1 :
無:
両頭共に坐断して八面清風起こる。
六根開放せよ。
意識が意識自体であるとき、汝は法性そのものである。
2 :
たろすけ ◆JRCMycYHTZw5 :2010/09/13(月) 06:02:49
よ し 。
3 :
たろすけ ◆JRCMycYHTZw5 :2010/09/13(月) 06:27:40
よきものを伴いて、われらがために、ウシャスよ、輝き渡れ、 天の娘よ、
高き光彩を伴いて、 輝く女神よ、富を伴いて、女神よ、賜物に満ち満ちて
ウシャスは常に輝きぬ、今また更に輝かん、車両を躍動せしむる女神は。
それらは、ウシャスの到来を待ちもうけたり、名声を求むる者が、海の船出を待つごとく。
4 :
たろすけ ◆JRCMycYHTZw5 :2010/09/13(月) 06:34:46
>3は誤爆です。
寝ぼけてました、すみませんw
5 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/09/13(月) 08:34:00
座禅もいいけど立禅もね。
6 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/09/16(木) 09:06:52
参考になるかな。
141 :神も仏も名無しさん:2010/09/10(金) 14:08:21 ID:ypHY7kLa
井上義衍老師
坐禅をするときは、自己を中心として坐禅をしてはならんのです。
それを本当にやめて、六根を開放して、六根の作用がどうあろうとも一切かまわずに、
一々の、その時その時の作用のままに、煩悩らしい作用が起きようと立派そうなのが起きようと放っておくことです。
その生じたり滅したりするそれ自体が、あなたの手つかずの真相なんです。
それですから安心して、ただ、そういうような働きの真相のそのままに注意していてご覧なさい。
そうすると本当に何にもないところから生じながら、直にそれと離れて、その事実が自分に完全に備わっていることが手に入るんです。
・・・・
ほかに云うこともやることもない。只、今の消息だけです。
それだから、もう方法も手段も尽きて尽き果てた、今の自分の様子だけでいいじゃないか。
それで初めて「本源自性天真仏」としての自分が、そこへ転がり出ておる。
それにお目にかかってくればいい、それだけじゃ。
それは、意識のなかに自己を忘ずることであって、意識をなくする事ではない。
意識自体が純意識体自身であるとき、自体が自体を知ることはできない。
主体が主体を知ることもできぬところに、意識の主体すらも消滅する。
眼が眼を見ることができぬ様に。
この確実かつ純粋なる道に徹するとき、無明は断絶する。
それは、識自体が識以前の純然たる法体性の事実に証せられて、
意識の及び難きものなることを正しく得たとき、
この生活自体が法身であることを自得するからである。
このとき、疑いようも信じようもない。
その必要も全くなく、その欲求すらも起こらないものである。
8 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/09/24(金) 21:04:17
坐禅
9 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/09/25(土) 13:09:05
10 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/09/27(月) 10:16:42
11 :
名無しさん@京都板じゃないよ:
悟りってどんな感じですか?