>>233 >「〜が浄土に行った」なんてどうやって証明するの?
今、柔道界にいるという人は少なくない。生まれながらに柔道界にいたという人はいない。今、
柔道界にいる人は、全て柔道界の外から柔道界に行った人だ。
「彼等は柔道界に行ったなんて、どうやって証明するんだろうね?」「え?!。何言っている
んだ?見て分かんないのか?。(笑)」
芸能界にいるひとという人は少なくない。生まれながらに芸能界にいたという人はいない。今、
芸能界にいる人は、全て芸能界の外から芸能界に行った人だ。
「芸能界に行ったなんて、彼等はどうやって証明するんだろうね?」
「え?!。何言っているんだ?見て分かんないのか。(笑)」
極楽浄土とは何か。浄土に行ったという問題は、極楽浄土とは何かということから考える必要
がある。
親鸞の極楽浄土、大無量寿経の極楽浄土、阿弥陀経の極楽浄土、観無量寿経の極楽浄土、全て
概念が違うようだ。各経典にはそれぞれ著者がいる。経典の極楽浄土は、それぞれ経典の著者の
極楽浄土観をもって描かれている。大無量寿経の場合、梵文と漢文とでも違うようだ。梵文は梵
文著者の極楽浄土観、漢文は漢訳者の極楽浄土観をもっている。
僕はそれぞれについていま説明している余裕はない。経典毎の極楽浄土の相違に関する議論は、
僕は説明することなく自分の墓の中に抱えたまま持ち込み、闇の中に葬ることになるんだろう。
極楽浄土はそれぞれ異なる。いまここでは、親鸞の極楽浄土観に基づいて往生を説明すれば足
りるだろう。
善信は、念仏往生の機は体失せずして往生をとぐという。 〜 善恵房の体失してこそ往生は
とぐれと、たてらるるも、また、やがて、さぞと、おおせあり。(口伝抄)