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ランボー法師 ◆uIU6J7Th0Y :
寺子屋 ランボー法師 読経と供養 その2
我々は現在の行動が今の自分の考えだけで行っているように思いますが、そうではなく前世の自己の
行動(生き様)の記憶の影響を受けて行われているのです。
それを一般的に、前世の因縁と言っているようです。
その前世の行動の記憶が記録されている脳内の部分に徳を積んだ記録を書き込んでいく事が大切なのです。
脳内のその部分に自意識でアクセスすることは非常に困難なのですが、無意識でそこの記憶の影響が出て
くるので無視する事は出来ません。
善行徳積みの読経に仏様の介在が必要なのはそのためなのです。
仏様は、護法楽で読経を受ける事により、ある種の快感を受けるそうです。
例えて言うなら、耳なし芳一の話を聞く平家の亡霊の気持ちにも似ているのかもしれません。
その結果仏様はご褒美に、その徳を前述の脳内に記録して残してくださるのです。
それが読経の徳積みの結果なのです。
真言や陀羅尼も同じような事が起きているのです。
そこで、仏様に振り向いていただくにはどうしたらよいのか?
法力が有れば仏様に繋がるのですが修行を積んでいない一般衆生の方々(僧侶でも法力がつくようになる
までの修行がなされていなければ衆生と同じ)には難しいところです。
ところが嬉しい事に先駆者の方々の感性でその方法が見つけられて、その手法が残されていたのです。
その手法とは、読経の前に リンを二打 する事で始まり、段落でリンを打つことだったのです。
リンの音は、法力が無くても仏様に通じ振り向いてもらえる音だったのです。
それをきっかけに修行を続けていく事で、自分の波動が徐々に仏様の波動に近づいてゆき、瞬時に仏様の
波動に合わせる事が出来るようになった状態を、法力がついたというのです。
またその波動で霊に対して能動的な行動をした事を法力を使って云々と言うのです。
供養についてはまた書き込みましょう。