俺が創価嫌いになった理由を書いておくよ。
私の父は大正生まれの人間だが幼いとき、父は近所の学会員の折伏を受け、
一時入信していた時期があった。その時、先祖を祭っていた仏壇を燃やすように
言われ、仏壇の内部にいったんは火を付けた。あまりのことに父は火を消し、
すぐに脱会したのだが、ものごころつくかつかないような年頃の私に対する罵声を
かすかに覚えている。トラウマとなって・・・。
お前のお父さんは悪い人間だのどうだの・・・。
社会人となって間もない頃、同僚の女の子に声をかけられた。どうしてもあんたに
来て欲しい。助けると思ってお願いと・・・。何事かと心配になり同行すると・・・
そこは折伏の場であった。無礼なことに人様を騙して糾弾地獄とも思える場所に
連れ出したのだ。何と卑劣なことを平然とするのか、私は怒った。
その頃私は左に傾倒していて、唯物的発想で徹底的に宗教を否定した。
人間は存在するから思うことができる、あんた方の言う仏様とやらはどこにいるのかと。
相手の論法に乗らず、押し通すと、ずっと平行線でいられた。
最後には、中学校の英語教師が出てきて、「あんた、いい加減帰り。」無礼にもこう言ったのだ。
同時に私を騙して折伏に連れ込んだ女の子に、「こんなん、連れて来な。」
である。俺に対する謝罪はどうした?、それとも逝かれた宗教に染まってどこか倫理観が
麻痺しているのか?。後ほどこの女の子に意見すると、エヘラエヘラするだけで、入信しない
奴がいかにも悪いようなそぶり、以降、ずっと無視してやった。
最近良く行く喫茶店のママに、ちょうど選挙中だただろうか、「俺は創価学会が嫌いで・・・。」
というような世間話をしていた。運悪く隣に座っていたオバサン二人が公明選挙運動員で学会員
だったのだ。どうして学会を嫌うのか、あんた共産党の支持者か、と突っかかってくる。親父が
仏壇を燃やした話や、騙されて折伏に連れ立たされた不愉快な話をすると、昔はそう言う所があったが、
今は変わってそう言う事はしないと何一つ悪ぶれた様子もなくいる。
本当に変わったのなら話が違うだろう。こう言うなら理解も示したろうが、
昔は信者を増やすためにずいぶんと不愉快な目に遭わせた人もいると思います。それは信仰のためとは
いえ、大変無礼なことでした。だから反省して変わるように努力して、今では昔のようなことはしてな
いのです。
と・・・。要する所、口だけで変わった変わったと言い、実態は小さな子供にトラウマになるような事を
平気で言う時代から何一つ変わってないと言うことだ。
創価・公明の関係でも色々あるが、それは省いておこう。
私の父は商売人だった。しかし性格的には商売には不向きだったようである。
生活に困っている人からは、金を受け取らなかったり、受け取っても原価で
すましたり。家はいつも貧乏だった。その親父も60を前にして世を去った。
葬式をするにもたいした金がない。当時私は高校生だった。親父なんてと
思っていたが、たくさんの人が弔問に駆けつけてくれた。お寺の住職は何も言わず、
戒名に院を付けてくれた。私は父が死んで初めてどういう人であったのか痛感し、
恥ずかしく思った。父が死んで30年あまり、いまだに思うことがある。
決して私は父のようになれないと・・・。
そして、我が父はどんな悪人だったのだろうかと。そして何か罰を受けたのだろうかと。
創価君が私のこの話をどう取ろうが勝手である。
創価なんかどうなろうがどうでも良いことなんだが・・・。
政治に口出ししているだけ、不気味なんだよな。