日本の坊主が戒律を守らないのはなぜ? 3

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33名無しさん@京都板じゃないよ
>>31
「托鉢」「乞食」「布施」等が、なぜ成立すると思う?
それは、《僧侶(比丘)が「公人」としての性格を持つから》だよ。
(原始及び初期)仏教に於いて、
なぜ「律(vinaya)・学処(shikkhApada)」が制定されたか、なぜ、慧とともに戒(sIla)が重要視されるのか。
自らの心身の調整は勿論としても、そこに『対外的要素』、つまり『どう見えるか』『どう評価されるか』が付随するからだ。
対外的評価が高ければ、受ける「尊敬」も高いものとなるし、「庇護・養生」(→布施・供養)という受益(=功徳)に繋がる。
それはそのまま、自身が所属する共同体(=サンガ)への評価と、相応の受益を増すことになる。
そして、教義面(おしえ)について言えば、その「おしえ」自体の評価ともリンクするし、
曳いては、開祖たる釈尊の評価とも連なっている。
「彼らが説き、或いは実践する“おしえ”は、信頼に足るものであろう」と・・。
後に続く者の出現を誘うものとなる。
勿論、逆の場合は言わずもがなだろう。

比丘の言動に関して、半ば定型句の如きフレーズがある。
「未信者に信を生じせしめ、既信者に信を増大せしめるものである」と。

比丘(僧侶)たちは、「おしえ」と「同朋」と、そして「釈尊その人」を背負っているんだよ。

ここに於いて、「私人」であるなどと宣言する者に衣を着る資格なぞない。
そのような「私人」は、「欲望のままに、我に従って生きる」ということでしかない。