四国拝み屋兼心理学者 中村雅彦

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490桃 ◆ZmRF.Nvm7PCv
クリスチャンでもないのに、クリスマスを祝う。
(子供がサンタさんのプレゼントを楽しみにしたりケーキは論外)
それは、神仏を否定しながら、困った時の神頼みとして肯定する行為と同じである。
ご都合主義で物事を考えられるのは傲慢でしかない。
豚に真珠というように、そのものの価値や意味を知ることの無いものには、良い果は現れない。
信じる念いが力となって現象されてきても、その現象に振り回されてしまうことは無いが、
信じることも無く、または、曖昧のまま念じていれば、曖昧が現象となって、
その現象に振り回されてしまう。
いるともいないとも知れないものを念い、その都合によって現象されて、
神が仏が現れてきたとなっていき、そして、架空なものに惑わされていく。
心が騙されてしまう(念い込む)為の現象である。
本人は、催眠が解かれない限り気がつかない。
育つところが違えば環境も違い、思いも違ったものとなるが、我が神仏が一番正しいとなる。
そして、我が神仏こそとして、他を批判する。
我が神仏を冒涜するものは悪であり、悪は成敗しなければならないと肯定し、
我が神仏を守る為の戦いとなって、聖戦となって争いが肯定されていく。
善いものが悪い、悪いものが善いとなってしまい、善悪顛倒したものとなって、
崩壊の道をひた走る。