/23 20:55
>>298
 誤爆でしょうか? ちなみに、公明党や創価学会に対する私のスタンス
は、共産党に対するスタンスと似ており、いわゆる「誹謗中傷」はしない
ことにしています。

 それにしても、今の公明党のやってること、池田大作氏がよく容認して
いるな・・・。
300人間の屑1号 ◆7Wpm.iX2 :02/05/24 09:17
>>285
 本を指定せよ、という理由で消しました。復刊きぼんぬは以下の掲示板で。

http://www.fukkan.com/bbs.php3?act=topic&t_no=3324
>>296

古本屋も商売ですし、品揃えとかは仕方ないんで、別にその部分を笑ったりは
しませんが、むしろ、あか本の前の持主(つまり、手放した方)を想像して、
藁っておりやす。

亡くなった方(私は「内ゲバ」死者の遺品本を持っていますが…)のものなら
ともかく、昔は「闘士」だったのに今では自覚的な!賃金奴隷に成り果てている
オヤジサラリーマンとか、はたまた、さかりのついた市川正一同志とか、
どんなキモチで手放したのかと思うと、あかだったころとのギャップがさぞや
凄まじいんだろうなとか、考えてしまいます。あかの本てえのは、だいたい
書き込みとかしてあるんですが、当時の情熱が アツくて、純粋まっすぐで、
おもろいです。あとは、ミンの本に、集合写真が挟まっていたこともあります。
「思い出」もろとも手放したってことでせう。がはは

↓同志からの贈呈本を手放した市川正一@女性問題同志
http://maoist.netfirms.com/private/bus002.htm
302284:02/05/28 09:39
人間の屑様
 そうですか、大月書店さんからは無返答ですか・・・(鬱
先日、プロバイダ責任法が施行されたみたいですから、リスクは
つよくなってしまいましたね・・・
http://www.soumu.go.jp/joho_tsusin/top/denki_h.html

はせ子様
 さすがは市川タン、サインの様な物神性は 歯牙にもかけない! 市川タンウラー!
市川タンは 貰う前に自分で買ってて、そっちは傍線バリバリなんですよ(きっと・藁)。
つーか、古本屋が資源ごみの日に暗躍したり、古紙回収業者が 古本屋に転売したり、
資源ごみの本を拾って古本屋に売ると云う漏れみたいな外道も居ますんで、
市川タンが 古本屋に売ったかどうかはワカリマセンですだ。
・・・サカリについては知りませんが(藁
303284:02/05/30 15:07
愛好会様、私 神田をなめて居りました。
結構奥が深い様で、私がまだ覗いていない古書店が沢山です。
文庫専門の古書店もあるとの事です。
http://www.book-kanda.or.jp/kosyo/index.htm

どこに 国民文庫の在庫があるのか、御存知の方は
情報提供をよろしくです。
304名無しさん@1周年:02/05/30 21:23
 愛好会様
地図でス。今日の赤旗の15面からの引用ですが、

   B..C..┃D
  ━━━A━━━┯━━━┯━━━ ⇒至 JR水道橋駅
     ....┃E   .│  .. F│
     ....┃    ..│     │
     ....┃    ..│     │
     ....┃    ..│     │
     ....┃    ..│   ★│
     ....┃    ..├───┤
     ....┃    ..│     │
      靖          
      国       
      通     
     ....り            
          

     A:神保町交差点
     B:岩波ホール
     C:第一勧銀
     D:キムラヤ
     E:地下鉄神保町駅
     F:ミツワ自動車
     ★:友好堂神保町書店

この友好堂は 神田神保町にある民主書店なので、
国民文庫がある古書店の紹介を期待できるかもしれませんです。。。
305大月書店愛好会:02/06/01 23:53
 皆様、ご協力ありがとうございます。おかげさまで、本日、かなりの成果が
ありました。成果の一部は、確かに電子化され、そう遠くない将来公開される
ことでしょう。(残念ながら、マル・エン、レーニンじゃあないですが。)
306284:02/06/02 00:03
おつかれさまでした。成果あって、えがったです。
もし欠けてる物で漏れが持ってるのがあれば
先にも申した通り 寄贈しますですよん。

んで その気があれば欠番リストと送り先カキコをくらさい。
307284:02/06/02 00:49
あ、もちろん言葉どおり、返却不要ですだ>寄贈
308大月書店愛好会:02/06/04 20:34
>>306
 恐れ入ります。とりあえず、もう少し自力で探してみます。

 あ、「革命と反革命」電子化しました。と言っても、余り皆様には関係ないで
すねぇ。。スンマソン。
309名無しさん@1周年:02/06/28 11:55
あげ
310名無しさん@1周年:02/07/07 16:44
∧∧  ミ  _ ドスッ
     (   ,,)┌─┴┴─┐
    /   つ  310 │
  〜′ /´ └─┬┬─┘
   ∪ ∪     ││ 
311名無しさん@1周年:02/09/21 12:55
政府、「拉致・工作船」で北朝鮮に賠償請求へ
 政府は20日、北朝鮮工作員による日本人拉致(らち)事件と昨年12月に発生した鹿児島県・奄美大島沖の工作船事件について、北朝鮮に賠償を要求する方針を固めた。
10月に再開する日朝国交正常化交渉で、核開発など安全保障問題や経済協力と並んで主要テーマの一つとし、拉致については捜査協力や犯人引き渡しも要請する。
拉致被害者が8人も亡くなっていたことで、北朝鮮に対する国民の反感が高まり、正常化交渉を再開するには、 北朝鮮に毅然(きぜん)とした姿勢を示す必要があると判断した。
312名無しさん@1周年