崇神天皇の時代の京丹後 元伊勢外宮 比沼麻奈為神社 祭神:豊受大神の島谷祠掌
雄略天皇の時代の天橋立 元伊勢 籠神社別宮 和貴宮神社 祭神:豊受大神の島谷神主
崇神天皇の時代の京丹後 大宮売神社 祭神:豊受大神の島谷宮司
社家の島谷氏について、知りたいです。
豊受大神とは、=国常立命=神道最高位神で創造主の天之御中主命とも聞きます。
2 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2014/03/22(土) 23:26:59.02
単発質問で、僻地の廃屋神社のスレ立てんな!
籠神社スレで訊けば済む内容だろうが!
神道解釈では、漢民族(秦民族含む)の盤古神と国常立命で、国常立命は天之御中主神の化身と聞きます。
大宮売女神が合祀される伏見稲荷大社も出雲秦氏(大西氏)の宇迦之御魂の女神が祭神。
島谷氏の神社に共通する神社には、豊受大神が祭神で祀られ、豊は、古代中央氏族の蘇我氏を表すそうです。
これは、聖徳太子の称号を蘇我氏へ与えたことからだそうです。
蘇我氏の紀氏系統氏族には、古代波多氏がいます。
又、出雲大社には、素戔嗚尊を祀る素鵞社(そがのやしろ)と素戔嗚尊の子の宇迦之魂神を祀る、釜社(かまのやしろ)があります。
素鵞社は蘇我の由来なのでしょう。
そして、古代波多氏=出雲秦氏・・
要するに、幕府の命で惟宗島津氏の配下として出島管理をしていた島谷市左衛門と言う、後の小笠原諸島巡検使隊隊長の関係も
惟宗島津氏が出雲秦氏系統な件から、島谷氏が出雲秦氏系統氏族とまでは分かります。
具体的に、元伊勢外宮社家の島谷氏に、そう言った伝承・系譜図があるのかを知りたいですね。
大宮売神社の島谷宮司の親の神社が、播磨の氏姓発祥地の古式の新羅神社で
新羅大明神(素戔嗚尊)を祀る神社だったそうです。
そして、この江戸初期の島谷市左衛門が建立した小笠原諸島父島の大神山神社祭神・・
後の江戸時代中期の子孫、島屋市衛門が新田開発で大阪此花区島屋を埋め立て事業をし、建立した産土神社祭神が
天照皇大神なのです。
>>419の脱字訂正。
>神道解釈では、漢民族(秦民族含む)の盤古神と国常立命で、国常立命は天之御中主神の化身と聞きます。
神道解釈では、漢民族(秦民族含む)の盤古神とは国常立命で、国常立命は、天之御中主神の化身と聞きます。
籠目の社紋が六芒星なのは、古代の大陸秦民族が中東ルーツの古代ユダヤ人だったとの話もある。
ダビデの星・ソロモンの印、妖精世界との入口とも言われる。
古川C治委員長講演
http://www1.kcn.ne.jp/~kawamura/ipro/90a3/90a329.html 惟 神 の 大 道 (かむながらのおおみち) 十一月・秋季大祭 一月号・269号
惟神の大道(四魂具足の道)は、顕幽一貫けんゆういっかん(現界から、霊界に貫かれて不動の人生)の道であります。
初めに伊邪那岐命が、原人として魂を与えた島族(日本の第一先住民族)を産み、次に須佐之男命とその代々の御子神たち七代が、この一魂の島族を二魂の先住民族として同化された。
次にこの第二先住民族を、さらに大国主命系十代の神々により、三魂の第三先住民族へと同化されて、天孫降臨となります。
国譲りを経て、四魂を具えた邇々芸命系の神(氏之祖ノ神)が四魂の大和民族に同化せられ、我々が受け継いで敬神崇祖を実践し、四魂具足の行にぎょう 努め絶対道徳 (惟神の大道) を践み行く民族になるのです。
心に四魂を満ち充み みたす(常に四魂具足を思う)ことであり、自身に真心を確立するよう努めることです。
埼玉苗字辞典
http://homepage1.nifty.com/joichi/2-6si.html 島 シマ 斯摩、志摩、司馬は島と記す。
日本書紀・神功皇后摂政四十六年(応神天皇)条に「斯摩宿祢を卓淳国に遣す」と。
百済の卓淳(とくじゅん)は慶尚北道大邱の古名。
斯摩宿祢の使が百済王の肖古王(百済十三代、在位三四六〜三七五年)に献上する。
後漢帝は朝鮮楽浪郡の南に帯方郡置く。
古代氏族系譜集成・坂上氏系図に「後漢帝―石秋王延(封東呉石秋県、至帯方郡)―マ(帯方大守。弟楯は百済上柱国)―ム(帯方大守)―f(沂州司馬)―阿智使主照(応神天皇二十年投化、居大和国高市郡桧前村)。
鞍作村主等従ひ来る」と。
呉、司馬は百済国の内なり。クレ条参照。
坂上族は東漢直(やまとのあやのあたえ)、或は桧前忌寸(ひのくまのいみき)と総称され、同族百済人蘇我氏に軍事をもって臣従した。アヤ条参照。
扶桑略記・継体天皇六年に「大唐漢人案部村主司馬達止、此の年春二月入朝す」。
大唐(大加羅)の漢人(あやひと)は百済人、案部村主(くらづくりのすぐり)は鞍作の村長なり。
日本書紀・敏達天皇条に「鞍部村主司馬達等、其の女、島・善信尼と云ふ」。
司馬氏は島氏に同じ。
蘇我馬子(司馬宿祢、島大臣)―蝦夷―入鹿(鞍作)あり、蘇我族は島氏にて鞍作部の支配者なり。
扶桑略記・推古天皇元年に「蘇我大臣馬子宿祢、飛鳥の地に於て、法隆寺を建て、島大臣並百余人、皆百済服を著す」と見ゆ。
蘇我氏の本貫地大和国高市郡曽我庄(奈良県橿原市)の曽我川は別名百済川と称す。
当地方は島岡、島田氏等が多い。
東国に於いて、島崎、島田、島根、島野、島村等の百済渡来人島族は武蔵国に多く存す。
島田、島野条参照。出雲国に渡来した島族は伊勢国・志摩国(三重県)へ移住す。
神武天皇東征の頃に伊勢津彦あり。
志摩国は島津国と称し、国造本紀に「島津国造。成務天皇朝、出雲臣の祖・佐比禰足尼の孫出雲笠夜命を国造に定め賜ふ」。
「武刺国造の祖神・伊勢都彦命」と見ゆ。
出雲臣族の武蔵国造の祖先は伊勢地方より島族を率いて武蔵国へ移住す。
足立郡島村(大宮市)は島津郷と称す。
津は人や物の集まる所の意味で島族の集落を島津、島ノと称す。
小名島は、埼玉郡道口蛭田村、市野割村、久米原村、百間領須賀村、広田村、杓子木村、足立郡沖之上村、比企郡越畑村、幡羅郡間々田村、葛和田村、西別府村等にあり。
各市町村に存す。
新潟県栃尾市五十戸、見附市三十七戸、福島県相馬郡小高町二十戸、相馬市五十七戸、原町市三十戸、郡山市四十戸、岩手県花巻市三十三戸、青森県西津軽郡深浦町十七戸あり。
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島谷 シマタニ 各市町村に存す。島根県松江市十五戸あり。
嶋谷 シマタニ 川口、志木等に存す。
嶌谷 シマタニ 浦和に存す。
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島谷 シマヤ 各市町村に存す。長野県埴科郡戸倉町十四戸、青森県上北郡野辺地町十七戸、西津軽郡柏村十戸あり。シマタニ参照。
嶋谷 シマヤ 与野、久喜、越谷、草加等に存す。
島屋 シマヤ 越谷に存す。
十握剣から生み出された人間が・・島族
伊邪那岐命の十握剣から生み出された人神が、島族。
秦=新羅=斯盧=斯麻=斯摩=斯摩宿祢=島根県=伊勢志摩の志摩、島族。
武寧王、幼名は斯摩・・
惟神・・惟宗・・島津。
>神功皇后摂政四十六年(応神天皇)条に「斯摩宿祢を卓淳国に遣す」と。
これは、秦族と倭族が、古くに、複雑な渡来との同化を果たして来たから故なのだろう。
斯摩宿祢が百済へ派遣され、そこで、秦族と縁を結び、帰国。
大陸との接点で、後の渡来を招き入れる縁となったのかな・・。
>>11訂正。
豊受大神の祖神、火之迦具槌神からみたい・・。
豊受大神=国常立命=天之御中主神は、渡来系島族の島津の祖が秦氏で秦が漢族だから、盤古=で、国常立命と言う観念だな・・
伊勢神宮の中臣氏の本姓が伊勢志摩氏で島氏・島族だったのなぁ・・
伊勢津彦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E6%B4%A5%E5%BD%A6 伊勢津彦(いせつひこ)は、『伊勢国風土記』逸文内に記述される国津神で風の神。
元の名を出雲建子(イズモタケコの)命、またの名を櫛玉(クシタマの)命
三韓征伐 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93%E5%BE%81%E4%BC%90 神功46年以降[編集]神功46年以降は『百済記』が構文されている。
神功46年(246年または366年)3月1日、斯摩宿禰を卓淳國に遣す。
卓淳王の末錦旱岐は、百済の久?(くてい)、弥州流(みつる)、莫古(まくこ)らが日本に朝貢したいと斯摩宿禰に伝えた。
斯摩宿禰は、爾波移(にはや)と卓淳人の過古(わこ)を百済に遣した。百済の肖古王(近肖古王)は喜んだ。
王は財宝を贈り、また蔵をみせて、これらを朝貢したいと爾波移に告げ、のち志摩宿禰らは日本へ帰還した。
翌年4月、百済は日本に朝貢した。
神功皇后49年(249年または369年)3月には、神功皇后将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を卓淳国へ派遣し、
新羅を襲撃しようとするが、兵の増強が進言され、百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪(ささなこ)と沙白(さはく)・蓋盧(かふろ)らに合流を命じて、新羅を破った。
比自[火+保](ひじほ)、南加羅、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定した。
さら西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑は抵抗もなく降伏した。
神功51年(251年または371年)3月、百済は久?を派遣し、日本に朝貢した。
神功52年(252年または372年)9月10日、百済王は、百済と倭国の同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后へ七子鏡と七枝刀を献上した。
なお、七支刀に彫られた「泰和四年」は369年ともいわれ、この場合、百済が朝貢していた東晋の年号太和4年とされる。
国造 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%80%A0%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 伊勢国造 いせ 天日鷲命(神武天皇期) 伊勢氏(直)
志摩国 島津国造 しまづ 出雲笠夜命(成務天皇期) 島氏(直)
要するに、藤原氏秦氏説の実態だな。
そして、中臣の祖が、天之御中主神だからね。
豊受大神=国常立命=天之御中主神な訳だ。
中臣島族は、藤原麻生氏と似てる家系だな。
弓月君 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B
徐福と弓月の君 ひもろぎ逍遥
lunabura.exblog.jp/i211/
徐福 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F
要するに、始皇帝徐福が渡来したのが今の九州で
後に、秦王族の弓月君が渡来したのが京都の太秦・・
太秦 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%A7%A6
百済経由の弓月君の秦王家が出雲族の志摩族との縁で渡来し
出雲族となり、後の、伊勢志摩の伊勢中臣氏一族の斯摩氏系譜は
伊勢氏中臣氏にば列していないが、志摩国造家の島族内の総領氏が惟宗島津氏となり
これが、鎌足が名乗り始めの藤原の名の謂れなのでしょうね。
※斯摩氏自体は、伊勢津彦の子孫で、惟宗島津氏が斯摩氏の志摩国造家に入った形なのでしょう。
九州の徐福秦氏の島津氏に従い、島族となり島津を名乗ったのでしょう。
元寇の際、九州薩摩の島津の国に大規模遠征したのが惟宗島津の弓月の君王族の関係。
秦氏 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F
惟宗氏 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%AE%97%E6%B0%8F
訂正。
九州の徐福秦氏も島津氏に従い、島族となり島津を名乗ったのでしょう。
大陸の秦朝はは、たった20年三代で滅んだ訳で、徐福を頼って、日本へと避難を試みたのでしょう。
伊勢津彦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E6%B4%A5%E5%BD%A6 逸文内一説の記述によれば、出雲の神(大国主命)の子である出雲建子命の別名が「伊勢津彦」であり、
またの名を「櫛玉命」というと記しており、「伊勢」の由来についても、国号由来とは異なる記述が成されている。
それによれば、命は伊賀国穴石神社(現三重県阿山郡)に石をもって城(キ)を造っていたが、
阿倍志彦(アヘシヒコ)の神(『延喜式神名帳』内の伊賀国阿倍郡の敢国神=アヘノクニツカミと見られる)が城を奪いに来るも、
勝てずして帰ったため、それに(石城=イシキ、またはイワキの音が訛って)由来して「伊勢」という名が生まれたと記す。
櫛玉命で同一の神なので
豊受大神は、国津神と天津神共通の祖霊として天照大神と合祀している様ですね。
天照大神と素戔嗚尊を祭る、伊勢志摩の元伊勢・伊勢神宮。
豊受大神=素戔嗚尊は、伊勢=神武天皇であり・斯摩宿祢の逸話でもあり、島族の祖でもあると・・
出雲氏=伊勢氏→斯摩・志摩・嶋で島族→中臣氏→藤原氏→藤姓
元伊勢・伊勢神宮は、国津神の出雲族大国主末代の島族・中臣氏世襲官職と解釈すると・・
度会氏は、男系神武天皇で、天照側の氏族なので、真名井神社官職を辞退したのでは無いかと解釈出来る。
神武東征国譲りと対抗した土着は、出雲を長とした毛人や蝦夷の連合軍だったのだろうね。
だから、出雲の敗走先が関東圏
出雲津子家族は、捕らわれ、近畿で融和の象徴にされ、代々、元伊勢・伊勢神宮神官にされて来た。
>>31訂正。
周代×
晋代に半島と出雲を所領していた秦族の司馬氏族で
晋代に司馬氏が半島・出雲地域までを西晋国とし建国した。○
>>33 饒速日━宇麻志麻治 可美真手[磯城1神武]━・・
神武天皇家の氏姓判明です。
宇佐氏・島氏の祖です。
宇佐島氏と言う姓が神武天皇家の姓です。
宇麻氏
@阿波忌部氏のルーツ(鴨県氏、葛城氏)※度会氏の天日別[伊勢朝臣]系譜説在り
伊勢志摩国造家の島氏島族。
A物部氏・穂積氏のルーツ
元伊勢外宮 比沼麻奈為神社 島谷祠掌・元伊勢 籠神社別宮 和貴宮神社 島谷神主
大宮売神社 島谷宮司の島族。
※天太玉命は天日鷲あめのひわし命、手置帆負たおきほおい命、彦狭知ひこさち命、櫛明玉くしあかるたま命、天目一箇あめのまひとつ命をひきいた。
天日鷲命は阿波国忌部等の祖。手置帆負命は讃岐国忌部の祖。
天津彦根命=天若日子命。その子神が、天目一箇命=天御影命で天日鷲命と天鈿女命は、兄弟の神。北伊勢大神(多度神)
天照大神=活魂命━天津彦根命=天若日子命━天目一箇命=天御影命━饒速日━宇麻志麻治━味饒田━神日子━麻佐良━久尼牟古━大由支━大阿斗足尼━稲比━大乙世━国志麻━夫都底━大刀見・・
島族は、天津彦根命=天若日子命が妻、大国主命の娘の女系で出雲族のようだ。
>>3の事を調べた結果。
どうも、A物部氏・穂積氏のルーツとは、応神代で氏姓のつながりが観えるが
末代には、島谷氏は居ないようで、やはり
@阿波忌部氏のルーツ(鴨県氏、葛城氏)※度会氏の天日別[伊勢朝臣]系譜説在り
伊勢志摩国造家の島氏島族ルーツの縁で
元伊勢外宮 比沼麻奈為神社 島谷祠掌・元伊勢 籠神社別宮 和貴宮神社 島谷神主
大宮売神社 島谷宮司の島族のようだ。
>>40のアンカー訂正。
>>37の事を調べた結果。
どうも、A物部氏・穂積氏のルーツとは、応神代で氏姓のつながりが観えるが
末代には、島谷氏は居ないようで、やはり
@阿波忌部氏のルーツ(鴨県氏、葛城氏)※度会氏の天日別[伊勢朝臣]系譜説在り
伊勢志摩国造家の島氏島族ルーツの縁で
元伊勢外宮 比沼麻奈為神社 島谷祠掌・元伊勢 籠神社別宮 和貴宮神社 島谷神主
大宮売神社 島谷宮司の島族のようだ。
島族は、天日鷲翔矢=少彦名神=昔話の一寸法師の末代。
記紀研究家の話では、斯摩宿禰・千熊長彦・武内宿禰・気長宿禰がそれである。そして気長足姫と葛城襲津彦を生んだ。
※すべての大王の王子が、その母の地たる本居また養育された氏族の名をもって諱としたことを想えばいい。曽我馬子もまた曽我大臣でなく嶋大臣と呼ばれたのである。
武内宿禰は、その本居をもって、気長宿禰とも名告ったのだと思う。その元名こそ内宿禰であった。武はむろん武威をいう美称である。
・・
武内宿禰=斯摩宿祢、後の葛城襲津彦も武内もしくは斯摩襲津彦。
蘇我馬子=斯摩宿祢=千熊長彦
第一章 斯麻宿禰β
http://www9.plala.or.jp/juraku/soki1_6.html
>>46 >>45の話は・・
要するに、神武代よりの欠史八代の後継皇統氏族が治めてきた中央氏族を渡来とした渡来説だと、
裏づけがこんな感じだろうね。
渡来の神武代以降の欠史八代の皇統の斯摩族は、大彦命筋の武内宿禰以降が殆ど、武内宿禰=斯摩宿祢系譜となるようだ。
この渡来は百済渡来出雲族となる。
千家氏も含まれるのかは不明だけど・・
阿波忌部氏系譜の志麻氏の伊勢志摩国造の島直氏の島族とは、別と認識した方が良いかも・・
渡来の斯摩族が司馬皇帝の司馬氏け姓で斯摩を名乗ってそう・・
>>49もとい
渡来の斯摩族が司馬皇帝の司馬氏け姓で斯摩を名乗ってそう・・
>>49・
>>50もとい
渡来の斯摩族が司馬皇帝の司馬氏姓で斯摩を名乗ってそう・・
59 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2014/05/22(木) 11:42:08.20
天照長子、天忍穂耳命系譜が・・初代神武天皇から続く天皇家と皇統氏族
天照次男、出雲に就いた天穂日命が・・出雲大社の千家氏・出雲健子=伊勢津彦系氏族で、志摩国造家の島氏(島族長、京丹後の元伊勢・大宮売神社の島谷氏)
天照末っ子、大国主命の末娘と婚姻した天若日子命=龍神・天津彦根神の子神が少彦名命=天日鷲命系氏族で、伊勢国造家の伊勢氏・伊勢・鹿島・香取神宮・中臣氏
忌部氏系譜は、出雲族分派を記しているようですね。
■「阿波忌部・安房忌部・度会・斎部」推定系図
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/keifu/keizu00.htm ・・━天日鷲翔矢━大麻比古━由布津主━訶多々主━伊那左可雄━沙喜久和別━天由良和気━比比多━止美々大人━伊波毘古━志麻名布・・(志摩国造家?)━武良比(武蔵国造家?)
天照大神の長子、天忍穂耳命系譜が・・初代神武天皇から続く天皇家と皇統氏族
天照大神の次男、出雲に就いた天穂日命系譜が・・出雲大社の千家氏・出雲健子=伊勢津彦系氏族で、諏訪大社の神氏や志摩国造家の島氏(島族長、京丹後の元伊勢・大宮売神社の島谷氏)
天照大神の末っ子、大国主命の末娘と婚姻した天若日子命=龍神・天津彦根神の子神が少彦名命=天日鷲命系氏族で、伊勢国造家の伊勢氏・伊勢・鹿島・香取神宮・中臣氏
元伊勢・伊勢神宮の天照大神は、本来、男神で櫛玉命(にぎにぎしい太陽)の饒速日命=出雲健子=伊勢津彦
伊勢・志摩国造家の島(直)氏の島族が武蔵・千葉に移住して武蔵・千葉国造家と成った。
出雲健子は、千家氏の祖、伊佐我の兄弟で、妻が長髄彦の妹の登美夜須毘売=三炊屋媛、鳥見屋媛。
>>64訂正。
元伊勢・伊勢神宮の天照大神は、本来、男神で櫛玉命(にぎにぎしい太陽)の饒速日命=出雲健子=伊勢津彦
伊勢・志摩国造家の島(直)氏の島族の祖で、島族が武蔵・千葉に移住して武蔵・千葉国造家と成った。
出雲健子は、千家氏の祖、伊佐我の兄弟で、妻が長髄彦の妹の登美夜須毘売=三炊屋媛、鳥見屋媛。
ちなみに、長髄彦は、出雲族の事代主命の子、天日方奇日方命の子孫で、天日方奇日方命の妹が、神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命。
諏訪の健御名方命が遠縁の叔父。
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 出雲氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02119.htm 【出雲氏】
天穂日命の後裔、鵜濡渟命に始まる出雲国造家で、子孫は出雲大社を奉斎する。
室町時代の国造清孝の時に千家家、北島家の二家に分立して宮司を交代で祭祀を司り明治に至る。
明治以降の宮司は千家家単独となる。
《出雲国造族綱要》
島津国造家の島族の祖、出雲笠夜命は、神門氏の子筋で建部氏と兄弟の氏族なのだな・・
千家氏の鵜濡渟命の兄弟の神門氏の伊賀曽熊命が祖なのか・・
饒速日命とは、千家氏・神門氏・物部氏の祖、櫛瓊命=櫛玉命の事だったのかぁ・・
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 出雲氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02119.htm 出雲国造千家系図
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-izumo-senge.html この出雲氏神代系譜を、各氏族の祖と照らすと・・
天穂日命-@武夷鳥命-櫛瓊命=伊佐我命-津狭命-櫛瓱前命-櫛月命-櫛瓱鳥海命-櫛田命-知理命-毛呂須命-阿多命-出雲振根=日本武命-A伊幣根命-B韓日狭命
@A伊幣根命-鵜濡渟命 千家氏・北島氏の祖
A伊幣根命-伊賀曾然命 出雲神門臣・建部氏・斯摩・志摩国造家の島氏の祖
B韓日狭命-野見宿祢←襲髄命の子とも言う・・ 土師氏・菅原氏・大江氏の祖
C宇乃遅命-置部臣/物部氏の祖
@武夷鳥命-櫛玉命=出雲建子命=伊勢津彦命 出雲忌部系島族・角井氏の祖
饒速日とは・・櫛瓊命=伊佐我命の事で、神武勢力に敗走した出雲建子は、兄を頼って、伊勢へ来て
長髄彦の妹、登美夜須毘売=三炊屋媛=鳥見屋媛との間に産まれた、宇麻志麻治命に伯父の長髄彦を征伐させた。
ちなみに、長髄彦は、出雲族の事代主命の子、天日方奇日方命の子孫で、天日方奇日方命の妹が、神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命。
諏訪の健御名方命が遠縁の伯父。
※1 島族は、神門氏志摩国造家の島氏を長とした領民縁者の俗称。
※2 斯摩・志摩・島に列し司馬氏は、大陸の晋国の司馬皇帝の一族の帰化の可能性あり。
※3 又、応神天皇の時代に渡来した、秦の始皇帝七世の弓月君の帰化姓、太秦国所領とした、惟宗氏末代、島津氏が志摩領民としての島族として鎌倉時代〜戦国・江戸時代まで続く家柄。
※4 斯波氏は、野々部氏の末代で、石橋氏の祖。
この尾張氏の久田氏祖は、忌部氏系譜上の神の天背男だとすると・・度会氏と同祖で
火明命=櫛明玉命=櫛玉命=出雲建子命か饒速日命=櫛瓊命=伊佐我命と成る。
間違いの指摘合ったので、
>>72の件は、無しで・・
元々の出雲大社の司祭って神門氏で、杵築大神の大社から、西暦716年に大国主命の出雲大社に改め、千家氏の祖先へと譲られたのですね。
古川C治委員長講演
http://www1.kcn.ne.jp/~kawamura/ipro/90a3/90a329.html 惟 神 の 大 道 (かむながらのおおみち) 十一月・秋季大祭 一月号・269号
惟神の大道(四魂具足の道)は、顕幽一貫けんゆういっかん(現界から、霊界に貫かれて不動の人生)の道であります。
初めに伊邪那岐命が、原人として魂を与えた島族(日本の第一先住民族)を産み、次に須佐之男命とその代々の御子神たち七代が、この一魂の島族を二魂の先住民族として同化された。
次にこの第二先住民族を、さらに大国主命系十代の神々により、三魂の第三先住民族へと同化されて、天孫降臨となります。
国譲りを経て、四魂を具えた邇々芸命系の神(氏之祖ノ神)が四魂の大和民族に同化せられ、我々が受け継いで敬神崇祖を実践し、四魂具足の行にぎょう 努め絶対道徳 (惟神の大道) を践み行く民族になるのです。
心に四魂を満ち充み みたす(常に四魂具足を思う)ことであり、自身に真心を確立するよう努めることです。
安曇・海部・尾張・渡会氏が、徐福秦氏=出雲族だそうで、先住の神門氏は、天皇家と出雲族連合との勢力争いに呑まれ・取り込まれ出雲族に組み込まれた・・。
出雲国譲りを正当化の為に出雲族系譜の神門氏という系譜は、デタラメで、正しくは・・
大国主命と多紀理姫命との子神、阿遅須枳高日子命の裔が神門氏、神門の語源は、阿遅須枳高日子命が先祖代々から受け継いで身に着けていた、神度剣由来だそうだ。
※神度剣=大量剣は、十束剣(とつかのつるぎ)は日本神話に登場する剣。「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記される伊耶那岐命の天之尾羽張剣(伊都之尾羽張剣)=天羽々斬剣。
大国主の時代では、布都御魂剣と呼ばれた。
石上神宮には、配神を両刃の伊耶那岐命の天羽々斬剣と主祭神として、片刃の布都御魂剣の2刀を祀っている。
建御雷神から神武天皇へ受け継がれた十掬剣が石上神宮主祭神の布都御魂剣で
阿遅須枳高日子命から神門氏、日本武=出雲振根=神門振根に受け継がれた神度剣が、石上神宮配神の両刃の天羽々斬剣と思われる。
西暦700年まで出雲大社以前の杵築大社の司祭が神門氏の子筋、島津国造家、島直氏の島族で、東海道に広がった島族が武蔵・千葉国造家の親筋。
山陽道に広がった神門島族をルーツにする島谷氏は、出雲族の拠点であった、播磨国(神戸市に掛かる)を発祥とし
元伊勢の比沼麻奈為神社・天の橋立 元伊勢 籠神社別宮 和貴宮神社・京丹後 大宮売神社宮司は、京丹後周辺の9社を兼任。
>>78訂正。
安曇・海部・尾張・渡会氏が、徐福秦氏=出雲族だそうで、先住の神門氏は、天皇家と出雲族連合との勢力争いに呑まれ・取り込まれ出雲族に組み込まれた・・。
出雲国譲りを正当化の為に出雲族系譜の神門氏という系譜は、デタラメで、正しくは・・
大国主命と多紀理姫命との子神、阿遅須枳高日子命の裔が神門氏、神門の語源は、阿遅須枳高日子命が先祖代々から受け継いで身に着けていた、神度剣由来だそうだ。
※神度剣=大量剣は、十束剣(とつかのつるぎ)は日本神話に登場する剣。「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記される伊耶那岐命の天之尾羽張剣(伊都之尾羽張剣)=天羽々斬剣。
大国主の時代では、布都御魂剣と呼ばれた。
石上神宮には、配神を両刃の伊耶那岐命の天羽々斬剣と主祭神として、片刃の布都御魂剣の2刀を祀っている。
建御雷神から神武天皇へ受け継がれた十掬剣が石上神宮主祭神の布都御魂剣で
阿遅須枳高日子命から神門氏、日本武=出雲振根=神門振根に受け継がれた神度剣が、石上神宮配神の両刃の天羽々斬剣と思われる。
西暦700年まで出雲大社以前の杵築大社の司祭が神門氏で、その子筋、島津国造家、島直氏の島族で、東海道に広がった島族が武蔵・千葉国造家の親筋。
山陽道に広がった神門島族をルーツにする島谷氏は、出雲族の拠点であった、播磨国(神戸市に掛かる)を発祥とし
元伊勢の比沼麻奈為神社・天の橋立 元伊勢 籠神社別宮 和貴宮神社・京丹後 大宮売神社宮司は、京丹後周辺の9社を兼任。
ヤコブとレアの子孫・・創世記の島谷シェマヤ・シャファト・シャムア
>>81もとい
創世記のヤコブとレアの子孫・・島谷氏 シメオン族のシェマヤ・シャファト
島谷祠掌の比沼奈為神社の社紋は、籠目=六芒星の理由と、社名が本来、聖アーク=神輿で比冶だった事。
おっ
「預言者シマヤ」でも、ググれるんだぁ・・
つまり、櫛玉命の出雲建子命=伊勢津彦命と櫛瓊命の伊佐我命の正体とは・・
阿遅須枳高日子命と言う事に成るっ!
櫛玉命の出雲建子命=伊勢津彦命=櫛瓊命の伊佐我命=阿遅須枳高日子命
徐福秦氏の出雲臣に暗殺されない様に、大穴持の系譜から同世代の天穂日の子
天夷鳥命を阿遅須枳高日子命と摩り替えたのでしょう・・神門氏は・・
島族は、それを貫いて、櫛玉命の出雲建子命=伊勢津彦命=櫛瓊命と言う創作の祖と伝えたと・・
後の、第二の危機、日本武命=倭健命=出雲振根命=神門振根命も、兄として
弟の飯入根を祖としてスルーし、朝廷を煙に巻き、やり過ごしたと・・
島族として、全国へ繁栄して行ったと・・
大国主命が2900年前とすると・・神門氏は、崇神天皇の時代と一致する。
>>90訂正。
大国主命が2800年前とすると・・西暦神門氏は、崇神天皇の時代と一致する。
神武東征が天照族の出雲国譲りを迫ったのは、間違いなし
・天之御中主命=国常立命(クナト大神)
クナト大神−八島篠−布葉之文字巧為(ふはのもじくぬす)−八束水臣津野−赤衾伊努意保須美比古佐倭気−八千矛(大穴持・大国主)┬伊佐我(伊佐波)
├阿遅須枳高日子
└高照光姫
94 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2014/09/30(火) 22:50:19.34
大宮売神社とわきのみやと浦島神社は、宮津藩のお抱え神官
神武天皇は、大陸へ遠征していた、軍属皇帝・・天皇家・皇族・皇統と出雲族(徐福秦氏)安曇・海部・尾張・度会氏
大国主命が、倭民族総代の法王・・神門氏・建部・斯摩=志摩=島(秦の始皇帝7世・弓月君の惟宗・島津氏と秦族司馬氏も含む。)・武内宿禰・葛城襲津彦・・紀氏・秦族波多・羽田氏・巨勢・角・蘇我氏・代25代:百済王(武寧(武内)王)の和史氏・高野氏
神武天皇は、大陸へ遠征していた、軍属皇帝・・天皇家・皇族・皇統と出雲族(徐福秦氏)安曇・海部・尾張・度会氏
大国主命が、倭民族総代の法王・・神門氏・建部・斯摩=志摩=島(秦の始皇帝7世・弓月君の惟宗・島津氏と秦族司馬氏も含む。)・武内宿禰・葛城襲津彦・・紀氏・秦族波多・羽田氏・巨勢・角・蘇我氏・代25代:百済王(武寧(武内)王)の和史氏・高野氏
魏皇帝とも成った、司馬炎の時代が、神功皇后と応神天皇の時で、魏志倭人伝の邪馬台国、卑弥呼と記述してるね。
西暦250年〜350年の時期。
武内宿禰・葛城襲津彦・斯摩宿禰の時代。
崇神天皇が卑弥呼の子の台与の摂政だと5代前の天皇だから、西暦250年・・
西暦300年以降の人物と成る。
向家・富家伝承の神門家の神門振根から3代・4代目が武内宿禰と斯摩宿禰だと、時代考証的に合うねっ
アケオメ
東出雲の熊野大社司祭の向家旧家伝書
スサノオ×
クナト(国常立)大神○−八島篠−布葉之文字巧為の子
八束水臣津野−赤衾伊努意保須美比古佐倭気−八重波津身=事代主直系・・神門臣家は、国譲り以降・・千家家の穂日系譜入り。
深淵之水夜礼花−深淵之水夜礼花−淤美豆奴−天之冬衣−八重波津身=事代主直系・・向家・富家は、国譲り以降・・北島家の穂日系譜入り。
※八重波津身=事代主の子筋に・・−阿遅須枳高日子−鹽冶毘古能−初代神門臣家の速甕之建沢谷地乃身−甕主彦・・
※2八重波津身=事代主の子筋に・・−諏訪家の建御名方と登美(富)家
※3阿遅須枳高日子を櫛玉・出雲建子=伊勢津彦と南関東国造家が呼んでいるようで、鹽冶毘古能が長脛彦と言われて居たり、登美の姓なので、向家筋なのか不明。
神門臣家の子筋に・・阿多=木花知流比売−出雲(神門)振根−出雲(神門)伊賀曽熊−建部(武部)氏と出雲(神門)笠夜・・島津(志摩)国造家の島氏(斯摩宿禰)(志摩・司馬)[島族](古代南関東国造家の[三字以音]散自出雲)・母系神門臣家の武内宿禰。
※阿遅須枳高日子と宗像三女神の多岐理姫の子が鹽冶毘古能−神門臣家
※2阿遅須枳高日子の娘・・母系で鴨氏・三輪氏
向家・富家の子筋に・・飯入根。古代南関東国造家の[三字以音]散自出雲や蝦夷が居る。
※武内宿禰の父が、スサノオ(ニギハヤヒ・火明)と紀国造家の姫・山下影日売とあるが、実際は、五十猛と紀国造の母が、神門臣家の大屋姫との子なので、末代が蘇我を名乗ったようだ。
クナト大神から大国主・神門臣家と事代主・向家の分岐した代の共通の親神が・・布葉之文字巧為
神門臣家と宗像家の分岐した代の共通の親神が・・八束水臣津野
事代主=八重波津身の向家の旧家伝の系譜では、物部家・・海部家も神門臣家の分家と成っている。
>>106 母系で・・男系は、スサノオ=ニギハヤヒとニギハヤヒの子、五十猛の子。
八千矛=大国主の代に徐福(スサノオ)=ニギハヤヒが渡来し、部下が天皇家名代として穂日、天若日子が八千矛の出雲(出芽)に参事。
武力ではなく、対話姻戚で和解。
15代経て崇神天皇の時代・・出雲(神門)振根の代で、穂日の一族がニギハヤヒ軍を引き連れて、西出雲を攻撃。
西出雲地域・杵築大社を乗っ取る。
この長き期間の出来事を、国譲りとしている。
神武天皇が架空でなけねば
甕主彦の代辺りが、神武天皇兄弟の東征の時代に当たるようだ。
>>110もとい
神武天皇が架空でなければ
甕主彦の代辺りが、神武天皇兄弟の東征の時代に当たるようだ。