日本の坊主が戒律を守らないのはなぜ? 2

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「世俗化した仏教」と上座部等現行持律の系譜及び初期の伝統的仏教に於ける
「比丘」(僧侶)との対比を譬えれば、
極度に【純化された】《最終形態としての(=理想形としての)姿・在り方》を
「見本」「【モデルケース】」として、『どう提示するか』ということだ。

たとえば車や飛行機等であれば、、
・『実物大で、そのままのサンプルとして、(実際に走行、飛行するものとして)』提示されているのか、
・『図解付の説明書として』提示されるのか(或いは『文章説明のみのものとして』提示されるのか)、
という対比となろう。勿論、その間には
・『模型、簡略化された機能付のサンプルとして』提示されるのか、
・『模型としてのみ』提示されるのか、
というバリエーションを挟むこともできる。
が、いずれにしろ、そうした【《提示のされ方》の差異・相違である】と言うことができる。
どれがどう、という優劣を、(二諦を積極的に評価するならば)画一的につけることは拙速に過ぎるとしても、
 *(たとえば、部屋の中で実物大の車や飛行機の実演が不可能なように)、
  説明書でしか示し得ないケースもあり得る。日本仏教ならば、
  「歴史性」と「社会的環境」という制限によっているように・・。
  ダライ・ラマはそれが解っているから、多様な仏教の在り方を認めているのだろう。)