【総本山】 高野山真言宗総合スレ弐伍【金剛峯寺】

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377ランボー法師 ◆uIU6J7Th0Y
朝の一言  空海師と最澄師の経の解釈の仕方の違いU

前項で覗えるように空海師は経を包括的に取り込み、その解釈により個々の句が表すものが異なって
くると云っているようで、人それぞれの身丈に合った解釈もありうると述べているように思われる。
超簡単に表現すると、例えば赤ちゃんの足と大人の足では使い方が異なる。
赤ちゃんは、這い這いする為に脛を床につけて這ってあるく。
大人は足の裏を床につけ赤ちゃんの何倍もの歩幅で歩く。
その時、手を考えた時、赤ちゃんの手は上体を支えるために使用し、大人の手は歩行時の重心の
バランスをとるために使われる。
目線もしかりで、異なる視界を認識している訳である。
その事は空海師の行動にも出ているようだ。
空海師が自分の大日経研究の正しさを確かめることのみの為に渡唐したのかもしれないのに、密教
に遭遇し移行したのは偶然なのか、否霊界からの指図と前項でいう本心(仏心)が共鳴して、没頭して
言ったとみることができる。
我々は往々に自分の考えで行動しているように思っているようだが、本心が霊界の情報を無意識で
感じ取り、記憶の底にある前世の生き様のレガシーが今の自分の行動に大きく作用している事を認識
する必要があるように思う。
その結果、仏心即ち悟りへとの道が繋がってゆくのではないか。

空海師は般若心経から何の教義も引き出していないようにみえるからだ。
と考えると、般若心経の訳を云々する事の意味合いは無いように思う。

どうしても訳を知りたい人の為に、以前解説が載っているアドレスを載せておいたのだが。
378ランボー法師 ◆uIU6J7Th0Y :2009/09/27(日) 07:57:12
先述を考えるに、もう一度読み返してみよう。

かって私は、霊界の説明で、ステージと言う言葉を何度か使いましたが、固定観念無しでもう少し考え
て 見ましょう。
仏さまのステージ、亡者のステージはともに霊界の有り様を表現していました。
それに加え、般若心経の一般的解釈はネットで検索すると多くの方の解説が出てきますので、それら
を参考にしていただくとして、色即是空 空即是色について其の言葉の持つ奥に秘めた意味合いを考え
てみたのが次のようなものでした。

色即是空 空即是色は、例えて云うなら、器に水が入っていて、風も吹かず器も静止している状態の
水が空で、 風が吹いたり、器が振動していて、水面が平らな状態でない水を色という、と考えています。
このように考えたなら、ビックバンの発生も理解できます。
素粒子の分野を考える時、霊界及び霊体をも視野に入れた考察ということになります。
目視で水面に波が立たない状態なら何も無いように見えますが、波が立った時水があることが分ります。
そういう事を、色即是空 空即是色 と説いていると私は考えます。
この色は、素粒子のレベルでのエネルギーの変化が有る無し状態を現しており、これらの考え方は密教
の根底にある考えと思う。
考えの角度を少し変えて観ると、エネルギーは波動と捉える事が出来る。
霊界も波動の世界であり、霊体や念の力は真空状態の場でも通過できる。
真空状態を光や電波が通過できることは周知の事実であるが、それは粒子ではなく波動だからだ。
ここに興味ある考えを提唱したアリストテレスという人が居る。
アリストテレスが提唱したのは、エーテルというものの存在だけを提唱したわけではなく、物体の存在を
定義する
四つの元素「地・水・火・風」と、もう一つの元素である第五元素「エーテル」の存在なのです。
この四大元素とエーテルの存在は、ギリシアだけではなく、インドにも存在して仏教においても
「地・水・火・風・空」で五大と呼ばれています。
379ランボー法師 ◆uIU6J7Th0Y :2009/09/27(日) 07:59:58
物事の本質考えた時、洋の東西を越えて実在したと言えるでしょう。
かって私は、霊界は波動、仏と衆生の霊魂は波動周波数の違いと述べてきており、二つの扇風機という
提唱で ”入我我入は仏に成る事ではない” 仏に波動を合わせただけで、仏そのものと同じになったと
いうことではない。
あたかも、放送局の電波にダイアルを合わせただけのことで、放送局の全ての情報を共有してはいない。
放送局が放送した情報しか受け取れないのである。
仏になるのであれば、仏の全てを包括していなければならない。たとえ瞬時であれ。
と云って来たのだが、色即是空 空即是色 の私の解釈はこれらの考えと矛盾が無く、昔の人の叡智
(仏に示唆されたのかも知れない)にただただ驚かされるのだ。
また今回提唱のマトリックスもあるステージを言い表しており、映画のマトリックスとは少し意味合いが
異なるのだが。

ここまで来ると、これからの説明する各ステージが揃ったように思う。
そこで今まで出て来たステージを並べてみよう。
色即是空 空即是色、仏さまのステージ、亡者のステージ、マトリックスとあるわけだが、マトリックスの

説明については何もしていなかった。
凪のような海の水面が鏡面化した状態の【空】、さざ波の【色】、今回これ等の考えに加わった【マトリッ

クス】、
そして 仏さまのステージ、亡者のステージはどの様な位置づけになるのか考えると次のようになるの
ではないか。
【空】、【仏さまのステージ】、【亡者のステージ】、【マトリックス】
では 【色】は何処に位置づけされるのか?
【仏さまのステージ】、【亡者のステージ】、【マトリックス】は皆 【色】に包括されているように思う。
なぜならさざ波の【色】のさざ波は一定ではなく、そのさざ波が寒風で凍りついた状態が【マトリックス】
と考えられるからだ。
凍りついたさざ波は、形を持つために手に取ることが出来る。
しかし、さざ波の状態では、その形態を維持して手に取ることは不可能なのだ。
380ランボー法師 ◆uIU6J7Th0Y :2009/09/27(日) 08:03:20
凍りついたさざ波は一見強固に見えるが、温度により溶解する。
言い換えれば不変では無く、溶解した状態即ちさざ波の状態に戻ってしまう。
冬になると、日本の北方では雪祭り、氷祭りなどが催されるが、それらの雪像、氷像に似た状態の
世界が【マトリックス】その【マトリックス】の世界に私たちは生息していると考える。
密教では【色】の二分された状態を金剛界、胎蔵界と呼んでいる。
形が有る【マトリックス】の世界を胎蔵界、そして肉体が崩れ落ちた、無い状態【仏さまのステージ】、
【亡者のステージ】はこれ以上崩れることが無い不変なんだという意味合いで金剛界と呼んでいる。
だが、空とよばれるエネルギーの変化がない状態から色というエネルギー偏り変化が起きた状態
まで本来一つの波動上の変化の様で、本質は共通なのだと考える。
密教は、無の状態から有の状態まで一貫した考えを持つ事ではじめて理解できるもので、その一部
だけを捉えて考えれるものでは無い様に思う。 

最後に【マトリックス】の原語はラテン語で「子宮」を意味するもので、映画のマトリックスでは動物の
子宮ではなく、映画の中での世界を支配するコンピューターが作り出した世界の子宮で、主人公の
ネオが「人間養殖場」から切り離されたその「人間養殖場」の事を言っているようです。

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色を念頭において先に述べた事を考えてみるに、
照見五蘊皆空(空という考え方に包括される色という物質的実在から発生する受想行識)
の考えに何ら矛盾する事が無く、今様の考察を加えたものが考察Matrixであった。
今回は少し視点を変えて考えてみよう。

381ランボー法師 ◆uIU6J7Th0Y :2009/09/27(日) 08:05:16
空海師の般若心経秘鍵はひろく知られております。
その中で次のように述べています。

夫れ、仏法遥かに非ず、心中にして、即ち近し
真如、外に非ず、身を棄てて何にか求めん
迷悟我れに在れば、発心すれば、即ち到る
明暗、他に非ざれば、信修すれば、忽ちに証す
哀れなるかな、哀れなるかな、長眠の子
苦しいかな、痛ましいかな、狂酔の人
痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る

要約すると
仏の教えは遠くにあるのではなく、身近に我々の心の中にあり、身を捨てては求める事はできようか。
迷いも悟りも自分の内部に存在するのだから、発心をする事で到達できる。
努力をする事で、悟りの世界は開ける。
悟りの世界を得ようとせず、知らずに眠りこけている者が哀れなことよ。
苦しく痛ましい迷いの世界に酔いしれているものよ。
迷いの世界に酔いしれているものが、そうでないものをあざ笑い、悟りに目覚めざるものは、そうでないも

のを嘲る。

修行を怠り、教学にのみはしるものには、まさにこの言葉があてはまるようだ。
能不の間、教機に在り  と。

そして
医王の目には、途に触れて、皆薬なり
解宝の人は、礦石を宝と見る

と云うことでしょうか。
三界の狂人は狂せることを知らずですね。