なければ作りましょう。
いまや天皇はどこからどう見ても現人神ではありません。
日本は神の国といいながら、空襲をこうむり、敗戦の憂き目に遭ったことは、
まさに天皇に神通力がないことを意味します。
ある意味、邪神でしょう。
我々は、本来の日本精神に立ち返り、天皇との縁を切った神道系宗教を作成するべきです。
ただの有力豪族が日本を代表する家系になったという偶然で、神々がそれに従うことはおかしなことです。
再び国家が神社を戦争に利用しないようにしましょう。
朝鮮神道を造るのですね
4 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/16(火) 21:16:27
祭祀の上では、天皇陛下は今も昔もそのまた太古からも何も変わらず日本国大祭主さま。明御神さまにあらしゃいます。
天津日嗣知食皇御孫命(あまつひつぎしろしめすすめみまごのミコト)さま。
又は、天津日嗣知食皇命(あまつひつぎしろしめすスメラミコト)
5 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/16(火) 21:17:17
天コロ教を創設しよう
6 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/16(火) 21:52:56
凄い妄想馬鹿が出てきたな!おまえ日本人じゃないだろ!
この日本国は天皇陛下を長に戴く神の国だ!
>>1-2 --いまや天皇はどこからどう見ても現人神ではありません。
昭和21年1月1日の人間宣言で現人神であることは否定していて語る必要のないことです。
問題は天照大神の末裔であることを否定していないことだ。
--日本は神の国といいながら、空襲をこうむり、敗戦の憂き目に遭ったことは、
--まさに天皇に神通力がないことを意味します。
真の神というのはこの世の全ての存在に公平であるのではないですか?
すなわち空襲を受ける側と空襲を起す側にも公平だと思わないのですか?
真の神というのはただ見ているだけでいらっしゃるというだけで良いのではないですか?
特定の民族に恩恵を与えるのは神ではなく霊だと思いますね。
--本来の日本精神に立ち返り、天皇との縁を切った神道系宗教を作成するべきです。
本来の日本というのはどういう意味でしょうか?日本という国は大化の改新以後に天武天皇の時代に作られたもので
日本精神に立ち返るというのは律令制度からやり直すということですか?
--ただの有力豪族が日本を代表する家系になったという偶然で
ただの有力豪族という点だけは同意しますが、偶然ではなく相当な知恵と努力と度胸と根性と非情な精神で代表する家系になったと思いますよ。
--再び国家が神社を戦争に利用しないようにしましょう。
駄スレ建てて鯖に負担をかけて皆に迷惑をかけないようにしましょう。
何を言いたいのか判らないのだけど少し知識をつけてからですよ。
8 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/16(火) 23:31:08
ネタニマジレス(・∀・)カコワルイ!!
【日本人が混同する2つの「神道」その1】
ここであらためて指摘しておきたいことがある。それは、「アマテラスから天皇家へと繋がる神道」が、
太古からある日本固有の宗教観だと思うのは大きな間違い、ということである。
もちろん、縄文時代以来続いた日本列島固有の宗教観はあったに違いない。この宗教観に、大陸や半島から
新たな思想や風習が入り込み、日本人の信仰祖形=「民俗宗教としての神道」が形成されていったのである。
かたや、アマテラスから天皇家へとつながる神道は、あくまで八世紀の朝廷によって構築されたものである。
これは「天皇家の正統性を訴えるための神道」であり、民族宗教としての神道とは区別して考えるべきものである。
【日本人が混同する2つの「神道」その2】
日本人の信仰といえば真っ先に思い浮かぶのは「神道」であろう。だが、八世紀の段階で
「神道」という言葉自体が、それほど一般的だったわけではない。「日本書紀」の中で、「仏教」に対する
日本的な信仰として「神道」の二文字が現れるにすぎない。
これはむしろ当然のことで、アニミズム、多神教世界にどっぷり浸かっていた日本人の太古の信仰形態を
「こういうものだ」とひとくくりにすることは困難を極める。
多神教やアニミズムは、ありとあらゆるものに神は宿るという発想なのだから、人それぞれに、「神」の観念が異なる。
それぞれの地域ごとに、思い思いの信仰が存在していたのである。
その一方で「神道」の萌芽は、三世紀のヤマト建国に求められる。前方後円墳が各地に伝播し、統一された
埋葬文化を共有することによって、ゆるやかな連合体が完成したのである。政治を「まつりごと」と言い習わして
いた時代、各地域が持つ宗教観の「調整作業」こそ、「神道」の誕生といえるのである。
その神道にひとつの画期が訪れたのは、八世紀の「日本書紀」の編纂であろう。この中で神話がまとめられ、
ヤマトを代表する神は、天皇家の祖神で太陽神の天照大神と「定められた」からである。
つまり我々が「日本人の信仰」と信じてやまない「神道」とは、「八世紀の権力者が、政権に都合のいいように改変した、
人民統治のための方便としての宗教観」とみなすことが可能なのである。
【日本人が混同する2つの「神道」その3】
天武の死後、女帝・持統天皇の出現によって「親蘇我派」の天武政権はいつの間にか
「親藤原(反蘇我派)」天智政権にすり替わっていた。
この「静かな大政変」を如実に物語っているのが、藤原不比人が編纂に大いに関わった「日本書紀」の神話である。
神話の中で、本来なら男神であるはずの太陽神が、女神にすり替わっていた。
これは「女神=天照から始まる王家の正統性」を証明するための捏造記事であった疑いが強い。
つまり、天武から始まった新たな王朝は、持統が政権の舵取りを担った段階で「持統の王家」に入れ替わっていたのであり、
その正統性を、持統-不比人ラインが、神話に遡ってまで既成事実化しようとしたのが「日本書紀」編纂の意図なのである。
「古代神道と天皇家の謎」 関祐二
【日本神話】(wikipediaより)
「高天原神話」に登場するおもな神々はヤマト王権ひいては現在の天皇家の祖先に当たると記述されている。
これは、ヤマト王権の拡大にともない、各地方土着の神に対する崇敬を天皇に対するものに転化させ、
初穂献上としての租税の徴収を容易にするためと推察されているが、
そのため、時代により時の権力者に都合の良い解釈がなされたり改変が加えられたりした経緯がある。
例えば、記紀の編纂自体に同時代の天武・持統朝の影響や朝廷・藤原氏などの恣意が加わった可能性が指摘されており
明治以降は、国民に対し国家の正統性を喧伝するプロパガンダとして国家権力によっても利用された(皇国史観)。
明治以降は皇国史観によって日本神話の記述が神聖視され、神話研究はそれ以前よりも後退することとなった。
大正時代に津田左右吉が『神代史の新しい研究』ほかを発表し、
日本神話に科学的な観点から批評をおこない、神代記は政治的な意図で作られた創作であると結論づけた。
第二次世界大戦前は不敬罪として弾圧されたが、戦後になって注目され、しばらくの間、津田の説が日本神話研究の中心となった。
現在では津田説が細部まで正しいとは必ずしも考えられてはいないが、
日本神話を考古学などの証拠なく弥生・古墳時代の史的事実の反映と考える説は基本的に退けられている。
今日では意図的な改変や創作がかなり加えられてはいるが、そのようなものの見方をする古代の人たちがいたことに注目する
文化的背景を考察する考え方が主流となっている。
【古事記と日本書紀の隠された目的】
ところで、両書の前半部分では、神々が活躍する日本神話が詳しく語られる。これ自体は朝廷の創作ではなく、
古来からの伝承を収集して収録したものだと考えられる。
ただ、興味深いことに、日本神話は東南アジアの神話を骨格とし、中国、朝鮮、南太平洋、なんとギリシャ神話の影響も
見られるという。両書では、そんな数々の神話が無理なく天皇家へつながるよう改ざんされている。
つまり、これによって、天皇家は神聖性を帯び、国民支配の正統性が主張できるのである。天武天皇の史書編纂の
狙いは、まさにここにあったと言える。
「スーパービジュアル版 早わかり日本史(日本実業出版社)」 河合敦 編
伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は、一見すれば祭政一致という
古代的風貌をもっているが、そのじつ、あらたに樹立されるべき近代的国家体制の
担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序に
むけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。
そして、それは、復古という幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態から
みれば、なんらの復古でも伝統的なものでもなく、民衆の精神生活への尊大な無理解
のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であった。
「神々の明治維新ー神仏分離と廃仏毀釈ー」安丸良夫著 岩波新書
「国家と宗教 宗教から見る近現代日本 上巻」
神道はわが国固有のアニミズム的、シャーマニズム的な自然発生的宗教であったが、仏教が移入されると当然の結果として神仏習合が進み、
特に平安期に生まれた本地垂迹説がひろく受け入れられて、神はその本地である仏が顕現したものであると信じられるようになっていた。
幕末には神社は存続していても、それは仏教の一部であったのであり、独立した神道という宗教は存在していなかった。
その意味では儒仏以前の純粋神道を構想した復古神道、国学運動は、当時は一部の人々が信じる新宗教に過ぎなかったのであるが、
これが国家権力と結び付いたので、千年に及ぶ日本宗教の伝統に大変革がもたらされることになった。
祭政一致のためには、復古神道の理念に合致する神社を新たに創出する必要があり、世に廃仏毀釈といわれた過激な方法で、神社から仏教色を一掃したのである。
平将門を祭る神社はどうなってるんだろう。
>>1 >>2 「江戸幕府初代将軍である徳川家康が、東照大権現という神号をもち日光東照宮にまつられていることは、
日本人の常識である。『権現様』『神君』『東照宮』と称されて、徳川将軍家、旗本、譜代大名、さらには
外様大名まで、カリスマとしてその精神的な拠り所、精神的支柱として重要なイデオロギー面での役割を
果たし続けた。だが、東照大権現の神号をおくり、神としてまつったのは、将軍ではなく天皇であった。
将軍には絶対まねのできない機能なのである。
そして、神格を与えられた家康をまつる神社は、当初は日光東照社であったが、それに一段高い格を
与えて日光東照宮としたのも、幕府が勝手にやったのではなく、天皇であった。徳川家康を神にまつり、
その社に宮号をおくったのは天皇なのである。天皇なしに日光東照宮も東照大権現もこの世になかった。」
藤田覚(東京大学文学部教授)「幕末の天皇」(講談社選書メチエ)
【神仏分離のもたらしたものは神道の「純化」だったのか?それとも・・・その1】
明治のはじめに、次々と発布された布告の中でも、とりわけ目を引くのは神道の地位に関わるものである。そこでは、近代の国際世界の
中に形成されるべき、新しい日本の国家体制(国体)の原理を表現するものとして、唯一神道をひとつの国体神学の地位にまで
高めようとする異様なまでに高揚した意識が見て取れる。(中略)
彼らはまず神道の「純化」するために、神仏分離を布告する。一見すると、民族宗教である神道から仏教の影響を除去し、神道を
「純粋なもの」に戻すことのように思える。しかし、「純粋な神道」がどのようなものであるかは、本当のところは、よく分からない。
もしも、それが、古代日本人の「原神道」をさすものだとすると、「分離作業」は、ほとんど不可能なくらい困難だろう。
そこでは「原神道」と仏教のある部分は、本質的な結合を果たしてしまっている。したがって、「分離」は「純化」ではなく、実際には
「破壊」しかもたらさないだろう、と思われるからである。
「森のバロック」 中沢新一 (講談社学術文庫)
【神仏分離のもたらしたものは神道の「純化」だったのか?それとも・・・その2】
しかし、このときの明治のイデオローグの指導原理となったのは、いわゆる「原神道」ではなく、江戸時代の水戸学や後期国学に由来する
国体神学だった。ここには、一定の「神々の体系」が、確立されていた。それはおもに、記紀神話や延喜式神名帳に記載されることに
よって権威づけされた神々からだけなる、ひとつの統一された体系だった。したがって、神道の「純化」と言っても、実際にはそれは、
国体神学によって、長い間日本人の精神構造を形作ってきた神仏の世界を引き裂き、強引な選別と排除を行うという行為だったのである。
その意味でも、見かけ上の「古代主義」にも関わらず、明治の宗教政策の真相は言うまでもなく「権力の近代化」だった。(中略)
急激に権力構造を近代化するために一番有効な方法は、社会と人々の精神構造を、常に理解の及ぶような形に作り変えておくことである。
人々の信仰の領域を、あらかじめ「登録ずみ」の神々だけで構成された、体系の世界につくりかえてしまう。そうしておけば、
人々の精神に、いっせいに強力な方向づけが必要な時に、絶大な効果を発揮することが可能になる。
神と仏が分離されるだけで、日本人のメンタリティには、この時、引き返しのできないほど大きなダメージがもたらされたのである。
「森のバロック」 中沢新一 (講談社学術文庫)
20 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/02/18(木) 01:14:21
神と仏は違うものなのに一緒にしたのがそもそも変だね!
分離するのが正しいよ!
宗教なんて所詮嘘なんだから立証責任を宗教側に持たせて嘘か真実かを突き詰めないと何時までも騙される人が減らないね!
お金を掛けずに趣味で信仰する分には問題は無いけど、圧力団体見たく成ったり、お金を取られるように成ったり被害が出たら困るよね!
法律で監視して欲しいね!
課税も忘れずにして欲しいよ!
【「関西で神仏習合 広がれ多極共存の波動」国際日本文化研究センター所長 山折哲雄 (北海道新聞 平成17年1月9日)】その1
今、京都を中心に関西圏で、神職と僧侶が手を携え、神仏習合の伝統儀式を復興しようと動きが始まっている。
明治の改革以降百三十年続いた「神仏分離」の時代を反省し、それ以前の神仏信仰の歴史を見直そうというわけである。
周知のように、明治のはじめに神仏分離令が発せられ、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。この「上からの宗教改革」によって神の領域と仏の領域が切り離され、
儀礼も分断されることになった。信仰の内面が一刀両断のもとに断ち割られたのである。その後遺症はいろんなところに及んだが、なかでも癒し難い傷を残したのが、
われわれ自身のアイデンティティーに対してだったのではないだろうか。それは、その後、定めなき漂流をはじめた。ことは何も宗教界だけの問題ではなかった。
それはきわめて自然な形で、学問の世界にまで影響のつめ跡を残したからだ。まず帝国大学における仏教学はインド哲学のなかに位置づけられ、
神道学とのあいだに研究上の障壁が設けられるようになった。アカデミックな世界においても神仏分離の路線がしかれ、やがてその縄張り意識が肥大化していく。
それだけではない。この学問世界における神仏分離の流れは、私立の大学における宗教研究の岸辺をも洗うようになった。仏教系の私立大学は仏教の学問のみ、
神道系の私立大学も神道の研究のみ、という分業体制がいつのまにかできあがった。それで、今日まで百三十年である。
思えば自己倒錯の長い道のりを飽きもせず歩いてきたものだと、つい嘆息がでる。
【「関西で神仏習合 広がれ多極共存の波動」国際日本文化研究センター所長 山折哲雄 (北海道新聞 平成17年1月9日)】その2
ただ、そのような状況のなかで唯一の救いは、民間では上からの宗教改革をまともに受け入れることがなかったということだ。表面上はお上のいうことに従いながら、
神仏習合の信心を手放さなかった。首をすくめて神社にお詣りし、墓参りのためお寺に出かけることをやめなかった。
神の社のかたわらに観音や地蔵を祀り、寺の境内に神々の祠を祀ることを忘れなかったのである。
このような自己矛盾の罠からどのようにして脱出するか。百三十年続いてきた自己倒錯の道をどのようにして乗り越えるか。そんな問題意識から、
一昨年、京都で「古都の森・観光文化協会」というのが作られた。神道界と仏教界が手を結び、学会も参画してわが国の神仏習合の歴史を見直そうという企てである。
かつての神仏共存の儀礼を調査、発掘して、その再現をはかろうという趣旨だ。
【「関西で神仏習合 広がれ多極共存の波動」国際日本文化研究センター所長 山折哲雄 (北海道新聞 平成17年1月9日)】その3
昨年の十月三日のことだった。京都の石清水八幡宮で放生大会がおこなわれた。八六三年(貞観五年)に創始されたといわれる古式である。
応仁の乱で中絶していたが、徳川時代になって再興されている。もともと神仏共存のもとに営まれていたが、さきにふれたように明治の分離令によって廃絶されていた。
それを今回、古記録にもとづいて復活させようということになった。放生会というのは仏教に由来し、魚鳥を放つ法会として発達してきた。
それが古く八幡信仰とも結びつけられ、民衆の神仏信仰とともに長い歴史を刻んできた。当日は比叡山天台宗の渡辺恵進座主を導師として八幡宮に迎え、
京都南郊、石清水八幡宮の田中恆清宮司が斎主となって、平安時代以来の伝統をもつ大法会が営まれたのである。八幡宮の脇を流れる放生川には魚が放たれた。
和泉流の和泉元弥氏による狂言が奉納され、禰宜以下の神職と天台宗の衆僧の参加による盛儀が、青空のもと厳かに展開されたのである。
今日、日本の社会は東京一極集中の様相を呈しているが、それが私には「靖国」一極集中の政治風景とも重なってみえる。
これに対して関西は、神仏の世界で多極共存の道を歩みはじめているといっていいのではあるまいか。
新年にあたり、この関西の波動が関東をはじめ全国の各地に及んでいくことを願わずにはいられない。
>>20 >課税も忘れずにしてほしいよ!
その通りだね!
【宗教法人「明治神宮」が1億円申告漏れ、飲食費を別費目から捻出】
宗教法人「明治神宮」(東京都渋谷区)が東京国税局の税務調査を受け、平成18年12月期までの5年間で約1億円の申告漏れを指摘されていたことが10日、分かった。一部は領収
書などの裏付けのない職員らの飲食費などに充てられており、国税局はこの部分を所得隠しと認定した。明治神宮は修正申告に応じ、産経新聞の取材に「国税局との見解の相違
があった。現在は適正に申告している」としている。
関係者によると、申告漏れのうち大半は収益事業の売り上げの計上時期の誤りなどだった が、一部ほかの費目で捻出(ねんしゅつ)された金が神社幹部や職員の飲食費や懇親会
費などに充てられており、こうした使い道については国税局は悪質な所得隠しにあたると認定した。
税務調査は、宗教法人の税務調査を担当する国税局の課税2部資料調査課が担当した。 国税庁は宗教法人に対する税務調査を強化しており、その一環とみられる。
宗教法人は祭祀(さいし)や宗教行為といった事業は公益性などを理由に非課税とされて
いる。しかし、敷地を使った土産物店経営などの収益事業には法人税が賦課される。ただし
税率は22%で一般的な法人(30%)よりも優遇されている。
約70万平方メートルの敷地を持つ明治神宮には、本殿のほか、神楽殿、宝物殿、至誠館が ある。レストランやカフェを運営する明治記念館、明治神宮野球場やテニスコート、フット
サルコートなどを運営する明治神宮外苑がグループ法人になっている。
明治神宮は全国の初詣の参拝客がたびたび日本一となっており、女優の真矢みきさん、 沢尻エリカさん、神田うのさん、鈴木紗理奈さんら有名芸能人が相次いで挙式を行ったこと でも知られる。
MSN産経ニュース(2009.12.11 01:32)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/091211/crm0912110133000-n1.htm
25 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/18(木) 09:45:03
>国税局は悪質な所得隠しにあたると認定した。
国は脱税神宮から宗教法人格を剥奪しろや!!
26 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/02/18(木) 17:58:53
明治神宮が脱税してるなんてね!
それも一億円なんてね!
儲かってるんだね!
27 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/02/18(木) 18:05:36
仏教的には神仏分離して正しいお釈迦様の教えに戻したくは無いのかな?
葬式仏教のままの方が儲かるし、神様の方も利用したいのかな?
日本の文化がどうとか言ってるけど正しくない教えの方に問題があるよね?
仏教もお釈迦様の正しい教えに戻しましょう!
28 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/18(木) 18:12:56
【「神仏習合へ高まる気運」天台宗妙法院門跡・菅原信海 中外日報 平成16年11月16日号 】その1
『神仏習合の気運が、最近高まりつつある。明治政府による神仏分離令以来、神と仏とは区別されてしまった。
しかし明治以前のわが国の仏教は神仏習合であって、神と仏とが共存していたのである。その共存の姿へと、もどりつつある。
一昨年11月7日、清水寺と石清水八幡宮との間に、神仏習合の行事が行なわれた。清水寺の奥之院本尊千手観世音菩薩像の前で行なわれた国家安泰世界平和祈願に、
石清水八幡宮から運んできた神水と清水寺音羽の滝の清水とを仏前に供えた器に同時に注ぎ込むという儀式であった。
日本の仏教と神道との間に通じ合った水脈が、ここに再び蘇ったのである。
このように神と仏との関係は、急速に近づきつつある。天台宗でも、日吉大宮社において昔から山王礼拝講が修せられていて、
毎年5月26日に山王権現の法楽として法華八講論議の法儀が、いまも続いている。
また宇佐八幡宮本殿においても、法華八講を修する昔からの行事がある。その一方で、神仏習合への回帰が模索されてきた。
29 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/18(木) 18:14:23
【「神仏習合へ高まる気運」天台宗妙法院門跡・菅原信海 その2
京都長岡天満宮で、平成五年に百年ぶりに復活した放生会に、今年8月25日に、西山浄土宗の柳谷観音楊谷寺が参加し、神仏合同法要として勤修された。
放生会は、禽獣や魚の生き物からうける恵みに感謝し、捕らえた生き物を解き放つ行事で、慈悲の実践として「梵網経」や「金光明経」などの経典に説かれている。
この放生会は、宇佐八幡宮でもいにしえから行なわれていて、それは大隈・日向両国での隼人の反乱を鎮定するために、八幡神がその戦いを支援し、勝利はしたものの、
多数の隼人を殺生したことの滅罪で、放生会を始めたといわれている。
この10月3日に修せられた石清水八幡宮の放生大会に、天台宗が参加して、神仏合同の儀式が行なわれた。京都を中心にして、神仏習合の行事が復活し始めている。
このような現象を、ただ明治以前の神仏習合へ回帰する行事としてとらえるのではなく、
日本の宗教史・文化史の上で、失われた宗教心や文化をとりもどすための大きな原動力になって欲しいと思っている。
明治の神仏分離によって、失われたのは貴重な文化財ばかりではない。とりかえしのつかないのは、日本人として祖先から受け継いだ宗教心も失われてしまったことである。
30 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/18(木) 18:17:21
【原始仏典の問題点】
原始仏典といでども、文字にされたのはかなり後代であり、それまでは口伝えの伝承でした。現代に伝わる貝葉などの写本は最古のものでも
1世紀をさかのぼることはできないそうです。お釈迦様の入滅から400〜500年経っているわけで、
その時代は部派仏教の教義も発展しあるいは展開しているでしょうし、その時代には初期大乗仏教も興起しています。
文字化されない丸暗記による口から口への伝承は意外と正確に行うことが可能なようです。しかし、どうしても教義の展開の影響を受けてしまいます。
また、パーリー語和訳などに用いられている原始仏典の底本のスリランカの写本は意外と新しいと聞き及びます。
そのような点から、最古層の原始仏典といえども、更にその最古層の部分を見極める必要もあります。同じ経典内でも古く成立した部分と、
後から付け加えられたものがあるのは他の仏教経典と同じです。
【原始仏教をどう私たちに活かすか】
私は現在の宗派仏教を捨てて、原始仏典ばかり読むのを勧めません。むしろ、それは私たちに向かないことでしょう。原始仏教はやはり、
古代インドにおける、出家による出家のための出家の仏教であります。
そして、原始仏典といえども、必ずしもお釈迦様の生の声による教えを網羅しえていないでしょう。
また、私たちは当時のインドとは、時代も、文化も、風土も、全く違う場所に住んでいます。
私たちにとっては現在の日本仏教がやはり足がかりとなります。しかし、その現在の宗派仏教も歴史の産物であり、展開と変遷を繰り返し、
あるいは煩瑣となり、あるいは土着の信仰や習俗と習合したものです。
31 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/18(木) 18:34:34
32 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/18(木) 18:48:20
私は脱税の神である明治大帝を崇敬していますが、私は確定申告に行きます。
>>27 >>30 仏教自体が、明治以降になって、欧米の近代的なインド哲学研究を
取り入れちゃってるからね。
江戸時代以前の神仏習合にこだわるなら、
天皇が、神道だけでなく仏教の頂点にも
立って、主要な寺院の僧職の任免とか、勅願寺の復活とかも
しないといけないってことになるなw
神仏分離の否定=天皇の仏教への支配の復活ってことになるはずなんだけど、
>>1はわかってないみたいねw
34 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/18(木) 18:56:22
夏たけて 池の蓮の花見つつ 仏の教へ 憶ふ朝かな
昭和天皇
35 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/18(木) 19:15:52
▼明治以降の「神道」は創り出されたもの
明治の「神仏分離」や「廃仏毀釈」は江戸時代後期から準備されていた。まず儒学者の仏教批判に始まり、仏教を排し復古神道を唱える国学者がこれを受け継いだ。
水戸藩と長州藩ではすでに天保期に「神仏分離」と「廃仏毀釈」が藩政改革として行なわれ、幕末には薩摩藩と津和野藩で実行されていた。
慶応四(1868)年三月十三日、有名な「五か条の誓文」発布の前日であるが、いわゆる「神仏分離令」が布告される。
宮中でも「神仏分離」と「廃仏毀釈」が展開される。ところが、その一年半前の孝明天皇の葬儀は僧侶によって執り行なわれ、泉湧寺に埋葬されていた。
皇霊祭儀が神式に改まるのは、明治元(1868)年十二月の孝明天皇三年祭(三周忌)からである。それまで天皇葬儀への仏教関与は、実に約千二百年にわたって続いた
(もっとも、玉体の火葬自体は1654年の後光明天皇のときから取り止めとなり、以後は儀礼的に火葬しての土葬に改定)。
宮中には長らく「お黒戸」(黒戸御所)と呼ばれた言わば「仏壇」があり、そこに仏像を安置し、歴代天皇や皇后の位牌が祭られていた。
これが排されたのはようやく明治四(1871)年のことで、やがて泉湧寺に移された。同時に泉湧寺からは寺内の天皇陵や皇族の墓所が没収され、宮内省に移管された。
また、仏教による玉体護持の「後七日御修法」や天台宗の「長日御修法」など宮中の仏教行事も廃された。
一方、神道神殿の整備がなされる。明治二(1869)年、神祇官に神殿が設けられた。かつて神祇官八神殿に奉斎され、
その後は神祇官家の白川・吉田家に祭られていた八神[注7]を神殿中央に招き、その西座に歴代の皇霊、東座には天神地祇を奉祀した。
やがて、天照大神を祭る宮中の「賢所」(かしこどころ)そばに神々は集められ、歴代の皇霊は「皇霊殿」に、八神と天神地祇は「神殿」に祭られ、宮中三殿として今に至っている。
同じ頃、伊勢神宮の改組も行なわれた。
36 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/18(木) 19:18:54
【古神道(という名の新宗教)】
江戸時代末期に古神道と称する思想や儀礼などが、尊皇攘夷思想や平田国学の隆盛と連動して世に出たものが多くあるが[4]、しかし、
当時の記録文書はなきに等しく、原始仏教と同様、実際には後世の資料などから、間接的に推理・類推される存在に過ぎないことが指摘されている。
明治時代以降は、仏教やキリスト教と同じ範疇の宗教ではなく、国家儀礼と位置付けられるようになった国家神道に対し、
宗教であることを色濃く打ち出したのが古神道であった[5]。この点は黒住教をはじめとする幕末期以降の教派神道と共通しており、
事実、教派神道系の教団には古神道を名乗るものが少なくない。
現在においては、新宗教で古神道を名乗る宗派も、上記記述の宗派の流れを受け継いだものであって、
「古神道」の名を冠した宗派は江戸時代以前には存在していない宗派もある。
伝統的な古神道では平田篤胤ほかが学頭を務めた皇室神道の伯家神道から受け継いた儀礼や行法がみられるが、この系統ではない出雲神道、巫部神道、九鬼神道、修験道に由来する行法や教団も存在する。
37 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/18(木) 19:23:23
【昭和現人神の起源】
「現人神」という表現の淵源を探るなら、奈良時代の歌人である柿本人麻呂朝臣の歌、
「すめろぎは かみにしませば あまくもの・・・」の頃より見らる。
とは言え、これが戦時中の「現人神」という思想と「=」とはとうてい言えない。
古来からの天皇は飽くまで「聖なる人」であり、「神のよう」ではあっても、
「神と同一の存在」という考え方はされていなかった。
それは、宮中祭祀などで、天皇は祭主つまり、最高位の神官という役柄を持っていた事からも理解される。
天皇は神を祀る側であり、祭られる側ではない。神官は神に仕える身であるから聖なのだという道理である。
これは幕末期の志士の書簡などをみても、自明の事だ。
彼らが書簡で使った帝の隠語『「タマ」を取った方が勝ち』などをみても、
彼等の天皇観の本音が垣間見えるだろう。つまり明治期にはまだ、
「現人神」などという「古語」は(一部の国学者以外には)認識されていなかった。
では、万葉集の頃に一箇所か二箇所垣間見られる「現人神」という言葉に目をつけ、
「天皇=神」という思想を喧伝するために一般に公伝され始めたのはいつなのか?
それは昭和になって発生した国体明徴運動の過程での事である。
文部省が編纂した 『国体の本義』では以下の如く明記される。
「天皇は皇祖皇宗の御心のまにまに我国を統治し給ふ現御神」
この国体明徴運動が一人歩きして、いわゆる「現人神思想」という考え方となる。
つまり昭和初期に、天皇の捉え方が暴走した結果が、万葉の時代の人よりも非科学的(オカルト的?)な
天皇観を押し付ける「昭和現人神」の誕生につながったといえるだろう。
「現人神の創作者たち」 山本七平
>>35 >▼明治以降の「神道」は創り出されたもの
> 明治の「神仏分離」や「廃仏毀釈」は江戸時代後期から準備されていた(ry
これ、いきなり一行目と二行目が矛盾してるよねw
タイトルを恣意的、印象操作的につけてるのがみえみえ。
文章全体の趣旨からすれば、タイトルは
▼明治以降の「神仏分離」は江戸時代から準備されつつあったもの
とでも言うべきところだw
【「明治神宮」が1億円脱税 飲食費を別費目から捻出 「悪質な所得隠し」と国税局】
宗教法人「明治神宮」(東京都渋谷区)が東京国税局の税務調査を受け、平成18年12月期までの5年間で約1億円の申告漏れを指摘されていたことが10日、分かった。
一部は領収書などの裏付けのない職員らの飲食費などに充てられており、国税局はこの部分を所得隠しと認定した。
明治神宮は修正申告に応じ、産経新聞の取材に「国税局との見解の相違があった。現在は適正に申告している」としている。
関係者によると、申告漏れのうち大半は収益事業の売り上げの計上時期の誤りなどだった が、一部ほかの費目で捻出された金が神社幹部や職員の飲食費や懇親会
費などに充てられており、こうした使い道については国税局は悪質な所得隠しにあたると認定した。
税務調査は、宗教法人の税務調査を担当する国税局の課税2部資料調査課が担当した。
国税庁は宗教法人に対する税務調査を強化しており、その一環とみられる。
宗教法人は祭祀(さいし)や宗教行為といった事業は公益性などを理由に非課税とされている。
しかし、敷地を使った土産物店経営などの収益事業には法人税が賦課される。
ただし税率は22%で一般的な法人(30%)よりも優遇されている。
約70万平方メートルの敷地を持つ明治神宮には、本殿のほか、神楽殿、宝物殿、至誠館が ある。
レストランやカフェを運営する明治記念館、明治神宮野球場やテニスコート、フットサルコートなどを運営する明治神宮外苑がグループ法人になっている。
明治神宮は全国の初詣の参拝客がたびたび日本一となっており、女優の真矢みきさん、 沢尻エリカさん、神田うのさん、鈴木紗理奈さんら有名芸能人が
相次いで挙式を行ったことでも知られる。
MSN産経ニュース(2009.12.11 01:32)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/091211/crm0912110133000-n1.htm
【日本神話】(wikipediaより)
「高天原神話」に登場するおもな神々はヤマト王権ひいては現在の天皇家の祖先に当たると記述されている。
これは、ヤマト王権の拡大にともない、各地方土着の神に対する崇敬を天皇に対するものに転化させ、
初穂献上としての租税の徴収を容易にするためと推察されているが、
そのため、時代により時の権力者に都合の良い解釈がなされたり改変が加えられたりした経緯がある。
例えば、記紀の編纂自体に同時代の天武・持統朝の影響や朝廷・藤原氏などの恣意が加わった可能性が指摘されており
明治以降は、国民に対し国家の正統性を喧伝するプロパガンダとして国家権力によっても利用された(皇国史観)。
明治以降は皇国史観によって日本神話の記述が神聖視され、神話研究はそれ以前よりも後退することとなった。
大正時代に津田左右吉が『神代史の新しい研究』ほかを発表し、
日本神話に科学的な観点から批評をおこない、神代記は政治的な意図で作られた創作であると結論づけた。
第二次世界大戦前は不敬罪として弾圧されたが、戦後になって注目され、しばらくの間、津田の説が日本神話研究の中心となった。
現在では津田説が細部まで正しいとは必ずしも考えられてはいないが、
日本神話を考古学などの証拠なく弥生・古墳時代の史的事実の反映と考える説は基本的に退けられている。
今日では意図的な改変や創作がかなり加えられてはいるが、そのようなものの見方をする古代の人たちがいたことに注目する
文化的背景を考察する考え方が主流となっている。
42 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/18(木) 21:17:02
出雲大社の宮司に就任にさいしては、いにしえより『出雲国造神賀詞』(出雲は天皇陛下と皇室、ヤマト朝廷と国を称え、絶対服従をちかう内容)を宮中に参内し天皇陛下にに謁見、朝見のもと奏上する慣わしです。
アメガシタシロシメススメミマゴ(天下知食皇御孫命)=天皇陛下=『明御神』(これは『現人神』と意味は同じ)
因みに、昭和天皇が発したいわゆる『人間宣言』の文言には、朕は汝等臣民と同じ人間であるとは明言されてはいません。
マスコミ側が文面を憶測、拡大解釈して『人間宣言』と喧伝したのが実情。
43 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/18(木) 21:18:55
【昭和現人神の起源】
「現人神」という表現の淵源を探るなら、奈良時代の歌人である柿本人麻呂朝臣の歌、
「すめろぎは かみにしませば あまくもの・・・」の頃より見らる。
とは言え、これが戦時中の「現人神」という思想と「=」とはとうてい言えない。
古来からの天皇は飽くまで「聖なる人」であり、「神のよう」ではあっても、
「神と同一の存在」という考え方はされていなかった。
それは、宮中祭祀などで、天皇は祭主つまり、最高位の神官という役柄を持っていた事からも理解される。
天皇は神を祀る側であり、祭られる側ではない。神官は神に仕える身であるから聖なのだという道理である。
これは幕末期の志士の書簡などをみても、自明の事だ。
彼らが書簡で使った帝の隠語『「タマ」を取った方が勝ち』などをみても、
彼等の天皇観の本音が垣間見えるだろう。つまり明治期にはまだ、
「現人神」などという「古語」は(一部の国学者以外には)認識されていなかった。
では、万葉集の頃に一箇所か二箇所垣間見られる「現人神」という言葉に目をつけ、
「天皇=神」という思想を喧伝するために一般に公伝され始めたのはいつなのか?
それは昭和になって発生した国体明徴運動の過程での事である。
文部省が編纂した 『国体の本義』では以下の如く明記される。
「天皇は皇祖皇宗の御心のまにまに我国を統治し給ふ現御神」
この国体明徴運動が一人歩きして、いわゆる「現人神思想」という考え方となる。
つまり昭和初期に、天皇の捉え方が暴走した結果が、万葉の時代の人よりも非科学的(オカルト的?)な
天皇観を押し付ける「昭和現人神」の誕生につながったといえるだろう。
「現人神の創作者たち」 山本七平
天明の大飢饉によって各地に餓死者が出ていた
天明七(1787)年六月七日、京都の御所の築地塀の周りを廻る人々が現れた。
記録によれば、どこからか老人が来て、御所の周囲12町(1300メートル)を廻る
「御千度(おせんど)」をしたのが、発端だという。
はじめは数人程度だったものの、その数はどんどん増えていき、六月十日には三万人に達し、
六月十八日頃には一日に七万人に達した。
京だけではなく、畿内のあらゆるところから人々が集まった。
注目すべきは、江戸のように大規模な打ちこわしでも一揆でもなかった。
人々は正面の門に至ると賽銭を投げ、一心に拝礼した。
民衆は天皇に五穀豊作と生活苦からの救済を祈ったのである。
このときに在位していた天皇こそ、第119代光格天皇である。
光格天皇はまだ弱冠17歳であり、即位したときは僅か9歳であった。
実は光格天皇は先代の天皇の皇子ではない。先代の後桃園天皇は若くして崩御してしまい、
後継者がいなかったため、傍系である光格天皇が即位することとなったからである。
傍系からの即位であるため朝廷や幕府には光格天皇を軽んじる向きがあった。
それだけに、光格天皇はより天皇らしくあろうと、学問に励み、初代神武天皇を強く意識していたという。
ちなみに、学習院は光格天皇により構想され、次代の仁孝天皇により実現したものである。
なんとか民衆を救済できないかと考えた光格天皇は、幕府に対し前例のない要請をした。
関白・鷹司輔平を通じて、対幕府の窓口である武家伝奏に、幕府方の京都所司代
に対して窮民救済に関する申し入れをするよう命じたのである。
まず、祝詞から天皇を意味する部分を削りましょう。
そして礼拝時に、天皇を観想するのを辞めましょう。
そして天皇皇后の写真を取り外しましょう。
主宰神に天皇があれば廃除しましょう。
右翼団体からの献金は断りましょう。
【武烈(ドS)天皇】
武烈天皇2年(500年)9月に、妊婦の腹を割いて胎児を見る。この年以降、人の生爪を剥して山芋を掘らせたり、
池の樋から人を流して矛で刺殺したり、人を木に登らせて射落したり、女を馬とつるませる(つまりは獣姦)など
猟奇性を帯びた愚行を行ったとされる。
天下の飢えを忘れ、日夜問わず宮人と酒食に溺れた。偽書の『天書』には、金村が天皇の暴虐を深く憂えて、これを諌めたとある。
47 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/19(金) 11:37:41
私はドSの神である武烈天皇を信仰していますが、私はドMです。
48 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/20(土) 22:52:51
◆神仏習合が衰退に向かったのは、明治維新時ではなく16世紀以降!
「15世紀を境として、日本の社会は、質的に大きく構造変容を遂げる。
呪術性を伴う従来の神仏すべてを排し、古来の神を呪術を脱却した存在に
すべく、唯一神道(吉田神道)さらに垂加神道なる教説が出現するのである。
このような事態を作り出したのは、商工業の発達が合理精神をはぐぐみ、
呪術的な神仏の枠を必ずしも必要としないところに到達したこと、・・・朱子学を
導入・摂取したことの二つにあった。国学をはじめとする近世の日本型合理主義の
思想は、ここに全面開花の条件を整える。
16世紀以降の日本の歴史は、神仏習合を母体としたとはいえ、それを乗り越えようと
する歴史の歩みであった。従って神仏習合はここに最後の到達点を見、本来の
歴史的生命を完うしたのである。」
(義江彰夫「神仏習合」岩波新書)
49 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/20(土) 23:00:07
◆「神をまつる人」としての天皇は江戸時代でも重要だった!
「江戸幕府では、ある役職につくときは、かならず「これこれのことを
守ります、その誓いを破れば天地神祇の罰を蒙る」と書いてある誓約書
(これを「起請文」とよぶ)に署名し血判を押したように、みな「神」に誓う
形式がとられた。社会の軸をなす契約、誓約に「神」が重要な役割を
果たしていた。
外国との関係でも、国内の契約・誓約でも、「神」が重要な役割を
果たしていたが、・・・その日本の「神」を象徴し、かつそれをまつることの
できるのは、「神」の子孫とされる天皇以外にありえない。まさに「神国」の
象徴にふさわしく、誰もとってかわることのできない存在ということである。」
(藤田覚・東京大学文学部教授「幕末の天皇」講談社選書メチエ)
50 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/20(土) 23:15:36
>>48 お勉強ごくろうさん。
でも、君のつけたタイトルはちょっと強引だなw 本文に「衰退」なんて単語は見えないよww
51 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/20(土) 23:17:05
【「神と仏の道を歩く〜神仏霊場 巡拝の道 公式ガイドブック〜」(集英社新書ビジュアル版)より】
http://ec2.images-amazon.com/images/I/51BNv5ILa2L._SL500_AA240_.jpg 文・岩清水八幡宮宮司・京都府神社庁長 田中恆清
八幡様は、かつて八幡大菩薩とも称えられ、神と仏を結ぶ要の位置におられた。
神仏和合の結晶として誕生し、一個の独立した存在として成長を遂げたのが、八幡信仰であったといえる。
しかし、明治維新の「神仏分離」によって、千三百年にわたる神仏和合の歴史に終止符が打たれ、神仏は分かれた。
結果、その間に生まれた子達の運命はどうなったか。子の命は失われてもよい、体を真っ二つに両断し、
半身づつを両親がそれぞれ引き取ることとすればよい、とされ、実際、明治初年にそうした処分を受けたのが
八幡宮や修験道であった。
分離後の神道と仏教は、どのような道を歩んだか。例えば明治五年、神仏は協同して国民教化の任に当たるべく
「大教宣布」の理想を掲げ、神官と僧侶がともに教導職として布教活動に邁進することとなったが、
諸般の条件が整わぬまま、この束の間の神仏協調路線も、わずか三年で瓦解してしまうのである。
神仏が再び歩み寄ろうとしている今日、わが国近代の神道史・宗教史を今いちど検証し、
先人達の経験に学ぶことは多々あるであろう。何事も神仏の御心に添い奉るため、世のため人のためである。
我々はより注意深くより、より広い心をもって物事に対処していかなくてはなるまい。
とりわけ八幡宮に代々奉仕してきた者としては、八幡信仰の復興に努め、
「鎹(かすがい)」の役割を担うことを通じて、神仏の和合を揺るぎないものとしていくことが、
何より重要な責務であろうと心得ている。
宗教・宗派の垣根を乗り越え、それぞれの主義主張はひとまずおのが懐に収めて、互いに尊重し合い、譲り合う。
このたびの「神仏霊場 巡拝の道」こそは、そうしたわが国ならではの生き方を、
壮大なスケールで表したものだと言ってもよいであろう。
この古くて新しい心のネットワークを、近畿圏から日本全国へ、そして世界へと広げていくことができれば、
というのが今の私の願いである。
52 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/20(土) 23:18:15
【平成神道研究会シンポジウムで花園神社宮司・氷川神社宮司らが神仏習合をキーワードに語る】
神職有志らで作る平成神道研究会が20周年、神道時事問題研究会が40周年を迎えたのを記念する事業「自然と生きる環境生命文明」が始まり、
第1回の出発シンポジウム「自然と生きる環境生命文明を考える」が3月22日、三重県伊勢市の猿田彦神社で開かれた。
基調講演では両会の幹事で東京・花園神社宮司の片山文彦氏が「原理主義と寛容性(神仏習合)」と題して話した。
また「我が社の神仏習合」をテーマにディスカッションも行なわれ、やはり両会の幹事で東京・氷川神社宮司の山本雅道氏を司会に、
新潟・八海山尊神社宮司の山田泰利、埼玉・今宮神社宮司の塩谷治子、猿田彦神社宮司の宇治土公貞明の各氏が論を展開した。
うち、今事業の推進にあたって会長を務める片山宮司は講演のなかで、宗教復権を強く主張するところに原理主義台頭の原因を見るとともに、
科学支配が絶対化するなかで宗教と科学が衝突する現状も指摘し、それら諸問題から抜け出す方途として
神 仏 習 合 を キ ー ワ ー ド に 挙 げ て、絶 対 か ら 多 様 化 へ の 発 想 転 換 を 促 し た。
そして「科学が絶対的であっても、私たちはそれで必ずしも癒され、救われない。そこに宗教の存在理由がある」
「 習 合 や 多 様 化 、寛 容 性 を 考 え な け れ ば 、地 球 や 生 命 体 は も た な く な る だ ろ う 」
と述べて、危機回避の環境生命文明を考える連続シンポジウムと活動に意欲を示した。
なお、同事業は今後、神道や仏教を中心に各宗派のトップや要職者も巻き込み、月一回のペースで宗教ゆかりの地を巡回しながらシンポジウムを開いていく予定。
http://www.shinto.org/jpn/forum/forum21/arekore.htm
53 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/20(土) 23:24:07
【新熊野神社、「神仏習合」140年ぶり復活】
紀州の熊野信仰を伝える新熊野(いまくまの)神社(京都市東山区)が、5日の神幸祭に修験道の寺院、
聖護院門跡(左京区)の僧侶や山伏らを招く。神と仏を一緒に信仰してきた日本古来の宗教心を取り戻そうと、
明治元年の神仏分離令まで続いた「神仏習合」の姿を140年ぶりに蘇らせる。
新熊野神社は、熊野信仰が盛んな平安時代後期の1160年、後白河上皇が創建した。修験道と関係が深く、
明治時代までは、聖護院から宮司に相当する別当が派遣されていた。
尾竹慶久宮司(57)が聖護院の宮城泰年門主(76)に協力を依頼し、「神仏習合」の催しが実現。
神幸祭には、聖護院の僧侶と山伏計11人が参加し神事の後、氏子ら約300人が同神社を出発、
神の乗り物「鳳輦(ほうれん)」などとともに周辺の約10キロを練り歩き、2か所の御旅所で僧侶と山伏が読経する。
尾竹宮司は「世の中で悲惨な事件が続くのは、日本人が神仏への恐れを失っているからでは。
再び信仰心を取り戻したい」と話し、宮城門主は「これを機に絆(きずな)を深めたい」と喜んでいた。
(2008年5月5日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/kyoto/news/20080505kn03.htm
54 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/20(土) 23:44:02
>>50 「最後の到達点をこえた、役割をまっとうした」=「衰退」以外の
何者でもないだろ?w
55 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/20(土) 23:58:25
【世界宗教と土着の信仰の結合は世界史的普遍性をもつ現象。しかし神仏の寛容な習合形態は極めて日本的】
日本の神仏習合の歴史にはヨーロッッパと決定的に異なる普遍宗教と基層信仰の結合のしかたをみてとることができる。
日本では、仏教が神祇信仰を吸収するさい、神祇の名を唱えることを禁ずる必要もなく、三位一体論などで神祇を仏教の基層の神々に
読み換えて横滑りさせる必要もなかった。だから日本における仏教と神祇信仰は、ヨーロッパのように閉ざされた系でキリスト教に
吸収されるのではなく、開かれた系で結び合い、仏教と神祇信仰の共存の上に競合と結合を築き上げたのである。
日本の神仏習合は普遍宗教と基層信仰が完全に開かれた系で繋がっているという点で、世界的にみても、独特な宗教構造を作り出したと
言えるだろう。しかし、忘れてはならないことがある。すなわち、一般的にいって、世界各地で多様な形であらわれる普遍宗教と基層信仰の
複合体たは、地域や民族の事情に応じてそれぞれ独自な形をとるのであり、日本の神仏習合もまたその一形態であるということである。
キリスト教の教会は、多くのゲルマン・ケルト信仰の聖地の上に建てられた。ヒンドゥー教においてブッダはかなり高次の神として処遇された。
中国の道教のなかには、道教の神々を補佐するものとして観音・弥勒菩薩が現世利益の神となって存在する。朝鮮の寺院境内にも壇君などの
朝鮮古来の神々や道教系の神々を祀る祠・堂が見られる。これらのことに思いを巡らす時、様々な響きをもった世界各地域の宗教や文化に
通底する心の世界の広がりがみえてくるのではないだろうか。
義江彰夫著「神仏習合」(岩波新書)
【律令国家の租税徴収の方便としての神祇信仰に疑問を抱いた豪族が仏教に救いを求めた】
それにしても、律令国家の支配にとって決定的な意味をもつ、神祇官による祈年・月次・新嘗祭への諸国有力神社の編成が、
八世紀後半に行き詰まり始めたのはなぜか。この問いに答えることはそのまま地方の神々の神身離脱と神宮寺の出現の理由説明となる。
八世紀後半頃にはじまる地方の神々の苦悩、神の身を脱して仏教に帰依しようとする神の願いとは、地方支配してきた豪族層の苦悩であり、
仏教への帰依も実際には彼らの帰依にほかならなかった。つまり、八世紀後半という時代は、神を背負って支配をしてきた地方豪族が、
全国いたるところで行き詰まりに直面し、仏教にその打開の道を見いだしはじめた時代であった。だとすれば、この地方豪族にとって、
神も、神を祀ることで支配を維持することも必要でなくなるり、また不可能にもなってきたのだから、神を背負っての神祭りと幣帛の献上など、
いかに国家規模の霊力に満ちたものであっても、不必要なものとなってくるはずである。
「神仏習合」 義江彰夫 (岩波新書)
【江戸時代に生まれた儒教系(嫌仏教系)新宗教を利用し性急な神政政治を目指した明治政府】
・・・王政復古の大号令のもとに明治政府は神政政治を目指し、神道を国家統合の基幹にしようと意図した。
一 部 の 国 学 者 主 導 の も と 仏法は外来の宗教であるとしてそれまで大きな勢力を持つ
仏教勢力 の 財 産 や 地 位 を 剥 奪 し、弱 体 化 す る よ う に 誘 導 し た。
江戸時代までは寺院法度によって禁止されていた僧侶の肉食・妻帯を明治政府は「肉食妻帯勝手なるべし」と号令し、
戒律を犯させることで僧侶を破戒させようとした。
また僧 侶 の 下 に 置 か れ て い た 神 官 は 政 府 の 威 を か り て 仏 教 の 全 て を 否 定 し 破 壊 す る
「廃 仏 毀 釈」運 動 を 起 こ し、混 乱 に ま ぎ れ て 寺 院 を 破 壊 し、寺 院 の 土 地 を 接 収 し た。
廃仏毀釈が徹底的に行われた薩摩藩では寺院1616寺が廃寺され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。
平田篤胤派の国学や水戸学が盛んであった地域ではとくに仏教排斥の動きが激しく
神道を国教化する運動へと結びついてゆき、国家神道の発端となった。
(wikipedia より)
【修験の聖地・吉野における神仏分離の実体】
明治四年から六年にかけ、吉野の神仏分離を徹底し、一山を金峰神社とせよとする指令が繰り返されるようになった。
圧倒的に仏教色が強かった吉野一山に、実態を無視した強引な命令が出されたのは、神祇官の意見によるのだろう。
そのさい、吉野の実状を知っている地方官は、一山の神道化に無理があることを訴えたが、神祇官→教部省の方針は変わらなかった。
蔵王権現が仏教に属することを認めれば、その影響は吉野にとどまらなかったからである。
明治七年、奈良県社寺方が実地検分を行い、吉野一山は金峰山寺の地主神、金精明神を金精神社と改めた上で本社とし、
山下の蔵王堂をその口宮、山上蔵王堂を奥宮とすることに定められ、仏像、仏具は撤去され、僧侶身分のものは葬式寺の一部を除き、
還俗神勤ことになった。しかし、山中の宿坊を頼って登拝していた講中は、蔵王権現の信奉者であって金精明神の信奉者ではなかったから、
参詣者は、神鏡や幣束を無視して、口宮では蔵王像に、山上では行者堂に参詣した。そして、こうした民衆の不満を背景として、
十三年から神道化された寺院の復帰が認められ、十九年には二つの蔵王堂も仏教に復した。
(中略)金峰神社は吉野の町並を四キロも離れた登山口に孤立しており、その規模は蔵王堂とは比べ物にならず、ここが本社で
蔵王堂が口宮だというのは、ほとんどグロテスクなほどの強弁であることは、今日吉野を訪れる私たちにの目には自明である。
(中略)もしこの神道化が成功すれば、修験とそのもとにある各地の講が、神道国教主義の担い手となるはずだった。しかし、全体として
みれば、それが、寝台の尺にあわせて足を切るような乱暴な処置であったことは言うまでもない。
「神々の明治維新ー神仏分離と廃仏毀釈ー」安丸良夫著 岩波新書
>>55 「歴史的生命を完うした」だからな。
生命をまっとうする=死ぬだろ、もともとの意味においては。
>>60 【まっとう(する)】で辞書ひくと「完成」「保全」という意味もありますな。
62 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/21(日) 00:59:50
◆天平時代すら「仏教政治」などと言えるものではないのが実情であった!
「奈良時代後期の歴史を特色付けるものとして、称徳天皇と道鏡による仏教政治
ということが従来ふつうに説かれてきた。北山茂夫氏は、その著『日本古代政治史の
研究』のなかで、この通説をきびしく批判されている。・・・
思想面からみると、いわゆる律令体制は伝統の神祇信仰と族長的祭祀を機軸に、
儒教的礼楽説によって粉飾したものであった。養老・天平期に体制の動揺がふかまると、
貴族・官人のあいだに災異説が一個の思想として広く受け入れられ、それを機縁として
仏事修法が盛行し、仏教ないし寺院と国家とのむすびつきが強まった。仏教は天皇や
国家との関係において、それまでとくらべてはるかに重要な地歩を、制度と人でもって
占めることとなった。この状況のゆきつくところ、最後は自ら公然と仏弟子と称して
はばからない称徳女帝と法王道鏡との出現をみた。しかし、ほかならぬその女帝の
位そのものは、中央貴族から地方豪族にいたるまでの、最終的にはそれぞれが
祖神としているものとの系譜によって、その神統譜によって表明されているものに
依拠していた。
律令制に深く組み込まれ、そのことによって再生させられていた古代氏族の体制の
からみあいのなかに位置している以上は、皇位の継承問題が女帝の意のままに運ぶことは
なかった。人びとは王権に関し、伝統の神祇と関係の深い「天つ日嗣」の思想から
けっして自由になっていなかった。天皇の、あるいは政治支配の諸関係の内部に、制度
及び思想としての神仏儒が複雑にからみあい、並存していたのはなんら異とするにあたらない。
とくに天平末葉の宣命にあらわれた支配者の姿勢と思想からいって、天平の仏教政治という
ふうに規定するのはあまりにも単純な抽象化であり、歴史の実質の把握から遠い。
北山氏は以上のように論じていられる。」
(高取正男「神道の成立」平凡社ライブラリー)
>>61 義江教授はそんな文脈で言ってるんじゃないだろうw
近世にむけて、吉田神道や垂加神道、儒教の影響を語っているんだから。
余談ながら、
学生時代、義江教授の授業をちょっとだけ受けたことがあるが
そんときは俺もこの種の分野に関心はほとんdなかったから
この種の話はしたことがなかったなぁ
これだけは悔やまれるw
>>61 義江の「神仏習合」を今ざっと読み直したが、決して明治の神仏分離を肯定する文脈も見いだせない。
【習合神を神道化した明治政府の狙い】
蔵王権現、浅間大菩薩、弁財天、秋葉山三尺坊などは、当時の民衆にとって、神仏のいづれかに区別して信奉されていたのではなかった。
仏典などによってどのように由緒づけられるにせよ、蔵王権現は蔵王権現として、浅間大菩薩は浅間大菩薩として信仰されていたのであろう。
このことは、稲荷信仰、相模大山の石尊権現信仰、愛宕権現信仰などでも同様であろう。
ところが、神道国教主義的な政策のもとでは、こうした習合的な神格は、神道の方に組み込まなければならなかった。そうでなければ、
由緒正しい有名大社はともかく、民衆の祭祀の対象の大部分はこうした習合的性格(それも、基本的に仏教により近い)のものであるため、
神道国教主義の基盤が崩れてしまうのである。こうした事情に加えて、上にあげた事例は、いずれも広範な参詣者をもつものだったから、
それらを神道に組み入れることの経済的な意義も大きかった。
この神道化の強要は、厳密に言えば、神仏分離でも廃仏毀釈でもないだろう。というのは、神仏分離や廃仏毀釈には、神仏の混淆状態が
前提とされているのに、こうした神道化の強要に際しては、外から全く別の神格がもちこまれて、旧来の信仰が否定されてしまったのだから。
それは一山横領というほかないものであった。
「神々の明治維新ー神仏分離と廃仏毀釈ー」安丸良夫著 岩波新書
>>63 じゃ義江教授は「神仏習合は衰退して死んだ」という文脈でその一節を書いたと
なぜ言い切れる?本人に確認したのか?
67 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/21(日) 01:14:56
◆神仏分離思想は幕末や明治維新どころか、古代から厳然と存在した!
「いまもふつうに使われている奈良時代の仏教時代という表現のなかには、
聖武天皇による東大寺大仏や諸国国分寺、国分尼寺の建立をもって
天平文化の華とみなし、その壮大さを賛嘆するいっぽう、仏の教えはともかくとして、
あれほどの国幣をかたむけて教団や堂塔を庇護する必要はなかったのではないかと
考え、とくに称徳朝における道鏡政治のありようなどは指弾すべきものという
否定的評価がふくまれている。したがってこの種の見解が、近世における儒者や
国学者たちの排仏論的名分論とふかくかかわっているのはいうまでもない。中国では
儒教の現世倫常主義の立場から、仏教の出世間主義に対する批判の歴史は古い
ものがある。儒教の交流した近世の日本でも、中国の先縦に学んだ知識人により、
伝来の神祇信仰がいちだんと思想的意味をもってかえりみられることになった。
やがて国学の台頭をへて幕末・維新期をむかえ、王政復古運動を通じていわゆる
皇国史観の基礎がつくられた。
北山茂夫氏がその著書のなかで、天平の仏教政治という表現に客観性のうすいゆえんを
力説されたのも、この言葉の背後に上記の歴史があるからである。しかしこの種の
歴史評価の基本にある考え、聖武天皇や、とくに称徳女帝の仏教に淫した政治は、
日本の政治のあるべき姿から逸脱しているとの考えは、近世の儒教的名分論や、
国学的神道主義によってはじめてあらわれたのではない。ほかならぬ当の仏教政治の
おこなわれた時代に、すでに存在していたふしがある。これはそれほどにふかい根をもつ
問題といえよう。」
(高取正男「神道の成立」平凡社ライブラリー)
【本物の日本古来の神々=ミシャグチ神】その1
武蔵野の古い神社の境内からは、しばしば縄文時代の遺跡が発掘され、そこからは石棒や石皿や丸石などが、
生活の道具とともに発見されていた。そして時々、神社の本殿の脇に置かれた摂社や小祠などに、石棒や石皿が神体として
祀られ、シャクジンとかシャクジなどの名前で呼ばれている。武蔵野における精神の地層は大きく二つの層で
出来ているのではないか?一つは表面にある神道の神々の作る層。その下にはまだ名付けようのない「古層」の神々が、
恐ろしく古めかしい霊威の感覚を発散させながら、目に見えない別の地層を形成しているのだ。
柳田国男は、この精神の古層を明らかにしていく手始めとして、小さな祠の神々の名前に注目することから始めた。
すると、シャクジンとかシャクジとかシュクジンなどの名で呼ばれる神を祀った祠や摂社は、関東一円、中部地方に広く分布し、
また、播州の坂越(シャクシ)から壱岐の杓子松、九州北松浦のシャクシ島に至るまで、列島全域に分布していることが判明した。
国家の制度と全く関係をもたない神として、これほどまで広くこの列島上に分布している神は他にはない。
この神は列島上に国家というものが形成される以前の、古層に属する宗教的思考の痕跡を示しているものではないか?
今まさに民俗学というものを創設しようとしていた柳田は、シャクジという神のうちに、
「国家の思考によって作り変えられた神道以前の神道の姿」を、見通してみたいと考えたのである。
「精霊の王(講談社)」 中沢新一
【本物の日本古来の神々=ミシャグチ神】その2
最初の着想は、柳田が武蔵野を散歩している時にみかけた、たくさんの小さな祠につけられた、奇妙な名称だった。
しかし、その名称をもった祠や地名の分布を調べていくうちに、それが列島上の極めて広範囲に広がった信仰現象で
あることに気付くようになった。その信仰が一時代の流行現象などではなく、シャクジが太古的な性質をもった神=
「精霊」への信仰であり、おそらく神社をもった神々への信仰が始まる以前から、この列島上の人々の精神にとって
大きな意味をもっていた「古層の神」の痕跡を示すものに違いないと直感された。
ミシャグチという神は謎である。そしてこの謎を解き明かすことで、私達は神道というものの本質に近づいていくことができる。
神道の神々の世界の地下には、象形文字で書き表された「古層の神々」の世界が隠されている。
私達が「神道」の名前で知っているのは、ミシャグチのような古層の神々地下に埋められたり、
目に付きにくい脇に取りのけられたりした後につくられた、霊威の表現の合理化された一形態にすぎない。
「精霊の王(講談社)」 中沢新一
【本物の日本古来の神々=ミシャグチ神】その3
国家が形成されると、権力者は「神々の世界の体系化」をおこなおうとするものだ。由来も歴史も違う全国の神々を、
ひとつの均質な平面の上に並べて、操作の対象にしてしまうことで、ローカルな歴史、固有性をもった歴史を消し去っていこうと
する作業を行うのである。その結果、列島上に広く分布していた縄文的なシャクジの神=精霊のようなものは、
神々が体系化されるこの平面から滑り落ちていくことになる。それでも、狩猟文化の伝統の色濃く残る諏訪信仰圏を中心に
東日本では「ミシャグチ」という「神の名前」とそれを祀る祠は生き続けたのである。
ところが、王権の中心に近い西日本では、この神々の体系化の作業は、古くから徹底して進められたため、一般の村落では、
神名帳に載っているような有力な神の名前が、もとからそこにいた古い神の名前の上に塗り替えられていった。そのために、
そこでは断片的な伝承以外には、もうそこにかつて「古層の神」がいたことすら、人々の記憶からは消失していったのである。
「精霊の王(講談社)」 中沢新一
71 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/21(日) 01:20:15
>>66 俺が習ってたときはこの本はまだ出てなかったからね。
「16世紀以降の日本の歴史は、神仏習合を母体としたとはいえ、それを乗り越えようと
する歴史の歩みであった。従って神仏習合はここに最後の到達点を見、本来の
歴史的生命を完うしたのである。」
まあ、「死んだ」は言いすぎだが、「『最後の』の到達点」というからには、それ以上の発展は
もはやなかったという意味合いだろ、明らかに。
まして、歴史の歩みとして神仏習合を「乗り越えよう」というのが16世紀以降というんだから。
あちこちでこの義江教授の新書を引用して貼っている人たちを見かけるが、
同199ページの上記のあたりは、みんな避けて通りたい箇所なんだろうねw
明治維新じゃなくて近世で既に否定的動きが強まっちゃってるってことだから。
>>67 本文は「存在していたふしがある」なのに
タイトルは「厳然と存在した!」かよw
ちょと強引すぎないかい?www
>>71 「それ以上の発展はもはやなかった」としてもそれは「完成」して「保全」状態にある伝統宗教全般にいえることだろ。
「まっとう」していたから官憲が破壊することが肯定されるものではなかろう。
74 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/21(日) 01:32:58
◆仏教が「葬式仏教」に成り果てて神道と分業したのは、明治維新期ではなく、江戸時代だった!
「今日、日本の仏教寺院がどのような役割を果たしているかを考えると、僧徒の修行の場や信者の
信仰の場となっている寺院もあるが、大多数はいわゆる檀那寺、すなわち境内に檀家の墓地をもち、
檀家の葬儀や祖先供養を最大の仕事としている寺院であろう。お寺や坊さんというと、どうも死者と
結びついた縁起でもないものというイメージで思い浮かべられがちである。葬式仏教といわれ、
多分に批判的にみられながらも、おそらくは当分この形態は変わりそうもない。・・・・
だが、一概に葬式仏教を悪いと決め付けるわけにもいかない。今日の日本では、一般に誕生や
結婚など生と結びついたおめでたいことは神道で、それに対して死と結びついたことは仏教で
という分業体制が確立され、それによって両宗教の平和共存が成り立っているということもできる。
そこにはもともと穢れを忌むという日本人の感覚があり、それを外来の宗教に任せることによって
安定した生活構造を確立しえたとも考えられる。こうした葬式仏教の原型は中世にさかのぼるが、
一般化するのは近世(江戸時代)であり、近世は現代にまでつながる日本の仏教の形態を確立
した時代だということができる。しかもそこには多分に政治的な強制がともなわれており、近世に
おける仏教をみるためには、まず政治と仏教の関係を振り返ることが重要である。」
(末木文美士「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」(新潮文庫))
>>72 中沢新一が「痕跡」から大昔に何かしらあったかもしれないことを推測(夢想)
してるだけのものを「本物の日本古来」なんてやってるタイトルも
十分強引だけどなww
>>73 べつに俺は「官憲による破壊」を肯定などした覚えはないよ。
【神道を萎縮させ頽廃させてしまったものは何か】
ほかの誰よりも折口信夫には、神道にはなにができて、何ができないか、どこが良いところで、どこが宗教としてだめかが、
はっきり見えていた。明治以来、政府内のイデオローグたちは、たいした見識もなしに、神道をキリスト教に向かい合えるほどの宗教に
仕立て上げることができるなどと信じて、日本人の霊性の伝統の致命的な打撃を与えるような、滅茶苦茶な施策を度々断行してきた。
その過程を通じて、神道は国家の「正義」を支える、国民の倫理性の源泉としての位置づけを与えられるようになった。
つまり、神道は合理化されて、近代主義の逆立ちした表現形態にたどり着いてしまうことになったのである。
土地土地に根付いた古い形をもった神道が、日本人の生活を導く倫理の源泉となってきた歴史的事実が、近代国家としての日本の
「国民」を薫育し。教化していくための道徳原理ともなる、という合理的な形にすりかえられてしまった。その結果として、
神道はその内的な生命を萎縮させ、頽廃させることになったのである。
「古代からきた未来人・折口信夫」 中沢伸一(ちくまプリマー新書)
>>75 神仏分離は明治の官憲による破壊活動ですよ。
中沢新一の推測(オリジナルは柳田国男の調査)を夢想というなら、義江センセイが「神仏習合は歴史的生命を全うした」と
199ページ目でなんの脈略もなく突然のたまうのも夢想に近いものがありますなw
◆江戸時代、仏教寺院は江戸幕府の業務の下請機関であった!
「江戸幕府の開創期には、すでに仏教界は世俗の権力に対抗できるだけの力を
失っており、やすやすと幕藩体制のなかに組み込まれ、それを補完する役割をも
担わされることになった。・・・現代にいたるまで大きな影響を残したのは、本末制度と
寺檀制度である。
本末制度は本寺と末寺の関係を制度的に確定するもので・・・本山は末寺から
諸種の上納金を取るとともに、人事権をはじめ強大な権力をもって末寺を支配する
ことになった。これは寺院を封建体制に組み込むことを目指したものであったが、
同時に、末寺に対する強大な権力を駆使できることになる本山が積極的に協力
した点も見逃せない。
こうして寺院の縦の支配を強めるとともに、末端の民衆支配の手段として活用
されたのが寺檀制度である。寺檀制度というのは、寺院と檀家の関係を固定化させ、
それによってキリシタンの禁制を貫徹させようというものである。・・・キリシタン禁制は
もはや多分に名目的なもので、むしろそれを口実に戸籍を作成し、民衆支配に活用
することこそ真の狙いであった。世俗権力のみでは貫徹できない支配体制に宗教の
力を利用したわけであるが、寺院側からみれば、檀家との関係を世俗権力が保証
してくれることになり、願ってもないことであった。その過程で中世以後ひろまってきた
仏教による葬式・法要が普遍化し、制度化されることにもなった。
・・・最初に述べた葬式仏教の形態はここに権力のかさを借りて強制され、その
形態が強制力を失った今日にいたるまでなお継続しているのである。」
(末木文美士「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」(新潮文庫))
>>77 >義江センセイが「神仏習合は歴史的生命を全うした」と
>199ページ目でなんの脈略もなく突然のたまうのも夢想に近いものがありますなw
すると、義江先生の同じ著書の中の神仏習合に都合のいい箇所だけ引用する連中の立場もないねw
◆排仏論は、明治維新どころか、江戸時代初期から儒者によって強く唱えられていた!
「藤原惺窩は家康の前で仏僧と儒仏の優劣を争ったというが、・・・『仮名性理』では、
『今時の出家たち、財宝をつみたくはえ、堂寺に金銀をちりばめ、あやにしきを身に
まとひて・・・人のこころをまよはする事、仏の本意にもあらず。・・・世のさまたげと
なるものは、出家の道なり』
と仏僧の堕落を責めている。
このような現状も、ある意味では仏教界の世俗化ともいえるのであったが、
もともと超世俗主義の立場をとる仏教には、かえって世俗に対して厳しい倫理性が
欠けていた。ちょうど中世末期のカトリックが世俗化するとともに堕落として批判され
プロテスタントの世俗倫理のリゴリズムの立場が生まれるのと似ている。
近世初期の儒者による排仏論は基本的にこのような世俗倫理の立場に立つもので
あるが、時代が下るにしたがって、しだいに為政者の立場からいかに仏寺を統制し、
幕藩体制を立て直すかという具体的な方策が提起されるようになった。また、儒者が
しばしば同時に国粋主義の立場をとって神道の信仰を鼓舞したところから、仏教の
外来性が批判の対象となった。このことは神道家による排仏論においてより過激化し、
廃仏毀釈にいたることになる。」
(末木文美士「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」(新潮文庫))
◆鎌倉末期から、伊勢神道では、神道による仏教排除の思想があった!!
「仏教系の神道理論に対して、神道自体で自立した理論をもって仏教に対抗
しようという傾向も同じころから顕著になる。この傾向を代表するのが伊勢神道である。
そもそも伊勢神宮は、豊受皇大神を祀る外宮と天照皇大神を祀る内宮からなるが、
このころ、内宮の方が勢力が大きくなっていた。これに反発した外宮の神官たちが
自らの地位を高めようとして起こした運動が伊勢神道の出発である。その最も早い時期の
理論書が神道五部書と呼ばれるもので、古代の作者に仮託され、伊勢神道の基本的
典籍とされる。・・・正直や清明を尊ぶ倫理観や、『大日本国は神国なり』とする神国意識と
などと並んで、『仏法の息を屏し、神祇を再拝し奉れ』という仏教排除の立場が打ち出されて
いる点が注目される。
こうして成立した伊勢神道は、鎌倉末期から南北朝期にかけて、度会家行、慈遍、北畠
親房らによって大成される。」
(末木文美士「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」(新潮文庫))
>>79 おれは今日はじめて引用してみただけだからなあ、都合のいい箇所だけ引用する連中ってどういう人かしらんしw
>>80-81 びっくりマークつけるほどの話か?w 儒教ってのは中国大陸において
アンチ仏教勢力として存在していたわけでそれが江戸期に日本に入ってきたんだから当然じゃんw
84 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/21(日) 02:13:30
つーか便所の落書きで何必死になってんだかw
ご苦労さんw
【神々を『敗北』に追い込んでしまった戦時中の利己的な祈願】
戦争中の我々の信仰を省みると神に対して悔いずにはいられない。我々は様々祈願をしたけれど、我々の動機には、利己的なことが多かった。
さうして神々の敗北といふことを考えなかった。我々は神々が何故負けなければならなかったか、といふ理論を考えなければ、
これからの日本国民生活はめちゃめちゃになる。
「神道宗教化の意義」 折口信夫
◆室町時代の吉田神道で、神道の仏教に対する優位の思想が確立された!
「伊勢神道の理論化をうけて、神仏関係の逆転のうえにたち、はじめて仏教を
神道に従属させて理論化を試みたのが吉田兼倶の唯一神道である。
兼倶は足利義政夫人の日野富故の援助を得て吉田斎場を新築し、さらに
伊勢の両神が吉田に降臨したとの風聞をたてて日本の神道界に君臨しようと
した野心家であったが、『唯一神道名法要集』を著して、その主張を表明した。
・・・
この立場からさまざまな問題を論じてゆくが、とくに後世への影響が大きかった
のは聖徳太子の密奏の言に仮託した根葉花実論の主張である。これは、
『吾が日本は種子を生じ、震旦(中国)は枝葉に現はし、天竺は花実に開く。
故に仏法は万法の花実たり。儒教は万法の枝葉たり。神道は万法の根本たり。
かの二教は皆これ神道の分化なり。』
と主張するものである。・・・兼倶はそれをもとに明確に神道中心、日本中心の
立場を打ち出している。こうして仏教の支配から脱した神道理論は、やがて近世に
いたって今度は儒教などと習合しながら多様な発展を遂げることとなるのである。」
(末木文美士「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」(新潮文庫))
>>86 どっちが上か下かなんてどーでもいいじゃんw ケツの穴小さいこというなやw
いづれにせよ吉田神道は護摩焚いたりする習合色の強いものだったし、吉田神社の神職たちは今、
明治期に失われた資料をかきあつめてなんとか神仏習合を復活させようとがんばってるよ。
>>87 ああ、あんたが引用してるとおり、関西の神職さんたちはとくに神仏習合に好意的だからな。
別にそれが悪いとは俺も言わんよ。
91 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/21(日) 21:19:21
∧,,∧
ヾ(o゚ω゚o)ノ゙プニプニ!プニプニ!プニプニニ!
( )
しーJ
92 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/02/22(月) 23:20:56
神道は仏教とは違う宗教なんだから習合なんて変だよ!
仏教だって葬式仏教なんて止めて本当の仏教の正道に戻してください!
神道も先祖を神と祀りたい人達の需要を少しは考えてください!
>>92 本当の仏教の正道ってなんだろ?
インド仏教か?
94 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/22(月) 23:43:34
147 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2009/01/19(月) 23:25:41
神社本庁でもは昨今では関西の神仏巡礼会に参加したり
古来の神仏習合に寛容な人も若い世代で増えてるようです
歴史学べばむしろそっちが本来とも言えるしね
そういった研究の発展の成果が実りつつある
…が、しかしやっぱり本庁は国家神道でガチガチに染まった人が支配的で
それに習合はけしからん!仏教はカス!みたいな教育受けた世代が若い世代でもやはり多く
習合に嫌な顔する神職は多い
神仏巡礼の神社でも神仏巡礼の朱印帳で朱印貰うと嘲った態度をあからさまに取る神職が居たとか
よく話しに聞きます
後継ぎしただけみたいな半可通な神職に多い。
逆に吉田神道だ両部だと国家神道以前の神道儀式にも視野を広げて
学問的な分野にも博識な神職ではそんなことはないことが多い
国家神道に覆い隠された中世の信仰の歴史研究をどんどん進めることが
こういった偏見打破の唯一の道だと思う
神職の間にも国家神道以前の信仰を取り戻そうと、破棄されなかなか無い資料をかきあつめて
復活を試みようとする動きが昨今盛んです。
吉田神道の吉田神社でもそういう動きがありますし。
95 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/22(月) 23:44:37
811 名前: 名無しさん@京都板じゃないよ 投稿日: 2010/02/21(日) 02:37:37
京都府神社庁傘下の神社は、ひたすら神仏習合にむけてなし崩し的に進んでる。
神社本庁はどうあがいても形骸化して、実質「神社会」だか「神社協会」化していくよ。
一部の弱小神社に介入するくらいはできるだろうが。
96 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/22(月) 23:45:51
【「神と仏の道を歩く〜神仏霊場 巡拝の道 公式ガイドブック〜」(集英社新書ビジュアル版)より】
http://ec2.images-amazon.com/images/I/51BNv5ILa2L._SL500_AA240_.jpg 文・岩清水八幡宮宮司・京都府神社庁長 田中恆清
八幡様は、かつて八幡大菩薩とも称えられ、神と仏を結ぶ要の位置におられた。
神仏和合の結晶として誕生し、一個の独立した存在として成長を遂げたのが、八幡信仰であったといえる。
しかし、明治維新の「神仏分離」によって、千三百年にわたる神仏和合の歴史に終止符が打たれ、神仏は分かれた。
結果、その間に生まれた子達の運命はどうなったか。子の命は失われてもよい、体を真っ二つに両断し、
半身づつを両親がそれぞれ引き取ることとすればよい、とされ、実際、明治初年にそうした処分を受けたのが
八幡宮や修験道であった。
分離後の神道と仏教は、どのような道を歩んだか。例えば明治五年、神仏は協同して国民教化の任に当たるべく
「大教宣布」の理想を掲げ、神官と僧侶がともに教導職として布教活動に邁進することとなったが、
諸般の条件が整わぬまま、この束の間の神仏協調路線も、わずか三年で瓦解してしまうのである。
神仏が再び歩み寄ろうとしている今日、わが国近代の神道史・宗教史を今いちど検証し、
先人達の経験に学ぶことは多々あるであろう。何事も神仏の御心に添い奉るため、世のため人のためである。
我々はより注意深くより、より広い心をもって物事に対処していかなくてはなるまい。
とりわけ八幡宮に代々奉仕してきた者としては、八幡信仰の復興に努め、
「鎹(かすがい)」の役割を担うことを通じて、神仏の和合を揺るぎないものとしていくことが、
何より重要な責務であろうと心得ている。
宗教・宗派の垣根を乗り越え、それぞれの主義主張はひとまずおのが懐に収めて、互いに尊重し合い、譲り合う。
このたびの「神仏霊場 巡拝の道」こそは、そうしたわが国ならではの生き方を、
壮大なスケールで表したものだと言ってもよいであろう。
この古くて新しい心のネットワークを、近畿圏から日本全国へ、そして世界へと広げていくことができれば、
というのが今の私の願いである。
97 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/22(月) 23:47:11
「神仏霊場会発足に向けて」
日本の宗教は、わが国古来の神祇信仰に、伝来した仏教が交流することによって、独自の信仰体系を築いてきた。
つまり、神も仏もともに尊崇するという信仰形態である。
そのような中で、仏教は日本の神々を仏教教理の中に取り込んで発展し、神道は特に中世には仏教やその他の
教えを取り入れて、独自の神道説を創り上げてきた。
神仏をともに祀り、ともに拝むという伝統的な信仰が長く続いてきたが、そのような信仰は、明治に入り、
神仏分離政策によって、神と仏を区別するようになり、やむなく崩されてしまった。
わが国の伝統的な神と仏とに対する信仰を真摯に見直し、本来あるべき信仰の姿を取り戻そうという動きが、
近年、神道界仏教界双方から自然に起きてきた。
つまり、神への祈りも仏への祈りも、心の安らぎを求める信仰には、変わりないのである。
このようなわが国独自の信仰形態を、実際の神社べ具利と寺参りに実現しようとしたのが、神仏霊場界の
社寺巡拝である。
98 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/22(月) 23:49:08
【「明治神宮」が1億円脱税 飲食費を別費目から捻出 「悪質な所得隠し」と国税局】
宗教法人「明治神宮」(東京都渋谷区)が東京国税局の税務調査を受け、平成18年12月期までの5年間で約1億円の申告漏れを指摘されていたことが10日、分かった。
一部は領収書などの裏付けのない職員らの飲食費などに充てられており、国税局はこの部分を所得隠しと認定した。
明治神宮は修正申告に応じ、産経新聞の取材に「国税局との見解の相違があった。現在は適正に申告している」としている。
関係者によると、申告漏れのうち大半は収益事業の売り上げの計上時期の誤りなどだった が、一部ほかの費目で捻出された金が神社幹部や職員の飲食費や懇親会
費などに充てられており、こうした使い道については国税局は悪質な所得隠しにあたると認定した。
税務調査は、宗教法人の税務調査を担当する国税局の課税2部資料調査課が担当した。
国税庁は宗教法人に対する税務調査を強化しており、その一環とみられる。
宗教法人は祭祀(さいし)や宗教行為といった事業は公益性などを理由に非課税とされている。
しかし、敷地を使った土産物店経営などの収益事業には法人税が賦課される。
ただし税率は22%で一般的な法人(30%)よりも優遇されている。
約70万平方メートルの敷地を持つ明治神宮には、本殿のほか、神楽殿、宝物殿、至誠館が ある。
レストランやカフェを運営する明治記念館、明治神宮野球場やテニスコート、フットサルコートなどを運営する明治神宮外苑がグループ法人になっている。
明治神宮は全国の初詣の参拝客がたびたび日本一となっており、女優の真矢みきさん、 沢尻エリカさん、神田うのさん、鈴木紗理奈さんら有名芸能人が
相次いで挙式を行ったことでも知られる。
MSN産経ニュース(2009.12.11 01:32)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/091211/crm0912110133000-n1.htm
99 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/22(月) 23:52:23
夏たけて 池の蓮の花見つつ 仏の教へ 憶ふ朝かな
昭和天皇
100 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 00:01:14
_,___
/ __`ヾ),_
/〃 (⌒゛`ヾv"ヽミ、
i / /´ _ニ=-=ニ .i l|
| 彳 〃_. _ヾ!/
| _ !" ´゚`冫く´゚`l
(^ゝ " ,r_、_.)、 | 100げっとをね 希望します。
ヽ_j 、 /,.ー=-、i リ
__/\_ "ヽ ^ )ソ__
|ヽ. | |` ー--ィ´i |
| > |、/□、/| < |
101 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 00:05:37
_,,,...---.、,,...__
,,.-''";;;;;;;;;;;;;ミ;;;;;;;;;;;;"'''ヽ
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i;;;;;;;;;;;;;;,,,.-''''" `''、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ
ヽ;;;;;;;;;ノ ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i
i;;-' l;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|
'|゙"'=..,, ,,.=;;;;"ノ ヽ;;;;;;;..-、;;;i
|=・=i ヽ-=・=- i;;l,,.-、i
| ,ノ 、 | -''.ノ
税金払えよ | ( __ _ ,) l,,...ノ
臣民ども | ,,.-'' ゙-,, ノ T
ヽ"-─--` / |
_ヽ-iiiiiiiiii ノ_,,.-''iヽ
,,,..---------、,,.-'''''''"ヽヽ;;;;;;;;;; ...-'' ̄_,,.'"/ニ"''-..,,,
[==========il-''';;;;;;;_---ヽ ヽ--''" /-'''";;;;;;;;;; ̄"''、ヽ
102 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 00:10:24
..,,,,,ll,,,,,,,|||Illllla,,_
: .,,,illlllll゙゙¬゙|ll|l》゙|ト砲,、
、,llllll゙゙`″ : : `: ``ミi、
.:ll感l″ ..゙lL 夏たけて池の蓮の花みつつ
..,,,l巛゙l,!: 、 i、 法 仏の教へ憶ふ朝かな
.i'フ,,l,゙l": .:igl絲!llト:″|: .,,,,iig,,,,永
.`;ll,lト : ]″_,,,,,┐._ .,i´ .゙て″
: ;,lレ-・''゙‐'ゼ゙゙”`,ア~`゚゙|,゙゙゙゙lト,レ⊥
广'i、ァ ゙゙‐'‐'" : ::: ゚"ー'″ .|i、
.;ヒ'::;,il| _.::::::: .=@ ||
.'fi,;゙l;ヒ : : ;: :":・lll゙l,.'l・!° |′
゙'!,,,い: ,‐ .,!.gl,,|i,,j,,\ .,l゙
.”゙l /゜,,,,,lwew-ii,, ゝ ,l′
ll, ゜,,l゙`:;,,,,l,ll,,、.゚ト.,,i´
,,,i'llr゚''ri,,,,,_ : : : : _,r°
,,,iilllli,゙h,、`゚゙゙゙lllllllllilllllll"】
103 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/02/23(火) 00:53:25
なんだ昭和天皇様は仏教まで支配しようとなされたんだね!
104 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/02/23(火) 01:05:59
昭和天皇陛下は蓮の花を御覧になられて仏の悟りをお開きに成られたのですね!
日本の象徴にお相応しい偉大な方なんですね!
神道のみならず仏教までもが称えるにお相応しい偉大な方ですね!
105 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 08:50:52
苦しい解釈だね!w
106 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 09:01:45
「仏教を支配しようとした」だって。天皇原理主義者ってなんでこんなに野蛮人みたいな発想しかできないんだろね
つか昭和天皇陛下にメチャメチャ失礼だろw
107 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 09:21:49
天皇原理主義者の発想ってチベットを支配しようとする中国共産党と変わらないね!!
108 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 10:25:57
明治神宮が施主として
外苑大学(仮称)を建設するみたいのだが
これにもドス黒い裏があると思うのは私だけ?
もはや明治神宮って日本人の神社じゃないの?
109 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 11:11:14
__,,,,_
/´  ̄`ヽ,
/ 〃 _,ァ---‐一ヘヽ
i /´ リ}
| 〉. ⌒ ⌒ {!
| | (●) (●)|
ヤヽリ ´゚ (__人__) ゚'}
ヽ_」 |r┬-| ! < ぼく朕も今日で50歳だお!
ゝ i、 `ー' 丿
r|、` '' ー--‐f´
_/ | \ /|\_
/ ̄/ | /`又´\| |  ̄\
110 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 12:27:51
_,, -ァこ/7z、
,rァ7´// / / / /7>、
.// / // / / / / /// 〉,
/7 / // / / / / /////},
《ミ フ='^⌒冖´ ̄三彡.// イ おめでとう あたな。
∨´ ヌ彡/イi
| 彡/イ|、
r==.、 ,r===、 ≧/ ヘ |
|,ィ卑ェ } ィ卑ュ_ 斗己 | |
| ヽニラ 二ラ じ /l ト、
|. / ヽ r辷/| | | ト、
.八、__{ヽ __r- ^ヽ _, 1 ,「爪 | | | | |、
乂ヘ ヾェェrュァ} / /| | | | | | | | | l
〉ト、{ ヽ二ニ′ / / .| | | | | | | | | トミ=、
ノ./ 八 / / /ヾ | | | | | | | | トミ=、-、
.//≦/ 斗-ニ二´ '´ / >、!|| | | トミヾ ))
-‐''" / | / /  ̄ ┴-、\\ ヾ
./ | / | >、≧
/ .| / | / \
く | / _」 / ヽ
>− ├---ーフ < / |
く | / \ / |
111 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/02/23(火) 16:25:44
何で神仏習合させたいのか分かりません?
神道は神道!
仏教は葬式仏教!で良いではありませんか?
112 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 16:29:57
【日本人が混同する2つの「神道」その1】
ここであらためて指摘しておきたいことがある。それは、「アマテラスから天皇家へと繋がる神道」が、
太古からある日本固有の宗教観だと思うのは大きな間違い、ということである。
もちろん、縄文時代以来続いた日本列島固有の宗教観はあったに違いない。この宗教観に、大陸や半島から
新たな思想や風習が入り込み、日本人の信仰祖形=「民俗宗教としての神道」が形成されていったのである。
かたや、アマテラスから天皇家へとつながる神道は、あくまで八世紀の朝廷によって構築されたものである。
これは「天皇家の正統性を訴えるための神道」であり、民族宗教としての神道とは区別して考えるべきものである。
113 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 16:31:59
【日本人が混同する2つの「神道」その2】
日本人の信仰といえば真っ先に思い浮かぶのは「神道」であろう。だが、八世紀の段階で
「神道」という言葉自体が、それほど一般的だったわけではない。「日本書紀」の中で、「仏教」に対する
日本的な信仰として「神道」の二文字が現れるにすぎない。
これはむしろ当然のことで、アニミズム、多神教世界にどっぷり浸かっていた日本人の太古の信仰形態を
「こういうものだ」とひとくくりにすることは困難を極める。
多神教やアニミズムは、ありとあらゆるものに神は宿るという発想なのだから、人それぞれに、「神」の観念が異なる。
それぞれの地域ごとに、思い思いの信仰が存在していたのである。
その一方で「神道」の萌芽は、三世紀のヤマト建国に求められる。前方後円墳が各地に伝播し、統一された
埋葬文化を共有することによって、ゆるやかな連合体が完成したのである。政治を「まつりごと」と言い習わして
いた時代、各地域が持つ宗教観の「調整作業」こそ、「神道」の誕生といえるのである。
その神道にひとつの画期が訪れたのは、八世紀の「日本書紀」の編纂であろう。この中で神話がまとめられ、
ヤマトを代表する神は、天皇家の祖神で太陽神の天照大神と「定められた」からである。
つまり我々が「日本人の信仰」と信じてやまない「神道」とは、「八世紀の権力者が、政権に都合のいいように改変した、
人民統治のための方便としての宗教観」とみなすことが可能なのである。
114 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 16:33:12
【日本人が混同する2つの「神道」その3】
天武の死後、女帝・持統天皇の出現によって「親蘇我派」の天武政権はいつの間にか
「親藤原(反蘇我派)」天智政権にすり替わっていた。
この「静かな大政変」を如実に物語っているのが、藤原不比人が編纂に大いに関わった「日本書紀」の神話である。
神話の中で、本来なら男神であるはずの太陽神が、女神にすり替わっていた。
これは「女神=天照から始まる王家の正統性」を証明するための捏造記事であった疑いが強い。
つまり、天武から始まった新たな王朝は、持統が政権の舵取りを担った段階で「持統の王家」に入れ替わっていたのであり、
その正統性を、持統-不比人ラインが、神話に遡ってまで既成事実化しようとしたのが「日本書紀」編纂の意図なのである。
「古代神道と天皇家の謎」 関祐二
115 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 16:35:14
伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は、一見すれば祭政一致という
古代的風貌をもっているが、そのじつ、あらたに樹立されるべき近代的国家体制の
担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序に
むけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。
そして、それは、復古という幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、
な ん ら の 復 古 で も 伝 統 的 な も の で も な く 、
民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、新 た な 宗 教 体 系 の 強 制 であった。
「神々の明治維新ー神仏分離と廃仏毀釈ー」安丸良夫著 岩波新書
116 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 16:37:33
【「神と仏の道を歩く〜神仏霊場 巡拝の道 公式ガイドブック〜」(集英社新書ビジュアル版)より】
http://ec2.images-amazon.com/images/I/51BNv5ILa2L._SL500_AA240_.jpg 文・岩清水八幡宮宮司・京都府神社庁長 田中恆清
八幡様は、かつて八幡大菩薩とも称えられ、神と仏を結ぶ要の位置におられた。
神仏和合の結晶として誕生し、一個の独立した存在として成長を遂げたのが、八幡信仰であったといえる。
しかし、明治維新の「神仏分離」によって、千三百年にわたる神仏和合の歴史に終止符が打たれ、神仏は分かれた。
結果、その間に生まれた子達の運命はどうなったか。子の命は失われてもよい、体を真っ二つに両断し、
半身づつを両親がそれぞれ引き取ることとすればよい、とされ、実際、明治初年にそうした処分を受けたのが
八幡宮や修験道であった。
分離後の神道と仏教は、どのような道を歩んだか。例えば明治五年、神仏は協同して国民教化の任に当たるべく
「大教宣布」の理想を掲げ、神官と僧侶がともに教導職として布教活動に邁進することとなったが、
諸般の条件が整わぬまま、この束の間の神仏協調路線も、わずか三年で瓦解してしまうのである。
神仏が再び歩み寄ろうとしている今日、わが国近代の神道史・宗教史を今いちど検証し、
先人達の経験に学ぶことは多々あるであろう。何事も神仏の御心に添い奉るため、世のため人のためである。
我々はより注意深くより、より広い心をもって物事に対処していかなくてはなるまい。
とりわけ八幡宮に代々奉仕してきた者としては、八幡信仰の復興に努め、
「鎹(かすがい)」の役割を担うことを通じて、神仏の和合を揺るぎないものとしていくことが、
何より重要な責務であろうと心得ている。
宗教・宗派の垣根を乗り越え、それぞれの主義主張はひとまずおのが懐に収めて、互いに尊重し合い、譲り合う。
このたびの「神仏霊場 巡拝の道」こそは、そうしたわが国ならではの生き方を、
壮大なスケールで表したものだと言ってもよいであろう。
この古くて新しい心のネットワークを、近畿圏から日本全国へ、そして世界へと広げていくことができれば、
というのが今の私の願いである。
117 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/02/23(火) 16:41:09
神仏習合したい人達は神仏教とかって新しい宗教作ってくださいね!
118 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 16:44:46
「国家と宗教 宗教から見る近現代日本 上巻」
神道はわが国固有のアニミズム的、シャーマニズム的な自然発生的宗教であったが、仏教が移入されると当然の結果として神仏習合が進み、
特に平安期に生まれた本地垂迹説がひろく受け入れられて、神はその本地である仏が顕現したものであると信じられるようになっていた。
幕末には神社は存続していても、それは仏教の一部であったのであり、独立した神道という宗教は存在していなかった。
その意味では儒仏以前の純粋神道を構想した復古神道、国学運動は、当時は一部の人々が信じる新宗教に過ぎなかったのであるが、
これが国家権力と結び付いたので、千年に及ぶ日本宗教の伝統に大変革がもたらされることになった。
祭政一致のためには、復古神道の理念に合致する神社を新たに創出する必要があり、世に廃仏毀釈といわれた過激な方法で、神社から仏教色を一掃したのである。
119 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 16:47:33
811 名前: 名無しさん@京都板じゃないよ 投稿日: 2010/02/21(日) 02:37:37
京都府神社庁傘下の神社は、ひたすら神仏習合にむけてなし崩し的に進んでる。
神社本庁はどうあがいても形骸化して、実質「神社会」だか「神社協会」化していくよ。
一部の弱小神社に介入するくらいはできるだろうが。
120 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/02/23(火) 16:51:22
今の神道は新興宗教扱いでも良いと思うけど!
明治時代からでも結構永いよね!
神道は神道!
仏教は葬式仏教で良いよね!
神仏習合派は神仏教を作ってくださいね!
121 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 16:52:52
【新熊野神社、「神仏習合」140年ぶり復活】
紀州の熊野信仰を伝える新熊野(いまくまの)神社(京都市東山区)が、5日の神幸祭に修験道の寺院、
聖護院門跡(左京区)の僧侶や山伏らを招く。神と仏を一緒に信仰してきた日本古来の宗教心を取り戻そうと、
明治元年の神仏分離令まで続いた「神仏習合」の姿を140年ぶりに蘇らせる。
新熊野神社は、熊野信仰が盛んな平安時代後期の1160年、後白河上皇が創建した。修験道と関係が深く、
明治時代までは、聖護院から宮司に相当する別当が派遣されていた。
尾竹慶久宮司(57)が聖護院の宮城泰年門主(76)に協力を依頼し、「神仏習合」の催しが実現。
神幸祭には、聖護院の僧侶と山伏計11人が参加し神事の後、氏子ら約300人が同神社を出発、
神の乗り物「鳳輦(ほうれん)」などとともに周辺の約10キロを練り歩き、2か所の御旅所で僧侶と山伏が読経する。
尾竹宮司は「世の中で悲惨な事件が続くのは、日本人が神仏への恐れを失っているからでは。
再び信仰心を取り戻したい」と話し、宮城門主は「これを機に絆(きずな)を深めたい」と喜んでいた。
(2008年5月5日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/kyoto/news/20080505kn03.htm
122 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/02/23(火) 16:54:02
>>119 神仏習合派は神仏教を作って自由にやれば良いね!
123 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 17:00:36
124 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/02/23(火) 17:10:44
そうか!そうか!
125 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 17:14:01
_,___
/ __`ヾ),_
/〃 (⌒゛`ヾv"ヽミ、
i / /´ _ニ=-=ニ .i l|
| 彳 〃_. _ヾ!/
| _ !" ´゚`冫く´゚`l
(^ゝ " ,r_、_.)、 | まあそんなこと言わずにね 崇拝を希望します。
ヽ_j 、 /,.ー=-、i リ
__/\_ "ヽ ^ )ソ__
|ヽ. | |` ー--ィ´i |
| > |、/□、/| < |
126 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/02/23(火) 17:43:46
ハハ〜、陛下の御意に。
127 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 17:51:04
_,,,...---.、,,...__
,,.-''";;;;;;;;;;;;;ミ;;;;;;;;;;;;"'''ヽ
/;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ミ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ
i;;;;;;;;;;;;;;,,,.-''''" `''、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ
ヽ;;;;;;;;;ノ ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i
i;;-' l;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|
'|゙"'=..,, ,,.=;;;;"ノ ヽ;;;;;;;..-、;;;i
|=・=i ヽ-=・=- i;;l,,.-、i
| ,ノ 、 | -''.ノ 朕を崇拝せよ 愚民ども
| ( __ _ ,) l,,...ノ
| ,,.-'' ゙-,, ノ T
ヽ"-─--` / |
_ヽ-iiiiiiiiii ノ_,,.-''iヽ
,,,..---------、,,.-'''''''"ヽヽ;;;;;;;;;; ...-'' ̄_,,.'"/ニ"''-..,,,
[==========il-''';;;;;;;_---ヽ ヽ--''" /-'''";;;;;;;;;; ̄"''、ヽ
128 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/23(火) 17:58:46
, =″″ヾヾゞ″ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
./_ 巛 \ | 朕オモフラクニ、原爆投下ハ遺憾デアルガ
/ 》 i < 戦争中ノコト思ヘバヤムヲエナイコトナリ。
∠;ヾ ∠;ミ;ミミ ヾ ,j \______________
( ノ)-( \ ) \ヽ ,=ヽ
./ ; ≒/б ,リ
L __ j \ ヾ , 彳
彡ミミミミ;; ; / i
レ;┯ ij\ \\ / ,i
iL._、 __Ц _、_,/ 川
_ - i く ,/‖- __
. ″ / l \,─ ,/ / \ \
i > ヽ ヘ_/\ / く ヽ
l < ヽ へ / > い
129 :
1:2010/02/24(水) 00:25:17
思いがけず大量の情報が集まり驚いています。
この勢いで、有志で反帝神道の教義や祝詞を作ってwikiとかに載せてみましょう。
さまざまな流派があると思いますが、共通する部分だけなら簡単でしょう。
130 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/02/24(水) 18:08:22
神道は今のままが良いね!
131 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/02/24(水) 18:14:29
〆彡─⌒⌒⌒⌒`===\ミミミミ\
/‖//\\\\\へ\\\ ミミミミ)
|彡彡彡彡ミミ / ミミミミミξξξξミミミミ)
|彡彡彡ミミ ξξミミミ)
彡ノ彡⌒ ー愛ー 国ー \\ミミミ)
│彡/ ノ( ー ノ( ー ノ( )ミミ)
|丿) ⌒ ー ノ( ー ー ⌒ )ミミミ)
|丿 │ ,,, ││ ,,, ミミミ)
ミ ⌒二,,, ))(( ,,,二⌒ =ソ)
|│ /( ・ )>))((<:( ・ ):ヽ ミ〆ソ
(彡|│ ⌒ ミ  ̄⌒ ソミ)
(彡)∪ ⌒ / ⌒ ノ )ミミ)
彡) ヽ # / (● ●) \ メ ノ ̄(ミミ
彡) ヽ │ ,へ-‐-へ、│ / (ミミミ
彡彡) \ │ ヽШШノ / 彡ミミ フーッ!フーッ!
彡彡ミ \ ⌒⌒ / 彡彡ミ. し神道は今のままがよいね!
彡彡ミ ヽ ___ / 彡彡ミ
132 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/02/24(水) 18:40:03
神道は今のままではいけない事も有ったよ!
神葬祭や年祭にも力を入れないと新興宗教に氏子を取られっぱなしになるよ!
初宮参りから神葬祭・五十年祭まで氏子を放さない努力をして下さい!
神道霊園と奥津城の普及増進も努力して下さい!
133 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/03/04(木) 00:22:06
何で神仏習合させたいのか分かりません?
神道は神道!
仏教は葬式仏教!で良いではありませんか?
仏教の受容を決定したのも、官寺を建てたのも、天皇だぞ
135 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/03/04(木) 00:33:18
天皇を崇拝しない神道
>>135 それは・・・崇神以前の、日本古来の神道だね
137 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/03/04(木) 00:37:40
新しい神道だよ!
つーか本来の神道なんだよ
そんなこともわからずに神道とか口にするなよ
139 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/03/04(木) 00:46:05
新しい神道だから!
じゃあ違う名前にしな
伝統をバカにすんじゃねえ
141 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/03/04(木) 00:54:34
神道に伝統?
142 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/04(木) 00:54:42
143 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/03/04(木) 01:06:49
天皇を宗教として崇拝すると政教分離に反するよ!
新しい神道だからね!
国民として崇拝する分には問題無いね!
なにを言いたいんだかよくわからん・・・
もうちょっとコンセプトを整理して出直してくれ
145 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/03/04(木) 01:12:46
宗教としては駄目だけど、
国民個々人としては崇拝しても良いのが新しい神道だよ!
146 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/04(木) 23:08:22
147 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/03/04(木) 23:46:38
神道は今のままが良いね!
148 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/04(木) 23:57:18
今上天皇を尊敬はしてるが、崇拝はしてない。
149 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/03/05(金) 00:10:23
新しい神道的には正しいよ!
150 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/05(金) 01:00:59
は?
151 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/05(金) 23:32:38
神道って本当は天皇家を崇拝なんかしてなくて
むしろ天皇家以外の人を神としてあがめていた宗教だったんだけど
天皇家の力が強くなるにつれてそれを無理やり天皇家にくっつけちゃったのが
明治以降現れた国家神道
それが証拠に聖徳太子は神道ではなく仏教を広めようとした
まあ、聖徳太子がいたかいなかったかは置いといても
仏教を広めようとしたという事実が天皇家にとって神道が厄介なものであったのは歴史的にみて明らかだよ
まず神社のうち、どの程度が天皇崇拝しているのか分類しましょう。
これはどこで確認できるのでしょうか?
宮司の個人信条とかまでは分からなくても、何かに載っていたりしないのでしょうか?
その前に何をもって天皇崇拝してると定義する?
教義でしょ。
神社本庁系列の神社に教義はない。
教義があるのは、教派神道だけ。
祝詞でアメノスメラノミコト云々って言ってれば天皇崇拝じゃないの?
それで分かるかと。
157 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/03/10(水) 22:32:57
何で神仏習合させたいのか分かりません?
神道は神道!
仏教は葬式仏教!で良いではありませんか?
習合させたい人なんていないし、いなかったんだよ。
日本人の心として習合するのが自然だっただけ。
なんで神道と天皇教を混同させたいのかわかりません?
神道は昔ながらの神仏習合!
天皇教は脱税神宮!で良いではありませんか?
160 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/03/11(木) 12:35:22
習合させたい人本当に日本人か〜?
161 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/11(木) 19:48:18
表向き日本人かもしれんが、クズのゴミ野郎なのは間違いない。
162 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/03/11(木) 21:10:22
仏教だって迷惑千万なはず!
神道だって主義主張が異なる上に理屈っぽい坊さんに威張られたくないよね!
キチガイ女必死だなw
164 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/11(木) 22:00:58
↑お前は誰だ?キチガイの肥だめ野郎か?
165 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/11(木) 22:06:30
↑お前は誰だ?キチガイの肥だめ女か?
166 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/11(木) 22:23:05
〆彡─⌒⌒⌒⌒`===\ミミミミ\
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|彡彡彡彡ミミ / ミミミミミξξξξミミミミ)
|彡彡彡ミミ ξξミミミ)
彡ノ彡⌒ ー愛ー 国ー \\ミミミ)
│彡/ ノ( ー ノ( ー ノ( )ミミ)
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彡彡) \ │ ヽШШノ / 彡ミミ お、お前は誰だ!?
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彡彡ミ ヽ ___ / 彡彡ミ
167 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/11(木) 22:48:12
尊皇愛国の一市民です。
左巻きの馬鹿が大嫌いですよ(^o^)
赤い馬鹿も嫌いです。
>>156 大祓はどこでも奏上するし
たいていの神社の独自祝詞にもスメラなんとかって入ってるからなあ
石上神宮の物部系の祝詞(ふるべゆらゆらってやつ)にも入ってるのはびっくりしたけど
よくよむと、中臣系の祝詞でいう天皇と違って、ニギハヤヒとか、物部系の王を指してるように思う。
169 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2010/03/12(金) 23:02:32
宗教は妄想だよ!
何で信じられるのか本当に分からないよ!
170 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/12(金) 23:23:23
禍ひを 呼ぶも 臣下の業なれば
原爆もまた 致し方なし
ヒロヒト
謹拝 m(_ _)m
171 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/13(土) 07:17:23
>>169じゃあこのスレ見るなカキコするな!
ついでに死ねよ!
173 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/13(土) 11:50:53
こんキチわ〜
174 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/13(土) 11:52:52
天皇が万世一系なんて妄想だよ!
なんで信じられるのか本当に分からないよ!
175 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/13(土) 12:01:36
そんなことを信じてるのか?
国家神道を作りたがった薩長の謀略&捏造だぜ!南朝、北朝とか勉強しなかったか?
馬鹿そうだから判らないとは思うけど!
明治政府は糞の集まりだったんだよ。本当だよ!
祝詞を集めた資料ってある?
177 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/14(日) 12:15:16
もう本庁のやってる伊勢「本宗」主義はやめて氏神重視主義に転換したほうがいいんじゃないか。
第一、普通の人は神社と国体や皇室は全く別物と考えている。戦前から。
クソスレにマジレスするが
そもそもの日本の神は別に天皇をうんたら、、でないからねぇ。
まだ世界各地に残っている自然信仰なんだから。
神道といってしまうと、どうしても伊勢を頂点として、、、に規定されてしまうんだろうけど。
179 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/14(日) 12:32:59
日本人の多くが昔のように素直に自然の中にいる神を感じて崇拝する気持ちを取り戻すためには
いまだに天皇教と自然崇拝が混同されてわけわかんなくなってる現状を解消する以外ないだろうな
180 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/14(日) 12:47:16
181 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/14(日) 13:22:16
おっぱい神社は皇大神宮の元宮だろうが!
182 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/14(日) 13:25:17
>>180 そのようなふざけた民間信仰を戒め、正統な皇室の神道を宣教していくのが神道のサムライに課せられた使命です。
183 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/14(日) 17:20:33
>>1 天皇が居ないのは神道とは言わないの正式名称は「カルト宗教」と言うんだよ
解った?
184 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/14(日) 17:30:05
とカルト天皇教信者が申しております。
185 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/14(日) 20:34:06
なんでカルトなの?意味不明の頭悪すぎ!!
日蓮ボケの工作員信者?それともアカ?
キチガイ女必死だなw
187 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/14(日) 21:52:29
>>182 せいぜいがんばれや…排他的な天皇教神道のサムライどもよwwww
明治の頃から民間信仰を皇室神道に包摂しようとしたが、それができていないのは周知の通り。
大体「正当な皇室の神道」というのが宣教できないのも周知の通り。
戦前から祈年祭や新嘗祭の意義啓発の必要性が盛んに説かれるがそれもうまくいかなかった。
なぜなら「正当な皇室の神道」は普通の人に関係がない、もしくは魅力に感じないから。
天皇は天神地祇、つまりは八百万の神を祀ってるんだろ。天皇はもちろん尊敬するが、一体八百万の神々と天皇どっちが尊いんだ?
今の神社本庁的神道を見ていると伊勢や天皇重視に偏りすぎ。戦時中じゃあるまいし、天皇や国体から解放された一般人の素朴な信仰を重視すべきだ。
188 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/14(日) 22:18:43
八百万の神々こそ邪教。
神はこの世の創造主にて唯一全能なる存在。
189 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/14(日) 22:19:58
神は唯一伊勢の神
190 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/14(日) 22:24:18
唯一天照大神さまですよ!
191 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/14(日) 22:26:13
つまり八百万の神々というのは嘘っぱちってことだね!
192 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/15(月) 00:22:41
日本人の宗教生活は、たんに大衆の信仰に根ざすだけでなく、国家による教育の中で
大きく規定づけられてきた。
天皇制自体は強固な階級的地盤をもっていないために、その国家意思を神聖化する宗教的
イデオロギーによって、つよく支えられることが必要である。
これがなければ自己の地位を保つことはできない。
だからこそ、特有のイデオロギーすなわち天皇制宗教を確立し、それを教育によって大衆に
徹底的に浸透させ、それと抵触するような性格のイデオロギーを強力に排除しなければならなかった。
もともと神社には、天皇の一族・忠臣をまつるものと、氏神その他民間の信仰対象をまつるものとの
二つの系列があるが、明治4年に政府はすべての神社に社格を与え、前者を社格の高いものと決め、
両者を一本化して結びつけた。
つづいて前者をぞくぞく創設し、後者を整理合併によって縮小する方針をとった。
この結果、氏神の氏子である大衆が、神社の一本化を媒介として、天皇に対する信仰に結びつけられる
ことになった。
高木宏夫「日本の新興宗教」岩波新書
明治政府は氏神その他民間の信仰に対して醜いことをしたよな。
193 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/15(月) 06:35:40
薩長糞!
おはよう!キチガイおばさん!今日も一日お仕事がんばってね!
195 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2010/03/15(月) 19:49:18
おばさんじゃねぇよ!ば〜か(^o^)
プークスクス
S
ふむ。
Sa
ふ