日本の坊主が戒律を守らないのはなぜ?世襲が原因?

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361名無しさん@京都板じゃないよ
105 2/2 sage 2010/06/10(木) 20:45:12 ID:LQQ+TrJr
境界の話だったか。
たとえば、営業マンがいたとする。販路開拓の為、(あちこちに)足しげく通う。
ついに相手が折れ、繋がりができる。長い付き合いとなれば、三者(取引先・会社・自分)の利益となる。
それは儲けだけでなく「繋がり」や「信頼」、「充実感」「自信」「ノウハウ」等々、様々なものがある。
だから、再度と言わず、『相手が契約してくれるまで何度でも通う』という姿勢は、
悪い行為であるどころか、『営業マンとしてふさわしい姿勢、意気込み、情熱』ということになる。
そして、同じコースで二度三度托鉢に回った時も、財施・法施・功徳(衆生済度)として3者の利はあり得る。
そのことで、《各家の者に、“より強い”(仏)縁ができ、教えに強く耳を傾け、理解が高まる》
ということもあり得ないことではない。
だが、上で触れたように、《我欲の肯定に繋がる》ので斥けられる。
たとえ三者の利が見込まれても、【それが我欲の肯定、我欲への従属となるならば】、(それを背後に持つならば)、
斥けるのが「聖なる」「出世間の」価値観であろう。
その意味でも、この価値観の境界は押さえられるべきものとなる。
比丘(修行者・遊行者)足らんとしたなら、踏み越えてはならない境界となる。

翻って見た時、《現代日本仏教は、生活、寺院経営、伽藍の維持、慣習・前例・地域との繋がり関係性等のため》
この境界を踏み越えねばならない。
(上で言えば、【三者の利をこそ求めるべき】ということだ。これを「大乗的」と言えないこともないが・・。)