【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン67【御同行】

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546渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
 善光寺は弔い寺院だった。弔いが唯一の目的だったとは思わないが、少なくとも鎌倉幕府の庇
護を受けたということは、弔いは重要な柱だったと思う。源平の合戦で多くの兵士が死んだ。源
氏が平氏に勝利し、全国の武士団を統合してからも、源氏内部では凄惨な殺し合いが続いていた。
善光寺は日本最古の寺院の一つであり、木曽は源氏の中心地の一つだった。
 鎌倉時代の弔いとはどんなものか。現代の我々が考えるような弔い方法とは全く違うようだ。
現代で云えば、むしろ直葬そのものであるとも思える。親鸞の最後を見てみる。 

 聖人弘長二歳 壬戌 仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。自爾以来、口に世事を
まじえず、ただ仏恩の深きことを述ぶ。声に余言を表さず、専ら称名断ゆることなし。しこうし
て同第八日午時、頭北面西右脇に臥し給いて、ついに念仏の息たえましましおわりぬ。時に、頽
齢九旬に満ちたまう。 〜 洛陽東山の西の麓、鳥部野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる。遺
骨を拾いて、同山の麓、鳥部野の北、大谷にこれを納め奉りおわりぬ。しかるに、終焉にあう門
弟、勧化をうけし老若、おのおの在住のいにしえをおもい、滅後のいまを悲みて、恋慕涕泣せず
ということなし。      (御伝抄)

 あっけないほど簡単だ。九十歳の時のある日、寝ていたら念仏の息がしなくなった。京都東山
の西の麓、延仁寺で葬儀を行い、遺骨を拾って大谷に納めた。門弟達は大いに泣いた。
 正明伝によれば、そのころ親鸞は、弟の尋有僧都の坊舎に住んでいた。たまたま顕智が上京し
ていたようで、死ぬ直前には盛んに念仏を称えていたという。火葬には三日かかったようだ。数
人の弟子達が骨を拾ったという。

 御棺は印信と専信とこれをかつぐ。顕智以下の弟子は五条袈裟を著し、草鞋にて御棺の前後に
従う。尋有僧都も送り申されけり。 〜 鳥部野の南、延仁寺と云う所に送りて火葬し奉る。三
日に至りて、顕智、専信、印尋、尋有、そのほか給仕の門人等葬所にまいり、遺骨を拾うに、二
骨二十粒に余れり。(正明伝)