【比叡山】明王堂【無動寺谷】その5

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122名無しさん@京都板じゃないよ
>>121
その言い方だと、まるで山が悪くて、山の都合のために本人が我慢し
取り繕っているかのように聞こえるけど、どうなんだろうか?
確かに「比叡山」の組織の中に在ってこそ「阿闍梨様」だし、「行」が行として
認められ、多くの信者も集まる。
天台宗にとっては大きな看板の一つでもある。
その意味で大きな責任も感じているだろうし、ご本人なりの自負心もあろうかと
思う。
しかし、そんな組織都合以前に「一行者」であるべきではないだろうか。
自身を育ててくれた行門への御恩や、山の組織に遠慮するあまりに自身の心を
偽っているとすれば、無動寺信仰の頂点として適格であろうか。
頂点にある者は、一般信仰者とは比較にならない孤独と崇高な厳しさで、自身を
律して行くべきであろう。果たしてそれが出来ているであろうか。
私はその事に涙を覚える。

行者は世間都合の物差しなどに流されてはならない。
あくまで、お不動様と信仰者の仲を取り持つ仲介役の「行者」として、謙虚に
ひた向きに、偽りのない道を行じてゆくべきだと思う。

「これでよし」と思っているのか、「偽りの心と負い目」を感じておいでか、
ご本人の胸の内は分らないが、結局は行者自身の判断でしかない。
行者として、お不動様や回峰の祖師や多くの先師に恥ずかしくない道を
歩むのは行者自身である。それが「行者の資質」であろうと思う。
山には山の立場や都合もあろうが、先ずは何より「行者自身」の問題では
ないだろうか。