>>517 489
神仏が人に対して「試し」をする事があるとは以前から聞き知ってはいましたが・・・
でも、イザその段となるとキツイですワ!
より具体的に説明したくれた行者さんは、それを「ごしゅけん」と云っていましたが、
行者として神仏を信仰し、神仏と深く繋がるようになってもその「試し」はあるそうです。
神仏によっても個々にその性格も異なるので、その「試し」の厳しさや内容もマチマチかと
思いますが、神仏を見たり、その声を聞けるようになってもそれが無くなる事は無いようです。
「行」が進んでも、進めば進んだなりにまたその「お試し」のレベルも複雑に高いものとなり、
その人の弱い所を意外な形で試されるそうです。
行者としてそれなりの「験」を発揮し、信者が増えてそれなりに安定しているかのように見え
ても、「それでもお前は、行者として揺ぎ無い心で行者道を歩めるか?」と云うような意味での
「試し」だと思います。
トラが我が子を谷底に落とす喩がありますが、神仏が人を育てる為の一環で、容赦ない
「試し」は人にとって辛く苦しい時間でもありますが、それも神仏の温かい愛なのでしょう。
この世での一日一日が修行と思えば、「試し」もまた当然と云えば当然かもしれません。
会社のような職場であっても与えられた仕事の一つひとつに相応の成果が求められ、
上司や会社は常にその評価をしている訳ですから、職場にあっても「試し」と云えば
試しでもあります。